増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 チャッカ・ニパータ聖典(六集:六なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 第一の五十なるもの(1.~)

 

1. 〔供物を〕捧げられるべき者の章(1.~)

 

1. 第一の〔供物を〕捧げられるべき者の経

2. 第二の〔供物を〕捧げられるべき者の経

3. 機能の経

4. 力の経

5. 第一の良馬の経

6. 第二の良馬の経

7. 第三の良馬の経

8. 無上なるものの経

9. 随念の拠点の経

10. マハー・ナーマの経

 

2. 記憶されるべきものの章(11.~)

 

1. 第一の記憶されるべきものの経

2. 第二の記憶されるべきものの経

3. 出離するべきものの経

4. 幸いなるものの経

5. 悩み苦しめられるべきものの経

6. ナクラピタルの経

7. 眠りの経

8. 魚捕りの経

9. 第一の死についての気づきの経

10. 第二の死についての気づきの経

 

3. 無上なるものの章(21.~)

 

1. サーマ〔村〕の経

2. 遍き衰退とならないものの経

3. 恐怖の経

4. ヒマヴァントの経

5. 随念の拠点の経

6. マハー・カッチャーナの経

7. 第一の時点の経

8. 第二の時点の経

9. ウダーインの経

10. 無上なるものの経

 

4. 天神の章(31.~)

 

1. 〔いまだ〕学びある者の経

2. 第一の遍き衰退なきものの経

3. 第二の遍き衰退なきものの経

4. マハー・モッガッラーナの経

5. 明知を部分とするものの経

6. 論争の根元の経

7. 六つの支分ある布施の経

8. 自己によって為すことの経

9. 因縁の経

10. キミラの経

11. 木片の塊の経

12. ナーギタの経

 

5. ダンミカの章(43.~)

 

1. 象の経

2. ミガサーラーの経

3. 負債の経

4. マハー・チュンダの経

5. 第一の現に見られるものの経

6. 第二の現に見られるものの経

7. ケーマの経

8. 〔感官の〕機能における統御の経

9. アーナンダの経

10. 士族の経

11. 不放逸の経

12. ダンミカの経

 

2. 第二の五十なるもの(55.~)

 

6. 大いなるものの章(55.~)

 

1. ソーナの経

2. パッグナの経

3. 六つの出生の経

4. 煩悩の経

5. ダールカンミカの経

6. ハッティサーリプッタの経

7. 「中間において」の経

8. 人の機能についての知恵の経

9. 洞察の経

10. 獅子吼の経

 

7. 天神の章(65.~)

 

1. 不還果の経

2. 阿羅漢の資質の経

3. 朋友の経

4. 社交を喜びとする者の経

5. 天神の経

6. 禅定の経

7. 実証の可能の経

8. 力の経

9. 第一のそれなる瞑想の経

10. 第二のそれなる瞑想の経

 

8. 阿羅漢の資質の章(75.~)

 

1. 苦痛の経

2. 阿羅漢の資質の経

3. 人間の法を超えるものの経

4. 安楽と悦意の経

5. 到達の経

6. 大いなるものの経

7. 第一の地獄の経

8. 第二の地獄の経

9. 至高の法の経

10. 夜と昼の経

 

9. 清涼の章(85.~)

 

1. 清涼の状態の経

2. 妨げの経

3. 奪われた者の経

4. 「聞こうとし」の経

5. 「捨棄せずして」の経

6. 捨棄されたものの経

7. 不可能の経

8. 第一の不可能となる状況の経

9. 第二の不可能となる状況の経

10. 第三の不可能となる状況の経

11. 第四の不可能となる状況の経

 

10. 福利の章(96.~)

 

1. 出現の経

2. 福利の経

3. 無常の経

4. 苦痛の経

5. 無我の経

6. 涅槃の経

7. 確立なきものの経

8. 剣を引き抜いた者の経

9. 関わりなき者の経

10. 生存の経

11. 渇愛の経

 

11. 三なるものの章(107.~)

 

1. 貪欲の経

2. 悪しき行ないの経

3. 思考の経

4. 表象の経

5. 界域の経

6. 悦楽の経

7. 不満の経

8. 満ち足りていることの経

9. 頑固であることの経

10. 〔心の〕高揚の経

 

12. 沙門の資質の章(117.~)

 

1. 身体の随観ある者の経

2. 法の随観ある者の経

3. タプッサの経

4-23. バッリカ等の諸経

 

13. 貪欲と省略〔の経典〕(140.~)

 


 

 

 チャッカ・ニパータ聖典(六集:六なるものの集まり)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 第一の五十なるもの

 

1. 〔供物を〕捧げられるべき者の章

 

1. 第一の〔供物を〕捧げられるべき者の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態()を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声()を聞いて、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。鼻によって、臭気()を嗅いで、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。舌によって、味感()を味わって、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。身によって、感触(所触)と接触して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。意によって、法(:意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の〔供物を〕捧げられるべき者の経

 

2. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

 

 人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。

 

 他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

 

 無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

 

 人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為()のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解(邪見)ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解(正見)ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

 

 諸々の煩悩()の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧(慧・般若)による解脱を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 機能の経

 

3. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信の機能(信根)によって、精進の機能(精進根)によって、気づきの機能(念根)によって、禅定の機能(定根)によって、智慧の機能(慧根)によって、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 力の経

 

4. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信の力(信力)によって、精進の力(精進力)によって、気づきの力(念力)によって、禅定の力(定力)によって、智慧の力(慧力)によって、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の良馬の経

 

5. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、諸々の形態に忍耐あるものとして、諸々の音声に忍耐あるものとして、諸々の臭気に忍耐あるものとして、諸々の味感に忍耐あるものとして、諸々の感触に忍耐あるものとして、〔世に〕有り、さらに、栄誉(色艶)を成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の形態に忍耐ある者として、諸々の音声に忍耐ある者として、諸々の臭気に忍耐ある者として、諸々の味感に忍耐ある者として、諸々の感触に忍耐ある者として、諸々の法(意の対象)に忍耐ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の良馬の経

 

6. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、諸々の形態に忍耐あるものとして、諸々の音声に忍耐あるものとして、諸々の臭気に忍耐あるものとして、諸々の味感に忍耐あるものとして、諸々の感触に忍耐あるものとして、〔世に〕有り、さらに、力を成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の形態に忍耐ある者として……略……諸々の法(意の対象)に忍耐ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の良馬の経

 

7. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、諸々の形態に忍耐あるものとして、諸々の音声に忍耐あるものとして、諸々の臭気に忍耐あるものとして、諸々の味感に忍耐あるものとして、諸々の感触に忍耐あるものとして、〔世に〕有り、さらに、速さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の形態に忍耐ある者として……略……諸々の法(意の対象)に忍耐ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 無上なるものの経

 

8. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの無上なるものです。どのようなものが、六つのものなのですか。無上なる見であり、無上なる聞であり、無上なる利得であり、無上なる学びであり、無上なる世話であり、無上なる随念です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの無上なるものがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 随念の拠点の経

 

9. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの随念の拠点です。どのようなものが、六つのものなのですか。覚者の随念であり、法(教え)の随念であり、僧団の随念であり、戒の随念であり、施捨の随念であり、天神たちの随念です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの随念の拠点があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. マハー・ナーマの経

 

10. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、その聖なる弟子が、〔聖なる〕果に参入した者であり、〔如来の〕教えを識知した者であるなら、彼は、どのような住によって、多くを住むのですか」と。

 

 「マハー・ナーマよ、すなわち、その聖なる弟子が、〔聖なる〕果に参入した者であり、〔如来の〕教えを識知した者であるなら、彼は、この住によって、多くを住みます。マハー・ナーマよ、ここに、聖なる弟子が、如来を随念します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、如来を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲()に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒()に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄()に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──如来を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、覚者の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)を随念します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、法(教え)を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──法(教え)を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、法(教え)の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団を随念します。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、僧団を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──僧団を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、僧団の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、自己の諸戒を随念します──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、戒を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──戒を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、戒の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、自己の施捨を随念します。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、物惜の垢に遍く取り囲まれた人々のなかにおいて、物惜の垢が離れ去った心で家に居住する──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、施捨を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──施捨を対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、施捨の随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、天神たちの随念を修めます。『四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが存在する。耶摩天〔の神々〕たちが存在する。兜率天〔の神々〕たちが存在する。化楽天〔の神々〕たちが存在する。他化自在天〔の神々〕たちが存在する。梵身天〔の神々〕たちが存在する。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死んだあと、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死んだあと、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の戒が等しく見出される。そのような形態の所聞を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死んだあと、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の所聞が等しく見出される。そのような形態の施捨を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死んだあと、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の施捨が等しく見出される。そのような形態の智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死んだあと、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される』と。マハー・ナーマよ、その時点において、聖なる弟子が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──天神たちを対象として。マハー・ナーマよ、また、まさに、真っすぐに赴いた心の者として、聖なる弟子は、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。マハー・ナーマよ、この者は、『聖なる弟子として、不正に赴いた人々のなかにおいて正義に至り得た者として〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕を有する人々のなかにおいて憎悪〔の思い〕なき者として〔世に〕住み、法(教え)の流れに入定した者として、天神たちの随念を修める』〔と〕説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、すなわち、その聖なる弟子が、〔聖なる〕果に参入した者であり、〔如来の〕教えを識知した者であるなら、彼は、この住によって、多くを住みます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 〔供物を〕捧げられるべき者の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの〔供物を〕捧げられるべき者、機能、力、三つの良馬、無上なるもの、随念があり、マハー・ナーマとともに、それらの十がある」と。

 

2. 記憶されるべきものの章

 

1. 第一の記憶されるべきものの経

 

11. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの記憶されるべき法(性質)です。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)があります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の記憶されるべきものの経

 

12. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有ります。……略……慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)があります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 出離するべきものの経

 

13. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの出離するべき界域()です。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈愛()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、憎悪〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈愛という〔止寂の〕心による解脱です』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈悲()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、悩害〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、慈悲という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、悩害〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、悩害〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈悲という〔止寂の〕心による解脱です』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、歓喜()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、不満〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、歓喜という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、不満〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、不満〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、歓喜という〔止寂の〕心による解脱です』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、放捨()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、貪欲〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、放捨という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、貪欲〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、貪欲〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、放捨という〔止寂の〕心による解脱です』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、無相なる〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、わたしの識知〔作用〕()が、形相に従い行くものとして有る』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、無相なる〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、彼の識知〔作用〕が、形相に従い行くものとして有るであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、一切の形相にとっての出離であるからです。すなわち、この、無相なる〔止寂の〕心による解脱です』と。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕、まさに、わたしから離れ去り、かつまた、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観することはないのだが、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕離れ去ったとき、かつまた、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観せずにいながら、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、疑惑と懐疑の矢にとっての出離であるからです。すなわち、この、「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)の根絶です』と。比丘たちよ、まさに、これらの六つの出離するべき界域があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 幸いなるものの経

 

14. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、幸いなる死と成らず、幸いなる命終と〔成ら〕ない、そのとおり、そのとおりに。友よ、では、どのように、比丘は、住を営むのですか──彼が、〔その〕住を営んでいると、幸いなる死と成らず、幸いなる命終と〔成ら〕ない、そのとおり、そのとおりに。

 

 友よ、ここに、比丘が、作業を喜びとし、作業を喜び、作業の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。談義を喜びとし、談義を喜び、談義の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。睡眠を喜びとし、睡眠を喜び、睡眠の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。社交を喜びとし、社交を喜び、社交の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。交流を喜びとし、交流を喜び、交流の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。虚構を喜びとし、虚構を喜び、虚構の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、幸いなる死と成らず、幸いなる命終と〔成ら〕ない、そのとおり、そのとおりに。友よ、この者は、『比丘として、身体を有すること(有身:身体と自己を同一視する認知のあり方)を喜び楽しむ者であり、身体を有することを捨棄しない──正しく苦しみの終極を為すために』〔と〕説かれます。

 

 友よ、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、幸いなる死と成り、幸いなる命終と〔成る〕、そのとおり、そのとおりに。友よ、では、どのように、比丘は、住を営むのですか──彼が、〔その〕住を営んでいると、幸いなる死と成り、幸いなる命終と〔成る〕、そのとおり、そのとおりに。

 

 友よ、ここに、比丘が、作業を喜びとせず、作業を喜ばず、作業の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。談義を喜びとせず、談義を喜ばず、談義の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。睡眠を喜びとせず、睡眠を喜ばず、睡眠の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。社交を喜びとせず、社交を喜ばず、社交の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。交流を喜びとせず、交流を喜ばず、交流の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。虚構を喜びとせず、虚構を喜ばず、虚構の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、幸いなる死と成り、幸いなる命終と〔成る〕、そのとおり、そのとおりに。友よ、この者は、『比丘として、涅槃を喜び楽しむ者であり、身体を有することを捨棄する──正しく苦しみの終極を為すために』〔と〕説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、戯論(分別妄想)に専念し、戯論を喜び楽しむ獣愚の者は、彼は、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、失ったのだ。

 

 しかしながら、すなわち、戯論を捨棄して、戯論なき道を喜ぶ者は、彼は、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、達成したのだ」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 悩み苦しめられるべきものの経

 

15. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、命終が悩み苦しみと成る、そのとおり、そのとおりに。友よ、では、どのように、比丘は、住を営むのですか──彼が、〔その〕住を営んでいると、命終が悩み苦しみと成る、そのとおり、そのとおりに。

 

 友よ、ここに、比丘が、作業を喜びとし、作業を喜び、作業の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。談義を喜びとし……略……〔世に〕有ります。睡眠を喜びとし……〔世に〕有ります。社交を喜びとし……〔世に〕有ります。交流を喜びとし……〔世に〕有ります。虚構を喜びとし、虚構を喜び、虚構の喜びに専念する者として〔世に〕有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、命終が悩み苦しみと成る、そのとおり、そのとおりに。友よ、この者は、『比丘として、身体を有することを喜び楽しむ者であり、身体を有することを捨棄しない──正しく苦しみの終極を為すために』〔と〕説かれます。

 

 友よ、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、命終が悩み苦しみなきものと成る、そのとおり、そのとおりに。友よ、では、どのように、比丘は、住を営むのですか──彼が、〔その〕住を営んでいると、命終が悩み苦しみなきものと成る、そのとおり、そのとおりに。

 

 友よ、ここに、比丘が、作業を喜びとせず、作業を喜ばず、作業の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。談義を喜びとせず……略……〔世に〕有ります。睡眠を喜びとせず……〔世に〕有ります。社交を喜びとせず……〔世に〕有ります。交流を喜びとせず……〔世に〕有ります。虚構を喜びとせず、虚構を喜ばず、虚構の喜びに専念しない者として〔世に〕有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、そのとおり、そのとおりに、住を営みます──彼が、〔その〕住を営んでいると、命終が悩み苦しみなきものと成る、そのとおり、そのとおりに。友よ、この者は、『比丘として、涅槃を喜び楽しむ者であり、身体を有することを捨棄する──正しく苦しみの終極を為すために』〔と〕説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、戯論(分別妄想)に専念し、戯論を喜び楽しむ獣愚の者は、彼は、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、失ったのだ。

 

 しかしながら、すなわち、戯論を捨棄して、戯論なき道を喜ぶ者は、彼は、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、達成したのだ」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ナクラピタルの経

 

16. 或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。また、まさに、その時点にあって、ナクラピタル家長は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、ナクラマータル主婦は、ナクラピタル家長に、こう言いました。

 

 「家長よ、まさに、あなたは、心配を有する者として、命を終えてはいけません。家長よ、心配を有する者の命終は、苦しみです。かつまた、心配を有する者の命終は、世尊によって非難されました。家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『ナクラマータル主婦は、わたしの死後、幼い者たちを養うことが、家の居住を保持することが、できないであろう』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。家長よ、わたしは、木綿を紡ぐことに、羊毛を編むことに、巧みな智ある者です。家長よ、わたしは、あなたの死後、幼い者たちを養うことが、家の居住を保持することが、できます。家長よ、それゆえに、ここに、あなたは、心配を有する者として、命を終えてはいけません。家長よ、心配を有する者の命終は、苦しみです。かつまた、心配を有する者の命終は、世尊によって非難されました。

 

 家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『ナクラマータル主婦は、わたしの死後、他の家に赴くであろう』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。家長よ、まさしく、そして、あなたは、さらに、わたしも、まさに、知っています。すなわち、十六年のあいだ、わたしたちによって在家の梵行が励行されたことを。家長よ、それゆえに、ここに、あなたは、心配を有する者として、命を終えてはいけません。家長よ、心配を有する者の命終は、苦しみです。かつまた、心配を有する者の命終は、世尊によって非難されました。

 

 家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『ナクラマータル主婦は、わたしの死後、世尊と会見することを欲する者と成らないであろうし、比丘の僧団と会見することを欲する者と〔成ら〕ないであろう』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。家長よ、まさに、わたしは、あなたの死後、まさしく、そして、世尊と会見することをより欲する者と成るでしょうし、さらに、比丘の僧団と会見することをより欲する者と〔成るでしょう〕。家長よ、それゆえに、ここに、あなたは、心配を有する者として、命を終えてはいけません。家長よ、心配を有する者の命終は、苦しみです。かつまた、心配を有する者の命終は、世尊によって非難されました。

 

 家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『ナクラマータル主婦は、わたしの死後、諸戒における円満成就を為す者ではなく、〔世に有るだろう〕』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。家長よ、およそ、まさに、彼の、世尊の、女性の弟子たる白衣の在家者たちで、諸戒における円満成就を為す者としてあるかぎり、それらの者たちのなかの随一の者として、わたしはあります。また、まさに、そのことに、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存在するなら、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、この方が、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。近づいて行って、彼に、世尊に尋ねたまえ。家長よ、それゆえに、ここに、あなたは、心配を有する者として、命を終えてはいけません。家長よ、心配を有する者の命終は、苦しみです。かつまた、心配を有する者の命終は、世尊によって非難されました。

 

 家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『ナクラマータル主婦は、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の得者ならず』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。家長よ、およそ、まさに、彼の、世尊の、女性の弟子たる白衣の在家者たちで、内なる心の止寂の得者としてあるかぎり、それらの者たちのなかの随一の者として、わたしはあります。また、まさに、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存在するなら、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、この方が、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。近づいて行って、彼に、世尊に尋ねたまえ。家長よ、それゆえに、ここに、あなたは、心配を有する者として、命を終えてはいけません。家長よ、心配を有する者の命終は、苦しみです。かつまた、心配を有する者の命終は、世尊によって非難されました。

 

 家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『ナクラマータル主婦は、この法(教え)と律において、堅地に至り得た者として、浅瀬に至り得た者として、安堵に至り得た者として、疑惑を超え渡った者として、懐疑を離れ去った者として、離怖に至り得た者として、教師の教えにおいて他を縁としない者として、〔世に〕住まない』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。家長よ、およそ、まさに、彼の、世尊の、女性の弟子たる白衣の在家者たちで、この法(教え)と律において、堅地に至り得た者たちとして、浅瀬に至り得た者たちとして、安堵に至り得た者たちとして、疑惑を超え渡った者たちとして、懐疑を離れ去った者たちとして、離怖に至り得た者たちとして、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとして、〔世に〕住むかぎり、それらの者たちのなかの随一の者として、わたしはあります。また、まさに、その者に、あるいは、疑いが、あるいは、疑問が、存在するなら、彼が、阿羅漢にして正等覚者たる世尊が、この方が、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。近づいて行って、彼に、世尊に尋ねたまえ。家長よ、それゆえに、ここに、あなたは、心配を有する者として、命を終えてはいけません。家長よ、心配を有する者の命終は、苦しみです。かつまた、心配を有する者の命終は、世尊によって非難されました」と。

 

 そこで、まさに、ナクラピタル家長が、ナクラマータル主婦のこの教諭によって教え諭されていると、その病苦は、即座に安息しました。そして、ナクラピタル家長は、その病苦から出起しました。また、そして、ナクラピタル家長のその病苦は、そのように、捨棄されたものと成りました。そこで、まさに、病から出起したナクラピタル家長は、病から出起したすぐあと、杖に頼って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナクラピタル家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたにとって、ナクラマータル主婦は、慈しみ〔の思い〕ある者であり、義(利益)を欲する者であり、教諭者であり、教示者です。家長よ、およそ、まさに、わたしの女性の弟子たる白衣の在家者たちで、諸戒における円満成就を為す者としてあるかぎり、それらの者たちのなかの随一の者として、ナクラマータル主婦はあります。家長よ、およそ、まさに、わたしの女性の弟子たる白衣の在家者たちで、内なる心の止寂の得者としてあるかぎり、それらの者たちのなかの随一の者として、ナクラマータル主婦はあります。家長よ、およそ、まさに、わたしの女性の弟子たる白衣の在家者たちで、この法(教え)と律において、堅地に至り得た者たちとして、浅瀬に至り得た者たちとして、安堵に至り得た者たちとして、疑惑を超え渡った者たちとして、懐疑を離れ去った者たちとして、離怖に至り得た者たちとして、教師の教えにおいて他を縁としない者たちとして、〔世に〕住むかぎり、それらの者たちのなかの随一の者として、ナクラマータル主婦はあります。家長よ、あなたには、諸々の利得があります。家長よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたにとって、ナクラマータル主婦は、慈しみ〔の思い〕ある者であり、義(利益)を欲する者であり、教諭者であり、教示者です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 眠りの経

 

17. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。まさに、尊者サーリプッタもまた、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。まさに、尊者マハー・モッガッラーナもまた……略……。まさに、尊者マハー・カッサパもまた……。まさに、尊者マハー・カッチャーヤナもまた……。まさに、尊者マハー・コッティカもまた……。まさに、尊者マハー・チュンダもまた……。まさに、尊者マハー・カッピナもまた……。まさに、尊者アヌルッダもまた……。まさに、尊者レーヴァタもまた……。まさに、尊者アーナンダもまた、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、坐禅〔瞑想〕のために過ごして、坐から立ち上がって、精舎に入りました。まさに、それらの尊者たちもまた、世尊が立ち去ったすぐあと、坐から立ち上がって、それぞれの精舎に赴きました。いっぽう、そこにおいて、新参者たちであり、出家したばかりであり、この法(教え)と律の入門者たちである、それらの比丘たちは──彼らは、日の出に至るまで、いびきをしながら眠っていました。まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、それらの比丘たちが、日の出に至るまで、いびきをしながら眠っているのを見ました。見て、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、いったい、まさに、どこに、サーリプッタはいるのですか。どこに、マハー・モッガッラーナはいるのですか。どこに、マハー・カッサパはいるのですか。どこに、マハー・カッチャーヤナはいるのですか。どこに、マハー・コッティカはいるのですか。どこに、マハー・チュンダはいるのですか。どこに、マハー・カッピナはいるのですか。どこに、アヌルッダはいるのですか。どこに、レーヴァタはいるのですか。どこに、アーナンダはいるのですか。比丘たちよ、いったい、まさに、どこに、それらの長老の弟子たちは赴いたのですか」と。「尊き方よ、まさに、それらの尊者たちもまた、世尊が立ち去ったすぐあと、坐から立ち上がって、それぞれの精舎に赴きました」と。「比丘たちよ、どうでしょう、まさに、あなたたちは、長老の比丘たちがやってこない、ということで、日の出に至るまで、いびきをしながら眠るのですか。(1)比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『即位灌頂した王たる士族が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みながら、生あるかぎり、王権を為している──あるいは、〔その〕地方の者にとって愛しく意に適う者としてある』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『即位灌頂した王たる士族が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みながら、生あるかぎり、王権を為している──あるいは、〔その〕地方の者にとって愛しく意に適う者としてある』と。

 

 (2)比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『国人が……略……。(3)『有力者が……。(4)『軍団長が……。(5)『村の村長が……。(6)『組合の組合長が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みながら、生あるかぎり、組合の組合長の権を為している──あるいは、〔その〕組合の者にとって愛しく意に適う者としてある』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『組合の組合長が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みながら、生あるかぎり、組合の組合長の権を為している──あるいは、〔その〕組合の者にとって愛しく意に適う者としてある』と。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者としてあり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られず、食において量を知らず、〔眠らずに〕起きていることに専念せず、諸々の善なる法(性質)の〔あるがままの〕観察者ではなく、夜の前と夜の後に、諸々の覚りの項目の法(性質)の修行への専念〔努力〕に専念する者ではなく、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住んでいる』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者としてあり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られず、食において量を知らず、〔眠らずに〕起きていることに専念せず、諸々の善なる法(性質)の〔あるがままの〕観察者ではなく、夜の前と夜の後に、諸々の覚りの項目の法(性質)の修行への専念〔努力〕に専念する者ではなく、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住んでいる』と。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして〔世に〕有るのだ。食において量を知る者たちとして〔世に有るのだ〕。〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして〔世に有るのだ〕。諸々の善なる法(性質)の〔あるがままの〕観察者たちとして〔世に有るのだ〕。夜の前と夜の後に、諸々の覚りの項目(菩提分)の法(性質)の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 魚捕りの経

 

18. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。まさに、旅の道を行く世尊は、或るどこかの地域において、魚捕りの漁夫が、魚たちを打ち殺しては打ち殺して売っているのを見ました。見て、道から外れて、或るどこかの木の根元に設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか。この魚捕りの漁夫が、魚たちを打ち殺しては打ち殺して売っているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。

 

 「(1)比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『魚捕りの漁夫が、魚たちを打ち殺しては打ち殺して売りながら、その行為()によって、その生き方によって、あるいは、象に乗る者となり、あるいは、馬に乗る者となり、あるいは、車に乗る者となり、あるいは、乗物に乗る者となり、あるいは、財物の享受者となり、あるいは、大いなる財物の塊に居住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『魚捕りの漁夫が、魚たちを打ち殺しては打ち殺して売りながら、その行為によって、その生き方によって、あるいは、象に乗る者となり、あるいは、馬に乗る者となり、あるいは、車に乗る者となり、あるいは、乗物に乗る者となり、あるいは、財物の享受者となり、あるいは、大いなる財物の塊に居住している』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、それらの魚たちのことを、打ち殺されるべきものと、殺戮に導かれたものと、悪しき意によって点検するからです。それゆえに、彼は、まさしく、象に乗る者とならず、馬に乗る者とならず、車に乗る者とならず、乗物に乗る者とならず、財物の享受者とならず、大いなる財物の塊にも居住しません。

 

 (2)比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『屠牛者が、牛たちを打ち殺しては打ち殺して売りながら、その行為によって、その生き方によって、あるいは、象に乗る者となり、あるいは、馬に乗る者となり、あるいは、車に乗る者となり、あるいは、乗物に乗る者となり、あるいは、財物の享受者となり、あるいは、大いなる財物の塊に居住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『屠牛者が、牛たちを打ち殺しては打ち殺して売りながら、その行為によって、その生き方によって、あるいは、象に乗る者となり、あるいは、馬に乗る者となり、あるいは、車に乗る者となり、あるいは、乗物に乗る者となり、あるいは、財物の享受者となり、あるいは、大いなる財物の塊に居住している』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、それらの牛たちのことを、打ち殺されるべきものと、殺戮に導かれたものと、悪しき意によって点検するからです。それゆえに、彼は、まさしく、象に乗る者とならず、馬に乗る者とならず、車に乗る者とならず、乗物に乗る者とならず、財物の享受者とならず、大いなる財物の塊にも居住しません。

 

