中部経典(マッジマ・ニカーヤ)

 

 後分の五十の聖典(後分五十経篇・下)

 

【目次】

 

3. 空性の章(続き)

 

6(126). ブーミジャの経(223.~)

7(127). アヌルッダの経(229.~)

8(128). 付随する〔心の〕汚れの経(236.~)

9(129). 愚者と賢者の経(246.~)

10(130). 天の使者の経(261.~)

 

4. 区分の章

 

1(131). 賢く幸いなる一夜ある者の経(272.~)

2(132). アーナンダと賢く幸いなる一夜ある者の経(276.~)

3(133). マハー・カッチャーナと賢く幸いなる一夜ある者の経(279.~)

4(134). ローマサカンギヤと賢く幸いなる一夜ある者の経(286.~)

5(135). 小なる行為の区分の経(289.~)

6(136). 大いなる行為の区分の経(298.~)

7(137). 六つの〔認識の〕場所の区分の経(304.~)

8(138). 誦説の区分の経(313.~)

9(139). 相克なきものの区分の経(323.~)

10(140). 界域の区分の経(342.~)

11(141). 真理の区分の経(371.~)

12(142). 施物の区分の経(376.~)

 

5. 六つの〔認識の〕場所の章

 

1(143). アナータピンディカ〔長者〕への教諭の経(383.~)

2(144). チャンナへの教諭の経(389.~)

3(145). プンナへの教諭の経(395.~)

4(146). ナンダカによる教諭の経(398.~)

5(147). 小なるラーフラへの教諭の経(416.~)

6(148). 六つの六なるものの経(420.~)

7(149). 大いなる六つの〔認識の〕場所あるものの経(428.~)

8(150). ナガラヴィンダ〔村〕の者たちの経(434.~)

9(151). 〔行乞の〕施食の完全なる清浄の経(438.~)

10(152). 〔感官の〕機能の修行の経(453.~)

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 後分の五十の聖典(後分五十経篇・下)

 

3. 空性の章(続き)

 

6(126). ブーミジャの経

 

223. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者ブーミジャは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャヤセーナ王子の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ジャヤセーナ王子が、尊者ブーミジャのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ブーミジャを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャヤセーナ王子は、尊者ブーミジャに、こう言いました。「貴君ブーミジャよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちである』と。ここに、貴君ブーミジャの教師は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか」と。「王子よ、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けたことはありません。しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、世尊が、このように説き明かすことです。『もし、また、願望を為しても、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずしても、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずしても、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちである。もし、また、願望を為しても、根源のままに梵行を歩むなら、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を為さずしても、根源のままに梵行を歩むなら、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずしても、根源のままに梵行を歩むなら、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、根源のままに梵行を歩むなら、果への到達の可能ある者たちである』と。王子よ、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けたことはありません。しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、世尊が、このように説き明かすことです」と。「それで、もし、まさに、貴君ブーミジャの教師が、このように説く者であり、このように告げ知らせる者であるなら、たしかに、貴君ブーミジャの教師は、思うに、多々なる沙門や婆羅門たちの、まさしく、全ての者たちの頭を打って〔世に〕止住します」と。そこで、まさに、ジャヤセーナ王子は、尊者ブーミジャを、まさしく、自らの〔献上用の〕盛り物によって給仕しました。

 

224. そこで、まさに、尊者ブーミジャは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ブーミジャは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャヤセーナ王子の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。尊き方よ、そこで、まさに、ジャヤセーナ王子が、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、ジャヤセーナ王子は、わたしに、こう言いました。『貴君ブーミジャよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。「もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちである」と。ここに、貴君ブーミジャの教師は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、ジャヤセーナ王子に、こう言いました。『王子よ、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けたことはありません。しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、世尊が、このように説き明かすことです。「もし、また、願望を為しても、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずしても、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずしても、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、根源のままならずに梵行を歩むなら、果への到達の可能なき者たちである。もし、また、願望を為しても、根源のままに梵行を歩むなら、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を為さずしても……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、根源のままに梵行を歩むなら、果への到達の可能ある者たちである」と。王子よ、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けたことはありません。しかしながら、まさに、この状況は見出されます。すなわち、世尊が、このように説き明かすことです』と。『それで、もし、貴君ブーミジャの教師が、このように説く者であり、このように告げ知らせる者であるなら、たしかに、貴君ブーミジャの教師は、思うに、多々なる沙門や婆羅門たちの、まさしく、全ての者たちの頭を打って〔世に〕止住します』と。尊き方よ、どうでしょう、このように尋ねられ、わたしが、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者と成りますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「ブーミジャよ、たしかに、あなたが、このように尋ねられ、このように説き明かしているなら、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として〔世に〕有ります。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。ブーミジャよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、誤った見解ある者たちであり、誤った思惟ある者たちであり、誤った言葉ある者たちであり、誤った行業ある者たちであり、誤った生き方ある者たちであり、誤った努力ある者たちであり、誤った気づきある者たちであり、誤った禅定ある者であるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源ならざるからです。

 

225. ブーミジャよ、それは、たとえば、また、油を義(目的)として油を探し求める人が、油を遍く探し求めるために歩みながら、砂を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するようなものです。もし、また、願望を為して、砂を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するも、油への到達の可能なき者であり、もし、また、願望を為さずして、砂を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するも、油への到達の可能なき者であり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして、砂を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するも、油への到達の可能なき者であり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、砂を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するも、油への到達の可能なき者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、油への到達の根源ならざるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、誤った見解ある者たちであり、誤った思惟ある者たちであり、誤った言葉ある者たちであり、誤った行業ある者たちであり、誤った生き方ある者たちであり、誤った努力ある者たちであり、誤った気づきある者たちであり、誤った禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源ならざるからです。

 

 ブーミジャよ、それは、たとえば、また、乳を義(目的)として乳を探し求める人が、乳を遍く探し求めるために歩みながら、幼い子牛をもつ雌牛の角を引っ張るようなものです。もし、また、願望を為して、幼い子牛をもつ雌牛の角を引っ張るも、乳への到達の可能なき者であり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、幼い子牛をもつ雌牛の角を引っ張るも、乳への到達の可能なき者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、乳への到達の根源ならざるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、誤った見解ある者たちであり……略……誤った禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源ならざるからです。

 

226. ブーミジャよ、それは、たとえば、また、生酥を義(目的)として生酥を探し求める人が、生酥を遍く探し求めるために歩みながら、水を瓶に注いで、攪拌棒でかき回すようなものです。もし、また、願望を為して、水を瓶に注いで、攪拌棒でかき回すも、生酥への到達の可能なき者であり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、水を瓶に注いで、攪拌棒でかき回すも、生酥への到達の可能なき者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、生酥への到達の根源ならざるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、誤った見解ある者たちであり……略……誤った禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源ならざるからです。

 

 ブーミジャよ、それは、たとえば、また、火を義(目的)として火を探し求める人が、火を遍く探し求めるために歩みながら、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦するようなものです。もし、また、願望を為して、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦するも、火への到達の可能なき者であり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦するも、火への到達の可能なき者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、火への到達の根源ならざるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、誤った見解ある者たちであり……略……誤った禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちであり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能なき者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源ならざるからです。ブーミジャよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、正しい見解ある者たちであり、正しい思惟ある者たちであり、正しい言葉ある者たちであり、正しい行業ある者たちであり、正しい生き方ある者たちであり、正しい努力ある者たちであり、正しい気づきある者たちであり、正しい禅定ある者であるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源であるからです。

 

227. ブーミジャよ、それは、たとえば、また、油を義(目的)として油を探し求める人が、油を遍く探し求めるために歩みながら、胡麻粉を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するようなものです。もし、また、願望を為して、砂を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するも、油への到達の可能ある者であり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、胡麻粉を桶に降り注いで、水を振り掛け振り掛け圧縮するも、油への到達の可能ある者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、油への到達の根源であるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、正しい見解ある者たちであり……略……正しい禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源であるからです。

 

 ブーミジャよ、それは、たとえば、また、乳を義(目的)として乳を探し求める人が、乳を遍く探し求めるために歩みながら、幼い子牛をもつ雌牛の乳房を引っ張るようなものです。もし、また、願望を為して、幼い子牛をもつ雌牛の乳房を引っ張るも、乳への到達の可能ある者であり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、幼い子牛をもつ雌牛の乳房を引っ張るも、乳への到達の可能ある者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、乳への到達の根源であるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、正しい見解ある者たちであり……略……正しい禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を為さずして……略……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……略……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源であるからです。

 

228. ブーミジャよ、それは、たとえば、また、生酥を義(目的)として生酥を探し求める人が、生酥を遍く探し求めるために歩みながら、乳酪を瓶に注いで、攪拌棒でかき回すようなものです。もし、また、願望を為して、乳酪を瓶に注いで、攪拌棒でかき回すも、生酥への到達の可能ある者であり、もし、また、願望を為さずして……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、乳酪を瓶に注いで、攪拌棒でかき回すも、生酥への到達の可能ある者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、生酥への到達の根源であるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、正しい見解ある者たちであり……略……正しい禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を為さずして……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源であるからです。

 

 ブーミジャよ、それは、たとえば、また、火を義(目的)として火を探し求める人が、火を遍く探し求めるために歩みながら、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦するようなものです。もし、また、願望を為して、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦するも、火への到達の可能ある者であり、もし、また、願望を為さずして……もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして……もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦するも、火への到達の可能ある者です。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、火への到達の根源であるからです。ブーミジャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、正しい見解ある者たちであり……略……正しい禅定ある者たちであるなら、彼らは、もし、また、願望を為して、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、願望を〔為して〕、かつまた、願望を為さずして、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちであり、もし、また、まさしく、願望を〔為して〕でもなく、願望を為さずしてでもなく、梵行を歩むも、果への到達の可能ある者たちです。それは、何を因とするのですか。ブーミジャよ、なぜなら、これは、果への到達の根源であるからです。

 

 ブーミジャよ、それで、もし、まさに、あなたに、ジャヤセーナ王子のために、これらの四つの喩えが明白となるなら、ジャヤセーナ王子は、稀有ならざることとして、あなたに浄信するでしょう。そして、浄信した者として、あなたに、浄信の行相を作り為すでしょう」と。「尊き方よ、また、どうして、わたしに、ジャヤセーナ王子のために、稀有ならざるものとして、これらの四つの詩偈が明白となるというのでしょう──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの四つの詩偈〕が。それは、たとえば、また、世尊に〔明白となるように〕」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ブーミジャは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 ブーミジャの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(127). アヌルッダの経

 

229. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁が、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、おまえは、尊者アヌルッダのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者アヌルッダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、パンチャカンガ棟梁は、尊者アヌルッダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きなさい。「尊き方よ、尊者アヌルッダは、自己を第四の者として、明日、パンチャカンガ棟梁の食事〔の布施〕をお受けください。尊き方よ、それで、そして、まさに、尊者アヌルッダは、少々早めに、お越しください。尊き方よ、パンチャカンガ棟梁は、多くの義務があり、多くの用事があるのです──王の用事として」』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、パンチャカンガ棟梁に答えて、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊き方よ、パンチャカンガ棟梁は、尊者アヌルッダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、尊者アヌルッダは、自己を第四の者として、明日、パンチャカンガ棟梁の食事〔の布施〕をお受けください。尊き方よ、それで、そして、まさに、尊者アヌルッダは、少々早めに、お越しください。尊き方よ、パンチャカンガ棟梁は、多くの義務があり、多くの用事があるのです──王の用事として』」と。まさに、尊者アヌルッダは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

230. そこで、まさに、尊者アヌルッダは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、パンチャカンガ棟梁の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者アヌルッダを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者アヌルッダが食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁は、尊者アヌルッダに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、長老の比丘たちが、近づいて行って、わたしに、このように言いました。『家長よ、無量なる〔止寂の〕心による解脱を修めなさい』と。一部の長老たちは、このように言いました。『家長よ、莫大なる〔止寂の〕心による解脱を修めなさい』と。尊き方よ、そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、さらに、すなわち、莫大なる〔止寂の〕心による解脱は──これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音(呼称)なのですか、それとも、一つの義(意味)であり、字音だけが種々なのですか」と。「家長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて、明白となれ(まずは、あなたの思うところを語りなさい)。こののち、あなたに、誤解なきものが有るでしょう」と。「尊き方よ、わたしに、まさに、このような〔思いが〕有ります。『そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、さらに、すなわち、莫大なる〔止寂の〕心による解脱は──これらの法(性質)は、一つの義(意味)であり、字音だけが種々である』」と。「家長よ、そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、さらに、すなわち、莫大なる〔止寂の〕心による解脱は──これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音です。家長よ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、これらの法(性質)が、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音であるとおりに。

 

 家長よ、では、どのようなものが、無量なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。家長よ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。家長よ、これは、無量なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。

 

231. 家長よ、では、どのようなものが、莫大なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。家長よ、ここに、比丘が、およそ、一つの木の根元としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。家長よ、これは、莫大なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。家長よ、また、ここに、比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、木の根元としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。家長よ、これもまた、莫大なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。家長よ、また、ここに、比丘が、およそ、一つの村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。家長よ、これもまた、莫大なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。家長よ、また、ここに、比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。家長よ、これもまた、莫大なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。家長よ、また、ここに、比丘が、およそ、一つの大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。家長よ、これもまた、莫大なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。家長よ、また、ここに、比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。家長よ、これもまた、莫大なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。家長よ、また、ここに、比丘が、およそ、海を極限とする地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。家長よ、これもまた、莫大なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。家長よ、この教相によって、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、これらの法(性質)が、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音であるとおりに。

 

232. 家長よ、四つのものがあります。まさに、これらの生存への再生です。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、一部の者は、『微小なる光である』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、微小なる光ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。家長よ、また、ここに、一部の者は、『無量なる光である』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、無量なる光ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。家長よ、また、ここに、一部の者は、『汚染された光である』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、汚染された光ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。家長よ、また、ここに、一部の者は、『完全なる清浄の光である』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、完全なる清浄の光ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。家長よ、まさに、これらの四つの生存への再生があります。

 

 家長よ、すなわち、それらの天神たちが一所に参集する、まさに、その時と成るなら、一所に参集した彼らの、まさに、色艶の種々なることが、まさに、覚知されるも、しかしながら、光の種々なることは〔覚知され〕ません。家長よ、それは、たとえば、また、人が、数多くの油の灯明を、一つの家屋に導き入れるなら、一つの家屋に導き入れられたそれら〔の油の灯明〕の、まさに、炎の種々なることが、まさに、覚知されるも、しかしながら、光の種々なることは〔覚知され〕ないように、家長よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの天神たちが一所に参集する、まさに、その時と成るなら、一所に参集した彼らの、まさに、色艶の種々なることが、まさに、覚知されるも、しかしながら、光の種々なることは〔覚知され〕ません。

 

 家長よ、すなわち、それらの天神たちが、そこから離散する、まさに、その時と成るなら、そこから離散しつつある彼らの、まさしく、そして、色艶の種々なることが覚知され、さらに、光の種々なることが〔覚知されます〕。家長よ、それは、たとえば、また、人が、それらの油の灯明を、その家屋から運び出すなら、そこから運び出されたそれら〔の油の灯明〕の、まさしく、そして、炎の種々なることが覚知され、さらに、光の種々なることが〔覚知されるように〕、家長よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの天神たちが、そこから離散する、まさに、その時と成るなら、そこから離散しつつある彼らの、まさしく、そして、色艶の種々なることが覚知され、さらに、光の種々なることが〔覚知されます〕。

 

 家長よ、まさに、それらの天神たちに、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしたちにとって、これは、常住である』と。あるいは、『常恒である』と。あるいは、『常久である』と。そして、また、まさしく、その場その場において、それらの天神たちが定住するなら、まさしく、その場その場において、それらの天神たちは喜び楽しみます。家長よ、それは、たとえば、また、蠅たちが、あるいは、天秤で、あるいは、籠で、運ばれているとして、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしたちにとって、これは、常住である』と。あるいは、『常恒である』と。あるいは、『常久である』と。そして、また、まさしく、その場その場において、それらの蠅たちが定住するなら、まさしく、その場その場において、それらの蠅たちは喜び楽しみます。家長よ、まさしく、このように、まさに、それらの天神たちに、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしたちにとって、これは、常住である』と。あるいは、『常恒である』と。あるいは、『常久である』と。そして、また、まさしく、その場その場において、それらの天神たちが定住するなら、まさしく、その場その場において、それらの天神たちは喜び楽しみます」と。

 

233. このように説かれたとき、尊者サビヤ・カッチャーナは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊き方よ、アヌルッダよ、善きかな。しかしながら、わたしに、ここにおいて、さらなる質問するべきことが存在します。尊き方よ、すなわち、それらの光ある天神たちは、彼らの全てが、微小なる光ある者たちなのですか、それとも、ここにおいて、一部の天神たちは、無量なる光ある者たちとして存在するのですか」と。「友よ、カッチャーナよ、その〔有する〕支分によって、まさに、ここにおいて、一部の天神たちは、微小なる光ある者たちとして存在し、また、ここにおいて、一部の天神たちは、無量なる光ある者たちとして存在します」と。「尊き方よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、一つの天の衆に再生したそれらの天神たちのなかの、ここにおいて、一部の天神たちは、微小なる光ある者たちとして存在し、また、ここにおいて、一部の天神たちは、無量なる光ある者たちとして存在するのですか」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。友よ、カッチャーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、この比丘が、およそ、一つの木の根元としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。そして、すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、木の根元としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、どちらの〔止寂の〕心の修行が、より莫大なるものですか」と。「尊き方よ、すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、木の根元としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住むなら、これは、これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、より莫大なるものです」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、木の根元としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。そして、すなわち、この比丘が、およそ、一つの村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、どちらの〔止寂の〕心の修行が、より莫大なるものですか」と。「尊き方よ、すなわち、この比丘が、およそ、一つの村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住むなら、これは、これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、より莫大なるものです」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、この比丘が、およそ、一つの村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。そして、すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、どちらの〔止寂の〕心の修行が、より莫大なるものですか」と。「尊き方よ、すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住むなら、これは、これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、より莫大なるものです」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、村落地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。そして、すなわち、この比丘が、およそ、一つの大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、どちらの〔止寂の〕心の修行が、より莫大なるものですか」と。「尊き方よ、すなわち、この比丘が、およそ、一つの大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住むなら、これは、これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、より莫大なるものです」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、この比丘が、およそ、一つの大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。そして、すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、どちらの〔止寂の〕心の修行が、より莫大なるものですか」と。「尊き方よ、すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住むなら、これは、これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、より莫大なるものです」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、この比丘が、およそ、あるいは、二つの、あるいは、三つの、大いなる王国としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。そして、すなわち、この比丘が、およそ、海を極限とする地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、どちらの〔止寂の〕心の修行が、より莫大なるものですか」と。「尊き方よ、すなわち、この比丘が、およそ、海を極限とする地としてあるかぎりを、『莫大なるものである』と、充満して、信念して、〔世に〕住むなら、これは、これらの両者の〔止寂の〕心の修行のなかの、より莫大なるものです」と。「友よ、カッチャーナよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、一つの天の衆に再生したそれらの天神たちのなかの、ここにおいて、一部の天神たちは、微小なる光ある者たちとして存在し、また、ここにおいて、一部の天神たちは、無量なる光ある者たちとして存在します」と。

 

234. 「尊き方よ、アヌルッダよ、善きかな。しかしながら、わたしに、ここにおいて、さらなる質問するべきことが存在します。尊き方よ、すなわち、光ある天神たちとしてあるかぎり、彼らの全てが、汚染された光ある者たちなのですか、それとも、ここにおいて、一部の天神たちは、完全なる清浄の光ある者たちとして存在するのですか」と。「友よ、カッチャーナよ、その〔有する〕支分によって、まさに、ここにおいて、一部の天神たちは、汚染された光ある者たちとして存在し、また、ここにおいて、一部の天神たちは、完全なる清浄の光ある者たちとして存在します」と。「尊き方よ、アヌルッダよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、一つの天の衆に再生したそれらの天神たちのなかの、ここにおいて、一部の天神たちは、汚染された光ある者たちとして存在し、また、ここにおいて、一部の天神たちは、完全なる清浄の光ある者たちとして存在するのですか」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。友よ、カッチャーナよ、それは、たとえば、また、油の灯明が燃えているとして、油もまた完全なる清浄ではなく、灯芯もまた完全なる清浄ではないなら、その〔油の灯明〕は、油もまた完全なる清浄ならざることから、灯芯もまた完全なる清浄ならざることから、暗いうえにも暗いかのように燃えます。友よ、カッチャーナよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、『汚染された光である』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼には、身体の邪悪な〔行為〕もまた善く安息されたものと成らず、〔心の〕沈滞と眠気もまた善く完破されたものと成らず、〔心の〕高揚と悔恨もまた善く調伏されたものと成りません。彼は、身体の邪悪な〔行為〕もまた善く安息されていないことから、〔心の〕沈滞と眠気もまた善く完破されていないことから、〔心の〕高揚と悔恨もまた善く調伏されていないことから、暗いうえにも暗いかのように瞑想します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、汚染された光ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。友よ、カッチャーナよ、それは、たとえば、また、油の灯明が燃えているとして、油もまた完全なる清浄であり、灯芯もまた完全なる清浄であるなら、その〔油の灯明〕は、油もまた完全なる清浄なることから、灯芯もまた完全なる清浄なることから、暗いうえにも暗いかのように燃えることはありません。友よ、カッチャーナよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、『完全なる清浄の光である』と、充満して、信念して、〔世に〕住みます。彼には、身体の邪悪な〔行為〕もまた善く安息されたものと成り、〔心の〕沈滞と眠気もまた善く完破されたものと成り、〔心の〕高揚と悔恨もまた善く調伏されたものと成ります。彼は、身体の邪悪な〔行為〕もまた善く安息されたことから、〔心の〕沈滞と眠気もまた善く完破されたことから、〔心の〕高揚と悔恨もまた善く調伏されたことから、暗いうえにも暗いかのように瞑想することはありません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、完全なる清浄の光ある天〔の神々〕たちの同類として再生します。友よ、カッチャーナよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、一つの天の衆に再生したそれらの天神たちのなかの、ここにおいて、一部の天神たちは、汚染された光ある者たちとして存在し、また、ここにおいて、一部の天神たちは、完全なる清浄の光ある者たちとして存在します」と。

 

235. このように説かれたとき、尊者サビヤ・カッチャーナは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「尊き方よ、アヌルッダよ、善きかな。尊き方よ、尊者アヌルッダは、このように言いませんでした。あるいは、『このように、わたしは聞いた』と。あるいは、『このように、有るに値する』と。尊き方よ、そこで、また、しかしながら、尊者アヌルッダは、まさしく、『このようにもまた、それらの天神たちはある』『かくのごとくもまた、それらの天神たちはある』と語ります。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『たしかに、尊者アヌルッダは、それらの天神たちと共に、まさしく、そして、共住した過去があり、かつまた、談論した過去があり、さらに、諸々の論議に関与した過去がある』」と。「友よ、カッチャーナよ、まさに、たしかに、この、攻撃的で批判的な言葉が語られました。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。友よ、カッチャーナよ、長夜にわたり、まさに、わたしは、それらの天神たちと共に、まさしく、そして、共住した過去があり、かつまた、談論した過去があり、さらに、諸々の論議に関与した過去があります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サビヤ・カッチャーナは、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、まさしく、そして、あなたは、その疑いの法(性質)を捨棄したのであり、さらに、わたしたちは、この法(教え)の教相を聞くことを得たのです」と。

 

 アヌルッダの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(128). 付随する〔心の〕汚れの経

 

236. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサンビーにおいて、比丘たちは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、コーサンビーにおいて、比丘たちは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます。尊き方よ、どうか、世尊は、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、世尊は、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「比丘たちよ、十分です。言争を〔為しては〕いけません。紛争を〔為しては〕いけません。論争を〔為しては〕いけません」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、法(教え)の主人は、お待ちください。尊き方よ、世尊は、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に専念する者として〔世に〕住みたまえ。わたしたちは、この、言争によって、紛争によって、口論によって、論争によって、〔あるがままに〕覚知されるでしょう」と。再度また、まさに、世尊は、それらの比丘たちに、こう言いました。「比丘たちよ、十分です。言争を〔為しては〕いけません。紛争を〔為しては〕いけません。論争を〔為しては〕いけません」と。再度また、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、法(教え)の主人は、お待ちください。尊き方よ、世尊は、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住に専念する者として〔世に〕住みたまえ。わたしたちは、この、言争によって、紛争によって、口論によって、論争によって、〔あるがままに〕覚知されるでしょう」と。三度また、まさに、世尊は、それらの比丘たちに、こう言いました。「比丘たちよ、十分です。言争を〔為しては〕いけません。紛争を〔為しては〕いけません。論争を〔為しては〕いけません」と。三度また、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、法(教え)の主人は、お待ちください。尊き方よ、世尊は、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住に専念する者として〔世に〕住みたまえ。わたしたちは、この、言争によって、紛争によって、口論によって、論争によって、〔あるがままに〕覚知されるでしょう」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーサンビーに〔行乞の〕食のために入りました。コーサンビーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、まさしく、立った〔状態〕で、これらの詩偈を語りました。

 

237. 〔そこで、詩偈に言う〕「沢山の声あるのが、一般の人である。誰もが、〔自らについて〕『愚者ならず』〔と〕思い考えた。僧団が分裂しつつあるとき、より一層、他に思い考えなかった(自らの非を認めなかった)。

 

 錯乱した者たちが、〔たとえ〕賢者の語りあるも、言葉を境涯とする話し手たちであるなら、〔彼らが〕口を開くことを求める、そのかぎりは、それによって〔世の人々が〕導かれたとして、知者は、それを〔認め〕ない。

 

 『〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った』〔と〕、そして、彼らが、彼を怨むなら、彼らの怨みは静まることがない。

 

 『〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った』〔と〕、そして、彼らが、彼を怨まないなら、彼らの怨みは止み静まる。

 

 まさに、〔怨みにたいし〕怨みをもって〔為すなら〕、諸々の怨みは、この〔世において〕、いついかなる時も、静まることがない。しかしながら、〔怨みにたいし〕怨みなきをもって〔為すなら〕、〔諸々の怨みは〕静まる──これは、永遠の法(真理)である。

 

 しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。そして、彼らが、そこにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執は静まる。

 

 骨を断ち命を奪う者たちがいる。牛や馬や財を奪う者たちがいる。国土を奪い取っている、彼らにもまた、交友は有る。何ゆえに、あなたたちには存在しないのか。

 

 それで、もし、賢明なる道友を得るなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た者となり、気づきある者として、彼とともに、歩むがよい。

 

 もし、賢明なる道友を得ないなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕、征圧した国土を捨棄して〔出家する〕王のように、マータンガの林のなかの象のように、独り、歩むがよい。

 

 独りある者の歩みのほうが、より勝っている。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。そして、諸々の悪しきことを為さず、〔俗事に〕思い入れ少なく、マータンガの林のなかの象のように、独り、歩むがよい」と。

 

238. そこで、まさに、世尊は、まさしく、立った〔状態〕で、これらの詩偈を語って、バーラカローナカーラ村のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、尊者バグは、バーラカローナカーラ村に住んでいます。まさに、尊者バグは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、坐を設けました──さらに、〔両の〕足を洗い清めるための水を。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、〔両の〕足を洗いました。まさに、尊者バグもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者バグに、世尊は、こう言いました。「比丘よ、どうでしょう、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、〔行乞の〕食(托鉢)で疲弊していませんか」と。「世尊よ、息災です。世尊よ、順調です。尊き方よ、そして、わたしは、〔行乞の〕食で疲弊していません」と。そこで、まさに、世尊は、尊者バグに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、東の竹園のあるところに、そこへと近づいて行きました。

 

 また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、東の竹園に住んでいます。まさに、園の番人は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「大いなる沙門よ、この園に入ってはいけません。ここにおいて、三者の良家の子息たちが存在し、自己の欲する形態となり、住んでいます。彼らに、平穏ならざることを為してはいけません」と。まさに、尊者アヌルッダは、園の番人が、世尊を相手に話し合っているのを耳にしました。耳にして、園の番人に、こう言いました。「友よ、園の番人よ、世尊を妨げてはいけません。わたしたちの教師である世尊が、到着したのです」と。

 

239. そこで、まさに、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤのいるところに、かつまた、尊者キミラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、かつまた、尊者ナンディヤに、かつまた、尊者キミラに、こう言いました。「尊者たちは、出で来たれ。尊者たちは、出で来たれ。わたしたちの教師である世尊が、到着したのです」と。そこで、まさに、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、世尊を出迎えて、世尊のために、一者は、鉢と衣料を収め取り、一者は、坐を設け、一者は、足用の水を調達しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、〔両の〕足を洗いました。まさに、それらの尊者たちもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダに、世尊は、こう言いました。「アヌルッダよ、どうでしょう、あなたたちは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、〔行乞の〕食で疲弊していませんか」と。「世尊よ、息災です。世尊よ、順調です。尊き方よ、そして、わたしたちは、〔行乞の〕食で疲弊していません」と。「アヌルッダよ、また、どうでしょう、あなたたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいます」と。「アヌルッダよ、また、すなわち、どのように、あなたたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このような形態の梵行を共にする者たちと共に〔世に〕住む』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、これらの尊者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為(身業)が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為(口業)が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為(意業)が現起されています。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持するのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持します。尊き方よ、まさに、種々なるものとして、まさに、わたしたちの身体はあるも、また、しかしながら、思うに、心は一つなのです」と。

 

 まさに、尊者ナンディヤもまた……略……。まさに、尊者キミラもまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしにもまた、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このような形態の梵行を共にする者たちと共に〔世に〕住む』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、これらの尊者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されています。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持するのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持します。尊き方よ、まさに、種々なるものとして、まさに、わたしたちの身体はあるも、また、しかしながら、思うに、心は一つなのです」と。「尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいます」と。

 

240. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、どうでしょう、あなたたちは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます」と。「アヌルッダよ、また、すなわち、どのように、あなたたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちのなかで、その者が、最初に、〔行乞の〕食のための村から戻るなら、彼は、諸々の坐を設け、飲用水と洗浄水を調達し、残食鉢を調達します。その者が、最後に、〔行乞の〕食のための村から戻るとして、それで、もし、食事の残りが有り、それで、もし、望むなら、〔それを〕食べ、もし、望まないなら、あるいは、緑が少ないところに捨て、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めます。彼は、諸々の坐を片付け、飲用水と洗浄水を片付け、残食鉢を洗浄して片付け、食堂を掃除します。その者が、あるいは、飲用水の瓶が、あるいは、洗浄水の瓶が、あるいは、便所の水瓶が、空っぽで、空であるのを見るなら、彼は、〔水を〕調達します。それで、もし、彼に、支障が有るなら、手を動かすことで、第二の者に告げて、手の合図によって、〔わたしたちは、水を〕調達します。尊き方よ、まさしく、しかし、わたしたちは、それを縁として、言葉を発することはありません。尊き方よ、また、まさに、わたしたちは、五日ごとに、全夜のあいだ、法(教え)の議論のために着坐します。尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます」と。

 

241. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、このように、あなたたちが、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住みながら、まさしく、そして、光を表象し、さらに、諸々の形態の見を〔表象します〕。また、まさに、わたしたちの、その光は、まさしく、長からずして、消没します──さらに、諸々の形態の見も。そして、〔わたしたちは〕その形相を理解しません(実得できずにいる)」と。

