長部経典(ディーガ・ニカーヤ)
パーティカの部の聖典(パーティカ篇・下)
【目次】
10(33). 合誦の経(296.~)
11(34). 十の加上の経(350.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
パーティカの部の聖典(パーティカ篇・下)
10(33). 合誦の経
296. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パーヴァーという名のマッラ〔国〕の城市のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、パーヴァーに住んでおられます。鍛冶屋の子のチュンダのアンバ林において。
297. また、まさに、その時点にあって、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちに、ウッバタカという名の、造営されたばかりの新しい公会堂が有ります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。まさに、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちは、「どうやら、世尊が、マッラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パーヴァーに到着し、パーヴァーに住んでおられるらしい。鍛冶屋の子のチュンダのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちに、ウッバタカという名の、造営されたばかりの新しい公会堂があります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。尊き方よ、そして、それを、まさに、世尊は、最初に遍く受益したまえ。世尊によって、最初に遍く受益された、そのあと、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちが遍く受益するでしょう。それは、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。
298. そこで、まさに、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちは、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一切の敷物を公会堂に広げて、世尊のために、諸々の坐を設けて、水瓶を据えて、油の灯明を備えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらのパーヴァーのマッラ〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、一切の敷物が公会堂に広げられ、世尊のために、諸々の坐が設けられ、水瓶が据えられ、油の灯明が備えられました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。
299. そこで、まさに、世尊は、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、公会堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、中央の柱に依拠して、東に向かって坐りました。まさに、比丘の僧団もまた、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、西の壁に依拠して、東に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。まさに、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちもまた、〔両の〕足を洗って、公会堂に入って、東の壁に依拠して、西に向かって坐りました──まさしく、世尊を前にして。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、送り出しました。「ヴァーセッタたちよ、まさに、夜が更けました。今が、そのための時と、あなたたちが思うのなら〔思いのままに〕」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
300. そこで、まさに、世尊は、パーヴァーのマッラ〔族〕の者たちが立ち去ったすぐあと、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った、まさに、比丘の僧団です。サーリプッタよ、あなたに、比丘たちへの法(教え)の講話が明白となれ。わたしの背が痛みます。わたしは、それを伸ばします(わたしに代わって説法してほしい)」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。
分裂したニガンタたちの事
301. また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えるところと成ります。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住みます。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。思うに、まさしく、殺戮が、まさに、ニガンタ・ナータプッタの者たちにおいて転起します。すなわち、また、ニガンタ・ナータプッタの弟子である白衣の在家者たちは、彼らもまた、ニガンタ・ナータプッタの者たちにたいし、厭離している様子であり、離貪している様子であり、反発している様子です。すなわち、そのように、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては。
302. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては。友よ、なぜなら、このように、このことは有るからです──悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。友よ、また、まさに、この法(教え)は、わたしたちのために、世尊によって、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものです。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
友よ、では、どのようなものが、法(教え)であり、わたしたちのために、世尊によって、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものなのですか。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではないのですか。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するのですか。
一なるもの
303. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた一つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちです。一切の有情たちは、形成〔作用〕(行:意志・衝動)に立脚する者たちです。友よ、まさに、この、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた一つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
二なるもの
304. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた二つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、二つのものなのですか。
そして、名前(名:精神的事象)であり、さらに、形態(色:物質的形態)です。
そして、無明であり、さらに、生存の渇愛(有愛)です。
そして、生存の見解(有見)であり、さらに、非生存の見解(非有見)です。
そして、恥〔の思い〕なき〔生き方〕(無慚)であり、さらに、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕(無愧)です。
そして、恥〔の思い〕(慚)であり、さらに、〔良心の〕咎め(愧)です。
そして、頑固であることであり、さらに、悪しき朋友あることです。
そして、素直であることであり、さらに、善き朋友あることです。
そして、罪に巧みな智あることであり、さらに、罪からの出起に巧みな智あることです。
そして、入定(等持)に巧みな智あることであり、さらに、入定からの出起に巧みな智あることです。
そして、界域(界)に巧みな智あることであり、さらに、意を為すこと(作意)に巧みな智あることです。
そして、〔認識の〕場所(処)に巧みな智あることであり、さらに、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に巧みな智あることです。
そして、状況あること(道理あること)に巧みな智あることであり、さらに、状況なきこと(道理なきこと)に巧みな智あることです。
そして、正直であり、さらに、羞恥です。
そして、忍耐であり、さらに、温和です。
そして、友誼であり、さらに、友愛です。
そして、不害であり、さらに、清廉です。
そして、気づき(念)の忘却であり、さらに、正知なきことです。
そして、気づきであり、さらに、正知です。
そして、諸々の〔感官の〕機能(根)において門が守られていないことであり、さらに、食において量を知らないことです。
そして、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることであり、さらに、食において量を知ることです。
そして、審慮の力であり、さらに、修行の力です。
そして、気づきの力であり、さらに、禅定の力です。
そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。
そして、〔心の〕止寂の形相であり、さらに、〔あるがままの〕観察の形相です。
そして、〔心の〕励起であり、さらに、〔心の〕散乱なき〔状態〕です。
そして、戒の衰滅であり、さらに、見解の衰滅です。
そして、戒の成就であり、さらに、見解の成就です。
そして、戒の清浄であり、さらに、見解の清浄です。
また、まさに、見解の清浄であり、さらに、見解のとおりの精励です。
そして、諸々の畏怖するべき状況における畏怖であり、さらに、畏怖する者の根源のままの精励です。
そして、諸々の善なる法(性質)において〔精進に〕満足なきことであり、さらに、精励において反転なきことです。
そして、明知であり、さらに、解脱です。
そして、滅尽についての知恵であり、さらに、生起なきものについての知恵です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた二つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
三なるもの
305. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた三つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、三つのものなのですか。
三つの善ならざるものの根元(不善根)があります。貪欲(貪)という、善ならざるものの根元であり、憤怒(瞋)という、善ならざるものの根元であり、迷妄(痴)という、善ならざるものの根元です。
三つの善なるものの根元(善根)があります。貪欲なき〔あり方〕(無貪)という、善なるものの根元であり、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)という、善なるものの根元であり、迷妄なき〔あり方〕(無痴)という、善なるものの根元です。
三つの悪しき行ないがあります。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないです。
三つの善き行ないがあります。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないです。
三つの善ならざる思考(尋)があります。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考です。
三つの善なる思考があります。離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考です。
三つの善ならざる思惟があります。欲望の思惟であり、憎悪の思惟であり、悩害の思惟です。
三つの善なる思惟があります。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。
三つの善ならざる表象(想)があります。欲望の表象であり、憎悪の表象であり、悩害の表象です。
三つの善なる表象があります。離欲の表象であり、憎悪なき表象であり、悩害なき表象です。
三つの善ならざる界域(界)があります。欲望の界域であり、憎悪の界域であり、悩害の界域です。
三つの善なる界域があります。離欲の界域であり、憎悪なき界域であり、悩害なき界域です。
他にもまた、三つの界域(界)があります。欲望の界域(欲界)であり、形態の界域(色界)であり、形態なき界域(無色界)です。
他にもまた、三つの界域があります。形態の界域であり、形態なき界域であり、止滅の界域です。
他にもまた、三つの界域があります。下劣なる界域であり、中等なる界域であり、精妙なる界域です。
三つの渇愛(愛)があります。欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。
他にもまた、三つの渇愛があります。欲望〔の界域〕への渇愛であり、形態〔の界域〕への渇愛であり、形態なき〔界域〕への渇愛です。
他にもまた、三つの渇愛があります。形態〔の界域〕(色界禅定)への渇愛であり、形態なき〔界域〕(無色界禅定)への渇愛であり、止滅〔の界域〕(滅尽定)への渇愛です。
三つの束縛するもの(結)があります。身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)であり、疑惑〔の思い〕(疑:仏法僧にたいする疑惑)であり、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)です。
三つの煩悩(漏)があります。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。
三つの生存(有)があります。欲望の生存であり、形態の生存であり、形態なき生存です。
三つの探し求めがあります。欲望〔の対象〕の探し求めであり、〔迷いの〕生存の探し求めであり、〔利得のための〕梵行の探し求めです。
三つの様相があります。『わたしは、勝る者として〔世に〕存している』という様相であり、『わたしは、等しき者として〔世に〕存している』という様相であり、『わたしは、劣る者として〔世に〕存している』という様相です。
三つの時があります。過去という時であり、未来という時であり、現在という時です。
三つの極があります。身体を有することという極であり、身体を有することの集起という極であり、身体を有することの止滅という極です。
三つの感受(受)があります。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。
三つの苦なることがあります。苦痛の苦なることであり、形成の苦なることであり、変化の苦なることです。
三つの集まりがあります。誤った〔道〕たることの決定あるものの集まりであり、正しい〔道〕たることの決定あるものの集まりであり、決定なきものの集まりです。
三つの闇があります。あるいは、過去の時に関して、疑い、疑惑し、信念せず、浄信しません。あるいは、未来の時に関して、疑い、疑惑し、信念せず、浄信しません。あるいは、現在の時に関して、疑い、疑惑し、信念せず、浄信しません。
三つの如来にとって守護されようもないものがあります。友よ、完全なる清浄の身体の励行ある者として、如来はあります。『わたしのこの〔行ない〕を、他者が知ってはならない』と、如来が守護するべき、〔まさに〕その、身体による悪しき行ないは、如来には存在しません。友よ、完全なる清浄の言葉の励行ある者として、如来はあります。『わたしのこの〔行ない〕を、他者が知ってはならない』と、如来が守護するべき、〔まさに〕その、言葉による悪しき行ないは、如来には存在しません。友よ、完全なる清浄の意の励行ある者として、如来はあります。『わたしのこの〔行ない〕を、他者が知ってはならない』と、如来が守護するべき、〔まさに〕その、意による悪しき行ないは、如来には存在しません。
三つの所有があります。貪欲の所有であり、憤怒の所有であり、迷妄の所有です。
三つの火があります。貪欲の火であり、憤怒の火であり、迷妄の火です。
他にもまた、三つの火があります。捧げられるべき火(母と父)であり、家長の火(子と妻と従僕)であり、施与されるべき火(沙門と婆羅門)です。
三つ種類による形態の包摂があります。有見にして有障(可見可触)の形態であり、無見にして有障(不可見可触)の形態であり、無見にして無障(不可見不可触)の形態です。
三つの形成〔作用〕(行)があります。功徳ある行作(善果を形成する働き)であり、功徳なき行作(悪果を形成する働き)であり、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)です。
三つの人があります。〔いまだ〕学びある者(有学)なる人であり、〔もはや〕学ぶことなき者(無学)なる人であり、学びあるにもあらず学びなきにもあらざる人です。
三つの長老があります。生まれによる長老であり、法(真理)による長老であり、慣習による長老です。
三つの功徳行の基盤(福業事)があります。布施によって作られる功徳行の基盤であり、戒によって作られる功徳行の基盤であり、修行によって作られる功徳行の基盤です。
三つの叱責の基盤があります。見たことによるものであり、聞いたことによるものであり、疑いによるものです。
三つの欲望の再生があります。友よ、諸々の現起した欲望〔の対象〕ある有情たちが存在します。彼らは、諸々の現起した欲望〔の対象〕にたいし自在に転起させます。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の欲望の再生です。友よ、化作された欲望〔の対象〕ある有情たちが存在します。彼らは、化作しては化作して諸々の欲望〔の対象〕にたいし自在に転起させます。それは、たとえば、また、化楽天〔の神々〕たちのように。これは、第二の欲望の再生です。友よ、他によって化作された欲望〔の対象〕ある有情たちが存在します。彼らは、他によって化作された諸々の欲望〔の対象〕にたいし自在に転起させます。それは、たとえば、また、他化自在天〔の神々〕たちのように。これは、第三の欲望の再生です。
三つの安楽の再生があります。生起させては生起させて安楽のうちに〔世に〕住む有情たちが存在します。それは、たとえば、また、梵衆天〔の神々〕たちのように。これは、第一の安楽の再生です。友よ、安楽によって満ち溢れ、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満した有情たちが存在します。彼らは、いつであれ、いつかは、感興〔の言葉〕を唱えます。『ああ、安楽だ。ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ。ああ、安楽だ』と。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第二の欲望の再生です。友よ、安楽によって満ち溢れ、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満した有情たちが存在します。彼らは、〔常に〕満ち足りている者たちであり、まさしく、寂静なる安楽を得知します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第三の欲望の再生です。
三つの智慧(慧・般若)があります。〔いまだ〕学びある者の智慧であり、〔もはや〕学ぶことなき者の智慧であり、学びあるにもあらず学びなきにもあらざる者の智慧です。
他にもまた、三つの智慧があります。思弁によって作られる智慧であり、所聞によって作られる智慧であり、修行によって作られる智慧です。
三つの武器があります。所聞の武器であり、遠離の武器であり、智慧の武器です。
三つの機能(根)があります。『了知されていないものを〔わたしは〕了知するであろう』という機能であり、了知の機能であり、了知者の機能です。
三つの眼があります。肉の眼であり、天の眼であり、智慧の眼です。
三つの学び(三学)があります。卓越の戒の学びであり、卓越の心(瞑想)の学びであり、卓越の智慧の学びです。
三つの修行があります。身体の修行であり、心の修行であり、智慧の修行です。
三つの無上なるものがあります。見の無上なるものであり、〔実践の〕道の無上なるものであり、解脱の無上なるものです。
三つの禅定(定)があります。〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する禅定(有尋有伺定)であり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみある禅定(無尋唯伺定)であり、思考なく想念なき禅定(無尋無伺定)です。
他にもまた、三つの禅定があります。空性の禅定であり、無相の禅定であり、無願の禅定です。
三つの清廉たることがあります。身体の清廉たることであり、言葉の清廉たることであり、意の清廉たることです。
三つの沈黙たることがあります。身体の沈黙たることであり、言葉の沈黙たることであり、意の沈黙たることです。
三つの巧みな智(善巧)があります。入来の巧みな智であり、離去の巧みな智であり、手段(方便)の巧みな智です。
三つの驕りがあります。無病の驕りであり、若さの驕りであり、生命の驕りです。
三つの優位があります。自己を優位とするものであり、世を優位とするものであり、法(教え)を優位とするものです。
三つの議論の基盤(論事)があります。友よ、あるいは、過去の時に関して、議論を議論します。『このように、過去の時は有った』と。友よ、あるいは、未来の時に関して、議論を議論します。『このように、未来の時は有るだろう』と。友よ、あるいは、今現在、現在の時に関して、議論を議論します。『このように、今現在、現在の時は有る』と。
三つの明知(三明)があります。過去における居住(過去世)の随念の知恵という明知であり、有情たちの死滅と再生の知恵という明知であり、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)という明知です。
三つの住があります。天の住であり、梵の住であり、聖者の住です。
三つの神変があります。神通の神変であり、指摘の神変であり、教示の神変です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた三つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
四なるもの
306. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた四つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではありません。……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、四つのものなのですか。
四つの気づきの確立(四念処・四念住)があります。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として……略……。心における心の随観ある者として……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
四つの正しい精励(四正勤)があります。友よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。
四つの神通の足場(四神足)があります。友よ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。
四つの瞑想(四禅)があります。友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。
307. 四つの禅定の修行があります。友よ、禅定の修行が存在し、修められ、多く為されたなら、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)のために等しく転起します。友よ、禅定の修行が存在し、修められ、多く為されたなら、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起します。友よ、禅定の修行が存在し、修められ、多く為されたなら、気づきと正知のために等しく転起します。友よ、禅定の修行が存在し、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。
友よ、では、どのような禅定の修行が修められ、多く為されたなら、所見の法(現世)における安楽の住のために等しく転起するのですか。友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、この禅定の修行が修められ、多く為されたなら、所見の法(現世)における安楽の住のために等しく転起します。
友よ、では、どのような禅定の修行が修められ、多く為されたなら、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起するのですか。友よ、ここに、比丘が、光明の表象(光明想)に意を為し、昼の表象を〔心に〕確立します。『すなわち、昼のように、そのように、夜がある。すなわち、夜のように、そのように、昼がある』〔と〕。かくのごとく、開かれた心によって、覆い包まれていない〔心〕によって、光を有する心を修めます。友よ、この禅定の修行が修められ、多く為されたなら、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起します。
友よ、では、どのような禅定の修行が修められ、多く為されたなら、気づきと正知のために等しく転起するのですか。友よ、ここに、比丘に、諸々の感受(受)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至し、諸々の表象(想)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至し、諸々の思考(尋)が、〔あるがままに〕見出されたものとして生起し、〔あるがままに〕見出されたものとして現起し、〔あるがままに〕見出されたものとして滅至します。友よ、この禅定の修行が修められ、多く為されたなら、気づきと正知のために等しく転起します。