 (3)比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたたちは、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか。『屠羊者が……略……。(4)『屠豚者が……略……。(5)『捕鳥者が……略……。(6)『捕鹿者が、鹿たちを打ち殺しては打ち殺して売りながら、その行為によって、その生き方によって、あるいは、象に乗る者となり、あるいは、馬に乗る者となり、あるいは、車に乗る者となり、あるいは、乗物に乗る者となり、あるいは、財物の享受者となり、あるいは、大いなる財物の塊に居住している』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、わたしもまた、まさに、このことは、まさしく、見たこともなく、聞いたこともありません。『捕鹿者が、鹿たちを打ち殺しては打ち殺して売りながら、その行為によって、その生き方によって、あるいは、象に乗る者となり、あるいは、馬に乗る者となり、あるいは、車に乗る者となり、あるいは、乗物に乗る者となり、あるいは、財物の享受者となり、あるいは、大いなる財物の塊に居住している』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、彼は、それらの鹿たちのことを、打ち殺されるべきものと、殺戮に導かれたものと、悪しき意によって点検するからです。それゆえに、彼は、まさしく、象に乗る者とならず、馬に乗る者とならず、車に乗る者とならず、乗物に乗る者とならず、財物の享受者とならず、大いなる財物の塊にも居住しません。比丘たちよ、まさに、彼が、それらの、畜生の在り方をした命あるものたちのことを、打ち殺されるべきものと、殺戮に導かれたものと、悪しき意によって点検しているなら、まさしく、象に乗る者と成らないでしょうし、馬に乗る者と〔成ら〕ないでしょうし、車に乗る者と〔成ら〕ないでしょうし、乗物に乗る者と〔成ら〕ないでしょうし、財物の享受者とならず、大いなる財物の塊にも居住しないでしょう。すなわち、人間たる生類のことを、打ち殺されるべきものと、殺戮に導かれたものと、悪しき意によって点検するなら、また、何の論があるというのでしょう。比丘たちよ、まさに、それは、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の死についての気づきの経

 

19. 或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、死についての気づき(死念)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死(涅槃)への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、あなたたちは、死についての気づきを修めなさい」と。

 

 このように説かれたとき、(1)或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、夜と昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (2)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (3)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一つの〔行乞の〕施食を食べる、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (4)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕四〔口〕五口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (5)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 (6)まさに、或るひとりの比丘もまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしもまた、まさに、死についての気づきを修めます」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、死についての気づきを修めますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、あるいは、〔わたしが〕出息して入息し、あるいは、〔わたしが〕入息して出息する、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。尊き方よ、このように、まさに、わたしは、死についての気づきを修めます」と。

 

 このように説かれたとき、世尊は、それらの比丘たちに、こう言いました。「(1)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、夜と昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。

 

 (2)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、昼のあいだは生きるであろう。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。

 

 (3)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一つの〔行乞の〕施食を食べる、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。

 

 (4)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕四〔口〕五口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、これらの者たちは、『比丘たちとして、〔気づきを〕怠る者たちとして〔世に〕住み、遅鈍なる死についての気づきを修める──諸々の煩悩の滅尽のために』〔と〕説かれます。

 

 (5)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、〔わたしが〕一口を噛んで飲み下す、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。

 

 (6)比丘たちよ、そして、すなわち、この比丘は、このように、死についての気づきを修めます。『ああ、まさに、わたしは、その間は生きるであろう──すなわち、あるいは、〔わたしが〕出息して入息し、あるいは、〔わたしが〕入息して出息する、〔その〕間は。〔わたしは〕世尊の教えに意を為すであろうし、〔その〕多くが、まさに、わたしの為すところとして存するであろう』と。比丘たちよ、これらの者たちは、『比丘たちとして、〔気づきを〕怠らない者たちとして〔世に〕住み、鋭敏なる死についての気づきを修める──諸々の煩悩の滅尽のために』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔気づきを〕怠らない者たちとして〔世に〕住み、鋭敏なる死についての気づきを修めるのだ──諸々の煩悩の滅尽のために』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の死についての気づきの経

 

20. 或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、死についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように、死についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成るのですか〕。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、昼が過ぎ、夜が来たとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしには、多くの死の縁がある。(1)あるいは、蛇がわたしを咬むであろうし、あるいは、蠍がわたしを咬むであろうし、あるいは、百足がわたしを咬むであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。(2)あるいは、〔わたし自身が〕躓(つまず)いて落ちるであろうし、(3)あるいは、わたしの食べた食事が害を加えるであろうし、(4)あるいは、わたしの〔体内の〕胆汁が動乱するであろうし、(5)あるいは、わたしの〔体内の〕痰が動乱するであろうし、(6)あるいは、わたしの〔体内の〕諸々の刃の風(体調不良を引き起こす体中の風)が動乱するであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』と。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在するのだろうか──すなわち、夜のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在する。すなわち、夜のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在しない。すなわち、夜のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、夜が過ぎ、昼が来たとき、かくのごとく深慮します。『まさに、わたしには、多くの死の縁がある。(1)あるいは、蛇がわたしを咬むであろうし、あるいは、蠍がわたしを咬むであろうし、あるいは、百足がわたしを咬むであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう。(2)あるいは、〔わたし自身が〕躓いて落ちるであろうし、(3)あるいは、わたしの食べた食事が害を加えるであろうし、(4)あるいは、わたしの〔体内の〕胆汁が動乱するであろうし、(5)あるいは、わたしの〔体内の〕痰が動乱するであろうし、(6)あるいは、わたしの〔体内の〕諸々の刃の風が動乱するであろうし、それによって、わたしに、命の終わりが存するであろう。それは、わたしにとって、障りとして存するであろう』と。比丘たちよ、その比丘は、かくのごとく深慮するべきです。『いったい、まさに、わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在するのだろうか──すなわち、昼のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在する。すなわち、昼のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)の獲得のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

 

 比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『わたしには、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の悪しき善ならざる法(性質)が存在しない。すなわち、昼のあいだに命を終えつつあるわたしにとって、障りのために存するであろう、〔諸々の悪しき善ならざる法が〕』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘は、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです──諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学ある者として。比丘たちよ、このように、まさに、死についての気づきが修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第十となる。

 

 記憶されるべきものの章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの記憶されるべきもの、出離するべきもの、幸いなるもの、悩み苦しめられるべきもの、ナクラ〔ピタル〕、そして、眠りと魚、二つの死についての気づきが有り、〔章となる〕」と。

 

3. 無上なるものの章

 

1. サーマ〔村〕の経

 

21. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。サーマ村の蓮池のあたりにおいて。そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねく蓮池のあたりを照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、三つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、三つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることです。尊き方よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、比丘の遍き衰退のために等しく転起します」と。その天神は、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔天神の言葉を〕正しくお認めに成りました(天神に随喜した)。そこで、まさに、その天神は、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねく蓮池のあたりを照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、三つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、三つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることです。尊き方よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、比丘の遍き衰退のために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。比丘たちよ、〔まさに〕その、あなたたちには、諸々の利得ならざることがあり、〔まさに〕その、〔あなたたち〕には、悪しく得られたものがあります。すなわち、あなたたちのことを、天神たちもまた、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退している者たちと知ります。

 

 比丘たちよ、他にもまた、三つの遍き衰退となる法(性質)を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの遍き衰退となる法(性質)なのですか。社交を喜びとすることであり、頑固であることであり、悪しき朋友あることです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの遍き衰退となる法(性質)があります。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退したなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六つの法(性質)によって、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しました。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六つの法(性質)によって、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退するでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六つの法(性質)によって、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 遍き衰退とならないものの経

 

22. 「比丘たちよ、これらの六つの遍き衰退とならない法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。「比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの遍き衰退とならない法(性質)なのですか。作業を喜びとしないことであり、談義を喜びとしないことであり、睡眠を喜びとしないことであり、社交を喜びとしないことであり、素直であることであり、善き朋友あることです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの遍き衰退とならない法(性質)があります。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しなかったなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六つの法(性質)によって、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しませんでした。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しないであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六つの法(性質)によって、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しないでしょう。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、今現在、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しないなら、彼らの全てが、まさしく、これらの六つの法(性質)によって、諸々の善なる法(性質)から遍く衰退しません」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 恐怖の経

 

23. 「比丘たちよ、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『苦痛』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『病』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『腫物』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『執着』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『汚泥』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語なのですか。比丘たちよ、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に染まり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に結縛された、この者は、所見の法(現世)としての恐怖からもまた完全に解き放たれず、未来のものとしての恐怖からもまた完全に解き放たれず、それゆえに、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、では、何ゆえに、『苦痛』とは……略……『病』とは……『腫物』とは……『執着』とは……『汚泥』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語なのですか。比丘たちよ、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に染まり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に結縛された、この者は、所見の法(現世)としての恐怖からもまた完全に解き放たれず、未来のものとしての恐怖からもまた完全に解き放たれず、それゆえに、『汚泥』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「恐怖、苦痛、病、腫物、執着、さらに、同様に、汚泥──そこにおいて、〔迷える〕凡夫が執着している、これらのものは、諸々の欲望〔の対象〕と呼ばれる。

 

 〔賢者たちは〕執取〔の思い〕のうちに恐怖を見て、生と死の発生のうちに〔恐怖を見て〕、〔何も〕執取せずして、生と死の消滅において解脱する。

 

 彼ら、平安に至り得た者たちは、安楽の者たちであり、所見の法(現世)において涅槃に到達し、一切の怨念と恐怖を超え行き、一切の苦しみを過ぎ行った」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ヒマヴァントの経

 

24. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)を破り裂きます。卑賎なる無明については、また、何の論があるというのでしょう。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、禅定の入定に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の止住に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の出起に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の健全性に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の境涯に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の導引に巧みな智ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、山の王たるヒマヴァントを破り裂きます。卑賎なる無明については、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 随念の拠点の経

 

25. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの随念の拠点です。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、如来を随念します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、如来を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。比丘たちよ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の同義語です。比丘たちよ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象(所縁)と為して、このように、ここに、一部の有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)を随念します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、法(教え)を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。比丘たちよ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。比丘たちよ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団を随念します。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、僧団を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。比丘たちよ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。比丘たちよ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、自己の諸戒を随念します──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、戒を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。比丘たちよ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。比丘たちよ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、自己の施捨を随念します。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。……略……乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住する』と。比丘たちよ、その時点において……略……このように、ここに、一部の有情たちは清浄となります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、天神たちを随念します。『四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが存在する。耶摩天〔の神々〕たちが存在する。兜率天〔の神々〕たちが存在する。化楽天〔の神々〕たちが存在する。他化自在天〔の神々〕たちが存在する。梵身天〔の神々〕たちが存在する。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死んだあと、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死んだあと、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される』と。

 

 比丘たちよ、その時点において、聖なる弟子が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。比丘たちよ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。比丘たちよ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは清浄となります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの随念の拠点があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. マハー・カッチャーナの経

 

26. そこで、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに答えました。尊者マハー・カッチャーナは、こう言いました。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、これほどのものとして、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、煩雑なるもの(欲望の対象)のうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が随覚されたのです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、六つの随念の拠点です。

 

 どのようなものが、六つのものなのですか。友よ、ここに、聖なる弟子が、如来を随念します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。友よ、その時点において、聖なる弟子が、如来を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。友よ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。友よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、全てにわたり虚空に等しい心で〔世に〕住みます──広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき〔心〕で。友よ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは、清浄の法(性質)ある者たちと成ります。

 

 友よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、法(教え)を随念します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり……略……識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。友よ、その時点において、聖なる弟子が、法(教え)を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。友よ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。友よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、全てにわたり虚空に等しい心で〔世に〕住みます──広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき〔心〕で。友よ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは、清浄の法(性質)ある者たちと成ります。

 

 友よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、僧団を随念します。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。友よ、その時点において、聖なる弟子が、僧団を随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。友よ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。友よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、全てにわたり虚空に等しい心で〔世に〕住みます──広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき〔心〕で。友よ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは、清浄の法(性質)ある者たちと成ります。

 

 友よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、自己の諸戒を随念します──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。友よ、その時点において、聖なる弟子が、戒を(※)随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。友よ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。友よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、全てにわたり虚空に等しい心で〔世に〕住みます──広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき〔心〕で。友よ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは、清浄の法(性質)ある者たちと成ります。

 

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 友よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、自己の施捨を随念します。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。……略……乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として、物惜の垢が離れ去った心で家に居住する』と。友よ、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。友よ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。友よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、全てにわたり虚空に等しい心で〔世に〕住みます──広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき〔心〕で。友よ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは、清浄の法(性質)ある者たちと成ります。

 

 友よ、さらに、また、他に、聖なる弟子が、天神たちを随念します。『四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが存在する。耶摩天〔の神々〕たちが存在する。兜率天〔の神々〕たちが存在する。化楽天〔の神々〕たちが存在する。他化自在天〔の神々〕たちが存在する。梵身天〔の神々〕たちが存在する。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死んだあと、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を……所聞を……施捨を……智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死んだあと、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される』と。友よ、その時点において、聖なる弟子が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕随念するなら、その時点において、彼には、まさしく、貪欲に遍く取り囲まれた心は有ることなく、憤怒に遍く取り囲まれた心は有ることなく、迷妄に遍く取り囲まれた心は有ることなく、その時点において、彼には、まさしく、真っすぐに赴いた心が有ります──貪求〔の対象〕から、離欲し、解放され、出起したものとして。友よ、『貪求〔の対象〕』とは、まさに、これは、五つの欲望の属性の同義語です。友よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、全てにわたり虚空に等しい心で〔世に〕住みます──広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき〔心〕で。友よ、この〔随念の拠点〕をもまた、まさに、対象と為して、このように、ここに、一部の有情たちは、清浄の法(性質)ある者たちと成ります。

 

 友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、これほどのものとして、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が随覚されたのです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、六つの随念の拠点です」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の時点の経

 

27. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点(機会)があるのですか」と。「比丘よ、六つのものがあります。これらの、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 どのようなものが、六つのものなのですか。比丘よ、ここに、比丘が、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしは、まさに、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示してください』と。彼に、意を修めることができる比丘は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第一の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、その時点において、憎悪〔の思い〕(瞋恚)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしは、まさに、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した憎悪〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、憎悪〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示してください』と。彼に、意を修めることができる比丘は、憎悪〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第二の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、その時点において、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしは、まさに、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕沈滞と眠気に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕沈滞と眠気の出離を、事実のとおりに覚知しません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、〔心の〕沈滞と眠気の捨棄のために、法(教え)を説示してください』と。彼に、意を修めることができる比丘は、〔心の〕沈滞と眠気の捨棄のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第三の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、その時点において、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしは、まさに、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、〔心の〕高揚と悔恨に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した〔心の〕高揚と悔恨の出離を、事実のとおりに覚知しません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、〔心の〕高揚と悔恨の捨棄のために、法(教え)を説示してください』と。彼に、意を修めることができる比丘は、〔心の〕高揚と悔恨の捨棄のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第四の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、その時点において、疑惑〔の思い〕()に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしは、まさに、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、疑惑〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した疑惑〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、疑惑〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示してください』と。彼に、意を修めることができる比丘は、疑惑〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第五の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、その時点において、その形相を頼りにして、その形相に意を為していると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有る、〔まさに〕その形相を覚知しないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、まさに、わたしは、その形相を頼りにして、その形相に意を為していると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有る、〔まさに〕その形相を覚知しません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、諸々の煩悩の滅尽のために、法(教え)を説示してください』と。彼に、意を修めることができる比丘は、諸々の煩悩の滅尽のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第六の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。比丘よ、まさに、これらの六つの、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の時点の経

 

28. 或る時のことです。大勢の長老の比丘たちが、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人堕処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、それらの長老の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「いったい、まさに、何が、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点(機会)であるのか」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、その時点において、意を修めることができる比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔両の〕足を洗って、坐った状態であるなら──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて──それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、その比丘に、こう言いました。「友よ、まさに、それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点ではありません。友よ、その時点において、意を修めることができる比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔両の〕足を洗って、坐った状態であるなら──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて──その時点において、彼には、歩行の疲れもまた、安息なく有り、その時点において、彼には、食事の疲れもまた、安息なく有ります。それゆえに、それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点ではありません。友よ、その時点において、意を修めることができる比丘が、夕刻時に、静坐から出起し、この者が、精舎の影のもとに坐った状態であるなら──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて──それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、その比丘に、こう言いました。「友よ、まさに、それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点ではありません。友よ、その時点において、意を修めることができる比丘が、夕刻時に、静坐から出起し、この者が、精舎の影のもとに坐った状態であるなら──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて──彼には、まさしく、すなわち、昼に意が為された禅定の形相が有り、その時点において、彼には、まさしく、その〔形相〕が慣行となります。それゆえに、それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点ではありません。友よ、その時点において、意を修めることができる比丘が、夜の早朝の時分に起きて、坐った状態であるなら──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて──それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、その比丘に、こう言いました。「友よ、まさに、それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点ではありません。友よ、その時点において、意を修めることができる比丘が、夜の早朝の時分に起きて、坐った状態であるなら──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて──その時点において、彼には、滋養に依って立つ身体が有り、彼には、平穏が有ります──覚者たちの教えに意を為すべく。それゆえに、それは、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点ではありません」と。

 

 このように説かれたとき、尊者マハー・カッチャーナは、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘よ、六つのものがあります。これらの、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 どのようなものが、六つのものなのですか。比丘よ、ここに、比丘が、その時点において、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。「友よ、わたしは、まさに、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた〔心〕で〔世に住み〕、そして、生起した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の出離を、事実のとおりに覚知しません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示してください」と。彼に、意を修めることができる比丘は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の捨棄のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第一の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、比丘が、その時点において、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み……略……〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み……略……〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み……略……疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で〔世に〕住み……略……その形相を頼りにして、その形相に意を為していると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有る、〔まさに〕その形相を知らず見ないなら、その時点において、意を修めることができる比丘は、近づいて行って、このように説かれるべき者として存するでしょう。「友よ、まさに、わたしは、その形相を頼りにして、その形相に意を為していると、直後に、諸々の煩悩の滅尽が有る、〔まさに〕その形相を知らず見ません。どうか、まさに、わたしに、尊者は、諸々の煩悩の滅尽のために、法(教え)を説示してください」と。彼に、意を修めることができる比丘は、諸々の煩悩の滅尽のために、法(教え)を説示します。比丘よ、これは、第六の、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点です』〔と〕。

 

 友よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『比丘よ、まさに、これらの六つの、意を修めることができる比丘と会見するために近づいて行くべき時点があります』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ウダーインの経

 

29. そこで、まさに、世尊は、尊者ウダーインに告げました。「ウダーインよ、いったい、まさに、どれだけの随念の拠点があるのですか」と。このように説かれたとき、尊者ウダーインは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は、尊者ウダーインに告げました。「ウダーインよ、いったい、まさに、どれだけの随念の拠点があるのですか」と。再度また、まさに、尊者ウダーインは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、世尊は、尊者ウダーインに告げました。「ウダーインよ、いったい、まさに、どれだけの随念の拠点があるのですか」と。三度また、まさに、尊者ウダーインは、沈黙の者と成りました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、尊者ウダーインに、こう言いました。「友よ、ウダーインよ、教師は、あなたに告げました」と。「友よ、アーナンダよ、わたしは、世尊の〔言葉を〕聞きます。尊き方よ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。尊き方よ、この随念の拠点があります」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、まさに、わたしは了知しました。『この者は、愚人のウダーインは、卓越の心(瞑想)に専念する者として、まさしく、〔世に〕住まない』と。アーナンダよ、いったい、まさに、どれだけの随念の拠点があるのですか」と。

 

 「尊き方よ、五つのものがあります。〔これらの〕随念の拠点です。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)尊き方よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この随念の拠点が、このように修められ、このように多く為されたなら、所見の法(現世)における安楽の住のために等しく転起します。

 

 (2)尊き方よ、さらに、また、他に、比丘が、光明の表象(光明想)に意を為し、昼の表象を〔心に〕確立します。『すなわち、昼のように、そのように、夜がある。すなわち、夜のように、そのように、昼がある』〔と〕。かくのごとく、開かれた心によって、覆い包まれていない〔心〕によって、光を有する心を修めます。尊き方よ、この随念の拠点が、このように修められ、このように多く為されたなら、〔あるがままの〕知見の獲得のために等しく転起します。

 

 (3)尊き方よ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。尊き方よ、この随念の拠点が、このように修められ、このように多く為されたなら、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の捨棄のために等しく転起します。

 

 (4)尊き方よ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、死んで一日となり、あるいは、死んで二日となり、あるいは、死んで三日となり、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。彼は、まさしく、この身体に、このように近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。

 

 また、あるいは、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。彼は、まさしく、この身体に、このように近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。

 

 また、あるいは、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします──骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……略……骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……連結が離れ去り、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に散乱した、諸々の骨を──他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、脊椎の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。……白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。彼は、まさしく、この身体に、このように近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。尊き方よ、この随念の拠点が、このように修められ、このように多く為されたなら、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)の根絶のために等しく転起します。

 

 (5)尊き方よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この随念の拠点が、このように修められ、このように多く為されたなら、無数なる界域の理解のために等しく転起します。尊き方よ、まさに、これらの五つの随念の拠点があります」と。

 

 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。アーナンダよ、まさに、それでは、あなたは、この第六の随念の拠点をもまた保持しなさい。(6)アーナンダよ、ここに、比丘が、まさしく、気づきある者として、前進し、まさしく、気づきある者として、後進し、まさしく、気づきある者として、立ち、まさしく、気づきある者として、坐り、まさしく、気づきある者として、臥所を営み、まさしく、気づきある者として、行為を確立します。アーナンダよ、この随念の拠点が、このように修められ、このように多く為されたなら、気づきと正知のために等しく転起します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 無上なるものの経

 

30. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの無上なるものです。どのようなものが、六つのものなのですか。無上なる見であり、無上なる聞であり、無上なる利得であり、無上なる学びであり、無上なる世話であり、無上なる随念です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの無上なるものがあります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、無上なる見なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、象の宝を見るためにもまた赴き、馬の宝を見るためにもまた赴き、宝珠の宝を見るためにもまた赴き、また、あるいは、高下諸々のものを見るために赴き、誤った見解ある者であり、誤った実践者である、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、見るために赴きます。比丘たちよ、『これは、見として存在する。これが、〔見として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この見は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来を、あるいは、如来の弟子を、見るために赴くなら、比丘たちよ、これは、諸々の見のなかの無上なるものです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来を、あるいは、如来の弟子を、見るために赴くなら、比丘たちよ、これは、無上なる見と説かれます。かくのごとく、無上なる見があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無上なる聞と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、太鼓の音声を聞くためにもまた赴き、琵琶の音声を聞くためにもまた赴き、歌詠の音声を聞くためにもまた赴き、また、あるいは、高下諸々のものを聞くために赴き、誤った見解ある者であり、誤った実践者である、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、法(教え)を聞くために赴きます。比丘たちよ、『これは、聞として存在する。これが、〔聞として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この聞は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、法(教え)を聞くために赴くなら、比丘たちよ、これは、諸々の聞のなかの無上なるものです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来の、あるいは、如来の弟子の、法(教え)を聞くために赴くなら、比丘たちよ、これは、無上なる聞と説かれます。かくのごとく、無上なる見があり、無上なる聞があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無上なる利得と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、子の利得をもまた得、妻の利得をもまた得、財の利得をもまた得、また、あるいは、高下諸々のものの利得を得、誤った見解ある者であり、誤った実践者である、あるいは、沙門にたいし、あるいは、婆羅門にたいし、信を獲得します。比丘たちよ、『これは、利得として存在する。これが、〔利得として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この利得は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の弟子にたいし、信を獲得するなら、比丘たちよ、これは、諸々の利得のなかの無上なるものです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来にたいし、あるいは、如来の弟子にたいし、信を獲得するなら、比丘たちよ、これは、無上なる利得と説かれます。かくのごとく、無上なる見があり、無上なる聞があり、無上なる利得があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無上なる学びと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、象についてもまた学び、馬についてもまた学び、車についてもまた学び、弓についてもまた学び、剣についてもまた学び、また、あるいは、高下諸々のものを学び、誤った見解ある者であり、誤った実践者である、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、学びます。比丘たちよ、『これは、学びとして存在する。これが、〔学びとして〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この学びは、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、如来によって知らされた法(教え)と律において、卓越の戒をもまた学び、卓越の心(瞑想)をもまた学び、卓越の智慧をもまた学ぶなら、比丘たちよ、これは、諸々の学びのなかの無上なるものです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、如来によって知らされたに法(教え)と律おいて、卓越の戒をもまた学び、卓越の心をもまた学び、卓越の智慧をもまた学ぶなら、比丘たちよ、これは、無上なる学びと説かれます。かくのごとく、無上なる見があり、無上なる聞があり、無上なる利得があり、無上なる学びがあります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無上なる世話と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、士族をもまた世話し、婆羅門をもまた世話し、家長をもまた世話し、また、あるいは、高下諸々のものを世話し、誤った見解ある者であり、誤った実践者である、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、世話します。比丘たちよ、『これは、世話として存在する。これが、〔世話として〕存在しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この世話は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来を、あるいは、如来の弟子を、世話するなら、比丘たちよ、これは、諸々の世話のなかの無上なるものです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来を、あるいは、如来の弟子を、世話するなら、比丘たちよ、これは、無上なる世話と説かれます。かくのごとく、無上なる見があり、無上なる聞があり、無上なる利得があり、無上なる学びがあり、無上なる世話があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、無上なる随念と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、子の利得をもまた随念し、妻の利得をもまた随念し、財の利得をもまた随念し、また、あるいは、高下諸々のものの利得を随念し、誤った見解ある者であり、誤った実践者である、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、随念します。比丘たちよ、『これは、随念として存在する。これが、〔随念として〕随念しないことはない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、しかしながら、それは、まさに、この随念は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来を、あるいは、如来の弟子を、随念するなら、比丘たちよ、これは、諸々の随念のなかの無上なるものです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、確たる信ある者となり、確たる愛慕ある者となり、一向に赴いた者となり、大いに清信した者となり、あるいは、如来を、あるいは、如来の弟子を、随念するなら、比丘たちよ、これは、無上なる随念と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの六つの無上なるものがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、無上なる見を得た者たち、そして、無上なる聞を〔得た者たち〕、無上なる利得を得た者たち、無上なる学びを喜ぶ者たち──

 

 世話に奮起する者たち、遠離と結び付いた、平安にして、不死に至る、〔無上なる〕随念を修める、〔そのような者たち〕──

 

 不放逸に歓喜し、戒によって統御された、賢明なる者たち──彼らは、まさに、〔正しい〕時に信受する──そこにおいて、苦しみが止滅するところを」と。〔以上が〕第十となる。

 

 無上なるものの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「サーマ〔村〕、遍き衰退とならないもの、恐怖、ヒマヴァント、随念、カッチャーナ、そして、二つの時点、ウダーインがあり、無上なるものとともに、〔章となる〕」と。

 

4. 天神の章

 

1. 〔いまだ〕学びある者の経

 

31. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退のために等しく転起します。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。これらの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。作業を喜びとしないことであり、談義を喜びとしないことであり、睡眠を喜びとしないことであり、社交を喜びとしないことであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることであり、食において量を知ることです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)が、〔いまだ〕学びある比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の遍き衰退なきものの経

 

32. そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、六つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、不放逸にたいし尊重〔の思い〕あることであり、友愛にたいし尊重〔の思い〕あることです。尊き方よ、まさに、これらの六つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。その天神は、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔天神の言葉を〕正しくお認めに成りました(天神に随喜した)。そこで、まさに、その天神は、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、六つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、不放逸にたいし尊重〔の思い〕あることであり、友愛にたいし尊重〔の思い〕あることです。尊き方よ、まさに、これらの六つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「教師を重きとし、法(教え)を重きとし、そして、僧団にたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──不放逸を重きとし、友愛にたいし尊重〔の思い〕ある比丘は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にある」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の遍き衰退なきものの経

 