 

 「アヌルッダよ、また、まさに、あなたたちによって、その形相が理解されるべきです。アヌルッダよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしもまた、まさしく、そして、光を表象し、さらに、諸々の形態の見を〔表象します〕。また、まさに、わたしの、その光は、まさしく、長からずして、消没します──さらに、諸々の形態の見も。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、わたしの光は消没するのか──さらに、諸々の形態の見も』と。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、疑惑〔の思い〕が生起した。また、そして、疑惑〔の思い〕を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も。それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起しないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、まさしく、そして、光を表象し、さらに、諸々の形態の見を〔表象します〕。また、まさに、わたしの、その光は、まさしく、長からずして、消没します──さらに、諸々の形態の見も。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、わたしの光は消没するのか──さらに、諸々の形態の見も』と。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、意を為さないことが生起した。また、そして、意を為さないことを事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も。それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、〔心の〕沈滞と眠気が生起した。また、そして、〔心の〕沈滞と眠気を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も。それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、驚愕が生起した。また、そして、驚愕を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も』〔と〕。アヌルッダよ、それは、たとえば、また、旅の道を行く人が、彼の、両側において、鶉(うずら)たちが飛び上がるなら、彼に、それを因縁として、驚愕が生起するように、アヌルッダよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、驚愕が生起しました。また、そして、驚愕を事因として、わたしの禅定は死滅しました。禅定が死滅したとき、光は消没します──さらに、諸々の形態の見も。『それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、浮かれ気分が生起した。また、そして、浮かれ気分を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も』〔と〕。アヌルッダよ、それは、たとえば、また、人が、一つの妙なる財宝を探し求めながら、まさしく、一度に、五つの妙なる財宝に到達するなら、彼に、それを因縁として、浮かれ気分が生起するように、アヌルッダよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、浮かれ気分が生起しました。また、そして、浮かれ気分を事因として、わたしの禅定は死滅しました。禅定が死滅したとき、光は消没します──さらに、諸々の形態の見も。『それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起せ〕ず、浮かれ気分が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、邪気が生起した。また、そして、邪気を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も。それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起せ〕ず、浮かれ気分が〔生起せ〕ず、邪気が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、励み過ぎの精進が生起した。また、そして、励み過ぎの精進を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も』〔と〕。アヌルッダよ、それは、たとえば、また、人が、両手で鶉を荒々しく掴むなら、その〔鶉〕が、まさしく、そこにおいて、圧死するように、アヌルッダよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、励み過ぎの精進が生起しました。また、そして、励み過ぎの精進を事因として、わたしの禅定は死滅しました。禅定が死滅したとき、光は消没します──さらに、諸々の形態の見も。『それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起せ〕ず、浮かれ気分が〔生起せ〕ず、邪気が〔生起せ〕ず、励み過ぎの精進が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、緩み過ぎの精進が生起した。また、そして、緩み過ぎの精進を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も』〔と〕。アヌルッダよ、それは、たとえば、また、人が、鶉を緩慢に掴むなら、その〔鶉〕が、彼の手から飛び上がるように、アヌルッダよ、まさしく、このように、まさに、わたしに、緩み過ぎの精進が生起しました。また、そして、緩み過ぎの精進を事因として、わたしの禅定は死滅しました。禅定が死滅したとき、光は消没します──さらに、諸々の形態の見も。『それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起せ〕ず、浮かれ気分が〔生起せ〕ず、邪気が〔生起せ〕ず、励み過ぎの精進が〔生起せ〕ず、緩み過ぎの精進が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、渇望が生起した。また、そして、渇望を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も。それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起せ〕ず、浮かれ気分が〔生起せ〕ず、邪気が〔生起せ〕ず、励み過ぎの精進が〔生起せ〕ず、緩み過ぎの精進が〔生起せ〕ず、渇望が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは……略……。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、種々なる表象が生起した。また、そして、種々なる表象を事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も。それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起せ〕ず、浮かれ気分が〔生起せ〕ず、邪気が〔生起せ〕ず、励み過ぎの精進が〔生起せ〕ず、緩み過ぎの精進が〔生起せ〕ず、渇望が〔生起せ〕ず、種々なる表象が〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、まさしく、そして、光を表象し、さらに、諸々の形態の見を〔表象します〕。また、まさに、わたしの、その光は、まさしく、長からずして、消没します──さらに、諸々の形態の見も。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、わたしの光は消没するのか──さらに、諸々の形態の見も』と。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしに、諸々の形態を凝視し過ぎることが生起した。また、そして、諸々の形態を凝視し過ぎることを事因として、わたしの禅定は死滅した。禅定が死滅したとき、光は消没する──さらに、諸々の形態の見も。それなら、わたしは、すなわち、わたしに、ふたたび、疑惑〔の思い〕が生起せず、意を為さないことが〔生起せ〕ず、〔心の〕沈滞と眠気が〔生起せ〕ず、驚愕が〔生起せ〕ず、浮かれ気分が〔生起せ〕ず、邪気が〔生起せ〕ず、励み過ぎの精進が〔生起せ〕ず、緩み過ぎの精進が〔生起せ〕ず、渇望が〔生起せ〕ず、種々なる表象が〔生起せ〕ず、諸々の形態を凝視し過ぎることが〔生起し〕ないように、そのように為すのだ』と。

 

242. アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは、『疑惑〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)である』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、疑惑〔の思い〕を捨棄し、『意を為さないことは、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、意を為さないことを捨棄し、『〔心の〕沈滞と眠気は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、〔心の〕沈滞と眠気を捨棄し、『驚愕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、驚愕を捨棄し、『邪気は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、邪気を捨棄し、『励み過ぎの精進は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、励み過ぎの精進を捨棄し、『緩み過ぎの精進は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、緩み過ぎの精進を捨棄し、『渇望は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、渇望を捨棄し、『種々なる表象は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、種々なる表象を捨棄し、『諸々の形態を凝視し過ぎることは、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、諸々の形態を凝視し過ぎることを捨棄しました。

 

243. アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、まさに、光を、まさに、表象するも、しかしながら、諸々の形態を見ず、まさに、諸々の形態を、まさに、見るも、しかしながら、光を表象しません──夜の全部であろうが、昼の全部であろうが、夜と昼の全部であろうが。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、わたしは、まさに、光を、まさに、表象するも、しかしながら、諸々の形態を見ないのか、まさに、諸々の形態を、まさに、見るも、しかしながら、光を表象しないのか──夜の全部であろうが、昼の全部であろうが、夜と昼の全部であろうが』と。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、その時点において、まさに、わたしが、形態の形相に意を為さずして、光の形相に意を為すなら、その時点において、まさに、光を、まさに、表象するも、しかしながら、諸々の形態を見ず、いっぽう、その時点において、わたしが、光の形相に意を為さずして、形態の形相に意を為すなら、その時点において、まさに、諸々の形態を、まさに、見るも、しかしながら、光を表象しない──夜の全部であろうが、昼の全部であろうが、夜と昼の全部であろうが』と。

 

 アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みながら、まさしく、そして、微小なる光を表象し、さらに、諸々の微小なる形態を見、まさしく、そして、無量なる光を表象し、さらに、諸々の無量なる形態を見ます──夜の全部であろうが、昼の全部であろうが、夜と昼の全部であろうが。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、わたしは、まさしく、そして、微小なる光を表象し、さらに、諸々の微小なる形態を見るのか、まさしく、そして、無量なる光を表象し、さらに、諸々の無量なる形態を見るのか──夜の全部であろうが、昼の全部であろうが、夜と昼の全部であろうが』と。アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『その時点において、まさに、わたしに、微小なる禅定が有るなら、その時点において、わたしに、微小なる眼が有り、それで、わたしは、微小なる眼によって、まさしく、そして、微小なる光を表象し、さらに、諸々の微小なる形態を見、いっぽう、その時点において、まさに、わたしに、無量なる禅定が有るなら、その時点において、わたしに、無量なる眼が有り、それで、わたしは、無量なる眼によって、まさしく、そして、無量なる光を表象し、さらに、諸々の無量なる形態を見る──夜の全部であろうが、昼の全部であろうが、夜と昼の全部であろうが』と。

 

244. アヌルッダよ、すなわち、まさに、わたしに、『疑惑〔の思い〕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成ったことから、『意を為さないことは、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、意を為さないことが捨棄されたものと成ったことから、『〔心の〕沈滞と眠気は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたものと成ったことから、『驚愕は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、驚愕が捨棄されたものと成ったことから、『邪気は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、邪気が捨棄されたものと成ったことから、『励み過ぎの精進は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、励み過ぎの精進が捨棄されたものと成ったことから、『緩み過ぎの精進は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、緩み過ぎの精進が捨棄されたものと成ったことから、『渇望は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、渇望が捨棄されたものと成ったことから、『種々なる表象は、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、種々なる表象が捨棄されたものと成ったことから、『諸々の形態を凝視し過ぎることは、心に付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心に付随する〔心の〕汚れである、諸々の形態を凝視し過ぎることが捨棄されたものと成ったことから──

 

245. アヌルッダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『すなわち、まさに、わたしの心に付随する〔心の〕汚れは、それらは、わたしによって捨棄された。さあ、今や、わたしは、三種類〔の禅定〕(有尋有伺定・無尋有伺定・無尋無伺定)によって、禅定を修めるのだ』と。アヌルッダよ、それで、まさに、わたしは、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する禅定(有尋有伺定)をもまた修め、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみある禅定(無尋有伺定)をもまた修め、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なき禅定(無尋無伺定)をもまた修め、喜悦を有する禅定をもまた修め、喜悦なくある禅定をもまた修め、快楽を共具した禅定をもまた修め、放捨を共具した禅定をもまた修めました。アヌルッダよ、すなわち、まさに、わたしに、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する禅定が修められたものと成ったことから、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみある禅定が修められたものと成ったことから、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なき禅定が修められたものと成ったことから、喜悦を有する禅定が修められたものと成ったことから、喜悦なくある禅定が修められたものと成ったことから、快楽を共具した禅定が修められたものと成ったことから、放捨を共具した禅定が修められたものと成ったことから、また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アヌルッダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 付随する〔心の〕汚れの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(129). 愚者と賢者の経

 

246. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、愚者のものたる、諸々の愚者の特相であり、諸々の愚者の形相であり、諸々の愚者の行状です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、愚者が、そして、拙劣に思弁された思弁ある者として、かつまた、拙劣に語られた語りある者として、さらに、拙劣に為された行為の為し手として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、もし、このことが、愚者が、そして、拙劣に思弁された思弁ある者として、かつまた、拙劣に語られた語りある者として、さらに、拙劣に為された行為の為し手として、〔世に〕有ることがなかったなら、賢者たちは、何によって、彼のことを知るというのでしょう。『この尊き者は、愚者である、正ならざる人士である』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、愚者が、そして、拙劣に思弁された思弁ある者として、かつまた、拙劣に語られた語りある者として、さらに、拙劣に為された行為の為し手として、〔世に〕有ることから、それゆえに、賢者たちは、彼のことを知ります。『この尊き者は、愚者である、正ならざる人士である』と。比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、まさしく、所見の法(現世)において、三種類の苦痛と失意を得知します。比丘たちよ、それで、もし、愚者が、あるいは、集会場において坐った状態であるなら、あるいは、道端において坐った状態であるなら、あるいは、十字路において坐った状態であるなら、そこで、もし、人々が、その者に見合う、その者に適切なる話題を話し合うとします。比丘たちよ、それで、もし、愚者が、命あるものを殺す者として〔世に〕有るなら、与えられていないものを取る者として〔世に〕有るなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有るなら、虚偽を説く者として〔世に〕有るなら、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者として〔世に〕有るなら、比丘たちよ、そこで、愚者に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、人々は、その者に見合う、その者に適切なる話題を話し合うが、それらの法(性質)は、わたしにおいて、まさしく、等しく見出される。そして、わたしは、それらの法(性質)において現見される』と。比丘たちよ、愚者は、まさしく、所見の法(現世)において、この第一の苦痛と失意を得知します。

 

247. 比丘たちよ、さらに、また、他に、愚者は、王たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行しているのを見ます。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切っているのを。比丘たちよ、そこで、愚者に、このような〔思いが〕有ります。『そのような形態の、まさに、諸々の悪しき行為を因として、王たちは、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち……略……剣によってもまた頭を断ち切る。それらの法(性質)は、わたしにおいて、まさしく、等しく見出される。そして、わたしは、それらの法(性質)において現見される。もし、また、王たちが、わたしのことを知るなら、王たちは、わたしをもまた捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行するであろう。諸々の鞭でもまた打ち……略……生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切るであろう』と。比丘たちよ、愚者は、まさしく、所見の法(現世)において、この第二の苦痛と失意をもまた得知します。

 

248. 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔死につつある〕愚者が、あるいは、長椅子に上がったなら、あるいは、臥床に上がったなら、あるいは、地に臥しているなら、すなわち、彼の、過去において為された諸々の悪しき行為(悪業)が──諸々の身体による悪しき行ないが、諸々の言葉による悪しき行ないが、諸々の意による悪しき行ないが──それらが、その時点において、彼に、垂れ掛かり、垂れ下がり、もたれ掛かります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、諸々の大いなる山の頂きの影が、夕刻時に、地に、垂れ掛かり、垂れ下がり、もたれ掛かるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、〔死につつある〕愚者が、あるいは、長椅子に上がったなら、あるいは、臥床に上がったなら、あるいは、地に臥しているなら、すなわち、彼の、過去において為された諸々の悪しき行為が──諸々の身体による悪しき行ないが、諸々の言葉による悪しき行ないが、諸々の意による悪しき行ないが──それらが、その時点において、彼に、垂れ掛かり、垂れ下がり、もたれ掛かります。比丘たちよ、そこで、愚者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしによって、善は為されず、善なる〔功徳〕は作り為されず、恐怖からの救護所は作り為されず、悪は為され、残忍なることは為され、罪障は作り為された。すなわち、まさに、善を為さなかった者たちの、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者たちの、恐怖からの救護所を作り為さなかった者たちの、悪を為した者たちの、残忍なることを為した者たちの、罪障を作り為した者たちの、〔彼らの〕赴く所()があるかぎり、その赴く所に、死してのち、〔わたしは〕赴くのだ』と。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。比丘たちよ、愚者は、まさしく、所見の法(現世)において、この第三の苦痛と失意をもまた得知します。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、すなわち、まさに、そのことを、『絶対的に好ましくなく、絶対的に愛らしくなく、絶対的に意に適わないもの』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、地獄のこととして、そのことを、『絶対的に好ましくなく、絶対的に愛らしくなく、絶対的に意に適わないもの』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、さてまた、すなわち、これほどまでに、喩えもまた為し易くなく、それほどまでに、地獄は、苦痛なのです」と。

 

249. このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。「比丘よ、それは、たとえば、また、〔人々が〕盗賊の犯罪者を捕捉して、王に見せるとします。『陛下よ、まさに、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、早刻時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、早刻時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。そこで、王は、日中時に、このように説きます。『さて、どのように、その男はある』と。『陛下よ、まさしく、そのままに、〔その男は〕生きています』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、日中時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、日中時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。そこで、王は、夕刻時に、このように説きます。『さて、どのように、その男はある』と。『陛下よ、まさしく、そのままに、〔その男は〕生きています』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、夕刻時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、夕刻時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、三百の槍で打たれつつ、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょうか」と。「尊き方よ、一つの槍でさえも、打たれつつあるなら、その男は、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょう。三百の槍であるなら、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

250. そこで、まさに、世尊は、小さな手ほどの岩を掴んで、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より大いなるものですか。そして、すなわち、この、わたしが掴んでいる小さな手ほどの岩ですか、さらに、すなわち、山の王たるヒマヴァントですか」と。「尊き方よ、この、世尊が掴んでいる小さな手ほどの岩は、少しばかりのものです。山の王たるヒマヴァントと比較して、計測にもまた至らず、小部分にもまた至らず、比較にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、その人が、三百の槍で打たれつつ、それを因縁として、苦痛と失意を得知するとして、それは、地獄の苦痛と比較して、計測にもまた至らず、小部分にもまた至らず、比較にもまた至りません。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、地獄の番人たちは、まさに、五種類の結縛ある刑罰を執行します。熱せられた鉄杭を手に至らせます。熱せられた鉄杭を第二の手に至らせます。熱せられた鉄杭を足に至らせます。熱せられた鉄杭を第二の足に至らせます。熱せられた鉄杭を胸の中央に至らせます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません(地獄の業苦が続く)。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、横たわらせて、諸々の斧で激打します。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で……略……〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、諸々の鉈で激打します。彼は、そこにおいて……略……〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、車に結び付けて、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、地のうえを、行かせもまたし、戻らせもまたします。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で……略……〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大きな炭の山を、登らせもまたし、降ろさせもまたします。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、熱せられた銅釜のなかに置きます。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られます。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られながら、一度はまた上に赴き、一度はまた下に赴き、一度はまた横に赴きます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、大地獄のなかに置きます。比丘たちよ、また、まさに、その大地獄は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『四つの隅があり、四つの門があり、等分に計量され区分され、鉄柵を極限とし、鉄によって覆い包まれている。

 

 その〔大地獄〕の鉄製の地面は、燃え盛り、火に充ち、百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)の遍きにわたり充満して、一切時に止住する』〔と〕。

 

 比丘たちよ、まさに、わたしは、無数の教相によってもまた、地獄の講話を話せます。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、これほどまでに、告げ知らせることでは〔結末に〕至り得るに為し易くなく、それほどまでに、地獄は、苦痛なのです。

 

251. 比丘たちよ、草を食物とする、畜生の在り方をした命あるものたちが存在します。彼らは、諸々の水気のある草をもまた、諸々の乾燥した草をもまた、歯でむしり取り、咀嚼します。比丘たちよ、では、どのようなものたちが、草を食物とする、畜生の在り方をした命あるものたちなのですか。象たちであり、馬たちであり、牛たちであり、驢馬たちであり、山羊たちであり、鹿たちであり、また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、草を食物とする、畜生の在り方をした命あるものたちです。比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、ここに、過去において、味あるものを食べる者としてあり、ここに、諸々の悪しき行為を為して、身体の破壊ののち、死後において、それらの有情たちの同類として再生します──すなわち、草を食物とする、それらの有情たちです。

 

 比丘たちよ、糞を食物とする、畜生の在り方をした命あるものたちが存在します。彼らは、はるか遠くから、糞の臭いを嗅いで走り行きます。『ここにおいて、〔わたしたちは〕食べるのだ』『ここにおいて、〔わたしたちは〕食べるのだ』と。それは、たとえば、また、まさに、婆羅門たちが、捧げものの臭いによって走り行くように、『ここにおいて、〔わたしたちは〕食べるのだ』『ここにおいて、〔わたしたちは〕食べるのだ』と、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、糞を食物とする、畜生の在り方をした命あるものたちが存在します。彼らは、はるか遠くから、糞の臭いを嗅いで走り行きます。『ここにおいて、〔わたしたちは〕食べるのだ』『ここにおいて、〔わたしたちは〕食べるのだ』と。比丘たちよ、では、どのようなものたちが、糞を食物とする、畜生の在り方をした命あるものたちなのですか。鶏たちであり、豚たちであり、犬たちであり、野狐(ジャッカル)たちであり、また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、糞を食物とする、畜生の在り方をした命あるものたちです。比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、ここに、過去において、味あるものを食べる者としてあり、ここに、諸々の悪しき行為を為して、身体の破壊ののち、死後において、それらの有情たちの同類として再生します──すなわち、糞を食物とする、それらの有情たちです。

 

 比丘たちよ、暗黒のなかで生まれ、暗黒のなかで老い、暗黒のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちが存在します。比丘たちよ、では、どのようなものたちが、暗黒のなかで生まれ、暗黒のなかで老い、暗黒のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちなのですか。虫たちであり、蛆虫たちであり、蚯蚓(みみず)たちであり、また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、暗黒のなかで生まれ、暗黒のなかで老い、暗黒のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちです。比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、ここに、過去において、味あるものを食べる者としてあり、ここに、諸々の悪しき行為を為して、身体の破壊ののち、死後において、それらの有情たちの同類として再生します──すなわち、暗黒のなかで生まれ、暗黒のなかで老い、暗黒のなかで死ぬ、それらの有情たちです。

 

 比丘たちよ、水のなかで生まれ、水のなかで老い、水のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちが存在します。比丘たちよ、では、どのようなものたちが、水のなかで生まれ、水のなかで老い、水のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちなのですか。魚たちであり、亀たちであり、鰐たちであり、また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、水のなかで生まれ、水のなかで老い、水のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちです。比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、ここに、過去において、味あるものを食べる者としてあり、ここに、諸々の悪しき行為を為して、身体の破壊ののち、死後において、それらの有情たちの同類として再生します──すなわち、水のなかで生まれ、水のなかで老い、水のなかで死ぬ、それらの有情たちです。

 

 比丘たちよ、不浄物のなかで生まれ、不浄物のなかで老い、不浄物のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちが存在します。比丘たちよ、では、どのようなものたちが、不浄物のなかで生まれ、不浄物のなかで老い、不浄物のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちなのですか。比丘たちよ、すなわち、それらの有情たちで、あるいは、腐った魚のなかで生まれ、あるいは、腐った魚のなかで老い、あるいは、腐った魚のなかで死に、あるいは、腐った死骸のなかで……略……あるいは、腐った粥のなかで……あるいは、どぶ池のなかで……あるいは、水たまりのなかで生まれ……また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、不浄物のなかで生まれ、不浄物のなかで老い、不浄物のなかで死ぬ、畜生の在り方をした命あるものたちです。比丘たちよ、それで、まさに、その愚者は、ここに、過去において、味あるものを食べる者としてあり、ここに、諸々の悪しき行為を為して、身体の破壊ののち、死後において、それらの有情たちの同類として再生します──すなわち、不浄物のなかで生まれ、不浄物のなかで老い、不浄物のなかで死ぬ、それらの有情たちです。

 

 比丘たちよ、まさに、わたしは、無数の教相によってもまた、畜生の胎の講話を話せます。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、これほどまでに、告げ知らせることでは〔結末に〕至り得るに為し易くなく、それほどまでに、畜生の胎は、苦痛なのです。

 

252. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、大いなる海において、一つの穴がある軛(くびき)を投げ入れるとします。〔まさに〕その、この〔軛〕を、東の風が西に吹き寄せるでしょうし、西の風が東に吹き寄せるでしょうし、北の風が南に吹き寄せるでしょうし、南の風が北に吹き寄せるでしょう。そこで、また、盲目の亀が存するとします。その〔亀〕は、百年が〔経過しては〕一度、百年が経過しては一度、浮き上がります。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、盲目の亀は、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、また、もしくは、いつであれ、いつかは、長時が経過して〔そののち、首を導き入れるとして〕」と。「比丘たちよ、よりすみやかに、まさに、その盲目の亀が、この一つの穴がある軛のなかに、首を導き入れるとして、比丘たちよ、一度、愚者が堕所に赴いたなら、人間たる〔境遇を得ること〕は、これよりもより得難きことと、わたしは説きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいては、法(正義)の行ないが〔存在せず〕、正しい行ないが〔存在せず〕、善なるものを作り為すことが〔存在せず〕、功徳を作り為すことが存在しないからです。比丘たちよ、ここにおいては、互いに他を喰うことが〔転起し〕、力の弱い者を喰うことが転起するからです。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その愚者が、それで、もし、いつであれ、いつかは、長時が経過して、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、すなわち、それらの卑しい家である、あるいは、チャンダーラ(賎民)の家に、あるいは、下賎の家に、あるいは、山民の家に、あるいは、車工の家に、あるいは、プックサ(非人)の家に──貧しく、食べ物と飲み物と食料が少なく、生活が困難で、そこにおいては、食糧や衣服が、困難をもって得られる、そのような形態の家に生まれ落ちます。かつまた、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背で、病苦多く、あるいは、片目の者として、あるいは、手萎えの者として、あるいは、足萎えの者として、あるいは、半身不随の者として、〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と居住所と灯具の、得者ではなく。彼は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、賭博師が、まさしく、最初の〔悪しき〕賽の目の掴み取りによって、子をもまた失い、妻をもまた失い、全ての自らの所有物をもまた失い、そのうえに結縛をもまた受けるようなものです。比丘たちよ、その〔悪しき〕賽の目の掴み取りは、僅かばかりのものです。すなわち、その賭博師が、まさしく、最初の〔悪しき〕賽の目の掴み取りによって、子をもまた失い、妻をもまた失い、全ての自らの所有物をもまた失い、そのうえに結縛をもまた受けるとして。そこで、まさに、これこそは、それよりも、より大いなる〔悪しき〕賽の目の掴み取りとなります。すなわち、その愚者が、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら。比丘たちよ、これは、全部が全部、愚者の境地です(※)。

 

※ テキストには bālabhūmī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。

 

253. 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、賢者のものたる、諸々の賢者の特相であり、諸々の賢者の形相であり、諸々の賢者の行状です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、賢者が、そして、見事に思弁された思弁ある者として、かつまた、見事に語られた語りある者として、さらに、見事に為された行為の為し手として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、もし、このことが、賢者が、そして、見事に思弁された思弁ある者として、かつまた、見事に語られた語りある者として、さらに、見事に為された行為の為し手として、〔世に〕有ることがなかったなら、賢者たちは、何によって、彼のことを知るというのでしょう。『この尊き者は、賢者である、正なる人士である』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、賢者が、そして、見事に思弁された思弁ある者として、かつまた、見事に語られた語りある者として、さらに、見事に為された行為の為し手として、〔世に〕有ることから、それゆえに、賢者たちは、彼のことを知ります。『この尊き者は、賢者である、正なる人士である』と。比丘たちよ、それで、まさに、その賢者は、まさしく、所見の法(現世)において、三種類の安楽と悦意を得知します。比丘たちよ、それで、もし、賢者が、あるいは、集会場において坐った状態であるなら、あるいは、道端において坐った状態であるなら、あるいは、十字路において坐った状態であるなら、そこで、もし、人々が、その者に見合う、その者に適切なる話題を話し合うとします。比丘たちよ、それで、もし、賢者が、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有るなら、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有るなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有るなら、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有るなら、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有るなら、比丘たちよ、そこで、賢者に、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、まさに、人々は、その者に見合う、その者に適切なる話題を話し合うが、それらの法(性質)は、わたしにおいて、まさしく、等しく見出される。そして、わたしは、それらの法(性質)において現見される』と。比丘たちよ、賢者は、まさしく、所見の法(現世)において、この第一の安楽と悦意を得知します。

 

254. 比丘たちよ、さらに、また、他に、賢者は、王たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行しているのを見ます。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切っているのを。比丘たちよ、そこで、賢者に、このような〔思いが〕有ります。『そのような形態の、まさに、諸々の悪しき行為を因として、王たちは、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切る。それらの法(性質)は、わたしにおいて等しく見出されない。そして、わたしは、それらの法(性質)において現見されない』と。比丘たちよ、賢者は、まさしく、所見の法(現世)において、この第二の安楽と悦意をもまた得知します。

 

255. 比丘たちよ、さらに、また、他に、〔死につつある〕賢者が、あるいは、長椅子に上がったなら、あるいは、臥床に上がったなら、あるいは、地に臥しているなら、すなわち、彼の、過去において為された諸々の善き行為(善業)が──諸々の身体による善き行ないが、諸々の言葉による善き行ないが、諸々の意による善き行ないが──それらが、その時点において、彼に、垂れ掛かり……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、諸々の大いなる山の頂きの影が、夕刻時に、地に、垂れ掛かり、垂れ下がり、もたれ掛かるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、〔死につつある〕賢者が、あるいは、長椅子に上がったなら、あるいは、臥床に上がったなら、あるいは、地に臥しているなら、すなわち、彼の、過去において為された諸々の善き行為が──諸々の身体による善き行ないが、諸々の言葉による善き行ないが、諸々の意による善き行ないが──それらが、その時点において、彼に、垂れ掛かり、垂れ下がり、もたれ掛かります。比丘たちよ、そこで、賢者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしによって、悪は為されず、残忍なることは為されず、罪障は作り為されず、善は為され、善なる〔功徳〕は作り為され、恐怖からの救護所は作り為された。すなわち、まさに、悪を為さなかった者たちの、残忍なることを為さなかった者たちの、罪障を作り為さなかった者たちの、善を為した者たちの、善なる〔功徳〕を作り為した者たちの、恐怖からの救護所を作り為した者たちの、〔彼らの〕赴く所があるかぎり、その赴く所に、死してのち、〔わたしは〕赴くのだ』と。彼は、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。比丘たちよ、賢者は、まさしく、所見の法(現世)において、この第三の安楽と悦意をもまた得知します。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その賢者は、身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、すなわち、まさに、そのことを、『絶対的に好ましく、絶対的に愛らしく、絶対的に意に適うもの』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、天上のこととして、そのことを、『絶対的に好ましく、絶対的に愛らしく、絶対的に意に適うもの』と、正しく説きつつ説くべきです。比丘たちよ、さてまた、すなわち、これほどまでに、喩えもまた為し易くなく、それほどまでに、天上は、安楽なのです」と。

 

256. このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。「比丘よ、それは、たとえば、また、転輪王が、七つの宝を具備し、そして、四つの神通を〔具備し〕、それを因縁として、安楽と悦意を得知するようなものです。どのようなものが、七つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至った、即位灌頂した王たる士族に、千の輻(や)があり、外輪を有し、轂(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、天の車輪の宝が出現します。それを見て、即位灌頂した王たる士族に、このような〔思いが〕有ります。『また、まさに、このことを、わたしは聞いた。「すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至った、即位灌頂した王たる士族に、千の輻があり、外輪を有し、轂を有し、一切の行相の円満成就ある、天の車輪の宝が出現するなら、彼は、転輪王と成る」と。いったい、まさに、わたしは、転輪王として〔世に〕存するのであろうか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、即位灌頂した王たる士族は、左手で水差しを掴んで、右手で車輪の宝に降り注ぎます。『尊き車輪の宝は転起せよ。尊き車輪の宝は征圧せよ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、東の方角に転起します──まさしく、付き従って、転輪王も、四つの支分ある軍団と共に。比丘たちよ、また、まさに、その地域において、車輪の宝が止住するなら、そこにおいて、転輪王は、四つの支分ある軍団と共に、住居を構えます。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、東の方角の敵王たちは、彼らは、近づいて行って、転輪王に、このように言います。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。大王よ、あなたにとって、自らのものと〔成れ〕。大王よ、統治したまえ』と。転輪王は、このように言います。『命あるものは殺されるべきにあらず。与えられていないものは取られるべきにあらず。諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわれるべきにあらず。虚偽は語られるべきにあらず。酔わせるものは飲まれるべきにあらず。そして、食べているとおりに食べよ』と。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、東の方角の敵王たちは、彼らは、転輪王に従い行く者たちと成ります。

 

257. 比丘たちよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、東の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、南の方角に転起します……略……南の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、西の方角に転起します……西の海に深く分け入って、〔海から〕上がって、北の方角に転起します──まさしく、付き従って、転輪王も、四つの支分ある軍団と共に。比丘たちよ、また、まさに、その地域において、車輪の宝が止住するなら、そこにおいて、転輪王は、四つの支分ある軍団と共に、住居を構えます。

 