友よ、では、どのような禅定の修行が修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起するのですか。友よ、ここに、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます。『かくのごとく、形態(色)があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕(受)があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕(想)があり……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕(行)があり……』『かくのごとく、識知〔作用〕(識)があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。友よ、この禅定の修行が修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。
308. 四つの量なきもの(無量)があります。友よ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕(悲)を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。
四つの形態なきもの(無色)があります。友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。
四つの依託があります。友よ、ここに、比丘が、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。
309. 四つの聖なる伝統があります。友よ、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、衣料を得なくても、思い悩みません。さらに、衣料を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。また、そして、〔まさに〕その、いかなる衣料によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、友よ、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、〔行乞の〕施食を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、〔行乞の〕施食を得なくても、思い悩みません。さらに、〔行乞の〕施食を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。また、そして、〔まさに〕その、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、友よ、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、臥坐具を因として、不適切で不当な探し求めを起こしません。そして、臥坐具を得なくても、思い悩みません。さらに、臥坐具を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。また、そして、〔まさに〕その、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、友よ、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、捨棄を喜びとする者として、捨棄を喜ぶ者として、〔世に〕有り、修行を喜びとする者として、修行を喜ぶ者として、〔世に〕有ります。また、そして、〔まさに〕その、捨棄を喜びとすることによって、捨棄を喜ぶことによって、修行を喜びとすることによって、修行を喜ぶことによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、友よ、この者は、『比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である』〔と〕説かれます。
310. 四つの精励があります。統御の精励であり、捨棄の精励であり、修行の精励であり、守護の精励です。友よ、では、どのようなものが、統御の精励なのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態(色)を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声(声)を聞いて……。鼻によって、臭気(香)を嗅いで……。舌によって、味感(味)を味わって……。身によって、感触(触・所触)と接触して……。意によって、法(法:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。友よ、これは、統御の精励と説かれます。
友よ、では、どのようなものが、捨棄の精励なのですか。友よ、ここに、比丘が、〔すでに〕生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。〔すでに〕生起した憎悪の思考を……略……。〔すでに〕生起した悩害の思考を……。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。友よ、これは、捨棄の精励と説かれます。
友よ、では、どのようなものが、修行の精励なのですか。友よ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。友よ、これは、修行の精励と説かれます。
友よ、では、どのようなものが、守護の精励なのですか。友よ、ここに、比丘が、〔すでに〕生起した幸いなる禅定の形相を──骨となったものの表象を、蛆虫まみれのものの表象を、青黒くなったものの表象を、切断されたものの表象を、膨張したものの表象を──守護します。友よ、これは、守護の精励と説かれます。
四つの知恵(智)が有ります。法(性質)についての知恵であり、類推についての知恵であり、探知についての知恵であり、慣習(世俗)についての知恵です。
他にもまた、四つの知恵が有ります。苦しみについての知恵であり、苦しみの集起についての知恵であり、苦しみの止滅についての知恵であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。
311. 四つの預流の支分があります。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、根源のままに意を為すこと(如理作意)であり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。
四つの預流たる者の支分があります。友よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。
四つの沙門の果があります。預流果であり、一来果であり、不還果であり、阿羅漢果です。
四つの界域があります。地の界域(地界)であり、水の界域(水界)であり、火の界域(火界)であり、風の界域(風界)です。
四つの食があります。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食:口にする食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食:知覚としての食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食:意志としての食)であり、第四に、識知〔作用としての食〕(識食:認識としての食)です。
四つの識知〔作用〕の止住(識住)があります。友よ、あるいは、形態を手段(方便)とする識知〔作用〕は、止住しつつ止住し、形態を対象(所縁)として、形態において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します。友よ、あるいは、感受〔作用〕を手段とする……略……。友よ、あるいは、表象〔作用〕を手段とする……略……。友よ、あるいは、諸々の形成〔作用〕を手段とする識知〔作用〕は、止住しつつ止住し、諸々の形成〔作用〕を対象として、諸々の形成〔作用〕において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します。
四つの非道に赴くことがあります。欲〔の思い〕ゆえに非道に赴き、憤怒ゆえに非道に赴き、迷妄ゆえに非道に赴き、恐怖ゆえに非道に赴きます。
四つの渇愛の生起があります。友よ、あるいは、衣料を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。友よ、あるいは、〔行乞の〕施食を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。友よ、あるいは、臥坐具を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。友よ、あるいは、かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、比丘に、渇愛が生起しつつ生起します。
四つの〔実践の〕道があります。苦なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、苦なるものにして速き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして遅き証知ある〔実践の〕道であり、楽なるものにして速き証知ある〔実践の〕道です。
他にもまた、四つの〔実践の〕道があります。忍耐なき〔実践の〕道であり、忍耐ある〔実践の〕道であり、調御ある〔実践の〕道であり、平静ある〔実践の〕道です。
四つの法(教え)の境処があります。強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という法(教え)の境処であり、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という法(教え)の境処であり、正しい気づきという法(教え)の境処であり、正しい禅定という法(教え)の境処です。
四つの法(教え)の受持があります。友よ、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。友よ、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。友よ、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。友よ、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。
四つの法(教え)の範疇(蘊)があります。戒の範疇(戒蘊)であり、禅定の範疇(定蘊)であり、智慧の範疇(慧蘊)であり、解脱の範疇です。
四つの力があります。精進の力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。
四つの確立があります。智慧の確立であり、真理(諦)の確立であり、施捨の確立であり、寂止の確立です。
312. 四つの問いへの説き明かしがあります。一定して説き明かすべき問いであり、反問して説き明かすべき問いであり、区分して説き明かすべき問いであり、捨て置くべき問いです。
四つの行為(業)があります。友よ、黒の報いある、黒の行為が存在します。友よ、白の報いある、白の行為が存在します。友よ、黒と白の報いある、黒と白の行為が存在します。友よ、黒でもなく白でもない報いある、黒でもなく白でもない行為が存在し、行為の滅尽のために等しく転起します。
四つの実証されるべき法(性質)があります。過去における居住(過去世)という、気づきによって実証されるべきものであり、有情たちの死滅と再生という、眼によって実証されるべきものであり、八つの解脱(八解脱:色界の瞑想者として諸々の形態を見る解脱・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を見る解脱・「浄美である」とだけ信念した者と成る解脱・空無辺処への入定の解脱・識無辺処への入定の解脱・無所有処への入定の解脱・非想非非想処への入定の解脱・想受滅への入定の解脱)という、身体によって実証されるべきものであり、諸々の煩悩の滅尽という、智慧によって実証されるべきものです。
四つの激流(暴流)があります。欲望の激流であり、生存の激流であり、見解の激流であり、無明の激流です。
四つの束縛(軛)があります。欲望の束縛であり、生存の束縛であり、見解の束縛であり、無明の束縛です。
四つの束縛を離れるものがあります。欲望の束縛による束縛を離れるものであり、生存の束縛による束縛を離れるものであり、見解の束縛による束縛を離れるものであり、無明の束縛による束縛を離れるものです。
四つの拘束(繋)があります。強欲〔の思い〕という、身体の拘束であり、憎悪〔の思い〕という、身体の拘束であり、戒や掟への偏執〔の思い〕という、身体の拘束であり、『これは真理である』という固着〔の思い〕という、身体の拘束です。
四つの執取(取)があります。欲望への執取であり、見解への執取であり、戒や掟への執取であり、自己の論への執取です。
四つの胎があります。卵生の胎であり、胎生の胎であり、湿生の胎であり、化生の胎です。
四つの入胎があります。友よ、ここに、一部の者は、正知なき者として、母の子宮に入ります。正知なき者として、母の子宮において止住します。正知なき者として、母の子宮から出ます。これは、第一の入胎です。友よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正知の者として、母の子宮に入ります。正知なき者として、母の子宮において止住します。正知なき者として、母の子宮から出ます。これは、第二の入胎です。友よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正知の者として、母の子宮に入ります。正知の者として、母の子宮において止住します。正知なき者として、母の子宮から出ます。これは、第三の入胎です。友よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、正知の者として、母の子宮に入ります。正知の者として、母の子宮において止住します。正知の者として、母の子宮から出ます。これは、第四の入胎です。
四つの自己状態(個我的あり方・身体)の獲得があります。友よ、その自己状態の獲得においては、自己の思欲だけが至り行き、他者の思欲が〔至り行か〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。友よ、その自己状態の獲得においては、他者の思欲だけが至り行き、自己の思欲が〔至り行か〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。友よ、その自己状態の獲得においては、まさしく、そして、自己の思欲も至り行き、さらに、他者の思欲も〔至り行く〕、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。友よ、その自己状態の獲得においては、まさしく、自己の思欲も至り行かず、他者の思欲も〔至り行か〕ない、〔そのような〕自己状態の獲得が存在します。
313. 四つの施物の清浄があります。友よ、施者ゆえに清浄となる、施物が存在します──納受者ゆえに、ではなく。友よ、納受者ゆえに清浄となる、施物が存在します──施者ゆえに、ではなく。友よ、まさしく、施者ゆえに清浄とならず、納受者ゆえに〔清浄となら〕ない、施物が存在します。友よ、まさしく、そして、施者ゆえに清浄となり、さらに、納受者ゆえに〔清浄となる〕、施物が存在します。
四つの愛護の基盤(四摂事:布施・愛語・利行・同事)があります。布施であり、愛ある言葉であり、義(利益)ある行ないであり、〔自他が〕等しくあることです。
四つの聖ならざる語用があります。虚偽を説くことであり、中傷の言葉であり、粗暴な言葉であり、雑駁な虚論です。
四つの聖なる語用があります。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。
他にもまた、四つの聖ならざる語用があります。見られていないものについて見られたものと説くことであり、聞かれていないものについて聞かれたものと説くことであり、思われていないものについて思われたものと説くことであり、識られていないものについて識られたものと説くことです。
他にもまた、四つの聖なる語用があります。見られていないものについて見られていないものと説くことであり、聞かれていないものについて聞かれていないものと説くことであり、思われていないものについて思われていないものと説くことであり、識られていないものについて識られていないものと説くことです。
他にもまた、四つの聖ならざる語用があります。見られたものについて見られていないものと説くことであり、聞かれたものについて聞かれていないものと説くことであり、思われたものについて思われていないものと説くことであり、識られたものについて識られていないものと説くことです。
他にもまた、四つの聖なる語用があります。見られたものについて見られたものと説くことであり、聞かれたものについて聞かれたものと説くことであり、思われたものについて思われたものと説くことであり、識られたものについて識られたものと説くことです。
314. 四つの人たちがあります。友よ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。友よ、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。友よ、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。
他にもまた、四つの人たちがあります。友よ、ここに、一部の人は、自己の利益のために実践する者として〔世に〕有ります──他者の利益のためではなく。友よ、ここに、一部の人は、他者の利益のために実践する者として〔世に〕有ります──自己の利益のためではなく。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、自己の利益のためでもなく、他者の利益のためでもなく、実践する者として〔世に〕有ります。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、そして、自己の利益のために、さらに、他者の利益のために、実践する者として〔世に〕有ります。
他にもまた、四つの人たちがあります。闇から闇を行き着く所とする者であり、闇から光を行き着く所とする者であり、光から闇を行き着く所とする者であり、光から光を行き着く所とする者です。
他にもまた、四つの人たちがあります。〔心の〕動揺なき沙門であり、白蓮たる沙門であり、赤蓮たる沙門であり、沙門たちにおける繊細なる沙門です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた四つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。
五なるもの
315. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた五つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、五つのものなのですか。
五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)があります。形態という〔心身を構成する〕範疇(色蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕範疇(受蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕範疇(想蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕範疇(行蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕範疇(識蘊)です。
五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)があります。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。
五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)があります。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。
五つの境遇(五趣)があります。地獄であり、畜生の胎であり、餓鬼の境域であり、人間たちであり、天〔の神々〕たちです。
五つの物惜〔の思い〕があります。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、法(教え)への物惜〔の思い〕です。
五つの〔修行の〕妨害(五蓋)があります。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害であり、疑惑〔の思い〕(疑)という〔修行の〕妨害です。
五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)があります。身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)であり、疑惑〔の思い〕(疑:仏法僧にたいする疑惑)であり、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)であり、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)です。
五つの上なる域に束縛するもの(五上分結:人を色界と無色界に束縛する五つの煩悩)があります。形態にたいする貪り〔の思い〕(色貪)であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕(無色貪)であり、〔我想の〕思量(慢)であり、〔心の〕高揚(掉挙)であり、無明です。
五つの学びの境処(戒律)があります。命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離れている〔生き方〕であり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕です。
316. 五つの不可能となる状況があります。友よ、煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります。
五つの災厄があります。親族の災厄であり、財物の災厄であり、病の災厄であり、戒の災厄であり、見解の災厄です。友よ、あるいは、親族の災厄を因として、あるいは、財物の災厄を因として、あるいは、病の災厄を因として、有情たちが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生することはありません。友よ、あるいは、戒の災厄を因として、あるいは、見解の災厄を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。
五つの成就があります。親族の成就であり、財物の成就であり、無病の成就であり、戒の成就であり、見解の成就です。友よ、あるいは、親族の成就を因として、あるいは、財物の成就を因として、あるいは、無病の成就を因として、有情たちが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生することはありません。友よ、あるいは、戒の成就を因として、あるいは、見解の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
五つの劣戒の者の戒の衰滅における危険(患・過患)があります。友よ、ここに、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、放逸を事因とする大いなる財物の衰退に遭遇します。これは、第一の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。友よ、さらに、また、他に、劣戒の者に、戒が衰滅したなら、悪しき評価の声が上がります。これは、第二の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。友よ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れず、愕然と成った者として近づいて行きます。これは、第三の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。友よ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、等しく迷乱した者として命を終えます。これは、第四の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。友よ、さらに、また、他に、劣戒の者は、戒が衰滅したなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。これは、第五の、劣戒の者の戒の衰滅における危険です。
五つの戒ある者の戒の成就における福利があります。友よ、ここに、戒ある者は、戒が成就したなら、不放逸を事因とする大いなる財物の範疇に遭遇します。これは、第一の、戒ある者の戒の成就における福利です。友よ、さらに、また、他に、戒ある者に、戒が成就したなら、善き評価の声が上がります。これは、第二の、戒ある者の戒の成就における福利です。友よ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、まさしく、その〔衆〕その衆に近づいて行くなら──もしくは、士族の衆であれ、もしくは、婆羅門の衆であれ、もしくは、家長の衆であれ、もしくは、沙門の衆であれ──恐れおののきを離れ、愕然と成らない者として近づいて行きます。これは、第三の、戒ある者の戒の成就における福利です。友よ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、等しく迷乱しない者として命を終えます。これは、第四の、戒ある者の戒の成就における福利です。友よ、さらに、また、他に、戒ある者は、戒が成就したなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。これは、第五の、戒ある者の戒の成就における福利です。
