小部経典(クッダカ・ニカーヤ)

 

14. 2. チューラ・ニッデーサ聖典(小義釈)

 

【目次】

 

1. 彼岸に至るものの章の諸々の詩偈

 

1. 1. 諸々の序の詩偈[2]

1. 2. 1. アジタ学徒の問い[59]

1. 2. 2. ティッサ・メッテイヤ学徒の問い[68]

1. 2. 3. プンナカ学徒の問い[72]

1. 2. 4. メッタグー学徒の問い[79]

1. 2. 5. ドータカ学徒の問い[92]

1. 2. 6. ウパシーヴァ学徒の問い[101]

1. 2. 7. ナンダ学徒の問い[110]

1. 2. 8. ヘーマカ学徒の問い[118]

1. 2. 9. トーデイヤ学徒の問い[123]

1. 2. 10. カッパ学徒の問い[128]

1. 2. 11. ジャトゥカンニ学徒の問い[133]

1. 2. 12. バドラーヴダ学徒の問い[139]

1. 2. 13. ウダヤ学徒の問い[144]

1. 2. 14. ポーサーラ学徒の問い[152]

1. 2. 15. モーガラージャン学徒の問い[157]

1. 2. 16. ピンギヤ学徒の問い[162]

1. 3. 彼岸に至るものへの諸々の賛嘆の詩偈[167]

1. 4. 彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈[175]

 

2. 彼岸に至るものの章についての釈示

 

2. 1. 諸々の問いについての釈示[195]

2. 1. 1. アジタ学徒の問いについての釈示[195]

2. 1. 2. ティッサ・メッテイヤ学徒の問いについての釈示[264]

2. 1. 3. プンナカ学徒の問いについての釈示[293]

2. 1. 4. メッタグー学徒の問いについての釈示[362]

2. 1. 5. ドータカ学徒の問いについての釈示[481]

2. 1. 6. ウパシーヴァ学徒の問いについての釈示[543]

2. 1. 7. ナンダ学徒の問いについての釈示[599]

2. 1. 8. ヘーマカ学徒の問いについての釈示[668]

2. 1. 9. トーデイヤ学徒の問いについての釈示[696]

2. 1. 10. カッパ学徒の問いについての釈示[724]

2. 1. 11. ジャトゥカンニ学徒の問いについての釈示[758]

2. 1. 12. バドラーヴダ学徒の問いについての釈示[793]

2. 1. 13. ウダヤ学徒の問いについての釈示[822]

2. 1. 14. ポーサーラ学徒の問いについての釈示[877]

2. 1. 15. モーガラージャン学徒の問いについての釈示[928]

2. 1. 19. ピンギヤ学徒の問いについての釈示[997]

2. 2. 彼岸に至るものへの諸々の賛嘆の詩偈についての釈示[1028]

2. 3. 彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈についての釈示[1072]

 

3. 犀の角の経についての釈示

 

3. 1. 第一の章[1214]

3. 2. 第二の章[1348]

3. 3. 第三の章[1420]

3. 4. 第四の章[1499]

 


 

 

14. 2. チューラ・ニッデーサ聖典(小義釈)

 

 [1]阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 彼岸に至るものの章の諸々の詩偈

 

1. 1. 諸々の序の詩偈

 

1.

 

 [2]982.(976) 無所有〔の境地〕を切望しながら、呪文の奥義に至る婆羅門(バーヴァリ)は、コーサラ〔国〕の喜ばしき都から、南の道へと赴いた。(1)

 

2.

 

 [3]983.(977) 彼は、アッサカ〔国〕とアラカ〔国〕が接する境域、ゴーダーヴァリー〔川〕の岸辺において、かつまた、落穂によって、かつまた、果実によって、住していた。(2)

 

3.

 

 [4]984.(978) そして、そのすぐ近くには、広大なる村が有り、その〔村〕から生じた収益で、大いなる祭祀を営んだ。(3)

 

4.

 

 [5]985.(979) 大いなる祭祀を執り行なって、ふたたび、庵所に入った。その〔庵所〕に帰り戻ったところ、他の婆羅門がやってきた。(4)

 

5.

 

 [6]986.(980) 足が傷つき、〔喉が〕渇き、歯には泥、頭には塵の、その〔婆羅門〕は、そして、彼(バーヴァリ)のもとに近づいて行って、五百〔金〕を乞う。(5)

 

6.

 

 [7]987.(981) 〔まさに〕その、この〔婆羅門〕を見て、バーヴァリは、坐所に招き入れた。そして、〔体調が〕楽であるか、〔具合が〕善いかを尋ね、この言葉を説いた。(6)

 

7.

 

 [8]988.(982) 〔バーヴァリは言った〕「およそ、まさに、わたしのもので、〔あなたに〕施すべき法(施物)は、〔その〕全てが、わたしによって〔他者に〕差し出されました(他に施してしまった)。梵(婆羅門)よ、わたしを許したまえ。わたしには、五百〔金〕は存在しないのです」〔と〕。(7)

 

8.

 

 [9]989.(983) 〔婆羅門が言った〕「それで、もし、わたしが乞うているのに、貴君が施さないなら、〔今から〕第七の日には、おまえの頭は、七様に裂けてしまえ」〔と〕。(8)

 

9.

 

 [10]990.(984) 虚言者〔の婆羅門〕は、〔呪いの〕行作をして、彼は、〔このような〕恐ろしい〔言葉〕を述べ伝えた。彼の、その言葉を聞いて、バーヴァリは、苦しみの者と成った。(9)

 

10.

 

 [11]991.(985) 憂いの矢に射抜かれ、食なく、打ち萎れ、そこで、また、このような心では、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)にあるも、意は喜ばない。(10)

 

11.

 

 [12]992.(986) 恐れわななく苦しみの者を見て、〔彼の〕義(利益)を欲する天神が、バーヴァリのもとに近づいて行って、この言葉を説いた。(11)

 

12.

 

 [13]993.(987) 〔天神は言った〕「彼は、頭のことを覚知しません。彼は、財を義(目的)とする虚言者です。頭のことについて、あるいは、頭が落ちることについて、彼に、知恵()は見出されません」〔と〕。(12)

 

13.

 

 [14]994.(988) 〔バーヴァリが尋ねた〕「それでは、貴君(天神)は、知っておられます。〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしに告げ知らせてください。頭のことを、さらに、頭が落ちることを。あなたの、その言葉を聞きましょう」〔と〕。(13)

 

14.

 

 [15]995.(989) 〔天神は答えた〕「わたしもまた、これを知りません。ここにおいて、わたしに、知恵は見出されません。頭のことについては、さらに、頭が落ちることについては、まさに、ここにおいて、〔一切を知る〕勝者たちの見るところです」〔と〕。(14)

 

15.

 

 [16]996.(990) 〔バーヴァリが尋ねた〕「そこで、それでは、誰が知っているのですか──この地の圏域において、頭のことを、さらに、頭が落ちることを。天神よ、それを、わたしに告げ知らせてください」〔と〕。(15)

 

16.

 

 [17]997.(991) 〔天神は答えた〕「カピラヴァットゥの都から出られた、世の導き手がおられます。オッカーカ王(甘蔗王:古代の大王)の後裔にして、釈迦族の方である、光の作り手がおられます。(16)

 

17.

 

 [18]998.(992) 婆羅門よ、まさに、その方は、正覚者です。一切の法(事象)の彼岸に至る方です。一切を証知する力に至り得た方です。一切の法(事象)に眼ある方です。一切の行為()の滅尽に至り得た方です。〔生存の〕依り所の滅尽(涅槃の境処)において解脱した方です。(17)

 

18.

 

 [19]999.(993) その方は、覚者です。世尊です。眼ある方は、世において、法(教え)を説示します。あなたは、赴いて、それ(頭と頭が落ちること)を尋ねなさい。その方は、あなたに、それを説き明かすでしょう」〔と〕。(18)

 

19.

 

 [20]1000.(994) 「正覚者」という言葉を聞いて、バーヴァリは、勇躍する者と成った。彼の憂いは、〔もはや〕些細なものとして存した。そして、〔彼は〕広大なる喜悦を得た。(19)

 

20.

 

 [21]1001.(995) 彼は、バーヴァリは、わが意を得た者となり、勇躍する者となり、感嘆〔の思い〕が生じた者は、その〔正覚者〕のことを、天神に尋ねる。〔バーヴァリが尋ねた〕「どこの村において、また、あるいは、町において、あるいは、どこの地方において、世の主たる方はおられますか。そこにおいて、〔わたしどもは〕赴いて、正覚者と、最上の二足者たる方と、会見するのです」〔と〕。(20)

 

21.

 

 [22]1002.(996) 〔天神は答えた〕「コーサラ〔国〕の都のサーヴァッティー(舎衛城)において、勝者はおられます。多大なる智慧ある方です。優れた広き思慮ある方です。その方は、釈迦族の方で、〔生の〕重荷を離れ、煩悩なき方です。〔頭と〕頭が落ちることを知る、人の雄牛たる方です」〔と〕。(21)

 

22.

 

 [23]1003.(997) そののち、〔バーヴァリは〕徒弟たちに呼びかけた──呪文の奥義に至る婆羅門たちに。〔バーヴァリは言った〕「学徒たちよ、来たれ、〔わたしは〕告げ知らせるであろう。わたしの言葉を聞け。(22)

 

23.

 

 [24]1004.(998) その方が一度ならず世に出現することは、これは、得難きことである。その方が、今日、世に生起したのだ。『正覚者』として〔世に〕聞こえた方である。すみやかに、サーヴァッティーに赴いて、最上の二足者たる方と会見するのだ」〔と〕。(23)

 

24.

 

 [25]1005.(999) 〔学徒たちが尋ねた〕「婆羅門よ、それでは、どのように、〔わたしたちは〕知るのでしょう──〔その方を〕見て、『覚者である』と。〔その方を〕知らないわたしたちに、〔その見分け方を〕説いてください。すなわち、わたしたちが、その方を知りうるように」〔と〕。(24)

 

25.

 

 [26]1006.(1000) 〔バーヴァリは答えた〕「まさに、諸々の呪文(ヴェーダ聖典)において伝えられてきた、諸々の偉大なる人士の特相がある。そして、三十二〔の特相〕が、完全なるものとして、順次に告げ知らされたのだ。(25)

 

26.

 

 [27]1007.(1001) その方の五体において、これらの〔三十二の〕偉大なる人士の特相が有るなら、その方の赴く所()は、二つだけである。まさに、第三のものは見出されない。(26)

 

27.

 

 [28]1008.(1002) それで、もし、家に居住するなら、〔彼は〕この地を征圧するであろう。棒(刑罰)によらず、刃(武力)によらず、法(正義)によって統治する。(27)

 

28.

 

 [29]1009.(1003) そして、それで、もし、その方が、家から家なきへと出家するなら、〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者にして阿羅漢(人格完成者)たる無上なる者と成る。(28)

 

29.

 

 [30]1010.(1004) 〔わたしの〕出生を、さらに、氏姓を、〔わたしが有している〕特相を、〔わたしが通じている〕諸々の呪文を、〔わたしの〕徒弟たちのことを、さらに、他にも、頭のことを、さらに、頭が落ちることを、まさしく、意によって尋ねよ(言葉に出さず、心で尋ねよ)。(29)

 

30.

 

 [31]1011.(1005) すなわち、〔その方が〕妨げなく見る覚者として〔世に〕有るなら、意によって問いが尋ねられたとき、言葉によって答えるであろう」〔と〕。(30)

 

31.

 

 [32]1012.(1006) バーヴァリの言葉を聞いて、〔彼の〕徒弟である十六者の婆羅門たちは──アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、さらに、メッタグーは──(31)

 

32.

 

 [33]1013.(1007) ドータカ、そして、ウパシーヴァ、そして、ナンダ、さらに、ヘーマカは──トーデイヤとカッパの両者、そして、賢者たるジャトゥカンニは──(32)

 

33.

 

 [34]1014.(1008) バドラーヴダ、そして、ウダヤ、そして、また、ポーサーラ婆羅門、そして、思慮あるモーガラージャン、そして、大いなる聖賢のピンギヤは──(33)

 

34.

 

 [35]1015.(1009) 各自が衆師たる者たちであり、〔彼らの〕全てが、一切の世〔の人々〕に〔名の〕聞こえた者たちであり、瞑想を喜ぶ瞑想者たちであり、過去(前世)〔の善き行ない〕の残り香(薫習:過去の業の潜勢力)を香らせた慧者たちである。(34)

 

35.

 

 [36]1016.(1010) 〔彼らは〕バーヴァリを敬拝して、さらに、彼に右回り〔の礼〕を為して、結髪と皮衣を〔身に〕付け、全ての者たちが、北に向かって出発した。(35)

 

36.

 

 [37]1017.(1011) マラカ〔国〕のパティッターナへ、〔昔の〕都のマーヒッサティーへと、そのとき。さらに、また、ウッジェーニーへ、ゴーナッダへ、ヴェーディサへ、ヴァナサという呼び名あるところへと。(36)

 

37.

 

 [38]1018.(1012) さらに、また、コーサンビーへ、サーケータへ、さらに、最上の都のサーヴァッティーへ、セータブヤーへ、カピラヴァットゥへ、さらに、クシナーラーの都へと。(37)

 

38.

 

 [39]1019.(1013) さらに、パーヴァーへ、ボーガの城市へ、ヴェーサーリーへ、マガダの都へ、さらに、意が喜びとする喜ぶべきところ、〔美しき〕パーサーナカの塔廟へと。(38)

 

39.

 

 [40]1020.(1014) 〔喉が〕渇いた者が、冷たい水を〔求める〕ように、商人が、大きな利得を〔求める〕ように、炎暑に焼かれた者が、影を〔求める〕ように、〔彼らは〕大急ぎで、山に登った。(39)

 

40.

 

 [41]1021.(1015) その時点において、世尊は、比丘の僧団に囲まれ、比丘たちに、法(教え)を説示する──林のなかで獅子が吼えるように。(40)

 

41.

 

 [42]1022.(1016) アジタは見た──百光の太陽のような覚者を──あたかも、十五〔夜〕の月のように、円満成就〔の境地〕に至り着いた〔覚者〕を。(41)

 

42.

 

 [43]1023.(1017) そこで、彼の五体において、さらに、円満成就の特徴(偉大なる人士の特相)を見て、一方に立ち、欣喜した者となり、諸々の意による問いを尋ねた。(42)

 

43.

 

 [44]1024.(1018) 〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師の〕生まれ(年齢)に関して、説いてください。氏姓を説いてください。有している特相を〔説いてください〕。諸々の呪文における最奥義〔に到達しているか〕を説いてください。婆羅門(バーヴァリ)は、どれだけの者に教えていますか」〔と〕。(43)

 

44.

 

 [45]1025.(1019) 〔世尊は答えた〕「百二十年の寿命、そして、彼は、氏姓としてはバーヴァリ、彼の五体において、三つの特相があります。三つのヴェーダ(ヴェーダ聖典)の奥義に至る者です。(44)

 

45.

 

 [46]1026.(1020) 諸々の特相を、さらに、諸々の古伝を、語彙を含み活用を含め、五百〔の徒弟〕に教えます。自らの法(教え)における最奥義に至った者です」〔と〕。(45)

 

46.

 

 [47]1027.(1021) 〔アジタが尋ねた〕「最上の人よ、渇愛を断つ方よ、バーヴァリの〔三つの〕特相についての〔あなたの〕精査を明示してください。わたしたちに、疑うところが有ってはいけません」〔と〕。(46)

 

47.

 

 [48]1028.(1022) 〔世尊は答えた〕「〔バーヴァリは〕顔を舌で覆い隠します。彼の眉間には白毫があります。覆蔵された衣の陰部(陰馬蔵)があります。学徒よ、このように知りなさい」〔と〕。(47)

 

48.

 

 [49]1029.(1023) まさに、何であれ、問いを、〔言葉によって〕聞かずに、〔意によって〕聞いて、〔その〕問いが〔正しく〕説き明かされたとき、全ての人は、感嘆〔の思い〕が生じ、〔世尊に〕合掌を為し、熟慮する。(48)

 

49.

 

 [50]1030.(1024) 「いったい、誰が──あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)であれ、あるいは、また、スジャーの亭主たるインダ(インドラ神)であれ──意によって問いが尋ねられたとき、このことを、誰に答えるというのだろう」〔と〕。(49)

 

50.

 

 [51]1031.(1025) 〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師である〕バーヴァリは、頭のことを、さらに、頭が落ちることを、遍く問い尋ねます。世尊よ、それを説き明かしてください。聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除いてください」〔と〕。(50)

 

51.

 

 [52]1032.(1026) 〔世尊は答えた〕「『無明が、頭である』と知りなさい。明知は、頭(無明)を落とすものにして、諸々の信と気づき()と禅定(定・三昧)に、〔涅槃への〕欲〔の思い〕(意欲)と〔揺るぎない〕精進に、結び付いています」〔と〕。(51)

 

52.

 

 [53]1033.(1027) そののち、学徒は、大いなる感嘆〔の思い〕で〔身を〕堅くして、一つの肩に皮衣を掛けて、〔世尊の両の〕足に、頭をもって平伏した。(52)

 

53.

 

 [54]1034.(1028) 〔アジタが言った〕「敬愛なる方よ、バーヴァリ婆羅門は、徒弟たちと共に、勇躍する心の者となり、悦意の者となり、眼ある方よ、貴君の〔両の〕足を敬拝します」〔と〕。(53)

 

54.

 

 [55]1035.(1029) 〔世尊は答えた〕「バーヴァリ婆羅門は、徒弟たちと共に、安楽の者と成れ。さらに、また、あなたも、安楽の者と成れ。学徒よ、長きにわたり生きよ。(54)

 

55.

 

 [56]1036.(1030) では、バーヴァリの、あるいは、あなたの、全ての者たちの、一切の疑念に〔答えましょう〕。〔問い尋ねの〕機会が作り為されました。それが何であれ、〔あなたたちが〕意によって求めるなら、〔それを〕尋ねなさい」〔と〕。(55)

 

56.

 

 [57]1037.(1031) 正覚者によって〔問い尋ねの〕機会が作り為され、坐って、合掌の者となり、そこにおいて、アジタは、第一の問いを、如来に尋ねた。(56)

 

 [58]諸々の序の詩偈は〔以上で〕終了となる。

 

1. 2. 1. アジタ学徒の問い

 

57.

 

 [59]1038.(1032) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──世〔の人々〕は、まさに、何によって覆われているのですか。まさに、何によって光り輝かないのですか。〔あなたは〕何を、それ(世の人々)にとっての汚れと説くのですか。いったい、何を、それにとっての大いなる恐怖と〔説くのですか〕。(1)

 

58.

 

 [60]1039.(1033) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──アジタよ、世〔の人々〕は、無明によって覆われています。物欲〔の思い〕(物惜の心)あるがゆえに、怠り〔の思い〕(放逸の心)あるがゆえに、光り輝かないのです。〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世の人々にとっての〕汚れと説きます。苦しみを、それにとっての大いなる恐怖と〔説きます〕。(2)

 

59.

 

 [61]1040.(1034) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます。何が、〔それらの〕流れの防護となり、〔それらの〕流れの統御となるのかを、〔わたしに〕説いてください。何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれるのですか。(3)

 

60.

 

 [62]1041.(1035) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──アジタよ、世において、それらの〔欲望の〕流れがあるとして、気づき()が、それら〔の流れ〕の防護となり、〔それらの〕流れの統御となると、〔わたしは〕説きます。智慧(慧・般若)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます。(4)

 

61.

 

 [63]1042.(1036) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──まさしく、そして、智慧が〔説かれ〕、さらに、また、気づきが〔説かれました〕。敬愛なる方よ、では、名前と形態(名色:現象世界)を、これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。どこにおいて、この〔名前と形態〕は破却されるのですか。(5)

 

62.

 

 [64]1043.(1037) 〔世尊は答えた〕──〔あなたが〕尋ねた、〔まさに〕その、この問いですが、アジタよ、それを、あなたに説きましょう。そこにおいて、そして、名前(:精神的事象)が、さらに、形態(:物質的形態)が、残りなく破却されるとして──識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の止滅によって、ここにおいて、この〔名前と形態〕は破却されます。(6)

 

63.

 

 [65]1044.(1038) 〔尊者アジタが尋ねた〕──そして、彼ら、法(真理)を究めた者(阿羅漢)たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者(有学)たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください。(7)

 

64.

 

 [66]1045.(1039) 〔世尊は答えた〕──諸々の欲望〔の対象〕について貪り求めないように。意に濁りなき者として存するように。一切の法(事象)に巧みな智ある者として、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。ということで──(8)

 

 [67]アジタ学徒の問いが、第一となる。

 

1. 2. 2. ティッサ・メッテイヤ学徒の問い

 

65.

 

 [68]1046.(1040) かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕──誰が、ここに、〔この〕世において、〔常に〕満ち足りているのですか。誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか。誰が、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されないのですか。誰を、「偉大なる人士である」と、〔あなたは〕説くのですか。誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのですか。(1)

 

66.

 

 [69]1047.(1041) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッテイヤよ、諸々の欲望〔の対象〕について、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)──渇愛を離れた、常に気づきある者──〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘──彼に、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません。(2)

 

67.

 

 [70]1048.(1042) 彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されません。彼を、「偉大なる人士である」と、〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです。ということで──(3)

 

 [71]ティッサ・メッテイヤ学徒の問いが、第二となる。

 

1. 2. 3. プンナカ学徒の問い

 

68.

 

 [72]1049.(1043) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──動揺することなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。何に依存する者たちとして、聖賢たちは、人間たちは、士族たちは、婆羅門たちは、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(1)

 

69.

 

 [73]1050.(1044) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ、彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのは、プンナカよ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが、〔自らの〕老に依存し、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです。(2)

 

70.

 

 [74]1051.(1045) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですが、世尊よ、どうでしょう、まさに、祭祀の道に怠りなき彼らは、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(3)

 

71.

 

 [75]1052.(1046) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ、〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします。〔しかしながら、実のところは〕利得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望します。彼らは、祭祀という束縛()ある者たちであり、〔迷いの〕生存()にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、「生と老を超えてはいない」と、〔わたしは〕説きます。(4)

 

72.

 

 [76]1053.(1047) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、〔生と老を〕超えていないなら──敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、諸々の祭祀によって〔超えていないなら〕──そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(5)

 

73.

 

 [77]1054.(1048) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ、世における彼此〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、「彼は、生と老を超えた」と、〔わたしは〕説きます。ということで──(6)

 

 [78]プンナカ学徒の問いが、第三となる。

 

1. 2. 4. メッタグー学徒の問い

 

74.

 

 [79]1055.(1049) かくのごとく、尊者メッタグーが〔尋ねた〕──世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。〔わたしは〕思います──あなたのことを、〔真の〕知に至る方と、自己を修めた方と。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか。(1)

 

75.

 

 [80]1056.(1050) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ、まさに、〔あなたは〕わたしに、苦しみの起源を尋ねました。それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生します。(2)

 

76.

 

 [81]1057.(1051) すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づきます。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり、苦しみの出生の起源を随観する者となり。(3)

 

77.

 

 [82]1058.(1052) 〔尊者メッタグーが尋ねた〕──〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。慧者たちは、いったい、どのように、激流を超え渡るのですか。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(4)

 

78.

 

 [83]1059.(1053) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ、あなたに、法(真理)を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔あるがままの法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(5)

 

79.

 

 [84]1060.(1054) 〔尊者メッタグーが言った〕──そして、その〔あるがままの法〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の法(真理)を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(6)

 

80.

 

 [85]1061.(1055) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これらのもの(認識の対象)にたいする、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように。(7)

 

81.

 

 [86]1062.(1056) このような住ある者となり、〔常に〕気づきある怠りなき者として──〔あるがままに〕行なう、比丘として、諸々のわがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)を捨棄して──知ある者は、まさしく、この〔世において〕、苦しみを捨棄するように。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くように〕。(8)

 

82.

 

 [87]1063.(1057) 〔尊者メッタグーが言った〕──偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。世尊よ、まさに、たしかに、〔あなたは〕苦しみを捨棄しました。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(9)

 

83.

 

 [88]1064.(1058) 牟尼よ、あなたが、彼らを、停滞なく教え諭すなら、そして、また、彼らは、まちがいなく、苦しみを捨棄するでありましょう。龍たる方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしも〕共に赴いて、礼拝します。世尊よ、まさしく、また、わたしをも、停滞なく教え諭してください。(10)

 

84.

 

 [89]1065.(1059) 〔世尊は答えた〕──彼のことを、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に至る者と、〔あなたが〕証知するであろうなら、無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と、〔あなたが証知するであろうなら〕、まさに、たしかに、彼は、この激流を超えたのです。そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱積なく疑いなき者です。(11)

 

85.

 

 [90]1066.(1060) そして、彼は、知ある者であり、〔真の〕知に至る者であり──人として、この〔世において〕、種々なる生存にたいする、この執着を捨てて──彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、「彼は、生と老を超えた」と、〔わたしは〕説きます。ということで──(12)

 

 [91]メッタグー学徒の問いが、第四となる。

 

1. 2. 5. ドータカ学徒の問い

 

86.

 

 [92]1067.(1061) かくのごとく、尊者ドータカが〔尋ねた〕──世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです。(1)

 

87.

 

 [93]1068.(1062) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ、まさに、それでは、熱く為しなさい──まさしく、この〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり。これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです。(2)

 

88.

 

 [94]1069.(1063) 〔尊者ドータカが言った〕──わたしは、見ます──天〔の神々〕と人間たちの世において、〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼ある方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしは〕礼拝します。釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください。(3)

 

89.

 

 [95]1070.(1064) 〔世尊は答えた〕──わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません。ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕証知しながら、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです。(4)

 

90.

 

 [96]1071.(1065) 〔尊者ドータカが言った〕──梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください──わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、遠離の法(教え)を。すなわち、わたしが、虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく、まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として、依存なき者として、〔あるがままに〕行なうべく。(5)

 

91.

 

 [97]1072.(1066) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ、あなたに、〔真の〕寂静を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔真の寂静〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(6)

 

92.

 

 [98]1073.(1067) 〔尊者ドータカが言った〕──そして、その〔真の寂静〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の寂静を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(7)

 

93.

 

 [99]1074.(1068) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これを、「世における執着〔の対象〕である」と知って、種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません。ということで──(8)

 

 [100]ドータカ学徒の問いが、第五となる。

 

1. 2. 6. ウパシーヴァ学徒の問い

 

94.

 

 [101]1075.(1069) かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕──釈迦〔族〕の方よ、わたしは、大いなる激流を、独りで、〔何にも〕依存せず、超えることが耐えられません。一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それに依存し、この激流を超えるのです。(1)

 

95.

 

 [102]1076.(1070) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、無所有〔の境地〕を〔常に〕見ている、気づきの者となり、「〔何も〕存在しない」という〔思い、すなわち、無所有の境地に〕依存して、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、諸々の議論から離れた者となり、夜に、昼に、渇愛の滅尽を証見しなさい。(2)

 

96.

 

 [103]1077.(1071) かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕──〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のもの(他者・他物)を捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱(有想解脱)における最高のものにたいし信念した者──いったい、彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するのでしょうか。(3)

 

97.

 

 [104]1078.(1072) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱における最高のものにたいし信念した者──彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するでしょう。(4)

 

98.

 

 [105]1079.(1073) 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕──もし、彼が、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するであろうなら、一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕、まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅してしまうのでしょうか。(5)

 

99.

 

 [106]1080.(1074) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、たとえば、風の勢いで飛び散った炎が、滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づかないのです(名づけを離れた存在となる)。(6)

 

100.

 

 [107]1081.(1075) 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕──その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常久に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(7)

 

101.

 

 [108]1082.(1076) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、滅却に至った者には、量るもの(:認識根拠)が存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。一切の法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです。ということで──(8)

 

 [109]ウパシーヴァ学徒の問いが、第六となる。

 

1. 2. 7. ナンダ学徒の問い

 

102.

 

 [110]1083.(1077) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──「世において、諸々の牟尼が存在する」〔と〕、〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くのですか〕。さてまた、知恵を具有した者を、牟尼と説くのですか。それとも、まさに、〔何らかの〕生き方を具有した者を、〔牟尼と説くのですか〕。(1)

 

103.

 

 [111]1084.(1078) 〔世尊は答えた〕──見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知恵によって〔説か〕ず──ナンダよ、牟尼たちのことを、この〔世において〕、智者たちが説くとして。煩悶なく願望なく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩むなら、すなわち、彼らを、「牟尼たちである」と、〔わたしは〕説きます。(2)

 

104.

 

 [112]1085.(1079) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。世尊よ、どうでしょう、まさに、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩みながら、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(3)

 

105.

 

 [113]1086.(1080) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ、彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。たとえ、何であれ、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩むも、「生と老を超えてはいない」と、〔わたしは〕説きます。(4)

 

106.

 

 [114]1087.(1081) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。牟尼よ、もし、彼らを、激流を超えざる者たちと〔あなたが〕説くなら、そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(5)

 

107.

 

 [115]1088.(1082) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ、わたしは、「全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている」と説くのではありません。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、「彼らは、まさに、人として、激流を超えた者たちである」と、〔わたしは〕説きます。(6)

 

108.

 

 [116]1089.(1083) 〔尊者ナンダが言った〕──偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、「彼らは、激流を超えた者たちである」と、わたしもまた説きます。ということで──(7)

 

 [117]ナンダ学徒の問いが、第七となる。

 

1. 2. 8. ヘーマカ学徒の問い

 

109.

 

 [118]1090.(1084) かくのごとく、尊者ヘーマカが〔言った〕──ゴータマの教えより以前に、「かくのごとく存していた」「かくのごとく成るであろう」〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです。そこにおいて、わたしは、大いに喜びませんでした。(1)

 

110.

 

 [119]1091.(1085) さらに、あなたも、わたしに、法(教え)を告げ知らせてください。牟尼よ、渇愛の絶滅〔という法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(2)

 

111.

 

 [120]1092.(1086) 〔世尊は答えた〕──この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた諸々の愛しい形態にたいし、ヘーマカよ、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を除き去ることが、死滅なき涅槃の境処です。(3)

 

112.

 

 [121]1093.(1087) このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。そして、彼らは、常に寂静なる者たちであり、世における執着を超えた者たちです。ということで──(4)

 

 [122]ヘーマカ学徒の問いが、第八となる。

 

1. 2. 9. トーデイヤ学徒の問い

 

113.

 

 [123]1094.(1088) かくのごとく、尊者トーデイヤが〔尋ねた〕──彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕。(1)

 

114.

 

 [124]1095.(1089) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──トーデイヤよ、彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、他の解脱は〔存在し〕ません。(2)

 

115.

 

 [125]1096.(1090) 〔尊者トーデイヤが尋ねた〕──彼は、依存なき者ですか。それとも、願い求める者ですか。彼は、智慧ある者ですか。それとも、智慧によって想い描く者(思量し分別する者)ですか。釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を識知できるように、一切に眼ある方よ、それを、わたしに説明してください。(3)

 

116.

 

 [126]1097.(1091) 〔世尊は答えた〕──彼は、依存なき者です。しかしながら、願い求める者ではありません。彼は、智慧ある者です。しかしながら、智慧によって想い描く者ではありません。トーデイヤよ、このように、また、牟尼を識知しなさい──無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と。ということで──(4)

 

 [127]トーデイヤ学徒の問いが、第九となる。

 

1. 2. 10. カッパ学徒の問い

 

117.

 

 [128]1098.(1092) かくのごとく、尊者カッパが〔言った〕──大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、敬愛なる方よ、〔依り所となる〕洲を説いてください。そして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください。他のものが存在するべくもない、このとおりのものとして。(1)

 

118.

 

 [129]1099.(1093) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──カッパよ、大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を、カッパよ、あなたに説きましょう。(2)

 

119.

 

 [130]1100.(1094) 無一物にして無執取であること──これが、他のものが〔存在するべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です。それを、「涅槃である」と、〔わたしは〕説きます──「老と死魔の完全なる滅尽である」〔と〕。(3)

 

120.

 

 [131]1101.(1095) このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません。彼らは、悪魔の従僕たちではありません。ということで──(4)

 

 [132]カッパ学徒の問いが、第十となる。

 

1. 2. 11. ジャトゥカンニ学徒の問い

 

121.

 

 [133]1102.(1096) かくのごとく、尊者ジャトゥカンニが〔言った〕──わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者(ブッダ)のことを聞いて、激流を超え行く方に欲なき〔あり方〕を尋ねるために、やってまいりました。〔一切を知る〕眼と共に生じた方よ、寂静の境処を説いてください。世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください。(1)

 

122.

 

 [134]1103.(1097) なぜなら、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです──光り輝く太陽が、〔その〕輝きによって地を〔征服する〕ように。広き智慧ある方よ、少なき智慧のわたしに、法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を。(2)

 

123.

 

 [135]1104.(1098) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ジャトゥカンニよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい。離欲〔の境地〕を「平安である」と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたには、何も見出されてはなりません。(3)

 

124.

 

 [136]1105.(1099) それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来において、あなたには、何も有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう。(4)

 

125.

 

 [137]1106.(1100) 婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)にたいし、貪求〔の思い〕を離れた者には、彼には、諸々の煩悩は見出されません──それら(煩悩)によって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが。ということで──(5)

 

 [138]ジャトゥカンニ学徒の問いが、第十一となる。

 

1. 2. 12. バドラーヴダ学徒の問い

 

126.

 

 [139]1107.(1101) かくのごとく、尊者バドラーヴダが〔言った〕──家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に、愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に、妄想を捨棄する思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います。龍たる方の〔言葉を〕聞いて、〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう。(1)

 

127.

 

 [140]1108.(1102) 勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(2)

 

128.

 

 [141]1109.(1103) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──バドラーヴダよ、執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くように。上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、まさに、〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、〔彼らが〕執取するなら、まさしく、その〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです。(3)

 

129.

 

 [142]1110.(1104) それゆえに、〔このことを〕覚知している者として、気づきある比丘は、一切の世において、何も執取しないように──死魔の領域において執着するこの人々を、「執取〔の対象〕に執着する者たちである」と〔あるがままに〕見ながら。ということで──(4)

 

 [143]バドラーヴダ学徒の問いが、第十二となる。

 

1. 2. 13. ウダヤ学徒の問い

 

130.

 

 [144]1111.(1105) かくのごとく、尊者ウダヤが〔言った〕──〔世俗の〕塵を離れ〔独り〕端坐する〔真の〕瞑想者たる方に、為すべきことを為した煩悩なき方に、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、〔わたしに〕説いてください。(1)

 

131.

 

 [145]1112.(1106) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウダヤよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄すること、さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること、そして、〔心の〕沈滞を除き去ること、諸々の悔恨〔の思い〕を防ぎ護ること──(2)

 

132.

 

 [146]1113.(1107) 放捨(:選択せず差別なき心)と気づき()という清浄なる〔境地〕、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕──〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、〔わたしは〕説きます。(3)

 

133.

 

 [147]1114.(1108) 〔尊者ウダヤが尋ねた〕──いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか。いったい、何が、それ(世の人々)にとって、彷徨となるのですか。何を捨棄することで、それにとって、「涅槃」と説かれるのですか。(4)

 

134.

 

 [148]1115.(1109) 〔世尊は答えた〕──愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあります。思考が、それにとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、「涅槃」と説かれます。(5)

 

135.

 

 [149]1116.(1110) 〔尊者ウダヤが尋ねた〕──どのように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されるのですか。〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました。〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです。(6)

 

136.

 

 [150]1117.(1111) 〔世尊は答えた〕──かつまた、内も、かつまた、外も、感受〔の結果〕(:楽苦の知覚)を愉悦せずにいる者──このように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されます。ということで──(7)

 

 [151]ウダヤ学徒の問いが、第十三となる。

 

1. 2. 14. ポーサーラ学徒の問い

 

137.

 

 [152]1118.(1112) かくのごとく、尊者ポーサーラが〔尋ねた〕──〔心に〕動揺なく、〔一切の〕疑念を断ち、過去を〔過去として、あるがままに〕指し示す、〔まさに〕その、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。(1)

 

138.

 

 [153]1119.(1113) 実体を離れた形態の表象ある者(形態の表象を超越した者)の、一切の身体を捨棄する者の、「かつまた、内も、かつまた、外も、何であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている者の──〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます。そのような種類の者は、どのように導かれるのですか。(2)

 

139.

 

 [154]1120.(1114) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ポーサーラよ、一切の識知〔作用〕の止住(固着・停滞)を証知している如来は、この止住している〔識知作用〕を〔あるがままに〕知ります。信念したものを〔知り〕、その行き着く所を〔知ります〕。(3)

 

140.

 

 [155]1121.(1115) 無所有〔の境地〕の発生を知って、「愉悦は、〔人を〕束縛するものである」と〔知ります〕。このように、このことを証知して、そののち、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観察します。〔梵行の〕完成者にして〔真の〕婆羅門たる彼には、この真実の知恵があります。ということで──(4)

 

 [156]ポーサーラ学徒の問いが、第十四となる。

 

1. 2. 15. モーガラージャン学徒の問い

 

141.

 

 [157]1122.(1116) かくのごとく、尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕──わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に尋ねましたが、眼ある方は、わたしに説き明かしてくれませんでした。しかしながら、「天の聖賢は、三度目には説き明かしてくれる」と、わたしは聞きました。(1)

 

142.

 

 [158]1123.(1117) この世〔の人々〕も、他の世〔の人々〕も、天〔の世〕を含む梵の世〔の神々〕も、福徳あるゴータマの、あなたの、見解を証知しません。(2)

 

143.

 

 [159]1124.(1118) このような崇高なる見者に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。どのように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ないのですか。(3)

 

144.

 

 [160]1125.(1119) 〔世尊は答えた〕──モーガラージャンよ、常に気づきある者として、世〔のあり様〕を「空である」と注視しなさい。自己についての偏った見解を取り去って、このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです。このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ません。ということで──(4)

 

 [161]モーガラージャン学徒の問いが、第十五となる。

 

1. 2. 16. ピンギヤ学徒の問い

 

145.

 

 [162]1126.(1120) かくのごとく、尊者ピンギヤが〔言った〕──老いた者として、わたしは存しています──力はなく、色艶は離れ、眼は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔そのような老齢の者として〕。わたしが、まさしく、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはなりません。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を。(1)

 

146.

 

 [163]1127.(1121) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ、〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態について悩み苦しみます。〔彼らが〕諸々の形態について打ちのめされているのを見て、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、形態を捨棄するのです。(2)

 

147.

 

 [164]1128.(1122) 〔尊者ピンギヤが言った〕──四方(東西南北)に、四維(北西・南西・南東・北東の四隅)に、上に、下に、これらの十方に──あなたにとっては、見られたことなきものも、聞かれたことなきものも、思われたことなきものも、さらに、識られたことなきものも、世において、何であれ、存在しないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を。(3)

 

148.

 

 [165]1129.(1123) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ、渇愛〔の思い〕に囚われた人間たちを、熱苦が生じ老に打ち負かされた者たちを、〔常に〕見ながら、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、渇愛を捨棄するのです。ということで──(4)

 

 [166]ピンギヤ学徒の問いが、第十六となる。

 

1. 3. 彼岸に至るものへの諸々の賛嘆の詩偈

 

 [167]世尊は、この〔言葉〕を言いました。マガダ〔国〕に住んでいる〔世尊〕は、パーサーナカ塔廟において、〔バーヴァリ婆羅門の〕侍者である十六者の婆羅門たちに、〔問答を〕要請された者として、〔問いを〕尋ねられては尋ねられた者として、問いを説き明かしました。もし、また、一つ一つの問いの、義(意味)を了知して、法(性質)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践するなら、老と死の彼岸に、まさしく、至るでしょう。彼岸に至るべきものとして、これらの法(教え)はある、ということで、それゆえに、この法(教え)の教相には、まさしく、「彼岸に至るもの」という同義語があります。

 

149.

 

 [168]1130.(1124) アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、さらに、メッタグーは──ドータカ、そして、ウパシーヴァ、そして、ナンダ、さらに、ヘーマカは──(1)

 

150.

 

 [169]1131.(1125) トーデイヤとカッパの両者、そして、賢者たるジャトゥカンニは──バドラーヴダ、そして、ウダヤ、そして、また、ポーサーラ婆羅門、そして、思慮あるモーガラージャン、そして、大いなる聖賢のピンギヤは──(2)

 

151.

 

 [170]1132.(1126) これらの者たちは、覚者のもとへと近しく赴いた──行ないを成就した聖賢のもとへと。諸々の精緻なる問いを尋ねつつ、最勝の覚者のもとへと、〔彼らは〕近しく赴いた。(3)

 

152.

 

 [171]1133.(1127) 覚者は、彼らに説き明かした──問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。諸々の問いを〔正しく〕説き明かすことで、牟尼は、婆羅門たちを満足させた。(4)

 

153.

 

 [172]1134.(1128) 覚者によって、太陽の眷属によって、眼ある方によって、満足させられた彼らは、優れた智慧ある方の現前において、梵行(禁欲清浄行)を歩んだ。(5)

 

154.

 

 [173]1135.(1129) すなわち、一つ一つの問いに覚者が説示したとおり、そのとおりに、彼が実践するなら、〔彼は〕此岸から彼岸に至るであろう。(6)

 

155.

 

 [174]1136.(1130) 最上の道を修めている者は、此岸から彼岸に至るであろう。それは、彼岸に至るための道であり、それゆえに、「彼岸に至るもの」と〔呼ばれる〕。(7)

 

1. 4. 彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈

 

156.

 

 [175]1137.(1131) かくのごとく、尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕──〔わたしは〕「彼岸に至るもの」を復唱するでありましょう。〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は、すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました。無欲で、〔欲の〕林なく、龍たる方が、何を因として、虚偽を話すというのでしょう。(1)

 

157.

 

 [176]1138.(1132) 〔世俗の〕垢と〔無明の〕迷妄を捨棄した方の、〔我想の〕思量()と〔虚栄の〕偽装()を捨棄する方の、栄誉を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう。(2)

 

158.

 

 [177]1139.(1133) 〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は、世の終極に至り一切の〔迷いの〕生存を超克した方は、煩悩なく一切の苦を捨棄する方は、真理を呼び名とする方は、梵(婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです。(3)

 

159.

 

 [178]1140.(1134) たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように、このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです。(4)

 

160.

 

 [179]1141.(1135) ゴータマの教えより以前に、「かくのごとく存していた」「かくのごとく成るであろう」〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです。(5)

 

161.

 

 [180]1142.(1136) 独り、〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として、彼はあります──光輝ある方であり、光の作り手たる方です。ゴータマは、広き智慧ある方です。ゴータマは、広き思慮ある方です。(6)

 

162.

 

 [181]1143.(1137) その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです。(7)

 

163.

 

 [182]1144.(1138) 〔バーヴァリが言った〕──その方から、いったい、どうして、〔おまえが〕離れ住むというのだろう──ピンギヤよ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。(8)

 

164.

 

 [183]1145.(1139) その方は、おまえに、法(真理)を説示してくださったのだ──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ。(9)

 

165.

 

 [184]1146.(1140) 〔ピンギヤは言った〕──わたしは、その方から、離れ住むことはありません──婆羅門よ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。(10)

 

166.

 

 [185]1147.(1141) その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです。(11)

 

167.

 

 [186]1148.(1142) 〔わたしは〕見ます──その方を、眼で〔見る〕かのように、意で──婆羅門よ、夜に、昼に、〔気づきを〕怠ることなく。夜は、〔覚者を〕礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕離れ住むことなき者と、〔自らを〕思うのです。(12)

 

168.

 

 [187]1149.(1143) そして、〔迷いなき〕信は、さらに、〔真の〕喜悦は、〔切なる〕意は、かつまた、〔怠りなき〕気づきは──これらは、ゴータマの教えから離れず、広き智慧ある方が行く、その〔方角〕その方角に、まさしく、その〔場〕その〔場〕に、〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです。(13)

 

169.

 

 [188]1150.(1144) 老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの身体が、まさしく、その〔場〕に至ることはありません。そこにおいて、常に思惟が進み行くことで、〔その場に〕行き着くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕と結ばれているのです。(14)

 

170.

 

 [189]1151.(1145) 汚泥に臥し震えおののきながら、〔わたしは〕洲から洲へと漂いました。そこで、〔わたしは〕正覚者を見ました──激流を超えた煩悩なき方を。(15)

 

171.

 

 [190]1152.(1146) 〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕──すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが──信を解き放った者が〔そう〕有ったように、まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです。ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう。(16)

 

172.

 

 [191]1153.(1147) 〔ピンギヤは言った〕──この〔わたし〕は、より一層、〔心が〕清まります(より信を強くする)──牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕。〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者は、〔心に〕鬱積なく即応即答〔の智慧〕ある方です。(17)

 

173.

 

 [192]1154.(1148) 上天〔の神々〕たちのことを証知して、彼此の一切を知っておられます。疑いありと明言する者たちのために、諸々の問いの終極を為す、〔世の〕教師たる方です。(18)

 

174.

 

 [193]1155.(1149) それには、どこにも喩えが存在しない、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕に、〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません。このように、わたしのことを、〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください。ということで──(19)

 

 [194]彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈は〔以上で〕終了となる。

 

2. 彼岸に至るものの章についての釈示

 

2. 1. 諸々の問いについての釈示

 

2. 1. 1. アジタ学徒の問いについての釈示

 

1.

 

 [195]1038.(1032) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──世〔の人々〕は、まさに、何によって覆われているのですか。まさに、何によって光り輝かないのですか。〔あなたは〕何を、それ(世の人々)にとっての汚れと説くのですか。いったい、何を、それにとっての大いなる恐怖と〔説くのですか〕。(1)

 

 [196]「世〔の人々〕は、まさに、何によって覆われているのですか」とは、「世」とは、地獄の世、畜生の胎の世、餓鬼の境域の世、人間の世、天の世、〔五つの〕範疇()の世、〔十八の〕界域()の世、〔十二の認識の〕場所()の世、この世、他の世、梵の世、天の世。これが、世と説かれる。この世〔の人々〕は、何によって、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれているのか。ということで、「世〔の人々〕は、まさに、何によって覆われているのですか」。

 

 [197]「かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「アジタ」とは、その婆羅門の、名前としての、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。ということで、「かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕」。

 

 [198]「まさに、何によって光り輝かないのですか」とは、何によって、世〔の人々〕は、光り輝かず、照り輝かず、輝き渡らず、遍照せず、知られず、覚知されないのか。ということで、「まさに、何によって光り輝かないのですか」。

 

 [199]「〔あなたは〕何を、それ(世の人々)にとっての汚れと説くのですか」とは、何が、世〔の人々〕にとっての、汚すものであり、付着するものであり、結縛するものであり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)であるのか。何によって、世〔の人々〕は、汚され、等しく汚され、近しく汚され、汚れ、汚染され、塗布され、交わり合い、居着き、付着し、障害となっているのか。〔あなたは〕説くのか、〔あなたは〕告げ知らせるのか、〔あなたは〕説示するのか、〔あなたは〕報知するのか、〔あなたは〕確立するのか、〔あなたは〕開顕するのか、〔あなたは〕区分するのか、〔あなたは〕明瞭と為すのか、〔あなたは〕明示するのか。ということで、「〔あなたは〕何を、それにとっての汚れと説くのですか」。

 

 [200]「いったい、何を、それにとっての大いなる恐怖と〔説くのですか〕」とは、何が、世〔の人々〕にとっての、恐怖であり、大いなる恐怖であり、逼悩であり、打撃であり、禍であり、災禍であるのか。ということで、「いったい、何を、それにとっての大いなる恐怖と〔説くのですか〕」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [201]かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──「世〔の人々〕は、まさに、何によって覆われているのですか。まさに、何によって光り輝かないのですか。〔あなたは〕何を、それ(世の人々)にとっての汚れと説くのですか。いったい、何を、それにとっての大いなる恐怖と〔説くのですか〕」と。

 

2.

 

 [202]1039.(1033) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──アジタよ、世〔の人々〕は、無明によって覆われています。物欲〔の思い〕(物惜の心)あるがゆえに、怠り〔の思い〕(放逸の心)あるがゆえに、光り輝かないのです。〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世の人々にとっての〕汚れと説きます。苦しみを、それにとっての大いなる恐怖と〔説きます〕。(2)

 

 [203]「世〔の人々〕は、無明によって覆われています」とは、「無明」とは、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知、過去の極(前際:過去の種々相)についての無知、未来の極(後際:未来の種々相)についての無知、過去と未来の極についての無知、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)についての無知。すなわち、このような形態の、無知、無見、知悉(現観)なき、随覚なき、正覚なき、理解(通達)なき、包摂なき、深解なき、正観なき、注視なき、注視の行為なき、浅き思慮、愚かさ、正知なき、迷妄、強き迷妄、等しき迷妄、無明、無明の激流、無明の束縛、無明の悪習、無明の妄執、無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元である。これが、無明と説かれる。

 

 [204]「世」とは、地獄の世、畜生の胎の世、餓鬼の境域の世、人間の世、天の世、〔五つの〕範疇の世、〔十八の〕界域の世、〔十二の認識の〕場所の世、この世、他の世、梵の世、天の世。これが、世と説かれる。この世〔の人々〕は、この無明によって、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれている。ということで、「世〔の人々〕は、無明によって覆われています」。

 

 [205]「アジタよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲()を滅壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒()を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄()を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量()を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を滅壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れ(煩悩)を滅壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(意味)の味を、法(教え)の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心(瞑想)を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想(四禅)を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱(八解脱)を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき(安般念)という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立(四念住・四念処)を、四つの正しい精励(四正勤)を、四つの神通の足場(四神足)を、五つの機能(五根)を、五つの力(五力)を、七つの覚りの支分(七覚支)を、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)を、六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)を、六つの覚者の法(一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する・一切の言葉の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する・一切の意の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する・覚者たる世尊の知恵は、過去において打破されざるものとしてある・覚者たる世尊の知恵は、未来において打破されざるものとしてある・覚者たる世尊の知恵は、現在において打破されざるものとしてある)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる概念(施設)であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──アジタよ」。

 

 [206]「物欲〔の思い〕(物惜の心)あるがゆえに、怠り〔の思い〕(放逸の心)あるがゆえに、光り輝かないのです」とは、物欲は、五つの物惜と説かれる。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、心の、緊縮すること、収取あることである。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇()の物惜もまた、物惜であり、〔十八の〕界域()の物惜もまた、物惜であり、〔十二の認識の〕場所()の物惜もまた、物惜であり、収取である。〔これが〕物惜と説かれる。怠り(放逸)は、あるいは、身体による悪しき行ないについて、あるいは、言葉による悪しき行ないについて、あるいは、意による悪しき行ないについて、あるいは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)について、説かれるべきものであり、心の、放縦、放縦により〔善を〕生起させないこと、諸々の善なる法(性質)のための修行において、真剣に為さないこと、常に為さないこと、停滞なく為さないこと、畏縮した生活あること、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置いたこと、重荷(責任)を捨て置いたこと、習修しないこと、修行しないこと、多き行為なきこと、〔心の〕確立なきこと、専念〔努力〕なきこと、怠りである。すなわち、このような形態の、怠り、怠ること、怠りあることである。これが、怠りと説かれる。「物欲〔の思い〕あるがゆえに、怠り〔の思い〕あるがゆえに、光り輝かないのです」とは、そして、この物欲〔の思い〕によって、さらに、この怠り〔の思い〕によって、世〔の人々〕は、光り輝かず、照り輝かず、輝き渡らず、遍照せず、知られず、覚知されない。ということで、「物欲〔の思い〕あるがゆえに、怠り〔の思い〕あるがゆえに、光り輝かないのです」。

 

 [207]「〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世の人々にとっての〕汚れと説きます」とは、渇望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染、随貪、共感、愉悦、愉悦への貪欲、心の貪染、欲求、耽溺、固執、貪求、遍き貪求、執着(サンガ)、汚泥、動揺、幻惑、生じさせるもの(輪廻を生むもの)、産出させるもの(苦を生むもの)、貪愛(縫うもの)、網、流れ、執着(ヴィサッティカー)、糸、執着(ヴィサター)、専業するもの(業を作るもの)、伴侶、切願、〔迷いの〕生存に導くもの、〔欲の〕林、〔欲の〕林の下生え、親愛、愛執、期待、結縛、願望、願望すること、願望あること、形態()への願望、音声()への願望、臭気()への願望、味感()への願望、感触(所触)への願望、利得への願望、財産への願望、子供への願望、生命への願望、渇望、強き渇望、固き渇望、渇望すること、渇望あること、妄動、妄動すること、妄動あること、問尋あること、善を欲すること、法(正義)ならざるものへの貪欲(ラーガ)、不正への貪欲(ローバ)、欲念、欲念すること、切望、羨望、等しき切望、欲望の渇愛(欲愛)、生存の渇愛(有愛)、非生存の渇愛(非有愛)、形態〔の行境〕(色界)への渇愛、形態なき〔行境〕(無色界)への渇愛、止滅〔の入定〕(滅尽定)への渇愛、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛、激流、束縛、拘束、執取()、妨げ、妨害()、覆うもの、結縛するもの、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)、悪習(随眠)、妄執()、蔓、物欲、苦の根元、苦の因縁、苦の起源、悪魔の罠、悪魔の釣針、悪魔の餌、悪魔の境域、悪魔の居住、悪魔の境涯、悪魔の結縛、渇愛の川、渇愛の網、渇愛の革紐、渇愛の海、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。これが、渇望と説かれる。世〔の人々〕にとっての、汚すものであり、付着するものであり、結縛するものであり、付随する〔心の〕汚れである。この渇望〔の思い〕によって、世〔の人々〕は、汚され、等しく汚され、近しく汚され、汚れ、汚染され、塗布され、交わり合い、居着き、付着し、障害となっている。かくのごとく、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世の人々にとっての〕汚れと説きます」。

 

 [208]「苦しみを、それにとっての大いなる恐怖と〔説きます〕」とは、「苦しみ」とは、生の苦しみ、老の苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみ、地獄の苦しみ、畜生の胎の苦しみ、餓鬼の境域の苦しみ、人間の苦しみ、入胎を根元とする苦しみ、胎における止住を根元とする苦しみ、胎からの出起を根元とする苦しみ、生まれた者に連結する苦しみ、生まれた者が他者の配下となる苦しみ、自己の行動(自害)としての苦しみ、他者の行動(他害)としての苦しみ、苦痛の苦しみ、形成の苦しみ、変化の苦しみ、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋(かさぶた)、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみ、母の死の苦しみ、父の死の苦しみ、兄弟の死の苦しみ、姉妹の死の苦しみ、子の死の苦しみ、娘の死の苦しみ、親族の災厄の苦しみ、財物の災厄の苦しみ、病の災厄の苦しみ、戒の災厄の苦しみ、見解の災厄の苦しみ。それらの法(性質)には、最初あることから、生まれ来ることが覚知され、滅至あることから、止滅が覚知される。行為()に等しく依存したものとして、報い(異熟)がある。報いに等しく依存したものとして、行為がある。名前(:精神的事象)に等しく依存したものとして、形態(:物質的形態)がある。形態に等しく依存したものとして、名前がある。生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、苦しみのうちに確立し、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有るもの。これが、苦しみと説かれる。この苦しみが、世〔の人々〕にとっての、恐怖であり、大いなる恐怖であり、逼悩であり、打撃であり、禍であり、災禍である。ということで、「苦しみを、それにとっての大いなる恐怖と〔説きます〕」。それによって、世尊は言った。

 

 [209]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「アジタよ、世〔の人々〕は、無明によって覆われています。物欲〔の思い〕(物惜の心)あるがゆえに、怠り〔の思い〕(放逸の心)あるがゆえに、光り輝かないのです。〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世の人々にとっての〕汚れと説きます。苦しみを、それにとっての大いなる恐怖と〔説きます〕」と。

 

3.

 

 [210]1040.(1034) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます。何が、〔それらの〕流れの防護となり、〔それらの〕流れの統御となるのかを、〔わたしに〕説いてください。何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれるのですか。(3)

 

 [211]「諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます」とは、「諸々の〔欲望の〕流れ」とは、渇愛の流れ、見解の流れ、〔心の〕汚れの流れ、悪しき行ないの流れ、無明の流れ。「一切所に」とは、一切の〔認識の〕場所()に。「流れ行きます」とは、流れ出る、漏れ出る、流れる、転起する。眼からは、形態()に、流れ出る、漏れ出る、流れる、転起する、耳からは、音声()に、流れ出る……鼻からは、臭気()に、流れ出る……舌からは、味感()に、流れ出る……身からは、感触(所触)に、流れ出る……意からは、法(意の対象)に、流れ出る、漏れ出る、流れる、転起する。眼からは、諸々の形態への渇愛が、流れ出る、漏れ出る、流れる、転起する、耳からは、諸々の音声への渇愛が、流れ出る、漏れ出る、流れる、転起する、鼻からは、諸々の臭気への渇愛が、流れ出る……舌からは、諸々の味感への渇愛が、流れ出る……身からは、諸々の感触への渇愛が、流れ出る……意からは、諸々の法(意の対象)への渇愛が、流れ出る、漏れ出る、流れる、転起する。ということで、「諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます」。

 

 [212]「かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。……略([197]参照)……「かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕」。

 

 [213]「何が、〔それらの〕流れの防護となり」とは、何が、諸々の〔欲望の〕流れの、妨害となり、防護となり、統御となり、守護となり、保護となるのか。ということで、「何が、〔それらの〕流れの防護となり」。

 

 [214]「〔それらの〕流れの統御となるのかを、〔わたしに〕説いてください」とは、諸々の〔欲望の〕流れの、妨害となり、防護となり、統御となり、守護となり、保護となるのかを、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「〔それらの〕流れの統御となるのかを、〔わたしに〕説いてください」。

 

 [215]「何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれるのですか」とは、何によって、諸々の〔欲望の〕流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しないのか。ということで、「何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれるのですか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [216]かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──「諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます。何が、〔それらの〕流れの防護となり、〔それらの〕流れの統御となるのかを、〔わたしに〕説いてください。何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれるのですか」と。

 

4.

 

 [217]1041.(1035) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──アジタよ、世において、それらの〔欲望の〕流れがあるとして、気づき()が、それら〔の流れ〕の防護となり、〔それらの〕流れの統御となると、〔わたしは〕説きます。智慧(慧・般若)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます。(4)

 

 [218]「世において、それらの〔欲望の〕流れがあるとして」とは、すなわち、これらの流れが、わたし(ブッダ)によって、述べられ、述べ伝えられ、告げ知らされ、説示され、報知され、確立され、開顕され、区分され、明瞭と為され、明示されたとして。それは、すなわち、この、渇愛の流れ、見解の流れ、〔心の〕汚れの流れ、悪しき行ないの流れ、無明の流れである。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇()の世において、〔十八の〕界域()の世において、〔十二の認識の〕場所()の世において。ということで、「世において、それらの〔欲望の〕流れがあるとして」。「アジタよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。

 

 [219]「気づき()が、それら〔の流れ〕の防護となり」とは、「気づき」とは、すなわち、気づき()、随念、現念、気づきとしての、思念すること、保持すること、列挙すること、忘却なきこと、気づきとしての、気づきの機能(念根)、気づきの力(念力)、正しい気づき(正念)、気づきという正覚の支分(念覚支)、一路の道である。これが、気づきと説かれる。「防護」とは、妨害、防護、統御、守護、保護。ということで、「気づきが、それら〔の流れ〕の防護となり」。

 

 [220]「〔それらの〕流れの統御となると、〔わたしは〕説きます」とは、諸々の〔欲望の〕流れの、妨害となり、防護となり、統御となり、守護となり、保護となるものを、〔わたしは〕説くであろう、〔わたしは〕告げ知らせるであろう……略……〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。ということで、「〔それらの〕流れの統御となると、〔わたしは〕説きます」。

 

 [221]「智慧(慧・般若)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」とは、「智慧」とは、すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正知、〔導きの〕鞭、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。「智慧によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」とは、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(諸行)がある」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕()がある」と……。「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色)がある」と……。「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処)がある」と……。「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触()がある」と……。「接触という縁あることから、感受()がある」と……。「感受という縁あることから、渇愛()がある」と……。「渇愛という縁あることから、執取()がある」と……。「執取という縁あることから、生存()がある」と……。「生存という縁あることから、生()がある」と……。「生という縁あることから、老と死(老死)がある」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と……。「諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と……。「識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある」と……。「名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある」と……。「六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある」と……。「接触の止滅あることから、感受の止滅がある」と……。「感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある」と……。「渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある」と……。「執取の止滅あることから、生存の止滅がある」と……。「生存の止滅あることから、生の止滅がある」と……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「これは、苦しみである」と……。「これは、苦しみの集起である」と……。「これは、苦しみの止滅である」と……。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「これらは、諸々の煩悩()である」と……。「これは、諸々の煩悩の集起である」と……。「これは、諸々の煩悩の止滅である」と……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。「これらの法(性質)は、証知されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、捨棄されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、修行されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には……。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知っている者には、〔あるがままに〕見ている者には、智慧によって、これらの流れは、塞がれ、断絶され、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。ということで、「智慧によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」。それによって、世尊は言った。

 

 [222]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「アジタよ、世において、それらの〔欲望の〕流れがあるとして、気づき()が、それら〔の流れ〕の防護となり、〔それらの〕流れの統御となると、〔わたしは〕説きます。智慧(慧・般若)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」と。

 

5.

 

 [223]1042.(1036) かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──まさしく、そして、智慧が〔説かれ〕、さらに、また、気づきが〔説かれました〕。敬愛なる方よ、では、名前と形態(名色:現象世界)を、これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。どこにおいて、この〔名前と形態〕は破却されるのですか。(5)

 

 [224]「まさしく、そして、智慧が〔説かれ〕、さらに、また、気づきが〔説かれました〕」とは、「智慧」とは、すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能、智慧の力、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。「気づき」とは、すなわち、気づき、随念……略([219]参照)……正しい気づきである。ということで、「かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──まさしく、そして、智慧が〔説かれ〕、さらに、また、気づきが〔説かれました〕」。

 

 [225]「敬愛なる方よ、では、名前と形態(名色:現象世界)を」とは、「名前(:精神的事象)」とは、四つの形態なき範疇(無色蘊:受・想・行・識)。「形態(:物質的形態)」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「敬愛なる方よ、では、名前と形態を」。

 

 [226]「これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください」とは、「これを、わたしに」とは、〔わたしが〕尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕清信するところの、それを。「〔問いを〕尋ねられた者として」とは、尋ねられた者として、乞い求められた者として、要請された者として、清信された者として。「説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください」。

 

 [227]「どこにおいて、この〔名前と形態〕は破却されるのですか」とは、どこにおいて、この〔名前と形態〕は、止滅し、寂止し、滅至し、安息するのですか。ということで、「どこにおいて、この〔名前と形態〕は破却されるのですか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [228]かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕──「まさしく、そして、智慧が〔説かれ〕、さらに、また、気づきが〔説かれました〕。敬愛なる方よ、では、名前と形態(名色:現象世界)を、これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。どこにおいて、この〔名前と形態〕は破却されるのですか」と。

 

6.

 

 [229]1043.(1037) 〔世尊は答えた〕──〔あなたが〕尋ねた、〔まさに〕その、この問いですが、アジタよ、それを、あなたに説きましょう。そこにおいて、そして、名前(:精神的事象)が、さらに、形態(:物質的形態)が、残りなく破却されるとして──識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の止滅によって、ここにおいて、この〔名前と形態〕は破却されます。(6)

 

 [230]「〔あなたが〕尋ねた、〔まさに〕その、この問いですが」とは、「〔まさに〕その、この」とは、そして、智慧を、さらに、気づきを、かつまた、名前と形態を。「〔あなたが〕尋ねた」とは、〔あなたが〕尋ねた、〔あなたが〕乞い求めた、〔あなたが〕要請した、〔あなたが〕清信した。ということで、「〔あなたが〕尋ねた、〔まさに〕その、この問いですが」。

 

 [231]「アジタよ、それを、あなたに説きましょう」とは、「アジタよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「それを」とは、智慧を、さらに、気づきを、かつまた、名前と形態を。「説きましょう」とは、〔わたしは〕説くであろう、〔わたしは〕告げ知らせるであろう、〔わたしは〕説示するであろう、〔わたしは〕報知するであろう、〔わたしは〕確立するであろう、〔わたしは〕開顕するであろう、〔わたしは〕区分するであろう、〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。ということで、「アジタよ、それを、あなたに説きましょう」。

 

 [232]「そこにおいて、そして、名前()が、さらに、形態()が、残りなく破却されるとして」とは、「名前(:精神的事象)」とは、四つの形態なき範疇(無色蘊:受・想・行・識)。「形態(:物質的形態)」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。「残りなく」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「残りなく」ということになる。「破却される」とは、止滅する、寂止する、滅至する、安息する。ということで、「そこにおいて、そして、名前が、さらに、形態が、残りなく破却されるとして」。

 

 [233]「識知〔作用〕()の止滅によって、ここにおいて、この〔名前と形態〕は破却されます」とは、預流道の知恵による、行作(現行)の識知〔作用〕の止滅によって、〔最高でも〕七つの生存()を除いて、すなわち、始源が思い考えられない輪廻において生起するべきはずの、そして、名前は、さらに、形態は、これらのものは、ここにおいて、止滅し、寂止し、滅至し、安息する。一来道の知恵による、行作の識知〔作用〕の止滅によって、二つの生存を除いて、すなわち、〔最高でも〕五つの生存において生起するべきはずの、そして、名前は、さらに、形態は、これらのものは、ここにおいて、止滅し、寂止し、滅至し、安息する。不還道の知恵による、行作の識知〔作用〕の止滅によって、一つの生存を除いて、すなわち、あるいは、形態の界域(色界)において、あるいは、形態なき界域(無色界)において、生起するべきはずの、そして、名前は、さらに、形態は、これらのものは、ここにおいて、止滅し、寂止し、滅至し、安息する。阿羅漢道の知恵による、行作の識知〔作用〕の止滅によって、すなわち、生起するべきはずの、そして、名前は、さらに、形態は、これらのものは、ここにおいて、止滅し、寂止し、滅至し、安息する。阿羅漢が、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達しつつあると、最後の識知〔作用〕の止滅によって、そして、智慧は、さらに、気づきは、そして、名前は、さらに、形態は、これらのものは、ここにおいて、止滅し、寂止し、滅至し、安息する。ということで、「識知〔作用〕の止滅によって、ここにおいて、この〔名前と形態〕は破却されます」。それによって、世尊は言った。

 

 [234]〔世尊は答えた〕──「〔あなたが〕尋ねた、〔まさに〕その、この問いですが、アジタよ、それを、あなたに説きましょう。そこにおいて、そして、名前(:精神的事象)が、さらに、形態(:物質的形態)が、残りなく破却されるとして──識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の止滅によって、ここにおいて、この〔名前と形態〕は破却されます」と。

 

7.

 

 [235]1044.(1038) 〔尊者アジタが尋ねた〕──そして、彼ら、法(真理)を究めた者(阿羅漢)たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者(有学)たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください。(7)

 

 [236]「そして、彼ら、法(真理)を究めた者(阿羅漢)たちが」とは、法(真理)を究めた者たちは、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、と説かれる。何を契機とすることから、法(真理)を究めた者たちは、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、と説かれるのか。彼ら、法(真理)を究めた者たちは、法(真理)を〔あるがままに〕知った者たちであり、法(真理)を〔正しく〕比較した者たちであり、法(真理)を〔正しく〕推量した者たちであり、法(真理)を分明した者たちであり、法(真理)を明確と為した者たちである。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、法(真理)を究めた者たちは、法(真理)を〔あるがままに〕知った者たちであり、法(真理)を〔正しく〕比較した者たちであり、法(真理)を〔正しく〕推量した者たちであり、法(真理)を分明した者たちであり、法(真理)を明確と為した者たちである。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、法(真理)を究めた者たちは……。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、法(真理)を究めた者たちは……。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と、法(真理)を究めた者たちは……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、法(真理)を究めた者たちは、法(真理)を〔あるがままに〕知った者たちであり、法(真理)を〔正しく〕比較した者たちであり、法(真理)を〔正しく〕推量した者たちであり、法(真理)を分明した者たちであり、法(真理)を明確と為した者たちである。さらに、あるいは、彼らの、諸々の範疇()は究められ、諸々の界域()は究められ、諸々の〔認識の〕場所()は究められ、諸々の境遇()は究められ、諸々の再生は究められ、諸々の結生は究められ、諸々の生存は究められ、諸々の輪廻は究められ、諸々の転起は究められた。さらに、あるいは、彼らは、範疇の極限に止住している者たちであり、界域の極限に止住している者たちであり、〔認識の〕場所の極限に止住している者たちであり、境遇の極限に止住している者たちであり、再生の極限に止住している者たちであり、結生の極限に止住している者たちであり、生存の極限に止住している者たちであり、輪廻の極限に止住している者たちであり、転起の極限に止住している者たちであり、最後の生存に止住している者たちであり、最後の積身に止住している者たちであり、最後の肉身を保つ阿羅漢たちである。

 

 [237]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、彼らにとって、これは、最後のものである。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼らに、さらなる生存は存在しない」と。

 

 [238]それを契機とすることから、法(真理)を究めた者たちは、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、と説かれる。ということで、「そして、彼ら、法(真理)を究めた者たちが」。「さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者(有学)たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが」とは、「〔いまだ〕学びある者たち」とは、何を契機とすることから、〔いまだ〕学びある者たちと説かれるのか。〔彼らは〕学ぶ、ということで、「〔いまだ〕学びある者たち」。では、何を学ぶのか。(1)卓越の戒をもまた学び、(2)卓越の心をもまた学び、(3)卓越の智慧をもまた学ぶ。

 

 [239](1)どのようなものが、卓越の戒の学びであるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。小なる戒の範疇、大なる戒の範疇、戒、立脚するもの(依所)、最初〔の行〕、行ない、自制、統御、諸々の善なる法(性質)への入定のために、頭目となり、筆頭となるもの。これが、卓越の戒の学びである。

 

 [240](2)どのようなものが、卓越の心の学びであるのか。ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住む。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住む。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住む。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住む。これが、卓越の心の学びである。

 

 [241](3)どのようなものが、卓越の智慧の学びであるのか。ここに、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有る──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。彼は、「これは、苦しみである」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。「これらは、諸々の煩悩()である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。これが、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学び(三学:戒・禅定・智慧)を、〔心を〕傾注している者たちとして学び、〔あるがままに〕知っている者たちとして学び、〔あるがままに〕見ている者たちとして学び、〔あるがままに〕注視している者たちとして学び、心を確立している者たちとして学び、信によって信念している者たちとして学び、精進を励起している者たちとして学び、気づきを現起させている者たちとして学び、心を定めている者たちとして学び、智慧によって覚知している者たちとして学び、証知されるべきものを証知している者たちとして学び、遍知されるべきものを遍知している者たちとして学び、捨棄されるべきものを捨棄している者たちとして学び、修行されるべきものを修行している者たちとして学び、実証されるべきものを実証している者たちとして、学び、習行し、励行し、受持して行持する。それを契機とすることから、学びある者たちと説かれる。「多くの」とは、多くの者たち。これらの学びある者たちがいる。そして、預流たる者たちが、さらに、〔その〕実践者たちが、そして、一来たる者たちが、さらに、〔その〕実践者たちが、そして、不還たる者たちが、さらに、〔その〕実践者たちが、そして、阿羅漢たちが、さらに、〔その〕実践者たちがいる。「ここに」とは、この見解の、この受認(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて、この自己状態(個我的あり方・身体)において、この人間の世において。ということで、「さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが」。

 

 [242]「敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください」とは、あなたもまた、賢明なる者として、賢者として、智慧ある者として、覚慧ある者として、知恵ある者として、分明ある者として、思慮ある者として、彼らの、そして、法(真理)を究めた者たちの、さらに、学びある者たちの、振る舞いを、性行を、行持を、転起を、習行を、境涯を、住を、〔実践の〕道を。「〔問いを〕尋ねられた」とは、尋ねられた者として、乞い求められた者として、要請された者として、清信された者として。「説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞いを、わたしに説いてください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [243]〔尊者アジタが尋ねた〕──「そして、彼ら、法(真理)を究めた者(阿羅漢)たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者(有学)たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください」と。

 

8.

 

 [244]1045.(1039) 〔世尊は答えた〕──諸々の欲望〔の対象〕について貪り求めないように。意に濁りなき者として存するように。一切の法(事象)に巧みな智ある者として、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。(8)

 

 [245]「諸々の欲望〔の対象〕について貪り求めないように」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物()の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の欲望である。(1)どのようなものが、諸々の事物の欲望であるのか。諸々の意に適う形態()、諸々の意に適う音声()、諸々の意に適う臭気()、諸々の意に適う味感()、諸々の意に適う感触(所触)、諸々の敷物、諸々の着物、奴婢や奴隷たち、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち、田畑、地所、金貨、黄金、村や町や王都、かつまた、国土、かつまた、地方、かつまた、蔵、かつまた、貯蔵庫、それが何であれ、貪るべき事物は、諸々の事物の欲望である。

 

 [246]さらに、また、諸々の過去の欲望〔の対象〕、諸々の未来の欲望〔の対象〕、諸々の現在の欲望〔の対象〕、諸々の内なる欲望〔の対象〕、諸々の外なる欲望〔の対象〕、諸々の内なると外なる欲望〔の対象〕、諸々の下劣なる欲望〔の対象〕、諸々の中等なる欲望〔の対象〕、諸々の精妙なる欲望〔の対象〕、諸々の悪所の欲望〔の対象〕、諸々の人間の欲望〔の対象〕、諸々の天の欲望〔の対象〕、諸々の〔因縁によって〕現起した欲望〔の対象〕(地獄を除く他の悪趣の有情・人間・四大王天・兜率天における欲望の対象)、諸々の化作された欲望〔の対象〕(化楽天における欲望の対象)、諸々の他によって化作された欲望〔の対象〕(他化自在天における欲望の対象)、諸々の遍く収取された欲望〔の対象〕、諸々の遍く収取されたものではない欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕された欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕されたものではない欲望〔の対象〕があり、一切の欲望の行境(欲界)の法(事象)もまた、一切の形態の行境(色界:心と身体が完全に同調して機能している世界)の法(事象)もまた、一切の形態なき行境(無色界:心が身体に依存せず単独で機能している世界)の法(事象)もまた、渇愛の基盤(根拠)となり、渇愛の対象(所縁)となるなら、欲するべきものの義(意味)によって、貪るべきものの義(意味)によって、酔うべきものの義(意味)によって、諸々の欲望〔の対象〕となる。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。

 

 [247](2)どのようなものが、諸々の〔心の〕汚れの欲望であるのか。欲〔の思い〕は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟と貪り〔の思い〕は、欲望である。すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする涸渇、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛()、欲望〔の対象〕にたいする執取()、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害()である。

 

 [248]〔そこで、詩偈に言う〕「欲望よ、おまえの根元を、〔わたしは〕見た。欲望よ、〔誤った〕思惟から、〔おまえは〕生じた。おまえのことを、〔もはや、わたしは〕思惟しない。欲望よ、このように、〔もはや、おまえは〕有りえない」と。

 

 [249]これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。貪求(貪り求め)は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「諸々の欲望〔の対象〕について貪り求めないように」とは、〔心の〕汚れの欲望によって、諸々の事物の欲望について、貪り求めるべきではなく、遍く貪求するべきではなく、遍く障害されるべきではなく、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、〔世に〕存するべきであり、梵と成った自己によって〔世に〕住むべきである。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について貪り求めないように」。

 

 [250]「意に濁りなき者として存するように」とは、「意」とは、すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。身体による悪しき行ないによって、心は、混濁し、掻き乱され、揺らぎ、対立し、揺れ動き、迷走し、寂止ならざるものと成る。言葉による悪しき行ないによって……。意による悪しき行ないによって……。貪欲()によって……。憤怒()によって……。迷妄()によって……。忿激(忿)によって……。怨恨()によって……。偽装()によって……。加虐()によって……。嫉妬()によって……。物惜()によって……。幻惑()によって……。狡猾()によって……。強情()によって……。激昂()によって……。思量()によって……。高慢(過慢)によって……。驕慢()によって……。放逸によって……。一切の〔心の〕汚れによって……。一切の悪しき行ないによって……。一切の懊悩によって……。一切の苦悶によって……。一切の熱苦によって……。一切の善ならざる行作(現行)によって、心は、混濁し、掻き乱され、揺らぎ、対立し、揺れ動き、迷走し、寂止ならざるものと成る。「意に濁りなき者として存するように」とは、心によって、混濁せず、掻き乱されず、揺らがず、対立せず、揺れ動かず、迷走せず、寂止した者として、〔世に〕存するべきであり、混濁を作り為す諸々の〔心の〕汚れを、捨棄するべきであり、捨棄し去るべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、さらに、混濁を作り為す諸々の〔心の〕汚れから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「意に濁りなき者として存するように」。

 

 [251]「一切の法(事象)に巧みな智ある者として」とは、「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、一切の法(事象)に巧みな智ある者として。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と、一切の法(事象)に巧みな智ある者として。「一切の法(事象)は、無我である」と、一切の法(事象)に巧みな智ある者として。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と、一切の法(事象)に巧みな智ある者として。……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、一切の法(事象)に巧みな智ある者として。このようにもまた、「一切の法(事象)に巧みな智ある者として」。

 

 [252]さらに、あるいは、無常〔の観点〕から、一切の法(事象)に巧みな智ある者として、苦痛〔の観点〕から……略……病〔の観点〕から……腫物〔の観点〕から……矢〔の観点〕から……悩苦〔の観点〕から……病苦〔の観点〕から……他者〔の観点〕から……崩壊〔の観点〕から……疾患〔の観点〕から……禍〔の観点〕から……恐怖〔の観点〕から……災禍〔の観点〕から……動揺するもの〔の観点〕から……滅壊するもの〔の観点〕から……常恒ならざるもの〔の観点〕から……救護所ならざるもの〔の観点〕から……避難所ならざるもの〔の観点〕から……帰依所ならざるもの〔の観点〕から……空虚〔の観点〕から……虚妄〔の観点〕から……空〔の観点〕から……無我〔の観点〕から……危険〔の観点〕から……変化の法(性質)〔の観点〕から……真髄なきもの〔の観点〕から……悩苦の根元〔の観点〕から……殺戮者〔の観点〕から……非生存〔の観点〕から……煩悩を有するもの〔の観点〕から……形成されたもの(有為)〔の観点〕から……悪魔の餌〔の観点〕から……生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)の法(性質)〔の観点〕から……〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から……集起〔の観点〕から……滅至〔の観点〕から……悦楽〔の観点〕から……危険〔の観点〕から……出離〔の観点〕から、一切の法(事象)に巧みな智ある者として。このようにもまた、「一切の法(事象)に巧みな智ある者として」。

 

 [253]さらに、あるいは、〔五つの〕範疇(五蘊)に巧みな智ある者として、〔十八の〕界域(十八界)に巧みな智ある者として、〔十二の認識の〕場所(十二処)に巧みな智ある者として、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に巧みな智ある者として、〔四つの〕気づきの確立(四念住・四念処)に巧みな智ある者として、〔四つの〕正しい精励(四正勤)に巧みな智ある者として、〔四つの〕神通の足場(四神足)に巧みな智ある者として、〔五つの〕機能(五根)に巧みな智ある者として、〔五つの〕力(五力)に巧みな智ある者として、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)に巧みな智ある者として、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に巧みな智ある者として、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)に巧みな智ある者として、涅槃に巧みな智ある者として。このようにもまた、「一切の法(事象)に巧みな智ある者として」。

 

 [254]さらに、あるいは、一切の法(事象)は、十二の〔認識の〕場所(十二処)と説かれる。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態であり、そして、耳であり、さらに、諸々の音声であり、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気であり、そして、舌であり、さらに、諸々の味感であり、そして、身であり、さらに、諸々の感触であり、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象)である。すなわち、内なると外なる〔認識の〕場所にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことからもまた、一切の法(事象)に巧みな智ある者として。ということで、「一切の法(事象)に巧みな智ある者として」。

 

 [255]「〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」とは、「〔常に〕気づきある」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立(身念住・身念処)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における感受の随観という気づきの確立(受念住・受念処)を修行している者は、気づきある者となり、心における心の随観という気づきの確立(心念住・心念処)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立(法念住・法念処)を修行している者は、気づきある者となる。

 

 [256]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきなき〔状態〕を遍く避けることから、気づきある者となり、気づきが為されるべき諸々の法(事象)が為されたことから、気づきある者となり、気づきを遍く結縛する諸々の法(事象)が打破されたことから、気づきある者となり、気づきの形相となる諸々の法(事象)が忘却なきことから、気づきある者となる。

 

 [257]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきを具備したことから、気づきある者となり、気づきによって住したことから、気づきある者となり、気づきによって熟練なることから、気づきある者となり、気づきによって低下なきことから、気づきある者となる。

 

 [258]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきを具備したことから、気づきある者となり、〔心が〕静まったことから、気づきある者となり、〔心が〕静められたことから、気づきある者となり、寂静の法(性質)を具備したことから、気づきある者となる。覚者の随念によって、気づきある者となり、法(教え)の随念によって、気づきある者となり、僧団の随念によって、気づきある者となり、戒の随念によって、気づきある者となり、施捨の随念によって、気づきある者となり、天神たちの随念によって、気づきある者となり、呼吸についての気づき(安般念)によって、気づきある者となり、死についての気づき(死念)によって、気づきある者となり、身体の在り方についての気づき(身至念)によって、気づきある者となり、寂止の随念によって、気づきある者となる。すなわち、気づき()、随念、現念、気づきとしての、思念すること、保持すること、列挙すること、忘却なきこと、気づきとしての、気づきの機能(念根)、気づきの力(念力)、正しい気づき(正念)、気づきという正覚の支分(念覚支)、一路の道である。これが、気づきと説かれる。この気づきを、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、気づきある者と説かれる。「比丘(ビック)」とは、七つの法(性質)が破壊された(ビンナ)ことから、比丘となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、破壊されたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、破壊されたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、破壊されたものと成り、(4)貪欲()が、破壊されたものと成り、(5)憤怒()が、破壊されたものと成り、(6)迷妄()が、破壊されたものと成り、(7)思量()が、破壊されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、破壊されたものと成る。

 

 [259]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、自己みずから為した〔実践の〕道によって、完全なる涅槃に至り、疑いを超えた者──かつまた、虚無(非有:無)を、かつまた、実体(:存在)を、〔両者ともに〕捨棄して、さらなる生存(再有)が滅尽した、〔梵行の〕完成者──彼は、『比丘』〔と呼ばれます〕」と。

 

 [260]「〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」とは、比丘は、気づきある者として、遍歴遊行するべきであり、気づきある者として、赴くべきであり、気づきある者として、立つべきであり、気づきある者として、坐るべきであり、気づきある者として、臥所を営むべきであり、気づきある者として、前進するべきであり、気づきある者として、後進するべきであり、気づきある者として、前視するべきであり、気づきある者として、後視するべきであり、気づきある者として、屈曲するべきであり、気づきある者として、伸直するべきであり、気づきある者として、大衣と鉢と衣料を保持するべきであり、気づきある者として、〔世を〕歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」。それによって、世尊は言った。

 

 [261]〔世尊は答えた〕──「諸々の欲望〔の対象〕について貪り求めないように。意に濁りなき者として存するように。一切の法(事象)に巧みな智ある者として、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。

 

 [262]詩偈の終了と共に、すなわち、婆羅門と共に、欲〔の思い〕を一つにし、専念〔努力〕を一つにし、志向を一つにし、残香の香りを一つにする、それらの者たちであるが、それらの幾千の命あるものたちに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起した。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。その婆羅門の心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した。阿羅漢の資質に至り得たと共に、そして、皮衣と結髪と樹皮の衣と棒と曼陀羅と諸々の髪は〔消没し〕、さらに、諸々の髭も消没し、剃髪となり袈裟衣をまとい、大衣と鉢と衣料を保持し、義(意味)のままなる〔実践の〕道によって合掌し、世尊を礼拝しながら〔その場に〕坐った者と成る。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [263]アジタ学徒の問いについての釈示が、第一となる。

 

2. 1. 2. ティッサ・メッテイヤ学徒の問いについての釈示

 

9.