 比丘たちよ、また、まさに、すなわち、北の方角の敵王たちは、彼らは、近づいて行って、転輪王に、このように言います。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。大王よ、あなたにとって、自らのものと〔成れ〕。大王よ、統治したまえ』と。転輪王は、このように言います。『命あるものは殺されるべきにあらず。与えられていないものは取られるべきにあらず。諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なわれるべきにあらず。虚偽は語られるべきにあらず。酔わせるものは飲まれるべきにあらず。そして、食べているとおりに食べよ』と。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、北の方角の敵王たちは、彼らは、転輪王に従い行く者たちと成ります。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、その車輪の宝は、海を極限とする地を征圧して、まさしく、その王都に帰還して、転輪王の内宮の門において、思うに、車軸に打たれているかのように〔地に〕立ちます──転輪王の内宮を美しく荘厳しながら。比丘たちよ、転輪王には、このような形態の車輪の宝が出現します。

 

258. (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王には、象の宝が出現します。純白で、〔手足と鼻と尾と陰茎の〕七つの〔身体の〕支えがあり、神通があり、宙を赴く、ウポーサタという名の象王です。それを見て、転輪王の心は浄信します。『ああ、まさに、幸いなる象の乗物だ。それで、もし、調御に従事するなら』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その象の宝は、それは、たとえば、また、まさに、長夜にわたり完全無欠に調御された賢く善き生まれの象のように、まさしく、このように、調御に従事します。比丘たちよ、過去の事ですが、転輪王は、まさしく、その象の宝〔の能力〕を審査しながら、早刻時に、〔それに〕乗って、海を極限とする地を巡り行って、まさしく、その王都に帰還して、朝食を取りました。比丘たちよ、転輪王には、このような形態の象の宝が出現します。

 

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王には、馬の宝が出現します。純白で、頭が黒く、ムンジャ〔草〕のようなたてがみの、神通があり、宙を赴く、ヴァラーハカという名の馬王です。それを見て、転輪王の心は浄信します。『ああ、まさに、幸いなる馬の乗物だ。それで、もし、調御に従事するなら』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その馬の宝は、それは、たとえば、また、まさに、長夜にわたり完全無欠に調御された賢馬にして良馬たる馬のように、まさしく、このように、調御に従事します。比丘たちよ、過去の事ですが、転輪王は、まさしく、その馬の宝〔の能力〕を審査しながら、早刻時に、〔それに〕乗って、海を極限とする地を巡り行って、まさしく、その王都に帰還して、朝食を取りました。比丘たちよ、転輪王には、このような形態の馬の宝が出現します。

 

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王には、宝珠の宝が出現します。それは、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠として〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、まさに、その宝珠の宝の光は、遍きにわたり、〔一〕ヨージャナに充満したものと成ります。比丘たちよ、過去の事ですが、転輪王は、まさしく、その宝珠の宝〔の能力〕を審査しながら、四つの支分ある軍団を武装して、宝珠を旗の先端に掲げて、漆黒の闇夜のなか、出発しました。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、遍きにわたり、村の者たちとして〔世に〕有った、それらの者たちは、その光によって、諸々の生業に専念しました──『昼だ』と思い考えながら。比丘たちよ、転輪王には、このような形態の宝珠の宝が出現します。

 

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王には、婦女の宝が出現します。彼女は、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備し、高過ぎず、低過ぎず、痩せ過ぎず、太り過ぎず、黒過ぎず、白過ぎず、天の色艶には至り得ないも、人間の色艶を超え行った者です。比丘たちよ、また、まさに、その婦女の宝には、このような形態の身体の感触が有ります──それは、たとえば、また、まさに、あるいは、木綿の〔感触〕のように、あるいは、生綿の〔感触〕のように。比丘たちよ、また、まさに、その婦女の宝には、寒いときは暖かい五体が有り、暑いときは涼しい五体が有ります。比丘たちよ、また、まさに、その婦女の宝の、身体からは、栴檀の香りが香りただよい、口からは、青蓮の香りが香りただよいます。比丘たちよ、また、まさに、その婦女の宝は、転輪王のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、また、まさに、その婦女の宝は、転輪王に、たとえ、意によっても背くことはありません。また、どうして、身体によって〔背くというのでしょう〕。比丘たちよ、転輪王には、このような形態の婦女の宝が出現します。

 

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王には、家長の宝が出現します。彼(家長)には、行為の報いから生じる天眼が出現します。それによって、〔彼は〕財宝を見ます──所有者を有するものもまた、所有者なきものもまた。彼は、近づいて行って、転輪王に、このように言います。『陛下よ、あなたは、思い入れ少なき者と成りたまえ。わたしが、あなたの財によって、財によって為すべきことを為しましょう』と。比丘たちよ、過去の事ですが、転輪王は、まさしく、その家長の宝〔の能力〕を審査しながら、船に乗って、ガンガー川の中央において流れに入って、家長の宝に、こう言いました。『家長よ、わたしには、金貨と黄金に義(目的)がある』と。『大王よ、まさに、それでは、一つの岸に、船を近づけてください』と。『家長よ、まさしく、ここに、わたしには、金貨と黄金に義(目的)がある』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その家長の宝は、両手で水に触れて、金貨と黄金に満ちる瓶を引き上げて、転輪王に、こう言いました。『大王よ、これだけで、十分ですか。大王よ、これだけで、為すところとなりましたか。大王よ、これだけで、供養するところとなりましたか』と。転輪王は、このように言いました。『家長よ、これだけで、十分である。大王よ、これだけで、為すところとなった。大王よ、これだけで、供養するところとなった』と。比丘たちよ、転輪王には、このような形態の家長の宝が出現します。

 

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王には、参謀の宝が出現します。賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、転輪王に、接近させるべきところに接近させ、離去させるべきところに離去させ、止住させるべきところに止住させる能力ある者です。彼は、近づいて行って、転輪王に、このように言います。『陛下よ、あなたは、思い入れ少なき者と成りたまえ。わたしが統治しましょう』と。比丘たちよ、転輪王には、このような形態の参謀の宝が出現します。比丘たちよ、転輪王は、これらの七つの宝を具備した者として〔世に〕有ります。

 

259. どのようなものが、四つの神通なのですか。比丘たちよ、ここに、転輪王は、他の人間たちより極端に、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、転輪王は、この第一の神通を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王は、他の人間たちより極端に、長寿の者として、長きに止住する者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、転輪王は、この第二の神通を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王は、他の人間たちより極端に、病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず正しく消化する消化器官を具備した者として。比丘たちよ、転輪王は、この第三の神通を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、転輪王は、婆羅門や家長たちにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、父が、子たちにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、転輪王は、婆羅門や家長たちにとって、愛しく意に適う者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、転輪王にとってもまた、婆羅門や家長たちは、愛しく意に適う者たちとして〔世に〕有ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、父にとって、子たちが、愛しく意に適う者として〔世に〕有るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、転輪王にとってもまた、婆羅門や家長たちは、愛しく意に適う者たちとして〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、転輪王は、四つの支分ある軍団とともに、庭園のある地に出かけました。比丘たちよ、そこで、まさに、婆羅門や家長たちは、近づいて行って、転輪王に、このように言いました。『陛下よ、急ぐことなく行きたまえ。すなわち、あなたを、わたしたちが、より長く見られるように』と。比丘たちよ、転輪王もまた、馭者に告げました。『馭者よ、急ぐことなく進めよ。すなわち、わたしを、婆羅門や家長たちが、より長く見られるように』と。比丘たちよ、転輪王は、この第四の神通を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、転輪王は、これらの四つの神通を具備した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、転輪王は、これらの七つの宝を具備し、そして、これらの四つの神通を〔具備し〕、それを因縁として、安楽と悦意を得知するでしょうか」と。「尊き方よ、たとえ、一つ一つの宝であれ、〔それを〕具備しているなら、転輪王は、それを因縁として、安楽と悦意を得知するでしょう。七つの宝を〔具備しているなら〕、そして、四つの神通を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう」と。

 

260. そこで、まさに、世尊は、小さな手ほどの岩を掴んで、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、どちらが、より大いなるものですか。そして、すなわち、この、わたしが掴んでいる小さな手ほどの岩ですか、さらに、すなわち、山の王たるヒマヴァントですか」と。「尊き方よ、この、世尊が掴んでいる小さな手ほどの岩は、少しばかりのものです。山の王たるヒマヴァントと比較して、計測にもまた至らず、小部分にもまた至らず、比較にもまた至りません」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、転輪王が、七つの宝を具備し、そして、四つの神通を〔具備し〕、それを因縁として、安楽と悦意を得知するとして、それは、天の安楽と比較して、計測にもまた至らず、小部分にもまた至らず、比較にもまた至りません。

 

 比丘たちよ、それで、まさに、その賢者が、それで、もし、いつであれ、いつかは、長時が経過して、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、すなわち、それらの高貴の家である、あるいは、士族の大家の家に、あるいは、婆羅門の大家の家に、あるいは、家長の大家の家に──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある、そのような形態の家に生まれ落ちます。かつまた、彼は、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と居住所と灯具の、得者として。彼は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、賭博師が、まさしく、最初の幸運の掴み取りによって、大いなる財物の塊に到達するようなものです。比丘たちよ、その幸運の掴み取りは、僅かばかりのものです。すなわち、その賭博師が、まさしく、最初の幸運の掴み取りによって、大いなる財物の塊に到達するとして。そこで、まさに、これこそは、それよりも、より大いなる幸運の掴み取りとなります。すなわち、その賢者が、身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するなら。比丘たちよ、これは、全部が全部、賢者の境地です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 愚者と賢者の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(130). 天の使者の経

 

261. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、門を有する二つの家があるとします。そこにおいて、眼ある人が中間に立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、こちらを歩きもまたしあちらを歩みもまたするのを、見るようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ』と。

 

262. 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人(獄卒)たちは、別々に腕を掴み取って、夜魔の王に見せます。『陛下よ、この男は、母を敬わず、父を敬わず、沙門を敬わず、婆羅門を敬わず、家における最尊者を敬う者ではありません。陛下は、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第一の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第一の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、自らの糞尿のなかにはまり、臥しているのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「わたしもまた、まさに、〔世に〕存している──生の法(性質)ある者として、生を超え行くことなき者として。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

263. 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第一の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、第二の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第二の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、あるいは、女が、あるいは、男が、生まれてから、あるいは、八十の者となり、あるいは、九十の者となり、あるいは、百年の者となり、老い朽ち、垂木のように湾曲し、曲がりくねり、棒(杖)を行き着く所とし、よろめきながら赴き、病める者となり、若さ〔の盛り〕が去り、歯が破断し、白髪の者となり、抜け毛の者となり、禿頭の者となり、皺の者となり、斑点だらけの五体の者となるのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「わたしもまた、まさに、〔世に〕存している──老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

264. 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第二の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、第三の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第三の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、あるいは、女が、あるいは、男が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、自らの糞尿のなかにはまり、臥しているのを──他者たちによって出起させられ、他者たちによって横臥させられているのを──見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「わたしもまた、まさに、〔世に〕存している──病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

265. 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第三の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、第四の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第四の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、王たちが、盗賊の犯罪者を捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行しているのを見なかったかな。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切っているのを』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「ああ、まさに、諸々の悪しき行為を為す、それらの者たちは──彼らに、まさしく、所見の法(現世)において、このような形態の種々なる種類の行罰刑が執行される。また、ましてや、他所(来世)においては、なおさらのこと。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

266. 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第四の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、第五の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第五の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、死んで一日で、あるいは、死んで二日で、あるいは、死んで三日で、膨張したものとなり、青黒くなったものとなり、膿爛を生じたのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「わたしもまた、まさに、〔世に〕存している──死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

267. 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第五の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、地獄の番人たちは、まさに、五種類の結縛ある刑罰を執行します。熱せられた鉄杭を手に至らせます。熱せられた鉄杭を第二の手に至らせます。熱せられた鉄杭を足に至らせます。熱せられた鉄杭を第二の足に至らせます。熱せられた鉄杭を胸の中央に至らせます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、横たわらせて、諸々の斧で激打します。……略……。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、諸々の鉈で激打します。……略……。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、車に結び付けて、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、地のうえを、行かせもまたし、戻らせもまたします。……略……。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大きな炭の山を、登らせもまたし、降ろさせもまたします。……略……。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、熱せられた銅釜のなかに置きます。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られます。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られながら、一度はまた上に赴き、一度はまた下に赴き、一度はまた横に赴きます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、大地獄のなかに置きます。比丘たちよ、また、まさに、その大地獄は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『四つの隅があり、四つの門があり、等分に計量され区分され、鉄柵を極限とし、鉄によって覆い包まれている。

 

 その〔大地獄〕の鉄製の地面は、燃え盛り、火に充ち、百ヨージャナの遍きにわたり充満して、一切時に止住する』〔と〕。

 

268. 比丘たちよ、また、まさに、その大いなる地獄の、東の壁から炎が立ち上がって、西の壁に打ちつけ、西の壁から炎が立ち上がって、東の壁に打ちつけ、北の壁から炎が立ち上がって、南の壁に打ちつけ、南の壁から炎が立ち上がって、北の壁に打ちつけ、下から炎が立ち上がって、上に打ちつけ、上から炎が立ち上がって、下に打ちつけます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、その大いなる地獄の東の門が開かれる、まさに、その時と成ります。彼は、そこにおいて、激しい速さで走り行きます。彼が、激しい速さで走り行きつつあると、表皮もまた焼かれ、皮もまた焼かれ、肉もまた焼かれ、腱もまた焼かれ、諸々の骨もまた湯煙をあげ、引き上げられた〔足〕は、まさしく、そのようなものとして有ります。比丘たちよ、そして、すなわち、まさに、彼は、多く〔の時間〕をかけて〔門に〕達し得た〔状態〕と成ることから、そこで、その門は閉じられます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、大いなる地獄の西の門が開かれる、まさに、その時と成ります。……略……北の門が開かれます。……略……南の門が開かれます。彼は、そこにおいて、激しい速さで走り行きます。彼が、激しい速さで走り行きつつあると、表皮もまた焼かれ、皮もまた焼かれ、肉もまた焼かれ、腱もまた焼かれ、諸々の骨もまた湯煙をあげ、引き上げられた〔足〕は、まさしく、そのようなものとして有ります。比丘たちよ、そして、すなわち、まさに、彼は、多く〔の時間〕をかけて〔門に〕達し得た〔状態〕と成ることから、そこで、その門は閉じられます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、すなわち、いつであれ、いつかは、長時が経過して、大いなる地獄の東の門が開かれる、まさに、その時と成ります。彼は、そこにおいて、激しい速さで走り行きます。彼が、激しい速さで走り行きつつあると、表皮もまた焼かれ、皮もまた焼かれ、肉もまた焼かれ、腱もまた焼かれ、諸々の骨もまた湯煙をあげ、引き上げられた〔足〕は、まさしく、そのようなものとして有ります。彼は、その門から出ます。

 

269. 比丘たちよ、また、まさに、その地獄の等しく直後に、まさしく、相伴ったものとして、大いなる糞地獄があります。彼は、そこにおいて落ち行きます。比丘たちよ、また、まさに、その糞地獄において、針の口をした命あるものたちが、表皮を断ち切り、表皮を断ち切って、皮を断ち切り、皮を断ち切って、肉を断ち切り、肉を断ち切って、腱を断ち切り、腱を断ち切って、骨を断ち切り、骨を断ち切って、骨髄を喰います。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その糞地獄の等しく直後に、まさしく、相伴ったものとして、大いなる熱灰地獄があります。彼は、そこにおいて落ち行きます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その熱灰地獄の等しく直後に、まさしく、相伴ったものとして、大いなるシンバリ〔樹〕の林があります。〔一〕ヨージャナの高さに盛り上がり、十六アングラ(長さの単位・一アングラは約二センチ)の棘があり、燃え盛り、光り輝き、光を有するものとして。そこにおいて、〔獄卒たちは〕登らせもまたし、降ろさせもまたします。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、また、まさに、そのシンバリ〔樹〕の林の等しく直後に、まさしく、相伴ったものとして、大いなる剣の葉をもつ林があります。彼は、そこにおいて入り行きます。風に揺られた諸々の葉が落ち、彼の、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切ります。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その剣の葉をもつ林の等しく直後に、まさしく、相伴ったものとして、大いなる灰汁の川があります。彼は、そこにおいて落ち行きます。彼は、そこにおいて、流れのままにもまた運ばれ、流れに反するままにもまた運ばれます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

270. 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、釣針で引き上げて、陸のうえに据え置いて、このように言います。『さて、男よ、何を、〔おまえは〕求めるのだ』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、飢えている者として、〔わたしは〕存しています』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、地獄の番人たちは、燃え盛り、光り輝き、光を有する、熱せられた鉄の杭で、口を開いて、燃え盛り、光り輝き、光を有する、熱せられた銅の玉を、口に投げ入れます。その〔銅の玉〕は、彼の、唇をもまた焼き、口をもまた焼き、喉をもまた焼き、腹をもまた焼き、腸をもまた〔取り〕、腸間膜をもまた取って、下部に出ます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、地獄の番人たちは、このように言います。『さて、男よ、何を、〔おまえは〕求めるのだ』と。彼は、このように言いました。『尊き方よ、渇いている者として、〔わたしは〕存しています』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、地獄の番人たちは、燃え盛り、光り輝き、光を有する、熱せられた鉄の杭で、口を開いて、燃え盛り、光り輝き、光を有する、熱せられた赤銅を、口に注ぎ込みます。その〔赤銅〕は、彼の、唇をもまた焼き、口をもまた焼き、喉をもまた焼き、腹をもまた焼き、腸をもまた〔取り〕、腸間膜をもまた取って、下部に出ます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、夜魔の王に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、世において、諸々の悪しき善ならざる行為を為す、それらの者たちは──彼らに、このような形態の種々なる種類の行罰刑が執行される。ああ、まさに、わたしは、人間たる〔境遇〕を得るであろう。そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起するであろう。そして、わたしは、彼に、世尊に、奉侍するであろう。そして、彼は、世尊は、わたしに、法(教え)を説示するであろう。そして、わたしは、彼の、世尊の、法(教え)を了知するであろう』と。比丘たちよ、また、まさに、それを、わたしは、他の、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、聞いて〔そののち、このように〕説くのではありません。そして、また、まさしく、それが、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それを、わたしは説きます」と。

 

271. 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、天の使者たちに叱咤されても怠る人間たちは、彼らは、長夜に憂い悲しむ──下劣な身体を具した人たちとなり。

 

 しかしながら、まさに、彼ら、この〔世において〕、正しくある、正なる人士たちは、天の使者たちに叱咤され、聖なる法(教え)において、いついかなる時も怠らない。

 

 〔賢者たちは〕執取〔の思い〕のうちに恐怖を見て、生と死の発生のうちに〔恐怖を見て〕、〔何も〕執取せずして、生と死の消滅において解脱する。

 

 彼ら、平安に至り得た者たちは、安楽の者たちであり、所見の法(現世)において涅槃に到達し、一切の怨念と恐怖を超え行き、一切の苦しみを過ぎ行った」と。

 

 天の使者の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 空性の章は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、二種に、空性が有り、はじめての法(性質)とバークラ、アチラヴァタとブーミジャという名のもの、アヌルッダと付随する〔心の〕汚れ、愚者と賢者、そして、天の使者があり、それらの十がある」と。

 

4. 区分の章

 

1(131). 賢く幸いなる一夜ある者の経

 

272. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説(概説)を、さらに、区分を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら(その時その時、その場その場において、自己と世界のあるがままをあるがままに知り見るなら)、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである(死に期日の指定はなく、いつ死ぬかわからない)。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、『賢く幸いなる一夜ある者』と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる」と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

273. 「比丘たちよ、では、どのように、過去を追い求めるのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。比丘たちよ、このように、まさに、過去を追い求めます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、過去を追い求めないのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。比丘たちよ、このように、まさに、過去を追い求めません。

 

274. 比丘たちよ、では、どのように、未来を待ち望むのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……略……。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。比丘たちよ、このように、まさに、未来を待ち望みます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、未来を待ち望まないのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。比丘たちよ、このように、まさに、未来を待ち望みません。

 

275. 比丘たちよ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されるのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。比丘たちよ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されないのですか。比丘たちよ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。比丘たちよ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されません。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 『比丘たちよ、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、あなたたちに説示しましょう』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 賢く幸いなる一夜ある者の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(132). アーナンダと賢く幸いなる一夜ある者の経

 

276. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダが、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語ります。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、まさに、誰が、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させたのですか。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語ったのですか」と。「尊き方よ、尊者アーナンダが、集会所において、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語りました」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、また、すなわち、どのように、あなたは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させたのですか。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語ったのですか」と。「尊き方よ、このように、まさに、わたしは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語りました。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

277. 友よ、では、どのように、過去を追い求めるのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。友よ、このように、まさに、過去を追い求めます。

 

 友よ、では、どのように、過去を追い求めないのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。友よ、このように、まさに、過去を追い求めません。

 

 友よ、では、どのように、未来を待ち望むのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……略……。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起します。友よ、このように、まさに、未来を待ち望みます。

 

 友よ、では、どのように、未来を待ち望まないのですか。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……略……。『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時に』と、そこにおいて、愉悦を喚起しません。友よ、このように、まさに、未来を待ち望みません。

 

 友よ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されるのですか。友よ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。友よ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます。

 

 友よ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されないのですか。友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。友よ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されません。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 尊き方よ、このように、まさに、わたしは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語りました」と。

 

278. 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、善きかな、まさに、あなたは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語りました。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 アーナンダよ、では、どのように、過去を追い求めるのですか。……略……。アーナンダよ、このように、まさに、過去を追い求めます。アーナンダよ、では、どのように、過去を追い求めないのですか。……略……。アーナンダよ、このように、まさに、過去を追い求めません。アーナンダよ、では、どのように、未来を待ち望むのですか。……略……。アーナンダよ、このように、まさに、未来を待ち望みます。アーナンダよ、では、どのように、未来を待ち望まないのですか。……略……。アーナンダよ、このように、まさに、未来を待ち望みません。アーナンダよ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されるのですか。……略……。アーナンダよ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます。アーナンダよ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されないのですか。……略……。アーナンダよ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されません。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 アーナンダと賢く幸いなる一夜ある者の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(133). マハー・カッチャーナと賢く幸いなる一夜ある者の経

 

279. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。タポーダーの林園(温泉精舎)において。そこで、まさに、尊者サミッディは、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。温泉で五体を洗い流して、〔温泉から〕上がって、一つの衣料の者となり、五体を乾かしながら、〔そこに〕立ちました。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねく温泉を照らして、尊者サミッディのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、尊者サミッディに、こう言いました。「比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか」と。「友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか」と。「比丘よ、まさに、わたしもまた、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。比丘よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか」と。「友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していません(※)。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか」と。「比丘よ、まさに、わたしもまた、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していません。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、把握しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、学得しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持しなさい。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説は、さらに、区分は、義(道理)を伴ったものであり、初等の梵行たるものです」と。その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。

 

※ テキストには gāthāti とあるが、PTS版により ti を削除する。以下の平行箇所も同様。

 

280. そこで、まさに、尊者サミッディは、その夜が明けると、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サミッディは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。温泉で五体を洗い流して、〔温泉から〕上がって、一つの衣料の者となり、五体を乾かしながら、〔そこに〕立ちました。尊き方よ、そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねく温泉を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか』と。

 

 尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その天神に、こう言いました。『友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか』と。『比丘よ、まさに、わたしもまた、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。比丘よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか』と。『友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していません。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか』と。『比丘よ、まさに、わたしもまた、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していません。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、把握しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、学得しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持しなさい。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説は、さらに、区分は、義(道理)を伴ったものであり、初等の梵行たるものです』と。尊き方よ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、説示してください」と。「比丘よ、まさに、それでは、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者サミッディは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、『賢く幸いなる一夜ある者』と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。世尊は、この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思いが〕有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ」と。

 

281. そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「友よ、カッチャーナよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。

 

 〔すなわち〕「過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、『賢く幸いなる一夜ある者』と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる」と。

 

 いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ」と。

 

 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 「友よ、カッチャーナよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。

 

 「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに答えました。そこで、尊者マハー・カッチャーナは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。

 

282. 友よ、では、どのように、過去を追い求めるのですか。『かくのごとく、わたしに、眼が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔有った〕』と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成ります。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となり、過去を追い求めます。『かくのごとく、わたしに、耳が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔有った〕』と……略……。『かくのごとく、わたしに、鼻が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔有った〕』と……。『かくのごとく、わたしに、舌が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔有った〕』と……。『かくのごとく、わたしに、身が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔有った〕』と……。『かくのごとく、わたしに、意が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔有った〕』と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成ります。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となり、過去を追い求めます。友よ、このように、まさに、過去を追い求めます。

 

 友よ、では、どのように、過去を追い求めないのですか。『かくのごとく、わたしに、眼が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔有った〕』と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成りません。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結していないことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならず、過去を追い求めません。『かくのごとく、わたしに、耳が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔有った〕』と……略……。『かくのごとく、わたしに、鼻が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔有った〕』と……。『かくのごとく、わたしに、舌が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔有った〕』と……。『かくのごとく、わたしに、身が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔有った〕』と……。『かくのごとく、わたしに、意が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔有った〕』と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成りません。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結していないことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならず、過去を追い求めません。友よ、このように、まさに、過去を追い求めません。

 

283. 友よ、では、どのように、未来を待ち望むのですか。『かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕』と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為します。心に、作為の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となり、未来を待ち望みます。『かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕』と……略……。『かくのごとく、わたしに、鼻が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔存するであろう〕』と……。『かくのごとく、わたしに、舌が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔存するであろう〕』と……。『かくのごとく、わたしに、身が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔存するであろう〕』と……。『かくのごとく、わたしに、意が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕』と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為します。心に、作為の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となり、未来を待ち望みます。友よ、このように、まさに、未来を待ち望みます。

 

 友よ、では、どのように、未来を待ち望まないのですか。『かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕』と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しません。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならず、未来を待ち望みません。『かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕』と……略……。『かくのごとく、わたしに、鼻が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔存するであろう〕』と……。『かくのごとく、わたしに、舌が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔存するであろう〕』と……。『かくのごとく、わたしに、身が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔存するであろう〕』と……。『かくのごとく、わたしに、意が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕』と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しません。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならず、未来を待ち望みません。友よ、このように、まさに、未来を待ち望みません。

 

284. 友よ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されるのですか。友よ、そして、すなわち、眼は、さらに、すなわち、諸々の形態は、両者ともに、これは、現在のものです。もし、その現在のものにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成るなら、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となり、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます。友よ、そして、すなわち、耳は、さらに、すなわち、諸々の音声は……略……。友よ、そして、すなわち、鼻は、さらに、すなわち、諸々の臭気は……。友よ、そして、すなわち、舌は、さらに、すなわち、諸々の味感は……。友よ、そして、すなわち、身は、さらに、すなわち、諸々の感触は……。友よ、そして、すなわち、意は、さらに、すなわち、諸々の法(意の対象)は、両者ともに、これは、現在のものです。もし、その現在のものにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成るなら、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となり、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます。友よ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます。

 

 友よ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されないのですか。友よ、そして、すなわち、眼は、さらに、すなわち、諸々の形態は、両者ともに、これは、現在のものです。もし、その現在のものにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成らないなら、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結していないことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならず、諸々の現在の法(事象)において翻弄されません。友よ、そして、すなわち、耳は、さらに、すなわち、諸々の音声は……略……。友よ、そして、すなわち、鼻は、さらに、すなわち、諸々の臭気は……。友よ、そして、すなわち、舌は、さらに、すなわち、諸々の味感は……。友よ、そして、すなわち、身は、さらに、すなわち、諸々の感触は……。友よ、そして、すなわち、意は、さらに、すなわち、諸々の法(意の対象)は、両者ともに、これは、現在のものです。もし、その現在のものにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成らないなら、〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結していないことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならず、諸々の現在の法(事象)において翻弄されません。友よ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されません。

 

285. 友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。友よ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者マハー・カッチャーナによって、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、〔見事に〕区分されました」と。

 

 「比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、賢者です。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、マハー・カッチャーナによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 マハー・カッチャーナと賢く幸いなる一夜ある者の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(134). ローマサカンギヤと賢く幸いなる一夜ある者の経

 

286. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ローマサカンギヤは、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでいます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、チャンダナ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくニグローダ〔樹〕の林園を照らして、尊者ローマサカンギヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、チャンダナ天子は、尊者ローマサカンギヤに、こう言いました。「比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか」と。「友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか」と。「比丘よ、まさに、わたしもまた、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。比丘よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか」と。「友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していません。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか」と。「比丘よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持しています」と。「友よ、また、すなわち、どのように、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持しているのですか」と。「比丘よ、これは、或る時のことです。世尊は、三十三天に住んでおられます。パーリチャッタカ〔樹〕の根元にあるパンドゥカンバラの石床(帝釈坐)において。そこで、世尊は、三十三天〔の神々〕たちに、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語りました。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』と。

 

 比丘よ、このように、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持しています。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、把握しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、学得しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持しなさい。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説は、さらに、区分は、義(道理)を伴ったものであり、初等の梵行たるものです」と。チャンダナ天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。

 

287. そこで、まさに、尊者ローマサカンギヤは、その夜が明けると、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ローマサカンギヤは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、これは、或る時のことです。わたしは、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでいます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。尊き方よ、そこで、まさに、或るひとりの天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくニグローダ〔樹〕の林園を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。尊き方よ、一方に立った、まさに、その天子は、わたしに、こう言いました。『比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その天子に、こう言いました。『友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していますか』と。『比丘よ、まさに、わたしもまた、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持していません。比丘よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか』と。『友よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していません。友よ、また、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持していますか』と。『比丘よ、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持しています』と。『友よ、また、すなわち、どのように、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持しているのですか』と。『比丘よ、これは、或る時のことです。世尊は、三十三天に住んでおられます。パーリチャッタカ〔樹〕の根元のパンドゥカンバラの石床において。そこで、世尊は、三十三天〔の神々〕たちに、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、語りました。

 

 〔すなわち〕「過去を追い求めないように。……略……。

 

 ……略……彼のことを、まさに、『賢く幸いなる一夜ある者』と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる」と。

 

 比丘よ、このように、まさに、わたしは、賢く幸いなる一夜ある者の諸々の詩偈を保持しています。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、把握しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、学得しなさい。比丘よ、あなたは、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、保持しなさい。賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説は、さらに、区分は、義(道理)を伴ったものであり、初等の梵行たるものです』と。尊き方よ、その天子は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、まさしく、その場において、消没しました。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、賢く幸いなる一夜ある者の、そして、誦説を、さらに、区分を、説示してください」と。

 

288. 「比丘よ、また、あなたは、その天子を知っていますか」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、その天子を知りません」と。「比丘よ、その天子は、チャンダナという名の者です。比丘よ、チャンダナ天子は、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。比丘よ、まさに、それでは、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ローマサカンギヤは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、『賢く幸いなる一夜ある者』と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる」と(※)。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 「比丘よ、では、どのように、過去を追い求めるのですか。……略……。比丘よ、このように、まさに、過去を追い求めます。比丘よ、では、どのように、過去を追い求めないのですか。……略……。比丘よ、このように、まさに、過去を追い求めません。比丘よ、では、どのように、未来を待ち望むのですか。……略……。比丘よ、このように、まさに、未来を待ち望みます。比丘よ、では、どのように、未来を待ち望まないのですか。……略……。比丘よ、このように、まさに、未来を待ち望みません。比丘よ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されるのですか。……略……。比丘よ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されます。比丘よ、では、どのように、諸々の現在の法(事象)において翻弄されないのですか。……略……。比丘よ、このように、まさに、諸々の現在の法(事象)において翻弄されません。

