増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)

 

 ティカ・ニパータ聖典(三集:三なるものの集まり)

 

【目次】

 

1. 第一の五十なるもの(1.~)

 

1. 愚者の章(1.~)

 

1. 恐怖の経

2. 特相の経

3. 思弁ある者の経

4. 過誤の経

5. 「根源のままならずに」の経

6. 善ならざるものの経

7. 罪過を有するものの経

8. 加害〔の思い〕を有するものの経

9. 掘り崩すものの経

10. 垢の経

 

2. 車工の章(11.~)

 

1. 所知の経

2. 記憶されるべきものの経

3. 願求ある者の経

4. 転輪〔王〕の経

5. サチェータナの経

6. 雑物なきものの経

7. 自己にたいする加害〔の思い〕の経

8. 天の世の経

9. 第一の店主の経

10. 第二の店主の経

 

3. 人の章(21.~)

 

1. サミッダの経

2. 病者の経

3. 形成〔作用〕の経

4. 多く〔の利益〕を作り為す者の経

5. 金剛の如きものの経

6. 慣れ親しむべき者の経

7. 忌避するべき者の経

8. 糞の話し手の経

9. 盲者の経

10. 下向きの者の経

 

4. 天の使者の章(31.~)

 

1. 梵〔天〕たちを有するものの経

2. アーナンダの経

3. サーリプッタの経

4. 因縁の経

5. ハッタカの経

6. 天の使者の経

7. 〔天の〕四大王の経

8. 第二の〔天の〕四大王の経

9. 繊細なる者の経

10. 優位の経

 

5. 小なるものの章(41.~)

 

1. 面前の状態の経

2. 三つの状況の経

3. 義たる所以の経

4. 議論の転起の経

5. 賢者の経

6. 戒ある者の経

7. 形成されたものの経

8. 形成されたものではないものの経

9. 山の王の経

10. 「熱く為すべきです」の経

11. 大盗賊の経

 

2. 第二の五十なるもの(52.~)

 

(6)1. 婆羅門の章(52.~)

 

1. 第一の二者の婆羅門の経

2. 第二の二者の婆羅門の経

3. 或るひとりの婆羅門の経

4. 遍歴遊行者の経

5. 涅槃に到達した者の経

6. 崩壊の経

7. ヴァッチャ・ゴッタの経

8. ティカンナの経

9. ジャーヌッソーニの経

10. サンガーラヴァの経

 

(7)2. 大いなるものの章(62.~)

 

1. 異教の者たちの〔認識の〕場所等の経

2. 恐怖の経

3. ヴェーナーガプラの経

4. サラバの経

5. ケーサムッタの者たちの経

6. サールハの経

7. 議論の基盤の経

8. 〔教えを〕他にする異教の者たちの経

9. 善ならざるものの根元の経

10. 斎戒の経

 

(8)3. アーナンダの章(72.~)

 

1. チャンナの経

2. アージーヴァカの経

3. 釈迦〔族〕のマハー・ナーマの経

4. ニガンタの経

5. 固着の経

6. 第一の生存の経

7. 第二の生存の経

8. 戒や掟の経

9. 香りの類の経

10. 小なるものの経

 

(9)4. 沙門の章(82.~)

 

1. 沙門の経

2. 驢馬の経

3. 田畑の経

4. ヴァッジー族の経

5. 〔いまだ〕学びある者の経

6. 第一の学びの経

7. 第二の学びの経

8. 第三の学びの経

9. 第一の三つの学びの経

10. 第二の三つの学びの経

11. サンカヴァーの経

 

(10)5. 塩の瓶の章(93.~)

 

1. 緊急の経

2. 遠離の経

3. 秋の経

4. 衆の経

5. 第一の良馬の経

6. 第二の良馬の経

7. 第三の良馬の経

8. 樹皮の衣の経

9. 塩の瓶の経

10. 砂塵の洗浄者の経

11. 形相の経

 

3. 第三の五十なるもの(104.~)

 

(11)1. 正覚の章(104.~)

 

1. 「正覚より、まさしく、過去において」の経

2. 第一の悦楽の経

3. 第二の悦楽の経

4. 沙門や婆羅門たちの経

5. 泣き叫ぶことの経

6. 不満の経

7. 守られていないものの経

8. 憎悪しているものの経

9. 第一の因縁の経

10. 第二の因縁の経

 

(12)2. 悪所にある者の章(114.~)

 

1. 悪所にある者の経

2. 得難きものの経

3. 無量なるものの経

4. 不動なるものの経

5. 衰滅と成就の経

6. 純正品の経

7. 生業の経

8. 第一の清廉たることの経

9. 第二の清廉たることの経

10. 沈黙たることの経

 

(13)3. クシナーラーの章(124.~)

 

1. クシナーラーの経

2. 言争の経

3. ゴータマカ塔廟の経

4. カーラーマ〔族〕のバランドゥの経

5. ハッタカの経

6. 辛く穢れとなるものの経

7. 第一のアヌルッダの経

8. 第二のアヌルッダの経

9. 隠されたものの経

10. 線の経

 

(14)4. 軍人の章(134.~)

 

1. 軍人の経

2. 衆の経

3. 朋友の経

4. 生起の経

5. 髪の毛布の経

6. 成就の経

7. 増大の経

8. 野馬たる馬の経

9. 駿馬たる馬の経

10. 良馬たる馬の経

11. 第一のモーラ・ニヴァーパの経

12. 第二のモーラ・ニヴァーパの経

13. 第三のモーラ・ニヴァーパの経

 

(15)5. 幸福の章(147.~)

 

1. 善ならざるものの経

2. 罪過を有するものの経

3. 正しからざるものの経

4. 清らかならざるものの経

5. 第一の掘り崩されたものの経

6. 第二の掘り崩されたものの経

7. 第三の掘り崩されたものの経

8. 第四の掘り崩されたものの経

9. 敬拝の経

10. 早刻の経

 

(16)6. 無衣の者の章(157.~)

(17)7. 行為の道と省略〔の経典〕(164.~)

(18)8. 貪欲と省略〔の経典〕(184.~)

 


 

 

 ティカ・ニパータ聖典(三集:三なるものの集まり)

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

1. 第一の五十なるもの

 

1. 愚者の章

 

1. 恐怖の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それらが何であれ、諸々の恐怖が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者からではなく。それらが何であれ、諸々の災禍が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者からではなく。それらが何であれ、諸々の災難が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者からではなく。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、葦の家から、あるいは、草の家から、解き放たれた火が、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、屋頂ある家々をもまた焼くように、比丘たちよ、まさしく、このように、それらが何であれ、諸々の恐怖が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者からではなく。それらが何であれ、諸々の災禍が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者からではなく。それらが何であれ、諸々の災難が生起するなら、それらの全てが、愚者から生起します──賢者からではなく。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、恐怖を有する者として愚者はあり、恐怖なき者として賢者はあります。災禍を有する者として愚者はあり、災禍なき者として賢者はあります。災難を有する者として愚者はあり、災難なき者として賢者はあります。比丘たちよ、賢者から〔生起する〕恐怖は存在しません。賢者から〔生起する〕災禍は存在しません。賢者から〔生起する〕災難は存在しません。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『それらの三つの法(性質)を具備した者が、愚者と知られるべきであるなら、それらの三つの法(性質)を回避して、それらの三つの法(性質)を具備した者が、賢者と知られるべきであるなら、それらの三つの法(性質)を成就して、〔わたしたちは〕行持するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 特相の経

 

2. 「比丘たちよ、行為による特相ある者として愚者はあり、行為による特相ある者として賢者はあり、行状による荘厳あるものとして智慧はある、と〔知られるべきです〕。比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『それらの三つの法(性質)を具備した者が、愚者と知られるべきであるなら、それらの三つの法(性質)を回避して、それらの三つの法(性質)を具備した者が、賢者と知られるべきであるなら、それらの三つの法(性質)を成就して、〔わたしたちは〕行持するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 思弁ある者の経

 

3. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、愚者のものたる、愚者の特相であり、愚者の形相であり、愚者の行状です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、愚者が、そして、悪しく思弁された思弁ある者として、かつまた、悪しく語られた語りある者として、さらに、悪しく為された行為の為し手として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、もし、このことが、愚者が、そして、悪しく思弁された思弁ある者として、かつまた、悪しく語られた語りある者として、さらに、悪しく為された行為の為し手として、〔世に〕有ることがなかったなら、賢者たちは、何によって、彼のことを知るというのでしょう。『この尊き者は、愚者である、正ならざる人士である』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、愚者が、そして、悪しく思弁された思弁ある者として、かつまた、悪しく語られた語りある者として、さらに、悪しく為された行為の為し手として、〔世に〕有ることから、それゆえに、賢者たちは、彼のことを知ります。『この尊き者は、愚者である、正ならざる人士である』と。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、愚者のものたる、愚者の特相があり、愚者の形相があり、愚者の行状があります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、賢者のものたる、賢者の特相であり、賢者の形相であり、賢者の行状です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、賢者が、そして、善く思弁された思弁ある者として、かつまた、善く語られた語りある者として、さらに、善く為された行為の為し手として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、もし、このことが、賢者が、そして、善く思弁された思弁ある者として、かつまた、善く語られた語りある者として、さらに、善く為された行為の為し手として、〔世に〕有ることがなかったなら、賢者たちは、何によって、彼のことを知るというのでしょう。『この尊き者は、賢者である、正なる人士である』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、賢者が、そして、善く思弁された思弁ある者として、かつまた、善く語られた語りある者として、さらに、善く為された行為の為し手として、〔世に〕有ることから、それゆえに、賢者たちは、何によって、彼のことを知ります。『この尊き者は、賢者である、正なる人士である』と。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、賢者のものたる、賢者の特相があり、賢者の形相があり、賢者の行状があります。比丘たちよ、それゆえに、ここに……略……。〔以上が〕第三となる。

 

4. 過誤の経

 

4. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。過誤を過誤として見ません。過誤を過誤として見て、法(教え)のとおりに懺悔しません。また、まさに、他者が説示している過誤を、法(教え)のとおりに納受しません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。過誤を過誤として見ます。過誤を過誤として見て、法(教え)のとおりに懺悔します。また、まさに、他者が説示している過誤を、法(教え)のとおりに納受します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。比丘たちよ、それゆえに、ここに……略……。〔以上が〕第四となる。

 

5. 「根源のままならずに」の経

 

5. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。根源のままならずに問いを為す者として〔世に〕有ります。根源のままならずに問いに答える者として〔世に〕有ります。また、まさに、他者が根源のままに問いに答えたなら、諸々の遍き円成ある句と文の連続を具した〔言葉〕で大いに随喜する者として〔世に〕有りません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。根源のままに問いを為す者として〔世に〕有ります。根源のままに問いに答える者として〔世に〕有ります。また、まさに、他者が根源のままに問いに答えたなら、諸々の遍き円成ある句と文の連続を具した〔言葉〕で大いに随喜する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。比丘たちよ、それゆえに、ここに……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 善ならざるものの経

 

6. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。善ならざる身体の行為であり、善ならざる言葉の行為であり、善ならざる意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。善なる身体の行為であり、善なる言葉の行為であり、善なる意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。比丘たちよ、それゆえに、ここに……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 罪過を有するものの経

 

7. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。罪過を有する身体の行為であり、罪過を有する言葉の行為であり、罪過を有する意の行為です。……略……。罪過なき身体の行為であり、罪過なき言葉の行為であり、罪過なき意の行為です。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 加害〔の思い〕を有するものの経

 

8. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、愚者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。加害〔の思い〕を有する身体の行為であり、加害〔の思い〕を有する言葉の行為であり、加害〔の思い〕を有する意の行為です。……略……。加害〔の思い〕なき身体の行為であり、加害〔の思い〕なき言葉の行為であり、加害〔の思い〕なき意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、賢者と知られるべきです。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『それらの三つの法(性質)を具備した者が、愚者と知られるべきであるなら、それらの三つの法(性質)を回避して、それらの三つの法(性質)を具備した者が、賢者と知られるべきであるなら、それらの三つの法(性質)を成就して、〔わたしたちは〕行持するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 掘り崩すものの経

 

9. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、そして、罪過を有する者として、かつまた、識者たちにとって批判を有する者として、〔世に〕有り、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 垢の経

 

10. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、〔これらの〕三つの垢を捨棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。そして、劣戒の者として〔世に〕有り、さらに、彼の劣戒の垢が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。そして、嫉妬ある者として〔世に〕有り、さらに、彼の嫉妬の垢が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。そして、物惜ある者として〔世に〕有り、さらに、彼の物惜の垢が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、これらの三つの垢を捨棄せずして、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、〔これらの〕三つの垢を捨棄して、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。そして、戒ある者として〔世に〕有り、さらに、彼の劣戒の垢が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。そして、嫉妬なき者として〔世に〕有り、さらに、彼の嫉妬の垢が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。そして、物惜なき者として〔世に〕有り、さらに、彼の物惜の垢が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、これらの三つの垢を捨棄して、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 愚者の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「恐怖、そして、特相と思弁ある者、そして、過誤、『根源のままならずに』があり、そして、善ならざるもの、罪過を有するもの、加害〔の思い〕を有するものと掘り崩すもの、垢があり、〔章となる〕」と。

 

2. 車工の章

 

1. 所知の経

 

11. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備し、所知のものとした比丘は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者と成ります。どのようなものが、三つのものなのですか。〔真理に〕随順しない身体の行為を、〔他者に〕受持させます。〔真理に〕随順しない言葉の行為を、〔他者に〕受持させます。諸々の〔真理に〕随順しない法(教え)を、〔他者に〕受持させます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備し、所知のものとした比丘は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、実践する者と成ります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備し、所知のものとした比丘は、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者と成ります。どのようなものが、三つのものなのですか。〔真理に〕随順する身体の行為を、〔他者に〕受持させます。〔真理に〕随順する言葉の行為を、〔他者に〕受持させます。諸々の〔真理に〕随順する法(教え)を、〔他者に〕受持させます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備し、所知のものとした比丘は、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、多くの人々の──天〔の神々〕と人間たちの──義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践する者と成ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 記憶されるべきものの経

 

12. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらのものは、即位灌頂した王たる士族にとって、生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、その地域において、即位灌頂した王たる士族が、〔世に〕生まれた者と成るなら、比丘たちよ、これは、即位灌頂した王たる士族にとって、第一の生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その地域において、即位灌頂した王たる士族と成るなら、比丘たちよ、これは、即位灌頂した王たる士族にとって、第二の生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その地域において、即位灌頂した王たる士族が、戦場を征圧して、戦場を征圧した者として、まさしく、その、征圧した主戦場に居住するなら、比丘たちよ、これは、即位灌頂した王たる士族にとって、第三の生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものは、即位灌頂した王たる士族にとって、生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。これらのものは、比丘にとって、生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、その地域において、比丘が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家した者と成るなら、比丘たちよ、これは、比丘にとって、第一の生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その地域において、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、これは、比丘にとって、第二の生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その地域において、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、これは、比丘にとって、第三の生あるかぎり記憶されるべきものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものは、比丘にとって、生あるかぎり記憶されるべきものと成ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 願求ある者の経

 

13. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。願望なき者であり、願求ある者であり、願望が離れ去った者です。比丘たちよ、では、どのような人が、願望なき者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、卑しい家に生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。あるいは、チャンダーラ(賎民)の家に、あるいは、下賎の家に、あるいは、山民の家に、あるいは、車工の家に、あるいは、プックサ(非人)の家に──貧しく、食べ物と飲み物と食料が少なく、生活が困難で、そこにおいては、食糧や衣服が、困難をもって得られます。かつまた、彼は、醜き色艶で、醜き見た目で、猫背で、病苦多く、あるいは、片目の者として、あるいは、手萎えの者として、あるいは、足萎えの者として、あるいは、半身不随の者として、〔世に〕有ります──食べ物の、飲み物の、衣装の、乗物の、花飾と香料と塗料の、臥所と住所と灯具の、得者ではなく。彼が、『どうやら、某名の士族が、士族たちによる士族の灌頂によって灌頂したらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いは〕有りません。『いったい、いつ、士族たちは、まさに、わたしをもまた、士族の灌頂によって灌頂するのだろう』と。比丘たちよ、この人は、願望なき者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、願求ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、即位灌頂した王たる士族の長子が、〔未来の〕灌頂者としてあり、〔いまだ〕灌頂されざるも、〔心の〕動揺に至り得ない者として〔世に〕有ります。彼が、『どうやら、某名の士族が、士族たちによる士族の灌頂によって灌頂したらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いが〕有ります。『いったい、いつ、士族たちは、まさに、わたしをもまた、士族の灌頂によって灌頂するのだろう』と。比丘たちよ、この人は、願求ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、願望が離れ去った者なのですか。比丘たちよ、ここに、即位灌頂した王たる士族が〔世に〕有ります。彼が、『どうやら、某名の士族が、士族たちによる士族の灌頂によって灌頂したらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いは〕有りません。『いったい、いつ、士族たちは、まさに、わたしをもまた、士族の灌頂によって灌頂するのだろう』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去において灌頂していなかったときの灌頂の願望は、それは、〔すでに〕安息しているからです。比丘たちよ、この人は、願望が離れ去った者と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。これらの人たちが、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。願望なき者であり、願求ある者であり、願望が離れ去った者です。比丘たちよ、では、どのような人が、願望なき者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、劣戒にして悪しき法(性質)ある者として、不浄にして励行に疑いある者として──生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑として──〔世に〕有ります。彼が、『どうやら、某名の比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いは〕有りません。『いったい、いつ、まさに、わたしもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだろう』と。比丘たちよ、この人は、願望なき者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、願求ある者なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。彼が、『どうやら、某名の比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いが〕有ります。『いったい、いつ、まさに、わたしもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだろう』と。比丘たちよ、この人は、願求ある者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、願望が離れ去った者なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として〔世に〕有ります。彼が、『どうやら、某名の比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むらしい』と耳にします。彼に、このような〔思いは〕有りません。『いったい、いつ、まさに、わたしもまた、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むのだろう』と。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去において解脱していなかったときの解脱の願望は、それは、〔すでに〕安息しているからです。比丘たちよ、この人は、願望が離れ去った者と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、比丘たちにおいて等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 転輪〔王〕の経

 

14. 「比丘たちよ、すなわち、たとえ、彼が、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王であるとして、彼もまた、王となるものなくして、輪を転起させることはありません」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、何が、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王にとって、王となるのですか」と。「比丘よ、法(正義)です」と、世尊は言いました。「比丘よ、ここに、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王が、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟(のぼり)として、法(正義)を優位として、家人にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王が、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、随従する士族たちにたいし、軍隊の衆にたいし、婆羅門や家長たちにたいし、町や地方の者たちにたいし、沙門や婆羅門たちにたいし、獣や鳥たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。比丘よ、それで、まさに、その、法(正義)にかなう法(正義)の王たる転輪王が、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、家人にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、随従する士族たちにたいし、軍隊の衆にたいし、婆羅門や家長たちにたいし、町や地方の者たちにたいし、沙門や婆羅門たちにたいし、獣や鳥たちにたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、まさしく、法(正義)によって、輪を転起させます。その輪は、人間たる生類によって、義(利益)に反する者によって、命あるものによって、誰であれ、反転できないものと成ります。

 

 比丘よ、まさしく、このように、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、身体の行為にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。『このような形態の身体の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の身体の行為は慣れ親しむべきではない』と。

 

 比丘よ、さらに、また、他に、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、言葉の行為にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。『このような形態の言葉の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の言葉の行為は慣れ親しむべきではない』と。……略……意の行為にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配します。『このような形態の意の行為は慣れ親しむべきであり、このような形態の意の行為は慣れ親しむべきではない』と。

 

 比丘よ、それで、まさに、その、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、まさしく、法(正義)に依拠して、法(正義)を尊敬しながら、法(正義)を尊重しながら、法(正義)を敬恭しながら、法(正義)を旗として、法(正義)を幟として、法(正義)を優位として、身体の行為にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、言葉の行為にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、意の行為にたいし、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配して、まさしく、法(真理)によって、無上なる法(真理)の輪を転起させます。その輪は、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できないものと成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. サチェータナの経

 

15. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人堕処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、過去の事(過去世)ですが、サチェータナという名の王が〔世に〕有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、サチェータナ王は、車工に告げました。『友よ、車工よ、これから六月が経過して、わたしに戦闘が有るであろう。友よ、車工よ、わたしのために、新しい車輪ひと組を作ることができるであろうか』と。比丘たちよ、『陛下よ、できます』と、まさに、車工は、サチェータナ王に答えました。比丘たちよ、そこで、まさに、車工は、六夜を残した六月をもって、一つの車輪を作り上げました。比丘たちよ、そこで、まさに、サチェータナ王は、車工に告げました。『友よ、車工よ、これから六日が経過して、わたしに戦闘が有るであろう。新しい車輪ひと組は作り上げられているであろうか』と。『陛下よ、まさに、この、六夜を残した六月をもって、一つの車輪が作り上げられました』と。『友よ、車工よ、また、この六日をもって、第二の車輪を作ることができるであろうか』と。比丘たちよ、『陛下よ、できます』と、まさに、車工は、六日をもって、第二の車輪を作り上げて、新しい車輪ひと組を携えて、サチェータナ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、サチェータナ王に、こう言いました。『陛下よ、あなたのために、この、新しい車輪ひと組が作り上げられました』と。『友よ、車工よ、そして、すなわち、おまえによって、この車輪が、六夜を残した六月をもって作り上げられた。さらに、すなわち、おまえによって、この車輪が、六日をもって作り上げられた。これらには、どのような多様性(相違点)があるのだ。〔まさに〕この、わたしは、何であれ、多様性を見ない(同じに見える)』と。『陛下よ、これらには、多様性が存在します。陛下は、多様性をご覧ください』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、車工は、すなわち、その、六日をもって作り上げられた車輪ですが、それを転起させました。それは転起させられ、〔そのように〕存しつつ、およそ、行作に赴く所があるかぎり、そのかぎりを赴いて、旋回して地に落ちました。いっぽう、すなわち、その、六夜を残した六月をもって作り上げられた車輪ですが、それを転起させました。それは転起させられ、〔そのように〕存しつつ、およそ、行作に赴く所があるかぎり、そのかぎりを赴いて、思うに、車軸に打たれているかのように〔地に〕立ちました。

 

 『友よ、車工よ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、すなわち、この、六日をもって作り上げられた車輪だが、それは転起させられ、〔そのように〕存しつつ、およそ、行作に赴く所があるかぎり、そのかぎりを赴いて、旋回して地に落ちたのだ。友よ、車工よ、また、何を因として、何を縁として、すなわち、この、六夜を残した六月をもって作り上げられた車輪だが、それは転起させられ、〔そのように〕存しつつ、およそ、行作に赴く所があるかぎり、そのかぎりを赴いて、思うに、車軸に打たれているかのように〔地に〕立ったのだ』と。『陛下よ、すなわち、この、六日をもって作り上げられた車輪ですが、その〔車輪〕の、外輪もまた、湾曲を有し、汚点を有し、汚濁を有し、諸々の輻()もまた、湾曲を有し、汚点を有し、汚濁を有し、轂(こしき)もまた、湾曲を有し、汚点を有し、汚濁を有します。その〔車輪〕は、外輪もまた、湾曲を有し、汚点を有し、汚濁を有することから、諸々の輻もまた、湾曲を有し、汚点を有し、汚濁を有することから、轂もまた、湾曲を有し、汚点を有し、汚濁を有することから、転起させられ、〔そのように〕存しつつ、およそ、行作に赴く所があるかぎり、そのかぎりを赴いて、旋回して地に落ちたのです。陛下よ、いっぽう、すなわち、その、六夜を残した六月をもって作り上げられた車輪ですが、その〔車輪〕の、外輪もまた、湾曲なく、汚点なく、汚濁なくあり、諸々の輻もまた、湾曲なく、汚点なく、汚濁なくあり、轂もまた、湾曲なく、汚点なく、汚濁なくあります。その〔車輪〕は、外輪もまた、湾曲なく、汚点なく、汚濁なきことから、諸々の輻もまた、湾曲なく、汚点なく、汚濁なきことから、轂もまた、湾曲なく、汚点なく、汚濁なきことから、転起させられ、〔そのように〕存しつつ、およそ、行作に赴く所があるかぎり、そのかぎりを赴いて、思うに、車軸に打たれているかのように、〔地に〕立ったのです』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、その車工として〔世に〕有ったのだ』と。比丘たちよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、その車工として〔世に〕有ったのです。比丘たちよ、そのとき、わたしは、諸々の木材の湾曲に、諸々の木材の汚点に、諸々の木材の汚濁に、巧みな智ある者として〔世に有りました〕。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者として〔世に有ります〕。諸々の身体の湾曲に、諸々の身体の汚点に、諸々の身体の汚濁に、巧みな智ある者であり、諸々の言葉の湾曲に、諸々の言葉の汚点に、諸々の言葉の汚濁に、巧みな智ある者であり、諸々の意の湾曲に、諸々の意の汚点に、諸々の意の汚濁に、巧みな智ある者です。比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、身体の湾曲と身体の汚点と身体の汚濁が捨棄されていないなら、言葉の湾曲と言葉の汚点と言葉の汚濁が捨棄されていないなら、意の湾曲と意の汚点と意の汚濁が捨棄されていないなら、比丘たちよ、このように、彼らは、この法(教え)と律から落伍した者たちとして〔世に有ります〕。それは、たとえば、また、その、六日をもって作り上げられた車輪のように。

 

 比丘たちよ、彼が誰であれ、あるいは、比丘の、あるいは、比丘尼の、身体の湾曲と身体の汚点と身体の汚濁が捨棄されたなら、言葉の湾曲と言葉の汚点と言葉の汚濁が捨棄されたなら、意の湾曲と意の汚点と意の汚濁が捨棄されたなら、比丘たちよ、このように、彼らは、この法(教え)と律において確立した者たちとして〔世に有ります〕。それは、たとえば、また、その、六夜を残した六月をもって作り上げられた車輪のように。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『身体の湾曲と身体の汚点と身体の汚濁を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。言葉の湾曲と言葉の汚点と言葉の汚濁を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ。意の湾曲と意の汚点と意の汚濁を、〔わたしたちは〕捨棄するのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 雑物なきものの経

 

16. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、雑物なき〔実践の〕道の実践者と成ります。そして、彼には、諸々の煩悩の滅尽のための、根源の励みが有ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られている者として〔世に〕有り、食において量を知る者として〔世に〕有り、〔眠らずに〕起きていることに専念する者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼(視覚機能)によって、形態(:眼の対象)を見て、形相を収め取る者(形象を認知し把捉する者)と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能(眼根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳(聴覚機能)によって、音声(:耳の対象)を聞いて……。鼻(嗅覚機能)によって、臭気(:鼻の対象)を嗅いで……。舌(味覚機能)によって、味感(:舌の対象)を味わって……。身(知覚機能)によって、感触(所触:身の対象)に接触して……。意(思考機能)によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能(意根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、食において量を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、食において量を知る者と成ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の初更(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。夜の中更(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後更(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔眠らずに〕起きていることに専念する者と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、雑物なき〔実践の〕道の実践者と成ります。そして、彼には、諸々の煩悩の滅尽のための、根源の励みが有ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 自己にたいする加害〔の思い〕の経

 

17. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)が、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起します。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)が、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起します。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの法(性質)が、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しません。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による善き行ないであり、言葉による善き行ないであり、意による善き行ないです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)が、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しません」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 天の世の経

 

18. 「比丘たちよ、それで、もし、あなたたちに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、天の世に再生するために、沙門ゴータマのもと、梵行が住されるのですか』と(※)。比丘たちよ、まさに、あなたたちは、このように尋ねられたなら、苦悩し、自責し、忌避するべきではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちは、天の寿命を、苦悩し、自責し、忌避するべきであり、天の色艶を、天の安楽を、天の福徳(盛名)を、天の権威を、苦悩し、自責し、忌避するべきです。比丘たちよ、また、まさに、なおのこと、あなたたちによって、身体による悪しき行ないが、苦悩され、自責され、忌避されるべきであり、言葉による悪しき行ないが……意による悪しき行ないが、苦悩され、自責され、忌避されるべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

※ テキストには vussathā’ti とあるが、PTS版により vussatī’ti と読む。

 

9. 第一の店主の経

 

19. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した店主は、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している財物の増殖を為すことが、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、店主が、早刻時のあいだ、生業を真剣に確立せず、日中時のあいだ、生業を真剣に確立せず、夕刻時のあいだ、生業を真剣に確立しません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した店主は、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している財物の増殖を為すことが、不可能となります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、不可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、早刻時のあいだ、禅定の形相を真剣に確立せず、日中時のあいだ、禅定の形相を真剣に確立せず、夕刻時のあいだ、禅定の形相を真剣に確立しません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、不可能となります。

 

比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した店主は、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している財物の増殖を為すことが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、店主が、早刻時のあいだ、生業を真剣に確立し、日中時のあいだ……略……夕刻時のあいだ、生業を真剣に確立します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した店主は、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している財物の増殖を為すことが、可能となります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、可能となります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、早刻時のあいだ、禅定の形相を真剣に確立し、日中時のあいだ……略……夕刻時のあいだ、禅定の形相を真剣に確立します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、あるいは、〔いまだ〕到達していない善なる法(性質)に到達することが、あるいは、〔すでに〕到達している善なる法(性質)の増殖を為すことが、可能となります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の店主の経

 

20. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した店主は、まさしく、長からずして、諸々の財物において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、店主が、そして、眼ある者として、かつまた、賢い者として、さらに、依所の成就者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、では、どのように、店主は、眼ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、店主が、商品のことを知ります。『この商品は、このように買われ、このように売られつつ、これだけの元手と成るであろうし、これだけの成果と〔成るであろう〕』と。比丘たちよ、このように、まさに、店主は、眼ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、店主は、賢い者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、店主が、商品を、そして、買うことに、さらに、売ることに、巧みな智ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、店主は、賢い者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、店主は、依所の成就者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、すなわち、それらの、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある、あるいは、家長たちが、あるいは、家長の子たちが、彼らが、店主のことを、このように知ります。『この尊き店主は、まさに、眼ある者であり、さらに、賢い者である。そして、子と妻を養い、さらに、わたしたちに〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕供与する、能力ある者である』と。彼らは、彼に、諸々の財物を預けます。『友よ、店主よ、これより、諸々の財物を作り為して、そして、子と妻を養いたまえ、さらに、わたしたちに〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕供与したまえ』と。比丘たちよ、このように、まさに、店主は、依所の成就者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した店主は、まさしく、長からずして、諸々の財物において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、諸々の善なる法(性質)において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、眼ある者として、かつまた、賢い者として、さらに、依所の成就者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、眼ある者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、眼ある者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、賢い者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、賢い者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、依所の成就者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、依所の成就者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、まさしく、長からずして、諸々の善なる法(性質)において、大いなるものに、広大なるものに、至り得ます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 車工の章が第二となる。

 

 第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「所知、記憶されるべきもの、比丘、転輪〔王〕、サチェータナ、雑物なきものと自己、そして、天があり、さらに、二つの店主とともに、〔章となる〕」と。

 

3. 人の章

 

1. サミッダの経

 

21. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、かつまた、尊者サミッダが、かつまた、尊者マハー・コッティカが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サミッダに、尊者サーリプッタは、こう言いました。

 

 「友よ、サミッダよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者です。友よ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。友よ、これらの三つの人たちのなかで、どの人が、あなたにとって、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できますか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者です。友よ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。友よ、これらの三つの人たちのなかでは、すなわち、この、信による解脱者たる人が、この人が、わたしにとって、これらの三つの人たちのなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できます。それは、何を因とするのですか。友よ、この人には、信の機能(信根)が旺盛であるからです」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、コッティカよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者です。友よ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。友よ、これらの三つの人たちのなかで、どの人が、あなたにとって、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できますか」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者です。友よ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。友よ、これらの三つの人たちのなかでは、すなわち、この、身体による実証者たる人が、この人が、わたしにとって、これらの三つの人たちのなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できます。それは、何を因とするのですか。友よ、この人には、禅定の機能(定根)が旺盛であるからです」と。

 

 そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者です。友よ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。友よ、これらの三つの人たちのなかで、どの人が、あなたにとって、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できますか」と。

 