友よ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです。『〔正しい〕時に、〔わたしは〕説くのだ──〔正しい〕時ならずに、ではなく』『事実によって、〔わたしは〕説くのだ──事実ならざることによって、ではなく』『優しい〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ──粗暴な〔言葉〕によって、ではなく』『義(道理)を伴った〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ──義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、ではなく』『慈愛の心によって、〔わたしは〕説くのだ──憤怒を内にする〔心〕によって、ではなく』と。友よ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、これらの五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです。
317. 五つの精励の支分があります。友よ、ここに、比丘が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。(3)狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。(4)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(5)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。
318. 五つの清浄の居住(浄居)ある者たちがあります。無煩〔天の神々〕たちであり、無熱〔天の神々〕たちであり、善現〔天の神々〕たちであり、善見〔天の神々〕たちであり、色究竟〔天の神々〕たちです。
五つの不還たる者たちがあります。〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者たちであり、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者たちであり、形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者たちであり、形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者たちであり、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者たちです。
319. 五つの心の鬱積があります。(1)友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。友よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の鬱積です。(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い、疑惑し……略……(3)僧団にたいし、疑い、疑惑し……略……(4)学びにたいし、疑い、疑惑し……略……(5)梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の鬱積です。
320. 五つの心の結縛があります。(1)友よ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。友よ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の結縛です。(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……(3)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……。(4)友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます。……略……。(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。友よ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩むなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の結縛です。
五つの機能(五根)があります。眼の機能(眼根)であり、耳の機能(耳根)であり、鼻の機能(鼻根)であり、舌の機能(舌根)であり、身の機能(身根)です。
他にもまた、五つの機能があります。安楽の機能(楽根)であり、苦痛の機能(苦根)であり、悦意の機能(喜根)であり、失意の機能(憂根)であり、放捨の機能(捨根)です。
他にもまた、五つの機能があります。信の機能(信根)であり、精進の機能(精進根)であり、気づきの機能(念根)であり、禅定の機能(定根)であり、智慧の機能(慧根)です。
321. 五つの出離たるべき界域があります。友よ、ここに、比丘が、欲望〔の対象〕に意を為していると、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません(※)。また、まさに、彼が、離欲に意を為していると、離欲にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、諸々の欲望〔の対象〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、諸々の欲望〔の対象〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、諸々の欲望〔の対象〕の出離と告げ知らされました。
※ テキストには na vimuccati とあるが、注釈書により nādhimuccati と読む。以下のvimuccatiも、同様にadhimuccati と読む。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、憎悪〔の思い〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、憎悪〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、憎悪〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、憎悪〔の思い〕の出離と告げ知らされました。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、悩害〔の思い〕に意を為していると、悩害〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、悩害〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、悩害〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、悩害〔の思い〕の出離と告げ知らされました。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の形態に意を為していると、諸々の形態にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、形態なきものに意を為していると、形態なきものにたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、諸々の形態から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、諸々の形態という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、諸々の形態の出離と告げ知らされました。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、身体を有することに意を為していると、身体を有することにたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、身体を有することから、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、身体を有するという縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、身体を有することの出離と告げ知らされました。
322. 五つの解脱のための〔認識の〕場所(処)があります。友よ、ここに、比丘のために、教師(ブッダ)が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第一の解脱のための〔認識の〕場所です。
友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。……略……しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。……略……しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。……略……しかしながら、また、まさに、その〔比丘〕に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。友よ、そのとおり、そのとおりに、その比丘に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成るなら、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成るなら〕、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第五の解脱のための〔認識の〕場所です。
五つの解脱を亢進させる表象(想)があります。無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた五つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
六なるもの
323. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた六つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、六つのものなのですか。
六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)があります。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。
六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)があります。形態の〔認識の〕場所であり、音声の〔認識の〕場所であり、臭気の〔認識の〕場所であり、味感の〔認識の〕場所であり、感触の〔認識の〕場所であり、法(意の対象)の〔認識の〕場所です。
六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕(眼識)であり、耳の識知〔作用〕(耳識)であり、鼻の識知〔作用〕(鼻識)であり、舌の識知〔作用〕(舌識)であり、身の識知〔作用〕(身識)であり、意の識知〔作用〕(意識)です。
六つの接触(触)の体系があります。眼の接触であり、耳の接触であり、鼻の接触であり、舌の接触であり、身の接触であり、意の接触です。
六つの感受(受)の体系があります。眼の接触から生じる感受であり、耳の接触から生じる感受であり、鼻の接触から生じる感受であり、舌の接触から生じる感受であり、身の接触から生じる感受であり、意の接触から生じる感受です。
六つの表象(想)の体系があります。形態の表象であり、音声の表象であり、臭気の表象であり、味感の表象であり、感触の表象であり、法(意の対象)の表象です。
六つの思欲(思)の体系があります。形態の思欲であり、音声の思欲であり、臭気の思欲であり、味感の思欲であり、感触の思欲であり、法(意の対象)の思欲です。
六つの渇愛(愛)の体系があります。形態の渇愛であり、音声の渇愛であり、臭気の渇愛であり、味感の渇愛であり、感触の渇愛であり、法(意の対象)の渇愛です。
324. 六つの尊重なき〔思い〕があります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学び(戒律)にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、不放逸にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、友愛にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住みます。
六つの尊重〔の思い〕があります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住み、不放逸にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住み、友愛にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。
六つの悦意の細かい想念(伺)があります。眼によって、形態を見て、悦意が止住するべき形態を細かく想念します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、悦意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念します。
六つの失意の細かい想念があります。眼によって、形態を見て、失意が止住するべき形態を細かく想念します。……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、失意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念します。
六つの放捨(捨:選択せず差別なき心)の細かい想念があります。眼によって、形態を見て、放捨が止住するべき形態を細かく想念します。……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、放捨が止住するべき法(意の対象)を細かく想念します。
六つの記憶されるべき法(性質)があります。友よ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
325. 六つの論争の根元があります。(1)友よ、ここに、比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、その比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。友よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。友よ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、友よ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。友よ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、友よ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に顕前なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に顕前なきことが有ります。
(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有ります。(3)……略……嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有ります。(4)……狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有ります。(5)……悪しき欲求ある者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。(6)……自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、その比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。友よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。友よ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、友よ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。友よ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、友よ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に顕前なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に顕前なきことが有ります。
六つの界域があります。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域であり、虚空の界域であり、識知〔作用〕の界域です。
326. 六つの出離たるべき界域があります。友よ、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈愛(慈)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、憎悪〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈愛という〔止寂の〕心による解脱です』と。
友よ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈悲(悲)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、悩害〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、慈悲という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、悩害〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、悩害〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈悲という〔止寂の〕心による解脱です』と。
友よ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、歓喜(喜)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、不満〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、歓喜という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、不満〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、不満〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、歓喜という〔止寂の〕心による解脱です』と。
友よ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、放捨(捨)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、貪欲〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、放捨という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、貪欲〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、貪欲〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、放捨という〔止寂の〕心による解脱です』と。
友よ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、無相なる〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、わたしの識知〔作用〕が、形相に従い行くものとして有る』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、無相なる〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、彼の識知〔作用〕が、形相に従い行くものとして有るであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、一切の形相にとっての出離であるからです。すなわち、この、無相なる〔止寂の〕心による解脱です』と。
友よ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕、まさに、わたしから離れ去り、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観しないのだが、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕離れ去ったとき、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観せずにいながら、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、疑惑と懐疑の矢にとっての出離であるからです。すなわち、この、「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)の根絶です』と。
327. 六つの無上なるものがあります。無上なる見であり、無上なる聞であり、無上なる利得であり、無上なる学びであり、無上なる世話であり、無上なる随念です。
六つの随念の拠点があります。覚者の随念であり、法(教え)の随念であり、僧団の随念であり、戒の随念であり、施捨の随念であり、天神たちの随念です。
328. 六つの常なる住があります。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。
329. 六つの出生があります。友よ、ここに、一部の者は、黒の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出します。友よ、また、ここに、一部の者は、黒の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出します。友よ、また、ここに、一部の者は、黒の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。友よ、また、ここに、一部の者は、白の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出します。友よ、また、ここに、一部の者は、白の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出します。友よ、また、ここに、一部の者は、白の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。
六つの洞察を部分とする表象があります。無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象であり、止滅の表象です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた六つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
七なるもの
330. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた七つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、七つのものなのですか。
七つの聖なる財があります。信の財であり、戒の財であり、恥〔の思い〕(慚)の財であり、〔良心の〕咎め(愧)の財であり、所聞の財であり、施捨の財であり、智慧の財です。
七つの覚りの支分(七覚支)があります。気づきという正覚の支分(念覚支)であり、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)であり、精進という正覚の支分(精進覚支)であり、喜悦という正覚の支分(喜覚支)であり、静息という正覚の支分(軽安覚支)であり、禅定という正覚の支分(定覚支)であり、放捨という正覚の支分(捨覚支)です。
七つの禅定の必需品があります。正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)です。
七つの正ならざる法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、少聞の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。
七つの正なる法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきが現起された者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。
七つの正なる人士の法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、かつまた、法(教え)を知る者として、かつまた、義(意味)を知る者として、かつまた、自己を知る者として、かつまた、量を知る者として、かつまた、時を知る者として、かつまた、衆を知る者として、かつまた、人を知る者として、〔世に〕有ります。