 

 [264]1046.(1040) かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕──誰が、ここに、〔この〕世において、〔常に〕満ち足りているのですか。誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか。誰が、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されないのですか。誰を、「偉大なる人士である」と、〔あなたは〕説くのですか。誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのですか。(1)

 

 [265]「誰が、ここに、〔この〕世において、〔常に〕満ち足りているのですか」とは、誰が、世において、満ち足りている者であり、等しく満ち足りている者であり、わが意を得た者であり、円満成就した思惟ある者であるのか。ということで、「誰が、ここに、〔この〕世において、〔常に〕満ち足りているのですか」。

 

 [266]「かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ティッサ」とは、その長老の、名前としての、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。「メッテイヤ」とは、その長老の、氏姓としての、名称、呼称、通名、通称。ということで、「かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕」。

 

 [267]「誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか」とは、渇愛の動揺、見解の動揺、思量()の動揺、〔心の〕汚れ(煩悩)の動揺、欲望の動揺がある。誰に、これらの動揺〔の思い〕が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてあるのか。ということで、「誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか」。

 

 [268]「誰が、両極を〔あるがままに〕証知して」とは、誰が、両極を、〔あるがままに〕証知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「誰が、両極を〔あるがままに〕証知して」。

 

 [269]「〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されないのですか」とは、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されず、汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むのか。ということで、「〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されないのですか」。

 

 [270]「誰を、『偉大なる人士である』と、〔あなたは〕説くのですか」とは、「偉大なる人士である、至高の人士である、最勝の人士である、殊勝の人士である、筆頭の人士である、最上の人士である、精励の人士である、最も優れた人士である」と、誰のことを、〔あなたは〕説くのか、誰のことを、〔あなたは〕言説するのか、誰のことを、〔あなたは〕思うのか、誰のことを、〔あなたは〕発語するのか、誰のことを、〔あなたは〕見るのか、誰のことを、〔あなたは〕語用するのか。ということで、「誰を、『偉大なる人士である』と、〔あなたは〕説くのですか」。

 

 [271]「誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのですか」とは、誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を、渇愛〔の思い〕を、超え行ったのか、過ぎ行ったのか、超越した者であるのか、等しく超越した者であるのか、超克した者であるのか。ということで、「誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのですか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [272]かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕──「誰が、ここに、〔この〕世において、〔常に〕満ち足りているのですか。誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか。誰が、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されないのですか。誰を、『偉大なる人士である』と、〔あなたは〕説くのですか。誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのですか」と。

 

10.

 

 [273]1047.(1041) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッテイヤよ、諸々の欲望〔の対象〕について、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)──渇愛を離れた、常に気づきある者──〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘──彼に、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません。(2)

 

 [274]「諸々の欲望〔の対象〕について、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。梵行は、正ならざる法(性質)への入定(淫事)から、離れること、離去、離間、離断、無作、為さないこと、不犯、限度に違犯なきこと、と説かれる。さらに、また、教相なき〔観点〕(理論的説明)によるなら、梵行は、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)と説かれる。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)である。彼が、この聖なる八つの支分ある道を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者であるなら、彼は、梵行ある者と説かれる。たとえば、財産によって、「財産ある者である」と説かれ、財物によって、「財物ある者である」と説かれ、盛名によって、「盛名ある者である」と説かれ、技能によって、「技能ある者である」と説かれ、戒によって、「戒ある者である」と説かれ、精進によって、「精進ある者である」と説かれ、智慧によって、「智慧ある者である」と説かれ、明知によって、「明知ある者である」と説かれるように、まさしく、このように、彼が、この聖なる八つの支分ある道を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者であるなら、彼は、梵行ある者と説かれる。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について、梵行ある者」。

 

 [275]「メッテイヤよ」とは、その婆羅門に、氏姓で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッテイヤよ」。

 

 [276]「渇愛を離れた、常に気づきある者」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。彼の、この渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔渇愛を離れた者と〕説かれ、渇愛を離れた者として、渇愛を捨て去った者として、渇愛を吐き捨てた者として、渇愛を解き放った者として、渇愛を捨棄した者として、渇愛を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に、常住時に、常恒時に、常久に、連続して、途切れなく、矢継ぎ早に、水波が生じたように、間隔なく、相続して、相伴い、接触し、食前に、食後に、初更(宵の内)に、中更(真夜中)に、後更(明け方)に、黒〔分〕(月が欠ける期間)に、白〔分〕(月が満ちる期間)に、雨期に、冬に、夏に、初年期(青年期)に、中年期(壮年期)に、後年期(老年期)に。「気づきある者」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立(身念住・身念処)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における感受の随観という気づきの確立(受念住・受念処)を修行している者は、気づきある者となり、心における心の随観という気づきの確立(心念住・心念処)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立(法念住・法念処)を修行している者は、気づきある者となる。……略([256-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「渇愛を離れた、常に気づきある者」。

 

 [277]「〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘」とは、究明(究め)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。「〔法を〕究めて」とは、〔法を〕究めて、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔法を〕究めて、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……。「一切の法(事象)は、無我である」と……。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔法を〕究めて、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。

 

 [278]さらに、あるいは、無常〔の観点〕から、〔法を〕究めて、知って……苦痛〔の観点〕から……略……病〔の観点〕から……腫物〔の観点〕から……矢〔の観点〕から……略([252]参照)……出離〔の観点〕から、〔法を〕究めて、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「涅槃に到達した」とは、貪欲()が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者、憤怒()が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者、迷妄()が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者、忿激(忿)が……怨恨()が……偽装()が……加虐()が……嫉妬()が……物惜()が……幻惑()が……狡猾()が……強情()が……激昂()が……思量()が……高慢(過慢)が……驕慢()が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作(現行)が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者。「比丘(ビック)」とは、七つの法(性質)が破壊された(ビンナ)ことから、比丘となる。……略([258-259]参照)……さらなる生存が滅尽した、〔梵行の〕完成者──彼は、『比丘』〔と呼ばれます〕」〔と〕。ということで、「〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘」。

 

 [279]「彼に、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「諸々の動揺〔の思い〕」とは、渇愛の動揺、見解の動揺、思量の動揺、〔心の〕汚れの動揺、欲望の動揺。彼の、これらの動揺〔の思い〕は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません」。それによって、世尊は言った。

 

 [280]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「メッテイヤよ、諸々の欲望〔の対象〕について、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)──渇愛を離れた、常に気づきある者──〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘──彼に、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません」と。

 

11.

 

 [281]1048.(1042) 彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されません。彼を、「偉大なる人士である」と、〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです。(3)

 

 [282]「彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されません」とは、「極」とは、接触(:感覚の発生)は、一つの極であり、接触の集起は、第二の極である。接触の止滅は、〔両者の〕中間においてある。過去は、一つの極であり、未来は、第二の極である。現在は、〔両者の〕中間においてある。安楽の感受(楽受)は、一つの極であり、苦痛の感受(苦受)は、第二の極である。苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)は、〔両者の〕中間においてある。名前(:精神的事象)は、一つの極であり、形態(:物質的形態)は、第二の極である。識知〔作用〕(:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)は、〔両者の〕中間においてある。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)は、一つの極であり、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処:色処・声処・香処・味処・触処・法処)は、第二の極である。識知〔作用〕は、〔両者の〕中間においてある。身体を有すること(有身)は、一つの極であり、身体を有することの集起は、第二の極である。身体を有することの止滅は、〔両者の〕中間においてある。明慧は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。

 

 [283]「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)そして、渇愛の汚れであり、(2)さらに、見解の汚れである。(1)どのようなものが、渇愛の汚れであるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、極限が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「このかぎりのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭気であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、奴婢や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、そして、国土であり、そして、地方であり、そして、蔵であり、そして、貯蔵庫である」〔と〕、大いなる地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行じ歩むところの、そのかぎりのものである。これが、渇愛の汚れである。

 

 [284](2)どのようなものが、見解の汚れであるのか。二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)──すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解(長部経典第一『梵網経』参照)としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の汚れである。

 

 [285]「彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されません」とは、彼は、そして、両極を、さらに、〔その〕中間を、明慧によって、〔あるがままに〕証知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して、〔何にも〕汚されず、〔何にも〕強く汚されず、〔何にも〕近しく汚されず、汚されない者として、等しく汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されません」。

 

 [286]「彼を、『偉大なる人士である』と、〔わたしは〕説きます」とは、「偉大なる人士である、至高の人士である、最勝の人士である、殊勝の人士である、筆頭の人士である、最上の人士である、精励の人士である、最も優れた人士である」と、彼のことを、〔わたしは〕説く、彼のことを、〔わたしは〕言説する、彼のことを、〔わたしは〕発語する、彼のことを、〔わたしは〕提示する、彼のことを、〔わたしは〕語用する。

 

 [287]尊者サーリプッタは、世尊に、こう言った。「尊き方よ、『偉大なる人士』『偉大なる人士』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、偉大なる人士と成るのですか」と。「サーリプッタよ、まさに、わたしは、解脱した心の者であることから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きます。解脱した心の者でないことから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きません。

 

 [288]サーリプッタよ、では、どのように、解脱した心の者と成るのですか。サーリプッタよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。諸々の感受における……略……。心における……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼が、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住んでいると、心は離貪し、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。サーリプッタよ、このように、まさに、比丘は、解脱した心の者と成ります。サーリプッタよ、まさに、わたしは、解脱した心の者であることから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きます。解脱した心の者でないことから、〔彼のことを〕『偉大なる人士』と説きません」〔と〕。ということで、「彼を、『偉大なる人士である』と、〔わたしは〕説きます」。

 

 [289]「彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」とは、貪愛は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪愛としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪愛〔の思い〕を、渇愛〔の思い〕を、超え行った、過ぎ行った、超越した者である、等しく超越した者である、超克した者である。ということで、「彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [290]「彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何にも〕汚されません。彼を、『偉大なる人士である』と、〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」と。

 

 [291]詩偈の終了と共に、すなわち、婆羅門と共に、欲〔の思い〕を一つにし、専念〔努力〕を一つにし、志向を一つにし、残香の香りを一つにする、それらの者たちであるが、それらの幾千の命あるものたちに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起した。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。その婆羅門の心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱した。阿羅漢の資質に至り得たと共に、そして、皮衣と結髪と樹皮の衣と棒と曼陀羅と諸々の髪は〔消没し〕、さらに、諸々の髭も消没し、剃髪となり袈裟衣をまとい、大衣と鉢と衣料を保持し、義(意味)のままなる〔実践の〕道によって合掌し、世尊を礼拝しながら〔その場に〕坐った者と成る。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [292]ティッサ・メッテイヤ学徒の問いについての釈示が、第二となる。

 

2. 1. 3. プンナカ学徒の問いについての釈示

 

12.

 

 [293]1049.(1043) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──動揺することなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。何に依存する者たちとして、聖賢たちは、人間たちは、士族たちは、婆羅門たちは、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(1)

 

 [294]「動揺することなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)に」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。覚者たる世尊の、その動揺としての渇愛は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、動揺なき方である。動揺が〔すでに〕捨棄されたことから、動揺なき方。世尊は、利得にたいしてもまた、動じず、利得なきにたいしてもまた、動じず、盛名にたいしてもまた、動じず、盛名なきにたいしてもまた、動じず、賞賛にたいしてもまた、動じず、非難にたいしてもまた、動じず、安楽にたいしてもまた、動じず、苦痛にたいしてもまた、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで(※)、「動揺することなく」。〔ものごとの〕根元を見る方に」とは、世尊は、〔ものごとの〕根元を見る方であり、〔ものごとの〕因を見る方であり、〔ものごとの〕因縁を見る方であり、〔ものごとの〕発生を見る方であり、〔ものごとの〕起源を見る方であり、〔ものごとの〕等しく現起するもの(発生源)を見る方であり、〔ものごとの〕食(動力源・エネルギー)を見る方であり、〔ものごとの〕対象(所縁)を見る方であり、〔ものごとの〕縁を見る方であり、〔ものごとの〕集起を見る方である。

 

※ テキストには nappavedhatīti とあるが、平行箇所[795]により na pavedhati na sampavedhatīti と読む(PTS版は記載なし)。

 

 [295]三つの善ならざるものの根元(不善根)がある。貪欲()という善ならざるものの根元、憤怒()という善ならざるものの根元、迷妄()という善ならざるものの根元である。

 

 [296]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為()の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲()は、諸々の行為の集起のための因縁です。憤怒()は、諸々の行為の集起のための因縁です。迷妄()は、諸々の行為の集起のための因縁です。比丘たちよ、貪欲から生じる行為によって、憤怒から生じる行為によって、迷妄から生じる行為によって、天〔の神々〕たちが覚知されることも、人間たちが覚知されることも、ありません──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた善き境遇(善趣)も。比丘たちよ、そこで、まさに、貪欲から生じる行為によって、憤怒から生じる行為によって、迷妄から生じる行為によって、地獄が覚知され、畜生の胎が覚知され、餓鬼の境域が覚知されます──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた悪しき境遇(悪趣)も。地獄における、畜生の胎における、餓鬼の境域における、自己状態(個我的あり方・身体)の発現のために、これらの三つの善ならざるものの根元があります」〔と〕。かくのごとく、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。このようにもまた、世尊は、〔ものごとの〕根元を見る方であり……略……〔ものごとの〕集起を見る方である。三つの善なるものの根元(善根)がある。貪欲なき〔あり方〕(無貪)という善なるものの根元、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)という善なるものの根元、迷妄なき〔あり方〕(無痴)という善なるものの根元である。

 

 [297]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。比丘たちよ、貪欲なき〔あり方〕から生じる行為によって、憤怒なき〔あり方〕から生じる行為によって、迷妄なき〔あり方〕から生じる行為によって、地獄が覚知されることも、畜生の胎が覚知されることも、餓鬼の境域が覚知されることも、ありません──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた悪しき境遇も。比丘たちよ、そこで、まさに、貪欲なき〔あり方〕から生じる行為によって、憤怒なき〔あり方〕から生じる行為によって、迷妄なき〔あり方〕から生じる行為によって、天〔の神々〕たちが覚知され、人間たちが覚知されます──また、あるいは、それらが何であれ、他のまた善き境遇も。そして、天〔の神〕における、さらに、人間における、自己状態の発現のために、これらの三つの善なるものの根元があります」〔と〕。かくのごとく、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。このようにもまた、世尊は、〔ものごとの〕根元を見る方であり……略……〔ものごとの〕集起を見る方である。

 

 [298]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それらが何であれ、善ならざるものを部分とし、善ならざるものを項目とする、諸々の善ならざる法(性質)は、それらの全てが、無明を根元とするものであり、無明に集結するものであり、無明の根絶あることから、それらの全てが根絶に至ります」〔と〕。かくのごとく、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。このようにもまた、世尊は、〔ものごとの〕根元を見る方であり……略……〔ものごとの〕集起を見る方である。

 

 [299]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それらが何であれ、善なるものを部分とし、善なるものを項目とする、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、不放逸を根元とするものであり、不放逸に集結するものであり、不放逸は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます」〔と〕。かくのごとく、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。このようにもまた、世尊は、〔ものごとの〕根元を見る方であり……略……〔ものごとの〕集起を見る方である。

 

 [300]さらに、あるいは、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。「無明は、諸々の形成〔作用〕にとっての根元である。諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕にとっての根元である。識知〔作用〕は、名前と形態にとっての根元である。名前と形態は、六つの〔認識の〕場所にとっての根元である。六つの〔認識の〕場所は、接触にとっての根元である。接触は、感受にとっての根元である。感受は、渇愛にとっての根元である。渇愛は、執取にとっての根元である。執取は、生存にとっての根元である。生存は、生にとっての根元である。生は、老と死にとっての根元である」〔と〕。かくのごとく、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。このようにもまた、世尊は、〔ものごとの〕根元を見る方であり……略……〔ものごとの〕集起を見る方である。

 

 [301]さらに、あるいは、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。「眼は、諸々の眼の病にとっての根元である。耳は、諸々の耳の病にとっての根元である。鼻は、諸々の鼻の病にとっての根元である。舌は、諸々の舌の病にとっての根元である。身は、諸々の身の病にとっての根元である。意は、諸々の意の病にとっての根元である」〔と〕。かくのごとく、世尊は、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。このようにもまた、世尊は、〔ものごとの〕根元を見る方であり、〔ものごとの〕因を見る方であり、〔ものごとの〕因縁を見る方であり、〔ものごとの〕発生を見る方であり、〔ものごとの〕起源を見る方であり、〔ものごとの〕等しく現起するもの(発生源)を見る方であり、〔ものごとの〕食(動力源・エネルギー)を見る方であり、〔ものごとの〕対象を見る方であり、〔ものごとの〕縁を見る方であり、〔ものごとの〕集起を見る方である。ということで、「動揺することなく、〔ものごとの〕根元を見る方に」。

 

 [302]「かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……「かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕」。

 

 [303]「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」とは、〔わたしは〕問いを義(目的)とする到来者として存している。〔わたしは〕問いを尋ねることを欲する到来者として存している。〔わたしは〕問いを聞くことを欲する到来者として存している。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、問いを義(目的)とする者たちの、問いを尋ねることを欲する者たちの、問いを聞くことを欲する者たちの、到来することが、来訪することが、近づいて行くことが、奉侍することが、存在する。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、「あなたには、問いのための到来者が存在します。あなたは、また、可能なる方です。あなたは、十分なる自己ある方として存しています──わたしによって尋ねられたことを、言説するべく、答えるべく。これは、運ぶ者の荷です」〔と〕。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。

 

 [304]「何に依存する者たちとして、聖賢たちは、人間たちは」とは、何に、依存する者たちとして、強く依存する者たちとして、〔思いが〕付着した者たちとして、近しく赴いた者たちとして、固執した者たちとして、信念した者たちとして。「聖賢たち」とは、聖賢の名ある者たち。彼らが誰であれ、聖賢としての出家を出家した者たち、活命者(アージーヴァカ)たち、離繋者(ジャイナ教徒)たち、結髪者たち、苦行者たちである。「人間たち(マヌジャー)」とは、人間たち(マヌッサー)と説かれる。ということで、「何に依存する者たちとして、聖賢たちは、人間たちは」。

 

 [305]「士族たちは、婆羅門たちは、天神たちへの」とは、「士族たち」とは、彼らが誰であれ、士族として生まれた者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)たちである。「天神たちへの」とは、活命者の弟子たちにとっては、活命者たちが天神たちとなり、離繋者の弟子たちにとっては、離繋者たちが天神たちとなり、結髪者の弟子たちにとっては、結髪者たちが天神たちとなり、遍歴遊行者の弟子たちにとっては、遍歴遊行者たちが天神たちとなり、不犯者の弟子たちにとっては、不犯者たちが天神たちとなり、象の掟ある者(象の行動を自らに課す者)たちにとっては、象たちが天神たちとなり、馬の掟ある者たちにとっては、馬たちが天神たちとなり、牛の掟ある者たちにとっては、牛たちが天神たちとなり、山犬の掟ある者たちにとっては、山犬たちが天神たちとなり、烏の掟ある者たちにとっては、烏たちが天神たちとなり、ヴァースデーヴァ〔力士〕の掟ある者たちにとっては、ヴァースデーヴァ〔力士〕が天神となり、バラデーヴァ〔力士〕の掟ある者たちにとっては、バラデーヴァ〔力士〕が天神となり、プンナバッダ〔夜叉〕の掟ある者たちにとっては、プンナバッダ〔夜叉〕が天神となり、マニバッダ〔夜叉〕の掟ある者たちにとっては、マニバッダ〔夜叉〕が天神となり、祭火の掟ある者たちにとっては、祭火が天神となり、龍の掟ある者たちにとっては、龍たちが天神たちとなり、金翅鳥の掟ある者たちにとっては、金翅鳥たちが天神たちとなり、夜叉の掟ある者たちにとっては、夜叉たちが天神たちとなり、阿修羅の掟ある者たちにとっては、阿修羅たちが天神たちとなり、音楽神の掟ある者たちにとっては、音楽神たちが天神たちとなり、〔天の〕大王の掟ある者たちにとっては、〔天の〕大王たちが天神たちとなり、月〔の神〕の掟ある者たちにとっては、月〔の神〕が天神となり、日〔の神〕の掟ある者たちにとっては、日〔の神〕が天神となり、インダ〔神〕(インドラ神)の掟ある者たちにとっては、インダ〔神〕が天神となり、梵〔天〕(ブラフマー神)の掟ある者たちにとっては、梵〔天〕が天神となり、天〔の神〕の掟ある者たちにとっては、天〔の神〕が天神となり、方角の掟ある者たちにとっては、方角が天神となり、彼らにとって、それらの者たちが施与されるべき者たちであるなら、彼らにとっては、それらの者たちが天神たちとなる。ということで、「士族たちは、婆羅門たちは、天神たちへの」。

 

 [306]「祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか」とは、祭祀は、施すべき法(施物)と説かれる。衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)、食べ物、飲み物、衣、乗物、花飾や香料や塗料、臥所や住居や灯具である。「祭祀を、営んできたのですか」とは、彼らがまた、祭祀を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、食べ物を、飲み物を、衣を、乗物を、花飾や香料や塗料を、臥所や住居や灯具を、探し求め、追求し、遍く探し求めるなら、彼らもまた、祭祀を営む。彼らがまた、祭祀を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、食べ物を、飲み物を……略……臥所や住居や灯具を、準備するなら、彼らもまた、祭祀を営む。彼らがまた、祭祀を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、食べ物を、飲み物を……略……臥所や住居や灯具を、布施し、祭祀し、遍捨するなら、彼らもまた、祭祀を営む。「多々に」とは、(1)あるいは、これらの祭祀が多々に、(2)あるいは、これらの祭祀の祭祀者たちが多々に、(3)あるいは、これらの施与されるべき者たちが多々に。(1)どのように、あるいは、これらの祭祀が多々にあるのか。多くのものとして、これらの祭祀が、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品が、食べ物が、飲み物が、衣が、乗物が、花飾や香料や塗料が、臥所や住居や灯具がある。このように、あるいは、これらの祭祀が多々にある。

 

 [307](2)どのように、あるいは、これらの祭祀の祭祀者たちが多々にあるのか。多くの者たちとして、これらの祭祀の祭祀者たちがある。そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちが。このように、あるいは、これらの祭祀の祭祀者たちが多々にある。

 

 [308](3)どのように、あるいは、これらの施与されるべき者たちが多々にあるのか。多くの者たちとして、これらの施与されるべき者たちがある。沙門や婆羅門たちが、乞い求める者である困窮者や放浪者や乞食者たちが、多々にある。このように、あるいは、これらの施与されるべき者たちが多々にある。「ここに、〔この〕世において」とは、人間の世において。ということで、「祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか」。

 

 [309]「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「問い」とは、三つの問いがある。(1)〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問い、(2)〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問い、(3)疑問を断絶するものとしての問いである。(1)どのようなものが、〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問いであるのか。元来において、特相が、知られていないもの、見られていないもの、比較されていないもの、推量されていないもの、明確にされていないもの、分明されていないものとして有り、それを、知るために、見るために、比較するために、推量するために、分明するために、問いを尋ねる。これが、〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問いである。

 

 [310](2)どのようなものが、〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問いであるのか。元来において、特相が、知られたもの、見られたもの、比較されたもの、推量されたもの、明確にされたもの、分明されたものとして有り、他の賢者たちを相手に、適応を義(目的)として、問いを尋ねる。これが、〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問いである。

 

 [311](3)どのようなものが、疑問を断絶するものとしての問いであるのか。元来において、疑念に跳入した者、疑問に跳入した者、二様のものが生じた者として有り、「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」と、彼は、疑問の断絶を義(目的)として、問いを尋ねる。これが、疑問を断絶するものとしての問いである。これらの三つの問いがある。

 

 [312]他にも、また、三つの問いがある。(1)人間の問い、(2)人間ならざるもの(精霊・悪霊)の問い、(3)化作された者(化仏)の問いである。(1)どのようなものが、人間の問いであるのか。人間たちが、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ねる。比丘たちが尋ねる、比丘尼たちが尋ねる、在俗信者(優婆塞)たちが尋ねる、女性在俗信者(優婆夷)たちが尋ねる、王たちが尋ねる、士族たちが尋ねる、婆羅門たちが尋ねる、庶民たちが尋ねる、隷民たちが尋ねる、在家者たちが尋ねる、出家者たちが尋ねる。これが、人間の問いである。

 

 [313](2)どのようなものが、人間ならざるものの問いであるのか。人間ならざるものたちが、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ねる。龍たちが尋ねる、金翅鳥たちが尋ねる、夜叉たちが尋ねる、阿修羅たちが尋ねる、音楽神たちが尋ねる、〔天の〕大王たちが尋ねる、インダ(インドラ神)たちが尋ねる、梵〔天〕(ブラフマー神)たちが尋ねる、天神たちが尋ねる。これが、人間ならざるものの問いである。

 

 [314](3)どのようなものが、化作された者の問いであるのか。すなわち、世尊が、〔まさに〕その、〔自己の〕形態を──意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして──化作するなら、〔まさに〕その、化作された者は、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ね、世尊は、彼に答える。これが、化作された者の問いである。これらの三つの問いがある。

 

 [315]他にも、また、三つの問いがある。(1)自己の義(利益)の問い、(2)他者の義(利益)の問い、(3)両者の義(利益)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)所見の法(現法:現世)の義(利益)の問い、(2)未来の義(利益)の問い、(3)最高の義(勝義:最高の真実)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)罪過なきものの義(利益)の問い、(2)〔心の〕汚れなきものの義(利益)の問い、(3)浄化の義(利益)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)過去の問い、(2)未来の問い、(3)現在の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)内なる問い、(2)外なる問い、(3)内なると外なる問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)善なる問い、(2)善ならざる問い、(3)〔善悪が〕説き明かされない問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔五つの〕範疇の問い、(2)〔十八の〕界域の問い、(3)〔十二の認識の〕場所の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔四つの〕気づきの確立の問い、(2)〔四つの〕正しい精励の問い、(3)〔四つの〕神通の足場の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔五つの〕機能の問い、(2)〔五つの〕力の問い、(3)〔七つの〕覚りの支分の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔聖者の〕道の問い、(2)〔沙門の〕果の問い、(3)涅槃の問いである。

 

 [316]「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに清信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [317]かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──「動揺することなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。何に依存する者たちとして、聖賢たちは、人間たちは、士族たちは、婆羅門たちは、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。

 

13.

 

 [318]1050.(1044) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ、彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのは、プンナカよ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが、〔自らの〕老に依存し、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです。(2)

 

 [319]「彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが」とは、「彼らが誰であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「彼らが誰であれ」ということになる。「聖賢たち」とは、聖賢の名ある者たち。彼らが誰であれ、聖賢としての出家を出家した者たち、活命者(アージーヴァカ)たち、離繋者(ジャイナ教徒)たち、結髪者たち、苦行者たちである。「人間たち(マヌジャー)」とは、人間たち(マヌッサー)と説かれる。ということで、「彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが」。

 

 [320]「士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの」とは、「士族たち」とは、彼らが誰であれ、士族として生まれた者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)たちである。「天神たちへの」とは、活命者の弟子たちにとっては、活命者たちが天神たちとなり……略([305]参照)……方角の掟ある者たちにとっては、方角が天神となり、彼らにとって、それらの者たちが施与されるべき者たちであるなら、彼らにとっては、それらの者たちが天神たちとなる。ということで、「士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの」。

 

 [321]「祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのは」とは、祭祀は、施すべき法(施物)と説かれる。衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)、食べ物、飲み物、衣、乗物、花飾や香料や塗料、臥所や住居や灯具である。「祭祀を、営んできたのは」とは、彼らがまた、祭祀を……略([306]参照)……臥所や住居や灯具を、布施し、祭祀し、遍捨するなら、彼らもまた、祭祀を営む。「多々に」とは、(1)あるいは、これらの祭祀が多々に、(2)あるいは、これらの祭祀の祭祀者たちが多々に、(3)あるいは、これらの施与されるべき者たちが多々に。……略([306-308]参照)……。このように、あるいは、これらの施与されるべき者たちが多々にある。「ここに、〔この〕世において」とは、人間の世において。ということで、「祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのは」。

 

 [322]「プンナカよ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが」とは、「〔自ら〕願い求めている者たちが」とは、形態の獲得を願い求めている者たち、音声の獲得を願い求めている者たち、臭気の獲得を願い求めている者たち、味感の獲得を願い求めている者たち、感触の獲得を願い求めている者たち、子の獲得を願い求めている者たち、妻の獲得を願い求めている者たち、財産の獲得を願い求めている者たち、盛名の獲得を願い求めている者たち、権力の獲得を願い求めている者たち、士族の大家の家系における自己状態(個我的あり方・身体)の獲得を願い求めている者たち、婆羅門の大家の家系における自己状態の獲得を願い求めている者たち、家長の大家の家系における自己状態の獲得を願い求めている者たち、四大王天〔の神々〕(四天王)たちにおける自己状態の獲得を願い求めている者たち、三十三天〔の神々〕たちにおける……略……耶摩天〔の神々〕たちにおける……兜率天〔の神々〕たちにおける……化楽天〔の神々〕たちにおける……他化自在天〔の神々〕たちにおける……梵身天〔の神々〕たちにおける自己状態の獲得を、願い求めている者たち、欲求している者たち、愛用している者たちち、切望している者たち、熱望している者たち、渇望している者たち。ということで、「〔自ら〕願い求めている者たちが」。

 

 [323]「プンナカよ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を」とは、ここにおいて、自己状態の発現を願い求めている者たち、ここにおいて、士族の大家の家系における自己状態の発現を願い求めている者たち……略……ここにおいて、梵身天〔の神々〕たちにおける自己状態の発現を、願い求めている者たち、欲求している者たち、愛用している者たちち、切望している者たち、熱望している者たち、渇望している者たち。ということで、「プンナカよ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが」。

 

 [324]「〔自らの〕老に依存し、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです」とは、老に依存する者たち、病に依存する者たち、死に依存する者たち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤に依存する者たち。まさしく、すなわち、彼らが、生に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、老に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、老に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、病に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、病に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、死に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、死に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、〔未来の〕境遇に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、〔未来の〕境遇に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、再生に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、再生に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、結生に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、結生に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、生存に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、生存に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、輪廻に依存する者たちである。まさしく、すなわち、彼らが、輪廻に依存する者たちであるなら、まさしく、すなわち、彼らは、〔輪廻の〕転起に、依存する者たちであり、〔思いが〕付着した者たちであり、近しく赴いた者たちであり、固執した者たちであり、信念した者たちである。ということで、「〔自らの〕老に依存し、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [325]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「プンナカよ、彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのは、プンナカよ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが、〔自らの〕老に依存し、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです」と。

 

14.

 

 [326]1051.(1045) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですが、世尊よ、どうでしょう、まさに、祭祀の道に怠りなき彼らは、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(3)

 

 [327]「彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが」とは、「彼らが誰であれ」とは……略([319-321]参照)……。

 

 [328]「世尊よ、どうでしょう、まさに、祭祀の道に怠りなき彼らは」とは、「どうでしょう、まさに」とは、疑念についての問い、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「どうでしょう、まさに」。「彼らは」とは、祭祀の祭祀者たちと説かれる。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「世尊よ、どうでしょう、まさに」「彼らは」。「祭祀の道に怠りなき」とは、まさしく、祭祀は、祭祀の道と説かれる。たとえば、聖者の道(マッガ)が、聖者の道(パタ)であるように、天の道(マッガ)が、天の道(パタ)であるように、梵の道(マッガ)が、梵の道(パタ)であるように、まさしく、このように、まさしく、祭祀は、祭祀の道と説かれる。「怠りなき」とは、祭祀の道に、怠りなき者たち、真剣に為す者たち、常に為す者たち、停滞なく為す者たち、畏縮なき生活者たち、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)たち、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)たち、それを所行とする者たち、それが多くある者たち、それに尊重ある者たち、それに向かい行く者たち、それに傾倒する者たち、それに傾斜する者たち、それを信念した者たち、それを優位とする者たち。ということで、彼らもまた、「祭祀の道に怠りなき」。彼らがまた、祭祀を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、食べ物を、飲み物を……略([306]参照)……臥所や住居や灯具を、探し求め、追求し、遍く探し求めるなら、真剣に為す者たちであり……略……それを優位とする者たちであり、彼らもまた、「祭祀の道に怠りなき」。彼らがまた、祭祀を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、食べ物を、飲み物を……略……臥所や住居や灯具を、準備するなら、真剣に為す者たちであり……略……それを優位とする者たちであり、彼らもまた、「祭祀の道に怠りなき」。彼らがまた、祭祀を、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、食べ物を、飲み物を……略……臥所や住居や灯具を、布施し、祭祀し、遍捨するなら、真剣に為す者たちであり……略……それを優位とする者たちであり、彼らもまた、「祭祀の道に怠りなき」。ということで、「世尊よ、どうでしょう、まさに、祭祀の道に怠りなき彼らは」。

 

 [329]「敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」とは、そして、生を、さらに、老を、超え渡ったのか、超え上がったのか、超え登ったのか、等しく超越したのか、超克したのか。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」。

 

 [330]「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに清信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [331]かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──「彼らが誰であれ、これらの、聖賢たちが、人間たちが、士族たちが、婆羅門たちが、天神たちへの祭祀を、ここに、〔この〕世において、多々に営んできたのですが、世尊よ、どうでしょう、まさに、祭祀の道に怠りなき彼らは、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。

 

15.

 

 [332]1052.(1046) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ、〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします。〔しかしながら、実のところは〕利得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望します。彼らは、祭祀という束縛()ある者たちであり、〔迷いの〕生存()にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、「生と老を超えてはいない」と、〔わたしは〕説きます。(4)

 

 [333]「〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします」とは、「〔彼らは〕願望し」とは、形態の獲得を願望し、音声の獲得を願望し、臭気の獲得を願望し、味感の獲得を願望し、感触の獲得を願望し、子の獲得を願望し、妻の獲得を願望し、財産の獲得を願望し、盛名の獲得を願望し、権力の獲得を願望し、士族の大家の家系における自己状態の獲得を願望し、婆羅門の大家の家系における……略……家長の大家の家系における自己状態の獲得を願望し、四大王天〔の神々〕たちにおける……略([322]参照)……梵身天〔の神々〕たちにおける自己状態の獲得を、願望し、欲求し、愛用し、切望し、熱望し、渇望する。ということで、「〔彼らは〕願望し」。

 

 [334]「賛嘆し」とは、(1)あるいは、祭祀を賛嘆し、(2)あるいは、果を賛嘆し、(3)あるいは、施与されるべき者たちを賛嘆する。(1)どのように、祭祀を賛嘆するのか。「清らかな施しである、意に適う施しである、精妙なる施しである、〔正しい〕時の施しである、適確なる施しである、選別された施しである、罪過なき施しである、間断なき施しである、施しつつ心は清められた」と、賛嘆し、名誉とし、栄誉とし、賞賛する。このように、祭祀を賛嘆する。

 

 [335](2)どのように、果を賛嘆するのか。「因縁としてこの〔供養〕から、形態の獲得は有るであろう……略([322]参照)……梵身天〔の神々〕たちにおける自己状態の獲得は有るであろう」と、賛嘆し、名誉とし、栄誉とし、賞賛する。このように、果を賛嘆する。

 

 [336](3)どのように、施与されるべき者たちを賛嘆するのか。「施与されるべき者たちは、出生の成就者たちである(善き生まれの者たちである)、氏姓の成就者たちである、〔聖典の〕読誦者たちである、呪文の保持者たちである、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者たちである、あるいは、貪欲を離れた者たちであり、あるいは、貪欲の調伏のために実践する者たちである、あるいは、憤怒を離れた者たちであり、あるいは、憤怒の調伏のために実践する者たちである、あるいは、迷妄を離れた者たちであり、あるいは、迷妄の調伏のために実践する者たちである、信の成就者たちである、戒の成就者たちである、禅定の成就者たちである、智慧の成就者たちである、解脱の成就者たちである、解脱の知見の成就者たちである」と、賛嘆し、名誉とし、栄誉とし、賞賛する。このように、施与されるべき者たちを賛嘆する。

 

 [337]「渇望し」とは、形態の獲得を渇望し、音声の獲得を渇望し、臭気の獲得を渇望し、味感の獲得を渇望し……略([322]参照)……梵身天〔の神々〕たちにおける自己状態の獲得を渇望する。ということで、「〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し」。「供犠をします」とは、供犠をする、布施をする、祭祀をする、遍捨する──衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、食べ物を、飲み物を、衣を、乗物を、花飾や香料や塗料を、臥所や住居や灯具を。ということで、「〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします」。

 

 [338]「〔しかしながら、実のところは〕利得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望します」とは、形態の獲得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望し、音声の獲得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望し……略([322]参照)……梵身天〔の神々〕たちにおける自己状態の獲得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を、渇望し、強く渇望する。ということで、「〔しかしながら、実のところは〕利得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望します」。

 

 [339]「彼らは、祭祀という束縛()ある者たちであり、〔迷いの〕生存()にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」とは、「彼らは」とは、祭祀の祭祀者たちと説かれる。「祭祀という束縛ある者たちであり」とは、祭祀という諸々の束縛にたいし、束縛された者たち、専念する者たち、専従する者たち、等しく専従する者たち、それを所行とする者たち、それが多くある者たち、それに尊重ある者たち、それに向かい行く者たち、それに傾倒する者たち、それに傾斜する者たち、それを信念した者たち、それを優位とする者たち。ということで、「祭祀という束縛ある者たちであり」。「〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり」とは、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕は、すなわち、諸々の生存における、生存にたいする欲〔の思い〕、生存にたいする貪り〔の思い〕、生存にたいする愉悦、生存にたいする渇愛、生存にたいする愛執、生存にたいする苦悶、生存にたいする耽溺、生存にたいする固執、と説かれる。〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕によって、諸々の生存について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち。ということで、「彼らは、祭祀という束縛ある者たちであり、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり」。

 

 [340]「『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」とは、「彼らは、祭祀という束縛ある者たちであり、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、生と老と死を、超え渡ってはいない、超え上がってはいない、超え登ってはいない、等しく超越してはいない、超克してはいない。生と老と死から、〔いまだ〕離欲していない者たちであり、〔いまだ〕出離していない者たちであり、〔いまだ〕超越していない者たちであり、〔いまだ〕等しく超越していない者たちであり、〔いまだ〕超克していない者たちである。生と老と死の内において遍く転起し、輪廻の道の内において遍く転起し、生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有る者たちである」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「彼らは、祭祀という束縛ある者たちであり、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」。それによって、世尊は言った。

 

 [341]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「プンナカよ、〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします。〔しかしながら、実のところは〕利得を縁として、諸々の欲望〔の対象〕を渇望します。彼らは、祭祀という束縛()ある者たちであり、〔迷いの〕生存()にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

16.

 

 [342]1053.(1047) かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、〔生と老を〕超えていないなら──敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、諸々の祭祀によって〔超えていないなら〕──そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(5)

 

 [343]「もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、〔生と老を〕超えていないなら」とは、彼らは、祭祀の祭祀者たちは、祭祀という束縛ある者たちであり、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、生と老と死を、超え渡ってはいない、超え上がってはいない、超え登ってはいない、等しく超越してはいない、超克してはいない。生と老と死から、〔いまだ〕離欲していない者たちであり、〔いまだ〕出離していない者たちであり、〔いまだ〕超越していない者たちであり、〔いまだ〕等しく超越していない者たちであり、〔いまだ〕超克していない者たちである。生と老と死の内において遍く転起し、輪廻の道の内において遍く転起し、生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有る者たちである。ということで、「もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、〔生と老を〕超えていないなら」。

 

 [344]「かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……「かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕」。

 

 [345]「敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、諸々の祭祀によって〔超えていないなら〕」とは、「諸々の祭祀によって」とは、多大なる祭祀によって、様々な種類の祭祀によって、多々なる祭祀によって。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、諸々の祭祀によって〔超えていないなら〕」。

 

 [346]「そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」とは、そこで、〔まさに〕この、誰が、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、生と老と死を、超え渡ったのか、超え上がったのか、超え登ったのか、等しく超越したのか、超克したのか。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」。

 

 [347]「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに清信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [348]かくのごとく、尊者プンナカが〔尋ねた〕──「もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、〔生と老を〕超えていないなら──敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、諸々の祭祀によって〔超えていないなら〕──そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。

 

17.

 

 [349]1054.(1048) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ、世における彼此〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、「彼は、生と老を超えた」と、〔わたしは〕説きます。(6)

 

 [350]「世における彼此〔のあり方〕を究めて」とは、究明(究め)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。「彼此〔のあり方〕を」とは、此は、自らの自己状態と説かれる。彼は、他の自己状態と説かれる。此は、自らの形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕(色受想行識)と説かれる。彼は、他の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕と説かれる。此は、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)と説かれる。彼は、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)と説かれる。此は、人間の世と説かれる。彼は、天の世と説かれる。此は、欲望の界域(欲界)と説かれる。彼は、形態の界域(色界)や形態なき界域(無色界)と説かれる。此は、欲望の界域や形態の界域と説かれる。彼は、形態なき界域と説かれる。「世における彼此〔のあり方〕を究めて」とは、彼此〔のあり方〕を、無常〔の観点〕から究めて、苦痛〔の観点〕から究めて、病〔の観点〕から究めて、腫物〔の観点〕から究めて……略([252]参照)……出離〔の観点〕から、究めて、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「世における彼此〔のあり方〕を究めて」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ」とは、「プンナカよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──プンナカよ」。

 

 [351]「彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「動揺〔の思い〕」とは、渇愛の動揺、見解の動揺、思量の動揺、〔心の〕汚れの動揺、欲望の動揺。彼の、これらの動揺〔の思い〕が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら」。

 

 [352]「寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」とは、「寂静にして」とは、貪欲が静まったことから、寂静となった者となり、憤怒が……略……迷妄が……忿激が……怨恨が……略([250]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「寂静にして」。「怒りを離れ」とは、身体による悪しき行ないが、怒りを離れ、砕破され、渇き、干上がり、終息が為され、言葉による悪しき行ないが……略……意による悪しき行ないが、怒りを離れ、砕破され、渇き、干上がり、終息が為され、貪欲が……憤怒が……迷妄が、怒りを離れ、砕破され、渇き、干上がり、終息が為され、忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、怒りを離れ、砕破され、渇き、干上がり、終息が為された。さらに、あるいは、忿激は、煙(怒り)と説かれる。

 

 [353]〔そこで、詩偈に言う〕「婆羅門よ、まさに、〔我想の〕思量は、おまえにとって、カーリー(重さの単位・一石)の重荷である。忿激〔の思い〕は、煙である。虚偽の言葉は、灰のうちにある。舌は、〔献供の〕杓子である。心臓は、〔献供の〕火の拠点である。善く調御された自己は、人にとって、〔導きの〕火である」と。

 

 [354]さらに、また、十の行相によって、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なうであろう」と、忿激は生じる。また、あるいは、状況(道理)なきことがあるとき、忿激は生じる。すなわち、このような形態の、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒()、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕、意の強き憤怒、忿激(忿)、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、忿激と説かれる。

 

 [355]さらに、また、忿激の、旺盛なることと微小なることが知られるべきである。どのような時でも、忿激は存在する──心の混濁ほどのものとして有り、そして、それまでは、口を痙攣させるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──口を痙攣させるほどのものとして有り、そして、それまでは、顎を動かすものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──顎を動かすほどのものとして有り、そして、それまでは、粗暴な言葉を放つものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──粗暴な言葉を放つほどのものとして有り、そして、それまでは、方々を睨み付けるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──方々を睨み付けるほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を撫で回すものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──棒や刃を撫で回すほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を振り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──棒や刃を振り上げるほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を打ち落とすものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──棒や刃を打ち落とすほどのものとして有り、そして、それまでは、素振りや振り回しを為すものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──素振りや振り回しを為すほどのものとして有り、そして、それまでは、等しく打ち砕き遍く打ち砕くものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──等しく打ち砕き遍く打ち砕くほどのものとして有り、そして、それまでは、手足と肢体を引き裂くものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──手足と肢体を引き裂くほどのものとして有り、そして、それまでは、生命を取り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──生命を取り上げるほどのものとして有り、そして、それまでは、一切を捨て去り遍く捨て去る様相と成ることはない。すなわち、忿激は、他の人を害して〔そののち〕、自己を害することから、このことから、忿激は、最高の増長に至ったものと〔成り〕、最高の広大に至り得たものと成る。彼の、その忿激が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、怒りを離れる者と説かれる。

 

 [356]忿激が捨棄されたことから、怒りを離れる者となり、忿激の基盤(根拠)が遍知されたことから、怒りを離れる者となり、忿激の因が遍知されたことから、怒りを離れる者となり、忿激の因が断絶されたことから、怒りを離れる者となる。

 

 [357]「煩悶なく」とは、貪欲は、煩悶である。憤怒は、煩悶である。迷妄は、煩悶である。忿激は、煩悶である。怨恨は、煩悶である。……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、煩悶である。彼の、これらの煩悶が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、煩悶なき者と説かれる。

 

 [358]「願望なき者であり」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この願望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、願望なき者と説かれる。「生」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得である。「老」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能()の完熟である。「寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」とは、彼が、かつまた、寂静であり、かつまた、怒りを離れ、かつまた、煩悶なく、かつまた、願望なき者であるなら、「彼は、まさに、生と老と死を、超え渡った、超え上がった、超え登った、等しく超越した、超克した」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」。それによって、世尊は言った。

 

 [359]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「プンナカよ、世における彼此〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 [360]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……合掌し、世尊を礼拝しながら〔その場に〕坐った者と成る。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [361]プンナカ学徒の問いについての釈示が、第三となる。

 

2. 1. 4. メッタグー学徒の問いについての釈示

 

18.

 

 [362]1055.(1049) かくのごとく、尊者メッタグーが〔尋ねた〕──世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。〔わたしは〕思います──あなたのことを、〔真の〕知に至る方と、自己を修めた方と。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか。(1)

 

 [363]「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「尋ねます」とは、三つの問いがある。(1)〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問い、(2)〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問い、(3)疑問を断絶するものとしての問いである。(1)どのようなものが、〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問いであるのか。元来において、特相が、知られていないもの、見られていないもの、比較されていないもの、推量されていないもの、明確にされていないもの、分明されていないものとして有り、それを、知るために、見るために、比較するために、推量するために、分明するために、問いを尋ねる。これが、〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問いである。

 

 [364](2)どのようなものが、〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問いであるのか。元来において、特相が、知られたもの、見られたもの、比較されたもの、推量されたもの、明確にされたもの、分明されたものとして有り、他の賢者たちを相手に、適応を義(目的)として、問いを尋ねる。これが、〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問いである。

 

 [365](3)どのようなものが、疑問を断絶するものとしての問いであるのか。元来において、疑念に跳入した者、疑問に跳入した者、二様のものが生じた者として有り、「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」と、彼は、疑問の断絶を義(目的)として、問いを尋ねる。これが、疑問を断絶するものとしての問いである。これらの三つの問いがある。

 

 [366]他にも、また、三つの問いがある。(1)人間の問い、(2)人間ならざるもの(精霊・悪霊)の問い、(3)化作された者(化仏)の問いである。(1)どのようなものが、人間の問いであるのか。人間たちが、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ねる。比丘たちが尋ねる、比丘尼たちが尋ねる、在俗信者(優婆塞)たちが尋ねる、女性在俗信者(優婆夷)たちが尋ねる、王たちが尋ねる、士族たちが尋ねる、婆羅門たちが尋ねる、庶民たちが尋ねる、隷民たちが尋ねる、在家者たちが尋ねる、出家者たちが尋ねる。これが、人間の問いである。

 

 [367](2)どのようなものが、人間ならざるものの問いであるのか。人間ならざるものたちが、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ねる。龍たちが尋ねる、金翅鳥たちが尋ねる、夜叉たちが尋ねる、阿修羅たちが尋ねる、音楽神たちが尋ねる、〔天の〕大王たちが尋ねる、インダ(インドラ神)たちが尋ねる、梵〔天〕(ブラフマー神)たちが尋ねる、天神たちが尋ねる。これが、人間ならざるものの問いである。

 

 [368](3)どのようなものが、化作された者の問いであるのか。すなわち、世尊が、〔まさに〕その、〔自己の〕形態を──意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして──化作するなら、〔まさに〕その、化作された者は、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ね、世尊は、彼に答える。これが、化作された者の問いである。これらの三つの問いがある。

 

 [369]他にも、また、三つの問いがある。(1)自己の義(利益)の問い、(2)他者の義(利益)の問い、(3)両者の義(利益)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)所見の法(現法:現世)の義(利益)の問い、(2)未来の義(利益)の問い、(3)最高の義(勝義:最高の真実)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)罪過なきものの義(利益)の問い、(2)〔心の〕汚れなきものの義(利益)の問い、(3)浄化の義(利益)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)過去の問い、(2)未来の問い、(3)現在の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)内なる問い、(2)外なる問い、(3)内なると外なる問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)善なる問い、(2)善ならざる問い、(3)〔善悪が〕説き明かされない問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔五つの〕範疇の問い、(2)〔十八の〕界域の問い、(3)〔十二の認識の〕場所の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔四つの〕気づきの確立の問い、(2)〔四つの〕正しい精励の問い、(3)〔四つの〕神通の足場の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔五つの〕機能の問い、(2)〔五つの〕力の問い、(3)〔七つの〕覚りの支分の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔聖者の〕道の問い、(2)〔沙門の〕果の問い、(3)涅槃の問いである。

 

 [370]「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに清信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。

 

 [371]「かくのごとく、尊者メッタグーが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……「かくのごとく、尊者メッタグーが〔尋ねた〕」。

 

 [372]「〔わたしは〕思います──あなたのことを、〔真の〕知に至る方と、自己を修めた方と」とは、(1)「〔真の〕知に至る方である」と、あなたのことを、〔わたしは〕思う。(2)「自己を修めた方である」と、あなたのことを、〔わたしは〕思う。このように、〔わたしは〕知る、このように、〔わたしは〕了知する、このように、〔わたしは〕解知する、このように、〔わたしは〕理解する。「〔真の〕知に至る方である」「自己を修めた方である」とは、(1)では、どのように、世尊は、〔真の〕知に至る方であるのか。〔真の〕知は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。世尊は、それらの知によって、生と老と死の、終極に至った方、終極に至り得た方、突端に至った方、突端に至り得た方、極限に至った方、極限に至り得た方、完成に至った方、完成に至り得た方、救護所に至った方、救護所に至り得た方、避難所に至った方、避難所に至り得た方、帰依所に至った方、帰依所に至り得た方、恐怖なきに至った方、恐怖なきに至り得た方、死滅なきに至った方、死滅なきに至り得た方、不死に至った方、不死に至り得た方、涅槃に至った方、涅槃に至り得た方である。あるいは、諸々の知の、終極に至った方、ということで、〔真の〕知に至る方となり、あるいは、諸々の知によって、終極に至った方、ということで、〔真の〕知に至る方となり、あるいは、七つの法(性質)が知られたことから、〔真の〕知に至る方となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、知られたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、知られたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、知られたものと成り、(4)貪欲()が、知られたものと成り、(5)憤怒()が、知られたものと成り、(6)迷妄()が、知られたものと成り、(7)思量()が、知られたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、知られたものと成る。

 

 [373]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、この〔世において〕、それら〔の知〕が、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕、知(ヴェーダ)の全部を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(ヴェーダナー)について貪欲を離れた者──彼は、一切の知を超え行って、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」と。

 

 [374]このように、世尊は、〔真の〕知に至る方である。

 

 [375](2)では、どのように、世尊は、自己を修めた方であるのか。世尊は、身体を修めた方、戒を修めた方、心を修めた方、智慧を修めた方、〔四つの〕気づきの確立を修めた方、〔四つの〕正しい精励を修めた方、〔四つの〕神通の足場を修めた方、〔五つの〕機能を修めた方、〔五つの〕力を修めた方、〔七つの〕覚りの支分を修めた方、〔聖なる八つの支分ある〕道を修めた方、〔心の〕汚れを捨棄した方、不動〔の境地〕(阿羅漢果)を理解した方、止滅〔の境地〕(涅槃)を実証した方である。彼にとって、苦しみは遍知され、集起は捨棄され、道は修行され、止滅は実証され、証知されるべきものは証知され、遍知されるべきものは遍知され、捨棄されるべきものは捨棄され、修行されるべきものは修行され、実証されるべきものは実証された。微小ならざる方として、偉大なる方として、深遠なる方として、無量なる方として、深解し難き方として、多大なる宝ある方として、海洋の如き方として、六つの支分ある放捨(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した方として、〔世に〕有る。

 

 [376]眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。

 

 [377]眼によって、形態を見て、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲〔の思い〕を生じさせない。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。まさしく、また、まさに、眼によって、形態を見て、意に適わないものであるも、愕然と成らず、止住する心なく(怒りの思いを維持しない)、畏縮する意なく、憎悪する心なくある。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲を生じさせない。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。まさしく、また、まさに、意によって、法(意の対象)を識知して、意に適わないものであるも、愕然と成らず、止住する心なく、畏縮する意なく、憎悪する心なくある。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。

 

 [378]眼によって、形態を見て、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない形態にたいし、彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の意に適う〔法〕と意に適わない法(意の対象)にたいし、彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。

 

 [379]眼によって、形態を見て、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、激情するべきものについて激情せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、激情するべきものについて激情せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。

 

 [380]見られたものにおいては、見られたもののみがあり、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみがあり、思われたものにおいては、思われたもののみがあり、識られたものにおいては、識られたもののみがある。見られたものについて汚されず、聞かれたものについて汚されず、思われたものについて汚されず、識られたものについて汚されない。見られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。聞かれたものについて……略……。思われたものについて……。識られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。

 

 [381]世尊に、眼は等しく見出され、世尊は、眼によって、形態を見るも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてある。世尊に、耳は等しく見出され、世尊は、耳によって、音声を聞くも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてある。世尊に、鼻は等しく見出され、世尊は、鼻によって、臭気を嗅ぐも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてある。世尊に、舌は等しく見出され、世尊は、舌によって、味感を……略……。世尊に、身は等しく見出され、世尊は、身によって、感触と……略……。世尊に、意は等しく見出され、世尊は、意によって、法(意の対象)を識知するも、世尊に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、世尊は、善く解脱した心の者としてある。

 

 [382]眼は、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜するも、世尊のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示する。耳は、音声を喜びとし……略……。鼻は、臭気を喜びとし……。舌は、味感を喜びとし、味感を喜び、味感に歓喜するも、世尊のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示する。身は、感触を喜びとし……略……。意は、法(意の対象)を喜びとし、法(意の対象)を喜び、法(意の対象)に歓喜するも、世尊のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示する。

 

 [383]〔そこで、詩偈に言う〕「調御された〔象〕を、〔人々は〕戦場へと導く。調御された〔象〕に、王は乗る。〔自己が〕調御された者は、人間たちのなかの最勝の者──彼は、〔他者からの〕責め咎めを忍受する。

 

 [384]優れているのは、調御された騾馬たちであり、そして、善き生まれのシンダヴァたち(シンドゥ産の良馬)であり、さらに、クンジャラの大いなる象たちである。それよりも優れているのは、自己が調御された者である。

 

 [385]まさに、これらの乗物では、〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴くことはできない──すなわち、善く調御された自己〔という乗物〕で、調御された者が調御によって赴くようには。

 

 [386]〔『勝る』『等しい』『劣る』の三つの〕種類にたいし、〔彼らは〕動揺しない。さらなる生存から解脱した者たちであり、調御された境地に至り得た者たちであり、彼らは、世における征圧者たちである。

 

 [387]彼の、諸々の〔感官の〕機能が、内に、さらに、外に、一切の世において修められたなら──この〔世〕を、さらに、他の世を、〔あるがままに〕洞察して、〔自己を〕修めた者となり、〔死の〕時を待つ──彼は、『調御された者』〔と呼ばれる〕」と。

 

 [388]このように、世尊は、自己を修めた方である。ということで、「〔わたしは〕思います──あなたのことを、〔真の〕知に至る方と、自己を修めた方と」。

 

 [389]「これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか」とは、「いったい、どこから」とは、疑念についての問い、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「いったい、どこから」。「諸々の苦しみ」とは、生の苦しみ、老の苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみ、地獄の苦しみ、畜生の胎の苦しみ、餓鬼の境域の苦しみ、人間の苦しみ、入胎を根元とする苦しみ、胎における止住を根元とする苦しみ、胎からの出起を根元とする苦しみ、生まれた者に連結する苦しみ、生まれた者が他者の配下となる苦しみ、自己の行動(自害)としての苦しみ、他者の行動(他害)としての苦しみ、苦痛の苦しみ、形成の苦しみ、変化の苦しみ、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみ、母の死の苦しみ、父の死の苦しみ、兄弟の死の苦しみ、姉妹の死の苦しみ、子の死の苦しみ、娘の死の苦しみ、親族の災厄の苦しみ、財物の災厄の苦しみ、病の災厄の苦しみ、戒の災厄の苦しみ、見解の災厄の苦しみ。それらの法(性質)には、最初あることから、生まれ来ることが覚知され、滅至あることから、止滅が覚知される。行為()に等しく依存したものとして、報い(異熟)がある。報いに等しく依存したものとして、行為がある。名前(:精神的事象)に等しく依存したものとして、形態(:物質的形態)がある。形態に等しく依存したものとして、名前がある。生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、苦しみのうちに確立し、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有るもの、これらが、諸々の苦しみと説かれる。〔対話者は〕「これらの苦しみは、どこから生まれ来たものであり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、これらの苦しみの、根元を尋ね、因を尋ね、因縁を尋ね、発生を尋ね、起源を尋ね、等しく現起するもの(発生源)を尋ね、食(動力源・エネルギー)を尋ね、対象(所縁)を尋ね、縁を尋ね、集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、清信する。ということで、「これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか」。

 

 [390]「それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての」とは、「それらが何であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「それらが何であれ」ということになる。「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇の世における、〔十八の〕界域の世における、〔十二の認識の〕場所の世における。「無数なる形態あるものとしての」とは、無数なる種類あるものとしての、種々なる流儀あるものとしての、諸々の苦しみ。ということで、「それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [391]かくのごとく、尊者メッタグーが〔尋ねた〕──「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。〔わたしは〕思います──あなたのことを、〔真の〕知に至る方と、自己を修めた方と。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか」と。

 

19.

 

 [392]1056.(1050) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ、まさに、〔あなたは〕わたしに、苦しみの起源を尋ねました。それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生します。(2)

 

 [393]「まさに、〔あなたは〕わたしに、苦しみの起源を尋ねました」とは、「苦しみの」とは、生の苦しみの、老の苦しみの、病の苦しみの、死の苦しみの、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみの。「起源を尋ねました」とは、苦しみの、根元を、〔あなたは〕尋ねる、因を、〔あなたは〕尋ねる、因縁を、〔あなたは〕尋ねる、発生を、〔あなたは〕尋ねる、起源を、〔あなたは〕尋ねる、等しく現起するもの(発生源)を、〔あなたは〕尋ねる、食(動力源・エネルギー)を、〔あなたは〕尋ねる、対象を、〔あなたは〕尋ねる、縁を、〔あなたは〕尋ねる、集起を、〔あなたは〕尋ねる、〔あなたは〕乞い求める、〔あなたは〕要請する、〔あなたは〕清信する。ということで、「まさに、〔あなたは〕わたしに、苦しみの起源を尋ねました」。「メッタグーよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ」。

 

 [394]「それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」とは、「それを」とは、苦しみの、根元を、〔わたしは〕言示するであろう、因を、〔わたしは〕言示するであろう、因縁を、〔わたしは〕言示するであろう、発生を、〔わたしは〕言示するであろう、起源を、〔わたしは〕言示するであろう、等しく現起するもの(発生源)を、〔わたしは〕言示するであろう、食(動力源・エネルギー)を、〔わたしは〕言示するであろう、対象を、〔わたしは〕言示するであろう、縁を、〔わたしは〕言示するであろう、集起を、〔わたしは〕言示するであろう、〔わたしは〕告げ知らせるであろう、〔わたしは〕説示するであろう、〔わたしは〕報知するであろう、〔わたしは〕確立するであろう、〔わたしは〕開顕するであろう、〔わたしは〕区分するであろう、〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。「〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」とは、覚知している、そのとおりに、すなわち、覚知している者として、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)を、それを、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」。

 

 [395]「諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生します」とは、「依り所」とは、十の依り所がある。(1)渇愛という依り所、(2)見解という依り所、(3)〔心の〕汚れという依り所、(4)行為という依り所、(5)悪しき行ないという依り所、(6)食という依り所、(7)敵対するもの(有対・障礙:対峙対立するもの・客体物)という依り所、(8)四つの執取された界域(欲望の対象への執取・見解への執取・戒や掟への執取・自己の論への執取)という依り所、(9)六つの内なる〔認識の〕場所という依り所、(10)六つの識知〔作用〕の体系という依り所である。一切の苦しみもまた、苦しみの義(意味)によって、依り所となる。これらが、十の依り所と説かれる。「諸々の苦しみ」とは、生の苦しみ、老の苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみ、地獄の苦しみ……略([208]参照)……見解の災厄の苦しみ。それらの法(性質)には、最初あることから、生まれ来ることが覚知され、滅至あることから、止滅が覚知される。行為に等しく依存したものとして、報いがある。報いに等しく依存したものとして、行為がある。名前に等しく依存したものとして、形態がある。形態に等しく依存したものとして、名前がある。生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、苦しみのうちに確立し、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有るもの、これらが、諸々の苦しみと説かれる。これらの苦しみは、〔生存の〕依り所を因縁とするものとして、〔生存の〕依り所を因とするものとして、〔生存の〕依り所を縁とするものとして、〔生存の〕依り所を契機とするものとして、〔生存の〕依り所を起源とするものとして、〔世に〕有り、起源し、発生し、生じ、産出し、発現し、結実する。ということで、「諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所という因縁から発生します」。

 

 [396]「それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての」とは、「それらが何であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「それらが何であれ」ということになる。「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇の世における、〔十八の〕界域の世における、〔十二の認識の〕場所の世における。「無数なる形態あるものとしての」とは、無数なる種類あるものとしての、種々なる流儀あるものとしての、諸々の苦しみ。ということで、「それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての」。それによって、世尊は言った。

 

 [397]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「メッタグーよ、まさに、〔あなたは〕わたしに、苦しみの起源を尋ねました。それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生します」と。

 

20.

 

 [398]1057.(1051) すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づきます。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり、苦しみの出生の起源を随観する者となり。(3)

 

 [399]「すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら」とは、「すなわち」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位に至り得た者として、或る法(性質)を具備した者として──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「〔あるがままに〕知ることなく」とは、無明を具した者、知恵なき者、分明なき者、思慮浅き者。「〔生存の〕依り所を作るなら」とは、渇愛という依り所を作るなら、見解という依り所を作るなら、〔心の〕汚れという依り所を作るなら、行為という依り所を作るなら、悪しき行ないという依り所を作るなら、食という依り所を作るなら、敵対するものという依り所を作るなら、四つの執取された界域という依り所を作るなら、六つの内なる〔認識の〕場所という依り所を作るなら、六つの識知〔作用〕の体系という依り所を、作るなら、生じさせるなら、産出させるなら、発現させるなら、結実させるなら。ということで、「すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら」。

 

 [400]「愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づきます」とは、繰り返し、生の苦しみに、老の苦しみに、病の苦しみに、死の苦しみに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみに、〔彼は〕至る、〔彼は〕等しく近づく、〔彼は〕近しく赴く、〔彼は〕収取する、〔彼は〕偏執する、〔彼は〕固着する。ということで、「繰り返し、苦しみに近づきます」。「愚か者」とは、愚か者、迷愚の者、知なき者、無明を具した者、知恵なき者、分明なき者、思慮浅き者。ということで、「愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づきます」。

 

 [401]「それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「〔あるがままに〕覚知している者となり」とは、覚知している者として、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、覚知している者として、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、覚知している者として、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として。「〔生存の〕依り所を作らないように」とは、渇愛という依り所を作るべきではなく、見解という依り所を作るべきではなく、〔心の〕汚れという依り所を作るべきではなく、行為という依り所を作るべきではなく、悪しき行ないという依り所を作るべきではなく、食という依り所を作るべきではなく、敵対するものという依り所を作るべきではなく、四つの執取された界域という依り所を作るべきではなく、六つの内なる〔認識の〕場所という依り所を作るべきではなく、六つの識知〔作用〕の体系という依り所を、作るべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。ということで、「それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり」。

 

 [402]「苦しみの」とは、生の苦しみの、老の苦しみの、病の苦しみの、死の苦しみの、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみの。「起源を随観する者となり」とは、苦しみの、根元を随観する者として、因を随観する者として、因縁を随観する者として、発生を随観する者として、起源を随観する者として、等しく現起するもの(発生源)を随観する者として、食(動力源・エネルギー)を随観する者として、対象を随観する者として、縁を随観する者として、集起を随観する者として。随観は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。この随観の智慧を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、随観する者と説かれる。ということで、「苦しみの出生の起源を随観する者となり」。それによって、世尊は言った。

 

 [403]「すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づきます。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり、苦しみの出生の起源を随観する者となり」と。

 

21.

 

 [404]1058.(1052) 〔尊者メッタグーが尋ねた〕──〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。慧者たちは、いったい、どのように、激流を超え渡るのですか。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(4)

 

 [405]「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました」とは、すなわち、あなたに、〔わたしたちが〕尋ねたこと、〔わたしたちが〕乞い求めたこと、〔わたしたちが〕要請したこと、〔わたしたちが〕清信したこと。「〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました」とは、述べられた、述べ伝えられた、告げ知らされた、説示された、報知された、確立された、開顕された、区分された、明瞭と為された、明示された。ということで、「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました」。

 

 [406]「〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください」とは、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕尋ねる、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕乞い求める、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕要請する、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕清信する、より上なるものを、あなたに、〔わたしたちは〕尋ねる。「どうか、それを説いてください」とは、どうか、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください」。

 

 [407]「慧者たちは、いったい、どのように、激流を超え渡るのですか。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕」とは、「いったい、どのように」とは、疑念についての問い、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「いったい、どのように」。「慧者たち」とは、慧者たち、賢者たち、智慧ある者たち、覚慧ある者たち、知恵ある者たち、分明ある者たち、思慮ある者たち。「激流」とは、欲望の激流、生存の激流、見解の激流、無明の激流。「生」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得である。「老」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能()の完熟である。「憂い」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、内なる焼悩、内なる遍き焼悩、心の遍き焼尽、失意、憂いの矢。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。

 

 [408]「慧者たちは、いったい、どのように、激流を超え渡るのですか。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕」とは、慧者たちは、どのように、かつまた、激流を、かつまた、生を、かつまた、老を、かつまた、憂いを、かつまた、嘆きを、超え渡るのか、超え上がるのか、超え登るのか、等しく超越するのか、超克するのか。ということで、「慧者たちは、いったい、どのように、激流を超え渡るのですか。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕」。

 

 [409]「牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください」とは、「それを」とは、〔わたしが〕尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕清信するところの、それを。「牟尼(ムニ)よ」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。世尊は、その知恵を具備した者であり、牟尼であり、沈黙に至り得た者である。三つの牟尼の資質がある。(1)身体による牟尼の資質、(2)言葉による牟尼の資質、(3)意による牟尼の資質である。

 

 [410](1)どのようなものが、身体による牟尼の資質であるのか。三種類の身体による悪しき行ない(殺生・偸盗・邪淫)の捨棄が、身体による牟尼の資質である。三種類の身体による善き行ない(不殺生・不偸盗・不邪淫)が、身体による牟尼の資質である。身体という対象についての知恵が、身体による牟尼の資質である。身体の遍知が、身体による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、身体による牟尼の資質である。身体にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、身体による牟尼の資質である。身体の形成〔作用〕(出息と入息)の止滅である第四の瞑想(第四禅)への入定が、身体による牟尼の資質である。これが、身体による牟尼の資質である。

 

 [411](2)どのようなものが、言葉による牟尼の資質であるのか。四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論)の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。四種類の言葉による善き行ない(虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)が、言葉による牟尼の資質である。言葉という対象についての知恵が、言葉による牟尼の資質である。言葉の遍知が、言葉による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、言葉による牟尼の資質である。言葉にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。言葉の形成〔作用〕(思考と想念)の止滅である第二の瞑想(第二禅)への入定が、言葉による牟尼の資質である。これが、言葉による牟尼の資質である。

 

 [412](3)どのようなものが、意による牟尼の資質であるのか。三種類の意による悪しき行ない(強欲・憎悪の心・誤った見解)の捨棄が、意による牟尼の資質である。三種類の意による善き行ない(無欲・憎悪なき心・正しい見解)が、意による牟尼の資質である。心という対象についての知恵が、意による牟尼の資質である。心の遍知が、意による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、意による牟尼の資質である。心にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、意による牟尼の資質である。心の形成〔作用〕の止滅である表象と感覚の止滅(想受滅)への入定が、意による牟尼の資質である。これが、意による牟尼の資質である。

 

 [413]〔そこで、詩偈に言う〕「身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う。

 

 [414]身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『悪しきものが洗い清められた者』と言う」と。

 

 [415]これらの三つの牟尼の資質の法(性質)を具備した六者の牟尼たちがいる。家ある者たる牟尼たち、家なき者たる牟尼たち、〔いまだ〕学びある者(有学)たる牟尼たち、〔もはや〕学ぶことなき者(無学)たる牟尼たち、独者たる牟尼たち、牟尼たる牟尼たちである。どのような者たちが、家ある者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、家ある者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家ある者たる牟尼たちである。どのような者たちが、家なき者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、出家者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家なき者たる牟尼たちである。七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)が、〔いまだ〕学びある者たる牟尼たちである。阿羅漢たちが、〔もはや〕学ぶことなき者たる牟尼たちである。独覚(縁覚・辟支仏)たちが、独者たる牟尼たちである。阿羅漢にして正等覚者たる如来たちが、牟尼たる牟尼たちである。

 

 [416]〔そこで、詩偈に言う〕「迷乱した形態の無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、〔あたかも〕秤(はかり)を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って──

 

 [417]諸々の悪を遍く避けるなら、彼は、牟尼であり、それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、〔彼は〕『牟尼』〔と〕呼ばれる。

 

 [418]かつまた、正しからざる者たちの、かつまた、正しくある者たちの、〔両者の〕法(性質)を、内に、さらに、外に、一切の世において〔あるがままに〕知って、天〔の神々〕と人間たちに供養されるべき者──彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」と。

 

 [419]「どうか、説き明かしてください」とは、それを、どうか、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください」。「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」とは、まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり、〔あるがままに〕知られた、比較された、推量された、明確にされた、分明された。ということで、「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [420]〔尊者メッタグーが尋ねた〕──「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。慧者たちは、いったい、どのように、激流を超え渡るのですか。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」と。

 

22.