 「友よ、コッティカよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者です。友よ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。友よ、これらの三つの人たちのなかでは、すなわち、この、〔正しい〕見解に至り得た者たる人が、この人が、わたしにとって、これらの三つの人たちのなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できます。それは、何を因とするのですか。友よ、この人には、智慧の機能(慧根)が旺盛であるからです」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者サミッダに、かつまた、尊者マハー・コッティカに、こう言いました。「友よ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。友よ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、かつまた、尊者サミッダは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに答えました。そこで、まさに、かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者サミッダは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、すなわち、かつまた、尊者サミッダと、かつまた、尊者マハー・コッティカと、〔両者を〕相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「サーリプッタよ、まさに、ここにおいて、『この者が、これらの三つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある』と、一定して説き明かすことは、為し易きことではありません。サーリプッタよ、なぜなら、この状況が見出されるからです。すなわち、この、信による解脱者たる人が、彼が、阿羅漢の資質のための実践者として〔世に〕存するとして、すなわち、この、身体による実証者たる人ですが、彼が、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、〔世に〕存し、さらに、すなわち、この、〔正しい〕見解に至り得た者たる人ですが、彼もまた、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、〔世に〕存する、〔この状況が見出されるからです〕。

 

 サーリプッタよ、まさに、ここにおいて、『この者が、これらの三つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある』と、一定して説き明かすことは、為し易きことではありません。サーリプッタよ、なぜなら、この状況が見出されるからです。すなわち、この、身体による実証者たる人が、彼が、阿羅漢の資質のための実践者として〔世に〕存するとして、すなわち、この、信による解脱者たる人ですが、彼が、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、〔世に〕存し、さらに、すなわち、この、〔正しい〕見解に至り得た者たる人ですが、彼もまた、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、〔世に〕存する、〔この状況が見出されるからです〕。

 

 サーリプッタよ、まさに、ここにおいて、『この者が、これらの三つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある』と、一定して説き明かすことは、為し易きことではありません。サーリプッタよ、なぜなら、この状況が見出されるからです。すなわち、この、〔正しい〕見解に至り得た者たる人が、彼が、阿羅漢の資質のための実践者として〔世に〕存するとして、すなわち、この、信による解脱者たる人ですが、彼が、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、〔世に〕存し、さらに、すなわち、この、身体による実証者たる人ですが、彼もまた、あるいは、一来たる者として、あるいは、不還たる者として、〔世に〕存する、〔この状況が見出されるからです〕。

 

 サーリプッタよ、まさに、ここにおいて、『この者が、これらの三つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもある』と、一定して説き明かすことは、為し易きことではありません」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 病者の経

 

22. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの病者たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、病者として、あるいは、諸々の正当なる食料を得ながら、あるいは、諸々の正当なる食料を得ずにいながら、あるいは、諸々の正当なる薬を得ながら、あるいは、諸々の正当なる薬を得ずにいながら、あるいは、適切なる奉仕者を得ながら、あるいは、適切なる奉仕者を得ずにいながら、その病苦から、まさしく、出起しません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、病者として、あるいは、諸々の正当なる食料を得ながら、あるいは、諸々の正当なる食料を得ずにいながら、あるいは、諸々の正当なる薬を得ながら、あるいは、諸々の正当なる薬を得ずにいながら、あるいは、適切なる奉仕者を得ながら、あるいは、適切なる奉仕者を得ずにいながら、その病苦から出起します。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の者は、病者として、諸々の正当なる食料を、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、諸々の正当なる薬を、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、適切なる奉仕者を、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、その病苦から出起します。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、病者として、諸々の正当なる食料を、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、諸々の正当なる薬を、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、適切なる奉仕者を、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、その病苦から出起する者ですが、比丘たちよ、まさに、この病者を縁として、病者の食事が認められたのであり、病者の薬が認められたのであり、病者の奉仕者が認められたのです。比丘たちよ、また、そして、この病者を縁として、他の病者たちもまた奉仕されるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの病者たちが、世において等しく見出されつつ存しています。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。これらの病者の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、如来と会見することを得ながら、あるいは、如来と会見することを得ずにいながら、あるいは、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを得ながら、あるいは、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを得ずにいながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に、まさしく、参入しません。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、あるいは、如来と会見することを得ながら、あるいは、如来と会見することを得ずにいながら、あるいは、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを得ながら、あるいは、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを得ずにいながら、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入します。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、如来と会見することを、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入します。

 

 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、人として、如来と会見することを、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、如来によって知らされた法(教え)と律を聞くことを、まさしく、得ながらあり、得ずにいることがなく、諸々の善なる法(性質)において、正しい〔道〕たることに、〔その〕決定に参入する者ですが、比丘たちよ、まさに、この人を縁として、法(教え)の説示が認められたのです。比丘たちよ、また、そして、この人を縁として、他の者たちにもまた、法(教え)が説示されるべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの病者の如き人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 形成〔作用〕の経

 

23. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕を有する世に再生します。加害〔の思い〕を有する世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する感受を、一方的な苦痛を、感受します。それは、たとえば、また、地獄にある有情たちのように。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作し、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作します。彼は、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕を行作して、加害〔の思い〕なき世に再生します。加害〔の思い〕なき世に再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触が接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によって接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕なき感受を、一方的な安楽を、感受します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。

 

 比丘たちよ、また、ここに、一部の人は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作し、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作し〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作します。彼は、加害〔の思い〕を有する〔身体の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき身体の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔言葉の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき言葉の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔意の形成作用〕をもまた〔行作して〕、加害〔の思い〕なき意の形成〔作用〕をもまた行作して、加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生します。加害〔の思い〕を有する〔世〕にもまた〔再生し〕、加害〔の思い〕なき世にもまた再生し、〔そのように〕存している、〔まさに〕その、この者に、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕もまた〔接触し〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触もまた接触します。彼は、諸々の加害〔の思い〕を有する〔苦痛の接触〕によってもまた〔接触され〕、諸々の加害〔の思い〕なき〔安楽の〕接触によってもまた接触され、〔そのように〕存しつつ、加害〔の思い〕を有する〔感受〕をもまた〔感受し〕、加害〔の思い〕なき感受をもまた〔感受し〕、混在した安楽と苦痛を感受します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 多く〔の利益〕を作り為す者の経

 

24. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、人のために多く〔の利益〕を作り為す人たちです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、その人に由来して、人が、覚者を帰依所に赴いた者と成り、法(教え)を帰依所に赴いた者と成り、僧団を帰依所に赴いた者と成るなら、比丘たちよ、この人は、この人のために多く〔の利益〕を作り為す者です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その人に由来して、人が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、この人は、この人のために多く〔の利益〕を作り為す者です。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、その人に由来して、人が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、この人は、この人のために多く〔の利益〕を作り為す者です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人のために多く〔の利益〕を作り為す人たちがあります。

 

 『比丘たちよ、また、そして、これらの三つの人たちより他に、この人のために多く〔の利益〕を作り為す人は存在しない』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、また、これらの三つの人たちには、この人による安易な報恩なきことを、〔わたしは〕説きます。すなわち、この、敬拝や立礼や合掌の行為や和敬の行為や衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の供与によっては」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 金剛の如きものの経

 

25. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。傷口の如き心ある人であり、雷光の如き心ある人であり、金剛の如き心ある人です。比丘たちよ、では、どのようなものが、傷口の如き心ある人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、悪化した傷口が、あるいは、小枝によって、あるいは、小石によって、打たれたなら、より一層はげしく、排出物を出すように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。比丘たちよ、この者は、傷口の如き心ある人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、雷光の如き心ある人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、眼ある人士が、漆黒の闇夜のなか、雷光の合間に、諸々の形態を見るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、この者は、雷光の如き心ある人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、金剛の如き心ある人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、金剛には、何であれ、破壊できない、あるいは、宝珠が、あるいは、岩石が、存在しないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、諸々の煩悩の滅尽あることから……略……成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、金剛の如き心ある人と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 慣れ親しむべき者の経

 

26. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではない人が存在します。比丘たちよ、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべき人が存在します。比丘たちよ、尊敬して、尊重して、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきである人が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではない人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、戒〔の観点〕によって、禅定〔の観点〕によって、智慧〔の観点〕によって、劣る者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の人は、憐憫〔の思い〕より他には、慈しみ〔の思い〕より他には、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではありません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべき人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、戒〔の観点〕によって、禅定〔の観点〕によって、智慧〔の観点〕によって、等しき者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の人は、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきです。それは、何を因とするのですか。『同等の戒を具した者たちとして存しているなら、そして、戒についての議論が、わたしたちに有るであろうし、かつまた、その〔議論〕は、転起あるものとして、わたしたちに有るであろうし、さらに、その〔議論〕は、平穏のものとして、わたしたちに有るであろう。同等の禅定を具した者たちとして存しているなら、そして、禅定についての議論が、わたしたちに有るであろうし、かつまた、その〔議論〕は、転起あるものとして、わたしたちに有るであろうし、さらに、その〔議論〕は、平穏のものとして、わたしたちに有るであろう。同等の智慧を具した者たちとして存しているなら、そして、智慧についての議論が、わたしたちに有るであろうし、かつまた、その〔議論〕は、転起あるものとして、わたしたちに有るであろうし、さらに、その〔議論〕は、平穏のものとして、わたしたちに有るであろう』という〔思いが生まれるからです〕。それゆえに、このような形態の人は、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、尊敬して、尊重して、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべき人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、戒〔の観点〕によって、禅定〔の観点〕によって、智慧〔の観点〕によって、卓越の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の人は、尊敬して、尊重して、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきです。それは、何を因とするのですか。かくのごとく、『あるいは、〔いまだ〕円満成就なき戒の範疇を、〔わたしは〕円満成就させるのだ。あるいは、〔すでに〕円満成就ある戒の範疇を、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するのだ。あるいは、〔いまだ〕円満成就なき禅定の範疇を、〔わたしは〕円満成就させるのだ。あるいは、〔すでに〕円満成就ある禅定の範疇を、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するのだ。あるいは、〔いまだ〕円満成就なき智慧の範疇を、〔わたしは〕円満成就させるのだ。あるいは、〔すでに〕円満成就ある智慧の範疇を、その場その場において、智慧によって、〔わたしは〕資助するのだ』という〔思いが生まれるからです〕。それゆえに、このような形態の人は、尊敬して、尊重して、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「下劣な者に慣れ親しむ人は、衰退する。しかしながら、均等の者に慣れ親しむ者は、いついかなる時も退失しない。最勝の者と近しくしている者は、すみやかに上昇する。それゆえに、自己よりもより上なる者に親近するべきである」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 忌避するべき者の経

 

27. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、忌避するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではない人が存在します。比丘たちよ、放捨するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではない人が存在します。比丘たちよ、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきである人が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、忌避するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではない人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、劣戒にして悪しき法(性質)ある者として、不浄にして励行に疑いある者として──生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑として──〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の人は、忌避するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、たとえ、何であれ、このような形態の人に随従する見解を惹起しないとして、そこで、まさに、彼に、悪しき評価の声が上がります。『〔この〕人士たる人は、悪しき朋友ある者であり、悪しき道友ある者であり、悪しき友人ある者である』と。比丘たちよ、それは、たとえば、また、糞のなかを赴いた蛇が、たとえ、何であれ、咬むことなくあるも、そこで、まさに、その〔糞〕を塗りたくるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、たとえ、何であれ、このような形態の人に随従する見解を惹起しないとして、そこで、まさに、彼に、悪しき評価の声が上がります。『〔この〕人士たる人は、悪しき朋友ある者であり、悪しき道友ある者であり、悪しき友人ある者である』と。それゆえに、このような形態の人は、忌避するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではありません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、放捨するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではない人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、悪化した傷口が、あるいは、小枝によって、あるいは、小石によって、打たれたなら、より一層はげしく、排出物を出すように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、燃えているティンドゥカ〔樹の松明〕が、あるいは、小枝によって、あるいは、小石によって、打たれたなら、より一層はげしく、チッチと音をたて、チティチと音をたてるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、糞坑が、あるいは、小枝によって、あるいは、小石によって、打たれたなら、より一層はげしく、悪臭あるものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、忿激する者として、葛藤多き者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。比丘たちよ、このような形態の人は、放捨するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではありません。それは、何を因とするのですか。わたしを罵倒することにもまたなり、わたしを口撃することにもまたなり、わたしに義(利益)ならざることを為すことにもまたなるからです。それゆえに、このような形態の人は、放捨するべきであり、慣れ親しむべきではなく、親近するべきではなく、奉侍するべきではありません。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきである人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の人は、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、たとえ、何であれ、このような形態の人に随従する見解を惹起しないとして、そこで、まさに、彼に、善き評価の声が上がります。『〔この〕人士たる人は、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である』と。それゆえに、このような形態の人は、慣れ親しむべきであり、親近するべきであり、奉侍するべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「下劣な者に慣れ親しむ人は、衰退する。しかしながら、均等の者に慣れ親しむ者は、いついかなる時も退失しない。最勝の者と近しくしている者は、すみやかに上昇する。それゆえに、自己よりもより上なる者に親近するべきである」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 糞の話し手の経

 

28. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。糞の話し手であり、花の話し手であり、蜜の話し手です。比丘たちよ、では、どのようなものが、糞の話し手なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この人は、糞の話し手と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、花の話し手なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者ではなく〔世に〕有ります。比丘たちよ、この人は、花の話し手と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、蜜の話し手なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。この人は、蜜の話し手と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 盲者の経

 

29. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。盲者であり、一眼の者であり、二眼の者です。比丘たちよ、では、どのような人が、盲者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、そのような形態の眼によって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することになり、あるいは、〔すでに〕到達した財物の増殖を為すことになる、そのような形態の眼が有りません。彼には、そのような形態の眼によって、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)を知ることになり、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)を知ることになり、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)を知ることになり、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)を知ることになる、そのような形態の眼もまた有りません。比丘たちよ、この人は、盲者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、一眼の者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、そのような形態の眼によって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することになり、あるいは、〔すでに〕到達した財物の増殖を為すことになる、そのような形態の眼が有ります。また、彼には、そのような形態の眼によって、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)を知ることになり、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)を知ることになり、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)を知ることになり、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)を知ることになる、そのような形態の眼が有りません。比丘たちよ、この人は、一眼の者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、二眼の者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人には、そのような形態の眼によって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することになり、あるいは、〔すでに〕到達した財物の増殖を為すことになる、そのような形態の眼が有ります。彼には、そのような形態の眼によって、諸々の善なる〔法〕と善ならざる法(性質)を知ることになり、諸々の罪過を有する〔法〕と罪過なき法(性質)を知ることになり、諸々の下劣なる〔法〕と精妙なる法(性質)を知ることになり、諸々の黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(性質)を知ることになる、そのような形態の眼もまた有ります。比丘たちよ、この人は、二眼の者と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、そのような形態の諸々の財物なく、さらに、諸々の功徳を作り為さず、眼を失った盲者には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがある。

 

 さらに、他にも、この人が、そして、一眼の者と告げ知らされた。狡猾なる彼は、法(正義)と法(正義)ならざる〔手段〕によって、諸々の財物を遍く探し求める。

 

 盗みによって──奸計の行為によって、さらに、虚偽の論によっても、両者ともに──〔財物を〕集めることに巧みな智ある者であり、かつまた、欲望の享受者たる人間として〔世に〕有る。かくのごとく、彼は、一眼の者としてあり、地獄に赴いて、打ちのめされる。

 

 いっぽう、最勝の人士たる人が、二眼の者と告げ知らされた。法(正義)によって得た諸々の財物のなかから、奮起によって到達した財を──

 

 最勝の思惟の者として、混乱なき意図の人として、〔他者に〕施す。〔彼は〕幸いなる境位(天界)へと近しく至る──すなわち、赴いて〔そののち〕、憂い悲しまないところへと。

 

 そして、盲者を、さらに、一眼の者を、遠く離れて、遍く避けるべきである。いっぽう、最勝の人士たる人である二眼の者とは慣れ親しむべきである」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 下向きの者の経

 

30. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。下向きの智慧ある人であり、膝の智慧ある人であり、多々なる智慧ある人です。比丘たちよ、では、どのようなものが、下向きの智慧ある人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、林園に赴く者として〔世に〕有ります──幾度となく、比丘たちの現前において、法(教え)を聞くために。彼に、比丘たちは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その坐に坐った彼は、その話の、まさしく、最初に意を為さず、中間に意を為さず、結末に意を為さず、その坐から立ち上がってもまた、その話の、まさしく、最初に意を為さず、中間に意を為さず、結末に意を為しません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、瓶が伏せられたなら、そこに注がれた水は転じ行き、止住しないようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、林園に赴く者として〔世に〕有ります──幾度となく、比丘たちの現前において、法(教え)を聞くために。彼に、比丘たちは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その坐に坐った彼は、その話の、まさしく、最初に意を為さず、中間に意を為さず、結末に意を為さず、その坐から立ち上がってもまた、その話の、まさしく、最初に意を為さず、中間に意を為さず、結末に意を為しません。比丘たちよ、この者は、下向きの智慧ある人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、膝の智慧ある人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、林園に赴く者として〔世に〕有ります──幾度となく、比丘たちの現前において、法(教え)を聞くために。彼に、比丘たちは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その坐に坐った彼は、その話の、最初にもまた意を為し、中間にもまた意を為し、結末にもまた意を為し、しかしながら、まさに、その坐から立ち上がったなら、その話の、まさしく、最初に意を為さず、中間に意を為さず、結末に意を為しません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人の膝のところに、胡麻や米や菓子や棗などの種々なる固形の食料が散在し、彼が、その坐から立ち上がりつつあると、気づきの忘却あることから、〔それらを〕撒き散らすようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、林園に赴く者として〔世に〕有ります──幾度となく、比丘たちの現前において、法(教え)を聞くために。彼に、比丘たちは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その坐に坐った彼は、その話の、最初にもまた意を為し、中間にもまた意を為し、結末にもまた意を為し、しかしながら、まさに、その坐から立ち上がったなら、その話の、まさしく、最初に意を為さず、中間に意を為さず、結末に意を為しません。比丘たちよ、この者は、膝の智慧ある人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、多々なる智慧ある人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、林園に赴く者として〔世に〕有ります──幾度となく、比丘たちの現前において、法(教え)を聞くために。彼に、比丘たちは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その坐に坐った彼は、その話の、最初にもまた意を為し、中間にもまた意を為し、結末にもまた意を為し、その坐から立ち上がってもまた、その話の、最初にもまた意を為し、中間にもまた意を為し、結末にもまた意を為します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、瓶が起こされたなら、そこに注がれた水は止住し、転じ行かないようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、林園に赴く者として〔世に〕有ります──幾度となく、比丘たちの現前において、法(教え)を聞くために。彼に、比丘たちは、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その坐に坐った彼は、その話の、最初にもまた意を為し、中間にもまた意を為し、結末にもまた意を為し、その坐から立ち上がってもまた、その話の、最初にもまた意を為し、中間にもまた意を為し、結末にもまた意を為します。比丘たちよ、この者は、多々なる智慧ある人と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「下向きの智慧ある人は、思慮浅く明眼ならざる者であり、たとえ、もし、幾度となく、比丘たちの現前に赴く者として〔世に〕有るも──

 

 そのような者は、話の最初を、そして、中間を、さらに、結末を、把握することができない。なぜなら、彼には、智慧が見出されないからである。

 

 膝の智慧ある人は、この者よりもより勝ると説かれ、たとえ、もし、幾度となく、比丘たちの現前に赴く者として〔世に〕有るも──

 

 そのような者は、話の最初を、そして、中間を、さらに、結末を、その坐に坐り、文を把握しても、〔坐から〕立ち上がったなら、〔もはや〕覚知しない。なぜなら、彼は、把握したものを忘却するからである。

 

 そして、多々なる智慧ある人は、これらの者たちよりもより勝ると説かれ、たとえ、もし、幾度となく、比丘たちの現前に赴く者として〔世に〕有るも──

 

 そのような者は、話の最初を、そして、中間を、さらに、結末を、その坐に坐り、文を把握して〔そののち〕──

 

 最勝の思惟の者として、混乱なき意図の人として、〔教えを〕保持する。法(教え)を法(教え)のままに実践する者は、苦しみの終極を為す者と成るであろう」と。〔以上が〕第十となる。

 

 人の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「サミッダと病者と形成〔作用〕、多く〔の利益〕を作り為す者があり、そして、金剛とともに、慣れ親しむ者と忌避する者と糞の話し手、さらに、盲者、下向きの者があり、〔章となる〕」と。

 

4. 天の使者の章

 

1. 梵〔天〕たちを有するものの経

 

31. 「比丘たちよ、それらの家は、梵〔天〕たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、往古の師匠たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、それらの家は、〔供物を〕捧げるべき者たちを有するものとなります──それら〔の家〕の子供たちにとって、母と父が、自家において供養される者たちとして有るなら。比丘たちよ、『梵〔天〕たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『往古の師匠たち』とは、これは、母と父の同義語です。比丘たちよ、『〔供物を〕捧げるべき者たち』とは、これは、母と父の同義語です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、母と父は、子供たちのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、育成者たちであり、養育者たちであり、この世の見示者たちであるからです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「母と父は、『梵〔天〕たち』と〔説かれ〕、『往古の師匠たち』と説かれる。そして、子供たちにとって、〔供物を〕捧げるべき者たちであり、子孫にたいし、慈しみ〔の思い〕ある者たちである。

 

 まさに、それゆえに、賢者は、彼らを、礼拝するべきであり、かつまた、尊敬するべきである。食べ物によって、さらに、飲み物によって、衣によって、かつまた、臥具によって、塗油によって、沐浴によって、そして、〔両の〕足を洗い清めることによって。

 

 母と父にたいする、その世話によって、彼を──まさしく、この〔世において〕、彼を──賢者たちは賞賛し、〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. アーナンダの経

 

32. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)が存在するべくもなく、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が存在するべくもない、〔そのような形態の禅定の獲得が〕。そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住んでいると、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあるなら、そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住むべきです」と。「アーナンダよ、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が存在するべくもなく、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が存在するべくもない、〔そのような形態の禅定の獲得が〕。そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住んでいると、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあるなら、そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住むべきです」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在するのでしょうか。すなわち、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が存在するべくもなく、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が存在するべくもない、〔そのような形態の禅定の獲得が〕。そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住んでいると、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあるなら、そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住むべきです」と。

 

 「アーナンダよ、ここに、比丘に、このような〔思いが〕有ります。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。アーナンダよ、このように、まさに、比丘には、そのような形態の禅定の獲得が存在します。すなわち、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が存在するべくもなく、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が存在するべくもない、〔そのような形態の禅定の獲得が〕。そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住んでいると、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあるなら、そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住むべきです」と。

 

 「アーナンダよ、また、そして、このことに関して、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』(スッタニパータ第五章)におけるプンナカの問いにおいて、わたしによって語られました。

 

 〔すなわち〕『世における彼此〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、「彼は、生と老を超えた」と、〔わたしは〕説きます』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. サーリプッタの経

 

33. そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、まさに、わたしは、簡略〔の観点〕によってもまた、法(教え)を説示できます。サーリプッタよ、まさに、わたしは、詳細〔の観点〕によってもまた、法(教え)を説示できます。サーリプッタよ、まさに、わたしは、簡略と詳細〔の観点〕によってもまた、法(教え)を説示できます。しかしながら、了知する者たちは得難くあります」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、簡略〔の観点〕によってもまた、法(教え)を説示するなら、詳細〔の観点〕によってもまた、法(教え)を説示するなら、簡略と詳細〔の観点〕によってもまた、法(教え)を説示するなら、法(教え)を了知する者たちが有るでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、わたしという作り為し(我慢)とわたしのものという作り為し(我所)からなる諸々の思量の悪習(慢随眠)は有ることなくあるであろうし、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習は有ることなくあるであろう。そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住んでいると、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあるなら、そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住むのだ』と。サーリプッタよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

 

 サーリプッタよ、そして、すなわち、まさに、比丘には、かつまた、この、識知〔作用〕を有する身体において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあることから、かつまた、外に、一切の形相において、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあることから──そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住んでいると、わたしという作り為しとわたしのものという作り為しからなる諸々の思量の悪習が有ることなくあるなら、そして、その、〔止寂の〕心による解脱と〔観察の〕智慧による解脱を成就して〔世に〕住むことから──サーリプッタよ、この者は、『比丘として、渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます。サーリプッタよ、また、そして、このことに関して、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』(スッタニパータ第五章)におけるウダヤの問いにおいて、わたしによって語られました。

 

 〔すなわち〕『諸々の欲望〔の対象〕にたいする表象を捨棄すること、さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕を捨棄すること、そして、〔心の〕沈滞を除き去ること、諸々の悔恨〔の思い〕を防ぎ護ること──

 

 放捨()と気づき()という清浄なる〔境地〕、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱の境地〕──〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、〔わたしは〕説きます』」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 因縁の経

 

34. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為()の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲()は、諸々の行為の集起のための因縁です。憤怒()は、諸々の行為の集起のための因縁です。迷妄()は、諸々の行為の集起のための因縁です。

 

 比丘たちよ、その行為が、貪欲によって作り為され、貪欲から生じ、貪欲を因縁とし、貪欲を集起とし、そこにおいて、彼の自己状態(個我的あり方・身体)が発現するなら、そこにおいて、その行為が成熟します。そこにおいて、その行為が成熟するなら、そこにおいて、その行為の報い(異熟)を得知します──あるいは、所見の法(現世)において、あるいは、再生して〔そののち〕、あるいは、他の時機において。

 

 比丘たちよ、その行為が、憤怒によって作り為され、憤怒から生じ、憤怒を因縁とし、憤怒を集起とし、そこにおいて、彼の自己状態が発現するなら、そこにおいて、その行為が成熟します。そこにおいて、その行為が成熟するなら、そこにおいて、その行為の報いを得知します──あるいは、所見の法(現世)において、あるいは、再生して〔そののち〕、あるいは、他の時機において。

 

 比丘たちよ、その行為が、迷妄によって作り為され、迷妄から生じ、迷妄を因縁とし、迷妄を集起とし、そこにおいて、彼の自己状態が発現するなら、そこにおいて、その行為が成熟します。そこにおいて、その行為が成熟するなら、そこにおいて、その行為の報いを得知します──あるいは、所見の法(現世)において、あるいは、再生して〔そののち〕、あるいは、他の時機において。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、諸々の未熟の種が、善き田畑において、完全無欠の行為が為された地面に置かれ、そして、天が、正しく流雨を授けるとします。比丘たちよ、このように存するなら、それらの種は、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その行為が、貪欲によって作り為され、貪欲から生じ、貪欲を因縁とし、貪欲を集起とし、そこにおいて、彼の自己状態が発現するなら、そこにおいて、その行為が成熟します。そこにおいて、その行為が成熟するなら、そこにおいて、その行為の報いを得知します──あるいは、所見の法(現世)において、あるいは、再生して〔そののち〕、あるいは、他の時機において。

 

 その行為が、憤怒によって作り為され……略……迷妄によって作り為され、迷妄から生じ、迷妄を因縁とし、迷妄を集起とし、そこにおいて、彼の自己状態が発現するなら、そこにおいて、その行為が成熟します。そこにおいて、その行為が成熟するなら、そこにおいて、その行為の報いを得知します──あるいは、所見の法(現世)において、あるいは、再生して〔そののち〕、あるいは、他の時機において。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、諸々の行為の集起のための因縁です。憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、諸々の行為の集起のための因縁です。迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、諸々の行為の集起のための因縁です。

 

 比丘たちよ、その行為が、貪欲なき〔あり方〕によって作り為され、貪欲なき〔あり方〕から生じ、貪欲なき〔あり方〕を因縁とし、貪欲なき〔あり方〕を集起とし、貪欲が離れ去ったときは、このように、その行為は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘たちよ、その行為が、憤怒なき〔あり方〕によって作り為され、憤怒なき〔あり方〕から生じ、憤怒なき〔あり方〕を因縁とし、憤怒なき〔あり方〕を集起とし、憤怒が離れ去ったときは、このように、その行為は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘たちよ、その行為が、迷妄なき〔あり方〕によって作り為され、迷妄なき〔あり方〕から生じ、迷妄なき〔あり方〕を因縁とし、迷妄なき〔あり方〕を集起とし、迷妄が離れ去ったときは、このように、その行為は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、破断せず、腐敗せず、熱風に打破されず、しっかりと保管された、諸々の未熟の種があり、それらを、人が、火で焼き、火で焼いて、(すす)と為し、煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、このように存するなら、それらの種は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その行為が、貪欲なき〔あり方〕によって作り為され、貪欲なき〔あり方〕から生じ、貪欲なき〔あり方〕を因縁とし、貪欲なき〔あり方〕を集起とし、迷妄が離れ去ったときは、このように、その行為は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 その行為が、憤怒なき〔あり方〕によって作り為され……略……迷妄なき〔あり方〕によって作り為され、迷妄なき〔あり方〕から生じ、迷妄なき〔あり方〕を因縁とし、迷妄なき〔あり方〕を集起とし、迷妄が離れ去ったときは、このように、その行為は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「無知なる者よ、貪欲から生じるものは、まさしく、そして、憤怒から生じるものも、さらに、また、迷妄から生じるものも、それが、彼によって作り為された行為であるなら、もしくは、少なかろうと、多かろうと、それは、まさしく、ここに(彼自身において)、感受されるべきものであり、他の基盤は見出されない。

 

 知ある者よ、それゆえに、そして、貪欲を、かつまた、憤怒を、さらに、また、迷妄から生じるものを〔捨棄するがよい〕。比丘よ、〔常に〕明知を生起させながら、一切の悪しき境遇を捨棄するがよい」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ハッタカの経

 

35. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アーラヴィーに住んでおられます。牛の道のうえ、シンサパー〔樹〕の林のなか、葉の敷物において。そこで、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、世尊が、牛の道のうえ、シンサパー〔樹〕の林のなか、葉の敷物において、坐っているのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アーラヴィー〔の住者〕たるハッタカは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、どうでしょう、世尊は、安楽のうちに臥されましたか」と。「王子よ、このように、安楽のうちに臥しました。また、そして、わたしは、すなわち、世において、安楽のうちに臥す者たちの、彼らのなかの随一の者です」と。

 

 「尊き方よ、冬の夜は寒く、八日ごとに降雪のある時分です。牛の蹄に踏み荒らされた地面は固く、葉の敷物は薄く、木の葉はまばらで、黄褐色の衣は寒く、そして、寒い季節の風が吹きます。そこで、また、しかしながら、世尊は、このように言いました。『王子よ、このように、安楽のうちに臥しました。そして、また、わたしは、すなわち、世において、安楽のうちに臥す者たちの、彼らのなかの随一の者です』」と。

 

 「王子よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王子よ、それを、どう思いますか。ここに、あるいは、家長に、あるいは、家長の子に、彼に、楼閣があり、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められています。そこで、彼には、寝台があり、毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端には赤い枕があります。そして、ここにおいて、油の灯明が燃やされ、さらに、意に適う者たちであり、意に適うことによって奉仕する者たちである、四者の夫人が存するとします。王子よ、それを、どう思いますか。彼は、あるいは、安楽のうちに臥しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、彼は、安楽のうちに臥すでしょう。そして、また、彼は、すなわち、世において、安楽のうちに臥す者たちの、彼らのなかの随一の者です」と。

 

 「王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あるいは、家長に、あるいは、家長の子に、彼に、あるいは、身体についての、あるいは、心についての、貪欲から生じる諸々の苦悶が生起するとして、彼は、それらの、貪欲から生じる諸々の苦悶によって遍く焼かれながら、苦痛のうちに臥すでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

 「王子よ、まさに、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、彼が、それらの、貪欲から生じる諸々の苦悶によって遍く焼かれながら、苦痛のうちに臥すとして、如来の、その貪欲は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、わたしは、安楽のうちに臥したのです。

 

 王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あるいは、家長に、あるいは、家長の子に、彼に、あるいは、身体についての、あるいは、心についての、憤怒から生じる諸々の苦悶が……略……迷妄から生じる諸々の苦悶が生起するとして、彼は、それらの、迷妄から生じる諸々の苦悶によって遍く焼かれながら、苦痛のうちに臥すでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 

 「王子よ、まさに、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、彼が、それらの、迷妄から生じる諸々の苦悶によって遍く焼かれながら、苦痛のうちに臥すとして、如来の、その迷妄は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、わたしは、安楽のうちに臥したのです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「完全なる涅槃に到達した婆羅門は、一切時において、まさに、安楽のうちに臥す。彼が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし汚れなくあるなら、〔心が〕清涼と成った者であり、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき者であり──