331. 七つの非十者(煩悩の滅尽者)の基盤があります。友よ、ここに、比丘が、学びの受持にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、学びの受持にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。法(事象)の感知にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、法(事象)の感知にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。欲求の調伏(取り除き)にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、欲求の調伏にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。静坐にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、静坐にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。精進勉励にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、精進勉励にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。気づきと賢明さにたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、気づきと賢明さにたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。〔正しい〕見解による理解にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、〔正しい〕見解による理解にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。
七つの表象があります。無常の表象であり、無我の表象であり、不浄の表象であり、危険の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象であり、止滅の表象です。
七つの力があります。信の力であり、精進の力であり、恥〔の思い〕の力であり、〔良心の〕咎めの力であり、気づきの力であり、禅定の力であり、智慧の力です。
332. 七つの識知〔作用〕の止住(七識住)があります。友よ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の識知〔作用〕の止住です。
友よ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵衆天〔の神々〕たちのように。これは、第二の識知〔作用〕の止住です。
友よ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の識知〔作用〕の止住です。
友よ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の識知〔作用〕の止住です。
友よ、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第五の識知〔作用〕の止住です。
友よ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の識知〔作用〕の止住です。
友よ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の識知〔作用〕の止住です。
七つの〔供物を〕施与されるべき人たちがあります。両部の解脱者であり、智慧による解脱者であり、身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者であり、法(教え)に従い行く者であり、信に従い行く者です。
七つの悪習(随眠:潜在煩悩)があります。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、敵対〔の思い〕の悪習であり、見解の悪習であり、疑惑〔の思い〕の悪習であり、思量(慢)の悪習であり、生存にたいする貪り〔の思い〕(有貪)の悪習であり、無明の悪習です。
七つの束縛するもの(結)があります。随貪という束縛するものであり、敵対という束縛するものであり、見解という束縛するものであり、疑惑という束縛するものであり、思量という束縛するものであり、生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものであり、無明という束縛するものです。
七つの問題の止寂があります。諸々の生起しては生起した問題が止寂し止み静まるために、面前の調伏(現前毘尼:関係者全員による裁定)が施されるべきであり、記憶による調伏(憶念毘尼:違犯者の潔白宣言による裁定)が施されるべきであり、迷乱なき調伏(不痴毘尼:違犯者が心神喪失の場合の裁定)が施されるべきであり、明言によって執行されるべきもの(自言治:違犯者の自白による裁定)であり、多数決(多人語:関係者以外を含む多数者による裁定)であり、彼の悪行の告発(覓罪相:言い逃れをする違犯者への弾劾による裁定)であり、草の覆い(如草覆地:弁論と和解による裁定)です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた七つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
第二の朗読分は〔以上で〕終了となる。
八なるもの
333. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた八つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、八つのものなのですか。
八つの誤った〔道〕たることがあります。誤った見解(邪見)であり、誤った思惟(邪思惟)であり、誤った言葉(邪語)であり、誤った行業(邪業)であり、誤った生き方(邪命)であり、誤った努力(邪精進)であり、誤った気づき(邪念)であり、誤った禅定(邪定)です。
八つの正しい〔道〕たることがあります。正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。
八つの〔供物を〕施与されるべき人たちがあります。預流たる者(預流果)であり、預流果の実証のために〔道を〕実践する者(預流道)であり、一来たる者(一来果)であり、一来果の実証のために〔道を〕実践する者(一来道)であり、不還たる者(不還果)であり、不還果の実証のために〔道を〕実践する者(不還道)であり、阿羅漢(阿羅漢果)であり、阿羅漢果の実証のために〔道を〕実践する者(阿羅漢道)です。
334. 八つの怠惰の基盤があります。(1)友よ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。これは、第一の怠惰の基盤です。
(2)友よ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。これは、第二の怠惰の基盤です。
(3)友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……精進に励みません。これは、第三の怠惰の基盤です。
(4)友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……精進に励みません。これは、第四の怠惰の基盤です。
(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は疲弊するところとなり、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……精進に励みません。これは、第五の怠惰の基盤です。
(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は重く、行為に適するものならず。思うに、濡れた豆のようなもの。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……精進に励みません。これは、第六の怠惰の基盤です。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したものとして存在する。適確なるは横になること。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……精進に励みません。これは、第七の怠惰の基盤です。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。〔まさに〕その、わたしの、身体は力弱く、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。これは、第八の怠惰の基盤です。
335. 八つの勉励の基盤があります。(1)友よ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが作業を為しているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。これは、第一の勉励の基盤です。
(2)友よ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしは作業を為しつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。彼は……精進に励みます。これは、第二の勉励の基盤です。
(3)友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。彼は……精進に励みます。これは、第三の勉励の基盤です。
(4)友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしは道を赴きつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。彼は……精進に励みます。これは、第四の勉励の基盤です。
(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は軽く、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。彼は……精進に励みます。これは、第五の勉励の基盤です。
(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は力があり、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。彼は……精進に励みます。これは、第六の勉励の基盤です。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したのだ。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕増大するであろうことは。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。彼は……精進に励みます。これは、第七の勉励の基盤です。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕回復するであろうことは。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。これは、第八の勉励の基盤です。
336. 八つの布施の基盤があります。(1)〔相手が〕近寄って〔そののち〕、布施を施します。(2)恐怖ゆえに、布施を施します。(3)『わたしに施した』と、布施を施します。(4)『わたしに施すであろう』と、布施を施します。(5)『善きかな、布施は』と、布施を施します。(6)『わたしは調理する。これらの者たちは調理しない。調理している者として、調理していない者たちに布施を施さないことはできない』と、布施を施します。(7)『わたしが、この布施を施していると、善き評価の声が上がる』と、布施を施します。(8)心にとっての外装品であり必需品であることを義(目的)として、布施を施します。
337. 八つの布施による再生があります。(1)友よ、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と居住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます(未来の成就を願って施す)。彼は、あるいは、士族の大家たちが、あるいは、婆羅門の大家たちが、あるいは、家長の大家たちが、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しんでいるのを見ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、あるいは、士族の大家たちの、あるいは、婆羅門の大家たちの、あるいは、家長の大家たちの、同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──劣戒の者の〔再生〕ではなく。友よ、戒ある者の心の誓願は、清浄なることから実現します。
(2)友よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と居住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます。彼に、〔このような〕所聞(知識)が有ります。『四大王天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──劣戒の者の〔再生〕ではなく。友よ、戒ある者の心の誓願は、清浄なることから実現します。
(3)友よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を……略……臥所と居住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『三十三天〔の神々〕たちは……略……。(4)『耶摩天〔の神々〕たちは……略……。(5)『兜率天〔の神々〕たちは……略……。(6)『化楽天〔の神々〕たちは……略……。(7)『他化自在天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──劣戒の者の〔再生〕ではなく。友よ、戒ある者の心の誓願は、清浄なることから実現します。
(8)友よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、布施を、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、施します──食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と居住所と灯具を。彼は、〔因として〕それを施し、〔果として〕それを願い求めます。彼に、〔このような〕所聞が有ります。『梵衆天〔の神々〕たちは、長寿の者たちであり、色艶ある者たちであり、安楽多き者たちである』と。彼に、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、梵衆天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と。彼は、その心を思い定め、その心を確立し、その心を修めます。彼の、その心は、下劣なるものにたいし解脱したものの、より上なるものとして修められず、そこに再生あるために等しく転起します。そして、それを、まさに、戒ある者の〔再生〕と、貪欲を離れた者の〔再生〕と、〔わたしは〕説きます──貪欲を有する者の〔再生〕ではなく。友よ、戒ある者の心の誓願は、貪欲を離れたことから実現します。
八つの衆があります。士族の衆であり、婆羅門の衆であり、家長の衆であり、沙門の衆であり、四大王〔天〕の衆であり、三十三〔天〕の衆であり、悪魔の衆であり、梵〔天〕の衆です。
八つの世の法(八世間法)があります。そして、利得であり、さらに、利得なきであり、そして、盛名であり、さらに、盛名なきであり、そして、非難であり、さらに、賞賛であり、そして、安楽であり、さらに、苦痛です。
338. 八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)があります。(1)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。
(2)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。
(3)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。
(4)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。
(5)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。
(6)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。
(7)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。
(8)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。
339. 八つの解脱(八解脱)があります。(1)形態ある者として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。
(2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。
(3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。
(4)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。
(5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。
(6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。
(7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。
(8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた八つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
九なるもの
340. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた九つの法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、九つのものなのですか。
九つの憤懣の基盤があります。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(5)……略……義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(6)……略……義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった』と、憤懣を結びます。(8)……略……義(利益)を行なう』と、憤懣を結びます。(9)……略……義(利益)を行なうであろう』と、憤懣を結びます。
九つの憤懣の調伏があります。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった。それ(他者の阻止)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう(他者の行為はどうにもならない)』と、憤懣を取り除きます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった。……略……(5)義(利益)ならざることを行なう。……略……(6)義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった。……略……(8)義(利益)を行なう。……略……(9)義(利益)を行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。
341. 九つの有情の居住所(九有情居)があります。(1)友よ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の有情の居住所です。
(2)友よ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵衆天〔の神々〕たちのように。これは、第二の有情の居住所です。
(3)友よ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の有情の居住所です。
(4)友よ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の有情の居住所です。
(5)友よ、表象なく得知なき有情たちが存在します。それは、たとえば、また、表象なき有情たる天〔の神々〕たちのように。これは、第五の有情の居住所です。
(6)友よ、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の有情の居住所です。
(7)友よ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の有情の居住所です。
(8)友よ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第八の有情の居住所です。
(9)友よ、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第九の有情の居住所です。
342. 九つの、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものがあり、〔為すべき〕時点ならざるものがあります。(1)友よ、ここに、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、地獄に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第一の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(2)友よ、さらに、また、他に、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、畜生の胎に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第二の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(3)友よ、さらに、また、他に……略……餓鬼の境域に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第三の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(4)友よ、さらに、また、他に……略……阿修羅の身体に再生した者として〔世に〕有ります。これは、第四の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(5)友よ、さらに、また、他に……略……或るどこかの長寿の天の身体に再生した者として〔世に〕有ります。これは、第五の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(6)友よ、さらに、また、他に……略……諸々の最辺境の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります──識知なき蛮族たちのなかにおいて。そこにおいては、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちの赴く所は存在しません。これは、第六の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(7)友よ、さらに、また、他に……略……諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。これは、第七の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(8)友よ、さらに、また、他に……略……諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、見事に語られたものと拙劣に語られたものの義(意味)を了知する能力なき者として、〔世に〕有ります。これは、第八の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
(9)友よ、さらに、また、他に、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有ることがなく、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されません。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。さらに、彼は、智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、見事に語られたものと拙劣に語られたものの義(意味)を了知する能力ある者として、〔世に〕有ります。これは、第九の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
343. 九つの順次の住があります。(1)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。(2)〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。(3)さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。(4)かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。(5)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(6)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(7)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。(8)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。(9)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。