 

 [421]1059.(1053) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ、あなたに、法(真理)を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔あるがままの法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(5)

 

 [422]「あなたに、法(真理)を述べ伝えましょう」とは、「法(真理)を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、〔わたしは〕述べ伝えるであろう、〔わたしは〕告げ知らせるであろう、〔わたしは〕説示するであろう、〔わたしは〕報知するであろう、〔わたしは〕確立するであろう、〔わたしは〕開顕するであろう、〔わたしは〕区分するであろう、〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。ということで、「あなたに、法(真理)を述べ伝えましょう」。「メッタグーよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。

 

 [423]「所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔あるがままの法〕を」とは、「所見の法(現世)における」とは、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。ということで、このようにもまた、所見の法(現世)において、〔わたしは〕言説するであろう。さらに、あるいは、苦痛が見られたときにおいては、苦痛を、〔わたしは〕言説するであろう。集起が見られたときにおいては、集起を、〔わたしは〕言説するであろう。道が見られたときにおいては、道を、〔わたしは〕言説するであろう。止滅が見られたときにおいては、止滅を、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、このようにもまた、所見の法(現世)において、〔わたしは〕言説するであろう。さらに、あるいは、所見の法(現世)において、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このようにもまた、所見の法(現世)において、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「所見の法(現世)における」。「伝え聞きではない〔あるがままの法〕を」とは、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)を、それを、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「所見の法(現世)における、伝え聞きではない〔あるがままの法〕を」。

 

 [424]「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」とは、それを、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「〔あるがままに〕行なう」とは、〔あるがままに〕行なっている者として、〔世に〕住んでいる者として、振る舞っている者として、行持している者として、〔行ないを〕守っている者として、〔身を〕保っている者として、〔身を〕保ち行っている者として。ということで、「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」。

 

 [425]「世における執着を超えるのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。執着したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。広きもの(ヴィサーラ)、ということで、「執着」。拡散したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。不正なるもの(ヴィサマ)、ということで、「執着」。冒険する(ヴィサッカティ)、ということで、「執着」。収集する(ヴィサンハラティ)、ということで、「執着」。言葉を違える者(ヴィサンヴァーディカ)、ということで、「執着」。毒根(ヴィサムーラ)、ということで、「執着」。毒果(ヴィサパラ)、ということで、「執着」。毒の遍き受益(ヴィサパリボーガ)、ということで、「執着」。また、あるいは、その渇愛は、広きもの(ヴィサーラ)にして、形態にたいし、音声にたいし、臭気にたいし、味感にたいし、感触にたいし、家にたいし、衆徒にたいし、居住にたいし、利得にたいし、盛名にたいし、賞賛にたいし、安楽にたいし、衣料にたいし、〔行乞の〕施食にたいし、臥坐具にたいし、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)にたいし、欲望の界域(欲界)にたいし、形態の界域(色界)にたいし、形態なき界域(無色界)にたいし、欲望の生存(欲有)にたいし、形態の生存(色有)にたいし、形態なき生存(無色有)にたいし、表象の生存(想有)にたいし、表象なき生存(無想有)にたいし、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)にたいし、一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)にたいし、四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)にたいし、五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)にたいし、過去にたいし、未来にたいし、現在にたいし、諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇の世における、〔十八の〕界域の世における、〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えるのです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、気づきある者は、超え渡るであろう、超え上がるであろう、超え登るであろう、等しく超越するであろう、超克するであろう。ということで、「世における執着を超えるのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [426]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「メッタグーよ、あなたに、法(真理)を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔あるがままの法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」と。

 

23.

 

 [427]1060.(1054) 〔尊者メッタグーが言った〕──そして、その〔あるがままの法〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の法(真理)を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(6)

 

 [428]「そして、その〔あるがままの法〕を、わたしは大いに喜びます」とは、「その〔あるがままの法〕を」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、〔わたしは〕喜ぶ、〔わたしは〕大いに喜ぶ、〔わたしは〕歓喜する、〔わたしは〕随喜する、〔わたしは〕欲求する、〔わたしは〕愛用する、〔わたしは〕乞い求める、〔わたしは〕切望する、〔わたしは〕熱望する、〔わたしは〕渇望する。ということで、「そして、その〔あるがままの法〕を、わたしは大いに喜びます」。

 

 [429]「偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の法(真理)を」とは、「偉大なる聖賢よ」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢(偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる禅定の範疇を……略……。大いなる智慧の範疇を……。大いなる解脱の範疇を……。大いなる解脱の知見の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる闇の体系を破り裂くことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる転倒を破り去ることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる渇愛の矢を引き抜くことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる見解の群結を解きほぐすことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる思量の旗を落とし去ることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる行作を寂止することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる激流を超え出ることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる重荷を捨て置くことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる輪廻と〔その〕転起を断絶することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる熱苦を寂滅させることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる苦悶を安息することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる法(真理)の旗を掲揚することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる〔四つの〕気づきの確立を……略……。大いなる〔四つの〕正しい精励を……。大いなる〔四つの〕神通の足場を……。大いなる〔五つの〕機能を……。大いなる〔五つの〕力を……。大いなる〔七つの〕覚りの支分を……。大いなる聖なる八つの支分ある道を……。大いなる最高の義(勝義:最高の真実)たる不死なる涅槃を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる権能ある有情たちによって、「覚者は、どこにいるのか」「世尊は、どこにいるのか」「天の天たる方は、どこにいるのか」「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。「最上の法(真理)を」とは、最上の法(真理)は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「最上の」とは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものである、法(真理)を。ということで、「偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の法(真理)を」。

 

 [430]「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」とは、それを、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略([256-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「〔あるがままに〕行なう」とは、〔あるがままに〕行なっている者として、〔世に〕住んでいる者として、振る舞っている者として、行持している者として、〔行ないを〕守っている者として、〔身を〕保っている者として、〔身を〕保ち行っている者として。ということで、「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」。

 

 [431]「世における執着を超えるのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。……略([425]参照)……拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えるのです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、気づきある者は、超え渡るであろう、超え上がるであろう、超え登るであろう、等しく超越するであろう、超克するであろう。ということで、「世における執着を超えるのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [432]〔尊者メッタグーが言った〕──「そして、その〔あるがままの法〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の法(真理)を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」と。

 

24.

 

 [433]1061.(1055) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これらのもの(認識の対象)にたいする、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように。(7)

 

 [434]「それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら」とは、それが何であれ、〔あなたが〕覚知するなら、〔あなたが〕了知するなら、〔あなたが〕識知するなら、〔あなたが〕解知するなら、〔あなたが〕理解するなら。ということで、「それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら」。「メッタグーよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ」。

 

 [435]「上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、「上に」とは、未来。「下に」とは、過去。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、現在。「上に」とは、天の世。「下に」とは、地獄の世。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、人間の世。さらに、あるいは、「上に」とは、諸々の善なる法(事象)。「下に」とは、諸々の善ならざる法(事象)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、諸々の〔善悪が〕説き明かされない法(事象)。「上に」とは、形態なき界域(無色界)。「下に」とは、欲望の界域(欲界)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、形態の界域(色界)。「上に」とは、安楽の感受(楽受)。「下に」とは、苦痛の感受(苦受)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)。「上に」とは、足の裏から上に。「下に」とは、髪の頂から下に。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、〔その〕中間において。ということで、「上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において」。

 

 [436]「これらのもの(認識の対象)にたいする、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように」とは、「これらのものにたいする」とは、諸々の告げ知らされたものにたいする、諸々の説示されたものにたいする、諸々の報知されたものにたいする、諸々の確立されたものにたいする、諸々の開顕されたものにたいする、諸々の区分されたものにたいする、諸々の明瞭と為されたものにたいする、諸々の明示されたものにたいする。愉悦は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「固着」とは、二つの固着がある。(1)そして、渇愛の固着であり、(2)さらに、見解の固着である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の固着である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の固着である。

 

 [437]「識知〔作用〕を除き去って」とは、功徳ある行作(善果を形成する働き)を共具した識知〔作用〕があり、功徳なき行作(悪果を形成する働き)を共具した識知〔作用〕があり、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)を共具した識知〔作用〕がある。これらのものにたいする、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、かつまた、行作を共具した識知〔作用〕を、除いて、除き去って、除きなさい、除き去りなさい、捨棄しなさい、捨棄し去りなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、「これらのものにたいする、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように」。

 

 [438]「〔迷いの〕生存のうちに止住しないように」とは、二つの生存がある。(1)そして、行為の生存(業有)であり、(2)さらに、結生あるものとしてのさらなる生存(再有)である。(1)どのようなものが、行為の生存であるのか。功徳ある行作(善果を形成する働き)、功徳なき行作(悪果を形成する働き)、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)である。これが、行為の生存である。(2)どのようなものが、結生あるものとしてのさらなる生存であるのか。結生あるものとしての、形態()、感受〔作用〕()、表象〔作用〕()、諸々の形成〔作用〕()、識知〔作用〕()である。これが、結生あるものとしてのさらなる生存である。「〔迷いの〕生存のうちに止住しないように」とは、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、かつまた、行作を共具した識知〔作用〕を、かつまた、行為の生存を、かつまた、結生あるものとしてのさらなる生存を、捨棄している者は、除去している者は、終息を為している者は、状態なきへと至らせている者は、行為の生存のうちに、止住するべきではなく、結生あるものとしてのさらなる生存のうちに、止住するべきではなく、確立するべきではない。ということで、「識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように」。それによって、世尊は言った。

 

 [439]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッタグーよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これらのもの(認識の対象)にたいする、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、識知〔作用〕を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止住しないように」と。

 

25.

 

 [440]1062.(1056) このような住ある者となり、〔常に〕気づきある怠りなき者として──〔あるがままに〕行なう、比丘として、諸々のわがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)を捨棄して──知ある者は、まさしく、この〔世において〕、苦しみを捨棄するように。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くように〕。(8)

 

 [441]「このような住ある者となり、〔常に〕気づきある怠りなき者として」とは、「このような住ある者となり」とは、そして、愉悦〔の思い〕を、さらに、固着〔の思い〕を、かつまた、行作を共具した識知〔作用〕を、かつまた、行為の生存を、かつまた、結生あるものとしてのさらなる生存を、捨棄している者は、除去している者は、終息を為している者は、状態なきへと至らせている者は。ということで、「このような住ある者となり」。「〔常に〕気づきある」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「怠りなき者として」とは、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者として、常に為す者として、停滞なく為す者として、畏縮なき生活者として、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)として、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)として、〔気づきを〕怠らない者として。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき戒の範疇を円満成就させるのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある戒の範疇を、その場、その場に、智慧によって資助するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき禅定の範疇を……略……智慧の範疇を……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を円満成就させるのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある解脱の知見の範疇を、その場、その場に、智慧によって資助するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕遍知されていない苦痛を遍知するのだろう、あるいは、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の〔心の〕汚れを捨棄するのだろう、あるいは、〔いまだ〕修行されていない道を修行するのだろう、あるいは、〔いまだ〕実証されていない止滅を実証するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。ということで、「このような住ある者となり、〔常に〕気づきある怠りなき者として」。

 

 [442]「〔あるがままに〕行なう、比丘として、諸々のわがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)を捨棄して」とは、「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘は。「〔あるがままに〕行なう」とは、〔あるがままに〕行なっている者として、〔世に〕住んでいる者として、振る舞っている者として、行持している者として、〔行ないを〕守っている者として、〔身を〕保っている者として、〔身を〕保ち行っている者として。「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の我執である。渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、諸々のわがものと〔錯視〕されたものを、捨棄して、捨て去って、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「〔あるがままに〕行なう、比丘として、諸々のわがものと〔錯視〕されたものを捨棄して」。

 

 [443]「知ある者は、まさしく、この〔世において〕、苦しみを捨棄するように。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くように〕」とは、「生」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての……略([358]参照)……。「老」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての……略([358]参照)……。「憂い」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の……略([407]参照)……。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の……略([407]参照)……。「この〔世において〕」とは、この見解の……略([241]参照)……この人間の世において。「知ある者」とは、明知に至った者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「苦しみ」とは、生の苦しみ……略([208]参照)……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみ。「知ある者は、まさしく、この〔世において〕、苦しみを捨棄するように。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くように〕」とは、明知に至った者として、知恵ある者として、分明ある者として、思慮ある者として、まさしく、この〔世において〕、かつまた、生を、かつまた、老を、かつまた、憂いと嘆きを、かつまた、苦しみを、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「知ある者は、まさしく、この〔世において〕、苦しみを捨棄するように。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くように〕」。それによって、世尊は言った。

 

 [444]「このような住ある者となり、〔常に〕気づきある怠りなき者として──〔あるがままに〕行なう、比丘として、諸々のわがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)を捨棄して──知ある者は、まさしく、この〔世において〕、苦しみを捨棄するように。生を、老を、さらに、憂いと嘆きを〔超え行くように〕」と。

 

26.

 

 [445]1063.(1057) 〔尊者メッタグーが言った〕──偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。世尊よ、まさに、たしかに、〔あなたは〕苦しみを捨棄しました。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(9)

 

 [446]「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます」とは、「この」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、〔わたしは〕喜ぶ、〔わたしは〕大いに喜ぶ、〔わたしは〕歓喜する、〔わたしは〕随喜する、〔わたしは〕欲求する、〔わたしは〕愛用する、〔わたしは〕切望する、〔わたしは〕熱望する、〔わたしは〕渇望する。「偉大なる聖賢の」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢(偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。……略([429]参照)……「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。ということで、「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます」。

 

 [447]「ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました」とは、「見事に述べ伝えられました」とは、見事に述べ伝えられた、見事に告げ知らされた、見事に説示された、見事に報知された、見事に確立された、見事に開顕された、見事に区分された、見事に明瞭と為された、見事に明示された。ということで、「見事に述べ伝えられました」。「ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が」とは、諸々の依り所は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。依り所の捨棄が、依り所の寂止が、依り所の放棄が、依り所の安息が、不死なる涅槃が。ということで、「ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました」。

 

 [448]「世尊よ、まさに、たしかに、〔あなたは〕苦しみを捨棄しました」とは、「たしかに」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、誤解なき言葉、確保する言葉。これが、「たしかに」ということになる。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「〔あなたは〕苦しみを捨棄しました」とは、生の苦しみを、老の苦しみを、病の苦しみを、死の苦しみを、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみを、〔あなたは〕捨棄した、〔あなたは〕捨棄し去った、〔あなたは〕除去した、〔あなたは〕終息を為した、〔あなたは〕状態なきへと至らせた。ということで、「世尊よ、まさに、たしかに、〔あなたは〕苦しみを捨棄しました」。

 

 [449]「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」とは、まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり、〔あるがままに〕知られた、比較された、推量された、明確にされた、分明された。ということで、「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [450]〔尊者メッタグーが言った〕──「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。世尊よ、まさに、たしかに、〔あなたは〕苦しみを捨棄しました。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」と。

 

27.

 

 [451]1064.(1058) 牟尼よ、あなたが、彼らを、停滞なく教え諭すなら、そして、また、彼らは、まちがいなく、苦しみを捨棄するでありましょう。龍たる方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしも〕共に赴いて、礼拝します。世尊よ、まさしく、また、わたしをも、停滞なく教え諭してください。(10)

 

 [452]「そして、また、彼らは、まちがいなく、苦しみを捨棄するでありましょう」とは、「そして、また、彼らは」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちは。「苦しみを捨棄するでありましょう」とは、生の苦しみを、老の苦しみを、病の苦しみを、死の苦しみを、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみを、〔彼らは〕捨棄するであろう、〔彼らは〕除去するであろう、〔彼らは〕終息を為すであろう、〔彼らは〕状態なきへと至らせるであろう。ということで、「そして、また、彼らは、まちがいなく、苦しみを捨棄するでありましょう」。

 

 [453]「牟尼よ、あなたが、彼らを、停滞なく教え諭すなら」とは、「彼らを」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちを。「あなたが」とは、世尊に話す。「牟尼(ムニ)よ」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「停滞なく教え諭すなら」とは、停滞なく教え諭すなら、丁寧に教え諭すなら、間断なく教え諭すなら、繰り返し、教え諭すなら、教え示すなら。ということで、「牟尼よ、あなたが、彼らを、停滞なく教え諭すなら」。

 

 [454]「龍たる方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしも〕共に赴いて、礼拝します」とは、「あなたを」とは、世尊に話す。「礼拝します」とは、あるいは、身体によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、言葉によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、心によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、義(意味)のままなる実践によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、法(教え)が法(教え)のままなる実践によって、〔わたしは〕礼拝する、〔わたしは〕尊敬する、〔わたしは〕尊重する、〔わたしは〕思慕する、〔わたしは〕供養する。「〔わたしも〕共に赴いて」とは、共に赴いて、親しく共に赴いて、集いあつまって、親しく集いあつまって、面前にて、あなたを、〔わたしは〕礼拝する。「龍たる方よ」とは、そして、龍(ナーガ)たる世尊は、(1)罪悪(アーグ)を為さない(ナ・カローティ)、ということで、「龍」。(2)赴かない(ナ・ガッチャティ)、ということで、「龍」。(3)帰り来ない(ナ・アーガッチャティ)、ということで、「龍」。(1)どのように、世尊は、罪悪を為さない、ということで、「龍」となるのか。罪悪は、諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすもの、と説かれる。

 

 [455]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、世において、何であれ、罪悪を作らず、一切の束縛を捨て去って、〔一切の〕結縛を〔捨て去って〕、一切所において執着しない、解脱者──真実なることから、如なる者は、『龍』〔と〕呼ばれます」と。

 

 [456]このように、世尊は、罪悪を為さない、ということで、「龍」。

 

 [457](2)どのように、世尊は、赴かない、ということで、「龍」となるのか。世尊は、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚(掉挙)を所以に赴かず、疑惑()を所以に赴かず、悪習(随眠:潜在煩悩)を所以に赴かず、諸々の党派の法(性質)によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。このように、世尊は、赴かない、ということで、「龍」。

 

 [458](3)どのように、世尊は、帰り来ない、ということで、「龍」となるのか。預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって……略……不還道によって……阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。このように、世尊は、帰り来ない、ということで、「龍」。ということで、「龍たる方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしも〕共に赴いて、礼拝します」。

 

 [459]「世尊よ、まさしく、また、わたしをも、停滞なく教え諭してください」とは、世尊よ、まさしく、また、わたしをも、停滞なく教え諭すべきであり、丁寧に教え諭すべきであり、間断なく教え諭すべきであり、繰り返し、教え諭すべきであり、教え示すべきである。ということで、「世尊よ、まさしく、また、わたしをも、停滞なく教え諭してください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [460]「牟尼よ、あなたが、彼らを、停滞なく教え諭すなら、そして、また、彼らは、まちがいなく、苦しみを捨棄するでありましょう。龍たる方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしも〕共に赴いて、礼拝します。世尊よ、まさしく、また、わたしをも、停滞なく教え諭してください」と。

 

28.

 

 [461]1065.(1059) 〔世尊は答えた〕──彼のことを、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に至る者と、〔あなたが〕証知するであろうなら、無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と、〔あなたが証知するであろうなら〕、まさに、たしかに、彼は、この激流を超えたのです。そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱積なく疑いなき者です。(11)

 

 [462]「彼のことを、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に至る者と、〔あなたが〕証知するであろうなら」とは、「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、拒否されたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、拒否されたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、拒否されたものと成り、(4)貪欲()が、拒否されたものと成り、(5)憤怒()が、拒否されたものと成り、(6)迷妄()が、拒否されたものと成り、(7)思量()が、拒否されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、拒否されたものと成る。

 

 [463]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、一切の悪しき〔行為〕を拒否して、〔世俗の〕垢を離れ、〔心が〕善くしっかりと定められ、自己を安立した者──彼は、輪廻を超え行って、全一者となります──〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」と。

 

 [464]「〔真の〕知に至る者」とは、〔真の〕知は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵……略([372-373]参照)……一切の感受(ヴェーダナー)について貪欲を離れた者──彼は、一切の知を超え行って、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」と。「〔あなたが〕証知するであろうなら」とは、〔あなたが〕証知するであろうなら、〔あなたが〕了知するであろうなら、〔あなたが〕識知するであろうなら、〔あなたが〕解知するであろうなら、〔あなたが〕理解するであろうなら。ということで、「彼のことを、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に至る者と、〔あなたが〕証知するであろうなら」。

 

 [465]「無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と、〔あなたが証知するであろうなら〕」とは、「無一物で」とは、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕汚れの所有、悪しき行ないの所有があり、彼の、これらの所有が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、無一物の者と説かれる。「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「生存」とは、二つの生存がある。(1)そして、行為の生存(業有)であり、(2)さらに、結生あるものとしてのさらなる生存(再有)である。……略([438]参照)……。これが、結生あるものとしてのさらなる生存である。「無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と、〔あなたが証知するであろうなら〕」とは、無一物の人と、〔あなたが証知するであろうなら〕。そして、欲望〔の対象〕にたいする、〔迷いの〕生存にたいする、執着なき者と、居着かない者と、付着しない者と、障害とならない者と、離欲した者と、出離した者と、解脱した者と、束縛を離れた者と、制約を離れることを為した心で〔世に〕住んでいる者と、〔あなたが証知するであろうなら〕。ということで、「無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と、〔あなたが証知するであろうなら〕」。

 

 [466]「まさに、たしかに、彼は、この激流を超えたのです」とは、「たしかに」とは、一定の言葉……略([448]参照)……確保する言葉。これが、「たしかに」ということになる。「激流」とは、欲望の激流、生存の激流、見解の激流、無明の激流。「超えたのです」とは、超え上がった、超え登った、等しく超越した、超克した。ということで、「まさに、たしかに、彼は、この激流を超えたのです」。

 

 [467]「そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱積なく疑いなき者です」とは、「超えた者」とは、欲望の激流を超えた者、生存の激流を超えた者、見解の激流を超えた者、無明の激流を超えた者、輪廻の道を、超え渡った者、超え上がった者、超え出た者、超越した者、等しく超越した者、超克した者。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者、〔輪廻の〕旅程を去った者、〔涅槃の〕方角に赴いた者、突端に至った者、梵行を守った者、最上の見解に至り得た者、道を修行した者、〔心の〕汚れを捨棄した者、不動〔の境地〕(阿羅漢果)を理解した者、止滅〔の境地〕(涅槃)を実証した者である。彼にとって、苦しみは遍知され、集起は捨棄され、道は修行され、止滅は実証され、証知されるべきものは証知され、遍知されるべきものは遍知され、捨棄されるべきものは捨棄され、修行されるべきものは修行され、実証されるべきものは実証された。彼は、閂を外した者(無明を捨棄した者)、堀を埋めた者(輪廻を捨棄した者)、柱を引き抜いた者(渇愛を捨棄した者)、閂なき者(五下分結を捨棄した者)、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者(自我意識を捨棄した者)、五つの支分(五蓋)を捨棄した者、六つの支分(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者、一つの守護(気づきによる守護)ある者、四つの依託(智慧による受用と甘受と回避と除去)ある者、各自の真理(偏見)を除去した者、探し求めることを正しく完全に放棄した者、混濁なき思惟ある者、身体の形成〔作用〕(身行)を静息した者、善く解脱した心の者、善く解脱した智慧の者、全一者、〔梵行の〕完成者、最上の人士、最高の人士、最高の至り得るべきものに至り得た者である。彼は、まさしく、〔善悪の報いを〕蓄積することもなく摘出することもなく、〔すでに〕摘出して〔世に〕止住している者、まさしく、〔煩悩を〕捨棄することもなく執取することもなく、〔すでに〕捨棄して〔世に〕止住している者、まさしく、〔世俗を〕離れることもなく近づくこともなく、〔すでに〕離れて〔世に〕止住している者、まさしく、〔世俗を〕離煙することもなく喫煙することもなく、〔すでに〕離煙して〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき(無学)戒の範疇(戒蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備したことから〔世に〕止住している者、真理()を等しく実践して〔世に〕止住している者、動揺〔の思い〕を等しく超越して〔世に〕止住している者、〔心の〕汚れの火を完全に取り払って〔世に〕止住している者、〔輪廻に〕遍く赴かないことから〔世に〕止住している者、幸運を受持して〔世に〕止住している者、解き放ちを受用することから〔世に〕止住している者、慈愛()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、慈悲()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、歓喜()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、放捨(:選択せず差別なき心)という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、究極にして完全なる清浄によって〔世に〕止住している者、それに関わることなき〔あり方〕(渇愛なきあり方)という完全なる清浄によって〔世に〕止住している者、解脱したことから〔世に〕止住している者、満ち足りていることから〔世に〕止住している者、範疇()の極限において〔世に〕止住している者、界域()の極限において〔世に〕止住している者、〔認識の〕場所()の極限において〔世に〕止住している者、境遇()の極限において〔世に〕止住している者、再生の極限において〔世に〕止住している者、結生の極限において〔世に〕止住している者、生存()の極限において〔世に〕止住している者、輪廻の極限において〔世に〕止住している者、転起の極限において〔世に〕止住している者、最後の生存の極限において〔世に〕止住している者、最後の積身において〔世に〕止住している者、最後の肉身を保つ阿羅漢である。

 

 [468]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、これは、最後の生存である。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。

 

 [469]「そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は」とは、彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。彼は、彼岸に至った者、彼岸に至り得た者、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者、極限に至った者、極限に至り得た者、完成に至った者、完成に至り得た者、救護所に至った者、救護所に至り得た者、避難所に至った者、避難所に至り得た者、帰依所に至った者、帰依所に至り得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきに至り得た者、死滅なきに至った者、死滅なきに至り得た者、不死に至った者、不死に至り得た者、涅槃に至った者、涅槃に至り得た者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は」。

 

 [470]「〔心に〕鬱積なく」とは、貪欲は鬱積である。憤怒は鬱積である。迷妄は鬱積である。忿激は鬱積である。怨恨は鬱積である。……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、鬱積である。彼の、これらの鬱積が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、鬱積なき者と説かれる。「疑いなき者です」とは、苦しみについての疑い、苦しみの集起についての疑い、苦しみの止滅についての疑い、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての疑い、過去の極(前際:過去の種々相)についての疑い、未来の極(後際:未来の種々相)についての疑い、過去と未来の極についての疑い、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)についての疑いがあり、すなわち、このような形態の、疑い、疑うこと、疑いあること、疑問、疑惑、二種なること、二種の道、疑念、多様の収取、躊躇、逡巡、深解なき、心の驚愕、意の散乱である。彼の、これらの疑いが、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、疑いなき者と説かれる。ということで、「そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱積なく疑いなき者です」。それによって、世尊は言った。

 

 [471]〔世尊は答えた〕──「彼のことを、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に至る者と、〔あなたが〕証知するであろうなら、無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と、〔あなたが証知するであろうなら〕、まさに、たしかに、彼は、この激流を超えたのです。そして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱積なく疑いなき者です」と。

 

29.

 

 [472]1066.(1060) そして、彼は、知ある者であり、〔真の〕知に至る者であり──人として、この〔世において〕、種々なる生存にたいする、この執着を捨てて──彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、「彼は、生と老を超えた」と、〔わたしは〕説きます。(12)

 

 [473]「そして、彼は、知ある者であり、〔真の〕知に至る者であり──人として、この〔世において〕」とは、「知ある者」とは、明知に至った者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「彼は」とは、彼が、或る者として……略([399]参照)……あるいは、人間であれ。「〔真の〕知に至る者」とは、〔真の〕知は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。それらの知によって、生と老と死の、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者、極限に至った者、極限に至り得た者、完成に至った者、完成に至り得た者、救護所に至った者、救護所に至り得た者、避難所に至った者、避難所に至り得た者、帰依所に至った者、帰依所に至り得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきに至り得た者、死滅なきに至った者、死滅なきに至り得た者、不死に至った者、不死に至り得た者、涅槃に至った者、涅槃に至り得た者。あるいは、諸々の知の、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、諸々の知によって、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、七つの法(性質)が知られたことから、〔真の〕知に至る者となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、知られたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が……略……(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が……(4)貪欲()が……(5)憤怒()が……(6)迷妄()が……(7)思量()が、知られたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、知られたものと成る。

 

 [474]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、この〔世において〕、それら〔の知〕が、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕、知(ヴェーダ)の全部を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(ヴェーダナー)について貪欲を離れた者──彼は、一切の知を超え行って、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」と。

 

 [475]「人(ナラ)として」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者として。「この〔世において〕」とは、この見解の……略([241]参照)……この人間の世において。ということで、「そして、彼は、知ある者であり、〔真の〕知に至る者であり──人として、この〔世において〕」。

 

 [476]「種々なる生存にたいする、この執着を捨てて」とは、「種々なる生存にたいする」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)にたいする、さらなる生存(再有)にたいする──欲望の生存(欲有)における行為の生存にたいする、欲望の生存におけるさらなる生存にたいする、形態の生存(色有)における行為の生存にたいする、形態の生存におけるさらなる生存にたいする、形態なき生存(無色有)における行為の生存にたいする、形態なき生存におけるさらなる生存にたいする。繰り返す生存()にたいする、繰り返す境遇()にたいする、繰り返す再生にたいする、繰り返す結生にたいする、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現にたいする。「執着を」とは、七つの執着がある。貪欲の執着、憤怒の執着、迷妄の執着、思量の執着、見解の執着、〔心の〕汚れの執着、悪しき行ないの執着である。「捨てて」とは、諸々の執着を、放棄して、あるいは、捨てて。さらに、あるいは、諸々の執着を、諸々の結縛を、諸々の縛着を、諸々の連結を、諸々の居着いたものを、諸々の付着したものを、諸々の障害となったものを、諸々の結縛するものを、振り落として、あるいは、捨てて。たとえば、あるいは、乗物を、あるいは、駕篭を、あるいは、車を、あるいは、荷車を、あるいは、戦車を、執着を〔為して、そののち〕執着から離れることを為し、〔最後は〕破砕するように、まさしく、このように、それらの執着を、放棄して、あるいは、捨てて。さらに、あるいは、諸々の執着を、諸々の結縛を、諸々の縛着を、諸々の連結を、諸々の居着いたものを、諸々の付着したものを、諸々の障害となったものを、諸々の結縛するものを、振り落として、あるいは、捨てて。ということで、「種々なる生存にたいする、この執着を捨てて」。

 

 [477]「彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。彼の、この渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔渇愛を離れた者と〕説かれ、渇愛を離れた者として、渇愛を離れ去った者として、渇愛を捨て去った者として、渇愛を吐き捨てた者として、渇愛を解き放った者として、渇愛を捨棄した者として、渇愛を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「彼は、渇愛を離れた者であり」。「煩悶なく」とは、貪欲は、煩悶である。憤怒は、煩悶である。迷妄は、煩悶である。忿激は、煩悶である。怨恨は、煩悶である。……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、煩悶である。彼の、これらの煩悶が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、煩悶なき者と説かれる。「願望なき者であり」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この願望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、願望なき者と説かれる。「生」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての……略([358]参照)……諸々の〔認識の〕場所の獲得である。「老」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての……略([358]参照)……諸々の機能の完熟である。これが、老と説かれる。「彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」とは、すなわち、彼が、渇愛を離れた者であり、そして、煩悶なき者であり、さらに、願望なき者であるなら、「彼は、まさに、生と老と死を、超え渡った、超え上がった、超え登った、等しく超越した、超克した」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」。それによって、世尊は言った。

 

 [478]「そして、彼は、知ある者であり、〔真の〕知に至る者であり──人として、この〔世において〕、種々なる生存にたいする、この執着を捨てて──彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 [479]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [480]メッタグー学徒の問いについての釈示が、第四となる。

 

2. 1. 5. ドータカ学徒の問いについての釈示

 

30.

 

 [481]1067.(1061) かくのごとく、尊者ドータカが〔尋ねた〕──世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです。(1)

 

 [482]「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「問い」とは、三つの問いがある。(1)〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問い、(2)〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問い、(3)疑問を断絶するものとしての問いである。……略([309-311]参照)……。これらの三つの問いがある。……略([312-315]参照)……(3)涅槃の問いである。「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに清信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。

 

 [483]「かくのごとく、尊者ドータカが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ドータカ」とは、その婆羅門の、名前としての、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。ということで、「かくのごとく、尊者ドータカが〔尋ねた〕」。

 

 [484]「偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、〔わたしは〕待つ、〔わたしは〕待ち望む、〔わたしは〕欲求する、〔わたしは〕愛用する、〔わたしは〕切望する、〔わたしは〕熱望する、〔わたしは〕渇望する。「偉大なる聖賢よ」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢(偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。……略([429]参照)……「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。ということで、「偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます」。

 

 [485]「あなたの話を聞いて」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「あなたの話を聞いて」。

 

 [486]「自己の涅槃を学ぶのです」とは、「学ぶのです」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。……略([239-241]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「自己の涅槃を」とは、自己の、貪欲の寂滅のために、憤怒の寂滅のために、迷妄の寂滅のために、忿激の寂滅のために、怨恨の寂滅のために……略([250]参照)……一切の善ならざる行作の、静まりのために、寂静のために、寂止のために、寂滅のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきであり、これらの三つの学び(三学:戒・禅定・智慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕見ている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕注視している者として学ぶべきであり、心を精励している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、智慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「自己の涅槃を学ぶのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [487]かくのごとく、尊者ドータカが〔尋ねた〕──「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。

 

31.

 

 [488]1068.(1062) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ、まさに、それでは、熱く為しなさい──まさしく、この〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり。これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです。(2)

 

 [489]「まさに、それでは、熱く為しなさい」とは、熱く為しなさい、邁進を為しなさい、勤勇を為しなさい、強靭に為しなさい、堅固に為しなさい、精進を為しなさい、〔欲の〕思い(意欲)を、為しなさい、生じさせなさい、産出させなさい、現起させなさい、等しく現起させなさい、発現させなさい、結実させなさい。ということで、「まさに、それでは、熱く為しなさい」。

 

 [490]「ドータカよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ」。

 

 [491]「まさしく、この〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり」とは、「この〔世において〕」とは、この見解の、この受認(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて、この自己状態において、この人間の世において。「賢明なる者」とは、賢明なる者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「気づきある者となり」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「まさしく、この〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり」。

 

 [492]「これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて」とは、これから、わたしの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて」。

 

 [493]「自己の涅槃を学ぶのです」とは、「学ぶのです」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。……略([239-241]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「自己の涅槃を」とは、自己の、貪欲の寂滅のために、憤怒の寂滅のために、迷妄の寂滅のために……略([250]参照)……一切の善ならざる行作の、静まりのために、寂静のために、寂止のために、寂滅のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきであり、これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり……略([241]参照)……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「自己の涅槃を学ぶのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [494]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ドータカよ、まさに、それでは、熱く為しなさい──まさしく、この〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり。これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。

 

32.

 

 [495]1069.(1063) 〔尊者ドータカが言った〕──わたしは、見ます──天〔の神々〕と人間たちの世において、〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼ある方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしは〕礼拝します。釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください。(3)

 

 [496]「わたしは、見ます──天〔の神々〕と人間たちの世において」とは、「天〔の神々〕」とは、三つの天〔の神々〕たちがいる。(1)〔言葉の〕慣習(世俗)としての天〔の神々〕たち、(2)再生としての天〔の神々〕たち、(3)清浄としての天〔の神々〕たちである。(1)どのようなものが、〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちであるのか。〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちは、そして、王たち、かつまた、王子たち、さらに、王妃たち、と説かれる。これらが、〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちと説かれる。(2)どのようなものが、再生としての天〔の神々〕たちであるのか。再生としての天〔の神々〕たちは、四大王天〔の神々〕(四天王)たち、三十三天〔の神々〕たち、耶摩天〔の神々〕たち、兜率天〔の神々〕たち、化楽天〔の神々〕たち、他化自在天〔の神々〕たち、梵身天〔の神々〕(梵天衆)たち、さらに、すなわち、それより上の天〔の神々〕たち、と説かれる。これらが、再生としての天〔の神々〕たちと説かれる。(3)どのようなものが、清浄としての天〔の神々〕たちであるのか。清浄としての天〔の神々〕たちは、如来たち(※)、如来の弟子たち、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、さらに、すなわち、独覚(縁覚・辟支仏)たち、と説かれる。これらが、清浄としての天〔の神々〕たちと説かれる。世尊は、〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちにとっても、再生としての天〔の神々〕たちにとっても、清浄としての天〔の神々〕たちにとっても、そして、天たる方であり、そして、天を超える方であり、そして、天にして天を超える方であり、獅子のなかの獅子たる方であり、龍のなかの龍たる方であり、衆師のなかの衆師たる方であり、牟尼のなかの牟尼たる方であり、王のなかの王たる方である。「わたしは、見ます──天〔の神々〕と人間たちの世において」とは、人間たちの世において、天たる方を、〔わたしは〕見る、天を超える方を、〔わたしは〕見る、天にして天を超える方を、〔わたしは〕見る、〔わたしは〕視認する、〔わたしは〕注目する、〔わたしは〕凝視する、〔わたしは〕近しく注視する。ということで、「わたしは、見ます──天〔の神々〕と人間たちの世において」。

 

※ 平行箇所[1198]により tathāgatā を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [497]「〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を」とは、「無一物の」とは、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕汚れの所有、悪しき行ないの所有があり、覚者たる世尊の、それらの所有は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、無一物である。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、拒否されたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、拒否されたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、拒否されたものと成り、(4)貪欲()が、拒否されたものと成り、(5)憤怒()が、拒否されたものと成り、(6)迷妄()が、拒否されたものと成り、(7)思量()が、拒否されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、拒否されたものと成る。

 

 [498]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、一切の悪しき〔行為〕を拒否して、〔世俗の〕垢を離れ、〔心が〕善くしっかりと定められ、自己を安立した者──彼は、輪廻を超え行って、全一者となります──〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」と。

 

 [499]「〔正しく〕振る舞う」とは、〔世を〕歩んでいる者を、〔世に〕住んでいる者を、振る舞っている者を、行持している者を、〔行ないを〕守っている者を、〔身を〕保っている者を、〔身を〕保ち行っている者を。ということで、「〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を」。

 

 [500]「一切に眼ある方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしは〕礼拝します」とは、「あなたを」とは、世尊に話す。「礼拝します」とは、あるいは、身体によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、言葉によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、心によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、義(意味)のままなる実践によって、〔わたしは〕礼拝する、あるいは、法(教え)が法(教え)のままなる実践によって、〔わたしは〕礼拝する、〔わたしは〕尊敬する、〔わたしは〕尊重する、〔わたしは〕思慕する、〔わたしは〕供養する。「一切に眼ある方よ」とは、一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。世尊は、一切知者たる知恵を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。

 

 [501]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」〔と〕。ということで──

 

 [502]「一切に眼ある方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしは〕礼拝します」。

 

 [503]「釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」とは、「釈迦〔族〕の方よ」とは、釈迦〔族〕たる世尊は、釈迦〔族〕の家系から出家した方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。彼には、これらの財がある。それは、すなわち、この、信という財、戒という財、恥〔の思い〕()という財、〔良心の〕咎め()という財、所聞という財、施捨という財、智慧という財、〔四つの〕気づきの確立という財、〔四つの〕正しい精励という財、〔四つの〕神通の足場という財、〔五つの〕機能という財、〔五つの〕力という財、〔七つの〕覚りの支分という財、聖なる八つの支分ある道という財、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)という財、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)という財、涅槃という財である。これらの無数の種類ある財の宝によって、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、有能なる方、可能なる方、発出ある方、十分なる自己ある方、勇士たる方、勇者たる方、勇猛なる方、恐怖なき方、驚愕なき方、恐懼なき方、逃げない方、恐怖と恐ろしさを捨棄した方、身の毛のよだつことを離れ去った方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。懐疑は、疑惑と説かれる。苦しみについての疑い、苦しみの集起についての疑い、苦しみの止滅についての疑い、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての疑い、過去の極(前際:過去の種々相)についての疑い、未来の極(後際:未来の種々相)についての疑い、過去と未来の極についての疑い、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)についての疑いがあり、すなわち、このような形態の、疑い、疑うこと、疑いあること、疑問、疑惑、二種なること、二種の道、疑念、多様の収取、躊躇、逡巡、深解なき、心の驚愕、意の散乱である。「釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」とは、懐疑の矢から、わたしを、解き放ってください、わたしを、強く解き放ってください、わたしを、解脱させてください、わたしを、強く解脱させてください、わたしを、引き上げてください、わたしを、等しく引き上げてください、わたしを、出起させてください。ということで、「釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [504]〔尊者ドータカが言った〕──「わたしは、見ます──天〔の神々〕と人間たちの世において、〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼ある方よ、〔まさに〕その、あなたを、〔わたしは〕礼拝します。釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」と。

 

33.

 

 [505]1070.(1064) 〔世尊は答えた〕──わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません。ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕証知しながら、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです。(4)

 

 [506]「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」とは、わたしは、あなたを、懐疑の矢から、解き放つことも、強く解き放っことも、解脱させることも、強く解脱させることも、引き上げることも、等しく引き上げることも、出起させることも、等しく出起させることも、できない。ということで、このようにもまた、「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。さらに、あるいは、信なき人にたいし、欲〔の思い〕(意欲)なく、怠惰で、精進に劣り、〔道を〕実践していない者にたいし、法(教え)の説示のために、発奮せず、等しく発奮せず、邁進せず、努めず、邁進を為さず、勤勇を為さず、強靭に為さず、堅固に為さず、精進を為さず、欲〔の思い〕(意欲)を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、このようにもまた、「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。さらに、あるいは、誰であれ、他者は、解き放ち手として存在しない。すなわち、彼らが、〔自己を〕解き放つべきであるなら、自らの強靭によって、自らの活力によって、自らの精進によって、自らの勤勉によって、自らの人士たる強靭によって、自らの人士たる活力によって、自らの人士たる精進によって、自らの人士たる勤勉によって、自己みずから、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、実践しつつ、〔自己を〕解き放つべきである。ということで、このようにもまた、「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。

 

 [507]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「チュンダよ、まさに、自己みずから泥沼にはまった者が、彼が、他の泥沼にはまった者を引き上げることになる、という、この状況は見出されません(ありえない)。チュンダよ、まさに、自己みずから調御されず教導されず完全なる涅槃に到達していない者が、彼が、他の者を調御し教導し完全なる涅槃に到達させることになる、という、この状況は見出されません」〔と〕。ということで、このようにもまた、「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。

 

 [508]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [509]〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、自己によって為されなかった悪は、まさしく、自己によって清まる。清浄と清浄ならざるは、各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)」〔と〕。ということで──

 

 [510]このようにもまた、「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。

 

 [511]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに──まさしく、涅槃が止住し、涅槃に至る道が止住し、わたしが、〔道を〕受持させる者として止住し、そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、究極の目的である涅槃に、一部の者たちはまた達し、一部の者たちは達しません。婆羅門よ、ここにおいて、わたしが、何を為すというのでしょう。婆羅門よ、如来は、道を告げ知らせる者です。覚者は、道を告げ知らせます。〔彼らは〕自己みずから実践しながら、〔自己を〕解き放つべきです」〔と〕。ということで、このようにもまた、「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。

 

 [512]「ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕」とは、懐疑者たる人を、疑いを有する者を、鬱積を有する者を、二様を有する者を、疑惑を有する者を。「誰であれ」とは、誰であれ、あるいは、士族を、あるいは、婆羅門を、あるいは、庶民を、あるいは、隷民を、あるいは、在家者を、あるいは、出家者を、あるいは、天〔の神〕を、あるいは、人間を。「世における」とは、悪所の世における……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世における。ということで、「ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕」。

 

 [513]「ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕証知しながら」とは、最勝の法(真理)は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「最勝の」とは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものである、法(真理)を、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として。ということで、「ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕証知しながら」。

 

 [514]「このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」とは、このように、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超え渡るべきであり、超え上がるべきであり、超え登るべきであり、等しく超越するべきであり、超克するべきである。ということで、「このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [515]〔世尊は答えた〕──「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません。ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕証知しながら、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」と。

 

34.

 

 [516]1071.(1065) 〔尊者ドータカが言った〕──梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください──わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、遠離の法(教え)を。すなわち、わたしが、虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく、まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として、依存なき者として、〔あるがままに〕行なうべく。(5)

 

 [517]「梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください」とは、梵たる方よ、教えてください、梵たる方よ、資助してください、梵たる方よ、慈しみください。ということで、「梵たる方よ、教えてください」。「慈悲ある者として」とは、慈悲ある者として、思いやりある者として、守護する者として、資助する者として、慈しみ〔の思い〕ある者として。ということで、「梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください」。

 

 [518]「わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、遠離の法(教え)を」とは、遠離の法(教え)は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」とは、わたしが、知るべきところの、了知するべきところの、識知するべきところの、解知するべきところの、理解するべきところの、到達するべきところの、体得するべきところの、実証するべきところの、それを。ということで、「わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、遠離の法(教え)を」。

 

 [519]「すなわち、わたしが、虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく」とは、たとえば、虚空が、〔他を〕犯さず、〔他を〕掴まず、〔他に〕縛られず、〔他に〕遍く縛られないように、このように、〔他を〕犯すことなく、〔他を〕掴むことなく、〔他に〕縛られることなく、〔他に〕遍く縛られることなく。ということで、このようにもまた、「虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく」。たとえば、虚空が、あるいは、〔赤の〕染料によって、あるいは、鬱金〔の染料〕によって、あるいは、青によって、あるいは、緋によって、染まらないように、このように、〔欲に〕染まることなく、〔欲に〕汚れることなく、〔欲に〕迷うことなく、〔欲に〕汚されることなく。ということで、このようにもまた、「虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく」。たとえば、虚空が、〔他に〕怒らず、〔他に〕害を加えず、〔他から〕退去せず、〔他から〕打破されないように、このように、〔他に〕激情することなく、〔他を〕憎悪することなく、〔他から〕退去することなく、〔他から〕打破されることなく、〔他を〕打破することなく。ということで、このようにもまた、「虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく」。

 

 [520]「まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として、依存なき者として、〔あるがままに〕行なうべく」とは、「まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として」とは、まさしく、ここに、寂静なる者として存しつつ、まさしく、ここに、坐った者として存しつつ、まさしく、この坐において、坐った者として存しつつ、まさしく、この衆において、坐った者として存しつつ。ということで、このようにもまた、「まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として」。さらに、あるいは、まさしく、この〔世において〕、〔心が〕静まった者として、寂静となった者として、寂止した者として、寂滅した者として、安息した者として。ということで、このようにもまた、「まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として」。「依存なき者として」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の依所である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の依所である。渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……諸々の法(意の対象)に……家に……衆徒に……居住に……利得に……盛名に……賞賛に……安楽に……衣料に……〔行乞の〕施食に……臥坐具に……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)に……欲望の界域(欲界)に……形態の界域(色界)に……形態なき界域(無色界)に……欲望の生存(欲有)に……形態の生存(色有)に……形態なき生存(無色有)に……表象の生存(想有)に……表象なき生存(無想有)に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)に……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)に……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)に……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)に……過去に……未来に……現在に……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依らない者として、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で。「〔あるがままに〕行なうべく」とは、〔あるがままに〕行なうべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として、依存なき者として、〔あるがままに〕行なうべく」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [521]〔尊者ドータカが言った〕──「梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください──わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、遠離の法(教え)を。すなわち、わたしが、虚空のように、〔誰をも〕憎悪することなく、まさしく、この〔世において〕、寂静なる者として、依存なき者として、〔あるがままに〕行なうべく」と。

 

35.

 

 [522]1072.(1066) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ、あなたに、〔真の〕寂静を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔真の寂静〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(6)

 

 [523]「あなたに、〔真の〕寂静を述べ伝えましょう」とは、貪欲の寂静を、憤怒の寂静を、迷妄の寂静を、忿激の寂静を、怨恨の……略……偽装の……加虐の……嫉妬の……物惜の……幻惑の……狡猾の……強情の……激昂の……思量の……高慢の……驕慢の……放逸の……一切の〔心の〕汚れの……一切の悪しき行ないの……一切の懊悩の……一切の苦悶の……一切の熱苦の……一切の善ならざる行作の、静まりを、寂静を、寂止を、寂滅を、安息を、〔わたしは〕述べるであろう、〔わたしは〕述べ伝えるであろう、〔わたしは〕告げ知らせるであろう、〔わたしは〕説示するであろう、〔わたしは〕報知するであろう、〔わたしは〕確立するであろう、〔わたしは〕開顕するであろう、〔わたしは〕区分するであろう、〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。ということで、「あなたに、〔真の〕寂静を述べ伝えましょう」。

 

 [524]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ」とは、「ドータカよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ」。

 

 [525]「所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔真の寂静〕を」とは、「所見の法(現世)における」とは、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。ということで、このようにもまた、所見の法(現世)において、〔わたしは〕言説するであろう。さらに、あるいは、苦痛が見られたときにおいては、苦痛を、〔わたしは〕言説するであろう。集起が見られたときにおいては、集起を、〔わたしは〕言説するであろう。道が見られたときにおいては、道を、〔わたしは〕言説するであろう。止滅が見られたときにおいては、止滅を、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、このようにもまた、所見の法(現世)において、〔わたしは〕言説するであろう。さらに、あるいは、所見の法(現世)において、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このようにもまた、所見の法(現世)において、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「所見の法(現世)における」。「伝え聞きではない〔真の寂静〕を」とは、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)を、それを、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「所見の法(現世)における、伝え聞きではない〔真の寂静〕を」。

 

 [526]「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」とは、それを、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「〔あるがままに〕行なう」とは、〔あるがままに〕行なっている者として、〔世に〕住んでいる者として、振る舞っている者として、行持している者として、〔行ないを〕守っている者として、〔身を〕保っている者として、〔身を〕保ち行っている者として。ということで、「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」。

 

 [527]「世における執着を超えるのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。……略([425]参照)……拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えるのです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、気づきある者は、超え渡るであろう、超え上がるであろう、超え登るであろう、等しく超越するであろう、超克するであろう。ということで、「世における執着を超えるのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [528]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ドータカよ、あなたに、〔真の〕寂静を述べ伝えましょう──所見の法(現法:現世)における、伝え聞きではない〔真の寂静〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」と。

 

36.

 

 [529]1073.(1067) 〔尊者ドータカが言った〕──そして、その〔真の寂静〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の寂静を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(7)

 

 [530]「そして、その〔真の寂静〕を、わたしは大いに喜びます」とは、「その〔真の寂静〕を」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、〔わたしは〕喜ぶ、〔わたしは〕大いに喜ぶ、〔わたしは〕歓喜する、〔わたしは〕随喜する、〔わたしは〕欲求する、〔わたしは〕愛用する、〔わたしは〕切望する、〔わたしは〕熱望する、〔わたしは〕渇望する。ということで、「そして、その〔真の寂静〕を、わたしは大いに喜びます」。

 

 [531]「偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の寂静を」とは、「偉大なる聖賢よ」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢(偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる禅定の範疇を……略([429]参照)……「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。「最上の寂静を」とは、寂静は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「最上の」とは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものである、寂静を。ということで、「偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の寂静を」。

 

 [532]「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」とは、それを、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「〔あるがままに〕行なう」とは、〔あるがままに〕行なっている者……略([430]参照)……〔身を〕保ち行っている者。ということで、「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」。

 

 [533]「世における執着を超えるのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。……略([425]参照)……拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えるのです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、気づきある者は、超えるであろう、超え上がるであろう……略([431]参照)……超克するであろう。ということで、「世における執着を超えるのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [534]〔尊者ドータカが言った〕──「そして、その〔真の寂静〕を、わたしは大いに喜びます──偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕最上の寂静を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」と。

 

37.

 

 [535]1074.(1068) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これを、「世における執着〔の対象〕である」と知って、種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません。(8)

 

 [536]「それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら」とは、それが何であれ、〔あなたが〕覚知するなら、〔あなたが〕了知するなら、〔あなたが〕識知するなら、〔あなたが〕解知するなら、〔あなたが〕理解するなら。ということで、「それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ」とは、「ドータカよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ドータカよ」。

 

 [537]「上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、「上に」とは、未来。「下に」とは、過去。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、現在。「上に」とは、天の世。「下に」とは、地獄の世。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、人間の世。さらに、あるいは、「上に」とは、諸々の善なる法(事象)。「下に」とは、諸々の善ならざる法(事象)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、諸々の〔善悪が〕説き明かされない法(事象)。「上に」とは、形態なき界域(無色界)。「下に」とは、欲望の界域(欲界)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、形態の界域(色界)。「上に」とは、安楽の感受(楽受)。「下に」とは、苦痛の感受(苦受)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)。「上に」とは、足の裏から上に。「下に」とは、髪の頂から下に。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、〔その〕中間において。ということで、「上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において」。

 

 [538]「これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って」とは、「これは、執着である」「これは、付着である」「これは、結縛である」「これは、障害である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って」。

 

 [539]「種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「種々なる生存のために」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)のために、さらなる生存(再有)のために──欲望の生存(欲有)における行為の生存のために、欲望の生存におけるさらなる生存のために、形態の生存(色有)における行為の生存のために、形態の生存におけるさらなる生存のために、形態なき生存(無色有)における行為の生存のために、形態なき生存におけるさらなる生存のために。繰り返す生存()のために、繰り返す境遇()のために、繰り返す再生のために、繰り返す結生のために、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現のために、渇愛〔の思い〕を、為してはならない、生じさせてはならない、産出させてはならない、発現させてはならない、結実させてはならない、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、「種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」。それによって、世尊は言った。

 

 [540]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ドータカよ、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って、種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」と。

 

 [541]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [542]ドータカ学徒の問いについての釈示が、第五となる。

 

2. 1. 6. ウパシーヴァ学徒の問いについての釈示

 

38.

 

 [543]1075.(1069) かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕──釈迦〔族〕の方よ、わたしは、大いなる激流を、独りで、〔何にも〕依存せず、超えることが耐えられません。一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それに依存し、この激流を超えるのです。(1)

 

 [544]「釈迦〔族〕の方よ、わたしは、大いなる激流を、独りで」とは、「独りで」とは、あるいは、その人に依存して、あるいは、〔その〕法(教え)に依存して、大いなる、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、〔わたしが〕超え渡るであろうところの、〔わたしが〕超え上がるであろうところの、〔わたしが〕超え登るであろうところの、〔わたしが〕等しく超越するであろうところの、〔わたしが〕超克するであろうところの、あるいは、伴侶となる人は、わたしに存在せず、あるいは、伴侶となる法(教え)は、わたしに存在しない。ということで、「独りで」。「釈迦〔族〕の方よ」とは、釈迦〔族〕たる世尊は、釈迦〔族〕の家系から出家した方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。彼には、これらの財がある。それは、すなわち、この、信という財、戒という財、恥〔の思い〕という財、〔良心の〕咎めという財、所聞という財、施捨という財、智慧という財、〔四つの〕気づきの確立という財……略([503]参照)……涅槃という財である。これらの無数の種類ある財の宝によって、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、有能なる方、可能なる方、権勢ある方、十分なる自己ある方、勇士たる方、勇者たる方、勇猛なる方、恐怖なき方、驚愕なき方、恐懼なき方、逃げない方、恐怖と恐ろしさを捨棄した方、身の毛のよだつことを離れ去った方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。ということで、「釈迦〔族〕の方よ、わたしは、大いなる激流を、独りで」。

 

 [545]「かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ウパシーヴァ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕」。

 

 [546]「〔何にも〕依存せず、超えることが耐えられません」とは、「〔何にも〕依存せず」とは、あるいは、人に依存せず、あるいは、法(教え)に依存せず、大いなる、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超え渡ることが、超え上がることが、超え登ることが、等しく超越することが、超克することが、〔わたしは〕耐えられない、〔わたしは〕邁進できない、〔わたしは〕できない、〔わたしは〕能力がない。ということで、「〔何にも〕依存せず、超えることが耐えられません」。

 

 [547]「一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください」とは、対象を、頼るものを、依所を、近しき依所を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「一切に眼ある方よ」とは、一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。世尊は、その一切知者たる知恵を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。

 

 [548]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」〔と〕。ということで──

 

 [549]「一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象を説いてください」。

 

 [550]「それに依存し、この激流を超えるのです」とは、「それに依存し」とは、あるいは、その人に依存し、あるいは、〔その〕法(教え)に依存し、大いなる、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、〔わたしは〕超え渡るであろう、〔わたしは〕超え上がるであろう、〔わたしは〕超え登るであろう、〔わたしは〕等しく超越するであろう、〔わたしは〕超克するであろう。ということで、「それに依存し、この激流を超えるのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [551]かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕──「釈迦〔族〕の方よ、わたしは、大いなる激流を、独りで、〔何にも〕依存せず、超えることが耐えられません。一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それに依存し、この激流を超えるのです」と。

 

39.

 

 [552]1076.(1070) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、無所有〔の境地〕を〔常に〕見ている、気づきの者となり、「〔何も〕存在しない」という〔思い、すなわち、無所有の境地に〕依存して、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、諸々の議論から離れた者となり、夜に、昼に、渇愛の滅尽を証見しなさい。(2)

 

 [553]「無所有〔の境地〕を〔常に〕見ている、気づきの者となり」とは、その婆羅門は、元来において、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定(等持)の、まさしく、得者としてあるが、「これが、わたしの依所である」と、〔自らの〕依所を〔いまだ〕知らない。彼に、世尊は、そして、依所を告げ知らせ、さらに、より上なるものとして、出脱の道を〔告げ知らせる〕。〔彼は〕無所有なる〔認識の〕場所への入定に、気づきある者として入定して、それから出起して、そこにおいて生じた、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)を、無常〔の観点〕から見ている者となり、苦痛〔の観点〕から……略……病〔の観点〕から……腫物〔の観点〕から……矢〔の観点〕から……悩苦〔の観点〕から……病苦〔の観点〕から……他者〔の観点〕から……崩壊〔の観点〕から……疾患〔の観点〕から……禍〔の観点〕から……恐怖〔の観点〕から……災禍〔の観点〕から……動揺するもの〔の観点〕から……滅壊するもの〔の観点〕から……常恒ならざるもの〔の観点〕から……救護所ならざるもの〔の観点〕から……避難所ならざるもの〔の観点〕から……帰依所ならざるもの〔の観点〕から……空虚〔の観点〕から……虚妄〔の観点〕から……空〔の観点〕から……無我〔の観点〕から……危険〔の観点〕から……変化の法(性質)〔の観点〕から……真髄なきもの〔の観点〕から……悩苦の根元〔の観点〕から……殺戮者〔の観点〕から……非生存〔の観点〕から……煩悩を有するもの〔の観点〕から……形成されたもの(有為)〔の観点〕から……悪魔の餌〔の観点〕から……生の法(性質)〔の観点〕から……老の法(性質)〔の観点〕から……病の法(性質)〔の観点〕から……死の法(性質)〔の観点〕から……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)の法(性質)〔の観点〕から……〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から……集起〔の観点〕から……滅至〔の観点〕から……悦楽〔の観点〕から……危険〔の観点〕から……出離〔の観点〕から……見ている者となり、視認している者となり、注目している者となり、凝視している者となり、近しく注視している者となり。

 

 [554]「気づきの者」とは、すなわち、気づき、随念、現念……略([219]参照)……正しい気づき、気づきという正覚の支分、一路の道である(※)。これが、気づき()と説かれる。この気づきを、具した者……略([258]参照)……具備した者は、彼は、気づきの者と説かれる。ということで、「無所有〔の境地〕を〔常に〕見ている、気づきの者となり」。

 

※ 平行箇所[258]により satisambojjhaṅgo ekāyanamaggo を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [555]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ」とは、「ウパシーヴァよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ」。

 

 [556]「『〔何も〕存在しない』という〔思い、すなわち、無所有の境地に〕依存して、激流を超えなさい」とは、「何であれ、存在しない」とは、無所有なる〔認識の〕場所への入定。何を契機とすることから、「何であれ、存在しない」とは、無所有なる〔認識の〕場所への入定であるのか。すなわち、〔彼は〕識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定に、気づきある者として入定して、それから出起して、まさしく、その識知〔作用〕を、有ることなくあらしめ、非有とし、消没させ、「何であれ、存在しない」と見る。それを契機とすることから、「何であれ、存在しない」とは、無所有なる〔認識の〕場所への入定である。〔それに〕依存して、近しく依存して、頼るものと為して、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超え渡りなさい、超え上がりなさい、超え登りなさい、等しく超越しなさい、超克しなさい。ということで、「『〔何も〕存在しない』という〔思い、すなわち、無所有の境地に〕依存して、激流を超えなさい」。

 

 [557]「諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、諸々の議論から離れた者となり」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して」とは、諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して」。「諸々の議論(カター)から離れた者となり」とは、懐疑(カタンカター)は、疑惑と説かれる。苦痛についての疑い……略([470]参照)……心の驚愕、意の散乱があり、懐疑から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、このようにもまた、「諸々の議論から離れた者となり」。さらに、あるいは、三十二の畜生の議論(無用論・無駄話:マハー・ニッデーサ・迅速の経についての釈示[1449]参照)から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、このようにもまた、「諸々の議論から離れた者となり」。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、諸々の議論から離れた者となり」。

 

 [558]「夜に、昼に、渇愛の滅尽を証見しなさい」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。夜(ナッタ)は、夜(ラッティ)と説かれる。昼(アハ)は、昼(ディヴァサ)と説かれる。そして、昼に、さらに、夜に、渇愛の滅尽を、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を、見なさい、証見しなさい、視認しなさい、注目しなさい、凝視しなさい、近しく注視しなさい。ということで、「夜に、昼に、渇愛の滅尽を証見しなさい」。それによって、世尊は言った。

 

 [559]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ウパシーヴァよ、無所有〔の境地〕を〔常に〕見ている、気づきの者となり、『〔何も〕存在しない』という〔思い、すなわち、無所有の境地に〕依存して、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、諸々の議論から離れた者となり、夜に、昼に、渇愛の滅尽を証見しなさい」と。

 

40.

 

 [560]1077.(1071) かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕──〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のもの(他者・他物)を捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱(有想解脱)における最高のものにたいし信念した者──いったい、彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するのでしょうか。(3)

 

 [561]「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者」とは、「一切の」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「一切の」ということになる。「欲望〔の対象〕にたいする」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者」とは、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする、貪欲を離れた者、貪欲を離れ去った者、貪欲を捨て去った者、貪欲を吐き捨てた者、貪欲を解き放った者、貪欲を捨棄した者、貪欲を放棄した者。ということで、「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者」。

 

 [562]「かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ウパシーヴァ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕」。

 

 [563]「他のもの(他者・他物)を捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者」とは、下の六つの入定(四禅・空無辺処・識無辺処)を、捨棄して、捨て去って、遍捨して、超越して、等しく超越して、超克して、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定に、依存する者、〔思いが〕付着した者、近しく赴いた者、等しく近しく赴いた者、固執した者、信念した者。ということで、「他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者」。

 

 [564]「表象ある解脱(有想解脱)における最高のものにたいし信念した者」とは、表象ある解脱は、七つの表象ある入定(四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処)と説かれる。それらの〔七つの〕表象ある入定のなかの、無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱は、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、殊勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、かつまた、最も優れたものである。最高〔の解脱〕にたいし、至高〔の解脱〕にたいし、最勝〔の解脱〕にたいし、殊勝〔の解脱〕にたいし、筆頭〔の解脱〕にたいし、最上〔の解脱〕にたいし、最も優れた〔解脱〕にたいし、信念ある解脱によって、信念した者、そこに信念した者、それを信念した者、それを所行とする者、それが多くある者、それに尊重ある者、それに向かい行く者、それに傾倒する者、それに傾斜する者、それを信念した者、それを優位とする者。ということで、「表象ある解脱における最高のものにたいし信念した者」。

 

 [565]「いったい、彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するのでしょうか」とは、「いったい、安立するのでしょうか」とは、疑念についての問い、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「いったい、安立するのでしょうか」。「そこにおいて」とは、無所有なる〔認識の〕場所において。「〔もはや〕退行することなく」とは、〔もはや〕退行することなく、退去することなく、離去することなく、消没することなく、衰退することなく。さらに、あるいは、〔欲に〕染まることなく、〔欲に〕汚れることなく、〔欲に〕迷うことなく、〔欲に〕汚されることなく。ということで、「いったい、彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するのでしょうか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [566]かくのごとく、尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕──「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のもの(他者・他物)を捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱(有想解脱)における最高のものにたいし信念した者──いったい、彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するのでしょうか」と。

 

41.

 

 [567]1078.(1072) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱における最高のものにたいし信念した者──彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するでしょう。(4)

 

 [568]「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者」とは、「一切の」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「一切の」ということになる。「欲望〔の対象〕にたいする」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者」とは、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする、貪欲を離れた者……略([561]参照)……貪欲を放棄した者。ということで、「〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者」。

 

 [569]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ」とは、「ウパシーヴァよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ」。

 

 [570]「他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者」とは、下の六つの入定(四禅・空無辺処・識無辺処)を、捨棄して、捨て去って、遍捨して、超越して、等しく超越して、超克して、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定に、依存する者、〔思いが〕付着した者、近しく赴いた者、等しく近しく赴いた者、固執した者、信念した者。ということで、「他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者」。

 

 [571]「表象ある解脱における最高のものにたいし信念した者」とは、表象ある解脱は、七つの表象ある入定(四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処)と説かれる。それらの〔七つの〕表象ある入定のなかの、無所有なる〔認識の〕場所への入定の解脱は、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、殊勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、かつまた、最も優れたものである。最高〔の解脱〕にたいし、至高〔の解脱〕にたいし、最勝〔の解脱〕にたいし、殊勝〔の解脱〕にたいし、筆頭〔の解脱〕にたいし、最上〔の解脱〕にたいし、最も優れた〔解脱〕にたいし、信念ある解脱によって、信念した者、そこに信念した者、それを信念した者……略([564]参照)……それを優位とする者。ということで、「表象ある解脱における最高のものにたいし信念した者」。

 

 [572]「彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するでしょう」とは、「安立するでしょう」とは、六万のカッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、〔彼は〕安立するであろう。「そこにおいて」とは、無所有なる〔認識の〕場所において。「〔もはや〕退行することなく」とは、〔もはや〕退行することなく、退去することなく、離去することなく、消没することなく、衰退することなく。さらに、あるいは、〔欲に〕染まることなく、〔欲に〕汚れることなく、〔欲に〕迷うことなく、〔欲に〕汚されることなく。ということで、「彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するでしょう」。それによって、世尊は言った。

 

 [573]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ウパシーヴァよ、〔まさに〕その、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離れた者、他のものを捨棄して無所有〔の境地〕に依存した者、表象ある解脱における最高のものにたいし信念した者──彼は、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するでしょう」と。

 

42.

 

 [574]1079.(1073) 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕──もし、彼が、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するであろうなら、一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕、まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか。(5)

 

 [575]「もし、彼が、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するであろうなら」とは、それで、もし、彼が、六万のカッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、安立するであろうなら。「そこにおいて」とは、無所有なる〔認識の〕場所において。「〔もはや〕退行することなく」とは、〔もはや〕退行することなく、退去することなく、離去することなく、消没することなく、衰退することなく。さらに、あるいは、〔欲に〕染まることなく、〔欲に〕汚れることなく、〔欲に〕迷うことなく、〔欲に〕汚されることなく。ということで、「もし、彼が、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するであろうなら」。

 

 [576]「一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕」とは、「多年のあいだでさえも」とは、多年のあいだでさえも、数年のあいだ、数百年のあいだ、数千年のあいだ、数百千年のあいだ、数カッパのあいだ、数百カッパのあいだ、数百千カッパのあいだ。「一切に眼ある方よ」とは、一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。……略([500-501]参照)……。それによって、如来は、一切に眼ある方となる」〔と〕。ということで、「一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕」。

 

 [577]「まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか」とは、「まさしく、そこにおいて、彼は、清涼なる状態に至り得た者として、常住なる者として、常恒なる者として、常久なる者として、変化なき法(性質)ある者として、常久に等しく、まさしく、そのとおり、止住するのであろうか。さらに、あるいは、彼の識知〔作用〕は、死滅するのであろうか、断絶するのであろうか、滅するのであろうか、消失するのであろうか、有ることなくあるのであろうか、さらなる生存の結生の識知〔作用〕として、あるいは、欲望の界域において、あるいは、形態の界域において、あるいは、形態なき界域において、発現するのであろうか」と、無所有なる〔認識の〕場所に入定した者の、そして、常久を、さらに、断絶を、尋ねる。もしくは、「まさしく、そこにおいて、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達するのであろうか。さらに、あるいは、彼の識知〔作用〕は、死滅するのであろうか、さらなる生存の結生の識知〔作用〕として、あるいは、欲望の界域において、あるいは、形態の界域において、あるいは、形態なき界域において、発現するのであろうか」と、無所有なる〔認識の〕場所に再生した者の、そして、完全なる涅槃を、さらに、結生を、尋ねる。「そのような種類の者の」とは、そのような種類の者の、そのような者の、それを確立した者の、それを流儀とする者の、それを相似とする者の、無所有なる〔認識の〕場所に再生した者の。ということで、「まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [578]〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕──「もし、彼が、〔もはや〕退行することなく、そこにおいて、安立するであろうなら、一切に眼ある方よ、多年のあいだでさえも〔安立するであろうなら〕、まさしく、そこにおいて、彼は、解脱者として、〔欲の炎なく〕清涼に存するのでしょうか。そのような種類の者の識知〔作用〕は、死滅するのでしょうか」と。

 

43.

 

 [579]1080.(1074) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、たとえば、風の勢いで飛び散った炎が、滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づかないのです(名づけを離れた存在となる)。(6)

 

 [580]「たとえば、風の勢いで飛び散った炎が」とは、炎は、光炎と説かれる。「諸々の風」とは、諸々の東の風、諸々の西の風、諸々の北の風、諸々の南の風、諸々の塵を有する風、諸々の塵なき風、諸々の冷風、諸々の熱風、諸々の微風、諸々の烈風、諸々の季節の風(台風)、諸々の翼の風、諸々の金翅鳥の風、諸々のターラの葉(扇)の風、諸々の扇の風。「風の勢いで飛び散った」とは、風の勢いで、飛び散った〔炎〕、吹き上げられた〔炎〕、除かれた〔炎〕、除き去られた〔炎〕、鎮まった〔炎〕、鎮静した〔炎〕。ということで、「風の勢いで飛び散った」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ」とは、「ウパシーヴァよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ」。

 

 [581]「滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように」とは、「滅却し去り行くと」とは、滅却し去り行く、滅却に至らせる、滅却に至る、止滅する、寂止する、安息する。「〔もはや〕名称に近づかないように」とは、名称(計測)に近づかない、指定に近づかない、計算に近づかない、制定(概念)に近づかない──あるいは、「東の方角に赴いた〔炎〕である」〔と〕、あるいは、「西の方角に赴いた〔炎〕である」〔と〕、あるいは、「北の方角に赴いた〔炎〕である」〔と〕、あるいは、「南の方角に赴いた〔炎〕である」〔と〕、あるいは、「上に赴いた〔炎〕である」〔と〕、あるいは、「下に赴いた〔炎〕である」〔と〕、あるいは、「横に赴いた〔炎〕である」〔と〕、あるいは、「維(北西・南西・南東・北東の四隅)に赴いた〔炎〕である」と。それによって、〔虚構の〕名称に赴くであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかないように」。

 

 [582]「このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「名前の身体から解脱した」とは、彼は、牟尼は、元来において、まさしく、過去において、形態の身体(色身)から解脱した者としてあり、特性と超越と鎮静の〔三つの〕捨棄によって〔形態の身体が〕捨棄された者としてある。彼には、牟尼には、生存の終極に至り来て、四つの聖者の道が獲得されたものと成る。四つの聖者の道が獲得されたことから、かつまた、名前の身体も、かつまた、形態の身体も、遍知されたものと成る。かつまた、名前の身体も、かつまた、形態の身体も、遍知されたことから、究極の執取なき解脱によって、かつまた、名前の身体からも、かつまた、形態の身体からも、解き放たれた者としてあり、解脱した者としてあり、善く解脱した者としてある。ということで、「このように、名前の身体から解脱した牟尼は」。

 

 [583]「滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づかないのです(名づけを離れた存在となる)」とは、「滅却し去り行き」とは、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達する。「〔虚構の〕名称に近づかないのです」とは、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において、完全なる涅槃に到達した者は、名称(計測)に近づかない、指定に近づかない、計算に近づかない、制定(概念)に近づかない──あるいは、「士族である」と、あるいは、「婆羅門である」と、あるいは、「庶民である」と、あるいは、「隷民である」と、あるいは、「在家者である」と、あるいは、「出家者である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、〔虚構の〕名称に赴くであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づかないのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [584]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ウパシーヴァよ、たとえば、風の勢いで飛び散った炎が、滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却し去り行き、〔虚構の〕名称に近づかないのです(名づけを離れた存在となる)」と。

 

44.

 

 [585]1081.(1075) 〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕──その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常久に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(7)

 

 [586]「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか」とは、その、滅却に至った者は、もしくは、彼は、止滅した者として、断絶した者として、消失した者として、〔もはや〕存在しないのか。ということで、「その、滅却に至った者ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか」。

 

 [587]「それとも、まさに、常久に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか」とは、もしくは、常住なる者として、常恒なる者として、常久なる者として、変化なき法(性質)ある者として、常久に等しく、まさしく、そのとおり、止住するのであろうか。ということで、「それとも、まさに、常久に、無病の者となるのですか」。

 

 [588]「牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください」とは、「それを」とは、〔わたしが〕尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕清信するところの、それを。「牟尼(ムニ)よ」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「どうか、説き明かしてください」とは、どうか、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください」。

 

 [589]「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」とは、まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり、〔あるがままに〕知られた、比較された、推量された、明確にされた、分明された。ということで、「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [590]〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕──「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいは、また、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常久に、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、それを、わたしに、どうか、説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」と。

 

45.

 

 [591]1082.(1076) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ、滅却に至った者には、量るもの(:認識根拠)が存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。一切の法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです。(8)

 

 [592]「滅却に至った者には、量るもの(:認識根拠)が存在しないのです」とは、滅却に至った者には、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において、完全なる涅槃に到達した者には、形態()という量るものが存在せず、感受〔作用〕()という量るものが存在せず、表象〔作用〕()という量るものが存在せず、諸々の形成〔作用〕()という量るものが存在せず、識知〔作用〕()という量るものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「滅却に至った者には、量るものが存在しないのです」。「ウパシーヴァよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウパシーヴァよ」。

 

 [593]「それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです」とは、その貪欲によって、彼のことを説くとして、その憤怒によって、彼のことを説くとして、その迷妄によって、彼のことを説くとして、その思量によって、彼のことを説くとして、その見解によって、彼のことを説くとして、その高揚(掉挙)によって、彼のことを説くとして、その疑惑()によって、彼のことを説くとして、その悪習(随眠:潜在煩悩)によって、彼のことを説くとして──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靭に至った者(頑迷固陋の者)である」と──〔彼の〕それらの行作(現行)は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、その境遇()によって、彼のことを説くとして──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と──それによって、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです」。

 

 [594]「一切の法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです」とは、一切の法(事象)が、一切の範疇が、一切の〔認識の〕場所が、一切の界域が、一切の境遇が、一切の再生が、一切の結生が、一切の生存が、一切の輪廻が、一切の転起が、打破されたとき、完破されたとき、引き抜かれたとき、等しく引き抜かれたとき、摘出されたとき、等しく摘出されたとき、捨棄されたとき、断絶されたとき、寂止したとき、安息したとき、生起の可能なきものとなったとき、知恵の火によって焼かれたとき。ということで、「一切の法(事象)が完破されたとき」。

 

 [595]「一切の論の道もまた、完破されたのです」とは、諸々の論の道は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。彼の、かつまた、諸々の論も、かつまた、諸々の論の道も、かつまた、諸々の名辞も、かつまた、諸々の名辞の道も、かつまた、諸々の言語も、かつまた、諸々の言語の道も、かつまた、諸々の概念も、かつまた、諸々の概念の道も、打破され、完破され、引き抜かれ、等しく引き抜かれ、摘出され、等しく摘出され、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「一切の論の道もまた、完破されたのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [596]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ウパシーヴァよ、滅却に至った者には、量るもの(:認識根拠)が存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。一切の法(事象)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです」と。

 

 [597]詩偈の終了と共に、すなわち、婆羅門と共に……略([262]参照)……合掌し、世尊を礼拝しながら〔その場に〕坐った者と成る。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [598]ウパシーヴァ学徒の問いについての釈示が、第六となる。

 

2. 1. 7. ナンダ学徒の問いについての釈示

 

46.

 

 [599]1083.(1077) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──「世において、諸々の牟尼が存在する」〔と〕、〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くのですか〕。さてまた、知恵を具有した者を、牟尼と説くのですか。それとも、まさに、〔何らかの〕生き方を具有した者を、〔牟尼と説くのですか〕。(1)

 

 [600]「『世において、諸々の牟尼が存在する』〔と〕」とは、「存在する」とは、存在する、等しく見出される、存する、認知される。「世において」とは、悪所の世において……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。「諸々の牟尼」とは、牟尼という名前のある者たちで、活命者(アージーヴァカ)たち、離繋者(ジャイナ教徒)たち、結髪者たち、苦行者たち。天〔の神々〕たちは、〔彼らのことを〕「世における、牟尼たちである」と了解するが、しかしながら、彼らは、牟尼たちではない。ということで、「『世において、諸々の牟尼が存在する』〔と〕」。「かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ナンダ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕」。

 

 [601]「〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くのですか〕」とは、「〔世の〕人たちは」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちは。「説きます」とは、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。「いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くのですか〕」とは、疑念についての問い、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くのですか〕」。

 

 [602]「さてまた、知恵を具有した者を、牟尼と説くのですか」とは、あるいは、八つの入定(四禅と四無色界定)の知恵を、あるいは、五つの神知(漏尽通を除く五つの神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通)の知恵を、具した者のことを、具完した者のことを、所有した者のことを、完備した者のことを、具有した者のことを、完有した者のことを、具備した者のことを、牟尼と、〔彼らは〕説くのか、〔彼らは〕言説するのか、〔彼らは〕発語するのか、〔彼らは〕提示するのか、〔彼らは〕語用するのか。ということで、「さてまた、知恵を具有した者を、牟尼と説くのですか」。

 

 [603]「それとも、まさに、〔何らかの〕生き方を具有した者を、〔牟尼と説くのですか〕」とは、もしくは、無数なる種類の極めて最高に為し難い為すことや粗野な生き方(難行苦行)への専念を、具した者のことを、具完した者のことを、所有した者のことを、完備した者のことを、具有した者のことを、完有した者のことを、具備した者のことを、牟尼と、〔彼らは〕説くのか、〔彼らは〕言説するのか、〔彼らは〕発語するのか、〔彼らは〕提示するのか、〔彼らは〕語用するのか。ということで、「それとも、まさに、〔何らかの〕生き方を具有した者を、〔牟尼と説くのですか〕」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [604]かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──「『世において、諸々の牟尼が存在する』〔と〕、〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くのですか〕。さてまた、知恵を具有した者を、牟尼と説くのですか。それとも、まさに、〔何らかの〕生き方を具有した者を、〔牟尼と説くのですか〕」と。

 

47.