 

 〔すなわち〕『過去を追い求めないように。未来を待ち望まないように。すなわち、過去なるものは、それは、〔すでに〕捨棄されたもの。そして、未来は、〔いまだ〕至り得ざるもの。

 

 そして、彼が、現在の法(事象)を、〔時々刻々に〕その場その場において、〔あるがままに〕観察するなら、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕を、それを、知ある者は、〔時々刻々に〕増進するであろう。

 

 まさしく、今日、為すべきことを、熱く〔為せ〕。誰が、明日の死を知るであろう。なぜなら、大いなる軍団ある死魔と、彼と、わたしたちとに、〔期日の〕約束はないからである。

 

 昼に、夜に、休みなく、このように〔世に〕住む熱情ある者を、彼のことを、まさに、「賢く幸いなる一夜ある者」と、寂静者たる牟尼は告げ知らせる』」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ローマサカンギヤは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 ローマサカンギヤと賢く幸いなる一夜ある者の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(135). 小なる行為の区分の経

 

289. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、人間として〔世に〕存している、人間たる生類たちに、下劣なると精妙なることが見られるのですか。貴君ゴータマよ、まさに、人間たちは、少寿の者たちが見られ、長寿の者たちが見られ、多病の者たちが見られ、少病の者たちが見られ、醜き色艶の者たちが見られ、色艶ある者たちが見られ、少なき権能の者たちが見られ、大いなる権能の者たちが見られ、少なき財物の者たちが見られ、大いなる財物の者たちが見られ、卑しい家系の者たちが見られ、高貴の家系の者たちが見られ、智慧浅き者たちが見られ、智慧ある者たちが見られます。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、人間として〔世に〕存している、人間たる生類たちに、下劣なると精妙なることが見られるのですか」と。

 

 「学徒よ、有情たちは、行為を自らのものとする者たちであり、行為を相続する者たちであり、行為を根源とする者たちであり、行為を眷属とする者たちであり、行為を帰依所とする者たちです。行為は、有情たちを区別します。すなわち、この、下劣なると精妙なることへと」と。「まさに、わたしは、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、わたしが、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。

 

290. 「学徒よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「学徒よ、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、少寿の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、少寿の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、命あるものを殺す者として〔世に〕有ることです──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

 

 学徒よ、また、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、長寿の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、長寿の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むことです。

 

291. 学徒よ、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、手で、あるいは、石で、あるいは、棒で、あるいは、刃で、有情たちを悩み苦しめる類の者として〔世に〕有ります。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、多病の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、多病の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、あるいは、手で、あるいは、石で、あるいは、棒で、あるいは、刃で、有情たちを悩み苦しめる類の者として〔世に〕有ることです。

 

 学徒よ、また、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、手で、あるいは、石で、あるいは、棒で、あるいは、刃で、有情たちを悩み苦しめない類の者として〔世に〕有ります。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、少病の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、少病の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、あるいは、手で、あるいは、石で、あるいは、棒で、あるいは、刃で、有情たちを悩み苦しめない類の者として〔世に〕有ることです。

 

292. 学徒よ、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、醜き色艶の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、醜き色艶の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すことです。

 

 学徒よ、また、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、〔世に〕有り、たとえ、多くのことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しません。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、澄浄なる者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、澄浄なる者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、〔世に〕有り、たとえ、多くのことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さないことです。

 

293. 学徒よ、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、嫉妬の意ある者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬し、妬み、嫉妬〔の思い〕を結びます。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、少なき権能の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、少なき権能の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、嫉妬の意ある者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬し、妬み、嫉妬〔の思い〕を結ぶことです。

 

 学徒よ、また、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、嫉妬の意なき者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬せず、妬まず、嫉妬〔の思い〕を結びません。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、大いなる権能の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、大いなる権能の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、嫉妬の意なき者として〔世に〕有り、他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬せず、妬まず、嫉妬〔の思い〕を結ばないことです。

 

294. 学徒よ、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と居住所と灯具を、施す者ではなく〔世に〕有ります。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、少なき財物の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、少なき財物の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と居住所と灯具を、施す者ではなく〔世に〕有ることです。

 

 学徒よ、また、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と居住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ります。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、大いなる財物の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、大いなる財物の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、食べ物を、飲み物を、衣装を、乗物を、花飾と香料と塗料を、臥所と居住所と灯具を、施す者として〔世に〕有ることです。

 

295. 学徒よ、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有り、敬拝するべき者を敬拝せず、立礼するべき者を立礼せず、坐に値する者に坐を与えず、道に値する者に道を与えず(道を譲らず)、尊敬するべき者を尊敬せず、尊重するべき者を尊重せず、思慕するべき者を思慕せず、供養するべき者を供養しません。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、卑しい家系の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、卑しい家系の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有り、敬拝するべき者を敬拝せず、立礼するべき者を立礼せず、坐に値する者に坐を与えず、道に値する者に道を与えず、尊敬するべき者を尊敬せず、尊重するべき者を尊重せず、思慕するべき者を思慕せず、供養するべき者を供養しないことです。

 

 学徒よ、また、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有り、敬拝するべき者を敬拝し、立礼するべき者を立礼し、坐に値する者に坐を与え、道に値する者に道を与え、尊敬するべき者を尊敬し、尊重するべき者を尊重し、思慕するべき者を思慕し、供養するべき者を供養します。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、高貴の家系の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、高貴の家系の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有り、敬拝するべき者を敬拝し、立礼するべき者を立礼し、坐に値する者に坐を与え、道に値する者に道を与え、尊敬するべき者を尊敬し、尊重するべき者を尊重し、思慕するべき者を思慕し、供養するべき者を供養することです。

 

296. 学徒よ、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、『尊き方よ、何が、善なるものなのですか。何が、善ならざるものなのですか。何が、罪過を有するものなのですか。何が、罪過なきものなのですか。何が、慣れ親しむべきものなのですか。何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るのですか。また、あるいは、何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るのですか』と、近づいて行って、遍く問い尋ねる者ではなく〔世に〕有ります。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、智慧浅き者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、智慧浅き者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、『尊き方よ、何が、善なるものなのですか。何が、善ならざるものなのですか。何が、罪過を有するものなのですか。何が、罪過なきものなのですか。何が、慣れ親しむべきものなのですか。何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るのですか。また、あるいは、何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るのですか』と、近づいて行って、遍く問い尋ねる者ではなく〔世に〕有ることです。

 

 学徒よ、また、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、『尊き方よ、何が、善なるものなのですか。何が、善ならざるものなのですか。何が、罪過を有するものなのですか。何が、罪過なきものなのですか。何が、慣れ親しむべきものなのですか。何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るのですか。また、あるいは、何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るのですか』と、近づいて行って、遍く問い尋ねる者として〔世に〕有ります。彼は、このように完結され、このように受持された、その行為によって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。もし、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しないなら、それで、もし、人間たる〔境遇〕に至り着くなら、生まれ落ちる、その場その場において、大いなる智慧の者として〔世に〕有ります。学徒よ、これは、大いなる智慧の者を等しく転起させる〔実践の〕道です。すなわち、この、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、『尊き方よ、何が、善なるものなのですか。何が、善ならざるものなのですか。何が、罪過を有するものなのですか。何が、罪過なきものなのですか。何が、慣れ親しむべきものなのですか。何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るのですか。また、あるいは、何が、慣れ親しむべきではないものなのですか。何が、わたしによって為されていると、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るのですか』と、近づいて行って、遍く問い尋ねる者として〔世に〕有ることです。

 

297. 学徒よ、かくのごとく、まさに、少寿の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、少寿の者たることを導き、長寿の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、長寿の者たることを導き、多病の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、多病の者たることを導き、少病の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、少病の者たることを導き、醜き色艶の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、醜き色艶の者たることを導き、澄浄の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、澄浄の者たることを導き、少なき権能の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、少なき権能の者たることを導き、大いなる権能の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、大いなる権能の者たることを導き、少なき財物の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、少なき財物の者たることを導き、大いなる財物の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、大いなる財物の者たることを導き、卑しい家系の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、卑しい家系の者たることを導き、高貴の家系の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、高貴の家系の者たることを導き、智慧浅き者を等しく転起させる〔実践の〕道は、智慧浅くあることを導き、大いなる智慧の者を等しく転起させる〔実践の〕道は、大いなる智慧の者たることを導きます。学徒よ、有情たちは、行為を自らのものとする者たちであり、行為を相続する者たちであり、行為を根源とする者たちであり、行為を眷属とする者たちであり、行為を帰依所とする者たちです。行為は、有情たちを区別します。すなわち、この、下劣なると精妙なることへと」と。

 

 このように説かれたとき、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

 

 小なる行為の区分の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(136). 大いなる行為の区分の経

 

298. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者サミッディは、林の小屋に住んでいます。そこで、まさに、ポータリプッタ遍歴遊行者が、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、尊者サミッディのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サミッディを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ポータリプッタ遍歴遊行者は、尊者サミッディに、こう言いました。「友よ、サミッディよ、わたしは、このことを、沙門ゴータマの、面前で聞き、面前で受けました。『身体の行為は、無駄である。言葉の行為は、無駄である。意の行為だけが、真理()である』と。そして、『その入定(等持)に入定したなら、何であれ感受しない、その入定が存在する』」と。「友よ、ポータリプッタよ、まさに、このように言ってはいけません。友よ、ポータリプッタよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。友よ、ポータリプッタよ、まさに、世尊は、このように説きません。『身体の行為は、無駄である。言葉の行為は、無駄である。意の行為だけが、真理である』と。そして、『その入定に入定したなら、何であれ感受しない、その入定が存在する』」と。「友よ、サミッディよ、〔あなたが〕出家者として〔世に〕存し、どれだけの長さとなりますか」と。「友よ、長くはありません。三年です」と。「ここにおいて、今や、わたしどもは、長老の比丘たちに、何を説くというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、このように、新参の比丘が、教師を、遍く守るべきと思い考えるとは。友よ、サミッディよ、思欲(:心の思い・意志)あるものとして、身体によって、言葉によって、意によって、行為を為して、彼は、何を感受するのですか」と。「友よ、ポータリプッタよ、思欲あるものとして、身体によって、言葉によって、意によって、行為を為して、彼は、苦痛を感受します」と。そこで、まさに、ポータリプッタ遍歴遊行者は、尊者サミッディの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

299. そこで、まさに、尊者サミッディは、ポータリプッタ遍歴遊行者が立ち去ったすぐあと、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サミッディは、すなわち、ポータリプッタ遍歴遊行者を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、尊者アーナンダに告げました。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、尊者サミッディに、こう言いました。「友よ、サミッディよ、まさに、このことは、世尊と会見するための議題として存します。友よ、サミッディよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者サミッディは、尊者アーナンダに答えました。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、尊者サミッディは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者サミッディの、ポータリプッタ遍歴遊行者を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、尊者アーナンダに、こう言いました。「アーナンダよ、まさに、わたしは、ポータリプッタ遍歴遊行者を見ることさえも証知しません(記憶しない)。また、どうして、このような形態の議論と談論を〔証知するというのでしょう〕。アーナンダよ、そして、この愚人のサミッディによって、ポータリプッタ遍歴遊行者に、区分が為されるべき問いが、〔区分されずに〕一定して説き明かされたのです」と。このように説かれたとき、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、それで、もし、尊者サミッディによって、このことに関して、『それが何であれ、感受されたものは、それは、苦痛のうちにある』〔と、このように〕語られたなら」と。

 

300. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、まさに、あなたは見ますか──愚人のウダーインの邪道を。アーナンダよ、まさに、わたしは、了知しました。『まさしく、今や、この愚人のウダーインは、浮かび上がりながらも、根源ならずに浮かび上がるであろう』と。アーナンダよ、まさしく、最初に、ポータリプッタ遍歴遊行者によって、三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)が尋ねられたのです。アーナンダよ、それで、もし、この愚人のサミッディが、このように尋ねられたとして、ポータリプッタ遍歴遊行者に、このように説き明かすべきです。『友よ、ポータリプッタよ、安楽として感受されるべき行為を、身体によって、言葉によって、意によって、思欲あるものとして為して、彼は、安楽を感受します。友よ、ポータリプッタよ、苦痛として感受されるべき行為を、身体によって、言葉によって、意によって、思欲あるものとして為して、彼は、苦痛を感受します。友よ、ポータリプッタよ、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき行為を、身体によって、言葉によって、意によって、思欲あるものとして為して、彼は、苦でもなく楽でもないものを感受します』と。アーナンダよ、このように説き明かしながら、まさに、愚人のサミッディは、ポータリプッタ遍歴遊行者に、正しく説き明かしつつ正しく説き明かすべきです。アーナンダよ、しかしながら、また、愚者にして明敏ならざる者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの、では、誰が、そして、どうして、如来の、大いなる行為の区分を知るというのでしょう。アーナンダよ、それで、もし、あなたたちが、大いなる行為の区分を区分している如来の〔言葉を〕聞くなら」と。

 

 「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、大いなる行為の区分を区分するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、一部の人は、ここに、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、憎悪している心の者として〔世に〕有り、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、ここに、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、憎悪している心の者として〔世に〕有り、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

 アーナンダよ、ここに、一部の人は、ここに、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。

 

 アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、ここに、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

301. アーナンダよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心の禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、人間を超越した清浄の天眼によって、この人を見ます。ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者としてあり、虚偽を説く者としてあり、中傷の言葉ある者としてあり、粗暴な言葉ある者としてあり、雑駁な虚論ある者としてあり、強欲〔の思い〕ある者としてあり、憎悪している心の者としてあり、誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見ます。彼は、このように言います。『ああ、まさに、諸々の悪しき行為は存在する。悪しき行ないの報い(異熟)は存在する。わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり……略……誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見る』と。彼は、このように言います。『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は……略……誤った見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する。すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と。かくのごとく、彼は、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用します。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。

 

 アーナンダよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心の禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、人間を超越した清浄の天眼によって、この人を見ます。ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり……略……誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのを見ます。彼は、このように言います。『ああ、まさに、諸々の悪しき行為は存在しない。悪しき行ないの報いは存在しない。わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり……略……誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのを見る』と。彼は、このように言います。『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は……略……誤った見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する。すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と。かくのごとく、彼は、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用します。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。

 

 アーナンダよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心の禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、人間を超越した清浄の天眼によって、この人を見ます。ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者としてあり、虚偽を説くことから離間した者としてあり、中傷の言葉から離間した者としてあり、粗暴な言葉から離間した者としてあり、雑駁な虚論から離間した者としてあり、強欲〔の思い〕なき者としてあり、憎悪していない心の者としてあり、正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのを見ます。彼は、このように言います。『ああ、まさに、諸々の善き行為は存在する。善き行ないの報いは存在する。わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり……略……正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのを見る』と。彼は、このように言います。『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は……略……正しい見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する。すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と。かくのごとく、彼は、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用します。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。

 

 アーナンダよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、熱情に起因して、精励に起因して、専念に起因して、不放逸に起因して、正しく意を為すことに起因して、そのような形態の〔止寂の〕心の禅定を体得し、定められたとおりに心があるとき、人間を超越した清浄の天眼によって、この人を見ます。ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり……略……正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見ます。彼は、このように言います。『ああ、まさに、諸々の善き行為は存在しない。善き行ないの報いは存在しない。わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり……略……正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見る』と。彼は、このように言います。『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は……略……正しい見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する。すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と。かくのごとく、彼は、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用します。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。

 

302. アーナンダよ、そこで、すなわち、この、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、このように言うなら、『ああ、まさに、諸々の悪しき行為は存在する。悪しき行ないの報いは存在する』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めます。すなわち、また、彼が、このように言うなら、『わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり……略……誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見る』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めます。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、このように言うなら、『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は……略……誤った見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、このように言うなら、『すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるとして、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用するなら、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、如来の、大いなる行為の区分についての知恵は、他のように有るからです。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、このように言うなら、『ああ、まさに、諸々の悪しき行為は存在しない。悪しき行ないの報いは存在しない』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、このように言うなら、『わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり……略……誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのを見る』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めます。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、このように言うなら、『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は……略……誤った見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、このように言うなら、『すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるとして、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用するなら、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、如来の、大いなる行為の区分についての知恵は、他のように有るからです。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、このように言うなら、『ああ、まさに、諸々の善き行為は存在する。善き行ないの報いは存在する』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めます。すなわち、また、彼が、このように言うなら、『わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり……略……正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのを見る』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めます。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、このように言うなら、『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は……略……正しい見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、このように言うなら、『すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるとして、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用するなら、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、如来の、大いなる行為の区分についての知恵は、他のように有るからです。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、このように言うなら、『ああ、まさに、諸々の善き行為は存在しない。善き行ないの報いは存在しない』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、このように言うなら、『わたしは、この人を見た。ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり……略……正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見る』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めます。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、このように言うなら、『ああ、まさに、すなわち、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は……略……正しい見解ある者は、その全てが、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する』と、彼のこの〔言葉〕を、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、このように言うなら、『すなわち、このように知る者たちは、彼らは、正しく知る。すなわち、他のように知る者たちは、彼らには、誤った知恵がある』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。すなわち、また、彼が、まさしく、それが、彼の、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるとして、まさしく、それに、そこにおいて、強き偏執あることから、固着して語用するなら、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、彼のこの〔言葉〕をもまた、〔わたしは〕認めません。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、如来の、大いなる行為の区分についての知恵は、他のように有るからです。

 

303. アーナンダよ、そこで、すなわち、ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり……略……誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、この人ですが、あるいは、彼には、その、苦痛として感受されるべき悪しき行為が、過去において為されたものとして有るか(現時点より過去に悪業が作られる)、あるいは、彼には、その、苦痛として感受されるべき悪しき行為が、のちに為されたものとして有るか(現時点より未来に悪業が作られる)、あるいは、彼には、誤った見解が、死の時において完結され受持されたものとして有るか、〔そのいずれかです〕。それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。そして、すなわち、まさに、彼が、ここに、命あるものを殺す者として〔世に〕有るなら、与えられていないものを取る者として〔世に〕有るなら……略……誤った見解ある者として〔世に〕有るなら、その〔行為〕の報いを、まさしく、所見の法(現世)において、あるいは、再生して、あるいは、他の時機において、得知します。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、ここに、命あるものを殺す者としてあり、与えられていないものを取る者としてあり……略……誤った見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、この人ですが、あるいは、彼には、その、安楽として感受されるべき善き行為が、過去において為されたものとして有るか、あるいは、彼には、その、安楽として感受されるべき善き行為が、のちに為されたものとして有るか、あるいは、彼には、正しい見解が、死の時において完結され受持されたものとして有るか、〔そのいずれかです〕。それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。そして、すなわち、まさに、彼が、ここに、命あるものを殺す者として〔世に〕有るなら、与えられていないものを取る者として〔世に〕有るなら……略……誤った見解ある者として〔世に〕有るなら、その〔行為〕の報いを、まさしく、所見の法(現世)において、あるいは、再生して、あるいは、他の時機において、得知します。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり……略……正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生する、この人ですが、あるいは、彼には、その、安楽として感受されるべき善き行為が、過去において為されたものとして有るか、あるいは、彼には、その、安楽として感受されるべき善き行為が、のちに為されたものとして有るか、あるいは、彼には、正しい見解が、死の時において完結され受持されたものとして有るか、〔そのいずれかです〕。それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。そして、すなわち、まさに、彼が、ここに、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有るなら、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有るなら……略……正しい見解ある者として〔世に〕有るなら、その〔行為〕の報いを、まさしく、所見の法(現世)において、あるいは、再生して、あるいは、他の時機において、得知します。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この人が、ここに、命あるものを殺すことから離間した者としてあり、与えられていないものを取ることから離間した者としてあり……略……正しい見解ある者としてあり、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する、この人ですが、あるいは、彼には、その、苦痛として感受されるべき悪しき行為が、過去において為されたものとして有るか、あるいは、彼には、その、苦痛として感受されるべき悪しき行為が、のちに為されたものとして有るか、あるいは、彼には、誤った見解が、死の時において完結され受持されたものとして有るか、〔そのいずれかです〕。それによって、彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。そして、すなわち、まさに、彼が、ここに、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有るなら、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有るなら……略……正しい見解ある者として〔世に〕有るなら、その〔行為〕の報いを、まさしく、所見の法(現世)において、あるいは、再生して、あるいは、他の時機において、得知します。

 

 アーナンダよ、かくのごとく、まさに、実なきものであり、実なきものにたいし輝きある、〔悪しき〕行為が存在します。実なきものであり、実あるものにたいし輝きある、〔悪しき〕行為が存在します。まさしく、そして、実あるものであり、かつまた、実あるものにたいし輝きある、〔善き〕行為が存在します。実あるものであり、実なきものにたいし輝きある、〔善き〕行為が存在します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる行為の区分の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(137). 六つの〔認識の〕場所の区分の経

 

304. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所の区分を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「『六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)が知られるべきです。六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)が知られるべきです。六つの識知〔作用〕の体系が知られるべきです。六つの接触の体系が知られるべきです。十八の意の細かい想念が知られるべきです。三十六の有情の境処が知られるべきです。そこで、これに依拠して、これを捨棄しなさい。すなわち、聖者が慣れ親しみ、すなわち、聖者が慣れ親しみながら、教師として、衆に教示するに値する、三つの気づきの確立があります。彼は、「〔心の〕制止(瑜伽)の教師たちのなかの、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者である」〔と〕説かれます』とは、これは、六つの内なる〔認識の〕場所の区分の誦説(概説)です。

 

305. 『六つの内なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。『六つの内なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの外なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。形態の〔認識の〕場所であり、音声の〔認識の〕場所であり、臭気の〔認識の〕場所であり、味感の〔認識の〕場所であり、感触の〔認識の〕場所であり、法(意の対象)の〔認識の〕場所です。『六つの外なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの識知〔作用〕の体系が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼の識知〔作用〕であり、耳の識知〔作用〕であり、鼻の識知〔作用〕であり、舌の識知〔作用〕であり、身の識知〔作用〕であり、意の識知〔作用〕です。『六つの識知〔作用〕の体系が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの接触の体系が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼の接触であり、耳の接触であり、鼻の接触であり、舌の接触であり、身の接触であり、意の接触です。『六つの接触の体系が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『十八の意の細かい想念が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼によって、形態を見て、悦意が止住するべき形態を細かく想念し、失意が止住するべき形態を細かく想念し、放捨が止住するべき形態を細かく想念します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、悦意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念し、失意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念し、放捨が止住するべき法(意の対象)を細かく想念します。かくのごとく、六つの悦意の細かい想念があり、六つの失意の細かい想念があり、六つの放捨の細かい想念があります。『十八の意の細かい想念が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

306. 『三十六の有情の境処が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。六つの家〔の生活〕に依拠した悦意であり、六つの離欲に依拠した悦意であり、六つの家〔の生活〕に依拠した失意であり、六つの離欲に依拠した失意であり、六つの家〔の生活〕に依拠した放捨であり、六つの離欲に依拠した放捨です。そこにおいて、どのようなものが、六つの家〔の生活〕に依拠した悦意なのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、意が喜びとする世の財貨に関係したものの──あるいは、獲得あるのを、獲得あるものと等しく随観していると──あるいは、獲得された過去あるもので、過去において、過ぎ去り、止滅し、変化したものを等しく随念していると──悦意〔の思い〕が生起します(回想して喜ぶ)。すなわち、このような形態の悦意〔の思い〕は、これは、家〔の生活〕に依拠した悦意と説かれます。耳によって識知されるべき諸々の音声で……。鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……。舌によって識知されるべき諸々の味感で……。身によって識知されるべき諸々の感触で……。意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い……略……悦意〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の悦意〔の思い〕は、これは、家〔の生活〕に依拠した悦意と説かれます。これらの六つの家〔の生活〕に依拠した悦意があります。

 

 そこにおいて、どのようなものが、六つの離欲に依拠した悦意なのですか。まさしく、しかし、諸々の形態の、無常なることを見出して、変化と離貪と止滅を〔見出して〕、『諸々の形態は、まさしく、そして、過去において、さらに、今現在も、それらの形態の全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、悦意〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の悦意〔の思い〕は、これは、離欲に依拠した悦意と説かれます。まさしく、しかし、諸々の音声の……。まさしく、しかし、諸々の臭気の……。まさしく、しかし、諸々の味感の……。まさしく、しかし、諸々の感触の……。まさしく、しかし、諸々の法(意の対象)の、無常なることを見出して、変化と離貪と止滅を〔見出して〕、『諸々の法(意の対象)は、まさしく、そして、過去において、さらに、今現在も、それらの法(意の対象)の全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、悦意〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の悦意〔の思い〕は、これは、離欲に依拠した悦意と説かれます。これらの六つの離欲に依拠した悦意があります。

 

307. そこにおいて、どのようなものが、六つの家〔の生活〕に依拠した失意なのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で……略……。耳によって識知されるべき諸々の音声で……。鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……。舌によって識知されるべき諸々の味感で……。身によって識知されるべき諸々の感触で……。意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、意が喜びとする世の財貨に関係したものの──あるいは、獲得なくあるのを、獲得なくあるものと等しく随観していると──あるいは、獲得された過去なきもので、過去において、過ぎ去り、止滅し、変化したものを等しく随念していると──失意〔の思い〕が生起します(回想して悲しむ)。すなわち、このような形態の失意〔の思い〕は、これは、家〔の生活〕に依拠した失意と説かれます。これらの六つの家〔の生活〕に依拠した失意があります。

 

 そこにおいて、どのようなものが、六つの離欲に依拠した失意なのですか。まさしく、しかし、諸々の形態の、無常なることを見出して、変化と離貪と止滅を〔見出して〕、『諸々の形態は、まさしく、そして、過去において、さらに、今現在も、それらの形態の全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、諸々の無上なる解脱にたいし、羨望〔の思い〕を現起させます。『聖者たちが、今現在、その〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むとして、いったい、いつ、まさに、わたしは、その〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだろう』と。諸々の無上なる解脱にたいし、羨望〔の思い〕を現起させていると、羨望〔の思い〕を縁として、失意〔の思い〕が生起します。これは、離欲に依拠した失意と説かれます。まさしく、しかし、諸々の音声の……。まさしく、しかし、諸々の臭気の……。まさしく、しかし、諸々の味感の……。まさしく、しかし、諸々の感触の……。まさしく、しかし、諸々の法(意の対象)の、無常なることを見出して、変化と離貪と止滅を〔見出して〕、『諸々の法(意の対象)は、まさしく、そして、過去において、さらに、今現在も、それらの法(意の対象)の全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、諸々の無上なる解脱にたいし、羨望〔の思い〕を現起させます。『聖者たちが、今現在、その〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むとして、いったい、いつ、まさに、わたしは、その〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだろう』と。諸々の無上なる解脱にたいし、羨望〔の思い〕を現起させていると、羨望〔の思い〕を縁として、失意〔の思い〕が生起します。これは、離欲に依拠した失意と説かれます。これらの六つの離欲に依拠した失意があります。

 

308. そこにおいて、どのようなものが、六つの家〔の生活〕に依拠した放捨なのですか。眼によって、形態を見て、迷乱した愚者たる凡夫に、〔自身の〕限界に勝利なく〔行為の〕報いに勝利なく〔生存の〕危険を見ない無聞の凡夫に、放捨〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の放捨〔の思い〕は、それは、形態を超克しません。それゆえに、それは、家〔の生活〕に依拠した放捨と説かれます。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、迷乱した愚者たる凡夫に、〔自身の〕限界に勝利なく〔行為の〕報いに勝利なく〔生存の〕危険を見ない無聞の凡夫に、放捨〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の放捨〔の思い〕は、それは、法(意の対象)を超克しません。それゆえに、それは、家〔の生活〕に依拠した放捨と説かれます。これらの六つの家〔の生活〕に依拠した放捨があります。

 

 そこにおいて、どのようなものが、六つの離欲に依拠した放捨なのですか。まさしく、しかし、諸々の形態の、無常なることを見出して、変化と離貪と止滅を〔見出して〕、『諸々の形態は、まさしく、そして、過去において、さらに、今現在も、それらの形態の全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、放捨〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の放捨〔の思い〕は、それは、形態を超克します。それゆえに、それは、離欲に依拠した放捨と説かれます。まさしく、しかし、諸々の音声の……。まさしく、しかし、諸々の臭気の……。まさしく、しかし、諸々の味感の……。まさしく、しかし、諸々の感触の……。まさしく、しかし、諸々の法(意の対象)の、無常なることを見出して、変化と離貪と止滅を〔見出して〕、『諸々の法(意の対象)は、まさしく、そして、過去において、さらに、今現在も、それらの法(意の対象)の全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ていると、放捨〔の思い〕が生起します。すなわち、このような形態の放捨〔の思い〕は、それは、法(意の対象)を超克します。それゆえに、それは、離欲に依拠した放捨と説かれます。これらの六つの離欲に依拠した放捨があります。『三十六の有情の境処が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

309. 『そこで、これに依拠して、これを捨棄しなさい』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、そこで、すなわち、六つの離欲に依拠した悦意に、それらに依拠して、それらに由来して、すなわち、六つの家〔の生活〕に依拠した悦意があるとして、それらを捨棄し、それらを超越しなさい。このように、これら〔の悦意〕の捨棄が有り、このように、これら〔の悦意〕の超越が有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、六つの離欲に依拠した失意に、それらに依拠して、それらに由来して、すなわち、六つの家〔の生活〕に依拠した失意があるとして、それらを捨棄し、それらを超越しなさい。このように、これら〔の失意〕の捨棄が有り、このように、これら〔の失意〕の超越が有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、六つの離欲に依拠した放捨に、それらに依拠して、それらに由来して、すなわち、六つの家〔の生活〕に依拠した放捨があるとして、それらを捨棄し、それらを超越しなさい。このように、これら〔の放捨〕の捨棄が有り、このように、これら〔の放捨〕の超越が有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、六つの離欲に依拠した悦意に、それらに依拠して、それらに由来して、すなわち、六つの離欲に依拠した失意があるとして、それらを捨棄し、それらを超越しなさい。このように、これら〔の失意〕の捨棄が有り、このように、これら〔の失意〕の超越が有ります。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、六つの離欲に依拠した放捨に、それらに依拠して、それらに由来して、すなわち、六つの離欲に依拠した悦意があるとして、それらを捨棄し、それらを超越しなさい。このように、これら〔の悦意〕の捨棄が有り、このように、これら〔の悦意〕の超越が有ります。

 

310. 比丘たちよ、種々なることがあり種々なることに依拠した放捨が存在します。一なることがあり一なることに依拠した放捨が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、種々なることがあり種々なることに依拠した放捨なのですか。比丘たちよ、放捨が、諸々の形態にたいし存在し、諸々の音声にたいし存在し、諸々の臭気にたいし存在し、諸々の味感にたいし存在し、諸々の感触にたいし存在します。比丘たちよ、これは、種々なることがあり種々なることに依拠した放捨です。比丘たちよ、では、どのようなものが、一なることがあり一なることに依拠した放捨なのですか。比丘たちよ、放捨が、虚空無辺なる〔認識の〕場所に依拠したものとして存在し、識知無辺なる〔認識の〕場所に依拠したものとして存在し、無所有なる〔認識の〕場所に依拠したものとして存在し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に依拠したものとして存在します。比丘たちよ、これは、一なることがあり一なることに依拠した放捨です。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、一なることがあり一なることに依拠した放捨に、それに依拠して、それに由来して、すなわち、この、種々なることがあり種々なることに依拠した放捨があるとして、それを捨棄し、それを超越しなさい。このように、この〔放捨〕の捨棄が有り、このように、この〔放捨〕の超越が有ります。