344. 九つの順次の止滅があります。(1)第一の瞑想に入定した者には、欲望の表象が止滅したものと成ります。(2)第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が止滅したものと成ります。(3)第三の瞑想に入定した者には、喜悦が止滅したものと成ります。(4)第四の瞑想に入定した者には、出息と入息が止滅したものと成ります。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象が止滅したものと成ります。(6)識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(7)無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(9)表象と感覚の止滅に入定した者には、そして、表象が、さらに、感受が、止滅したものと成ります。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた九つの法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。
十なるもの
345. 友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた十の法(性質)が存在します。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり……略……天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。どのようなものが、十のものなのですか。
十の庇護者を作り為す法(性質)があります。(1)友よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。友よ、すなわち、また、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。友よ、すなわち、また、比丘が、多聞の者として……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(3)友よ、さらに、また、他に、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(4)友よ、さらに、また、他に、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの……略……差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律理(対律・勝律)において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が、法(教え)を欲する者であり……略……秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……満ち足りている者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。友よ、すなわち、また、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住むなら……略……諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、為されて長きことをもまた、語られて長きことをもまた、思念し随念する者として。友よ、すなわち、また、比丘が、気づきある者として〔世に〕有るなら……略……思念し随念する者として──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(10)友よ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。友よ、すなわち、また、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有るなら……略……生成と滅至の智慧を具備した者として──これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
346. 十の遍満の〔認識の〕場所(遍処)があります。(1)或る者は、地の遍満(地遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(2)或る者は、水の遍満(水遍)を……略……表象します。(3)或る者は、火の遍満(火遍)を……表象します。(4)或る者は、風の遍満(風遍)を……表象します。(5)或る者は、青の遍満(青遍)を……表象します。(6)或る者は、黄の遍満(黄遍)を……表象します。(7)或る者は、赤の遍満(赤遍)を……表象します。(8)或る者は、白の遍満(白遍)を……表象します。(9)或る者は、虚空の遍満(空遍)を……表象します。(10)或る者は、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。
347. 十の善ならざる行為の道(十不善業道)があります。(1)命あるものを殺すことであり、(2)与えられていないものを取ることであり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないであり、(4)虚偽を説くことであり、(5)中傷の言葉であり、(6)粗暴な言葉であり、(7)雑駁な虚論であり、(8)強欲〔の思い〕であり、(9)憎悪〔の思い〕であり、(10)誤った見解です。
十の善なる行為の道(十善業道)があります。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、(2)与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕であり、(4)虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、(5)中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、(6)粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、(7)雑駁な虚論から離れている〔生き方〕であり、(8)強欲〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(9)憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(10)正しい見解です。
348. 十の聖者の居住があります。友よ、ここに、比丘が、(1)五つの支分を捨棄した者として、(2)六つの支分を具備した者として、(3)一つの守護ある者として、(4)四つの依託ある者として、(5)各自の真理を除去した者として、(6)探し求めることを正しく完全に放棄した者として、(7)混濁なき思惟ある者として、(8)身体の形成〔作用〕を静息した者として、(9)善く解脱した心の者として、(10)善く解脱した智慧の者として、〔世に〕有ります。
(1)友よ、では、どのように、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたものと成り、憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成り、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたものと成り、〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されたものと成り、疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成ります。友よ、このように、まさに、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有ります。
(2)友よ、では、どのように、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。友よ、このように、まさに、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。
(3)友よ、では、どのように、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、気づきの守護ある思欲を具備した者として〔世に〕有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有ります。
(4)友よ、では、どのように、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。友よ、このように、まさに、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有ります。
(5)友よ、では、どのように、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘にとって、すなわち、それらの、多々なる沙門や婆羅門たちにとっての多々なる各自の真理が、それらの全てが、除かれたものと成り、除去されたものと〔成り〕、捨てられたものと〔成り〕、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。友よ、このように、まさに、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有ります。
(6)友よ、では、どのように、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕の探し求めが捨棄されたものと成り、〔迷いの〕生存の探し求めが捨棄されたものと成り、〔利得のための〕梵行の探し求めが安息しています。友よ、このように、まさに、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有ります。
(7)友よ、では、どのように、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘にとって、欲望の思惟が捨棄されたものと成り、憎悪の思惟が捨棄されたものと成り、悩害の思惟が捨棄されたものと成ります。友よ、このように、まさに、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有ります。
(8)友よ、では、どのように、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このように、まさに、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有ります。
(9)友よ、では、どのように、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘に、貪欲から解脱した心が有り、憤怒から解脱した心が有り、迷妄から解脱した心が有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有ります。
(10)友よ、では、どのように、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしの、貪欲は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、憤怒は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、迷妄は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知します。友よ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有ります。
十の〔もはや〕学ぶことなき者(無学)の法(性質)があります。(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解であり、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟であり、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉であり、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業であり、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方であり、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力であり、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきであり、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定であり、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵であり、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱です。
友よ、まさに、これらの、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされた十の法(性質)があります。そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、合誦するべきであり、論争するべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう」と。
349. そこで、まさに、世尊は、起き上がって、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、善きかな、まさに、あなたは、比丘たちに、合誦の教相を語りました」と。尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。教師は、正しくお認めに成りました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。
合誦の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
11(34). 十の加上の経
350. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「『十の加上ある法(性質)を、〔わたしは〕言示する──涅槃に至り得るために、苦しみの終極を為すために、一切の拘束を解き放つものとして』〔と〕。
一つの法
351. 友よ、(1)一つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)一つの修行されるべき法(性質)があります。(3)一つの遍知されるべき法(性質)があります。(4)一つの捨棄されるべき法(性質)があります。(5)一つの退失を部分とする法(性質)があります。(6)一つの殊勝を部分とする法(性質)があります。(7)一つの理解し難き法(性質)があります。(8)一つの生起させられるべき法(性質)があります。(9)一つの証知されるべき法(性質)があります。(10)一つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、一つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。諸々の善なる法(性質)における不放逸です。この一つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、一つの修行されるべき法(性質)なのですか。快楽(安楽)を共具したものとしてある、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)です。この一つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、一つの遍知されるべき法(性質)なのですか。煩悩を有するもの(有漏)としてある、〔凡夫によって〕執取されるべき接触(触)です。この一つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、一つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)です。この一つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、一つの退失を部分とする法(性質)なのですか。根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)です。この一つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、一つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。根源のままに意を為すこと(如理作意)です。この一つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、一つの理解し難き法(性質)なのですか。直後(無間)なるものとしての心の禅定(定)です。この一つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、一つの生起させられるべき法(性質)なのですか。不動なる知恵(智)です。この一つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、一つの証知されるべき法(性質)なのですか。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちです。この一つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、一つの実証されるべき法(性質)なのですか。不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)です。この一つの実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
二つの法
352. (1)二つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)二つの修行されるべき法(性質)があります。(3)二つの遍知されるべき法(性質)があります。(4)二つの捨棄されるべき法(性質)があります。(5)二つの退失を部分とする法(性質)があります。(6)二つの殊勝を部分とする法(性質)があります。(7)二つの理解し難き法(性質)があります。(8)二つの生起させられるべき法(性質)があります。(9)二つの証知されるべき法(性質)があります。(10)二つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、二つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。そして、気づき(念)であり、さらに、正知です。これらの二つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、二つの修行されるべき法(性質)なのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。これらの二つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、二つの遍知されるべき法(性質)なのですか。そして、(名:精神的事象)であり、さらに、形態(色:物質的形態)です。これらの二つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、二つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。そして、無明であり、さらに、生存の渇愛(有愛)です。これらの二つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、二つの退失を部分とする法(性質)なのですか。そして、頑固であることであり、さらに、悪しき朋友あることです。これらの二つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、二つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。そして、素直であることであり、さらに、善き朋友あることです。これらの二つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、二つの理解し難き法(性質)なのですか。有情たちの汚染のための、そして、すなわち、因であり、さらに、すなわち、縁であり、有情たちの清浄のための、そして、すなわち、因であり、さらに、すなわち、縁です。これらの二つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、二つの生起させられるべき法(性質)なのですか。二つの知恵(智)があります。滅尽についての知恵であり、生起なきものについての知恵です。これらの二つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、二つの証知されるべき法(性質)なのですか。二つの界域(界)があります。そして、形成されたもの(有為)の界域であり、さらに、形成されたものではないもの(無為)の界域です。これらの二つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、二つの実証されるべき法(性質)なのですか。そして、明知であり、さらに、解脱です。これらの二つの実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの二十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
三つの法
353. (1)三つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)三つの修行されるべき法(性質)があります。……略……。(10)三つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、三つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。これらの三つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、三つの修行されるべき法(性質)なのですか。三つの禅定(定)があります。〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する禅定(有尋有伺定)であり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみある禅定(無尋唯伺定)であり、思考なく想念なき禅定(無尋無伺定)です。これらの三つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、三つの遍知されるべき法(性質)なのですか。三つの感受(受)があります。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。これらの三つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、三つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。三つの渇愛(愛)があります。欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。これらの三つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、三つの退失を部分とする法(性質)なのですか。三つの善ならざるものの根元(不善根)があります。貪欲(貪)は、善ならざるものの根元であり、憤怒(瞋)は、善ならざるものの根元であり、迷妄(痴)は、善ならざるものの根元です。これらの三つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、三つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。三つの善なるものの根元(善根)があります。貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、善なるものの根元であり、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、善なるものの根元であり、迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、善なるものの根元です。これらの三つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、三つの理解し難き法(性質)なのですか。三つの出離たるべき界域があります。諸々の欲望〔の対象〕にとっては、これが、出離となります。すなわち、この、離欲です。諸々の形態(色)にとっては、これが、出離となります。すなわち、この、形態なきもの(無色)です。また、まさに、それが何であれ、『成ったもの(実)』『形成されたもの(有為)』『縁によって生起したもの(縁已生)』であるなら、それにとっては、止滅〔の界域〕(涅槃)が、出離となります。これらの三つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、三つの生起させられるべき法(性質)なのですか。三つの知恵があります。過去の時についての知恵であり、未来の時についての知恵であり、現在の時についての知恵です。これらの三つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、三つの証知されるべき法(性質)なのですか。三つの界域(界)があります。欲望の界域(欲界)であり、形態の界域(色界)であり、形態なき界域(無色界)です。これらの三つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、三つの実証されるべき法(性質)なのですか。三つの明知(三明)があります。過去における居住(過去世)の随念の知恵は、明知であり、有情たちの死滅と再生の知恵は、明知であり、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)は、明知です。
かくのごとく、これらの三十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
四つの法