 

 [605]1084.(1078) 〔世尊は答えた〕──見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知恵によって〔説か〕ず──ナンダよ、牟尼たちのことを、この〔世において〕、智者たちが説くとして。煩悶なく願望なく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩むなら、すなわち、彼らを、「牟尼たちである」と、〔わたしは〕説きます。(2)

 

 [606]「見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知恵によって〔説か〕ず」とは、「見解によって〔説か〕ず」とは、見られたものとしての清浄によって〔説か〕ず。「伝承によって〔説か〕ず」とは、聞かれたものとしての清浄によって〔説か〕ず。「知恵によって〔説か〕ず」とは、八つの入定の知恵によってもまた〔説か〕ず、五つの神知の知恵によってもまた〔説か〕ず、誤った知恵によってもまた〔説か〕ず。ということで、「見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知恵によって〔説か〕ず」。

 

 [607]「ナンダよ、牟尼たちのことを、この〔世において〕、智者たちが説くとして」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇に智ある者たち、〔十八の〕界域に智ある者たち、〔十二の認識の〕場所に智ある者たち、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立に智ある者たち、〔四つの〕正しい精励に智ある者たち、〔四つの〕神通の足場に智ある者たち、〔五つの〕機能に智ある者たち、〔五つの〕力に智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分に智ある者たち、〔聖者の〕道に智ある者たち、〔沙門の〕果に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、あるいは、見られたものとしての清浄を、あるいは、聞かれたものとしての清浄を、あるいは、八つの入定の知恵を、あるいは、五つの神知の知恵を、あるいは、誤った知恵を、あるいは、見られたもの(見解)を、あるいは、聞かれたもの(伝承)を、〔それらを〕具した者のことを、具完した者のことを、所有した者のことを、完備した者のことを、具有した者のことを、完有した者のことを、具備した者のことを、牟尼と、〔彼らは〕説かない、〔彼らは〕言説しない、〔彼らは〕発語しない、〔彼らは〕提示しない、〔彼らは〕語用しない。ということで、「ナンダよ、牟尼たちのことを、この〔世において〕、智者たちが説くとして」。

 

 [608]「煩悶なく願望なく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩むなら、すなわち、彼らを、『牟尼たちである』と、〔わたしは〕説きます」とは、敵は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿激は……。怨恨は……。偽装は……。加虐は……。嫉妬は……。物惜は……。幻惑は……。狡猾は……。強情は……。激昂は……。思量は……。高慢は……。驕慢は……。放逸は……。一切の〔心の〕汚れは……。一切の悪しき行ないは……。一切の懊悩は……。一切の苦悶は……。一切の熱苦は……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [609]〔そこで、詩偈に言う〕「おまえの第一の軍団は、『欲望』であり、第二〔の軍団〕は、『不満』と説かれる。おまえの第三〔の軍団〕は、『飢えと渇き』であり、第四〔の軍団〕は、『渇愛』と呼ばれる。

 

 [610]おまえの第五〔の軍団〕は、『〔心の〕沈滞と眠気』であり、第六〔の軍団〕は、『恐怖』と呼ばれる。おまえの第七〔の軍団〕は、『疑惑』であり、おまえの第八〔の軍団〕は、『偽装と強情』である。利得、名声、尊敬は、さらに、すなわち、誤って得られた盛名も──

 

 [611]そして、それが、自己を褒め上げ、さらに、他者たちを見下すとして、ナムチ(悪魔)よ、これは、おまえの軍団であり、黒き者(悪魔)の攻撃である。勇士ならざる者は、それに勝利せず、しかしながら、〔勇士は、それに〕勝利して、安楽を得る」と。

 

 [612]すなわち、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、そして、一切の悪魔の軍団が、さらに、一切の敵視を為す〔心の〕汚れが、そして、敗れ、さらに、敗北し、滅壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、それによって説かれる。「〔一切にたいし〕敵視を為さずして」と。「煩悶なく」とは、貪欲は、煩悶である。憤怒は、煩悶である。迷妄は、煩悶である。忿激は、煩悶である。怨恨は、煩悶である。……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、煩悶である。彼らの、これらの煩悶が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼らは、煩悶なき者たちと説かれる。「願望なく」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼らの、この願望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼らは、願望なき者たち、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、と説かれる。「煩悶なく願望なく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩むなら、すなわち、彼らを、『牟尼たちである』と、〔わたしは〕説きます」とは、すなわち、彼らが、そして、煩悶なき者たちとして、さらに、願望なき者たちとして、まさしく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行くなら、彼らのことを、「世における、牟尼たちである」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「煩悶なく願望なく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩むなら、すなわち、彼らを、『牟尼たちである』と、〔わたしは〕説きます」。それによって、世尊は言った。

 

 [613]〔世尊は答えた〕──「見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知恵によって〔説か〕ず──ナンダよ、牟尼たちのことを、この〔世において〕、智者たちが説くとして。煩悶なく願望なく、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩むなら、すなわち、彼らを、『牟尼たちである』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

48.

 

 [614]1085.(1079) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。

 

 [615]世尊よ、どうでしょう、まさに、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩みながら、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(3)

 

 [616]「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは」とは、「彼らが誰であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「彼らが誰であれ」ということになる。「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、これ(仏教)より外の者たちで、出家〔の生活〕を具した者たちであり、遍歴遊行者〔の生活〕に入った者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)たちである。ということで、「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは」。「かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ナンダ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕」。

 

 [617]「見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」とは、見られたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。見られたものと聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [618]「戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」とは、戒によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。戒と掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [619]「〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます」とは、無数なる種類の祭典や祝事によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [620]「世尊よ、どうでしょう、まさに、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩みながら」とは、「どうでしょう、まさに」とは、疑念についての問い、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「どうでしょう、まさに」。「彼らは」とは、悪しき見解ある者たちは。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「世尊よ、どうでしょう、まさに、彼らは」。「そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩みながら」とは、「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「〔自己を〕制した者たちとして」とは、〔自己が〕傾念された者たちとして、〔自己が〕遍く傾念された者たちとして、〔自己が〕守られた者たちとして、〔自己が〕保護された者たちとして、〔自己が〕守護された者たちとして、統御された者たちとして。「〔世を〕歩みながら」とは、〔世を〕歩みながら、〔世に〕住みながら、振る舞いながら、行持しながら、〔行ないを〕守りながら、〔身を〕保ちながら、〔身を〕保ち行きながら。ということで、「世尊よ、どうでしょう、まさに、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩みながら」。

 

 [621]「敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」とは、生と老と死を、超え渡ったのか、超え上がったのか、超え登ったのか、等しく超越したのか、超克したのか。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」。

 

 [622]「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに清信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [623]かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。

 

 [624]世尊よ、どうでしょう、まさに、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩みながら、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。

 

49.

 

 [625]1086.(1080) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ、彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。たとえ、何であれ、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩むも、「生と老を超えてはいない」と、〔わたしは〕説きます。(4)

 

 [626]「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは」とは、「彼らが誰であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「彼らが誰であれ」ということになる。「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、これ(仏教)より外の者たちで、出家〔の生活〕を具した者たちであり、遍歴遊行者〔の生活〕に入った者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)たちである。ということで、「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ」とは、「ナンダよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ」。

 

 [627]「見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」とは、見られたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。見られたものと聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [628]「戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」とは、戒によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。戒と掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [629]「〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます」とは、無数なる種類の祭典や祝事によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [630]「たとえ、何であれ、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩むも」とは、「たとえ、何であれ」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「たとえ、何であれ」ということになる。「彼らは」とは、悪しき見解ある者たちは。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「〔自己を〕制した者たちとして」とは、〔自己が〕傾念された者たちとして、〔自己が〕遍く傾念された者たちとして、〔自己が〕守られた者たちとして、〔自己が〕保護された者たちとして、〔自己が〕守護された者たちとして、統御された者たちとして。「〔世を〕歩むも」とは、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「たとえ、何であれ、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩むも」。

 

 [631]「『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」とは、「〔彼らは〕生と老と死を、超え渡ってはいない、超え上がってはいない、超え登ってはいない、等しく超越してはいない、超克してはいない。生と老と死から、〔いまだ〕離欲していない者たちであり、〔いまだ〕出離していない者たちであり、〔いまだ〕超越していない者たちであり、〔いまだ〕等しく超越していない者たちであり、〔いまだ〕超克していない者たちである。生と老と死の内において遍く転起し、輪廻の道の内において遍く転起し、生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有る者たちである」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」。それによって、世尊は言った。

 

 [632]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ナンダよ、彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。たとえ、何であれ、彼らは、そこにおいて、〔自己を〕制した者たちとして〔世を〕歩むも、『生と老を超えてはいない』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

50.

 

 [633]1087.(1081) かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。

 

 [634]牟尼よ、もし、彼らを、激流を超えざる者たちと〔あなたが〕説くなら、そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。(5)

 

 [635]「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは」とは、「彼らが誰であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「彼らが誰であれ」ということになる。「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、これ(仏教)より外の者たちで、出家〔の生活〕を具した者たちであり、遍歴遊行者〔の生活〕に入った者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)たちである。ということで、「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは」。「かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……「かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕」。

 

 [636]「見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」とは、見られたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。見られたものと聞かれたものによってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [637]「戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」とは、戒によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。戒と掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [638]「〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます」とは、無数なる種類の祭典や祝事によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔彼らは〕説く、〔彼らは〕言説する、〔彼らは〕発語する、〔彼らは〕提示する、〔彼らは〕語用する。ということで、「〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます」。

 

 [639]「牟尼よ、もし、彼らを、激流を超えざる者たちと〔あなたが〕説くなら」とは、「もし、彼らを」とは、悪しき見解ある者たちを。「牟尼(ムニ)よ」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「激流を超えざる者たちと〔あなたが〕説くなら」とは、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、〔いまだ〕超え渡っていない者たちと、〔いまだ〕超越していない者たちと、〔いまだ〕等しく超越していない者たちと、〔いまだ〕超克していない者たちと、生と老と死の内において遍く転起している者たちと、輪廻の道の内において遍く転起している者たちと、生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有る者たちと。「〔あなたが〕説くなら」とは、〔あなたが〕説くなら、〔あなたが〕告げ知らせるなら、〔あなたが〕説示するなら、〔あなたが〕報知するなら、〔あなたが〕確立するなら、〔あなたが〕開顕するなら、〔あなたが〕区分するなら、〔あなたが〕明瞭と為すなら、〔あなたが〕明示するなら。ということで、「牟尼よ、もし、彼らを、激流を超えざる者たちと〔あなたが〕説くなら」。

 

 [640]「そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」とは、そこで、〔まさに〕この、誰が、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、生と老と死を、超え渡ったのか、超え上がったのか、超え登ったのか、等しく超越したのか、超克したのか。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか」。

 

 [641]「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに清信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [642]かくのごとく、尊者ナンダが〔尋ねた〕──「彼らが誰であれ、これらの沙門や婆羅門たちは、見られたものや聞かれたものによってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。戒や掟によってもまた、清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数なる形態によって、清浄〔の境地〕を説きます。

 

 [643]牟尼よ、もし、彼らを、激流を超えざる者たちと〔あなたが〕説くなら、そこで、それでは、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、敬愛なる方よ、そして、生を、さらに、老を、超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。

 

51.

 

 [644]1088.(1082) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ、わたしは、「全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている」と説くのではありません。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して──

 

 [645]一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、「彼らは、まさに、人として、激流を超えた者たちである」と、〔わたしは〕説きます。(6)

 

 [646]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている』と説くのではありません」とは、ナンダよ、わたしは、「全ての沙門や婆羅門たちが、生と老によって、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれた者たちである」と説くのではない。「それらの沙門や婆羅門たちが存在する。彼らの、そして、生が、さらに、老と死が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある、〔それらの婆羅門たちが存在する〕」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ナンダよ、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている』と説くのではありません」。

 

 [647]「彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」とは、彼らが、一切の見られたものとしての清浄を、捨棄して、捨して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、彼らが、一切の聞かれたものとしての清浄を、捨棄して……略……彼らが、一切の思われたものとしての清浄を、捨棄して……彼らが、一切の見られ聞かれ思われたものとしての清浄を、捨棄して……彼らが、一切の戒としての清浄を、捨棄して……彼らが、一切の掟としての清浄を、捨棄して……彼らが、一切の戒と掟としての清浄を、捨棄して、捨して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」。

 

 [648]「一切の無数なる形態をもまた捨棄して」とは、無数なる種類の祭典や祝事による、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、捨棄して、捨して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「一切の無数なる形態をもまた捨棄して」。

 

 [649]「渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、『彼らは、まさに、人として、激流を超えた者たちである』と、〔わたしは〕説きます」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「渇愛を遍く知って」とは、渇愛を、三つの遍知によって──(1)所知の遍知によって、(2)推量の遍知によって、(3)捨棄の遍知によって──遍く知って。(1)どのようなものが、所知の遍知であるのか。〔彼は〕渇愛を知る。「これは、形態への渇愛である」「これは、音声への渇愛である」「これは、臭気への渇愛である」「これは、味感への渇愛である」「これは、感触への渇愛である」「これは、法(意の対象)への渇愛である」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。これが、所知の遍知である。

 

 [650](2)どのようなものが、推量の遍知であるのか。このように所知を為して、〔彼は〕渇愛を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常恒ならざるもの〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの(有為)〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、滅至〔の観点〕から、悦楽〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。これが、推量の遍知である。

 

 [651](3)どのようなものが、捨棄の遍知であるのか。このように推量して、〔彼は〕渇愛を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それが、渇愛にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その渇愛は、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。これが、捨棄の遍知である。「渇愛を遍く知って」とは、渇愛を、これらの三つの遍知によって遍く知って。「煩悩なき者たち」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。彼らの、これらの煩悩が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼らは、煩悩なき者たち、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、と説かれる。ということで、「渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら」。

 

 [652]「『彼らは、まさに、人として、激流を超えた者たちである』と、〔わたしは〕説きます」とは、「彼らが、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、彼らは、欲望の激流を超えた者たちであり、生存の激流を超えた者たちであり、見解の激流を超えた者たちであり、無明の激流を超えた者たちであり、一切の輪廻の道を、超え渡った者たちであり、超え上がった者たちであり、超え出た者たちであり、超越した者たちであり、等しく超越した者たちであり、超克した者たちである」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「『彼らは、まさに、人として、激流を超えた者たちである』と、〔わたしは〕説きます」。それによって、世尊は言った。

 

 [653]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ナンダよ、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている』と説くのではありません。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して──

 

 [654]一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、『彼らは、まさに、人として、激流を超えた者たちである』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

52.

 

 [655]1089.(1083) 〔尊者ナンダが言った〕──偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して──

 

 [656]一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、「彼らは、激流を超えた者たちである」と、わたしもまた説きます。(7)

 

 [657]「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます」とは、「この」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、〔わたしは〕喜ぶ、〔わたしは〕大いに喜ぶ、〔わたしは〕歓喜する、〔わたしは〕随喜する、〔わたしは〕欲求する、〔わたしは〕愛用する、〔わたしは〕切望する、〔わたしは〕熱望する、〔わたしは〕渇望する。「偉大なる聖賢の」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢(偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる禅定の範疇を……略([429]参照)……「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。ということで、「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます」。

 

 [658]「ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました」とは、「見事に述べ伝えられました」とは、見事に述べ伝えられた、見事に告げ知らされた、見事に説示された、見事に報知された、見事に確立された、見事に開顕された、見事に区分された、見事に明瞭と為された、見事に明示された。ということで、「見事に述べ伝えられました」。「ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が」とは、諸々の依り所は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。依り所の捨棄が、依り所の寂止が、依り所の放棄が、依り所の安息が、不死なる涅槃が。ということで、「ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました」。

 

 [659]「彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」とは、彼らが、一切の見られたものとしての清浄を……略([647]参照)……。彼らが、一切の思われたものとしての清浄を……。彼らが、一切の見られ聞かれ思われたものとしての清浄を……。彼らが、一切の戒としての清浄を……。彼らが、一切の掟としての清浄を……。彼らが、一切の戒と掟としての清浄を、捨棄して、捨して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」。

 

 [660]「一切の無数なる形態をもまた捨棄して」とは、無数なる種類の祭典や祝事による、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、捨棄して、捨して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「一切の無数なる形態をもまた捨棄して」。

 

 [661]「渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、『彼らは、激流を超えた者たちである』と、わたしもまた説きます」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「渇愛を遍く知って」とは、渇愛を、三つの遍知によって──(1)所知の遍知によって、(2)推量の遍知によって、(3)捨棄の遍知によって──遍く知って。

 

 [662](1)どのようなものが、所知の遍知であるのか。〔彼は〕渇愛を知る。「これは、形態への渇愛である」「これは、音声への渇愛である」「これは、臭気への渇愛である」「これは、味感への渇愛である」「これは、感触への渇愛である」「これは、法(意の対象)への渇愛である」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。これが、所知の遍知である。

 

 [662](2)どのようなものが、推量の遍知であるのか。このように所知を為して、〔彼は〕渇愛を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常恒ならざるもの〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの(有為)〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、滅至〔の観点〕から、悦楽〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。これが、推量の遍知である。

 

 [663](3)どのようなものが、捨棄の遍知であるのか。このように推量して、〔彼は〕渇愛を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。これが、捨棄の遍知である。

 

 [664]「渇愛を遍く知って」とは、渇愛を、これらの三つの遍知によって遍く知って。「煩悩なき者たち」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。彼らの、これらの煩悩が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼らは、煩悩なき者たち、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、と説かれる。ということで、「渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら」。「『彼らは、激流を超えた者たちである』と、わたしもまた説きます」とは、「彼らが、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、彼らは、欲望の激流を超えた者たちであり、生存の激流を超えた者たちであり、見解の激流を超えた者たちであり、無明の激流を超えた者たちであり、一切の輪廻の道を、超え渡った者たちであり、超え上がった者たちであり、超え出た者たちであり、超越した者たちであり、等しく超越した者たちであり、超克した者たちである」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕論じる。ということで、「渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、『彼らは、激流を超えた者たちである』と、わたしもまた説きます」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [665]〔尊者ナンダが言った〕「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕大いに喜びます。ゴータマよ、依り所なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。彼らが、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して──

 

 [666]一切の無数なる形態をもまた捨棄して、渇愛を遍く知って、煩悩なき者たちとなるなら、『彼らは、激流を超えた者たちである』と、わたしもまた説きます」と。

 

 [667]ナンダ学徒の問いについての釈示が、第七となる。

 

2. 1. 8. ヘーマカ学徒の問いについての釈示

 

53.

 

 [668]1090.(1084) かくのごとく、尊者ヘーマカが〔言った〕──ゴータマの教えより以前に、「かくのごとく存していた」「かくのごとく成るであろう」〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです。そこにおいて、わたしは、大いに喜びませんでした。(1)

 

 [669]「過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが」とは、「それらの者たちが」とは、そして、すなわち、バーヴァリ婆羅門であり、さらに、すなわち、他の、彼の師匠たちであり、彼らは、自らの見解を、自らの受認(信受)を、自らの嗜好(意欲)を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、説き明かした、告げ知らせた、説示した、報知した、確立した、開顕した、区分した、明瞭と為した、明示した。ということで、「過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが」。「かくのごとく、尊者ヘーマカが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ヘーマカ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ヘーマカが〔言った〕」。

 

 [670]「ゴータマの教えより以前に」とは、ゴータマの教えより以前に、ゴータマの教えより他に、ゴータマの教えより前に、ゴータマの教えより、覚者の教えより、勝者の教えより、如来の教えより、阿羅漢の教えより、より以前に。ということで、「ゴータマの教えより以前に」。

 

 [671]「『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕」とは、「伝えるところとして、このように存していた」「伝えるところとして、このように成るであろう」〔と〕。ということで、「『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕」。

 

 [672]「その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり」とは、その一切が、伝聞であり、伝説によって、相伝によって、典籍の成就(保持)によって、考慮を因として、推論を因として、行相の思索によって、見解の納得と受認(信受)によって、すなわち(※)、自らをもって、自ら、証知したものではなく、自己の現見の法(真理)ではないものを、〔彼らは〕言説した(議論した)。ということで、「その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり」。

 

※ 平行箇所[1104]により yaṃ を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [673]「その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです」とは、その一切が、〔誤った〕考えを増大させるものであり、〔誤った〕思考を増大させるものであり、〔誤った〕思惟を増大させるものであり、欲望の思考を増大させるものであり、憎悪の思考を増大させるものであり、悩害の思考を増大させるものであり、親族の思考を増大させるものであり、地方の思考を増大させるものであり、不死の思考を増大させるものであり、他者への憐憫に関係した思考を増大させるものであり、利得と尊敬と名声に関係した思考を増大させるものであり、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考を増大させるものである。ということで、「その一切が、〔誤った〕考えを増大させるものです」。

 

 [674]「そこにおいて、わたしは、大いに喜びませんでした」とは、そこにおいて、わたしは、喜ばなかった、見出さなかった、到達しなかった、獲得しなかった。ということで、「そこにおいて、わたしは、大いに喜びませんでした」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [675]かくのごとく、尊者ヘーマカが〔言った〕──「ゴータマの教えより以前に、『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです。そこにおいて、わたしは、大いに喜びませんでした」と。

 

54.

 

 [676]1091.(1085) さらに、あなたも、わたしに、法(教え)を告げ知らせてください。牟尼よ、渇愛の絶滅〔という法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。(2)

 

 [677]「さらに、あなたも、わたしに、法(教え)を告げ知らせてください」とは、「あなたも」とは、世尊に話す。「法(教え)を告げ知らせてください」とは、「法(教え)を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、告げてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「さらに、あなたも、わたしに、法(教え)を告げ知らせてください」。

 

 [678]「牟尼よ、渇愛の絶滅〔という法〕を」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。渇愛の絶滅を、渇愛の捨棄を、渇愛の寂止を、渇愛の放棄を、渇愛の安息を、不死なる涅槃を。「牟尼(ムニ)よ」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。ということで、「牟尼よ、渇愛の絶滅〔という法〕を」。

 

 [679]「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」とは、それを、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「〔あるがままに〕行なう」とは、〔あるがままに〕行なっている者として、〔世に〕住んでいる者として、振る舞っている者として、行持している者として、〔行ないを〕守っている者として、〔身を〕保っている者として、〔身を〕保ち行っている者として。ということで、「それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は」。

 

 [680]「世における執着を超えるのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。……略([425]参照)……拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えるのです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、気づきある者は、超え渡るであろう、超え上がるであろう、超え登るであろう、等しく超越するであろう、超克するであろう。ということで、「世における執着を超えるのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [681]「さらに、あなたも、わたしに、法(教え)を告げ知らせてください。牟尼よ、渇愛の絶滅〔という法〕を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」と。

 

55.

 

 [682]1092.(1086) 〔世尊は答えた〕──この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた諸々の愛しい形態にたいし、ヘーマカよ、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を除き去ることが、死滅なき涅槃の境処です。(3)

 

 [683]「この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた」とは、「見られ」とは、眼によって見られたもの。「聞かれ」とは、耳によって聞かれたもの。「思われ」とは、鼻によって嗅がれたもの、舌によって味わわれたもの、身によって接触されたもの。「識られた」とは、意によって識知されたもの。ということで、「この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた」。

 

 [684]「諸々の愛しい形態にたいし、ヘーマカよ」とは、では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるのか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。諸々の形態は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。眼の識知〔作用〕()は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。耳の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。眼の接触()は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。眼の接触から生じる感受()は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。形態の表象()は、世において……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。形態の思欲()は、世において……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。形態の渇愛()は、世において……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。形態の思考()は、世において……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。形態の想念()は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。ということで、「諸々の愛しい形態にたいし、ヘーマカよ」。

 

 [685]「欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を除き去ることが」とは、「欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする涸渇、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛()、欲望〔の対象〕にたいする執取()、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害()である。「欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を除き去ることが」とは、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の寂止が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の放棄が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の安息が、不死なる涅槃が。ということで、「欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を除き去ることが」。

 

 [686]「死滅なき涅槃の境処です」とは、涅槃の境処、救護所の境処、避難所の境処、帰依所の境処、恐怖なき境処。「死滅なき」とは、常住なる、常恒なる、常久なる、変化なき法(性質)なる。ということで、「死滅なき涅槃の境処です」。それによって、世尊は言った。

 

 [687]〔世尊は答えた〕──「この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた諸々の愛しい形態にたいし、ヘーマカよ、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を除き去ることが、死滅なき涅槃の境処です」と。

 

56.

 

 [688]1093.(1087) このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。そして、彼らは、常に寂静なる者たちであり、世における執着を超えた者たちです。(4)

 

 [689]「このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり」とは、「このことを」とは、不死なる涅槃を。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「了知して」とは、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「彼らは」とは、阿羅漢たちは、煩悩の滅尽者たちは。「気づきある者たちとなり」とは、四つの契機によって、気づきある者たちとなる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者たちは、気づきある者たちとなり……略([255-258]参照)……彼らは、気づきある者たちと説かれる。ということで、「このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり」。

 

 [690]「所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります」とは、「所見の法(現世)において」とは、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔あるがままに〕見られた法(事象)において……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。「涅槃に到達した者たちとなります」とは、貪欲が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者たちとなり、憤怒が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者たちとなり、迷妄が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者たちとなり、忿激が……略……怨恨が……略([250]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者たちとなり、寂静となった者たちとなり、寂止した者たちとなり、寂滅した者たち(涅槃に到達した者たち)となり、安息した者たちとなる。ということで、「所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります」。

 

 [691]「そして、彼らは、常に寂静なる者たちであり」とは、貪欲が、寂静となったことから、寂滅させられたことから、寂静となった者たちとなり、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……略([250]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者たちとなり、寂静となった者たちとなり、寂止した者たちとなり、寂滅した者たちとなり、安息した者たちとなる。ということで、「寂静なる者たちであり」。「彼らは」とは、阿羅漢たちは、煩悩の滅尽者たちは。「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に、常住時に、常恒時に、常久に、連続して、途切れなく、矢継ぎ早に、水波が生じたように、間隔なく、相続して、相伴い、接触し、食前に、食後に、初更(宵の内)に、中更(真夜中)に、後更(明け方)に、黒〔分〕(月が欠ける期間)に、白〔分〕(月が満ちる期間)に、雨期に、冬に、夏に、初年期(青年期)に、中年期(壮年期)に、後年期(老年期)に。ということで、「そして、彼らは、常に寂静なる者たちであり」。

 

 [692]「世における執着を超えた者たちです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。……略([425]参照)……拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えた者たちです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、超え渡った者たちであり、超え上がった者たちであり、超え出た者たちであり、超越した者たちであり、等しく超越した者たちであり、超克した者たちである。ということで、「世における執着を超えた者たちです」。それによって、世尊は言った。

 

 [693]「このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。そして、彼らは、常に寂静なる者たちであり、世における執着を超えた者たちです」と。

 

 [694]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [695]ヘーマカ学徒の問いについての釈示が、第八となる。

 

2. 1. 9. トーデイヤ学徒の問いについての釈示

 

57.

 

 [696]1094.(1088) かくのごとく、尊者トーデイヤが〔尋ねた〕──彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕。(1)

 

 [697]「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく」とは、彼のうちに、諸々の欲望が、住さず、等しく住さず、固く住さず、遍く住さないなら。ということで、「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく」。「かくのごとく、尊者トーデイヤが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「トーデイヤ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者トーデイヤが〔尋ねた〕」。

 

 [698]「彼に、渇愛が見出されることなく」とは、彼に、渇愛が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、渇愛が見出されることなく」。

 

 [699]「かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら」とは、かつまた、彼が、諸々の懐疑を、超え渡った者であり、超え上がった者であり、超え出た者であり、超越した者であり、等しく超越した者であり、超克した者であるなら。ということで、「かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら」。

 

 [700]「彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕」とは、「彼には、どのような解脱が、何を確立したものとして、何を流儀とするものとして、何を相似とするものとして、求められるべきであるのか」と、解脱のことを尋ねる。ということで、「彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [701]かくのごとく、尊者トーデイヤが〔尋ねた〕──「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕」と。

 

58.

 

 [702]1095.(1089) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──トーデイヤよ、彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、他の解脱は〔存在し〕ません。(2)

 

 [703]「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく」とは、「彼のうちに」とは、その人のうちに、阿羅漢のうちに、煩悩の滅尽者のうちに。「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく」とは、彼のうちに、諸々の欲望が、住さず、等しく住さず、固く住さず、遍く住さないなら。ということで、「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく」。

 

 [704]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──トーデイヤよ」とは、「トーデイヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──トーデイヤよ」。

 

 [705]「彼に、渇愛が見出されることなく」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「彼に、渇愛が見出されることなく」とは、彼に、渇愛が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、渇愛が見出されることなく」。

 

 [706]「かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら」とは、懐疑は、疑惑と説かれる。苦痛についての疑い……略([470]参照)……心の驚愕、意の散乱である。「彼が」とは、すなわち、〔まさに〕その、阿羅漢が、煩悩の滅尽者が。「かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら」とは、かつまた、彼が、諸々の疑惑を、超え渡った者であり、超え上がった者であり、超え出た者であり、超越した者であり、等しく超越した者であり、超克した者であるなら。ということで、「かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら」。

 

 [707]「彼には、他の解脱は〔存在し〕ません」とは、その解脱によって、彼が、解脱者として解脱するであろう、他の解脱は、〔もはや〕彼には存在しない。彼には、解脱によって為されるべきことは、〔すでに〕為されたものとしてある。ということで、「彼には、他の解脱は〔存在し〕ません」。それによって、世尊は言った。

 

 [708]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「トーデイヤよ、彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見出されることなく、かつまた、彼が、諸々の懐疑を超えた者であるなら、彼には、他の解脱は〔存在し〕ません」と。

 

59.

 

 [709]1096.(1090) 〔尊者トーデイヤが尋ねた〕──彼は、依存なき者ですか。それとも、願い求める者ですか。彼は、智慧ある者ですか。それとも、智慧によって想い描く者(思量し分別する者)ですか。釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を識知できるように、一切に眼ある方よ、それを、わたしに説明してください。(3)

 

 [710]「彼は、依存なき者ですか。それとも、願い求める者ですか」とは、彼は、渇愛なき者であるのか、もしくは、渇愛を有する者として、諸々の形態を願い求め、諸々の音声を……略……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を……家を……衆徒を……居住を……利得を……盛名を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕施食を……臥坐具を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を……欲望の界域(欲界)を……形態の界域(色界)を……形態なき界域(無色界)を……欲望の生存(欲有)を……形態の生存(色有)を……形態なき生存(無色有)を……表象の生存(想有)を……表象なき生存(無想有)を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)を……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)を……四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を……五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を……過去を……未来を……現在を……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、願い求め、愛用し、切望し、熱望し、渇望するのか。ということで、「彼は、依存なき者ですか。それとも、願い求める者ですか」。

 

 [711]「彼は、智慧ある者ですか。それとも、智慧によって想い描く者(思量し分別する者)ですか」とは、「彼は、智慧ある者ですか」とは、賢者であり、智慧ある者であり、覚慧ある者であり、知恵ある者であり、分明ある者であり、思慮ある者であるのか。「それとも、智慧によって想い描く者ですか」とは、もしくは、あるいは、八つの入定の知恵によって、あるいは、五つの神知の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描き、生じさせ、産出させ、発現させ、結実させるのか。ということで、「彼は、智慧ある者ですか。それとも、智慧によって想い描く者ですか」。

 

 [712]「釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を識知できるように」とは、「釈迦〔族〕の方よ」とは、釈迦〔族〕たる世尊は、釈迦〔族〕の家系から出家した方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。彼には、これらの財がある。それは、すなわち、この、信という財、戒という財、恥〔の思い〕()という財、〔良心の〕咎め()という財、所聞という財、施捨という財、智慧という財、〔四つの〕気づきの確立という財、〔四つの〕正しい精励という財、〔四つの〕神通の足場という財、〔五つの〕機能という財、〔五つの〕力という財、〔七つの〕覚りの支分という財、聖なる八つの支分ある道という財、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)という財、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)という財、涅槃という財である。これらの無数の種類ある財の宝によって、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、有能なる方、可能なる方、発出ある方、十分なる自己ある方、勇士たる方、勇者たる方、勇猛なる方、恐怖なき方、驚愕なき方、恐懼なき方、逃げない方、恐怖と恐ろしさを捨棄した方、身の毛のよだつことを離れ去った方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。「釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を識知できるように」とは、釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を、知ることができるように、了知できるように、識知できるように、解知できるように、理解できるように。ということで、「釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を識知できるように」。

 

 [713]「一切に眼ある方よ、それを、わたしに説明してください」とは、「それを」とは、〔わたしが〕尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕清信するところの、それを。「説明してください」とは、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「一切に眼ある方よ」とは、一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。……略([500-501]参照)……。それによって、如来は、一切に眼ある方となる」〔と〕。ということで、「一切に眼ある方よ、それを、わたしに説明してください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [714]〔尊者トーデイヤが尋ねた〕──「彼は、依存なき者ですか。それとも、願い求める者ですか。彼は、智慧ある者ですか。それとも、智慧によって想い描く者(思量し分別する者)ですか。釈迦〔族〕の方よ、すなわち、わたしが、牟尼を識知できるように、一切に眼ある方よ、それを、わたしに説明してください」と。

 

60.

 

 [715]1097.(1091) 〔世尊は答えた〕──彼は、依存なき者です。しかしながら、願い求める者ではありません。彼は、智慧ある者です。しかしながら、智慧によって想い描く者ではありません。トーデイヤよ、このように、また、牟尼を識知しなさい──無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と。(4)

 

 [716]「彼は、依存なき者です。しかしながら、願い求める者ではありません」とは、彼は、渇愛なき者である。彼は、渇愛を有する者ではなく、諸々の形態を願い求めず、諸々の音声を……諸々の臭気を……略([710]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、願い求めず、欲求せず、愛用せず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「彼は、依存なき者です。しかしながら、願い求める者ではありません」。

 

 [717]「彼は、智慧ある者です。しかしながら、智慧によって想い描く者ではありません」とは、「智慧ある者」とは、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「しかしながら、智慧によって想い描く者ではありません」とは、あるいは、八つの入定の知恵によって、あるいは、五つの神知の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描かず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「彼は、智慧ある者ですか。あるいは、智慧によって想い描く者ですか」。

 

 [718]「トーデイヤよ、このように、また、牟尼を識知しなさい」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「トーデイヤよ、このように、また、牟尼を識知しなさい」とは、トーデイヤよ、このように、牟尼を、知りなさい、識知しなさい、解知しなさい、理解しなさい。ということで、「トーデイヤよ、このように、また、牟尼を識知しなさい」。

 

 [719]「無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と」とは、「無一物で」とは、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕汚れの所有、悪しき行ないの所有があり、彼の、これらの所有が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、無一物の者と説かれる。「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「生存」とは、二つの生存がある。(1)そして、行為の生存(業有)であり、(2)さらに、結生あるものとしてのさらなる生存(再有)である。……略([438]参照)……。これが、結生あるものとしてのさらなる生存である。

 

 [720]「無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と」とは、無一物の人と、〔牟尼を識知しなさい〕。そして、欲望〔の対象〕にたいする、さらに、〔迷いの〕生存にたいする、執着なき者と、居着かない者と、付着しない者と、障害とならない者と、離欲した者と、出離した者と、解脱した者と、束縛を離れた者と、制約を離れることを為した心で〔世に〕住んでいる者と、〔牟尼を識知しなさい〕。ということで、「無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と」。それによって、世尊は言った。

 

 [721]〔世尊は答えた〕──「彼は、依存なき者です。しかしながら、願い求める者ではありません。彼は、智慧ある者です。しかしながら、智慧によって想い描く者ではありません。トーデイヤよ、このように、また、牟尼を識知しなさい──無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と」と。

 

 [722]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [723]トーデイヤ学徒の問いについての釈示が、第九となる。

 

2. 1. 10. カッパ学徒の問いについての釈示

 

61.

 

 [724]1098.(1092) かくのごとく、尊者カッパが〔言った〕──大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、敬愛なる方よ、〔依り所となる〕洲を説いてください。そして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください。他のものが存在するべくもない、このとおりのものとして。(1)

 

 [725]「流れの中で立ちすくんでいる者たちのために」とは、流れは、輪廻、〔他の世から〕来ること、〔他の世に〕赴くこと、〔他の世に〕赴くことと〔他の世から〕来ること、〔輪廻の〕時、境遇、種々なる生存、かつまた、死滅、かつまた、再生、かつまた、発現、かつまた、破壊、かつまた、生、かつまた、老、かつまた、死、と説かれる。輪廻には、過去の突端もまた覚知されず、未来の突端もまた覚知されない。まさしく、輪廻の中間において、止住している者たちとして、〔思いが〕確立した者たちとして、〔思いが〕付着した者たちとして、近しく赴いた者たちとして、固執した者たちとして、信念した者たちとして、有情たちはある。

 

 [726]どのように、輪廻には、過去の突端が覚知されないのか。「これだけの生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの千生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百千生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの千万生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百の千万生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの千の千万生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百千の千万生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。

 

 [727]「これだけの年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの千年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百千年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの千万年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百の千万年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。「これだけの千の千万年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百千の千万年のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。

 

 [728]「これだけのカッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの千カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百千カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの千万カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百の千万カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。「これだけの千の千万カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百千の千万カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起した。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。

 

 [729]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、この輪廻は、始源が思い考えられないもの(無始)としてあります。無明の妨害()ある有情たちの、渇愛の束縛ある〔有情たちの〕、流転し輪廻している〔有情たちの〕、過去の突端は覚知されません。比丘たちよ、このように、長夜にわたり、まさに、苦痛が経験され、激痛が経験され、災厄が経験され、墓地が増大されたのです。比丘たちよ、そして、すなわち、これだけでも、一切の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)にたいし、まさしく、厭離するに十分なるものがあり、離貪するに十分なるものがあり、解脱するに十分なるものがあります」と。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。

 

 [730]どのように、輪廻には、未来の突端が覚知されないのか。「これだけの生のあいだ、〔輪廻の〕転起は転起するであろう。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。「これだけの百生のあいだ……略……。「これだけの千生のあいだ……。「これだけの百千生のあいだ……。「これだけの千万生のあいだ……。「これだけの百の千万生のあいだ……。「これだけの千の千万生のあいだ……。「これだけの百千の千万生のあいだ……。「これだけの年のあいだ……。「これだけの百年のあいだ……。「これだけの千年のあいだ……。「これだけの百千年のあいだ……。「これだけの千万年のあいだ……。「これだけの百の千万年のあいだ……。「これだけの千の千万年のあいだ……。「これだけの百千の千万年のあいだ……。「これだけのカッパのあいだ……。「これだけの百カッパのあいだ……。「これだけの千カッパのあいだ……。「これだけの百千カッパのあいだ……。「これだけの千万カッパのあいだ……。「これだけの百の千万カッパのあいだ……。「これだけの千の千万カッパのあいだ……。「これだけの百千の千万カッパのあいだ、〔輪廻の〕転起は転起するであろう。それより他は転起せず」という、まさに、このようなことは存在しない。このようにもまた、輪廻には、未来の突端が覚知されない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端もまた覚知されず、未来の突端もまた覚知されない。まさしく、輪廻の中間において、止住している者たちとして、〔思いが〕確立した者たちとして、〔思いが〕付着した者たちとして、近しく赴いた者たちとして、固執した者たちとして、信念した者たちとして、有情たちはある。ということで、「流れの中で立ちすくんでいる者たちのために」。「かくのごとく、尊者カッパが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「カッパ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者カッパが〔言った〕」。

 

 [731]「大いなる恐怖を生む激流の」とは、欲望の激流において、生存の激流において、見解の激流において、無明の激流において、生じたものにおいて、産出したものにおいて、発現したものにおいて、結実したものにおいて、出現したものにおいて。「大いなる恐怖を」とは、生の恐怖あるものにおいて、老の恐怖あるものにおいて、病の恐怖あるものにおいて、死の恐怖あるものにおいて。ということで、「大いなる恐怖を生む激流の」。

 

 [732]「老と死魔に打ち負かされた者たちのために」とは、老によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者たちのために。死魔によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者たちのために。生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有る者たちのために。ということで、「老と死魔に打ち負かされた者たちのために」。

 

 [733]「敬愛なる方よ、〔依り所となる〕洲を説いてください」とは、洲を、救護所を、避難所を、帰依所を、赴く所(未来の境遇)を、行き着く所を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「敬愛なる方よ、〔依り所となる〕洲を説いてください」。

 

 [734]「そして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください」とは、「あなたは」とは、世尊に話す。「洲を告げ知らせてください」とは、洲を、救護所を、避難所を、帰依所を、赴く所(未来の境遇)を、行き着く所を、告げてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「そして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください」。

 

 [735]「他のものが存在するべくもない、このとおりのものとして」とは、すなわち、この苦しみが、まさしく、この〔世において〕、止滅するように、寂止するように、滅至するように、安息するように。さらなる結生あるものとして、苦しみが、〔もはや〕発現しないように──あるいは、欲望の界域において、あるいは、形態の界域において、あるいは、形態なき界域において、あるいは、欲望の生存において、あるいは、形態の生存において、あるいは、形態なき生存において、あるいは、表象の生存において、あるいは、表象なき生存において、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存において、あるいは、一つの組成としての生存において、あるいは、四つの組成としての生存において、あるいは、五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)において、あるいは、さらなる境遇において、あるいは、再生において、あるいは、結生において、あるいは、生存において、あるいは、輪廻において、あるいは、転起において、生じないように、産出しないように、発現しないように、結実しないように──まさしく、この〔世において〕、止滅するように、寂止するように、滅至するように、安息するように。ということで、「他のものが存在するべくもない、このとおりのものとして」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [736]かくのごとく、尊者カッパが〔言った〕──「大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、敬愛なる方よ、〔依り所となる〕洲を説いてください。そして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください。他のものが存在するべくもない、このとおりのものとして」と。

 

62.

 

 [737]1099.(1093) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──カッパよ、大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を、カッパよ、あなたに説きましょう。(2)

 

 [738]「流れの中で立ちすくんでいる者たちのために」とは、流れは、輪廻、〔他の世から〕来ること、〔他の世に〕赴くこと、〔他の世に〕赴くことと〔他の世から〕来ること、〔輪廻の〕時、境遇、種々なる生存、かつまた、死滅、かつまた、再生、かつまた、発現、かつまた、破壊、かつまた、生、かつまた、老、かつまた、死、と説かれる。輪廻には、過去の突端もまた覚知されず、未来の突端もまた覚知されない。まさしく、輪廻の中間において、止住している者たちとして、〔思いが〕確立した者たちとして、〔思いが〕付着した者たちとして、近しく赴いた者たちとして、固執した者たちとして、信念した者たちとして、有情たちはある。

 

 [739]どのように、輪廻には、過去の突端が覚知されないのか。……略([726-729]参照)……。このようにもまた、輪廻には、過去の突端が覚知されない。どのように、輪廻には、未来の突端が覚知されないのか。……略([730]参照)……。このようにもまた、輪廻には、未来の突端が覚知されない。このようにもまた、輪廻には、過去の突端もまた覚知されず、未来の突端もまた覚知されない。まさしく、輪廻の中間において、止住している者たちとして、〔思いが〕確立した者たちとして、〔思いが〕付着した者たちとして、近しく赴いた者たちとして、固執した者たちとして、信念した者たちとして、有情たちはある。ということで、「流れの中で立ちすくんでいる者たちのために」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──カッパよ」とは、「カッパよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──カッパよ」。

 

 [740]「大いなる恐怖を生む激流の」とは、欲望の激流において、生存の激流において、見解の激流がにおいて、無明の激流において、生じたものにおいて、産出したものにおいて、発現したものにおいて、結実したものにおいて、出現したものにおいて。「大いなる恐怖を」とは、生の恐怖あるものにおいて、老の恐怖あるものにおいて、病の恐怖あるものにおいて、死の恐怖あるものにおいて。ということで、「大いなる恐怖を生む激流の」。

 

 [741]「老と死魔に打ち負かされた者たちのために」とは、老によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者たちのために。死魔によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者たちのために。生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有る者たちのために。ということで、「老と死魔に打ち負かされた者たちのために」。

 

 [742]「〔依り所となる〕洲を、カッパよ、あなたに説きましょう」とは、洲を、救護所を、避難所を、帰依所を、赴く所を、行き着く所を、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「〔依り所となる〕洲を、カッパよ、あなたに説きましょう」。それによって、世尊は言った。

 

 [743]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「カッパよ、大いなる恐怖を生む激流の流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死魔に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を、カッパよ、あなたに説きましょう」と。

 

63.

 

 [744]1100.(1094) 無一物にして無執取であること──これが、他のものが〔存在するべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です。それを、「涅槃である」と、〔わたしは〕説きます──「老と死魔の完全なる滅尽である」〔と〕。(3)

 

 [745]「無一物にして無執取であること」とは、「無一物にして」とは、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕汚れの所有、悪しき行ないの所有があり、〔この〕所有の捨棄、〔この〕所有の寂止、〔この〕所有の放棄、〔この〕所有の安息、不死なる涅槃である。ということで、「無一物にして」。「無執取であること」とは、執取は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。〔この〕執取の捨棄、〔この〕執取の寂止、〔この〕執取の放棄、〔この〕執取の安息、不死なる涅槃である。ということで、「無一物にして無執取であること」。

 

 [746]「これが、他のものが〔存在するべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です」とは、これは、洲である、救護所である、避難所である、帰依所である、赴く所である、行き着く所である。「他のものが〔存在するべくも〕ない」とは、それより、他にして他なる洲は存在せず、そこで、まさに、それは、洲として、このように、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、殊勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、かつまた、最も優れたものである。ということで、「これが、他のものが〔存在するべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です」。

 

 [747]「それを、『涅槃である』と、〔わたしは〕説きます」とは、槃(ヴァーナ)は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。〔この〕槃の捨棄、〔この〕槃の寂止、〔この〕槃の放棄、〔この〕槃の安息、不死なる涅槃(ニッバーナ)である。「と」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「と」ということになる。「〔わたしは〕説きます」とは、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「それを、『涅槃である』と、〔わたしは〕説きます」。

 

 [748]「『老と死魔の完全なる滅尽である』〔と〕」とは、老と死の、捨棄、寂止、放棄、安息、不死なる涅槃である。ということで、「『老と死魔の完全なる滅尽である』〔と〕」。それによって、世尊は言った。

 

 [749]「無一物にして無執取であること──これが、他のものが〔存在するべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です。それを、『涅槃である』と、〔わたしは〕説きます──『老と死魔の完全なる滅尽である』〔と〕」と。

 

64.

 

 [750]1101.(1095) このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません。彼らは、悪魔の従僕たちではありません。(4)

 

 [751]「このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり」とは、「このことを」とは、不死なる涅槃を。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「了知して」とは、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「彼らは」とは、阿羅漢たちは、煩悩の滅尽者たちは。「気づきある者たちとなり」とは、四つの契機によって、気づきある者たちとなる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者たちは、気づきある者たちとなり……略([255-258]参照)……彼らは、気づきある者たちと説かれる。ということで、「このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり」。

 

 [752]「所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります」とは、「所見の法(現世)において」とは、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔現に〕見られた法(事象)において、〔現に〕知られた法(事象)において、〔現に〕比較された法(事象)において、〔現に〕推量された法(事象)において、〔現に〕明確にされた法(事象)において、〔現に〕分明された法(事象)において。「涅槃に到達した者たちとなる」とは、貪欲が寂滅させられたことから、涅槃に到達した者たちとなり、憤怒が……略([250]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから(※)、安息したことから、〔心が〕静まった者たちとなり、寂静となった者たちとなり、寂止した者たちとなり、寂滅した者たち(涅槃に到達した者たち)となり、安息した者たちとなる。ということで、「所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります」。

 

※ 平行箇所[352]により vigatattā を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [753]「彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません」とは、「悪魔」とは、すなわち、〔まさに〕その、悪魔、黒き者、君主、終極に至る者、ナムチ、放逸の眷属である。「彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません」とは、彼らは、悪魔の支配において転起せず、悪魔もまた、彼らにたいし、支配を転起させない。彼らは、悪魔をも、悪魔の徒をも、悪魔の罠をも、悪魔の釣針をも、かつまた、悪魔の餌を、かつまた、悪魔の境域を、かつまた、悪魔の居住を、かつまた、悪魔の境涯を、かつまた、悪魔の結縛を、征して、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません」。

 

 [754]「彼らは、悪魔の従僕たちではありません」とは、彼らは、悪魔の、従者たちとして、従僕たちとして、侍者たちとして、〔世に〕存するべきではなく、彼らは、覚者たる世尊の、従者たちとして、従僕たちとして、侍者たちとして、〔世に〕存するべきである。ということで、「彼らは、悪魔の従僕たちではありません」。それによって、世尊は言った。

 

 [755]「このことを了知して、彼らは、気づきある者たちとなり、所見の法(現世)において涅槃に到達した者たちとなります。彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません。彼らは、悪魔の従僕たちではありません」と。

 

 [756]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [757]トーデイヤ学徒の問いについての釈示が、第十となる。

 

2. 1. 11. ジャトゥカンニ学徒の問いについての釈示

 

65.

 

 [758]1102.(1096) かくのごとく、尊者ジャトゥカンニが〔言った〕──わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者(ブッダ)のことを聞いて、激流を超え行く方に欲なき〔あり方〕を尋ねるために、やってまいりました。〔一切を知る〕眼と共に生じた方よ、寂静の境処を説いてください。世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください。(1)

 

 [759]「わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者(ブッダ)のことを聞いて」とは、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。「かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者(善逝)であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である」〔と〕。ということで、「わたしは、聞いて」。「勇者のことを」とは、勇者たる世尊は、精進ある方、ということで、「勇者」。可能なる方、ということで、「勇者」。発出ある方、ということで、「勇者」。十分なる自己ある方、ということで、「勇者」。勇士たる方、ということで、「勇者」。勇猛なる方、恐怖なき方、驚愕なき方、恐懼なき方、逃げない方、恐怖と恐ろしさを捨棄した方、身の毛のよだつことを離れ去った方、ということで、「勇者」。

 

 [760]〔そこで、詩偈に言う〕「この〔世において〕、一切の悪しき〔行為〕から離れた者は、地獄の苦しみを超え行って、精進ある者として、彼は〔世に有る〕。彼は、精進ある者として、精励ある者として、真実なることから、如なる者は、『勇者』〔と〕呼ばれる」と。

 

 [761]「わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者のことを聞いて」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。覚者たる世尊の、諸々の事物の欲望は〔すでに〕遍知され、諸々の〔心の〕汚れの欲望は〔すでに〕捨棄され、諸々の事物の欲望が〔すでに〕遍知されたことから、諸々の〔心の〕汚れの欲望が〔すでに〕捨棄されたことから、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を欲さず、諸々の欲望〔の対象〕を切望せず、諸々の欲望〔の対象〕を熱望せず、諸々の欲望〔の対象〕を渇望しない。彼らが、諸々の欲望〔の対象〕を欲し、諸々の欲望〔の対象〕を切望し、諸々の欲望〔の対象〕を熱望し、諸々の欲望〔の対象〕を渇望するなら、彼らは、欲望〔の対象〕に欲望ある者たちであり、貪欲〔の対象〕に貪欲ある者たちであり、表象〔の対象〕に表象ある者たちであるが、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を欲さず、諸々の欲望〔の対象〕を切望せず、諸々の欲望〔の対象〕を熱望せず、諸々の欲望〔の対象〕を渇望しない。それゆえに、覚者は、欲なき者として、無欲なる者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き去った者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者のことを聞いて」。

 

 [762]「かくのごとく、尊者ジャトゥカンニが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ジャトゥカンニ」とは、その婆羅門の、氏姓としての、名称、呼称、通名、通称。ということで、「かくのごとく、尊者ジャトゥカンニが〔言った〕」。

 

 [763]「激流を超え行く方に欲なき〔あり方〕を尋ねるために、やってまいりました」とは、「激流を超え行く方に」とは、激流を超え行く方に、激流を、超越した方に、等しく超越した方に、超克した方に。ということで、「激流を超え行く方に」。「尋ねるために」とは、尋ねるために、問うために、乞い求めるために、要請するために、清信するために。「欲なき〔あり方〕を」「やってまいりました」とは、欲なき〔あり方〕を、無欲なる〔あり方〕を、欲望を捨て去った〔あり方〕を、欲望を吐き去った〔あり方〕を、欲望を解き放った〔あり方〕を、欲望を捨棄した〔あり方〕を、欲望を放棄した〔あり方〕を、貪欲を離れた〔あり方〕を、貪欲を離れ去った〔あり方〕を、貪欲を捨て去った〔あり方〕を、貪欲を吐き捨てた〔あり方〕を、貪欲を解き放った〔あり方〕を、貪欲を捨棄した〔あり方〕を、貪欲を放棄した〔あり方〕を、尋ねるために。〔わたしたちは〕やってきた、〔わたしたちは〕到来した、〔わたしたちは〕近しく到来した、〔わたしたちは〕達し得た、〔わたしたちは〕あなたと共に集いあつまった。ということで、「激流を超え行く方に欲なき〔あり方〕を尋ねるために、やってまいりました」。

 

 [764]「〔一切を知る〕眼と共に生じた方よ、寂静の境処を説いてください」とは、「寂静」とは、一つの行相によるなら、寂静でもまたあり、寂静の境処でもまたあり、まさしく、そのものとしてあり(両者は同一である)、不死なる涅槃である。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「これは、寂静なる境処である。これは、精妙なる境処である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である」と。さらに、他の行相によるなら、それらの法(性質)が、寂静に到達するために、寂静を体得するために、寂静を実証するために、等しく転起するなら──それは、すなわち、この、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道であるが──これら〔の法〕は、諸々の寂静の境処と説かれる。寂静の境処を、救護の境処を、避難の境処を、帰依の境処を、恐怖なき境処を、死滅なき境処を、不死の境処を、涅槃の境処を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「〔一切を知る〕眼と共に生じた方よ」とは、眼は、一切知者たる知恵と説かれる。覚者たる世尊の、そして、眼は、さらに、勝者の状態は、菩提〔樹〕の根元において、〔その〕前でもなく、〔その〕後でもなく、一つの瞬間(刹那)において生起したものであり、それゆえに、覚者は、〔一切を知る〕眼と共に生じた方である。ということで、「〔一切を知る〕眼と共に生じた方よ、寂静の境処を説いてください」。

 

 [765]「世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください」とは、真実のとおりは、不死なる涅槃と説かれる。……略([429]参照)……止滅、涅槃である。「世尊(バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに、説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください……略……明示してください。ということで、「世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [766]かくのごとく、尊者ジャトゥカンニが〔言った〕──「わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者(ブッダ)のことを聞いて、激流を超え行く方に欲なき〔あり方〕を尋ねるために、やってまいりました。〔一切を知る〕眼と共に生じた方よ、寂静の境処を説いてください。世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください」と。

 

66.

 

 [767]1103.(1097) なぜなら、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです──光り輝く太陽が、〔その〕輝きによって地を〔征服する〕ように。広き智慧ある方よ、少なき智慧のわたしに、法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を。(2)

 

 [768]「なぜなら、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです」とは、「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。覚者たる世尊は、諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を捨棄して、征して、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「なぜなら、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです」。

 

 [769]「光り輝く太陽が、〔その〕輝きによって地を〔征服する〕ように」とは、太陽(アーディッチャ)は、日(スーリヤ・太陽神)と説かれる。地は、地上と説かれる。たとえば、輝きを具備し、光り輝く太陽が、地を、征して、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、熱苦させて、一切の、虚空に至ったものを、闇に至ったものを、打破して、暗黒を砕破して、光明を見示して、虚空において、空中において、空の道において、赴くように、まさしく、このように、知恵の輝きを具備し、知恵によって光り輝く世尊は、一切の、行作の集起を……略……〔心の〕汚れの闇を、無明の暗黒を、砕破して、知恵の光明を見示して、諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を捨棄して、征して、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「光り輝く太陽が、〔その〕輝きによって地を〔征服する〕ように」。

 

 [770]「広き智慧ある方よ、少なき智慧のわたしに」とは、わたしは、微小の智慧ある者として、下等の智慧ある者として、悪辣の智慧ある者として、劣小の智慧ある者として、〔世に〕存している。あなたはまた、偉大なる智慧ある方であり、多々なる智慧ある方であり、敏速なる智慧ある方であり、疾走する智慧ある方であり、鋭敏なる智慧ある方であり、洞察の智慧ある方である。広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。ということで、「広き智慧ある方よ、少なき智慧のわたしに」。

 

 [771]「法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」とは、「法(教え)を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」とは、わたしが、知るべきところの、了知するべきところの、識知するべきところの、解知するべきところの、理解するべきところの、到達するべきところの、体得するべきところの、実証するべきところの、それを。ということで、「法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」。

 

 [772]「この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」とは、まさしく、この〔世における〕、生と老の、死の、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [773]「なぜなら、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです──光り輝く太陽が、〔その〕輝きによって地を〔征服する〕ように。広き智慧ある方よ、少なき智慧のわたしに、法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」と。

 

67.

 

 [774]1104.(1098) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ジャトゥカンニよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい。離欲〔の境地〕を「平安である」と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたには、何も見出されてはなりません。(3)

 

 [775]「諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「貪求〔の思い〕を」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい」とは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を、取り除きなさい、取り除き去りなさい、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい」。「ジャトゥカンニよ」とは、その婆羅門に、氏姓で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ジャトゥカンニよ」。

 

 [776]「離欲〔の境地〕を『平安である』と見て」とは、「離欲〔の境地〕を」とは、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、諸戒における円満成就を作り為すことを、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることを、食について量を知ることを、〔眠らずに〕起きていることへの専念を、気づきと正知を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、平安〔の観点〕から、救護所〔の観点〕から、避難所〔の観点〕から、帰依所〔の観点〕から、恐怖なき〔の観点〕から、死滅なき〔の観点〕から、不死〔の観点〕から、涅槃〔の観点〕から、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「離欲〔の境地〕を『平安である』と見て」。

 

 [777]「〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが」とは、「〔執着の対象として〕執持されたものが」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが。「あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが」とは、あるいは、解き放たれるべきものとして、捨棄されるべきものとして、除去されるべきものとして、終息が為されるべきものとして、状態なきへと至らせられるべきものとして、あるいは、放棄されたものが。ということで、「〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが」。

 

 [778]「あなたには、何も見出されてはなりません」とは、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕汚れの所有、悪しき行ないの所有があり、あなたに、この所有が、見出されてはならない、強く見出されてはならない、等しく見出されてはならない、〔それを〕捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、「あなたには、何も見出されてはなりません」それによって、世尊は言った。

 

 [779]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ジャトゥカンニよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい。離欲〔の境地〕を『平安である』と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたには、何も見出されてはなりません」と。

 

68.

 

 [780]1105.(1099) それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来において、あなたには、何も有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう。(4)

 

 [781]「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい」とは、諸々の過去の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)を対象として、それらの〔心の〕汚れ(煩悩)が生起するなら、それらの〔心の〕汚れを、干しなさい、干上がらせなさい、乾かしなさい、乾燥させなさい、種なきものと為しなさい、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、このようにもまた、「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい」。さらに、あるいは、それらが、諸々の過去の行為()の行作(現行)にして〔いまだ〕報い(異熟)が熟していないものであるなら、それらの行為の行作を、干しなさい、干上がらせなさい、乾かしなさい、乾燥させなさい、種なきものと為しなさい、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、このようにもまた、「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい」。

 

 [782]「未来において、あなたには、何も有ってはなりません」とは、未来において(パッチャー)は、未来に(アナーガタン)と説かれる。諸々の未来の形成〔作用〕を対象として、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕汚れの所有、悪しき行ないの所有があり、あなたに、この所有が、有ってはならない、〔それを〕作り為してはならない(※)、生じさせてはならない、産出させてはならない、発現させてはならない、結実させてはならない、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、「未来において、あなたには、何も有ってはなりません」。

 

※ テキストには mā ahu mā ahosi とあるが、マハー・ニッデーサの平行箇所(自己の棒の経についての釈示[1721])により mā ahu mā akāsi と読む。

 

 [783]「もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら」とは、中間は、現在の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕と説かれる。諸々の現在の形成〔作用〕を、渇愛を所以に、見解を所以に、〔あなたが〕収め取らないなら、〔あなたが〕執持しないなら、〔あなたが〕収取しないなら、〔あなたが〕偏執しないなら、〔あなたが〕愉悦しないなら、〔あなたが〕迎合しないなら、〔あなたが〕固執しないなら、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、〔あなたが〕捨棄するなら、〔あなたが〕除去するなら、〔あなたが〕終息を為すなら、〔あなたが〕状態なきへと至らせるなら。ということで、「もし、〔その〕中間において、〔何も〕収め取らないなら」。

 

 [784]「〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」とは、貪欲が、寂静となったことから、寂静となった者となり、〔世を〕歩むであろう、憤怒が……略([250]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂静となったことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となり、〔世を〕歩むであろう、〔世に〕住むであろう、振る舞うであろう、行持するであろう、〔行ないを〕守るであろう、〔身を〕保つであろう、〔身を〕保ち行くであろう。ということで、「〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」。それによって、世尊は言った。

 

 [785]「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来において、あなたには、何も有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」と。

 

69.

 

 [786]1106.(1100) 婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)にたいし、貪求〔の思い〕を離れた者には、彼には、諸々の煩悩は見出されません──それら(煩悩)によって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが。(5)

 

 [787]「婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)にたいし、貪求〔の思い〕を離れた者には」とは、「全てにあまねく」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「全てにあまねく」ということになる。「名前」とは、四つの形態なき範疇(受・想・行・識)。「形態」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態にたいし、貪求〔の思い〕を離れた者には」とは、全てにあまねく、名前と形態にたいし、貪求を離れた者には、貪求を離れ去った者には、貪求を捨て去った者には、貪求を吐き捨てた者には、貪求を解き放った者には、貪求を捨棄した者には、貪求を放棄した者には、貪欲を離れた者には、貪欲を離れ去った者には、貪欲を捨て去った者には、貪欲を吐き捨てた者には、貪欲を解き放った者には、貪欲を捨棄した者には、貪欲を放棄した者には。ということで、「婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態にたいし、貪求〔の思い〕を離れた者には」。

 

 [788]「彼には、諸々の煩悩は見出されません」とは、「諸々の煩悩」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。「見出されません」とは、彼には、これらの煩悩は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、諸々の煩悩は見出されません」。

 

 [789]「それら(煩悩)によって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが」とは、それらの煩悩によって、あるいは、〔世の人々は〕死魔の支配に赴き、あるいは、死の支配に赴き、あるいは、悪魔の徒の支配に赴くとして、彼には、それらの煩悩は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「それらによって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが」。それによって、世尊は言った。

 

 [790]「婆羅門よ、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)にたいし、貪求〔の思い〕を離れた者には、彼には、諸々の煩悩は見出されません──それら(煩悩)によって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが」と。

 

 [791]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [792]ジャトゥカンニ学徒の問いについての釈示が、第十一となる。

 

2. 1. 12. バドラーヴダ学徒の問いについての釈示

 

70.

 

 [793]1107.(1101) かくのごとく、尊者バドラーヴダが〔言った〕──家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に、愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に、妄想を捨棄する思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います。龍たる方の〔言葉を〕聞いて、〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう。(1)

 

 [794]「家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に」とは、「家を捨棄し」とは、形態の界域にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪欲〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の確立や固着や悪習としてあるなら、覚者たる世尊の、それらは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、家を捨棄した方である。感受〔作用〕の界域にたいし……略……。表象〔作用〕の界域にたいし……。形成〔作用〕の界域にたいし……。識知〔作用〕の界域にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪欲〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の確立や固着や悪習としてあるなら、覚者たる世尊の、それらは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、家を捨棄した方である。

 

 [795]「渇愛を断ち」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。覚者たる世尊の、その渇愛は、断たれ、断ち切られ、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、渇愛を断った方である。「動揺なき方」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。覚者たる世尊の、その動揺としての渇愛は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、動揺なき方である。動揺が〔すでに〕捨棄されたことから、動揺なき方。世尊は、利得にたいしてもまた、動じず、利得なきにたいしてもまた、動じず、盛名にたいしてもまた、動じず、盛名なきにたいしてもまた、動じず、賞賛にたいしてもまた、動じず、非難にたいしてもまた、動じず、安楽にたいしてもまた、動じず、苦痛にたいしてもまた、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。それゆえに、覚者は、動揺なき方である。ということで、「家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に」。「かくのごとく、尊者バドラーヴダが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「バドラーヴダ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者バドラーヴダが〔言った〕」。

 

 [796]「愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に」とは、愉悦は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。覚者たる世尊の、その愉悦も、その渇愛も、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、愉悦を捨棄する方である。「激流を超えた」とは、世尊は、欲望の激流を超え渡った方であり、生存の激流を超え渡った方であり、見解の激流を超え渡った方であり、無明の激流を超え渡った方であり、一切の輪廻の道を、超え渡った方であり、超え上がった方であり、超え出た方であり、超越した方であり、等しく超越した方であり、超克した方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ方……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「愉悦を捨棄し激流を超えた」。「解脱者たる方に」とは、世尊には、貪欲から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、憤怒から、心は……迷妄から、心は……略([250]参照)……一切の善ならざる行作から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。ということで、「愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に」。

 

 [797]「妄想を捨棄する思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の妄想である。覚者たる世尊の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、それゆえに、覚者は、妄想を捨棄する方である。「〔わたしは〕乞い願います」とは、〔わたしは〕乞い求める、〔わたしは〕乞い願う、〔わたしは〕要請する、〔わたしは〕愛用する、〔わたしは〕切望する、〔わたしは〕熱望する、〔わたしは〕渇望する、〔わたしは〕固く渇望する。思慮深きは、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「妄想を捨棄する思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います」。

 

 [798]「龍たる方の〔言葉を〕聞いて、〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」とは、「龍たる方の」とは、龍(ナーガ)たる世尊は、(1)罪悪(アーグ)を為さない(ナ・カローティ)、ということで、「龍」。(2)赴かない(ナ・ガッチャティ)、ということで、「龍」。(3)帰り来ない(ナ・アーガッチャティ)、ということで、「龍」。……略([454-458]参照)……。このように、世尊は、帰り来ない、ということで、「龍」。「龍の〔言葉を〕聞いて、〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て、ここから、〔彼らは〕立ち去るであろう、〔彼らは〕行くであろう、〔彼らは〕去るであろう、〔彼らは〕方々に赴くであろう。ということで、「龍の〔言葉を〕聞いて、〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [799]かくのごとく、尊者バドラーヴダが〔言った〕──「家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に、愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に、妄想を捨棄する思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います。龍たる方の〔言葉を〕聞いて、〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」と。

 

71.

 

 [800]1108.(1102) 勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。(2)

 

 [801]「種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです」とは、「種々なる人たちが」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちが。「諸々の地方から集いあつまったのです」とは、かつまた、アンガから、かつまた、マガダから、かつまた、カリンガから、かつまた、カーシから、かつまた、コーサラから、かつまた、ヴァッジーから、かつまた、マッラから、かつまた、チェーティヤから、かつまた、ヴァンサから、かつまた、クルから、かつまた、パンチャーラから、かつまた、マッチャから、かつまた、スラセーナから、かつまた、アッサカから、かつまた、アヴァンティから、かつまた、ヨーナから、かつまた、カンボージャから。「集いあつまったのです」とは、集いあつまった者たちであり、合流した者たちであり、結集した者たちであり、集合した者たちである。ということで、「種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです」。

 

 [802]「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる」とは、「勇者よ」とは、勇者たる世尊は、精進ある方、ということで、「勇者」。可能なる方、ということで、「勇者」。発出ある方、ということで、「勇者」。十分なる自己ある方、ということで、「勇者」。身の毛のよだつことを離れ去った方、ということでもまた、「勇者」。

 

 [803]〔そこで、詩偈に言う〕「この〔世において〕、一切の悪しき〔行為〕から離れた者は、地獄の苦しみを超え行って、精進ある者として、彼は〔世に有る〕。彼は、精進ある者として、精励ある者として、真実なることから、如なる者は、『勇者』〔と〕呼ばれる」と。

 

 [804]「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを。「待ち望んでいる」とは、待ち望んでいる者たち、欲求している者たち、愛用している者たち、切望している者たち、熱望している者たち、渇望している者たち。ということで、「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる」。

 

 [805]「あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください」とは、「彼らのために」とは、それらの、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕たち、人間たちのために。「あなたは」とは、世尊に話す。「どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください」とは、どうか、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください」。

 

 [806]「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」とは、まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり、〔あるがままに〕知られた、比較された、推量された、明確にされた、分明された。ということで、「まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [807]「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください。まさに、この法(事象)は、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」と。

 

72.

 

 [808]1109.(1103) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──バドラーヴダよ、執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くように。上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、まさに、〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、〔彼らが〕執取するなら、まさしく、その〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです。(3)

 

 [809]「執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くように」とは、執取〔の対象〕への渇愛は、形態への渇愛……略……と説かれる。「執取〔の対象〕への渇愛」とは、何を契機とすることから、執取〔の対象〕への渇愛と説かれるのか。その渇愛によって、形態を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着し、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する。それを契機とすることから、執取〔の対象〕への渇愛と説かれる。「執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くように」とは、執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くべきであり、取り除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くように」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──バドラーヴダよ」とは、「バドラーヴダよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──バドラーヴダよ」。

 

 [810]「上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、「上に」とは、未来。「下に」とは、過去。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、現在。「上に」とは、天の世。「下に」とは、地獄の世。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、人間の世。さらに、あるいは、「上に」とは、諸々の善なる法(事象)。「下に」とは、諸々の善ならざる法(事象)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、諸々の〔善悪が〕説き明かされない法(事象)。「上に」とは、形態なき界域(無色界)。「下に」とは、欲望の界域(欲界)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、形態の界域(色界)。「上に」とは、安楽の感受(楽受)。「下に」とは、苦痛の感受(苦受)。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)。「上に」とは、足の裏から上に。「下に」とは、髪の頂から下に。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、〔その〕中間において。ということで、「上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において」。

 

 [811]「まさに、〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、〔彼らが〕執取するなら」とは、そのもの、そのものを、形態の在り方をしたものを、感受〔作用〕の在り方をしたものを、表象〔作用〕の在り方をしたものを、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものを、識知〔作用〕の在り方をしたものを、取り、執取し、収取し、偏執し、固着するなら。「〔一切の〕世において」とは、悪所の世において……略([196]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「まさに、〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、〔彼らが〕執取するなら」。

 

 [812]「まさしく、その〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです」とは、まさしく、その、行為の行作を所以に、結生あるものとして、〔五つの〕範疇の悪魔が、〔十八の〕界域の悪魔が、〔十二の認識の〕場所の悪魔が、境遇の悪魔が、再生の悪魔が、結生の悪魔が、生存の悪魔が、輪廻の悪魔が、転起の悪魔が、従い行き、従い赴き、随従のものと成る。「人(ジャントゥ)に」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者に。ということで、「まさしく、その〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [813]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「バドラーヴダよ、執取〔の対象〕への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くように。上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕中間において、まさに、〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、〔彼らが〕執取するなら、まさしく、その〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです」と。

 

73.

 

 [814]1110.(1104) それゆえに、〔このことを〕覚知している者として、気づきある比丘は、一切の世において、何も執取しないように──死魔の領域において執着するこの人々を、「執取〔の対象〕に執着する者たちである」と〔あるがままに〕見ながら。(4)

 

 [815]「それゆえに、〔このことを〕覚知している者として」「執取しないように」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。この危険を、執取の渇愛〔の観点〕から、正しく見ている者は。ということで、「それゆえに」。「〔このことを〕覚知している者として」とは、〔あるがままに〕知っている者は、〔あるがままに〕覚知している者は、〔あるがままに〕了知している者は、〔あるがままに〕識知している者は、〔あるがままに〕解知している者は、〔あるがままに〕理解している者は。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知っている者は、〔あるがままに〕覚知している者は、〔あるがままに〕了知している者は、〔あるがままに〕識知している者は、〔あるがままに〕解知している者は、〔あるがままに〕理解している者は。「執取しないように」とは、形態を、取るべきではなく、執取するべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではなく、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取るべきではなく、執取するべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではない。ということで、「それゆえに、〔このことを〕覚知している者として」「執取しないように」。

 

 [816]「気づきある比丘は、一切の世において、何も」とは、「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘は。「気づきある」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「気づきある比丘は」。「何も」とは、何であれ、形態の在り方をしたものを、感受〔作用〕の在り方をしたものを、表象〔作用〕の在り方をしたものを、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものを、識知〔作用〕の在り方をしたものを。「一切の世において」とは、一切の悪所の世において、一切の人間の世において、一切の天の世において、一切の〔五つの〕範疇の世において、一切の〔十八の〕界域の世において、一切の〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「気づきある比丘は、一切の世において、何も」。

 

 [817]「『執取〔の対象〕に執着する者たちである』と〔あるがままに〕見ながら」とは、執取〔の対象〕に執着する者たちは、すなわち、形態を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する者たち、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する者たち、と説かれる。「と」とは、句の連鎖……略([197]参照)……また、句の順序たること。これが、「と」ということになる。「〔あるがままに〕見ながら」とは、見ながら、視認しながら、観ながら、注目しながら、凝視しながら、近しく注視しながら。ということで、「『執取〔の対象〕に執着する者たちである』と〔あるがままに〕見ながら」。

 

 [818]「死魔の領域において執着するこの人々を」とは、「人々」とは、有情の同義語である。諸々の死魔の領域は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。人々は、死魔の領域において、悪魔の領域において、死の領域において、執着し(サッタ)、強く執着し(ヴィサッタ)、近く執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となっている。たとえば、あるいは、壁の釘に、あるいは、吊り鉤に、物品が、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっているように、まさしく、このように、人々は、死魔の領域において、悪魔の領域において、死の領域において、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっている。ということで、「死魔の領域において執着するこの人々を」。それによって、世尊は言った。

 

 [819]「それゆえに、〔このことを〕覚知している者として、気づきある比丘は、一切の世において、何も執取しないように──死魔の領域において執着するこの人々を、『執取〔の対象〕に執着する者たちである』と〔あるがままに〕見ながら」と。

 

 [820]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [821]バドラーヴダ学徒の問いについての釈示が、第十二となる。

 

2. 1. 13. ウダヤ学徒の問いについての釈示

 

74.

 

 [822]1111.(1105) かくのごとく、尊者ウダヤが〔言った〕──〔世俗の〕塵を離れ〔独り〕端坐する〔真の〕瞑想者たる方に、為すべきことを為した煩悩なき方に、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、〔わたしに〕説いてください。(1)

 

 [823]「〔世俗の〕塵を離れ〔独り〕端坐する〔真の〕瞑想者たる方に」とは、「〔真の〕瞑想者たる方に」とは、瞑想者たる世尊は、第一の瞑想(初禅・第一禅)によってもまた、瞑想者であり、第二の瞑想(第二禅)によってもまた、瞑想者であり、第三の瞑想(第三禅)によってもまた、瞑想者であり、第四の瞑想(第四禅)によってもまた、瞑想者であり、〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有する(有尋有伺)瞑想によってもまた、瞑想者であり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念のみの(無尋唯伺)瞑想によってもまた、瞑想者であり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念なき(無尋無伺)瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦を有する瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦なき瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、快楽を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、安楽を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり(※)、放捨を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、空性の瞑想によってもまた、瞑想者であり、無相の瞑想によってもまた、瞑想者であり、無願の瞑想によってもまた、瞑想者であり、世〔俗〕の瞑想によってもまた、瞑想者であり、世〔俗〕を超える瞑想によってもまた、瞑想者であり、瞑想を喜ぶ方であり、一なることに専念する方であり、自らの義(目的)に尊重ある方である。ということで、「〔真の〕瞑想者たる方に」。「〔世俗の〕塵を離れ」とは、貪欲は、塵である。憤怒は、塵である。迷妄は、塵である。忿激は、塵である。怨恨は、塵である。……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、塵である。覚者たる世尊の、それらの塵は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、〔世俗の〕塵なき方であり、〔世俗の〕塵を離れる方であり、〔世俗の〕塵なくある方であり、〔世俗の〕塵を離れ去った方であり、〔世俗の〕塵を捨棄した方であり、〔世俗の〕塵の束縛を離れた方であり、一切の塵を超克した方である。

 

※ マハー・ニッデーサの平行箇所(迅速の経についての釈示[1469])により sukhasahagatenapi jhānena jhāyī を補う。

 

 [824]〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、貪欲の同義語である。この塵を捨棄して、眼ある者となり、それゆえに、勝者は、『〔世俗の〕塵を離れ去った者』と説かれる。

 

 [825]憤怒は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、憤怒の同義語である。この塵を捨棄して、眼ある者となり、それゆえに、勝者は、『〔世俗の〕塵を離れ去った者』と説かれる。

 

 [826]迷妄は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、迷妄の同義語である。この塵を捨棄して、眼ある者となり、それゆえに、勝者は、『〔世俗の〕塵を離れ去った者』と説かれる」〔と〕。ということで、「〔世俗の〕塵を離れ」。

 

 [827]「〔独り〕端坐する」とは、パーサーナカ塔廟において坐っている世尊、ということで、端坐する方である。

 

 [828]〔そこで、詩偈に言う〕「山腹に端坐する〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、弟子たちは奉侍する──三つの明知ある者たちにして、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちは」と。

 

 [829]このようにもまた、世尊は、端坐する方である。さらに、あるいは、世尊は、一切の思い入れが安息したことから、端坐する方、住することを住した方(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ方……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。このようにもまた、世尊は、端坐する方である。ということで、「〔世俗の〕塵を離れ〔独り〕端坐する〔真の〕瞑想者たる方に」。

 

 [830]「かくのごとく、尊者ウダヤが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ウダヤ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ウダヤが〔言った〕」。

 

 [831]「為すべきことを為した煩悩なき方に」とは、覚者たる世尊にとって、為すべきことと為すべきではないことは、為しておくべきことと為しておくべきではないことは、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、為すべきことを為した方である。

 

 [832]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、すなわち、〔輪廻の〕流れを断ち切った比丘に、執着〔の思い〕は存在せず、為すべきことと為すべきではないことを捨棄した者に、苦悶〔の思い〕は見出されない」と。

 

 [833]「為すべきことを為した煩悩なき方に」とは、「諸々の煩悩」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。覚者たる世尊の、それらの煩悩は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、煩悩なき方である。ということで、「為すべきことを為した煩悩なき方に」。

 

 [834]「一切の法(事象)の彼岸に至る方に」とは、世尊は、一切の法(事象)の、証知による彼岸に至る方であり、遍知による彼岸に至る方であり、捨棄による彼岸に至る方であり、修行による彼岸に至る方であり、実証による彼岸に至る方であり、入定による彼岸に至る方である。一切の法(事象)の、証知による彼岸に至る方であり、一切の苦痛の、遍知による彼岸に至る方であり、一切の〔心の〕汚れの、捨棄による彼岸に至る方であり、四つの〔聖者の〕道の、修行による彼岸に至る方であり、止滅〔の境地〕の、実証による彼岸に至る方であり、一切の入定〔の境地〕の、入定による彼岸に至る方である。彼は、聖なる戒において、自在に至り得た方であり、完全態(波羅蜜・到彼岸)に至り得た方であり、聖なる禅定において、自在に至り得た方であり、完全態に至り得た方であり、聖なる智慧において、自在に至り得た方であり、完全態に至り得た方であり、聖なる解脱において、自在に至り得た方であり、完全態に至り得た方である。彼は、彼岸に至った方、彼岸に至り得た方、終極に至った方、終極に至り得た方、突端に至った方、突端に至り得た方、極限に至った方、極限に至り得た方、完成に至った方、完成に至り得た方、救護所に至った方、救護所に至り得た方、避難所に至った方、避難所に至り得た方、帰依所に至った方、帰依所に至り得た方、恐怖なきに至った方、恐怖なきに至り得た方、死滅なきに至った方、死滅なきに至り得た方、不死に至った方、不死に至り得た方、涅槃に至った方、涅槃に至り得た方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ方……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「一切の法(事象)の彼岸に至る方に」。

 

 [835]「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」とは、〔わたしは〕問いを義(目的)とする到来者として存している。〔わたしは〕問いを尋ねることを欲する到来者として存している。〔わたしは〕問いを聞くことを欲する到来者として存している。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、問いを義(目的)とする者たちの、問いを尋ねることを欲する者たちの、問いを聞くことを欲する者たちの、やってくることが、来訪することが、近づいて行くことが、奉侍することが、存在する。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、「あなたには、問いのための到来者が存在します。あなたは、また、可能なる方です。あなたは、十分なる自己ある方として存しています──わたしによって尋ねられたことを、言説するべく、答えるべく。これは、運ぶ者の荷です」〔と〕。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。

 

 [836]「了知による解脱を」「〔わたしに〕説いてください」とは、了知による解脱は、阿羅漢の資質としての解脱と説かれる。阿羅漢の資質としての解脱を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「了知による解脱を」「〔わたしに〕説いてください」。

 

 [837]「無明の破壊を」とは、無明の、破壊を、強き破壊を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「無明の破壊を」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [838]かくのごとく、尊者ウダヤが〔言った〕──「〔世俗の〕塵を離れ〔独り〕端坐する〔真の〕瞑想者たる方に、為すべきことを為した煩悩なき方に、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、〔わたしに〕説いてください」と。

 

75.