33. 「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、六つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、恥〔の思い〕()にたいし尊重〔の思い〕あることであり、〔良心の〕咎め()にたいし尊重〔の思い〕あることです。尊き方よ、まさに、これらの六つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「教師を重きとし、法(教え)を重きとし、そして、僧団にたいし強き尊重〔の思い〕ある〔比丘〕──恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを成就した、敬虔〔の思い〕を有し尊重〔の思い〕を有する〔比丘〕は、遍き衰退の可能なき者であり、まさしく、涅槃の現前にある」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. マハー・モッガッラーナの経

 

34. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者マハー・モッガッラーナに、このような心の思索が浮かびました。「どの天神たちに、このような知恵()が有るのだろう。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。また、まさに、その時点にあって、ティッサという名の比丘が、最近のこと、命を終え、或るどこかの梵の世に再生するところと成ります。そこで、また、彼のことを、〔神々たちは〕このように知ります。「ティッサ梵〔天〕は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者である」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、その梵の世に出現しました。まさに、ティッサ梵〔天〕は、尊者マハー・モッガッラーナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、来たれ。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善く来てくれました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、長きのはてに、まさに、〔あなたは〕この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、設けられた坐に坐りました。ティッサ梵〔天〕もまた、まさに、尊者マハー・モッガッラーナを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ティッサ梵〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。

 

 「ティッサよ、まさに、どの天神たちに、このような知恵が有りますか。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、四大王天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。

 

 「ティッサよ、いったい、まさに、まさしく、全ての四大王天〔の神々〕たちに、このような知恵が有りますか。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、全ての四大王天〔の神々〕たちに、このような知恵は有りません。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、すなわち、まさに、それらの四大王天〔の神々〕たちが、覚者にたいする確固たる清信を具備していない者たちであり、法(教え)にたいする確固たる清信を具備していない者たちであり、僧団にたいする確固たる清信を具備していない者たちであり、聖者たちに愛される諸戒を具備していない者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵は有りません。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの四大王天〔の神々〕たちが、覚者にたいする確固たる清信を具備した者たちであり、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者たちであり、僧団にたいする確固たる清信を具備した者たちであり、聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。

 

 「ティッサよ、いったい、まさに、四大王天〔の神々〕たちだけに、このような知恵が有るのですか。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』と。それとも、三十三天〔の神々〕たちにもまた……略……耶摩天〔の神々〕たちにもまた……兜率天〔の神々〕たちにもまた……化楽天〔の神々〕たちにもまた……他化自在天〔の神々〕たちにもまた、このような知恵が有りますか。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、他化自在天〔の神々〕たちにもまた、このような知恵が有ります。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。

 

 「ティッサよ、いったい、まさに、まさしく、全ての他化自在天〔の神々〕たちに、このような知恵が有りますか。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、全ての他化自在天〔の神々〕たちに、このような知恵は有りません。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、すなわち、まさに、それらの他化自在天〔の神々〕たちが、覚者にたいする確固たる清信を具備していない者たちであり、法(教え)にたいする確固たる清信を具備していない者たちであり、僧団にたいする確固たる清信を具備していない者たちであり、聖者たちに愛される諸戒を具備していない者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵は有りません。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの他化自在天〔の神々〕たちが、覚者にたいする確固たる清信を具備した者たちであり、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者たちであり、僧団にたいする確固たる清信を具備した者たちであり、聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちに、このような知恵が有ります。『〔わたしたちは〕預流たる者たちであり、まさに、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちである』」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、ティッサ梵〔天〕の語ったことを大いに喜んで、随喜して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、ジェータ林に出現しました」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 明知を部分とするものの経

 

35. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの明知を部分とする法(性質)です。どのようなものが、六つのものなのですか。無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象であり、止滅の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの明知を部分とする法(性質)があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 論争の根元の経

 

36. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの論争の根元です。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。比丘たちよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、比丘たちよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。比丘たちよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、比丘たちよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に露出なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に露出なきことが有ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有ります。……略……嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有ります。……狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有ります。……悪しき欲求ある者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。……自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。比丘たちよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、比丘たちよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。比丘たちよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、比丘たちよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に露出なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に露出なきことが有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの論争の根元があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 六つの支分ある布施の経

 

37. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータル女性在俗信者が、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団にたいし、六つの支分を具備した施物を確立させます。まさに、世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータル女性在俗信者が、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団にたいし、六つの支分を具備した施物を確立させているのを見ました。見て、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この者は、ヴェールカンダ〔の住者〕たるナンダマータル女性在俗信者は、サーリプッタとモッガッラーナを筆頭とする比丘の僧団にたいし、六つの支分を具備した施物を確立させます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、六つの支分を具備した施物と成るのですか。比丘たちよ、ここに、施者には、三つの支分が有り、納受者たちには、三つの支分が〔有ります〕。施者には、どのような三つの支分があるのですか。比丘たちよ、ここに、施者が、施すより、まさしく、過去において、悦意の者と成ります。施しながら、心を清信させます。施して〔そののち〕、わが意を得た者と成ります。施者には、これらの三つの支分があります。

 

 納受者たちには、どのような三つの支分があるのですか。比丘たちよ、ここに、納受者たちが、あるいは、貪欲を離れた者たちとして、あるいは、貪欲の調伏のために実践する者たちとして、〔世に〕有ります。あるいは、憤怒を離れた者たちとして、あるいは、憤怒の調伏のために実践する者たちとして、〔世に〕有ります。あるいは、迷妄を離れた者たちとして、あるいは、迷妄の調伏のために実践する者たちとして、〔世に〕有ります。納受者には、これらの三つの支分があります。比丘たちよ、このように、まさに、六つの支分を具備した施物と成ります。

 

 比丘たちよ、このように六つの支分を具備した施物のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食(動力源・エネルギー)となり、天上に至らせるものとして、安楽の報い(異熟)あるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起する』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、『これなる〔数〕の、水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の水の升となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の水の升となる』と、大海にある水の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、まさしく、『数えようもなく、量りようもない、大いなる水の塊』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このように六つの支分を具備した施物のばあい、『これなるものが、功徳が流れ行くものとなり、善なるものが流れ行くものとなり、安楽のための食となり、天上に至らせるものとして、安楽の報いあるものとして、天上〔への再生〕を等しく転起させるものとして、好ましく愛らしく意に適う利益と安楽のために等しく転起する』と、功徳の量を収め取ることは、為し易きことではなく、そこで、まさに、『数えようもなく、量りようもない、大いなる功徳の塊』という名称に至ります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「施すより、まさしく、過去において、悦意の者と〔成り〕、施しながら、心を清信させ、施して〔そののち〕、わが意を得た者と成る。これは、祭祀の成就である。

 

 〔納受者たちが〕貪欲を離れ、憤怒を離れ、迷妄を離れ、煩悩なき者たちであるなら──祭祀の田畑が成就し、自制ある梵行者たちであるなら──

 

 自ら口をそそいで、自らの〔両の〕手で〔施物を〕施して、この祭祀は、そして、他者よりも、自己にとって、大いなる果と成る。

 

 このように、思慮ある者は、信ある者となり、解き放った心で〔祭祀を〕執り行なって、賢者として、憎悪〔の思い〕なき安楽の世に再生する」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 自己によって為すことの経

 

38. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『自己によって為すことは存在しない。他者によって為すことは存在しない』」と。「婆羅門よ、わたしは、このような論を、このような見解を、あるいは、見たことも、あるいは、聞いたことも、ありません。なぜなら、どうして、まさに、自ら、前進しながら、自ら、後進しながら、このように説くというのでしょう。『自己によって為すことは存在しない。他者によって為すことは存在しない』と。

 

 婆羅門よ、それを、どう思いますか。勉励の界域は存在しますか」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「勉励の界域が存在しているとき、勉励ある有情たちは覚知されますか」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「婆羅門よ、すなわち、まさに、勉励の界域が存在しているとき、勉励ある有情たちが覚知されるなら、有情たちには、この、自己によって為すことがあり、この、他者によって為すことがあります。

 

 婆羅門よ、それを、どう思いますか。促進の界域は存在しますか……略……勤勉の界域は存在しますか……強靭の界域は存在しますか……止住の界域は存在しますか……行動の界域は存在しますか」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「行動の界域が存在しているとき、行動ある有情たちは覚知されますか」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「婆羅門よ、すなわち、まさに、行動の界域が存在しているとき、行動ある有情たちが覚知されるなら、有情たちには、この、自己によって為すことがあり、この、他者によって為すことがあります。

 

 婆羅門よ、わたしは、このような論を、このような見解を、あるいは、見たことも、あるいは、聞いたことも、ありません。なぜなら、どうして、まさに、自ら、前進しながら、自ら、後進しながら、このように説くというのでしょう。『自己によって為すことは存在しない。他者によって為すことは存在しない』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 因縁の経

 

39. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為()の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲()は、諸々の行為の集起のための因縁です。憤怒()は、諸々の行為の集起のための因縁です。迷妄()は、諸々の行為の集起のための因縁です。比丘たちよ、貪欲から、貪欲なき〔あり方〕(無貪)は集起しません。比丘たちよ、そこで、まさに、貪欲から、まさしく、貪欲が集起します。比丘たちよ、憤怒から、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は集起しません。比丘たちよ、そこで、まさに、憤怒から、まさしく、憤怒が集起します。比丘たちよ、迷妄から、迷妄なき〔あり方〕(無痴)は集起しません。比丘たちよ、そこで、まさに、迷妄から、まさしく、迷妄が集起します。比丘たちよ、貪欲から生じる行為によって、憤怒から生じる行為によって、迷妄から生じる行為によって、天〔の神々〕たちが覚知されることも、人間たちが覚知されることも、ありません──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた善き境遇(善趣)も。比丘たちよ、そこで、まさに、貪欲から生じる行為によって、憤怒から生じる行為によって、迷妄から生じる行為によって、地獄が覚知され、畜生の胎が覚知され、餓鬼の境域が覚知されます──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた悪しき境遇(悪趣)も。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲なき〔あり方〕は、諸々の行為の集起のための因縁です。憤怒なき〔あり方〕は、諸々の行為の集起のための因縁です。迷妄なき〔あり方〕は、諸々の行為の集起のための因縁です。比丘たちよ、貪欲なき〔あり方〕から、貪欲は集起しません。比丘たちよ、そこで、まさに、貪欲なき〔あり方〕から、まさしく、貪欲なき〔あり方〕が集起します。比丘たちよ、憤怒なき〔あり方〕から、憤怒は集起しません。比丘たちよ、そこで、まさに、憤怒なき〔あり方〕から、まさしく、憤怒なき〔あり方〕が集起します。比丘たちよ、迷妄なき〔あり方〕から、迷妄は集起しません。比丘たちよ、そこで、まさに、迷妄なき〔あり方〕から、まさしく、迷妄なき〔あり方〕が集起します。比丘たちよ、貪欲なき〔あり方〕から生じる行為によって、憤怒なき〔あり方〕から生じる行為によって、迷妄なき〔あり方〕から生じる行為によって、地獄が覚知されることも、畜生の胎が覚知されることも、餓鬼の境域が覚知されることも、ありません──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた悪しき境遇も。比丘たちよ、そこで、まさに、貪欲なき〔あり方〕から生じる行為によって、憤怒なき〔あり方〕から生じる行為によって、迷妄なき〔あり方〕から生じる行為によって、天〔の神々〕たちが覚知され、人間たちが覚知されます──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた善き境遇も。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. キミラの経

 

40. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、キミラーに住んでおられます。ニチュラ林において。そこで、まさに、尊者キミラが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者キミラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成らないのですか」と。「キミラよ、ここに、如来が完全なる涅槃に到達したとき、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者(優婆塞)たちと女性在俗信者(優婆夷)たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、不放逸にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住み、友愛にたいし、尊重〔の思い〕なき者たちとして、敬虔〔の思い〕なき者たちとして、〔世に〕住みます。キミラよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成りません」と。

 

 「尊き方よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成るのですか」と。「キミラよ、ここに、如来が完全なる涅槃に到達したとき、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちが、教師にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、僧団にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、学びにたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、不放逸にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住み、友愛にたいし、尊重〔の思い〕を有する者たちとして、敬虔〔の思い〕を有する者たちとして、〔世に〕住みます。キミラよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、如来が完全なる涅槃に到達したとき、正なる法(教え)は、長く止住するものと成ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 木片の塊の経

 

41. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者サーリプッタは、ラージャガハ(王舎城)に住んでいます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、大勢の比丘たちと共に、ギッジャクータ山から降りつつ、或るどこかの地域において、大いなる木片の塊を見ました。見て、比丘たちに告げました。「友よ、この大いなる木片の塊を、まさに、あなたたちは見ますか」と。「友よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。

 

 「友よ、心の支配に至り得た神通ある比丘は、望んでいるなら、この大いなる木片の塊を、まさしく、『地である』と、〔それだけを〕信念できます。それは、何を因とするのですか。友よ、この木片の塊のうちには、地の界域が存在します──それに依拠して、心の支配に至り得た神通ある比丘は、この大いなる木片の塊を、まさしく、『地である』と、〔それだけを〕信念できるのです。友よ、心の支配に至り得た神通ある比丘は、望んでいるなら、この大いなる木片の塊を、まさしく、『水である』と、〔それだけを〕信念できます。……略……まさしく、『火である』と、〔それだけを〕信念できます。……まさしく、『風である』と、〔それだけを〕信念できます。……まさしく、『浄美である』と、〔それだけを〕信念できます。……まさしく、『不浄である』と、〔それだけを〕信念できます。それは、何を因とするのですか。友よ、この木片の塊のうちには、不浄の界域が存在します──それに依拠して、心の支配に至り得た神通ある比丘は、この大いなる木片の塊を、まさしく、『不浄である』と、〔それだけを〕信念できるのです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. ナーギタの経

 

42. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、イッチャーナンガラという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。まさに、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、イッチャーナンガラ〔村〕に到着し、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいるらしい。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり……略……覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に……略……。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、その夜が明けると、沢山の固形の食料を携えて、イッチャーナンガラ〔村〕の密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、門小屋の門口に立ちました──〔むやみやたらと〕高い声をあげ大きな音をたてながら。

 

 また、まさに、その時点にあって、尊者ナーギタが、世尊の奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、尊者ナーギタに告げました。「ナーギタよ、また、それらの者たちは、誰なのですか。漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのは」と。「尊き方よ、これらの者たちは、イッチャーナンガラ〔村〕の婆羅門や家長たちです。沢山の固形の食料を携えて、門小屋の門口に立っています──まさしく、世尊を、さらに、比丘の僧団を、〔納受者に〕指定して」と。「ナーギタよ、わたしが盛名と遭遇することがあってはなりません。かつまた、盛名がわたしと〔遭遇することが〕あってはなりません。ナーギタよ、すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあり、まさに、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、その者が存在できないなら、彼は、糞便の安楽を、惰眠の安楽を、利得や尊敬や名声の安楽を、それを愛用するのです」と。

 

 「尊き方よ、今や、世尊は、〔施食を〕お受けください。善き至達者たる方は、〔施食を〕お受けください。尊き方よ、今や、世尊にとって、〔施食を〕お受けする時です。今や、世尊が赴くであろう、まさしく、そのところ、そのところに、婆羅門や家長たちは──まさしく、そして、町の者たちも、さらに、地方の者たちも──まさしく、そこに向かい行く者たちと成るでしょう。尊き方よ、それは、たとえば、また、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、諸々の水が向かい行くとおりに転じ行くように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、今や、世尊が赴くであろう、まさしく、そのところ、そのところに、婆羅門や家長たちは──まさしく、そして、町の者たちも、さらに、地方の者たちも──まさしく、そこに向かい行く者たちと成るでしょう。それは、何を因とするのですか。尊き方よ、まさに、そのように、世尊には、戒と智慧があるからです」と。

 

 「ナーギタよ、わたしが盛名と遭遇することがあってはなりません。かつまた、盛名がわたしと〔遭遇することが〕あってはなりません。ナーギタよ、すなわち、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、わたしはあり、まさに、この、離欲の安楽を、遠離の安楽を、寂止の安楽を、正覚の安楽を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、その者が存在できないなら、彼は、糞便の安楽を、惰眠の安楽を、利得や尊敬や名声の安楽を、それを愛用するのです。

 

 (1)ナーギタよ、ここに、わたしは、村の外れを住まいとする比丘を見ます──〔心が〕定められ、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者に、あるいは、園丁が奉仕するであろうし、あるいは、見習い沙門が、彼を、その禅定から死滅させるであろう』と。ナーギタよ、その比丘が、村の外れを住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得ない者と成ります。(2)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──林のなかで、居眠りしながら、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者は、この眠気と疲弊を取り除いて、まさしく、林の表象に、〔それだけに〕意を為すであろう──〔それを〕一なるものとして』と。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。

 

 (3)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──林のなかで、〔心が〕定められ、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者は、あるいは、〔いまだ〕定められていない心を定めるであろうし、あるいは、〔すでに〕定められた心を守護するであろう』と。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。

 

 (4)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──林のなかで、〔心が〕定められ、坐っている〔比丘〕を。ナーギタよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『今や、この尊者は、あるいは、〔いまだ〕解脱していない心を解脱させるであろうし、あるいは、〔すでに〕解脱した心を守護するであろう』と。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。

 

 (5)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、村の外れを住まいとする比丘を見ます──諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者を。彼は、その利得と尊敬と名声を欲しながら、静坐を遠ざけ、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を遠ざけます。村や町や王都に降りて行って住を営みます。ナーギタよ、その比丘が、村の外れを住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得ない者と成ります。

 

 (6)ナーギタよ、また、ここに、わたしは、林にある者たる比丘を見ます──諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者を。彼は、その利得と尊敬と名声を避けて、静坐を遠ざけず、諸々の林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を遠ざけません。ナーギタよ、その比丘が、林を住まいとすることによって、それによって、わたしは、わが意を得た者と成ります。ナーギタよ、その時点において、わたしが、旅の道を行く者としてあり、あるいは、前に、あるいは、後に、誰をも見ないなら、ナーギタよ、その時点において、わたしには、平穏が有ります──もしくは、〔それが〕大小便の行為のためであれ」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 天神の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔いまだ〕学びある者、二つの遍き衰退なきもの、モッガッラーナ、明知を部分とするもの、論争と布施と自己によって為すこと、因縁があり、キミラと木片の塊とともに、ナーギタがあり、〔章となる〕」と。

 

5. ダンミカの章

 

1. 象の経

 

43. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。

 

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダと共に、東の林園のミガーラマータルの高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。東の門小屋のあるところに、そこへと近づいて行くのです──五体を洗い流すために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダと共に、東の門小屋のあるところに、そこへと近づいて行きました──五体を洗い流すために。東の門小屋において、五体を洗い流して、〔水場から〕上がって、一衣の者となり、〔その場に〕立ちました──五体を乾かしながら。

 

 また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の、セータという名の象が、大いなる楽器の演奏とともに、東の門小屋から出て行きます。さてまた、まさに、その〔象〕を、人々は見て、このように言います。「ああ、まさに、形姿麗しきは、王の象である。ああ、まさに、美しきは、王の象である。ああ、まさに、清らかなるは、王の象である。ああ、まさに、〔善き〕身体の具有者たるは、王の象である」と。このように説かれたとき、尊者ウダーインは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、象だけを、大いなる偉丈夫にして〔善き〕身体の具有者と、人々は見て、このように言うのですか。『象である、ああ、まさに、象である』と。もしくは、他のものをもまた、何であれ、大いなる偉丈夫にして〔善き〕身体の具有者と、人々は見て、このように言うのですか。『象である、ああ、まさに、象である』」と。「ウダーインよ、象をもまた、まさに、大いなる偉丈夫にして〔善き〕身体の具有者と、人々は見て、このように言います。『象である、ああ、まさに、象である』と。ウダーインよ、馬をもまた、まさに、大いなる偉丈夫にして……略……。ウダーインよ、牛をもまた、まさに、大いなる偉丈夫にして……略……。ウダーインよ、蛇をもまた、まさに、大いなる偉丈夫にして……略……。ウダーインよ、樹木をもまた、まさに、大いなる偉丈夫にして……略……。ウダーインよ、人間をもまた、まさに、大いなる偉丈夫にして〔善き〕身体の具有者と、人々は見て、このように言います。『象である、ああ、まさに、象である』と。ウダーインよ、しかしながら、また、彼が、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、罪悪を作り為さないなら──身体によって、言葉によって、意によって──彼のことを、『象である』と、わたしは説きます」と。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『ウダーインよ、しかしながら、また、彼が、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、罪悪を作り為さないなら──身体によって、言葉によって、意によって──彼のことを、「象である」と、わたしは説きます』と。尊き方よ、さらに、また、わたしは、この、世尊によって見事に語られた〔言葉〕に、これらの詩偈によって随喜します。

 

 〔すなわち〕『人間たる生類にして正覚者、自己が調御され〔心が〕定められた者、梵の道(慈悲喜捨の四梵住)において〔常に〕振る舞い、心の寂止(涅槃)を喜ぶ者──

 

 すなわち、一切の法(事象)の彼岸に至る者を、人間たちが礼拝するなら、天〔の神々〕たちもまた、彼を礼拝する。かくのごとく、阿羅漢の〔言葉を〕、わたしは聞いた。

 

 「一切の束縛するものを超え行き、〔欲の〕林から〔欲の〕林の下生えなきへと至り来た者──岩から解き放たれた黄金のように、諸々の欲望〔の対象〕からの離欲に喜びある者を、〔天の神々たちもまた、礼拝する〕」〔と〕。

 

 一切に輝き勝る象たる方は、ヒマヴァント(ヒマラヤ)が、他の諸々の巌(いわお)の連なりを〔圧倒するように〕、象の名ある一切の者たちのなかの、真の名ある無上なる方である。

 

 象たる方を、まさに、〔わたしは〕賛じ称える。なぜなら、彼は、罪悪を作り為さないからである。温和は、そして、不害は、それら〔の性行〕は、象の、両の足である。

 

 そして、苦行と梵行は──それらの性行は、象の、他〔の両の足〕である。偉大なる象は、信を手(鼻)とし、放捨を白き牙とする。

 

 気づきは、首である。智慧は、頭である。考察は、法(教え)の思弁である。法(教え)は、子宮の熱である。遠離は、彼の尾である。

 

 彼は、出息〔と入息〕に喜びある瞑想者である。内に〔心が〕善く定められた者である。赴いている〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。立っている〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。

 

 臥している〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。坐っている〔時の象〕もまた、〔心が〕定められた者である。象は、一切所において統御された者である。これは、象の〔徳の〕成就である。

 〔彼は〕諸々の罪過なきものを受益し、諸々の罪過を有するものを受益しない。〔適時に〕食糧と衣服を得て、蓄積を遍く避けている。

 

 束縛するものを、微細なるものも、粗大なるものも、一切の結縛するものを断ち切って、まさしく、赴くところ、〔赴く〕ところで、まさしく、期待なく赴く。

 

 すなわち、また、〔汚〕水に生じた白蓮が増大し、清らかな香りあるものとなり、意が喜びとするものとなり、〔汚〕水に汚されないように──

 

 まさしく、そのように、世における善き生まれの者たる覚者は、世に住むも、世の水に汚されない──すなわち、蓮華のように。

 

 燃え盛る大火が、食(薪)なくあるなら、止み静まるように、諸々の形成〔作用〕が止み静まったとき、「涅槃に到達した者」と呼ばれる。

 

 義(目的)を識知させるものとして、この喩えは、識者たちによって説示された。大いなる象たちは、象を〔識知し〕、象によって説示された〔法〕を識知するであろう。

 

 貪欲を離れ、憤怒を離れ、迷妄を離れ、煩悩なき者となる。象は、肉体を捨棄しながら、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. ミガサーラーの経

 

44. そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ミガサーラー女性在俗信者の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ミガサーラー女性在俗信者が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ミガサーラー女性在俗信者は、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所()を等しくする同等の者たちと成るからです。尊き方よ、わたしの父のプラーナは、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として、〔世に〕有りました。彼は、命を終え、世尊によって授記されました。『一来たる有情として、兜率〔天〕の身体に再生したのです』と。尊き方よ、わたしの叔父のイシダッタはまた、梵行者ならざる者として、妻を有し満ち足りている者として、〔世に〕有りました。彼もまた、命を終え、世尊によって授記されました。『一来たる有情として(※)、兜率〔天〕の身体に再生したのです』と。尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所を等しくする同等の者たちと成るからです」と。「婦人よ、また、まさに、このように、このことはあり、世尊によって授記されたのです」と。

 

※ テキストには sakadāgāmipatto とあるが、PTS版により sakadāgāmisatto と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、ミガサーラー女性在俗信者の住居地において、〔行乞の〕施食を収め取って、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ミガサーラー女性在俗信者の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。尊き方よ、そこで、まさに、ミガサーラー女性在俗信者は、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。尊き方よ、一方に坐った、まさに、ミガサーラー女性在俗信者は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所を等しくする同等の者たちと成るからです。尊き方よ、わたしの父のプラーナは、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として、〔世に〕有りました。彼は、命を終え、世尊によって授記されました。「一来たる有情として、兜率〔天〕の身体に再生したのです」と。尊き方よ、わたしの叔父のイシダッタはまた、梵行者ならざる者として、妻を有し満ち足りている者として、〔世に〕有りました。彼もまた、命を終え、世尊によって授記されました。「一来たる有情として、兜率〔天〕の身体に再生したのです」と。尊き方よ、アーナンダよ、どうして、まさに、どうして、世尊によって説示された、この法(教え)が了知できるというのでしょう。なぜなら、そこで、まさに、そして、梵行者も、さらに、梵行者ならざる者も、両者ともに、未来の運命として、赴く所を等しくする同等の者たちと成るからです』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、ミガサーラー女性在俗信者に、こう言いました。『婦人よ、また、まさに、このように、このことはあり、世尊によって授記されたのです』」と。

 

 「アーナンダよ、さてまた、どうして、愚かで、明敏ならず、鈍き者であり、鈍き表象の者である、ミガサーラー女性在俗信者が、さてまた、どうして、人士たる人の上下についての知恵ある者(如来)たちと、〔等しくあるというのでしょう〕。アーナンダよ、六つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 どのようなものが、六つのものなのですか。(1)アーナンダよ、ここに、一部の人は、温和なる者として、安楽の共住者として、〔世に〕有ります。〔彼と〕住を一つにすることで、梵行を共にする者たちは大いに喜びます。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り、多聞によってもまた、為されていないものが有り、見解によってもまた、理解されていないものが有り、暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (2)アーナンダよ、また、ここに、一部の人は、温和なる者として、安楽の共住者として、〔世に〕有ります。〔彼と〕住を一つにすることで、梵行を共にする者たちは大いに喜びます。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得ます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、殊勝〔の境地〕に至り行きます──退失〔の境地〕ではなく。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。『この者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)があり、他の者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)がある。何ゆえに、彼らのなかの、或る者は下劣なる者となり、或る者は精妙なる者となるのか』と。アーナンダよ、まさに、彼ら(思量者たち)にとって、その〔思量〕は、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この人が、温和なる者として、安楽の共住者として、〔世に〕有り、〔彼と〕住を一つにすることで、梵行を共にする者たちが大いに喜び、彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得るなら、アーナンダよ、この人は、あの前者の人よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、法(真理)の流れが、この人を引き抜くからですが、その機微を、如来よりの他の、誰が知るというのでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔それらの〕人たちについての思量者と成ってはいけません。〔それらの〕人たちについての思量を収め取ってはいけません。アーナンダよ、なぜなら、〔それらの〕人たちについての思量を収め取っていると、〔思量者自身が〕傷つくからです。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 (3)アーナンダよ、また、ここに、一部の人には、忿激〔の思い〕(忿)と〔我想の〕思量()が到達するところと成ります。そして、〔その〕時〔その〕時に、彼には、諸々の貪欲の法(性質)が生起します。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り、多聞によってもまた、為されていないものが有り、見解によってもまた、理解されていないものが有り、暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (4)アーナンダよ、また、ここに、一部の人には、忿激〔の思い〕と〔我想の〕思量が到達するところと成ります。そして、〔その〕時〔その〕時に、彼には、諸々の貪欲の法(性質)が生起します。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り……略……。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。……略……。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 (5)アーナンダよ、また、ここに、一部の人には、忿激〔の思い〕と〔我想の〕思量が到達するところと成ります。そして、〔その〕時〔その〕時に、彼には、諸々の言葉の形成〔作用〕(語行)が生起します。彼には、聴聞によってもまた、為されていないものが有り……略……暫時の解脱をもまた得ません。彼は、身体の破壊ののち、死後において、退失〔の境地〕に至り行きます──殊勝〔の境地〕ではなく。まさしく、退失〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──殊勝〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 (6)アーナンダよ、また、ここに、一部の人には、忿激〔の思い〕と〔我想の〕思量が到達するところと成ります。そして、〔その〕時〔その〕時に、彼には、諸々の言葉の形成〔作用〕が生起します。彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得ます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、殊勝〔の境地〕に至り行きます──退失〔の境地〕ではなく。まさしく、殊勝〔の境地〕に至る者として〔世に〕有ります──退失〔の境地〕に至る者ではなく。