 

 比丘たちよ、それに関わらない〔あり方〕に依拠して、それに関わらない〔あり方〕に由来して、すなわち、この、一なることがあり一なることに依拠した放捨があるとして、それを捨棄し、それを超越しなさい。このように、この〔放捨〕の捨棄が有り、このように、この〔放捨〕の超越が有ります。『そこで、これに依拠して、これを捨棄しなさい』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

311. 『すなわち、聖者が慣れ親しみ、すなわち、聖者が慣れ親しみながら、教師として、衆に教示するに値する、三つの気づきの確立があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、教師が、弟子たちに、法(教え)を説示します──〔彼らの〕利益を求める者として、慈しみ〔の思い〕ある者として、慈しみ〔の思い〕を抱いて。『これは、あなたたちの利益のために』『これは、あなたたちの安楽のために』と。彼の〔言葉を〕、弟子たちは、聞こうとせず、耳を傾けず、了知のための心を現起させません。そして、教師の教えから外れて行持します。比丘たちよ、そこで、如来は、まさしく、そして、わが意を得ない者と成らず、かつまた、わが意を得ないことを得知せず、さらに、〔煩悩が〕漏れ出ない者として、正知と気づきの者として、〔世に〕住みます。比丘たちよ、すなわち、聖者が慣れ親しみ、すなわち、聖者が慣れ親しみながら、教師として、衆に教示するに値する、この第一の気づきの確立があります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、教師が、弟子たちに、法(教え)を説示します──〔彼らの〕利益を求める者として、慈しみ〔の思い〕ある者として、慈しみ〔の思い〕を抱いて。『これは、あなたたちの利益のために』『これは、あなたたちの安楽のために』と。彼の〔言葉を〕、一部の弟子たちは、聞こうとせず、耳を傾けず、了知のための心を現起させません。そして、教師の教えから外れて行持します。一部の弟子たちは、聞こうとし、耳を傾け、了知のための心を現起させます。そして、教師の教えから外れて行持しません。比丘たちよ、そこで、如来は、まさしく、そして、わが意を得ない者と成らず、さらに、わが意を得ないことを得知しません。そして、わが意を得た者と成らず、さらに、わが意を得たことを得知しません。かつまた、わが意を得ないことも、かつまた、わが意を得たことも、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住み、正知と気づきの者として〔世に住みます〕。比丘たちよ、すなわち、聖者が慣れ親しみ、すなわち、聖者が慣れ親しみながら、教師として、衆に教示するに値する、この(※)第二の気づきの確立があります。

 

※ テキストには Ida vuccati, bhikkhave とあるが、PTS版により Ida, bhikkhave と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、教師が、弟子たちに、法(教え)を説示します──〔彼らの〕利益を求める者として、慈しみ〔の思い〕ある者として、慈しみ〔の思い〕を抱いて。『これは、あなたたちの利益のために』『これは、あなたたちの安楽のために』と。彼の〔言葉を〕、弟子たちは、聞こうとし、耳を傾け、了知のための心を現起させます。そして、教師の教えから外れて行持しません。比丘たちよ、そこで、如来は、まさしく、そして、わが意を得た者と成り、かつまた、わが意を得たことを得知し、さらに、〔煩悩が〕漏れ出ない者として、正知と気づきの者として、〔世に〕住みます。比丘たちよ、すなわち、聖者が慣れ親しみ、すなわち、聖者が慣れ親しみながら、教師として、衆に教示するに値する、この第三の気づきの確立があります。『すなわち、聖者が慣れ親しみ、すなわち、聖者が慣れ親しみながら、教師として、衆に教示するに値する、三つの気づきの確立があります』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

312. 『彼は、「〔心の〕制止の教師たちのなかの、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者である」〔と〕説かれます』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、調御されるべき象が、象の調御者によって行かせられたなら、一つの方角だけに走り行きます──あるいは、東に、あるいは、西に、あるいは、南に、あるいは、北に。比丘たちよ、調御されるべき馬が、馬の調御者によって行かせられたなら、一つの方角だけに走り行きます──あるいは、東に、あるいは、西に、あるいは、南に、あるいは、北に。比丘たちよ、調御されるべき牛が、牛の調御者によって行かせられたなら、一つの方角だけに走り行きます──あるいは、東に、あるいは、西に、あるいは、南に、あるいは、北に。比丘たちよ、調御されるべき人が、阿羅漢にして正等覚者たる如来によって(※)行かせられたなら、八つの方角に走り行きます。形態ある者として、諸々の形態を見ます。これは、第一の方角です。内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の方角です。『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の方角です。全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の方角です。全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の方角です。全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の方角です。全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の方角です。全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。比丘たちよ、調御されるべき人が、阿羅漢にして正等覚者たる如来によって行かせられたなら、これらの八つの方角に走り行きます。『彼は、「〔心の〕制止の教師たちのなかの、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者である」〔と〕説かれます』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。

 

※ テキストには Tathāgatena hi とあるが、PTS版により hi を削除する。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 六つの〔認識の〕場所の区分の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(138). 誦説の区分の経

 

313. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、誦説の区分を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず(固着せず)、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

314. そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思いが〕有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。

 

 「友よ、カッチャーナよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません』と。友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。友よ、カッチャーナよ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ」と。

 

315. 「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。「友よ、カッチャーナよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ──重からざるものと為して」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに答えました。そこで、尊者マハー・カッチャーナは、こう言いました。

 

 「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。

 

316. 友よ、では、どのように、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱し、拡散し』と説かれるのですか。友よ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、識知〔作用〕が、形態の形相に従い行くものと成り、形態の形相の悦楽によって拘束されたものと〔成り〕、形態の形相の悦楽によって結縛されたものと〔成り〕、形態の形相の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成るなら〕、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱し、拡散し』と説かれます。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、識知〔作用〕が、法(意の対象)の形相に従い行くものと成り、法(意の対象)の形相の悦楽によって拘束されたものと〔成り〕、法(意の対象)の形相の悦楽によって結縛されたものと〔成り〕、法(意の対象)の形相の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成るなら〕、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱し、拡散し』と説かれます。友よ、このように、まさに、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱し、拡散し』と説かれます。

 

317. 友よ、では、どのように、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず』と説かれるのですか。友よ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、識知〔作用〕が、形態の形相に従い行くものと成らず、形態の形相の悦楽によって拘束されたものと〔成ら〕ず、形態の形相の悦楽によって結縛されたものと〔成ら〕ず、形態の形相の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成ら〕ないなら、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず』と説かれます。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、識知〔作用〕が、法(意の対象)の形相に従い行くものと成らず、法(意の対象)の形相の悦楽によって拘束されたものと〔成ら〕ず、法(意の対象)の形相の悦楽によって結縛されたものと〔成ら〕ず、法(意の対象)の形相の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成ら〕ないなら、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず』と説かれます。友よ、このように、まさに、『〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず』と説かれます。

 

318. 友よ、では、どのように、『内に、止住し』と説かれるのですか。友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、遠離から生じる喜悦と安楽に従い行くものと成り、遠離から生じる喜悦と安楽の悦楽によって拘束されたものと〔成り〕、遠離から生じる喜悦と安楽の悦楽によって結縛されたものと〔成り〕、遠離から生じる喜悦と安楽の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成るなら〕、『内に、止住した心』と説かれます。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、禅定から生じる喜悦と安楽に従い行くものと成り、禅定から生じる喜悦と安楽の悦楽によって拘束されたものと〔成り〕、禅定から生じる喜悦と安楽の悦楽によって結縛されたものと〔成り〕、禅定から生じる喜悦と安楽の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成るなら〕、『内に、止住した心』と説かれます。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、放捨に従い行くものと成り、放捨の安楽の悦楽によって拘束されたものと〔成り〕、放捨の安楽の悦楽によって結縛されたものと〔成り〕、放捨の安楽の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成るなら〕、『内に、止住した心』と説かれます。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、苦でもなく楽でもないものに従い行くものと成り、苦でもなく楽でもないものによって拘束されたものと〔成り〕、苦でもなく楽でもないものの悦楽によって結縛されたものと〔成り〕、苦でもなく楽でもないものの悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成るなら〕、『内に、止住した心』と説かれます。友よ、このように、まさに、『内に、止住し』と説かれます。

 

319. 友よ、では、どのように、『内に、止住せず』と説かれるのですか。友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、遠離から生じる喜悦と安楽に従い行くものと成らず、遠離から生じる喜悦と安楽の悦楽によって拘束されたものと〔成ら〕ず、遠離から生じる喜悦と安楽の悦楽によって結縛されたものと〔成ら〕ず、遠離から生じる喜悦と安楽の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成ら〕ないなら、『内に、止住していない心』と説かれます。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、禅定から生じる喜悦と安楽に従い行くものと成らず、禅定から生じる喜悦と安楽の悦楽によって拘束されたものと〔成ら〕ず、禅定から生じる喜悦と安楽の悦楽によって結縛されたものと〔成ら〕ず、禅定から生じる喜悦と安楽の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成ら〕ないなら、『内に、止住していない心』と説かれます。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、放捨に従い行くものと成らず、放捨の安楽の悦楽によって拘束されたものと〔成ら〕ず、放捨の安楽の悦楽によって結縛されたものと〔成ら〕ず、放捨の安楽の悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成ら〕ないなら、『内に、止住していない心』と説かれます。

 

 友よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼に、識知〔作用〕が、苦でもなく楽でもないものに従い行くものと成らず、苦でもなく楽でもないものによって拘束されたものと〔成ら〕ず、苦でもなく楽でもないものの悦楽によって結縛されたものと〔成ら〕ず、苦でもなく楽でもないものの悦楽という束縛するものによって束縛されたものと〔成ら〕ないなら、『内に、止住していない心』と説かれます。友よ、このように、まさに、『内に、止住せず』と説かれます。

 

320. 友よ、では、どのように、〔何も〕執取せずして、〔何かに〕思い悩むことと成るのですか。友よ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その形態が変化し他なる状態となります。彼に、形態の変化と他なる状態あることから、形態の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ります。形態の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住します。心を完全に奪い去ることから、そして、恐懼ある者と成り、かつまた、悩苦ある者と〔成り〕、さらに、期待ある者と〔成り〕、そして、〔何も〕執取せずして(執取できずに)、〔何かに〕思い悩みます。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。彼に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、識知〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ります。識知〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住します。心を完全に奪い去ることから、そして、恐懼ある者と成り、かつまた、悩苦ある者と〔成り〕、さらに、期待ある者と〔成り〕、そして、〔何も〕執取せずして、〔何かに〕思い悩みます。友よ、このように、まさに、〔何も〕執取せずして、〔何かに〕思い悩むことと成ります。

 

321. 友よ、では、どのように、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことと成るのですか。友よ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。彼に、その形態が変化し他なる状態となります。彼に、形態の変化と他なる状態あることから、形態の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ることはありません。形態の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心を完全に奪い去らないことから、そして、恐懼ある者と成らず、かつまた、悩苦ある者と〔成ら〕ず、さらに、期待ある者と〔成ら〕ず、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩みません。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。彼に、その識知〔作用〕が変化し他なる状態となります。彼に、識知〔作用〕の変化と他なる状態あることから、識知〔作用〕の変化に遍く随転する識知〔作用〕が有ることはありません。識知〔作用〕の変化に遍く随転するものから生じる諸々の思い悩むことが、〔それらの〕法(性質)の生起が、彼の心を完全に奪い去って止住することはありません。心を完全に奪い去らないことから、そして、恐懼ある者と成らず、かつまた、悩苦ある者と〔成ら〕ず、さらに、期待ある者と〔成ら〕ず、そして、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩みません。友よ、このように、まさに、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まないことと成ります。

 

 友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように、義(意味)を了知します。尊者たちよ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。

 

322. そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません』と。

 

 尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、比丘は、近しく注視するべきです。彼が、近しく注視していると、そして、〔彼の〕識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まなくなる、そのとおり、そのとおりに、〔近しく注視するべきです〕。比丘たちよ、識知〔作用〕が、外に、散乱せず、拡散せず、内に、止住せず、〔そのように〕存しているとき、〔何も〕執取せずして、〔何も〕思い悩まずにいるなら、未来に、生と老と死の苦しみの集起と発生は有りません」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、教師の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ』と。

 

 尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者マハー・カッチャーナによって、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、〔見事に〕区分されました」と。

 

 「比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、賢者です。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、マハー・カッチャーナによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 誦説の区分の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(139). 相克なきものの区分の経

 

323. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、相克なき者の区分を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「『下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望の安楽に専念するべきではなく、さらに、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念(苦行)に専念するべきではありません。比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道(中道)が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。そして、賞揚を知るべきであり、さらに、指弾を知るべきであり、そして、賞揚を知って、さらに、指弾を知って、まさしく、賞揚するべきでもなく、指弾するべきでもなく、法(教え)だけを説示するべきです。安楽についての判断を知るべきであり、安楽についての判断を知って、内に、安楽に専念するべきです。内密の論を語るべきではなく、面前で〔名誉を〕毀損する〔論〕を話すべきではありません。まさしく、急ぐことなく、語るべきです──急ぎながら、ではなく。地方の言語に固着するべきではなく、呼称を逸脱するべきではありません』とは、これは、相克なき者の区分の誦説です。

 

324. 『下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望の安楽に専念するべきではなく、さらに、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念するべきではありません』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念は、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念に専念しないことは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念は、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念しないことは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。『下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望の安楽に専念するべきではなく、さらに、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念するべきではありません』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

325. 『比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。『比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

326. 『そして、賞揚を知るべきであり、さらに、指弾を知るべきであり、そして、賞揚を知って、さらに、指弾を知って、まさしく、賞揚するべきでもなく、指弾するべきでもなく、法(教え)だけを説示するべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、では、どのように、そして、賞揚と成り、さらに、指弾と〔成り〕、かつまた、法(教え)の説示と〔成ら〕ないのですか。『すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念に専念する者たちは、彼らの全てが、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道ある者たちである』と、かくのごとく説きながら、ここにおいて、或る者たちを指弾します。

 

 『すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念に専念しない者たちは、彼らの全てが、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道ある者たちである』と、かくのごとく説きながら、ここにおいて、或る者たちを賞揚します。

 

 『すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念する者たちは、彼らの全てが、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道ある者たちである』と、かくのごとく説きながら、ここにおいて、或る者たちを指弾します。

 

 『すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念しない者たちは、彼らの全てが、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道ある者たちである』と、かくのごとく説きながら、ここにおいて、或る者たちを賞揚します。

 

 『誰であれ、彼らの、〔迷いの〕生存に束縛するものが捨棄されていないなら、彼らの全てが、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道ある者たちである』と、かくのごとく説きながら、ここにおいて、或る者たちを指弾します。

 

 『誰であれ、彼らの、〔迷いの〕生存に束縛するものが捨棄されたなら、彼らの全てが、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道ある者たちである』と、かくのごとく説きながら、ここにおいて、或る者たちを賞揚します。比丘たちよ、このように、まさに、そして、賞揚と成り、さらに、指弾と〔成り〕、かつまた、法(教え)の説示と〔成り〕ません。

 

327. 比丘たちよ、では、どのように、まさしく、賞揚と成ることもなく、指弾と〔成ることも〕なく、かつまた、法(教え)の説示と〔成るのですか〕。『すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念に専念する者たちは、彼らの全てが、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道ある者たちである』と、このように言いません。しかしながら、まさに、『専念することは、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です』と、かくのごとく説きながら、法(教え)だけを説示します。

 

 『すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念に専念しない者たちは、彼らの全てが、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道ある者たちである』と、このように言いません。しかしながら、まさに、『専念しないことは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です』と、かくのごとく説きながら、法(教え)だけを説示します。

 

 『すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念する者たちは、彼らの全てが、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道ある者たちである』と、このように言いません。しかしながら、まさに、『専念することは、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です』と、かくのごとく説きながら、法(教え)だけを説示します。

 

 『すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念しない者たちは、彼らの全てが、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道ある者たちである』と、このように言いません。しかしながら、まさに、『専念しないことは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です』と、かくのごとく説きながら、法(教え)だけを説示します。

 

 『誰であれ、彼らの、〔迷いの〕生存に束縛するものが捨棄されていないなら、彼らの全てが、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道ある者たちである』と、このように言いません。しかしながら、まさに、『〔迷いの〕生存に束縛するものが捨棄されていないとき、生存もまた、捨棄されていないものと成ります』と、かくのごとく説きながら、法(教え)だけを説示します。

 

 『誰であれ、彼らの、〔迷いの〕生存に束縛するものが捨棄されたなら、彼らの全てが、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道ある者たちである』と、このように言いません。しかしながら、まさに、『〔迷いの〕生存に束縛するものが捨棄されたとき、生存もまた、捨棄されたものと成ります』と、かくのごとく説きながら、法(教え)だけを説示します。比丘たちよ、このように、まさに、まさしく、賞揚と成ることもなく、指弾と〔成ることも〕なく、かつまた、法(教え)の説示と〔成ります〕。『そして、賞揚を知るべきであり、さらに、指弾を知るべきであり、そして、賞揚を知って、さらに、指弾を知って、まさしく、賞揚するべきでもなく、指弾するべきでもなく、法(教え)だけを説示するべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

328. 『安楽についての判断を知るべきであり、安楽についての判断を知って、内に、安楽に専念するべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。糞便の安楽であり、凡夫の安楽であり、聖ならざる安楽であり、習修するべきではなく、修めるべきではなく、多く為すべきではなく、『この安楽には、恐怖するべきものがある』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これは、離欲の安楽と説かれます。遠離の安楽であり、寂止の安楽であり、正覚の安楽であり、習修するべきであり、修めるべきであり、多く為すべきであり、『この安楽には、恐怖するべきものはない』と、〔わたしは〕説きます。『安楽についての判断を知るべきであり、安楽についての判断を知って、内に、安楽に専念するべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

329. 『内密の論を語るべきではなく、面前で〔名誉を〕毀損する〔論〕を話すべきではありません』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、そこで、それを、内密の論と〔知り〕、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、可能であるかぎりは、その内密の論を語るべきではありません。それをまた、内密の論と〔知り〕、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、それをもまた説かないために学ぶべきです。しかしながら、まさに、それを、内密の論と〔知り〕、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そこで、その内密の論を説くための〔正しい〕時を知る者として存するべきです。比丘たちよ、そこで、それを、面前で〔名誉を〕毀損する論と〔知り〕、事実ならざるものと〔知り〕、真実ならざるものと〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、可能であるかぎりは、その面前で〔名誉を〕毀損する論を語るべきではありません。それをまた、面前で〔名誉を〕毀損する論と〔知り〕、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴わないものと知るなら、それをもまた説かないために学ぶべきです。しかしながら、まさに、それを、面前で〔名誉を〕毀損する論と〔知り〕、事実と〔知り〕、真実と〔知り〕、義(利益)を伴ったものと知るなら、そこで、その面前で〔名誉を〕毀損する論を説くための〔正しい〕時を知る者として存するべきです。『内密の論を語るべきではなく、面前で〔名誉を〕毀損する〔論〕を話すべきではありません』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

330. 『まさしく、急ぐことなく、語るべきです──急ぎながら、ではなく』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、そこで、急ぎながら語っていると、身体もまた疲弊し、心もまた打ちのめされ、声もまた打ちのめされ、喉もまた病みます。急いでいる者の語られたことは、明瞭ならざるものともまた成り、識知できないものと〔もまた成ります〕。比丘たちよ、そこで、急ぐことなく語っていると、身体もまた疲弊せず、心もまた打ちのめされず、声もまた打ちのめされず、喉もまた病みません。急いでいない者の語られたことは、明瞭なるものともまた成り、識知できるものと〔もまた成ります〕。『まさしく、急ぐことなく、語るべきです──急ぎながら、ではなく』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

331. 『地方の言語に固着するべきではなく、呼称を逸脱するべきではありません』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、では、どのように、そして、地方の言語への固着と成り、さらに、呼称における錯誤と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、まさしく、その〔同じもの〕を、諸々の一部の地方において、〔人々は〕『パーティ』と呼称し、『パッタ』と呼称し、『ヴィッタ』と呼称し、『サラーヴァ』と呼称し、『ダーローパ』と呼称し、『ポーナ』と呼称し、『ピシ―ラヴァント』と呼称します。かくのごとく、そのとおり、そのとおりに、それを、それぞれの諸地方において、〔人々が〕呼称するなら、そのとおり、そのとおりに、強き偏執あることから、固着して語用します。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。比丘たちよ、このように、まさに、そして、地方の言語への固着と成り、さらに、呼称における錯誤と〔成ります〕。

 

332. 比丘たちよ、では、どのように、そして、地方の言語への固着なきものと成り、さらに、呼称における錯誤なきものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、まさしく、その〔同じもの〕を、諸々の一部の地方において、〔人々は〕『パーティ』と呼称し、『パッタ』と呼称し、『ヴィッタ』と呼称し、『サラーヴァ』と呼称し、『ダーローパ』と呼称し、『ポーナ』と呼称し、『ピシ―ラヴァント』と呼称します。かくのごとく、そのとおり、そのとおりに、それを、それぞれの諸地方において、〔人々が〕呼称するなら、そのとおり、そのとおりに、『どうやら、尊者たちは、このことに関して、わたしに語用するらしい』と、固着することなく語用します。比丘たちよ、このように、まさに、そして、地方の言語への固着なきものと成り、さらに、呼称における錯誤なきものと〔成ります〕。『地方の言語に固着するべきではなく、呼称を逸脱するべきではありません』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

333. 比丘たちよ、そこで、すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念は、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、欲望と連鎖する安楽ある者の悦意への専念に専念しないことは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

334. 比丘たちよ、そこで、すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念は、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念に専念しないことは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

335. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、中なる〔実践の〕道は、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

336. 比丘たちよ、そこで、すなわち、そして、賞揚は、さらに、指弾は、そして、法(教え)の説示なきことは、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、そして、賞揚なきことは、さらに、指弾なきことは、そして、法(教え)の説示は、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

337. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、欲望の安楽は、糞便の安楽であり、凡夫の安楽であり、聖ならざる安楽であり、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、離欲の安楽は、遠離の安楽であり、寂止の安楽であり、正覚の安楽であり、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

338. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、内密の論が、事実ならざるものであり、真実ならざるものであり、義(利益)を伴わないものであるなら、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、内密の論が、事実であり、真実であり、義(利益)を伴わないものであるなら、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、内密の論が、事実であり、真実であり、義(利益)を伴ったものであるなら、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

339. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、面前で〔名誉を〕毀損する論が、事実ならざるものであり、真実ならざるものであり、義(利益)を伴わないものであるなら、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、面前で〔名誉を〕毀損する論が、事実であり、真実であり、義(利益)を伴わないものであるなら、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、面前で〔名誉を〕毀損する論が、事実であり、真実であり、義(利益)を伴ったものであるなら、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

340. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、急いでいる者の語られたものは、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、急いでいない者の語られたものは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

341. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、そして、地方の言語への固着は、さらに、呼称における錯誤は、この法(性質)は、苦痛を有し、害障を有し、葛藤を有し、苦悶を有する、誤った〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克を有するものです。比丘たちよ、そこで、すなわち、この、そして、地方の言語への固着なきものは、さらに、呼称における錯誤なきものは、この法(性質)は、苦痛なく、害障なく、葛藤なく、苦悶なき、正しい〔実践の〕道です。それゆえに、この法(性質)は、相克なきものです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、『そして、〔わたしたちは〕相克を有する法(性質)を知るのだ、さらに、〔わたしたちは〕相克なき法(性質)を知るのだ。そして、相克を有する法(性質)を知って、さらに、相克なき法(性質)を知って、〔わたしたちは〕相克なき〔実践の〕道を実践するのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、そして、良家の子息であるスブーティは、相克なき〔実践の〕道を実践したのです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 相克なきものの区分の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(140). 界域の区分の経

 

342. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕において、遊行〔の旅〕を歩みながら、ラージャガハのあるところに、そこへと至り着き、バッガヴァ陶工のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、バッガヴァ陶工に、こう言いました。「バッガヴァよ、それで、もし、あなたにとって、負担でないなら、一夜のあいだ、〔この〕住居に住みたいのですが」と。「尊き方よ、まさに、わたしにとって、負担ではありません。しかしながら、ここにおいて、最初に住に入った出家者が存在します(先客がいます)。それで、もし、彼が認めるなら、尊き方よ、安楽なるままに、お住みください」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、プックサーティという名の良家の子息が、世尊を指定して、信によって家から家なきへと出家したのです。彼が、その陶工の住居において、最初に住に入った者と成ります(その先客だった)。そこで、まさに、世尊は、尊者プックサーティのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者プックサーティに、こう言いました。「比丘よ、それで、もし、あなたにとって、負担でないなら、一夜のあいだ、〔この〕住居に住みたいのですが」と。「友よ、この陶工の住居は、広々としています。尊者は、安楽なるままに、お住みください」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、陶工の住居に入って、一方に草の敷物を設けて坐りました──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、坐って過ごしました。まさに、尊者プックサーティもまた、まさしく、夜の多くを、坐って過ごしました。

 

 そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、この良家の子息は、浄信あるままに振る舞う。それなら、さあ、わたしは、〔彼に〕尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、尊者プックサーティに、こう言いました。「比丘よ、あなたは、誰を指定して出家した者として存していますか。あるいは、誰が、あなたの教師ですか。あるいは、あなたは、誰の法(教え)を喜びますか」と。「友よ、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが存在します。また、まさに、彼に、世尊ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。わたしは、彼を、世尊を指定して出家した者です。そして、彼が、世尊が、わたしの教師です。さらに、わたしは、彼の、世尊の法(教え)を喜びます」と。「比丘よ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでいますか」と。「友よ、北の諸地方に、サーヴァッティーという名の城市が存在します。そこにおいて、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられます」と。「比丘よ、また、あなたは、彼を、世尊を、過去に見たことがありますか。また、そして、〔彼のことを〕見て知っていますか」と。「友よ、まさに、わたしは、彼を、世尊を、過去に見たことがありません。そして、わたしは、〔彼のことを〕見て知っていません」と。

 

 そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「では、まさに、この良家の子息は、わたしを指定して出家したのだ。それなら、さあ、わたしは、法(教え)を説示するのだ」と。そこで、まさに、世尊は、尊者プックサーティに告げました。「比丘よ、あなたに、法(教え)を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者プックサーティは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

343. 「『比丘よ、人は、これは、六つの界域あるものであり、六つの接触ある〔認識の〕場所あるものであり、十八の意の細かい想念あるものであり、四つの〔心の〕確立あるものです。そこにおいて、止住するものがあるも、諸々の煩悩の思いが転起しないなら、また、まさに、煩悩の思いが転起していないとき、牟尼は、「寂静である」と説かれます。智慧を怠るべきではなく、真理を守護するべきであり、施捨を増進するべきであり、寂静こそを、彼は学ぶべきである』とは、これは、界域の区分の誦説です。

 

344. 『比丘よ、人は、これは、六つの界域あるものであり』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘よ、これらの六つの界域があります。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域であり、虚空の界域であり、識知〔作用〕の界域です。『比丘よ、人は、これは、六つの界域あるものであり』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

345. 『比丘よ、人は、これは、六つの接触ある〔認識の〕場所あるものであり』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼の接触ある〔認識の〕場所であり、耳の接触ある〔認識の〕場所であり、鼻の接触ある〔認識の〕場所であり、舌の接触ある〔認識の〕場所であり、身の接触ある〔認識の〕場所であり、意の接触ある〔認識の〕場所です。『比丘よ、人は、これは、六つの接触ある〔認識の〕場所あるものであり』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

346. 『比丘よ、人は、これは、十八の意の細かい想念あるものであり』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼によって、形態を見て、悦意が止住するべき形態を細かく想念し、失意が止住するべき形態を細かく想念し、放捨が止住するべき形態を細かく想念します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、悦意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念し、失意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念し、放捨が止住するべき法(意の対象)を細かく想念します。かくのごとく、六つの悦意の細かい想念があり、六つの失意の細かい想念があり、六つの放捨の細かい想念があります。『比丘よ、人は、これは、十八の意の細かい想念あるものであり』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

347. 『比丘よ、人は、これは、四つの〔心の〕確立の場所あるものである』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。(1)智慧という〔心の〕確立であり、(2)真理という〔心の〕確立であり、(3)施捨という〔心の〕確立であり、(4)寂止という〔心の〕確立です。『比丘よ、人は、これは、四つの〔心の〕確立あるものである』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

348. 『智慧を怠るべきではなく、真理を守護するべきであり、施捨を増進するべきであり、寂静こそを、彼は学ぶべきである』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。(1)比丘よ、では、どのように、智慧を怠らないのですか。比丘よ、これらの六つの界域があります。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域であり、虚空の界域であり、識知〔作用〕の界域です。

 

349. 比丘よ、では、どのようなものが、地の界域なのですか。地の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。比丘よ、では、どのようなものが、内なる地の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──比丘よ、これは、『内なる地の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる地の界域は、さらに、すなわち、外なる地の界域は、これは、まさしく、地の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、地の界域にたいし厭離し、地の界域から心を離貪させます。

 

350. 比丘よ、では、どのようなものが、水の界域なのですか。水の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。比丘よ、では、どのようなものが、内なる水の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──比丘よ、これは、『内なる水の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる水の界域は、さらに、すなわち、外なる水の界域は、これは、まさしく、水の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、水の界域にたいし厭離し、水の界域から心を離貪させます。

 

351. 比丘よ、では、どのようなものが、火の界域なのですか。火の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。比丘よ、では、どのようなものが、内なる火の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、かつまた、それによって熱せられ、かつまた、それによって老い、かつまた、それによって遍く焼かれ、かつまた、それによって食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが正しく変化に至るなら(消化吸収されるなら)──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──比丘よ、これは、『内なる火の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる火の界域は、さらに、すなわち、外なる火の界域は、これは、まさしく、火の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、火の界域にたいし厭離し、火の界域から心を離貪させます。

 

352. 比丘よ、では、どのようなものが、風の界域なのですか。風の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。比丘よ、では、どのようなものが、内なる風の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の上に赴く風、諸々の下に赴く風、諸々の腹に依拠する風、諸々の〔腸の〕部位に依拠する風、諸々の手足や肢体に従い行く風、出息、入息、かくのごときものは──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──比丘よ、これは、『内なる風の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる風の界域は、さらに、すなわち、外なる風の界域は、これは、まさしく、風の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、風の界域にたいし厭離し、風の界域から心を離貪させます。

 

353. 比丘よ、では、どのようなものが、虚空の界域なのですか。虚空の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。比丘よ、では、どのようなものが、内なる虚空の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、虚空として、虚空の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、耳孔、鼻孔、口腔は──かつまた、それによって食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものを飲み下すなら、かつまた、そこにおいて食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものが止住するなら、かつまた、それによって食べたものや飲んだものや咀嚼したものや味わったものが下部に出るなら──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、虚空として、虚空の在り方をした、無蓋として、無蓋の在り方をした、隙間として、隙間の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──比丘よ、これは、『内なる虚空の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる虚空の界域は、さらに、すなわち、外なる虚空の界域は、これは、まさしく、虚空の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、虚空の界域にたいし厭離し、虚空の界域から心を離貪させます。

 