 

 一切の執着を断ち切って、心臓(心)のうちなる懊悩を取り除いて、寂静なる者となり、心の寂静に至り得て、安楽のうちに臥す」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 天の使者の経

 

36. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの天の使者たちです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人(獄卒)たちは、別々に腕を掴み取って、夜魔の王に見せます。『陛下よ、この男は、母を敬わず、父を敬わず、沙門を敬わず、婆羅門を敬わず、家における最尊者を敬う者ではありません。陛下は、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第一の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第一の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、あるいは、女が、あるいは、男が、生まれてから、あるいは、八十の者となり、あるいは、九十の者となり、あるいは、百年の者となり、老い朽ち、垂木のように湾曲し、曲がりくねり、棒(杖)を行き着く所とし、よろめきながら赴き、病める者となり、若さ〔の盛り〕が去り、歯が破断し、白髪の者となり、抜け毛の者となり、禿頭の者となり、皺の者となり、斑点だらけの五体の者となるのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「わたしもまた、まさに、〔世に〕存している──老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。そこで、まさに、この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第一の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、第二の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第二の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、あるいは、女が、あるいは、男が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、自らの糞尿のなかにはまり、臥しているのを──他者たちによって出起させられ、他者たちによって横臥させられているのを──見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「わたしもまた、まさに、〔世に〕存している──病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。そこで、まさに、この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第二の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、第三の天の使者のことを、尋問し、審問し、査問します。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、第三の天の使者が出現したのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ませんでした』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、おまえは、人間たちにおいて、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、死んで一日となり、あるいは、死んで二日となり、あるいは、死んで三日となり、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたのを見なかったかな』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、見ました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔まさに〕その、おまえには、識者として、老練の者として、〔世に〕存しつつ、この〔思い〕が有りはしなかったかな。「わたしもまた、まさに、〔世に〕存している──死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として。さあ、わたしは、善きことを為すのだ──身体によって、言葉によって、意によって」』と。彼は、このように言います。『尊き方よ、できませんでした。尊き方よ、怠っていました』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、このように言います。『さて、男よ、〔おまえは〕怠りあることから、善きことを為さなかった──身体によって、言葉によって、意によって。さて、男よ、たしかに、おまえに、そのとおりに、〔地獄の番人たちは〕為すであろう──すなわち、怠っていた者に〔為す〕、そのとおりに。また、まさに、おまえの、この悪しき行為は、それは、まさしく、母によって為されたものではなく、父によって為されたものではなく、兄弟によって為されたものではなく、姉妹によって為されたものではなく、朋友や僚友たちによって為されたものではなく、親族や血縁たちによって為されたものではなく、天神たちによって為されたものではなく、沙門や婆羅門たちによって為されたものではない。そこで、まさに、この悪しき行為は、まさしく、おまえによって為されたものである。まさしく、おまえが、この〔行為〕の報いを得知するのだ』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、夜魔の王は、第三の天の使者のことを、尋問して、審問して、査問して〔そののち〕、沈黙の者と成ります。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者に、地獄の番人たちは、まさに、五種類の結縛ある刑罰を執行します。熱せられた鉄杭を手に至らせます。熱せられた鉄杭を第二の手に至らせます。熱せられた鉄杭を足に至らせます。熱せられた鉄杭を第二の足に至らせます。熱せられた鉄杭を胸の中央に至らせます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為(悪業)が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません(地獄の業苦が続く)。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、横たわらせて、諸々の斧で激打します。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、諸々の鉈で激打します。……略……。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、車に結び付けて、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、地面のうえを、行かせもまたし、戻らせもまたします。……略……。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大きな炭の山を、登らせもまたし、降ろさせもまたします。……略……。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、熱せられた銅釜のなかに置きます。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られながら、一度はまた上に赴き、一度はまた下に赴き、一度はまた横に赴きます。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはありません。比丘たちよ、〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、大地獄のなかに置きます。比丘たちよ、また、まさに、その大地獄は──

 

 〔そこで、詩偈に言う〕『四つの隅があり、四つの門があり、等分に計量され区分され、鉄柵を極限とし、鉄によって覆い包まれている。

 

 その〔大地獄〕の鉄製の地面は、燃え盛り、火に充ち、百ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)の遍きにわたり充満して、一切時に止住する』と。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、夜魔の王に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、世において、諸々の悪しき行為を為す、それらの者たちは──彼らに、このような形態の種々なる種類の行罰刑が執行される。ああ、まさに、わたしは、人間たる〔境遇〕を得るであろう。そして、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起するであろう。そして、わたしは、彼に、世尊に、奉侍するであろう。そして、彼は、世尊は、わたしに、法(教え)を説示するであろう。そして、わたしは、彼の、世尊の、法(教え)を了知するであろう』と。比丘たちよ、また、まさに、それを、わたしは、他の、あるいは、沙門の〔言葉を〕、あるいは、婆羅門の〔言葉を〕、聞いて〔そののち〕、このように説くのではありません。比丘たちよ、しかしながら、また、まさに、まさしく、それが、わたしによって、自ら知られたものであり、自ら見られたものであり、自ら見出されたものであるなら、まさしく、それを、わたしは説きます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼ら、天の使者たちに叱咤されても怠る人間たちは、彼らは、長夜に憂い悲しむ──下劣な身体を具した人たちとなり。

 

 しかしながら、まさに、彼ら、この〔世において〕、正しくある、正なる人士たちは、天の使者たちに叱咤され、聖なる法(教え)において、いついかなる時も怠らない。

 

 〔賢者たちは〕執取〔の思い〕のうちに恐怖を見て、生と死の発生のうちに〔恐怖を見て〕、〔何も〕執取せずして、生と死の消滅において解脱する。

 

 彼ら、怠らない者たちは、安楽の者たちであり、所見の法(現世)において涅槃に到達し、一切の怨念と恐怖を超え行き、一切の苦しみを過ぎ行った」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 〔天の〕四大王の経

 

37. 「比丘たちよ、半月〔ごと〕の第八日に、〔天の〕四大王(四天王)の家臣たちと侍臣たちが、この世のことを探索します。『どうであろう、多くの人間たちが、人間たち〔の世〕において、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、斎戒(布薩)に入り、自省し、諸々の功徳を作り為しているであろうか』と。比丘たちよ、半月〔ごと〕の十四日に、〔天の〕四大王の子たちが、この世のことを探索します。『どうであろう、多くの人間たちが、人間たち〔の世〕において、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、斎戒に入り、自省し、諸々の功徳を作り為しているであろうか』と。比丘たちよ、斎戒のその日、十五〔日〕において、〔天の〕四大王が、まさしく、自ら、この世のことを探索します。『どうであろう、多くの人間たちが、人間たち〔の世〕において、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、斎戒に入り、自省し、諸々の功徳を作り為しているであろうか』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、僅かな人間たちが有り、人間たち〔の世〕において、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、斎戒に入り、自省し、諸々の功徳を作り為しているなら、比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、〔天の〕四大王は、スダンマーの集会場(善法講堂)において着坐し参集している三十三天〔の神々〕たちに告げます。『敬愛なる方たちよ、まさに、僅かな人間たちが、人間たち〔の世〕において、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、斎戒に入り、自省し、諸々の功徳を作り為しています』と。比丘たちよ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得ない者たちと成ります。『ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く衰退するであろうし、阿修羅の身体ある者たちは遍く満ちるであろう』と。

 

 比丘たちよ、それで、もし、多くの人間たちが有り、人間たち〔の世〕において、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、斎戒に入り、自省し、諸々の功徳を作り為しているなら、比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、〔天の〕四大王は、スダンマーの集会場において着坐し参集している三十三天〔の神々〕たちに告げます。『敬愛なる方たちよ、まさに、多くの人間たちが、人間たち〔の世〕において、母を敬う者たちとして、父を敬う者たちとして、沙門を敬う者たちとして、婆羅門を敬う者たちとして、家における最尊者を敬う者たちとして、斎戒に入り、自省し、諸々の功徳を作り為しています』と。比丘たちよ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成ります。『ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く満ちるであろうし、阿修羅の身体ある者たちは遍く衰退するであろう』と。

 

 比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕が、三十三天〔の神々〕たちを教え導きつつ、その時に、この詩偈を語りました。

 

 〔すなわち〕『十四日と十五日に、そして、すなわち、半月〔ごと〕の第八日に、さらに、神変月には、八つの支分が見事に備わった斎戒に入るべきである。すなわち、また、人として、わたしのような者となり、〔世に〕存するべく』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、この詩偈は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって、悪しく歌われ、善く歌われず、悪しく語られ、善く語られませんでした。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、貪欲を離れた者ではなく、憤怒を離れた者ではなく、迷妄を離れた者ではないからです。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、比丘たちよ、その比丘のばあい、まさに、このことは、言葉として善きものとなります。

 

 〔すなわち〕『十四日と十五日に、そして、すなわち、半月〔ごと〕の第八日に、さらに、神変月には、八つの支分が見事に備わった斎戒に入るべきである。すなわち、また、人として、わたしのような者となり、〔世に〕存するべく』と。

 

 それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘は、貪欲を離れた者であり、憤怒を離れた者であり、迷妄を離れた者であるからです」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二の〔天の〕四大王の経

 

38. 「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、三十三天〔の神々〕たちを教え導きつつ、その時に、この詩偈を語りました。

 

 〔すなわち〕『十四日と十五日に、そして、すなわち、半月〔ごと〕の第八日に、さらに、神変月には、八つの支分が見事に備わった斎戒に入るべきである。すなわち、また、人として、わたしのような者となり、〔世に〕存するべく』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、その、この詩偈は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって、悪しく歌われ、善く歌われず、悪しく語られ、善く語られませんでした。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれていないからです。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれていない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、比丘たちよ、その比丘のばあい、まさに、このことは、言葉として善きものとなります。

 

 〔すなわち〕『十四日と十五日に、そして、すなわち、半月〔ごと〕の第八日に、さらに、神変月には、八つの支分が見事に備わった斎戒に入るべきである。すなわち、また、人として、わたしのような者となり、〔世に〕存するべく』と。

 

 それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その比丘は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれているからです。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれている』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 繊細なる者の経

 

39. 「比丘たちよ、わたしは、繊細なる者であり、最高の繊細なる者であり、究極の繊細なる者です。比丘たちよ、まさに、わたしの父の住居地においては、造営された諸々の蓮池が有ります。比丘たちよ、まさしく、わたしを義(目的)とする、まさしく、そのかぎりにおいて、まさに、一所においては青蓮が植えられ、一所においては赤蓮が〔植えられ〕、一所においては白蓮が〔植えられます〕。比丘たちよ、また、まさに、カーシ産ならざる栴檀を、まさに、わたしは〔身に〕付けません。比丘たちよ、カーシ産の頭巾が、それが、まさに、わたしのものとして有ります──カーシ産の上着が、カーシ産の下着が、カーシ産の上衣が。比丘たちよ、また、まさに、夜に、昼に、白の傘蓋が、それが、まさに、わたしのために保持されます。『あるいは、寒さが、あるいは、暑さが、あるいは、草が、あるいは、塵が、あるいは、露が、わたしに触れてはならない』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしには、三つの高楼が有りました。一つは雨期用のものであり、一つは冬用のものであり、一つは夏用のものです。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、雨期用の高楼において、雨期の四月のあいだ、女たちだけの諸々の楽器によって楽しみながら、高楼の下に降りません。比丘たちよ、また、まさに、すなわち、他の者たちの住居地において、奴隷や労夫や下僕に、屑米が食料として与えられ、酸えた粥が添え物として〔与えられる〕ように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしの父の住居地においては、奴隷や労夫や下僕に、米と肉の飯が与えられます。

 

 比丘たちよ、このような形態の繁栄を具備し、さらに、このような形態の繊細なるものを〔具備した〕、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、無聞の凡夫は、自己みずから、老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存しつつ、他者が老いたのを見て、苦悩し、自責し、忌避する──まさしく、自己みずから、〔自己の老を〕見過ごして。わたしもまた、まさに、老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存している。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、老の法(性質)ある者として、老を超え行くことなき者として、〔世に〕存しつつ、他者が老い朽ちたのを見て、苦悩し、自責し、忌避するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、かくのごとく深慮していると、すなわち、若さのうちにある若さの驕りは、それは、全てにあまねく捨棄されました。

 

 『まさに、無聞の凡夫は、自己みずから、病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存しつつ、他者が病んだのを見て、苦悩し、自責し、忌避する──まさしく、自己みずから、〔自己の病を〕見過ごして。わたしもまた、まさに、病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存している。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、病の法(性質)ある者として、病を超え行くことなき者として、〔世に〕存しつつ、他者が病んだのを見て、苦悩し、自責し、忌避するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、かくのごとく深慮していると、すなわち、無病のうちにある無病の驕りは、それは、全てにあまねく捨棄されました。

 

 『まさに、無聞の凡夫は、自己みずから、死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存しつつ、他者が死んだのを見て、苦悩し、自責し、忌避する──まさしく、自己みずから、〔自己の死を〕見過ごして。わたしもまた、まさに、死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存している。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、死の法(性質)ある者として、死を超え行くことなき者として、〔世に〕存しつつ、他者が死んだのを見て、苦悩し、自責し、忌避するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、かくのごとく深慮していると、すなわち、生命のうちにある生命の驕りは、それは、全てにあまねく捨棄されました」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの驕りです。どのようなものが、三つのものなのですか。若さの驕りであり、無病の驕りであり、生命の驕りです。比丘たちよ、あるいは、若さの驕りに驕慢した無聞の凡夫は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、あるいは、無病の驕りに驕慢した無聞の凡夫は……略……。比丘たちよ、あるいは、生命の驕りに驕慢した無聞の凡夫は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。

 

 比丘たちよ、あるいは、若さの驕りに驕慢した比丘は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします(戒を捨てて還俗する)。比丘たちよ、あるいは、無病の驕りに驕慢した比丘は……略……。比丘たちよ、あるいは、生命の驕りに驕慢した比丘は、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りします」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「病の法(性質)ある者たちとして、老の法(性質)ある者たちとして、さらに、死の法(性質)ある者たちとして──すなわち、〔そのような〕法(性質)ある者たちとして、そのように〔世に〕存しているのに、凡夫たちは、〔それを〕忌避する。

 

 このような法(性質)ある者たちとして、命あるものたちがあるとき、もし、わたしが、それを忌避するなら、このように〔世に〕住む者である、わたしにとって、このことは、適切なることとして存在せず。

 

 〔まさに〕その、わたしは、このように〔世に〕住みながら、依り所なき〔境地〕を法(真理)と知って、すなわち、無病のうちにあり、かつまた、若さのうちにあり、さらに、生命のうちにある、〔それらの〕驕りも──

 

 一切の驕りを征服した者として〔世に〕存している。離欲のうちに平安たることを見て、〔まさに〕その、わたしには、邁進〔の思い〕が有った──涅槃を証見しながら。

 

 今現在、わたしは、諸々の欲望〔の対象〕を受用することができない。梵行を行き着く所とする、不退転の者として〔世に〕有るのだ」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 優位の経

 

40. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの優位です。どのようなものが、三つのものなのですか。自己を優位とするものであり、世を優位とするものであり、法(教え)を優位とするものです。比丘たちよ、では、どのようなものが、自己を優位とするものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として、〔家から家なきへと出家したのでは〕ない。臥坐具を因として、〔家から家なきへと出家したのでは〕ない。かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、家から家なきへと出家したのではない。そして、また、まさに、生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。『また、まさに、まさしく、そして、わたしは、そのような諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家から家なきへと出家したのに、あるいは、そのような諸々の欲望〔の対象〕を、あるいは、それよりもより最悪のものを、遍く探し求めるなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず』と。彼は、かくのごとく深慮します。『また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成るのだ。気づきは現起され、忘却なきものと〔成るのだ〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成るのだ〕。心は定められ、一境のものと〔成るのだ〕』と。彼は、まさしく、自己を優位(主因)と為して、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、自己を優位とするものと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、世を優位とするものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として、〔家から家なきへと出家したのでは〕ない。臥坐具を因として、〔家から家なきへと出家したのでは〕ない。かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、家から家なきへと出家したのではない。そして、また、まさに、生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。『また、まさに、まさしく、そして、わたしは、このように出家者として〔世に〕存しながら、あるいは、欲望の思考を思考するなら、あるいは、憎悪の思考を思考するなら、あるいは、悩害の思考を思考するなら、また、まさに、大いなるは、この、世の共住である。また、まさに、大いなる世の共住においては、神通があり、天眼があり、他者の心を知る、沙門や婆羅門たちが存在する。彼らは、たとえ、遠くからでも〔他者を〕見、たとえ、近くにあるも〔他者に〕見られず、〔自己の〕心によってもまた〔他者の〕心を覚知する。彼らは、また、わたしのことを、このように知るであろう。「君よ、見たまえ、この良家の子息を。信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕存しているのに、諸々の悪しき善ならざる法(性質)に犯され、〔世に〕住む」』と。神通があり、天眼があり、他者の心を知る、天神たちもまた、まさに、存在する。彼らは、たとえ、遠くからでも〔他者を〕見、たとえ、近くにあるも〔他者に〕見られず、〔自己の〕心によってもまた〔他者の〕心を知る。彼らは、また、わたしのことを、このように知るであろう。「君よ、見たまえ、この良家の子息を。信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕存しているのに、諸々の悪しき善ならざる法(性質)に犯され、〔世に〕住む」』と。彼は、かくのごとく深慮します。『また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成るのだ。気づきは現起され、忘却なきものと〔成るのだ〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成るのだ〕。心は定められ、一境のものと〔成るのだ〕』と。彼は、まさしく、世を優位と為して、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、世を優位とするものと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、法(教え)を優位とするものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『また、まさに、わたしは、衣料を因として、家から家なきへと出家したのではない。〔行乞の〕施食を因として、〔家から家なきへと出家したのでは〕ない。臥坐具を因として、〔家から家なきへと出家したのでは〕ない。かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を因として、家から家なきへと出家したのではない。そして、また、まさに、生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。『「法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである」と〔説かれた〕。また、まさに、わたしと梵行を共にする者たちが存在し、〔あるがままに〕知っている者たちとして、〔あるがままに〕見ている者たちとして(※)、〔世に〕住む。また、まさに、まさしく、そして、わたしは、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者として〔世に〕存しているのに、怠惰で〔気づきを〕怠る者として〔世に〕住むなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず』と。彼は、かくのごとく深慮します。『また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成るのだ。気づきは現起され、忘却なきものと〔成るのだ〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成るのだ〕。心は定められ、一境のものと〔成るのだ〕』と。彼は、まさしく、法(教え)を優位と為して、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修め、罪過を有するものを捨棄し、罪過なきものを修め、清浄なる自己を守り抜きます。比丘たちよ、これは、法(教え)を優位とするものと説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの優位があります」と。

 

※ テキストには jānaṃ passaṃ とあるが、注釈書により jānantā passantā と読む。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪しき行為を為している者に、世において、内密は、まさに、存在しない。人士たる者よ、あなたの自己は、もしくは、真理であろうが、虚偽であろうが、〔あるがままに〕知る。

 

 友よ、ああ、まさに、〔あなたは〕善き自己を軽んじる。すなわち、〔あなたは〕自己のうちに存している悪しき自己を遍く隠す。

 

 世において、正義ならざる〔道〕を歩んでいる愚者を、そして、天〔の神々〕たちは、さらに、如来たちも、〔あるがままに〕見る。まさに、それゆえに、そして、自己の君主たる者は、さらに、世の君主にして、かつまた、賢明なる瞑想者は──

 

 そして、法(教え)の君主にして法(教え)のままに歩む者は、〔正なる法から〕退失しない──真理に勤しむ牟尼となり。悪魔を打ち負かして、死神を征服して、そして、すなわち、〔刻苦〕精励の者が、生の滅尽を体得したなら、そのような者である彼は、世〔の一切〕を知る者であり、思慮深き者であり、一切の法(事象)に関わりなき者であり、牟尼である」と。〔以上が〕第十となる。

 

 天の使者の章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「梵〔天〕とアーナンダとサーリプッタ、因縁があり、そして、ハッタカとともに、使者、そして、二つの王があり、さらに、繊細なる者と優位とともに、〔章となる〕」と。

 

5. 小なるものの章

 

1. 面前の状態の経

 

41. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらのものの〕面前の状態あることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、信の面前の状態あることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生み出します。比丘たちよ、施すべき法(施物)の面前の状態あることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生み出します。比丘たちよ、施与されるべき者たちの面前の状態あることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生み出します。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものの面前の状態あることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 三つの状況の経

 

42. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕状況によって、信ある者と〔知られるべきであり〕、清信ある者と知られるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。戒ある者たちと会見することを欲する者として〔世に〕有ります。正なる法(教え)を聞くことを欲する者として〔世に〕有ります。物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。比丘たちよ、まさに、これらの三つの状況によって、信ある者と〔知られるべきであり〕、清信ある者と知られるべきです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戒ある者たちと会見することを欲する者としてあり、正なる法(教え)を聞くことを求め、物惜の垢を取り除くなら、彼は、まさに、『信ある者』と説かれる」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 義たる所以の経

 

43. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕義(利益)たる所以を正しく見ているなら、他者たちに法(教え)を説示するに、まさしく、十分なるものがあります。どのようなものが、三つのものなのですか。すなわち、法(教え)を説示する者が──彼が、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。すなわち、法(教え)を聞く者が──彼が、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。まさしく、そして、すなわち、法(教え)を説示する者が、さらに、すなわち、法(教え)を聞く者が──両者が、そして、義(意味)の得知者たちとして、さらに、法(教え)の得知者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの義(利益)たる所以を正しく見ているなら、他者たちに法(教え)を説示するに、まさしく、十分なるものがあります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 議論の転起の経

 

44. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕状況によって、議論は、転起あるものと成ります。どのようなものが、三つのものなのですか。すなわち、法(教え)を説示する者が──彼が、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。すなわち、法(教え)を聞く者が──彼が、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。まさしく、そして、すなわち、法(教え)を説示する者が、さらに、すなわち、法(教え)を聞く者が──両者が、そして、義(意味)の得知者たちとして、さらに、法(教え)の得知者たちとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの状況によって、議論は、転起あるものと成ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 賢者の経

 

45. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらのものは、賢者によって報知され、正なる人士によって報知されました。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、布施が、賢者によって報知され、正なる人士によって報知されました。比丘たちよ、出家が、賢者によって報知され、正なる人士によって報知されました。比丘たちよ、母と父への奉仕が、賢者によって報知され、正なる人士によって報知されました。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものが、賢者によって報知され、正なる人士によって報知されました」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「正しくある者たちによって近しく報知されたものとして、布施がある──不害があり、自制があり、調御がある──母と父への奉仕があり、梵行を歩む寂静者たちへの〔奉仕がある〕。

 

 正しくある者たちには、これらの境位がある──すなわち、賢者が慣れ親しむべきものとして。〔あるがままの〕見を成就した聖者は、彼は、至福の世に親近するであろう」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 戒ある者の経

 

46. 「比丘たちよ、すなわち、戒ある者として出家者たちが、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住むなら、そこにおいて、人間たちは、三つの状況によって、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、三つのものなのですか。身体によって、言葉によって、意によって。比丘たちよ、すなわち、戒ある者として出家者たちが、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住むなら、そこにおいて、人間たちは、これらの三つの状況によって、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 形成されたものの経

 

47. 「比丘たちよ、三つのものがあります。形成されたもの(有為)には、これらの、形成されたものの特相があります。どのようなものが、三つのものなのですか。生起が覚知され、衰失が覚知され、止住しているものの他化が覚知されます。比丘たちよ、形成されたものには、まさに、これらの三つの、形成されたものの特相があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 形成されたものではないものの経

 

48. 「比丘たちよ、三つのものがあります。形成されたものではないもの(無為)には、これらの、形成されたものではないものの特相があります。どのようなものが、三つのものなのですか。生起が覚知されず、衰失が覚知されず、止住しているものの他化が覚知されません。比丘たちよ、形成されたものではないものには、まさに、これらの三つの、形成されたものではないものの特相があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 山の王の経

 

49. 「比丘たちよ、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に依拠して、大いなるサーラ〔樹〕たちは、三つの増大〔の観点〕によって増大します。どのようなものが、三つのものなのですか。枝と葉と葉群〔の観点〕によって増大し、樹皮と外皮〔の観点〕によって増大し、軟材と硬材〔の観点〕によって増大します。比丘たちよ、山の王たるヒマヴァントに依拠して、大いなるサーラ〔樹〕たちは、これらの三つの増大〔の観点〕によって増大します。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、信ある家長に依拠して、〔彼の〕家族は、三つの増大〔の観点〕によって増大します。どのようなものが、三つのものなのですか。信〔の観点〕によって増大し、戒〔の観点〕によって増大し、智慧〔の観点〕によって増大します。比丘たちよ、信ある家長に依拠して、〔彼の〕家族は、これらの三つの増大〔の観点〕によって増大します」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、また、密林の林地のなかに岩山があり、その〔岩山〕に依拠して、それらの木々が増大し、林の長となるように──

 

 まさしく、そのように、この〔世において〕、戒を成就した信ある家長に近しく依拠して、そして、妻や子たちも、眷属たちも、増大する──かつまた、僚友たちも、親族の群れも、さらに、すなわち、彼に依拠して生きる者たちも。

 

 彼らは、戒ある〔家長〕の、彼の、戒を、施捨を、さらに、諸々の善き行ないを見ながら、〔それらを、彼に〕従い為す。自己の義(利益)に明眼ある者たちは──

 

 この〔世において〕、法(正義)〔の道〕を歩んで、善き境遇に至る道を〔歩んで〕、天の世において喜びある者たちとなり、歓喜する──欲するままに欲する者たちとして」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 「熱く為すべきです」の経

 

50. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕状況によって、熱く為すべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、熱く為すべきであり、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、熱く為すべきであり、諸々の〔すでに〕生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶために、熱く為すべきです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの状況によって、熱く為すべきです。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、熱く為すことから、諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、熱く為すことから、諸々の〔すでに〕生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶために、熱く為すことから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、熱情ある者となり、賢明なる者となり、気づきある者となる──正しく苦しみの終極を為すために』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 大盗賊の経

 

51. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した大盗賊は、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ちます。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、そして、平坦ならざるところ(辺境)に依拠した者として〔世に〕有り、かつまた、茂み(林野)に依拠した者として〔世に〕有り、さらに、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、平坦ならざるところ(辺境)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、あるいは、川の難所に、あるいは、山の平坦ならざるところに、依拠した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、平坦ならざるところに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、茂み(林野)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、あるいは、草の茂みに、あるいは、木の茂みに、あるいは、叢林に、あるいは、大密林に、依拠した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、茂みに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、大盗賊は、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、大盗賊が、あるいは、王たちに、あるいは、王の大臣たちに、依拠した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、誰かが、何であれ、わたしのことを告発するなら、これらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、わたしを守るために義(利益)あることを話すであろう』と。それで、もし、誰かが、何であれ、彼のことを言ったとして、それらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、彼を守るために義(利益)あることを話します。比丘たちよ、このように、まさに、大盗賊は、力ある者に依拠した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これら三つの支分を具備した大盗賊は、〔家の〕境目をもまた断ち切り、強奪物をもまた運び去り、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ちます。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した悪しき比丘は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、そして、平坦ならざるところ(不正)に依拠した者として〔世に〕有り、かつまた、茂み(見執)に依拠した者として〔世に有り〕、さらに、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に有ります〕。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、平坦ならざるところ(不正)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、平坦ならざる身体の行為を具備した者として〔世に〕有り、平坦ならざる言葉の行為を具備した者として〔世に〕有り、平坦ならざる意の行為を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、悪しき比丘は、平坦ならざるところに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、茂み(見執)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、誤った見解ある者として〔世に〕有り、極端を収め取る見解(極論)を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このように、まさに、悪しき比丘は、茂みに依拠した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、悪しき比丘は、力ある者(権力者)に依拠した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、悪しき比丘が、あるいは、王たちに、あるいは、王の大臣たちに、依拠した者として〔世に〕有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それで、もし、誰かが、何であれ、わたしのことを告発するなら、これらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、わたしを守るために義(利益)あることを話すであろう』と。それで、もし、誰かが、何であれ、彼のことを言ったとして、それらの、あるいは、王たちは、あるいは、王の大臣たちは、彼を守るために義(利益)あることを話します。比丘たちよ、このように、まさに、悪しき比丘は、力ある者に依拠した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これら三つの法(性質)を具備した悪しき比丘は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 小なるものの章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「面前、状況と義(利益)たる所以、転起と賢者と戒ある者、形成されたもの、山と『熱く』があり、大盗賊とともに、〔それらの〕十一がある」と。

 

 第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

2. 第二の五十なるもの

 

(6)1. 婆羅門の章

 

1. 第一の二者の婆羅門の経

 

52. そこで、まさに、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加え、生まれてから百二十歳となる、二者の婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの婆羅門たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加え、生まれてから百二十歳となる、婆羅門たちです。しかしながら、〔まさに〕その〔わたしたち〕は、善を為さなかった者たちとして、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者たちとして、恐怖からの救護所を作り為さなかった者たちとして、〔世に〕存しています。貴君ゴータマは、わたしたちに教諭したまえ。貴君ゴータマは、わたしたちに教示したまえ。すなわち、わたしたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「たしかに、あなたたちは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加え、生まれてから百二十歳となる、婆羅門たちです。しかしながら、〔まさに〕その〔あなたたち〕は、善を為さなかった者たちとして、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者たちとして、恐怖からの救護所を作り為さなかった者たちとして、〔世に〕存しています。婆羅門たちよ、まさに、この世は、老と病と死によって導かれます。婆羅門たちよ、このように、まさに、世が、老と病と死によって導かれているとき、すなわち、この〔世において〕、身体による自制があり、言葉による自制があり、意による自制があるなら、それは、その亡者にとって、かつまた、救護所となり、かつまた、避難所となり、かつまた、洲となり、かつまた、帰依所となり、かつまた、行き着く所となります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「生命は、〔老によって〕導かれる。寿命は、僅かである。老によって導かれた者に、諸々の救護所は存在しない。この恐怖を、死のうちに見ている者は、諸々の功徳を作り為すべきである──〔未来に〕安楽をもたらすものとして。

 

 すなわち、この〔世において〕、身体によって、言葉によって、あるいは、心によって、自制があるなら、それは、その亡者にとって、安楽のために成る──それを、生きているときに、功徳として作り為すなら」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の二者の婆羅門の経

 

53. そこで、まさに、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加え、生まれてから百二十歳となる、二者の婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの婆羅門たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加え、生まれてから百二十歳となる、婆羅門たちです。しかしながら、〔まさに〕その〔わたしたち〕は、善を為さなかった者たちとして、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者たちとして、恐怖からの救護所を作り為さなかった者たちとして、〔世に〕存しています。貴君ゴータマは、わたしたちに教諭したまえ。貴君ゴータマは、わたしたちに教示したまえ。すなわち、わたしたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。

 

 「たしかに、あなたたちは、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加え、生まれてから百二十歳となる、婆羅門たちです。しかしながら、〔まさに〕その〔あなたたち〕は、善を為さなかった者たちとして、善なる〔功徳〕を作り為さなかった者たちとして、恐怖からの救護所を作り為さなかった者たちとして、〔世に〕存しています。婆羅門たちよ、まさに、この世は、老と病と死によって燃えています。婆羅門たちよ、このように、まさに、世が、老と病と死によって燃えているとき、すなわち、この〔世において〕、身体による自制があり、言葉による自制があり、意による自制があるなら、それは、その亡者にとって、かつまた、救護所となり、かつまた、避難所となり、かつまた、洲となり、かつまた、帰依所となり、かつまた、行き着く所となります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「家が燃えているとき、すなわち、〔家から〕器を運び出すなら、その〔器〕は、彼にとって、義(利益)のために成る。しかしながら、そこにおいて、その〔器〕が焼かれるなら、さにあらず。

 

 このように、老によって、そして、死によって、燃えているのが、まさに、世であるなら、布施によって、まさしく、〔財を〕運び出すべきである。施されたものは、善く運び出されたものと成る。

 