 

 アーナンダよ、そこで、思量者たちは思量します。『この者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)があり、他の者にもまた、まさしく、かくのごとく、〔これらの〕法(性質)がある。何ゆえに、彼らのなかの、或る者は下劣なる者となり、或る者は精妙なる者となるのか』と。アーナンダよ、まさに、彼ら(思量者たち)にとって、その〔思量〕は、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、この人が、忿激〔の思い〕と〔我想の〕思量が到達するところと成り、そして、〔その〕時〔その〕時に、彼に、諸々の言葉の形成〔作用〕が生起し、彼には、聴聞によってもまた、為されたものが有り、多聞によってもまた、為されたものが有り、見解によってもまた、理解されたものが有り、暫時の解脱をもまた得るなら、アーナンダよ、この人は、あの前者の人よりも、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、なぜなら、法(真理)の流れが、この人を引き抜くからですが、その機微を、如来よりの他の、誰が知るというのでしょう。アーナンダよ、それゆえに、ここに、〔それらの〕人たちについての思量者と成ってはいけません。〔それらの〕人たちについての思量を収め取ってはいけません。アーナンダよ、なぜなら、〔それらの〕人たちについての思量を収め取っていると、〔思量者自身が〕傷つくからです。アーナンダよ、あるいは、わたしが、〔それらの〕人たちについての思量を収め取るべきであり、また、あるいは、その者が、わたしのような者として存しているなら、〔その者が収め取るべきです〕。

 

 アーナンダよ、さてまた、どうして、愚かで、明敏ならず、鈍き者であり、鈍き表象の者である、ミガサーラー女性在俗信者が、さてまた、どうして、人士たる人の上下についての知恵ある者たちと、〔等しくあるというのでしょう〕。アーナンダよ、まさに、これらの六つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 アーナンダよ、そのような形態の戒を具備した者として、プラーナは〔世に〕有ったのですが、イシダッタが、そのような形態の戒を具備した者として〔世に〕有ったなら、ここに、プラーナは、イシダッタの赴く所さえも了知しなかったでしょう。アーナンダよ、そのような形態の智慧を具備した者として、イシダッタは〔世に〕有ったのですが、プラーナが、そのような形態の智慧を具備した者として〔世に〕有ったなら、ここに、イシダッタは、プラーナの赴く所さえも了知しなかったでしょう。アーナンダよ、かくのごとく、まさに、これらの人たちは、両者ともに、一つの支分が劣っているのです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 負債の経

 

45. 「(1)比丘たちよ、貧困は、欲望の享受者にとって、世における苦しみですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「(2)比丘たちよ、すなわち、また、貧しく、所有なく、富裕ならざる者が、負債を負うなら、比丘たちよ、〔その〕負債を負うこともまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「(3)比丘たちよ、すなわち、また、貧しく、所有なく、富裕ならざる者が、負債を負って、利息を承諾するなら、比丘たちよ、〔その〕利息もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「(4)比丘たちよ、すなわち、また、貧しく、所有なく、富裕ならざる者が、利息を承諾して、期限となるも利息を支払えず、さらに、〔債権者たちが〕彼に催促するなら、比丘たちよ、〔その〕催促もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「(5)比丘たちよ、すなわち、また、貧しく、所有なく、富裕ならざる者が、催促されながらも支払えず、さらに、〔債権者たちが〕彼を追尋するなら、比丘たちよ、〔その〕追尋もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「(6)比丘たちよ、すなわち、また、貧しく、所有なく、富裕ならざる者が、追尋されながらも支払えず、さらに、〔債権者たちが〕彼を結縛するなら、比丘たちよ、〔その〕結縛もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「(1)比丘たちよ、かくのごとく、まさに、貧困もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみであり、負債を負うこともまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみであり、利息もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみであり、催促もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみであり、追尋もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみであり、結縛もまた、欲望の享受者にとって、世における苦しみです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めが存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、精進が存在しないなら、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないなら、比丘たちよ、この者は、『聖者の律において、貧しく、所有なく、富裕ならざる者である』〔と〕説かれます。

 

 (2)比丘たちよ、それで、まさに、その、貧しく、所有なく、富裕ならざる者は、諸々の善なる法(性質)において、信が存在しないとき、諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕が存在しないとき、諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎めが存在しないとき、諸々の善なる法(性質)において、精進が存在しないとき、諸々の善なる法(性質)において、智慧が存在しないとき、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼の負債を負うことについて、このことを、〔わたしは〕説きます。

 

 (3)彼は、その身体による悪しき行ないの隠蔽を因として、悪しき欲求を誓願します。『わたしのことを、〔誰も〕知ってはならない』と欲求し、『わたしのことを、〔誰も〕知ってはならない』と思惟し、『わたしのことを、〔誰も〕知ってはならない』と言葉を語り、『わたしのことを、〔誰も〕知ってはならない』と身体によって勤しみます。彼は、その言葉による悪しき行ないの隠蔽を因として……略……彼は、その意による悪しき行ないの隠蔽を因として……略……『わたしのことを、〔誰も〕知ってはならない』と身体によって勤しみます。彼の利息について、このことを、〔わたしは〕説きます。

 

 (4)〔まさに〕その、この者のことを、梵行を共にする博愛なる者たちは、このように言います。『さてまた、この尊者は、彼は、このように為す者であり、このような励行ある者である』と。彼の催促について、このことを、〔わたしは〕説きます。

 

 (5)〔まさに〕その、この者に、或るどこかの、あるいは、木の根元に赴いた者に、あるいは、空家に赴いた者に、諸々の悪しき善ならざる思考が行き交います。彼の追尋について、このことを、〔わたしは〕説きます。

 

 (6)比丘たちよ、それで、まさに、その、貧しく、所有なく、富裕ならざる者は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、あるいは、地獄の結縛のうちに結縛され、あるいは、畜生の胎の結縛のうちに〔結縛されます〕。比丘たちよ、わたしは、このように辛酸であり、このように辛辣であり、このように、束縛からの平安という無上なるものへの到達の障りを為すものとして、〔これより〕他に、一つの法(性質)でさえも、等しく随観することがありません。比丘たちよ、すなわち、この、あるいは、地獄の結縛のように、あるいは、畜生の胎の結縛のように」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貧困は、そして、負債を負うことは、世における苦しみと説かれる。貧者は、負債を負って、〔欲望を〕享受しながら打ちのめされる。

 

 そののち、〔諸々の悪しき善ならざる思考が〕彼に追尋し、〔彼は〕結縛にもまた遭遇する。まさに、この結縛は、欲望〔の対象〕と利得を渇望する者たちにとって、苦しみである。

 

 まさしく、そのように、聖者の律において、彼に、信が見出されないなら、恥〔の思い〕なき者であり、〔良心の〕咎めなき者であり、悪しき行為(悪業)を増大する者である。

 

 身体による悪しき行ないを為して、そして、諸々の言葉による悪しき行ないを〔為して〕、意による悪しき行ないを為して、『わたしのことを、〔誰も〕知ってはならない』と求める。

 

 彼は、身体によって、言葉によって、あるいは、心によって、もがきまわる──そこかしこにおいて、繰り返し、悪しき行為を増大させながら。

 

 彼は、悪しき行為ある者であり、思慮浅き者であり、自己の悪行を知りつつ、貧者は、負債を負って、〔欲望を〕享受しながら打ちのめされる。

 

 そののち、諸々の思惟と意図が、苦しみとなり、彼に追尋する──もしくは、村においてであろうが、林においてであろうが、彼に、諸々の後悔から生じるものとして。

 

 彼は、悪しき行為ある者であり、思慮浅き者であり、自己の悪行を知りつつ、何らかの或る〔畜生の〕胎に赴いて、あるいは、また、地獄において、結縛される。

 

 まさに、この結縛は、苦しみであり、慧者は、その〔結縛〕から解き放たれる──法(正義)によって得た諸々の財物によって、〔施物を〕施しながら、心を清信させつつ。

 

 信ある家主には、両所において、幸運の掴み取りがある──所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために。このように、このことはあり、在家者たちの施捨は、功徳となり、増大する。

 

 まさしく、そのように、聖者の律において、彼に、信が確立されたなら、そして、意に恥〔の思い〕ある者となり、〔良心の〕咎めある者となり、智慧ある者となり、戒によって統御された者となる。

 

 この者は、まさに、『聖者の律において安楽に生きる者』と説かれる。財貨なき安楽を得て、放捨〔の思い〕を〔得て〕、〔心は〕確立する。

 

 五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、常に、精進に励む者となり、諸々の瞑想を成就して、専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となる。

 

 このように、事実のとおりに知って、一切の束縛するものの滅尽において、全てにあまねく執取せずして、心は、正しく解脱する。

 

 彼に、正しく解脱した者に、もし、そのようなものとして、知恵が有るなら──生存に束縛するものの滅尽について、『わたしには、不動なる解脱がある』と、〔知恵が有るなら〕──

 

 これは、まさに、最高の知恵であり、これは、無上なる安楽であり、憂いなく〔世俗の〕塵を離れる平安であり、これは、無上なる借りなきものである」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. マハー・チュンダの経

 

46. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・チュンダは、チェーティ〔国〕に住んでいます。サヤンジャーティ〔村〕において。そこで、まさに、尊者マハー・チュンダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・チュンダに答えました。尊者マハー・チュンダは、こう言いました。

 

 「(1)友よ、ここに、法(教え)の専念者たる比丘たちは、瞑想者たる比丘たちを侮蔑します。『さてまた、これらの者たちは、「瞑想者たちとして、〔わたしたちは〕存している」「瞑想者たちとして、〔わたしたちは〕存している」と、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。どうして、これらの者たちが、瞑想するというのだろう。どのようなわけで、これらの者たちが、瞑想するというのだろう。どのように、これらの者たちが、瞑想するというのだろう』と。そこにおいて、そして、法(教え)の専念者たる比丘たちは清信せず、かつまた、瞑想者たる比丘たちも清信せず、さらに、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちと成りません。

 

 (2)友よ、また、ここに、瞑想者たる比丘たちは、法(教え)の専念者たる比丘たちを侮蔑します。『さてまた、これらの者たちは、「法(教え)の専念者たちとして、〔わたしたちは〕存している」「法(教え)の専念者たちとして、〔わたしたちは〕存している」と、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちであり、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちであり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)たちである。どうして、これらの者たちが、法(教え)の専念者たちというのだろう。どのようなわけで、これらの者たちが、法(教え)の専念者たちというのだろう。どのように、これらの者たちが、法(教え)の専念者たちというのだろう』と。そこにおいて、そして、瞑想者たる比丘たちは清信せず、かつまた、法(教え)の専念者たる比丘たちも清信せず、さらに、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちと成りません。

 

 (3)友よ、また、ここに、法(教え)の専念者たる比丘たちは、法(教え)の専念者たる比丘たちだけの栄誉を語ります。瞑想者たる比丘たちの栄誉を語ることはありません。そこにおいて、そして、法(教え)の専念者たる比丘たちは清信せず、かつまた、瞑想者たる比丘たちも清信せず、さらに、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちと成りません。

 

 (4)友よ、また、ここに、瞑想者たる比丘たちは、瞑想者たる比丘たちだけの栄誉を語ります。法(教え)の専念者たる比丘たちの栄誉を語ることはありません。そこにおいて、そして、瞑想者たる比丘たちは清信せず、かつまた、法(教え)の専念者たる比丘たちも清信せず、さらに、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者たちと成りません。

 

 (5)友よ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕法(教え)の専念者たる比丘たちとして存しつつ、瞑想者たる比丘たちの栄誉を語るのだ』と。友よ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。それは、何を因とするのですか。友よ、なぜなら、これらの人たちは、稀有にして、世において得難くあるからです。すなわち、不死の界域を身体によって体得して〔世に〕住む、〔これらの人たちは〕。(6)友よ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『〔わたしたちは〕瞑想者たる比丘たちとして存しつつ、法(教え)の専念者たる比丘たちの栄誉を語るのだ』と。友よ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。それは、何を因とするのですか。友よ、なぜなら、これらの人たちは、稀有にして、世において得難くあるからです。すなわち、深遠にして義(意味)ある句を、智慧によって理解して〔正しく〕見る、〔これらの人たちは〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の現に見られるものの経

 

47. そこで、まさに、モーリヤ・シーヴァカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、モーリヤ・シーヴァカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『現に見られる法(教え)』『現に見られる法(教え)』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)は、現に見られるものと成るのですか──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成るのですか〕」と。

 

 「シーヴァカよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。シーヴァカよ、それを、どう思いますか。あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在しているのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在する』と覚知しますか。あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在しない』と覚知しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(覚知します)」〔と〕。「シーヴァカよ、すなわち、まさに、あなたが、あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在しているのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在する』と覚知するなら、あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在しない』と覚知するなら、シーヴァカよ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります……略……。

 

 シーヴァカよ、それを、どう思いますか。あるいは、内に、憤怒〔の思い〕が存在しているのを……略……あるいは、内に、迷妄〔の思い〕が存在しているのを……略……あるいは、内に、貪欲の法(性質)が存在しているのを……略……内に、憤怒の法(性質)が存在しているのを……略……内に、迷妄の法(性質)が存在しているのを、『わたしの内に、迷妄の法(性質)が存在する』と覚知しますか。あるいは、内に、迷妄の法(性質)が存在していないのを、『わたしの内に、迷妄の法(性質)が存在しない』と覚知しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「シーヴァカよ、すなわち、まさに、あなたが、あるいは、内に、迷妄の法(性質)が存在しているのを、『わたしの内に、迷妄の法(性質)が存在する』と覚知するなら、あるいは、内に、迷妄の法(性質)が存在していないのを、『わたしの内に、迷妄の法(性質)が存在しない』と覚知するなら、シーヴァカよ、このように、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕」と。

 

 「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の現に見られるものの経

 

48. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、『現に見られる法(教え)』『現に見られる法(教え)』と説かれます。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)は、現に見られるものと成るのですか──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成るのですか〕」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。婆羅門よ、それを、どう思いますか。あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在しているのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在する』と覚知しますか。あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在しない』と覚知しますか」と。「君よ、そのとおりです(覚知します)」〔と〕。「婆羅門よ、すなわち、まさに、あなたが、あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在しているのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在する』と覚知するなら、あるいは、内に、貪欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、貪欲〔の思い〕が存在しない』と覚知するなら、婆羅門よ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります……略……。

 

 婆羅門よ、それを、どう思いますか。あるいは、内に、憤怒〔の思い〕が存在しているのを……略……あるいは、内に、迷妄〔の思い〕が存在しているのを……略……あるいは、内に、身体の等しき汚点が存在しているのを……略……内に、言葉の等しき汚点が存在しているのを……略……内に、意の等しき汚点が存在しているのを、『わたしの内に、意の等しき汚点が存在する』と覚知しますか。あるいは、内に、意の等しき汚点が存在していないのを、『わたしの内に、意の等しき汚点が存在しない』と覚知しますか」と。「君よ、そのとおりです」〔と〕。「婆羅門よ、すなわち、まさに、あなたが、あるいは、内に、意の等しき汚点が存在しているのを、『わたしの内に、意の等しき汚点が存在する』と覚知するなら、あるいは、内に、意の等しき汚点が存在していないのを、『わたしの内に、意の等しき汚点が存在しない』と覚知するなら、婆羅門よ、このように、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマよ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ケーマの経

 

49. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者ケーマは、かつまた、尊者スマナは、サーヴァッティーに住んでいます。アンダ林において。そこで、まさに、かつまた、尊者ケーマは、かつまた、尊者スマナは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ケーマは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼に、このような〔思いは〕有りません──(1)あるいは、『わたしより、勝る者として〔世に〕存している(わたしより勝る者が存在する)』という〔思いも〕、(2)あるいは、『わたしと、同等の者として〔世に〕存している(わたしと同等の者が存在する)』という〔思いも〕、(3)あるいは、『わたしより、劣る者として〔世に〕存している(わたしより劣る者が存在する)』という〔思いも〕」と。尊者ケーマは、この〔言葉〕を言いました。教師は、正しくお認めに成りました。そこで、まさに、尊者ケーマは、「教師は、わたしのことを正しくお認めである」と、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、尊者スマナは、尊者ケーマが立ち去ったすぐあと、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼に、このような〔思いは〕有りません──(4)あるいは、『わたしより、勝る者として〔世に〕存していない(わたしより勝る者は存在しない)』という〔思いも〕、(5)あるいは、『わたしと、同等の者として〔世に〕存していない(わたしと同等の者は存在しない)』という〔思いも〕、(6)あるいは、『わたしより、劣る者として〔世に〕存していない(わたしより劣る者は存在しない)』という〔思いも〕」と。尊者スマナは、この〔言葉〕を言いました。教師は、正しくお認めに成りました。そこで、まさに、尊者スマナは、「教師は、わたしのことを正しくお認めである」と、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、かつまた、尊者ケーマが、かつまた、尊者スマナが、立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、このように、まさに、良家の子息たちは、了知を説き明かします(解脱を宣言する)。そして、義(道理)が説かれ、かつまた、自己のことは取り上げません。そこで、また、しかしながら、ここに、一部の愚人たちは、思うに、笑いながら、了知を説き明かします。彼らは、のちに、悩苦を惹起します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔良家の子息たちは〕増長している者たちについて〔取り上げ〕ず、卑下している者たちについて〔取り上げ〕ず、自己と等しい者について取り上げない。生は滅尽し、梵行は完成された。〔彼らは〕束縛するものから解脱し、〔世を〕歩む」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 〔感官の〕機能における統御の経

 

50. 「比丘たちよ、(1)〔感官の〕機能における統御が存していないとき、〔感官の〕機能における統御が衰滅した者にとって、(2)戒は、機縁を欠くものと成ります。戒が存していないとき、戒が衰滅した者にとって、(3)正しい禅定は、機縁を欠くものと成ります。正しい禅定が存していないとき、正しい禅定が衰滅した者にとって、(4)事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)は、機縁を欠くものと成ります。事実のとおりの知見が存していないとき、事実のとおりの知見が衰滅した者にとって、(5)厭離と離貪は、機縁を欠くものと成ります。厭離と離貪が存していないとき、厭離と離貪が衰滅した者にとって、(6)解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が衰滅した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴かず、樹皮もまた円満成就に赴かず、軟材もまた円満成就に赴かず、硬材もまた円満成就に赴きません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、〔感官の〕機能における統御が存していないとき、〔感官の〕機能における統御が衰滅した者にとって、戒は、機縁を欠くものと成ります。……略……解脱の知見は、機縁を欠くものと成ります。

 

 比丘たちよ、(1)〔感官の〕機能における統御が存しているとき、〔感官の〕機能における統御が成就した者にとって、(2)戒は、機縁が成就したものと成ります。戒が存しているとき、戒が成就した者にとって、(3)正しい禅定は、機縁が成就したものと成ります。正しい禅定が存しているとき、正しい禅定が成就した者にとって、(4)事実のとおりの知見は、機縁が成就したものと成ります。事実のとおりの知見が存しているとき、事実のとおりの知見が成就した者にとって、(5)厭離と離貪は、機縁が成就したものと成ります。厭離と離貪が存しているとき、厭離と離貪が成就した者にとって、(6)解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、枝と葉が成就した木のようなものです。その〔木〕の、外皮もまた円満成就に赴き、樹皮もまた円満成就に赴き、軟材もまた円満成就に赴き、硬材もまた円満成就に赴きます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、〔感官の〕機能における統御が存しているとき、〔感官の〕機能における統御が成就した者にとって、戒は、機縁が成就したものと成ります。……略……解脱の知見は、機縁が成就したものと成ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. アーナンダの経

 

51. そこで、まさに、尊者アーナンダが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、まさしく、そして、〔いまだ〕聞かれていない法(教え)を聞き、さらに、彼の、〔すでに〕聞かれた諸々の法(教え)が忘却に赴かないのですか。さらに、すなわち、彼の、過去において、心によって体得した過去の諸々の法(教え)が、そして、それらが慣行となり、さらに、〔いまだ〕識知されていないものを、〔彼は〕識知するのですか」と。「尊者アーナンダは、まさに、多聞の者です。まさしく、尊者アーナンダに、〔答えが〕明白となれ(尊者みずから答えてください)」と。「友よ、サーリプッタよ、まさに、それでは、聞きたまえ。善くしっかりと、意を為したまえ。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、(1)法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)を──遍く学得します。彼は、(2)聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。(3)聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに教授します。(4)聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。(5)聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。(6)その居住所において、長老の比丘たちが住み、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、その居住所において、雨期を過ごします。彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、彼らは、その尊者のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。友よ、サーリプッタよ、このことから、まさに、比丘は、まさしく、そして、〔いまだ〕聞かれていない法(教え)を聞き、さらに、彼の、〔すでに〕聞かれた諸々の法(教え)が忘却に赴きません。さらに、すなわち、彼の、過去において、心によって体得した過去の諸々の法(教え)が、そして、それらが慣行となり、さらに、〔いまだ〕識知されていないものを、〔彼は〕識知します」と。

 

 「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、尊者アーナンダによって、これほどまでに、見事に語られたのは。そして、わたしたちは、尊者アーナンダを、これらの六つの法(性質)を具備した者と認めます。まさに、尊者アーナンダは、法(教え)を──経、頌歌、授記、詩偈、感興語、如是語、本生、未曾有法、問答を──遍く学得します。尊者アーナンダは、聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。尊者アーナンダは、聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに教授します。尊者アーナンダは、聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。尊者アーナンダは、聞いたとおりに、遍く学得したとおりに、法(教え)を、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。尊者アーナンダは、その居住所において、長老の比丘たちが住み、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、その居住所において、雨期を過ごします。彼らに、尊者アーナンダは、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、彼らは、尊者アーナンダのために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 士族の経

 

52. そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、士族たちは、何を志向とし、何を想念とし、何を確立とし、何を固着とし、何を結末とするのですか」と。「婆羅門よ、士族たちは、まさに、財物を志向とし、智慧を想念とし、力を確立とし、地を固着とし、権力を結末とします」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、婆羅門たちは、何を志向とし、何を想念とし、何を確立とし、何を固着とし、何を結末とするのですか」と。「婆羅門よ、婆羅門たちは、まさに、財物を志向とし、智慧を想念とし、呪文を確立とし、祭祀を固着とし、梵の世を結末とします」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、家長たちは、何を志向とし、何を想念とし、何を確立とし、何を固着とし、何を結末とするのですか」と。「婆羅門よ、家長たちは、まさに、財物を志向とし、智慧を想念とし、技能を確立とし、生業を固着とし、終了した生業を結末とします」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、女たちは、何を志向とし、何を想念とし、何を確立とし、何を固着とし、何を結末とするのですか」と。「婆羅門よ、女たちは、まさに、男を志向とし、外装を想念とし、子を確立とし、〔他の女と〕亭主を共にしないことを固着とし、権力を結末とします」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、盗賊たちは、何を志向とし、何を想念とし、何を確立とし、何を固着とし、何を結末とするのですか」と。「婆羅門よ、盗賊たちは、まさに、取ることを志向とし、収め取ることを想念とし、刃を確立とし、暗黒を固着とし、見なきことを結末とします」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、沙門たちは、何を志向とし、何を想念とし、何を確立とし、何を固着とし、何を結末とするのですか」と。「婆羅門よ、沙門たちは、まさに、忍耐と温和を志向とし、智慧を想念とし、戒を確立とし、無所有を固着とし、涅槃を結末とします」と。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。貴君ゴータマは、士族たちについてもまた、かつまた、志向を、かつまた、想念を、かつまた、確立を、かつまた、固着を、かつまた、結末を、知ります。貴君ゴータマは、婆羅門たちについてもまた……略……知ります。貴君ゴータマは、家長たちについてもまた……知ります。貴君ゴータマは、女たちについてもまた……知ります。貴君ゴータマは、盗賊たちについてもまた……知ります。貴君ゴータマは、沙門たちについてもまた、かつまた、志向を、かつまた、想念を、かつまた、確立を、かつまた、固着を、かつまた、結末を、知ります。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 不放逸の経

 

53. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、それは、両者の義(利益)を正しく収め取って〔世に〕止住します──そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)です」と。「婆羅門よ、まさに、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、それは、両者の義(利益)を正しく収め取って〔世に〕止住します──そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)です」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、それは、両者の義(利益)を正しく収め取って〔世に〕止住します──そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)です」と。「婆羅門よ、まさに、不放逸が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、両者の義(利益)を正しく収め取って〔世に〕止住します──そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)です。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、不放逸が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、両者の義(利益)を正しく収め取って〔世に〕止住します──そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)です。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、屋頂ある家の、それらが何であれ、諸々の垂木は、それらの全てが、屋頂に至るものであり、屋頂に向かい行くものであり、屋頂に集結するものであり、屋頂が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、葦の刈り手が、葦を刈って、先端を収め取って、振り落とし、振り払い、振り捨てるように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、アンバ〔果〕の房ある茎が切断されたなら、それらが何であれ、茎と連結している諸々のアンバ〔果〕は、それらの全てが、その〔茎〕に付属するものとして有るように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、彼らが誰であれ、小なる王たちは、彼らの全てが、転輪王に従い行く者たちと成り、転輪王が、彼らのなかの至高のものと告げ知らされるように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに……略……。

 

 婆羅門よ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の星の形態あるものの光は、それらの全てが、月の光の十六分の一にも値せず、月の光が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、不放逸が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、両者の義(利益)を正しく収め取って〔世に〕止住します──そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)です。

 

 婆羅門よ、まさに、これが、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、両者の義(利益)を正しく収め取って〔世に〕止住します──そして、すなわち、所見の法(現世)における義(利益)であり、さらに、すなわち、未来の義(利益)です」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. ダンミカの経

 

54. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。また、まさに、その時点にあって、尊者ダンミカは、出生地における居住者として〔世に〕有ります──出生地にある七つの居住所において、全てにわたり。そこで、まさに、尊者ダンミカは、来客の比丘たちを、〔粗暴な〕言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、突き刺し、悩ませます。そして、それらの来客の比丘たちは、尊者ダンミカによって、〔粗暴な〕言葉で、罵倒され、口撃され、困らされ、突き刺され、悩まされながら、〔居住所から〕立ち去ります──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざけます。