 

 [839]1112.(1106) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウダヤよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄すること、さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること、そして、〔心の〕沈滞を除き去ること、諸々の悔恨〔の思い〕を防ぎ護ること──(2)

 

 [840]「諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄すること」とは、「欲〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする涸渇、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛、欲望〔の対象〕にたいする執取、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の妨害である。「諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄し」とは、諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄すること」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウダヤよ」とは、「ウダヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ウダヤよ」。

 

 [841]「さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること」とは、「失意〔の思い〕」とは、すなわち、心の属性としての不快、心の属性としての苦痛、心の接触から生じる不快と苦痛として感受されたもの、心の接触から生じる不快と苦痛としての感受である。「さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること」とは、そして、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の、さらに、失意〔の思い〕の、両者の、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること」。

 

 [842]「そして、〔心の〕沈滞を除き去ること」とは、「〔心の〕沈滞」とは、すなわち、心の、健全ならざること、行為に適合しないこと、沈み込むこと、等しく畏縮すること、心の、畏縮、畏縮すること、畏縮あること、沈滞、沈滞すること、沈滞あることである。「除き去ること」とは、そして、〔心の〕沈滞の、除去を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「そして、〔心の〕沈滞を除き去ること」。

 

 [843]「諸々の悔恨〔の思い〕を防ぎ護ること」とは、「悔恨〔の思い〕」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、時ならざるものについて、時なるものとする了解あること、時なるものについて、時ならざるものとする了解あること(※)、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。さらに、また、二つの契機によって、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから。どのように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と……略……。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と……略……。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」「わたしによって、与えられていないものを取ることからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が為された」「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」「わたしによって、虚偽を説くことからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」「わたしによって、中傷の言葉からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」「わたしによって、粗暴な言葉からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」「わたしによって、雑駁な虚論からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、強欲〔の思い〕が為された」「わたしによって、強欲〔の思い〕からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、憎悪〔の思い〕が為された」「わたしによって、憎悪〔の思い〕からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。

 

※ テキストの省略箇所を、マハー・ニッデーサの平行箇所(「〔身体の〕破壊の前に」の経についての釈示[816])により vikāle kālasaññitā kāle vikālasaññitā と補う。

 

 [844]さらに、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と……略……。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と……。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に〕存している」と……。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に〕存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念住・四念処)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。

 

 [845]「諸々の悔恨〔の思い〕を防ぎ護ること」とは、諸々の悔恨〔の思い〕の、阻止を、防護を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。それによって、世尊は言った。

 

 [846]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ウダヤよ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕を捨棄すること、さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること、そして、〔心の〕沈滞を除き去ること、諸々の悔恨〔の思い〕を防ぎ護ること」と。

 

76.

 

 [847]1113.(1107) 放捨(:選択せず差別なき心)と気づき()という清浄なる〔境地〕、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕──〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、〔わたしは〕説きます。(3)

 

 [848]「放捨()と気づき()という清浄なる〔境地〕」とは、「放捨」とは、すなわち、第四の瞑想(第四禅)における、放捨、放捨すること、客観(客観的認識)、心の平静なること、心の安息なること、心が中なることである。「気づき」とは、すなわち、第四の瞑想における放捨に励んで、気づき、随念……略([219]参照)……正しい気づきである。「放捨と気づきという清浄なる〔境地〕」とは、第四の瞑想において、そして、放捨が、さらに、気づきが、清らかと成り、清浄となり、等しく清浄となり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなる。ということで、「放捨と気づきという清浄なる〔境地〕」。

 

 [849]「〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕」とは、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方は、正しい思惟(正思惟)と説かれる。それは、了知による解脱にとって、最初に有り、前に有り、先行のものとして有る。ということで、このようにもまた、「〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕」。さらに、あるいは、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方は、正しい見解(正見)と説かれる。それは、了知による解脱にとって、最初に有り、前に有り、先行のものとして有る。ということで、このようにもまた、「〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕」。さらに、あるいは、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方は、四つの〔聖者の〕道の前段部分における〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)と説かれる。それは、了知による解脱にとって、最初に有り、前に有り、先行のものとして有る。ということで、このようにもまた、「〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕」。

 

 [850]「〔これらを〕了知による解脱と」「〔わたしは〕説きます」とは、了知による解脱は、阿羅漢の資質としての解脱と説かれる。阿羅漢の資質としての解脱を、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「〔これらを〕了知による解脱と」「〔わたしは〕説きます」。

 

 [851]「無明の破壊と」とは、「無明」とは、苦しみについての無知……略([203]参照)……無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元。「破壊と」とは、無明の、破壊を、強き破壊を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「無明の破壊と」。それによって、世尊は言った。

 

 [852]「放捨(:選択せず差別なき心)と気づき()という清浄なる〔境地〕、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕──〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、〔わたしは〕説きます」と。

 

77.

 

 [853]1114.(1108) 〔尊者ウダヤが尋ねた〕──いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか。いったい、何が、それ(世の人々)にとって、彷徨となるのですか。何を捨棄することで、それにとって、「涅槃」と説かれるのですか。(4)

 

 [854]「いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか」とは、いったい、何が、世〔の人々〕にとって、束縛するものであり、付着するものであり、結縛するものであり、付随する〔心の〕汚れであるのか。何によって、世〔の人々〕は、束縛され、専念し、専従し、等しく専従し、居着き、付着し、障害となっているのか。ということで、「いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか」。

 

 [855]「いったい、何が、それ(世の人々)にとって、彷徨となるのですか」とは、いったい、何が、それにとって、歩みとなり、渡り歩きとなり、彷徨となるのか。何によって、世〔の人々〕は、歩み、渡り歩き、彷徨するのか。ということで、「いったい、何が、それにとって、彷徨となるのですか」。「何を捨棄することで、それにとって、『涅槃』と説かれるのですか」とは、何の、捨棄によって、寂止によって、放棄によって、安息によって、それにとっての「涅槃」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用されるのか。ということで、「何を捨棄することで、それにとって、『涅槃』と説かれるのですか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [856]〔尊者ウダヤが尋ねた〕──「いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあるのですか。いったい、何が、それ(世の人々)にとって、彷徨となるのですか。何を捨棄することで、それにとって、『涅槃』と説かれるのですか」と。

 

78.

 

 [857]1115.(1109) 〔世尊は答えた〕──愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあります。思考が、それにとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、「涅槃」と説かれます。(5)

 

 [858]「愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあります」とは、愉悦は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。これが、愉悦と説かれる。すなわち、愉悦が、世〔の人々〕にとって、束縛するものであり、付着するものであり、結縛するものであり、付随する〔心の〕汚れである。この愉悦によって、世〔の人々〕は、束縛され、専念し、専従し、等しく専従し、居着き、付着し、障害となっている。ということで、「愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあります」。

 

 [859]「思考が、それにとって、彷徨となります」とは、「思考」とは、九つの思考がある。欲望の思考、憎悪の思考、悩害の思考、親族の思考、地方の思考、不死の思考、他者への憐憫に関係した思考、利得と尊敬と名声に関係した思考、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考である。これらが、九つの思考と説かれる。これらの九つの思考が、世〔の人々〕にとって、歩みとなり、渡り歩きとなり、彷徨となる。これらの九つの思考によって、世〔の人々〕は、歩み、渡り歩き、彷徨する。ということで、「思考が、それにとって、彷徨となります」。

 

 [860]「渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」とは、渇愛の、捨棄によって、寂止によって、放棄によって、安息によって、「涅槃」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。ということで、「渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」。それによって、世尊は言った。

 

 [861]〔世尊は答えた〕──「愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕にあります。思考が、それにとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」と。

 

79.

 

 [862]1116.(1110) 〔尊者ウダヤが尋ねた〕──どのように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されるのですか。〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました。〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです。(6)

 

 [863]「どのように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の」とは、どのように、気づきある者の、正知の者の、〔あるがままに〕行なっている者の、〔世に〕住んでいる者の、振る舞っている者の、行持している者の、〔行ないを〕守っている者の、〔身を〕保っている者の、〔身を〕保ち行っている者の。ということで、「どのように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の」。

 

 [864]「識知〔作用〕は破却されるのですか」とは、識知〔作用〕は、止滅し、寂止し、滅至し、安息するのか。ということで、「識知〔作用〕は破却されのですか」。

 

 [865]「〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました」とは、覚者たる世尊に、尋ねるために、問うために、乞い求めるために、要請するために、清信するために、〔わたしたちは〕やってきた、〔わたしたちは〕到来した、〔わたしたちは〕近しく到来した、〔わたしたちは〕達し得た、〔わたしたちは〕あなたと共に集いあつまった。ということで、「〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました」。

 

 [866]「〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、〔わたしたちは〕聞きたい、〔わたしたちは〕把握したい、〔わたしたちは〕保持したい、〔わたしたちは〕近しく保持したい、〔わたしたちは〕近しく観たい。ということで、「〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [867]〔尊者ウダヤが尋ねた〕──「どのように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されるのですか。〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました。〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」と。

 

80.

 

 [868]1117.(1111) 〔世尊は答えた〕──かつまた、内も、かつまた、外も、感受〔の結果〕(:楽苦の知覚)を愉悦せずにいる者──このように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されます。(7)

 

 [869]「かつまた、内も、かつまた、外も、感受〔の結果〕()を愉悦せずにいる者」とは、(1)内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(2)外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(3)内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。

 

 [870](4)内に、集起の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(5)内に、衰失の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ……略……。(6)内に、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ……略……。(7)外に、集起の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(8)外に、衰失の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ……略……。(9)外に、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ……略……。(10)内と外に、集起の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ……略……。(11)内と外に、衰失の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ……略……(12)内と外に、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。これらの十二の行相によって、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ……略……状態なきへと至らせる。

 

 [871]さらに、あるいは、感受を、(1)無常〔の観点〕から見ている者として、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。感受を、(2)苦痛〔の観点〕から、(3)病〔の観点〕から、(4)腫物〔の観点〕から、(5)矢〔の観点〕から、(6)悩苦〔の観点〕から、(7)病苦〔の観点〕から(※)、(8)他者〔の観点〕から、(9)崩壊〔の観点〕から、(10)疾患〔の観点〕から、(11)禍〔の観点〕から、(12)恐怖〔の観点〕から、(13)災禍〔の観点〕から、(14)動揺するもの〔の観点〕から、(15)滅壊するもの〔の観点〕から、(16)常恒ならざるもの〔の観点〕から、(17)救護所ならざるもの〔の観点〕から、(18)避難所ならざるもの〔の観点〕から、(19)帰依所ならざるもの〔の観点〕から、(20)空虚〔の観点〕から、(21)虚妄〔の観点〕から、(22)空〔の観点〕から、(23)無我〔の観点〕から、(24)危険〔の観点〕から、(25)変化の法(性質)〔の観点〕から、(26)真髄なきもの〔の観点〕から、(27)悩苦の根元〔の観点〕から、(28)殺戮者〔の観点〕から、(29)非生存(非有)〔の観点〕から、(30)煩悩を有するもの〔の観点〕から、(31)形成されたもの(有為)〔の観点〕から、(32)悪魔の餌〔の観点〕から、(33)生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、(34)諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)の法(性質)〔の観点〕から、(35)〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、(36)集起〔の観点〕から、(37)滅至〔の観点〕から、(38)悦楽〔の観点〕から、(39)危険〔の観点〕から、(※)(40)出離〔の観点〕から見ている者として、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。これらの四十の行相によって、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。ということで、「かつまた、内も、かつまた、外も、感受〔の結果〕を愉悦せずにいる者」。

 

※ テキストの省略箇所(「(8)他者〔の観点〕から」から「(39)危険〔の観点〕から」まで)を、平行箇所[252]により補う。

 

 [872]「このように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の」とは、このように、気づきある者の、正知の者の、〔あるがままに〕行なっている者の、〔世に〕住んでいる者の、振る舞っている者の、行持している者の、〔行ないを〕守っている者の、〔身を〕保っている者の、〔身を〕保ち行っている者の。ということで、「このように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の」。

 

 [873]「識知〔作用〕は破却されます」とは、功徳ある行作を共具した識知〔作用〕も、功徳なき行作を共具した識知〔作用〕も、不動の行作を共具した識知〔作用〕も、止滅し、寂止し、滅至し、安息する。ということで、「識知〔作用〕は破却されます」。それによって、世尊は言った。

 

 [874]〔世尊は答えた〕──「かつまた、内も、かつまた、外も、感受〔の結果〕(:楽苦の知覚)を愉悦せずにいる者──このように、〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知〔作用〕は破却されます」と。

 

 [875]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [876]ウダヤ学徒の問いについての釈示が、第十三となる。

 

2. 1. 14. ポーサーラ学徒の問いについての釈示

 

81.

 

 [877]1118.(1112) かくのごとく、尊者ポーサーラが〔尋ねた〕──〔心に〕動揺なく、〔一切の〕疑念を断ち、過去を〔過去として、あるがままに〕指し示す、〔まさに〕その、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。(1)

 

 [878]「過去を〔過去として、あるがままに〕指し示す、〔まさに〕その」とは、「〔まさに〕その」とは、すなわち、彼は、世尊は、〔他に依らず〕自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「過去を〔過去として、あるがままに〕指し示す」とは、世尊は、そして、自己の、さらに、他者たちの、過去をもまた指し示し、未来をもまた指し示し、現在をもまた指し示す。

 

 [879]どのように、世尊は、自己の過去を指し示すのか。世尊は、自己の過去を、一生をもまた指し示し、二生をもまた指し示し、三生をもまた指し示し、四生をもまた指し示し、五生をもまた指し示し、十生をもまた指し示し、二十生をもまた指し示し、三十生をもまた指し示し、四十生をもまた指し示し、五十生をもまた指し示し、百生をもまた指し示し、千生をもまた指し示し、百千生をもまた指し示し、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた指し示し、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた指し示し、無数の展転され還転されたカッパをもまた指し示す。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、〔ふたたび〕某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を指し示す。このように、世尊は、自己の過去を指し示す。

 

 [880]どのように、世尊は、他者たちの過去を指し示すのか。世尊は、他者たちの過去を、一生をもまた指し示し、二生をもまた指し示し……略……無数の展転され還転されたカッパをもまた指し示す。「〔彼は〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。彼は、その〔某所〕から死滅し、〔ふたたび〕某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。彼は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を指し示す。このように、世尊は、他者たちの過去を指し示す。

 

 [881]世尊は、五百の本生(ジャータカ)を語りながら、そして、自己の、さらに、他者たちの、過去を指し示す。マハー・パダーナの経典を語りながら、そして、自己の、さらに、他者たちの、過去を指し示す。マハー・スダッサナの経典を語りながら、そして、自己の、さらに、他者たちの、過去を指し示す。マハー・ゴーヴィンダの経典を語りながら、そして、自己の、さらに、他者たちの、過去を指し示す。マガ・デーヴァの経典を語りながら、そして、自己の、さらに、他者たちの、過去を指し示す。

 

 [882]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「チュンダよ、まさに、過去の時に関して、如来には、気づきと隨念の知恵が有ります。彼は、すなわち、望むかぎりの、そのかぎりのものを隨念します。チュンダよ、そして、まさに、未来の……略……。チュンダよ、さらに、まさに、現在の時に関して、如来には、覚りから生じる知恵が生起します。『これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。

 

 [883]機能の上下なることについての知恵は、如来の、如来の力である。有情たちの志欲と悪習についての知恵は、如来の、如来の力である。対なる神変についての知恵は、如来の、如来の力である。大いなる慈悲の入定についての知恵は、如来の、如来の力である。一切知者たる知恵は、如来の、如来の力である。妨げなき知恵は、如来の、如来の力である。一切所に執着なく打破されず妨げなき知恵は、如来の、如来の力である。このように、世尊は、そして、自己の、さらに、他者たちの、過去をもまた指し示し、未来をもまた指し示し、現在をもまた、指し示し、告げ知らせ、説示し、知らせ、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為し、明示する。ということで、「過去を〔過去として、あるがままに〕指し示す、〔まさに〕その」。

 

 [884]「かくのごとく、尊者ポーサーラが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ポーサーラ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ポーサーラが〔尋ねた〕」。

 

 [885]「〔心に〕動揺なく、〔一切の〕疑念を断ち」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。覚者たる世尊の、その動揺としての渇愛は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、動揺なき方である。動揺が〔すでに〕捨棄されたことから、動揺なき方。世尊は、利得にたいしてもまた、動じず……略([294]参照)……苦痛にたいしてもまた、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「〔心に〕動揺なく」。「〔一切の〕疑念を断ち」とは、疑念は、疑惑と説かれる。苦痛についての疑い……略([470]参照)……心の驚愕、意の散乱である。覚者たる世尊の、その疑念は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、疑念を断った方である。ということで、「〔心に〕動揺なく、〔一切の〕疑念を断ち」。

 

 [886]「一切の法(事象)の彼岸に至る方に」とは、世尊は、一切の法(事象)の、証知による彼岸に至る方であり、遍知による彼岸に至る方であり、捨棄による彼岸に至る方であり、修行による彼岸に至る方であり、実証による彼岸に至る方であり、入定による彼岸に至る方である。一切の法(事象)の、証知による彼岸に至る方であり……略([834]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「一切の法(事象)の彼岸に至る方に」。

 

 [887]「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」とは、〔わたしは〕問いを義(目的)とする到来者として存している。……略([303]参照)……。これは、運ぶ者の荷です」〔と〕。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [888]かくのごとく、尊者ポーサーラが〔尋ねた〕──「〔心に〕動揺なく、〔一切の〕疑念を断ち、過去を〔過去として、あるがままに〕指し示す、〔まさに〕その、一切の法(事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」と。

 

82.

 

 [889]1119.(1113) 実体を離れた形態の表象ある者(形態の表象を超越した者)の、一切の身体を捨棄する者の、「かつまた、内も、かつまた、外も、何であれ、存在しない」と〔あるがままに〕見ている者の──〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます。そのような種類の者は、どのように導かれるのですか。(2)

 

 [890]「実体を離れた形態の表象ある者(形態の表象を超越した者)の」とは、どのようなものが、形態の表象(色想)であるのか。形態の行境の入定(四色界禅定・四禅)に、あるいは、入定した者の、あるいは、再生した者の、あるいは、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)ある者の、表象、表象すること、表象あることである。これが、形態の表象である。「実体を離れた形態の表象ある者の」とは、四つの形態なき入定を獲得した者の、形態の表象は、非有となったものと成り、離れ去ったもの、超越されたもの、等しく超越されたもの、超克されたものと〔成る〕。ということで、「実体を離れた形態の表象ある者の」。

 

 [891]「一切の身体を捨棄する者の」とは、彼の、一切の結生あるものとしての形態の身体は捨棄され、特性と超越と鎮静の〔三つの〕捨棄によって捨棄されたものとして、彼の形態の身体はある。ということで、「一切の身体を捨棄する者の」。

 

 [892]「『かつまた、内も、かつまた、外も、何であれ、存在しない』と〔あるがままに〕見ている者の」とは、「何であれ、存在しない」とは、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定。何を契機とすることから、「何であれ、存在しない」とは、無所有なる〔認識の〕場所への入定であるのか。すなわち、〔彼は〕識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定に、気づきある者として入定して、それから出起して、まさしく、その識知〔作用〕を、有ることなくあらしめ、非有とし、消没させ、「何も存在しない」と見る。それを契機とすることから、「何であれ、存在しない」とは、無所有なる〔認識の〕場所への入定である。ということで、「『かつまた、内も、かつまた、外も、何であれ、存在しない』と〔あるがままに〕見ている者の」。

 

 [893]「〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます」とは、「釈迦〔族〕の方よ」とは、釈迦〔族〕たる世尊は、釈迦〔族〕の家系から出家した方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。……略([503]参照)……恐怖と恐ろしさを捨棄した方、身の毛のよだつことを離れ去った方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。「〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます」とは、彼の、知恵を尋ねる、智慧を尋ねる、正覚を尋ねる。「どのようなものとして、何を確立したものとして、何を流儀とするものとして、何を相似とするものとして、〔彼の〕知恵が求められるべきであるのか」〔と〕。ということで、「〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます」。

 

 [894]「そのような種類の者は、どのように導かれるのですか」とは、どのように、彼は、導かれるべきであるのか、教導されるべきであるのか、指導されるべきであるのか、知らされるべきであるのか、納得させられるべきであるのか、見させられるべきであるのか、清信させられるべきであるのか。どのように、彼によって、より上なる知恵が生起させられるべきであるのか。「そのような種類の者は」とは、そのような種類の者は、そのような者は、それを確立した者は、それを流儀とする者は、それを相似とする者は、すなわち、〔まさに〕その、無所有なる〔認識の〕場所の入定の得者は。ということで、「そのような種類の者は、どのように導かれるのですか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [895]「実体を離れた形態の表象ある者(形態の表象を超越した者)の、一切の身体を捨棄する者の、『かつまた、内も、かつまた、外も、何であれ、存在しない』と〔あるがままに〕見ている者の──〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます。そのような種類の者は、どのように導かれるのですか」と。

 

83.

 

 [896]1120.(1114) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ポーサーラよ、一切の識知〔作用〕の止住(固着・停滞)を証知している如来は、この止住している〔識知作用〕を〔あるがままに〕知ります。信念したものを〔知り〕、その行き着く所を〔知ります〕。(3)

 

 [897]「一切の識知〔作用〕の止住(固着・停滞)を」とは、世尊は、(1)行作を所以に、四つの識知〔作用〕の止住を知り、(2)結生を所以に、七つの識知〔作用〕の止住を知る。(1)どのように、世尊は、行作を所以に、四つの識知〔作用〕の止住を知るのか。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、あるいは、形態に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、形態を対象(所縁)として、形態において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘たちよ、あるいは、感受〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、表象〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、諸々の形成〔作用〕に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、諸々の形成〔作用〕を対象として、諸々の形成〔作用〕において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう」と。このように、世尊は、行作を所以に、四つの識知〔作用〕の止住を知る。

 

 [898](2)どのように、世尊は、結生を所以に、七つの識知〔作用〕の止住を知るのか。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の識知〔作用〕の止住です。

 

 [899]比丘たちよ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵身天〔の神々〕たちのように(初禅天)。これは、第二の識知〔作用〕の止住です。

 

 [900]比丘たちよ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように(第二禅天)。これは、第三の識知〔作用〕の止住です。

 

 [901]比丘たちよ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように(第三禅天)。これは、第四の識知〔作用〕の止住です。

 

 [902]比丘たちよ、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第五の識知〔作用〕の止住です。

 

 [903]比丘たちよ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の識知〔作用〕の止住です。

 

 [904]比丘たちよ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の識知〔作用〕の止住です」と。このように、世尊は、結生を所以に、七つの識知〔作用〕の止住を知る。ということで、「一切の識知〔作用〕の止住を」。

 

 [905]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ポーサーラよ」とは、「ポーサーラよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ポーサーラよ」。

 

 [906]「証知している如来は」とは、「証知している」とは、証知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として、如来は。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それもまた説き明かしません。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴うものとして、有るなら、そこで、如来は、その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。チュンダよ、もし、また、未来のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。……略……その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それもまた説き明かしません。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴うものとして、有るなら、そこで、如来は、その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。チュンダよ、かくのごとく、まさに、諸々の過去と未来と現在の法(性質)について、如来は、〔正しい〕時に説く者であり、事実を説く者であり、義(意味)を説く者であり、法(教え)を説く者であり、律を説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。

 

 [907]チュンダよ、そして、それが、まさに、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、その全てが、如来によって現正覚されたのであり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、如来が、そして、その夜に、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚し、そして、その夜に、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するなら、すなわち、この中間において、〔彼が〕語り、談じ、釈示するものは、その全てが、まさしく、そのとおりに成り、他なるものと〔成ら〕ず、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、如来は、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。かくのごとく、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、それゆえに、『如来』と説かれます」〔と〕。ということで、「証知している如来は」。

 

 [908]「この止住している〔識知作用〕を〔あるがままに〕知ります」とは、世尊は、行為の行作を所以に、この〔世において〕、まさしく、義(意味)を知る。「この人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう」と。世尊は、行為の行作を所以に、この〔世において〕、まさしく、義(意味)を知る。「この人は、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するであろう」と。世尊は、行為の行作を所以に、この〔世において〕、まさしく、義(意味)を知る。「この人は、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するであろう」と。世尊は、行為の行作を所以に、この〔世において〕、まさしく、義(意味)を知る。「この人は、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するであろう」と。世尊は、行為の行作を所以に、この〔世において〕、まさしく、義(意味)を知る。「この人は、善き実践者として、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう」と。

 

 [909]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。

 

 [910]サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、畜生の胎に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。

 

 [911]サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、餓鬼の境域に再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。

 

 [912]サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、人間たちにおいて再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。

 

 [913]サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』と。

 

 [914]サーリプッタよ、また、ここに、わたしは、一部の人のことを、このように、〔自らの〕心をとおして、〔彼の〕心を探知して、〔あるがままに〕覚知します。『すなわち、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むとおり、そのとおりに、この人は実践している、そして、そのように振る舞い、かつまた、その道に入っている』」〔と〕。ということで、「この止住している〔識知作用〕を〔あるがままに〕知ります」と。

 

 [915]「信念したものを〔知り〕、その行き着く所を〔知ります〕」とは、「信念したもの」とは、無所有なる〔認識の〕場所。「信念したものを〔知り〕」とは、解脱によって、信念したものを〔知り〕、そこに信念したものを〔知り〕、それを信念したものを〔知り〕、それを優位とするものを〔知る〕。さらに、あるいは、世尊は知る。「この人は、形態を信念した者である」「音声を信念した者である」「臭気を信念した者である」「味感を信念した者である」「感触を信念した者である」「家を信念した者である」「衆徒を信念した者である」「居住を信念した者である」「利得を信念した者である」「盛名を信念した者である」「賞賛を信念した者である」「安楽を信念した者である」「衣料を信念した者である」「〔行乞の〕施食を信念した者である」「臥坐具を信念した者である」「病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を信念した者である」「経を信念した者である」「律を信念した者である」「高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)を信念した者である」「林にある者の支分を信念した者である」「〔行乞の〕施食の者の支分を信念した者である」「糞掃衣の者の支分を信念した者である」「三つの衣料の者の支分を信念した者である」「〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分を信念した者である」「〔決められた時間〕以後の食を否とする者の支分を信念した者である」「常坐〔にして不臥〕なる者の支分を信念した者である」「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分を信念した者である」「第一の瞑想を信念した者である」「第二の瞑想を信念した者である」「第三の瞑想を信念した者である」「第四の瞑想を信念した者である」「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定を信念した者である」「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定を信念した者である」「無所有なる〔認識の〕場所への入定を信念した者である」「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を信念した者である」〔と〕。ということで、「信念したものを〔知り〕」。

 

 [916]「その行き着く所を〔知ります〕」とは、無所有なる〔認識の〕場所によって作られるものを〔知り〕、それの行き着く所を〔知り〕、行為の行き着く所を〔知り〕、報いの行き着く所を〔知り〕、行為を重きとするものを〔知り〕、結生を重きとするものを〔知る〕。さらに、あるいは、世尊は知る。「この人は、形態を信念した者である」……略([915]参照)……「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を信念した者である」〔と〕。ということで、「その行き着く所を〔知ります〕」。それによって、世尊は言った。

 

 [917]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ポーサーラよ、一切の識知〔作用〕の止住(固着・停滞)を証知している如来は、この止住している〔識知作用〕を〔あるがままに〕知ります。信念したものを〔知り〕、その行き着く所を〔知ります〕」と。

 

84.

 

 [918]1121.(1115) 無所有〔の境地〕の発生を知って、「愉悦は、〔人を〕束縛するものである」と〔知ります〕。このように、このことを証知して、そののち、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観察します。〔梵行の〕完成者にして〔真の〕婆羅門たる彼には、この真実の知恵があります。(4)

 

 [919]「無所有〔の境地〕の発生を知って」とは、無所有〔の境地〕の発生は、無所有なる〔認識の〕場所のために等しく転起する行為の行作と説かれる。無所有なる〔認識の〕場所のために等しく転起する行為の行作を、「無所有〔の境地〕の発生である」と知って、「付着である」と知って、「結縛である」と知って、「障害である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「無所有〔の境地〕の発生を知って」。

 

 [920]「『愉悦は、〔人を〕束縛するものである』と〔知ります〕」とは、愉悦という束縛するものは、形態なき〔行境〕への貪欲と説かれる。形態なき〔行境〕への貪欲によって、その行為は、居着いたものとなり、付着したものとなり、障害となったものとなる。形態なき〔行境〕への貪欲を、「愉悦という束縛するものである」と知って、「付着である」と知って、「結縛である」と知って、「障害である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「と」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「と」〔ということになる〕。ということで、「『愉悦は、〔人を〕束縛するものである』と〔知ります〕」。

 

 [921]「このように、このことを証知して」とは、このように、このことを、証知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このように、このことを証知して」。

 

 [922]「そののち、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観察します」とは、「そこにおいて」とは、無所有なる〔認識の〕場所に入定して、それから出起して、そこにおいて生じた、心と心の属性としての諸法(心心所法:心と心に現起する作用・感情)を、無常〔の観点〕から〔あるがままに〕観察し、苦痛〔の観点〕から〔あるがままに〕観察し、病〔の観点〕から……略([252]参照)……出離〔の観点〕から、〔あるがままに〕観察し、視認し、注目し、凝視し、近しく注視する。ということで、「そののち、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観察します」。

 

 [923]「彼には、この真実の知恵があります」とは、彼の、この知恵は、如実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである。ということで、「彼には、この真実の知恵があります」。

 

 [924]「〔梵行の〕完成者にして〔真の〕婆羅門たる」とは、「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。……略([462]参照)……。〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」と。「〔梵行の〕完成者にして〔真の〕婆羅門たる」とは、七者の〔いまだ〕学びある者は、善き凡夫と比較して、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。阿羅漢は、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「〔梵行の〕完成者にして〔真の〕婆羅門たる」。それによって、世尊は言った。

 

 [925]「無所有〔の境地〕の発生を知って、『愉悦は、〔人を〕束縛するものである』と〔知ります〕。このように、このことを証知して、そののち、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観察します。〔梵行の〕完成者にして〔真の〕婆羅門たる彼には、この真実の知恵があります」と。

 

 [926]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [927]ポーサーラ学徒の問いについての釈示が、第十四となる。

 

2. 1. 15. モーガラージャン学徒の問いについての釈示

 

85.

 

 [928]1122.(1116) かくのごとく、尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕──わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に尋ねましたが、眼ある方は、わたしに説き明かしてくれませんでした。しかしながら、「天の聖賢は、三度目には説き明かしてくれる」と、わたしは聞きました。(1)

 

 [929]「わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に尋ねましたが」とは、その婆羅門は、〔以前に〕二回、覚者たる世尊に、問いを尋ねた。彼に、世尊は、問いを尋ねられた者として、〔答えを〕説き明かさなかった。「その直後に、この婆羅門には、機能の円熟が有るであろう」と。「釈迦〔族〕の方」とは、釈迦〔族〕たる世尊は、釈迦〔族〕の家系から出家した方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。彼には、これらの財がある。それは、すなわち、この、信という財、戒という財、恥〔の思い〕という財、〔良心の〕咎めという財、所聞という財、施捨という財、智慧という財、〔四つの〕気づきの確立という財、〔四つの〕正しい精励という財、〔四つの〕神通の足場という財、〔五つの〕機能という財、〔五つの〕力という財、〔七つの〕覚りの支分という財、聖なる八つの支分ある道という財、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)という財、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)という財、涅槃という財である。これらの無数の種類ある財の宝によって、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、有能なる方、可能なる方、発出ある方、十分なる自己ある方、勇士たる方、勇者たる方、勇猛なる方、恐怖なき方、驚愕なき方、恐懼なき方、逃げない方、恐怖と恐ろしさを捨棄した方、身の毛のよだつことを離れ去った方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。「わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に尋ねましたが」とは、わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に、尋ねた、乞い求めた、要請した、清信した。ということで、「わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に尋ねましたが」。

 

 [930]「かくのごとく、尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「モーガラージャン」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕」。

 

 [931]「眼ある方は、わたしに説き明かしてくれませんでした」とは、「わたしに説き明かしてくれませんでした」とは、わたしに、説き明かさなかった、告げ知らせなかった、説示しなかった、報知しなかった、確立しなかった、開顕しなかった、区分しなかった、明瞭と為さなかった、明示しなかった。「眼ある方」とは、世尊は、五つの眼によって、眼ある方である。(1)肉眼によってもまた、眼ある方である。(2)天眼によってもまた、眼ある方である。(3)智慧の眼によってもまた、眼ある方である。(4)覚者の眼によってもまた、眼ある方である。(5)一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [932](1)どのように、世尊は、肉眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊の肉眼にはまた、五つの色が等しく見出される──かつまた、青色が、かつまた、黄色が、かつまた、赤色が、かつまた、黒色が、かつまた、白色が。そして、そこにおいて、諸々の眼毛が立脚している、その〔眼毛〕は、青く、極めて青く、清らかで、美しく、ウンマーの花に等しきものとして有る。その後方(毛根)は、黄で、極めて黄で、黄金の色で、清らかで、美しく、カニカーラの花に等しきものとして有る。そして、世尊の両の眼球は、赤く、極めて赤く、清らかで、美しく、黄金虫〔の色艶〕に等しきものとして有る。中央においては、黒く、極めて黒く、粗野ならず、滑らかで、清らかで、美しく、濡れたアリッタカ(黒岩)に等しきものとして有る。その後方は、白く(オーダータ)、極めて白く(スオーダータ)、白く(セータ)、白く(パンダラ)、清らかで、美しく、明けの明星に等しきものとして有る。過去(前世)の善き行ないの行為によって発現したものとして、自己状態(個我的あり方・身体)に属するところの、〔まさに〕その、〔生来の〕性向の肉眼によって、世尊は、まさしく、そして、昼に、さらに、夜に、遍きにわたり、〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)を見る。すなわち、まさに、四つの支分を具備した暗黒が有るときも──かつまた、滅至した太陽が有り、かつまた、黒分の斎戒(新月の夜)が有り、かつまた、漆黒の密林が有り、かつまた、立ちのぼった大いなる黒雲が有る、このような形態の四つの支分を具備した暗黒においても──遍きにわたり、〔一〕ヨージャナを見る。〔まさに〕その、諸々の形態を見るための妨げとなる、あるいは、壁は、あるいは、戸は、あるいは、垣は、あるいは、山は、あるいは、薮は、あるいは、蔓は、存在しない。もし、一つの胡麻の果を、〔それに〕形相を為して、胡麻の荷のなかに置くなら、まさしく、その胡麻の果を、取り出すであろう。このように、世尊の、〔生来の〕性向の肉眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、肉眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [933](2)どのように、世尊は、天眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為の受持ある者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。そして、世尊は、望んでいるなら、一つの世の界域をもまた見るであろうし、二つの世の界域をもまた見るであろうし、三つの世の界域をもまた見るであろうし、四つの世の界域をもまた見るであろうし、五つの世の界域をもまた見るであろうし、十の世の界域をもまた見るであろうし、二十の世の界域をもまた見るであろうし、三十の世の界域をもまた見るであろうし、四十の世の界域をもまた見るであろうし、五十の世の界域をもまた見るであろうし、百の世の界域をもまた見るであろうし、千の小なる世の界域をもまた見るであろうし、二千の中なる世の界域をもまた見るであろうし、三千の世の界域をもまた見るであろうし、大千の世の界域をもまた見るであろう。また、あるいは、あるかぎりのものを望むなら、そのかぎりのものを見るであろう。このように、世尊の天眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、天眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [934](3)どのように、世尊は、智慧の眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、偉大なる智慧ある方であり、多々なる智慧ある方であり、敏速なる智慧ある方であり、疾走する智慧ある方であり、鋭敏なる智慧ある方であり、洞察の智慧ある方であり、智慧の細別に巧みな智ある方であり、細別された知恵ある方であり、融通無礙に到達した方であり、四つの離怖に至り得た方であり、十の力を保持する方であり、人の雄牛たる方であり、人の獅子たる方であり、人の龍象たる方であり、人の良馬たる方(善き生まれの者)であり、人の荷牛たる方(忍耐強き者)であり、終極なき知恵ある方であり、終極なき威光ある方であり、終極なき福徳ある方であり、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方であり、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、清信させる方である。まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住む、〔彼の〕弟子たちは、のちに、〔教えを〕具備した者たちとなる。

 

 [935]まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る、〔世の〕眼と成った方であり、〔世の〕知恵と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、〔法の〕説者たる方であり、〔法の〕伝授者たる方であり、義(利益)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(真理)の主であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、智慧によって、〔いまだ〕知られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見出されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕実証されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕体得されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(事象)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの(未了義のもの)が、まさに、存在するなら、〔その〕法(性質)は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義(利益)が、あるいは、他者の義(利益)が、あるいは、両者の義(利益)が、あるいは、所見の法(現世)の義(利益)が、あるいは、未来の義(利益)が、あるいは、明瞭なる義(利益)が、あるいは、深遠なる義(利益)が、あるいは、秘密にされた義(利益)が、あるいは、隠蔽された義(利益)が、あるいは、導かれるべき義(利益)が、あるいは、導かれた義(利益)が、あるいは、罪過なきものの義(利益)が、あるいは、〔心の〕汚れなきものの義(利益)が、あるいは、浄化の義(利益)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(利益)が、その全てが、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [936]一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の言葉の行為は、〔覚者たる世尊の〕知恵に遍く随転し、一切の意の行為は、〔覚者たる世尊の〕知恵に遍く随転する。覚者たる世尊の知恵は、過去において、打破されざるものとしてあり、未来において、打破されざるものとしてあり、現在において、打破されざるものとしてある。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を極限の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、かつまた、導かれるべきものも、かつまた、知恵も、互いに他を極限の境位とするものとなる。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。

 

 [937]一切の法(事象)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。一切の法(事象)は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することに連結したものとしてあり、望みに連結したものとしてあり、意を為すことに連結したものとしてあり、心の生起に連結したものとしてある。一切の有情たちにおいて、覚者たる世尊の知恵は転起する。世尊は、一切の有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、可能なる者たちとして、可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [938]たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [939]たとえば、それらが何であれ、翼あるものたち(鳥類)が、もしくは、ヴェーナテイヤたるガルラ(金翅鳥)を加え含めて、虚空の分際(天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、智慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の分際において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕と人間たちの智慧を、充満して〔止住し〕、凌駕して止住する。

 

 [940]すなわち、また、それらの、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちであり、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩むも、彼らは、諸々の問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に尋ねる──そして、諸々の秘密にされたものを、さらに、諸々の隠蔽されたものを。それらの問いは、世尊によって、言説され、まさしく、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。そして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。そこで、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる──すなわち、この、智慧によって。ということで、このように、世尊は、智慧の眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [941](4)どのように、世尊は、覚者の眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで成長し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、まさしく、このように、世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。世尊は知る。「この人は、貪欲の行ないの者である」「この〔人〕は、憤怒の行ないの者である」「この〔人〕は、迷妄の行ないの者である」「この〔人〕は、思考の行ないの者である」「この〔人〕は、信の行ないの者である」「この〔人〕は、知恵の行ないの者である」と。世尊は、貪欲の行ないの人には、不浄の言説を言説する(不浄想を説く)。世尊は、憤怒の行ないの人には、慈愛の修行(慈悲の瞑想)を告げ知らせる。世尊は、迷妄の行ないの人には、誦説(聖典)について、遍問(義釈)について、〔しかるべき〕時には、法(真理)の聴聞において、〔しかるべき〕時には、法(真理)の論議において、導師との共住において確たるものとする。世尊は、思考の行ないの人には、呼吸についての気づき(安般念)を告げ知らせる。世尊は、信の行ないの人には、清信するべき形相を告げ知らせる──覚者の善き覚り(菩提)を、法(教え)の善き法(教え)たることを、僧団の善き実践を、さらに、自己の諸戒を。世尊は、知恵の行ないの人には、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の形相を告げ知らせる──無常の行相を、苦痛の行相を、無我の行相を。

 

 [942]〔そこで、詩偈に言う〕「たとえば、山の頂きの巌(いわお)に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、その喩えのように、一切に眼ある思慮深き者は、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視する」と。

 

 [943]このように、世尊は、覚者の眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [944](5)どのように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、眼ある方であるのか。一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。世尊は、一切知者たる知恵を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。

 

 [945]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。

 

 [946]このように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。ということで、「眼ある方は、わたしに説き明かしてくれませんでした」。

 

 [947]「しかしながら、『天の聖賢は、三度目には説き明かしてくれる』と、わたしは聞きました」とは、三度目には、覚者は、法(真理)を共にする問いを尋ねられた者として、〔答えを〕説き明かす──やりすごすことなく。「かくのごとく、このように、わたしによって把握された。このように、わたしによって近しく保持された。このように、わたしによって近しく観られた」〔と〕。「天の聖賢」とは、まさしく、そして、世尊でもあり、さらに、聖賢でもある、ということで、「天の聖賢」。たとえば、王の出家者たちが、王の聖賢たちと説かれ、婆羅門の出家者たちが、婆羅門の聖賢たちと説かれるように、まさしく、このように、まさしく、そして、世尊でもあり、さらに、聖賢でもある、ということで、「天の聖賢」。

 

 [948]さらに、あるいは、世尊は、出家者である、ということでもまた、「聖賢」。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということでもまた、「聖賢」。大いなる禅定の範疇を……略……。大いなる智慧の範疇を……。大いなる解脱の範疇を……。大いなる解脱の知見の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということでもまた、「聖賢」。大いなる闇の体系を破り裂くことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということでもまた、「聖賢」。大いなる転倒を破り去ることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということでもまた、「聖賢」。大いなる渇愛の矢を引き抜くことを……。大いなる見解の群結を解きほぐすことを……。大いなる思量の旗を落とし去ることを……。大いなる行作を寂止することを……。大いなる激流を超え出ることを……。大いなる重荷を捨て置くことを……。大いなる輪廻と〔その〕転起を断絶することを……。大いなる熱苦を寂滅させることを……。大いなる苦悶を安息することを……。大いなる法(真理)の旗を掲揚することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということでもまた、「聖賢」。大いなる〔四つの〕気づきの確立を……。大いなる〔四つの〕正しい精励を……。大いなる〔四つの〕神通の足場を……。大いなる〔五つの〕機能を……。大いなる〔五つの〕力を……。大いなる〔七つの〕覚りの支分を……。大いなる聖なる八つの支分ある道を……。大いなる最高の義(勝義:最高の真実)たる不死なる(※)涅槃を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということでもまた、「聖賢」。あるいは、大いなる権能ある有情たちによって、「覚者は、どこにいるのか」「世尊は、どこにいるのか」「天の天たる方は、どこにいるのか」「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということでもまた、「聖賢」。ということで、「しかしながら、『天の聖賢は、三度目には説き明かしてくれる』と、わたしは聞きました」。それによって、その婆羅門は言った。

 

※ テキストには ṃ1ataṃ とあるが、誤記と見て amataṃ と読む(PTS版は記載なし)。

 

 [949]かくのごとく、尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕──「わたしは、二つ〔の問い〕を、釈迦〔族〕の方に尋ねましたが、眼ある方は、わたしに説き明かしてくれませんでした。しかしながら、『天の聖賢は、三度目には説き明かしてくれる』と、わたしは聞きました」と。

 

86.

 

 [950]1123.(1117) この世〔の人々〕も、他の世〔の人々〕も、天〔の世〕を含む梵の世〔の神々〕も、福徳あるゴータマの、あなたの、見解を証知しません。(2)

 

 [951]「この世〔の人々〕は、他の世〔の人々〕も」とは、「この世〔の人々〕は」とは、人間の世〔の人々〕は。「他の世〔の人々〕も」とは、人間の世を除いて、一切の他の世〔の人々〕は。ということで、「この世〔の人々〕も、他の世〔の人々〕も」。

 

 [952]「天〔の世〕を含む梵の世〔の神々〕も」とは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕は、天〔の神〕や人間を含む人々は。ということで、「天〔の世〕を含む梵の世〔の神々〕も」。

 

 [953]「あなたの、見解を証知しません」とは、あなたの、見解を、受認(信受)を、嗜好(意欲)を、主張を、志欲を、志向を、世〔の人々〕は知らない。「これは、このような見解のものである。このような受認のものである。このような嗜好のものである。このような主張のものである。このような志欲のものである。このような志向のものである」と、知らず、見ず、視認せず、到達せず、見出さず、獲得しない。ということで、「あなたの、見解を証知しません」。

 

 [954]「福徳あるゴータマの」とは、世尊は、福徳に至り得た方である、ということで、「福徳ある」。さらに、あるいは、世尊は、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者である、ということでもまた、「福徳ある」。ということで、「福徳あるゴータマの」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [955]「この世〔の人々〕も、他の世〔の人々〕も、天〔の世〕を含む梵の世〔の神々〕も、福徳あるゴータマの、あなたの、見解を証知しません」と。

 

87.

 

 [956]1124.(1118) このような崇高なる見者に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。どのように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ないのですか。(3)

 

 [957]「このような崇高なる見者に」とは、このような、崇高なる見者に、至高の見者に、最勝の見者に、殊勝の見者に、筆頭の見者に、最上の見者に、最高の見者に。ということで、「このような崇高なる見者に」。

 

 [958]「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」とは、〔わたしは〕問いを義(目的)とする到来者として存している。……略([303]参照)……。これは、運ぶ者の荷です」〔と〕。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。

 

 [959]「どのように、世〔のあり様〕を注視している者を」とは、どのように、世〔のあり様〕を、注視している者を、現に注視している者を、比較している者を、推量している者を、分明している者を、明確と為している者を。ということで、「どのように、世〔のあり様〕を注視している者を」。

 

 [960]「死魔の王は見ないのですか」とは、死魔の王は、見ず、視認せず、到達せず、見出さず、獲得しないのか。ということで、「死魔の王は見ないのですか」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [961]「このような崇高なる見者に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。どのように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ないのですか」と。

 

88.

 

 [962]1125.(1119) 〔世尊は答えた〕──モーガラージャンよ、常に気づきある者として、世〔のあり様〕を「空である」と注視しなさい。自己についての偏った見解を取り去って、このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです。このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ません。(4)

 

 [963]「世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい」とは、「世」とは、地獄の世、畜生の胎の世、餓鬼の境域の世、人間の世、天の世、〔五つの〕範疇の世、〔十八の〕界域の世、〔十二の認識の〕場所の世、この世、他の世、天〔の世〕を含む梵の世。或るひとりの比丘が、世尊に、こう言った。「尊き方よ、『世』『世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『世』と説かれるのですか」と。〔世尊は答えた〕「比丘よ、まさに、『崩壊する(ルッジャティ)』ということで、それゆえに、『世(ローカ)』と説かれます。では、何が、崩壊するのですか。比丘よ、まさに、眼は、崩壊します。諸々の形態は、崩壊します。眼の識知〔作用〕は、崩壊します。眼の接触は、崩壊します。すなわち、また、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、崩壊します。耳は、崩壊します。……略……。諸々の臭気は、崩壊します。……略……。身体は、崩壊します。諸々の感触は、崩壊します。……略……。意は、崩壊します。諸々の法(意の対象)は、崩壊します。意の識知〔作用〕は、崩壊します。意の接触は、崩壊します。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、崩壊します。比丘よ、まさに、『崩壊する』ということで、それゆえに、『世』と説かれます」と。

 

 [964]「世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい」とは、二つの契機によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。(1)あるいは、自在ならずに転起されたものと省察することを所以に、(2)あるいは、虚妄の形成〔作用〕なるものと等しく随観することを所以に。(1)どのように、自在ならずに転起されたものと省察することを所以に、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視するのか。形態のうちに、自在は得られず、感受〔作用〕のうちに、自在は得られず、表象〔作用〕のうちに、自在は得られず、諸々の形成〔作用〕のうちに、自在は得られず、識知〔作用〕のうちに、自在は得られない。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、形態は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この形態が、自己として有ったなら、この形態は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、形態にたいし、『わたしの形態は、このように有れ。わたしの形態は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、形態が、無我であることから、それゆえに、形態は、病苦へと等しく転起し、さらに、形態にたいし、『わたしの形態は、このように有れ。わたしの形態は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません」と。

 

 [965]「感受〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この感受〔作用〕が、自己として有ったなら、この感受〔作用〕は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、感受〔作用〕にたいし、『わたしの感受〔作用〕は、このように有れ。わたしの感受〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、感受〔作用〕が、無我であることから、それゆえに、感受〔作用〕は、病苦へと等しく転起し、さらに、感受〔作用〕にたいし、『わたしの感受〔作用〕は、このように有れ。わたしの感受〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません」と。

 

 [966]「表象〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この表象〔作用〕が、自己として有ったなら、この表象〔作用〕は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、表象〔作用〕にたいし、『わたしの表象〔作用〕は、このように有れ。わたしの表象〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、表象〔作用〕が、無我であることから、それゆえに、表象〔作用〕は、病苦へと等しく転起し、さらに、表象〔作用〕にたいし、『わたしの表象〔作用〕は、このように有れ。わたしの表象〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません」と。

 

 [967]「諸々の形成〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この諸々の形成〔作用〕が、自己として有ったなら、この諸々の形成〔作用〕は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、諸々の形成〔作用〕にたいし、『わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有れ。わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、諸々の形成〔作用〕が、無我であることから、それゆえに、諸々の形成〔作用〕は、病苦へと等しく転起し、さらに、諸々の形成〔作用〕にたいし、『わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有れ。わたしの諸々の形成〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません」と。

 

 [968]「識知〔作用〕は、無我です。比丘たちよ、まさに、そして、この識知〔作用〕が、自己として有ったなら、この識知〔作用〕は、病苦へと等しく転起することはないでしょうし、さらに、識知〔作用〕にたいし、『わたしの識知〔作用〕は、このように有れ。わたしの識知〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言ったなら、承諾を〕得るでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、識知〔作用〕が、無我であることから、それゆえに、識知〔作用〕は、病苦へと等しく転起し、さらに、識知〔作用〕にたいし、『わたしの識知〔作用〕は、このように有れ。わたしの識知〔作用〕は、このように有ってはならない』と〔言っても、承諾を〕得ることはありません」と。

 

 [969]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、この身体は、あなたたちのものではありません。他者たちのものでもまたありません。比丘たちよ、これは、古い行為()であり、行作されたものとして、行思されたものとして、感受されるべきであり、見られるべきです。比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)がある。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)がある。感受という縁あることから、渇愛()がある。渇愛という縁あることから、執取()がある。執取という縁あることから、生存()がある。生存という縁あることから、生()がある。生という縁あることから、老と死(老死)が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有る。

 

 [970]まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。このように、自在ならずに転起されたものと省察することを所以に、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [971](2)どのように、虚妄の形成〔作用〕なるものと等しく随観することを所以に、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視するのか。形態のうちに、真髄は得られず、感受〔作用〕のうちに、真髄は得られず、表象〔作用〕のうちに、真髄は得られず、諸々の形成〔作用〕のうちに、真髄は得られず、識知〔作用〕のうちに、真髄は得られない。形態は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。感受〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである……略……。表象〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである……。諸々の形成〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである……。識知〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。

 

 [972]たとえば、また、葦が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、エーランダ(伊蘭)が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、ウドゥンバラ(無曇華)が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、セータ(白花)の薮が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、パーリバッダカ〔樹〕が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、泡沫の団塊が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、水泡が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、陽炎が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、芭蕉の幹が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、幻想が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、まさしく、このように、形態は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。感受〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである……略……。表象〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである……。諸々の形成〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである……。識知〔作用〕は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。このように、虚妄の形成〔作用〕なるものと等しく随観することを所以に、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。これらの二つの契機によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [973]さらに、また、六つの行相によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。眼は、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。耳は、空である……略……。鼻は、空である……。舌は、空である……。身は、空である……。意は、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。諸々の形態は、空である……略……。諸々の音声は、空である……。諸々の臭気は、空である……。諸々の味感は、空である……。諸々の感触は、空である……。諸々の法(意の対象)は、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。眼の識知〔作用〕は、空である……略……。意の識知〔作用〕は、空である……。眼の接触は、空である……。意の接触は、空である……。眼の接触から生じる感受は、空である……。意の接触から生じる感受は、空である……。形態の表象は、空である……。法(意の対象)の表象は、空である……。形態の思欲は、空である……。法(意の対象)の思欲は、空である……。形態の渇愛は、空である……。法(意の対象)の渇愛は、空である……。形態の思考は、空である……。法(意の対象)の思考は、空である……。形態の想念は、空である……。法(意の対象)の想念は、空である──あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても。このように、六つの行相によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [974]さらに、また、十の行相によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。形態を、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの〔の観点〕から。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を……。死滅を……。再生を……。結生を……。生存を……。輪廻と〔その〕転起を、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの〔の観点〕から。このように、十の行相によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [975]さらに、また、十二の行相によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。形態は、有情ではなく、生ある者ではなく、人ではなく、人間ではなく、女ではなく、男ではなく、自己ではなく、自己に属するものではなく、わたしではなく、わたしのものではなく、誰でもなく、誰のものでもない。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、有情ではなく、生ある者ではなく、人ではなく、人間ではなく、女ではなく、男ではなく、自己ではなく、自己に属するものではなく、わたしではなく、わたしのものではなく、誰でもなく、誰のものでもない。このように、十二の行相によって、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [976]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、それを、どのように思いますか。すなわち、このジェータ林にある草や薪や枝や葉を、それを、人が、あるいは、運び去るとして、あるいは、焼くとして、あるいは、縁のままに為すとして、さて、いったい、あなたたちに、このような〔思いが〕存するでしょうか。『わたしたちを、人が、あるいは、運び去り、あるいは、焼き、あるいは、縁のままに為す』」と。〔比丘たちは答えた〕「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、わたしたちの、あるいは、自己でも〔なく〕、あるいは、自己に属するものでもないからです」と。〔世尊は言った〕「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。このようにもまた、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [977]尊者アーナンダが、世尊に、こう言った。「尊き方よ、『空である世』『空である世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『空である世』と説かれるのですか」と。〔世尊は答えた〕「アーナンダよ、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます。アーナンダよ、では、何が、空なのですか──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、まさに、眼は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。諸々の形態は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の識知〔作用〕は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の接触は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。耳は、空です……。諸々の音声は、空です……。鼻は、空です……。諸々の臭気は、空です……。舌は、空です……。諸々の味感は、空です……。身は、空です……。諸々の感触は、空です……。意は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。諸々の法(意の対象)は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。意の識知〔作用〕は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。意の接触は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、そして、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます」と。このようにもまた、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [978]〔そこで、詩偈に言う〕「単なる法(事象)の生起を、単なる形成〔作用〕の相続を、事実のとおりに見ている者に、頭目よ、恐怖は有りえない。

 

 [979]世〔のあり様〕を、草や薪に等しきものと、智慧によって見る、そのとき、結生なきもの(涅槃)より他に、何であれ、他のものを望み求めない」と。

 

 [980]このようにもまた、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [981]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、およそ、形態に赴く所があるかぎり、形態を正しく調査し、およそ、形態に赴く所があるかぎり、感受〔作用〕を正しく調査し、およそ、形態に赴く所があるかぎり、表象〔作用〕を正しく調査し、およそ、形態に赴く所があるかぎり、諸々の形成〔作用〕を正しく調査し、およそ、識知〔作用〕に赴く所があるかぎり、識知〔作用〕を正しく調査します。彼が、およそ、形態に赴く所があるかぎり、形態を正しく調査していると……略……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……およそ、識知〔作用〕に赴く所があるかぎり、識知〔作用〕を正しく調査していると、すなわち、また、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』と、彼に有る、その〔思い〕は、それもまた、彼には有りません」と。このようにもまた、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から注視する。

 

 [982]「世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい」とは、世〔のあり様〕を、空〔の観点〕から、注視しなさい、現に注視しなさい、視認しなさい、比較しなさい、推量しなさい、分明しなさい、明確と為しなさい。ということで、「世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい」。

 

 [983]「モーガラージャンよ、常に気づきある者として」とは、「モーガラージャンよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に……略([276]参照)……後年期(老年期)に。「気づきある者として」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「モーガラージャンよ、常に気づきある者として」。

 

 [984]「自己についての偏った見解を取り去って」とは、自己についての偏った見解は、二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)と説かれる。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し(偏見のとおりに見る)、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕(自己と錯視する)、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観する〕。(5)感受〔作用〕を……略……。(9)表象〔作用〕を……。(13)諸々の形成〔作用〕を……。(17)識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(18)あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、(20)あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観する〕。すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、自己についての偏った見解である。「自己についての偏った見解を取り去って」とは、自己についての偏った見解を、取り去って、完破して、取り出して、等しく取り出して、摘出して、等しく摘出して、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「自己についての偏った見解を取り去って」。

 

 [985]「このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです」とは、このように、死魔〔の領域〕をもまた、〔あなたは〕超え渡るべきである、老をもまた、〔あなたは〕超え渡るべきである、死をもまた、〔あなたは〕超え渡るべきである、〔あなたは〕超え上がるべきである、〔あなたは〕超え登るべきである、〔あなたは〕等しく超越するべきである、〔あなたは〕超克するべきである。ということで、「このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです」。

 

 [986]「このように、世〔のあり様〕を注視している者を」とは、このように、世〔のあり様〕を、注視している者を、現に注視している者を、比較している者を、推量している者を、分明している者を、明確と為している者を。ということで、「このように、世〔のあり様〕を注視している者を」。

 

 [987]「死魔の王は見ません」とは、死魔もまた、死魔の王である。悪魔もまた、死魔の王である。死もまた、死魔の王である。「見ません」とは、死魔の王は、見ず、視認せず、到達せず、見出さず、獲得しない。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、林や森を歩みながら、〔安心し〕信頼した者として赴き、〔安心し〕信頼した者として立ち、〔安心し〕信頼した者として坐り、〔安心し〕信頼した者として臥を営むようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、猟師の視野ならざるところに至ったからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [988]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を……略([240]参照)……第三の瞑想(第三禅)を……略([240]参照)……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [989]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [990]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。……略……。

 

 [991]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。……略……。

 

 [992]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。……略……。

 

 [993]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り、世における執着を超えた者となり』と説かれます。彼は、〔安心し〕信頼ある者として赴き、〔安心し〕信頼ある者として立ち、〔安心し〕信頼ある者として坐り、〔安心し〕信頼ある者として臥を営みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、パーピマントの視野ならざるところに至ったからです」〔と〕。ということで、「死魔の王は見ません」。それによって、世尊は言った。

 

 [994]〔世尊は答えた〕──「モーガラージャンよ、常に気づきある者として、世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい。自己についての偏った見解を取り去って、このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです。このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ません」と。

 

 [995]詩偈の終了と共に……略([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [996]モーガラージャン学徒の問いについての釈示が、第十五となる。

 

2. 1. 19. ピンギヤ学徒の問いについての釈示

 

89.

 

 [997]1126.(1120) かくのごとく、尊者ピンギヤが〔言った〕──老いた者として、わたしは存しています──力はなく、色艶は離れ、眼は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔そのような老齢の者として〕。わたしが、まさしく、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはなりません。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を。(1)

 

 [998]「老いた者として、わたしは存しています──力はなく、色艶は離れ」とは、「老いた者として、わたしは存しています」とは、老いた者として、年長の者として、老練の者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、生まれてから百二十年の者として。「力はなく」とは、力弱き者として、力少なき者として、強さ少なき者として。「色艶は離れ」とは、色艶が離れた者として、色艶が離れ去った者として、色艶が離れ行った者として。すなわち、〔まさに〕その、以前の美しき色艶の輝きは、それは消没し、〔生命の〕危険は明らかと成っている。ということで、「老いた者として、わたしは存しています──力はなく、色艶は離れ」。

 

 [999]「かくのごとく、尊者ピンギヤが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略([197]参照)……。「ピンギヤ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([197]参照)……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ピンギヤが〔言った〕」。

 

 [1000]「眼は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔そのような老齢の者として〕」とは、眼は、清らかならず、清浄ならず、完全なる清浄ならず、清白ならず。眼によって、諸々の形態を、そのとおりに、〔わたしは〕見ない。ということで、「眼は清浄ならず」。「耳は平穏ならず」とは、耳は、清らかならず、清浄ならず、完全なる清浄ならず、清白ならず。耳によって、諸々の音声を、そのとおりに、〔わたしは〕聞かない。ということで、「眼は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔そのような老齢の者として〕」。

 

 [1001]「わたしが、まさしく、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはなりません」とは、「わたしが」「消え行くことがあってはなりません」とは、わたしが、消え行くことがあってはならない、わたしが、消えて無くなることがあってはならない、わたしが、消え去ることがあってはならない。「迷愚の者として」とは、迷愚の者として、無明を具した者として、知恵なき者として、分明なき者として、智慧浅き者として。「中途半端なまま」とは、あなたの、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、了知せずして、到達せずして、見出さずして、獲得せずして、体得せずして、実証せずして、まさしく、中途半端なまま、〔わたしは〕命を終えるであろう。ということで、「わたしが、まさしく、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはなりません」。

 

 [1002]「〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」とは、「法(教え)を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」とは、わたしが、知るべきところの、了知するべきところの、識知するべきところの、解知するべきところの、理解するべきところの、到達するべきところの、体得するべきところの、実証するべきところの、それを。ということで、「法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」。

 

 [1003]「この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」とは、まさしく、この〔世における〕、生と老の、死の、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [1004]かくのごとく、尊者ピンギヤが〔言った〕──「老いた者として、わたしは存しています──力はなく、色艶は離れ、眼は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔そのような老齢の者として〕。わたしが、まさしく、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはなりません。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」と。

 

90.

 

 [1005]1127.(1121) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ、〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態について悩み苦しみます。〔彼らが〕諸々の形態について打ちのめされているのを見て、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、形態を捨棄するのです。(2)

 

 [1006]「〔彼らが〕諸々の形態について打ちのめされているのを見て」とは、「形態」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。有情たちは、形態を因として、形態を縁とすることから、形態を契機とすることから、打たれ、打ちのめされ、打ち砕かれ、害される。形態が存しているとき、〔人々は〕様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切る。このように、有情たちは、形態を因として、形態を縁とすることから、形態を契機とすることから、打たれ、打ちのめされ、打ち砕かれ、害される。このように、打たれている者たちを、打ちのめされている者たちを、打ち砕かれている者たちを、害されている者たちを、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「〔彼らが〕諸々の形態について打ちのめされているのを見て」。

 

 [1007]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ」とは、「ピンギヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ」。

 

 [1008]「〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態について悩み苦しみます」とは、「悩み苦しみます」とは、悩み苦しみ、怒り狂い、責め苛み、対立し、悩みある者たちと〔成り〕、失意の者たちと成る。眼の病によって、悩み苦しみ、怒り狂い、責め苛み、対立し、悩みある者たちと〔成り〕、失意の者たちと成り、耳の病によって……略……鼻の病によって……略([208]参照)……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって、悩み苦しみ、怒り狂い、責め苛み、対立し、悩みある者たちと〔成り〕、失意の者たちと成る。ということで、「諸々の形態について悩み苦しみます」。

 

 [1009]さらに、あるいは、眼が、退失しつつあるとき、衰退しつつあるとき、遍く衰退しつつあるとき、衰失しつつあるとき、離去しつつあるとき、消没しつつあるとき、悩み苦しみ、怒り狂い、責め苛み、対立し、悩みある者たちと〔成り〕、失意の者たちと成り、耳が……略……鼻が……舌が……身が……意が……諸々の形態が……諸々の音声が……諸々の臭気が……諸々の味感が……諸々の感触が……家が……衆徒が……居住が……利得が……盛名が……賞賛が……安楽が……衣料が……〔行乞の〕施食が……臥坐具が……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が、退失しつつあるとき、衰退しつつあるとき、遍く衰退しつつあるとき、衰失しつつあるとき、離去しつつあるとき、消没しつつあるとき、悩み苦しみ、怒り狂い、責め苛み、対立し、悩みある者たちと〔成り〕、失意の者たちと成る。ということで、このようにもまた、「諸々の形態について悩み苦しみます」。

 

 [1010]「人たちは」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちは。「〔気づきを〕怠る」とは、怠り(放逸)は、あるいは、身体による悪しき行ないについて、あるいは、言葉による悪しき行ないについて、あるいは、意による悪しき行ないについて(※)、あるいは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)について、説かれるべきものであり、心の、放縦、放縦により〔善を〕生起させないこと、あるいは、諸々の善なる法(性質)のための修行において、真剣に為さないこと、常に為さないこと、停滞なく為さないこと、畏縮した生活あること、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置いたこと、重荷(責任)を捨て置いたこと、習修しないこと、修行しないこと、多き行為なきこと、〔心の〕確立なきこと、専念〔努力〕なきこと、怠りである。すなわち、このような形態の、怠り、怠ること、怠りあることである。これが、怠りと説かれる。この怠りを具備した人々は、〔気づきを〕怠る者たちである。ということで、「〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態について悩み苦しみます」。

 

※ テキストには kāyaduccaritena vā vacīduccaritena vā manoduccaritena vā とあるが、平行箇所[206]により kāyaduccarite vā vacīduccarite vā manoduccarite vā と読む(PTS版は記載なし)。

 

 [1011]「ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。このように、諸々の形態について、危険を正しく見ている者として。ということで、「ピンギヤよ、それゆえに、あなたは」。「〔気づきを〕怠らない者となり」とは、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者となり、常に為す者となり、停滞なく為す者となり、畏縮なき生活者となり、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)となり、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)となり、〔気づきを〕怠らない者となり。ということで、「ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり」。

 

 [1012]「さらなる生存なきために、形態を捨棄するのです」とは、「形態」とは、そして、四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態である。「形態を捨棄するのです」とは、形態を捨棄しなさい、形態を捨棄し去りなさい、形態を除去しなさい、形態を終息を為しなさい、形態を状態なきへと至らせなさい。「さらなる生存なきために」とは、すなわち、あなたの形態が、まさしく、この〔世において〕、止滅するように。さらなる結生あるものとして、生存が、〔もはや〕発現しないように──あるいは、欲望の界域(欲界)において、あるいは、形態の界域(色界)において、あるいは、形態なき界域(無色界)において、あるいは、欲望の生存(欲有)において、あるいは、形態の生存(色有)において、あるいは、形態なき生存(無色有)において、あるいは、表象の生存(想有)において、あるいは、表象なき生存(無想有)において、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)において、あるいは、一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)において、あるいは、四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)において、あるいは、五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)において、あるいは、さらなる境遇において、あるいは、再生において、あるいは、結生において、あるいは、生存において、あるいは、輪廻において、あるいは、転起において、生じないように、産出しないように、発現しないように、結実しないように──まさしく、この〔世において〕、止滅するように、寂止するように、滅至するように、安息するように。ということで、「さらなる生存なきために、形態を捨棄するのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [1013]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ピンギヤよ、〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態について悩み苦しみます。〔彼らが〕諸々の形態について打ちのめされているのを見て、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、形態を捨棄するのです」と。

 

91.

 

 [1014]1128.(1122) 〔尊者ピンギヤが言った〕──四方(東西南北)に、四維(北西・南西・南東・北東の四隅)に、上に、下に、これらの十方に──あなたにとっては、見られたことなきものも、聞かれたことなきものも、思われたことなきものも、さらに、識られたことなきものも、世において、何であれ、存在し(※)ないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を。(3)

 

※ テキストには kiñci namatthi とあるが、PTS版により kiñcin' atthi と読む(VRI版スッタニパータ本文は kiñcanamatthi)。以下の平行箇所も同様。

 

 [1015]「四方(東西南北)に、四維(北西・南西・南東・北東の四隅)に、上に、下に、これらの十方に」とは、方々に。

 

 [1016]「あなたにとっては、見られたことなきものも、聞かれたことなきものも、思われたことなきものも、さらに、識られたことなきものも、世において、何であれ、存在しないのです」とは、あなたにとって、見られたことなきものは、聞かれたことなきものは、思われたことなきものは、識られたことなきものは、何であれ──あるいは、自己の義(利益)が、あるいは、他者の義(利益)が、あるいは、両者の義(利益)が、あるいは、所見の法(現世)の義(利益)が、あるいは、未来の義(利益)が、あるいは、明瞭なる義(利益)が、あるいは、深遠なる義(利益)が、あるいは、秘密にされた義(利益)が、あるいは、隠蔽された義(利益)が、あるいは、導かれるべき義(利益)が、あるいは、導かれた義(利益)が、あるいは、罪過なきものの義(利益)が、あるいは、〔心の〕汚れなきものの義(利益)が、あるいは、浄化の義(利益)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(利益)が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されないものは──ない。ということで、「あなたにとっては、見られたことなきものも、聞かれたことなきものも、思われたことなきものも、さらに、識られたことなきものも、世において、何であれ、存在しないのです」。

 

 [1017]「〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」とは、「法(教え)を」とは、最初が善なるものとして……略([677]参照)……そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」とは、わたしが、知るべきところの、了知するべきところの、識知するべきところの、解知するべきところの、理解するべきところの、到達するべきところの、体得するべきところの、実証するべきところの、それを。ということで、「法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その」。

 

 [1018]「この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」とは、まさしく、この〔世における〕、生と老の、死の、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [1019]〔尊者ピンギヤが言った〕──「四方(東西南北)に、四維(北西・南西・南東・北東の四隅)に、上に、下に、これらの十方に──あなたにとっては、見られたことなきものも、聞かれたことなきものも、思われたことなきものも、さらに、識られたことなきものも、世において、何であれ、存在しないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならない、〔まさに〕その、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」と。

 

92.

 

 [1020]1129.(1123) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ、渇愛〔の思い〕に囚われた人間たちを、熱苦が生じ老に打ち負かされた者たちを、〔常に〕見ながら、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、渇愛を捨棄するのです。(4)

 

 [1021]「渇愛〔の思い〕に囚われた人間たちを、熱苦が生じ老に打ち負かされた者たちを、〔常に〕見ながら」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「渇愛〔の思い〕に囚われた」とは、渇愛〔の思い〕に囚われた者たちを、渇愛〔の思い〕に従い行く者たちを、渇愛〔の思い〕に従い行った者たちを、渇愛〔の思い〕に添着した者たちを、渇愛〔の思い〕によって、陥った者たちを、実践する者たちを、征服された者たちを、心が完全に奪い去られた者たちを。「人間たち」とは、有情の同義語である。「〔常に〕見ながら」とは、見ている者として、視認している者として、注目している者として、凝視している者として、近しく注視している者として。ということで、「渇愛〔の思い〕に囚われた人間たちを、〔常に〕見ながら」。「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ」とは、「ピンギヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──ピンギヤよ」。

 

 [1022]「熱苦が生じ老に打ち負かされた者たちを」とは、「熱苦が生じ」とは、生によって熱苦が生じた者たちを、老によって熱苦が生じた者たちを、病によって熱苦が生じた者たちを、死によって熱苦が生じた者たちを、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤によって熱苦が生じた者たちを、地獄の苦しみによって熱苦が生じた者たちを……略([208]参照)……見解の災厄の苦しみによって、熱苦が生じた者たちを、疾患が生じた者たちを、禍が生じた者たちを、災禍が生じた者たちを。ということで、「熱苦が生じ」。「老に打ち負かされた者たちを」とは、老によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者たちを。生とともに従い行き、老によって添着され、病によって征服され、死によって悩み苦しめられ、救護所なく、避難所なく、帰依所なく、帰依所なく有る者たちを。ということで、「熱苦が生じ老に打ち負かされた者たちを」。

 

 [1023]「ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。このように、諸々の形態について、危険を正しく見ている者として。ということで、「ピンギヤよ、それゆえに、あなたは」。「〔気づきを〕怠らない者となり」とは、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者となり、常に為す者となり、停滞なく為す者となり、畏縮なき生活者となり、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)となり、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)となり、〔気づきを〕怠らない者となり。ということで、「ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり」。

 

 [1024]「さらなる生存なきために、渇愛を捨棄するのです」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「渇愛を捨棄するのです」とは、渇愛を捨棄しなさい、渇愛を捨棄し去りなさい、渇愛を除去しなさい、渇愛を終息を為しなさい、渇愛を状態なきへと至らせなさい。「さらなる生存なきために」とは、すなわち、あなたの渇愛が、まさしく、この〔世において〕、止滅するように。さらなる結生あるものとして、生存が、〔もはや〕発現しないように──あるいは、欲望の界域(欲界)において、あるいは、形態の界域(色界)において、あるいは、形態なき界域(無色界)において、あるいは、欲望の生存(欲有)において、あるいは、形態の生存(色有)において、あるいは、形態なき生存(無色有)において、あるいは、表象の生存(想有)において、あるいは、表象なき生存(無想有)において、あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)において、あるいは、一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)において、あるいは、四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)において、あるいは、五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)において、あるいは、さらなる境遇において、あるいは、再生において、あるいは、結生において、あるいは、生存において、あるいは、輪廻において、あるいは、転起において、生じないように、産出しないように、発現しないように、結実しないように──まさしく、この〔世において〕、止滅するように、寂止するように、滅至するように、安息するように。ということで、「さらなる生存なきために、渇愛を捨棄するのです」。それによって、世尊は言った。

 

 [1025]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「ピンギヤよ、渇愛〔の思い〕に囚われた人間たちを、熱苦が生じ老に打ち負かされた者たちを、〔常に〕見ながら、ピンギヤよ、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者となり、さらなる生存なきために、渇愛を捨棄するのです」と。

 

 [1026]詩偈の終了と共に、すなわち、婆羅門と共に、欲〔の思い〕を一つにし、専念〔努力〕を一つにし、志向を一つにし、残香の香りを一つにする、それらの者たちであるが、それらの幾千の命あるものたちに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起した。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そして、その婆羅門に、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起した。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。法(真理)の眼の獲得と共に、そして、皮衣と結髪と樹皮の衣と棒と曼陀羅と諸々の髪は〔消没し〕、さらに、諸々の髭も消没し、剃髪となり袈裟衣をまとい、大衣と鉢と衣料を保持し、義(意味)のままなる〔実践の〕道によって合掌し、世尊を礼拝しながら〔その場に〕坐った者と成る。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

 

 [1027]ピンギヤ学徒の問いについての釈示が、第十六となる。

 

2. 2. 彼岸に至るものへの諸々の賛嘆の詩偈についての釈示

 

93.