 すなわち、この〔世において〕、身体によって、言葉によって、あるいは、心によって、自制があるなら、それは、その亡者にとって、安楽のために成る──それを、生きているときに、功徳として作り為すなら」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 或るひとりの婆羅門の経

 

54. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。……略……。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、『現に見られる法(教え)』『現に見られる法(教え)』と説かれます。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)は、現に見られるものと成るのですか──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成るのですか〕」と。

 

 「婆羅門よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります……略……。

 

 怒る者は、憤怒〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。憤怒〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります……略……。

 

 迷う者は、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 遍歴遊行者の経

 

55. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って……略……。一方に坐った、まさに、その婆羅門の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、『現に見られる法(教え)』『現に見られる法(教え)』と説かれます。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)は、現に見られるものと成るのですか──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成るのですか〕」と。

 

 「婆羅門よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。

 

 婆羅門よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、身体による悪しき行ないを行なわず、言葉による悪しき行ないを行なわず、意による悪しき行ないを行ないません。

 

 婆羅門よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知しません。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知します。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります……略……。

 

 婆羅門よ、怒る者は、まさに、憤怒〔の思い〕に……略……。婆羅門よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。

 

 婆羅門よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、身体による悪しき行ないを行なわず、言葉による悪しき行ないを行なわず、意による悪しき行ないを行ないません。

 

 婆羅門よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知しません。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知します。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、法(教え)は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 涅槃に到達した者の経

 

56. そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、『現に見られる涅槃』『現に見られる涅槃』と説かれます。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どのようなことから、涅槃は、現に見られるものと成るのですか──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成るのですか〕」と。

 

 「婆羅門よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、涅槃は、現に見られるものと成ります。

 

 婆羅門よ、怒る者は、まさに……略……。婆羅門よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。婆羅門よ、このようにもまた、まさに、涅槃は、現に見られるものと成ります。

 

 婆羅門よ、すなわち、まさに、この者が、残りなく、貪欲の滅尽を得知し、残りなく、憤怒の滅尽を得知し、残りなく、迷妄の滅尽を得知することから、婆羅門よ、このように、まさに、涅槃は、現に見られるものと成ります──時を要さないもの、来て見るもの、導くもの、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものと〔成ります〕」と。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 崩壊の経

 

57. そこで、まさに、或るひとりの婆羅門の大家が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。一方に坐った、まさに、その婆羅門の大家は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる往古の婆羅門たちが語っているところとして、『過去において、まさに、この世は、間隔なくあり、思うに、人間たちで充満し、〔そのようなものとして〕有った──村と町と王都が、鶏の行き交うほどに』と。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、今現在、人間たちには、滅尽が有り、〔密度の〕希薄さが覚知され、諸々の村もまた〔過去の〕村ならざるものとして有り、諸々の町もまた〔過去の〕町ならざるものとして有り、諸々の城市もまた〔過去の〕城市ならざるものとして有り、諸々の地方もまた〔過去の〕地方ならざるものとして有るのですか」と。

 

 「婆羅門よ、今現在、人間たちは、法(正義)ならざる貪欲〔の思い〕で貪る者たちであり、正義ならざる貪り〔の思い〕に征服された者たちであり、誤った法(性質)に打ち負かされた者たちです。それらの、法(正義)ならざる貪欲〔の思い〕で貪る者たちは、正義ならざる貪り〔の思い〕に征服された者たちは、誤った法(性質)に打ち負かされた者たちは、諸々の鋭い刃を掴んで、互いに他の生命を奪います。それによって、多くの人間たちが命を終えます。婆羅門よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、今現在、人間たちには、滅尽が有り、〔密度の〕希薄さが覚知され、諸々の村もまた〔過去の〕村ならざるものとして有り、諸々の町もまた〔過去の〕町ならざるものとして有り、諸々の城市もまた〔過去の〕城市ならざるものとして有り、諸々の地方もまた〔過去の〕地方ならざるものとして有ります。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、今現在、人間たちは、法(正義)ならざる貪欲〔の思い〕で貪る者たちであり、正義ならざる貪り〔の思い〕に征服された者たちであり、誤った法(性質)に打ち負かされた者たちです。それらの、法(正義)ならざる貪欲〔の思い〕で貪る者たちに、正義ならざる貪り〔の思い〕に征服された者たちに、誤った法(性質)に打ち負かされた者たちに、天は、正しく流雨を授けません。それによって、飢饉と成ります──不作で、稲穂が白くなり、蒔いたものが実を結びません。それによって、多くの人間たちが命を終えます。婆羅門よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、今現在、人間たちには、滅尽が有り、〔密度の〕希薄さが覚知され、諸々の村もまた〔過去の〕村ならざるものとして有り、諸々の町もまた〔過去の〕町ならざるものとして有り、諸々の城市もまた〔過去の〕城市ならざるものとして有り、諸々の地方もまた〔過去の〕地方ならざるものとして有ります。

 

 婆羅門よ、さらに、また、他に、今現在、人間たちは、法(正義)ならざる貪欲〔の思い〕で貪る者たちであり、正義ならざる貪り〔の思い〕に征服された者たちであり、誤った法(性質)に打ち負かされた者たちです。それらの、法(正義)ならざる貪欲〔の思い〕で貪る者たちに、正義ならざる貪り〔の思い〕に征服された者たちに、誤った法(性質)に打ち負かされた者たちに、夜叉たちは、猛々しい人間ならざる者(精霊・悪霊)たちを〔世に〕捨て放ちます。それによって、多くの人間たちが命を終えます。婆羅門よ、まさに、また、これを因として、これを縁として、それによって、今現在、人間たちには、滅尽が有り、〔密度の〕希薄さが覚知され、諸々の村もまた〔過去の〕村ならざるものとして有り、諸々の町もまた〔過去の〕町ならざるものとして有り、諸々の城市もまた〔過去の〕城市ならざるものとして有り、諸々の地方もまた〔過去の〕地方ならざるものとして有ります」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ヴァッチャ・ゴッタの経

 

58. そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、このように言った。「まさしく、わたしに、布施は施されるべきである。他の者たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしの弟子たちに、布施は施されるべきである。他の者たちの弟子たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちに施されたものは、大いなる果とならない。まさしく、わたしの弟子たちに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちの弟子たちに施されたものは、大いなる果とならない」』と。貴君ゴータマよ、すなわち、『沙門ゴータマは、このように言った。「まさしく、わたしに、布施は施されるべきである。他の者たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしの弟子たちに、布施は施されるべきである。他の者たちの弟子たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちに施されたものは、大いなる果とならない。まさしく、わたしの弟子たちに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちの弟子たちに施されたものは、大いなる果とならない」』と、このように言った、それらの者たちですが、どうでしょう、彼らは、貴君ゴータマの説いたことを説く者たちですか。かつまた、貴君ゴータマを事実ならざることによって誹謗していないですか(※)。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、貴君ゴータマを誹謗することを欲する者たちにあらず」と。

 

※ テキストには ca bhavantaṃ gotamaṃ abhūtena abbhācikkhanti とあるが、PTS版により na ca bhavantaṃ gotamaṃ abhūtena abbhācikkhanti と読む。

 

 「ヴァッチャよ、すなわち、『沙門ゴータマは、このように言った。「まさしく、わたしに、布施は施されるべきである。……略……。他の者たちの弟子たちに施されたものは、大いなる果とならない」』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。また、そして、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します。ヴァッチャよ、或る者が、まさに、布施を施している他者を妨げるなら、彼は、三つのものにとって、障りを作り為す者と成り、三つのものにとって、障害ある者と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。施者にとって、功徳の障りを作り為す者と成ります。衲受者たちにとって、利得の障りを作り為す者と成ります。また、まさに、彼〔自身〕にとって、〔彼の〕自己は、すでに、もう、そして、掘り崩されたものとして有り、さらに、打ち砕かれたものとして〔有ります〕。ヴァッチャよ、或る者が、まさに、布施を施している他者を妨げるなら、彼は、これらの三つのものにとって、障りを作り為す者と成り、〔これらの〕三つのものにとって、障害ある者と〔成ります〕。

 

 ヴァッチャよ、また、まさに、わたしは、このように説きます。まさに、すなわち、それらの命あるものたちが、あるいは、どぶ池のなかにあり、あるいは、水たまりのなかにあるとします。そこで、また、或る者が、あるいは、小鉢の洗い水を、あるいは、台皿の洗い水を、『すなわち、そこにおいて、それらの命あるものたちがあるなら、それ(洗い水)によって、〔身を〕保ち行け』と捨て放ちます。ヴァッチャよ、それを因縁としてもまた、功徳が至り来ることを、わたしは説きます。人間たる生類については、また、何の論があるというのでしょう。ヴァッチャよ、さらに、また、戒ある者に施されたものは、大いなる果となることを、わたしは説きます──劣戒の者に〔施されたものは〕、そのようなことはありません。そして、その〔戒ある者〕は、五つの支分を捨棄した者として、五つの支分を具備した者として、〔世に〕有ります。

 

 どのような五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有るのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)を捨棄した者として〔世に〕有り、憎悪〔の思い〕(瞋恚)を捨棄した者として〔世に〕有り、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄した者として〔世に〕有り、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄した者として〔世に〕有り、疑惑〔の思い〕()を捨棄した者として〔世に〕有ります。これらの五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有ります。

 

 どのような五つの支分を具備した者として〔世に〕有るのですか。〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇(戒蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備した者として〔世に〕有り、〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備した者として〔世に〕有ります。これらの五つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。これらの五つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。かくのごとく、『五つの支分を捨棄し五つの支分を具備した者において、施されたものは、大いなる果となる』と、〔わたしは〕説きます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、黒であれ、白であれ、赤であれ、あるいは、黄であれ、雑色であれ、同色であれ、あるいは、鳩〔色〕であれ、牛たちにおいて──

 

 それらの者たちが、どのような〔色〕であれ、これら〔の牛〕たちにおいて、調御された雄牛は生まれる。忍耐強く、力を成就し、善き速さで進み行く〔雄牛〕であるなら、まさしく、その〔雄牛〕を、〔人々は〕荷に結び付ける──その〔雄牛〕の色を考慮することなく。

 

 まさしく、このように、人間たちにおいて、士族であれ、婆羅門であれ、庶民であれ、隷民であれ、チャンダーラ(賎民)やプックサ(非人)であれ、それが、どのような生まれであれ──

 

 それらの者たちが、どのような〔生まれ〕であれ、これらの者たちにおいて、調御された善き掟ある者は生まれる。法(正義)に依って立ち、戒を成就し、真理を説き、意に恥〔の思い〕ある者であるなら──

 

 生と死を捨棄した、梵行の全一者であるなら──〔生の〕重荷を降ろし、〔世の〕束縛を離れ、為すべきことを為した、煩悩なき者であるなら──

 

 一切の法(事象)の彼岸に至る者となり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であるなら──まさしく、彼において、〔世俗の〕塵を離れる田畑たる者において、施物は、広大なるものと成る。

 

 しかしながら、愚者たちは、〔功徳の田畑を〕識知することなく、思慮浅く、無聞の者たちは、外に、諸々の布施を施すも、まさに、正しくある者たちには近侍しない。

 

 しかしながら、彼らが、正しくある者たちに近侍し、智慧を有し慧者として敬われる者たちに〔近侍するなら〕、そして、彼らの、善き至達者にたいする信は、根元から生じたものとなり、確立したものとなる。

 

 そして、彼らは、天の世に行き、あるいは、この〔世において〕、〔善き〕家に生まれる。賢者たちは、順次に、涅槃に到達する」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. ティカンナの経

 

59. そこで、まさに、ティカンナ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊と共に……略……。一方に坐った、まさに、ティカンナ婆羅門は、世尊の面前で、まさに、三つの明知ある婆羅門たちの栄誉を語ります。「このようにもまた、三つの明知ある婆羅門たちである」「かくのごとくもまた、三つの明知ある婆羅門たちである」と。

 

 「婆羅門よ、また、すなわち、どのように、婆羅門たちは、婆羅門を、三つの明知ある者と報知するのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、婆羅門が、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されず、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者である、ということで、貴君ゴータマよ、このように、まさに、婆羅門たちは、三つの明知ある者と報知します」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、他なるものとして、婆羅門たちは、婆羅門を、三つの明知ある者と報知し、また、そして、他なるものとして、聖者の律における三つの明知ある者は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「貴君ゴータマよ、また、すなわち、どのように、聖者の律における三つの明知ある者は有るのですか。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における三つの明知ある者が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ティカンナ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「婆羅門よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼には、この第一の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼には、この第二の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩()である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。彼には、この第三の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戒が〔安立して〕高下なく、そして、賢明なる瞑想者としてあり、彼の心が、自在と成り、一境に善く定められたなら──

 

 彼のことを、まさに、闇を除去する慧者と、死魔を捨棄する三つの明知ある者と、天〔の神々〕と人間たちに益ある者と、一切を捨棄する者と、〔人々は〕言う。

 

 三つの明知の成就者を、等しく迷乱なき住者を、最後の肉身ある覚者を、彼を、ゴータマを、〔人々は〕礼拝する。

 

 彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼であり──

 

 これらの三つの明知によって、三つの明知ある婆羅門と成る。わたしは、彼を、『三つの明知ある者』と説く──他の、〔それらしい〕虚論を談じている者は、さにあらず」と。

 

 「婆羅門よ、このように、まさに、聖者の律における三つの明知ある者は有ります」と。「貴君ゴータマよ、他なるものとして、婆羅門たちの三つの明知ある者は〔有り〕、また、そして、他なるものとして、聖者の律における三つの明知ある者は有ります。貴君ゴータマよ、また、そして、婆羅門たちの三つの明知ある者は、この、聖者の律における三つの明知ある者の、十六分の一にも値しません。

 

 貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. ジャーヌッソーニの経

 

60. そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊と共に……略……。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、あるいは、供物が、あるいは、〔死者への〕供え物が、あるいは、〔献上用の〕盛り物が、あるいは、施すべき法(施物)が、彼に存するなら、〔彼は〕三つの明知ある婆羅門にたいし、布施を施すべきです」と。「婆羅門よ、また、すなわち、どのように、婆羅門たちは、婆羅門を、三つの明知ある者と報知するのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、婆羅門が、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として〔世に〕有り、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されず、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者である、ということで、貴君ゴータマよ、このように、まさに、婆羅門たちは、三つの明知ある者と報知します」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、他なるものとして、婆羅門たちは、婆羅門を、三つの明知ある者と報知し、そして、また、他なるものとして、聖者の律における三つの明知ある者は有ります」と。「貴君ゴータマよ、また、すなわち、どのように、聖者の律における三つの明知ある者は有るのですか。貴君ゴータマは、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における三つの明知ある者が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「婆羅門よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼には、この第一の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼には、この第二の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。

 

 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。彼には、この第三の明知が到達するところと成ります。無明が打破され、明知が生起するところと〔成ります〕。闇が打破され、光明が生起するところと〔成ります〕。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、戒と掟を成就し、自己を精励し、〔心が〕定められたなら──彼の心が、自在と成り、一境に善く定められたなら──

 

 彼が、過去における居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼であり──

 

 これらの三つの明知によって、三つの明知ある婆羅門と成る。わたしは、彼を、『三つの明知ある者』と説く──他の、〔それらしい〕虚論を談じている者は、さにあらず」と。

 

 「婆羅門よ、このように、まさに、聖者の律における三つの明知ある者は有ります」と。「貴君ゴータマよ、まさに、他なるものとして、婆羅門たちの三つの明知ある者は〔有り〕、また、そして、他なるものとして、聖者の律における三つの明知ある者は有ります。貴君ゴータマよ、また、そして、婆羅門たちの三つの明知ある者は、この、聖者の律における三つの明知ある者の、十六分の一にも値しません。

 

 貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. サンガーラヴァの経

 

61. そこで、まさに、サンガーラヴァ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、わたしたちは、まさに、婆羅門として〔世に〕存しています。祭祀を、執り行なうこともまたありますし、執り行なわせることもまたあります。貴君ゴータマよ、そこで、まさしく、そして、すなわち、執り行なう者も、さらに、すなわち、執り行なわせる者も、彼らの全てが、無数の肉体的な功徳の〔実践の〕道の実践者たちと成ります。すなわち、この、祭祀を事因として。貴君ゴータマよ、いっぽう、すなわち、この者が、あるいは、すなわち、彼の家から〔離れて〕、家から家なきへと出家したのでは、一者の自己〔だけ〕を調御し、一者の自己〔だけ〕を行知し、一者の自己〔だけ〕を完全なる涅槃に到達させます。このように、まさに、この者は、一者の肉体的な功徳の〔実践の〕道の実践者と成ります。すなわち、この、出家を事因として」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。婆羅門よ、それを、どう思いますか。ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、このように言います。『来たれ。これは、道である。これは、〔実践の〕道である。実践したそのとおりに、わたしは、無上なるものを、梵行への沈潜を、自ら、証知して、実証して、〔あなたたちに〕知らせる。来たれ。あなたたちもまた、そのとおりに実践しなさい。そのとおりに実践する者たちとして、あなたたちもまた、無上なるものを、梵行への沈潜を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と。かくのごとく、まさしく、そして、この者は、〔世の〕教師として、法(教え)を説示し、さらに、他者たちも、そのとおりに実践します。また、まさに、それら〔の数〕は、幾百にもまた成り、幾千にもまた〔成り〕、幾百千にもまた〔成ります〕。

 

 婆羅門よ、それを、どう思いますか。かくのごとく、このように存しているなら、これは、あるいは、一者の肉体的な功徳の〔実践の〕道と成りますか、あるいは、無数の肉体的な〔功徳の実践の道〕と〔成りますか〕。すなわち、この、出家を事因として」と。「貴君ゴータマよ、かくのごとく、このように存しているなら、これもまた、無数の肉体的な功徳の〔実践の〕道と成ります。すなわち、この、出家を事因として」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、サンガーラヴァ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、これらの二つの〔実践の〕道のなかでは、どちらの〔実践の〕道が、あなたにとって、かつまた、より義(事態)が少なく、かつまた、より勉励が少なく、かつまた、より大いなる果となり、かつまた、より大いなる福利となるものとして、受認できますか」と。このように説かれたとき、サンガーラヴァ婆羅門は、尊者アーナンダに、こう言いました。「それは、たとえば、また、貴君ゴータマと、そして、貴君アーナンダのようなものです。わたしにとって、これらの者たちは、〔両者ともに〕供養するべき者たちです。わたしにとって、これらの者たちは、〔両者ともに〕賞賛するべき者たちです」と。

 

 再度また、まさに、尊者アーナンダは、サンガーラヴァ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、これらの二つの〔実践の〕道のなかでは、どちらの〔実践の〕道が、あなたにとって、かつまた、より義(事態)が少なく、かつまた、より勉励が少なく、かつまた、より大いなる果となり、かつまた、より大いなる福利となるものとして、受認できますか」と。このように説かれたとき、サンガーラヴァ婆羅門は、尊者アーナンダに、こう言いました。「それは、たとえば、また、貴君ゴータマと、そして、貴君アーナンダのようなものです。わたしにとって、これらの者たちは、〔両者ともに〕供養するべき者たちです。わたしにとって、これらの者たちは、〔両者ともに〕賞賛するべき者たちです」と。

 

 三度また、まさに、尊者アーナンダは、サンガーラヴァ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、これらの二つの〔実践の〕道のなかでは、どちらの〔実践の〕道が、あなたにとって、かつまた、より義(事態)が少なく、かつまた、より勉励が少なく、かつまた、より大いなる果となり、かつまた、より大いなる福利となるものとして、受認できますか」と。このように説かれたとき、サンガーラヴァ婆羅門は、尊者アーナンダに、こう言いました。「それは、たとえば、また、貴君ゴータマと、そして、貴君アーナンダのようなものです。わたしにとって、これらの者たちは、〔両者ともに〕供養するべき者たちです。わたしにとって、これらの者たちは、〔両者ともに〕賞賛するべき者たちです」と。

 

 そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「三度に至るまでもまた、まさに、サンガーラヴァ婆羅門は、アーナンダによって、法(真理)を共にする問いを尋ねられたのに、放置し、答えない。それなら、さあ、わたしが、〔彼を〕完全に解き放ってあげよう」と。そこで、まさに、世尊は、サンガーラヴァ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、いったい、今日、王の内宮において着坐し参集している王の家来たちに、どのような合間の議論が起こりましたか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、今日、王の内宮において着坐し参集している王の家来たちに、この合間の議論が起こりました。『過去においては、まさに、まさしく、そして、より少なき者たちが、比丘として〔世に〕有り、さらに、より多くの者たちが、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見示した。いっぽう、今現在、まさしく、そして、より多くの者たちが、比丘として〔世に有り〕、さらに、より少なき者たちが、人間の法(性質)を超える、神通の神変を見示する』と。貴君ゴータマよ、まさに、今日、王の内宮において着坐し参集している王の家来たちに、この合間の議論が起こりました」と。

 

 「婆羅門よ、三つのものがあります。まさに、これらの神変です。どのようなものが、三つのものなのですか。神通の神変であり、指摘の神変であり、教示の神変です。婆羅門よ、では、どのようなものが、神通の神変なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。婆羅門よ、これは、神通の神変と説かれます。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、指摘の神変なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、形相によって指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、しかしながら、また、まさに、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者(精霊・悪霊)たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘することもまたなく、そして、また、まさに、思考し想念している者の思考の充満の音声を聞いて指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。

 

 婆羅門よ、また、ここに、一部の者は、まさに、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘することもまたなく、思考し想念している者の思考の充満の音声を聞いて指摘することもまたなく、そして、また、まさに、〔自らの〕心をとおして、思考なく想念なき禅定に入定した者の心を探知して、覚知します。『すなわち、この尊き者の切願するところである、諸々の意の形成〔作用〕のとおりに、この心の直後に、まさに、この思考を思考するであろう』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。婆羅門よ、これは、指摘の神変と説かれます。

 

 婆羅門よ、では、どのようなものが、教示の神変なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の者は、このように教示します。『〔あなたたちは〕このように思考しなさい。〔あなたたちは〕このように思考してはいけません。〔あなたたちは〕このように意を為しなさい。〔あなたたちは〕このように意を為していけません。〔あなたたちは〕これを捨棄しなさい。〔あなたたちは〕これを成就して〔世に〕住みなさい』と。婆羅門よ、これは、教示の神変と説かれます。婆羅門よ、まさに、これらの三つの神変があります。婆羅門よ、これらの三つの神変のなかで、どの神変が、あなたにとって、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのようなものとして〕受認できますか」と。

 

 「貴君ゴータマよ、そこで、すなわち、この、神変ですと──ここに、一部の者は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。貴君ゴータマよ、この神変を、それを、まさしく、彼が為すとして、彼だけが、それを得知します。それを、まさしく、彼が為すとして、彼だけに、それは有ります。貴君ゴータマよ、この神変は、わたしにとって、幻惑と法(性質)を共にする形態のように思えます。

 

 貴君ゴータマよ、すなわち、また、この、神変ですと──ここに、一部の者は、形相によって指摘します。『このようにもまた、あなたの意はある。かくのようにもまた、あなたの意はある。かくのごとくもまた、あなたの心はある』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。貴君ゴータマよ、また、ここに、一部の者は、形相によって指摘することが、まさしく、まさに、なく、しかしながら、また、まさに、あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘します。……略……あるいは、人間たちの、あるいは、人間ならざる者たちの、あるいは、天神たちの、音声を聞いて指摘することもまたなく、そして、また、まさに、思考し想念している者の思考の充満の音声を聞いて指摘します。……略……思考し想念している者の思考の充満の音声を聞いて指摘することもまたなく、そして、また、まさに、〔自らの〕心をとおして、思考なく想念なき禅定に入定した者の心を探知して、覚知します。『すなわち、この尊き者の切願するところである、諸々の意の形成〔作用〕のとおりに、この心の直後に、まさに、この(※)思考を思考するであろう』と。もし、また、彼が、多くのものを指摘するなら、まさしく、そのように、それは成ります──他なるものに〔成ること〕なく。貴君ゴータマよ、この神変を、それを、まさしく、彼が為すとして、彼だけが、それを得知します。それを、まさしく、彼が為すとして、彼だけに、それは有ります。貴君ゴータマよ、この神変もまた、わたしにとって、幻惑と法(性質)を共にする形態のように思えます。

 

※ テキストには amhaṃ とあるが、平行箇所により amuṃ と読む(PTS版は、この箇所を省略)。

 

 貴君ゴータマよ、そして、すなわち、まさに、この、神変ですと──ここに、一部の者は、このように教示します。『〔あなたたちは〕このように思考しなさい。〔あなたたちは〕このように思考してはいけません。〔あなたたちは〕このように意を為しなさい。〔あなたたちは〕このように意を為していけません。〔あなたたちは〕これを捨棄しなさい。〔あなたたちは〕これを成就して〔世に〕住みなさい』と。貴君ゴータマよ、まさしく、この神変は、これらの三つの神変のなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのようなものとして〕受認できます。

 

 貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。そして、わたしどもは、貴君ゴータマを、これらの三つの神変を具備した者と認めます。まさに、貴君ゴータマは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。まさに、貴君ゴータマは、〔自らの〕心をとおして、思考なく想念なき禅定に入定した者の心を探知して、覚知します。『すなわち、この尊き者の切願するところである、諸々の意の形成〔作用〕のとおりに、この心の直後に、まさに、この思考を思考するであろう』と。まさに、貴君ゴータマは、このように教示します。『〔あなたたちは〕このように思考しなさい。〔あなたたちは〕このように思考してはいけません。〔あなたたちは〕このように意を為しなさい。〔あなたたちは〕このように意を為していけません。〔あなたたちは〕これを捨棄しなさい。〔あなたたちは〕これを成就して〔世に〕住みなさい』」と。

 

 「婆羅門よ、まさに、たしかに、あなたにとって、わたしは、攻撃的で批判的な言葉の語り手としてあります。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。婆羅門よ、まさに、わたしは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。まさに、わたしは、〔自らの〕心をとおして、思考なく想念なき禅定に入定した者の心を探知して、覚知します。『すなわち、この尊き者の切願するところである、諸々の意の形成〔作用〕のとおりに、この心の直後に、まさに、この思考を思考するであろう』と。まさに、わたしは、このように教示します。『〔あなたたちは〕このように思考しなさい。〔あなたたちは〕このように思考してはいけません。〔あなたたちは〕このように意を為しなさい。〔あなたたちは〕このように意を為していけません。〔あなたたちは〕これを捨棄しなさい。〔あなたたちは〕これを成就して〔世に〕住みなさい』」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、すなわち、これらの三つの神変を具備した者で、貴君ゴータマより他に、たとえ、一者の比丘であれ、他の者は存在しますか」と。「婆羅門よ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、これらの三つの神変を具備した比丘たちは」と。「貴君ゴータマよ、また、どこに、今現在、それらの比丘たちは住んでいますか」と。「婆羅門よ、まさに、まさしく、この比丘の僧団において」と。

 

 「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君ゴータマよ、〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

 

 婆羅門の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、二つの〔二者の〕婆羅門、或るひとりの者があり、遍歴遊行者とともに、涅槃に到達した者、崩壊とヴァッチャ、ティカンナ、ソーニがあり、そして、サンガーラヴァとともに、〔章となる〕」と。

 

(7)2. 大いなるものの章

 

1. 異教の者たちの〔認識の〕場所等の経

 

62. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの異教の者たちの〔認識の〕場所()です。それらが、賢者たちによって、尋問され、審問され、査問されていると、他〔の結論〕にさえも至って、無作なるものにおいて確立します。どのようなものが、三つのものなのですか。(1)比丘たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする』と。(2)比丘たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、イッサラ〔天〕(イーシュヴァラ神・自在神)の化作を因とする』と。(3)比丘たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てを、因なく縁なきことから〔得知する〕』と。

 

 (1)比丘たちよ、そこで、すなわち、『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、過去において作り為されたものを因とする」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちなのですか』と。そして、彼らは、わたしによって、このように尋ねられ、『そのとおり』と明言します。わたしは、彼らに、このように説きます。『まさに、それでは、尊者たちは〔未来永劫に〕、過去において作り為されたものを因に、命あるものを殺す者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、与えられていないものを取る者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、梵行なき者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、虚偽を説く者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、中傷の言葉ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、粗暴な言葉ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、雑駁な虚論ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、強欲〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、憎悪している心の者たちとして〔世に〕有るでしょうし、過去において作り為されたものを因に、誤った見解ある者たちとして〔世に〕有るでしょう』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、過去において作り為されたものを『真髄である』と妄信している者たちには、『あるいは、これは、為すべきことである』『あるいは、これは、為すべきことではない』と、あるいは、欲〔の思い〕(意欲)も、あるいは、努力も、有りません。また、まさに、かくのごとく、為すべきことと為すべきではないことが、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、認知されずにあるとき、気づきが忘却され〔感官の〕守護なく〔世に〕住んでいる者たちには、各自それぞれに、法(真理)を共にする沙門の論は有りません。比丘たちよ、まさに、わたしには、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちにたいし、この第一の法(真理)を共にする糾弾が有ります。

 

 (2)比丘たちよ、そこで、すなわち、『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、イッサラ〔天〕(イーシュヴァラ神・自在神)の化作を因とする』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てが、イッサラ〔天〕の化作を因とする」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちなのですか』と。そして、彼らは、わたしによって、このように尋ねられ、『そのとおり』と明言します。わたしは、彼らに、このように説きます。『まさに、それでは、尊者たちは〔未来永劫に〕、イッサラ〔天〕の化作を因に、命あるものを殺す者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、与えられていないものを取る者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、梵行なき者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、虚偽を説く者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、中傷の言葉ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、粗暴な言葉ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、雑駁な虚論ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、強欲〔の思い〕ある者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、憎悪している心の者たちとして〔世に〕有るでしょうし、イッサラ〔天〕の化作を因に、誤った見解ある者たちとして〔世に〕有るでしょう』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、イッサラ〔天〕の化作を『真髄である』と妄信している者たちには、『あるいは、これは、為すべきことである』『あるいは、これは、為すべきことではない』と、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、努力も、有りません。また、まさに、かくのごとく、為すべきことと為すべきではないことが、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、認知されずにあるとき、気づきが忘却され〔感官の〕守護なく〔世に〕住んでいる者たちには、各自それぞれに、法(真理)を共にする沙門の論は有りません。比丘たちよ、まさに、わたしには、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちにたいし、この第二の法(真理)を共にする糾弾が有ります。

 

 (3)比丘たちよ、そこで、すなわち、『それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てを、因なく縁なきことから〔得知する〕』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、「それが何であれ、あるいは、安楽を、あるいは、苦痛を、あるいは、苦でもなく楽でもないものを、この人士たる人が得知するなら、その全てを、因なく縁なきことから〔得知する〕」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちなのですか』と。そして、彼らは、わたしによって、このように尋ねられ、『そのとおり』と明言します。わたしは、彼らに、このように説きます。『まさに、それでは、尊者たちは〔未来永劫に〕、因なく縁なきことから、命あるものを殺す者たちとして〔世に〕有るでしょうし……略……因なく縁なきことから、誤った見解ある者たちとして〔世に〕有るでしょう』と。

 

 比丘たちよ、また、まさに、因なく縁なきことを『真髄である』と妄信している者たちには、『あるいは、これは、為すべきことである』『あるいは、これは、為すべきことではない』と、あるいは、欲〔の思い〕も、あるいは、努力も、有りません。また、まさに、かくのごとく、為すべきことと為すべきではないことが、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、認知されずにあるとき、気づきが忘却され〔感官の〕守護なく〔世に〕住んでいる者たちには、各自それぞれに、法(真理)を共にする沙門の論は有りません。比丘たちよ、まさに、わたしには、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちにたいし、この第三の法(真理)を共にする糾弾が有ります。

 

 比丘たちよ、まさに、これらの三つの異教の者たちの〔認識の〕場所があります。それらが、賢者たちによって、尋問され、審問され、査問されていると、他〔の結論〕にさえも至って、無作なるものにおいて確立します。

 

 比丘たちよ、また、まさに、この、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません。比丘たちよ、では、どのようなものが、わたしによって説示された法(真理)であり、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されないのですか。比丘たちよ、『これらの六つの界域()があります』と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません。比丘たちよ、『これらの六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)があります』と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません。比丘たちよ、『これらの十八の意の細かい想念があります』と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません。比丘たちよ、『これらの四つの聖なる真理(四聖諦)があります』と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません。