 

 そこで、まさに、出生地の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。「わたしたちは、まさに、比丘の僧団を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者たちである。そこで、また、しかしながら、来客の比丘たちは、〔居住所から〕立ち去る──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざける。いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、来客の比丘たちは、〔居住所から〕立ち去るのだろう──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざけるのだろう」と。そこで、まさに、出生地の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者ダンミカは、来客の比丘たちを、〔粗暴な〕言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、突き刺し、悩ませる。そして、それらの来客の比丘たちは、尊者ダンミカによって、〔粗暴な〕言葉で、罵倒され、口撃され、困らされ、突き刺され、悩まされながら、〔居住所から〕立ち去る──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざける。それなら、さあ、わたしたちは、尊者ダンミカを追放するのだ」と。

 

 そこで、まさに、出生地の在俗信者たちは、尊者ダンミカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ダンミカに、こう言いました。「尊き方よ、尊者ダンミカは、この居住所から立ち去りたまえ。十分です──あなたにとって、ここでの住は」と。そこで、まさに、尊者ダンミカは、その居住所から、他の居住所に赴きました。そこで、また、まさに、尊者ダンミカは、来客の比丘たちを、〔粗暴な〕言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、突き刺し、悩ませます。そして、それらの来客の比丘たちは、尊者ダンミカによって、〔粗暴な〕言葉で、罵倒され、口撃され、困らされ、突き刺され、悩まされながら、〔居住所から〕立ち去ります──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざけます。

 

 そこで、まさに、出生地の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。「わたしたちは、まさに、比丘の僧団を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者たちである。そこで、また、そして、来客の比丘たちは、〔居住所から〕立ち去る──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざける。いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、来客の比丘たちは、〔居住所から〕立ち去るのだろう──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざけるのだろう」と。そこで、まさに、出生地の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者ダンミカは、来客の比丘たちを、〔粗暴な〕言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、突き刺し、悩ませる。そして、それらの来客の比丘たちは、尊者ダンミカによって、〔粗暴な〕言葉で、罵倒され、口撃され、困らされ、突き刺され、悩まされながら、〔居住所から〕立ち去る──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざける。それなら、さあ、わたしたちは、尊者ダンミカを追放するのだ」と。

 

 そこで、まさに、出生地の在俗信者たちは、尊者ダンミカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ダンミカに、こう言いました。「尊き方よ、尊者ダンミカは、この居住所から立ち去りたまえ。十分です──あなたにとって、ここでの住は」と。そこで、まさに、尊者ダンミカは、その居住所から、他の居住所に赴きました。そこで、また、まさに、尊者ダンミカは、来客の比丘たちを、〔粗暴な〕言葉で、罵倒し、口撃し、困らせ、突き刺し、悩ませます。そして、それらの来客の比丘たちは、尊者ダンミカによって、〔粗暴な〕言葉で、罵倒され、口撃され、困らされ、突き刺され、悩まされながら、〔居住所から〕立ち去ります──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざけます。

 

 そこで、まさに、出生地の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。「わたしたちは、まさに、比丘の僧団を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって奉仕する者たちである。そこで、また、そして、来客の比丘たちは、〔居住所から〕立ち去る──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざける。いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、来客の比丘たちは、〔居住所から〕立ち去るのだろう──〔居住所に〕定着せず、居住所を遠ざけるのだろう」と。そこで、まさに、出生地の在俗信者たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者ダンミカは、来客の比丘たちを、罵倒し……略……。それなら、さあ、わたしたちは、尊者ダンミカを追放するのだ──出生地にある七つの居住所から、全てにわたり」と。そこで、まさに、出生地の在俗信者たちは、尊者ダンミカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ダンミカに、こう言いました。「尊き方よ、尊者ダンミカは、立ち去りたまえ──出生地にある七つの居住所から、全てにわたり」と。そこで、まさに、尊者ダンミカに、この〔思い〕が有りました。「追放された者として、まさに、〔わたしは〕存している──出生地の在俗信者たちによって、出生地にある七つの居住所から、全てにわたり。いったい、まさに、今や、どこに赴こう」と。そこで、まさに、尊者ダンミカに、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者ダンミカは、鉢と衣料を取って、ラージャガハのあるところに、そこへと立ち去りました。順次に、ラージャガハのギッジャクータ山のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ダンミカに、世尊は、こう言いました。「婆羅門ダンミカよ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか」と。「尊き方よ、わたしは、追放されたのです──出生地の在俗信者たちによって、出生地にある七つの居住所から、全てにわたり」と。「婆羅門ダンミカよ、十分です。あなたにとって、この〔出生地の居住所〕が、何だというのでしょう。すなわち、あなたを、〔人々は〕そこかしこから追放し、それで、あなたは、そこかしこから追放され、まさしく、わたしの現前にやってくるのです。

 

 婆羅門ダンミカよ、過去の事(過去世)ですが、海行く商人たちが、岸を見る鳥を携えて、船で海に乗り入れます。彼らは、岸が視認できないと、船から、岸を見る鳥を放ちます。その〔鳥〕は、まさしく、東の方角に赴き、西の方角に赴き、北の方角に赴き、南の方角に赴き、上に赴き、〔中間の四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に赴きます。それで、もし、その〔鳥〕が、遍きにわたり〔はるか遠くに〕岸を見るなら、まさしく、そのとおりに赴く者と成ります。また、それで、もし、その〔鳥〕が、遍きにわたり〔はるか遠くに〕岸を見ないなら、まさしく、その船に戻ります。婆羅門ダンミカよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、あなたを、〔人々は〕そこかしこから追放し、それで、あなたは、そこかしこから追放され、まさしく、わたしの現前にやってくるのです。

 

 婆羅門ダンミカよ、過去の事ですが、コーラブヤ王に、スッパティッタという名の、五つの枝があり、涼やかな影があり、意が喜びとする、ニグローダ〔樹〕の王が有りました。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタの全域としては、十二ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)が有りました──根の広がりとしては、五ヨージャナが。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタの諸々の果は、それは、たとえば、また、まさに、升皿であるかのように、それほどまでに、大いなるものと成りました。その〔樹〕の諸々の果は、それは、たとえば、また、まさに、純粋な蜂蜜のように、このように、美味なるものと成りました。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタの、一つの幹を、王が宮女と共に受益し、一つの幹を、軍隊の衆が受益し、一つの幹を、町と地方の者たちが受益し、一つの幹を、沙門や婆羅門たちが受益し、一つの幹を、獣たちが受益します。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタの諸々の果を、誰であれ、守ることもなく、そして、まさに、互いに他の諸々の果を、害することもありません。

 

 婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、或るひとりの男が、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタの諸々の果を、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ食して、枝を折って立ち去りました。婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタに住している天神に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。それほどまでに、悪しき人間であるとは。なぜなら、そこで、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタの諸々の果を、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ食して、枝を折って立ち去るからだ。それなら、もう、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタは、以後、果を与えないであろう』と。婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタは、以後、果を与えませんでした。

 

 婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、コーラブヤ王は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『敬愛なる方よ、どうか、お知りになられますように。ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタは、果を与えません』と。婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、すなわち、激しい風雨が襲来して、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタをひっくり返し、根こそぎと為す、そのような形態の神通の行作を行作しました。婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタに住している天神は、苦痛の者となり、失意の者となり、涙顔で泣き叫びながら、一方に立ちました。

 

 婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタに住している天神のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタに住している天神に、こう言いました。『天神よ、いったい、どうして、あなたは、苦痛の者となり、失意の者となり、涙顔で泣き叫びながら、一方に立っているのだ』と。『敬愛なる方よ、また、なぜなら、そのように、激しい風雨が襲来して、わたしの居所をひっくり返し、根こそぎと為したからです』と。『天神よ、さて、いったい、あなたが、木の法(性質)に立脚していたなら、激しい風雨が襲来して、〔あなたの〕居所をひっくり返し、根こそぎと為したであろうか』と。『敬愛なる方よ、また、どのように、木は、木の法(性質)に立脚しているものと成るのですか』と。『天神よ、ここに、木の、根を義(目的)とする者たちは、根を運び去り、皮を義(目的)とする者たちは、皮を運び去り、葉を義(目的)とする者たちは、葉を運び去り、花を義(目的)とする者たちは、花を運び去り、果を義(目的)とする者たちは、果を運び去る。しかしながら、それによって、あるいは、わが意を得ないことも、あるいは、大いに喜ばないことも、天神の為すべきことにあらず。天神よ、このように、まさに、木は、木の法(性質)に立脚しているものと成る』と。『敬愛なる方よ、まさに、わたしが、木の法(性質)に、まさしく、立脚していなかったので、激しい風雨が襲来して、〔わたしの〕居所をひっくり返し、根こそぎと為したのです』と。『天神よ、それで、もし、まさに、あなたが、木の法(性質)に立脚するなら、あなたの居所は、かつてのように存するであろう』と。『敬愛なる方よ、わたしは、木の法(性質)に立脚します。わたしの居所は、かつてのように有れ』と。

 

 婆羅門ダンミカよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、すなわち、激しい風雨が襲来して、ニグローダ〔樹〕の王たるスッパティッタを起こし上げ、表皮を有する諸々の根と成る、そのような形態の神通の行作を行作しました。婆羅門ダンミカよ、まさしく、このように、まさに、さてまた、いったい、あなたが、沙門の法(性質)に立脚していたなら、出生地の在俗信者たちは、出生地にある七つの居住所から、全てにわたり、〔あなたを〕追放したでしょうか」と。「尊き方よ、また、どのように、沙門は、沙門の法(性質)に立脚している者と成るのですか」と。「婆羅門ダンミカよ、ここに、沙門は、罵っている者に罵り返さず、悩ましている者に悩まし返さず、言い争っている者に言い争い返しません。婆羅門ダンミカよ、このように、まさに、沙門は、沙門の法(性質)に立脚している者と成ります」と。「尊き方よ、わたしが、沙門の法(性質)に、まさしく、立脚していなかったので、出生地の在俗信者たちは、出生地にある七つの居住所から、全てにわたり、〔わたしを〕追放したのです」と。

 

 (1)婆羅門ダンミカよ、過去の事ですが、スネッタという名の教師が〔世に〕有りました──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者として。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、スネッタ教師には、幾百の弟子たちが有りました。スネッタ教師は、弟子たちに、梵の世における共住のための法(教え)を説示しました。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、すなわち、スネッタ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させなかった、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しました。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、すなわち、スネッタ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させた、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しました。

 

 (2)婆羅門ダンミカよ、過去の事ですが、ムーガパッカという名の教師が〔世に〕有りました……略……(3)アラネーミという名の教師が〔世に〕有りました……(4)クッダーラカという名の教師が〔世に〕有りました……(5)ハッティパーラという名の教師が〔世に〕有りました……(6)ジョーティパーラという名の教師が〔世に〕有りました──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者として。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、ジョーティパーラ教師には、幾百の弟子たちが有りました。ジョーティパーラ教師は、弟子たちに、梵の世における共住のための法(教え)を説示しました。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、すなわち、ジョーティパーラ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させなかった、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しました。婆羅門ダンミカよ、また、まさに、すなわち、ジョーティパーラ教師が、梵の世における共住のための法(教え)を説示しているとき、心を清信させた、それらの者たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しました。

 

 婆羅門ダンミカよ、それを、どう思いますか。すなわち、これらの六者の教師たちを──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者たちを、幾百の取り巻きと弟子の僧団ある者たちを──汚れた心の者が罵倒し口撃するなら、彼は、多くの功徳ならざるものを生み出しますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「婆羅門ダンミカよ、すなわち、まさに、これらの六者の教師たちを──異教の祖師にして諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者たちを、幾百の取り巻きと弟子の僧団ある者たちを──汚れた心の者が罵倒し口撃するなら、彼は、多くの功徳ならざるものを生み出します。すなわち、一者の〔正しい〕見解を成就した人を、汚れた心の者が罵倒し口撃するなら、この者は、それよりも、より多くの功徳ならざるものを生み出します。それは、何を因とするのですか。婆羅門ダンミカよ、すなわち、梵行を共にする者たちにたいする、この〔罵倒と口撃〕のように、〔自己を〕掘り崩すものとして、これより外に、このような形態のものを、わたしは説きません。婆羅門ダンミカよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『わたしたちの心は、梵行を共にする者たちにたいし、汚れたものと成らないのだ』と。婆羅門ダンミカよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「スネッタが、そして、ムーガパッカが、さらに、アラネーミ婆羅門が、クッダーラカ教師が、さらに、ハッティパーラ学徒が、〔世に〕有った。

 

 そして、ジョーティパーラが、ゴーヴィンダが、〔これらの〕七者の司祭たちが〔世に〕有った。不害の者たちであり、過去の時において、六者の教師たちは、盛名ある者たちとして〔世に有った〕。

 

 生臭(なまぐさ)ならず、慈悲を信念し、欲望の束縛を超え行く者たちであり、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、梵の世へと近しく赴く者たちとして〔世に〕有った。

 

 幾百の者たちもまた、彼らの弟子たちとして〔世に〕有った。生臭ならず、慈悲を信念し、欲望の束縛を超え行く者たちであり、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離貪させて、梵の世へと近しく赴く者たちとして〔世に〕有った。

 

 すなわち、貪り〔の思い〕を離れた者たちであり、〔心が〕定められた者たちである、これらの外なる聖賢たちを、すなわち、汚れた意と思惟ある人が口撃するなら、そして、そのような者である、その人は、多くの功徳ならざるものを生み出す。

 

 さらに、すなわち、一者の〔正しい〕見解を成就した者を、覚者の弟子である比丘を、すなわち、汚れた意と思惟ある人が口撃するなら、この人は、それよりも、より多くの功徳ならざるものを生み出すであろう。

 

 善き形態ある者を、見解の拠点を捨棄する者を、襲うべきではない。この者は、聖なる僧団の第七の人と説かれる。

 

 諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れ、彼に、柔和なる五つの機能(五根)があるなら──信があり、そして、気づきがあり、精進があり、さらに、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)があり、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)があるなら──

 

 そのような者である比丘を襲って、まず、はじめに、〔自己が〕打ちのめされ、自己を打ちのめして、そのあとに、他者を害する。

 

 しかしながら、すなわち、自己を守るなら、彼の外にいる者も守られた者となる。それゆえに、常に、〔自己を〕掘り崩さない賢者として、自己を守るべきである」と。〔以上が〕第十二となる。

 

 ダンミカの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「象とミガサーラー、負債、チュンダ、二つの現に見られるもの、ケーマと〔感官の〕機能とアーナンダと士族があり、不放逸とともに、ダンミカがあり、〔章となる〕」と。

 

 第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

2. 第二の五十なるもの

 

6. 大いなるものの章

 

1. ソーナの経

 

55. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。また、まさに、その時点にあって、尊者ソーナは、ラージャガハに住んでいます。シータ林において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者ソーナに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、彼らが誰であれ、世尊の弟子たちは、精進に励む者たちとして〔世に〕住む。わたしは、それらの者たちのなかの随一の者である。そこで、また、しかしながら、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱することがない。また、まさに、わたしの家においては、諸々の財物が等しく見出され、そして、諸々の財物を享受することも、さらに、諸々の功徳を作り為すことも、できる。それなら、さあ、わたしは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りして(戒を捨てて還俗して)、そして、諸々の財物を享受し、さらに、諸々の功徳を作り為すのだ」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、尊者ソーナの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、まさに、ギッジャクータ山において消没し、シータ林において、尊者ソーナの面前に出現しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、尊者ソーナもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ソーナに、世尊は、こう言いました。

 

 「ソーナよ、まさに、静所に赴き静坐しているあなたに、このような心の思索が浮かんだのではないですか。『まさに、彼らが誰であれ、世尊の弟子たちは、精進に励む者たちとして〔世に〕住む。わたしは、それらの者たちのなかの随一の者である。そこで、また、しかしながら、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱することがない。また、まさに、わたしの家においては、諸々の財物が等しく見出され、そして、諸々の財物を享受することも、さらに、諸々の功徳を作り為すことも、できる。それなら、さあ、わたしは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りして、そして、諸々の財物を享受し、さらに、諸々の功徳を作り為すのだ』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ソーナよ、それを、どう思いますか。あなたは、過去において在家者として有り、琵琶の弦曲に巧みな智がありますね」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ソーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたの琵琶の、諸々の弦が張り過ぎるものと成るとき、さて、いったい、あなたの琵琶は、その時点において、あるいは、音を出すものと成り、あるいは、行為に適するものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ソーナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたの琵琶の、諸々の弦が緩め過ぎるものと成るとき、さて、いったい、あなたの琵琶は、その時点において、あるいは、音を出すものと成り、あるいは、行為に適するものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「ソーナよ、また、すなわち、あなたの琵琶の、諸々の弦が張り過ぎるものと成らず、諸々の弦が緩め過ぎるものと〔成ら〕ず、正しい調律において確立したとき、さて、いったい、あなたの琵琶は、その時点において、あるいは、音を出すものと成り、あるいは、行為に適するものと〔成りますか〕」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「ソーナよ、まさしく、このように、まさに、励み過ぎの精進は、〔心の〕高揚のために等しく転起し、緩み過ぎの精進は、怠惰のために等しく転起します。ソーナよ、それゆえに、ここに、あなたは、精進と〔心の〕止寂を〔ともに〕確立しながら、そして、諸々の機能の平等なることを理解し、さらに、そこにおいて、形相を収め取りなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ソーナは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、尊者ソーナを、この教諭によって教え諭して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、まさに、シータ林において消没し、ギッジャクータ山に出現しました。

 

 そこで、まさに、尊者ソーナは、他時にあって、精進と〔心の〕止寂を〔ともに〕確立し、そして、諸々の機能の平等なることを理解し、さらに、そこにおいて、形相を収め取りました。そこで、まさに、尊者ソーナは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者ソーナは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。

 

 そこで、まさに、阿羅漢の資質に至り得た尊者ソーナに、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、世尊の現前において、了知を説き明かすのだ」と。そこで、まさに、尊者ソーナは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ソーナは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、六つの境位を信念した者として〔世に〕有ります──離欲を信念した者として〔世に〕有り、遠離を信念した者として〔世に〕有り、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念した者として〔世に〕有り、渇愛の滅尽を信念した者として〔世に〕有り、執取の滅尽を信念した者として〔世に〕有り、迷妄なき〔あり方〕を信念した者として〔世に〕有ります。

 

 尊き方よ、また、まさに、ここに、一部の尊者に、彼に、このような〔思いが〕存するとします。『たしかに、この尊者は、単に、信のみに依拠して、離欲を信念したのだ』と。尊き方よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。尊き方よ、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者である、比丘は、自己の為すべきことを、あるいは、為したことの蓄積を、等しく随観せずにいながら、貪欲の滅尽あることから、貪欲を離れたことから、離欲を信念した者として〔世に〕有り、憤怒の滅尽あることから、憤怒を離れたことから、離欲を信念した者として〔世に〕有り、迷妄の滅尽あることから、迷妄を離れたことから、離欲を信念した者として〔世に〕有ります。

 

 尊き方よ、また、まさに、ここに、一部の尊者に、彼に、このような〔思いが〕存するとします。『たしかに、この尊者は、利得と尊敬と名声を欲しながら、遠離を信念したのだ』と。尊き方よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。尊き方よ、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者である、比丘は、自己の為すべきことを、あるいは、為したことの蓄積を、等しく随観せずにいながら、貪欲の滅尽あることから、貪欲を離れたことから、遠離を信念した者として〔世に〕有り、憤怒の滅尽あることから、憤怒を離れたことから、遠離を信念した者として〔世に〕有り、迷妄の滅尽あることから、迷妄を離れたことから、遠離を信念した者として〔世に〕有ります。

 

 尊き方よ、また、まさに、ここに、一部の尊者に、彼に、このような〔思いが〕存するとします。『たしかに、この尊者は、戒や掟への偏執(戒禁取)を真髄として信受しながら、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念したのだ』と。尊き方よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。尊き方よ、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者である、比丘は、自己の為すべきことを、あるいは、為したことの蓄積を、等しく随観せずにいながら、貪欲の滅尽あることから、貪欲を離れたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念した者として〔世に〕有り、憤怒の滅尽あることから、憤怒を離れたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念した者として〔世に〕有り、迷妄の滅尽あることから、迷妄を離れたことから、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念した者として〔世に〕有ります。

 

 貪欲の滅尽あることから、貪欲を離れたことから、渇愛の滅尽を信念した者として〔世に〕有り、憤怒の滅尽あることから、憤怒を離れたことから、渇愛の滅尽を信念した者として〔世に〕有り、迷妄の滅尽あることから、迷妄を離れたことから、渇愛の滅尽を信念した者として〔世に〕有ります。

 

 貪欲の滅尽あることから、貪欲を離れたことから、執取の滅尽を信念した者として〔世に〕有り、憤怒の滅尽あることから、憤怒を離れたことから、執取の滅尽を信念した者として〔世に〕有り、迷妄の滅尽あることから、迷妄を離れたことから、執取の滅尽を信念した者として〔世に〕有ります。

 

 貪欲の滅尽あることから、貪欲を離れたことから、迷妄なき〔あり方〕を信念した者として〔世に〕有り、憤怒の滅尽あることから、憤怒を離れたことから、迷妄なき〔あり方〕を信念した者として〔世に〕有り、迷妄の滅尽あることから、迷妄を離れたことから、迷妄なき〔あり方〕を信念した者として〔世に〕有ります。

 

 尊き方よ、このように、正しく心が解脱した比丘に、たとえ、もし、激しいものとして、眼によって識知されるべき諸々の形態が、眼の視野にやってくるも、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。彼の心は、まさしく、混合なきものに作り為され、安立し不動に至り得たものと成り、そして、その〔形態〕の衰失を随観します。たとえ、もし、激しいものとして、耳によって識知されるべき諸々の音声が……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気が……舌によって識知されるべき諸々の味感が……身によって識知されるべき諸々の感触が……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、意の視野にやってくるも、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。彼の心は、まさしく、混合なきものに作り為され、安立し不動に至り得たものと成り、そして、その〔法〕の衰失を随観します。尊き方よ、それは、たとえば、また、洞穴なく、空洞なく、一なる厚き、山の巌のようなものです。そこで、東の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、それを、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。そこで、西の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして……略……。そこで、北の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして……略……。そこで、南の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、それを、まさしく、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもなく、等しく動揺させることもありません。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、このように、正しく心が解脱した比丘に、たとえ、もし、激しいものとして、眼によって識知されるべき諸々の形態が、眼の視野にやってくるも、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。彼の心は、まさしく、混合なきものに作り為され、安立し不動に至り得たものと成り、そして、その〔形態〕の衰失を随観します。たとえ、もし、激しいものとして、耳によって識知されるべき諸々の音声が……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気が……舌によって識知されるべき諸々の味感が……身によって識知されるべき諸々の感触が……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、意の視野にやってくるも、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。彼の心は、まさしく、混合なきものに作り為され、安立し不動に至り得たものと成り、そして、その〔法〕の衰失を随観します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「離欲を信念し、さらに、心の遠離を〔信念し〕、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念し、さらに、執取の滅尽を〔信念し〕──

 

 渇愛の滅尽を信念し、さらに、心の迷妄なき〔あり方〕を〔信念したなら〕──〔認識の〕場所()の生起を〔あるがままに〕見て、〔彼の〕心は、正しく解脱する。

 

 彼には、正しく解脱した寂静心の比丘には、為したことの蓄積は存在せず、為すべきことも見出されない。

 

 たとえば、一なる厚き巌が、風に動じないように、このように、諸々の形態も、諸々の音声も、諸々の臭気も、諸々の味感も、さらに、諸々の感触も、〔それらの〕全部が、〔そのような者の心を動かさない〕。

 

 諸々の好ましい法(意の対象)も、さらに、諸々の好ましくない〔法〕も、そのような者の〔心を〕動かさない。安立し解脱した〔彼の〕心は、そして、その〔法〕の衰失を随観する」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. パッグナの経

 

56. また、まさに、その時点にあって、尊者パッグナは、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者パッグナは、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。尊き方よ、どうか、世尊は、尊者パッグナのいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、尊者パッグナのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者パッグナは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、臥床のなかで〔身体を〕動かしました。そこで、まさに、世尊は、尊者パッグナに、こう言いました。「パッグナよ、十分です。あなたは、臥床のなかで〔身体を〕動かしてはいけません。他の者たちによって設けられた、これらの坐が存します。そこにおいて、わたしは坐りましょう」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者パッグナに、こう言いました。

 

 「パッグナよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、あなたの、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体中の風)が、頭を撹乱します。尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、頭において、諸々の旺盛なる頭痛があります。尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、わたしの腹を切り裂きます。尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。

 

 尊き方よ、それは、たとえば、また、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしの身体において、旺盛なる燃焼があります。尊き方よ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。そこで、まさに、世尊は、尊者パッグナに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、尊者パッグナは、世尊が立ち去ったすぐあと、命を終えました。そして、死の時において、その時点において、彼の諸々の〔感官の〕機能は清まりました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者パッグナは、世尊が立ち去ったすぐあと、命を終えました。そして、死の時において、その時点において、彼の諸々の〔感官の〕機能は清まりました」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、どうして、パッグナ比丘の諸々の〔感官の〕機能が清まらないというのでしょう。アーナンダよ、パッグナ比丘の心は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)から〔いまだ〕解脱していないものとして有りました。その法(教え)の説示を聞いて、彼の心は、五つの下なる域に束縛するものから解脱したのです。

 

 アーナンダよ、六つのものがあります。これらの、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことにおける福利であり、〔正しい〕時に義(意味)を近しく注視することにおける〔福利です〕。どのようなものが、六つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘の心が、五つの下なる域に束縛するものから〔いまだ〕解脱していないものとして有ります。彼は、死の時において、その時点において、如来と会見することを得ます。彼に、如来は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)の説示を聞いて、彼の心は、五つの下なる域に束縛するものから解脱します。アーナンダよ、これは、第一の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことにおける福利です。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘の心が、五つの下なる域に束縛するものから〔いまだ〕解脱していないものとして有ります。彼は、死の時において、その時点において、まさに、如来と会見することを、まさしく、まさに、得ません。しかしながら、また、まさに、如来の弟子と会見することを得ます。彼に、如来の弟子は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)の説示を聞いて、彼の心は、五つの下なる域に束縛するものから解脱します。アーナンダよ、これは、第二の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことにおける福利です。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘の心が、五つの下なる域に束縛するものから〔いまだ〕解脱していないものとして有ります。彼は、死の時において、その時点において、まさに、如来と会見することを、まさしく、まさに、得ません。如来の弟子と会見することもまた、得ません。しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検していると、彼の心は、五つの下なる域に束縛するものから解脱します。アーナンダよ、これは、第三の、〔正しい〕時に義(意味)を近しく注視することにおける福利です。

 

 アーナンダよ、ここに、比丘の心が、五つの下なる域に束縛するものから〔すでに〕解脱したものとして有ります。しかしながら、〔彼の〕心は、まさに、依り所の消滅という無上なるものにおいて〔いまだ〕解脱していないものとして有ります。彼は、死の時において、その時点において、如来と会見することを得ます。彼に、如来は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして……略……梵行を明示します。その法(教え)の説示を聞いて、彼の心は、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱します。アーナンダよ、これは、第四の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことにおける福利です。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘の心が、五つの下なる域に束縛するものから〔すでに〕解脱したものとして有ります。しかしながら、〔彼の〕心は、まさに、依り所の消滅という無上なるものにおいて〔いまだ〕解脱していないものとして有ります。彼は、死の時において、その時点において、まさに、如来と会見することを、まさしく、まさに、得ません。しかしながら、また、まさに、如来の弟子と会見することを得ます。彼に、如来の弟子は、法(教え)を説示します。最初が善きものとして……略……完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)の説示を聞いて、彼の心は、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱します。アーナンダよ、これは、第五の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことにおける福利です。