 

 [1028]世尊は、この〔言葉〕を言いました。マガダ〔国〕に住んでいる〔世尊〕は、パーサーナカ塔廟において、〔バーヴァリ婆羅門の〕侍者である十六者の婆羅門たちに、〔問答を〕要請された者として、〔問いを〕尋ねられては尋ねられた者として、問いを説き明かしました。

 

 [1029]「世尊は、この〔言葉〕を言いました」とは、世尊は、この「彼岸に至るもの」を言った。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([205]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「世尊は、この〔言葉〕を言いました」。「マガダ〔国〕に住んでいる〔世尊〕は」とは、マガダという名の地方において、住んでいる〔世尊〕は、振る舞っている〔世尊〕は、行持している〔世尊〕は、〔行ないを〕守っている〔世尊〕は、〔身を〕保っている〔世尊〕は、〔身を〕保ち行っている〔世尊〕は。「パーサーナカ塔廟において」とは、パーサーナカ塔廟は、覚者の坐所と説かれる。ということで、「マガダ〔国〕に住んでいる〔世尊〕は、パーサーナカ塔廟において」。「〔バーヴァリ婆羅門の〕侍者である十六者の婆羅門たちに」とは、ピンギヤ婆羅門は、バーヴァリ婆羅門の、従者であり、従僕であり、侍者であり、徒弟である。ピンギヤとともに、それらの十六者〔の婆羅門たち〕がいる。ということで、このようにもまた、「〔バーヴァリ婆羅門の〕侍者である十六者の婆羅門たちに」。さらに、あるいは、それらの十六者の婆羅門たちは、覚者たる世尊の、従者たちであり、従僕たちであり、侍者たちであり、徒弟たちである。ということで、このようにもまた、「〔バーヴァリ婆羅門の〕侍者である十六者の婆羅門たちに」。

 

 [1030]「〔問答を〕要請された者として、〔問いを〕尋ねられては尋ねられた者として、問いを説き明かしました」とは、「〔問答を〕要請された者として」とは、〔問答を〕要求された者として、〔問答を〕要請された者として。「〔問いを〕尋ねられては尋ねられた者として」とは、〔問いを〕尋ねられては尋ねられた者として、〔問いを〕問われては問われた者として、〔問答を〕乞い求められては乞い求められた者として、〔問答を〕要請されては要請された者として、〔対話者に〕清信されては清信された者として。「問いを説き明かしました」とは、問いを、〔世尊は〕説き明かした、〔世尊は〕告げ知らせた、〔世尊は〕説示した、〔世尊は〕報知した、〔世尊は〕確立した、〔世尊は〕開顕した、〔世尊は〕区分した、〔世尊は〕明瞭と為した、〔世尊は〕明示した。ということで、「〔問答を〕要請された者として、〔問いを〕尋ねられては尋ねられた者として、問いを説き明かしました」。それによって、このことが説かれる。

 

 [1031]「世尊は、この〔言葉〕を言いました。マガダ〔国〕に住んでいる〔世尊〕は、パーサーナカ塔廟において、〔バーヴァリ婆羅門の〕侍者である十六者の婆羅門たちに、〔問答を〕要請された者として、〔問いを〕尋ねられては尋ねられた者として、問いを説き明かしました」と。

 

94.

 

 [1032]もし、また、一つ一つの問いの、義(意味)を了知して、法(性質)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践するなら、老と死の彼岸に、まさしく、至るでしょう。彼岸に至るべきものとして、これらの法(教え)はある、ということで、それゆえに、この法(教え)の教相には、まさしく、「彼岸に至るもの」という同義語があります。

 

 [1033]「もし、また、一つ一つの問いの」とは、もし、また、一つ一つのアジタの問いの、もし、また、一つ一つのティッサ・メッテイヤの問いの、もし、また、一つ一つのプンナカの問いの、もし、また、一つ一つのメッタグーの問いの、もし、また、一つ一つのドータカの問いの、もし、また、一つ一つのウパシーヴァの問いの、もし、また、一つ一つのナンダの問いの、もし、また、一つ一つのヘーマカの問いの、もし、また、一つ一つのトーデイヤの問いの、もし、また、一つ一つのカッパの問いの、もし、また、一つ一つのジャトゥカンニの問いの、もし、また、一つ一つのバドラーヴダの問いの、もし、また、一つ一つのウダヤの問いの、もし、また、一つ一つのポーサーラ婆羅門の問いの、もし、また、一つ一つのモーガラージャンの問いの、もし、また、一つ一つのピンギヤの問いの。ということで、「もし、また、一つ一つの問いの」。

 

 [1034]「義(意味)を了知して、法(性質)を了知して」とは、まさしく、その、問いとしての法(性質)があり、答えとしての義(意味)があり、かくのごとく、義(意味)を、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「義(意味)を了知して」。「法(性質)を了知して」とは、法(性質)を、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「法(性質)を了知して」。ということで、「義(意味)を了知して、法(性質)を了知して」。「法(教え)を法(教え)のままに実践するなら」とは、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、実践するなら。ということで、「法(教え)を法(教え)のままに実践するなら」。「老と死の彼岸に、まさしく、至るでしょう」とは、老と死の彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「老と死の彼岸に、まさしく、至るでしょう」とは、老と死の、彼岸に至るであろう、彼岸に到達するであろう、彼岸を体得するであろう、彼岸を実証するであろう。ということで、「老と死の彼岸に、まさしく、至るでしょう」。「彼岸に至るべきものとして、これらの法(教え)はある」とは、これらの法(教え)は、彼岸に至るべきものであり、彼岸に至り得させ、彼岸に得達させ、彼岸に随達させ、老と死を超え渡るために等しく転起する。ということで、「彼岸に至るべきものとして、これらの法(教え)はある、ということで」。

 

 [1035]「それゆえに、この法(教え)の教相には」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。ということで、「それゆえに」。「この法(教え)の教相には」とは、この「彼岸に至るもの」には。ということで、「それゆえに、この法(教え)の教相には」。「まさしく、『彼岸に至るもの』という同義語があります」とは、彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。至るものは、〔聖なる八つの支分ある〕道と説かれる。それは、すなわち、この、正しい見解……略……正しい禅定である。「同義語」とは、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。ということで、「まさしく、『彼岸に至るもの』という同義語があります」。それによって、このことが説かれる。

 

 [1036]「もし、また、一つ一つの問いの、義(意味)を了知して、法(性質)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践するなら、老と死の彼岸に、まさしく、至るでしょう。彼岸に至るべきものとして、これらの法(教え)はある、ということで、それゆえに、この法(教え)の教相には、まさしく、『彼岸に至るもの』という同義語があります」と。

 

95.

 

 [1037]1130.(1124) アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、さらに、メッタグーは──ドータカ、そして、ウパシーヴァ、そして、ナンダ、さらに、ヘーマカは──(1)

 

96.

 

 [1038]1131.(1125) トーデイヤとカッパの両者、そして、賢者たるジャトゥカンニは──バドラーヴダ、そして、ウダヤ、そして、また、ポーサーラ婆羅門、そして、思慮あるモーガラージャン、そして、大いなる聖賢のピンギヤは──(2)

 

97.

 

 [1039]1132.(1126) これらの者たちは、覚者のもとへと近しく赴いた──行ないを成就した聖賢のもとへと。諸々の精緻なる問いを尋ねつつ、最勝の覚者のもとへと、〔彼らは〕近しく赴いた。(3)

 

 [1040]「これらの者たちは、覚者のもとへと近しく赴いた」とは、「これらの者たちは」とは、十六者の彼岸に至るべき婆羅門たちは。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は、〔他に依らず〕自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「覚者」とは、どのような義(意味)によって、覚者となるのか。諸々の真理を覚った者、ということで、「覚者」。人々を覚らせる者、ということで、「覚者」。一切知者たることによって、「覚者」。一切見者たることによって、「覚者」。他者に導かれないことによって、「覚者」。〔世俗を〕発出することによって、「覚者」。煩悩の滅尽者と名づけられたことによって、「覚者」。汚れなき者と名づけられたことによって、「覚者」。絶対的に貪欲を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に憤怒を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に迷妄を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に〔心の〕汚れなき者、ということで、「覚者」。一路の道に至った者、ということで、「覚者」。独りで、無上なる正等覚を現正覚した者、ということで、「覚者」。覚慧の打破されざることから、覚慧の獲得あることから、ということで、「覚者」。「覚者」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる概念(施設)であり、すなわち、この、覚者である。「これらの者たちは、覚者のもとへと近しく赴いた」とは、これらの者たちは、覚者のもとへと、近しく赴いた、近づいて行った、奉侍した、遍く問い尋ねた、遍く質問した。ということで、「これらの者たちは、覚者のもとへと近しく赴いた」。

 

 [1041]「行ないを成就した聖賢のもとへと」とは、行ないは、戒の習行の発現と説かれる。戒による統御もまた、行ないである。〔感官の〕機能における統御もまた、行ないである。食について量を知ることもまた、行ないである。〔眠らずに〕起きていることへの専念もまた、行ないである。七つの正なる法(信・慚・愧・多聞・精進・気づき・智慧)もまた、行ないである。四つの瞑想もまた、行ないである。「行ないを成就した」とは、行ないを成就した方のもとへと、最勝の行ないある方のもとへと、殊勝の行ないある方のもとへと、筆頭の行ないある方のもとへと、最上の行ないある方のもとへと、最も優れたの行ないある方のもとへと。「聖賢」とは、聖賢たる世尊は、大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「聖賢」。……略([429]参照)……。あるいは、大いなる権能ある有情たちによって、「覚者は、どこにいるのか」「世尊は、どこにいるのか」「天の天たる方は、どこにいるのか」「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「聖賢」。ということで、「行ないを成就した聖賢のもとへと」。

 

 [1042]「諸々の精緻なる問いを尋ねつつ」とは、「尋ねつつ」とは、尋ねつつ、乞い求めつつ、要請しつつ、清信しつつ。「諸々の精緻なる問いを」とは、深遠にして見難く随覚し難く正しくあり精妙で、思考と想念のものではなく精緻で、賢者によって知られるべき、諸々の問いを。ということで、「諸々の精緻なる問いを尋ねつつ」。

 

 [1043]「最勝の覚者のもとへと、〔彼らは〕近しく赴いた」とは、「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。「最勝の」とは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れた方である、覚者のもとへと、〔彼らは〕近しく赴いた、〔彼らは〕近づいて行った、〔彼らは〕奉侍した、〔彼らは〕遍く問い尋ねた、〔彼らは〕遍く質問した。ということで、「最勝の覚者のもとへと、〔彼らは〕近しく赴いた」。それによって、このことが説かれる。

 

 [1044]「これらの者たちは、覚者のもとへと近しく赴いた──行ないを成就した聖賢のもとへと。諸々の精緻なる問いを尋ねつつ、最勝の覚者のもとへと、〔彼らは〕近しく赴いた」と。

 

98.

 

 [1045]1133.(1127) 覚者は、彼らに説き明かした──問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。諸々の問いを〔正しく〕説き明かすことで、牟尼は、婆羅門たちを満足させた。(4)

 

 [1046]「覚者は、彼らに説き明かした」とは、「彼らに」とは、十六者の彼岸に至るべき婆羅門たちに。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。「説き明かした」とは、覚者は、彼らに、説き明かした、告げ知らせた、説示した、報知した、確立した、開顕した、区分した、明瞭と為した、明示した。ということで、「覚者は、彼らに説き明かした」。

 

 [1047]「問いを尋ねられた者として、真実のとおりに」とは、「問いを尋ねられた者として」とは、問いを、尋ねられた者として、問われた者として、乞い求められた者として、要請された者として、清信された者として。「真実のとおりに」とは、すなわち、告げ知らされるべきとおり、そのとおりに告げ知らせた。すなわち、説示されるべきとおり、そのとおりに説示した。すなわち、報知されるべきとおり、そのとおりに報知した。すなわち、確立されるべきとおり、そのとおりに確立した。すなわち、開顕されるべきとおり、そのとおりに開顕した。すなわち、区分されるべきとおり、そのとおりに区分した。すなわち、明瞭と為されるべきとおり、そのとおりに明瞭と為した。すなわち、明示されるべきとおり、そのとおりに明示した。ということで、「問いを尋ねられた者として、真実のとおりに」。

 

 [1048]「諸々の問いを〔正しく〕説き明かすことで」とは、諸々の問いに、〔正しく〕説き明かすことで、告げ知らせることで、説示することで、報知することで、確立することで、開顕することで、区分することで、明瞭と為すことで、明示することで。ということで、「諸々の問いを〔正しく〕説き明かすことで」。

 

 [1049]「牟尼は、婆羅門たちを満足させた」とは、「満足させた」とは、満足させた、満悦させた、清信させた、喜ばせた、わが意を得た者たちと為した。「婆羅門たちを」とは、十六者の彼岸に至るべき婆羅門たちを。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。ということで、「牟尼は、婆羅門たちを満足させた」。それによって、このことが説かれる。

 

 [1050]「覚者は、彼らに説き明かした──問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。諸々の問いを〔正しく〕説き明かすことで、牟尼は、婆羅門たちを満足させた」と。

 

99.

 

 [1051]1134.(1128) 覚者によって、太陽の眷属によって、眼ある方によって、満足させられた彼らは、優れた智慧ある方の現前において、梵行(禁欲清浄行)を歩んだ。(5)

 

 [1052]「眼ある方によって、満足させられた彼らは」とは、「彼らは」とは、十六者の彼岸に至るべき婆羅門たちは。「満足させられた」とは、満足させられた、満悦させられた、清信させられた、喜ばされた、わが意を得た者たちと為された。ということで、「満足させられた彼らは」。「眼ある方によって」とは、世尊は、五つの眼によって、眼ある方である。(1)肉眼によってもまた、眼ある方である。(2)天眼によってもまた、眼ある方である。(3)智慧の眼によってもまた、眼ある方である。(4)覚者の眼によってもまた、眼ある方である。(5)一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。どのように、世尊は、肉眼によってもまた、眼ある方であるのか。……略([932-945]参照)……。このように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。ということで、「眼ある方によって、満足させられた彼らは」。

 

 [1053]「覚者によって、太陽の眷属によって」とは、「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。「太陽の眷属によって」とは、太陽(アーディッチャ)は、日(スーリヤ・太陽神)と説かれる。それ(日)は、姓としては、ゴータマとなる。世尊もまた、姓としては、ゴータマとなる。世尊は、日にとって、姓の親族となり、姓の眷属となる。それゆえに、覚者は、太陽の眷属である。ということで、「覚者によって、太陽の眷属によって」。

 

 [1054]「梵行(禁欲清浄行)を歩んだ」とは、梵行は、正ならざる法(性質)への入定(淫事)から、離れること、離去、離間、離断、無作、為さないこと、不犯、限度に違犯なきこと、橋の殲滅、と説かれる。さらに、また、教相なき〔観点〕(理論的説明)によるなら、梵行は、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)と説かれる。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)である。「梵行を歩んだ」とは、梵行を、歩んだ、行なった、受持して行持した。ということで、「梵行を歩んだ」。

 

 [1055]「優れた智慧ある方の現前において」とは、優れた智慧ある方の、至高の智慧ある方の、最勝の智慧ある方の、殊勝の智慧ある方の、筆頭の智慧ある方の、最上の智慧ある方の、最も優れた智慧ある方の。「現前において」とは、現前において、近隣において、近くにおいて、遠からざるところにおいて、付近において。ということで、「優れた智慧ある方の現前において」。それによって、このことが説かれる。

 

 [1056]「覚者によって、太陽の眷属によって、眼ある方によって、満足させられた彼らは、優れた智慧ある方の現前において、梵行(禁欲清浄行)を歩んだ」と。

 

100.

 

 [1057]1135.(1129) すなわち、一つ一つの問いに覚者が説示したとおり、そのとおりに、彼が実践するなら、〔彼は〕此岸から彼岸に至るであろう。(6)

 

 [1058]「一つ一つの問いに」とは、一つ一つのアジタの問いに、一つ一つのティッサ・メッテイヤの問いに……略([1033]参照)……一つ一つのピンギヤの問いに。ということで、「一つ一つの問いに」。

 

 [1059]「すなわち」「覚者が説示したとおり」とは、「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。「すなわち」「覚者が説示したとおり」とは、すなわち、覚者によって、告げ知らされ、説示され、報知され、確立され、開顕され、区分され、明瞭と為され、明示されたとおり。ということで、「すなわち」「覚者が説示したとおり」。

 

 [1060]「そのとおりに、彼が実践するなら」とは、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、実践するなら。ということで、「そのとおりに、彼が実践するなら」。

 

 [1061]「〔彼は〕此岸から彼岸に至るであろう」とは、彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。……略([429]参照)……止滅、涅槃である。此岸は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)、かつまた、諸々の範疇()、かつまた、諸々の行作(現行)、と説かれる。「〔彼は〕此岸から彼岸に至るであろう」とは、此岸から、彼岸に至るであろう、彼岸に到達するであろう、彼岸を体得するであろう、彼岸を実証するであろう。ということで、「〔彼は〕此岸から彼岸に至るであろう」。それによって、このことが説かれる。

 

 [1062]「すなわち、一つ一つの問いに覚者が説示したとおり、そのとおりに、彼が実践するなら、〔彼は〕此岸から彼岸に至るであろう」と。

 

101.

 

 [1063]1136.(1130) 最上の道を修めている者は、此岸から彼岸に至るであろう。それは、彼岸に至るための道であり、それゆえに、「彼岸に至るもの」と〔呼ばれる〕。(7)

 

 [1064]「此岸から彼岸に至るであろう」とは、此岸は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。……略([429]参照)……止滅、涅槃である。「此岸から彼岸に至るであろう」とは、此岸から、彼岸に至るであろう、彼岸に到達するであろう、彼岸を体得するであろう、彼岸を実証するであろう。ということで、「此岸から彼岸に至るであろう」。

 

 [1065]「最上の道を修めている者は」とは、最上の道は、聖なる八つの支分ある道と説かれる。それは、すなわち、この、正しい見解……略([274]参照)……正しい禅定である。「最上の道を」とは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものである、〔聖なる八つの支分ある〕道を。「修めている者は」とは、修めている者は、習修している者は、多く為している者は。ということで、「最上の道を修めている者は」。

 

 [1066]「それは、彼岸に至るための道であり」とは──

 

 [1067]〔そこで、詩偈に言う〕「道(マッガ)は、道(パンタ)であり、道(パタ)であり、道(パッジャ)である。曲がりなき道(ヴァットゥマ)たる道(アーヤナ)である。舟であり、そして、渡橋であり、さらに、浮橋であり、筏であり、橋である」と。

 

 [1068]「彼岸に至るための」とは、彼岸に至るための、彼岸に得達するための、彼岸に随達するための、老と死を超え渡るための。ということで、「それは、彼岸に至るための道であり」。

 

 [1069]「それゆえに、『彼岸に至るもの』と〔呼ばれる〕」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。……略([429]参照)……止滅、涅槃である。至るものは、〔聖なる八つの支分ある〕道と説かれる。「と」とは、句の連鎖……略([197]参照)……また、句の順序たること。これが、「と」ということになる。ということで、「それゆえに、『彼岸に至るもの』と〔呼ばれる〕」。それによって、このことが説かれる。

 

 [1070]「最上の道を修めている者は、此岸から彼岸に至るであろう。それは、彼岸に至るための道であり、それゆえに、『彼岸に至るもの』と〔呼ばれる〕」と。

 

 [1071]彼岸に至るものへの諸々の賛嘆の詩偈についての釈示が、第十七となる。

 

2. 3. 彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈についての釈示

 

102.

 

 [1072]1137.(1131) かくのごとく、尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕──〔わたしは〕「彼岸に至るもの」を復唱するでありましょう。〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は、すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました。無欲で、〔欲の〕林なく、龍たる方が、何を因として、虚偽を話すというのでしょう。(1)

 

 [1073]「〔わたしは〕『彼岸に至るもの』を復唱するでありましょう」とは、〔覚者によって〕誦説されたものを、〔わたしは〕そのまま誦説するであろう、〔覚者によって〕言説されたものを、〔わたしは〕そのまま言説するであろう、〔覚者によって〕発語されたものを、〔わたしは〕そのまま発語するであろう、〔覚者によって〕談じられたものを、〔わたしは〕そのまま談じるであろう、〔覚者によって〕語られたものを、〔わたしは〕そのまま語るであろう。ということで、「〔わたしは〕『彼岸に至るもの』を復唱するでありましょう」。「かくのごとく、尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ピンギヤ」とは、その長老の、名前としての、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。ということで、「かくのごとく、尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕」。

 

 [1074]「すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました」とは、すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに、〔世尊は〕告げ知らせた、〔世尊は〕説示した、〔世尊は〕報知した、〔世尊は〕確立した、〔世尊は〕開顕した、〔世尊は〕区分した、〔世尊は〕明瞭と為した、〔世尊は〕明示した。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに、〔世尊は〕告げ知らせた、〔世尊は〕説示した、〔世尊は〕報知した、〔世尊は〕確立した、〔世尊は〕開顕した、〔世尊は〕区分した、〔世尊は〕明瞭と為した、〔世尊は〕明示した。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに、〔世尊は〕告げ知らせた、〔世尊は〕説示した、〔世尊は〕報知した、〔世尊は〕確立した、〔世尊は〕開顕した、〔世尊は〕区分した、〔世尊は〕明瞭と為した、〔世尊は〕明示した。ということで、「すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました」。

 

 [1075]「〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は」とは、「〔世俗の〕垢を離れ」とは、貪欲は、垢である。憤怒は、垢である。迷妄は、垢である。忿激は……。怨恨は……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、垢である。覚者たる世尊の、それらの垢は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。垢なき覚者は、〔世俗の〕垢を離れる方であり、無垢なる方であり、垢を離去した方であり、垢を捨棄した方であり、垢を解脱した方であり、一切の垢を超克した方である。広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は」。

 

 [1076]「無欲で、〔欲の〕林なく、龍たる方が」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。覚者たる世尊の、諸々の事物の欲望は〔すでに〕遍知され、諸々の〔心の〕汚れの欲望は〔すでに〕捨棄され、諸々の事物の欲望が〔すでに〕遍知されたことから、諸々の〔心の〕汚れの欲望が〔すでに〕捨棄されたことから、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を欲さず、諸々の欲望〔の対象〕を欲求せず、諸々の欲望〔の対象〕を切望せず、諸々の欲望〔の対象〕を熱望せず、諸々の欲望〔の対象〕を渇望しない。彼らが、諸々の欲望〔の対象〕を欲し、諸々の欲望〔の対象〕を欲求し、諸々の欲望〔の対象〕を切望し、諸々の欲望〔の対象〕を熱望し、諸々の欲望〔の対象〕を渇望するなら、彼らは、欲望〔の対象〕に欲望ある者たちであり、貪欲〔の対象〕に貪欲ある者たちであり、表象〔の対象〕に表象ある者たちであるが、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕を欲さず、諸々の欲望〔の対象〕を欲求せず、諸々の欲望〔の対象〕を切望せず、諸々の欲望〔の対象〕を熱望せず、諸々の欲望〔の対象〕を渇望しない。それゆえに、覚者は、欲なき者として、無欲なる者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き去った者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「無欲で」。

 

 [1077]「〔欲の〕林なく」とは、貪欲は、〔欲の〕林である。憤怒は、〔欲の〕林である。迷妄は、〔欲の〕林である。忿激は……。怨恨は……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、〔欲の〕林である。覚者たる世尊の、それらの〔欲の〕林は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、〔欲の〕林なくあり、〔欲の〕林を離れる方であり、〔欲の〕林なき方であり、〔欲の〕林を離去した方であり、〔欲の〕林を捨棄した方であり、〔欲の〕林を解脱した方であり、一切の垢を超克した方である。ということで、「〔欲の〕林なく」。「龍たる方が」とは、龍(ナーガ)たる世尊は、(1)罪悪(アーグ)を為さない(ナ・カローティ)、ということで、「龍」。(2)赴かない(ナ・ガッチャティ)、ということで、「龍」。(3)帰り来ない(ナ・アーガッチャティ)、ということで、「龍」。……略([454-458]参照)……。このように、世尊は、帰り来ない、ということで、「龍」。ということで、「無欲で、〔欲の〕林なく、龍たる方が」。

 

 [1078]「何を因として、虚偽を話すというのでしょう」とは、「何を因として」とは、何が因となり、何を因として、何を契機とすることから、何を因縁とすることから、何を縁とすることから。ということで、「何を因として」。「虚偽を話すというのでしょう」とは、虚偽を、発語するというのだろう、言説するというのだろう、提示するというのだろう、語用するというのだろう。「虚偽を話すというのでしょう」とは、虚偽の言葉を話すというのだろう、虚偽の論を話すというのだろう、聖ならざる論を話すというのだろう。ここに、一部の者は、あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言う。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る。これが、虚偽の言葉と説かれる。

 

 [1079]さらに、また、三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。これらの三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。(4)〔自己の〕見解と異なって〔虚偽を話す〕。これらの四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、五つの行相によって……略……六つの行相によって……七つの行相によって……八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。(4)〔自己の〕見解と異なって〔虚偽を話す〕。(5)〔自己の〕受認(信受)と異なって〔虚偽を話す〕。(6)〔自己の〕嗜好(意欲)と異なって〔虚偽を話す〕。(7)〔自己の〕表象と異なって〔虚偽を話す〕。(8)〔自己の〕状態と異なって〔虚偽を話す〕。これらの八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。何を因として、虚偽を、発語するというのだろう、言説するというのだろう、提示するというのだろう、語用するというのだろう。ということで、「何を因として、虚偽を話すというのでしょう」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1080]かくのごとく、尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕──「〔わたしは〕『彼岸に至るもの』を復唱するでありましょう。〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は、すなわち、〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました。無欲で、〔欲の〕林なく、龍たる方が、何を因として、虚偽を話すというのでしょう」と。

 

103.

 

 [1081]1138.(1132) 〔世俗の〕垢と〔無明の〕迷妄を捨棄した方の、〔我想の〕思量()と〔虚栄の〕偽装()を捨棄する方の、栄誉を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう。(2)

 

 [1082]「〔世俗の〕垢と〔無明の〕迷妄を捨棄した方の」とは、「垢」とは、貪欲は、垢である。憤怒は、垢である。迷妄は、垢である。思量は、垢である。見解は、垢である。〔心の〕汚れは、垢である。一切の悪しき行ないは、垢である。一切の生存に至る行為は、垢である。

 

 [1083]「迷妄」とは、すなわち、苦しみについての無知……略([203]参照)……無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元である。これが、迷妄と説かれる。覚者たる世尊の、かつまた、垢も、かつまた、迷妄も、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、〔世俗の〕垢と〔無明の〕迷妄を捨棄した方である。ということで、「〔世俗の〕垢と〔無明の〕迷妄を捨棄した方の」。

 

 [1084]「〔我想の〕思量()と〔虚栄の〕偽装()を捨棄する方の」とは、「思量(自他を比較し価値づける心)」とは、一種類としての、思量がある。すなわち、心の傲慢である。二種類としての、思量がある。自己を賞揚する思量、他者を蔑視する思量である。三種類としての、思量がある。「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。四種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、安楽によって思量を生じさせる。五種類としての、思量がある。「〔わたしは〕諸々の意に適う形態の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせ、「〔わたしは〕諸々の意に適う音声の……略……「〔わたしは〕諸々の意に適う臭気の……「〔わたしは〕諸々の意に適う味感の……「〔わたしは〕諸々の意に適う感触の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせる。六種類としての、思量がある。眼の成就(具足)によって思量を生じさせ、耳の成就によって……鼻の成就によって……舌の成就によって……身の成就によって……意の成就によって思量を生じさせる。七種類としての、思量がある。思量、高慢、思量と高慢、卑下慢、増上慢、我慢(自我意識)、邪慢である。八種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、利得なきによって卑下慢を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、盛名なきによって卑下慢を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、非難によって卑下慢を生じさせ、安楽によって思量を生じさせ、苦痛によって卑下慢を生じさせる。九種類としての、思量がある。勝る者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。十種類としての、思量がある。ここに、一部の者は、思量を生じさせる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、思量と説かれる。

 

 [1085]「偽装」とは、すなわち、偽装、偽装すること、偽装あること、偽善、偽善の行為である。これが、偽装と説かれる。覚者たる世尊の、かつまた、思量も、かつまた、偽装も、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、〔我想の〕思量と〔虚栄の〕偽装を捨棄する方である。ということで、「〔我想の〕思量と〔虚栄の〕偽装を捨棄する方の」。

 

 [1086]「栄誉を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう」とは、「さあ、わたしは」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「さあ、わたしは」ということになる。「栄誉を伴った〔真実の〕言葉を」「述べ伝えるでありましょう」とは、栄誉を、具し、具完し、所有し、完備し、具有し、完有し、具備した、言葉を、発言を、言葉の用途を、発話を、〔わたしは〕述べ伝えるであろう、〔わたしは〕説示するであろう、〔わたしは〕報知するであろう、〔わたしは〕確立するであろう、〔わたしは〕開顕するであろう、〔わたしは〕区分するであろう、〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。ということで、「栄誉を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1087]「〔世俗の〕垢と〔無明の〕迷妄を捨棄した方の、〔我想の〕思量()と〔虚栄の〕偽装()を捨棄する方の、栄誉を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう」と。

 

104.

 

 [1088]1139.(1133) 〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は、世の終極に至り一切の〔迷いの〕生存を超克した方は、煩悩なく一切の苦を捨棄する方は、真理を呼び名とする方は、梵(婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです。(3)

 

 [1089]「〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は」とは、「〔世の〕闇を除去する」とは、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、〔世尊は〕除いた、〔世尊は〕除き去った、〔世尊は〕捨棄した、〔世尊は〕除去した、〔世尊は〕終息を為した、〔世尊は〕状態なきへと至らせた。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。……略([500-501]参照)……。それによって、如来は、一切に眼ある方となる」〔と〕。ということで、「〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は」。

 

 [1090]「世の終極に至り一切の〔迷いの〕生存を超克した方は」とは、「世」とは、一つの世がある。生存の世である。二つの世がある。そして、生存の世であり、さらに、発生の世である。そして、得達の生存の世であり、さらに、得達の発生の世である。そして、衰滅の生存の世であり、さらに、衰滅の発生の世である。三つの世がある。三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)である。四つの世がある。四つの食(四食:口にする食・知覚としての食・意志としての食・認識としての食)である。五つの世がある。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)である。六つの世がある。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)である。七つの世がある。七つの識知〔作用〕の止住(七識住:種々なる身体と種々なる表象ある有情・種々なる身体と一なる表象ある有情・一なる身体と種々なる表象ある有情・一なる身体と一なる表象ある有情・空無辺処に属する有情・識無辺処に属する有情・無所有処に属する有情)である。八つの世がある。八つの世の法(八世間法:利得・利得なき・盛名・盛名なき・安楽・苦痛・非難・賞賛)である。九つの世がある。九つの有情の居住所(九有情居:種々なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・種々なる身体と一なる表象ある有情の居住所・一なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・一なる身体と一なる表象ある有情の居住所・表象なく感受されたものなき有情の居住所・空無辺処に属する有情の居住所・識無辺処に属する有情の居住所・無所有処に属する有情の居住所・非想非非想処に属する有情の居住所)である。十の世がある。十の〔認識の〕場所(十処:眼処・色処・耳処・音処・鼻処・香処・舌処・味処・身処・所触処)である。十二の世がある。十二の〔認識の〕場所(十二処)である。十八の世がある。十八の界域(十八界)である。「世の終極に至り」とは、世尊は、世の、終極に至った方、終極に至り得た方、突端に至った方、突端に至り得た方……略([372]参照)……涅槃に至った方、涅槃に至り得た方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ方……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「世の終極に至り」。

 

 [1091]「一切の〔迷いの〕生存を超克した方は」とは、二つの生存がある。(1)そして、行為の生存(業有)であり、(2)さらに、結生あるものとしてのさらなる生存(再有)である。(1)どのようなものが、行為の生存であるのか。功徳ある行作(善果を形成する働き)、功徳なき行作(悪果を形成する働き)、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)である。これが、行為の生存である。(2)どのようなものが、結生あるものとしてのさらなる生存であるのか。結生あるものとしての、形態()、感受〔作用〕()、表象〔作用〕()、諸々の形成〔作用〕()、識知〔作用〕()である。これが、結生あるものとしてのさらなる生存である。世尊は、そして、行為の生存を、さらに、結生あるものとしてのさらなる生存を、超え去った方であり、超越した方であり、超克した方である。ということで、「世の終極に至り一切の〔迷いの〕生存を超克した方は」。

 

 [1092]「煩悩なく一切の苦を捨棄する方は」とは、「煩悩なく」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。覚者たる世尊の、それらの煩悩は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、煩悩なき方である。「一切の苦を捨棄する方」とは、彼の、一切の結生あるものとしての、生の苦しみ、老の苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみ……略([208]参照)……見解の災厄の苦しみは、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、一切の苦を捨棄する方である。ということで、「煩悩なく一切の苦を捨棄する方は」。

 

 [1093]「真理を呼び名とする方は、梵(婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです」とは、「真理を呼び名とする方」とは、真理を呼び名とする方、等しき名前ある方、等しき呼び名ある方、真理という等しき呼び名ある方。ヴィパッシン世尊、シキン世尊、ヴェッサブー世尊、カクサンダ世尊、コーナーガマナ世尊、カッサパ世尊は、彼らは、覚者たる世尊たちであり、等しき名前ある方たちであり、等しき呼び名ある方たちである。シャカムニ世尊もまた、それらの覚者たる世尊たちにとって、等しき名前ある方であり、等しき呼び名ある方である。ということで、「真理を呼び名とする方」。

 

 [1094]「梵(婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです」とは、彼は、世尊は、わたしによって、近坐された、近侍された、奉侍された、遍く問い尋ねられた、遍く質問された。ということで、「真理を呼び名とする方は、梵よ、わたしによって近侍されたのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1095]「〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は、世の終極に至り一切の〔迷いの〕生存を超克した方は、煩悩なく一切の苦を捨棄する方は、真理を呼び名とする方は、梵(婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです」と。

 

105.

 

 [1096]1140.(1134) たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように、このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです。(4)

 

 [1097]「たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように」とは、鳥(ディジャ:二生のもの)は、鳥(パッキン:翼あるもの)と説かれる。何を契機とすることから、鳥(ディジャ:二生のもの)は、鳥(パッキン:翼あるもの)と説かれるのか。そして、母の子宮から、さらに、卵の殻から、二回、生まれる、ということで、「鳥(ディジャ:二生のもの)」。それを契機とすることから、鳥(ディジャ:二生のもの)は、鳥(パッキン:翼あるもの)と説かれる。ということで、「鳥が」。「まばらな林を捨棄して」とは、たとえば、鳥が、まばらな林を、小さな林を、果の少ないところを、食の少ないところを、水の少ないところを、捨棄し去って、捨棄して、超越して、等しく超越して、超克して、他の、果の多いところに、食の多いところに、水の多いところに、大いなる森である密林に、到達し、見出し、獲得し、そして、その密林において、住居を営むであろうように。ということで、「たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように」。

 

 [1098]「このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「見少なき者たちを捨棄して」とは、そして、すなわち、バーヴァリ婆羅門は、さらに、すなわち、他の、彼の師匠たちは、覚者たる世尊と比較して、少なき見ある者たちであり、微小の見ある者たちであり、僅少の見ある者たちであり、下等の見ある者たちであり、悪辣の見ある者たちであり、劣小の見ある者たちであり、彼らを、少なき見ある者たちを、微小の見ある者たちを、僅少の見ある者たちを、下等の見ある者たちを、悪辣の見ある者たちを、劣小の見ある者たちを、捨棄し去って、捨棄して、超越して、等しく超越して、超克して、覚者たる世尊に、無量の見ある方に、至高の見ある方に、最勝の見ある方に、殊勝の見ある方に、筆頭の見ある方に、最上の見ある方に、最も優れた見ある方に、同等の者なき方に、〔過去と未来の〕同等の者なき者たちと同等なる方に、対等の者なき方に、相似の者なき方に、対する人なき方に、天にして天を超える方に、人の雄牛たる方に、人の獅子たる方に、人の龍象たる方に、人の良馬たる方(善き生まれの者)に、人の荷牛たる方(忍耐強き者)に、十の力を保持する方に、〔わたしは〕到達した、〔わたしは〕見出した、〔わたしは〕獲得した。そして、たとえば、白鳥が、大いなる、あるいは、人工池に、あるいは、アノータッタ池に、あるいは、大海に、不動にして無量の水があり水の集まるところに、到達し、見出し、獲得するであろうように、まさしく、このように、覚者たる世尊に、不動なる方に、無量の威光ある方に、細別された知恵ある方に、開かれた眼ある方に、智慧の細別に巧みな智ある方に、融通無礙に到達した方に、四つの離怖に至り得た方に、清浄を信念した方に、白の傘蓋ある方に(※)、不二の話し手たる方に、如なる方に、そのとおりに明言する方に、微小ならざる方に、偉大なる方に、深遠なる方に、無量なる方に、深解し難き方に、多大なる宝ある方に、海洋の如き方に、六つの支分ある放捨(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した方に、無比なる方に、広大なる方に、無量なる方に、彼に、如なる説き手として道を説く方に、諸山のなかのメール(須弥山)のような方に、鳥たちのなかのガルラ(金翅鳥)のような方に、獣たちのなかの獅子のような方に、諸海の中の大洋のような方に、彼に、〔世の〕教師にして最も優れた勝者たる偉大なる聖賢に、〔わたしは〕到達した。ということで、「このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

※ テキストには setapaccattaṃ とあるが、PTS版により seta-cchattaṃ と読む。

 

 [1099]「たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように、このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです」と。

 

106.

 

 [1100]1141.(1135) ゴータマの教えより以前に、「かくのごとく存していた」「かくのごとく成るであろう」〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです。(5)

 

 [1101]「過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが」とは、「それらの者たちが」とは、そして、すなわち、バーヴァリ婆羅門であり、さらに、すなわち、他の、彼の師匠たちであり、彼らは、自らの見解を、自らの受認(信受)を、自らの嗜好(意欲)を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、説き明かした、告げ知らせた、説示した、報知した、確立した、開顕した、区分した、明瞭と為した、明示した。ということで、「過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが」。

 

 [1102]「ゴータマの教えより以前に」とは、ゴータマの教えより以前に、ゴータマの教えより他に、ゴータマの教えより前に、ゴータマの教えより、覚者の教えより、勝者の教えより、如来の教えより、阿羅漢の教えより、より以前に。ということで、「ゴータマの教えより以前に」。

 

 [1103]「『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕」とは、「伝えるところとして、このように存していた」「伝えるところとして、このように成るであろう」〔と〕。ということで、「『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕」。

 

 [1104]「その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり」とは、その一切が、伝聞であり、伝説によって、相伝によって、典籍の成就(保持)によって、考慮を因として、推論を因として、行相の思索によって、見解の納得と受認(信受)によって、すなわち、自らをもって、自ら、証知したものではなく、自己の現見の法(真理)ではないものを、〔彼らは〕言説した(議論した)。ということで、「その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり」。

 

 [1105]「その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです」とは、その一切が、〔誤った〕考えを増大させるものであり、〔誤った〕思考を増大させるものであり、〔誤った〕思惟を増大させるものであり、欲望の思考を増大させるものであり、憎悪の思考を増大させるものであり、悩害の思考を増大させるものであり、親族の思考を増大させるものであり、地方の思考を増大させるものであり、不死の思考を増大させるものであり、他者への憐憫に関係した思考を増大させるものであり、利得と尊敬と名声に関係した思考を増大させるものであり、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考を増大させるものである。ということで、「その一切が、〔誤った〕考えを増大させるものです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1106]「ゴータマの教えより以前に、『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔誤った〕考え(邪説)を増大させるものです」と。

 

107.

 

 [1107]1142.(1136) 独り、〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として、彼はあります──光輝ある方であり、光の作り手たる方です。ゴータマは、広き智慧ある方です。ゴータマは、広き思慮ある方です。(6)

 

 [1108]「独り、〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として」とは、「独り」とは、世尊は、(1)出家と名づけられたことによって、独りであり、(2)伴侶なきの義(意味)によって、独りであり、(3)渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りであり、(4)絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に〔心の〕汚れなき方、ということで、独りであり、(5)一路の道に至った方、ということで、独りであり、(6)独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。

 

 [1109](1)どのように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りであるのか。世尊は、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、親族の群れを捨棄して、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りである。

 

 [1110](2)どのように、世尊は、伴侶なきの義(意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、世尊は、伴侶なきの義(意味)によって、独りである。

 

 [1111](3)どのように、世尊は、渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、独りで、伴侶なく、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みつつ、ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、大いなる精励をもって〔自己を〕精励しながら、軍団を有する悪魔を、黒き者たるナムチを、放逸の眷属を、砕破して〔そののち〕、渇愛の網を、〔渇愛の〕流れを、〔渇愛の〕執着を、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。

 

 [1112]〔そこで、詩偈に言う〕「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。

 

 [1113]この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。

 

 [1114]このように、世尊は、渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りである。

 

 [1115](4)どのように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであるのか。貪欲が捨棄されたことから、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、憤怒が捨棄されたことから、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、迷妄が捨棄されたことから、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、諸々の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、絶対的に〔心の〕汚れなき方、ということで、独りである。このように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りである。

 

 [1116](5)どのように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りであるのか。一路の道は、四つの気づきの確立(四念住・四念処:身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、と説かれる。

 

 [1117]〔そこで、詩偈に言う〕「生の滅尽と終極を見る〔覚者〕は、〔人々に〕利益と慈しみ〔の思い〕ある〔覚者〕は、一路の道を覚知する。この道によって、〔人々は〕過去において〔激流を〕超えたのであり、〔未来においても〕超えるであろうし、そして、すなわち、〔今現在も〕激流を超えるのだ」と。

 

 [1118]このように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りである。

 

 [1119](6)どのように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りであるのか。覚り(菩提)は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。世尊は、その覚りの知恵によって、「一切の形成〔作用〕は、無常である」と覚った。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と覚った。「一切の法(事象)は、無我である」と覚った。……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と覚った。さらに、あるいは、それが何であれ、覚られるべきものであるなら、随覚されるべきものであるなら、醒覚されるべきものであるなら、正覚されるべきものであるなら、到達されるべきものであるなら、体得されるべきものであるなら、実証されるべきものであるなら、その全てを、その覚りの知恵によって、覚った、随覚した、醒覚した、正覚した、到達した、体得した、実証した。このように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。

 

 [1120]「〔世の〕闇を除去する方として」とは、世尊は、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、除いた、除き去った、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。「端坐する方として」とは、パーサーナカ塔廟において坐っている世尊、ということで、端坐する方である。

 

 [1121]〔そこで、詩偈に言う〕「山腹に端坐する〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、弟子たちは奉侍する──三つの明知ある者たちにして、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちは」と。

 

 [1122]このようにもまた、世尊は、端坐する方である。さらに、あるいは、世尊は、一切の思い入れが安息したことから、端坐する方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ方……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。このようにもまた、世尊は、端坐する方である。ということで、「独り、〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として」。

 

 [1123]「彼はあります──光輝ある方であり、光の作り手たる方です」とは、「光輝ある方であり」とは、光輝ある方、思慧ある方、賢者たる方、智慧ある方、覚慧ある方、知恵ある方、分明する方、思慮ある方。「光の作り手たる方です」とは、光の作り手たる方、光明の作り手たる方、光輝の作り手たる方、灯りの作り手たる方、灯明の作り手たる方、輝きの作り手たる方、灯火の作り手たる方。ということで、「彼はあります──光輝ある方であり、光の作り手たる方です」。

 

 [1124]「ゴータマは、広き智慧ある方です」とは、ゴータマは、英知を標識とする方、知恵を標識とする方、智慧を旗とする方、智慧を幟とする方、智慧を優位とする方、判別多き方、精査多き方、見察多き方、正しい見察多き方、明確なる住者たる方、それを所行とする方、それが多くある方、それに尊重ある方、それに向かい行く方、それに傾倒する方、それに傾斜する方、それを信念した方、それを優位とする方である。

 

 [1125]〔そこで、詩偈に言う〕「旗は、車の標識である。煙は、火の標識である。王は、国土の標識である。夫は、婦女の標識である」と。

 

 [1126]まさしく、このように、ゴータマは、英知を標識とする方、知恵を標識とする方、智慧を旗とする方、智慧を幟とする方、智慧を優位とする方、判別多き方、精査多き方、見察多き方、正しい見察多き方、明確なる住者たる方、それを所行とする方、それが多くある方、それに尊重ある方、それに向かい行く方、それに傾倒する方、それに傾斜する方、それを信念した方、それを優位とする方である。ということで、「ゴータマは、広き思慮ある方です」。

 

 [1127]「ゴータマは、広き思慮ある方です」とは、広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「ゴータマは、広き思慮ある方です」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1128]「独り、〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として、彼はあります──光輝ある方であり、光の作り手たる方です。ゴータマは、広き智慧ある方です。ゴータマは、広き思慮ある方です」と。

 

108.

 

 [1129]1143.(1137) その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです。(7)

 

 [1130]「その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです」とは、「その方は」とは、すなわち、彼は、世尊は、〔他に依らず〕自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「法(真理)を説示してくださったのです」とは、「法(真理)を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、〔世尊は〕告げ知らせた、〔世尊は〕説示した、〔世尊は〕報知した、〔世尊は〕確立した、〔世尊は〕開顕した、〔世尊は〕区分した、〔世尊は〕明瞭と為した、〔世尊は〕明示した。ということで、「その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです」。

 

 [1131]「現に見られ時を要さない〔即座の法〕を」とは、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このように、「現に見られ」。さらに、あるいは、彼が、まさしく、所見の法(現法:現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、〔果に〕到達して、果を、見出し、獲得する。ということで、このようにもまた、「現に見られ」。「時を要さない〔即座の法〕を」とは、たとえば、人間たちが、時を要するものとして財を施して、直後に〔果を〕得ず、時を待つとして、この法(真理)は、まさしく、〔そのようなことが〕ない。彼が、まさしく、所見の法(現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、〔果に〕到達して、果を、見出し、獲得する──他所ではなく、他の世ではなく──このように、時を要さない〔即座の法〕として。ということで、「現に見られ時を要さない〔即座の法〕を」。

 

 [1132]「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「渇愛の滅尽を」とは、渇愛の滅尽を、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を。「疾患なき〔境地〕を」とは、疾患は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。疾患の捨棄を、疾患の寂止を、疾患の放棄を、疾患の安息を、不死なる涅槃を。ということで、「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を」。

 

 [1133]「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」とは、「その〔境地〕には」とは、涅槃には。「喩えが存在しないのです」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1134]「その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」と。

 

109.

 

 [1135]1144.(1138) 〔バーヴァリが言った〕──その方から、いったい、どうして、〔おまえが〕離れ住むというのだろう──ピンギヤよ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。(8)

 

 [1136]「その方から、いったい、どうして、〔おまえが〕離れ住むというのだろう」とは、覚者から、いったい、どうして、〔おまえが〕離れ住むというのだろう、〔おまえが〕離れ行くというのだろう、〔おまえが〕離れ去るというのだろう、〔おまえが〕別れ別れに成るというのだろう。ということで、「その方から、いったい、どうして、〔おまえが〕離れ住むというのだろう」。

 

 [1137]「ピンギヤよ、寸時でさえも」とは、寸時でさえも、瞬時でさえも、ひと時(ラヤ)でさえも、ひと時(ヴァヤ)でさえも、ひと時(アッダ)でさえも。ということで、「寸時でさえも」。「ピンギヤよ」とは、バーヴァリは、その甥に、名前で語りかける。

 

 [1138]「広き智慧あるゴータマから」とは、ゴータマから、英知を標識とする方から、知恵を標識とする方から、智慧を旗とする方から、智慧を幟とする方から、智慧を優位とする方から、判別多き方から、精査多き方から、見察多き方から、正しい見察多き方から、明確なる住者たる方から、それを所行とする方から、それが多くある方から、それに尊重ある方から、それに向かい行く方から、それに傾倒する方から、それに傾斜する方から、それを信念した方から、それを優位とする方から。ということで、「広き智慧あるゴータマから」。

 

 [1139]「広き思慮あるゴータマから」とは、広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「広き思慮あるゴータマから」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [1140]〔バーヴァリが言った〕──「その方から、いったい、どうして、〔おまえが〕離れ住むというのだろう──ピンギヤよ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから」と。

 

110.

 

 [1141]1145.(1139) その方は、おまえに、法(真理)を説示してくださったのだ──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ。(9)

 

 [1142]「その方は、おまえに、法(真理)を説示してくださったのだ」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([878]参照)……。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「法(真理)を説示してくださったのだ」とは、「法(真理)を」とは、最初が善なるものとして、中間において善なるものとして……略([422]参照)……そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、〔世尊は〕告げ知らせた、〔世尊は〕説示した、〔世尊は〕報知した、〔世尊は〕確立した、〔世尊は〕開顕した、〔世尊は〕区分した、〔世尊は〕明瞭と為した、〔世尊は〕明示した。ということで、「その方は、おまえに、法(真理)を説示してくださったのだ」。

 

 [1143]「現に見られ時を要さない〔即座の法〕を」とは、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このように、「現に見られ」。さらに、あるいは、彼が、まさしく、所見の法(現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、〔果に〕到達して、果を、見出し、獲得する。ということで、このようにもまた、「現に見られ」。「時を要さない〔即座の法〕を」とは、たとえば、人間たちが、時を要するものとして財を施して、直後に〔果を〕得ず、時を待つとして、この法(真理)は、まさしく、〔そのようなことが〕ない。彼が、まさしく、所見の法(現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、〔果に〕到達して、果を、見出し、獲得する──他所ではなく、他の世ではなく──このように、時を要さない〔即座の法〕として。ということで、「現に見られ時を要さない〔即座の法〕を」。

 

 [1144]「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「渇愛の滅尽を」とは、渇愛の滅尽を、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を。「疾患なき〔境地〕を」とは、疾患は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。疾患の捨棄を、疾患の寂止を、疾患の放棄を、疾患の安息を、不死なる涅槃を。ということで、「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を」。

 

 [1145]「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ」とは、「その〔境地〕には」とは、涅槃には。「喩えが存在しないのだ」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ」。それによって、その婆羅門は言った。

 

 [1146]「その方は、おまえに、法(真理)を説示してくださったのだ──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ」と。

 

111.

 

 [1147]1146.(1140) 〔ピンギヤは言った〕──わたしは、その方から、離れ住むことはありません──婆羅門よ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。(10)

 

 [1148]「わたしは、その方から、離れ住むことはありません」とは、わたしは、覚者から、離れ住むことは、離れ行くことは、離れ去ることは、別れ別れに成ることは、〔もはや〕ない。ということで、「わたしは、その方から、離れ住むことはありません」。

 

 [1149]「婆羅門よ、寸時でさえも」とは、寸時でさえも、瞬時でさえも、ひと時(ラヤ)でさえも、ひと時(ヴァヤ)でさえも、ひと時(アッダ)でさえも。「婆羅門よ」とは、尊重〔の思い〕で、叔父(バーヴァリ)に語りかける。

 

 [1150]「広き智慧あるゴータマから」とは、ゴータマから、英知を標識とする方から、知恵を標識とする方から、智慧を旗とする方から、智慧を幟とする方から、智慧を優位とする方から、判別多き方から、精査多き方から、見察多き方から、正しい見察多き方から、明確なる住者たる方から、それを所行とする方から、それが多くある方から、それに尊重ある方から、それに向かい行く方から、それに傾倒する方から、それに傾斜する方から、それを信念した方から、それを優位とする方から。ということで、「広き智慧あるゴータマから」。

 

 [1151]「広き思慮あるゴータマから」とは、広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「広き思慮あるゴータマから」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1152]〔ピンギヤは言った〕──「わたしは、その方から、離れ住むことはありません──婆羅門よ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから」と。

 

112.

 

 [1153]1147.(1141) その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです。(11)

 

 [1154]「その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです」とは、すなわち、彼は、世尊は、〔他に依らず〕自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「法(真理)を説示してくださったのです」とは、「法(真理)を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、〔世尊は〕告げ知らせた、〔世尊は〕説示した、〔世尊は〕報知した、〔世尊は〕確立した、〔世尊は〕開顕した、〔世尊は〕区分した、〔世尊は〕明瞭と為した、〔世尊は〕明示した。ということで、「その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです」。

 

 [1155]「現に見られ時を要さない〔即座の法〕を」とは、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このように、「現に見られ」。さらに、あるいは、彼が、まさしく、所見の法(現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、〔果に〕到達して、果を、見出し、獲得する。ということで、このようにもまた、「現に見られ」。「時を要さない〔即座の法〕を」とは、たとえば、人間たちが、時を要するものとして財を施して、直後に〔果を〕得ず、時を待つとして、この法(真理)は、まさしく、〔そのようなことが〕ない。彼が、まさしく、所見の法(現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、〔果に〕到達して、果を、見出し、獲得する──他所ではなく、他の世ではなく──このように、時を要さない〔即座の法〕として。ということで、「現に見られ時を要さない〔即座の法〕を」。

 

 [1156]「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「渇愛の滅尽を」とは、渇愛の滅尽を、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を。「疾患なき〔境地〕を」とは、疾患は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。疾患の捨棄を、疾患の寂止を、疾患の放棄を、疾患の安息を、不死なる涅槃を。ということで、「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を」。

 

 [1157]「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」とは、「その〔境地〕には」とは、涅槃には。「喩えが存在しないのです」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1158]「その方は、わたしに、法(真理)を説示してくださったのです──現に見られ時を要さない〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を。その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」と。

 

113.

 

 [1159]1148.(1142) 〔わたしは〕見ます──その方を、眼で〔見る〕かのように、意で──婆羅門よ、夜に、昼に、〔気づきを〕怠ることなく。夜は、〔覚者を〕礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕離れ住むことなき者と、〔自らを〕思うのです。(12)

 

 [1160]「〔わたしは〕見ます──その方を、眼で〔見る〕かのように、意で」とは、たとえば、眼ある人が、光明のもと、諸々の形態の在り方をしたものを、見るであろう、視認するであろう、注目するであろう、凝視するであろう、近しく注視するであろうように、まさしく、このように、わたしは、覚者たる世尊を、意で、見るであろう、視認するであろう、注目するであろう、凝視するであろう、近しく注視するであろう。ということで、「〔わたしは〕見ます──その方を、眼で〔見る〕かのように、意で」。

 

 [1161]「婆羅門よ、夜に、昼に、〔気づきを〕怠ることなく」とは、そして、夜に、さらに、昼に、覚者の随念を、意で修行している者として、〔気づきを〕怠らない者として。ということで、「婆羅門よ、夜に、昼に、〔気づきを〕怠ることなく」。

 

 [1162]「夜は、〔覚者を〕礼拝する者として過ごし」とは、「〔覚者を〕礼拝する者として」とは、あるいは、身体によって礼拝している者として、あるいは、言葉によって礼拝している者として、あるいは、心によって礼拝している者として、あるいは、義(意味)のままなる実践によって礼拝している者として、あるいは、法(教え)が法(教え)のままなる実践によって、礼拝している者として、尊敬している者として、尊重している者として、思慕している者として、供養している者として、夜に、昼に、〔わたしは〕過ごすであろう、〔わたしは〕暮らし行くであろう、〔わたしは〕過ごし行くであろう。ということで、「夜は、〔覚者を〕礼拝する者として過ごし」。

 

 [1163]「まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕離れ住むことなき者と、〔自らを〕思うのです」とは、その覚者の随念によって修行しつつ、「〔覚者から〕離れ住むことなき者である」と、その〔わたし〕のことを、〔わたしは〕思う、「〔覚者から〕離れ住まずにいる者である」と、その〔わたし〕のことを、〔わたしは〕思う、〔わたしは〕知る。このように、〔わたしは〕知る、このように、〔わたしは〕了知する、このように、〔わたしは〕識知する、このように、〔わたしは〕解知する、このように、〔わたしは〕理解する。ということで、「まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕離れ住むことなき者と、〔自らを〕思うのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1164]「〔わたしは〕見ます──その方を、眼で〔見る〕かのように、意で──婆羅門よ、夜に、昼に、〔気づきを〕怠ることなく。夜は、〔覚者を〕礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕離れ住むことなき者と、〔自らを〕思うのです」と。

 

114.

 

 [1165]1149.(1143) そして、〔迷いなき〕信は、さらに、〔真の〕喜悦は、〔切なる〕意は、かつまた、〔怠りなき〕気づきは──これらは、ゴータマの教えから離れず、広き智慧ある方が行く、その〔方角〕その方角に、まさしく、その〔場〕その〔場〕に、〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです。(13)

 

 [1166]「そして、〔迷いなき〕信は、さらに、〔真の〕喜悦は、〔切なる〕意は、かつまた、〔怠りなき〕気づきは」とは、「信」とは、そして、すなわち、世尊を対象としての、信、信を置くこと、信用すること、大いに清信あること、信、信の機能(信根)、信の力(信力)である。「喜悦」とは、すなわち、世尊を対象としての、喜悦、歓喜、歓喜すること、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、満足、心の、勇躍すること、わが意を得ることである。「意」とは、そして、すなわち、世尊を対象としての、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。「気づき」とは、すなわち、世尊を対象としての、気づき()、随念、正しい気づき(正念)である。ということで、「そして、〔迷いなき〕信は、さらに、〔真の〕喜悦は、〔切なる〕意は、かつまた、〔怠りなき〕気づきは」。

 

 [1167]「これらは、ゴータマの教えから離れず」とは、これらの四つの法(性質)は、ゴータマの教えから、覚者の教えから、勝者の教えから、如来の教えから、阿羅漢の教えから、離れず、去らず、衰退せず、消失しない。ということで、「これらは、ゴータマの教えから離れず」。

 

 [1168]「広き智慧ある方が行く、その〔方角〕その方角に」とは、「その〔方角〕その方角に」とは、あるいは、東の方角に、あるいは、西の方角に、あるいは、南の方角に、あるいは、北の方角に、〔世尊が〕行く、〔世尊が〕赴く、〔世尊が〕進む、〔世尊が〕進み行く。「広き智慧ある方が」とは、広き智慧ある方が、偉大なる智慧ある方が、鋭敏なる智慧ある方が、多々なる智慧ある方が、敏速なる智慧ある方が、疾走する智慧ある方が、洞察の智慧ある方が。広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。ということで、「広き智慧ある方が行く、その〔方角〕その方角に」。

 

 [1169]「まさしく、その〔場〕その〔場〕に、〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです」とは、その〔わたし〕は、その〔場〕に、覚者がいるなら、まさしく、その〔場〕その〔場〕に、礼拝者としてあり、それに向かい行く者としてあり、それに傾倒する者としてあり、それに傾斜する者としてあり、それを信念した者としてあり、それを優位とする者としてある。ということで、「まさしく、その〔場〕その〔場〕に、〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1170]「そして、〔迷いなき〕信は、さらに、〔真の〕喜悦は、〔切なる〕意は、かつまた、〔怠りなき〕気づきは──これらは、ゴータマの教えから離れず、広き智慧ある方が行く、その〔方角〕その方角に、まさしく、その〔場〕その〔場〕に、〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです」と。

 

115.

 

 [1171]1150.(1144) 老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの身体が、まさしく、その〔場〕に至ることはありません。そこにおいて、常に思惟が進み行くことで、〔その場に〕行き着くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕と結ばれているのです。(14)

 

 [1172]「老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの」とは、「老い朽ち」とは、老いた者の、年長の者の、老練の者の、歳月を重ねた者の、年齢を加えた者の。「力と強さに劣る」とは、力と強さに劣る者の、少なき強さの者の、微小なる強さの者にとって。ということで、「老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの」。

 

 [1173]「身体が、まさしく、その〔場〕に至ることはありません。そこにおいて」とは、身体は、その〔場〕に、覚者がいるとして、その〔場〕に、至ることはない、行くことはない、赴くことはない、超え行くことはない。ということで、「身体が、まさしく、その〔場〕に至ることはありません。そこにおいて」。

 

 [1174]「常に思惟が進み行くことで、〔その場に〕行き着くのです」とは、思惟が赴くことで、思考が赴くことで、知恵が赴くことで、智慧が赴くことで、覚慧が赴くことで、〔わたしは〕行き着く、〔わたしは〕赴く、〔わたしは〕超え行く。ということで、「常に思惟が進み行くことで、〔その場に〕行き着くのです」。

 

 [1175]「婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕と結ばれているのです」とは、「意」は、すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)……略([250]参照)……それに応じる意の識知〔作用〕の界域である。「婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕と結ばれているのです」とは、意は、その〔場〕に、覚者がいるなら、その〔場〕と、結ばれている、強く結ばれている、等しく結ばれている。ということで、「婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕と結ばれているのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1176]「老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの身体が、まさしく、その〔場〕に至ることはありません。そこにおいて、常に思惟が進み行くことで、〔その場に〕行き着くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕と結ばれているのです」と。

 

116.

 

 [1177]1151.(1145) 汚泥に臥し震えおののきながら、〔わたしは〕洲から洲へと漂いました。そこで、〔わたしは〕正覚者を見ました──激流を超えた煩悩なき方を。(15)

 

 [1178]「汚泥に臥し震えおののきながら」とは、「汚泥に臥し」とは、欲望の汚泥のうちに、欲望の泥土のうちに、欲望の汚れのうちに、欲望の釣針のうちに、欲望の苦悶のうちに、欲望の障害のうちに、臥しつつ、臥している、住している、固く住している、遍く住している。ということで、「汚泥に臥し」。「震えおののきながら」とは、渇愛による震えおののきによって震えおののきながら、見解による震えおののきによって震えおののきながら、〔心の〕汚れによる震えおののきによって震えおののきながら、専念〔努力〕(加行)による震えおののきによって震えおののきながら、報い(異熟)による震えおののきによって震えおののきながら、意による悪しき行ないによる震えおののきによって震えおののきながら、貪欲によって貪る者となり震えおののきながら、憤怒によって怒る者となり震えおののきながら、迷妄によって迷う者となり震えおののきながら、思量によって結縛された者となり震えおののきながら、見解によって偏執した者となり震えおののきながら、高揚によって〔心の〕散乱に至った者となり震えおののきながら、疑惑によって結論なきに至った者(疑惑者)となり震えおののきながら、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)によって強靭に至った者(頑迷固陋の者)となり震えおののきながら、利得によって震えおののきながら、利得なきによって震えおののきながら、盛名によって震えおののきながら、盛名なきによって震えおののきながら、賞賛によって震えおののきながら、非難によって震えおののきながら、安楽によって震えおののきながら、苦痛によって震えおののきながら、生によって震えおののきながら、老によって震えおののきながら、病によって震えおののきながら、死によって震えおののきながら、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤によって震えおののきながら、地獄の苦しみによって震えおののきながら、畜生の胎の苦しみによって震えおののきながら、餓鬼の境域の苦しみによって震えおののきながら、人間の苦しみによって……略……入胎を根元とする苦しみによって……胎における止住を根元とする苦しみによって……胎からの出起を根元とする苦しみによって……生まれた者に連結する苦しみによって……生まれた者が他者の配下となる苦しみによって……自己の行動(自害)としての苦しみによって……他者の行動(他害)としての苦しみによって……苦痛の苦しみによって……形成の苦しみによって……変化の苦しみによって……眼の病の苦しみによって……耳の病の苦しみによって……鼻の病の苦しみによって……舌の病の苦しみによって……身の病の苦しみによって……頭の病の苦しみによって……耳(外耳)の病の苦しみによって……口の病の苦しみによって……歯の病の苦しみによって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋(かさぶた)によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い(業報)から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみによって……母の死の苦しみによって……父の死の苦しみによって……兄弟の死の苦しみによって……姉妹の死の苦しみによって……子の死の苦しみによって……娘の死の苦しみによって……親族の災厄の苦しみによって……財物の災厄の苦しみによって……病の災厄の苦しみによって……戒の災厄の苦しみによって……見解の災厄の苦しみによって、震えおののきながら、遍く震えおののきながら、強く動揺しながら、等しく動揺しながら。ということで、「汚泥に臥し震えおののきながら」。

 

 [1179]「〔わたしは〕洲から洲へと漂いました」とは、教師から教師へと、法(教え)の告知から法(教え)の告知へと、衆徒から衆徒へと、見解から見解へと、〔実践の〕道から〔実践の〕道へと、〔聖者の〕道から〔聖者の〕道へと、〔わたしは〕漂った、〔わたしは〕漂流した、〔わたしは〕等しく漂った。ということで、「〔わたしは〕洲から洲へと漂いました」。

 

 [1180]「そこで、〔わたしは〕正覚者を見ました」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「見ました」とは、〔わたしは〕見た、〔わたしは〕視認した、〔わたしは〕観た、〔わたしは〕理解した。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。ということで、「そこで、〔わたしは〕正覚者を見ました」。

 

 [1181]「激流を超えた煩悩なき方を」とは、「激流を超えた」とは、世尊は、欲望の激流を超え渡った方であり、生存の激流を超え渡った方であり、見解の激流を超え渡った方であり、無明の激流を超え渡った方であり、一切の輪廻の道を、超え渡った方であり、超え上がった方であり、超え出た方であり、超越した方であり、等しく超越した方であり、超克した方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ方……略([467-468]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「激流を超えた」。「煩悩なき方を」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。覚者たる世尊の、それらの煩悩は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、煩悩なき方である。ということで、「激流を超えた煩悩なき方を」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1182]「汚泥に臥し震えおののきながら、〔わたしは〕洲から洲へと漂いました。そこで、〔わたしは〕正覚者を見ました──激流を超えた煩悩なき方を」と。

 

117.

 

 [1183]1152.(1146) 〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕──すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが──信を解き放った者が〔そう〕有ったように、まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです。ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう。(16)

 

 [1184]「すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが──信を解き放った者が〔そう〕有ったように」とは、すなわち、ヴァッカリ長老が、信ある者であり、信を尊重する者であり、信を先行とする者であり、信を信念した者であり、信を優位とする者であり、阿羅漢の資質に至り得た者であるように、すなわち、バドラーヴダ長老が、信ある者であり、信を尊重する者であり、信を先行とする者であり、信を信念した者であり、信を優位とする者であり、阿羅漢の資質に至り得た者であるように、すなわち、アーラヴィ・ゴータマ長老が、信ある者であり、信を尊重する者であり、信を先行とする者であり、信を信念した者であり、信を優位とする者であり、阿羅漢の資質に至り得た者であるように。ということで、「すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが──信を解き放った者が〔そう〕有ったように」。

 

 [1185]「まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです」とは、まさしく、このように、あなたは、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念しなさい、信用しなさい。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念するのだ、信用するのだ。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念するのだ、信用するのだ。……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念するのだ、信用するのだ。ということで、「まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです」。

 

 [1186]「ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」とは、死魔の領域は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。死魔の領域の彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」とは、あなたは、彼岸に至るであろう、彼岸に到達するであろう、彼岸を体得するであろう、彼岸を実証するであろう。ということで、「ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」。それによって、世尊は言った。

 

 [1187]〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕──「すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが──信を解き放った者が〔そう〕有ったように、まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです。ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」と。

 

118.

 

 [1188]1153.(1147) 〔ピンギヤは言った〕──この〔わたし〕は、より一層、〔心が〕清まります(より信を強くする)──牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕。〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者は、〔心に〕鬱積なく即応即答〔の智慧〕ある方です。(17)

 

 [1189]「この〔わたし〕は、より一層、〔心が〕清まります(より信を強くする)」とは、この〔わたし〕は、より一層、清信する、より一層、より一層、信を置く、より一層、より一層、信用する、より一層、より一層、信念する。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、より一層、より一層、清信する、より一層、より一層、信を置く、より一層、より一層、信用する、より一層、より一層、信念する。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と、より一層、より一層、清信する……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と、より一層、より一層、清信する……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、より一層、より一層、清信する、より一層、より一層、信を置く、より一層、より一層、信用する、より一層、より一層、信念する。ということで、「この〔わたし〕は、より一層、〔心が〕清まります」。

 

 [1190]「牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([409-418]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕」。

 

 [1191]「〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者は」とは、「〔迷妄の〕覆い」とは、五つの覆いがある。渇愛の覆い、見解の覆い、〔心の〕汚れの覆い、悪しき行ないの覆い、無明の覆いである。覚者たる世尊の、それらの覆いは、開かれ、砕破され、根絶され、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、〔迷妄の〕覆いが開かれた方である。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照)……〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。ということで、「〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者は」。

 

 [1192]「〔心に〕鬱積なく即応即答〔の智慧〕ある方です」とは、「鬱積」とは、貪欲は、鬱積である。憤怒は、鬱積である。迷妄は、鬱積である。忿激は、鬱積である。怨恨は……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、鬱積である。覚者たる世尊の、それらの鬱積は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、覚者は、〔心に〕鬱積なき方である。

 

 [1193]「即応即答〔の智慧〕ある方です」とは、三者の即応即答〔の智慧〕ある者がいる。(1)聖典について即応即答〔の智慧〕ある者、(2)遍問について即応即答〔の智慧〕ある者、(3)到達(証得)について即応即答〔の智慧〕ある者である。(1)どのような者が、聖典について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、覚者の言葉が──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)が──学得されたものとして有る。〔学得した〕聖典に依拠して、彼に、〔答えが〕明白となる。これが、聖典について即応即答〔の智慧〕ある者である。

 

 [1194](2)どのような者が、遍問について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者は、かつまた、義(意味)について、かつまた、正理について、かつまた、特相について、かつまた、契機について、かつまた、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)について、遍問された者として有る。〔その〕遍問に依拠して、彼に、〔答えが〕明白となる。これが、遍問について即応即答〔の智慧〕ある者である。

 

 [1195](3)どのような者が、到達について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)、四つの沙門の果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)、四つの融通無礙(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)、六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)が、到達されたものとして有る。彼に、義(意味)は知られ、法(教え)は知られ、言語は知られ、義(意味)が知られたとき、義(意味)は明白となり、法(教え)が知られたとき、法(教え)は明白となり、言語が知られたとき、言語は明白となる。これらの三つについて、知恵があり、応答の融通無礙がある。世尊は、この応答の融通無礙を、具した方、具完した方、所有した方、完備した方、具有した方、完有した方、具備した方である。それゆえに、覚者は、即応即答〔の智慧〕ある方である。彼に、聖典が存在しないなら、遍問が存在しないなら、到達が存在しないなら、どうして、彼に、〔答えが〕明白となるというのだろう。ということで、「〔心に〕鬱積なく即応即答〔の智慧〕ある方です」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1196]〔ピンギヤは言った〕──「この〔わたし〕は、より一層、〔心が〕清まります(より信を強くする)──牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕。〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者は、〔心に〕鬱積なく即応即答〔の智慧〕ある方です」と。

 

119.

 

 [1197]1154.(1148) 上天〔の神々〕たちのことを証知して、彼此の一切を知っておられます。疑いありと明言する者たちのために、諸々の問いの終極を為す、〔世の〕教師たる方です。(18)

 

 [1198]「上天〔の神々〕たちのことを証知して」とは、「天」とは、三つの天〔の神々〕たちがいる。(1)〔言葉の〕慣習(世俗)としての天〔の神々〕たち、(2)再生としての天〔の神々〕たち、(3)清浄としての天〔の神々〕たちである。(1)どのようなものが、〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちであるのか。〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちは、そして、王たち、かつまた、王子たち、さらに、王妃たち、と説かれる。これらが、〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちと説かれる。(2)どのようなものが、再生としての天〔の神々〕たちであるのか。再生としての天〔の神々〕たちは、四大王天〔の神々〕(四天王)たち、三十三天〔の神々〕たち……略([322]参照)……梵身天〔の神々〕たち、さらに、すなわち、それより上の天〔の神々〕たち、と説かれる。これらが、再生としての天〔の神々〕たちと説かれる。(3)どのようなものが、清浄としての天〔の神々〕たちであるのか。清浄としての天〔の神々〕たちは、如来たち、如来の弟子たち、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、さらに、すなわち、独覚(縁覚・辟支仏)たち、と説かれる。これらが、清浄としての天〔の神々〕たちと説かれる。世尊は、〔言葉の〕慣習としての天〔の神々〕たちを、「上天の者たちである」と証知して、再生としての天〔の神々〕たちを、「上天の者たちである」と証知して、清浄としての天〔の神々〕たちを、「上天の者たちである」と、証知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「上天〔の神々〕たちのことを証知して」。

 

 [1199]「彼此の一切を知っておられます」とは、世尊は、(1)そして、自己のための、(2)さらに、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法(真理)を、了知した、体得した、実証した。(1)どのようなものが、自己のための、上天の者と為す諸々の法(真理)であるのか。正しい〔実践の〕道、〔真理に〕随順する〔実践の〕道、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道、義(意味)のままなる〔実践の〕道、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていること、食について量を知ること、〔眠らずに〕起きていることへの専念、気づきと正知、四つの気づきの確立……略([205]参照)……聖なる八つの支分ある道である。これらが、自己のための、上天の者と為す諸々の法(真理)と説かれる。

 

 [1200](2)どのようなものが、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法(真理)であるのか。正しい〔実践の〕道……略([205]参照)……聖なる八つの支分ある道である。これらが、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法(真理)と説かれる。このように、世尊は、そして、自己のための、さらに、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法(真理)を、了知した、体得した、実証した。ということで、「彼此の一切を知っておられます」。

 

 [1201]「諸々の問いの終極を為す、〔世の〕教師たる方です」とは、世尊は、諸々の彼岸に至る問いの、終極を為す方であり、極限を為す方であり、限定を為す方であり、周縁を為す方である。諸々のサビヤの問いの、終極を為す方であり、極限を為す方であり、限定を為す方であり、周縁を為す方である。諸々の帝釈〔天〕の問いの……略……。諸々のスヤーマ〔天子〕の問いの……。諸々の比丘の問いの……。諸々の比丘尼の問いの……。諸々の在俗信者の問いの……。諸々の女性在俗信者の問いの……。諸々の王の問いの……。諸々の士族の問いの……。諸々の婆羅門の問いの……。諸々の庶民の問いの……。諸々の隷民の問いの……。諸々の天〔の神〕の問いの……。諸々の梵〔天〕の問いの、終極を為す方であり、極限を為す方であり、限定を為す方であり、周縁を為す方である。ということで、「諸々の問いの終極を為す」。「〔世の〕教師たる方(サッタル)」とは、〔世の〕教師たる世尊は、先導者(サッタヴァーハ:隊商の長)である。たとえば、隊商の長が、隊商たちを〔導いて〕、難所(砂漠)を超え渡し、盗賊の難所を超え渡し、猛獣の難所を超え渡し、飢餓の難所を超え渡し、無水の難所を、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地(安全地帯)へと得達させるように、まさしく、このように、世尊は、先導者(隊商の長)であり、有情たちを〔導いて〕、難所を超え渡し、生の難所を超え渡し、老の難所を超え渡し、病の難所を……略……死の難所を……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の難所を超え渡し、貪欲の難所を超え渡し、憤怒の難所を……迷妄の難所を……思量の難所を……見解の難所を……〔心の〕汚れの難所を……悪しき行ないの難所を超え渡し、貪欲の茂みを超え渡し、憤怒の茂みを……迷妄の茂みを……思量の茂みを……見解の茂みを……〔心の〕汚れの茂みを……悪しき行ないの茂みを、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地へと、不死なる涅槃へと、得達させる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者(隊商の長)である。

 

 [1202]さらに、あるいは、世尊は、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、清信させる方である。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。さらに、あるいは、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住む、〔彼の〕弟子たちは、のちに、〔教えを〕具備した者たちとなる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。ということで、「諸々の問いの終極を為す、〔世の〕教師たる方です」。

 

 [1203]「疑いありと明言する者たちのために」とは、疑いを有する者たちとしてやってきて、疑いなき者たちとして成就する。散乱〔の思い〕を有する者たちとしてやってきて、散乱〔の思い〕なき者たちとして成就する。二様〔の思い〕を有する者たちとしてやってきて、二様〔の思い〕なき者たちとして成就する。疑惑を有する者たちとしてやってきて、疑惑なき者たちとして成就する。貪欲を有する者たちとしてやってきて、貪欲を離れた者たちとして成就する。憤怒を有する者たちとしてやってきて、憤怒を離れた者たちとして成就する。迷妄を有する者たちとしてやってきて、迷妄を離れた者たちとして成就する。〔心の〕汚れを有する者たちとしてやってきて、〔心の〕汚れなき者たちとして成就する。ということで、「疑いありと明言する者たちのために」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1204]「上天〔の神々〕たちのことを証知して、彼此の一切を知っておられます。疑いありと明言する者たちのために、諸々の問いの終極を為す、〔世の〕教師たる方です」と。

 

120.

 

 [1205]1155.(1149) それには、どこにも喩えが存在しない、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕に、〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません。このように、わたしのことを、〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください。(19)

 

 [1206]「翻弄されず激情しない〔心のあり方〕に」とは、翻弄されない〔心のあり方〕は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「翻弄されず」とは、貪欲によって、憤怒によって、迷妄によって、忿激によって、怨恨によって、偽装によって、加虐によって、嫉妬によって、物惜によって、幻惑によって、狡猾によって、強情によって、激昂によって、思量によって、高慢によって、驕慢によって、放逸によって、一切の〔心の〕汚れによって、一切の悪しき行ないによって、一切の懊悩によって、一切の苦悶によって、一切の熱苦によって、一切の善ならざる行作によって、翻弄されず、常住で、常恒で、常久で、変化なき法(性質)としてある、涅槃に。ということで、「翻弄されず」。

 

 [1207]「激情しない〔心のあり方〕に」とは、激情しない〔心のあり方〕は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂……略([429]参照)……止滅、涅槃である。涅槃には、生起は覚知されず、衰失は存在しない。それには、他化は覚知されない。常住で、常恒で、常久で、変化なき法(性質)としてある、涅槃に。ということで、「翻弄されず激情しない〔心のあり方〕に」。

 

 [1208]「それには、どこにも喩えが存在しない」とは、「それには」とは、涅槃には。「喩えが存在しない」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「それには、どこにも喩えが存在しない」。

 

 [1209]「〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません」とは、「確実に」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、誤解なき言葉、確保する言葉。これが、「確実に」ということになる。「至るでありましょう」とは、〔わたしは〕至るであろう、〔わたしは〕到達するであろう、〔わたしは〕体得するであろう、〔わたしは〕実証するであろう。ということで、「〔わたしは〕確実に至るでありましょう」。「ここにおいて、わたしに、疑いはありません」とは、「ここにおいて」とは、涅槃において。疑いは存在しない、疑惑は存在しない、二様のものは存在しない、疑念は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません」。

 

 [1210]「このように、わたしのことを、〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください」とは、「このように、わたしのことを」「お認めください」とは、このように、わたしを近しく観てください。「〔涅槃に〕心が信念した者と」とは、涅槃に向かい行く者と、涅槃に傾倒する者と、涅槃に傾斜する者と、涅槃を信念した者と。ということで、「このように、わたしのことを、〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください」。それによって、長老ピンギヤは言った。

 

 [1211]「それには、どこにも喩えが存在しない、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕に、〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません。このように、わたしのことを、〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください」と。

 

 [1212]彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈についての釈示が、第十八となる。

 

 [1213]彼岸に至るものの章は〔以上で〕完結となる。

 

3. 犀の角の経についての釈示

 

3. 1. 第一の章

 

121.