354. (1)四つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)四つの修行されるべき法(性質)があります。……略……。(10)四つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、四つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。四つの輪があります。適切なる地に住することであり、正なる人士に近しく依拠することであり、自己についての正しい誓願であり、そして、過去(過去世)に作り為した功徳あることです。これらの四つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、四つの修行されるべき法(性質)なのですか。四つの気づきの確立(四念処・四念住)があります。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。これらの四つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、四つの遍知されるべき法(性質)なのですか。四つの食(動力源・エネルギー)があります。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食:口にする食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食:知覚としての食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食:意志としての食)であり、第四に、識知〔作用としての食〕(識食:認識としての食)です。これらの四つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、四つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。四つの激流(暴流)があります。欲望の激流であり、生存の激流であり、見解の激流であり、無明の激流です。これらの四つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、四つの退失を部分とする法(性質)なのですか。四つの束縛(軛)があります。欲望の束縛であり、生存の束縛であり、見解の束縛であり、無明の束縛です。これらの四つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、四つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。四つの束縛を離れるものがあります。欲望の束縛による束縛を離れるものであり、生存の束縛による束縛を離れるものであり、見解の束縛による束縛を離れるものであり、無明の束縛による束縛を離れるものです。これらの四つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、四つの理解し難き法(性質)なのですか。四つの禅定があります。退失を部分とする禅定であり、止住を部分とする禅定であり、殊勝を部分とする禅定であり、洞察を部分とする禅定です。これらの四つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、四つの生起させられるべき法(性質)なのですか。四つの知恵があります。法(性質)についての知恵であり、類推についての知恵であり、探知についての知恵であり、慣習についての知恵です。これらの四つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、四つの証知されるべき法(性質)なのですか。四つの聖なる真理(四聖諦)があります。苦しみという聖なる真理(苦諦)であり、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)であり、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)です。これらの四つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、四つの実証されるべき法(性質)なのですか。四つの沙門の果があります。預流果であり、一来果であり、不還果であり、阿羅漢果です。これらの四つの実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの四十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
五つの法
355. (1)五つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)五つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、五つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。五つの精励の支分があります。友よ、ここに、比丘が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。(3)狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。(4)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(5)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。これらの五つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、五つの修行されるべき法(性質)なのですか。五つの支分ある正しい禅定があります。喜悦が充満することであり、安楽が充満することであり、心が充満することであり、光明が充満することであり、綿密に注視することの形相です。これらの五つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、五つの遍知されるべき法(性質)なのですか。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)があります。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。これらの五つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、五つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。五つの〔修行の〕妨害(五蓋)があります。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)であり、疑惑〔の思い〕(疑)です。これらの五つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、五つの退失を部分とする法(性質)なのですか。五つの心の鬱積があります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。友よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の鬱積です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い、疑惑し……略……僧団にたいし、疑い、疑惑し……略……学びにたいし、疑い、疑惑し……略……梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の鬱積です。これらの五つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、五つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。五つの機能(五根)があります。信の機能(信根)であり、精進の機能(精進根)であり、気づきの機能(念根)であり、禅定の機能(定根)であり、智慧の機能(慧根)です。これらの五つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、五つの理解し難き法(性質)なのですか。五つの出離たるべき界域があります。友よ、ここに、比丘が、欲望〔の対象〕に意を為していると、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません(※)。また、まさに、彼が、離欲に意を為していると、離欲にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、諸々の欲望〔の対象〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、諸々の欲望〔の対象〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、諸々の欲望〔の対象〕の出離と告げ知らされました。
※ テキストには na vimuccati とあるが、321. の平行箇所により nādhimuccati と読む。以下のvimuccatiも、同様にadhimuccati と読む。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、憎悪〔の思い〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、憎悪〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、憎悪〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、憎悪〔の思い〕の出離と告げ知らされました。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、悩害〔の思い〕に意を為していると、悩害〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、悩害〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、悩害〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、悩害〔の思い〕の出離と告げ知らされました。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、形態に意を為していると、形態にたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、形態なきものに意を為していると、形態なきものにたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、形態から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、形態という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、形態の出離と告げ知らされました。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、身体を有すること(有身)に意を為していると、身体を有することにたいし、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、信念しません。また、まさに、彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、信念します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、身体を有することから、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、身体を有するという縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、身体を有することの出離と告げ知らされました。これらの五つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、五つの生起させられるべき法(性質)なのですか。五つの知恵の正しい禅定があります。『この禅定は、まさしく、そして、現在の安楽あるものであり、さらに、未来に安楽の報い(異熟)あるものである』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、聖なるものであり、財貨なきもの(非俗のもの)である』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、俗人が慣れ親しむものではない』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、寂静で、精妙で、安息を得たものであり、専一なる状態に到達したものであり、形成〔作用〕を有し制御して阻止に至ったものではない(意識的に作り上げたものではない)』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『また、それで、まさに、わたしは、この禅定に、まさしく、気づきある者として入定し、気づきある者として出起する』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。これらの五つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、五つの証知されるべき法(性質)なのですか。五つの解脱のための〔認識の〕場所(処)があります。友よ、ここに、比丘のために、教師(ブッダ)が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第一の解脱のための〔認識の〕場所です。
友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第二の解脱のための〔認識の〕場所です。
友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第三の解脱のための〔認識の〕場所です。
友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第四の解脱のための〔認識の〕場所です。
友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すこともまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検することもまたなく、しかしながら、また、まさに、その〔比丘〕に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。友よ、そのとおり、そのとおりに、その比丘に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成るなら、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成るなら〕、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第五の解脱のための〔認識の〕場所です。これらの五つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、五つの実証されるべき法(性質)なのですか。五つの法(性質)の範疇があります。戒の範疇(戒蘊)であり、禅定の範疇(定蘊)であり、智慧の範疇(慧蘊)であり、解脱の範疇であり、解脱の知見の範疇です。これらの五つの実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの五十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
六つの法
356. (1)六つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)六つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、六つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。六つの記憶されるべき法(性質)があります。友よ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘に、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘に、慈愛〔の思い〕ある意の行為が……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。これらの六つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、六つの修行されるべき法(性質)なのですか。六つの随念の拠点があります。覚者の随念であり、法(教え)の随念であり、僧団の随念であり、戒の随念であり、施捨の随念であり、天神たちの随念です。これらの六つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、六つの遍知されるべき法(性質)なのですか。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)があります。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。これらの六つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、六つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。六つの渇愛の体系があります。形態への渇愛であり、音声への渇愛であり、臭気への渇愛であり、味感への渇愛であり、感触への渇愛であり、法(意の対象)への渇愛です。これらの六つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、六つの退失を部分とする法(性質)なのですか。六つの尊重〔の思い〕なきことがあります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし……学びにたいし……不放逸にたいし……友愛にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住みます。これらの六つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、六つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。六つ尊重〔の思い〕あることがあります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし……学びにたいし……不放逸にたいし……友愛にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。これらの六つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、六つの理解し難き法(性質)なのですか。六つの出離たるべき界域があります。友よ、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈愛(慈)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、憎悪〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈愛という〔止寂の〕心による解脱です』と。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈悲(悲)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、悩害〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、悩害〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈悲という〔止寂の〕心による解脱です』と。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、歓喜(喜)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ……略……そこで、また、そして、不満〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、不満〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、歓喜という〔止寂の〕心による解脱です』と。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、放捨(捨)という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ……略……そこで、また、そして、貪欲〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、貪欲〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、放捨という〔止寂の〕心による解脱です』と。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、無相なる〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ……略……そこで、また、そして、わたしの識知〔作用〕が、形相に従い行くものとして有る』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、一切の形相にとっての出離であるからです。すなわち、この、無相なる〔止寂の〕心による解脱です』と。
比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕、まさに、わたしから離れ去り、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観しないのだが、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕離れ去ったとき、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観せずにいながら、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、疑惑と懐疑の矢にとっての出離であるからです。すなわち、この、「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)の根絶です』と。これらの六つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、六つの生起させられるべき法(性質)なのですか。六つの常なる住があります。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。これらの六つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、六つの証知されるべき法(性質)なのですか。六つの無上なるものがあります。無上なる見であり、無上なる聞であり、無上なる利得であり、無上なる学びであり、無上なる世話であり、無上なる随念です。これらの六つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、六つの実証されるべき法(性質)なのですか。六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)があります。友よ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます(神足通)。
人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも(天耳通)。
他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。……略……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します(他心通)。
無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します(宿命通)。
人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……(天眼通)。
諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。これらの六つの実証されるべき法(性質)があります(漏尽通)。
かくのごとく、これらの六十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
七つの法
357. 友よ、(1)七つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)七つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、七つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。七つの聖なる財があります。信の財であり、戒の財であり、恥〔の思い〕(慚)の財であり、〔良心の〕咎め(愧)の財であり、所聞の財であり、施捨の財であり、智慧(慧・般若)の財です。これらの七つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、七つの修行されるべき法(性質)なのですか。七つの覚りの支分(七覚支)があります。気づきという正覚の支分であり、法(真理)の判別という正覚の支分であり、精進という正覚の支分であり、喜悦という正覚の支分であり、静息という正覚の支分であり、禅定という正覚の支分であり、放捨という正覚の支分です。これらの七つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、七つの遍知されるべき法(性質)なのですか。七つの識知〔作用〕の止住(七識住)があります。友よ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の識知〔作用〕の止住です。
友よ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵衆天〔の神々〕たちのように。これは、第二の識知〔作用〕の止住です。
友よ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の識知〔作用〕の止住です。
友よ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の識知〔作用〕の止住です。