 

 『比丘たちよ、「これらの六つの界域があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、六つのものがあります。これらの界域です。地の界域であり、水の界域であり、火の界域であり、風の界域であり、虚空の界域であり、識知〔作用〕の界域です。『比丘たちよ、「これらの六つの界域があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、「これらの六つの接触ある〔認識の〕場所があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、六つのものがあります。これらの接触ある〔認識の〕場所です。眼の接触ある〔認識の〕場所であり、耳の接触ある〔認識の〕場所であり、鼻の接触ある〔認識の〕場所であり、舌の接触ある〔認識の〕場所であり、身の接触ある〔認識の〕場所であり、意の接触ある〔認識の〕場所です。『比丘たちよ、「これらの六つの接触ある〔認識の〕場所があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、「これらの十八の意の細かい想念があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。眼によって、形態()を見て、悦意が止住するべき形態を細かく想念し、失意が止住するべき形態を細かく想念し、放捨が止住するべき形態を細かく想念します。耳によって、音声()を聞いて……。鼻によって、臭気()を嗅いで……。舌によって、味感()を味わって……。身によって、感触(所触)と接触して……。意によって、法(:意の対象)を識知して、悦意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念し、失意が止住するべき法(意の対象)を細かく想念し、放捨が止住するべき法(意の対象)を細かく想念します。『比丘たちよ、「これらの十八の意の細かい想念があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 『比丘たちよ、「これらの四つの聖なる真理があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、六つの界域に執取して、〔母〕胎への入胎が有ります。入胎が存しているとき、名前と形態(名色)があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処)があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触()があります。接触という縁あることから、感受()があります。比丘たちよ、また、まさに、感受しているなら、わたしは、『これは、苦しみである』と報知し、『これは、苦しみの集起である』と報知し、『これは、苦しみの止滅である』と報知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と報知します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理(苦諦)なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)なのですか。比丘たちよ、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)があります。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)があります。感受という縁あることから、渇愛()があります。渇愛という縁あることから、執取()があります。執取という縁あることから、生存()があります。生存という縁あることから、生()があります。生という縁あることから、老と死(老死)が〔発生し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有ります。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)なのですか。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)なのですか。比丘たちよ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。『比丘たちよ、「これらの四つの聖なる真理があります」と、わたしによって説示された法(真理)は、〔誰にも〕糾弾されず、〔誰にも〕汚染されず、批判されようがなく、識者たる沙門や婆羅門たちに弾劾されません』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 恐怖の経(※)

 

※ テキストはタイトルを欠くが、摂頌により補足する。

 

63. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらのものを、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、すなわち、大火事が起こる、その時が有ります。比丘たちよ、また、まさに、大火事が起こったとき、それによって、諸々の村もまた焼かれ、諸々の町もまた焼かれ、諸々の城市もまた焼かれます。諸々の村もまた焼かれ、諸々の町もまた焼かれ、諸々の城市もまた焼かれているとき、そこにおいては、母もまた子を得ず、子もまた母を得ません。比丘たちよ、この第一のものを、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、大雨が起こる、その時が有ります。比丘たちよ、また、まさに、大雨が起こったとき、大洪水が等しく生じます。比丘たちよ、また、まさに、大洪水が等しく生じているとき、それによって、諸々の村もまた運び去られ、諸々の町もまた運び去られ、諸々の城市もまた運び去られます。諸々の村もまた運び去られ、諸々の町もまた運び去られ、諸々の城市もまた運び去られているとき、そこにおいては、母もまた子を得ず、子もまた母を得ません。比丘たちよ、この第二のものを、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、森の者たちによる動乱の恐怖が有り、〔難を避けて〕車上の者となった地方の者たちが〔各地に〕遍く行き及ぶ、その時が有ります。比丘たちよ、また、まさに、森の者たちによる動乱の恐怖が存しているとき、〔難を避けて〕車上の者となった地方の者たちが〔各地に〕遍く行き及んでいるとき、そこにおいては、母もまた子を得ず、子もまた母を得ません。比丘たちよ、この第三のものを、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものを、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。

 

 比丘たちよ、また、まさに、これらの三つの、まさしく、母子共々の恐怖を、それらを、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、すなわち、大火事が起こる、その時が有ります。比丘たちよ、また、まさに、大火事が起こったとき、それによって、諸々の村もまた焼かれ、諸々の町もまた焼かれ、諸々の城市もまた焼かれます。諸々の村もまた焼かれ、諸々の町もまた焼かれ、諸々の城市もまた焼かれているとき、すなわち、いつであれ、いつかは、母もまた子を得、子もまた母を得る、その時が有ります。比丘たちよ、この第一の、まさしく、母子共々の恐怖を、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、大雨が起こる、その時が有ります。比丘たちよ、また、まさに、大雨が起こったとき、大洪水が等しく生じます。比丘たちよ、また、まさに、大洪水が等しく生じているとき、それによって、諸々の村もまた運び去られ、諸々の町もまた運び去られ、諸々の城市もまた運び去られます。諸々の村もまた運び去られ、諸々の町もまた運び去られ、諸々の城市もまた運び去られているとき、すなわち、いつであれ、いつかは、母もまた子を得、子もまた母を得る、その時が有ります。比丘たちよ、この第二の、まさしく、母子共々の恐怖を、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、すなわち、森の者たちによる動乱の恐怖が有り、〔難を避けて〕車上の者となった地方の者たちが〔各地に〕遍く行き及ぶ、その時が有ります。比丘たちよ、また、まさに、森の者たちによる動乱の恐怖が存しているとき、〔難を避けて〕車上の者となった地方の者たちが〔各地に〕遍く行き及んでいるとき、すなわち、いつであれ、いつかは、母もまた子を得、子もまた母を得る、その時が有ります。比丘たちよ、この第三の、まさしく、母子共々の恐怖を、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、まさしく、母子共々の恐怖を、『母子別々の恐怖である』と、無聞の凡夫は語ります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの母子別々の恐怖です。どのようなものが、三つのものなのですか。老の恐怖であり、病の恐怖であり、死の恐怖です。比丘たちよ、母が、老いつつある子のことを、『わたしは老いるが、わたしの子は老いてはならない』と、このように〔と言っても、承諾を〕得ることはなく、また、あるいは、子が、老いつつある母のことを、『わたしは老いるが、わたしの母は老いてはならない』と、このように〔と言っても、承諾を〕得ることはありません。

 

 比丘たちよ、母が、病みつつある子のことを、『わたしは病むが、わたしの子は病んではならない』と、このように〔と言っても、承諾を〕得ることはなく、また、あるいは、子が、病みつつある母のことを、『わたしは病むが、わたしの母は病んではならない』と、このように〔と言っても、承諾を〕得ることはありません。

 

 比丘たちよ、母が、死につつある子のことを、『わたしは死ぬが、わたしの子は死んではならない』と、このように〔と言っても、承諾を〕得ることはなく、また、あるいは、子が、死につつある母のことを、『わたしは死ぬが、わたしの母は死んではならない』と、このように〔と言っても、承諾を〕得ることはありません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの母子別々の恐怖があります」と。

 

 「比丘たちよ、〔聖なる〕道が存在し、〔実践の〕道が存在し、そして、これらの三つの母子共々の恐怖の、さらに、これらの三つの母子別々の恐怖の、捨棄のために、超越のために、等しく転起します。比丘たちよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、そして、どのようなものが、〔実践の〕道であり、そして、これらの三つの母子共々の恐怖の、さらに、これらの三つの母子別々の恐怖の、捨棄のために、超越のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。そして、これらの三つの母子共々の恐怖の、さらに、これらの三つの母子別々の恐怖の、捨棄のために、超越のために、等しく転起します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ヴェーナーガプラの経

 

64. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ヴェーナーガプラという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、ヴェーナーガプラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、ヴェーナーガプラ〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、ヴェーナーガプラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーナーガプラ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、これほどまでに、貴君ゴータマの、諸々の〔感官の〕機能が清らかであり、肌の色が完全なる清浄にして完全なる清白であるのは。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、秋に黄色の棗が完全なる清浄にして完全なる清白と成るように、まさしく、このように、貴君ゴータマの、諸々の〔感官の〕機能は清らかであり、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、熟したターラ〔樹の果〕が、今や、〔枝の〕結節から解き放たれたなら、完全なる清浄にして完全なる清白と成るように、まさしく、このように、貴君ゴータマの、諸々の〔感官の〕機能は清らかであり、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、能ある細工師によって完全無欠の行為が為され、溶炉口において極めて巧みに精錬されたジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、まさしく、このように、貴君ゴータマの、諸々の〔感官の〕機能は清らかであり、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。貴君ゴータマよ、すなわち、それらの高貴なる臥所にして大いなる臥所があり、それは、すなわち、この、高床、寝台、毛布、羊毛の上掛け、羊の白毛布、羊の毛布、綿入りのもの、毛織りのもの、両側に縁飾りがある毛の敷物、片側に縁飾りがある毛の敷物、絹織りのもの、絹布、毛氈、象の敷物、馬の敷物、車の敷物、鹿皮の絨毯、カダリー鹿の最も優れた敷物、天蓋を有するもの、両端に赤い枕があるものですが、このような形態の、諸々の高貴なる臥所にして大いなる臥所を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、まちがいなく、貴君ゴータマは〔世に有ります〕」と。

 

 「婆羅門よ、また、まさに、すなわち、それらの高貴なる臥所にして大いなる臥所があり、それは、すなわち、この、高床、寝台、毛布、羊毛の上掛け、羊の白毛布、羊の毛布、綿入りのもの、毛織りのもの、両側に縁飾りがある毛の敷物、片側に縁飾りがある毛の敷物、絹織りのもの、絹布、毛氈、象の敷物、馬の敷物、車の敷物、鹿皮の絨毯、カダリー鹿の最も優れた敷物、天蓋を有するもの、両端に赤い枕があるものですが、それらは、出家者たちには得難きものであり、また、そして、〔それらが〕得られたとして、〔出家者たちには〕適しません。

 

 婆羅門よ、三つのものがあります。まさに、これらの高貴なる臥所にして大いなる臥所があり、それらを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、わたしは〔世に有ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。天の高貴なる臥所にして大いなる臥所であり、梵の高貴なる臥所にして大いなる臥所であり、聖者の高貴なる臥所にして大いなる臥所です。婆羅門よ、まさに、これらの三つの高貴なる臥所にして大いなる臥所があり、それらを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、わたしは〔世に有ります〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、その、天の高貴なる臥所にして大いなる臥所なのですか。それを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、貴君ゴータマが〔世に有るなら〕」と。「婆羅門よ、ここに、わたしが、すなわち、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住むとします。その〔わたし〕は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。その〔わたし〕は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、まさしく、林の外れへと入り行きます。その〔わたし〕は、そこにおいて、まさしく、すなわち、あるいは、諸々の草が、あるいは、諸々の葉が、〔それらが〕有るなら、それらを一所に集めて、〔そのうえに〕坐ります──結跏(両足を交差する坐法)を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。その〔わたし〕は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として歩行するなら、その時点において、わたしに有る、この歩行は、天のものとなります。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として立つなら、その時点において、わたしに有る、この立つことは、天のものとなります。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として坐るなら、その時点において、わたしに有る、この坐は、天のものとなります。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として臥所を営むなら、その時点において、わたしに有る、この高貴なる臥所にして大いなる臥所は、天のものとなります。婆羅門よ、まさに、この、天の高貴なる臥所にして大いなる臥所があり、それを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、わたしは〔世に有ります〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、このような形態の、天の高貴なる臥所にして大いなる臥所を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、他に、どのような者が、〔世に〕有るというのでしょう──貴君ゴータマより、他に」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、その、梵の高貴なる臥所にして大いなる臥所なのですか。それを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、貴君ゴータマが〔世に有るなら〕」と。「婆羅門よ、ここに、わたしが、すなわち、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住むとします。その〔わたし〕は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。その〔わたし〕は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、まさしく、林の外れへと入り行きます。その〔わたし〕は、そこにおいて、まさしく、すなわち、あるいは、諸々の草が、あるいは、諸々の葉が、〔それらが〕有るなら、それらを一所に集めて、〔そのうえに〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。その〔わたし〕は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として歩行するなら、その時点において、わたしに有る、この歩行は、梵のものとなります。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として立つなら……略……坐るなら……略……臥所を営むなら、その時点において、わたしに有る、この高貴なる臥所にして大いなる臥所は、梵のものとなります。婆羅門よ、まさに、この、梵の高貴なる臥所にして大いなる臥所があり、それを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、わたしは〔世に有ります〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、このような形態の、梵の高貴なる臥所にして大いなる臥所を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、他に、どのような者が、〔世に〕有るというのでしょう──貴君ゴータマより、他に」と。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、その、聖者の高貴なる臥所にして大いなる臥所なのですか。それを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、貴君ゴータマが〔世に有るなら〕」と。「婆羅門よ、ここに、わたしが、すなわち、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住むとします。その〔わたし〕は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、まさしく、その、あるいは、村に、あるいは、町に、〔行乞の〕食のために入ります。その〔わたし〕は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、まさしく、林の外れへと入り行きます。その〔わたし〕は、そこにおいて、まさしく、すなわち、あるいは、諸々の草が、あるいは、諸々の葉が、〔それらが〕有るなら、それらを一所に集めて、〔そのうえに〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。その〔わたし〕は、このように知ります。『わたしの、貪欲〔の思い〕()は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。わたしの、憤怒〔の思い〕()は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある。わたしの、迷妄〔の思い〕()は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として歩行するなら、その時点において、わたしに有る、この歩行は、聖者のものとなります。婆羅門よ、それで、もし、〔その〕わたしが、このように有る者として立つなら……略……坐るなら……略……臥所を営むなら、その時点において、わたしに有る、この高貴なる臥所にして大いなる臥所は、聖者のものとなります。婆羅門よ、まさに、この、聖者の高貴なる臥所にして大いなる臥所があり、それを、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、今現在、わたしは〔世に有ります〕」と。

 

 「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、このような形態の、聖者の高貴なる臥所にして大いなる臥所を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、他に、どのような者が、〔世に〕有るというのでしょう──貴君ゴータマより、他に。

 

 貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように(※)、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君ゴータマよ、〔まさに〕この、わたしたちは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。〔以上が〕第三となる。

 

※ テキストには evameva kho とあるが、PTS版により kho を削除する。

 

4. サラバの経

 

65. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、サラバという名の遍歴遊行者が、この法(教え)と律から立ち去ったすぐあとの者として〔世に〕有ります。彼は、ラージャガハの衆のなかで、このような言葉を語ります。「わたしによって、釈子たる沙門たちの法(教え)が了知された。また、そして、わたしは、釈子たる沙門たちの法(教え)を了知して〔そののち〕、このように、わたしは、その法(教え)と律から立ち去ったのだ」と。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、それらの比丘たちは、サラバ遍歴遊行者が、ラージャガハの衆のなかで、このような言葉を語っているのを耳にしました。「わたしによって、釈子たる沙門たちの法(教え)が了知された。また、そして、わたしは、釈子たる沙門たちの法(教え)を了知して〔そののち〕、このように、わたしは、その法(教え)と律から立ち去ったのだ」と。

 

 そこで、まさに、それらの比丘たちは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、サラバという名の遍歴遊行者が、この法(教え)と律から立ち去ったすぐあと、彼は、ラージャガハの衆のなかで、このような言葉を語ります。『わたしによって、釈子たる沙門たちの法(教え)が了知された。また、そして、わたしは、釈子たる沙門たちの法(教え)を了知して〔そののち〕、このように、わたしは、その法(教え)と律から立ち去ったのだ』と。尊き方よ、どうか、世尊は、シッピニー〔川〕の岸辺にある遍歴遊行者の林園のあるところに、サラバ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。

 

 そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、シッピニー〔川〕の岸辺にある遍歴遊行者の林園のあるところに、サラバ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、サラバ遍歴遊行者に、こう言いました。「サラバよ、本当に、まさに、あなたは、このように説くのですか。『わたしによって、釈子たる沙門たちの法(教え)が了知された。また、そして、わたしは、釈子たる沙門たちの法(教え)を了知して〔そののち〕、このように、わたしは、その法(教え)と律から立ち去ったのだ』」と。このように説かれたとき、サラバ遍歴遊行者は、沈黙の者と成りました。

 

 再度また、まさに、世尊は、サラバ遍歴遊行者に、こう言いました。「サラバよ、説きなさい。どのようなものとして、あなたによって、釈子たる沙門たちの法(教え)が了知されたのですか。それで、もし、あなたに、〔いまだ〕円満成就なきものが有るなら、わたしが、〔それを〕円満成就させましょう。また、それで、もし、あなたに、〔すでに〕円満成就あるものが有るなら、わたしは、〔あなたに〕随喜しましょう」と。再度また、まさに、サラバ遍歴遊行者は、沈黙の者と成りました。

 

 三度また、まさに、世尊は、サラバ遍歴遊行者に、こう言いました。「サラバよ、すなわち、まさに、釈子たる沙門たちの法(教え)が覚知されるなら、サラバよ、説きなさい。どのようなものとして、あなたによって、釈子たる沙門たちの法(教え)が了知されたのですか。それで、もし、あなたに、〔いまだ〕円満成就なきものが有るなら、わたしが、〔それを〕円満成就させましょう。また、それで、もし、あなたに、〔すでに〕円満成就あるものが有るなら、わたしは、〔あなたに〕随喜しましょう」と。三度また、まさに、サラバ遍歴遊行者は、沈黙の者と成りました。

 

 そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、サラバ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、サラバよ、まさしく、それを、まさに、あなたが、沙門ゴータマに乞い求めるなら、まさしく、それを、あなたのために、沙門ゴータマは充足します。友よ、サラバよ、説きなさい。どのようなものとして、あなたによって、釈子たる沙門たちの法(教え)が了知されたのですか。それで、もし、あなたに、〔いまだ〕円満成就なきものが有るなら、沙門ゴータマが、〔それを〕円満成就させるでしょう。また、それで、もし、あなたに、〔すでに〕円満成就あるものが有るなら、沙門ゴータマは、〔あなたに〕随喜するでしょう」と。このように説かれたとき、サラバ遍歴遊行者は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。

 

 そこで、まさに、世尊は、サラバ遍歴遊行者が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、それらの遍歴遊行者たちに、こう言いました。

 

 「遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、わたしのことを、このように説くとします。『正等覚者と明言しているあなたの、これらの法(教え)は、現正覚されたものにあらず』と。彼に、わたしは、そこにおいて、善くしっかりと、尋問し、審問し、査問します。彼が、まさに、わたしによって、善くしっかりと、尋問され、審問され、査問されているなら、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、彼が、三つの状況のなかのどれか一つの状況に遭遇せずにいることです。あるいは、他から他へとはぐらかし、議論を外に移します。そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐ります。それは、たとえば、また、サラバ遍歴遊行者のように。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、わたしのことを、このように説くとします。『煩悩の滅尽者と明言しているあなたの、これらの煩悩は、完全に滅尽されていない』と。彼に、わたしは、そこにおいて、善くしっかりと、尋問し、審問し、査問します。彼が、まさに、わたしによって、善くしっかりと、尋問され、審問され、査問されているなら、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、彼が、三つの状況のなかのどれか一つの状況に遭遇せずにいることです。あるいは、他から他へとはぐらかし、議論を外に移します。そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐ります。それは、たとえば、また、サラバ遍歴遊行者のように。

 

 遍歴遊行者たちよ、或る者が、まさに、わたしのことを、このように説くとします。『また、まさに、その義(目的)のために、あなたによって、法(教え)が説示されたなら、それは、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱とならず』と。彼に、わたしは、そこにおいて、善くしっかりと、尋問し、審問し、査問します。彼が、まさに、わたしによって、善くしっかりと、尋問され、審問され、査問されているなら、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、彼が、三つの状況のなかのどれか一つの状況に遭遇せずにいることです。あるいは、他から他へとはぐらかし、議論を外に移します。そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐ります。それは、たとえば、また、サラバ遍歴遊行者のように」と。そこで、まさに、世尊は、シッピニー〔川〕の岸辺にある遍歴遊行者の林園において、三回、獅()子()吼()を吼え叫んで、宙に立ち去りました。

 

 そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、世尊が立ち去ったすぐあと、サラバ遍歴遊行者に、遍きにわたり、嘲笑の言葉でもって皮肉を為しました。「友よ、サラバよ、それは、たとえば、また、密林のなかで、老いた野狐が、『獅子吼を吼え叫ぶのだ』と、まさしく、野狐のままに吼え叫ぶように、まさしく、山犬のままに吼え叫ぶように、友よ、サラバよ、まさしく、このように、まさに、おまえは、まさしく、沙門ゴータマから他にあるところで、『獅子吼を吼え叫ぶのだ』と、まさしく、野狐のままに吼え叫び、まさしく、山犬のままに吼え叫ぶ。友よ、サラバよ、それは、たとえば、また、幼いひよこが、『雄鶏の鳴き方で鳴くのだ』と、まさしく、幼いひよこの鳴き方で鳴くように、友よ、サラバよ、まさしく、このように、まさに、おまえは、まさしく、沙門ゴータマから他にあるところで、『雄鶏の鳴き方で鳴くのだ』と、まさしく、幼いひよこの鳴き方で鳴く。友よ、サラバよ、それは、たとえば、また、雄牛が、空の牛舎で、大きく鳴かねばと思うように、サラバよ、まさしく、このように、まさに、おまえは、まさしく、沙門ゴータマから他にあるところで、大きく鳴かねばと思う」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、サラバ遍歴遊行者に、遍きにわたり、嘲笑の言葉でもって皮肉を為した、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. ケーサムッタの者たちの経

 

66. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ケーサムッタという名のコーサラ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、ケーサムッタ〔町〕のカーラーマ〔族〕の者たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、ケーサムッタ〔町〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

 

 そこで、まさに、ケーサムッタ〔町〕のカーラーマ〔族〕の者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらのケーサムッタ〔町〕のカーラーマ〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、ケーサムッタ〔町〕にやってくる、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、自らの論だけを提示し、顕示します。いっぽう、他者の論説を責め、謗り、貶め、排斥を為します。尊き方よ、他にもまた、ケーサムッタ〔町〕にやってくる、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らもまた、自らの論だけを提示し、顕示します。いっぽう、他者の論説を責め、謗り、貶め、排斥を為します。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさに、まさしく、疑いが有り、疑惑が有ります。『これらの尊き沙門や婆羅門たちのなかの、いったい、まさに、誰が、真理を言っているのか、誰が、虚偽を〔言っているのか〕』」と。「カーラーマ〔族〕の者たちよ、まさに、あなたたちには、疑うに十分なるものがあり、疑惑するに十分なるものがあります。また、まさしく、疑うべき状況において、あなたたちに、疑惑が生起したのです。

 

 カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、有能なる形態あること(外見)によってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する』と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです。

 

 カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、貪欲が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。

 

 「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、貪る者は、この人士たる人は、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、憤怒が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。

 

 「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、怒る者は、この人士たる人は、憤怒〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、迷妄が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。

 

 「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、迷う者は、この人士たる人は、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。

 

 「尊き方よ、善ならざるものです」〔と〕。

 

 「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。

 

 「尊き方よ、罪過を有するものです」〔と〕。

 

 「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。

 

 「尊き方よ、識者たちに難詰されるものです」〔と〕。

 

 「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕──『カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する」と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する』と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです。

 

 カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、貪欲なき〔あり方〕(無貪)が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。

 

 「尊き方よ、利益のためになります」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、貪らない者は、この人士たる人は、貪欲〔の思い〕に征服されない者であり、心が完全に奪い去られない者であり、まさしく、命あるものを殺さず、与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、虚偽を話さず、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)が生起しつつ生起するなら……略……人の内に、迷妄なき〔あり方〕(無痴)が生起しつつ生起するなら……略……利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。

 

 「尊き方よ、善なるものです」〔と〕。

 

 「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。

 

 「尊き方よ、罪過なきものです」〔と〕。

 

 「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。

 

 「尊き方よ、識者たちに賞賛されるものです」〔と〕。

 

 「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「カーラーマ〔族〕の者たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕──『カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する」と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 カーラーマ〔族〕の者たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。

 

 カーラーマ〔族〕の者たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、四つの安堵が到達するところと成ります。『また、まさに、それで、もし、他の世が存在し、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがあるとして、そこで、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生するであろう』と、彼には、この第一の安堵が到達するところと成ります。

 

 『また、まさに、それで、もし、他の世が存在せず、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがないとして、そこで、わたしは、まさしく、所見の法(現世)において、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる自己を守り抜く』と、彼には、この第二の安堵が到達するところと成ります。

 

 『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されるとして、また、まさに、わたしは、誰にであれ、悪しきことを思い考えない。また、まさに、悪しき行為を為さずにいるわたしに、どうして、苦しみが触れるというのだろう』と、彼には、この第三の安堵が到達するところと成ります。

 

 『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されないとして、そこで、わたしは、まさしく、両者〔の観点〕によって、清浄なる自己を等しく随観するであろう』と、彼には、この第四の安堵が到達するところと成ります。

 

 カーラーマ〔族〕の者たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの四つの安堵が到達するところと成ります」と。

 

 「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、四つの安堵が到達するところと成ります。『また、まさに、それで、もし、他の世が存在し、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがあるとして、そこで、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と、彼には、この第一の安堵が到達するところと成ります。

 

 『また、まさに、それで、もし、他の世が存在せず、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがないとして、そこで、わたしは、まさしく、所見の法(現世)において、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる自己を守り抜く』と、彼には、この第二の安堵が到達するところと成ります。

 

 『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されるとして、また、まさに、わたしは、誰にであれ、悪しきことを思い考えない。また、まさに、悪しき行為を為さずにいるわたしに、どうして、苦しみが触れるというのだろう』と、彼には、この第三の安堵が到達するところと成ります。

 

 『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されないとして、そこで、わたしは、まさしく、両者〔の観点〕によって、清浄なる自己を等しく随観するであろう』と、彼には、この第四の安堵が到達するところと成ります。

 

 尊き方よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの四つの安堵が到達するところと成ります。

 

 尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしたちは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方は、世尊は、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. サールハの経

 

67. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者ナンダカは、サーヴァッティーに住んでいます。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)において。そこで、まさに、かつまた、ミガーラの孫のサールハが、かつまた、セークニヤの孫のサーナが、尊者ナンダカのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ナンダカを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ミガーラの孫のサールハに、尊者ナンダカは、こう言いました。

 

 「サールハたちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、有能なる形態あること(外見)によってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、サールハたちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する』と知るとき、サールハたちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです。

 

 サールハたちよ、それを、どう思いますか。貪欲は存在しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、『〔それは〕強欲〔の思い〕である』と、まさに、わたしは、この義(意味)を説きます。サールハたちよ、貪る者は、まさに、この者は、強欲〔の思い〕ある者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、それを、どう思いますか。憤怒は存在しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、『〔それは〕憎悪〔の思い〕である』と、まさに、わたしは、この義(意味)を説きます。サールハたちよ、怒る者は、まさに、この者は、憎悪している心の者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、それを、どう思いますか。迷妄は存在しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、『〔それは〕無明である』と、まさに、わたしは、この義(意味)を説きます。サールハたちよ、迷う者は、まさに、この者は、無明を具した者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。

 

 「尊き方よ、善ならざるものです」〔と〕。

 

 「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。

 

 「尊き方よ、罪過を有するものです」〔と〕。

 

 「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。

 

 「尊き方よ、識者たちに難詰されるものです」〔と〕。

 

 「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「サールハたちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕──『サールハたちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、サールハたちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する」と知るとき、サールハたちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 サールハたちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、サールハたちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する』と知るとき、サールハたちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです。

 

 サールハたちよ、それを、どう思いますか。貪欲なき〔あり方〕は存在しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、『〔それは〕強欲〔の思い〕なきものである』と、まさに、わたしは、この義(意味)を説きます。サールハたちよ、貪らない者は、まさに、この者は、強欲〔の思い〕なき者であり、まさしく、命あるものを殺さず、与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、虚偽を話さず、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、それを、どう思いますか。憤怒なき〔あり方〕は存在しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、『〔それは〕憎悪〔の思い〕なきものである』と、まさに、わたしは、この義(意味)を説きます。サールハたちよ、怒らない者は、まさに、この者は、憎悪していない心の者であり、まさしく、命あるものを殺さず、与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、虚偽を話さず、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、それを、どう思いますか。迷妄なき〔あり方〕は存在しますか」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、『〔それは〕明知である』と、まさに、わたしは、この義(意味)を説きます。サールハたちよ、迷わない者は、まさに、この者は、明知を具した者であり、まさしく、命あるものを殺さず、与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、虚偽を話さず、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

 

 「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「サールハたちよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。

 

 「尊き方よ、善なるものです」〔と〕。

 

 「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。

 

 「尊き方よ、罪過なきものです」〔と〕。

 

 「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。

 

 「尊き方よ、識者たちに賞賛されるものです」〔と〕。

 

 「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。

 

 「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「サールハたちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕──『サールハたちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、サールハたちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する」と知るとき、サールハたちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。

 

 サールハたちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で……略……。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、このように覚知します。『これが存在する』『下劣なるものが存在する』『精妙なるものが存在する』『この表象を具したものには、より上なる出離が存在する』と。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 彼は、このように覚知します。『過去において、貪欲〔の思い〕が有った。それは、善ならざるものとして有った。それは、今現在、存在しない。かくのごとく、これは、善なるものである。過去において、憤怒〔の思い〕が有った。……略……。過去において、迷妄〔の思い〕が有った。それは、善ならざるものとして有った。それは、今現在、存在しない。かくのごとく、このことは、善なるものである』と。彼は、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 議論の基盤の経

 

68. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの議論の基盤(論事)です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、あるいは、過去の時に関して、議論を議論します。『このように、過去の時は有った』と。比丘たちよ、あるいは、未来の時に関して、議論を議論します。『このように、未来の時は有るだろう』と。比丘たちよ、あるいは、今現在、現在の時に関して、議論を議論します。『このように、今現在、現在の時は有る』と。

 

 比丘たちよ、議論との結び付きによって、人は知られるべきです。あるいは、すなわち、議論するべき者である、あるいは、すなわち、議論するべき者ではない、と。比丘たちよ、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、一定して説き明かすべき問いに一定して説き明かさず、区分して説き明かすべき問いに区分して説き明かさず、反問して説き明かすべき問いに反問して説き明かさず、捨て置くべき問いを捨て置かないなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべきではない者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、一定して説き明かすべき問いに一定して説き明かし、区分して説き明かすべき問いに区分して説き明かし、反問して説き明かすべき問いに反問して説き明かし、捨て置くべき問いを捨て置くなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべき者と成ります。

 

 比丘たちよ、議論との結び付きによって、人は知られるべきです。あるいは、すなわち、議論するべき者である、あるいは、すなわち、議論するべき者ではない、と。比丘たちよ、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)において確立せず、仮定において確立せず、了知された論において確立せず、〔実践の〕道において確立しないなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべきではない者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、状況あることと状況なきことにおいて確立し、仮定において確立し、了知された論において確立し、〔実践の〕道において確立するなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべき者と成ります。

 

 比丘たちよ、議論との結び付きによって、人は知られるべきです。あるいは、すなわち、議論するべき者である、あるいは、すなわち、議論するべき者ではない、と。比丘たちよ、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、他から他へとはぐらかし、議論を外に移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべきではない者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、他から他へとはぐらかさず、議論を外に移さず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さないなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべき者と成ります。

 

 比丘たちよ、議論との結び付きによって、人は知られるべきです。あるいは、すなわち、議論するべき者である、あるいは、すなわち、議論するべき者ではない、と。比丘たちよ、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、〔相手を〕圧倒し、撃破し、嘲笑し、〔相手の〕失敗をあげつらうなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべきではない者と成ります。比丘たちよ、また、それで、もし、この人が、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、〔相手を〕圧倒せず、撃破せず、嘲笑せず、〔相手の〕失敗をあげつらわないなら、このように存しているなら、比丘たちよ、この人は、議論するべき者と成ります。

 