 

 [1214]35.(35) 一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼らのなかの唯の一者でさえも害さずにいる者は、〔もはや〕子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕。犀の角のように、独り、歩むがよい。(1)

 

 [1215]「一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて」とは、「一切の」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「一切の」ということになる。「生類にたいし」とは、生類たちは、かつまた、動くものたちとも、かつまた、動かないものたちとも、説かれる。「動くものたち」とは、彼らの、〔心の〕動き(恐れ・渇き)としての渇愛が〔いまだ〕捨棄されていない者たち、さらに、彼らの、恐怖と恐ろしさが〔いまだ〕捨棄されていない者たち。何を契機とすることから、動くものたちと説かれるのか。彼らは、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、恐慌を惹起する。それを契機とすることから、動くものたちと説かれる。「動かないものたち」とは、彼らの、〔心の〕動き(恐れ・渇き)としての渇愛が〔すでに〕捨棄された者たち、さらに、彼らの、恐怖と恐ろしさが〔すでに〕捨棄された者たち。何を契機とすることから、動かないものたちと説かれるのか。彼らは、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、恐慌を惹起しない。それを契機とすることから、動かないものたちと説かれる。「棒」とは、三つの棒がある。身体の棒、言葉の棒、意の棒である。三種類の身体による悪しき行ない(殺生・偸盗・邪淫)は、身体の棒である。四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論)は、言葉の棒である。三種類の意による悪しき行ない(強欲・憎悪の心・誤った見解)は、意の棒である。「一切の生類にたいし、棒を置いて」とは、一切の生類にたいし、棒を、置いて、安置して。

 

 [1216]「彼らのなかの唯の一者でさえも害さずにいる者は」とは、一者一者の有情でさえをも、あるいは、手によって、あるいは、石によって、あるいは、棒によって、あるいは、刃によって、あるいは、鎖によって、あるいは、縄によって、害さずにいる者は。一切の有情たちでさえをも、あるいは、手によって、あるいは、石によって、あるいは、棒によって、あるいは、刃によって、あるいは、鎖によって、あるいは、縄によって、害さずにいる者は。ということで、「彼らのなかの唯の一者でさえも害さずにいる者は」。

 

 [1217]「〔もはや〕子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕」とは、「ぬ」とは、否定〔の言葉〕。「子」とは、四者の子がいる。実の子、国人の子、養子としての子、内弟子としての子である。「道友を」とは、道友たちは、彼らと共にあるなら、到来するに平穏である者たち、出行するに平穏である者たち、往来するに平穏である者たち、立つに平穏である者たち、坐るに平穏である者たち、臥すに平穏である者たち、語りかけるに平穏である者たち、語りかけ合うに平穏である者たち、語り込むに平穏である者たち、語り込み合うに平穏である者たち、と説かれる。「〔もはや〕子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕」とは、子でさえをも、欲求するべきではなく、愛用するべきではなく、切望するべきではなく、熱望するべきではなく、渇望するべきではなく、ましてや、あるいは、朋友を、あるいは、同輩を、あるいは、知己を、あるいは、道友を、欲求するべきではなく、愛用するべきではなく、切望するべきではなく、熱望するべきではなく、渇望するべきではない。ということで、「〔もはや〕子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕」。

 

 [1218]「犀の角のように、独り、歩むがよい」とは、「独り」とは、その独正覚者(独覚・縁覚)は、(1)出家と名づけられたことによって、独りであり、(2)伴侶なきの義(意味)によって、独りであり、(3)渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りであり、(4)絶対的に貪欲を離れた者、ということで、独りであり、絶対的に憤怒を離れた者、ということで、独りであり、絶対的に迷妄を離れた者、ということで、独りであり、絶対的に〔心の〕汚れなき者、ということで、独りであり、(5)一路の道に至った者、ということで、独りであり、(6)独りで、無上なる正等覚を現正覚した者、ということで、独りである。

 

 [1219](1)どのように、その独正覚者は、出家と名づけられたことによって、独りであるのか。その独正覚者は、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って(※)、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、その独正覚者は、出家と名づけられたことによって、独りである。

 

※ 平行箇所[1496]により mittāmaccapalibodhaṃ chinditvā を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [1220](2)どのように、その独正覚者は、伴侶なきの義(意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、その独正覚者は、伴侶なきの義(意味)によって、独りである。

 

 [1221](3)どのように、その独正覚者は、渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、独りで、伴侶なく、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みつつ、大いなる精励をもって〔自己を〕精励しながら、軍団を有する悪魔を、黒き者たるナムチを、放逸の眷属を、砕破して〔そののち〕、渇愛の網を、〔渇愛の〕流れを、〔渇愛の〕執着を、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。

 

 [1222]〔そこで、詩偈に言う〕「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。

 

 [1223]この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。

 

 [1224]このように、その独正覚者は、渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りである。

 

 [1225](4)どのように、その独正覚者は、絶対的に貪欲を離れた者、ということで、独りであるのか。貪欲が捨棄されたことから、絶対的に貪欲を離れた者、ということで、独りであり、憤怒が捨棄されたことから、絶対的に憤怒を離れた者、ということで、独りであり、迷妄が捨棄されたことから、絶対的に迷妄を離れた者、ということで、独りであり、諸々の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、絶対的に〔心の〕汚れなき者、ということで、独りである。このように、その独正覚者は、絶対的に貪欲を離れた者、ということで、独りである。

 

 [1226](5)どのように、その独正覚者は、一路の道に至った者、ということで、独りであるのか。一路の道は、四つの気づきの確立(四念住・四念処:身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、と説かれる。

 

 [1227]〔そこで、詩偈に言う〕「生の滅尽と終極を見る〔覚者〕は、〔人々に〕利益と慈しみ〔の思い〕ある〔覚者〕は、一路の道を覚知する。この道によって、〔人々は〕過去において〔激流を〕超えたのであり、〔未来においても〕超えるであろうし、そして、すなわち、〔今現在も〕激流を超えるのだ」と。

 

 [1228]このように、その独正覚者は、一路の道に至った者、ということで、独りである。

 

 [1229](6)どのように、その独正覚者は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した者、ということで、独りであるのか。覚り(菩提)は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。その独正覚者は、〔聖者の〕道の独正覚者として、知恵の独正覚者として、「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と覚った。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と覚った。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と覚った。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(諸行)がある」と覚った。「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕()がある」と覚った。「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色)がある」と覚った。「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処)がある」と覚った。「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触()がある」と覚った。「接触という縁あることから、感受()がある」と覚った。「感受という縁あることから、渇愛()がある」と覚った。「渇愛という縁あることから、執取()がある」と覚った。「執取という縁あることから、生存()がある」と覚った。「生存という縁あることから、生()がある」と覚った。「生という縁あることから、老と死(老死)がある」と覚った。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と覚った。「諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と覚った。「識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある」と覚った。「名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある」と覚った。「六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある」と覚った。「接触の止滅あることから、感受の止滅がある」と覚った。「感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある」と覚った。「渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある」と覚った。「執取の止滅あることから、生存の止滅がある」と覚った。「生存の止滅あることから、生の止滅がある」と覚った。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と覚った。「これは、苦しみである」と覚った。「これは、苦しみの集起である」と覚った。「これは、苦しみの止滅である」と覚った。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と覚った。「これらは、諸々の煩悩である」と覚った。「これは、諸々の煩悩の集起である」と覚った。「これは、諸々の煩悩の止滅である」と覚った。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と覚った。「これらの法(性質)は、証知されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、捨棄されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、修行されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と覚った。六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔それらを〕覚った。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔それらを〕覚った。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔それらを〕覚った。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と覚った。

 

 [1230]さらに、あるいは、それが何であれ、覚られるべきものであるなら、随覚されるべきものであるなら、醒覚されるべきものであるなら、正覚されるべきものであるなら、到達されるべきものであるなら、体得されるべきものであるなら、実証されるべきものであるなら、その全てを、その独覚の知恵によって、覚った、随覚した、醒覚した、正覚した、到達した、体得した、実証した。このように、その独正覚者は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した者、ということで、独りである。

 

 [1231]「歩むがよい」とは、八つの歩み(性行)がある。(1)振る舞いの道の歩み、(2)〔認識の〕場所の歩み、(3)気づきの歩み、(4)禅定の歩み、(5)知恵の歩み、(6)道の歩み、(7)至り得ることの歩み、(8)世の義(利益)の歩みである。(1)「振る舞いの道の歩み」とは、四つの振る舞いの道(行住坐臥)における〔歩みである〕。(2)「〔認識の〕場所の歩み」とは、六つの内なると外なる〔認識の〕場所における〔歩みである〕。(3)「気づきの歩み」とは、四つの気づきの確立における〔歩みである〕。(4)「禅定の歩み」とは、四つの瞑想における〔歩みである〕。(5)「知恵の歩み」とは、四つの聖なる真理における〔歩みである〕。(6)「道の歩み」とは、四つの聖者の道における〔歩みである〕。(7)「至り得ることの歩み」とは、四つの沙門の果における〔歩みである〕。(8)「世の義(利益)の歩み」とは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちにおける〔歩みであり〕、一部の独正覚者たちにおける〔歩みであり〕、一部の弟子たちにおける〔歩みである〕。(1)そして、誓願を成就した者たちには、振る舞いの道の歩みがある。(2)そして、諸々の〔感官〕の機能において門が守られた者たちには、〔認識の〕場所の歩みがある。(3)そして、〔気づきを〕怠らない住者たちには、気づきの歩みがある。(4)そして、卓越の心(瞑想)に専念する者たちには、禅定の歩みがある。(5)そして、覚慧を成就した者たちには、知恵の歩みがある。(6)そして、正しい実践者たちには、道の歩みがある。(7)そして、果に到達した者たちには、至り得ることの歩みがある。(8)そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちには、一部の独正覚者たちには、一部の弟子たちには、世の義(利益)の歩みがある。これらの八つの歩みがある。他にもまた、八つの歩みがある。(1)信念している者として、信によって歩む。(2)励起している者として、精進によって歩む。(3)現起させている者として、気づきによって歩む。(4)〔心の〕散乱なき〔状態〕を作り為している者として、禅定によって歩む。(5)覚知している者として、智慧によって歩む。(6)識知している者として、識知〔作用〕の歩みによって歩む。(7)「このように実践している者には、諸々の善なる法(性質)が入来する」と、〔認識の〕場所の歩みによって歩む。(8)「このように実践している者は、殊勝〔の境地〕(涅槃)に到達する」と、殊勝の歩みによって歩む。これらの八つの歩みがある。

 

 [1232]他にもまた、八つの歩みがある。(1)そして、正しい見解(正見)には、〔あるがままの〕見の歩みがある。(2)そして、正しい思惟(正思惟)には、〔正しく心を〕固定することの歩みがある。(3)そして、正しい言葉(正語)には、遍き収取(理解・把握)がある。(4)そして、正しい行業(正業)には、等しく現起するものの歩みがある。(5)そして、正しい生き方(正命)には、浄化するものの歩みがある。(6)そして、正しい努力(正精進)には、励起の歩みがある。(7)そして、正しい気づき(正念)には、現起の歩みがある。(8)そして、正しい禅定(正定)には、〔心の〕散乱なき〔状態〕の歩みがある。これらの八つの歩みがある。

 

 [1233]「犀の角のように」とは、たとえば、犀の角が、まさに、一つのものとして有り、第二のものなくあるように、まさしく、このように、その独正覚者は、それに類する者であり、それに同等の者であり、それに相似の者である。たとえば、極めて塩気のあるものが、塩に類するものと説かれ、極めて苦いものが、苦瓜に類するものと説かれ、極めて甘いものが、蜜に類するものと説かれ、極めて熱いものが、火に類するものと説かれ、極めて寒いものが、雪に類するものと説かれ、大いなる水の塊が、海に類するものと説かれ、大いなる神知の力に至り得た弟子が、教師に類するものと説かれるように、まさしく、このように、その独正覚者は、そこにおいて、それに類する者であり、それに同等の者であり、それに相似の者であり、独り、伴侶なく、結縛するものを解き放ち、正しく、世において、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1234]「一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼らのなかの唯の一者でさえも害さずにいる者は、〔もはや〕子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕。犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

122.

 

 [1235]36.(36) 交流が生じた者には、諸々の愛執〔の思い〕が有る。愛執〔の思い〕に従い、この苦しみは発生する。愛執〔の思い〕から生じる〔この〕危険(患・過患)を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(2)

 

 [1236]「交流が生じた者には、諸々の愛執〔の思い〕が有る」とは、「交流」とは、二つの交流がある。(1)そして、見の交流であり、(2)さらに、聞の交流である。(1)どのようなものが、見の交流であるのか。ここに、一部の者は、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者で、あるいは、婦女を、あるいは、少女を、見る。見て〔そののち〕、観て〔そののち〕、付随する特徴〔の観点〕から、形相を収取する。「あるいは、諸々の髪は、美しく輝いている。あるいは、顔は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕眼は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕耳は、美しく輝いている。あるいは、鼻は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕唇は、美しく輝いている。あるいは、諸々の歯は、美しく輝いている。あるいは、口は、美しく輝いている。あるいは、首は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕乳房は、美しく輝いている。あるいは、胸は、美しく輝いている。あるいは、腹は、美しく輝いている。あるいは、腰は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕腿は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕脛は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕手は、美しく輝いている。あるいは、〔両の〕足は、美しく輝いている。あるいは、諸々の指は、美しく輝いている。あるいは、諸々の爪は、美しく輝いている」と。見て〔そののち〕、観て〔そののち〕、愉悦し、迎合し、切望し、賞揚し、貪欲の結縛に追随する。これが、見の交流である。

 

 [1237](2)どのようなものが、聞の交流であるのか。ここに、一部の者は、聞く。「何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者で、あるいは、婦女がいる、あるいは、少女がいる」と。聞いて〔そののち〕、聴いて〔そののち〕、愉悦し、迎合し、切望し、賞揚し、貪欲の結縛に追随する。これが、聞の交流である。

 

 [1238]「愛執」とは、二つの愛執がある。(1)そして、渇愛の愛執であり、(2)さらに、見解の愛執である。(1)どのようなものが、渇愛の愛執であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、極限が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「このかぎりのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭気であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、奴婢や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、そして、国土であり、そして、地方であり、そして、蔵であり、そして、貯蔵庫である」〔と〕、大いなる地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行じ歩むところの、そのかぎりのものである。これが、渇愛の愛執である。

 

 [1239](2)どのようなものが、見解の愛執であるのか。二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)──すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の愛執である。

 

 [1240]「交流が生じた者には、諸々の愛執〔の思い〕が有る」とは、そして、見の交流の縁あることから、さらに、聞の交流の縁あることから、そして、渇愛の愛執が、さらに、見解の愛執が、有り、発生し、生じ、産出し、発現し、結実し、出現する。ということで、「交流が生じた者には、諸々の愛執〔の思い〕が有る」。

 

 [1241]「愛執〔の思い〕に従い、この苦しみは発生する」とは、「愛執」とは、二つの愛執がある。(1)そして、渇愛の愛執であり、(2)さらに、見解の愛執である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の愛執である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の愛執である。「この苦しみは発生する」とは、ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行なう。命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話す。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉して、王に見せる。「陛下よ、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ」と。〔まさに〕その、この者を、王は誹謗する。彼は、誹謗の縁あることから、恐怖をもまた生起させ(※)、苦痛と失意を得知する。この恐怖と苦痛と失意は、何から生じたものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、生じたものである。

 

※ テキストには paribhāsapaccayāpi とあるが、マハー・ニッデーサの平行箇所(自己の棒の経についての釈示[1574])により paribhāsapaccayā bhayampi uppādeti と読む。

 

 [1242]これでもなお、王は満足しない。〔まさに〕その、この者を、王は──あるいは、枷の結縛によって、あるいは、縄の結縛によって、あるいは、鎖の結縛によって、あるいは、藤の結縛によって、あるいは、蔓の結縛によって、あるいは、柵の結縛によって、あるいは、遍き柵の結縛によって、あるいは、村の結縛によって、あるいは、町の結縛によって、あるいは、城市の結縛によって、あるいは、国土の結縛によって、あるいは、地方の結縛によって──結縛させる。もしくは、「おまえは、ここから立ち去ることを得ない」と、言い渡しをもまた為す。彼は、結縛の縁あることからもまた、苦痛と失意を得知する。この恐怖と苦痛と失意は、何から生じたものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、生じたものである。

 

 [1243]これでもなお、王は満足しない。王は(※)、彼の財を──あるいは、百〔金〕を、あるいは、千〔金〕を、あるいは、百千〔金〕を──没収させる。彼は、財の衰退の縁あることからもまた、苦痛と失意を得知する。この恐怖と苦痛と失意は、何から生じたものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、生じたものである。

 

※ テキストには Tamenaṃ rājā とあるが、マハー・ニッデーサの平行箇所(自己の棒の経についての釈示[1576])により Rājā と読む。

 

 [1244]これでもなお、王は満足しない。〔まさに〕その、この者に、王は、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切る。彼は、行罰刑の縁あることからもまた、苦痛と失意を得知する。この恐怖と苦痛と失意は、何から生じたものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、生じたものである。王は、これらの四つの棒(刑罰)の権ある者である。

 

 [1245]彼は、自らの行為()によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する。〔まさに〕その、この者に、地獄の番人(獄卒)たちは、五種類の結縛という名の行罰刑を執行する。熱せられた鉄杭を手に至らせる。熱せられた鉄杭を第二の手に至らせる。熱せられた鉄杭を足に至らせる。熱せられた鉄杭を第二の足に至らせる。熱せられた鉄杭を胸の中央に至らせる。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受する。しかしながら、すなわち、その悪しき行為(悪業)が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはない(地獄の業苦が続く)。この恐怖と苦痛と失意は、何から生じたものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、生じたものである。

 

 [1246]〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、横たわらせて、諸々の斧で激打する。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受する。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはない。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、諸々の鉈で激打する。……略……。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、車に結び付けて、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、地面のうえを、行かせもまたし、戻らせもまたする。……。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大きな炭の山を、登らせもまたし、降ろさせもまたする。……。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、熱せられた銅釜のなかに置く。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られる。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られながら、一度はまた上に赴き、一度はまた下に赴き、一度はまた横に赴く。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受する。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはない。この恐怖と苦痛と失意は、何から生じたものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、生じたものである。

 

 [1247]〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、大地獄のなかに置く。また、まさに、その大地獄は──

 

 [1248]〔そこで、詩偈に言う〕「四つの隅があり、四つの門があり、等分に計量され区分され、鉄柵を極限とし、鉄によって覆い包まれている。

 

 [1249]その〔大地獄〕の鉄製の地面は、燃え盛り、火に充ち、百ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)の遍きにわたり充満して、一切時に止住する。

 

 [1250]諸々のおぞましく惨憺たる熱苦があり、諸々の近づき難き火炎があり、そして、諸々の身の毛のよだつ形態があり、諸々の恐ろしさと恐怖と苦痛がある。

 

 [1251]そして、東の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、西〔の壁〕に打ちつける。

 

 [1252]そして、西の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、東〔の壁〕に打ちつける。

 

 [1253]そして、北の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、南〔の壁〕に打ちつける。

 

 [1254]そして、南の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、北〔の壁〕に打ちつける。

 

 [1255]そして、下から等しく現起して、恐怖させる炎の塊が、悪しき行為ある者たちを焼きながら、天井に打ちつける。

 

 [1256]天井から等しく現起して、恐怖させる炎の塊が、悪しき行為ある者たちを焼きながら、地に打ちつける。

 

 [1257]燃え盛り燃え上がる熱せられた鉄鍋のように、このように、下に、上に、脇に、アヴィーチ(阿鼻)地獄はある。

 

 [1258]そこにおいて、有情たちは、大いなる残忍なる者たちとして、大いなる罪障の作り手たちとして、究極の悪しき行為ある者たちとして、煮られ、なおかつ、死ぬことはない。

 

 [1259]地獄の住者たる彼らの身体は、火に等しきものとなる。見よ──諸々の〔為した〕行為の堅固なることを。灰と成ることはなく、煤もまた〔見出され〕ない。

 

 [1260]〔彼らは〕東からもまた走り行き、そののち、西へと走り行く。〔彼らは〕北からもまた走り行き、そののち、南へと走り行く。

 

 [1261]〔彼らは〕それぞれの方角へと走り行くが、それぞれの門は締められる。それらの有情たちは、出ることを願い、解き放ちを探し求めるが──

 

 [1262]行為の縁あることから、彼らは、そこから出ることを得ない。そして、彼らの悪しき行為は、多く為され、〔いまだ〕報いなきものとしてある」と。

 

 [1263]この恐怖と苦痛と失意は、何から生じたものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、生じたものである。

 

 [1264]そして、それらが、地獄の苦痛であるなら、そして、それらが、畜生の胎の苦しみであるなら、そして、それらが、餓鬼の境域の苦しみであるなら、そして、それらが、人間の苦しみであるなら、それらは、何から生じたものであり、それらは、何から産出したものであり、それらは、何から発現したものであり、それらは、何から結実したものであり、それらは、何から出現したものであるのか。彼の、そして、愛執の縁あることから、かつまた、愉悦の縁あることから、かつまた、貪欲の縁あることから、さらに、愉悦と貪欲の縁あることから、有り、生じ、産出し、発現し、結実し、出現する。ということで、「愛執〔の思い〕に従い、この苦しみは発生する」。

 

 [1265]「愛執〔の思い〕から生じる〔この〕危険(患・過患)を〔常に〕見ている者となり」とは、「愛執」とは、二つの愛執がある。(1)そして、渇愛の愛執であり、(2)さらに、見解の愛執である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の愛執である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の愛執である。「愛執〔の思い〕から生じる〔この〕危険を〔常に〕見ている者となり」とは、かつまた、渇愛の愛執ある者も、かつまた、見解の愛執ある者も、愛執から生じる危険を、〔常に〕見ている者として、〔常に〕視認している者として、〔常に〕注目している者として、〔常に〕凝視している者として、〔常に〕近しく注視している者として。ということで、「愛執〔の思い〕から生じる〔この〕危険を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1266]「交流が生じた者には、諸々の愛執〔の思い〕が有る。愛執〔の思い〕に従い、この苦しみは発生する。愛執〔の思い〕から生じる〔この〕危険(患・過患)を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

123.

 

 [1267]37.(37) 朋友たちや知人たちを慈しみながら(情をかけつつ)、〔その思いに〕心が縛られた者は、〔自他の〕義(利益)を失う。この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(3)

 

 [1268]「朋友たちや知人たちを慈しみながら(情をかけつつ)、〔その思いに〕心が縛られた者は、〔自他の〕義(利益)を失う」とは、「朋友たち」とは、二者の朋友がいる。(1)そして、在家者の朋友であり、(2)さらに、在家者ならざる朋友である。(1)どのようなものが、在家者の朋友であるのか。ここに、一部の者は、施し難きを施し、捨て難きを捨て、為し難きを為し、耐え難きを耐え、彼に秘密を告げ知らせ、彼の秘密を完全に秘密にし、諸々の逆境において捨棄せず、彼の義(利益)ためには生命でさえも完全に捨て去ったものと成り、零落したときに軽んじない。これが、在家者の朋友である。

 

 [1269](2)どのようなものが、在家者ならざる朋友であるのか。ここに、比丘が、そして、愛しき者として有り、そして、意に適う者として〔有り〕、そして、重き者として〔有り〕、そして、尊ばれる者として〔有り〕、そして、説者として〔有り〕、そして、言葉に忍耐ある者として〔有り〕、そして、深遠なる言説の言説者として〔有り〕、さらに、状況なきことに駆り立てず、卓越の戒において受持させ、四つの気づきの確立の修行への専念において受持させ、四つの正しい精励の……略……四つの神通の足場の……五つの機能の……五つの力の……七つの覚りの支分の……聖なる八つの支分ある道の修行への専念において受持させる。これが、在家者ならざる朋友である。

 

 [1270]知人たちは、彼らと共にあるなら、到来するに平穏である者たち、出行するに平穏である者たち、往来するに平穏である者たち、立つに平穏である者たち、坐るに平穏である者たち、臥すに平穏である者たち、語りかけるに平穏である者たち、語りかけ合うに平穏である者たち、語り込むに平穏である者たち、語り込み合うに平穏である者たち、と説かれる。「朋友たちや知人たちを慈しみながら、〔自他の〕義(利益)を失う」とは、そして、朋友たちを、そして、知人たち、同輩たちを、そして、知己たちを、そして、道友たちを、慈しみながら、目をかけながら、資助しながら、自己の義(利益)をもまた失い、他者の義(利益)をもまた失い、両者の義(利益)をもまた失い、所見の法(現法:現世)の義(利益)をもまた失い、未来の義(利益)をもまた失い、最高の義(勝義:最高の真実)をもまた、失い、喪失し、遍く失い、遍く滅ぼし、遍く避け、消没させる。ということで、「朋友たちや知人たちを慈しみながら、〔自他の〕義(利益)を失う」。

 

 [1271]「〔その思いに〕心が縛られた者は」とは、二つの契機によって、心が縛られた者と成る。(1)あるいは、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。(2)あるいは、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。(1)どのように、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、心が縛られた者と成るのか。「あなたたちは、わたしにとって、多くの資益ある方たちです。わたしは、あなたたちに依存して、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を得ます。すなわち、他の者たちもまた、あなたたちに依存して、あなたたちとお会いしながら、わたしに、あるいは、施すことを、あるいは、為すことを、思い考えます。すなわち、わたしの、以前の、母と父による命名もまた、それさえも、わたしにとっては、消没したものとなりました(名前として通用しなくなった)。〔今の〕わたしは、あなたたちによって、『誰某氏の家に親近ある者』『誰某女史の家に親近ある者』として〔世に〕知られます」と、このように、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。

 

 [1272](2)どのように、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、心が縛られた者と成るのか。「わたしは、あなたたちにとって、多くの資益ある者である。あなたたちは、わたしを頼りにして、覚者を帰依所に赴いた者たちであり、法(教え)を帰依所に赴いた者たちであり、僧団を帰依所に赴いた者たちであり、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちである。わたしは、あなたたちに、誦説(聖典)を与え、遍問(義釈)を与え、斎戒(布薩)を告知し、新しい行為を確立する。そこで、また、あなたたちは、わたしを廃棄して、他の者たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する」と、このように、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。

 

 [1273]「この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに〔常に〕見ている者となり」とは、「恐怖」とは、生の恐怖、老の恐怖、病の恐怖、死の恐怖、王の恐怖、盗賊の恐怖、火の恐怖、水の恐怖、自己の批判の恐怖、他者の批判の恐怖、棒(刑罰)の恐怖、悪しき境遇の恐怖、波の恐怖、鰐の恐怖、渦の恐怖、鮫の恐怖、生計の恐怖、汚名の恐怖、衆のなかで恐れおののく恐怖、驕慢の恐怖、恐怖させるもの、驚愕、身の毛のよだつこと、心の、戦慄、恐懼。「親愛」とは、二つの親愛がある。(1)そして、渇愛の親愛であり、(2)さらに、見解の親愛である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の親愛である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の親愛である。「この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに〔常に〕見ている者となり」とは、この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに、〔常に〕見ている者として、〔常に〕視認している者として、〔常に〕注目している者として、〔常に〕凝視している者として、〔常に〕近しく注視している者として。ということで、「この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1274]「朋友たちや知人たちを慈しみながら(情をかけつつ)、〔その思いに〕心が縛られた者は、〔自他の〕義(利益)を失う。この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

124.

 

 [1275]38.(38) あたかも、〔枝や根が〕広く絡みついた竹のように、子たちにたいし、さらに、妻たちにたいし、〔まさに〕その、期待〔の思い〕がある。〔まとわりつくものが何もない〕竹の子のように、〔何にたいしても〕執着せずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(4)

 

 [1276]「あたかも、〔枝や根が〕広く絡みついた竹のように」とは、竹は、竹薮と説かれる。あたかも、竹薮において、諸々の古竹が、絡み、絡みつき、絡み合い、居着き、付着し、障害となっているように、まさしく、このように。執着(ヴィサッティカー)は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染、随貪、共感、愉悦、愉悦への貪欲、心の貪染、欲求、耽溺、固執、貪求、遍き貪求、執着(サンガ)、汚泥、動揺、幻惑、生じさせるもの(輪廻を生むもの)、産出させるもの(苦を生むもの)、貪愛(縫うもの)、網、流れ、執着(ヴィサッティカー)、糸、執着(ヴィサター)、専業するもの(業を作るもの)、伴侶、切願、〔迷いの〕生存に導くもの、〔欲の〕林、〔欲の〕林の下生え、親愛、愛執、期待、結縛、願望、願望すること、願望あること、形態への願望、音声への願望、臭気への願望、味感への願望、感触への願望、利得への願望、財産への願望、子供への願望、生命への願望、渇望、強き渇望、固き渇望、渇望すること、渇望あること、妄動、妄動すること、妄動あること、問尋あること、善を欲すること、法(正義)ならざるものへの貪欲(ラーガ)、不正への貪欲(ローバ)、欲念、欲念すること、切望、羨望、等しき切望、欲望の渇愛(欲愛)、生存の渇愛(有愛)、非生存の渇愛(非有愛)、形態〔の行境〕(色界)への渇愛、形態なき〔行境〕(無色界)への渇愛、止滅〔の入定〕(滅尽定)への渇愛、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛、激流、束縛、拘束、執取()、妨げ、妨害()、覆うもの、結縛するもの、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)、悪習(随眠)、妄執()、蔓、物欲、苦の根元、苦の因縁、苦の起源、悪魔の罠、悪魔の釣針、悪魔の餌、悪魔の境域、悪魔の居住、悪魔の境涯(※)、悪魔の結縛、渇愛の川、渇愛の網、渇愛の革紐、渇愛の海、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。

 

※ 平行箇所[207]により māragocaro を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [1277]「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。執着したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。広きもの(ヴィサーラ)、ということで、「執着」。拡散したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。不正なるもの(ヴィサマ)、ということで、「執着」。冒険する(ヴィサッカティ)、ということで、「執着」。収集する(ヴィサンハラティ)、ということで、「執着」。言葉を違える者(ヴィサンヴァーディカ)、ということで、「執着」。毒根(ヴィサムーラ)、ということで、「執着」。毒果(ヴィサパラ)、ということで、「執着」。毒の遍き受益(ヴィサパリボーガ)、ということで、「執着」。また、あるいは、その(※)渇愛は、広きもの(ヴィサーラ)にして、形態にたいし、音声にたいし、臭気にたいし、味感にたいし、感触にたいし、家にたいし、衆徒にたいし、居住にたいし、利得にたいし、盛名にたいし、賞賛にたいし、安楽にたいし、衣料にたいし、〔行乞の〕施食にたいし、臥坐具にたいし、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)にたいし、欲望の界域(欲界)にたいし、形態の界域(色界)にたいし、形態なき界域(無色界)にたいし、欲望の生存(欲有)にたいし、形態の生存(色有)にたいし、形態なき生存(無色有)にたいし、表象の生存(想有)にたいし、表象なき生存(無想有)にたいし、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)にたいし、一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存)にたいし、四つの組成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)にたいし、五つの組成としての生存(五蘊すべてを有する生存)にたいし、過去にたいし、未来にたいし、現在にたいし、諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。ということで、「あたかも、〔枝や根が〕広く絡みついた竹のように」。

 

※ 平行箇所[425]により sā を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [1278]「子たちにたいし、さらに、妻たちにたいし、〔まさに〕その、期待〔の思い〕がある」とは、「子」とは、四者の子がいる。実の子、国人の子、養子としての子、内弟子としての子である。妻たちは、夫人たちと説かれる。期待は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。ということで、「子たちにたいし、さらに、妻たちにたいし、〔まさに〕その、期待〔の思い〕がある」。

 

 [1279]「〔まとわりつくものが何もない〕竹の子のように、〔何にたいしても〕執着せずにいる者となり」とは、竹は、竹薮と説かれる。あたかも、竹薮において、諸々の幼い竹の子が、絡まず、付着せず、拘束されず、障害とならず、離欲し、出離し、解脱しているように、まさしく、このように。「執着」とは、二つの執着がある。(1)そして、渇愛の執着であり、(2)さらに、見解の執着である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の執着である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の執着である。その独正覚者の、渇愛の執着は〔すでに〕捨棄され、見解の執着は〔すでに〕放棄され、渇愛の執着が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の執着が〔すでに〕放棄されたことから、その独正覚者は、形態にたいし執着せず、音声にたいし執着せず、臭気にたいし執着せず、味感にたいし執着せず、感触にたいし執着せず、家にたいし……略……衆徒にたいし……居住にたいし……利得にたいし……盛名にたいし……賞賛にたいし……安楽にたいし……衣料にたいし……〔行乞の〕施食にたいし……臥坐具にたいし……病のための日用品たる薬の必需品にたいし……欲望の界域にたいし……形態の界域にたいし……形態なき界域にたいし……欲望の生存にたいし……形態の生存にたいし……形態なき生存にたいし……表象の生存にたいし……表象なき生存にたいし……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存にたいし……一つの組成としての生存にたいし……四つの組成としての生存にたいし……五つの組成としての生存にたいし……過去にたいし……未来にたいし……現在にたいし……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、執着せず、収取せず、結縛されず、障害されず、耽溺せず、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「〔まとわりつくものが何もない〕竹の子のように、〔何にたいしても〕執着せずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1280]「あたかも、〔枝や根が〕広く絡みついた竹のように、子たちにたいし、さらに、妻たちにたいし、〔まさに〕その、期待〔の思い〕がある。〔まとわりつくものが何もない〕竹の子のように、〔何にたいしても〕執着せずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

125.

 

 [1281]39.(39) たとえば、縛られていない〔野生の〕鹿が、林のなか、求めるままに餌場へと赴くように、識者たる人は、独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(5)

 

 [1282]「たとえば、縛られていない〔野生の〕鹿が、林のなか、求めるままに餌場へと赴くように」とは、「鹿」とは、二つの鹿がいる。そして、エーニ鹿であり、さらに、パサダ鹿である。たとえば、林にある鹿が、林や森を歩みながら、〔安心し〕信頼した者として赴き、〔安心し〕信頼した者として立ち、〔安心し〕信頼した者として坐り、〔安心し〕信頼した者として臥を営むように。

 

 [1283]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、林や森を歩みながら、〔安心し〕信頼した者として赴き、〔安心し〕信頼した者として立ち、〔安心し〕信頼した者として坐り、〔安心し〕信頼した者として臥を営むようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、猟師の視野に至らないからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [1284]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [1285]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。そして、〔彼は〕身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [1286]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [1287]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。

 

 [1288]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。……略……。

 

 [1289]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。……略……。

 

 [1290]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。……略……。

 

 [1291]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘は、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り、世における執着を超えた者となり』と説かれます。彼は、〔安心し〕信頼ある者として赴き、〔安心し〕信頼ある者として立ち、〔安心し〕信頼ある者として坐り、〔安心し〕信頼ある者として臥を営みます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、パーピマントの視野ならざるところに至ったからです」〔と〕。ということで、「たとえば、縛られていない〔野生の〕鹿が、林のなか、求めるままに餌場へと赴くように」。

 

 [1292]「識者たる人は、独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり」とは、「識者」とは、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「人(ナラ)は」とは、有情、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者は。「独存」とは、二つの独存がある。(1)法(性質)もまた、独存であり、(2)人もまた、独存である。(1)どのようなものが、法(性質)としての独存であるのか。四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分である。これが、法(性質)としての独存である。(2)どのようなものが、人としての独存であるのか。彼が、この独存の法(性質)を具備した者であるなら、彼は、人としての独存と説かれる。「識者たる人は、独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり」とは、識者たる人は、独存の法(性質)を、〔常に〕見ている者として、〔常に〕視認している者として、〔常に〕注目している者として、〔常に〕凝視している者として、〔常に〕近しく注視している者として。ということで、「識者たる人は、独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1293]「たとえば、縛られていない〔野生の〕鹿が、林のなか、求めるままに餌場へと赴くように、識者たる人は、独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

126.

 

 [1294]40.(40) 道友たちの中にあるなら、〔余計な〕相談事が有る──住居において、立所において、出行において、遊行において。〔愚者の〕貪り求めるところならざる独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(6)

 

 [1295]「道友たちの中にあるなら、〔余計な〕相談事が有る──住居において、立所において、出行において、遊行において」とは、道友たちは、彼らと共にあるなら、到来するに平穏である者たち、出行するに平穏である者たち、往来するに平穏である者たち、立つに平穏である者たち、坐るに平穏である者たち、臥すに平穏である者たち、語りかけるに平穏である者たち、語りかけ合うに平穏である者たち、語り込むに平穏である者たち、語り込み合うに平穏である者たち、と説かれる。「道友たちの中にあるなら、〔余計な〕相談事が有る──住居において、立所において、出行において、遊行において」とは、道友たちの中にあるなら、住居においてもまた、立所においてもまた、出行においてもまた、遊行においてもまた、自己の義(利益)についての相談があり、他者の義(利益)についての相談があり、両者の義(利益)についての相談があり、所見の法(現法:現世)の義(利益)についての相談があり、未来の義(利益)についての相談があり、最高の義(勝義:最高の真実)についての相談がある。ということで、「道友たちの中にあるなら、〔余計な〕相談事が有る──住居において、立所において、出行において、遊行において」。

 

 [1296]「〔愚者の〕貪り求めるところならざる独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり」とは、愚者たちにとって、正しからざる人にとって、異教の者たちにとって、異教の弟子たちにとって、この事態は、貪り求めるところならざるものとしてある。すなわち、この、剃髪し黄褐色の衣(袈裟)をまとうことである。賢者たちにとって、正なる人士たちにとって、覚者の弟子たちにとって、独覚たちにとって、この事態は、貪り求めるところのものとしてある。すなわち、この、剃髪し黄褐色の衣をまとうことである。「独存」とは、二つの独存がある。(1)法(性質)もまた、独存であり、(2)人もまた、独存である。(1)どのようなものが、法(性質)としての独存であるのか。四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分である。これが、法(性質)としての独存である。(2)どのようなものが、人としての独存であるのか。彼が、この独存の法(性質)を具備した者であるなら、彼は、人としての独存と説かれる。「〔愚者の〕貪り求めるところならざる独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり」とは、独存の法(性質)を、〔常に〕見ている者として、〔常に〕視認している者として、〔常に〕注目している者として、〔常に〕凝視している者として、〔常に〕近しく注視している者として。ということで、「〔愚者の〕貪り求めるところならざる独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1297]「道友たちの中にあるなら、〔余計な〕相談事が有る──住居において、立所において、出行において、遊行において。〔愚者の〕貪り求めるところならざる独存〔の境地〕を〔常に〕見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

127.

 

 [1298]41.(41) 道友たちの中にあるなら、遊興と歓楽が有る。そして、子たちにたいしては、広大なる愛情が有る。愛しいものとの別離〔の苦しみ〕を忌避している者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(7)

 

 [1299]「道友たちの中にあるなら、遊興と歓楽が有る」とは、「遊興」とは、二つの遊興がある。(1)そして、身体の属性としての遊興であり、(2)さらに、言葉の属性としての遊興である。(1)どのようなものが、身体の属性としての遊興であるのか。〔人々は〕象たちによってもまた遊び戯れ、馬たちによってもまた遊び戯れ、諸々の車によってもまた遊び戯れ、諸々の弓によってもまた遊び戯れ、諸々の剣によってもまた遊び戯れ、八目〔将棋〕によってもまた遊び戯れ、十目〔将棋〕によってもまた遊び戯れ、虚空〔将棋〕によってもまた遊び戯れ、けんけん遊びによってもまた遊び戯れ、山くずし遊びによってもまた遊び戯れ、さいころ遊びによってもまた遊び戯れ、ちゃんばら遊びによってもまた遊び戯れ、手形遊びによってもまた遊び戯れ、博打によってもまた遊び戯れ、葉笛によってもまた遊び戯れ、おもちゃの鋤によってもまた遊び戯れ、逆立ちによってもまた遊び戯れ、風車遊びによってもまた遊び戯れ、葉の枡遊びによってもまた遊び戯れ、車遊びによってもまた遊び戯れ、弓遊びによってもまた遊び戯れ、文字判じによってもまた遊び戯れ、意思判じによってもまた遊び戯れ、不具者の物真似によってもまた遊び戯れる。これが、身体の属性としての遊興である。

 

 [1300](2)どのようなものが、言葉の属性としての遊興であるのか。口の太鼓遊び、口の鼓、口の小鼓遊び、口の皺声遊び、口の鳴声遊び、口の擬音遊び、舞踊遊び、朗唱、歌詠、戯言である。これが、言葉の属性としての遊興である。

 

 [1301]「歓楽」とは、失望なきこと(満足)の同義語である。これが、「歓楽」ということになる。道友たちは、彼らと共にあるなら、到来するに平穏である者たち、出行するに平穏である者たち、往来するに平穏である者たち、立つに平穏である者たち、坐るに平穏である者たち、臥すに平穏である者たち、語りかけるに平穏である者たち、語りかけ合うに平穏である者たち、語り込むに平穏である者たち、語り込み合うに平穏である者たち、と説かれる。「道友たちの中にあるなら、遊興と歓楽が有る」とは、かつまた、遊興も、かつまた、歓楽も、道友たちの中において有る。ということで、「道友たちの中にあるなら、遊興と歓楽が有る」。

 

 [1302]「そして、子たちにたいしては、広大なる愛情が有る」とは、「子」とは、四者の子がいる。実の子、国人の子、養子としての子、内弟子としての子である。「そして、子たちにたいしては、広大なる愛情が有る」とは、そして、子たちにたいしては、旺盛なる愛情が有る。ということで、「そして、子たちにたいしては、広大なる愛情が有る」。

 

 [1303]「愛しいものとの別離〔の苦しみ〕を忌避している者となり」とは、「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しい有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちであり、あるいは、母として、あるいは、父として、あるいは、兄弟たちとして、あるいは、姉妹たちとして、あるいは、子たちとして、あるいは、娘たちとして、あるいは、朋友たちとして、あるいは、僚友たちとして、あるいは、親族たちとして、あるいは、血縁たちとして、〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しい有情たちである。

 

 [1304](2)どのようなものが、諸々の愛しい形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭気、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕である。「愛しいものとの別離〔の苦しみ〕を忌避している者となり」とは、諸々の愛しいものとの別離を、忌避している者として、苦悩している者として、自責している者として。ということで、「愛しいものとの別離〔の苦しみ〕を忌避している者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1305]「道友たちの中にあるなら、遊興と歓楽が有る。そして、子たちにたいしては、広大なる愛情が有る。愛しいものとの別離〔の苦しみ〕を忌避している者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

128.

 

 [1306]42.(42) 四方〔に慈しみの思い〕ある者は、そして、〔一切に〕敵対なき者と成る。いかなるものによっても満足している者となり、諸々の危難を打ち負かす驚愕なき者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(8)

 

 [1307]「四方〔に慈しみの思い〕ある者は、そして、〔一切に〕敵対なき者と成る」とは、「四方〔に慈しみの思い〕ある者」とは、その独正覚者は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住む。そのように、第二〔の方角〕を……。そのように、第三〔の方角〕を……。そのように、第四〔の方角〕を……。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住む。慈悲〔の思い〕()を共具した……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住む。そのように、第二〔の方角〕を……。そのように、第三〔の方角〕を……略……憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住む。「四方〔に慈しみの思い〕ある者は、そして、〔一切に〕敵対なき者と成る」とは、慈愛〔の心〕が修行されたことから、すなわち、東方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、南方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、西方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、北方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、東維にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、南維にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、西維にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、北維にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、下方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、上方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成る。慈悲〔の心〕が修行されたことから……略……。歓喜〔の心〕が修行されたことから……略……。放捨〔の心〕が修行されたことから、すなわち、東方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り……略……すなわち、〔四〕方と〔四〕維にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成る。ということで、「四方〔に慈しみの思い〕ある者は、そして、〔一切に〕敵対なき者と成る」。

 

 [1308]「いかなるものによっても満足している者となり」とは、その独正覚者は、いかなる衣料によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。そして、衣料を得なくても、思い悩まない。さらに、衣料を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる衣料によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「独正覚者として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕説かれる。いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。……略……。

 

 [1309]いかなる臥坐所によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。……略……。いかなる病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、病のための日用品たる薬の必需品を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。病のための日用品たる薬の必需品を得なくても、思い悩まない。病のための日用品たる薬の必需品を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「独正覚者として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕説かれる。ということで、「いかなるものによっても満足している者となり」。

 

 [1310]「諸々の危難を打ち負かす驚愕なき者となり」とは、「危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1)そして、諸々の明白なる危難であり、(2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。(1)どのようなものが、諸々の明白なる危難であるのか。獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蝎たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕若者たちが──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして──存するべきであり、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触、あるいは、かくのごときものである。これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。

 

 [1311](2)どのようなものが、諸々の隠蔽された危難であるのか。身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ない、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害()、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害、貪欲()、憤怒()、迷妄()、忿激(忿)、怨恨()、偽装()、加虐()、嫉妬()、物惜()、幻惑()、狡猾()、強情()、激昂()、思量()、高慢(過慢)、驕慢()、放逸、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)、一切の悪しき行ない、一切の懊悩、一切の苦悶、一切の熱苦、一切の善ならざる行作(現行)である。これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。

 

 [1312]「諸々の危難(パリッサヤ)」とは、どのような義(意味)によって、諸々の危難となるのか。(1)遍く打ち負かす(パリサハティ)、ということで、「諸々の危難」。(2)遍き衰退(パリハーヤ)のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。(3)そこに依拠するもの(アーサヤ)、ということで、「諸々の危難」。(1)どのように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。このように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1313](2)どのように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、諸々の善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。どのような諸々の善なる法(性質)の、であるのか。正しい〔実践の〕道の、〔真理に〕随順する〔実践の〕道の、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道の、義(意味)のままなる〔実践の〕道の、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道の、諸戒における円満成就を作り為すことの、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていることの、食について量を知ることの、〔眠らずに〕起きていることへの専念の、気づきと正知の、四つの気づきの確立(四念住・四念処:身体と感受と心と法についての気づき)の修行への専念の、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)の……四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)の……五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)の……五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)の……七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)の……聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の修行への専念の──これらの善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。このように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1314](3)どのように、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」となるのか。そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態(個我的あり方・身体)の依所とする。たとえば、穴には穴に依拠する命あるものたちが臥し、水には水に依拠する命あるものたちが臥し、林には林に依拠する命あるものたちが臥し、木には木に依拠する命あるものたちが臥すように、まさしく、このように、そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1315]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、では、どのように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む(アンヴァーサヴァティ)、ということで、それゆえに、『内弟子(アンテーヴァーシカ)を有する』と説かれます。その慣行によって、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる(サムダーチャラティ)、ということで、それゆえに、『師匠(アーチャリヤ)を有する』と説かれます。

 

 [1316]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……舌によって、味感を味わって……身によって、感触と接触して……意によって、法(意の対象)を識知して、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む、ということで、それゆえに、『内弟子を有する』と説かれます。その慣行によって、諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる、ということで、それゆえに、『師匠を有する』と説かれます。比丘たちよ、まさに、このように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます」と。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1317]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。憤怒()は……略……。迷妄()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものがあります。

 

 [1318]〔そこで、詩偈に言う〕『義(道理)ならざるものを生むのが、貪欲〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、貪欲〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1319]貪る者は、義(道理)を知らない。貪る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、貪欲〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [1320]義(道理)ならざるものを生むのが、憤怒〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、憤怒〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1321]怒る者は、義(道理)を知らない。怒る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、憤怒〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [1322]義(道理)ならざるものを生むのが、迷妄〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、迷妄〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1323]迷う者は、義(道理)を知らない。迷う者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、迷妄〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る』」と。

 

 [1324]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1325]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「大王よ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、憤怒という……略……。大王よ、まさに、迷妄という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。

 

 [1326]〔そこで、詩偈に言う〕『貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する──果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕ように、自己から発生した〔三つのもの〕が』」と。

 

 [1327]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1328]さらに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 

 [1329]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、貪欲は、さらに、憤怒は、因縁として〔まさに〕これ〔自身〕から〔生じる〕(自己自身から生起する)。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、〔まさに〕これ〔自身〕から生じる。諸々の思考は、〔まさに〕これ〔自身〕から現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てる〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」と。

 

 [1330]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1331]「諸々の危難を打ち負かす」とは、諸々の危難を、打ち負かす者として、克服する者として、覆い尽くす者として、完全に奪い去る者として、放棄する者として。ということで、「諸々の危難を打ち負かす」。

 

 [1332]「驚愕なき者となり」とは、その独正覚者は、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕住む。ということで、「諸々の危難を打ち負かす驚愕なき者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1333]「四方〔に慈しみの思い〕ある者は、そして、〔一切に〕敵対なき者と成る。いかなるものによっても満足している者となり、諸々の危難を打ち負かす驚愕なき者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

129.

 

 [1334]43.(43) 出家者たちでさえも、或る者たちは救い難く、さらに、家に居住している在家の者たちも〔救い難い〕。他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(9)

 

 [1335]「出家者たちでさえも、或る者たちは救い難く」とは、出家者たちでさえも、ここに、一部の者たちは、依所(師匠)が与えられているときでさえも、誦説(聖典)が与えられているときでさえも、遍問(義釈)が与えられているときでさえも、衣料が与えられているときでさえも、鉢が与えられているときでさえも、銅椀が与えられているときでさえも、水瓶が与えられているときでさえも、濾過器が与えられているときでさえも、袋が与えられているときでさえも、履物が与えられているときでさえも、身体を縛る〔帯〕が与えられているときでさえも、〔教えを〕聞かず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、〔教えを〕聞かない者たちであり、言葉を為さない者たちであり、逆転する者たちであり、まさしく、他によって、口を為す(教えと異なることを話す)。ということで、「出家者たちでさえも、或る者たちは救い難く」。

 

 [1336]「さらに、家に居住している在家の者たちも〔救い難い〕」とは、在家の者たちもまた、ここに、一部の者たちは、象が与えられているときでさえも、車が与えられているときでさえも、田畑が与えられているときでさえも、地所が与えられているときでさえも、金貨が与えられているときでさえも、黄金が与えられているときでさえも、村が与えられているときでさえも、町が与えられているときでさえも、城市が与えられているときでさえも、国土が与えられているときでさえも、地方が与えられているときでさえも、〔教えを〕聞かず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、〔教えを〕聞かない者たちであり、言葉を為さない者たちであり、逆転する者たちであり、まさしく、他によって、口を為す(教えと異なることを話す)。ということで、「さらに、家に居住している在家の者たちも〔救い難い〕」。

 

 [1337]「他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成って」とは、自己を除いて、一切の者たちが、この義(意味)における、他者の子たちとなる。それらの他者の子たちにたいし、思い入れ少なき者と成って、多忙ならざる者と成って、期待なき者と成って。ということで、「他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1338]「出家者たちでさえも、或る者たちは救い難く、さらに、家に居住している在家の者たちも〔救い難い〕。他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

130.

 

 [1339]44.(44) あたかも、落葉した黒檀のように、諸々の在家の特徴を取り去って、勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(10)

 

 [1340]「諸々の在家の特徴を取り去って」とは、諸々の在家の特徴は、そして、諸々の髪、そして、諸々の髭、そして、花飾、そして、香料、そして、塗料、そして、装飾品、そして、装身具、そして、衣、そして、臥坐具、そして、頭巾、塗身、按摩、沐浴、洗髪、鏡、塗薬、花飾の塗料、口の塗粉、口紅、腕飾、頭飾、杖、筒、剣、傘、彩色ある履物、髻、宝珠、毛扇、諸々の白衣、諸々の長袖、あるいは、かくのごときもの、と説かれる。「諸々の在家の特徴を取り去って」とは、諸々の在家の特徴を、取り払って、等しく取り払って、捨て置いて、静息させて。ということで、「諸々の在家の特徴を取り去って」。

 

 [1341]「あたかも、落葉した黒檀のように」とは、あたかも、黒檀の諸々の葉が、断たれ、等しく断たれ、落ち、遍く落ちたように、まさしく、このように、その独正覚者の諸々の在家の特徴は、断たれ、等しく断たれ、落ちたものとしてある。ということで、「あたかも、落葉した黒檀のように」。

 

 [1342]「勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って」とは、「勇者は」とは、精進ある者、ということで、「勇者」。可能なる者、ということで、「勇者」。発出ある者、ということで、「勇者」。十分なる自己ある者、ということで、「勇者」。勇士たる者、ということで、「勇者」。勇猛なる者、恐怖なき者、驚愕なき者、恐懼なき者、逃げない者、恐怖と恐ろしさを捨棄した者、ということで、「勇者」。身の毛のよだつことを離れ去った者、ということで、「勇者」。

 

 [1343]〔そこで、詩偈に言う〕「この〔世において〕、一切の悪しき〔行為〕から離れた者は、地獄の苦しみを超え行って、精進ある者として、彼は〔世に有る〕。彼は、精進ある者として、精励ある者として、真実なることから、如なる者は、『勇者(※)』〔と〕呼ばれる」と。

 

※ テキストには dhīro とあるが、平行箇所[760]により vīro と読む(PTS版は記載なし)。

 

 [1344]諸々の在家の結縛は、かつまた、子たち、かつまた、妻たち、かつまた、奴婢たち、かつまた、奴隷たち、かつまた、山羊や羊たち、かつまた、鶏や豚たち、かつまた、象や牛や馬や騾馬たち、かつまた、田畑、かつまた、地所、かつまた、金貨、かつまた、黄金、かつまた、村や町や王都、かつまた、国土、かつまた、地方、かつまた、蔵、かつまた、貯蔵庫、それが何であれ、貪るべき事物、と説かれる。

 

 [1345]「勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って」とは、その独正覚者は、勇者として、諸々の在家の結縛を、断ち切って、等しく断ち切って、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1346]「あたかも、落葉した黒檀のように、諸々の在家の特徴を取り去って、勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

 [1347]〔以上が〕第一の章となる。

 

3. 2. 第二の章

 

131.

 

 [1348]45.(45) それで、もし、賢明なる道友を得るなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た者となり、気づきある者として、彼とともに、歩むがよい。(1)

 

 [1349]「それで、もし、賢明なる道友を得るなら」とは、それで、もし、賢明なる者を、賢者を、智慧ある者を、覚慧ある者を、知恵ある者を、分明ある者を、思慮ある者を、道友として、得るなら、獲得するなら、到達するなら、見出すなら。ということで、「それで、もし、賢明なる道友を得るなら」。

 

 [1350]「共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕」とは、「共に歩む」とは、一緒に歩む者を。「善き住者たる」とは、第一の瞑想によってもまた、善き住者(瞑想の熟達者)たる者を、第二の瞑想によってもまた……第三の瞑想によってもまた……第四の瞑想によってもまた、善き住者たる者を、慈愛の心による解脱によってもまた、善き住者たる者を、慈悲の心による解脱によってもまた……略……歓喜の心による解脱によってもまた……放捨の心による解脱によってもまた、善き住者たる者を、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によってもまた、善き住者たる者を、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によってもまた……略……無所有なる〔認識の〕場所への入定によってもまた……略……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によってもまた、善き住者たる者を、止滅の入定によってもまた、善き住者たる者を、果の入定によってもまた、善き住者たる者を。「慧者を〔得るなら〕」とは、慧者を〔得るなら〕、賢者を〔得るなら〕、智慧ある者を〔得るなら〕、覚慧ある者を〔得るなら〕、知恵ある者を〔得るなら〕、分明ある者を〔得るなら〕、思慮ある者を〔得るなら〕。ということで、「共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕」。

 

 [1351]「一切の危難を征服して」とは、「危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1)そして、諸々の明白なる危難であり、(2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。(1)……略([1310]参照)……これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。(2)……略([1311]参照)……これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。……略([1312-1329]参照)……。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「一切の危難を征服して」とは、一切の危難を、征して、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって。ということで、「一切の危難を征服して」。

 

 [1352]「わが意を得た者となり、気づきある者として、彼とともに、歩むがよい」とは、その独正覚者は、〔まさに〕その、賢者とともに、智慧ある者とともに、覚慧ある者とともに、知恵ある者とともに、分明ある者とともに、思慮ある者とともに、〔彼を〕道友として共に、わが意を得た者となり、満足した意ある者となり、笑喜した意ある者となり、欣喜した意ある者となり、勇躍する意ある者となり、歓喜した意ある者となり、〔世を〕歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔行ないを〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「わが意を得た者となり」「彼とともに、歩むがよい」。「気づきある者として」とは、その独正覚者は、気づきある者として〔世に〕有る──最高の気づきと賢明さを具備した者として、長きに為されたことをもまた、長きに語られたことをもまた、思念する者であり、随念する者である。ということで、「わが意を得た者となり、気づきある者として、彼とともに、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1353]「それで、もし、賢明なる道友を得るなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た者となり、気づきある者として、彼とともに、歩むがよい」と。

 

132.

 

 [1354]46.(46) もし、賢明なる道友を得ないなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕、征圧した国土を捨棄して〔出家する〕王のように、犀の角のように、独り、歩むがよい。(2)

 

 [1355]「もし、賢明なる道友を得ないなら」とは、もし、賢明なる者を、賢者を、智慧ある者を、覚慧ある者を、知恵ある者を、分明ある者を、思慮ある者を、道友として、得ることが、獲得することが、到達することが、見出すことが、ないなら。ということで、「もし、賢明なる道友を得ないなら」。

 

 [1356]「共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕」とは、「共に歩む」とは、一緒に歩む者を。「善き住者たる」とは、第一の瞑想によってもまた、善き住者(瞑想の熟達者)たる者を……略([1350]参照)……止滅の入定によってもまた、善き住者たる者を、果の入定によってもまた、善き住者たる者を。「慧者を〔得ないなら〕」とは、慧者を〔得ないなら〕、賢者を〔得ないなら〕、智慧ある者を〔得ないなら〕、覚慧ある者を〔得ないなら〕、知恵ある者を〔得ないなら〕、分明ある者を〔得ないなら〕、思慮ある者を〔得ないなら〕。ということで、「共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕」。

 

 [1357]「征圧した国土を捨棄して〔出家する〕王のように」とは、士族の王が、即位灌頂し、戦場を征圧し、対立者を打倒し、志向するところを得た者でありながら、蔵と貯蔵庫が遍く満ちた者でありながら、かつまた、国土を、かつまた、地方を、かつまた、蔵を、かつまた、貯蔵庫を、かつまた、多大なる金貨や黄金ある城市を、遍く捨て去って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、独正覚者もまた、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「征圧した国土を捨棄して〔出家する〕王のように、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1358]「もし、賢明なる道友を得ないなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕、征圧した国土を捨棄して〔出家する〕王のように、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

133.

 

 [1359]47.(47) たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就(獲得)を賞賛する。最勝の者たちであるなら、同等の者たちであるなら、道友として慣れ親しむべきである。これらの者たちを得ずしては、罪過なき〔施物〕を受益する者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(3)

 

 [1360]「たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就(獲得)を賞賛する」とは、「たしかに」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、誤解なき言葉、亡失なき言葉、確保する言葉。これが、「たしかに」ということになる。「道友の成就を」とは、道友の成就は、すなわち、〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇を……〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇を……〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を……〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有る、〔まさに〕その、道友と説かれる。「たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就を賞賛する」とは、道友の成就を、〔わたしたちは〕賞賛する、〔わたしたちは〕賛嘆する、〔わたしたちは〕名誉とする、〔わたしたちは〕栄誉とする。ということで、「たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就を賞賛する」。

 

 [1361]「最勝の者たちであるなら、同等の者たちであるなら、道友として慣れ親しむべきである」とは、戒によって、禅定によって、智慧によって、解脱によって、解脱の知見によって、最勝の道友たちとして〔世に〕有り、戒によって、禅定によって、智慧によって、解脱によって、解脱の知見によって、等しく同等の道友たちとして〔世に〕有る。あるいは、最勝の道友たちであるなら、あるいは、同等の道友たちであるなら、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきであり、遍く問い尋ねるべきであり、遍く質問するべきである。ということで、「最勝の者たちであるなら、同等の者たちであるなら、道友として慣れ親しむべきである」。

 

 [1362]「これらの者たちを得ずしては、罪過なき〔施物〕を受益する者となり」とは、(1)罪過を有するものを受益する人が存在する。(2)罪過なきものを受益する人が存在する。(1)では、どのような者が、罪過を有するものを受益する人であるのか。ここに、一部の人は、虚言によって、饒舌によって、予言によって、詐術によって、利得による利得の追求によって、木を与えることによって、竹を与えることによって、葉を与えることによって、花を与えることによって、果を与えることによって、洗粉を与えることによって、塗粉を与えることによって、塗料を与えることによって、楊枝を与えることによって、洗顔水を与えることによって、追従によって、豆汁たること(半煮えの虚言)によって、機嫌取りによって、陰口によって、地相術によって、畜生術によって、人相術よって、占星術によって、使者の派遣によって、使節の派遣によって、使い走りによって、医療行為によって、新築行為によって、〔行乞の〕食のやりとりによって、施し物のやりとりによって、法(真理)ならざるものによって、不正によって、得て、獲て、到達して、見出して、獲得して、生計を営む。この者が、罪過を有するものを受益する人と説かれる。

 

 [1363](2)では、どのような者が、罪過なきものを受益する人であるのか。ここに、一部の人は、虚言によってではなく、饒舌によってではなく、予言によってではなく、詐術によってではなく、利得による利得の追求によってではなく、木を与えることによってではなく、竹を与えることによってではなく、葉を与えることによってではなく、花を与えることによってではなく、果を与えることによってではなく、洗粉を与えることによってではなく、塗粉を与えることによってではなく、塗料を与えることによってではなく、楊枝を与えることによってではなく、洗顔水を与えることによってではなく、追従によってではなく、豆汁たること(半煮えの虚言)によってではなく、機嫌取りによってではなく、陰口によってではなく、地相術によってではなく、畜生術によってではなく、人相術よってではなく、占星術によってではなく、使者の派遣によってではなく、使節の派遣によってではなく、使い走りによってではなく、医療行為によってではなく、新築行為によってではなく、〔行乞の〕食のやりとりによってではなく、施し物のやりとりによってではなく、法(真理)によって、正義によって、得て、獲て、到達して、見出して、獲得して。生計を営む。この者が、罪過なきものを受益する人と説かれる。

 

 [1364]「これらの者たちを得ずしては、罪過なき〔施物〕を受益する者となり」とは、これらの者たちを、得ずしては、獲ずしては、到達せずしては、見出さずしては、獲得せずしては、罪過なき〔施物〕を受益する者となり。ということで、「これらの者たちを得ずしては、罪過なき〔施物〕を受益する者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1365]「たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就(獲得)を賞賛する。最勝の者たちであるなら、同等の者たちであるなら、道友として慣れ親しむべきである。これらの者たちを得ずしては、罪過なき〔施物〕を受益する者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

134.

 

 [1366]48.(48) 細工師の子が見事に仕立てた、金の光り輝く〔二つの腕輪〕を見て、〔まさに、その〕二つ〔の腕輪〕が、腕にあって相打っているのを〔見て〕、犀の角のように、独り、歩むがよい。(4)

 

 [1367]「金の光り輝く〔二つの腕輪〕を見て」とは、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「金の」とは、黄金の。「光り輝く〔二つの腕輪〕を」とは、完全なる清浄の〔二つの腕輪〕を、完全なる清白の〔二つの腕輪〕を。ということで、「金の光り輝く〔二つの腕輪〕を見て」。

 

 [1368]「細工師の子が見事に仕立てた」とは、細工師の子は、金工と説かれる。「細工師の子が見事に仕立てた」とは、細工師の子によって、見事に仕立てられた、見事に作られた、完全無欠の作業が為された。ということで、「細工師の子が見事に仕立てた」。

 

 [1369]「〔まさに、その〕二つ〔の腕輪〕が、腕にあって相打っているのを〔見て〕」とは、腕は、手と説かれる。たとえば、一つの手において、二つの環が相打つように、まさしく、このように、有情たちは、渇愛を所以に、見解を所以に、地獄において相打ち、畜生の胎において相打ち、餓鬼の境域において相打ち、人間の世において相打ち、天の世において相打ち、境遇から境遇へと、再生から再生へと、結生から結生へと、生存から生存へと、輪廻から輪廻へと、転起から転起へと、相打ち、等しく相打ち、等しく相打っている者たちとして、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「〔まさに、その〕二つ〔の腕輪〕が、腕にあって相打っているのを〔見て〕、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1370]「細工師の子が見事に仕立てた、金の光り輝く〔二つの腕輪〕を見て、〔まさに、その〕二つ〔の腕輪〕が、腕にあって相打っているのを〔見て〕、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

135.

 

 [1371]49.(49) このように、伴侶(連れの者)と共にあるなら、わたしには、虚論の言葉が、あるいは、執着が、存するであろう。この恐怖を、未来に見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(5)

 

 [1372]「このように、伴侶(連れの者)と共にあるなら、わたしには」「存するであろう」とは、(1)あるいは、渇愛を伴侶とする者が〔世に〕有る。(2)あるいは、人を伴侶とする者が〔世に有る〕。(1)どのように、渇愛を伴侶とする者が〔世に〕有るのか。「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。彼の、この渇愛が、〔いまだ〕捨棄されていないなら、彼は、渇愛を伴侶とする者と説かれる。

 

 [1373]〔そこで、詩偈に言う〕「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない」と。

 

 [1374]このように、渇愛を伴侶とする者が〔世に〕有る。

 

 [1375](2)どのように、人を伴侶とする者が〔世に〕有るのか。ここに、一部の者は、義(道理)を因とする者ではなく、〔正しい〕契機を因とする者ではなく、〔心が〕高揚した者として、寂止していない心の者として、あるいは、一者がいるなら、第二者と成り、あるいは、二者がいるなら、第三者と成り、三者がいるなら、第四者と成り、そこにおいて、多くの雑談や虚論を交わす。それは、すなわち、この、王についての議論を、盗賊についての議論を、大臣についての議論を、軍団についての議論を、恐怖についての議論を、戦争についての議論を、食べ物についての議論を、飲み物についての議論を、衣についての議論を、臥具についての議論を、花飾についての議論を、香料についての議論を、親族についての議論を、乗物についての議論を、村についての議論を、町についての議論を、城市についての議論を、地方についての議論を、女についての議論を、勇士についての議論を、道端の議論を、井戸端の議論を、過去の亡者(祖先)についての議論を、種々なることについての議論を、世についての言論を、海についての言論を、かく有り〔かく〕無しについての議論を、議論する。このように、人を伴侶とする者が〔世に〕有る。ということで、「このように、伴侶と共にあるなら、わたしには」「存するであろう」。

 

 [1376]「虚論の言葉が、あるいは、執着が」とは、虚論は、三十二の畜生の議論(無用論・無駄話:マハー・ニッデーサ・迅速の経についての釈示[1449]参照)と説かれる。それは、すなわち、この、王についての議論……略……かく有り〔かく〕無しについての議論である。「あるいは、執着が」とは、二つの執着がある。(1)そして、渇愛の執着であり、(2)さらに、見解の執着である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の執着である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の執着である。ということで、「虚論の言葉が、あるいは、執着が」。

 

 [1377]「この恐怖を、未来に見ている者となり」とは、「恐怖」とは、生の恐怖、老の恐怖、病の恐怖、死の恐怖、王の恐怖、盗賊の恐怖、火の恐怖、水の恐怖、自己の批判の恐怖、他者の批判の恐怖、棒(刑罰)の恐怖、悪しき境遇の恐怖、波の恐怖、鰐の恐怖、渦の恐怖、鮫の恐怖、生計の恐怖、汚名の恐怖、衆のなかで恐れおののく恐怖、驕慢の恐怖、恐怖させるもの、驚愕、身の毛のよだつこと、心の、戦慄、恐懼。「この恐怖を、未来に見ている者となり」とは、この恐怖を、未来に、見ている者として、視認している者として、注目している者として、凝視している者として、近しく注視している者として。ということで、「この恐怖を、未来に見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1378]「このように、伴侶(連れの者)と共にあるなら、わたしには、虚論の言葉が、あるいは、執着が、存するであろう。この恐怖を、未来に見ている者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

136.

 

 [1379]50.(50) まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。種々様々な形態で、〔人の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の属性(妙欲:色・声・香・味・触)のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(6)

 

 [1380]「まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「様々で」とは、種々なる種別ある諸々の形態、種々なる種別ある諸々の音声、種々なる種別ある諸々の臭気、種々なる種別ある諸々の味感、種々なる種別ある諸々の感触で、諸々の好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきもの。「〔蜜のように〕甘美で」とは、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲:色・声・香・味・触)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。糞便の安楽であり、凡夫の安楽であり、聖ならざる安楽であり、習修するべきではなく、修めるべきではなく、多く為すべきではなく、『この安楽には、恐怖するべきものがある』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。ということで、「まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で」。「意が喜びとするものである」とは、「意」とは、すなわち、心……略([250]参照)……それに応じる意の識知〔作用〕の界域である。意を、喜ばせる、賛嘆する、満足させる、笑喜させる。ということで、「まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである」。

 

 [1381]「種々様々な形態で、〔人の〕心を掻き乱す」とは、種々なる種別ある諸々の形態によって……略……種々なる種別ある諸々の感触によって、心を、掻き乱す、満足させる、笑喜させる。ということで、「種々様々な形態で、〔人の〕心を掻き乱す」。

 

 [1382]「〔この〕危険を、諸々の欲望の属性のうちに見て」とは、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、では、何が、諸々の欲望の危険なのですか。比丘たちよ、ここに、良家の子息が、何らかの技能の境位によって──もしくは、指算によって、もしくは、計算によって、もしくは、目算によって、もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって──生計を営むとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつあります。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇(苦蘊)であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 [1383]比丘たちよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されないなら、彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『まさに、わたしの奮起は、無駄である。まさに、わたしの努力は、無果である』と。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 [1384]比丘たちよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されるなら、彼は、それらの財物の守護を事因とする、苦痛と失意を得知します。『どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか』と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『それもまた、わたしに有ったが、それもまた、まさに、存在しない』と。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 [1385]比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 [1386]比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、両軍のいる戦場に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 [1387]比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、しっかりと塗り固められた諸々の要塞に跳入します──諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、〔煮込んだ〕牛糞をもまた注ぎ落とし、大群によってもまた押し潰し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 [1388]比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴きます(不倫をする)。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行します。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り……略([1006]参照)……剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

 

 [1389]比丘たちよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼らは、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。未来のものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです」と。

 

 [1390]「〔この〕危険を、諸々の欲望の属性(妙欲)のうちに見て」とは、諸々の欲望の属性のうちに、危険を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「〔この〕危険を、諸々の欲望の属性のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1391]「まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。種々様々な形態で、〔人の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の属性(妙欲:色・声・香・味・触)のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

137.

 

 [1392]51.(51) これは、わたしにとって、かつまた、疾患であり、かつまた、腫物であり、かつまた、禍であり、かつまた、病であり、かつまた、矢であり、かつまた、恐怖である。この恐怖を、諸々の欲望の属性のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(7)

 

 [1393]「これは、わたしにとって、かつまた、疾患であり、かつまた、腫物であり、かつまた、禍であり、かつまた、病であり、かつまた、矢であり、かつまた、恐怖である」とは、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『苦痛』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『病』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『腫物』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『矢』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『執着』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『汚泥』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『胎』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、では、何ゆえに、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語なのですか。比丘たちよ、そして、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に染まり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に結縛された、この者は、所見の法(現世)としての恐怖からもまた完全に解き放たれず、未来のものとしての恐怖からもまた完全に解き放たれないことから、それゆえに、『恐怖』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、では、何ゆえに、『苦痛』とは……略……『病』とは……『腫物』とは……『矢』とは……『執着』とは……『汚泥』とは……『胎』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語なのですか。比丘たちよ、そして、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に染まり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に結縛された、この者は、所見の法(現世)としての恐怖からもまた完全に解き放たれず、未来のものとしての恐怖からもまた完全に解き放たれないことから、それゆえに、『胎』とは、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。

 

 [1394]〔そこで、詩偈に言う〕『恐怖、そして、苦痛、そして、病、腫物、そして、矢、そして、執着──さらに、同様に、汚泥と胎──そこにおいて、〔迷える〕凡夫が執着している、これらのものは、諸々の欲望〔の対象〕と呼ばれる。

 

 [1395]快なる形態によって〔心を奪われ、これらのうちに〕沈んだ者は、ふたたび、〔母の〕胎に赴く。しかしながら、すなわち、比丘が熱情ある者であり、正知が遠ざからないことから──

 

 [1396]彼は、この障害たる難所を超え行って、そのような種類の者は、生と老に近しく至り〔恐怖に〕震えおののいている人々を、〔あるがままに〕注視する』」〔と〕。ということで──

 

 [1397]「これは、わたしにとって、かつまた、疾患であり、かつまた、腫物であり、かつまた、禍であり、かつまた、病であり、かつまた、矢であり、かつまた、恐怖である」。

 

 [1398]「この恐怖を、諸々の欲望の属性のうちに見て」とは、この恐怖を、諸々の欲望の属性のうちに、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「この恐怖を、諸々の欲望の属性のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1399]「これは、わたしにとって、かつまた、疾患であり、かつまた、腫物であり、かつまた、禍であり、かつまた、病であり、かつまた、矢であり、かつまた、恐怖である。この恐怖を、諸々の欲望の属性のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

138.

 

 [1400]52.(52) そして、寒さを、さらに、暑さを、飢えを、渇きを、諸々の風と熱を、かつまた、諸々の虻と蛇を──これらを、一切もろともに征服して、犀の角のように、独り、歩むがよい。(8)

 

 [1401]「そして、寒さを、さらに、暑さを、飢えを、渇きを」とは、「寒さ」とは、二つの契機によって、寒さと成る。あるいは、内部の界域の動乱(体調不良)を所以に、寒さと成り、あるいは、外なる季節を所以に、寒さと成る。「暑さ」とは、二つの契機によって、暑さと成る。あるいは、内部の界域の動乱(体調不良)を所以に、暑さと成り、あるいは、外なる季節を所以に、暑さと成る。飢えは、空腹と説かれる。渇きは、水の渇きと説かれる。ということで、「そして、寒さを、さらに、暑さを、飢えを、渇きを」。

 

 [1402]「諸々の風と熱を、かつまた、諸々の虻と蛇を」とは、「諸々の風」とは、諸々の東の風、諸々の西の風、諸々の北の風、諸々の南の風、諸々の塵を有する風、諸々の塵なき風、諸々の冷風、諸々の熱風、諸々の微風、諸々の烈風、諸々の季節の風(台風)、諸々の翼の風、諸々の金翅鳥の風、諸々のターラの葉(扇)の風、諸々の扇の風。熱は、太陽の熱苦と説かれる。虻たちは、赤眼蝿たちと説かれる。蛇(サリーサパ)たちは、蛇(アヒ)たちと説かれる。ということで、「諸々の風と熱を、かつまた、諸々の虻と蛇を」。

 

 [1403]「これらを、一切もろともに征服して」とは、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって。ということで、「これらを、一切もろともに征服して、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1404]「そして、寒さを、さらに、暑さを、飢えを、渇きを、諸々の風と熱を、かつまた、諸々の虻と蛇を──これらを、一切もろともに征服して、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

139.

 

 [1405]53.(53) 肩が立派に生育した、蓮華〔の紋〕ある、巨大な象のように、諸々の群れを避けて、林のなかで喜びのままに住み、犀の角のように、独り、歩むがよい。(9)

 

 [1406]「象のように、諸々の群れを避けて」とは、象(ナーガ)は、巨象と説かれる。独正覚者もまた、龍(ナーガ)である。何を契機とすることから、独正覚者は、龍であるのか。(1)罪悪(アーグ)を為さない(ナ・カローティ)、ということで、「龍」。(2)赴かない(ナ・ガッチャティ)、ということで、「龍」。(3)帰り来ない(ナ・アーガッチャティ)、ということで、「龍」。(1)どのように、その独正覚者は、罪悪を為さない、ということで、「龍」となるのか。罪悪は、諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすもの、と説かれる。

 

 [1407]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、世において、何であれ、罪悪を作らず、一切の束縛を捨て去って、〔一切の〕結縛を〔捨て去って〕、一切所において執着しない、解脱者──真実なることから、如なる者は、『龍』〔と〕呼ばれます」と。

 

 [1408]このように、その独正覚者は、罪悪を為さない、ということで、「龍(象)」。

 

 [1409](2)どのように、その独正覚者は、赴かない、ということで、「龍」となるのか。欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、諸々の党派の営為によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。このように、その独正覚者は、赴かない、ということで、「龍(象)」。

 

 [1410](3)どのように、その独正覚者は、帰り来ない、ということで、「龍」となるのか。預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって……不還道によって……阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。このように、その独正覚者は、帰り来ない、ということで、「龍(象)」。

 

 [1411]「象のように、諸々の群れを避けて」とは、たとえば、その巨象が、諸々の群れを、避けて、遍く避けて、回避して、まさしく、独り、林地や林野に深く分け入って、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行くように、独正覚者もまた、衆徒を、避けて、遍く避けて、回避して、独り、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「象のように、諸々の群れを避けて」。

 

 [1412]「肩が立派に生育した、蓮華〔の紋〕ある、巨大な」とは、たとえば、その巨象が、肩(カンダ)が立派に生育し、あるいは、七ラタナ(長さの単位・一ラタナは約五十センチ)と成り、あるいは、八ラタナと〔成る〕ように、独正覚者もまた、〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇(戒蘊)によって、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)によって、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)によって、〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇によって、〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇によって、範疇(カンダ)が立派に生育している。たとえば、その巨象が、蓮華〔の紋〕があるように、独正覚者もまた、気づきという正覚の支分(念覚支)の花によって、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)の花によって、精進という正覚の支分(精進覚支)の花によって、喜悦という正覚の支分(喜覚支)の花によって、静息という正覚の支分(軽安覚支)の花によって、禅定という正覚の支分(定覚支)の花によって、放捨という正覚の支分(捨覚支)の花によって、七つの覚りの支分の花によって、蓮華〔の紋〕がある。たとえば、その巨象が、強さによって、力によって、速さによって、勇ましさによって、巨大(ウラーラ)であるように、独正覚者もまた、戒によって、禅定によって、智慧によって、解脱によって、解脱の知見によって、秀逸(ウラーラ)である。ということで、「肩が立派に生育した、蓮華〔の紋〕ある、巨大な」。

 

 [1413]「林のなかで喜びのままに住み」とは、たとえば、その巨象が、林のなかで喜びのままに住むように、独正覚者もまた、林のなかで喜びのままに住む。第一の瞑想によって、林のなかで喜びのままに住み、第二の瞑想によって……第三の瞑想によって……第四の瞑想によって、林のなかで喜びのままに住み、慈愛の心による解脱によってもまた、林のなかで喜びのままに住み、慈悲の心による解脱によってもまた……歓喜の心による解脱によってもまた……放捨の心による解脱によってもまた、林のなかで喜びのままに住み、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定によってもまた、林のなかで喜びのままに住み、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定によってもまた……無所有なる〔認識の〕場所への入定によってもまた……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定によってもまた……止滅の入定によってもまた……果の入定によってもまた、林のなかで喜びのままに住む。ということで、「林のなかで喜びのままに住み、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1414]「肩が立派に生育した、蓮華〔の紋〕ある、巨大な象のように、諸々の群れを避けて、林のなかで喜びのままに住み、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

140.