友よ、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから……略……『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第五の識知〔作用〕の止住です。
友よ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の識知〔作用〕の止住です。
友よ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の識知〔作用〕の止住です。これらの七つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、七つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。七つの悪習(随眠:潜在煩悩)があります。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、敵対〔の思い〕の悪習であり、見解の悪習であり、疑惑〔の思い〕の悪習であり、思量の悪習であり、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、無明の悪習です。これらの七つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、七つの退失を部分とする法(性質)なのですか。七つの正ならざる法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、少聞の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。これらの七つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、七つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。七つの正なる法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきが現起された者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。これらの七つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、七つの理解し難き法(性質)なのですか。七つの正なる人士の法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、かつまた、法(教え)を知る者として、かつまた、義(意味)を知る者として、かつまた、自己を知る者として、かつまた、量を知る者として、かつまた、時を知る者として、かつまた、衆を知る者として、かつまた、人を知る者として、〔世に〕有ります。これらの七つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、七つの生起させられるべき法(性質)なのですか。七つの表象があります。無常の表象であり、無我の表象であり、不浄の表象であり、危険の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象であり、止滅の表象です。これらの七つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、七つの証知されるべき法(性質)なのですか。七つの非十者(煩悩の滅尽者)の基盤があります。友よ、ここに、比丘が、学びの受持にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、学びの受持にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。法(事象)の感知にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、法(事象)の感知にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。欲求の調伏(取り除き)にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、欲求の調伏にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。静坐にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、静坐にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。精進勉励にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、精進勉励にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。気づきと賢明さにたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、気づきと賢明さにたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。〔正しい〕見解による理解にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、〔正しい〕見解による理解にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。これらの七つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、七つの実証されるべき法(性質)なのですか。七つの煩悩の滅尽者の力があります。友よ、ここに、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕(諸行)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。友よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。
友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕(女性)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。
友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成ります〕。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。
友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立(四念処・四念住)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。
友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、五つの機能(五根)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。
友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、七つの覚りの支分(七覚支)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。
友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、聖なる八つの支分ある道が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。これらの七つの実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの七十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。
八つの法
358. 友よ、(1)八つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)八つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、八つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。八つのものを因として、八つのものを縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住み、そこにおいて、その〔比丘〕に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有ります。これが、第一の因として、第一の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。
また、まさに、その教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住み、そこにおいて、その〔比丘〕に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有り、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。これが、第二の因として、第二の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。
また、まさに、その法(教え)を、聞いて〔そののち〕、両者の隠棲によって成就させます──かつまた、身体の隠棲によって、かつまた、心の隠棲によって。これが、第三の因として、第三の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。
友よ、さらにまた、他に、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。これが、第四の因として、第四の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。
友よ、さらにまた、他に、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。これが、第五の因として、第五の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。
友よ、さらにまた、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。これが、第六の因として、第六の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。
友よ、さらにまた、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、為されて長きことをもまた、語られて長きことをもまた、思念し随念する者として。これが、第七の因として、第七の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。
友よ、さらにまた、他に、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます──『かくのごとく、形態(色)があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕(受)があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕(想)があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕(行)があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕(識)があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。これが、第八の因として、第八の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。これらの八つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、八つの修行されるべき法(性質)なのですか。聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)があります。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。これらの八つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、八つの遍知されるべき法(性質)なのですか。八つの世の法(八世間法)があります。そして、利得であり、さらに、利得なきであり、そして、盛名であり、さらに、盛名なきであり、そして、非難であり、さらに、賞賛であり、そして、安楽であり、さらに、苦痛です。これらの八つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、八つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。八つの誤った〔道〕たることがあります。誤った見解(邪見)であり、誤った思惟(邪思惟)であり、誤った言葉(邪語)であり、誤った行業(邪業)であり、誤った生き方(邪命)であり、誤った努力(邪精進)であり、誤った気づき(邪念)であり、誤った禅定(邪定)です。これらの八つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、八つの退失を部分とする法(性質)なのですか。八つの怠惰の基盤があります。友よ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。これは、第一の怠惰の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。これは、第二の怠惰の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。これは、第三の怠惰の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。これは、第四の怠惰の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は疲弊するところとなり、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第五の怠惰の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は重く、行為に適するものならず。思うに、濡れた豆のようなもの。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第六の怠惰の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したものとして存在する。適確なるは横になること。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第七の怠惰の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。〔まさに〕その、わたしの、身体は力弱く、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第八の怠惰の基盤です。これらの八つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、八つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。八つの勉励の基盤があります。友よ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが作業を為しているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。これは、第一の勉励の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしは作業を為しつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第二の勉励の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第三の勉励の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしは道を赴きつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第四の勉励の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は軽く、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第五の勉励の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は力があり、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第六の勉励の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したのだ。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕増大するであろうことは。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第七の勉励の基盤です。
友よ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕回復するであろうことは。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。これは、第八の勉励の基盤です。これらの八つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、八つの理解し難き法(性質)なのですか。八つの、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものがあり、〔為すべき〕時点ならざるものがあります。友よ、ここに、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、地獄に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第一の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
友よ、さらに、また、他に、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、畜生の胎に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第二の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
友よ、さらに、また、他に……略……餓鬼の境域に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第三の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
友よ、さらに、また、他に……略……或るどこかの長寿の天の身体に再生した者として〔世に〕有ります。これは、第四の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
友よ、さらに、また、他に……略……諸々の最辺境の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります──識知なき蛮族たちのなかにおいて。そこにおいては、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちの赴く所は存在しません。これは、第五の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
友よ、さらに、また、他に……略……。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。これは、第六の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
友よ、さらに、また、他に……略……。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、見事に語られたものと拙劣に語られたものの義(意味)を了知する能力なき者として、〔世に〕有ります。これは、第七の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。
友よ、さらに、また、他に、(※)かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有ることがなく、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されません。(※)そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。さらに、彼は、智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、見事に語られたものと拙劣に語られたものの義(意味)を了知する能力ある者として、〔世に〕有ります。これは、第八の、梵行の住のための、〔為すべき〕時節ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。これらの八つの理解し難き法(性質)があります。
※ テキストの省略箇所(「かつまた」から「〔世に〕説示されません。」まで)を、342. により補う。
(8)どのようなものが、八つの生起させられるべき法(性質)なのですか。八つの大いなる人の思考があります。『少なき欲求の者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、大いなる欲求ある者のためならず』『満ち足りている者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、満ち足りていない者のためならず』『遠離している者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、社交を喜びとする者のためならず』『精進に励む者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、怠惰の者のためならず』『気づきが現起された者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、気づきが忘却された者のためならず』『〔心が〕定められた者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、〔心が〕定められていない者のためならず』『智慧ある者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、智慧浅き者のためならず』『虚構なき者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、虚構を喜びとする者のためならず』と。これらの八つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、八つの証知されるべき法(性質)なのですか。八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)があります。或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。
或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。
或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。
或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。
或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。
或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。
或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。
或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。これらの八つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、八つの実証されるべき法(性質)なのですか。八つの解脱(八解脱)があります。形態ある者として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。
内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。
『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。
全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。
全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。
全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。
全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。
全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。これらの八つの実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの八十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
九つの法