354. そこで、他に、識知〔作用〕だけが残ります──完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり。では、その識知〔作用〕によって、何を識知するのですか。『安楽である』ともまた識知し、『苦痛である』ともまた識知し、『苦でもなく楽でもないものである』ともまた識知します。比丘よ、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。彼は、安楽の感受を感受しながら、『安楽の感受を感受する』と覚知します。まさしく、その安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

355. 比丘よ、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。彼は、苦痛の感受を感受しながら、『苦痛の感受を感受する』と覚知します。まさしく、その苦痛として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、苦痛として感受されるべき接触を縁として生起した、苦痛の感受は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

356. 比丘よ、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。彼は、苦でもなく楽でもない感受を感受しながら、『苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知します。まさしく、その苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

357. 比丘よ、それは、たとえば、また、二つの薪の摩擦と接合あることから、熱が生まれ、火が発現するようなものです。まさしく、それらの二つの薪の別離と分散あることから、すなわち、それに応じるものである熱は、それは止滅し、それは寂止します。比丘よ、まさしく、このように、まさに、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。彼は、安楽の感受を感受しながら、『安楽の感受を感受する』と覚知します。まさしく、その安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

358. 比丘よ、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受が生起します。彼は、苦痛の感受を感受しながら、『苦痛の感受を感受する』と覚知します。まさしく、その苦痛として感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、苦痛として感受されるべき接触を縁として生起した、苦痛の感受は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

359. 比丘よ、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。彼は、苦でもなく楽でもない感受を感受しながら、『苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知します。まさしく、その苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の止滅あることから、『すなわち、それに応じるものとして感受され、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止する』と覚知します。

 

360. そこで、他に、放捨だけが残ります──完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、そして、柔和となり、かつまた、行為に適するものとなり、さらに、光り輝くものとなり。比丘よ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、溶炉を構え、溶炉を構えて、溶炉の口に点火し、溶炉の口に点火して、火箸で金を掴んで溶炉の口に置き、まさしく、ただちに、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく風を〕吹き入れ、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕水を振り掛け、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕捨て放つなら、その金は善く吹かれ、精錬され、純化され、汚濁が取り除かれ、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、そして、その〔装身具〕その装身具を、〔彼が〕望むなら、もしくは、帯であれ、もしくは、耳飾であれ、もしくは、首飾であれ、もしくは、金環であれ、そして、彼の、その義(目的)は適います。比丘よ、まさしく、このように、まさに、そこで、他に、放捨だけが残ります──完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、そして、柔和となり、かつまた、行為に適するものとなり、さらに、光り輝くものとなり。

 

361. 彼は、このように覚知します。『もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるなら、このように、わたしのこの放捨は、それに依拠し、それを燃料とし、長きにわたり、長時のあいだ、止住するであろう。もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるなら、このように、わたしのこの放捨は、それに依拠し、それを燃料とし、長きにわたり、長時のあいだ、止住するであろう。もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、無所有なる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるなら、このように、わたしのこの放捨は、それに依拠し、それを燃料とし、長きにわたり、長時のあいだ、止住するであろう。もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるなら、このように、わたしのこの放捨は、それに依拠し、それを燃料とし、長きにわたり、長時のあいだ、止住するであろう』と。

 

362. 彼は、このように覚知します。『もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるとして、これは、形成されたもの(有為)である。もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるとして、これは、形成されたものである。もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、無所有なる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるとして、これは、形成されたものである。もし、わたしが、このように完全なる清浄であり、このように完全なる清白である、この放捨を、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく集中するなら、そして、その法(性質)のままに、心を修めるとして、これは、形成されたものである』と。

 

 彼は、まさしく、それを、あるいは、生存(:実体)のために、あるいは、非生存(非有:虚無)のために,行作せず、行思しません。彼は、あるいは、生存のために、あるいは、非生存のために,行作せずにいながら、行思せずにいながら、世において、何であれ執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

363. 彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦痛の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。

 

364. 彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、死後において、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します。

 

365. 比丘よ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。まさしく、その〔油の灯明〕には、そして、油の、さらに、灯芯の、消尽あることから、かつまた、他〔の燃料〕の供給なきことから、食(動力源・エネルギー)なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘よ、まさしく、このように、まさに、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、死後において、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成るであろう』と覚知します」と。比丘よ、それゆえに、このように具備した者は、この最高の智慧という〔心の〕確立を具備した者と成ります。比丘よ、なぜなら、これは、最高の聖なる智慧であるからです。すなわち、この、一切の苦しみの滅尽についての知恵です。

 

366. (2)彼の、その解脱は、真理において確立し、不動と成ります。比丘よ、なぜなら、それが、虚偽の法(性質)であるなら、それは、虚偽であり、それが、虚偽の法(性質)ならざる涅槃であるなら、それは、真理であるからです。比丘よ、それゆえに、このように具備した者は、この最高の真理という〔心の〕確立を具備した者と成ります。比丘よ、なぜなら、これは、最高の聖なる真理であるからです。すなわち、この、虚偽の法(性質)ならざる涅槃です。

 

367. (3)また、まさに、過去において、無知なる者としてある、まさしく、彼に、諸々の〔生存の〕依り所が、完結され受持されたものとして有るも、彼の、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘よ、それゆえに、このように具備した者は、この最高の施捨という〔心の〕確立を具備した者と成ります。比丘よ、なぜなら、これは、最高の聖なる施捨であるからです。すなわち、この、一切の〔生存の〕依り所の放棄です。

 

368. (4)また、まさに、過去において、無知なる者としてある、まさしく、彼に、強欲〔の思い〕が有り、欲〔の思い〕が〔有り〕、貪染が〔有るも〕、彼の、それは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。また、まさに、過去において、無知なる者としてある、まさしく、彼に、憤懣〔の思い〕が有り、憎悪〔の思い〕が〔有り〕、憤怒が〔有るも〕、彼の、それは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。また、まさに、過去において、無知なる者としてある、まさしく、彼に、無明が有り、迷妄が〔有るも〕、彼の、それは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘よ、それゆえに、このように具備した者は、この最高の寂止という〔心の〕確立を具備した者と成ります。比丘よ、なぜなら、これは、最高の聖なる寂止であるからです。すなわち、この、貪欲と憤怒と迷妄の寂止の放棄です。『智慧を怠るべきではなく、真理を守護するべきであり、施捨を増進するべきであり、寂静こそを、彼は学ぶべきである』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

369. 『そこにおいて、止住するものがあるも、諸々の煩悩の思いが転起しないなら、また、まさに、煩悩の思いが転起していないとき、牟尼は、「寂静である」と説かれます』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘よ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。比丘よ、思い考えられたものは、病です。思い考えられたものは、腫物です。思い考えられたものは、矢です。比丘よ、まさしく、しかし、一切の思い考えられたものの超越あることから、牟尼は、「寂静である」と説かれます。比丘よ、また、まさに、寂静である牟尼は、生まれず、老いず、死なず、激情せず、羨望しません。比丘よ、なぜなら、彼には、それによって生まれる、その〔何か〕が存在しないからです。生まれずにいる者が、どうして、老いるというのでしょう。老いずにいる者が、どうして、激情するというのでしょう。激情せずにいる者が、どうして、羨望するというのでしょう。『そこにおいて、止住するものがあるも、諸々の煩悩の思いが転起しないなら、また、まさに、煩悩の思いが転起していないとき、牟尼は、「寂静である」と説かれます』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。比丘よ、あなたは、まさに、わたしの、簡略〔の観点〕による、この六つの界域の区分を保持しなさい」と。

 

370. そこで、まさに、尊者プックサーティは、「教師は、まさに、わたしの至り得るところとなった。善き至達者は、まさに、わたしの至り得るところとなった。正等覚者は、まさに、わたしの至り得るところとなった」と、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、世尊のことを、『友よ』という説き方で呼び慣わすべき者と思い考えました。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「比丘よ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、わたしのことを、『友よ』という説き方で呼び慣わすべき者と思い考えました。比丘よ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。比丘よ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。「尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、〔戒の〕成就を得られますように」と。「比丘よ、あなたに、鉢と衣料は、円満成就していますか」と。「尊き方よ、わたしに、鉢と衣料は、円満成就していません」と。「比丘よ、まさに、如来たちは、鉢と衣料が円満成就していない者に、〔戒を〕成就させません」と。

 

 そこで、まさに、尊者プックサーティは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、鉢と衣料を遍く探し求めるために立ち去りました。そこで、まさに、鉢と衣料を遍く探し求めるために歩んでいる尊者プックサーティに、混迷した雌牛が〔襲い掛かり〕、〔彼の〕生命を奪いました。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、彼が、世尊によって、簡略の教諭によって教え諭された、プックサーティという名の良家の子息が──彼が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、良家の子息であるプックサーティは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、良家の子息であるプックサーティは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 界域の区分の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

11(141). 真理の区分の経

 

371. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、無上なる法(真理)の輪が転起させられました──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が。すなわち、この、四つの聖なる真理(四聖諦)の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理(苦諦)の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。苦しみの集起という聖なる真理(集諦)の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。比丘たちよ、バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、無上なる法(真理)の輪が転起させられました──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が。すなわち、この、これらの四つの聖なる真理の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。

 

 比丘たちよ、サーリプッタとモッガッラーナに慣れ親しみなさい。比丘たちよ、サーリプッタとモッガッラーナに親近しなさい。賢者たちであり、梵行を共にする者たちの資助者たる比丘たちです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、母のように、このように、サーリプッタはあり、それは、たとえば、また、生まれた者の養育者のように、このように、モッガッラーナはあります。比丘たちよ、サーリプッタは、預流果に教え導き、モッガッラーナは、最上の義(目的)に〔教え導きます〕。比丘たちよ、サーリプッタは、四つの聖なる真理を、詳細〔の観点〕によって、告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為すことができます」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

372. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、無上なる法(真理)の輪が転起させられました──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が。すなわち、この、四つの聖なる真理の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。苦しみの集起という聖なる真理の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。苦しみの止滅という聖なる真理の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です。

 

373. 友よ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。

 

 友よ、では、どのようなものが、生なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所の獲得は、友よ、これは、生と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、老なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、友よ、これは、老と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶は、友よ、これは、死と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、憂いなのですか。友よ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂いは、友よ、これは、憂いと説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、嘆きなのですか。友よ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあることは、友よ、これは、嘆きと説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、苦痛なのですか。友よ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛、身体の属性としての不快、身体の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、友よ、これは、苦痛と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、失意なのですか。友よ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛、心の属性としての不快、意の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、友よ、これは、失意と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、葛藤なのですか。友よ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、苦労、葛藤、苦労すること、葛藤することは、友よ、これは、葛藤と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみなのですか。友よ、生の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、生が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。友よ、老の法(性質)ある有情たちに……略……。友よ、病の法(性質)ある有情たちに……。友よ、死の法(性質)ある有情たちに……。友よ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。

 

 友よ、では、どのようなものが、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。友よ、これらのものは、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみと説かれます。友よ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。

 

374. 友よ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。友よ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。友よ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。

 

375. 友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理なのですか。友よ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。友よ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい見解なのですか。友よ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵であり、苦しみの集起についての知恵であり、苦しみの止滅についての知恵であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。友よ、これは、正しい見解と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい思惟なのですか。離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考です。友よ、これは、正しい思惟と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい言葉なのですか。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。友よ、これは、正しい言葉と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい行業なのですか。命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離れている〔生き方〕です。友よ、これは、正しい行業と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい生き方なのですか。友よ、ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営みます。友よ、これは、正しい生き方と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい努力なのですか。友よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。友よ、これは、正しい努力と説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい気づきなのですか。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。友よ、これは、正しい気づきと説かれます。

 

 友よ、では、どのようなものが、正しい禅定なのですか。友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み……略……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、これは、正しい禅定と説かれます。

 

 友よ、バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、阿羅漢にして正等覚者たる如来によって、無上なる法(真理)の輪が転起させられました──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が。すなわち、この、これらの四つの聖なる真理の、告知であり、説示であり、報知であり、確立であり、開顕であり、区分であり、明瞭にする行為です」と。

 

 尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 真理の区分の経は終了となり、〔以上が〕第十一となる。

 

12(142). 施物の区分の経

 

376. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミー(ブッダの義母)が、新しいひと組の布地を携えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この新しいひと組の布地は、世尊を指定して、わたしが、自ら紡ぎ、自ら織ったものです。尊き方よ、世尊は、わたしの、その〔施物〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。このように説かれたとき、世尊は、マハー・パジャーパティー・ゴータミーに、こう言いました。「ゴータミーよ、僧団において施しなさい。あなたによって、僧団において施されたなら、まさしく、そして、わたしも、さらに、僧団も、供養するところと成るでしょう」と。再度また、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この新しいひと組の布地は、世尊を指定して、わたしが、自ら紡ぎ、自ら織ったものです。尊き方よ、世尊は、わたしの、その〔施物〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。再度また、まさに、世尊は、マハー・パジャーパティー・ゴータミーに、こう言いました。「ゴータミーよ、僧団において施しなさい。あなたによって、僧団において施されたなら、まさしく、そして、わたしも、さらに、僧団も、供養するところと成るでしょう」と。三度また、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この新しいひと組の布地は、世尊を指定して、わたしが、自ら紡ぎ、自ら織ったものです。尊き方よ、世尊は、わたしの、その〔施物〕を納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。三度また、まさに、世尊は、マハー・パジャーパティー・ゴータミーに、こう言いました。「ゴータミーよ、僧団において施しなさい。あなたによって、僧団において施されたなら、まさしく、そして、わたしも、さらに、僧団も、供養するところと成るでしょう」と。

 

377. このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、マハー・パジャーパティー・ゴータミーの、新しいひと組の布地を納受したまえ。尊き方よ、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊のために多く〔の利益〕を作り為す者であり、叔母として、育成者として、養育者として、授乳者として、〔世尊の〕生母が命を終えたとき、世尊に、乳を飲ませました。尊き方よ、世尊もまた、マハー・パジャーパティー・ゴータミーのために多く〔の利益〕を作り為す者としてあります。尊き方よ、世尊に由来して、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、帰依所として、覚者のもとに赴き、帰依所として、法(教え)のもとに赴き、帰依所として、僧団のもとに赴いたのです。尊き方よ、世尊に由来して、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、命あるものを殺すことから離間し、与えられていないものを取ることから離間し、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間し、虚偽を説くことから離間し、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間したのです。尊き方よ、世尊に由来して、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、覚者にたいする確固たる浄信を具備し、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備し、僧団にたいする確固たる浄信を具備し、聖者たちに愛される諸戒を具備したのです。尊き方よ、世尊に由来して、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、苦しみについて疑いなくあり、苦しみの集起について疑いなくあり、苦しみの止滅について疑いなくあり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道について疑いなくあります。尊き方よ、世尊もまた、マハー・パジャーパティー・ゴータミーのために多く〔の利益〕を作り為す者としてあります」と。

 

378. 「アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、まさに、すなわち、人が、人に由来して、帰依所として、覚者のもとに赴いた者として〔世に〕有り、帰依所として、法(教え)のもとに赴いた者として〔世に〕有り、帰依所として、僧団のもとに赴いた者として〔世に〕有るなら、アーナンダよ、この人による、この人への安易な報恩なきことを、〔わたしは〕説きます。すなわち、この、敬拝や立礼や合掌の行為や和敬の行為や衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の供与によっては。

 

 アーナンダよ、まさに、すなわち、人が、人に由来して、命あるものを殺すことから離間した者と成り、与えられていないものを取ることから離間した者と成り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者と成り、虚偽を説くことから離間した者と成り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者と成るなら、アーナンダよ、この人による、この人への安易な報恩なきことを、〔わたしは〕説きます。すなわち、この、敬拝や立礼や合掌の行為や和敬の行為や衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の供与によっては。

 

 アーナンダよ、まさに、すなわち、人が、人に由来して、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者と成り、法(教え)にたいする……僧団にたいする……聖者たちに愛される諸戒を具備した者と成るなら、アーナンダよ、この人による、この人への安易な報恩なきことを、〔わたしは〕説きます。すなわち、この、敬拝や立礼や合掌の行為や和敬の行為や衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の供与によっては。

 

 アーナンダよ、まさに、すなわち、人が、人に由来して、苦しみについて疑いなき者と成り、苦しみの集起について疑いなき者と成り、苦しみの止滅について疑いなき者と成り、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道について疑いなき者と成るなら、アーナンダよ、この人による、この人への安易な報恩なきことを、〔わたしは〕説きます。すなわち、この、敬拝や立礼や合掌の行為や和敬の行為や衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の供与によっては。

 

379. アーナンダよ、また、まさに、十四のものがあります。これらの個人への施物です。どのようなものが、十四のものなのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来において、布施を施します。これは、第一の個人への施物です。独覚において、布施を施します。これは、第二の個人への施物です。如来の弟子の阿羅漢において、布施を施します。これは、第三の個人への施物です。阿羅漢果の実証のために実践する者において、布施を施します。これは、第四の個人への施物です。不還たる者のために、布施を施します。これは、第五の個人への施物です。不還果の実証のために実践する者において、布施を施します。これは、第六の個人への施物です。一来たる者のために、布施を施します。これは、第七の個人への施物です。一来果の実証のために実践する者において、布施を施します。これは、第八の個人への施物です。預流たる者において、布施を施します。これは、第九の個人への施物です。預流果の実証のために実践する者において、布施を施します。これは、第十の個人への施物です。諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れ去った外部の者において、布施を施します。これは、第十一の個人への施物です。戒ある凡夫において、布施を施します。これは、第十二の個人への施物です。劣戒の凡夫において、布施を施します。これは、第十三の個人への施物です。畜生の在り方をした者において、布施を施します。これは、第十四の個人への施物です。

 

 アーナンダよ、そこで、畜生の在り方をした者において、布施を施して、百の徳ある施物として期待できます。劣戒の凡夫において、布施を施して、千の徳ある施物として期待できます。戒ある凡夫において、布施を施して、百千の徳ある施物として期待できます。諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れ去った外部の者において、布施を施して、百千の千万の徳ある施物として期待できます。預流果の実証のために実践する者において、布施を施して、数えようもなく量りようもない徳ある施物として期待できます。預流たる者においては、また、何の論があるというのでしょう。一来果の実証のために実践する者においては、また、何の論があるというのでしょう。一来たる者のためには、また、何の論があるというのでしょう。不還果の実証のために実践する者においては、また、何の論があるというのでしょう。不還たる者のためには、また、何の論があるというのでしょう。阿羅漢果の実証のために実践する者においては、また、何の論があるというのでしょう。阿羅漢においては、また、何の論があるというのでしょう。独覚においては、また、何の論があるというのでしょう。阿羅漢にして正等覚者たる如来においては、また、何の論があるというのでしょう。

 

380. アーナンダよ、また、まさに、七つのものがあります。これらの僧団に至った施物です。どのようなものが、七つのものなのですか。覚者を筆頭とする両の僧団において、布施を施します。これは、第一の僧団に至った施物です。如来が完全なる涅槃に到達したときは、両の僧団において、布施を施します。これは、第二の僧団に至った施物です。比丘の僧団において、布施を施します。これは、第三の僧団に至った施物です。比丘尼の僧団において、布施を施します。これは、第四の僧団に至った施物です。『これだけの、そして、比丘たちを、さらに、比丘尼たちを、わたし〔の布施〕のために、〔あなたたちは〕僧団から指定してください』と、布施を施します。これは、第五の僧団に至った施物です。『これだけの比丘たちを、わたし〔の布施〕のために、〔あなたたちは〕僧団から指定してください』と、布施を施します。これは、第六の僧団に至った施物です。『これだけの比丘尼たちを、わたし〔の布施〕のために、〔あなたたちは〕僧団から指定してください』と、布施を施します。これは、第七の僧団に至った施物です。

 

 アーナンダよ、また、まさに、未来の時に、〔新たな〕種姓と成る者たちが、黄褐色〔の衣〕(袈裟)を首にしながら、劣戒の者たちとして、悪しき法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有るでしょう。それらの劣戒の者たちにおいて、僧団を指定して、布施を施します。アーナンダよ、そのときでさえも、僧団に至った施物を、数えようもなく量りようもないと、わたしは説きます。アーナンダよ、まさしく、しかし、どのような教相によってであれ、個人への施物を、僧団に至った施物よりも、より大いなる果となると、わたしは説きません。

 

381. アーナンダよ、まさに、四つのものがあります。これらの施物の清浄です。どのようなものが、四つのものなのですか。アーナンダよ、施者ゆえに清浄となる、施物が存在します──納受者ゆえに、ではなく。アーナンダよ、納受者ゆえに清浄となる、施物が存在します──施者ゆえに、ではなく。アーナンダよ、まさしく、施者ゆえに清浄とならず、納受者ゆえに〔清浄となら〕ない、施物が存在します。アーナンダよ、まさしく、そして、施者ゆえに清浄となり、さらに、納受者ゆえに〔清浄となる〕、施物が存在します。

 

 アーナンダよ、では、どのように、施物は、施者ゆえに清浄となるのですか──納受者ゆえに、ではなく。アーナンダよ、ここに、施者が、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、納受者たちが、劣戒の者たちとして、悪しき法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。アーナンダよ、このように、まさに、施物は、施者ゆえに清浄となります──納受者ゆえに、ではなく。

 

 アーナンダよ、では、どのように、施物は、納受者ゆえに清浄となるのですか──施者ゆえに、ではなく。アーナンダよ、ここに、施者が、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、納受者たちが、戒ある者たちとして、善き法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。アーナンダよ、このように、まさに、施物は、納受者ゆえに清浄となります──施者ゆえに、ではなく。

 

 アーナンダよ、では、どのように、施物は、まさしく、施者ゆえに清浄とならず、納受者ゆえに〔清浄となら〕ないのですか。アーナンダよ、ここに、そして、施者が、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有り、さらに、納受者たちが、劣戒の者たちとして、悪しき法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。アーナンダよ、このように、まさに、施物は、まさしく、施者ゆえに清浄とならず、納受者ゆえに〔清浄となり〕ません。

 

 アーナンダよ、では、どのように、施物は、まさしく、そして、施者ゆえに清浄となり、さらに、納受者ゆえに〔清浄となる〕のですか。アーナンダよ、ここに、そして、施者が、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、さらに、納受者たちが、戒ある者たちとして、善き法(性質)ある者たちとして、〔世に〕有ります。アーナンダよ、このように、まさに、施物は、まさしく、そして、施者ゆえに清浄となり、さらに、納受者ゆえに〔清浄となります〕。アーナンダよ、まさに、これらの四つの施物の清浄があります」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

 

382. 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、戒ある者が、劣戒の者たちにおいて、布施を施すなら──善く浄信した心の者が、法(正義)によって得られたものを、行為の果の巨大なることを確信しながら〔施すなら〕──その施物は、施者ゆえに清浄となる。

 

 すなわち、劣戒の者が、戒ある者たちにおいて、布施を施すなら──浄信していない心の者が、法(正義)ならざる〔手段〕によって得られたものを、行為の果の巨大なることを確信せずにながら〔施すなら〕──その施物は、納受者ゆえに清浄となる。

 

 すなわち、劣戒の者が、劣戒の者たちにおいて、布施を施すなら──浄信していない心の者が、法(正義)ならざる〔手段〕によって得られたものを、行為の果の巨大なることを確信せずにながら〔施すなら〕──『その布施は、広大なる果あるものとならない』と、〔わたしは〕説く。

 

 すなわち、戒ある者が、戒ある者たちにおいて、布施を施すなら──善く浄信した心の者が、法(正義)によって得られたものを、行為の果の巨大なることを確信しながら〔施すなら〕──『その布施は、まさに、広大なる果あるものとなる』と、〔わたしは〕説く。

 

 すなわち、貪り〔の思い〕を離れた者が、貪り〔の思い〕を離れた者たちにおいて、布施を施すなら──善く浄信した心の者が、法(正義)によって得られたものを、行為の果の巨大なることを確信しながら〔施すなら〕──その布施は、まさに、諸々の財貨の布施のなかの至高のものとなる」と。

 

 施物の区分の経は終了となり、〔以上が〕第十二となる。

 

 区分の章は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「賢く幸いなる一〔夜〕とアーナンダとカッチャーナとローマサカンギヤとスバ、大いなる行為と六つの〔認識の〕場所の区分、誦説と相克なきもの、界域、真理、施物の区分の経があり、〔章となる〕」と。

 

5. 六つの〔認識の〕場所の章

 

1(143). アナータピンディカ〔長者〕への教諭の経

 

383. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、アナータピンディカ家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。そして、尊者サーリプッタのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。

 

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、アナータピンディカ家長に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」と。そして、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者サーリプッタに、こう言いました。「尊き方よ、アナータピンディカ家長は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者サーリプッタは、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

384. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、着衣して鉢と衣料を取って、尊者アーナンダを随伴の沙門として、アナータピンディカ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者サーリプッタは、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「家長よ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、あなたの、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。

 

 「尊き方よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。尊き方よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、尊き方よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体内の風)が、わたしの頭を撹乱します。尊き方よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。尊き方よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、尊き方よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしの頭において、諸々の旺盛なる頭痛があります。尊き方よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。尊き方よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、尊き方よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、わたしの腹を切り裂きます。尊き方よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。尊き方よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、尊き方よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしの身体において、旺盛なる燃焼があります。尊き方よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。

 

385. 「家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『眼に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、眼に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『耳に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、耳に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『鼻に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、鼻に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『舌に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、舌に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『身に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、身に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『意に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、意に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『形態に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、形態に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。『音声に、〔わたしは〕執取しないのだ。……略……。『臭気に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『感触に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『法(意の対象)に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、法(意の対象)に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『眼の識知〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、眼の識知〔作用〕に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。『耳の識知〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『鼻の識知〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『舌の識知〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『身の識知〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『意の識知〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、意の識知〔作用〕に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『眼の接触に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、眼の接触に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。『耳の接触に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『鼻の接触に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『舌の接触に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『身の接触に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『意の接触に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、意の接触に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『眼の接触から生じる感受に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、眼の接触から生じる感受に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。『耳の接触から生じる感受に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『鼻の接触から生じる感受に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『舌の接触から生じる感受に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『身の接触から生じる感受に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『意の接触から生じる感受に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、意の接触から生じる感受に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

386. 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『地の界域に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、地の界域に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。『水の界域に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『火の界域に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『風の界域に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『虚空の界域に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『識知〔作用〕の界域に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、識知〔作用〕の界域に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『形態に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、形態に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。『感受〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『表象〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『諸々の形成〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『識知〔作用〕に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、識知〔作用〕に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『虚空無辺なる〔認識の〕場所に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、虚空無辺なる〔認識の〕場所に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。『識知無辺なる〔認識の〕場所に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『無所有なる〔認識の〕場所に、〔わたしは〕執取しないのだ。……。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

 

 家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『この世に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、この世に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『他の世に、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、他の世に依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。家長よ、それゆえに、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『すなわち、また、わたしにとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、探索されたものであり、意によって探索されたものであるなら、それにもまた、〔わたしは〕執取しないのだ。そして、わたしに、それに依拠した識知〔作用〕は〔もはや〕有りはしないであろう』と。家長よ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

387. このように説かれたとき、アナータピンディカ家長は、泣き悲しみ、諸々の涙をこぼしました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「家長よ、まさに、あなたは、執着しているのですか。家長よ、まさに、あなたは、消沈しているのですか」と。「尊き方よ、アーナンダよ、わたしは、執着していませんし、また、消沈もしていません。ですが、また、わたしは、長夜にわたり、世尊に奉侍し、さらに、意を修めることができる比丘たちに〔奉侍するも〕、しかしながら、わたしは、このような形態の法(教え)の講話を、過去に聞いたことがありません」と。「家長よ、まさに、白衣の在家者たちに、このような形態の法(教え)の講話は示されません。家長よ、まさに、このような形態の法(教え)の講話は、出家者たちに示されます」と。「尊き方よ、サーリプッタよ、まさに、それでは、白衣の在家者たちにもまた、このような形態の法(教え)の講話が示されたまえ。尊き方よ、まさに、塵少なき類の良家の子息たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう」と。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者アーナンダは、アナータピンディカ家長を、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、かつまた、尊者サーリプッタが、かつまた、尊者アーナンダが、立ち去ったすぐあと、命を終え、兜率〔天〕の身体に再生しました。そこで、まさに、アナータピンディカ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、アナータピンディカ天子は、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、そのジェータ林は、これは、聖賢の僧団が慣れ親しむところです。法(教え)の王(ブッダ)が住するところにして、わたしに喜悦を生むところです。

 

 行為、そして、明知、さらに、法(教え)、戒、最上の生き方──これによって、死すべき者(人間)たちは清浄となります。姓によって、あるいは、財によって、〔清浄となるのでは〕ありません。

 

 まさに、それゆえに、賢者たる人が、自己の義(利益)を正しく見ながら、根源のままに法(教え)を弁別するなら、このように、そこにおいて、〔彼は〕清浄となります。

 

 サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するでしょう」と。

 

 アナータピンディカ天子は、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔天子の言葉を〕正しくお認めに成りました(天子に随喜した)。そこで、まさに、アナータピンディカ天子は、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

388. そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天子は、わたしに、諸々の詩偈をもって語りかけました。

 

 〔すなわち〕『まさに、そのジェータ林は、これは、聖賢の僧団が慣れ親しむところです。法(教え)の王が住するところにして、わたしに喜悦を生むところです。

 

 行為、そして、明知、さらに、法(教え)、戒、最上の生き方──これによって、死すべき者たちは清浄となります。姓によって、あるいは、財によって、〔清浄となるのでは〕ありません。

 

 まさに、それゆえに、賢者たる人が、自己の義(利益)を正しく見ながら、根源のままに法(教え)を弁別するなら、このように、そこにおいて、〔彼は〕清浄となります。

 

 サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するでしょう』と。

 

 比丘たちよ、その天子は、この〔言葉〕を言いました。『教師は、わたしのことを正しくお認めです』と、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、その者は、まちがいなく、彼は、アナータピンディカ天子として〔世に〕有るのです。アナータピンディカ家長は、尊者サーリプッタにたいし大いに浄信した者として〔世に〕有りました」と。「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、すなわち、まさに、考慮によって至り得るかぎりのものが、それが、あなたによって獲得されました。アーナンダよ、彼は、アナータピンディカ天子です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 アナータピンディカへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

 

2(144). チャンナへの教諭の経

 

389. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・チュンダは、かつまた、尊者チャンナは、ギッジャクータ山に住んでいます。また、まさに、その時点にあって、尊者チャンナは、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・チュンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタは、尊者マハー・チュンダに、こう言いました。「友よ、チュンダよ、行きましょう。尊者チャンナのいるところに、そこへと近づいて行くのです──病者を見舞う者たちとして」と。「君よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・チュンダは、尊者サーリプッタに答えました。

 

 そこで、まさに、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・チュンダは、尊者チャンナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者チャンナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、尊者チャンナに、こう言いました。「友よ、チャンナよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、あなたの、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、友よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、わたしの頭を撹乱します。友よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、友よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしの頭において、諸々の旺盛なる頭痛があります。友よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、友よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、わたしの腹を切り裂きます。友よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、友よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、わたしの身体において、旺盛なる燃焼があります。友よ、サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。友よ、サーリプッタよ、〔わたしは〕刃を持つでしょう(自死する)。〔わたしは〕生命を期待しません」と。

 