 比丘たちよ、議論との結び付きによって、人は知られるべきです。あるいは、すなわち、機縁を有する者である、あるいは、すなわち、機縁なき者である、と。比丘たちよ、耳を傾けない者は、機縁なき者と成ります。耳を傾ける者は、機縁を有する者と成ります。その者が、機縁を有する者として存しているなら、一つの法(性質)を証知し、一つの法(性質)を遍知し、一つの法(性質)を捨棄し、一つの法(性質)を実証します。彼は、一つの法(性質)を証知しつつ、一つの法(性質)を遍知しつつ、一つの法(性質)を捨棄しつつ、一つの法(性質)を実証しつつ、正しい解脱を体得します。比丘たちよ、これを義(目的)として議論はあり、これを義(目的)として合議はあり、これを義(目的)として機縁はあり、これを義(目的)として傾聴はあります。すなわち、この、〔何も〕執取せずして〔到達する〕心の解脱(阿羅漢果の心解脱)です」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、〔他者を〕遮り、〔自己の見解に〕定着し、等しく増長した者たちが談じ合うなら、〔他者の〕聖者ならざる属性を攻撃して、互いに他の欠陥を探し求める者たちとなる。

 

 互いに他の、失言、失態、迷妄、敗北を、〔彼らは〕大いに喜ぶ。聖者は、その議論を習行するべきではない。

 

 しかしながら、それで、もし、議論を欲する者として存するなら、賢者たる者は、〔正しい〕時を了知して、その議論が、法(正義)に依って立つものと結び付いた、聖者の所行であるなら──

 

 その議論を議論するべきである──〔他者を〕遮らず、増長なくある、慧者として。傲慢ならざる意によって、加虐〔の思い〕なく、無理強いすることなく──

 

 妬むことなく、彼は、正しく了知して語る。善語に随喜するべきであり、失言を指弾するべきではない。

 

 論詰しながら学ばず、そして、〔相手の〕失敗をあげつらうべきではない。〔相手を〕圧倒せず、撃破せず、画策された言葉を話すべきではない。

 

 了知を義(目的)として、清信を義(目的)として、まさに、正しくある者たちの合議は有る。このように、まさに、聖者たちは合議する。これは、聖者たちの合議である。このことを了知して、思慮ある者は、増長せず、合議するべきである」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 〔教えを〕他にする異教の者たちの経

 

69. 「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲であり、憤怒であり、迷妄です。友よ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。友よ、これらの三つの法(性質)には、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、三つのものがあります。これらの法(性質)です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲であり、憤怒であり、迷妄です。友よ、まさに、これらの三つの法(性質)があります。友よ、これらの三つの法(性質)には、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。『友よ、まさに、貪欲は、有する罪過は少なく、遅き離貪となります。憤怒は、有する罪過は大きく、速き離貪となります。迷妄は、有する罪過は大きく、遅き離貪となります』と。

 

 『友よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない貪欲が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した貪欲が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するのですか』と。『「浄美の形相(浄相)」と説かれるべきものが存在します。その者が、浄美の形相に根源のままならずに意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない貪欲が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した貪欲が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない貪欲が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した貪欲が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します』と。

 

 『友よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない憤怒が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した憤怒が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するのですか』と。『「敵対の形相(有対相:対峙対立する形相)」と説かれるべきものが存在します。その者が、敵対の形相に根源のままならずに意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない憤怒が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した憤怒が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない憤怒が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した憤怒が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します』と。

 

 『友よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない迷妄が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した迷妄が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起するのですか』と。『「根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)」と説かれるべきものが存在します。その者が、根源のままならずに意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない迷妄が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した迷妄が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、あるいは、〔いまだ〕生起していない迷妄が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した迷妄が、より一層の状態のために、広大のために、等しく転起します』と。

 

 『友よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない貪欲が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した貪欲が捨棄されるのですか』と。『「浄美ならざる形相(不浄相)」と説かれるべきものが存在します。その者が、浄美ならざる形相に根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない貪欲が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した貪欲が捨棄されます。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない貪欲が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した貪欲が捨棄されます』と。

 

 『友よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憤怒が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した憤怒が捨棄されるのですか』と。『「慈愛()という〔止寂の〕心による解脱」と説かれるべきものが存在します。その者が、慈愛という〔止寂の〕心による解脱に根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憤怒が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した憤怒が捨棄されます。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない憤怒が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した憤怒が捨棄されます』と。

 

 『友よ、また、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない迷妄が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した迷妄が捨棄されるのですか』と。『「根源のままに意を為すこと(如理作意)」と説かれるべきものが存在します。その者が、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない迷妄が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した迷妄が捨棄されます。友よ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない迷妄が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した迷妄が捨棄されます』」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 善ならざるものの根元の経

 

70. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの善ならざるものの根元です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲は、善ならざるものの根元です。憤怒は、善ならざるものの根元です。迷妄は、善ならざるものの根元です。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、貪欲は、それもまた、善ならざるものの根元となります。すなわち、また、貪る者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善ならざるものとなります。すなわち、また、貪る者が、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させるなら、それもまた、善ならざるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、貪欲から生じ、貪欲を因縁とし、貪欲を集起とし、貪欲を縁とする、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、憤怒は、それもまた、善ならざるものの根元となります。すなわち、また、怒る者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善ならざるものとなります。すなわち、また、怒る者が、憤怒〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させるなら、それもまた、善ならざるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、憤怒から生じ、憤怒を因縁とし、憤怒を集起とし、憤怒を縁とする、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、迷妄は、それもまた、善ならざるものの根元となります。すなわち、また、迷う者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善ならざるものとなります。すなわち、また、迷う者が、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させるなら、それもまた、善ならざるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、迷妄から生じ、迷妄を因縁とし、迷妄を集起とし、迷妄を縁とする、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。比丘たちよ、そして、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時ならずに説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『律ならざることを説く者』ともまた説かれます。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時ならずに説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『律ならざることを説く者』ともまた説かれるのですか。比丘たちよ、まさに、そのように、この人は、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させます。また、まさに、事実〔の観点〕によって説かれているなら、〔他者を〕見下し、〔自己の過誤を〕明言しません。事実ならざる〔観点〕によって説かれているなら、『かくのごとくもまた、これは、真実ならず』『かくのごとくもまた、これは、事実ならず』と、それを弁明するために、熱く為しません。それゆえに、このような形態の人は、『〔正しい〕時ならずに説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『律ならざることを説く者』ともまた説かれます。

 

 比丘たちよ、このような形態の人は、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇(悪趣)が待っています。

 

 諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……。諸々の迷妄〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、サーラ〔樹〕が、あるいは、ダヴァ〔樹〕が、あるいは、パンダナ〔樹〕が、三つの蔓草や蔦葛によって、上から覆い包まれたなら、不幸を惹起し、災厄を惹起し、不幸と災厄を惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような形態の人は、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。

 

 諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……。諸々の迷妄〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、まさに、これらの三つの善ならざるものの根元があります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの善なるものの根元です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲なき〔あり方〕は、善なるものの根元です。憤怒なき〔あり方〕は、善なるものの根元です。迷妄なき〔あり方〕は、善なるものの根元です。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、貪欲なき〔あり方〕は、それもまた、善なるものの根元となります。すなわち、また、貪らない者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善なるものとなります。すなわち、また、貪らない者が、貪欲〔の思い〕に征服された者ではなく、心が完全に奪い去られた者ではなく、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させないなら、それもまた、善なるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、貪欲なき〔あり方〕から生じ、貪欲なき〔あり方〕を因縁とし、貪欲なき〔あり方〕を集起とし、貪欲なき〔あり方〕を縁とする、無数の善なる法(性質)が発生します。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、憤怒なき〔あり方〕は、それもまた、善なるものの根元となります。すなわち、また、怒らない者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善なるものとなります。すなわち、また、怒らない者が、憤怒〔の思い〕に征服された者ではなく、心が完全に奪い去られた者ではなく、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させないなら、それもまた、善なるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、憤怒なき〔あり方〕から生じ、憤怒なき〔あり方〕を因縁とし、憤怒なき〔あり方〕を集起とし、憤怒なき〔あり方〕を縁とする、無数の善なる法(性質)が発生します。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、迷妄なき〔あり方〕は、それもまた、善なるものの根元となります。すなわち、また、迷わない者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善なるものとなります。すなわち、また、迷わない者が、迷妄〔の思い〕に征服された者ではなく、心が完全に奪い去られた者ではなく、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させないなら、それもまた、善なるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、迷妄なき〔あり方〕から生じ、迷妄なき〔あり方〕を因縁とし、迷妄なき〔あり方〕を集起とし、迷妄なき〔あり方〕を縁とする、無数の善なる法(性質)が発生します。比丘たちよ、そして、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時に説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実を説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『律を説く者』ともまた説かれます。

 

 比丘たちよ、では、何ゆえに、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時に説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実を説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『律を説く者』ともまた説かれるのですか。比丘たちよ、まさに、そのように、この人は、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させません。また、まさに、事実〔の観点〕によって説かれているなら、〔自己の過誤を〕明言し、〔他者を〕見下しません。事実ならざる〔観点〕によって説かれているなら、『かくのごとくもまた、これは、真実ならず』『かくのごとくもまた、これは、事実ならず』と、それを弁明するために、熱く為します。それゆえに、このような形態の人は、『〔正しい〕時に説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実を説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『律を説く者』ともまた説かれます。

 

 比丘たちよ、このような形態の人の、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。

 

 諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……完全なる涅槃に到達します。諸々の迷妄〔の思い〕から生じる……略……完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、サーラ〔樹〕が、あるいは、ダヴァ〔樹〕が、あるいは、パンダナ〔樹〕が、三つの蔓草や蔦葛によって、上から覆い包まれているとします。そこで、人が、(すき)と籠(かご)を携えて、やってくるとします。彼は、その蔓草や蔦葛を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。もしくは、諸々の細根や繊維ほどのものをもまた〔引き上げます〕。彼は、その蔓草や蔦葛を、切れ切れに断ち切ります。切れ切れに断ち切って、切り裂きます。切り裂いて、片々と為します。片々と為して、熱風において干上がらせます。熱風において干上がらせて、火で焼きます。火で焼いて、(すす)と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、このように存するなら、それらの蔓草や蔦葛は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような形態の人の、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。

 

 諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……諸々の迷妄〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの善なるものの根元があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 斎戒の経

 

71. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルが、斎戒のその日、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカー・ミガーラマータルに、世尊は、こう言いました。「ヴィサーカーよ、さて、いったい、どのようなことから、あなたはやってくるのですか──昼のさなかに」と。「尊き方よ、今日、わたしは、斎戒に入ります」と。

 

 「ヴィサーカーよ、三つのものがあります。まさに、これらの斎戒です。どのようなものが、三つのものなのですか。牛飼いの斎戒であり、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)の斎戒であり、聖者の斎戒です。ヴィサーカーよ、では、どのように、牛飼いの斎戒は有るのですか。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、牛飼いが、夕刻時において、主人たちに牛たちを引き渡して、かくのごとく深慮します。『今日、まさに、牛たちは、そして、何某〔の地域〕において〔歩み〕、さらに、何某の地域において歩んだ。そして、何某〔の地域〕において〔諸々の水を飲み〕、さらに、何某の地域において諸々の水を飲んだ。明日、まさに、牛たちは、そして、何某〔の地域〕において〔歩み〕、さらに、何某の地域において歩むであろう。そして、何某の〔の地域〕において〔諸々の水を飲み〕、さらに、何某の地域において諸々の水を飲むであろう』と。ヴィサーカーよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の斎戒者は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今日、そして、この〔固形の食料〕を〔咀嚼し〕、さらに、この固形の食料を咀嚼した。そして、この〔軟らかい食料〕を〔食べ〕、さらに、この軟らかい食料を食べた。明日、まさに、わたしは、そして、この〔固形の食料〕を〔咀嚼し〕、さらに、この固形の食料を咀嚼するであろう。そして、この〔軟らかい食料〕を〔食べ〕、さらに、この軟らかい食料を食べるであろう』と。彼は、〔まさに〕その、強欲〔の思い〕を共具した心で、昼のあいだを過ごします。ヴィサーカーよ、このように、まさに、牛飼いの斎戒は有ります。ヴィサーカーよ、このように入った、まさに、牛飼いの斎戒は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ず、大いなる光輝と〔成ら〕ず、大いなる充満と〔成り〕ません。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)の斎戒は有るのですか。ヴィサーカーよ、ニガンタという名の沙門の類が存在します。彼らは、弟子に、このように受持させます。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、すなわち、東の方角において、百ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)の彼方にわたり、命あるものたちがいるなら、彼らにたいし、棒(武器)を置くのだ。すなわち、西の方角において、百ヨージャナの彼方にわたり、命あるものたちがいるなら、彼らにたいし、棒を置くのだ。すなわち、北の方角において、百ヨージャナの彼方にわたり、命あるものたちがいるなら、彼らにたいし、棒を置くのだ。すなわち、南の方角において、百ヨージャナの彼方にわたり、命あるものたちがいるなら、彼らにたいし、棒を置くのだ』と。かくのごとく、一部の命あるものたちへの憐憫〔の思い〕と慈しみ〔の思い〕を受持させ、一部の命あるものたちへの憐憫〔の思い〕なく慈しみ〔の思い〕なき〔あり方〕を受持させます。彼らは、斎戒のその日、弟子に、このように受持させます。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、一切の衣を置いて、このように説くのだ。「わたしにあらず──どこにあっても、誰にとっても、何においても。そして、わたしのものは、どこにあっても、どこにおいても、何ひとつも存在しない」』と。また、まさに、彼の母と父は、〔彼のことを〕『この者は、わたしたちの子だ』と知り、彼もまた、〔母と父のことを〕『これらの者たちは、わたしの母と父だ』と知ります(明確に認知する)。また、まさに、彼の子と妻は、〔彼のことを〕『この者は、わたしの扶養者だ』と知り、彼もまた、〔子と妻のことを〕『この者は、わたしの子と妻だ』と知ります。また、まさに、彼の奴隷や労夫や下僕たちは、〔彼のことを〕『この者は、わたしの主人だ』と知り、彼もまた、〔奴隷や労夫や下僕たちのことを〕『これらの者たちは、わたしの奴隷や労夫や下僕たちだ』と知ります。かくのごとく、その時点において、真理〔の言葉〕を受持させるべきところで、その時点において、虚偽の論を受持させます。彼の、この〔言葉〕は、虚偽の論のうちにあると、〔わたしは〕説きます。彼は、その夜が明けると、諸々の財物を、まさしく、与えられていないものを遍く受益します。彼の、この〔受益〕は、与えられていないものを取ることのうちにあると、〔わたしは〕説きます。ヴィサーカーよ、このように、まさに、ニガンタの斎戒は有ります。ヴィサーカーよ、このように入った、まさに、ニガンタの斎戒は、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成ら〕ず、大いなる光輝と〔成ら〕ず、大いなる充満と〔成り〕ません。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、聖者の斎戒は有るのですか。ヴィサーカーよ、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、如来を随念します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼が、如来を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、近しく汚れた頭には、対治によって、遍く清めることが有るようなものです。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた頭には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。かつまた、練粉を縁として、かつまた、塗料を縁として、かつまた、水を縁として、そして、人の、それに応じる努力を縁として、ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた頭には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、まさしく、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、如来を随念します。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼が、如来を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。ヴィサーカーよ、この者は、『聖なる弟子として、梵たる者(覚者)の斎戒に入り、梵たる者と共に共住する。そして、梵たる者を対象として、彼の心は清信し、歓喜が生起する。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄される』〔と〕説かれます。ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、法(教え)を随念します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。彼が、法(教え)を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、近しく汚れた身体には、対治によって、遍く清めることが有るようなものです。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた身体には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。かつまた、洗具を縁として、かつまた、塗粉を縁として、かつまた、水を縁として、そして、人の、それに応じる努力を縁として、ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた身体には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、まさしく、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、法(教え)を随念します。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。彼が、法(教え)を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。この者は、『聖なる弟子として、法(教え)の斎戒に入り、法(教え)と共に共住する。そして、法(教え)を対象として、彼の心は清信し、歓喜が生起する。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄される』〔と〕説かれます。ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、僧団を随念します。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。彼が、僧団を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、近しく汚れた衣には、対治によって、遍く清めることが有るようなものです。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた衣には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。かつまた、熱を縁として、かつまた、灰汁を縁として、かつまた、牛糞を縁として、かつまた、水を縁として、そして、人の、それに応じる努力を縁として、ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた衣には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、まさしく、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、僧団を随念します。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。彼が、僧団を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。この者は、『聖なる弟子として、僧団の斎戒に入り、僧団と共に共住する。そして、僧団を対象として、彼の心は清信し、歓喜が生起する。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄される』〔と〕説かれます。ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、自己の諸戒を随念します──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼が、戒を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、近しく汚れた鏡には、対治によって、遍く清めることが有るようなものです。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた鏡には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。かつまた、油を縁として、かつまた、灰を縁として、かつまた、刷毛を縁として、そして、人の、それに応じる努力を縁として、ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた鏡には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、まさしく、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、自己の諸戒を随念します──破断ならず……略……禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。彼が、戒を随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。この者は、『聖なる弟子として、戒の斎戒に入り、戒と共に共住する。そして、戒を対象として、彼の心は清信し、歓喜が生起する。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄される』〔と〕説かれます。ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、天神たちを随念します。『四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが存在する。耶摩天〔の神々〕たちが存在する。兜率天〔の神々〕たちが存在する。化楽天〔の神々〕たちが存在する。他化自在天〔の神々〕たちが存在する。梵身天〔の神々〕たちが存在する。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死滅し、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の戒が等しく見出される。そのような形態の所聞を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の所聞が等しく見出される。そのような形態の施捨を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、〔まさに〕わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の施捨が等しく見出される。そのような形態の智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される』と。彼が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、近しく汚れた金には、対治によって、遍く清めることが有るようなものです。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた金には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。かつまた、溶炉を縁として、かつまた、塩を縁として、かつまた、赤土を縁として、かつまた、吹筒と火箸を縁として、そして、人の、それに応じる努力を縁として、ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた金には、対治によって、遍く清めることが有ります。ヴィサーカーよ、まさしく、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、では、どのように、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有るのですか。ヴィサーカーよ、ここに、聖なる弟子は、天神たちを随念します。『四大王天〔の神々〕たちが存在する。三十三天〔の神々〕たちが……略……。それより上なる天〔の神々〕たちが存在する。そのような形態の信を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここ(人間界)から死滅し、そこ(天界)において再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の信が等しく見出される。そのような形態の戒を……略……所聞を……略……施捨を……略……智慧を具備した者たちとして、それらの天神たちは、ここから死滅し、そこにおいて再生したのであり、わたしにもまた、〔まさに〕そのような形態の智慧が等しく見出される』と。彼が、そして、自己の、さらに、それらの天神たちの、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、随念していると、心は清信し、歓喜が生起します。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄されます。この者は、『聖なる弟子として、天神たちの斎戒に入り、天神たちと共に共住する。天神たちを対象として、心は清信し、歓喜が生起する。すなわち、心の、諸々の付随する〔心の〕汚れは、それらは捨棄される』〔と〕説かれます。ヴィサーカーよ、このように、まさに、近しく汚れた心には、対治によって、遍く清めることが有ります。

 

 ヴィサーカーよ、それで、まさに、その、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『生あるかぎり、阿羅漢たちは、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者たちとして、棒を置いた者たちとして、刃を置いた者たちとして、恥を知る者たちとして、憐憫〔の思い〕を起こした者たちとして、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう。

 

 生あるかぎり、阿羅漢たちは、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者たちとして、与えられたものを取る者たちとして、与えられたものを待つ者たちとして、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう。

 

 生あるかぎり、阿羅漢たちは、梵行(禁欲清浄行)ならざることを捨棄して、梵行者たちとして、遠く離れて歩む者たちとして、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう。

 

 生あるかぎり、阿羅漢たちは、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者たちとして、真理を説く者たちとして、真理に従う者たちとして、実直の者たちとして、頼りになる者たちとして、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって、言葉を違えない者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう。

 

 生あるかぎり、阿羅漢たちは、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を捨棄して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を捨棄して、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう。

 

 生あるかぎり、阿羅漢たちは、一食の者たちとして、夜〔の食事〕を止めた者たちとして、非時に食事することから離れた者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう。

 

 生あるかぎり、阿羅漢たちは、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物と花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者たちとしてある。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物と花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者としてあるのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう。

 

 生あるかぎり、阿羅漢たちは、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちとして、低き臥所を営む──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、低き臥所を営むのだ──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習い、そして、斎戒は、わたしの入るところと成るであろう』と。

 

 ヴィサーカーよ、このように、まさに、聖者の斎戒は有ります。ヴィサーカーよ、このように入った、まさに、聖者の斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。

 

 どれだけの大いなる果と成り、どれだけの大いなる福利と〔成り〕、どれだけの大いなる光輝と〔成り〕、どれだけの大いなる充満と〔成るのですか〕。ヴィサーカーよ、それは、たとえば、また、或る者が、多大なる七つの宝ある(※)、これらの十六の大いなる地方の──それは、すなわち、この、アンガ〔国〕、マガダ〔国〕、カーシ〔国〕、コーサラ〔国〕、ヴァッジー〔国〕、マッラ〔国〕、チェーティ〔国〕、ヴァンガ〔国〕、クル〔国〕、パンチャーラ〔国〕、マッチャ〔国〕、スーラセーナ〔国〕、アッサカ〔国〕、アヴァンティ〔国〕、ガンダーラ〔国〕、カンボージャ〔国〕の──権力者にして君主たる王権を為すも、これは、八つの支分を具備した斎戒の、十六分の一にも値しません。それは、何を因とするのですか。ヴィサーカーよ、人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです。

 

※ テキストには rattaratanāya とあるが、PTS版により sattaratanāya と読む。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の五十年ですが、これは、四大王天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の五百年で、四大王天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の百年ですが、これは、三十三天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の千年で、三十三天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の二百年ですが、これは、耶摩天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の二千年で、耶摩天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、耶摩天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の四百年ですが、これは、兜率天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の四千年で、兜率天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、兜率天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の八百年ですが、これは、化楽天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の八千年で、化楽天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、化楽天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』〔と〕。

 

 ヴィサーカーよ、すなわち、人間の千六百年ですが、これは、他化自在天〔の神々〕たちの一つの夜と昼となります。その夜をもとに三十夜で、ひと月となります。その月をもとに十二月で、まる一年となります。そのまる一年をもとに天の一万六千年で、他化自在天〔の神々〕たちの寿命の量となります。ヴィサーカーよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の、あるいは、女が、あるいは、男が、八つの支分を具備した斎戒に入って、身体の破壊ののち、死後において、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生することです。ヴィサーカーよ、また、まさに、このことに関して、この〔言葉〕が語られました。『人間の王権は、天の安楽と比較して、貧しくあるからです』」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔第一に〕命あるものを殺さないように。そして、〔第二に〕与えられていないものを取らないように。〔第三に〕虚偽を語らないように。そして、〔第四に〕酒飲みとして存さないように。〔第五に〕梵行ならざる淫事〔の行為〕から離れるように。〔第六に〕夜には非時の食料を食べないように。

 

 〔第七に〕花飾を〔身に〕付けないように。そして、香を焚かないように。〔第八に〕じかに大地のうえに広げた臥床で臥すように。苦しみの終極に至る覚者によって明示された、まさに、この〔法〕を、〔賢者たちは〕『八つの支分ある斎戒』と言う。

 

 そして、月は、さらに、日は、両者ともに、善き見た目にして、およそ、〔大地を〕照らしながら〔宙空を〕巡り行くかぎり、また、彼らは、闇を除去する者たちとして、空中を赴き、方々に遍照しながら、天空において光り輝く。

 

 すなわち、この間に見出される財──真珠、宝珠、さらに、美しい瑠璃、金塊、さらに、あるいは、また、黄金、すなわち、『砂金』と説かれる金──

 

 それらは、八つの支分ある斎戒の、十六分の一にすら適わない──月の光も、そして、一切の星の群れも。まさに、それゆえに、そして、女も、さらに、男も、戒ある者は、八つの支分を具した、この斎戒に入って、安楽を生成する諸々の功徳を作り為して、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」と。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、異教の者と恐怖、ヴェーナーガ〔プラ〕、サラバ、ケーサムッタの者たち、さらに、また、サールハ、議論の基盤、異教の者と根元と斎戒があり、〔章となる〕」と。

 

(8)3. アーナンダの章

 

1. チャンナの経

 

72. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、チャンナ遍歴遊行者が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チャンナ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、あなたたちもまた、貪欲の捨棄を報知し、憤怒の捨棄を報知し、迷妄の捨棄を報知しますか」と。「友よ、わたしたちは、まさに、貪欲の捨棄を報知し、憤怒の捨棄を報知し、迷妄の捨棄を報知します」と。

 

 「友よ、また、あなたたちは、どのような危険(患・過患)を見て、貪欲の捨棄を報知し、憤怒の捨棄を報知し、迷妄の捨棄を報知するのですか」と。

 

 「友よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。友よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、身体による悪しき行ないを行なわず、言葉による悪しき行ないを行なわず、意による悪しき行ないを行ないません。友よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知しません。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知します。友よ、貪欲は、まさに、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものです。

 

 友よ、怒る者は、まさに、憤怒〔の思い〕に……略……。友よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。友よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、身体による悪しき行ないを行なわず、言葉による悪しき行ないを行なわず、意による悪しき行ないを行ないません。友よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知しません。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知します。友よ、迷妄は、まさに、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものです。友よ、わたしたちは、まさに、貪欲のうちに、この危険を見て、貪欲の捨棄を報知し、憤怒のうちに、この危険を見て、憤怒の捨棄を報知し、迷妄のうちに、この危険を見て、迷妄の捨棄を報知します」と。

 

 「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、まさに、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です──この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための。友よ、アーナンダよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. アージーヴァカの経

 

73. 或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、或るひとりの、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)の弟子である家長が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その、アージーヴァカの弟子である家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。

 

 「尊き方よ、アーナンダよ、どのような者たちの法(教え)が、見事に告げ知らされたのですか。どのような者たちが、世における善き実践者たちなのですか。どのような者たちが、世における善行者たちなのですか」と。「家長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。家長よ、それを、どう思いますか。彼らが、貪欲の捨棄のための法(教え)を説示し、憤怒の捨棄のための法(教え)を説示し、迷妄の捨棄のための法(教え)を説示するなら、彼らの法(教え)は、見事に告げ知らされましたか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、彼らが、貪欲の捨棄のための法(教え)を説示し、憤怒の捨棄のための法(教え)を説示し、迷妄の捨棄のための法(教え)を説示するなら、彼らの法(教え)は、見事に告げ知らされました。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「家長よ、それを、どう思いますか。彼らが、貪欲の捨棄のための実践者たちであり、憤怒の捨棄のための実践者たちであり、迷妄の捨棄のための実践者たちであるなら、彼らは、世における善き実践者たちですか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、彼らが、貪欲の捨棄のための実践者たちであり、憤怒の捨棄のための実践者たちであり、迷妄の捨棄のための実践者たちであるなら、彼らは、世における善き実践者たちです。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「家長よ、それを、どう思いますか。彼らの、貪欲が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、彼らの、憤怒が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、彼らの、迷妄が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼らは、世における善行者たちですか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、彼らの、貪欲が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、彼らの、憤怒が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、彼らの、迷妄が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼らは、世における善行者たちです。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります」と。

 

 「家長よ、かくのごとく、まさに、まさしく、あなたによって、このことが説き明かされました。『尊き方よ、彼らが、貪欲の捨棄のための法(教え)を説示し、憤怒の捨棄のための法(教え)を説示し、迷妄の捨棄のための法(教え)を説示するなら、彼らの法(教え)は、見事に告げ知らされました』と。まさしく、あなたによって、このことが説き明かされました。『尊き方よ、彼らが、貪欲の捨棄のための実践者たちであり、憤怒の捨棄のための実践者たちであり、迷妄の捨棄のための実践者たちであるなら、彼らは、世における善き実践者たちです』と。まさしく、あなたによって、このことが説き明かされました。『尊き方よ、彼らの、貪欲が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、彼らの、憤怒が〔すでに〕捨棄され……略……彼らの、迷妄が〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあるなら、彼らは、世における善行者たちです』」と。

 

 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。まさしく、そして、まさに、自らの法(教え)を賞揚することにも成らず、さらに、他者の法(教え)を指弾することにも〔成ら〕ないとは。まさしく、〔認識の〕場所において、法(教え)の説示があり、そして、義(意味)が説かれ、さらに、自己が誘導されることがなかったとは。尊き方よ、アーナンダよ、あなたたちは、貪欲の捨棄のための法(教え)を説示し、憤怒の……略……迷妄の捨棄のための法(教え)を説示します。尊き方よ、アーナンダよ、あなたたちの法(教え)は、見事に告げ知らされました。尊き方よ、アーナンダよ、あなたたちは、貪欲の捨棄のための実践者たちであり、憤怒の……略……迷妄の捨棄のための実践者たちです。尊き方よ、あなたたちは、世における善き実践者たちです。尊き方よ、アーナンダよ、あなたたちの、貪欲は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、あなたたちの、憤怒は〔すでに〕捨棄され……略……あなたたちの、迷妄は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。あなたたちは、世における善行者たちです。

 

 尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、尊貴なるアーナンダによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、アーナンダよ、〔まさに〕この、わたしは、彼を、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊貴なるアーナンダは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 釈迦〔族〕のマハー・ナーマの経

 

74. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、長夜にわたり、わたしは、このように、世尊によって説示された法(教え)を了知しています。『〔心が〕定められた者には、知恵がある。〔心が〕定められていない者には、〔そのようなことは〕ない』と。尊き方よ、いったい、まさに、禅定(三昧)が前にあり、後に知恵()があるのですか、もしくは、知恵が前にあり、後に禅定があるのですか」と。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「世尊は、まさに、病からの出起者である──病から出起したばかりの者である。しかしながら、この者は、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、極めて深遠なる問いを尋ねる。それなら、さあ、わたしは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマを一方に引き離して、法(教え)を説示するのだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマの腕を掴んで、一方に引き離して、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、こう言いました。「マハー・ナーマよ、まさに、〔いまだ〕学びある戒(有学戒)もまた、世尊によって説かれ、〔もはや〕学ぶことなき戒(無学戒)もまた、世尊によって説かれました。〔いまだ〕学びある禅定(定・三昧)もまた、世尊によって説かれ、〔もはや〕学ぶことなき禅定もまた、世尊によって説かれました。〔いまだ〕学びある智慧(慧・般若)もまた、世尊によって説かれ、〔もはや〕学ぶことなき智慧もまた、世尊によって説かれました。マハー・ナーマよ、では、どのようなものが、〔いまだ〕学びある戒なのですか。マハー・ナーマよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。マハー・ナーマよ、これは、〔いまだ〕学びある戒と説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、では、どのようなものが、〔いまだ〕学びある禅定なのですか。マハー・ナーマよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、これは、〔いまだ〕学びある禅定と説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、では、どのようなものが、〔いまだ〕学びある智慧なのですか。マハー・ナーマよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。マハー・ナーマよ、これは、〔いまだ〕学びある智慧と説かれます。

 

 マハー・ナーマよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、戒を成就した者となり、このように、禅定を成就した者となり、このように、智慧を成就した者となり、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。マハー・ナーマよ、このように、まさに、〔いまだ〕学びある戒もまた、世尊によって説かれ、〔もはや〕学ぶことなき戒もまた、世尊によって説かれました。〔いまだ〕学びある禅定もまた、世尊によって説かれ、〔もはや〕学ぶことなき禅定もまた、世尊によって説かれました。〔いまだ〕学びある智慧もまた、世尊によって説かれ、〔もはや〕学ぶことなき智慧もまた、世尊によって説かれました」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ニガンタの経

 

75. 或る時のことです。尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。そこで、まさに、かつまた、リッチャヴィ〔族〕のアバヤが、かつまた、リッチャヴィ〔族〕のパンディタ・クマーラカが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のアバヤは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と。彼は、諸々の古い行為()の、苦行による終息の状態を報知し、諸々の新しい行為の、作用なきによる橋の殲滅(悪習の打破)を〔報知します〕。『かくのごとく、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう。このように、この、現に見られる衰尽による清浄の、超越〔の境地〕が有る』〔と〕。尊き方よ、ここに、世尊は、どのようなことを言いますか」と。

 

 「アバヤよ、三つのものがあります。まさに、これらの衰尽による清浄が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされました──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。どのようなものが、三つのものなのですか。アバヤよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。

 

 アバヤよ、それで、まさに、このように、戒を成就した、その比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。