359. 友よ、(1)九つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)九つの実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、九つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。九つの根源のままに意を為すことを根元とする法(性質)があります。根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じます。歓喜した者には、(2)喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、(3)身体が静息します。静息した身体ある者は、(4)安楽を感受します。安楽ある者には、(5)心が定められます。心が定められたとき、(6)事実のとおりに知り見ます。事実のとおりに知り見ている者は、(7)厭離します。厭離しながら、(8)離貪します。離貪あることから、(9)解脱します。これらの九つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、九つの修行されるべき法(性質)なのですか。九つの完全なる清浄のための精励の支分があります。(1)戒の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(2)心の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(3)見解の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(4)疑いの超渡の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(5)道と道ならざるものの知見の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(6)〔実践の〕道の知見の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(7)知見の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(8)智慧の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(9)解脱の清浄という完全なる清浄のための精励の支分です。これらの九つの修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、九つの遍知されるべき法(性質)なのですか。九つの有情の居住所(九有情居)があります。(1)友よ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の有情の居住所です。
(2)友よ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵衆天〔の神々〕たちのように。これは、第二の有情の居住所です。
(3)友よ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の有情の居住所です。
(4)友よ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の有情の居住所です。
(5)友よ、表象なく得知なき有情たちが存在します。それは、たとえば、また、表象なき有情たる天〔の神々〕たちのように。これは、第五の有情の居住所です。
(6)友よ、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の有情の居住所です。
(7)友よ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の有情の居住所です。
(8)友よ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第八の有情の居住所です。
(9)友よ、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第九の有情の居住所です。これらの九つの遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、九つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。九つの渇愛の根元の法(性質)があります。渇愛を縁として、(1)遍き探し求めがあります。遍き探し求めを縁として、(2)利得があります。利得を縁として、(3)〔断定的〕判断があります。〔断定的〕判断を縁として、(4)欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があります。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を縁として、(5)固執があります。固執を縁として、(6)執持があります。執持を縁として、(7)物惜があります。物惜を縁として、(8)守護があります。守護を事因として、(9)棒を与えることがあり、刃を与えることがあり、諸々の紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことがあり、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これらの九つの捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、九つの退失を部分とする法(性質)なのですか。九つの憤懣の基盤があります。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(5)……略……義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(6)……略……義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった』と、憤懣を結びます。(8)……略……義(利益)を行なう』と、憤懣を結びます。(9)……略……義(利益)を行なうであろう』と、憤懣を結びます。これらの九つの退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、九つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。九つの憤懣の調伏(取り除き)があります。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった。それ(他者の阻止)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう(他者の行為はどうにもならない)』と、憤懣を取り除きます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった。……略……(5)義(利益)ならざることを行なう。……略……(6)義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった。……略……(8)義(利益)を行なう。……略……(9)義(利益)を行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。これらの九つの殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、九つの理解し難き法(性質)なのですか。九つの種々なることがあります。(1)界域の種々なることを縁として、(2)接触の種々なることが生起します。接触の種々なることを縁として、(3)感受の種々なることが生起します。感受の種々なることを縁として、(4)表象の種々なることが生起します。表象の種々なることを縁として、(5)思惟の種々なることが生起します。思惟の種々なることを縁として、(6)欲〔の思い〕の種々なることが生起します。欲〔の思い〕の種々なることを縁として、(7)苦悶の種々なることが生起します。苦悶の種々なることを縁として、(8)遍き探し求めの種々なることが生起します。遍き探し求めの種々なることを縁として、(9)利得の種々なることが生起します。これらの九つの理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、九つの生起させられるべき法(性質)なのですか。九つの表象があります。(1)不浄の表象であり、(2)死の表象であり、(3)食についての嫌悪の表象であり、(4)一切の世についての歓楽なき表象であり、(5)無常の表象であり、(6)無常についての苦痛の表象であり、(7)苦痛についての無我の表象であり、(8)捨棄の表象であり、(9)離貪の表象です。これらの九つの生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、九つの証知されるべき法(性質)なのですか。九つの順次の住があります。(1)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。(2)〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。(3)さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。(4)かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。(5)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから……略……虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(6)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(7)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。(8)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。(9)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。これらの九つの証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、九つの実証されるべき法(性質)なのですか。九つの順次の止滅があります。(1)第一の瞑想に入定した者には、欲望の表象が止滅したものと成ります。(2)第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が止滅したものと成ります。(3)第三の瞑想に入定した者には、喜悦が止滅したものと成ります。(4)第四の瞑想に入定した者には、出息と入息が止滅したものと成ります。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象が止滅したものと成ります。(6)識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(7)無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(9)表象と感覚の止滅に入定した者には、そして、表象が、さらに、感受が、止滅したものと成ります。これらの九つの実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの九十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。
十の法
360. 友よ、(1)十の多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)十の実証されるべき法(性質)があります。
(1)どのようなものが、十の多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。十の庇護者を作り為す法(性質)があります。(1)友よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。友よ、すなわち、また、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……諸々の学びの境処において学ぶなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、多聞の者として……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。友よ、すなわち、また、比丘が、多聞の者として……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(3)友よ、さらに、また、他に、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……善き友人ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(4)友よ、さらに、また、他に、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律理(対律・勝律)において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、為されて長きことをもまた、語られて長きことをもまた、思念し随念する者として。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。
(10)友よ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。これらの十の多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。
(2)どのようなものが、十の修行されるべき法(性質)なのですか。十の遍満の〔認識の〕場所があります。(1)或る者は、地の遍満(地遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(2)或る者は、水の遍満(水遍)を……略……表象します。(3)或る者は、火の遍満(火遍)を……表象します。(4)或る者は、風の遍満(風遍)を……表象します。(5)或る者は、青の遍満(青遍)を……表象します。(6)或る者は、黄の遍満(黄遍)を……表象します。(7)或る者は、赤の遍満(赤遍)を……表象します。(8)或る者は、白の遍満(白遍)を……表象します。(9)或る者は、虚空の遍満(空遍)を……表象します。(10)或る者は、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。これらの十の修行されるべき法(性質)があります。
(3)どのようなものが、十の遍知されるべき法(性質)なのですか。十の〔認識の〕場所があります。(1)眼の〔認識の〕場所であり、(2)形態の〔認識の〕場所であり、(3)耳の〔認識の〕場所であり、(4)音声の〔認識の〕場所であり、(5)鼻の〔認識の〕場所であり、(6)臭気の〔認識の〕場所であり、(7)舌の〔認識の〕場所であり、(8)味感の〔認識の〕場所であり、(9)身の〔認識の〕場所であり、(10)感触の〔認識の〕場所です。これらの十の遍知されるべき法(性質)があります。
(4)どのようなものが、十の捨棄されるべき法(性質)なのですか。十の誤った〔道〕たることがあります。(1)誤った見解であり、(2)誤った思惟であり、(3)誤った言葉であり、(4)誤った行業であり、(5)誤った生き方であり、(6)誤った努力であり、(7)誤った気づきであり、(8)誤った禅定であり、(9)誤った知恵であり、(10)誤った解脱です。これらの十の捨棄されるべき法(性質)があります。
(5)どのようなものが、十の退失を部分とする法(性質)なのですか。十の善ならざる行為の道があります。(1)命あるものを殺すことであり、(2)与えられていないものを取ることであり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないであり、(4)虚偽を説くことであり、(5)中傷の言葉であり、(6)粗暴な言葉であり、(7)雑駁な虚論であり、(8)強欲〔の思い〕であり、(9)憎悪〔の思い〕であり、(10)誤った見解です。これらの十の退失を部分とする法(性質)があります。
(6)どのようなものが、十の殊勝を部分とする法(性質)なのですか。十の善なる行為の道があります。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、(2)与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕であり、(4)虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、(5)中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、(6)粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、(7)雑駁な虚論から離れている〔生き方〕であり、(8)強欲〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(9)憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(10)正しい見解です。これらの十の殊勝を部分とする法(性質)があります。
(7)どのようなものが、十の理解し難き法(性質)なのですか。十の聖者の居住があります。友よ、ここに、比丘が、(1)五つの支分を捨棄した者として、(2)六つの支分を具備した者として、(3)一つの守護ある者として、(4)四つの依託ある者として、(5)各自の真理を除去した者として、(6)探し求めることを正しく完全に放棄した者として、(7)混濁なき思惟ある者として、(8)身体の形成〔作用〕を静息した者として、(9)善く解脱した心の者として、(10)善く解脱した智慧の者として、〔世に〕有ります。
(1)友よ、では、どのように、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたものと成り、憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成り、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたものと成り、〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されたものと成り、疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成ります。友よ、このように、まさに、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有ります。
(2)友よ、では、どのように、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。友よ、このように、まさに、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。
(3)友よ、では、どのように、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、気づきの守護ある思欲を具備した者として〔世に〕有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有ります。
(4)友よ、では、どのように、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。友よ、このように、まさに、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有ります。
(5)友よ、では、どのように、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘にとって、すなわち、それらの、多々なる沙門や婆羅門たちにとっての多々なる各自の真理が、それらの全てが、除かれたものと成り、除去されたものと〔成り〕、捨てられたものと〔成り〕、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。友よ、このように、まさに、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有ります。
(6)友よ、では、どのように、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕の探し求めが捨棄されたものと成り、〔迷いの〕生存の探し求めが捨棄されたものと成り、〔利得のための〕梵行の探し求めが安息しています。友よ、このように、まさに、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有ります。
(7)友よ、では、どのように、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘にとって、欲望の思惟が捨棄されたものと成り、憎悪の思惟が捨棄されたものと成り、悩害の思惟が捨棄されたものと成ります。友よ、このように、まさに、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有ります。
(8)友よ、では、どのように、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このように、まさに、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有ります。
(9)友よ、では、どのように、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘に、貪欲から解脱した心が有り、憤怒から解脱した心が有り、迷妄から解脱した心が有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有ります。
(10)友よ、では、どのように、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしの、貪欲は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、憤怒は〔すでに〕捨棄され……略……未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、迷妄は〔すでに〕捨棄され……略……未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知します。友よ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有ります。これらの十の理解し難き法(性質)があります。
(8)どのようなものが、十の生起させられるべき法(性質)なのですか。十の表象があります。(1)不浄の表象であり、(2)死の表象であり、(3)食についての嫌悪の表象であり、(4)一切の世についての歓楽なき表象であり、(5)無常の表象であり、(6)無常についての苦痛の表象であり、(7)苦痛についての無我の表象であり、(8)捨棄の表象であり、(9)離貪の表象であり、(10)止滅の表象です。これらの十の生起させられるべき法(性質)があります。
(9)どのようなものが、十の証知されるべき法(性質)なのですか。十の衰尽の基盤があります。(1)正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。(2)正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は……略……。(3)正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は……。(4)正しい行業ある者にとって、誤った行業は……。(5)正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は……。(6)正しい努力ある者にとって、誤った努力は……。(7)正しい気づきある者にとって、誤った気づきは……。(8)正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は……。(9)正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。(10)正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。これらの十の証知されるべき法(性質)があります。
(10)どのようなものが、十の実証されるべき法(性質)なのですか。十の〔もはや〕学ぶことなき法(性質)があります。(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解であり、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟であり、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉であり、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業であり、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方であり、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力であり、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきであり、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定であり、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵であり、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱です。これらの十の実証されるべき法(性質)があります。
かくのごとく、これらの百の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました」と。尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。
十の加上の経は終了となり、〔以上が〕第十一となる。
パーティカの部は〔以上で〕終了となる。
その〔部〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、パーティカ、ウドゥンバラ、転輪〔王〕、始源なるもの、等しく浄信するものと浄信あるもの、偉大なる人士の特相──
シンガーラとアーターナーターの〔護経〕、そして、合誦、十の加上があり、十一の経によって、『パーティカの部』と説かれる」〔と〕。
パーティカの部の聖典は〔以上で〕終了となる。
三つの部によって装飾され、全体となる。
ディーガ・ニカーヤは〔以上で〕完結となる。