390. 「尊者チャンナは、刃を持ってはいけません。尊者チャンナは、〔身を〕保ち行きたまえ。尊者チャンナが、〔身を〕保ち行くことを、わたしたちは求めます。それで、もし、尊者チャンナに、諸々の正当なる食料が存在しないなら、わたしが、尊者チャンナのために、諸々の正当なる食料を遍く探し求めましょう。それで、もし、尊者チャンナに、諸々の正当なる薬が存在しないなら、わたしが、尊者チャンナのために、諸々の正当なる薬を遍く探し求めましょう。それで、もし、尊者チャンナに、適切なる奉仕者たちが存在しないなら、わたしが、尊者チャンナを奉仕しましょう。尊者チャンナは、刃を持ってはいけません。尊者チャンナは、〔身を〕保ち行きたまえ。尊者チャンナが、〔身を〕保ち行くことを、わたしたちは求めます」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、わたしに、また、諸々の正当なる食料が存在しないのではありません。わたしに、また、諸々の正当なる薬が存在しないのではありません。わたしに、また、適切なる奉仕者たちが存在しないのではありません。友よ、サーリプッタよ、さらに、また、わたしは、長夜にわたり、まさしく、意に適うままに、教師を世話してきました──意に適わずに、ではなく。友よ、サーリプッタよ、まさに、このことは、弟子にとって、適切なることです。すなわち、まさしく、意に適うままに、教師を世話することは──意に適わずに、ではなく。『チャンナ比丘は、批判されることなく、刃を持つであろう』と、友よ、サーリプッタよ、このように、このことを保持したまえ」と。「わたしたちは、尊者チャンナに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、尊者チャンナが、〔わたしたちの〕問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「友よ、サーリプッタよ、尋ねたまえ。聞いて〔そののち、お答えできるかを〕知るでしょう」と。

 

391. 「友よ、チャンナよ、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか。友よ、チャンナよ、耳を、耳の識知〔作用〕を……略……。友よ、チャンナよ、鼻を、鼻の識知〔作用〕を……。友よ、チャンナよ、舌を、舌の識知〔作用〕を……。友よ、チャンナよ、身を、身の識知〔作用〕を……。友よ、チャンナよ、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しますか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。友よ、サーリプッタよ、耳を、耳の識知〔作用〕を……略……。友よ、サーリプッタよ、鼻を、鼻の識知〔作用〕を……。友よ、サーリプッタよ、舌を、舌の識知〔作用〕を……。友よ、サーリプッタよ、身を、身の識知〔作用〕を……。友よ、サーリプッタよ、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します」と。

 

392. 「友よ、チャンナよ、眼において、眼の識知〔作用〕において、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、何を見て〔そののち〕、何を証知して〔そののち〕、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか。友よ、チャンナよ、耳において、耳の識知〔作用〕において……。友よ、チャンナよ、鼻において、鼻の識知〔作用〕において……。友よ、チャンナよ、舌において、舌の識知〔作用〕において……。友よ、チャンナよ、身において、身の識知〔作用〕において……。友よ、チャンナよ、意において、意の識知〔作用〕において、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、何を見て〔そののち〕、何を証知して〔そののち〕、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観しますか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、眼において、眼の識知〔作用〕において、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、止滅を見て〔そののち〕、止滅を証知して〔そののち〕、眼を、眼の識知〔作用〕を、眼の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。友よ、サーリプッタよ、耳において、耳の識知〔作用〕において……。友よ、サーリプッタよ、鼻において、鼻の識知〔作用〕において……。友よ、サーリプッタよ、舌において、舌の識知〔作用〕において……。友よ、サーリプッタよ、身において、身の識知〔作用〕において……。友よ、サーリプッタよ、意において、意の識知〔作用〕において、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)において、止滅を見て〔そののち〕、止滅を証知して〔そののち〕、意を、意の識知〔作用〕を、意の識知〔作用〕によって識知されるべき諸々の法(性質)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します」と。

 

393. このように説かれたとき、尊者マハー・チュンダは、尊者チャンナに、こう言いました。「友よ、チャンナよ、それゆえに、ここに、彼の、世尊の、この教えもまた、常劫に、善くしっかりと、意が為されるべきです。『依存している者に、動揺が〔存在し〕、依存していない者に、動揺は存在しません。動揺が存していないとき、静息があります。静息が存しているとき、誘導は有りません。誘導が存していないとき、帰る所と赴く所は有りません。帰る所と赴く所が存していないとき、死滅と再生は有りません。死滅と再生が存していないとき、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間にあって、〔何も存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極です』」と。そこで、まさに、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・チュンダは、尊者チャンナを、この教諭によって教え諭して、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

394. そこで、まさに、尊者チャンナは、かつまた、尊者サーリプッタが、かつまた、尊者マハー・チュンダが、立ち去ったすぐあと、刃を持ちました(自死した)。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者チャンナによって、刃が持たれました。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「サーリプッタよ、まさに、チャンナ比丘によって、まさしく、あなたの面前で、批判なくあることが説き明かされたのではないですか」と。「尊き方よ、プッバジラという名のヴァッジー〔族〕の村が存在します。そこにおいて、尊者チャンナの朋友の家々と知人の家々は、批判されるべき家々です(悪しき家系である)」と。「サーリプッタよ、まさに、チャンナ比丘の朋友の家々と知人の家々は、これらは、批判されるべき家々として〔世に〕有ります。サーリプッタよ、わたしは、このことから、『批判されるべきものを有している』と説きません。サーリプッタよ、すなわち、まさに、かつまた、この身体を捨置し、かつまた、他の身体に執取するなら、わたしは、彼を、『批判されるべきものを有している』と説きます。チャンナ比丘に、それは存在しません。『チャンナ比丘は、批判されることなく、刃を持った』と、サーリプッタよ、このように、このことを保持しなさい」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者サーリプッタは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 チャンナへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

 

3(145). プンナへの教諭の経

 

395. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者プンナが、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者プンナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、簡略の教諭によって教え諭してください。すなわち、わたしが、世尊の法(教え)を聞いて、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住むべく」と。「プンナよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者プンナは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「プンナよ、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。プンナよ、『愉悦の集起あることから、苦しみの集起がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 プンナよ、まさに、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら、それに、愉悦し、迎合し、固執して止住している、彼には、愉悦が生起します。プンナよ、『愉悦の集起あることから、苦しみの集起がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 プンナよ、そして、まさに、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。プンナよ、『愉悦の止滅あることから、苦しみの止滅がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 プンナよ、そして、まさに、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないなら、それに、愉悦せず、迎合せず、固執して止住していない、彼には、愉悦が止滅します。プンナよ、『愉悦の止滅あることから、苦しみの止滅がある』と、〔わたしは〕説きます。

 

 プンナよ、では、あなたは、わたしによって、この簡略の教諭によって教え諭され、どの地方に住むのですか」と。「尊き方よ、わたしは、世尊によって、この簡略の教諭によって教え諭されました。スナーパランタという名の地方が存在します。そこにおいて、わたしは住むでしょう」と。

 

396. 「プンナよ、まさに、スナーパランタの人間たちは、狂暴です。プンナよ、まさに、スナーパランタの人間たちは、粗暴です。プンナよ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたを罵倒し口撃するなら、プンナよ、そこにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしを罵倒し口撃するなら、そこにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、手で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、手で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、手で打撃を与えるなら、そこにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、石で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、石で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、石で打撃を与えるなら、そこにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、棒で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、棒で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、棒で打撃を与えるなら、そこにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしに、刃で打撃を与えない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたに、刃で打撃を与えるなら、プンナよ、また、そこにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしに、刃で打撃を与えるなら、そこにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、幸いなる者たちである。まさに、これらのスナーパランタの人間たちは、極めて幸いなる者たちである。すなわち、これらの者たちは、わたしの生命を、鋭い刃で奪わない』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。

 

 「プンナよ、また、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、あなたの生命を、鋭い刃で奪うなら、プンナよ、また、そこにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、それで、もし、スナーパランタの人間たちが、わたしの生命を、鋭い刃で奪うなら、そこにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有るでしょう。『まさに、世尊の弟子たちが存在する。かつまた、身体について、かつまた、生命について、苦悩し、自責し、忌避しながら、〔彼らは〕刃を持つ者(殺害者)を遍く探し求める。それが、〔まさに〕この、刃を持つ者が、まさしく、遍く探し求めることなく、わたしの得るところとなった』と。世尊よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう。善き至達者たる方よ、ここにおいて、このような〔思いが〕有るでしょう」と。「プンナよ、善きかな、善きかな。プンナよ、まさに、あなたは、この調御と寂止を具備した者として、スナーパランタ地方において住むことができるでしょう。プンナよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

 

397. そこで、まさに、尊者プンナは、世尊の言葉を大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、スナーパランタ地方のあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、スナーパランタ地方のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、尊者プンナは、スナーパランタ地方に住んでいます。そこで、まさに、尊者プンナは、まさしく、その雨期の間に、五百ばかりの者たちを、在俗信者(優婆塞)たちとして知らしめ、まさしく、その雨期の間に、五百ばかりの者たちを、女性在俗信者(優婆夷)たちとして知らしめ、まさしく、その雨期の間に、三つの明知を実証しました。そこで、まさに、尊者プンナは、他時にあって、完全なる涅槃に到達しました。

 

 そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、彼が、世尊によって、簡略の教諭によって教え諭された、プンナという名の良家の子息が──彼が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、良家の子息であるプンナは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、良家の子息であるプンナは、完全なる涅槃に到達したのです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 プンナへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。

 

4(146). ナンダカによる教諭の経

 

398. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーが、五百ばかりの比丘尼たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、マハー・パジャーパティー・ゴータミーは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、比丘尼たちに教諭してください。尊き方よ、世尊は、比丘尼たちに教示してください。尊き方よ、世尊は、比丘尼たちのために、法(教え)の講話を為してください」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、長老の比丘たちが、順番で、比丘尼たちに教諭します。尊者ナンダカは、順番で、比丘尼たちに教諭することを求めません。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、いったい、まさに、今日、誰の順番となるのですか──順番で、比丘尼たちに教諭するために」と。「尊き方よ、まさしく、全ての者たちによって、順番が為されました──順番で、比丘尼たちに教諭するために。尊き方よ、この者が、尊者ナンダカが、順番で、比丘尼たちに教諭することを求めません」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者ナンダカに告げました。「ナンダカよ、比丘尼たちに教諭しなさい。ナンダカよ、比丘尼たちに教示しなさい。婆羅門よ、あなたは、比丘尼たちのために、法(教え)の講話を為しなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ナンダカは、世尊に答えて、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、自己を第二の者として(独りで)、ラージャカ林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、それらの比丘尼たちは、尊者ナンダカが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、坐を設けました。さらに、〔両の〕足のための水を調達しました。まさに、尊者ナンダカは、設けられた坐に坐りました。坐って、〔両の〕足を洗いました。まさに、それらの比丘尼たちもまた、尊者ナンダカを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちに、尊者ナンダカは、こう言いました。「姉妹たちよ、まさに、質問の講話と成るでしょう。そこにおいて、〔あなたたちが〕了知しているなら、『〔わたしたちは〕了知します』と説かれるべきものが存在し、〔あなたたちが〕了知していないなら、『〔わたしたちは〕了知しません』と説かれるべきものが存在します。また、あるいは、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存するなら、わたしこそが、そこにおいて、質問されるべきです。『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』」と。「尊き方よ、このことをもってしてもまた、わたしたちは、尊貴なるナンダカに、わが意を得た者たちとなり、満悦した者たちとなります。すなわち、尊貴なるナンダカが、わたしたちに申し出る、〔という、このことをもってして〕」と。

 

399. 「姉妹たちよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「姉妹たちよ、それを、どう思いますか。耳は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。鼻は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。身は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、まさしく、過去において、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたからです。『かくのごとくもまた、これらの六つの内なる〔認識の〕場所は、無常である』」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

400. 姉妹たちよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「姉妹たちよ、それを、どう思いますか。諸々の音声は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。諸々の臭気は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。諸々の味感は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。諸々の感触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。諸々の法(意の対象)は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、まさしく、過去において、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたからです。『かくのごとくもまた、これらの六つの外なる〔認識の〕場所は、無常である』」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

401. 姉妹たちよ、それを、どう思いますか。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「姉妹たちよ、それを、どう思いますか。耳の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。鼻の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。舌の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。身の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。意の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、まさしく、過去において、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたからです。『かくのごとくもまた、これらの六つの識知〔作用〕の体系は、無常である』」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

402. 姉妹たちよ、それは、たとえば、また、燃えている油の灯明の、油もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、灯芯もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、炎もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、光もまた、無常であり、変化の法(性質)であるようなものです。姉妹たちよ、いったい、まさに、或る者が、『この燃えている油の灯明の、油もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、灯芯もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、炎もまた、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、まさに、その〔油の灯明〕の光は、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この燃えている油の灯明の、油もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、灯芯もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、炎もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、なおのこと、その〔油の灯明〕の光は、無常であり、変化の法(性質)であるからです」と。「姉妹たちよ、まさしく、このように、まさに、いったい、まさに、或る者が、『まさに、これらの六つの内なる〔認識の〕場所は、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、まさに、六つの内なる〔認識の〕場所を縁として得知する、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、それに応じる〔縁〕それに応じる縁を縁として、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が生起し、それに応じる〔縁〕それに応じる縁の止滅あることから、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が止滅するからです」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

403. 姉妹たちよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の、根もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、幹もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、枝葉もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、影もまた、無常であり、変化の法(性質)であるようなものです。姉妹たちよ、いったい、まさに、或る者が、『この〔地に〕立っている硬材ある大木の、根もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、幹もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、枝葉もまた、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、まさに、その〔硬材ある大木〕の影は、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この〔地に〕立っている硬材ある大木の、根もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、幹もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、枝葉もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、なおのこと、その〔硬材ある大木〕の影は、無常であり、変化の法(性質)であるからです」と。「姉妹たちよ、まさしく、このように、まさに、いったい、まさに、或る者が、『まさに、これらの六つの外なる〔認識の〕場所は、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、六つの外なる〔認識の〕場所を縁として得知する、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、それに応じる〔縁〕それに応じる縁を縁として、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が生起し、それに応じる〔縁〕それに応じる縁の止滅あることから、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が止滅するからです」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

404. 姉妹たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、鋭い牛刀で、内なる肉の体系を損壊せずして、外なる皮の体系を損壊せずして、雌牛を切り裂くとします。まさしく、それぞれのものとして、そこにおいて、内なる肋膜があり、内なる腱があり、内なる結節があるなら、まさしく、それぞれのものを、鋭い牛刀で、断ち切り、切り裂き、しっかりと切り裂き、遍く切り裂きます。断ち切って、切り裂いて、しっかりと切り裂いて、遍く切り裂いて、外なる皮の体系を取り払って、まさしく、その皮で、その雌牛を覆って、『まさしく、そのように、この雌牛は、まさしく、この皮と結び付いています』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この能ある、あるいは、屠牛者は、あるいは、屠牛者の内弟子は、雌牛を屠殺して、鋭い牛刀で、内なる肉の体系を損壊せずして、外なる皮の体系を損壊せずして、雌牛を切り裂き、まさしく、それぞれのものとして、そこにおいて、内なる肋膜があり、内なる腱があり、内なる結節があるなら、まさしく、それぞれのものを、鋭い牛刀で、断ち切り、切り裂き、遍く切り裂き、断ち切って、切り裂いて、しっかりと切り裂いて、遍く切り裂いて、外なる皮の体系を取り払って、まさしく、その皮で、その雌牛を覆って、たとえ、何であれ、彼が、『まさしく、そのように、この雌牛は、まさしく、この皮と結び付いています』と、このように説くとして、そこで、まさに、その雌牛は、まさしく、その皮と結び付いていないからです」と。

 

 「姉妹たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、これが、ここにおいて、義(意味)となります。姉妹たちよ、『内なる肉の体系』とは、まさに、これは、六つの内なる〔認識の〕場所の体系の同義語です。姉妹たちよ、『外なる皮の体系』とは、まさに、これは、六つの外なる〔認識の〕場所の体系の同義語です。姉妹たちよ、『内なる肋膜』『内なる腱』『内なる結節』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。姉妹たちよ、『鋭い牛刀』とは、まさに、これは、智慧の同義語です。すなわち、この聖なる智慧が、内なる〔心の〕汚れ(煩悩)を、内なる束縛を、内なる結縛を、断ち切り、切り裂き、しっかりと切り裂き、遍く切り裂きます。

 

405. 姉妹たちよ、また、まさに、七つのものがあります。これらの覚りの支分です。それらが、修められたことから、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。どのようなものが、七つのものなのですか。姉妹たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。姉妹たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分があります。それらが、修められたことから、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

406. そこで、まさに、尊者ナンダカは、それらの比丘尼たちを、この教諭によって教え諭して、送り出しました。「姉妹たちよ、赴きなさい。時です」と。そこで、まさに、それらの比丘尼たちは、尊者ナンダカの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、尊者ナンダカを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの比丘尼たちに、世尊は、こう言いました。「姉妹たちよ、赴きなさい。時です」と。そこで、まさに、それらの比丘尼たちは、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、それらの比丘尼たちが立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、斎戒のその日、十四〔日〕において、多くの人々に、『いったい、まさに、月は、欠けているのか』『いったい、まさに、月は、満ちているのか』という、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、有ることなくあるも、そこで、まさに、まさしく、『月は、欠けている』という〔思いが〕有るようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらの比丘尼たちは、ナンダカの法(教え)の説示によって、わが意を得た者たちと成るも、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者たちではありません」と。

 

407. そこで、まさに、世尊は、尊者ナンダカに告げました。「ナンダカよ、まさに、それでは、あなたは、明日もまた、それらの比丘尼たちを、まさしく、その、〔同じ〕教諭によって教え諭しなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ナンダカは、世尊に答えました。そこで、まさに、尊者ナンダカは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、自己を第二の者として、ラージャカ林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、それらの比丘尼たちは、尊者ナンダカが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、坐を設けました。さらに、〔両の〕足のための水を調達しました。まさに、尊者ナンダカは、設けられた坐に坐りました。坐って、〔両の〕足を洗いました。まさに、それらの比丘尼たちもまた、尊者ナンダカを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘尼たちに、尊者ナンダカは、こう言いました。「姉妹たちよ、まさに、質問の講話と成るでしょう。そこにおいて、〔あなたたちが〕了知しているなら、『〔わたしたちは〕了知します』と説かれるべきものが存在し、〔あなたたちが〕了知していないなら、『〔わたしたちは〕了知しません』と説かれるべきものが存在します。また、あるいは、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存するなら、わたしこそが、そこにおいて、質問されるべきです。『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』」と。「尊き方よ、このことをもってしてもまた、わたしたちは、尊貴なるナンダカに、わが意を得た者たちとなり、満悦した者たちとなります。すなわち、尊貴なるナンダカが、わたしたちに申し出る、〔という、このことをもってして〕」と。

 

408. 「姉妹たちよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「姉妹たちよ、それを、どう思いますか。耳は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。鼻は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。舌は……。身は……。意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、まさしく、過去において、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたからです。『かくのごとくもまた、これらの六つの内なる〔認識の〕場所は、無常である』」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

409. 姉妹たちよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「姉妹たちよ、それを、どう思いますか。諸々の音声は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。諸々の臭気は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。諸々の味感は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。諸々の感触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。諸々の法(意の対象)は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、まさしく、過去において、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたからです。『かくのごとくもまた、これらの六つの外なる〔認識の〕場所は、無常である』」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

410. 姉妹たちよ、それを、どう思いますか。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。耳の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。鼻の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。舌の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。身の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……。意の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、まさしく、過去において、このことは、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたからです。『かくのごとくもまた、これらの六つの識知〔作用〕の体系は、無常である』」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

411. 姉妹たちよ、それは、たとえば、また、燃えている油の灯明の、油もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、灯芯もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、炎もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、光もまた、無常であり、変化の法(性質)であるようなものです。姉妹たちよ、いったい、まさに、或る者が、『この燃えている油の灯明の、油もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、灯芯もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、炎もまた、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、まさに、その〔油の灯明〕の光は、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この燃えている油の灯明の、油もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、灯芯もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、炎もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、なおのこと、その〔油の灯明〕の光は、無常であり、変化の法(性質)であるからです」と。「姉妹たちよ、まさしく、このように、まさに、いったい、まさに、或る者が、『まさに、これらの六つの内なる〔認識の〕場所は、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、六つの内なる〔認識の〕場所を縁として得知する、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、それに応じる〔縁〕それに応じる縁を縁として、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が生起し、それに応じる〔縁〕それに応じる縁の止滅あることから、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が止滅するからです」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

412. 姉妹たちよ、それは、たとえば、また、〔地に〕立っている硬材ある大木の、根もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、幹もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、枝葉もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、影もまた、無常であり、変化の法(性質)であるようなものです。姉妹たちよ、いったい、まさに、或る者が、『この〔地に〕立っている硬材ある大木の、根もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、幹もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、枝葉もまた、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、まさに、その〔硬材ある大木〕の影は、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この〔地に〕立っている硬材ある大木の、根もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、幹もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、枝葉もまた、無常であり、変化の法(性質)であり、なおのこと、その〔硬材ある大木〕の影は、無常であり、変化の法(性質)であるからです」と。「姉妹たちよ、まさしく、このように、まさに、いったい、まさに、或る者が、『まさに、これらの六つの外なる〔認識の〕場所は、無常であり、変化の法(性質)である。しかしながら、すなわち、六つの外なる〔認識の〕場所を縁として得知する、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それは、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)である』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、それに応じる〔縁〕それに応じる縁を縁として、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が生起し、それに応じる〔縁〕それに応じる縁の止滅あることから、諸々のそれに応じる〔感受〕それに応じる感受が止滅するからです」と。「姉妹たちよ、善きかな、善きかな。姉妹たちよ、まさに、このように、このことは有ります。聖なる弟子が、事実のとおりに、正しい智慧によって見ているなら。

 

413. 姉妹たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、鋭い牛刀で、内なる肉の体系を損壊せずして、外なる皮の体系を損壊せずして、雌牛を切り裂くとします。まさしく、それぞれのものとして、そこにおいて、内なる肋膜があり、内なる腱があり、内なる結節があるなら、まさしく、それぞれのものを、鋭い牛刀で、断ち切り、切り裂き、しっかりと切り裂き、遍く切り裂きます。断ち切って、切り裂いて、しっかりと切り裂いて、遍く切り裂いて、外なる皮の体系を取り払って、まさしく、その皮で、その雌牛を覆って、『まさしく、そのように、この雌牛は、まさしく、この皮と結び付いています』と、このように説くなら、姉妹たちよ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この能ある、あるいは、屠牛者は、あるいは、屠牛者の内弟子は、雌牛を屠殺して、鋭い牛刀で、内なる肉の体系を損壊せずして、外なる皮の体系を損壊せずして、雌牛を切り裂き、まさしく、それぞれのものとして、そこにおいて、内なる肋膜があり、内なる腱があり、内なる結節があるなら、まさしく、それぞれのものを、鋭い牛刀で、断ち切り、切り裂き、遍く切り裂き、断ち切って、切り裂いて、しっかりと切り裂いて、遍く切り裂いて、外なる皮の体系を取り払って、まさしく、その皮で、その雌牛を覆って、たとえ、何であれ、彼が、『まさしく、そのように、この雌牛は、まさしく、この皮と結び付いています』と、このように説くとして、そこで、まさに、その雌牛は、まさしく、その皮と結び付いていないからです」と。

 

 「姉妹たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、これが、ここにおいて、義(意味)となります。姉妹たちよ、『内なる肉の体系』とは、まさに、これは、六つの内なる〔認識の〕場所の体系の同義語です。姉妹たちよ、『外なる皮の体系』とは、まさに、これは、六つの外なる〔認識の〕場所の体系の同義語です。姉妹たちよ、『内なる肋膜』『内なる腱』『内なる結節』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。姉妹たちよ、『鋭い牛刀』とは、まさに、これは、智慧の同義語です。すなわち、この聖なる智慧が、内なる〔心の〕汚れを、内なる束縛を、内なる結縛を、断ち切り、切り裂き、しっかりと切り裂き、遍く切り裂きます。

 

414. 姉妹たちよ、また、まさに、七つのものがあります。これらの覚りの支分です。それらが、修められたことから、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。どのようなものが、七つのものなのですか。姉妹たちよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。姉妹たちよ、まさに、これらの七つの覚りの支分があります。それらが、修められたことから、多く為されたことから、比丘は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。

 

415. そこで、まさに、尊者ナンダカは、それらの比丘尼たちを、この教諭によって教え諭して、送り出しました。「姉妹たちよ、赴きなさい。時です」と。そこで、まさに、それらの比丘尼たちは、尊者ナンダカの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、尊者ナンダカを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、それらの比丘尼たちに、世尊は、こう言いました。「姉妹たちよ、赴きなさい。時です」と。そこで、まさに、それらの比丘尼たちは、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、それらの比丘尼たちが立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、斎戒のその日、十五〔日〕において、多くの人々に、『いったい、まさに、月は、欠けているのか』『いったい、まさに、月は、満ちているのか』という、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、有ることなくあり、そこで、まさに、まさしく、『月は、満ちている』という〔思いが〕有るようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらの比丘尼たちは、ナンダカの法(教え)の説示によって、まさしく、そして、わが意を得た者たちと成り、さらに、円満成就した思惟ある者たちと〔成ります〕。比丘たちよ、それらの五百の比丘尼たちのなかの、すなわち、最後の比丘尼であれ、彼女は、預流たる者であり、堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 ナンダカによる教諭の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

 

5(147). 小なるラーフラへの教諭の経

 

416. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「まさに、ラーフラに、解脱を亢進させる諸々の法(性質)が円熟している。それなら、さあ、わたしは、ラーフラを、より以上に、諸々の煩悩の滅尽について教え導くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、坐具を収め取りなさい。〔わたしたちは〕アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ラーフラは、世尊に答えて、坐具を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。

 

 また、まさに、その時点にあって、幾千の天神たちが、世尊に付き従う者たちと成ります。「今日、世尊は、尊者ラーフラを、より以上に、諸々の煩悩の滅尽について教え導くであろう」と。そこで、まさに、世尊は、アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、設けられた坐に坐りました。まさに、尊者ラーフラもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラに、世尊は、こう言いました。

 

417. 「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

418. 「ラーフラよ、それを、どう思いますか。耳は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。鼻は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。身は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の法(意の対象)は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。意の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。意の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

419. 「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいし厭離し、諸々の形態にたいし厭離し、眼の識知〔作用〕にたいし厭離し、眼の接触にたいし厭離し、すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。耳にたいし厭離し、諸々の音声にたいし厭離し……。鼻にたいし厭離し、諸々の臭気にたいし厭離し……。舌にたいし厭離し、諸々の味感にたいし厭離し……。身にたいし厭離し、諸々の感触にたいし厭離し……。意にたいし厭離し、諸々の法(意の対象)にたいし厭離し、意の識知〔作用〕にたいし厭離し、意の接触にたいし厭離し、すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者ラーフラの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。さらに、それらの幾千の天神たちに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。

 

 小なるラーフラへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

6(148). 六つの六なるものの経

 

420. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、法(教え)を、あなたたちに説示しましょう──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示しましょう。すなわち、この、六つの六なるものです。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「六つの内なる〔認識の〕場所が知られるべきです。六つの外なる〔認識の〕場所が知られるべきです。六つの識知〔作用〕の体系が知られるべきです。六つの接触の体系が知られるべきです。六つの感受の体系が知られるべきです。六つの渇愛の体系が知られるべきです。

 

421. 『六つの内なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。『六つの内なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの外なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。形態の〔認識の〕場所であり、音声の〔認識の〕場所であり、臭気の〔認識の〕場所であり、味感の〔認識の〕場所であり、感触の〔認識の〕場所であり、法(意の対象)の〔認識の〕場所です。『六つの外なる〔認識の〕場所が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの識知〔作用〕の体系が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。『六つの識知〔作用〕の体系が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの接触の体系が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。『六つの接触の体系が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの感受の体系が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。『六つの感受の体系が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『六つの渇愛の体系が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。『六つの渇愛の体系が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

422. 『眼は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。眼には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『眼は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、眼は、自己ならざるものです。

 

 『諸々の形態は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。諸々の形態には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『諸々の形態は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、眼は、自己ならざるものであり、諸々の形態は、自己ならざるものです。

 

 『眼の識知〔作用〕は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。眼の識知〔作用〕には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『眼の識知〔作用〕は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、眼は、自己ならざるものであり、諸々の形態は、自己ならざるものであり、眼の識知〔作用〕は、自己ならざるものです。

 

 『眼の接触は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。眼の接触には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『眼の接触は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、眼は、自己ならざるものであり、諸々の形態は、自己ならざるものであり、眼の識知〔作用〕は、自己ならざるものであり、眼の接触は、自己ならざるものです。

 

 『感受は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。感受には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『感受は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、眼は、自己ならざるものであり、諸々の形態は、自己ならざるものであり、眼の識知〔作用〕は、自己ならざるものであり、眼の接触は、自己ならざるものであり、感受は、自己ならざるものです。

 

 『渇愛は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。渇愛には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『渇愛は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、眼は、自己ならざるものであり、諸々の形態は、自己ならざるものであり、眼の識知〔作用〕は、自己ならざるものであり、眼の接触は、自己ならざるものであり、感受は、自己ならざるものであり、渇愛は、自己ならざるものです。

 

423. 『耳は、自己である』と、或る者が説くとして……略……。『鼻は、自己である』と、或る者が説くとして……。『舌は、自己である』と、或る者が説くとして……。『身は、自己である』と、或る者が説くとして……。『意は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。意には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『意は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、意は、自己ならざるものです。

 

 『諸々の法(意の対象)は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。諸々の法(意の対象)には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『諸々の法(意の対象)は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、意は、自己ならざるものであり、諸々の法(意の対象)は、自己ならざるものです。

 

 『意の識知〔作用〕は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。意の識知〔作用〕には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『意の識知〔作用〕は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、意は、自己ならざるものであり、諸々の法(意の対象)は、自己ならざるものであり、意の識知〔作用〕は、自己ならざるものです。

 

 『意の接触は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。意の接触には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『意の接触は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、意は、自己ならざるものであり、諸々の法(意の対象)は、自己ならざるものであり、意の識知〔作用〕は、自己ならざるものであり、意の接触は、自己ならざるものです。

 

 『感受は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。感受には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『感受は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、意は、自己ならざるものであり、諸々の法(意の対象)は、自己ならざるものであり、意の識知〔作用〕は、自己ならざるものであり、意の接触は、自己ならざるもので、感受は、自己ならざるものです。

 

 『渇愛は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。渇愛には、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されます。また、まさに、それに、生起もまた〔覚知され〕、衰失もまた覚知されるなら、『わたしの自己は、かつまた、生起し、かつまた、衰失する』と、かくのごとく、彼には、このように至り着くところと成ります。それゆえに、『渇愛は、自己である』と、或る者が説くとして、それは成り立ちません。かくのごとく、意は、自己ならざるものであり、諸々の法(意の対象)は、自己ならざるものであり、意の識知〔作用〕は、自己ならざるものであり、意の接触は、自己ならざるもので、感受は、自己ならざるものであり、渇愛は、自己ならざるものです。

 

424. 比丘たちよ、また、まさに、これは、身体を有すること(有身)の集起に至る〔実践の〕道です。眼を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。諸々の形態を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。眼の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。眼の接触を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。感受を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。渇愛を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。耳を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。鼻を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。舌を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。身を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。……略……。意を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。諸々の法(意の対象)を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。意の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。意の接触を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。感受を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。渇愛を、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観します。