 

 [1415]54.(54) 〔他者との〕社交を喜ぶ者には、すなわち、〔彼が〕暫時の解脱に触れるであろう、その状況は〔見出され〕ない。太陽の眷属(ブッダ)の言葉をこころして聞いて、犀の角のように、独り、歩むがよい。(10)

 

 [1416]「〔他者との〕社交を喜ぶ者には、すなわち、〔彼が〕暫時の解脱に触れるであろう、その状況は〔見出され〕ない」とは、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「アーナンダよ、およそ、比丘が、社交を喜びとする者であり、社交を喜ぶ者であり、社交の喜びに専念する者であり、群れを喜びとする者であり、群れを喜ぶ者であり、群れの喜びに歓喜する者であるかぎり、すなわち、その、離欲の安楽でもあり、遠離の安楽でもあり、寂止の安楽でもあり、正覚の安楽でもある、その安楽を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成るであろう〕、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、その比丘が、独り、衆から隠棲し、〔世に〕住むなら、その比丘には、このことが期待できます。すなわち、その、離欲の安楽でもあり、遠離の安楽でもあり、寂止の安楽でもあり、正覚の安楽でもある、その安楽を、欲するままに得る者と成り、苦難なく得る者と〔成り〕、困難なく得る者と〔成るであろう〕、という、この状況は見出されます。アーナンダよ、およそ、比丘が、社交を喜びとする者であり、社交を喜ぶ者であり、社交の喜びに専念する者であり、群れを喜びとする者であり、群れを喜ぶ者であり、群れの喜びに歓喜する者であるかぎり、あるいは、暫時のものとして、欲するところの〔止寂の〕心による解脱(色界禅定と無色界禅定時における一時的な解脱)を、あるいは、暫時ならざるものとして、不動なる〔解脱〕を、成就して〔世に〕住むであろう、という、この状況は見出されません。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、その比丘が、独り、衆から隠棲し、〔世に〕住むなら、その比丘には、このことが期待できます。あるいは、暫時のものとして、欲するところの〔止寂の〕心による解脱を、あるいは、暫時ならざるものとして、不動なる〔解脱〕を、成就して〔世に〕住むであろう、という、この状況は見出されます」〔と〕。ということで、「〔他者との〕社交を喜ぶ者には、すなわち、〔彼が〕暫時の解脱に触れるであろう、その状況は〔見出され〕ない」。

 

 [1417]「太陽の眷属(ブッダ)の言葉をこころして聞いて」とは、太陽(アーディッチャ)は、日(スーリヤ・太陽神)と説かれる。それ(日)は、姓としては、ゴータマとなる。独正覚者もまた、姓としては、ゴータマとなる。その独正覚者は、日にとって、姓の親族となり、姓の眷属となる。それゆえに、独正覚者は、太陽の眷属である。「太陽の眷属の言葉をこころして聞いて」とは、太陽の眷属の、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「太陽の眷属の言葉をこころして聞いて、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1418]「〔他者との〕社交を喜ぶ者には、すなわち、〔彼が〕暫時の解脱に触れるであろう、その状況は〔見出され〕ない。太陽の眷属(ブッダ)の言葉をこころして聞いて、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

 [1419]〔以上が〕第二の章となる。

 

3. 3. 第三の章

 

141.

 

 [1420]55.(55) 諸々の見解の狂騒を超克し、〔正道の〕決定に至り得た、道の獲得者(預流道の成就者)となり、「〔わたしは〕知恵()が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない」〔と〕、犀の角のように、独り、歩むがよい。(1)

 

 [1421]「諸々の見解の狂騒を超克し」とは、諸々の見解の狂騒は、二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)と説かれる。ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、(1)形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し(偏見のとおりに見る)、(2)あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕(自己と錯視する)、(3)あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、(4)あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観する〕。(5)感受〔作用〕を……略……。(9)表象〔作用〕を……。(13)諸々の形成〔作用〕を……。(17)識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、(18)あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、(19)あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、(20)あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観する〕。すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これらが、諸々の見解の狂騒である。「諸々の見解の狂騒を超克し」とは、諸々の見解の狂騒を、近しく超克した者として、超越した者として、等しく超越した者として、超克した者として。ということで、「諸々の見解の狂騒を超克し」。

 

 [1422]「〔正道の〕決定に至り得た、道の獲得者(預流道の成就者)となり」とは、諸々の〔正道の〕決定は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)、聖なる八つの支分ある道、と説かれる。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)である。四つの聖者の道を具備した者は、〔正道の〕決定に、至り得た者である、得達した者である、到達した者である、体得した者である、実証した者である。ということで、「〔正道の〕決定に至り得た」。「道の獲得者となり」とは、道を得た者として、道を獲得した者として、道に到達した者として、道を体得した者として、道を実証した者として。ということで、「〔正道の〕決定に至り得た、道の獲得者となり」。

 

 [1423]「『〔わたしは〕知恵()が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない』〔と〕」とは、その独正覚者にとって、知恵は、〔すでに〕生起したものとしてある、〔すでに〕等しく生起したものとしてある、〔すでに〕発現したものとしてある、〔すでに〕結実したものとしてある、〔すでに〕出現したものとしてある。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、知恵は、〔すでに〕生起したものとしてある、〔すでに〕等しく生起したものとしてある、〔すでに〕発現したものとしてある、〔すでに〕結実したものとしてある、〔すでに〕出現したものとしてある。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、知恵は、〔すでに〕生起したものとしてある、〔すでに〕等しく生起したものとしてある、〔すでに〕発現したものとしてある、〔すでに〕結実したものとしてある、〔すでに〕出現したものとしてある。ということで、「〔わたしは〕知恵が生起した者として〔世に〕存している」。「他によって導かれることはない」とは、その独正覚者は、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、事実のとおりに、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、事実のとおりに、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、事実のとおりに、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。ということで、「『〔わたしは〕知恵が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない』〔と〕、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1424]「諸々の見解の狂騒を超克し、〔正道の〕決定に至り得た、道の獲得者(預流道の成就者)となり、『〔わたしは〕知恵()が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない』〔と〕、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

142.

 

 [1425]56.(56) 妄動なく、虚言なく、涸渇なく、偽装なく、汚濁と迷妄を取り払い、一切の世にたいし願望なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(2)

 

 [1426]「妄動なく、虚言なく、涸渇なく」とは、妄動は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。その独正覚者の、その妄動としての渇愛は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、その独正覚者は、妄動なき者である。

 

 [1427]「虚言なく」とは、三つの虚言の事例がある。(1)日用品の受用と名づけられた虚言の事例、(2)振る舞いの道と名づけられた虚言の事例、(3)なぞかけと名づけられた虚言の事例である。

 

 [1428](1)どのようなものが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、〔在俗の〕家長たちが、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって〔布施をするために〕、比丘を招く。その〔比丘〕は、悪しき欲求ある者であり、〔自らの〕欲求に支配された者であり、〔それらの施物を〕義(目的)とする者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品をより一層欲することに執取して、衣料を〔とりあえずは〕拒絶し、〔行乞の〕施食を〔とりあえずは〕拒絶し、臥坐具を〔とりあえずは〕拒絶し、病のための日用品たる薬の必需品を〔とりあえずは〕拒絶する。彼は、このように言う。「沙門にとって、高価な衣料が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けるなら。沙門にとって、高価な〔行乞の〕施食が何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、残飯行(乞食行)によって、〔施しの〕握り飯によって、生計を営むなら。沙門にとって、高価な臥坐具が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、木の根元にある者として、あるいは、墓場にある者として、あるいは、野外にある者として、〔世に〕存するなら。沙門にとって、高価な病のための日用品たる薬の必需品が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、腐尿(発酵した牛の尿)によって、あるいは、薬果の破断したものによって、薬と為すなら」と。それ(施物)に執取して、粗末な衣料を〔身に〕付け、粗末な〔行乞の〕施食を食べ、粗末な臥坐具を受用し、粗末な病のための日用品たる薬の必需品を受用する。〔まさに〕その、この者のことを、〔在俗の〕家長たちは、このように知る。「この沙門は、少なき欲求の者であり、〔常に〕満ち足りている者であり、遠離している者であり、〔世俗と〕交わりなき者であり、精進に励む者であり、〔俗塵の〕払拭(頭陀)を説く者である」と。より一層、より一層、〔家長たちは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施をするために、その比丘を〕招く。彼は、このように言う。「三つのものが面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第一に〕信が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第二に〕施すべき法(施物)が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第三に〕施与されるべき者たちが、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。まさしく、そして、あなたたちには、この信が存在し、さらに、施すべき法(施物)が等しく見出される。かつまた、わたしは、納受する者である。それで、もし、わたしが納受しないであろうなら、このように、あなたたちは、功徳から遍く外にある者たちと成るであろう。わたしには、これに義(目的)はないが、しかしながら、また、まさしく、あなたたちへの慈しみ〔の思い〕によって、〔わたしは〕納受する」と。それに執取して、さらに、多くの衣料を納受し、さらに、多くの〔行乞の〕施食を納受し、さらに、多くの臥坐具を納受し、さらに、多くの病のための日用品たる薬の必需品を納受する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例である。

 

 [1429](2)どのようなものが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、赴くに装い、立つに装い、坐るに装い、臥すに装い、作為して赴き、作為して立ち、作為して坐り、作為して臥所を営み、〔心が〕定められた者であるかのように赴き、〔心が〕定められた者であるかのように立ち、〔心が〕定められた者であるかのように坐り、〔心が〕定められた者であるかのように臥所を営み、まさしく、視野のうちなる瞑想者(見かけ上の瞑想者)と成る。すなわち、このような形態の、振る舞いの道(行住坐臥)のための、作為的虚飾、虚飾、常習的虚飾、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例である。

 

 [1430](3)どのようなものが、なぞかけと名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、聖なる法(教え)に依拠した言葉を語る。「彼が、このような形態の衣料を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の鉢を〔身に〕保つなら……銅椀を〔身に〕保つなら……水瓶を〔身に〕保つなら……濾過器を〔身に〕保つなら……袋を〔身に〕保つなら……履物を〔身に〕保つなら……身体を縛る〔帯〕を〔身に〕保つなら……〔縛り〕紐を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師父(和尚)がいるなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師匠(阿闍梨)がいるなら……師父を等しくする者たちがいるなら……師匠を等しくする者たちがいるなら……朋友たちがいるなら……同輩たちがいるなら……知己たちがいるなら……道友たちがいるなら……彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の精舎に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の半屋根に住するなら……高楼に住するなら……楼房に住するなら……岩窟に住するなら……山窟に住するなら……小屋に住するなら……楼閣に住するなら……見張塔に住するなら……円室に住するなら……堂舎に住するなら……奉仕堂に住するなら……天幕に住するなら……木の根元に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。

 

 [1431]さらに、あるいは、逆上に逆上し、渋面に渋面し、虚言に虚言し、饒舌に饒舌し、口で尊ばれている者が、「この沙門は、このような形態の、これらの寂静なる住への入定の得者である」と、そのような、深遠で、秘密にされ、精緻で、隠蔽され、世〔俗〕を超える、空性に関係した言説を言説する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、なぞかけと名づけられた虚言の事例である。その独正覚者の、これらの三つの虚言の事例は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、その独正覚者は、虚言なき者である。

 

 [1432]「涸渇なく」とは、涸渇は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。その独正覚者の、その涸渇としての渇愛は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、その独正覚者は、涸渇なき者である。ということで、「妄動なく、虚言なく、涸渇なく」。

 

 [1433]「偽装なく、汚濁と迷妄を取り払い」とは、「偽装」とは、すなわち、偽装、偽装すること、偽装あること、偽善、偽善の行為である。「汚濁」とは、貪欲は、汚濁である。憤怒は、汚濁である。迷妄は、汚濁である。忿激は……。怨恨は……。偽装は……。加虐は……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、汚濁である。「迷妄」とは、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知、過去の極(前際:過去の種々相)についての無知、未来の極(後際:未来の種々相)についての無知、過去と未来の極についての無知、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)についての無知。すなわち、このような形態の、無知、無見、知悉(現観)なき、随覚なき、理解(通達)なき、包摂なき、深解なき、正観なき、注視なき、注視の行為なき、浅き思慮、愚かさ、正知なき、迷妄、強き迷妄、等しき迷妄、無明、無明の激流、無明の束縛、無明の悪習、無明の妄執、無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元である。その独正覚者の、かつまた、偽装も、かつまた、汚濁も、かつまた、迷妄も、吐き捨てられ、等しく吐き捨てられ、取り払われ、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、その独正覚者は、「偽装なく、汚濁と迷妄を取り払い」。

 

 [1434]「一切の世にたいし願望なき者と成って」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「一切の世にたいし」とは、一切の悪所の世にたいし、一切の人間の世にたいし、一切の天の世にたいし、一切の〔五つの〕範疇の世にたいし、一切の〔十八の〕界域の世にたいし、一切の〔十二の認識の〕場所の世にたいし。「一切の世にたいし願望なき者と成って」とは、一切の世にたいし、願望なき者と成って、渇愛なき者と成って、涸渇なき者と成って。ということで、「一切の世にたいし願望なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1435]「妄動なく、虚言なく、涸渇なく、偽装なく、汚濁と迷妄を取り払い、一切の世にたいし願望なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

143.

 

 [1436]57.(57) 悪しき道友を、義(道理)ならざるものを見る者を、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者を、遍く避けるがよい。〔欲望の対象を〕追い求める者とは、〔気づきを〕怠る者とは、自ら、慣れ親しまぬがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい。(3)

 

 [1437]「悪しき道友を」「遍く避けるがよい」とは、悪しき道友は、すなわち、〔まさに〕その、十の事態ある誤った見解(邪見)を具備した道友、と説かれる。「(1)布施された〔施物の果〕は存在しない。(2)祭祀された〔供物の果〕は存在しない。(3)捧げられたもの〔の果〕は存在しない。(4)諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない。(5)この世は存在しない。(6)他の世は存在しない。(7)母は存在しない。(8)父は存在しない。(9)化生の有情たちは存在しない。(10)すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない」と。これが、悪しき道友である。「悪しき道友を」「遍く避けるがよい」とは、悪しき道友を、避けるべきであり、遍く避けるべきである。ということで、「悪しき道友を」「遍く避けるがよい」。

 

 [1438]「義(道理)ならざるものを見る者を、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者を」とは、義(道理)ならざるものを見る者は、すなわち、〔まさに〕その、十の事態ある誤った見解を具備した道友、と説かれる。「(1)布施された〔施物の果〕は存在しない。(2)祭祀された〔供物の果〕は存在しない。……略([1437]参照)……。(10)彼ら、この世をも、他の世をも、自ら証知して、実証して〔そののち〕、〔他に〕知らせる者たちである、正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門は、世において、存在しない」と。「〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者を」とは、〔世の〕不正である身体の行為(身業)に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である言葉の行為(口業)に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である意の行為(意業)に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である命あるものを殺すことに〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である与えられていないものを取ることに〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である虚偽を説くことに〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である中傷の言葉に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である粗暴な言葉に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である雑駁な虚論に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である強欲〔の思い〕に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である憎悪〔の思い〕に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である誤った見解に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)に〔思いが〕固着した者を、〔世の〕不正である五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)に、〔思いが〕固着した者を、〔思いが〕定着した者を、〔思いが〕執着した者を、〔思いが〕付着した者を、近しく赴いた者を、固執した者を、信念した者を。ということで、「義(道理)ならざるものを見る者を、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者を」。

 

 [1439]「〔欲望の対象を〕追い求める者とは、〔気づきを〕怠る者とは、自ら、慣れ親しまぬがよい」とは、「〔執着の対象を〕追い求める者」とは、彼がまた、諸々の欲望〔の対象〕を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者であり、それが多くある者であり、それに尊重ある者であり、それに向かい行く者であり、それに傾倒する者であり、それに傾斜する者であり、それを信念した者であり、それを優位とする者であるなら、彼もまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者である。彼がまた、渇愛を所以に、諸々の形態を遍く探し求め、諸々の音声を……略……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を遍く探し求め、それを所行とする者であり、それが多くある者であり、それに尊重ある者であり、それに向かい行く者であり、それに傾倒する者であり、それに傾斜する者であり、それを信念した者であり、それを優位とする者であるなら、彼もまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者である。彼がまた、渇愛を所以に、諸々の形態を獲得し、諸々の音声を……略……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を獲得し、それを所行とする者であり、それが多くある者であり、それに尊重ある者であり、それに向かい行く者であり、それに傾倒する者であり、それに傾斜する者であり、それを信念した者であり、それを優位とする者であるなら、彼もまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者である。彼がまた、渇愛を所以に、諸々の形態を遍く受益し、諸々の音声を……略……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を遍く受益し、それを所行とする者であり、それが多くある者であり、それに尊重ある者であり、それに向かい行く者であり、それに傾倒する者であり、それに傾斜する者であり、それを信念した者であり、それを優位とする者であるなら、彼もまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者である。たとえば、紛争を為す者が、紛争を追い求める者であり、作業を為す者が、作業を追い求める者であり、托鉢に歩んでいる者が、托鉢を追い求める者であり、瞑想する者が、瞑想を追い求める者であるように、まさしく、このように、彼がまた、諸々の欲望〔の対象〕を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者であり、それが多くある者であり、それに尊重ある者であり、それに向かい行く者であり、それに傾倒する者であり、それに傾斜する者であり、それを信念した者であり、それを優位とする者であるなら、彼もまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者である。彼がまた、渇愛を所以に、諸々の形態を遍く探し求め……略……。彼がまた、渇愛を所以に、諸々の形態を獲得し……略……。彼がまた、渇愛を所以に、諸々の形態を遍く受益し、諸々の音声を……略……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を遍く受益し、それを所行とする者であり、それが多くある者であり、それに尊重ある者であり、それに向かい行く者であり、それに傾倒する者であり、それに傾斜する者であり、それを信念した者であり、それを優位とする者であるなら、彼もまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者である。「〔気づきを〕怠る者とは」とは、怠り(放逸)は、あるいは、身体による悪しき行ないについて、あるいは、言葉による悪しき行ないについて、あるいは、意による悪しき行ないについて、あるいは、五つの欲望の属性について、説かれるべきものであり、心の、放縦、放縦により〔善を〕生起させないこと、諸々の善なる法(性質)のための修行において、真剣に為さないこと、常に為さないこと、停滞なく為さないこと、畏縮した生活あること、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置いたこと、重荷(責任)を捨て置いたこと、習修しないこと、修行しないこと、多き行為なきこと、〔心の〕確立なきこと、専念〔努力〕なきこと、怠りである(※)。すなわち、このような形態の、怠り、怠ること、怠りあることである。これが、怠りと説かれる。

 

※ 平行箇所[206]により pamādo を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [1440]「〔欲望の対象を〕追い求める者とは、〔気づきを〕怠る者とは、自ら、慣れ親しまぬがよい」とは、〔執着の対象を〕追い求める者とは、慣れ親しむべきではなく、さらに、〔気づきを〕怠る者とも、自ら、慣れ親しむべきではなく、慣用するべきではなく、等しく慣れ親しむべきではなく、遍く等しく慣れ親しむべきではなく、習行するべきではなく、励行するべきではなく、受持して行持するべきではない。ということで、「〔欲望の対象を〕追い求める者とは、〔気づきを〕怠る者とは、自ら、慣れ親しまぬがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1441]「悪しき道友を、義(道理)ならざるものを見る者を、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者を、遍く避けるがよい。〔欲望の対象を〕追い求める者とは、〔気づきを〕怠る者とは、自ら、慣れ親しまぬがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

144.

 

 [1442]58.(58) 多聞にして法(教え)を保つ者と、秀逸にして即応即答〔の智慧〕ある朋友と、親しくするがよい。諸々の義(利益)を了知して、疑いを取り除くがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい。(4)

 

 [1443]「多聞にして法(教え)を保つ者と」「親しくするがよい」とは、所聞の保持ある者は、所聞の蓄積ある者は、多聞の朋友と成る。すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有る──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。「法(教え)を保つ者と」とは、法(教え)を──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)を──保持している者と。「多聞にして法(教え)を保つ者と」「親しくするがよい」とは、そして、多聞の者であり、さらに、法(教え)を保つ者である、朋友と、親しくするべきであり、等しく親しくするべきであり、慣れ親しむべきであり、慣用するべきであり、等しく慣れ親しむべきであり、受用するべきである。ということで、「多聞にして法(教え)を保つ者と」「親しくするがよい」。

 

 [1444]「秀逸にして即応即答〔の智慧〕ある朋友と」とは、戒によって、禅定によって、智慧によって、解脱によって、解脱の知見によって、秀逸なる朋友と成る。「即応即答〔の智慧〕ある」とは、三者の即応即答〔の智慧〕ある者がいる。(1)聖典について即応即答〔の智慧〕ある者、(2)遍問について即応即答〔の智慧〕ある者、(3)到達(証得)について即応即答〔の智慧〕ある者である。(1)どのような者が、聖典について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、覚者の言葉が──経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)が──学得されたものとして有る。〔学得した〕聖典に依拠して、彼に、〔答えが〕明白となる。これが、聖典について即応即答〔の智慧〕ある者である。

 

 [1445](2)どのような者が、遍問について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者は、かつまた、義(意味)について、かつまた、正理について、かつまた、特相について、かつまた、契機について、かつまた、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)について、遍問された者としてもまた有る。〔その〕遍問に依拠して、彼に、〔答えが〕明白となる。これが、遍問について即応即答〔の智慧〕ある者である。

 

 [1446](3)どのような者が、到達について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)、四つの沙門の果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)、四つの融通無礙(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)、六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)が、到達されたものとして有る。彼に、義(意味)は知られ、法(教え)は知られ、言語は知られ、義(意味)が知られたとき、義(意味)は明白となり、法(教え)が知られたとき、法(教え)は明白となり、言語が知られたとき、言語は明白となる。これらの三つについて、知恵があり、応答の融通無礙がある。その独正覚者は、この応答の融通無礙を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者である。それゆえに、独正覚者は、即応即答〔の智慧〕ある者である。彼に、聖典が存在しないなら、遍問が存在しないなら、到達が存在しないなら、どうして、彼に、〔答えが〕明白となるというのだろう。ということで、「秀逸にして即応即答〔の智慧〕ある朋友と」。

 

 [1447]「諸々の義(利益)を了知して、疑いを取り除くがよい」とは、自己の義(利益)を了知して、他者の義(利益)を了知して、両者の義(利益)を了知して、所見の法(現法:現世)の義(利益)を了知して、未来の義(利益)を了知して、最高の義(勝義:最高の真実)を、了知して、証知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して、疑いを、取り除くべきであり、取り除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「諸々の義(利益)を了知して、疑いを取り除くがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1448]「多聞にして法(教え)を保つ者と、秀逸にして即応即答〔の智慧〕ある朋友と、親しくするがよい。諸々の義(利益)を了知して、疑いを取り除くがよい。犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

145.

 

 [1449]59.(59) 世における、遊興と歓楽を、さらに、欲望の安楽を、十分ならずと為して、〔何も〕期待せずにいる者となり、飾り立ての境位から離れた、真理を説く者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(5)

 

 [1450]「世における、遊興と歓楽を、さらに、欲望の安楽を」とは、「遊興」とは、二つの遊興がある。(1)そして、身体の属性としての遊興であり、(2)さらに、言葉の属性としての遊興である。(1)……略([1299]参照)……。これが、身体の属性としての遊興である。(2)……略([1300]参照)……。これが、言葉の属性としての遊興である。「歓楽」とは、失望なきこと(満足)の同義語である。これが、「歓楽」ということになる。「欲望の安楽を」とは、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます」と。「世における」とは、人間の世における。ということで、「世における、遊興と歓楽を、さらに、欲望の安楽を」。

 

 [1451]「十分ならずと為して、〔何も〕期待せずにいる者となり」とは、世における、かつまた、遊興を、かつまた、歓楽を、かつまた、欲望の安楽を、十分ならずと為して、期待なき者と成って、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「十分ならずと為して、〔何も〕期待せずにいる者となり」。

 

 [1452]「飾り立ての境位から離れた、真理を説く者となり」とは、「飾り立て」とは、二つの飾り立てがある。(1)在家者の飾り立てが存在し、(2)出家者の飾り立てが存在する。(1)どのようなものが、在家者の飾り立てであるのか。そして、諸々の髪、そして、諸々の髭、そして、花飾、そして、香料、そして、塗料、そして、装飾品、そして、装身具、そして、衣、そして、臥坐具、そして、頭巾、塗身、按摩、沐浴、洗髪、鏡、塗薬、花飾の塗料、口の塗粉、口紅、腕飾、頭飾、杖、筒、剣、傘、彩色ある履物、髻、宝珠、毛扇、諸々の白衣、諸々の長袖、あるいは、かくのごときものである。これが、在家者の飾り立てである。

 

 [1453](2)どのようなものが、在家者ならざる者の飾り立てであるのか。衣料の装飾、鉢の装飾、臥坐具の装飾、あるいは、この腐敗の身体のための、あるいは、外部の諸々の必需品のための、装飾、飾り立て、華美、贅沢、貪求なること、貪求あること、軽薄なること、軽薄あることである。これが、在家者ならざる者の飾り立てである。

 

 [1454]「真理を説く者となり」とは、その独正覚者は、真理を説く者として、真理に従う者として、正直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、飾り立ての境位から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「飾り立ての境位から離れた、真理を説く者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1455]「世における、遊興と歓楽を、さらに、欲望の安楽を、十分ならずと為して、〔何も〕期待せずにいる者となり、飾り立ての境位から離れた、真理を説く者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

146.

 

 [1456]60.(60) そして、子と妻、さらに、父と母、諸々の財産、諸々の穀物、かつまた、諸々の眷属──限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、犀の角のように、独り、歩むがよい。(6)

 

 [1457]「そして、子と妻、さらに、父と母」とは、「子」とは、四者の子がいる。実の子、国人の子、養子としての子、内弟子としての子である。妻たちは、夫人たちと説かれる。「父」とは、すなわち、〔まさに〕その、生ませる者である。「母」とは、すなわち、〔まさに〕その、生む者である。ということで、「そして、子と妻、さらに、父と母」。

 

 [1458]「諸々の財産、諸々の穀物、かつまた、諸々の眷属」とは、諸々の財産は、金貨、黄金、真珠、宝珠、瑠璃、法螺、宝石、珊瑚、白銀、黄金、紅玉、瑪瑙、と説かれる。諸々の穀物は、前食、後食、と説かれる。「前食」というものは、米、稲、麦、小麦、黍、豆、稗のこと。「後食」というものは、汁のこと。「諸々の眷属」とは、四者の眷属がいる。親族の眷属もまた、眷属である。氏姓の眷属もまた、眷属である。朋友の眷属もまた、眷属である。技能の眷属もまた、眷属である。ということで、「諸々の財産、諸々の穀物、かつまた、諸々の眷属」。

 

 [1459]「限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([247-248]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して」とは、諸々の事物の欲望を遍く捨棄して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。「限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して」とは、預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら……略……不還道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら……阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。ということで、「限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1460]「そして、子と妻、さらに、父と母、諸々の財産、諸々の穀物、かつまた、諸々の眷属──限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

147.

 

 [1461]61.(61) 「これは、執着〔の対象〕である。ここにおいて、福楽は小さく、悦楽は少なく、ここにおいて、苦痛は、より一層のものである。これは、〔人を誘惑する〕釣針である」と知って、思慧ある者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(7)

 

 [1462]「これは、執着〔の対象〕である。ここにおいて、福楽は小さく」とは、あるいは、「執着〔の対象〕」とは、あるいは、「〔悪魔の〕釣針」とは、あるいは、「〔悪魔の〕餌」とは、あるいは、「付着」とは、あるいは、「障害」とは、これは、五つの欲望の属性の同義語である。「ここにおいて、福楽は小さく」とは、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。この安楽は、僅かです。この安楽は、微小です。この安楽は、僅少です。この安楽は、下等です。この安楽は、悪辣です。この安楽は、劣小です」〔と〕。ということで、「これは、執着〔の対象〕である。ここにおいて、福楽は小さく」。

 

 [1463]「悦楽は少なく、ここにおいて、苦痛は、より一層のものである」とは、諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、骨の鎖の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、肉片の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、草の松明の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、火坑の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、夢の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、借り物の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、木の果の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、屠殺場の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、刃や槍の喩えあるもの……と説かれた。諸々の欲望〔の対象〕は、世尊によって、蛇の頭の喩えあるもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある、と説かれた。ということで、「悦楽は少なく、ここにおいて、苦痛は、より一層のものである」。

 

 [1464]「『これは、〔人を誘惑する〕釣針である』と知って、思慧ある者となり」とは、あるいは、「〔人を誘惑する〕釣針」とは、あるいは、「〔悪魔の〕釣針」とは、あるいは、「〔悪魔の〕餌」とは、あるいは、「付着」とは、あるいは、「結縛」とは、あるいは、「障害」とは、これは、五つの欲望の属性の同義語である。「と」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「と」ということになる。「思慧ある者」とは、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「『これは、〔人を誘惑する〕釣針である』と知って、思慧ある者となり」とは、思慧ある者となり、「〔人を誘惑する〕釣針である」と知って、「〔悪魔の〕釣針である」と知って、「〔悪魔の〕餌である」と知って、「付着である」と知って、「結縛である」と知って、「障害である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「『これは、〔人を誘惑する〕釣針である』と知って、思慧ある者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1465]「『これは、執着〔の対象〕である。ここにおいて、福楽は小さく、悦楽は少なく、ここにおいて、苦痛は、より一層のものである。これは、〔人を誘惑する〕釣針である』と知って、思慧ある者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

148.

 

 [1466]62.(62) 水のなかの魚が網を破って〔解き放たれる〕ように、諸々の束縛するもの()を引き裂いて、炎が焼け跡に引き返さないように、犀の角のように、独り、歩むがよい。(8)

 

 [1467]「諸々の束縛するもの()を引き裂いて」とは、十の束縛するものがある。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、敵対〔の思い〕という束縛するもの、思量という束縛するもの、見解という束縛するもの、疑惑〔の思い〕という束縛するもの、戒や掟への偏執という束縛するもの、生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、嫉妬〔の思い〕という束縛するもの、物惜〔の思い〕という束縛するもの、無明という束縛するものである。「諸々の束縛するものを引き裂いて」とは、十の束縛するものを、引き裂いて、等しく引き裂いて、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「諸々の束縛するものを引き裂いて」。

 

 [1468]「水のなかの魚が網を破って〔解き放たれる〕ように」とは、網は、糸の網と説かれる。水(サリラ)は、水(ウダカ)と説かれる。魚(アンブチャーリン)は、魚(マッチャ)と説かれる。たとえば、魚が網を、破って、強く破って、引き裂いて、強く引き裂いて、等しく引き裂いて、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行くように、まさしく、このように。二つの網がある。(1)そして、渇愛の網であり、(2)さらに、見解の網である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の網である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の網である。その独正覚者の、渇愛の網は〔すでに〕捨棄され、見解の網は〔すでに〕放棄され、渇愛の網が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の網が〔すでに〕放棄されたことから、その独正覚者は、形態にたいし執着せず、音声にたいし執着せず、臭気にたいし執着せず……略([1279]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、執着せず、収取せず、結縛されず、障害されず、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「水のなかの魚が網を破って〔解き放たれる〕ように」。

 

 [1469]「炎が焼け跡に引き返さないように」とは、たとえば、火が、草や薪の燃料を焼きながら赴き、引き返さないように、まさしく、このように。預流道によって、その独正覚者の、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら……略……不還道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら……阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。ということで、「炎が焼け跡に引き返さないように、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1470]「水のなかの魚が網を破って〔解き放たれる〕ように、諸々の束縛するもの()を引き裂いて、炎が焼け跡に引き返さないように、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

149.

 

 [1471]63.(63) 〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく、〔感官の〕機能()を守り、意を守護し、〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず、犀の角のように、独り、歩むがよい。(9)

 

 [1472]「〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく」とは、どのように、眼を投げ放った者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、眼の妄動ある者として、眼の妄動を具備した者として、〔世に〕有る。「〔いまだ〕見られていないものは、見られるべきである。〔すでに〕見られたものは、等しく超越されるべきである」と、林園から林園へと、庭園から庭園へと、村から村へと、町から町へと、城市から城市へと、国土から国土へと、地方から地方へと、形態を見るために、長き遊行に〔専念する者として〕、定めなき遊行に専念する者として、〔世に〕有る。このように、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [1473]さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御されていない者として赴く。象〔兵〕を眺めながら、馬〔兵〕を眺めながら、車〔兵〕を眺めながら、歩〔兵〕を眺めながら、女たちを眺めながら、男たちを眺めながら、少女たちを眺めながら、少年たちを眺めながら、店の内を眺めながら、家の入り口を眺めながら、上を眺めながら、下を眺めながら、方々を眺め見ながら、赴く。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [1474]さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成る〕。すなわち、眼の機能(眼根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践せず、眼の機能を守らず、眼の機能における統御を惹起しない。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [1475]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の演芸の見物に専念する者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃(シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の演芸の見物に専念する者として〔世に〕有る。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [1476]どのように、眼を落とした者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、眼の妄動ある者ではなく、眼の妄動を具備した者ではなく、〔世に〕有る。「〔いまだ〕見られていないものは、見られるべきである。〔すでに〕見られたものは、等しく超越されるべきである」と、林園から林園へと〔歩むことが〕なく、庭園から庭園へと〔歩むことが〕なく、村から村へと〔歩むことが〕なく、町から町へと〔歩むことが〕なく、城市から城市へと〔歩むことが〕なく、国土から国土へと〔歩むことが〕なく、地方から地方へと〔歩むことが〕なく、形態を見るために、長き遊行に〔専念しない者として〕、さらに、定めなき遊行に専念しない者として(※)、〔世に〕有る。このように、眼を落とした者として〔世に〕有る。

 

※ テキストには anuyutto とあるが、マハー・ニッデーサの平行箇所(迅速の経についての釈示)により ananuyutto ca と読む。

 

 [1477]さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御された者として赴く。象〔兵〕を眺めることなく、馬〔兵〕を眺めることなく、車〔兵〕を眺めることなく、歩〔兵〕を眺めることなく、女たちを眺めることなく、男たちを眺めることなく、少女たちを眺めることなく、少年たちを眺めることなく、店の内を眺めることなく、家の入り口を眺めることなく、上を眺めることなく、下を眺めることなく、方々を眺め見ることなく、赴く。このようにもまた、眼を落とした者として〔世に〕有る。

 

 [1478]さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ない。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起する。このようにもまた、眼を落とした者として〔世に〕有る。

 

 [1479]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の演芸の見物に専念しない者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物……略([1475]参照)……閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の演芸の見物から離間した者として〔世に〕有る。このようにもまた、眼を落とした者として〔世に〕有る。ということで、「〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし」。

 

 [1480]「かつまた、足の妄動ある者ではなく」とは、どのように、足の妄動ある者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、足の妄動ある者として、足の妄動を具備した者として、〔世に〕有る。林園から林園へと、庭園から庭園へと、村から村へと、町から町へと、城市から城市へと、国土から国土へと、地方から地方へと、長き遊行に〔専念する者として〕、定めなき遊行に専念する者として、〔世に〕有る。このようにもまた、足の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1481]さらに、あるいは、比丘が、僧団の林園の内にあり、足の妄動ある者として、足の妄動を具備した者として、〔世に〕有る。義(道理)を因とする者ではなく、〔正しい〕契機を因とする者ではなく、〔心が〕高揚した者として、寂止していない心の者として、僧房から僧房へと赴き、精舎から精舎へと赴き、半屋根から半屋根へと赴き、高楼から高楼へと赴き、楼房から楼閣へと赴き、岩窟から岩窟へと赴き、山窟から山窟へと赴き、小屋から小屋へと赴き、楼閣から楼閣へと赴き、見張塔から見張塔へと赴き、円室から円室へと赴き、堂舎から堂舎へと赴き、奉仕堂から奉仕堂へと赴き、天幕から天幕へと赴き、木の根元から木の根元へと赴く。また、あるいは、そこにおいて、比丘たちが、あるいは、坐るなら、あるいは、赴くなら、そこにおいて、あるいは、一者がいるなら、第二者と成り、あるいは、二者がいるなら、第三者と成り、あるいは、三者がいるなら、第四者と成り、そこにおいて、多くの雑談や虚論を交わす。それは、すなわち、この、王についての議論を、盗賊についての議論を……略([1375]参照)……かく有り〔かく〕無しについての議論を、議論する。このようにもまた、足の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1482]「かつまた、足の妄動ある者ではなく」とは、その独正覚者は、足の妄動から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想を無視しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者たる瞑想者として、瞑想を喜ぶ者として、一なることに専念する者として、自らの義(目的)に尊重ある者として、〔世に〕有る。ということで、「かつまた、足の妄動ある者ではなく」。

 

 [1483]「〔感官の〕機能()を守り、意を守護し」とは、「〔感官の〕機能を守り」とは、その独正覚者は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ない。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起する。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ない。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起する。「意を守護し」とは、意が守護された者として。ということで、「〔感官の〕機能を守り、意を守護し」。

 

 [1484]「〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず」とは、まさに、このことが、尊者マハー・モッガッラーナによって説かれた。「友よ、では、〔煩悩が〕漏れ出る者の教相を、そして、〔煩悩が〕漏れ出ない者の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・モッガッラーナに答えた。尊者マハー・モッガッラーナは、こう言った。

 

 [1485]「友よ、では、どのように、〔煩悩が〕漏れ出る者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺し、愛しくない形態の形態に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺し、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。友よ、この者は、『比丘として、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし〔煩悩が〕漏れ出る者……略……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし〔煩悩が〕漏れ出る者』〔と〕説かれます。友よ、そして、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。もし、また、彼に、耳から……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。

 

 [1486]友よ、それは、たとえば、また、あるいは、葦の家があり、あるいは、草の家があり、乾燥し、干涸び、年を経たものであるとします。もし、また、その〔家〕に、東の方角から、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くなら、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。もし、また、その〔家〕に、西の方角から……略……。もし、また、その〔家〕に、北の方角から……。もし、また、その〔家〕に、南の方角から……。もし、また、下から、その〔家〕に……。もし、また、その〔家〕に、上から……。もし、また、その〔家〕に、すなわち、どこからであれ、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くなら、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。……略……。もし、また、彼に、耳から……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得るでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得るでしょう。

 

 [1487]友よ、そして、このような住ある比丘を、諸々の形態が征服したのであり、比丘は、諸々の形態を征服しませんでした。比丘を、諸々の音声が征服したのであり、比丘は、諸々の音声を征服しませんでした。比丘を、諸々の臭気が征服したのであり、比丘は、諸々の臭気を征服しませんでした。比丘を、諸々の味感が征服したのであり、比丘は、諸々の味感を征服しませんでした。比丘を、諸々の感触が征服したのであり、比丘は、諸々の感触を征服しませんでした。比丘を、諸々の法(意の対象)が征服したのであり、比丘は、諸々の法(意の対象)を征服しませんでした。友よ、この者は、『比丘として、形態に征服された者、音声に征服された者、臭気に征服された者、味感に征服された者、感触に征服された者、法(意の対象)に征服された者──〔それらに〕征服された者であり、〔それらを〕征服しない者である。諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報い(異熟)あるものが、未来に生と老と死となるものが、彼を征服したのだ』〔と〕説かれます。友よ、このように、まさに、〔煩悩が〕漏れ出る者と成ります。

 

 [1488]友よ、では、どのように、〔煩悩が〕漏れ出ない者と成るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態に耽溺せず、愛しくない形態の形態に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)に耽溺せず、愛しくない形態の法(意の対象)に憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。友よ、この者は、『比丘として、眼によって識知されるべき諸々の形態にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者……略……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者』〔と〕説かれます。友よ、そして、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。もし、また、彼に、耳から……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くなら、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。

 

 [1489]友よ、それは、たとえば、また、あるいは、楼閣があり、あるいは、楼閣堂があり、厚い粘土の、濡れた塗装のものであるとします。もし、また、その〔家〕に、東の方角から、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くとして、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。もし、また、その〔家〕に、西の方角から……。もし、また、その〔家〕に、北の方角から……。もし、また、その〔家〕に、南の方角から……。もし、また、下から、その〔家〕に……。もし、また、その〔家〕に、上から……。もし、また、その〔家〕に、すなわち、どこからであれ、人が、燃え盛る草の松明とともに近づいて行くとして、火は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、火は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、このような住ある比丘に、もし、また、彼に、眼から、悪魔が近づいて行くとして、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。もし、また、彼に、耳から……略……。もし、また、彼に、意から、悪魔が近づいて行くとして、悪魔は、侵入〔の機会〕を、まさしく、得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。

 

 [1490]友よ、そして、このような住ある比丘を、諸々の形態が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の形態を征服しました。比丘を、諸々の音声が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の音声を征服しました。比丘を、諸々の臭気が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の臭気を征服しました。比丘を、諸々の味感が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の味感を征服しました。比丘を、諸々の感触が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の感触を征服しました。比丘を、諸々の法(意の対象)が征服しなかったのであり、比丘は、諸々の法(意の対象)を征服しました。友よ、この者は、『比丘として、形態を征服する者、音声を征服する者、臭気を征服する者、味感を征服する者、感触を征服する者、法(意の対象)を征服する者──〔それらを〕征服する者であり、〔それらに〕征服されない者である。諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものを、さらなる生存あるものを、懊悩を有するものを、苦痛の報いあるものを、未来に生と老と死となるものを、それらを征服したのだ』〔と〕説かれます。友よ、このように、まさに、〔煩悩が〕漏れ出ない者と成ります」〔と〕。ということで、「〔煩悩が〕漏れ出ず」。

 

 [1491]「〔貪欲の炎に〕焼かれず」とは、貪欲()から生じる苦悶によって焼かれることなく、憤怒()から生じる苦悶によって焼かれることなく、迷妄()から生じる苦悶によって焼かれることなく。ということで、「〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1492]「〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく、〔感官の〕機能()を守り、意を守護し、〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

150.

 

 [1493]64.(64) 諸々の在家の特徴を取り払って、あたかも、葉に等しく覆われたパーリチャッタ〔樹〕のように、黄褐色の衣(袈裟)をまとい、〔家から〕出て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(10)

 

 [1494]「諸々の在家の特徴を取り払って」とは、諸々の在家の特徴は、そして、諸々の髪、そして、諸々の髭……略([1340]参照)……諸々の白衣、諸々の長袖、あるいは、かくのごときもの、と説かれる。「諸々の在家の特徴を取り払って」とは、諸々の在家の特徴を、取り去って、等しく取り去って、捨て置いて、静息させて。ということで、「諸々の在家の特徴を取り払って」。

 

 [1495]「あたかも、葉に等しく覆われたパーリチャッタ〔樹〕のように」とは、あたかも、樹葉多く、林野に影さす、黒檀や、そのパーリチャッタ〔樹〕のように、まさしく、このように、その独正覚者は、円満成就した鉢と衣料の保持者として〔世に有る〕。ということで、「あたかも、葉に等しく覆われたパーリチャッタ〔樹〕のように」。

 

 [1496]「黄褐色の衣(袈裟)をまとい、〔家から〕出て」とは、その独正覚者は、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「黄褐色の衣をまとい、〔家から〕出て、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1497]「諸々の在家の特徴を取り払って、あたかも、葉に等しく覆われたパーリチャッタ〔樹〕のように、黄褐色の衣(袈裟)をまとい、〔家から〕出て、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

 [1498]〔以上が〕第三の章となる。

 

3. 4. 第四の章

 

151.

 

 [1499]65.(65) 諸々の味(味覚の喜び)にたいし、貪求を為すことなく、〔欲の〕妄動なき者となり、他者を扶養する〔義務〕なく、〔行乞のために〕歩々淡々と歩み、家々に心が縛られない者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(1)

 

 [1500]「諸々の味(味覚の喜び)にたいし、貪求を為すことなく、〔欲の〕妄動なき者となり」とは、「味」とは、根の味、幹の味、皮の味、葉の味、花の味、果の味、酸っぱみ、甘み、苦み、辛み、塩気、刺激、弛緩、渋み、美味、不味、冷、暖。或る沙門や婆羅門たちで、味に貪求ある者たちが存在し、彼らは、舌の先端で諸々の至高の味を遍く探し求めながら、〔各地を〕逍遥する。彼らは、酸っぱいものを得ては、酸っぱくないものを遍く探し求め、酸っぱくないものを得ては、酸っぱいものを遍く探し求め、甘いものを得ては、甘くないものを遍く探し求め、甘くないものを得ては、甘いものを遍く探し求め、苦いものを得ては、苦くないものを遍く探し求め、苦くないものを得ては、苦いものを遍く探し求め、辛いものを得ては、辛くないものを遍く探し求め、辛くないものを得ては、辛いものを遍く探し求め、塩気のものを得ては、塩気のないものを遍く探し求め、塩気のないものを得ては、塩気のものを遍く探し求め、刺激のものを得ては、刺激のないものを遍く探し求め、刺激のないものを得ては、刺激のものを遍く探し求め、弛緩のものを得ては、弛緩のないものを遍く探し求め、弛緩のないものを得ては、弛緩のものを遍く探し求め、美味しいものを得ては、不味いものを遍く探し求め、不味いものを得ては、美味しいものを遍く探し求め、冷たいものを得ては、暖かいものを遍く探し求め、暖かいものを得ては、冷たいものを遍く探し求める。彼らは、それぞれのものを得ても、それぞれのもので満足せず、次から次へと遍く探し求める。諸々の意に適う味について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちとなる。その独正覚者の、その味への渇愛は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、その独正覚者は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。

 

 [1501]たとえば、〔木を〕育成することを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、林を燃やすように、あるいは、また、たとえば、荷を超え渡すことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、車軸に塗油するように、あるいは、また、たとえば、砂漠を超え出ることを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、子の肉を食として食するように、まさしく、このように、その独正覚者は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。〔彼は〕味への渇愛から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「諸々の味にたいし、貪求を為すことなく。

 

 [1502]「〔欲の〕妄動なき者となり」とは、妄動は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。その独正覚者の、その妄動としての渇愛は、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。それゆえに、その独正覚者は、〔欲の〕妄動なき者である。ということで、「諸々の味にたいし、貪求を為すことなく、〔欲の〕妄動なき者となり」。

 

 [1503]「他者を扶養する〔義務〕なく、〔行乞のために〕歩々淡々と歩み」とは、「他者を扶養する〔義務〕なく」とは、その独正覚者は、自己だけを養い、他を〔養わ〕ない。

 

 [1504]〔そこで、詩偈に言う〕「他者を扶養する〔義務〕なき者、〔一切を〕了知した者、〔自己を〕調御した者、〔法の〕真髄において〔自己を〕確立した者、煩悩()が滅尽した者、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を吐き捨てた者──わたしは、彼を『婆羅門』と説く」〔と〕。ということで──

 

 [1505]「他者を扶養する〔義務〕なく」。「〔行乞のために〕歩々淡々と歩み」とは、その独正覚者は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、あるいは、村に、〔行乞の〕食のために入る──まさしく、守られている身体によって、守られている言葉によって、守られている心によって、現起された気づきによって、統御された諸々の〔感官の〕機能によって。〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、振る舞いの道を成就した者として、家から家へと、超え行くことなく、〔行乞の〕食のために歩む。ということで、「他者を扶養する〔義務〕なく、〔行乞のために〕歩々淡々と歩み」。

 

 [1506]「家々に心が縛られない者となり」とは、二つの契機によって、家々に縛られた心の者と成る。(1)あるいは、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。(2)あるいは、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。(1)どのように、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、心が縛られた者と成るのか。「あなたたちは、わたしにとって、多くの資益ある方たちです。わたしは、あなたたちに依存して、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を得ます。すなわち、他の者たちもまた、あなたたちに依存して、あなたたちとお会いしながら、わたしに、あるいは、施すことを、あるいは、為すことを、思い考えます。すなわち、わたしの、以前の、母と父による命名もまた、それさえも、わたしにとっては、消没したものとなりました(名前として通用しなくなった)。〔今の〕わたしは、あなたたちによって、『誰某氏の家に親近ある者』『誰某女史の家に親近ある者』として〔世に〕知られます」と、このように、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。

 

 [1507](2)どのように、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、心が縛られた者と成るのか。「わたしは、あなたたちにとって、多くの資益ある者である。あなたたちは、わたしを頼りにして、覚者を帰依所に赴いた者たちであり、法(教え)を帰依所に赴いた者たちであり、僧団を帰依所に赴いた者たちであり、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちである。わたしは、あなたたちに、誦説(聖典)を与え、遍問(義釈)を与え、斎戒(布薩)を告知し、新しい行為を確立する。そこで、また、そして、あなたたちは、わたしを廃棄して、他の者たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する」と、このように、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、心が縛られた者と成る。

 

 [1508]「家々に心が縛られない者となり」とは、その独正覚者は、家の障害によって心が縛られない者と成り、衆徒の障害によって心が縛られない者と成り、居住の障害によって心が縛られない者と成り、衣料の障害によって心が縛られない者と成り、〔行乞の〕施食の障害によって心が縛られない者と成り、臥坐具の障害によって心が縛られない者と成り、病のための日用品たる薬の必需品の障害によって心が縛られない者と成る。ということで、「家々に心が縛られない者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1509]「諸々の味(味覚の喜び)にたいし、貪求を為すことなく、〔欲の〕妄動なき者となり、他者を扶養する〔義務〕なく、〔行乞のために〕歩々淡々と歩み、家々に心が縛られない者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

152.

 

 [1510]66.(66) 心の〔有する〕五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、一切の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)を除き去って、依存なき者となり、愛執と憤怒を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい。(2)

 

 [1511]「心の〔有する〕五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して」とは、その独正覚者は、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害を……〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害を……〔心の〕高揚と悔恨〔の思い〕(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害を……疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、諸々の欲望〔の対象〕から、諸々の善ならざる法(性質)から、離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住む。ということで、「心の〔有する〕五つの〔修行の〕妨害を捨棄して」。

 

 [1512]「一切の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)を除き去って」とは、貪欲は、心にとっての、付随する〔心の〕汚れである。憤怒は、心にとっての、付随する〔心の〕汚れである。迷妄は、心にとっての、付随する〔心の〕汚れである。忿激は……。怨恨は……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、心にとっての、付随する〔心の〕汚れである。「一切の付随する〔心の〕汚れを除き去って」とは、一切の、心にとっての、付随する〔心の〕汚れを、除いて、除き去って、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「一切の付随する〔心の〕汚れを除き去って」。

 

 [1513]「依存なき者となり、愛執と憤怒を断ち切って」とは、「依存なき者となり」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の依所である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の依所である。「愛執」とは、二つの愛執がある。(1)そして、渇愛の愛執であり、(2)さらに、見解の愛執である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の愛執である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の愛執である。「憤怒」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒()、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕、意の強き憤怒、忿激(忿)、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感(※)、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。「依存なき者となり、愛執と憤怒〔の思い〕を断ち切って」とは、その独正覚者は、かつまた、渇愛の愛執を、かつまた、見解の愛執を、かつまた、憤怒を、断って、断ち切って、断絶して、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として……略([520]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「依存なき者となり、愛執と憤怒〔の思い〕を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

※ 平行箇所[354]により virodho paṭivirodho を補う(PTS版は記載なし)。

 

 [1514]「心の〔有する〕五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、一切の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)を除き去って、依存なき者となり、愛執と憤怒を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

153.

 

 [1515]67.(67) そして、楽と苦〔の両者〕に背を向けて、さらに、まさしく、過去における、悦意と失意〔の両者〕に〔背を向けて〕、放捨(:選択せず差別なき心)と止寂(奢摩他・止:専一不動の心)の清浄なる〔境地〕を得て、犀の角のように、独り、歩むがよい。(3)

 

 [1516]「そして、楽と苦〔の両者〕に背を向けて、さらに、まさしく、過去における、悦意と失意〔の両者〕に〔背を向けて〕」とは、その独正覚者は、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住む。ということで、「そして、楽と苦〔の両者〕に背を向けて、さらに、まさしく、過去における、悦意と失意〔の両者〕に〔背を向けて〕」。

 

 [1517]「放捨()と止寂(奢摩他・止)の清浄なる〔境地〕を得て」とは、「放捨」とは、すなわち、第四の瞑想における、放捨、放捨すること、客観(客観的認識)、心の平静なること、心の安息なること、心が中なることである。「止寂」とは、すなわち、心の、止住、確立、確定、乱雑なき、散乱なき、乱雑なき意図あること、〔心の〕止寂、禅定の機能(定根)、禅定の力(定力)、正しい禅定(正定)である。第四の瞑想において、そして、放捨が、さらに、気づきが、清らかと成り、清浄となり、等しく清浄となり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなる。「放捨と止寂の清浄なる〔境地〕を得て」とは、第四の瞑想を、かつまた、放捨を、かつまた、〔心の〕止寂を、得て、獲て、見出して、獲得して。ということで、「放捨と止寂の清浄なる〔境地〕を得て、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1518]「そして、楽と苦〔の両者〕に背を向けて、さらに、まさしく、過去における、悦意と失意〔の両者〕に〔背を向けて〕、放捨(:選択せず差別なき心)と止寂(奢摩他・止:専一不動の心)の清浄なる〔境地〕を得て、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

154.

 

 [1519]68.(68) 最高の義(勝義:涅槃)に至り得るために、精進に励み、畏縮した心なく、怠惰な生活なく、断固たる勤勉〔努力〕ある者となり、強靭と活力を具有した者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(4)

 

 [1520]「最高の義(勝義)に至り得るために、精進に励み」とは、最高の義(目的)は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。最高の義(目的)に至り得るために、獲るために、獲得するために、到達するために、体得するために、実証するために、精進に励む者として〔世に〕住む──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる〔意志〕ある者として、断固たる勤勉〔努力〕ある者として、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)として。ということで、「最高の義(勝義)に至り得るために、精進に励み」。

 

 [1521]「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」とは、その独正覚者は、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励する。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態となるために、広大となるために、修行のために、円満成就のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励する。このように、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。

 

 [1522]さらに、あるいは、「かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の活力によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし」と、心を励起し、精励する。このようにもまた、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。

 

 [1523]〔そこで、詩偈に言う〕「〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらに、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)──渇愛の矢が打破されないうちは」と──

 

 [1524]心を励起し、精励する。このようにもまた、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。

 

 [1525]「それまで、わたしは、この結跏を破らないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このようにもまた、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。

 

 [1526]「それまで、わたしは、この坐から出起しないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このようにもまた、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。

 

 [1527]「それまで、わたしは、この〔瞑想のための〕歩行場から降りないであろう……略……精舎から出ないであろう……半屋根から出ないであろう……高楼から出ないであろう……楼房から出ないであろう……洞窟から出ないであろう……山窟から出ないであろう……小屋から出ないであろう……楼閣から出ないであろう……見張塔から出ないであろう……円室から出ないであろう……堂舎から出ないであろう……奉仕堂から出ないであろう……天幕から出ないであろう……。「それまで、わたしは、この木の根元から出ないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このようにもまた、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。

 

 [1528]「まさしく、この、早刻時に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このようにもまた、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。「まさしく、この、日中時に……略……夕刻時に……食前に……食後に……初更(宵の内)に……中更(真夜中)に……後更(明け方)に……黒〔分〕(月が欠ける期間)に……白〔分〕(月が満ちる期間)に……雨期に……冬に……夏に……初年期(青年期)に……中年期(壮年期)に……後年期(老年期)に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このようにもまた、「畏縮した心なく、怠惰な生活なく」。

 

 [1529]「断固たる勤勉〔努力〕ある者となり、強靭と活力を具有した者となり」とは、その独正覚者は、諸々の善なる法(性質)において、断固たる受持ある者として〔世に〕有った──身体による善き行ないにおいて、言葉による善き行ないにおいて、意による善き行ないにおいて、布施の分与において、戒の受持において、斎戒の断行において、母を敬うことにおいて、父を敬うことにおいて、沙門を敬うことにおいて、婆羅門を敬うことにおいて、家における最尊者を敬うことにおいて、諸々の何らかの或る様々な卓越の善なる法(性質)において、確立した受持ある者として。ということで、「断固たる勤勉〔努力〕ある者となり」。「強靭と活力を具有した者となり」とは、その独正覚者は、かつまた、強靭を、かつまた、活力を、かつまた、精進を、かつまた、勤勉を、かつまた、智慧を、具した者として、具完した者として、所有した者として、完備した者として、具有した者として、完有した者として、具備した者として、〔世に〕有る。ということで、「断固たる勤勉〔努力〕ある者となり、強靭と活力を具有した者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1530]「最高の義(勝義:涅槃)に至り得るために、精進に励み、畏縮した心なく、怠惰な生活なく、断固たる勤勉〔努力〕ある者となり、強靭と活力を具有した者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

155.

 

 [1531]69.(69) 静坐と瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を遠ざけずにいる者となり、諸々の法(教え)について常に法(教え)のままに行なう者となり、諸々の生存のうちに危険を触知する者となり(苦しみの生をあるがままに知り見る者となり)、犀の角のように、独り、歩むがよい。(5)

 

 [1532]「静坐と瞑想(禅・静慮)を遠ざけずにいる者となり」とは、その独正覚者は、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想を無視しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者たる瞑想者として、瞑想を喜ぶ者として、一なることに専念する者として、自らの義(目的)に尊重ある者として、〔世に〕有る。ということで、「静坐」。「瞑想を遠ざけずにいる者となり」とは、その独正覚者は、二つの契機によって、瞑想を遠ざけない。(1)あるいは、〔いまだ〕生起していない第一の瞑想の生起のために、専らなる者として、専念する者として、等しく専念する者として、専従する者として、等しく専従する者として、あるいは、〔いまだ〕生起していない第二の瞑想の……略……あるいは、〔いまだ〕生起していない第三の瞑想の……あるいは、〔いまだ〕生起していない第四の瞑想の生起のために、専らなる者として、専念する者として、等しく専念する者として、専従する者として、等しく専従する者として。ということで、このようにもまた、瞑想を遠ざけない。

 

 [1533]さらに、あるいは、(2)あるいは、〔すでに〕生起した第一の瞑想を、習修し、修め、多く為し、あるいは、〔すでに〕生起した第二の瞑想を……略……あるいは、〔すでに〕生起した第三の瞑想を……あるいは、〔すでに〕生起した第四の瞑想を、習修し、修め、多く為す。このようにもまた、瞑想を遠ざけない。ということで、「瞑想を遠ざけずにいる者となり」。

 

 [1534]「諸々の法(教え)について常に法(教え)のままに行なう者となり」とは、諸々の法(教え)は、四つの気づきの確立……略([205]参照)……聖なる八つの支分ある道、と説かれる。どのようなものが、諸々の法(教え)のままなるものであるのか。正しい〔実践の〕道、〔真理に〕随順する〔実践の〕道、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道、義(意味)のままなる〔実践の〕道、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていること、食について量を知ること、〔眠らずに〕起きていることへの専念、気づきと正知である。これらが、諸々の法(教え)のままなるものと説かれる。「諸々の法(教え)について常に法(教え)のままに行なう者となり」とは、諸々の法(教え)について、常住時に、常恒時に、常久に、連続して、途切れなく、矢継ぎ早に、水波が生じたように──

 

 [1535]間隔なく、相続して、相伴い、接触し、食前に、食後に、初更(宵の内)に、中更(真夜中)に、後更(明け方)に、黒〔分〕(月が欠ける期間)に、白〔分〕(月が満ちる期間)に、雨期に、冬に、夏に、初年期(青年期)に、中年期(壮年期)に、後年期(老年期)に、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「諸々の法(教え)について常に法(教え)のままに行なう者となり」。

 

 [1536]「諸々の生存のうちに危険を触知する者となり」とは、「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、諸々の生存のうちに危険を触知する者として。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略……。「一切の法(事象)は、無我である」と……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、諸々の生存のうちに危険を触知する者として。ということで、「諸々の生存のうちに危険を触知する者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1537]「静坐と瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を遠ざけずにいる者となり、諸々の法(教え)について常に法(教え)のままに行なう者となり、諸々の生存のうちに危険を触知する者となり(苦しみの生をあるがままに知り見る者となり)、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

156.

 

 [1538]70.(70) 〔気づきを〕怠らず〔常に〕渇愛の滅尽を望み求めている者となり、聾唖ならざる聞ある気づきの者となり、法(真理)を究め〔正道を〕決定した〔刻苦〕精励の者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(6)

 

 [1539]「〔気づきを〕怠らず〔常に〕渇愛の滅尽を望み求めている者となり」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「渇愛の滅尽を」とは、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を、切望している者として、欲求している者として、愛用している者として、熱望している者として、渇望している者として。ということで、「〔常に〕渇愛の滅尽を望み求めている者となり」。「〔気づきを〕怠らず」とは、その独正覚者は、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者として、常に為す者として、停滞なく為す者として、畏縮なき生活者として、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)として、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)として、〔気づきを〕怠らない者として、〔世に有る〕。ということで、「〔気づきを〕怠らず〔常に〕渇愛の滅尽を望み求めている者となり」。

 

 [1540]「聾唖ならざる聞ある気づきの者となり」とは、「聾唖ならざる」とは、その独正覚者は、賢者として、智慧ある者として、覚慧ある者として、知恵ある者として、分明ある者として、思慮ある者として、〔世に有る〕。ということで、「聾唖ならざる」。「聞ある」とは、その独正覚者は、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有る。すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有る──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。「気づきの者となり」とは、その独正覚者は、気づきの者として〔世に〕有る──最高の気づきと賢明さを具備したことから、長きに為されたことをもまた、長きに語られたことをもまた、思念する者であり、随念する者である。ということで、「聾唖ならざる聞ある気づきの者となり」。

 

 [1541]「法(真理)を究め〔正道を〕決定した〔刻苦〕精励の者となり」とは、法(真理)を究めたものは、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照)……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。「法(真理)を究め」とは、その独正覚者は、法(真理)を究めた者として、法(真理)を知った者として、法(真理)を比較した者として、法(真理)を推量した者として、法(真理)を明確にした者として、法(真理)を分明した者として、〔世に有る〕。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、法(真理)を究めた者として……略([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、法(真理)を究めた者として、法(真理)を知った者として、法(真理)を比較した者として、法(真理)を推量した者として、法(真理)を明確にした者として、法(真理)を分明した者として、〔世に有る〕。さらに、あるいは、かつまた、その独正覚者の、〔五つの〕範疇は、退縮したものとして、〔十八の〕界域は、退縮したものとして、〔十二の認識の〕場所は、退縮したものとして、諸々の境遇は、退縮したものとして、再生は、退縮したものとして、諸々の結生は、退縮したものとして、諸々の生存は、退縮したものとして、諸々の輪廻は、退縮したものとして、諸々の転起は、退縮したものとして、〔世に有る〕。さらに、あるいは、その独正覚者は、範疇の極限に止住している者として、界域の極限に止住している者として、〔認識の〕場所の極限に止住している者として、境遇の極限に止住している者として、再生の極限に止住している者として、結生の極限に止住している者として、生存の極限に止住している者として、輪廻の極限に止住している者として、転起の極限に止住している者として、最後の生存に止住している者として、最後の積身に止住している者として、最後の肉身を保つ独正覚者として、〔世に有る〕。

 

 [1542]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、これは、最後の生存である。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。

 

 [1543]それを契機とすることから、独正覚者は、法(真理)を究めた者として〔世に有る〕。「〔正道を〕決定した」とは、諸々の〔正道の〕決定は、四つの聖者の道と説かれる。四つの聖者の道を具備した者は、〔正道の〕決定に、至り得た者である、得達した者である、到達した者である、体得した者である、実証した者である。ということで、「〔正道を〕決定した」(※)。「〔刻苦〕精励の者となり」とは、精励は、精進と説かれる。すなわち(※※)、心の属性にして、精進勉励、勤しむこと、勤勉、努めること、努力、邁進、勤勇、強靭、〔道心〕堅固、緩慢ならざる勤勉たること、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かないこと、重荷を捨て置かないこと、重荷の堅持、精進、精進の機能(精進根)、精進の力(精進力)、正しい努力(正精進)である。その独正覚者は、この精励を、具した者として、具完した者として、所有した者として、完備した者として、具有した者として、完有した者として、具備した者として、〔世に有る〕。それゆえに、その独正覚者は、〔刻苦〕精励の者である。ということで、「法(真理)を究め〔正道を〕決定した〔刻苦〕精励の者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

※ テキストには Catūhi ariyamaggehi samannāgatoti niyato. Niyāmaṃ patto sampatto adhigato phassito sacchikato patto niyāmaṃ とあるが、平行箇所[1422]により Catūhi ariyamaggehi samannāgato niyāmaṃ patto sampatto adhigato phassito sacchikatoti – niyato と読む(PTS版は記載なし)。

※※ テキストには So とあるが、マハー・ニッデーサの平行箇所(迅速の経についての釈示[1485])により Yo と読む。

 

 [1544]「〔気づきを〕怠らず〔常に〕渇愛の滅尽を望み求めている者となり、聾唖ならざる聞ある気づきの者となり、法(真理)を究め〔正道を〕決定した〔刻苦〕精励の者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

157.

 

 [1545]71.(71) 諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、犀の角のように、独り、歩むがよい。(7)

 

 [1546]「諸々の音に動じない獅子のように」とは、たとえば、獣の王たる獅子が、諸々の音にたいし、恐慌なく、遍く恐慌なく、恐懼なく、戦慄なく、危惧なく、恐れなく、恐怖なく、驚愕なく、恐懼なく、逃げないように、独正覚者もまた、諸々の音声にたいし、恐慌なく、遍く恐慌なく、恐懼なく、戦慄なく、危惧なく、恐れなく、恐怖なく、驚愕なく、恐懼なく、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕住む。ということで、「諸々の音に動じない獅子のように」。

 

 [1547]「〔鳥捕りの〕網に着さない風のように」とは、「風」とは、諸々の東の風、諸々の西の風、諸々の北の風、諸々の南の風、諸々の塵を有する風、諸々の塵なき風、諸々の冷風、諸々の熱風、諸々の微風、諸々の烈風、諸々の季節の風(台風)、諸々の翼の風、諸々の金翅鳥の風、諸々のターラの葉(扇)の風、諸々の扇の風。網は、糸の網と説かれる。たとえば、風が、網にたいし、執着せず、収取せず、結縛されず、障害されないように、まさしく、このように。二つの網がある。(1)そして、渇愛の網であり、(2)さらに、見解の網である。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の網である。(2)……略([284]参照)……これが、見解の網である。その独正覚者の、渇愛の網は〔すでに〕捨棄され、見解の網は〔すでに〕放棄され、渇愛の網が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の網が〔すでに〕放棄されたことから、その独正覚者は、形態にたいし執着せず、音声にたいし執着せず、臭気にたいし執着せず……略([1279]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、執着せず、収取せず、結縛されず、障害されず、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「〔鳥捕りの〕網に着さない風のように」。

 

 [1548]「〔泥〕水に汚されない蓮華のように」とは、蓮華は、蓮華の花と説かれる。水(トーヤ)は、水(ウダカ)と説かれる。たとえば、蓮華の花が、水に、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されることなくあり、強く汚されることなくあり、近しく汚されることなくあるように、まさしく、このように。二つの汚れがある。(1)そして、渇愛の汚れであり、(2)さらに、見解の汚れである。(1)……略([283]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([284]参照)……これが、見解の汚れである。その独正覚者の、渇愛の汚れは〔すでに〕捨棄され、見解の汚れは〔すでに〕放棄され、渇愛の汚れが〔すでに〕捨棄されたことから、見解の汚れが〔すでに〕放棄されたことから、その独正覚者は、形態について汚されず、音声について汚されず……略([1279]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)について、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「〔泥〕水に汚されない蓮華のように、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1549]「諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

158.

 

 [1550]72.(72) たとえば、牙の力ある獅子が、〔敵を〕打ち負かして、獣たちの王となり、〔一切を〕征服して歩むように、諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しみ、犀の角のように、独り、歩むがよい。(8)

 

 [1551]「たとえば、牙の力ある獅子が、〔敵を〕打ち負かして、獣たちの王となり、〔一切を〕征服して歩むように」とは、たとえば、牙を力とし牙を武器とする、獣の王たる獅子が、一切の畜生の在り方をした命あるものたちを、征して、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行くように、独正覚者もまた、智慧を力とし智慧を武器とする者として、一切の命ある生類たちを、人たちを、智慧によって、征して、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「たとえば、牙の力ある獅子が、〔敵を〕打ち負かして、獣たちの王となり、〔一切を〕征服して歩むように」。

 

 [1552]「諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しみ」とは、たとえば、獣の王たる獅子が、林地や林野に深く分け入って、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行くように、独正覚者もまた、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しみ、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1553]「たとえば、牙の力ある獅子が、〔敵を〕打ち負かして、獣たちの王となり、〔一切を〕征服して歩むように、諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しみ、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

159.

 

 [1554]73.(73) 慈愛〔の心〕()を、放捨〔の心〕()を、慈悲〔の心〕()を、さらに、歓喜〔の心〕()を、〔これらの四つの無量なる心による〕解脱を、〔正しい〕時に〔常に〕習修しながら、一切の世〔の人々〕に遮られずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(9)

 

 [1555]「慈愛〔の心〕()を、放捨〔の心〕()を、慈悲〔の心〕()を、さらに、歓喜〔の心〕()を、〔これらの四つの無量なる心による〕解脱を、〔正しい〕時に〔常に〕習修しながら」とは、その独正覚者は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住む。そのように、第二〔の方角〕を……。そのように、第三〔の方角〕を……。そのように、第四〔の方角〕を……。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住む。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で……略……広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住む。ということで、「慈愛〔の心〕を、放捨〔の心〕を、慈悲〔の心〕を、さらに、歓喜〔の心〕を、〔これらの四つの無量なる心による〕解脱を、〔正しい〕時に〔常に〕習修しながら」。

 

 [1556]「一切の世〔の人々〕に遮られずにいる者となり」とは、慈愛〔の心〕が修行されたことから、すなわち、東方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成り、すなわち、西方にいる有情たちは……略……すなわち、北方にいる有情たちは……すなわち、南方にいる有情たちは……すなわち、東維にいる有情たちは……すなわち、西維にいる有情たちは……すなわち、北維にいる有情たちは……すなわち、南維にいる有情たちは……すなわち、下方にいる有情たちは……すなわち、上方にいる有情たちは……すなわち、十方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成る。慈悲〔の心〕が修行されたことから……。歓喜〔の心〕が修行されたことから……。放捨〔の心〕が修行されたことから、すなわち、東方にいる有情たちは……略……すなわち、十方にいる有情たちは、彼らは、嫌悪ならざる者たちと成る。「一切の世〔の人々〕に遮られずにいる者となり」とは、一切の世〔の人々〕によって、遮られずにいる者として、激しく遮られずにいる者として、憤懣させられずにいる者として、打破されずにいる者として。ということで、「一切の世〔の人々〕に遮られずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1557]「慈愛〔の心〕()を、放捨〔の心〕()を、慈悲〔の心〕()を、さらに、歓喜〔の心〕()を、〔これらの四つの無量なる心による〕解脱を、〔正しい〕時に〔常に〕習修しながら、一切の世〔の人々〕に遮られずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

160.

 

 [1558]74.(74) そして、貪欲()を、かつまた、憤怒()を、迷妄()を捨棄して、諸々の束縛するもの()を引き裂いて、生命の消滅に動じずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい。(10)

 

 [1559]「そして、貪欲()を、かつまた、憤怒()を、迷妄()を捨棄して」とは、「貪欲」とは、すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([207]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「憤怒」とは、すなわち、心の、憤懣……略([1513]参照)……狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。「迷妄」とは、すなわち、苦しみについての無知……略([203]参照)……無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元である。「そして、貪欲を、かつまた、憤怒を、迷妄を捨棄して」とは、その独正覚者は、そして、貪欲を、かつまた、憤怒を、さらに、迷妄を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「そして、貪欲を、かつまた、憤怒を、迷妄を捨棄して」。

 

 [1560]「諸々の束縛するもの()を引き裂いて」とは、十の束縛するものがある。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、敵対〔の思い〕という束縛するもの、思量という束縛するもの、見解という束縛するもの、疑惑〔の思い〕という束縛するもの、戒や掟への偏執という束縛するもの、生存にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、嫉妬〔の思い〕という束縛するもの、物惜〔の思い〕という束縛するもの、無明という束縛するものである。「諸々の束縛するものを引き裂いて」とは、十の束縛するものを、引き裂いて、等しく引き裂いて、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「諸々の束縛するものを引き裂いて」。

 

 [1561]「生命の消滅に動じずにいる者となり」とは、その独正覚者は、生命の終了にたいし、恐慌なく、恐懼なく、戦慄なく、危惧なく、恐れなく、恐怖なく、驚愕なく、恐懼なく、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕住む。ということで、「生命の消滅に動じずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1562]「そして、貪欲()を、かつまた、憤怒()を、迷妄()を捨棄して、諸々の束縛するもの()を引き裂いて、生命の消滅に動じずにいる者となり、犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

161.

 

 [1563]75.(75) 〔人々は〕義(利益)を動機として、〔他者と〕親しくし、かつまた、慣れ親しむ。今日、動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの。自己を義(利益)とする智慧(自己本位の断片的知識)ある人間たちは、不浄である。犀の角のように、独り、歩むがよい。(11)

 

 [1564]「〔人々は〕義(利益)を動機として、〔他者と〕親しくし、かつまた、慣れ親しむ」とは、〔人々は〕自己の義(利益)を契機として、他者の義(利益)を契機として、両者の義(利益)を契機として、所見の法(現法:現世)の義(利益)を契機として、未来の義(利益)を契機として、最高の義(勝義:最高の真実)を契機として、〔他者と〕親しくし、〔他者と〕等しく親しくし、〔他者と〕慣れ親しみ、〔他者を〕慣用し、〔他者と〕等しく慣れ親しみ、〔他者を〕受用する。ということで、「〔人々は〕義(利益)を動機として、〔他者と〕親しくし、かつまた、慣れ親しむ」。

 

 [1565]「今日、動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの」とは、二者の朋友がいる。(1)そして、在家者の朋友であり、(2)さらに、在家者ならざる朋友である。(1)……略([1268]参照)……。これが、在家者の朋友である。(2)……略([1269]参照)……。これが、在家者ならざる朋友である。「今日、動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの」とは、これらの二者の朋友たちで、動機なき者たちは、動機なくある者たちは、因なき者たちは、縁なき者たちは、得難き者たちであり、得られ難き者たちであり、極めて得られ難き者たちである。ということで、「今日、動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの」。

 

 [1566]「自己を義(利益)とする智慧(自己本位の断片的知識)ある人間たちは、不浄である」とは、「自己を義(利益)とする智慧ある」とは、自己の義(利益)のために、自己を因として、自己を縁として、自己を契機として、〔他者と〕親しみ、〔他者と〕等しく親しみ、〔他者と〕慣れ親しみ、〔他者を〕慣用し、〔他者と〕等しく慣れ親しみ、〔他者を〕受用し、習行し、励行し、奉侍し、遍く問い尋ね、遍く質問する。ということで、「自己を義(利益)とする智慧ある」。「人間たちは、不浄である」とは、不浄なる身体の行為を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄なる言葉の行為を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄なる意の行為を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄なる命あるものを殺すことを……略……。不浄なる与えられていないものを取ることを……。不浄なる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を……。不浄なる虚偽を説くことを……。不浄なる中傷の言葉を具備した者たち……。不浄なる粗暴な言葉を具備した者たち……。不浄なる雑駁な虚論を具備した者たち……。不浄なる強欲〔の思い〕を具備した者たち……。不浄なる憎悪〔の思い〕を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄なる誤った見解を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄なる思欲を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄なる切望を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄なる切願を具備した者たち、ということで、「人間たちは、不浄である」。不浄であり、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である。ということで、「自己を義(利益)とする智慧ある人間たちは、不浄である」。

 

 [1567]「犀の角のように、独り、歩むがよい」とは、「独り」とは、その独正覚者は、出家と名づけられたことによって、独りであり……略([1218-1230]参照)……。「歩むがよい」とは、八つの歩みがある。……略([1231-1232]参照)……。「犀の角のように」とは、たとえば、犀の角が、まさに、一つのものとして有り、第二のものなくあるように……略([1233]参照)……「犀の角のように、独り、歩むがよい」。それによって、その独正覚者は言った。

 

 [1568]「〔人々は〕義(利益)を動機として、〔他者と〕親しくし、かつまた、慣れ親しむ。今日、動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの。自己を義(利益)とする智慧(自己本位の断片的知識)ある人間たちは、不浄である。犀の角のように、独り、歩むがよい」と。

 

 [1569]〔以上が〕第四の章となる。

 

 [1570]犀の角の経についての釈示は〔以上で〕終了となる。

 

 [1571]〔そこで、詩偈に言う〕「アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、さらに、メッタグー、ドータカ、そして、ウパシーヴァ、そして、ナンダ、さらに、ヘーマカ──

 

 [1572]トーデイヤとカッパの両者、そして、賢者たるジャトゥカンニ、バドラーヴダ、そして、ウダヤ、そして、また、ポーサーラ婆羅門、そして、思慮あるモーガラージャン、そして、大いなる聖賢のピンギヤ──

 

 [1573]また、まさしく、これらの十六者の婆羅門のための教えが〔有り〕、諸々の彼岸に至るもののための諸々の釈示として、そして、まさに、それなるものが有る。

 

 [1574]諸々の犀の角の経のための諸々の釈示もまた、そして、まさしく、そのように〔有り〕、二種類の義釈が、円満成就したものとして、善く特相づけられたものとして、知られるべきである」と。

 

 [1575]チューラ・ニッデーサ聖典は〔以上で〕終了となる。