 

 アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘の心が、五つの下なる域に束縛するものから〔すでに〕解脱したものとして有ります。しかしながら、〔彼の〕心は、まさに、依り所の消滅という無上なるものにおいて〔いまだ〕解脱していないものとして有ります。彼は、死の時において、その時点において、まさに、如来と会見することを、まさしく、まさに、得ません。如来の弟子と会見することもまた、得ません。しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検していると、彼の心は、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱します。アーナンダよ、これは、第六の、〔正しい〕時に義(意味)を近しく注視することにおける福利です。アーナンダよ、まさに、これらの六つの、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことにおける福利があり、〔正しい〕時に義(意味)を近しく注視することにおける〔福利があります〕」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 六つの出生の経

 

57. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、プーラナ・カッサパ(六師外道の一者・道徳否定論者)によって、六つの出生が報知されました──黒の出生が報知され、青の出生が報知され、赤の出生が報知され、黄の出生が報知され、白の出生が報知され、最高の白の出生が報知されました。

 

 尊き方よ、そこで、プーラナ・カッサパによって、この黒の出生が報知されました──屠羊者たちであり、屠豚者たちであり、捕鳥者たちであり、捕鹿者たちであり、猟師たちであり、漁夫たちであり、盗賊たちであり、刑罰執行者たちであり、獄卒たちであり、また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちです。

 

 尊き方よ、そこで、プーラナ・カッサパによって、この青の出生が報知されました──棘ある生活者たる比丘たちであり、また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、行為の論ある者たちであり、作用の論ある者たちです。

 

 尊き方よ、そこで、プーラナ・カッサパによって、この赤の出生が報知されました──一衣の者たるニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちです。

 

 尊き方よ、そこで、プーラナ・カッサパによって、この黄の出生が報知されました──無衣行者の弟子たる白衣の在家者たちです。

 

 尊き方よ、そこで、プーラナ・カッサパによって、この白の出生が報知されました──アージーヴァカ(活命者・邪命外道)たちであり、女性アージーヴァカたちです。

 

 尊き方よ、そこで、プーラナ・カッサパによって、この最高の白の出生が報知されました──ナンダ・ヴァッチャであり、キサ・サンキッチャであり、マッカリ・ゴーサーラです。尊き方よ、プーラナ・カッサパによって、これらの六つの出生が報知されました」と。

 

 「アーナンダよ、また、どうなのでしょう、プーラナ・カッサパの、これらの六つの出生を報知する、この〔言葉〕を、一切の世〔の人々〕は承認しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、それは、たとえば、また、人が、貧しく、所有なく、富裕ならざる者としてあり、彼が欲しないのに、〔人々が〕『さて、人士たる者よ、あなたは、そして、この肉を喰うべきであり、かつまた、代価を支払うべきである』と、肉片を押し付けるようなものです。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、プーラナ・カッサパによって、これらの沙門や婆羅門たちの受諾なく、これらの六つの出生が報知されました──あたかも、それは、明敏ならず田畑を知らず巧みな智なき愚者のように。

 

 アーナンダよ、また、まさに、わたしも、六つの出生を報知します。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、では、どのようなものが、六つの出生なのですか。アーナンダよ、ここに、一部の者は、黒の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出します。アーナンダよ、また、ここに、一部の者は、黒の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出します。アーナンダよ、また、ここに、一部の者は、黒の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。アーナンダよ、また、ここに、一部の者は、白の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出します。アーナンダよ、また、ここに、一部の者は、白の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出します。アーナンダよ、また、ここに、一部の者は、白の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。

 

 アーナンダよ、では、どのように、黒の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出するのですか。アーナンダよ、ここに、一部の者は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラ(賎民)の家に、あるいは、下賎の家に、あるいは、山民の家に、あるいは、車工の家に、あるいは、プックサ(非人)の家に──貧しく、食べ物と飲み物と食料が少なく、生活が困難で、そこにおいては、食糧や衣服が、困難をもって得られます。かつまた、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背で、病苦多く、あるいは、片目の者として、あるいは、手萎えの者として、あるいは、足萎えの者として、あるいは、半身不随の者として、〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者ではなく。彼は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。アーナンダよ、このように、まさに、黒の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出します。

 

 アーナンダよ、では、どのように、黒の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出するのですか。アーナンダよ、ここに、一部の者は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラの家に……略……臥所と住所と灯具の、得者ではなく。彼は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。彼は、身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。アーナンダよ、このように、まさに、黒の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出します。

 

 アーナンダよ、では、どのように、黒の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出するのですか。アーナンダよ、ここに、一部の者は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラの家に……略……。かつまた、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背の者として、〔世に〕有ります。彼は、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、四つの気づきの確立(四念処四念住)において心が善く確立した者となり、七つの(※)覚りの支分(七覚支)を事実のとおりに修めて、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。アーナンダよ、このように、まさに、黒の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。

 

※ テキストには saā とあるが、PTS版により satta と読む。

 

 アーナンダよ、では、どのように、白の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出するのですか。アーナンダよ、ここに、一部の者は、高貴の家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、士族の大家の家に、あるいは、婆羅門の大家の家に、あるいは、家長の大家の家に──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕に。かつまた、彼は、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者として。彼は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。アーナンダよ、このように、まさに、白の出生の者として存しつつ、黒の法(性質)を産出します。

 

 アーナンダよ、では、どのように、黒の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出するのですか。アーナンダよ、ここに、一部の者は、高貴の家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、士族の大家の家に……略……臥所と住所と灯具の、得者として。彼は、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行ないます。身体による善き行ないを行なって、言葉による善き行ないを行なって、意による善き行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。アーナンダよ、このように、まさに、黒の出生の者として存しつつ、白の法(性質)を産出します。

 

 アーナンダよ、では、どのように、白の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出するのですか。アーナンダよ、ここに、一部の者は、高貴の家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、士族の大家の家に、あるいは、婆羅門の大家の家に、あるいは、家長の大家の家に──富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物があり、沢山の金と銀があり、沢山の富と資益物があり、沢山の財産と穀物がある〔家〕に。かつまた、彼は、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者として〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者として。彼は、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、四つの気づきの確立において心が善く確立した者となり、七つの覚りの支分を事実のとおりに修めて、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。アーナンダよ、このように、まさに、白の出生の者として存しつつ、黒でもなく白でもない涅槃を産出します。アーナンダよ、まさに、これらの六つの出生があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 煩悩の経

 

58. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。

 

 どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘にとって、それらが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、統御によって捨棄されたものと成ります。それらが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、受用によって捨棄されたものと成ります。それらが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、耐え忍ぶことによって捨棄されたものと成ります。それらが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、遍く避けることによって捨棄されたものと成ります。それらが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、除去によって捨棄されたものと成ります。それらが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、修行によって捨棄されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのであり、それらは、統御によって捨棄されたものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、眼の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、眼の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、眼の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。根源のままに審慮して〔そののち〕、耳の機能における統御によって……略……鼻の機能における統御によって……舌の機能における統御によって……身の機能における統御によって……意の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、意の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、意の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれ、それらは、統御によって捨棄されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのであり、それらは、受用によって捨棄されたものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、衣料を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。根源のままに審慮して〔そののち〕、〔行乞の〕施食を受用します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と(※)。根源のままに審慮して〔そののち〕、臥坐所を受用します──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて──季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。根源のままに審慮して〔そののち〕、病のための日用品たる薬の必需品を受用します──生起した諸々の病苦の〔苦痛の〕感受の防御のために、加害なき〔あり方〕を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、〔そのように〕受用していないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が受用していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれ、それらは、受用によって捨棄されたものと成ります。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのであり、それらは、耐え忍ぶことによって捨棄されたものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者として〔世に〕有り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、耐え忍んでいないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が耐え忍んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらが、耐え忍ぶことから捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれ、それらは、耐え忍ぶ〔観点〕によって捨棄されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのであり、それらは、遍く避けることによって捨棄されたものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、狂暴な象を遍く避け、狂暴な馬を遍く避け、狂暴な牛を遍く避け、狂暴な犬を──蛇を、木株を、棘の地を、暗坑を、深淵を、どぶ池を、水たまりを──遍く避けます。そのような形態の坐所ならざるところに坐っている者を、そのような形態の托鉢所ならざるところを歩んでいる者を、そのような形態の悪しき朋友たちに親しんでいる者を、梵行を共にする識者たちが、諸々の悪しき境位に位置づけるなら、彼は、そして、その坐所ならざるところを、かつまた、その托鉢所ならざるところを、さらに、それらの悪しき朋友たちを、根源のままに審慮して〔そののち〕、遍く避けます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、遍く避けていないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が遍く避けていると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれ、それらは、遍く避けることによって捨棄されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのであり、それらは、除去によって捨棄されたものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、除去しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が除去していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれ、それらは、除去によって捨棄されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのであり、それらは、修行によって捨棄されたものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、修行しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が修行していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれ、それらは、修行によって捨棄されたものと成ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ダールカンミカの経

 

59. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、ダールカンミカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ダールカンミカ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、さて、いったい、あなたの家で、布施は施されますか」と。「尊き方よ、わたしの家で、布施は施されます。そして、それで、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、林にある者たちであり、〔行乞の〕施食の者たちであり、糞掃衣の者たちであるなら、あるいは、阿羅漢たちであり、あるいは、阿羅漢道に入定した者たちであるなら、尊き方よ、そのような形態の比丘たちにたいし、わたしによって、布施は施されます」と。

 

 「家長よ、まさに、このことは、知り難いことなのです──欲望の享受者たる在家者である、あなたによっては──子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者によっては──『あるいは、これらの者たちは、阿羅漢たちであるのか、あるいは、これらの者たちは、阿羅漢道に入定した者たちであるのか』という、〔このことは〕。

 

 家長よ、もし、また、林にある比丘が、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者として、正知なき者として、〔心が〕定められていない者として、混迷した心の者として、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)として、〔世に〕有るなら、このように、彼は、その支分によって非難されるべきです。家長よ、もし、また、林にある比丘が、〔心が〕高揚せず、傲慢とならず、軽薄ならず、駄弁ならず、言葉が乱れ飛ばず、気づきが現起された者として、正知の者として、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔感官の〕機能が統御された者として、〔世に〕有るなら、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべきです。

 

 家長よ、もし、また、村の外れに住ある比丘が、〔心が〕高揚し……略……このように、彼は、その支分によって非難されるべきです。家長よ、もし、また、村の外れに住ある比丘が、〔心が〕高揚せず……略……このように、彼は、その支分によって賞賛されるべきです。

 

 家長よ、もし、また、〔行乞の〕施食の比丘が、〔心が〕高揚し……略……このように、彼は、その支分によって非難されるべきです。家長よ、もし、また、〔行乞の〕施食の比丘が、〔心が〕高揚せず……略……このように、彼は、その支分によって賞賛されるべきです。

 

 家長よ、もし、また、〔食事に〕招かれる比丘が、〔心が〕高揚し……略……このように、彼は、その支分によって非難されるべきです。家長よ、もし、また、〔食事に〕招かれる比丘が、〔心が〕高揚せず……略……このように、彼は、その支分によって賞賛されるべきです。

 

 家長よ、もし、また、糞掃衣の比丘が、〔心が〕高揚し……略……このように、彼は、その支分によって非難されるべきです。家長よ、もし、また、糞掃衣の比丘が、〔心が〕高揚せず……略……このように、彼は、その支分によって賞賛されるべきです。

 

 家長よ、もし、また、家長の衣料を保持する比丘が、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者として、正知なき者として、〔心が〕定められていない者として、混迷した心の者として、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者として、〔世に〕有るなら、このように、彼は、その支分によって非難されるべきです。家長よ、もし、また、家長の衣料を保持する比丘が、〔心が〕高揚せず、傲慢とならず、軽薄ならず、駄弁ならず、言葉が乱れ飛ばず、気づきが現起された者として、正知の者として、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔感官の〕機能が統御された者として、〔世に〕有るなら、このように、彼は、その支分によって賞賛されるべきです。

 

 家長よ、さあ、あなたは、僧団にたいし、布施を施しなさい。僧団にたいし、あなたが、布施を施していると、心は清信します。〔まさに〕その、あなたは、清信した心の者となり、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう」と。「尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、今日以後、僧団にたいし、布施を施します」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ハッティサーリプッタの経

 

60. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の長老の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集し、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)についての議論を議論します。そこで、まさに、尊者チッタ・ハッティサーリプッタは、長老の比丘たちが高次の法理についての議論を議論しているなか、中途中途で、議論に割り込みます。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者チッタ・ハッティサーリプッタに、こう言いました。「尊者チッタ・ハッティサーリプッタは、長老の比丘たちが高次の法理についての議論を議論しているなか、中途中途で、議論に割り込んではいけません。すなわち、議論の結末まで、尊者チッタは待ちたまえ」と。このように説かれたとき、尊者チッタ・ハッティサーリプッタの道友の比丘たちは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「尊者マハー・コッティカは、尊者チッタ・ハッティサーリプッタを指弾していけません。尊者チッタ・ハッティサーリプッタは、賢者です。そして、尊者チッタ・ハッティサーリプッタは、長老の比丘たちの高次の法理についての議論を議論することができます」と。

 

 「友よ、まさに、このことは、知り難いことなのです──他者の心の様態を知らずにいる者たちによっては。(1)友よ、ここに、一部の人は、すなわち、教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住むかぎり、まさしく、それまでは、温和なるうえにも温和なる者として〔世に〕有り、謙譲なるうえにも謙譲なる者として〔世に〕有り、寂静なるうえにも寂静なる者として〔世に〕有ります。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、まさしく、教師から離住することから、導師の地位にあり梵行を共にする者たちから離住することから、彼は、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちと交わる者として〔世に〕住みます。彼が、〔それらの者たちと〕交わる者となり、〔それらの者たちと〕親しい者となり、〔本能の〕現じ顕われるままの者となり、談義に専念する者となり、〔世に〕住んでいると、貪欲〔の思い〕が、心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします(還俗する)。

 

 友よ、それは、たとえば、また、あるいは、縄で結縛され、あるいは、牛舎に閉じ込められた、耕作物を食べる牛のようなものです。友よ、いったい、まさに、或る者が、『今や、この耕作物を食べる牛は、まさしく、ふたたび、耕作物に入り込むことはないであろう』と、このように説くなら、友よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その耕作物を食べる牛が、あるいは、縄を断ち切って、あるいは、牛舎を破壊して、そこで、まさしく、ふたたび、耕作物に入り込むであろう、という、〔このことは〕。友よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、すなわち、教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住むかぎり、それまでは、温和なるうえにも温和なる者として〔世に〕有り、謙譲なるうえにも謙譲なる者として〔世に〕有り、寂静なるうえにも寂静なる者として〔世に〕有ります。しかしながら、すなわち、まさに、彼が、まさしく、教師から離住することから、導師の地位にあり梵行を共にする者たちから離住することから、彼は、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちと交わる者として〔世に〕住みます。彼が、〔それらの者たちと〕交わる者となり、〔それらの者たちと〕親しい者となり、〔本能の〕現じ顕われるままの者となり、談義に専念する者となり、〔世に〕住んでいると、貪欲〔の思い〕が、心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。

 

 (2)友よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第一の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちと……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。友よ、それは、たとえば、また、大きな四つ辻において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、塵を消没させ、泥地を出現させるようなものです。友よ、いったい、まさに、或る者が、『今や、この大きな四つ辻において、まさしく、ふたたび、塵が出現することはないであろう』と、このように説くなら、友よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、この大きな四つ辻において、あるいは、人間たちが過ぎ行き、あるいは、家畜の牛たちが過ぎ行き、あるいは、熱風が潤いを具したものを完全に取り払い、そこで、まさしく、ふたたび、塵が出現するであろう、という、〔このことは〕。友よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第一の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。

 

 (3)友よ、また、ここに、一部の人は、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第二の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、大いなる沼があり、そこにおいて、土砂降りとなり、天が雨を降らせたなら、牡蠣や貝をもまた、砂礫や小石をもまた、消没させるようなものです。友よ、いったい、まさに、或る者が、『今や、この沼において、まさしく、ふたたび、あるいは、牡蠣や貝が、あるいは、砂礫や小石が、出現することはないであろう』と、このように説くなら、友よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、この沼において、あるいは、人間たちが〔水を〕飲み、あるいは、家畜の牛たちが〔水を〕飲み、あるいは、熱風が潤いを具したものを完全に取り払い、そこで、まさしく、ふたたび、牡蠣や貝もまた、砂礫や小石もまた、出現するであろう、という、〔このことは〕。友よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第二の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。

 

 (4)友よ、また、ここに、一部の人は、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第三の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。友よ、それは、たとえば、また、精妙なる食料を食べた人を、昨夜の食料が喜ばせないようなものです。友よ、いったい、まさに、或る者が、『今や、この人を、まさしく、ふたたび、食料が喜ばせることはないであろう』と、このように説くなら、友よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、この状況は見出されます。この精妙なる食料を食べた人を、すなわち、彼の身体において、その滋養が止住しているかぎり、それまでは、他の食料が喜ばすことはないであろうが、しかしながら、すなわち、まさに、彼の身体において、その滋養が消没することから、そこで、まさしく、ふたたび、その食料が喜ばせるであろう、という、〔このことは〕。友よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第三の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。

 

 (5)友よ、また、ここに、一部の人は、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第四の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。友よ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、無風にして波が立たない湖水のようなものです。友よ、いったい、まさに、或る者が、『今や、この湖水において、まさしく、ふたたび、波が出現することはないであろう』と、このように説くなら、友よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、東の方角から、激しい風雨がやってくるなら、その〔風雨〕は、その湖水において、波を生じさせであろうし、すなわち、西の方角から、激しい風雨がやってくるなら……略……すなわち、北の方角から、激しい風雨がやってくるなら……すなわち、南の方角から、激しい風雨がやってくるなら、その〔風雨〕は、その湖水において、波を生じさせであろう、という、〔このことは〕。友よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕第四の瞑想の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや……略……交わる者として〔世に〕住みます。……略……学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。

 

 (6)友よ、また、ここに、一部の人は、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕無相なる〔止寂の〕心の禅定の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちと交わる者として〔世に〕住みます。彼が、〔それらの者たちと〕交わる者となり、〔それらの者たちと〕親しい者となり、〔本能の〕現じ顕われるままの者となり、談義に専念する者となり、〔世に〕住んでいると、貪欲〔の思い〕が、心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、王が、あるいは、王の大臣が、四つの支分ある軍団とともに、旅の道を行き、或るどこかの密林において、一夜の住に入り、そこで、象の音声によって、馬の音声によって、車の音声によって、歩兵の音声によって、諸々の太鼓や小鼓や法螺貝や鐘鼓の鳴り響く音声によって、蟋蟀(こおろぎ)の音声が消没するようなものです。友よ、いったい、まさに、或る者が、『今や、この密林において、まさしく、ふたたび、蟋蟀の音声が出現することはないであろう』と、このように説くなら、友よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説いていますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「友よ、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その、あるいは、王が、あるいは、王の大臣が、その密林から立ち去るなら、そこで、まさしく、ふたたび、蟋蟀の音声が出現するであろう、という、〔このことは〕。友よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定を成就して〔世に〕住みます。彼は、『〔わたしは〕無相なる〔止寂の〕心の禅定の得者として〔世に〕存している』と、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちと交わる者として〔世に〕住みます。彼が、〔それらの者たちと〕交わる者となり、〔それらの者たちと〕親しい者となり、〔本能の〕現じ顕われるままの者となり、談義に専念する者となり、〔世に〕住んでいると、貪欲〔の思い〕が、心を転落させます。彼は、貪欲〔の思い〕で転落した心によって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします」と。

 

 そこで、まさに、尊者チッタ・ハッティサーリプッタは、他時にあって、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします。そこで、まさに、チッタ・ハッティサーリプッタの道友の比丘たちは、尊者マハー・コッティカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「いったい、まさに、どうなのでしょう、チッタ・ハッティサーリプッタは、尊者マハー・コッティカによって、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られたのですか。『チッタ・ハッティサーリプッタは、そして、これらの〔住と入定の〕、さらに、これらの住と入定の、得者なるも、そこで、また、しかしながら、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう』と。それとも、天神たちが、この義(意味)を告げたのですか。『チッタ・ハッティサーリプッタは、そして、これらの〔住と入定の〕、さらに、これらの住と入定の、得者なるも、そこで、また、しかしながら、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう』」と。「友よ、わたしによって、心をとおして、心を探知して、〔このように〕知られました。『チッタ・ハッティサーリプッタは、そして、これらの〔住と入定の〕、さらに、これらの住と入定の、得者なるも、そこで、また、しかしながら、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう』と。天神たちもまた、わたしに、この義(意味)を告げました。『チッタ・ハッティサーリプッタは、そして、これらの〔住と入定の〕、さらに、これらの住と入定の、得者なるも、そこで、また、しかしながら、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするであろう』」と。

 

 そこで、まさに、チッタ・ハッティサーリプッタの道友の比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、チッタ・ハッティサーリプッタは、そして、これらの〔住と入定の〕、さらに、これらの住と入定の、得者なるも、そこで、また、しかしながら、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします」と。「比丘たちよ、長からずして、チッタは、離欲を思い出すでしょう」と。

 

 そこで、まさに、チッタ・ハッティサーリプッタは、まさしく、長からずして、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。そこで、まさに、尊者チッタ・ハッティサーリプッタは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者チッタ・ハッティサーリプッタは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「中間において」の経

 

61. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。また、まさに、その時点にあって、大勢の長老の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、円形堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「友よ、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』(スッタニパータ第五章)におけるメッテイヤの問いにおいて、世尊によって説かれました。

 

 〔すなわち〕『彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されない。彼を、「偉大なる人士である」と、〔わたしは〕説く。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行った』と。

 

 友よ、いったい、まさに、どのようなものが、一つの極であり、どのようなものが、第二の極であり、何が、中間においてあり、何が、貪愛なのですか」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、接触()が、一つの極であり、接触の集起が、第二の極であり、接触の止滅が、中間においてあり、渇愛()が、貪愛です。なぜなら、渇愛が、彼を縫い合わせるからです──まさしく、その〔生存〕その生存の、発現あるために。友よ、これだけで、まさに、比丘は、証知するべきものを証知し、遍知するべきものを遍知し、証知するべきものを証知しながら、遍知するべきものを遍知しながら、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、過去が、一つの極であり、未来が、第二の極であり、現在が、中間においてあり、渇愛が、貪愛です。なぜなら、渇愛が、彼を縫い合わせるからです──まさしく、その〔生存〕その生存の、発現あるために。友よ、これだけで、まさに、比丘は、証知するべきものを証知し、遍知するべきものを遍知し、証知するべきものを証知しながら、遍知するべきものを遍知しながら、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、安楽の感受(楽受)が、一つの極であり、苦痛の感受(苦受)が、第二の極であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)が、中間においてあり、渇愛が、貪愛です。なぜなら、渇愛が、彼を縫い合わせるからです──まさしく、その〔生存〕その生存の、発現あるために。友よ、これだけで、まさに、比丘は、証知するべきものを証知し、遍知するべきものを遍知し、証知するべきものを証知しながら、遍知するべきものを遍知しながら、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、名前()が、一つの極であり、形態()が、第二の極であり、識知〔作用〕()が、中間においてあり、渇愛が、貪愛です。なぜなら、渇愛が、彼を縫い合わせるからです──まさしく、その〔生存〕その生存の、発現あるために。友よ、これだけで、まさに、比丘は、証知するべきものを証知し、遍知するべきものを遍知し、証知するべきものを証知しながら、遍知するべきものを遍知しながら、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)が、一つの極であり、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)が、第二の極であり、識知〔作用〕が、中間においてあり、渇愛が、貪愛です。なぜなら、渇愛が、彼を縫い合わせるからです──まさしく、その〔生存〕その生存の、発現あるために。友よ、これだけで、まさに、比丘は、証知するべきものを証知し、遍知するべきものを遍知し、証知するべきものを証知しながら、遍知するべきものを遍知しながら、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、身体を有すること(有身)が、一つの極であり、身体を有することの集起が、第二の極であり、身体を有することの止滅が、中間においてあり、渇愛が、貪愛です。なぜなら、渇愛が、彼を縫い合わせるからです──まさしく、その〔生存〕その生存の、発現あるために。友よ、これだけで、まさに、比丘は、証知するべきものを証知し、遍知するべきものを遍知し、証知するべきものを証知しながら、遍知するべきものを遍知しながら、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります」と。

 

 このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、長老の比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。友よ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、長老の比丘たちは、その比丘に答えました。そこで、まさに、長老の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの長老の比丘たちは、すなわち、まさしく、全ての者たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。「尊き方よ、いったい、まさに、誰の〔言葉が〕、見事に語られたのですか」と。「比丘たちよ、あなたたちの全ての者たちの〔言葉が〕、見事に語られました。そして、また、すなわち、『彼岸に至るもの』におけるメッテイヤの問いにおいて、わたしによって語られたものに関して。

 

 〔すなわち〕『彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されない。彼を、「偉大なる人士である」と、〔わたしは〕説く。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行った』と。

 

 それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、まさに、接触は、一つの極であり、接触の集起は、第二の極であり、接触の止滅は、中間においてあり、渇愛は、貪愛です。なぜなら、渇愛は、彼を縫い合わせるからです──まさしく、その〔生存〕その生存の、発現あるために。比丘たちよ、これだけで、まさに、比丘は、証知するべきものを証知し、遍知するべきものを遍知し、証知するべきものを証知しながら、遍知するべきものを遍知しながら、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 人の機能についての知恵の経

 

62. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ダンダカッパカという名のコーサラ〔国〕の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの木の根元に設けられた坐に坐りました。そして、それらの比丘たちは、ダンダカッパカ〔村〕に入りました──居住所を遍く探し求めるために。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、大勢の比丘たちと共に、アチラヴァティー川のあるところに、そこへと近づいて行きました──五体を洗い流すために。アチラヴァティー川において、五体を洗い流して、一衣の者となり、〔その場に〕立ちました──五体を乾かしながら。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、心の全てをもって集中して、いったい、まさに、デーヴァダッタは、世尊によって授記されたのですか。『デーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ〔地獄に〕止住する者であり(一劫のあいだ地獄に住む)、治癒なき者である』と。それとも、何らかの或る教相によってですか」と。「友よ、また、まさに、このように、このことはあり、世尊によって授記されたのです」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、わたしは、大勢の比丘たちと共に、アチラヴァティー川のあるところに、そこへと近づいて行きました──五体を洗い流すために。アチラヴァティー川において、五体を洗い流して、一衣の者となり、〔その場に〕立ちました──五体を乾かしながら。尊き方よ、そこで、まさに、或るひとりの比丘が、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしに、こう言いました。『友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、心の全てをもって集中して、いったい、まさに、デーヴァダッタは、世尊によって授記されたのですか。「デーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者である」と。それとも、何らかの或る教相によってですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、その比丘に、こう言いました。『友よ、また、まさに、このように、このことはあり、世尊によって授記されたのです』」と。

 