 

 アバヤよ、それで、まさに、このように、禅定を成就した、その比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。アバヤよ、まさに、これらの三つの衰尽による清浄が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされました──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために」と。

 

 このように説かれたとき、リッチャヴィ〔族〕のパンディタ・クマーラカは、リッチャヴィ〔族〕のアバヤに、こう言いました。「友よ、アバヤよ、また、どうして、あなたは、尊者アーナンダの見事に語られた〔言葉〕に、『見事に語られた〔言葉〕である』と、大いに随喜しないのですか」と。「友よ、パンディタ・クマーラカよ、どうして、わたしが、尊者アーナンダの見事に語られた〔言葉〕に、『見事に語られた〔言葉〕である』と、大いに随喜しないというのでしょう。その者が、尊者アーナンダの見事に語られた〔言葉〕に、『見事に語られた〔言葉〕である』と、大いに随喜しないなら、彼の頭もまた打ち砕かれるでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 固着の経

 

76. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、アーナンダよ、彼らは、あなたたちによって、三つの状況において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。覚者にたいする確固たる清信において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする確固たる清信において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。僧団にたいする確固たる清信において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組にして、八者の人士たる人であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑である』と。

 

 アーナンダよ、四つの大いなる元素である、地の界域、水の界域、火の界域、風の界域には、他化が存在するでしょう。まさしく、しかし、覚者にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子に、他化は存在しません。そこに、この他化は〔見出されません〕。アーナンダよ、彼が、まさに、覚者にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子が、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、あるいは、餓鬼の境域に、再生するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、四つの大いなる元素である、地の界域、水の界域、火の界域、風の界域には、他化が存在するでしょう。まさしく、しかし、法(教え)にたいする……略……僧団にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子に、他化は存在しません。そこに、この他化は〔見出されません〕。アーナンダよ、彼が、まさに、僧団にたいする確固たる清信を具備した聖なる弟子が、あるいは、地獄に、あるいは、畜生の胎に、あるいは、餓鬼の境域に、再生するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、それらの者たちを、〔あなたたちが〕慈しむべきであるなら、さらに、それらの者たちが、聞くべきことを思い考えるなら、あるいは、朋友たちであれ、あるいは、僚友たちであれ、あるいは、親族たちであれ、あるいは、血縁たちであれ、アーナンダよ、彼らは、あなたたちによって、これらの三つの状況において、受持させられるべきであり、固着させられるべきであり、確立させられるべきです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の生存の経

 

77. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『生存()』『生存』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、生存が有るのですか」と。

 

 「アーナンダよ、では、欲望の界域(欲界)の報いとなる行為が有ることなくあったなら、さて、いったい、まさに、欲望の生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、かくのごとく、まさに、行為は、田畑です。識知〔作用〕()は、種子です。渇愛()は、潤いです。無明の妨害と渇愛の束縛ある有情たちに、下劣なる界域において、識知〔作用〕が確立したなら、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります。

 

 アーナンダよ、では、形態の界域(色界)の報いとなる行為が有ることなくあったなら、さて、いったい、まさに、形態の生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、かくのごとく、まさに、行為は、田畑です。識知〔作用〕は、種子です。渇愛は、潤いです。無明の妨害と渇愛の束縛ある有情たちに、中等なる界域において、識知〔作用〕が確立したなら、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります。

 

 アーナンダよ、では、形態なき界域(無色界)の報いとなる行為が有ることなくあったなら、さて、いったい、まさに、形態なき生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、かくのごとく、まさに、行為は、田畑です。識知〔作用〕は、種子です。渇愛は、潤いです。無明の妨害と渇愛の束縛ある有情たちに、精妙なる界域において、識知〔作用〕が確立したなら、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります。アーナンダよ、このように、まさに、生存が有ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の生存の経

 

78. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。……略……尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『生存』『生存』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、生存が有るのですか」と。

 

 「アーナンダよ、では、欲望の界域の報いとなる行為が有ることなくあったなら、さて、いったい、まさに、欲望の生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、かくのごとく、まさに、行為は、田畑です。識知〔作用〕は、種子です。渇愛は、潤いです。無明の妨害と渇愛の束縛ある有情たちに、下劣なる界域において、思欲()が確立し、切望〔の思い〕が確立したなら、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります。

 

 アーナンダよ、では、形態の界域の報いとなる行為が有ることなくあったなら、さて、いったい、まさに、形態の生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、かくのごとく、まさに、行為は、田畑です。識知〔作用〕は、種子です。渇愛は、潤いです。無明の妨害と渇愛の束縛ある有情たちに、中等なる界域において、思欲が確立し、切望〔の思い〕が確立したなら、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります。

 

 アーナンダよ、では、形態なき界域の報いとなる行為が有ることなくあったなら、さて、いったい、まさに、形態なき生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「アーナンダよ、かくのごとく、まさに、行為は、田畑です。識知〔作用〕は、種子です。渇愛は、潤いです。無明の妨害と渇愛の束縛ある有情たちに、精妙なる界域において、思欲が確立し、切望〔の思い〕が確立したなら、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります。アーナンダよ、このように、まさに、生存が有ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 戒や掟の経

 

79. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダに、世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、いったい、まさに、戒や掟は、生き方は、梵行は、奉仕を真髄とするものは、〔その〕全てが、果を有するものとなりますか」と。「尊き方よ、まさに、ここにおいて、一定して〔答えることはでき〕ません」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、区分してみなさい」と。

 

 「尊き方よ、まさに、その、戒や掟に、生き方に、梵行に、奉仕を真髄とするものに、彼が慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退するなら、このような形態の、戒や掟は、生き方は、梵行は、奉仕を真髄とするものは、〔それは〕果なきものとなります。尊き方よ、しかしながら、まさに、その、戒や掟に、生き方に、梵行に、奉仕を真髄とするものに、彼が慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大するなら、このような形態の、戒や掟は、生き方は、梵行は、奉仕を真髄とするものは、〔それは〕果を有するものとなります」と。尊者アーナンダは、この〔言葉〕を言いました。教師は、正しくお認めに成りました。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダが立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、アーナンダは、〔いまだ〕学びある者です。また、しかしながら、智慧をもってして、彼に等しく同等の者は、得るに易き形態の者ではありません」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 香りの類の経

 

80. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、三つのものがあります。これらの香りの類です。それらのばあい、風下だけに、香りが赴き、風上には〔赴き〕ません。どのようなものが、三つのものなのですか。根の香りであり、芯の香りであり、花の香りです。尊き方よ、まさに、これらの三つの香りの類があります。それらのばあい、風下だけに、香りが赴き、風上には〔赴き〕ません。尊き方よ、いったい、まさに、存在しますか。何であれ、香りの類で、そのばあい、風下にもまた、香りが赴き、風上にもまた、香りが赴き、風下と風上にもまた、香りが赴く、〔そのようなものが〕」と。

 

 「アーナンダよ、存在します。何であれ、香りの類で、そのばあい、風下にもまた、香りが赴き、風上にもまた、香りが赴き、風下と風上にもまた、香りが赴く、〔そのようなものが〕」と。「尊き方よ、また、そして、どのようなものが、香りの類であり、そのばあい、風下にもまた、香りが赴き、風上にもまた、香りが赴き、風下と風上にもまた、香りが赴くのですか」と。

 

 「アーナンダよ、ここに、すなわち、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、男が、覚者を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、法(教え)を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、僧団を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有り、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、物惜の垢が離れ去った心で家に居住します──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。

 

 沙門や婆羅門たちは、方々において、彼の栄誉を語ります。『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、男が、覚者を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、法(教え)を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、僧団を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有り、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、物惜の垢が離れ去った心で家に居住する──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として』と。

 

 天神たちもまた、彼の栄誉を語ります。『何某という名の、あるいは、村において、あるいは、町において、あるいは、女が、あるいは、男が、覚者を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、法(教え)を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、僧団を起依所に赴いた者として〔世に〕有り、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者として〔世に〕有り、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有り、物惜の垢が離れ去った心で家に居住する──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として』と。アーナンダよ、これが、まさに、その香りの類であり、そのばあい、風下にもまた、香りが赴き、風上にもまた、香りが赴き、風下と風上にもまた、香りが赴きます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「花の香りは、風に逆らって行くことがない。栴檀〔の香り〕は、あるいは、タガラ(伽羅)やマッリカー(ジャスミン)〔の香り〕は、〔風に逆らって行くことが〕ない。しかしながら、正しくある者たちの香りは、風に逆らって行く。正なる人士は、全ての方角に香り行く」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 小なるものの経

 

81. そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、シキン世尊の、アビブーという名の弟子は、梵の世に立ち、千の世の界域を、声によって識知させました』と。尊き方よ、また、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、どれだけのものを、声によって識知させることができるのですか」と。「アーナンダよ、彼は、弟子です。如来たちは、量りようもありません」と。

 

 再度また、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、シキン世尊の、アビブーという名の弟子は、梵の世に立ち、千の世の界域を、声によって識知させました』と。尊き方よ、また、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、どれだけのものを、声によって識知させることができるのですか」と。「アーナンダよ、彼は、弟子です。如来たちは、量りようもありません」と。

 

 三度また、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、このことを世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『アーナンダよ、シキン世尊の、アビブーという名の弟子は、梵の世に立ち、千の世の界域を、声によって識知させました』と。尊き方よ、また、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、どれだけのものを、声によって識知させることができるのですか」と。「アーナンダよ、あなたは、聞いたことがありますか。千の小なる世の界域のことを」と。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が語るなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「アーナンダよ、すなわち、月と日が、〔天空を〕行き渡り、方々に遍照しながら光り輝くかぎり、そのかぎりが、千種の世となります。その千種の世において、千の月があり、千の日があり、千の山の王たるシネール(須弥山)があり、千のジャンブ・ディーパ(南贍部洲・閻浮提)があり、千のアパラ・ゴーヤーナ(西牛貨洲)があり、千のウッタラ・クル(北倶廬洲)があり、千のプッバ・ヴィデーハ(東勝身洲)があり、四つの千の大海があり、四つの千の大王があり、千の四大王〔天〕があり、千の三十三〔天〕があり、千の耶摩〔天〕があり、千の兜率〔天〕があり、千の化楽〔天〕があり、千の他化自在〔天〕があり、千の梵の世があります。アーナンダよ、これは、千の小なる世の界域と説かれます。

 

 アーナンダよ、すなわち、千の小なる世の界域の、そのかぎりの、千倍の世があります。アーナンダよ、これは、二つの千の中なる世の界域と説かれます。

 

 アーナンダよ、すなわち、二つの千の中なる世の界域の、そのかぎりの、千倍の世があります。アーナンダよ、これは、三つの千の大いなる千の世の界域と説かれます。

 

 アーナンダよ、如来は、望んでいるなら、三つの千の大いなる千の世の界域を、声によって識知させるでしょう。また、すなわち、〔彼が〕望むかぎりを」と。

 

 「尊き方よ、また、すなわち、どのように、世尊は、望んでいるなら、三つの千の大いなる千の世の界域を、声によって識知させるのでしょうか。また、すなわち、〔彼が〕望むかぎりを」と。「アーナンダよ、ここに、如来は、三つの千の大いなる千の世の界域を、光で充満します。すなわち、それらの有情たちが、その光明を表象するとき、そこで、如来は、轟音を響かせ、音声を聞かせます。アーナンダよ、このように、まさに、如来は、望んでいるなら、三つの千の大いなる千の世の界域を、声によって識知させるでしょう。また、すなわち、〔彼が〕望むかぎりを」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、尊者ウダーインに、こう言いました。「まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしの教師は、このように偉大なる神通ある方であり、このように偉大なる威力ある方です」と。このように説かれたとき、尊者ウダーインは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、ここにおいて、あなたに、何があるというのでしょう。すなわち、あなたの教師が、このように偉大なる神通ある方であり、このように偉大なる威力ある方であるとして」と。このように説かれたとき、世尊は、尊者ウダーインに、こう言いました。「ウダーインよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。ウダーインよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。ウダーインよ、それで、もし、アーナンダが、貪欲を離れずに、命を終えるなら、その心の清信によって、七回、諸天において、天の王権を為すでしょうし、七回、まさしく、このジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)において、大いなる王権を為すでしょう。ウダーインよ、しかしながら、また、アーナンダは、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達するでしょう」と。〔以上が〕第十となる。

 

 アーナンダの章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「チャンナ、アージーヴァカ、釈迦〔族〕、そして、ニガンタ、固着、二つの生存、戒や掟、そして、香りの類、小なるものがあり、〔章となる〕」と。

 

(9)4. 沙門の章

 

1. 沙門の経

 

82. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、沙門にとっての、沙門たることであり、沙門の為すべきことです。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びを受持することであり、卓越の心(瞑想)の学びを受持することであり、卓越の智慧の学びを受持することです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、沙門にとっての、沙門たることがあり、沙門の為すべきことがあります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『卓越の戒の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕(意欲)は、強きものと成るのだ。卓越の心の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ。卓越の智慧の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 驢馬の経

 

83. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、驢馬が、牛たちの群れに、背後から背後へと付き従う者として有るようなものです──『わたしもまた、牛である』『わたしもまた、牛である』と。彼には、それは、たとえば、また、牛たちのような、そのような色が有ることはなく、それは、たとえば、また、牛たちのような、そのような声が有ることはなく、それは、たとえば、また、牛たちのような、そのような足が有ることはなく、その〔驢馬〕は、まさしく、牛たちの群れに、背後から背後へと付き従う者として有ります──『わたしもまた、牛である』『わたしもまた、牛である』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、ここに、一部の比丘は、比丘の僧団に、背後から背後へと付き従う者として〔世に〕有ります──『わたしもまた、比丘である』『わたしもまた、比丘である』と。彼には、それは、たとえば、また、他の比丘たちのような、卓越の戒の学びを受持することにたいする、そのような欲〔の思い〕が有ることはなく、それは、たとえば、また、他の比丘たちのような、卓越の心の学びを受持することにたいする、そのような欲〔の思い〕が有ることはなく、それは、たとえば、また、他の比丘たちのような、卓越の智慧の学びを受持することにたいする、そのような欲〔の思い〕が有ることはなく、彼は、まさしく、比丘の僧団に、背後から背後へと付き従う者として〔世に〕有ります──『わたしもまた、比丘である』『わたしもまた、比丘である』と。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『卓越の戒の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ。卓越の心の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ。卓越の智慧の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 田畑の経

 

84. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、耕作者の家長にとって前に為すべきことです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、耕作者の家長が、まさしく、前もって、田畑を善く耕され善くならされたものに作り為します。まさしく、前もって、田畑を善く耕され善くならされたものに作り為して、〔正しい〕時に、諸々の種を据え置きます。〔正しい〕時に、諸々の種を据え置いて、〔正しい〕時分に、水を入れもまたし出しもまたします。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、耕作者の家長にとって前に為すべきことがあります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、三つのものがあります。これらの、比丘にとって前に為すべきことです。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びを受持することであり、卓越の心の学びを受持することであり、卓越の智慧の学びを受持することです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、比丘にとって前に為すべきことがあります。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『卓越の戒の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ。卓越の心の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ。卓越の智慧の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ヴァッジー族の経

 

85. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、或るひとりのヴァッジー族の若い比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、そのヴァッジー族の若い比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この、百五十を優に超える学びの境処(戒律)は、半月ごとに誦説〔の時〕がやってきます。尊き方よ、わたしは、ここにおいて、学ぶことができません」と。「比丘よ、また、あなたは、三つの学びにおいて学ぶことができますか──卓越の戒の学びにおいて、卓越の心(瞑想)の学びにおいて、卓越の智慧の学びにおいて」と。「尊き方よ、わたしは、三つの学びにおいて学ぶことができます──卓越の戒の学びにおいて、卓越の心の学びにおいて、卓越の智慧の学びにおいて」と。「比丘よ、それゆえに、ここに、あなたは、三つの学びにおいて学ぶのです──卓越の戒の学びにおいて、卓越の心の学びにおいて、卓越の智慧の学びにおいて。

 

 比丘よ、すなわち、まさに、あなたが、卓越の戒をもまた学び、卓越の心をもまた学び、卓越の智慧をもまた学ぶであろうことから、比丘よ、〔まさに〕その、あなたが、卓越の戒をもまた学び、卓越の心をもまた学び、卓越の智慧をもまた学んでいると、貪欲は捨棄され、憤怒は捨棄され、迷妄は捨棄されるでしょう。〔まさに〕その、あなたは、貪欲の捨棄あることから、憤怒の捨棄あることから、迷妄の捨棄あることから、それが善ならざるものであるなら、それを為さず、それが悪しきものであるなら、それに慣れ親しまないでしょう」と。

 

 そこで、まさに、その比丘は、他時にあって、卓越の戒をもまた学び、卓越の心をもまた学び、卓越の智慧をもまた学びました。彼が、卓越の戒をもまた学び、卓越の心をもまた学び、卓越の智慧をもまた学んでいると、貪欲は捨棄され、憤怒は捨棄され、迷妄は捨棄されました。彼は、貪欲の捨棄あることから、憤怒の捨棄あることから、迷妄の捨棄あることから、それが善ならざるものであるなら、それを為さず、それが悪しきものであるなら、それに慣れ親しまなかった、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. 〔いまだ〕学びある者の経

 

86. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、『〔いまだ〕学びある者』『〔いまだ〕学びある者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、〔いまだ〕学びある者と成るのですか」と。「比丘よ、『〔彼は〕学ぶ』ということで、まさに、それゆえに、『〔いまだ〕学びある者』と説かれます。では、何を学ぶのですか。卓越の戒もまた学び、卓越の心をもまた学び、卓越の智慧をもまた学びます。比丘よ、『〔彼は〕学ぶ』ということで、まさに、それゆえに、『〔いまだ〕学びある者』と説かれます」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「〔いまだ〕学びつつある学びある者に、真っすぐな道に従い行く者に、滅尽〔の境地〕において、第一の知恵(預流道)が〔生起し〕、そののち、無間の了知(預流果)が〔生起する〕。

 

 そののち、了知による解脱者に、如(にょ)なる者に、まさに、知恵(阿羅漢果)が有る。『わたしには、不動なる解脱がある』と、〔迷いの〕生存に束縛するものの滅尽あることから」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第一の学びの経

 

87. 「比丘たちよ、この、百五十を優に超える学びの境処は、半月ごとに誦説〔の時〕がやってきます。そこにおいて、自己〔の利益〕を欲する良家の子息たちは学びます。比丘たちよ、三つのものがあります。これらの学びです。そこにおいて、この一切が、結集に赴きます。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びであり、卓越の心の学びであり、卓越の智慧の学びです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの学びがあります。そこにおいて、この一切が、結集に赴きます。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定においては限定して為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします(極めて軽罪の戒律を犯すこともある)。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです(軽罪違犯の可能性を否定しなかった)。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定においては限定して為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧における円満成就を為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、部分を為す者は部分を達成し、円満成就を為す者は円満成就を〔達成します〕。比丘たちよ、わたしは、諸々の学びの境処を、まさしく、かくのごとく、徒労なきものと説きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第二の学びの経

 

88. 「比丘たちよ、この、百五十を優に超える学びの境処は、半月ごとに誦説〔の時〕がやってきます。そこにおいて、自己〔の利益〕を欲する良家の子息たちは学びます。比丘たちよ、三つのものがあります。これらの学びです。そこにおいて、この一切が、結集に赴きます。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びであり、卓越の心の学びであり、卓越の智慧の学びです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの学びがあります。そこにおいて、この一切が、結集に赴きます。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定においては限定して為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、最高で七回〔の再生〕ある者と成ります。最高で七回、そして、天〔の世〕において、さらに、人間〔の世〕において、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為します。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者と成ります。あるいは、二つの、あるいは、三つの、〔善き〕家を、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為します。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、一つの種ある者と成ります。まさしく、一つの人間の生存に発現して、苦しみの終極を為します。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります(※)。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。

 

※ テキストには uddhaṃsoto akaniṭṭhagāmī とあるが、PTS版により uddhaṃsoto hoti akaniṭṭhagāmī と読む。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧における円満成就を為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、(※)小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、(※)そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

 

※ 「小なるうえにも」から「そこにおいて、」までの欠落を、PTS版により補う。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、部分を為す者は部分を達成し、円満成就を為す者は円満成就を〔達成します〕。比丘たちよ、わたしは、諸々の学びの境処を、まさしく、かくのごとく、徒労なきものと説きます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第三の学びの経

 

89. 「比丘たちよ、この、百五十を優に超える学びの境処は、半月ごとに誦説〔の時〕がやってきます。そこにおいて、自己〔の利益〕を欲する良家の子息たちは学びます。比丘たちよ、三つのものがあります。これらの学びです。そこにおいて、この一切が、結集に赴きます。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びであり、卓越の心の学びであり、卓越の智慧の学びです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの学びがあります。そこにおいて、この一切が、結集に赴きます。

 

 比丘たちよ、ここに、比丘が、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧における円満成就を為す者として、〔世に〕有ります。彼は、すなわち、それらが、小なるうえにも小なる学びの境処であるなら、それらを犯しもまたし出起もまたします。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、ここにおいて、〔それは〕有りえないことと、わたしによって説かれなかったからです。しかしながら、すなわち、まさに、それらが、初等の梵行たるものであり、梵行として適切なる学びの境処であるなら、そこにおいて、そして、常恒の戒ある者として有り、さらに、安立した戒ある者として〔有り〕、〔それらを〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕なく完全なる涅槃に到達する者と成ります。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、形成〔作用〕を有し完全なる涅槃に到達する者と成ります。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、一つの種ある者と成ります。まさしく、一つの人間の生存に発現して、苦しみの終極を為します。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者と成ります。あるいは、二つの、あるいは、三つの、〔善き〕家を、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為します。また、あるいは、それが、征服なく理解なくあるなら、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、最高で七回〔の再生〕ある者と成ります。最高で七回、そして、天〔の世〕において、さらに、人間〔の世〕において、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為します。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、部分を為す者は部分を達成し、円満成就を為す者は円満成就を〔達成します〕。比丘たちよ、わたしは、諸々の学びの境処を、まさしく、かくのごとく、徒労なきものと説きます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の三つの学びの経

 

90. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの学びです。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びであり、卓越の心の学びであり、卓越の智慧の学びです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、卓越の戒の学びなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、これは、卓越の戒の学びと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、卓越の心の学びなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、卓越の心の学びと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、卓越の智慧の学びなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、これは、卓越の智慧の学びと説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの学びがあります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の三つの学びの経

 

91. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの学びです。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びであり、卓越の心の学びであり、卓越の智慧の学びです。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、卓越の戒の学びなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、これは、卓越の戒の学びと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、卓越の心の学びなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、卓越の心の学びと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、卓越の智慧の学びなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、卓越の智慧の学びと説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの学びがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「卓越の戒に、そして、卓越の心(瞑想)に、さらに、卓越の智慧に──〔これらの三つの学びに〕精進ある者となり、強靭で〔道心〕堅固の瞑想者として、〔感官の〕機能が守られた気づきある者として、〔世を〕歩むがよい。

 

 すなわち、前にあるように、そのように、後に〔あるであろう〕。すなわち、後にあるように、そのように、前に〔あるであろう〕。すなわち、下にあるように、そのように、上に〔あるであろう〕。すなわち、上にあるように、そのように、下に〔あるであろう〕。

 

 すなわち、昼にあるように、そのように、夜に〔あるであろう〕。すなわち、夜にあるように、そのように、昼に〔あるであろう〕。一切の方角を征服して、無量の禅定によって──

 

 彼のことを、〔賢者たちは〕言う──学びある者と、〔実践の〕道ある者と、さらに、清浄の歩みある者と。彼のことを、〔賢者たちは〕言う──世における正覚者と、慧者にして〔実践の〕道の終極に至る者と。

 

 識知〔作用〕の止滅によって、渇愛の滅尽において解脱した者には、灯火に涅槃(火が消えること)があるように、〔彼の〕心には、解脱が有る」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. サンカヴァーの経

 

92. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サンカヴァーという名のコーサラ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、サンカヴァーに住んでおられます。また、まさに、その時点にあって、カッサパ・ゴッタという名の比丘が、サンカヴァーの居住者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。そこで、まさに、カッサパ・ゴッタ比丘には、世尊が、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させているとき、まさしく、否認〔の思い〕が有り、不興〔の思い〕が有りました。「まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門」と。そこで、まさに、世尊は、サンカヴァーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、ラージャガハのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ラージャガハのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ラージャガハに住んでおられます。

 

 そこで、まさに、カッサパ・ゴッタ比丘には、世尊が立ち去ったすぐあと、まさしく、悔恨〔の思い〕が有り、後悔〔の思い〕が有りました。「まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしには、世尊が、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させているとき、まさしく、否認〔の思い〕が有り、不興〔の思い〕が有った。『まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。それなら、さあ、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、世尊の現前において、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕説示するのだ」と。そこで、まさに、カッサパ・ゴッタ比丘は、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、ラージャガハのあるところに、そこへと進み行きました。順次に、ラージャガハのあるところに、ギッジャクータ山のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カッサパ・ゴッタ比丘は、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、これは、或る時のことです。世尊は、サンカヴァーに住んでおられます。コーサラ〔国〕には、サンカヴァーという名の町があります。尊き方よ、そこで、世尊は、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。〔まさに〕その、わたしには、世尊が、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させているとき、まさしく、否認〔の思い〕が有り、不興〔の思い〕が有りました。『まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。そこで、まさに、世尊は、サンカヴァーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、ラージャガハのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、世尊が立ち去ったすぐあと、まさしく、悔恨〔の思い〕が有り、後悔〔の思い〕が有りました。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしには、世尊が、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させているとき、まさしく、否認〔の思い〕が有り、不興〔の思い〕が有った。「まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門」と。それなら、さあ、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、世尊の現前において、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕説示するのだ』と。尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしには、世尊が、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させているとき、まさしく、否認〔の思い〕が有り、不興〔の思い〕が有りました。『まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。

 

 「カッサパよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたには、わたしが、比丘たちに、学びの境処に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させているとき、まさしく、否認〔の思い〕が有り、不興〔の思い〕が有りました。『まさしく、あまりに謹厳なるは、この沙門』と。カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。カッサパよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します。

 

 カッサパよ、もし、また、長老の比丘が、学びを欲する者ではなく、学びを受持することの栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るとします。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちでないなら、そして、彼らに、学びを受持させません。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を、事実として、真実として、〔正しい〕時に話しません。カッサパよ、わたしは、このような形態の長老の比丘の栄誉を話しません。それは、何を因とするのですか。『まさに、教師は、彼の栄誉を話す』と、他の比丘たちが、彼に親近するからです。彼らが、彼に親近するなら、彼らは、彼に随従する見解を惹起するでしょう。彼らが、彼に随従する見解を惹起するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するでしょう。ということで、カッサパよ、それゆえに、わたしは、このような形態の長老の比丘の栄誉を話しません。

 

 カッサパよ、もし、また、中堅の比丘が、学びを欲する者ではなく、学びを受持することの栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るとします。……略……。カッサパよ、もし、また、新参の比丘が、学びを欲する者ではなく、学びを受持することの栄誉を説く者ではなく、〔世に〕有るとします。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちでないなら、そして、彼らに、学びを受持させません。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を、事実として、真実として、〔正しい〕時に話しません。カッサパよ、わたしは、このような形態の新参の比丘の栄誉を話しません。それは、何を因とするのですか。『まさに、教師は、彼の栄誉を話す』と、他の比丘たちが、彼に親近するからです。彼らが、彼に親近するなら、彼らは、彼に随従する見解を惹起するでしょう。彼らが、彼に随従する見解を惹起するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するでしょう。ということで、カッサパよ、それゆえに、わたしは、このような形態の新参の比丘の栄誉を話しません。

 

 カッサパよ、もし、また、長老の比丘が、学びを欲する者として、学びを受持することの栄誉を説く者として、〔世に〕有るとします。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちでないなら、そして、彼らに学びを受持させます。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を、事実として、真実として、〔正しい〕時に話します。カッサパよ、わたしは、このような形態の長老の比丘の栄誉を話します。それは、何を因とするのですか。『まさに、教師は、彼の栄誉を話す』と、他の比丘たちが、彼に親近するからです。彼らが、彼に親近するなら、彼らは、彼に随従する見解を惹起するでしょう。彼らが、彼に随従する見解を惹起するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ということで、カッサパよ、それゆえに、わたしは、このような形態の長老の比丘の栄誉を話します。

 

 カッサパよ、もし、また、中堅の比丘が、学びを欲する者として、学びを受持することの栄誉を説く者として、〔世に〕有るとします。……略……。カッサパよ、もし、また、新参の比丘が、学びを欲する者として、学びを受持することの栄誉を説く者として、〔世に〕有るとします。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちでないなら、そして、彼らに学びを受持させます。かつまた、すなわち、他の比丘たちが、学びを欲する者たちであるなら、そして、彼らの栄誉を、事実として、真実として、〔正しい〕時に話します。カッサパよ、わたしは、このような形態の新参の比丘の栄誉を話します。それは、何を因とするのですか。『まさに、教師は、彼の栄誉を話す』と、他の比丘たちが、彼に親近するからです。彼らが、彼に親近するなら、彼らは、彼に随従する見解を惹起するでしょう。彼らが、彼に随従する見解を惹起するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ということで、カッサパよ、それゆえに、わたしは、このような形態の新参の比丘の栄誉を話します」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 沙門の章が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「沙門、驢馬、田畑、そして、ヴァッジー族の者、〔いまだ〕学びある者、そして、三つの学ぶことが説かれ、二つの学びがあり、そして、サンカヴァーとともに、〔章となる〕」と。

 

(10)5. 塩の瓶の章

 

1. 緊急の経

 

93. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、耕作者の家長にとっての、緊急に為すべきことです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、耕作者の家長が、急ぎに急いで、田畑を善く耕され善くならされたものに作り為します。急ぎに急いで、田畑を善く耕され善くならされたものに作り為して、諸々の種を据え置きます。急ぎに急いで、諸々の種を据え置いて、急ぎに急いで、水を入れもまたし出しもまたします。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、耕作者の家長にとっての、緊急に為すべきことがあります。比丘たちよ、それで、まさに、その耕作者の家長には、あるいは、神通も、あるいは、威力も、それは存在しません。『わたしの諸々の穀物は、まさしく、今日、発芽せよ、まさしく、明日、出穂と成れ、まさしく、明後日、成熟せよ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その時と成り、すなわち、その耕作者の家長の、それらの穀物は、季節の変化があり、発芽もまたし、出穂ともまた成り、成熟もまたします。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、三つのものがあります。これらの、比丘にとっての、緊急に為すべきことです。どのようなものが、三つのものなのですか。卓越の戒の学びを受持することであり、卓越の心の学びを受持することであり、卓越の智慧の学びを受持することです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、比丘にとっての、緊急に為すべきことがあります。比丘たちよ、それで、まさに、その比丘には、あるいは、神通も、あるいは、威力も、それは存在しません。『わたしの心は、まさしく、今日、あるいは、明日、あるいは、明後日、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱せよ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その時と成り、すなわち、その比丘が、卓越の戒をもまた学び、卓越の心をもまた学び、卓越の智慧をもまた学んでいると、心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します。

 

 比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『卓越の戒の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ。卓越の心の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ。卓越の智慧の学びを受持することにたいし、わたしたちの欲〔の思い〕は、強きものと成るのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 遠離の経

 

94. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの遠離を、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは報知します。どのようなものが、三つのものなのですか。衣料の遠離であり、〔行乞の〕施食の遠離であり、臥坐所の遠離です。

 

 比丘たちよ、そこで、このことを、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、衣料の遠離について報知します。〔彼らは〕諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付けます。比丘たちよ、このことを、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、衣料の遠離について報知します。

 

 比丘たちよ、そこで、このことを、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔行乞の〕施食の遠離について報知します。〔彼らは〕野菜を食物とする者たちともまた成り、粟を食物とする者たちともまた成り、野生米を食物とする者たちともまた成り、革屑を食物とする者たちともまた成り、苔を食物とする者たちともまた成り、糠を食物とする者たちともまた成り、飯汁を食物とする者たちともまた成り、胡麻粉を食物とする者たちともまた成り、草を食物とする者たちともまた成り、牛糞を食物とする者たちともまた成り、林の根や果を食する者たちとして、落ちた果を受益する者たちとして、〔身を〕保ち行きます。比丘たちよ、このことを、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔行乞の〕施食の遠離について報知します。