 

 比丘たちよ、また、まさに、これは、身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道です。眼を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。諸々の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。眼の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。眼の接触を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。感受を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。渇愛を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。耳を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。鼻を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。舌を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。身を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。……略……。意を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。諸々の法(意の対象)を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。意の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。意の接触を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。感受を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。渇愛を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と等しく随観します。

 

425. 比丘たちよ、かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから生起する、感受されたものである、あるいは、安楽があり、あるいは、苦痛があり、あるいは、苦でもなく楽でもないものがあります。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼には、貪り〔の思い〕の悪習(貪随眠:貪りの潜在煩悩)が悪しき習いとなります。苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。彼には、敵対〔の思い〕の悪習(瞋随眠:怒りの潜在煩悩)が悪しき習いとなります。苦でもなく楽でもない感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、その感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼には、無明の悪習が悪しき習いとなります。比丘たちよ、彼が、まさに、安楽の感受における貪り〔の思い〕の悪習を捨棄せずして、苦痛の感受における敵対〔の思い〕の悪習を除去せずして、苦でもなく楽でもない感受における無明の悪習を完破せずして、無明を捨棄せずして、明知を生起させずして、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成るであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから生起する、感受されたものである、あるいは、安楽があり、あるいは、苦痛があり、あるいは、苦でもなく楽でもないものがあります。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼には、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。彼には、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦でもなく楽でもない感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、その感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼には、無明の悪習が悪しき習いとなります。比丘たちよ、彼が、まさに、安楽の感受における貪り〔の思い〕の悪習を捨棄せずして、苦痛の感受における敵対〔の思い〕の悪習を除去せずして、苦でもなく楽でもない感受における無明の悪習を完破せずして、無明を捨棄せずして、明知を生起させずして、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成るであろう、という、この状況は見出されません。

 

426. 比丘たちよ、かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから生起する、感受されたものである、あるいは、安楽があり、あるいは、苦痛があり、あるいは、苦でもなく楽でもないものがあります。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼には、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなりません。苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。彼には、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなりません。苦でもなく楽でもない感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、その感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼には、無明の悪習が悪しき習いとなりません。比丘たちよ、彼が、まさに、安楽の感受における貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、苦痛の感受における敵対〔の思い〕の悪習を除去して、苦でもなく楽でもない感受における無明の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成るであろう、という、この状況は見出されます。

 

 比丘たちよ、かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が生起します。……略……。比丘たちよ、かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから生起する、感受されたものである、あるいは、安楽があり、あるいは、苦痛があり、あるいは、苦でもなく楽でもないものがあります。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼には、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなりません。苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。彼には、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなりません。苦でもなく楽でもない感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、その感受の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼には、無明の悪習が悪しき習いとなりません。比丘たちよ、彼が、まさに、安楽の感受における貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、苦痛の感受における敵対〔の思い〕の悪習を除去して、苦でもなく楽でもない感受における無明の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成るであろう、という、この状況は見出されます。

 

427. 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいし厭離し、諸々の形態にたいし厭離し、眼の識知〔作用〕にたいし厭離し、眼の接触にたいし厭離し、感受にたいし厭離し、渇愛にたいし厭離します。……略……。耳にたいし厭離し、諸々の音声にたいし厭離し……略……。鼻にたいし厭離し、諸々の臭気にたいし厭離し……。舌にたいし厭離し、諸々の味感にたいし厭離し……。身にたいし厭離し、諸々の感触にたいし厭離し……。意にたいし厭離し、諸々の法(意の対象)にたいし厭離し、意の識知〔作用〕にたいし厭離し、意の接触にたいし厭離し、感受にたいし厭離し、渇愛にたいし厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。また、そして、この説き明かしが話されているとき、六十ばかりの比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した、ということです。

 

 六つの六なるものの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

 

7(149). 大いなる六つの〔認識の〕場所あるものの経

 

428. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、大いなる六つの〔認識の〕場所あるものを、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

429. 「比丘たちよ、眼を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、諸々の形態を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、眼の識知〔作用〕を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、眼の接触を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、眼にたいし貪染し、諸々の形態にたいし貪染し、眼の識知〔作用〕にたいし貪染し、眼の接触にたいし貪染し、すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた貪染します。

 

 彼が、〔それに〕貪染し、〔それに〕束縛され、等しく迷乱した者となり、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、未来に、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)が、蓄積に至ります。そして、彼には、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛が〔成長し〕、さらに、彼の、その〔渇愛〕は増大します。彼の、諸々の身体の懊悩もまた増大し、諸々の心の懊悩もまた増大し、諸々の身体の熱苦もまた増大し、諸々の心の熱苦もまた増大し、諸々の身体の苦悶もまた増大し、諸々の心の苦悶もまた増大します。彼は、身体の苦痛をもまた得知し、心の苦痛をもまた得知します。

 

 比丘たちよ、耳を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は……略……。比丘たちよ、鼻を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は……略……。比丘たちよ、舌を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は……略……。比丘たちよ、身を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は……略……。比丘たちよ、意を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、比丘たちよ、諸々の法(意の対象)を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、比丘たちよ、意の識知〔作用〕を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、比丘たちよ、意の接触を、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、事実のとおりに知らず見ずにいる者は、意にたいし貪染し、諸々の法(意の対象)にたいし貪染し、意の識知〔作用〕にたいし貪染し、意の接触にたいし貪染し、すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた貪染します。

 

 彼が、〔それに〕貪染し、〔それに〕束縛され、等しく迷乱した者となり、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、未来に、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、蓄積に至ります。そして、彼には、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛が〔成長し〕、さらに、彼の、その〔渇愛〕は増大します。彼の、諸々の身体の懊悩もまた増大し、諸々の心の懊悩もまた増大し、諸々の身体の熱苦もまた増大し、諸々の心の熱苦もまた増大し、諸々の身体の苦悶もまた増大し、諸々の心の苦悶もまた増大します。彼は、身体の苦痛をもまた得知し、心の苦痛をもまた得知します。

 

430. 比丘たちよ、しかしながら、まさに、眼を、事実のとおりに知り見ている者は、諸々の形態を、事実のとおりに知り見ている者は、眼の識知〔作用〕を、事実のとおりに知り見ている者は、眼の接触を、事実のとおりに知り見ている者は、すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、事実のとおりに知り見ている者は、眼にたいし貪染せず、諸々の形態にたいし貪染せず、眼の識知〔作用〕にたいし貪染せず、眼の接触にたいし貪染せず、すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた貪染しません。

 

 彼が、〔それに〕貪染せず、〔それに〕束縛されず、等しく迷乱しない者となり、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、未来に、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、滅減に至ります。そして、彼には、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛が〔衰退し〕、さらに、彼の、その〔渇愛〕は捨棄されます。彼の、諸々の身体の懊悩もまた捨棄され、諸々の心の懊悩もまた捨棄され、諸々の身体の熱苦もまた捨棄され、諸々の心の熱苦もまた捨棄され、彼の、諸々の身体の苦悶もまた捨棄され、諸々の心の苦悶もまた捨棄されます。彼は、身体の安楽をもまた得知し、心の安楽をもまた得知します。

 

431. そのように有る者の、その見解は、彼の、その〔見解〕は、正しい見解と成ります。そのように有る者の、その思惟は、彼の、その〔思惟〕は、正しい思惟と成ります。そのように有る者の、その努力は、彼の、その〔努力〕は、正しい努力と成ります。そのように有る者の、その気づきは、彼の、その〔気づき〕は、正しい気づきと成ります。そのように有る者の、その禅定は、彼の、その〔禅定〕は、正しい禅定と成ります。また、まさに、まさしく、過去において、彼の、身体の行為も、言葉の行為も、生き方も、完全無欠の清浄なるものと成ります。このように、彼の、この聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼が、このように、この聖なる八つの支分ある道を修めていると、四つの気づきの確立もまた、修行の円満成就に赴き、四つの正しい精励(四正勤)もまた、修行の円満成就に赴き、四つの神通の足場(四神足)もまた、修行の円満成就に赴き、五つの機能(五根)もまた、修行の円満成就に赴き、五つの力(五力)もまた、修行の円満成就に赴き、七つの覚りの支分(七覚支)もまた、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼の、これらの二つの法(性質)が、双連のものとして転起します。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。彼は、それらの法(性質)が証知して遍知されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して遍知し、それらの法(性質)が証知して捨棄されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して捨棄し、それらの法(性質)が証知して修行されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して修行し、それらの法(性質)が証知して実証されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して実証します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)なのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇』と説かれるべきものが存在します。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。これらは、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、無明であり、さらに、生存の渇愛です。これらは、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して修行されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。これらは、証知して修行されるべき諸々の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して実証されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、明知であり、さらに、解脱です。これらは、証知して実証されるべき諸々の法(性質)です。

 

432. 比丘たちよ、耳を、事実のとおりに知り見ている者は……略……。比丘たちよ、鼻を、事実のとおりに知り見ている者は……略……。比丘たちよ、舌を、事実のとおりに知り見ている者は……。比丘たちよ、身を、事実のとおりに知り見ている者は……。比丘たちよ、意を、事実のとおりに知り見ている者は、諸々の法(意の対象)を、事実のとおりに知り見ている者は、意の識知〔作用〕を、事実のとおりに知り見ている者は、意の接触を、事実のとおりに知り見ている者は、すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それをもまた、事実のとおりに知り見ている者は、意にたいし貪染せず、諸々の法(意の対象)にたいし貪染せず、意の識知〔作用〕にたいし貪染せず、意の接触にたいし貪染せず、すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それにたいしてもまた貪染しません。

 

 彼が、〔それに〕貪染せず、〔それに〕束縛されず、等しく迷乱しない者となり、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、未来に、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、滅減に至ります。そして、彼には、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛が〔衰退し〕、さらに、彼の、その〔渇愛〕は捨棄されます。彼の、諸々の身体の懊悩もまた捨棄され、諸々の心の懊悩もまた捨棄され、諸々の身体の熱苦もまた捨棄され、諸々の心の熱苦もまた捨棄され、彼の、諸々の身体の苦悶もまた捨棄され、諸々の心の苦悶もまた捨棄されます。彼は、身体の安楽をもまた得知し、心の安楽をもまた得知します。

 

433. そのように有る者の、その見解は、彼の、その〔見解〕は、正しい見解と成ります。そのように有る者の、その思惟は、彼の、その〔思惟〕は、正しい思惟と成ります。そのように有る者の、その努力は、彼の、その〔努力〕は、正しい努力と成ります。そのように有る者の、その気づきは、彼の、その〔気づき〕は、正しい気づきと成ります。そのように有る者の、その禅定は、彼の、その〔禅定〕は、正しい禅定と成ります。また、まさに、まさしく、過去において、彼の、身体の行為も、言葉の行為も、生き方も、完全無欠の清浄なるものと成ります。このように、彼の、この聖なる八つの支分ある道は、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼が、このように、この聖なる八つの支分ある道を修めていると、四つの気づきの確立もまた、修行の円満成就に赴き、四つの正しい精励もまた、修行の円満成就に赴き、四つの神通の足場もまた、修行の円満成就に赴き、五つの機能もまた、修行の円満成就に赴き、五つの力もまた、修行の円満成就に赴き、七つの覚りの支分もまた、修行の円満成就に赴きます。

 

 彼の、これらの二つの法(性質)が、双連のものとして転起します。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。彼は、それらの法(性質)が証知して遍知されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して遍知し、それらの法(性質)が証知して捨棄されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して捨棄し、それらの法(性質)が証知して修行されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して修行し、それらの法(性質)が証知して実証されるべきであるなら、それらの法(性質)を証知して実証します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)なのですか。『五つの〔心身を構成する〕執取の範疇』と説かれるべきものが存在します。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇です。これらは、証知して遍知されるべき諸々の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、無明であり、さらに、生存の渇愛です。これらは、証知して捨棄されるべき諸々の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して修行されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、〔心の〕止寂であり、さらに、〔あるがままの〕観察です。これらは、証知して修行されるべき諸々の法(性質)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、証知して実証されるべき諸々の法(性質)なのですか。そして、明知であり、さらに、解脱です。これらは、証知して実証されるべき諸々の法(性質)です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 大いなる六つの〔認識の〕場所あるものの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

 

8(150). ナガラヴィンダ〔村〕の者たちの経

 

434. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ナガラヴィンダという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、ナガラヴィンダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ナガラヴィンダ〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、ナガラヴィンダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナガラヴィンダ〔村〕の婆羅門や家長たちに、世尊は、こう言いました。

 

435. 「家長たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『家長たちよ、どのように〔世に〕有る沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちではなく、尊重されるべき者たちではなく、思慕されるべき者たちではなく、供養されるべき者たちではないのですか』と。家長たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、貪欲を離れていない者たちであり、憤怒を離れていない者たちであり、迷妄を離れていない者たちであり、内に寂止していない心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義と不正〔の道〕を歩むなら、このような形態の沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちではなく、尊重されるべき者たちではなく、思慕されるべき者たちではなく、供養されるべき者たちではありません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、たとえ、わたしたちが、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、貪欲を離れていない者たちであり、憤怒を離れていない者たちであり、迷妄を離れていない者たちであり、内に寂止していない心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義と不正〔の道〕を歩むも、まさに、また、この、より上なるものである、正義の歩みを、彼らのものとして、わたしたちが見ずにいるなら、〔彼らのことを判断できるからです〕。それゆえに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちではなく、尊重されるべき者たちではなく、思慕されるべき者たちではなく、供養されるべき者たちではありません。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、耳によって識知されるべき諸々の音声にたいし……鼻によって識知されるべき諸々の臭気にたいし……舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし……身によって識知されるべき諸々の感触にたいし……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、貪欲を離れていない者たちであり、憤怒を離れていない者たちであり、迷妄を離れていない者たちであり、内に寂止していない心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義と不正〔の道〕を歩むなら、このような形態の沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちではなく、尊重されるべき者たちではなく、思慕されるべき者たちではなく、供養されるべき者たちではありません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、たとえ、わたしたちが、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、貪欲を離れていない者たちであり、憤怒を離れていない者たちであり、迷妄を離れていない者たちであり、内に寂止していない心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義と不正〔の道〕を歩むも、まさに、また、この、より上なるものである、正義の歩みを、彼らのものとして、わたしたちが見ずにいるなら、〔彼らのことを判断できるからです〕。それゆえに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちではなく、尊重されるべき者たちではなく、思慕されるべき者たちではなく、供養されるべき者たちではありません』と。家長たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。

 

436. 家長たちよ、また、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『家長たちよ、どのように〔世に〕有る沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちであり、尊重されるべき者たちであり、思慕されるべき者たちであり、供養されるべき者たちであるのですか』と。家長たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、貪欲を離れた者たちであり、憤怒を離れた者たちであり、迷妄を離れた者たちであり、内に寂止した心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義の歩みを歩むなら、このような形態の沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちであり、尊重されるべき者たちであり、思慕されるべき者たちであり、供養されるべき者たちです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、たとえ、わたしたちが、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、貪欲を離れていない者たちであり、憤怒を離れていない者たちであり、迷妄を離れていない者たちであり、内に寂止していない心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義と不正〔の道〕を歩むも、まさに、また、この、より上なるものである、正義の歩みを、彼らのものとして、わたしたちが見ているなら、〔彼らのことを判断できるからです〕。それゆえに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちであり、尊重されるべき者たちであり、思慕されるべき者たちであり、供養されるべき者たちです。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、耳によって識知されるべき諸々の音声にたいし……鼻によって識知されるべき諸々の臭気にたいし……舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし……身によって識知されるべき諸々の感触にたいし……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、貪欲を離れた者たちであり、憤怒を離れた者たちであり、迷妄を離れた者たちであり、内に寂止した心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義の歩みを歩むなら、このような形態の沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちであり、尊重されるべき者たちであり、思慕されるべき者たちであり、供養されるべき者たちです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、たとえ、わたしたちが、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、貪欲を離れていない者たちであり、憤怒を離れていない者たちであり、迷妄を離れていない者たちであり、内に寂止していない心の者たちとして、身体によって、言葉によって、意によって、正義と不正〔の道〕を歩むも、まさに、また、この、より上なるものである、正義の歩みを、彼らのものとして、わたしたちが見ているなら、〔彼らのことを判断できるからです〕。それゆえに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、尊敬されるべき者たちであり、尊重されるべき者たちであり、思慕されるべき者たちであり、供養されるべき者たちです』と。家長たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。

 

437. 家長たちよ、また、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、あなたたちに、このように尋ねるとします。『また、尊者たちには、どのような諸々の行相があり、どのような諸々の類推があり、それによって、あなたたちは、尊者たちは、このように説くのですか。「たしかに、それらの尊者たちは、あるいは、貪欲を離れた者たちであり、貪欲の調伏のために実践する者たちである、あるいは、憤怒を離れた者たちであり、憤怒の調伏のために実践する者たちである、あるいは、迷妄を離れた者たちであり、迷妄の調伏のために実践する者たちである」』と。家長たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『なぜなら、そのように、それらの尊者たちは、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するからです。また、まさに、そこにおいては、それらのものを見ては見て喜び楽しむ、そのような形態の眼によって識知されるべき諸々の形態は存在しません。また、まさに、そこにおいては、それらのものを聞いては聞いて喜び楽しむ、そのような形態の耳によって識知されるべき諸々の音声は存在しません。また、まさに、そこにおいては、それらのものを嗅いでは嗅いで喜び楽しむ、そのような形態の鼻によって識知されるべき諸々の臭気は存在しません。また、まさに、そこにおいては、それらのものを味わっては味わって喜び楽しむ、そのような形態の舌によって識知されるべき諸々の味感は存在しません。また、まさに、そこにおいては、それらのものと接触しては接触して喜び楽しむ、そのような形態の身によって識知されるべき諸々の感触は存在しません。友よ、まさに、わたしたちには、これらの行相があり、これらの類推があり、それによって、わたしたちは、このように説きます。「たしかに、それらの尊者たちは、あるいは、貪欲を離れた者たちであり、貪欲の調伏のために実践する者たちである、あるいは、憤怒を離れた者たちであり、憤怒の調伏のために実践する者たちである、あるいは、迷妄を離れた者たちであり、迷妄の調伏のために実践する者たちである」』と。家長たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです」と。

 

 このように説かれたとき、ナガラヴィンダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。

 

 ナガラヴィンダ〔村〕の者たちの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

 

9(151). 〔行乞の〕施食の完全なる清浄の経

 

438. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。

 

 「サーリプッタよ、まさに、あなたの、諸々の〔感官の〕機能は澄浄で、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。サーリプッタよ、まさに、あなたは、今現在、どのような住によって、多くを住むのですか」と。「尊き方よ、わたしは、今現在、空性の住によって、多くを住みます」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、あなたは、今現在、大いなる人の住によって、多くを住みます。サーリプッタよ、これは、大いなる人の住です。すなわち、この、空性は。サーリプッタよ、それゆえに、ここに、比丘が、それで、もし、『〔わたしは〕空性の住によって、多くを住むのだ』と望むなら、サーリプッタよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、そして、その道によって、〔行乞の〕食のために村に入り、かつまた、その地域において、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、その道によって、〔行乞の〕食のための村から戻ったが、いったい、まさに、わたしに、そこにおいて、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、あるいは、欲〔の思い〕()が、あるいは、貪欲〔の思い〕()が、あるいは、憤怒〔の思い〕()が、あるいは、迷妄〔の思い〕()が、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)が、存在するのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『わたしは、そして、その道によって、〔行乞の〕食のために村に入り、かつまた、その地域において、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、その道によって、〔行乞の〕食のための村から戻ったが、わたしに、そこにおいて、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪欲〔の思い〕が、あるいは、憤怒〔の思い〕が、あるいは、迷妄〔の思い〕が、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕が、存在する』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『わたしは、そして、その道によって、〔行乞の〕食のために村に入り、かつまた、その地域において、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、その道によって、〔行乞の〕食のための村から戻ったが、わたしに、そこにおいて、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし、あるいは、欲〔の思い〕は、あるいは、貪欲〔の思い〕は、あるいは、憤怒〔の思い〕は、あるいは、迷妄〔の思い〕は、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕は、存在しない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

439. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『わたしは、そして、その道によって、〔行乞の〕食のために村に入り、かつまた、その地域において、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、その道によって、〔行乞の〕食のための村から戻ったが、いったい、まさに、わたしに、そこにおいて、耳によって識知されるべき諸々の音声にたいし……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気にたいし……舌によって識知されるべき諸々の味感にたいし……身によって識知されるべき諸々の感触にたいし……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪欲〔の思い〕が、あるいは、憤怒〔の思い〕が、あるいは、迷妄〔の思い〕が、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕が、存在するのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『わたしは、そして、その道によって、〔行乞の〕食のために村に入り、かつまた、その地域において、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、その道によって、〔行乞の〕食のための村から戻ったが、わたしに、そこにおいて、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、あるいは、欲〔の思い〕が、あるいは、貪欲〔の思い〕が、あるいは、憤怒〔の思い〕が、あるいは、迷妄〔の思い〕が、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕が、存在する』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『わたしは、そして、その道によって、〔行乞の〕食のために村に入り、かつまた、その地域において、〔行乞の〕食のために歩み、さらに、その道によって、〔行乞の〕食のための村から戻ったが、わたしに、そこにおいて、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし、あるいは、欲〔の思い〕は、あるいは、貪欲〔の思い〕は、あるいは、憤怒〔の思い〕は、あるいは、迷妄〔の思い〕は、あるいは、また、心の敵対〔の思い〕は、存在しない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

440. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)は、わたしによって〔すでに〕捨棄されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの欲望の属性は、わたしによって〔いまだ〕捨棄されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、五つの欲望の属性の捨棄のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの欲望の属性は、わたしによって〔すでに〕捨棄された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

441. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)は、わたしによって〔すでに〕捨棄されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの〔修行の〕妨害は、わたしによって〔いまだ〕捨棄されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、五つの〔修行の〕妨害の捨棄のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの〔修行の〕妨害は、わたしによって〔すでに〕捨棄された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

442. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)は、わたしによって〔すでに〕遍知されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、わたしによって〔いまだ〕遍知されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の遍知のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇は、わたしによって〔すでに〕遍知された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

443. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法についての気づき)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、四つの気づきの確立は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、四つの気づきの確立の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、四つの気づきの確立は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

444. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、四つの正しい精励は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、四つの正しい精励の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、四つの正しい精励は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

445. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、四つの神通の足場は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、四つの神通の足場の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、四つの神通の足場は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

446. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの機能は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、五つの機能の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの機能は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

447. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの力は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、五つの力の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、五つの力は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

448. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、七つの覚りの支分は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、七つの覚りの支分の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、七つの覚りの支分は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

449. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、聖なる八つの支分ある道は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、聖なる八つの支分ある道の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、聖なる八つの支分ある道は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

450. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)は、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)は、わたしによって〔すでに〕修行されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、そして、〔心の〕止寂は、さらに、〔あるがままの〕観察は、わたしによって〔いまだ〕修行されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、〔心の〕止寂と〔あるがままの〕観察の修行のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、そして、〔心の〕止寂は、さらに、〔あるがままの〕観察は、わたしによって〔すでに〕修行された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

451. サーリプッタよ、さらに、また、他に、比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、そして、明知は、さらに、解脱は、わたしによって〔すでに〕実証されたのか』と。サーリプッタよ、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、そして、明知は、さらに、解脱は、わたしによって〔いまだ〕実証されていない』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、明知と解脱の実証のために努力するべきです。サーリプッタよ、また、それで、もし、比丘が、綿密に注視しながら、『まさに、そして、明知は、さらに、解脱は、わたしによって〔すでに〕実証された』と、このように知るなら、サーリプッタよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

452. サーリプッタよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔行乞の〕施食を完全に清めたなら、彼らの全てが、まさしく、このように綿密に注視しては綿密に注視して、〔行乞の〕施食を完全に清めました。まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔行乞の〕施食を完全に清めるであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように綿密に注視しては綿密に注視して、〔行乞の〕施食を完全に清めるでしょう。まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、〔行乞の〕施食を完全に清めるなら、彼らの全てが、まさしく、このように綿密に注視しては綿密に注視して、〔行乞の〕施食を完全に清めます。サーリプッタよ、それゆえに、ここに、『〔わたしたちは〕綿密に注視しては綿密に注視して、〔行乞の〕施食を完全に清めるのだ』と。サーリプッタよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者サーリプッタは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 〔行乞の〕施食の完全なる清浄の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

 

10(152). 〔感官の〕機能の修行の経

 

453. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ガジャンガラーに住んでおられます。スヴェール林において。そこで、まさに、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ学徒が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ学徒に、世尊は、こう言いました。「ウッタラよ、パーラーシヴィヤ婆羅門は、弟子たちに、〔感官の〕機能の修行を説示しますか」と。「貴君ゴータマよ、パーラーシヴィヤ婆羅門は、弟子たちに、〔感官の〕機能の修行を説示します」と。「ウッタラよ、また、すなわち、どのように、パーラーシヴィヤ婆羅門は、弟子たちに、〔感官の〕機能の修行を説示しますか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、『眼によって、形態を見ず、耳によって、音声を聞かない』と、貴君ゴータマよ、このように、まさに、パーラーシヴィヤ婆羅門は、弟子たちに、〔感官の〕機能の修行を説示します」と。「ウッタラよ、このように存しているとき、まさに、盲者が、〔感官の〕機能を修行した者と成るでしょうし、聾者が、〔感官の〕機能を修行した者と成るでしょう──すなわち、パーラーシヴィヤ婆羅門の言葉のとおりに。ウッタラよ、なぜなら、盲者は、眼によって、形態を見ず、聾者は、耳によって、音声を聞かないからです」と。このように説かれたとき、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ学徒は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ学徒が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、まさに、他なるものとして、パーラーシヴィヤ婆羅門は、弟子たちに、〔感官の〕機能の修行を説示し、アーナンダよ、また、そして、他なるものとして、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「尊き方よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行を説示するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

454. 「アーナンダよ、では、どのように、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行が有るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起したのだ。そして、それは、まさに、形成されたもの(有為)であり、粗雑なるものであり、縁によって生起したもの(縁已生)である。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、放捨()である』と。彼の、その、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、あるいは、〔眼を〕開いては閉じ、あるいは、閉じては開くように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰のものであれ、このように即座に、このように迅速に、このように難少なく、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、これは、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいする、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行と説かれます。

 

455. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起したのだ。そして、それは、まさに、形成されたものであり、粗雑なるものであり、縁によって生起したものである。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、放捨である』と。彼の、その、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、力ある人が、まさしく、難少なく、指を弾いて打つように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰のものであれ、このように即座に、このように迅速に、このように難少なく、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、これは、耳によって識知されるべき諸々の音声にたいする、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行と説かれます。

 

456. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、鼻によって、臭気を嗅いで、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起したのだ。そして、それは、まさに、形成されたものであり、粗雑なるものであり、縁によって生起したものである。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、放捨である』と。彼の、その、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、僅かに傾く蓮の葉のうえで諸々の水滴が転起するように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰のものであれ、このように即座に、このように迅速に、このように難少なく、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、これは、鼻によって識知されるべき諸々の臭気にたいする、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行と説かれます。

 

457. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、舌によって、味感を味わって、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起したのだ。そして、それは、まさに、形成されたものであり、粗雑なるものであり、縁によって生起したものである。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、放捨である』と。彼の、その、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、力ある人が、舌の先端において唾液の塊を集めて、難少なく吐き捨てるように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰のものであれ、このように即座に、このように迅速に、このように難少なく、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、これは、舌によって識知されるべき諸々の味感にたいする、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行と説かれます。

 

458. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、身によって、感触と接触して、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起したのだ。そして、それは、まさに、形成されたものであり、粗雑なるものであり、縁によって生起したものである。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、放捨である』と。彼の、その、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰のものであれ、このように即座に、このように迅速に、このように難少なく、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、これは、身によって識知されるべき諸々の感触にたいする、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行と説かれます。

 

459. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、意によって、法(意の対象)を識知して、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起したのだ。そして、それは、まさに、形成されたものであり、粗雑なるものであり、縁によって生起したものである。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、放捨である』と。彼の、その、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、それは、たとえば、また、力ある人が、昼のあいだ熱せられた鉄鍋のうえに、あるいは、二つの、あるいは、三つの、水滴を落とすとします。アーナンダよ、〔それらの〕水滴の、〔その〕落下は遅くあるも、そこで、まさに、それは、まさしく、すみやかに、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰のものであれ、このように即座に、このように迅速に、このように難少なく、生起した意に適うものも、生起した意に適わないものも、生起した意に適い意に適わないものも、〔それは〕止滅し、放捨が確立します。アーナンダよ、これは、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいする、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行と説かれます。

 

460. アーナンダよ、では、どのように、〔いまだ〕学びある者(有学)たる〔道の〕実践者として〔世に〕有るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、その、生起した意に適うものによって、生起した意に適わないものによって、生起した意に適い意に適わないものによって、苦悩し、自責し、忌避します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼は、その、生起した意に適うものによって、生起した意に適わないものによって、生起した意に適い意に適わないものによって、苦悩し、自責し、忌避します。アーナンダよ、このように、まさに、〔いまだ〕学びある者たる〔道の〕実践者として〔世に〕有ります。

 

461. アーナンダよ、では、どのように、聖者たる〔感官の〕機能を修行した者(阿羅漢)として〔世に〕有るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼が、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、そして、嫌悪のものを、さらに、嫌悪ならざるものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。

 

462. アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……舌によって、味感を味わって……身によって、感触と接触して……意によって、法(意の対象)を識知して、意に適うものが生起し、意に適わないものが生起し、意に適い意に適わないものが生起します。彼が、それで、もし、『嫌悪のものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『嫌悪ならざるものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪ならざる表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪ならざるものについて、さらに、嫌悪のものについて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住むのだ』と望むなら、そこにおいて、嫌悪の表象ある者として〔世に〕住みます。それで、もし、『そして、嫌悪のものについて、さらに、嫌悪ならざるものについて、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住むのだ、気づきと正知の者として〔世に住むのだ〕』と望むなら、そこにおいて、そして、嫌悪のものを、さらに、嫌悪ならざるものを、その両者を回避して、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。アーナンダよ、このように、まさに、聖者たる〔感官の〕機能を修行した者として〔世に〕有ります。

 

463. アーナンダよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、聖者の律における無上なる〔感官の〕機能の修行が説示され、〔いまだ〕学びある者たる〔道の〕実践者が説示され、聖者たる〔感官の〕機能を修行した者が説示されました。アーナンダよ、それが、まさに、教師によって、弟子たちのために──〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて──為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。アーナンダよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。アーナンダよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 〔感官の〕機能の修行の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

 

 六つの〔認識の〕場所の章は終了となり、〔以上が〕第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「アナータピンディカ、チャンナ、プンナ、ナンダカとラーフラ、六つの六なるもの、六つの〔認識の〕場所あるもの、ナガラヴィンダ〔村〕の者たちと清浄なるもの、さらに、また、〔感官の〕機能の修行があり、第五の教諭の章となる」と。

 

 これが、〔五つの〕章のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「デーヴァダハ、そして、逐次、さらに、空性、区分なるもの、六つの〔認識の〕場所、ということで、〔五つの〕章が、後分の五十なるものにおいて立てられた」と。

 

 後分の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

 三つの五十なるものによって装飾され、全体となる。

 

 マッジマ・ニカーヤは〔以上で〕完結となる。