 「アーナンダよ、あるいは、まさに、その比丘は、新参者であり、出家したばかりであるか、また、あるいは、愚者にして明敏ならざる長老であるか、〔そのような者として〕有るのでしょう。まさに、どうして、まさに、すなわち、わたしによって、一定して授記されたものが、そこにおいて、二様に惹起するというのでしょう。アーナンダよ、わたしは、すなわち、このように、心をもって、全てに集中して、わたしによって授記された者として、〔これより〕他に、一者の人でさえも、等しく随観することがありません。すなわち、この、デーヴァダッタです。アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、デーヴァダッタに、たとえ、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、白の法(性質)を見たなら、それだけで、わたしは、デーヴァダッタのことを、『デーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者である』と授記することは、まさしく、ありませんでした。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、デーヴァダッタに、たとえ、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、白の法(性質)を見なかったことから、そこで、わたしは、デーヴァダッタのことを、『デーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者である』と授記したのです。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、糞坑があり、人〔の高さ〕を優に超え、縁(ふち)まで一杯に糞で満ちているとします。そこに、頭に至るまで潜っている人が存在し、誰かしらの或る者が、彼の、義(利益)を欲し、益を欲し、束縛からの平安を欲し、その糞坑から引き上げることを欲する者として現われるとします。彼は、その糞坑を遍きにわたり歩き回りながら、その人に、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、糞にまみれていないところを、まさしく、見ません──そこにおいて、彼を掴んで、引き上げようとしても。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、わたしが、デーヴァダッタに、たとえ、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、白の法(性質)を見なかったことから、そこで、わたしは、デーヴァダッタのことを、『デーヴァダッタは、悪所にある者であり、地獄にある者であり、カッパのあいだ〔地獄に〕止住する者であり、治癒なき者である』と授記したのです。アーナンダよ、それで、もし、あなたたちが聞くであろうなら、如来の、諸々の人の機能についての知恵を、〔わたしは〕区分するでしょう」と。

 

 「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、諸々の人の機能についての知恵を区分するなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「(1)アーナンダよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)が消没し、諸々の善ならざる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善なるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在し、その善なるもの〔の根元〕から、彼に善なるものが出現するであろう。このように、この人は、未来に、遍き衰退とならない法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、それは、たとえば、また、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、諸々の未熟の種が、善き田畑において、完全無欠の行為が為された地面に置かれたとします。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『これらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)が消没し、諸々の善ならざる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善なるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在し、その善なるもの〔の根元〕から、彼に善なるものが出現するであろう。このように、この人は、未来に、遍き衰退とならない法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人士たる人は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人の機能についての知恵は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、未来における法(性質)の集起は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。

 

 (2)アーナンダよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善ならざる法(性質)が消没し、諸々の善なる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善ならざるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在し、その善ならざるもの〔の根元〕から、彼に善ならざるものが出現するであろう。このように、この人は、未来に、遍き衰退となる法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、それは、たとえば、また、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、諸々の未熟の種が、広々とした岩盤のうえに置かれたとします。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『これらの種は、増大を〔惹起しないであろうし〕、成長を〔惹起しないであろうし〕、広大を惹起しないであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善ならざる法(性質)が消没し、諸々の善なる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善ならざるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在し、その善ならざるもの〔の根元〕から、彼に善ならざるものが出現するであろう。このように、この人は、未来に、遍き衰退となる法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人士たる人は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人の機能についての知恵は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、未来における法(性質)の集起は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。

 

 (3)アーナンダよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『この人には、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、白の法(性質)は存在しない。諸々の絶対的に黒にして善ならざる法(性質)を具備した者として、この人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう』と。アーナンダよ、それは、たとえば、また、破断し、腐敗し、熱風に打破された、諸々の種が、善き田畑において、完全無欠の行為が為された地面に置かれたとします。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『これらの種は、増大を〔惹起しないであろうし〕、成長を〔惹起しないであろうし〕、広大を惹起しないであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『この人には、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、白の法(性質)は存在しない。諸々の絶対的に黒にして善ならざる法(性質)を具備した者として、この人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人士たる人は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人の機能についての知恵は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、未来における法(性質)の集起は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、これらの三つの人たちの他にもまた、三つの人たちを、相似を有するものとして報知することができますか」と。「アーナンダよ、できます」と、世尊は言いました。(4)アーナンダよ、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)が消没し、諸々の善ならざる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善なるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在するも、それもまた、全てもろともに、全てが根絶に赴く。このように、この人は、未来に、遍き衰退となる法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、それは、たとえば、また、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、諸々の炭が、広々とした岩盤のうえに置かれたとします。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『これらの炭は、増大を〔惹起しないであろうし〕、成長を〔惹起しないであろうし〕、広大を惹起しないであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、また、あるいは、それは、たとえば、また、夕刻時に、太陽が沈み行くときのようなものです。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『光明が消没するであろうし、暗黒が出現するであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、また、あるいは、それは、たとえば、また、夜半近く、食事時の時分におけるようなものです。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『光明は消没し、暗黒が出現している』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)が消没し、諸々の善ならざる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善なるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在するも、それもまた、全てもろともに、全てが根絶に赴く。このように、この人は、未来に、遍き衰退となる法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人士たる人は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人の機能についての知恵は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、未来における法(性質)の集起は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。

 

 (5)アーナンダよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善ならざる法(性質)が消没し、諸々の善なる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善ならざるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在するも、それもまた、全てもろともに、全てが根絶に赴く。このように、この人は、未来に、遍き衰退とならない法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、それは、たとえば、また、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、諸々の炭が、乾いた、あるいは、草の堆積のうえに、あるいは、薪の堆積のうえに、置かれたとします。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『これらの炭は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、また、あるいは、それは、たとえば、また、夜明けの早朝に、太陽が昇り行くときのようなものです。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『暗黒が消没するであろうし、光明が出現するであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、また、あるいは、それは、たとえば、また、正午近く、食事時の時分におけるようなものです。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『暗黒は消没し、光明が出現している』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善ならざる法(性質)が消没し、諸々の善なる法(性質)が面前の状態にある。そして、まさに、彼の善ならざるものの根元は〔いまだ〕断絶されずに存在するも、それもまた、全てもろともに、全てが根絶に赴く。このように、この人は、未来に、遍き衰退とならない法(性質)ある者と成るであろう』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人士たる人は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人の機能についての知恵は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、未来における法(性質)の集起は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。

 

 (6)アーナンダよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『この人には、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、善ならざる法(性質)は存在しない。諸々の絶対的に白にして罪過なき法(性質)を具備した者として、この人は、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するであろう』と。アーナンダよ、それは、たとえば、また、冷たく、消えた、諸々の炭が、乾いた、あるいは、草の堆積のうえに、あるいは、薪の堆積のうえに、置かれたとします。アーナンダよ、あなたは知るでしょうか。『これらの炭は、増大を〔惹起しないであろうし〕、成長を〔惹起しないであろうし〕、広大を惹起しないであろう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『まさに、この人には、諸々の善なる法(性質)もまた見出され、諸々の善ならざる法(性質)もまた〔見出される〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、他時にあって、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『この人には、毛の先端を突き刺すほどのものであれ、善ならざる法(性質)は存在しない。諸々の絶対的に白にして罪過なき法(性質)を具備した者として、この人は、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するであろう』と。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人士たる人は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、人の機能についての知恵は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。アーナンダよ、このようにもまた、まさに、如来にとって、未来における法(性質)の集起は、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、見出されたものと成ります。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの前の三つの人たちですが、それらの三つの人たちのなか、一者は遍き衰退とならない法(性質)ある者であり、一者は遍き衰退となる法(性質)ある者であり、一者は悪所にある者であり、地獄にある者です。アーナンダよ、そこで、すなわち、これらの後の三つの人たちですが、これらの三つの人たちのなか、一者は遍き衰退となる法(性質)ある者であり、一者は遍き衰退とならない法(性質)ある者であり、一者は完全なる涅槃の法(性質)ある者です」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 洞察の経

 

63. 「比丘たちよ、洞察(決択)の教相を、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、その、洞察の教相であり、法(教え)の教相なのですか。(1)比丘たちよ、諸々の欲望が知られるべきであり、諸々の欲望の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の欲望の相違性が知られるべきであり、諸々の欲望の報い(異熟)が知られるべきであり、欲望の止滅が知られるべきであり、欲望の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。

 

 (2)比丘たちよ、感受()が知られるべきであり、諸々の感受の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の感受の相違性が知られるべきであり、諸々の感受の報いが知られるべきであり、感受の止滅が知られるべきであり、感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。

 

 (3)比丘たちよ、表象()が知られるべきであり、諸々の表象の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の表象の相違性が知られるべきであり、諸々の表象の報いが知られるべきであり、表象の止滅が知られるべきであり、表象の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。

 

 (4)比丘たちよ、諸々の煩悩()が知られるべきであり、諸々の煩悩の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の煩悩の相違性が知られるべきであり、諸々の煩悩の報いが知られるべきであり、煩悩の止滅が知られるべきであり、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。

 

 (5)比丘たちよ、行為()が知られるべきであり、諸々の行為の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の行為の相違性が知られるべきであり、諸々の行為の報いが知られるべきであり、行為の止滅が知られるべきであり、行為の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。

 

 (6)比丘たちよ、苦しみが知られるべきであり、苦しみの因縁と発生が知られるべきであり、苦しみの相違性が知られるべきであり、苦しみの報いが知られるべきであり、苦しみの止滅が知られるべきであり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。

 

 (1)『比丘たちよ、諸々の欲望が知られるべきであり、諸々の欲望の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の欲望の相違性が知られるべきであり、諸々の欲望の報いが知られるべきであり、欲望の止滅が知られるべきであり、欲望の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲)です。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、そして、また、まさに、これらのものは、欲望ではなく、これらのものは、まさに、欲望の属性と、聖者の律において説かれます。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『妄想の貪欲が、人にとって、欲望〔の対象〕となる。すなわち、世における諸々の彩りあざやかなものは、それらは、欲望〔の対象〕ではない。妄想の貪欲が、人にとって、欲望〔の対象〕となる。世における諸々の彩りあざやかなものは、まさしく、そのとおりに、〔妄想のままに〕止住する。そこで、ここにおいて、慧者たちは、欲〔の思い〕を取り除く』と。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の欲望の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触()は、諸々の欲望の因縁と発生です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の欲望の相違性なのですか。比丘たちよ、他なるものとして、諸々の形態にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の音声にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の臭気にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の味感にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の感触にたいする欲望があります。比丘たちよ、これは、諸々の欲望の相違性と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の欲望の報いなのですか。比丘たちよ、まさに、それを欲しているなら、それに応じるもの、それに応じるものを、自己状態として発現させます──あるいは、功徳を部分とするものとして、あるいは、功徳ならざるものを部分とするものとして。比丘たちよ、これは、諸々の欲望の報いと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、欲望の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、欲望の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、欲望の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の欲望を覚知し、このように、諸々の欲望の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の欲望の相違性を覚知し、このように、諸々の欲望の報いを覚知し、このように、欲望の止滅を覚知し、このように、欲望の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、欲望の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、諸々の欲望が知られるべきであり……略……欲望の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (2)『比丘たちよ、諸々の感受が知られるべきであり……略……感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の感受の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触は、諸々の感受の因縁と発生です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の感受の相違性なのですか。比丘たちよ、財貨を有する財貨を有するもの(世俗のもの)である、安楽の感受が存在し、財貨なきもの(非俗のもの)である、安楽の感受が存在します。比丘たちよ、財貨を有するものである、苦痛の感受が存在し、財貨なきものである、苦痛の感受が存在します。比丘たちよ、財貨を有するものである、苦でもなく楽でもない感受の感受が存在し、財貨なきものである、苦でもなく楽でもない感受の感受が存在します。比丘たちよ、これは、諸々の感受の相違性と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の感受の報いなのですか。比丘たちよ、まさに、それを感受しているなら、それに応じるもの、それに応じるものを、自己状態として発現させます──あるいは、功徳を部分とするものとして、あるいは、功徳ならざるものを部分とするものとして。比丘たちよ、これは、諸々の感受の報いと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、感受の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、感受の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、感受を覚知し、このように、諸々の感受の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の感受の相違性を覚知し、このように、諸々の感受の報いを覚知し、このように、感受の止滅を覚知し、このように、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、感受の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、感受が知られるべきであり……略……感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (3)『比丘たちよ、表象が知られるべきであり……略……感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、六つのものがあります。これらの表象です。形態の表象であり、音声の表象であり、臭気の表象であり、味感の表象であり、感触の表象であり、法(意の対象)の表象です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の表象の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触は、諸々の表象の因縁と発生です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の表象の相違性なのですか。比丘たちよ、他なるものとして、諸々の形態にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の音声にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の臭気にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の味感にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の感触にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の法(意の対象)にたいする欲望があります。比丘たちよ、これは、諸々の表象の相違性と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の表象の報いなのですか。比丘たちよ、わたしは、語用という報いあるものを(※)、表象と説きます。そのとおり、そのとおりに、それを表象するなら、そのとおり、そのとおりに、語用します──『〔わたしは〕このような表象ある者と成った』と。比丘たちよ、これは、諸々の表象の報いと説かれます。

 

※ テキストには Vohāravepakkaṃ とあるが、PTS版により Vohāravepakkāhaṃ と読む。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、表象の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、表象の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、表象の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、表象を覚知し、このように、諸々の表象の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の表象の相違性を覚知し、このように、諸々の表象の報いを覚知し、このように、表象の止滅を覚知し、このように、表象の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、表象の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、表象が知られるべきであり……略……表象の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (4)『比丘たちよ、諸々の煩悩が知られるべきであり……略……煩悩の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、これらの三つの煩悩があります。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の煩悩の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、無明は、諸々の煩悩の因縁と発生です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の煩悩の相違性なのですか。比丘たちよ、地獄に赴くべき諸々の煩悩が存在し、畜生の胎に赴くべき諸々の煩悩が存在し、餓鬼の境域に赴くべき諸々の煩悩が存在し、人間の世に赴くべき諸々の煩悩が存在し、天の世に赴くべき諸々の煩悩が存在します。比丘たちよ、これは、諸々の煩悩の相違性と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の煩悩の報いなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、無明を具した者は、それに応じるもの、それに応じるものを、自己状態として発現させます──あるいは、功徳を部分とするものとして、あるいは、功徳ならざるものを部分とするものとして。比丘たちよ、これは、諸々の煩悩の報いと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩の止滅なのですか。比丘たちよ、無明の止滅は、煩悩の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の煩悩を覚知し、このように、諸々の煩悩の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の煩悩の相違性を覚知し、このように、諸々の煩悩の報いを覚知し、このように、諸々の煩悩の止滅を覚知し、このように、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、表象の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、諸々の煩悩が知られるべきであり……略……煩悩の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (5)『比丘たちよ、行為が知られるべきであり……略……行為の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、わたしは、思欲(:心の思い・意志)を、行為と説きます。〔人は〕思欲して、行為を為します──身体によって、言葉によって、意によって。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の行為の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触は、諸々の行為の因縁と発生です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の行為の相違性なのですか。比丘たちよ、地獄として感受されるべき行為が存在し、畜生の胎として感受されるべき行為が存在し、餓鬼の境域として感受されるべき行為が存在し、人間の世として感受されるべき行為が存在し、天の世として感受されるべき行為が存在します。比丘たちよ、これは、諸々の行為の相違性と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の行為の報いなのですか。比丘たちよ、わたしは、三種類のものを、諸々の行為の報いと説きます──まさしく、所見の法(現世)において、あるいは、再生において、あるいは、他の時機において。比丘たちよ、これは、諸々の行為の報いと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、行為の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、行為の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、表象の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、行為を覚知し、このように、諸々の行為の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の行為の相違性を覚知し、このように、諸々の行為の報いを覚知し、このように、行為の止滅を覚知し、このように、行為の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、行為の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、行為が知られるべきであり……略……行為の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 (6)『比丘たちよ、苦しみが知られるべきであり、苦しみの因縁と発生が知られるべきであり、苦しみの相違性が知られるべきであり、苦しみの報いが知られるべきであり、苦しみの止滅が知られるべきであり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。病もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの因縁と発生なのですか。比丘たちよ、渇愛は、苦しみの因縁と発生です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの相違性なのですか。比丘たちよ、旺盛なる苦しみが存在し、微小なる〔苦しみ〕が存在し、遅き離貪ある〔苦しみ〕が存在し、速き離貪ある〔苦しみ〕が存在します。比丘たちよ、これは、苦しみの相違性と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの報いなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、すなわち、苦しみに征服され、心が完全に奪い去られ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。また、あるいは、すなわち、苦しみに征服され、心が完全に奪い去られ、外に、遍き探し求めを惹起します。『この苦しみの止滅のための、一つの句を、二つの句を、誰が知るのか』と。比丘たちよ、わたしは、あるいは、等しき迷妄という報いあるものを、あるいは、遍き探し求めという報いあるものを、苦しみと説きます。比丘たちよ、これは、苦しみの報いと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅なのですか。比丘たちよ、渇愛の止滅は、苦しみの止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、苦しみを覚知し、このように、苦しみの因縁と発生を覚知し、このように、苦しみの相違性を覚知し、このように、苦しみの報いを覚知し、このように、苦しみの止滅を覚知し、このように、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、苦しみの止滅を、覚知します。『比丘たちよ、苦しみが知られるべきであり、苦しみの因縁と発生が知られるべきであり、苦しみの相違性が知られるべきであり、苦しみの報いが知られるべきであり、苦しみの止滅が知られるべきであり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 比丘たちよ、これは、まさに、その、洞察の教相であり、法(教え)の教相です」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 獅子吼の経

 

64. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの、如来にとって、如来の力となるものです。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、如来は、そして、状況あること(道理あること)を状況あることとして、さらに、状況なきこと(道理なきこと)を状況なきこととして、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、すなわち、また、如来が、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、これもまた、如来にとって、如来の力として有ります。その力に由来して、如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。比丘たちよ、まさに、これらの六つの、如来にとって、如来の力となるものがあります。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。比丘たちよ、まさに、これらの六つの、如来にとって、如来の力となるものがあります。それらの力を具備した如来は、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来に、近づいて行って、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねるとします。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、如来に、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに〔覚知する〕知恵が見出されたなら、そのとおり、そのとおりに、彼らに、如来は、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねられた者として説き明かします。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来に、近づいて行って、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねるとします。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、如来に、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに〔覚知する〕知恵が見出されたなら、そのとおり、そのとおりに、彼らに、如来は、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねられた者として説き明かします。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来に、近づいて行って、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねるとします。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、如来に、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵が見出されたなら、そのとおり、そのとおりに、彼らに、如来は、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねられた者として説き明かします。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来に、近づいて行って、過去における居住の随念を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねるとします。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、如来に、過去における居住の随念を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵が見出されたなら、そのとおり、そのとおりに、彼らに、如来は、過去における居住の随念を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねられた者として説き明かします。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来に、近づいて行って、有情たちの死滅と再生を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねるとします。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、如来に、有情たちの死滅と再生を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵が見出されたなら、そのとおり、そのとおりに、彼らに、如来は、有情たちの死滅と再生を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねられた者として説き明かします。

 

 比丘たちよ、そこで、もし、他者たちが、如来に、近づいて行って、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねるとします。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、如来に、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……事実のとおりに〔覚知する〕知恵が見出されたなら、そのとおり、そのとおりに、彼らに、如来は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……事実のとおりに〔覚知する〕知恵〔の観点〕によって、問いを尋ねられた者として説き明かします。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、また、この、そして、状況あることを状況あることとして、さらに、状況なきことを状況なきこととして、事実のとおりに〔覚知する〕知恵ですが、それもまた、〔心が〕定められた者にあると、〔わたしは〕説きます──〔心が〕定められていない者に、ではなく。すなわち、また、この、過去と未来と現在の諸々の行為の受持の報いを、状況〔の観点〕から、因〔の観点〕から、事実のとおりに〔覚知する〕知恵ですが、それもまた、〔心が〕定められた者にあると、〔わたしは〕説きます──〔心が〕定められていない者に、ではなく。すなわち、また、この、瞑想と解脱と禅定と入定の汚染と浄化と出起を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵ですが、それもまた、〔心が〕定められた者にあると、〔わたしは〕説きます──〔心が〕定められていない者に、ではなく。すなわち、また、この、過去における居住の随念を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵ですが、それもまた、〔心が〕定められた者にあると、〔わたしは〕説きます──〔心が〕定められていない者に、ではなく。すなわち、また、この、有情たちの死滅と再生を、事実のとおりに〔覚知する〕知恵ですが、それもまた、〔心が〕定められた者にあると、〔わたしは〕説きます──〔心が〕定められていない者に、ではなく。すなわち、また、この、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……事実のとおりに〔覚知する〕知恵ですが、それもまた、〔心が〕定められた者にあると、〔わたしは〕説きます──〔心が〕定められていない者に、ではなく。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、禅定は、道となり、禅定なきものは、邪道となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「ソーナ、パッグナ、出生、煩悩、そして、ダール〔カンミカ〕とハッティ〔サーリプッタ〕、『中間において』があり、知恵、洞察、獅子吼があり、ということで、それらの十がある」と。

 

7. 天神の章

 

1. 不還果の経

 

65. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、不還果を実証することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。信なき〔生き方〕であり、恥〔の思い〕なき〔生き方〕であり、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕であり、怠惰であり、気づきの忘却であり、智慧浅きことです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、不還果を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、不還果を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。信なき〔生き方〕であり、恥〔の思い〕なき〔生き方〕であり、〔良心の〕咎めなき〔生き方〕であり、怠惰であり、気づきの忘却であり、智慧浅きことです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、不還果を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 阿羅漢の資質の経

 

66. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。〔心の〕沈滞であり、眠気であり、〔心の〕高揚であり、悔恨であり、信なき〔生き方〕であり、放逸です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。〔心の〕沈滞であり、眠気であり、〔心の〕高揚であり、悔恨であり、信なき〔生き方〕であり、放逸です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 朋友の経

 

67. 「比丘たちよ、その比丘が、まさに、(1)悪しき朋友ある者であり、悪しき道友ある者であり、悪しき友人ある者であり、悪しき朋友たちに慣れ親しみ、親近し、奉侍しつつ、そして、彼らに随従する見解を惹起しながら、卓越の正行たる法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。(2)卓越の正行たる法(性質)を円満成就させずして、〔いまだ〕学びある者の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。(3)〔いまだ〕学びある者の法(性質)を円満成就させずして、諸戒を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。(4)諸戒を円満成就させずして、あるいは、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を、(5)あるいは、形態()にたいする貪り〔の思い〕を、(6)あるいは、形態なきもの(無色)にたいする貪り〔の思い〕を、捨棄するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、その比丘が、まさに、(1)善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者であり、善き朋友たちに、慣れ親しみ、親近し、奉侍しつつ、そして、彼らに随従する見解を惹起しながら、卓越の正行たる法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。(2)卓越の正行たる法(性質)を円満成就させて、〔いまだ〕学びある者の法(性質)を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。(3)〔いまだ〕学びある者の法(性質)を円満成就させて、諸戒を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。(4)諸戒を円満成就させて、あるいは、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を、(5)あるいは、形態にたいする貪り〔の思い〕を、(6)あるいは、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕を、捨棄するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 社交を喜びとする者の経

 

68. 「比丘たちよ、その比丘が、まさに、(1)社交を喜びとする者であり、社交を喜ぶ者であり、社交の喜びに専念する者であり、群れを喜びとする者であり、群れを喜ぶ者であり、群れの喜びに専念する者であり、独り、遠離〔の境地〕を喜び楽しむであろう、という、この状況は見出されません。(2)独り、遠離〔の境地〕を喜び楽しまずにいながら、〔止寂と観察の〕心の形相を収め取るであろう、という、この状況は見出されません。(3)〔止寂と観察の〕心の形相を収めずにいながら、正しい見解を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。(4)正しい見解を円満成就させずして、正しい禅定を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されません。(5)正しい禅定を円満成就させずして、諸々の束縛するものを捨棄するであろう、という、この状況は見出されません。(6)諸々の束縛するものを捨棄せずして、涅槃を実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、その比丘が、まさに、(1)社交を喜びとする者ではなく、社交を喜ぶ者ではなく、社交の喜びに専念する者ではなく、群れを喜びとする者ではなく、群れを喜ぶ者ではなく、群れの喜びに専念する者ではなく、独り、遠離〔の境地〕を喜び楽しむであろう、という、この状況は見出されます。(2)独り、遠離〔の境地〕を喜び楽しみながら、〔止寂と観察の〕心の形相を収め取るであろう、という、この状況は見出されます。(3)〔止寂と観察の〕心の形相を収めながら、正しい見解を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。(4)正しい見解を円満成就させて、正しい禅定を円満成就させるであろう、という、この状況は見出されます。(5)正しい禅定を円満成就させて、諸々の束縛するものを捨棄するであろう、という、この状況は見出されます。(6)諸々の束縛するものを捨棄して、涅槃を実証するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 天神の経

 

69. そこで、まさに、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その天神は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、六つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、素直であることであり、善き朋友あることです。尊き方よ、まさに、これらの六つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します」と。その天神は、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔天神の言葉を〕正しくお認めに成りました(天神に随喜した)。そこで、まさに、その天神は、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、或るひとりの天神が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、その天神は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、六つのものがあります。これらの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。教師にたいし尊重〔の思い〕あることであり、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることであり、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることであり、学びにたいし尊重〔の思い〕あることであり、素直であることであり、善き朋友あることです。尊き方よ、まさに、これらの六つの法(性質)が、比丘の遍き衰退なきために等しく転起します』と。比丘たちよ、その天神は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。

 

 このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、世尊を敬拝して、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。尊き方よ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちでないなら、そして、彼らに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。そして、自己みずから、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……略……。そして、自己みずから、僧団にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、学びにたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、学びにたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、素直である者として、さらに、素直であることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、善き朋友ある者として、さらに、善き朋友あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちでないなら、そして、彼らに、善き朋友あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、善きかな、まさに、あなたは、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。サーリプッタよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちでないなら、そして、彼らに、教師にたいし尊重〔の思い〕あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、教師にたいし尊重〔の思い〕ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。そして、自己みずから、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、法(教え)にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……略……。そして、自己みずから、僧団にたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、僧団にたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、学びにたいし尊重〔の思い〕ある者として、さらに、学びにたいし尊重〔の思い〕あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、素直である者として、さらに、素直であることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。……。そして、自己みずから、善き朋友ある者として、さらに、善き朋友あることの栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちでないなら、そして、彼らに、善き朋友あることを受持させます。さらに、すなわち、他の比丘たちが、善き朋友ある者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を話します──事実として、真実として、〔正しい〕時に。サーリプッタよ、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 禅定の経

 

70. 「比丘たちよ、その比丘が、まさに、寂静なる禅定によってではなく、精妙なる〔禅定〕によってではなく、安息を得た〔禅定〕によってではなく、専一なる状態に到達した〔禅定〕によってではなく、(1)無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するであろう──〔すなわち〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成るであろうし、多種なる者としてもまた有って、一なる者と成るであろうし……略……梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるであろう、という、この状況は見出されません。(2)人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くであろう、という、この状況は見出されません。(3)他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するであろう──あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知するであろうし……略……あるいは、解脱していない心を、『解脱していない(※)心である』と覚知するであろう、という、この状況は見出されません。(4)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するであろう──それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するであろう、という、この状況は見出されません。(5)人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るであろう……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するであろう、という、この状況は見出されません。(6)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むであろう、という、この状況は見出されません。

 

※ テキストには vimuttaṃ vā cittaṃ vimuttaṃ とあるが、PTS版により avimuttaṃ vā cittaṃ avimuttaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 比丘たちよ、その比丘が、まさに、寂静なる禅定によって、精妙なる〔禅定〕によって、安息を得た〔禅定〕によって、専一なる状態に到達した〔禅定〕によって、(1)無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するであろう──〔すなわち〕一なる者としてもまた有って、多種なる者と成るであろうし、多種なる者としてもまた有って、一なる者と成るであろうし……略……梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるであろう、という、この状況は見出されます。(2)人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くであろう、という、この状況は見出されます。(3)他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するであろう──あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知するであろうし……略……あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知するであろう、という、この状況は見出されます。(4)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するであろう──それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するであろう、という、この状況は見出されます。(5)人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るであろう……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するであろう、という、この状況は見出されます。(6)諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 実証の可能の経

 

71. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ることが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これらは、退失を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知せず、『これらは、止住を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知せず、『これらは、殊勝を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知せず、『これらは、洞察を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知せず、そして、真剣に為さない者として、さらに、正当に為さない者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ることが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ることが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これらは、退失を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知し、『これらは、止住を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知し、『これらは、殊勝を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知し、『これらは、洞察を部分とする法(性質)である』と、事実のとおりに覚知し、そして、真剣に為す者として、さらに、正当に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ることが可能となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 力の経

 

72. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、禅定において力性に至り得ることが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、禅定の入定に巧みな智ある者ではなく〔世に〕有り、禅定の止住に巧みな智ある者ではなく〔世に〕有り、禅定の出起に巧みな智ある者ではなく〔世に〕有り、そして、真剣に為さない者として、かつまた、常に為さない者として、さらに、正当に為さない者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、禅定において力性に至り得ることが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、禅定において力性に至り得ることが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、禅定の入定に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の止住に巧みな智ある者として〔世に〕有り、禅定の出起に巧みな智ある者として〔世に〕有り、そして、真剣に為す者として、かつまた、常に為す者として、さらに、正当に為す者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、禅定において力性に至り得ることが可能となります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一のそれなる瞑想の経

 

73. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕であり、憎悪〔の思い〕であり、〔心の〕沈滞と眠気であり、〔心の〕高揚と悔恨であり、疑惑〔の思い〕であり、また、まさに、彼には、諸々の欲望〔の対象〕における危険が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成りません。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕であり、憎悪〔の思い〕であり、〔心の〕沈滞と眠気であり、〔心の〕高揚と悔恨であり、疑惑〔の思い〕であり、また、まさに、彼には、諸々の欲望〔の対象〕における危険が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成りません。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二のそれなる瞑想の経

 

74. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考であり、欲望の表象であり、憎悪の表象であり、悩害の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考であり、欲望の表象であり、憎悪の表象であり、悩害の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むことが可能となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 天神の章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「不還、阿羅漢、朋友、社交を喜びとする者と天神、禅定、実証の可能、力、他に、二つのそれなる瞑想があり、〔章となる〕」と。

 

8. 阿羅漢の資質の章

 

1. 苦痛の経

 

75. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。どのようなものが、六つのものなのですか。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考であり、欲望の表象であり、憎悪の表象であり、悩害の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇が待っています。どのようなものが、六つのものなのですか。離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考であり、離欲の表象であり、憎悪なき表象であり、悩害なき表象です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇が待っています」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 阿羅漢の資質の経

 

76. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。〔我想の〕思量()であり、卑下慢であり、高慢(過慢)であり、増上慢であり、強情であり、卑屈です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。〔我想の〕思量であり、卑下慢であり、高慢であり、増上慢であり、強情であり、卑屈です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 人間の法を超えるものの経

 

77. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。気づきの忘却であり、正知なきことであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことであり、虚言であり、饒舌です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。気づきの忘却であり、正知なきことであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことであり、虚言であり、饒舌です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 安楽と悦意の経

 

78. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、安楽と悦意多き者として〔世に〕住み、そして、彼に、諸々の煩悩の滅尽のための根源が勉励されたものと成ります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、法(教え)を喜びとする者として〔世に〕有り、修行を喜びとする者として〔世に〕有り、捨棄を喜びとする者として〔世に〕有り、遠離を喜びとする者として〔世に〕有り、憎悪なきものを喜びとする者として〔世に〕有り、虚構なきものを喜びとする者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、所見の法(現世)において、安楽と悦意多き者として〔世に〕住み、そして、彼に、諸々の煩悩の滅尽のための根源が勉励されたものと成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 到達の経

 

79. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、入来に巧みな智ある者ではなく〔世に〕有り、かつまた、離去に巧みな智ある者ではなく〔世に〕有り、さらに、手段に巧みな智ある者ではなく〔世に〕有り、諸々の〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)の到達のために、欲〔の思い〕を生じさせず、諸々の〔すでに〕到達している善なる法(性質)を守護せず、常に為すべきことを成就しません。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、入来に巧みな智ある者として〔世に〕有り、かつまた、離去に巧みな智ある者として〔世に〕有り、さらに、手段に巧みな智ある者として〔世に〕有り、諸々の〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)の到達のために、欲〔の思い〕を生じさせ、諸々の〔すでに〕到達している善なる法(性質)を守護し、常に為すべきことを成就します。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、可能となります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 大いなるものの経

 

80. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、諸々の法(性質)において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の善なる法(性質)において、かつまた、光明多き者として、かつまた、〔心の〕制止多き者として、かつまた、〔喜悦と歓喜による〕感嘆多き者として、かつまた、〔精進に〕満足なきこと多き者として、かつまた、〔精進の〕捨置なきこと多き者として、〔世に〕有り、そして、より上なるものに更新します。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、諸々の法(性質)において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一の地獄の経

 

81. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、六つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、そして、悪しき欲求ある者として〔世に有り〕、さらに、誤った見解ある者として〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、六つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、そして、少なき欲求の者として〔世に有り〕、さらに、正しい見解ある者として〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の地獄の経

 

82. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、六つのものなのですか。命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、そして、残忍な者として〔世に有り〕、さらに、尊大な者として〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、六つのものなのですか。命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、そして、残忍ならざる者として〔世に有り〕、さらに、尊大ならざる者として〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 至高の法の経

 

83. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、至高の法(性質)である阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有り、そして、身体について、さらに、生命について、期待を有する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、至高の法(性質)である阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、至高の法(性質)である阿羅漢の資質を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有り、そして、身体について、さらに、生命について、期待なき者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、至高の法(性質)である阿羅漢の資質を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 夜と昼の経

 

84. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘には、あるいは、夜に、あるいは、昼に、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、大いなる欲求ある者として、悩苦ある者として、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていない者として、〔世に〕有り、信なき者として〔世に〕有り、劣戒の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘には、あるいは、夜に、あるいは、昼に、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、衰退が待っています──増大ではなく。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘には、あるいは、夜に、あるいは、昼に、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、大いなる欲求ある者ではなく、悩苦なき者として、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として、〔世に〕有り、信ある者として〔世に〕有り、戒ある者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきある者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘には、あるいは、夜に、あるいは、昼に、諸々の善なる法(性質)において、まさしく、増大が待っています──遍き衰退ではなく」と。〔以上が〕第十となる。

 

 阿羅漢の資質の章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「苦痛、阿羅漢の資質、そして、超えるもの、安楽があり、さらに、到達とともに、大いなるもの、二つの地獄、そして、至高の法(性質)、夜があり、〔章となる〕」と。

 

9. 清涼の章

 

1. 清涼の状態の経

 

85. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、無上なる清涼の状態を実証することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、その時点において、心が制御されるべきであるなら、その時点において、心を制御せず、その時点において、心が励起されるべきであるなら、その時点において、心を励起せず、その時点において、心が感動されるべきであるなら、その時点において、心を感動させず、その時点において、心が放捨されるべきであるなら、その時点において、心を放捨せず、そして、下劣なるものを信念する者と成り、さらに、身体を有することを喜び楽しむ者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、無上なる清涼の状態を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、無上なる清涼の状態を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、その時点において、心が制御されるべきであるなら、その時点において、心を制御し、その時点において、心が励起されるべきであるなら、その時点において、心を励起し、その時点において、心が感動されるべきであるなら、その時点において、心を感動させ、その時点において、心が放捨されるべきであるなら、その時点において、心を放捨し、そして、精妙なるものを信念する者と成り、さらに、涅槃を喜び楽しむ者と〔成ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した比丘は、無上なる清涼の状態を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 妨げの経

 

86. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、たとえ、正なる法(教え)を聞きながらも、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。行為()による妨げを具備した者として〔世に〕有り、〔心の〕汚れ(煩悩)による妨げを具備した者として〔世に〕有り、報い(異熟)による妨げを具備した者として〔世に〕有り、そして、信なき者として〔世に〕有り、かつまた、欲〔の思い〕なき者(意欲なき者)として〔世に有り〕、さらに、智慧浅き者として〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、たとえ、正なる法(教え)を聞きながらも、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、正なる法(教え)に、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。行為による妨げを具備した者ではなく〔世に〕有り、〔心の〕汚れによる妨げを具備した者ではなく〔世に〕有り、報いによる妨げを具備した者ではなく〔世に〕有り、そして、信ある者として〔世に〕有り、かつまた、欲〔の思い〕ある者(意欲ある者)として〔世に有り〕、さらに、智慧ある者として〔世に有ります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、正なる法(教え)に、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 奪われた者の経

 

87. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、たとえ、正なる法(教え)を聞きながらも、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。〔その者によって〕母が生命を奪われた者と成り、父が生命を奪われた者と成り、阿羅漢が生命を奪われた者と成り、〔その者の〕汚れた心によって如来が出血することと成り、〔その者によって〕僧団が分裂することと成り、〔その者が〕智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、たとえ、正なる法(教え)を聞きながらも、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、正なる法(教え)に、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。〔その者によって〕母が生命を奪われた者と成らず、父が生命を奪われた者と成らず、阿羅漢が生命を奪われた者と成らず、〔その者の〕汚れた心によって如来が出血することと成らず、〔その者によって〕僧団が分裂することと成らず、〔その者が〕智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、正なる法(教え)に、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「聞こうとし」の経

 

88. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、たとえ、正なる法(教え)を聞きながらも、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているときは、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、義(意味)ならざるものを把握し、義(意味)を遠ざけ、〔真理に〕随順しないものにたいする受認を具備した者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、たとえ、正なる法(教え)を聞きながらも、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、正なる法(教え)に、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているときは、聞こうとし、耳を傾け、了知の心を現起させ、義(意味)を把握し、義(意味)ならざるものを遠ざけ、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備した者は、正なる法(教え)を聞きながら、正なる法(教え)に、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入することが可能となります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「捨棄せずして」の経

 

89. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、〔正しい〕見解の成就を実証することが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)であり、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)であり、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)であり、悪所に至るべき貪欲〔の思い〕()であり、悪所に至るべき憤怒〔の思い〕()であり、悪所に至るべき迷妄〔の思い〕()です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、〔正しい〕見解の成就を実証することが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、〔正しい〕見解の成就を実証することが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。身体を有することについての見解であり、疑惑〔の思い〕であり、戒や掟への偏執であり、悪所に至るべき貪欲〔の思い〕であり、悪所に至るべき憤怒〔の思い〕であり、悪所に至るべき迷妄〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、〔正しい〕見解の成就を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 捨棄されたものの経

 

90. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの法(性質)は、〔正しい〕見解を成就した人にとって捨棄されたものとしてあります。どのようなものが、六つのものなのですか。身体を有することについての見解であり、疑惑〔の思い〕であり、戒や掟への偏執であり、悪所に至るべき貪欲〔の思い〕であり、悪所に至るべき憤怒〔の思い〕であり、悪所に至るべき迷妄〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)は、〔正しい〕見解を成就した人にとって捨棄されたものとしてあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 不可能の経

 

91. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの法(性質)を、〔正しい〕見解を成就した人は、生起させることが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。身体を有することについての見解であり、疑惑〔の思い〕であり、戒や掟への偏執であり、悪所に至るべき貪欲〔の思い〕であり、悪所に至るべき憤怒〔の思い〕であり、悪所に至るべき迷妄〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を、〔正しい〕見解を成就した人は、生起させることが不可能となります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の不可能となる状況の経

 

92. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの不可能となる状況です。どのようなものが、六つのものなのですか。〔正しい〕見解を成就した人は、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住むことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、法(教え)にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住むことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住むことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、学びにたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住むことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、由来なき根拠を妄信することが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、第八の生存を発現させることが不可能となります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの不可能となる状況があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の不可能となる状況の経

 

93. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの不可能となる状況です。どのようなものが、六つのものなのですか。〔正しい〕見解を成就した人は、何であれ、形成〔作用〕(:形成されたもの)に、常住〔の観点〕から近しく赴くことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、何であれ、形成〔作用〕に、安楽〔の観点〕から近しく赴くことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、何であれ、法(事象)に、自己〔の観点〕から近しく赴くことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、直後〔の報い〕ある行為(極罪)を為すことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、祭典や祝事によって、清浄を妄信することが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、この〔僧団〕より外に、施与されるべき者を探し求めることが不可能となります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの不可能となる状況があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の不可能となる状況の経

 

94. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの不可能となる状況です。どのようなものが、六つのものなのですか。〔正しい〕見解を成就した人は、母の生命を奪うことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、父の生命を奪うことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、阿羅漢の生命を奪うことが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、汚れた心によって如来を出血させることが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、僧団を分裂させることが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、他の教師を定めることが不可能となります。比丘たちよ、まさに、これらの六つの不可能となる状況があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第四の不可能となる状況の経

 

95. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの不可能となる状況です。どのようなものが、六つのものなのですか。〔正しい〕見解を成就した人は、自作されたものとして、安楽と苦痛を妄信することが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、他作されたものとして、安楽と苦痛を妄信することが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、安楽と苦痛を妄信することが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、自作のものではなく、偶発生起したものとして、安楽と苦痛を妄信することが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、他作のものではなく、偶発生起したものとして、安楽と苦痛を妄信することが不可能となります。〔正しい〕見解を成就した人は、かつまた、自作のものではなく、かつまた、他作のものではなく、偶発生起したものとして、安楽と苦痛を妄信することが不可能となります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、〔正しい〕見解を成就した人には、彼には、そして、因が善く見られたものとなり、さらに、因によって集起した諸々の法(事象)が〔善く見られたものとなるからです〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの不可能となる状況があります」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 清涼の章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「清涼の状態、妨げ、奪われた者、『聞こうとし』があり、『捨棄せずして』があり、捨棄されたものと不可能、そして、また、四つのそれなる状況があり、〔章となる〕」と。

 

10. 福利の章

 

1. 出現の経

 

96. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらのものの〕出現は、世において得難くあります。どのようなものが、六つのものなのですか。阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律を説示する人は、世において得難くあります。聖者のいる場所に生まれ落ちることは、世において得難くあります。諸々の〔感官の〕機能の不全ならざることは、世において得難くあります。痴者ならざることは、蒙者ならざることは、世において得難くあります。善なる法(性質)にたいする欲〔の思い〕は、世において得難くあります。比丘たちよ、まさに、これらの六つのものの出現は、世において得難くあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 福利の経

 

97. 「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの、預流果の実証における福利です。どのようなものが、六つのものなのですか。正なる法(教え)における決定ある者と成ります。遍き衰退とならない法(性質)ある者と成ります。彼の苦しみは、完全なる終極を為したものと成ります。一般のものならざる知恵を具備した者と成ります。彼には、そして、因が善く見られたものとなり、さらに、因によって集起した諸々の法(事象)が〔善く見られたものとなります〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの、預流果の実証における福利があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 無常の経

 

98. 「比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、形成〔作用〕(:形成されたもの)を、常住〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されません。〔真理に〕随順する受認を具備することなく、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されません。正しい〔道〕たる決定に参入せずにいながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、まさに、その比丘が、一切の形成〔作用〕を、無常〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されます。〔真理に〕随順する受認を具備し、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されます。正しい〔道〕たる決定に参入しながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 苦痛の経

 

99. 「比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、形成〔作用〕を、安楽〔の観点〕から等しく随観しながら……略……一切の形成〔作用〕を、苦痛〔の観点〕から等しく随観しながら……略……この状況は見出されます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 無我の経

 

100. 「比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、法(事象)を、自己〔の観点〕から等しく随観しながら……略……一切の法(事象)を、無我〔の観点〕から等しく随観しながら……略……この状況は見出されます」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 涅槃の経

 

101. 「比丘たちよ、まさに、その比丘が、何であれ、涅槃を、苦痛〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されません。〔真理に〕随順する受認を具備することなく、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されません。正しい〔道〕たる決定に参入せずにいながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、まさに、その比丘が、涅槃を、安楽〔の観点〕から等しく随観しながら、〔真理に〕随順する受認を具備した者と成るであろう、という、この状況は見出されます。〔真理に〕随順する受認を具備し、正しい〔道〕たる決定に参入するであろう、という、この状況は見出されます。正しい〔道〕たる決定に参入しながら、あるいは、預流果を、あるいは、一来果を、あるいは、不還果を、あるいは、阿羅漢の資質を、実証するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 確立なきものの経

 

102. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕福利を正しく見ているなら、比丘が、一切の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)にたいし、限界なきものと為して(無制約無限定に)、無常の表象を現起させるに、まさしく、十分なるものがあります。どのようなものが、六つのものなのですか。『かつまた、一切の形成〔作用〕は、わたしには、確立なきものと思われるであろう』〔と〕。『かつまた、一切の世において、わたしの意は喜ばないであろう』〔と〕。『かつまた、一切の世から、わたしの意は出起するであろう』〔と〕。『かつまた、わたしの意図は、涅槃に傾斜するものと成るであろう』〔と〕。『かつまた、わたしの諸々の束縛するもの()は、捨棄に赴くであろう』〔と〕。『かつまた、〔わたしは〕最高の沙門の資質を具備した者と成るであろう』〔と〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの福利を正しく見ているなら、比丘が、一切の形成〔作用〕にたいし、限界なきものと為して、無常の表象を現起させるに、まさしく、十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 剣を引き抜いた者の経

 

103. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕福利を正しく見ているなら、比丘が、一切の形成〔作用〕にたいし、限界なきものと為して、苦痛の表象を現起させるに、まさしく、十分なるものがあります。どのようなものが、六つのものなのですか。『かつまた、一切の形成〔作用〕にたいし、わたしの厭離の表象は、現起するところと成るであろう──それは、たとえば、また、剣を引き抜いた殺戮者にたいするように』〔と〕。『かつまた、一切の世から、わたしの意は出起するであろう』〔と〕。『かつまた、〔わたしは〕涅槃において寂静を見る者と成るであろう』〔と〕。『かつまた、わたしの諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)は、根絶に赴くであろう』〔と〕。『かつまた、〔わたしは〕為すべきことを為す者と成るであろう』〔と〕。『かつまた、教師は、わたしの世話するところと成るであろう──慈愛〔の思い〕あることから』〔と〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの福利を正しく見ているなら、比丘が、一切の形成〔作用〕にたいし、限界なきものと為して、苦痛の表象を現起させるに、まさしく、十分なるものがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 関わりなき者の経

 

104. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕福利を正しく見ているなら、比丘が、一切の法(事象)にたいし、限界なきものと為して、無我の表象を現起させるに、まさしく、十分なるものがあります。どのようなものが、六つのものなのですか。『かつまた、一切の世にたいし、〔わたしは〕関わりなき者と成るであろう』〔と〕。『かつまた、わたしの、諸々のわたしという作り為し(我慢)は止滅するであろう』〔と〕。『かつまた、わたしの、諸々のわたしのものという作り為し(我所)は止滅するであろう』〔と〕。『かつまた、〔わたしは〕一般のものならざる知恵を具備した者と成るであろう』〔と〕。『わたしには、そして、因が善く見られたものと成るであろうし、さらに、因によって集起した諸々の法(事象)が〔善く見られたものと成るであろう〕』〔と〕。比丘たちよ、まさに、これらの六つの福利を正しく見ているなら、比丘が、一切の法(事象)にたいし、限界なきものと為して、無我の表象を現起させるに、まさしく、十分なるものがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 生存の経

 

105. 「比丘たちよ、これらの三つの生存()が捨棄されるべきであり、〔これらの〕三つの学びにおいて学ぶべきです。どのような三つの生存が捨棄されるべきですか。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です。これらの三つの生存が捨棄されるべきです。どのような三つの学びにおいて学ぶべきですか。卓越の戒の学びであり、卓越の心の学びであり、卓越の智慧の学びです。これらの三つの学びにおいて学ぶべきです。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、これらの三つの生存が捨棄されたものと成ることから、さらに、これらの三つの学びにおける学びを学んだ者と成ることから、この者は、『比丘として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 渇愛の経

 

106. 「比丘たちよ、これらの三つの渇愛()が捨棄されるべきであり、さらに、〔これらの〕三つの思量()が〔捨棄されるべきです〕。どのような三つの渇愛が捨棄されるべきですか。欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。これらの三つの渇愛が捨棄されるべきです。どのような三つの思量が捨棄されるべきですか。〔我想の〕思量であり、卑下慢であり、高慢です。これらの三つの思量が捨棄されるべきです。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、これらの三つの渇愛が捨棄されたものと成ることから、さらに、これらの三つの思量が〔捨棄されたものと成ることから〕、この者は、『比丘として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 福利の章が第十となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「出現、福利、無常と苦痛と無我から、涅槃、確立なきもの、剣を引き抜いた者、関わりなき者、生存、渇愛があり、〔それらの〕十一がある」と。

 

 第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

11. 三なるものの章

 

1. 貪欲の経

 

107. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲()であり、憤怒()であり、迷妄()です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲の捨棄のために、不浄が修められるべきであり、憤怒の捨棄のために、慈愛が修められるべきであり、迷妄の捨棄のために、智慧が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 悪しき行ないの経

 

108. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による悪しき行ないの捨棄のために、身体による善き行ないが修められるべきであり、言葉による悪しき行ないの捨棄のために、言葉による善き行ないが修められるべきであり、意による悪しき行ないの捨棄のために、意による善き行ないが修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 思考の経

 

109. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の思考()であり、憎悪の思考であり、悩害の思考です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の思考の捨棄のために、離欲の思考が修められるべきであり、憎悪の思考の捨棄のために、憎悪なき思考が修められるべきであり、悩害の思考の捨棄のために、悩害なき思考が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 表象の経

 

110. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の表象()であり、憎悪の表象であり、悩害の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の表象の捨棄のために、離欲の表象が修められるべきであり、憎悪の表象の捨棄のために、憎悪なき表象が修められるべきであり、悩害の表象の捨棄のために、悩害なき表象が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 界域の経

 

111. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の界域()であり、憎悪の界域であり、悩害の界域です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。欲望の界域の捨棄のために、離欲の界域が修められるべきであり、憎悪の界域の捨棄のために、憎悪なき界域が修められるべきであり、悩害の界域の捨棄のために、悩害なき界域が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 悦楽の経

 

112. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。悦楽の見解であり、自己についての偏った見解であり、誤った見解(邪見)です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。悦楽の見解の捨棄のために、無常の表象が修められるべきであり、自己についての偏った見解の捨棄のために、無我の表象が修められるべきであり、誤った見解の捨棄のために、正しい見解(正見)が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 不満の経

 

113. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。不満〔の思い〕であり、悩害〔の思い〕であり、法(教え)ならざる性行です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。不満〔の思い〕の捨棄のために、歓喜〔の思い〕が修められるべきであり、悩害〔の思い〕の捨棄のために、悩害なき〔思い〕が修められるべきであり、法(教え)ならざる性行の捨棄のために、法(教え)の性行が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 満ち足りていることの経

 

114. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。満ち足りていないことであり、正知なきことであり、大いなる欲求あることです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。満ち足りていないことの捨棄のために、満ち足りていることが修められるべきであり、正知なきことの捨棄のために、正知が修められるべきであり、大いなる欲求あることの捨棄のために、少なき欲求たることが修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 頑固であることの経

 

115. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。頑固であることであり、悪しき朋友あることであり、心の散乱です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。頑固であることの捨棄のために、素直であることが修められるべきであり、悪しき朋友あることの捨棄のために、善き朋友あることが修められるべきであり、心の散乱の捨棄のために、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 〔心の〕高揚の経

 

116. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。〔心の〕高揚であり、統御なき〔生き方〕であり、放逸です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。〔心の〕高揚の捨棄のために、〔心の〕止寂が修められるべきであり、統御なき〔生き方〕の捨棄のために、統御が修められるべきであり、放逸の捨棄のために、不放逸が修められるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)の捨棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 三なるものの章が第十一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲と悪しき行ないと思考、表象と界域があり、かくのごとく説かれ、悦楽と不満と満ち足りていることと頑固であることがあり(※)、〔心の〕高揚とともに、章となる」と。

 

※ テキストには duve ca とあるが、PTS版により dovaca と読む。

 

12. 沙門の資質の章

 

1. 身体の随観ある者の経

 

117. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄せずして、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むことが不可能となります。

 

 比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むことが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むことが可能となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 法の随観ある者の経

 

118. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、内に、身体における……略……外に、身体における……略……内と外に、身体における……略……内に、諸々の感受における……略……外に、諸々の感受における……略……内と外に、諸々の感受における……略……内に、心における……略……外に、心における……略……内と外に、心における……略……内に、諸々の法(性質)における……略……外に、諸々の法(性質)における……略……内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むことが可能となります。どのようなものが、六つのものなのですか。作業を喜びとすることであり、談義を喜びとすることであり、睡眠を喜びとすることであり、社交を喜びとすることであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていないことであり、食において量を知らないことです。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を捨棄して、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むことが可能となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. タプッサの経

 

119. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したタプッサ家長は、如来について結論に至った者であり、不死を見る者であり、不死を実証して振る舞います。どのようなものが、六つのものなのですか。覚者にたいする確固たる清信であり、法(教え)にたいする確固たる清信であり、僧団にたいする確固たる清信であり、聖なる戒であり、聖なる知恵であり、聖なる解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備したタプッサ家長は、如来について結論に至った者であり、不死を見る者であり、不死を実証して振る舞います」と。〔以上が〕第三となる。

 

4-23. バッリカ等の諸経

 

120-139. 「比丘たちよ、六つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備したバッリカ家長は……略……アナータピンディカ・スダッタ家長は……マッチカーサンダ〔の住者〕たるチッタ家長は……アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは……釈迦〔族〕のマハー・ナーマは……ヴェーサーリー〔の住者〕たるウッガ家長は……ウッガタ家長は……スーランバッタは……ジーヴァカ・コーマーラバッチャは……ナクラピタル家長は……タヴァカンニカ家長は……プーラナ家長は……イシダッタ家長は……サンダーナ家長は……ヴィチャヤ家長は……ヴィジャヤマーヒカ家長は……メンダカ家長は……ヴァーセッタ在俗信者は……アリッタ在俗信者は……サーラッガ在俗信者は、如来について結論に至った者であり、不死を見る者であり、不死を実証して振る舞います。どのようなものが、六つのものなのですか。覚者にたいする確固たる清信であり、法(教え)にたいする確固たる清信であり、僧団にたいする確固たる清信であり、聖なる戒であり、聖なる知恵であり、聖なる解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの六つの法(性質)を具備したサーラッガ在俗信者は、如来について結論に至った者であり、不死を見る者であり、不死を実証して振る舞います」と。〔以上が〕第二十三となる。

 

 沙門の資質の章が第十二となる。

 

13. 貪欲と省略〔の経典〕

 

140. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、六つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、六つのものなのですか。無上なる見であり、無上なる聞であり、無上なる利得であり、無上なる学びであり、無上なる世話であり、無上なる随念です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの六つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

141. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、六つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、六つのものなのですか。覚者の随念であり、法(教え)の随念であり、僧団の随念であり、戒の随念であり、施捨の随念であり、天神たちの随念です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの六つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

142. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、六つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、六つのものなのですか。無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象であり、止滅の表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの六つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

143-169. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……略……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、六つの法(性質)が修められるべきです。……。

 

170-649. 「比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの六つの法(性質)が修められるべきです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 チャッカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。