 

 比丘たちよ、そこで、このことを、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、臥坐所の遠離について報知します。〔すなわち〕林を、木の根元を、墓場を、林野の辺境を、野外を、藁積場を、籾小屋を。比丘たちよ、このことを、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、臥坐所の遠離について報知します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの遠離を、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは報知します。

 

 比丘たちよ、また、まさに、三つのものがあります。これらの、この法(教え)と律における比丘のための遠離です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、戒ある者として〔世に〕有り、かつまた、彼の劣戒の資質が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それから遠離した者として〔世に〕有ります。そして、正しい見解ある者として〔世に〕有り、かつまた、彼の誤った見解が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それから遠離した者として〔世に〕有ります。そして、煩悩の滅尽者として〔世に〕有り、かつまた、彼の諸々の煩悩が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それらから遠離した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、そして、戒ある者として〔世に〕有り、かつまた、彼の劣戒の資質が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それから遠離した者として〔世に〕有ることから、そして、正しい見解ある者として〔世に〕有り、かつまた、彼の誤った見解が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それから遠離した者として〔世に〕有ることから、そして、煩悩の滅尽者として〔世に〕有り、かつまた、彼の諸々の煩悩が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それらから遠離した者として〔世に〕有ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、至高に至り得た者であり、真髄に至り得た者であり、清浄なる者であり、真髄において確立した者である』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、耕作者の家長の、実った稲田のようなものです。〔まさに〕その、この〔稲田〕を、耕作者の家長は、急ぎに急いで刈り取らせます。急ぎに急いで刈り取らせて、急ぎに急いで寄せ集めます。急ぎに急いで寄せ集めて、急ぎに急いで運び出します。急ぎに急いで運び出して、急ぎに急いで集塊と為します。急ぎに急いで集塊と為して、急ぎに急いで打ち叩きます。急ぎに急いで打ち叩いて、急ぎに急いで諸々の藁を取り出します。急ぎに急いで諸々の藁を取り出して、急ぎに急いで諸々の屑を取り出します。急ぎに急いで諸々の屑を取り出して、急ぎに急いで吹き分けます。急ぎに急いで吹き分けて、急ぎに急いで運び出します。急ぎに急いで運び出して、急ぎに急いで脱穀します。急ぎに急いで脱穀して、急ぎに急いで諸々の籾殻を取り出します。比丘たちよ、このように、まさに、耕作者の家長の、それらの穀物は、至高に至り得たものとなり、真髄に至り得たものとなり、清浄なるものとなり、真髄において確立したものとなります。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、比丘が、そして、戒ある者として〔世に〕有り、かつまた、彼の劣戒の資質が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それから遠離した者として〔世に〕有ることから、そして、正しい見解ある者として〔世に〕有り、かつまた、彼の誤った見解が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それから遠離した者として〔世に〕有ることから、そして、煩悩の滅尽者として〔世に〕有り、かつまた、彼の諸々の煩悩が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、さらに、それらから遠離した者として〔世に〕有ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、至高に至り得た者であり、真髄に至り得た者であり、清浄なる者であり、真髄において確立した者である』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 秋の経

 

95. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分の、晴朗にして黒雲が離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するようなものです。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、聖なる弟子には、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起することから、比丘たちよ、見の生起と共に、聖なる弟子には、三つの束縛するもの(三結)が捨棄されます──身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)が、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)が。

 

 そこで、他にも、二つの法(性質)から出脱します──そして、強欲〔の思い〕から、さらに、憎悪〔の思い〕から。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、もし、聖なる弟子が、その時点において、命を終えるなら、その束縛するものによって束縛された聖なる弟子が、ふたたびこの世に帰り来ることになる、〔まさに〕その、束縛するものは存在しません」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 衆の経

 

96. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、三つのものなのですか。至高なる衆であり、党派の衆であり、和合の衆です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、至高なる衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、長老の比丘たちが、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励み、後の人々は、彼らに随従する見解を惹起します。その衆もまた、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちとして、遠離〔の境地〕における先行者たちとして、〔世に〕有り、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。比丘たちよ、これは、至高なる衆と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、党派の衆なのですか。ここに、その衆において、比丘たちが、言争(いいあらそい)を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、これは、党派の衆と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、和合の衆なのですか。比丘たちよ、ここに、その衆において、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、これは、和合の衆と説かれます。

 

 比丘たちよ、その時点において、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、比丘たちは、多くの功徳を生み出し、比丘たちよ、その時点において、比丘たちは、梵を住として〔世に〕住みます──すなわち、この、歓喜あることから、心による解脱あることから。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海を遍く満たします。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、比丘たちは、多くの功徳を生み出し、比丘たちよ、その時点において、比丘たちは、梵を住として〔世に〕住みます──すなわち、この、歓喜あることから、心による解脱あることから。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの衆があります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の良馬の経

 

97. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、かつまた、栄誉(色艶)を成就したものとして、かつまた、力を成就したものとして、かつまた、速さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、力を成就した者として、かつまた、速さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の良馬の経

 

98. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、かつまた、栄誉(色艶)を成就したものとして、かつまた、力を成就したものとして、かつまた、速さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、力を成就した者として、かつまた、速さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の良馬の経

 

99. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、王の賢馬が、良馬たる馬として、かつまた、栄誉(色艶)を成就したものとして、かつまた、力を成就したものとして、かつまた、速さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した王の賢馬は、良馬たる馬として、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り、〔供物を〕贈られるべき者と〔成り〕、〔供物を〕施与されるべき者と〔成り〕、合掌を為されるべき者と〔成り〕、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、力を成就した者として、かつまた、速さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、栄誉を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、力を成就した者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、速さを成就した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 樹皮の衣の経

 

100. 「比丘たちよ、樹皮の衣は、新しいものもまた、そして、悪しき色艶あるものとして有り、かつまた、苦痛の接触あるものとして〔有り〕、さらに、少なき価値のものとして〔有ります〕。比丘たちよ、樹皮の衣は、中途のものもまた、そして、悪しき色艶あるものとして有り、かつまた、苦痛の接触あるものとして〔有り〕、さらに、少なき価値のものとして〔有ります〕。比丘たちよ、樹皮の衣は、古くなったものもまた、そして、悪しき色艶あるものとして有り、かつまた、苦痛の接触あるものとして〔有り〕、さらに、少なき価値のものとして〔有ります〕。比丘たちよ、〔人々は〕樹皮の衣を、古くなったときはまた、あるいは、鍋拭きに作り為し、あるいは、それを、ごみ捨て場に捨てます。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、新参の比丘が、もし、また、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有るなら、このことを、彼には悪しき色艶(栄誉)あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹皮の衣が、悪しき色艶あるものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。また、まさに、或る者たちが、彼に、慣れ親しみ、親近し、奉侍し、随従する見解を惹起するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。このことを、彼には苦痛の接触あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹皮の衣が、苦痛の接触あるものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。また、まさに、或る者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を、彼が納受するなら、彼らにとって、それは、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成り〕ません。このことを、彼には少なき価値あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹皮の衣が、少なき価値のものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。比丘たちよ、中堅の比丘が、もし、また、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有るなら……略……。比丘たちよ、長老の比丘が、もし、また、劣戒の者として、悪しき法(性質)ある者として、〔世に〕有るなら、このことを、彼には悪しき色艶あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹皮の衣が、悪しき色艶あるものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。また、まさに、或る者たちが、彼に、慣れ親しみ、親近し、奉侍し、随従する見解を惹起するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります。このことを、彼には苦痛の接触あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹皮の衣が、苦痛の接触あるものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。また、まさに、或る者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、彼が納受するなら、彼らにとって、それは、大いなる果と成らず、大いなる福利と〔成り〕ません。このことを、彼には少なき価値あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、その樹皮の衣が、少なき価値のものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。

 

 比丘たちよ、そして、このような形態の者として、この長老の比丘が、僧団の中で話します。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言います。『愚者にして明敏ならざるあなたの話したことが、いったい、まさに、何だというのでしょう。あなたもまた、まさに、話すべきことと思い考えるとは』と。彼は、激情し、わが意を得ない者となり、そのような形態の言葉を放ちます。そのような形態の言葉あることから、僧団は、彼を排斥します。その樹皮の衣を、ごみ捨て場に〔捨てる〕ように。

 

 比丘たちよ、カーシ産の衣は、新しいものもまた、そして、色艶あるものとして有り、かつまた、安楽の接触あるものとして〔有り〕、さらに、大いなる価値あるものとして〔有ります〕。比丘たちよ、カーシ産の衣は、中途のものもまた、そして、色艶あるものとして有り、かつまた、安楽の接触あるものとして〔有り〕、さらに、大いなる価値あるものとして〔有ります〕。比丘たちよ、カーシ産の衣は、古くなったものもまた、そして、色艶あるものとして有り、かつまた、安楽の接触あるものとして〔有り〕、さらに、大いなる価値あるものとして〔有ります〕。比丘たちよ、〔人々は〕カーシ産の衣を、古くなったときはまた、あるいは、宝を包むものに作り為し、あるいは、それを香り箱に入れ置きます。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、新参の比丘が、もし、また、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有るなら、このことを、彼には善き色艶(栄誉)あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、そのカーシ産の衣が、色艶あるものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。また、まさに、或る者たちが、彼に、慣れ親しみ、親近し、奉侍し、随従する見解を惹起するなら、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります。このことを、彼には安楽の接触あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、そのカーシ産の衣が、安楽の接触あるものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。また、まさに、或る者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、彼が納受するなら、彼らにとって、それは、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕。このことを、彼には大いなる価値あることからと、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、そのカーシ産の衣が、大いなる価値あるものであるように、比丘たちよ、この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。比丘たちよ、中堅の比丘が、もし、また、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有るなら……略……。比丘たちよ、長老の比丘が、もし、また、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕有るなら……略……この人を、そのような形態の者と、わたしは説きます。

 

 比丘たちよ、そして、このような形態の者として、この長老の比丘が、僧団の中で話します。〔まさに〕その、この者に、比丘たちは、このように言います。『尊者たちは、音声少なく有れ。長老の比丘が、そして、法(教え)を、さらに、律を、話します』と。比丘たちよ、それゆえに、ここに、このように学ぶべきです。『カーシ産の衣の如く、〔わたしたちは〕有るのだ──樹皮の衣の如く、ではなく』と。まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 塩の瓶の経

 

101. 「比丘たちよ、或る者が、このように説くとします。『そのとおり、そのとおりに、この人が行為を為すなら、そのとおり、そのとおりに、それを得知する』と。比丘たちよ、このように存しているなら、梵行の住は有ることなくあり、正しく苦しみの終極を為すための機会は覚知されません。比丘たちよ、しかしながら、或る者が、まさに、このように説くとします。『そのとおり、そのとおりに、感受されるべきものとして、この人が行為を為すなら、そのとおり、そのとおりに、その〔行為〕の報いを得知する』と。比丘たちよ、このように存しているなら、梵行の住は有り、正しく苦しみの終極を為すための機会は覚知されます。比丘たちよ、ここに、一部の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。比丘たちよ、また、ここに、一部の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導くのですか。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められていない者として、戒が修められていない者として、心が修められていない者として、智慧が修められていない者として、微小なる者として、僅少なる自己の者として、僅少にして苦なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成るのですか。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。比丘たちよ、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められた者として、戒が修められた者として、心が修められた者として、智慧が修められた者として、微小ならざる者として、大いなる自己の者として、無量なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 (1)比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、塩の瓶を、微小なる水鉢に投げ入れるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その微小なる水は、この塩の瓶によって、飲むことができない塩〔水〕として存するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この、水鉢のなかの微小なる水は、それは、この塩の瓶によって、飲むことができない塩〔水〕として存するからです」と。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、塩の瓶を、ガンガー川に投げ入れるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、そのガンガー川は、この塩の瓶によって、飲むことができない塩〔水〕として存するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、この、ガンガー川の大いなる水の塊は、それは、この塩の瓶によって、飲むことができない塩〔水〕として存することはないからです」と。

 

 「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。比丘たちよ、ここに、一部の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導くのですか。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められていない者として、戒が修められていない者として、心が修められていない者として、智慧が修められていない者として、微小なる者として、些少なる自己の者として、些少にして苦なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成るのですか。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。比丘たちよ、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められた者として、戒が修められた者として、心が修められた者として、智慧が修められた者として、微小ならざる者として、大いなる自己の者として、無量なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 (2)比丘たちよ、ここに、一部の者は、半分の貨幣によってもまた結縛を受け、〔一枚の〕貨幣によってもまた結縛を受け、百の貨幣によってもまた結縛を受けます。比丘たちよ、ここに、一部の者は、半分の貨幣によってもまた結縛を受けず、〔一枚の〕貨幣によってもまた結縛を受けず、百の貨幣によってもまた結縛を受けません。

 

 比丘たちよ、どのような形態の者は、半分の貨幣によってもまた結縛を受け、〔一枚の〕貨幣によってもまた結縛を受け、百の貨幣によってもまた結縛を受けるのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、貧者として、僅少なる所有の者として、僅少なる財物の者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の者は、半分の貨幣によってもまた結縛を受け、〔一枚の〕貨幣によってもまた結縛を受け、百の貨幣によってもまた結縛を受けます。

 

 比丘たちよ、どのような形態の者は、半分の貨幣によってもまた結縛を受けず、〔一枚の〕貨幣によってもまた結縛を受けず、百の貨幣によってもまた結縛を受けないのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、富裕で、大いなる所有があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の者は、半分の貨幣によってもまた結縛を受けず、〔一枚の〕貨幣によってもまた結縛を受けず、百の貨幣によってもまた結縛を受けません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。比丘たちよ、ここに、一部の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導くのですか。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められていない者として、戒が修められていない者として、心が修められていない者として、智慧が修められていない者として、微小なる者として、僅少なる自己の者として、僅少にして苦なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成るのですか。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。比丘たちよ、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められた者として、戒が修められた者として、心が修められた者として、智慧が修められた者として、微小ならざる者として、大いなる自己の者として、無量なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 (3)(※)比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、羊業者が、あるいは、羊の屠殺者が、また、一部の者を、〔彼が〕与えられていない羊を取りつつあるなら、あるいは、殺すことが〔でき〕、あるいは、結縛することが〔でき〕、あるいは、収奪することが〔でき〕、あるいは、縁あるままに為すことができ、また、一部の者を、〔彼が〕与えられていない羊を取りつつあるとして、あるいは、殺すことが〔できず〕、あるいは、結縛することが〔できず〕、あるいは、収奪することが〔できず〕、あるいは、縁あるままに為すことができないようなものです。

 

※ テキストの Idha , bhikkhave, ekacco puggalo bhāvitakāyo hoti bhāvitasīlo bhāvitacitto bhāvitapañño aparitto mahatto appamāṇavihārī. Evarūpassa, bhikkhave, puggalassa tādisaṃyeva appamattakaṃ pāpakammaṃ kataṃ diṭṭhadhammavedanīyaṃ hoti, nāṇupi khāyati, kiṃ bahudeva. を、PTS版により削除する。

 

 比丘たちよ、どのような形態の者を、〔彼が〕与えられていない羊を取りつつあるなら、あるいは、羊業者が、あるいは、羊の屠殺者が、あるいは、殺すことが〔でき〕、あるいは、結縛することが〔でき〕、あるいは、収奪することが〔でき〕、あるいは、縁あるままに為すことができるのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、貧者として、僅少なる所有の者として、僅少なる財物の者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の者を、〔彼が〕与えられていない羊を取りつつあるなら、あるいは、羊業者が、あるいは、羊の屠殺者が、あるいは、殺すことが〔でき〕、あるいは、結縛することが〔でき〕、あるいは、収奪することが〔でき〕、あるいは、縁あるままに為すことができます。

 

 比丘たちよ、どのような形態の者を、〔彼が〕与えられていない羊を取りつつあるとして、あるいは、羊業者が、あるいは、羊の屠殺者が、あるいは、殺すことが〔できず〕、あるいは、結縛することが〔できず〕、あるいは、収奪することが〔できず〕、あるいは、縁あるままに為すことができないのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、富裕で、大いなる所有があり、大いなる財物があり、あるいは、王として、あるいは、王の大臣として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、このような形態の者を、〔彼が〕与えられていない羊を取りつつあるとして、あるいは、羊業者が、あるいは、羊の屠殺者が、あるいは、殺すことが〔できず〕、あるいは、結縛することが〔できず〕、あるいは、収奪することが〔できず〕、あるいは、縁あるままに為すことができません。何はともあれ、まさしく、合掌の者となり、彼に乞い求めます。『敬愛なる方よ、わたしに、あるいは、羊を、あるいは、羊〔の対価〕となる財を、与えてください』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。比丘たちよ、また、ここに、一部の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導くのですか。比丘たちよ、また、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められていない者として、戒が修められていない者として、心が修められていない者として、智慧が修められていない者として、微小なる者として、僅少なる自己の者として、僅少にして苦なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、たとえ、少量のものでも、悪しき行為が為されたなら、〔まさに〕その、この者を、地獄に導きます。

 

 比丘たちよ、どのような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成るのですか。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。比丘たちよ、ここに、一部の人は〔世に〕有ります──身体が修められた者として、戒が修められた者として、心が修められた者として、智慧が修められた者として、微小ならざる者として、大いなる自己の者として、無量なる住者として。比丘たちよ、このような形態の人のばあい、まさしく、そのような少量の悪しき行為が為されたとして、所見の法(現世)において感受されるべきものと成ります。〔もはや、残存物は〕微塵でさえも見られません。まさしく、多く〔の残存物〕が、どうしてあるというのでしょう。

 

 比丘たちよ、或る者が、このように説くとします。『そのとおり、そのとおりに、この人が行為を為すなら、そのとおり、そのとおりに、それを得知する』と。比丘たちよ、このように存しているなら、梵行の住は有ることなくあり、正しく苦しみの終極を為すための機会は覚知されません。比丘たちよ、しかしながら、或る者が、まさに、このように説くとします。『そのとおり、そのとおりに、感受されるべきものとして、この人が行為を為すなら、そのとおり、そのとおりに、その〔行為〕の報いを得知する』と。比丘たちよ、このように存しているなら、梵行の住は有り、正しく苦しみの終極を為すための機会は覚知されます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 砂塵の洗浄者の経

 

102. 「比丘たちよ、金には、諸々の粗大なるものが付随する汚れとして存在します。諸々の砂塵や砂利であり、諸々の砂礫や小石です。その〔粗大なる汚れある金〕を、これを、あるいは、砂塵の洗浄者は、あるいは、砂塵の洗浄者の内弟子は、桶のなかに降り注いで、洗浄し、等しく洗浄し、洗い清めます。その〔粗大なる汚れ〕が捨棄され、それが終息を為されたとき、金には、諸々の中等なるものを共具した付随する汚れが存在します。諸々の繊細なる砂礫であり、諸々の粗雑なる砂利です。その〔中等なる汚れある金〕を、これを、あるいは、砂塵の洗浄者は、あるいは、砂塵の洗浄者の内弟子は、洗浄し、等しく洗浄し、洗い清めます。その〔中等なる汚れ〕が捨棄され、それが終息を為されたとき、金には、諸々の繊細なるものを共具した付随する汚れが存在します。諸々の繊細なる砂利であり、諸々の黒垢です。その〔繊細なる汚れある金〕を、これを、あるいは、砂塵の洗浄者は、あるいは、砂塵の洗浄者の内弟子は、洗浄し、等しく洗浄し、洗い清めます。その〔繊細なる汚れ〕が捨棄され、それが終息を為されたとき、そこで、後には、諸々の砂金が残ります。その金を、これを、あるいは、金の細工師は、あるいは、金の細工師の内弟子は、るつぼのなかに入れて、吹き、吹き起こし、精錬します。吹かれ、吹き起こされ、精錬された、その金は、〔いまだ〕汚濁が精錬されていないものとして有り、まさしく、そして、柔和と成らず、かつまた、行為に適するものと〔成ら〕ず、さらに、光り輝くものと〔成ら〕ず、かつまた、滅し壊れるものと〔成り〕、そして、正しく行為に近しく至りません(作業を施す状態とならない)。比丘たちよ、すなわち、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金を、〔ふたたび〕吹き、吹き起こし、精錬する、その時と成ります。〔ふたたび〕吹かれ、吹き起こされ、精錬された、その金は、〔すでに〕汚濁が精錬されたものとして有り、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、正しく行為に近しく至ります(作業を施す状態となる)。そして、その〔装身具〕その装身具を、〔彼が〕望むなら、もしくは、帯であれ、もしくは、耳飾であれ、もしくは、首飾であれ、もしくは、金環であれ、そして、彼の、その義(目的)は適います。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、卓越の心(瞑想)に専念する比丘には、諸々の粗大なるものが付随する〔心の〕汚れとして存在します。身体による悪しき行ないであり、言葉による悪しき行ないであり、意による悪しき行ないです。その〔粗大なる心の汚れ〕を、これを、心を有し才覚に恵まれた比丘は、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。その〔粗大なる心の汚れ〕が捨棄され、それが終息を為されたとき、卓越の心に専念する比丘には、諸々の中等なるものを共具した付随する〔心の〕汚れが存在します。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考です。その〔中等なる心の汚れ〕を、これを、心を有し才覚に恵まれた比丘は、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。その〔中等なる心の汚れ〕が捨棄され、それが終息を為されたとき、卓越の心に専念する比丘には、諸々の繊細なるものを共具した付随する〔心の〕汚れが存在します。親族の思考(親族に関する品定めの思考)であり、地方の思考(地域に関する品定めの思考)であり、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考です。その〔繊細なる心の汚れ〕を、これを、心を有し才覚に恵まれた比丘は、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。その〔繊細なる心の汚れ〕が捨棄され、それが終息を為されたとき、そこで、後には、法(真理)の思考が残ります。その禅定は、まさしく、そして、寂静ならず、かつまた、精妙ならず、安息を得ず、専一なる状態に到達せず、形成〔作用〕を有し制御して阻止に至ったものとして有ります(意識的に作り上げたものである)。比丘たちよ、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時と成ります。その禅定は、寂静で、精妙で、安息を得、専一なる状態に到達し、形成〔作用〕を有し制御して阻止に至ったものとして有りません(意識的に作り上げたものではない)。そして、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。多種なる者としてもまた有って、一なる者として存するのだ。明現状態と〔成るのだ〕。超没状態と〔成るのだ〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴くのだ──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為すのだ──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴くのだ──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行くのだ──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわすのだ。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞くのだ──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を離れた心を、「迷妄を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、退縮した心を、「退縮した心である」と覚知するのだ。あるいは、散乱した心を、「散乱した心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大なる心を、「莫大なる心である」と覚知するのだ。あるいは、莫大ならざる心を、「莫大ならざる心である」と覚知するのだ。あるいは、有上なる心を、「有上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、無上なる心を、「無上なる心である」と覚知するのだ。あるいは、定められた心を、「定められた心である」と覚知するのだ。あるいは、定められていない心を、「定められていない心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱した心を、「解脱した心である」と覚知するのだ。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。「〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ」と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るのだ。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 形相の経

 

103. 「比丘たちよ、卓越の心(瞑想)に専念する比丘によって、三つの形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。禅定の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。励起の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。放捨の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、禅定の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、怠惰のために等しく転起します。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、励起の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、高揚のために等しく転起します。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、放捨の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、卓越の心に専念する比丘が、禅定の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、励起の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、放捨の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、その心は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、溶炉を構え、溶炉を構えて、溶炉の口に点火し、溶炉の口に点火して、火箸で金を掴んで溶炉の口に置き、溶炉の口に置いて、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく風を〕吹き入れ、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕水を振り掛け、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕捨て放つようなものです。比丘たちよ、それで、もし、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金に、一方的に〔風を〕吹き入れるなら、その金は、必然的に焼けてしまいます。比丘たちよ、それで、もし、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金に、一方的に水を振り掛けるなら、その金は、必然的に〔火が〕消えてしまいます。比丘たちよ、それで、もし、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金を、一方的に捨て放つなら、その金は、必然的に正しく円熟に至りません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、その金に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく風を〕吹き入れ、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕水を振り掛け、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕捨て放つことから、その金は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、正しく行為に近しく至ります。そして、その〔装身具〕その装身具を、〔彼が〕望むなら、もしくは、帯であれ、もしくは、耳飾であれ、もしくは、首飾であれ、もしくは、金環であれ、そして、彼の、その義(目的)は適います。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、卓越の心(瞑想)に専念する比丘によって、三つの形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。禅定の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。励起の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。放捨の形相が、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意が為されるべきです。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、禅定の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、怠惰のために等しく転起します。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、励起の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、高揚のために等しく転起します。比丘たちよ、それで、もし、卓越の心に専念する比丘が、放捨の形相だけに、一方的に意を為すなら、その心は、必然的に、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、卓越の心に専念する比丘が、禅定の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、励起の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、放捨の形相に、〔その〕時〔その〕時に〔しかるべく〕意を為すことから、その心は、そして、柔和と成り、かつまた、行為に適するものと〔成り〕、さらに、光り輝くものと〔成り〕、かつまた、滅し壊れるものと〔成ら〕ず、諸々の煩悩の滅尽のために正しく定められます。そして、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

 

 それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。……略……(六つの神知が詳知されるべきである)。それで、もし、彼が、『諸々の煩悩の滅尽あることから……略……実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 塩の瓶の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「緊急、遠離、秋、衆、三つの良馬、そして、樹皮の衣、塩、『洗浄し』があり、諸々の形相があり、〔章となる〕」と。

 

 第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

3. 第三の五十なるもの

 

(11)1. 正覚の章

 

1. 「正覚より、まさしく、過去において」の経

 

104. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、世における、何が、悦楽であり、何が、危険であり、何が、出離であるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それが、まさに、世を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、世における悦楽である。すなわち、世が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、世における危険である。それが、世において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、世における出離である』と。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、このように、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、このように、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第一の悦楽の経

 

105. 「比丘たちよ、わたしは、世の悦楽を遍く探し求めるために歩みました。それが、世における悦楽であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、世にあるかぎりの悦楽は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、世の危険を遍く探し求めるために歩みました。それが、世における危険であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、世にあるかぎりの危険は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、わたしは、世の出離を遍く探し求めるために歩みました。それが、世における出離であるなら、それに、〔わたしは〕到達しました。すなわち、世にあるかぎりの出離は、それは、わたしによって、智慧によって善く見られました。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 第二の悦楽の経

 

106. 「比丘たちよ、もし、このことが、世において悦楽がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが世にたいし貪染することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において悦楽が存在することから、それゆえに、有情たちは、世にたいし貪染します。比丘たちよ、もし、このことが、世において危険がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが世にたいし厭離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において危険が存在することから、それゆえに、有情たちは、世にたいし厭離します。比丘たちよ、もし、このことが、世において出離がある、〔という、このことが〕有ることなくあったなら、有情たちが世にたいし出離することは、このことはないでしょう。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、世において出離が存在することから、それゆえに、有情たちは、世にたいし出離します。比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、有情たちが、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知しなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むことは、まさしく、ありませんでした。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、有情たちが、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに証知したことから、比丘たちよ、そこで、有情たちは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕から、天〔の神〕や人間を含む人々から、出離した者たちとして、束縛を離れた者たちとして、解脱した者たちとして、制約を離れることを為した心で〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 沙門や婆羅門たちの経

 

107. 「比丘たちよ、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことはありません。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、世の、そして、悦楽を悦楽として、かつまた、危険を危険として、さらに、出離を出離として、事実のとおりに覚知するなら、比丘たちよ、まさに、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 泣き叫ぶことの経

 

108. 「比丘たちよ、聖者の律において、すなわち、この、歌うことは、これは、泣き叫ぶことです。比丘たちよ、聖者の律において、すなわち、この、踊ることは、これは、狂者たることです。比丘たちよ、聖者の律において、すなわち、この、歯を見せながら限度を超えて笑うことは、これは、童子のすることです。比丘たちよ、それゆえに、ここに、歌うことにおいて橋の殲滅(悪習の打破)が〔存するべきであり〕、踊ることにおいて橋の殲滅が〔存するべきであり〕、あなたたちが法(教え)に歓喜し、〔そのように〕存しつつ、笑いがあるなら、〔その〕笑いのみで十分です」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 不満の経

 

109. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらのものの〕受用には、満足が存在しません。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、眠りの受用には、満足が存在しません。比丘たちよ、飲酒の受用には、満足が存在しません。比丘たちよ、淫事の法(性質)への入定(性行為)の受用には、満足が存在しません。比丘たちよ、これらの三つのものの受用には、満足が存在しません」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 守られていないものの経

 

110. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、心が守られていないときは、身体の行為もまた、守られていないものと成り、言葉の行為もまた、守られていないものと成り、意の行為もまた、守られていないものと成ります。彼に、守られていない身体の生業があり、守られていない言葉の生業があり、守られていない意の生業があるなら、身体の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出るものと成り、言葉の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出るものと成り、意の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出るものと成ります。彼に、〔煩悩が〕漏れ出る身体の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出る言葉の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出る意の生業があるなら、身体の行為もまた、腐敗したものと成り、言葉の行為もまた、腐敗したものと成り、意の行為もまた、腐敗したものと成ります。彼に、腐敗した身体の生業があり、腐敗した言葉の生業があり、腐敗した意の生業があるなら、幸いなる死と成らず、幸いなる命終と〔成り〕ません。

 

 家長よ、それは、たとえば、また、屋頂ある家がだらしなく覆われたときは、屋頂もまた、守られていないものと成り、諸々の垂木もまた、守られていないものと成り、壁もまた、守られていないものと成り、屋頂もまた、〔雨が〕漏れ入るものと成り、諸々の垂木もまた、〔雨が〕漏れ入るものと成り、壁もまた、〔雨が〕漏れ入るものと成り、屋頂もまた、腐敗したものと成り、諸々の垂木もまた、腐敗したものと成り、壁もまた、腐敗したものと成るようなものです。

 

 家長よ、まさしく、このように、まさに、心が守られていないときは、身体の行為もまた、守られていないものと成り、言葉の行為もまた、守られていないものと成り、意の行為もまた、守られていないものと成ります。彼に、守られていない身体の生業があり、守られていない言葉の生業があり、守られていない意の生業があるなら、身体の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出るものと成り、言葉の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出るものと成り、意の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出るものと成ります。彼に、〔煩悩が〕漏れ出る身体の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出る言葉の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出る意の生業があるなら、身体の行為もまた、腐敗したものと成り、言葉の行為もまた、腐敗したものと成り、意の行為もまた、腐敗したものと成ります。彼に、腐敗した身体の生業があり、腐敗した言葉の生業があり、腐敗した意の生業があるなら、幸いなる死と成らず、幸いなる命終と〔成り〕ません。

 

 家長よ、心が守られているときは、身体の行為もまた、守られているものと成り、言葉の行為もまた、守られているものと成り、意の行為もまた、守られているものと成ります。彼に、守られている身体の生業があり、守られている言葉の生業があり、守られている意の生業があるなら、身体の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出ないものと成り、言葉の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出ないものと成り、意の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出ないものと成ります。彼に、〔煩悩が〕漏れ出ない身体の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出ない言葉の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出ない意の生業があるなら、身体の行為もまた、腐敗しないものと成り、言葉の行為もまた、腐敗しないものと成り、意の行為もまた、腐敗しないものと成ります。彼に、腐敗しない身体の生業があり、腐敗しない言葉の生業があり、腐敗しない意の生業があるなら、幸いなる死と成り、幸いなる命終と〔成ります〕。

 

 家長よ、それは、たとえば、また、屋頂ある家がしっかりと覆われたときは、屋頂もまた、守られているものと成り、諸々の垂木もまた、守られているものと成り、壁もまた、守られているものと成り、屋頂もまた、〔雨が〕漏れ入らないものと成り、諸々の垂木もまた、〔雨が〕漏れ入らないものと成り、壁もまた、〔雨が〕漏れ入らないものと成り、屋頂もまた、腐敗しないものと成り、諸々の垂木もまた、腐敗しないものと成り、壁もまた、腐敗しないものと成るようなものです。

 

 家長よ、まさしく、このように、まさに、心が守られているときは、身体の行為もまた、守られているものと成り、言葉の行為もまた、守られているものと成り、意の行為もまた、守られているものと成ります。彼に、守られている身体の生業があり、守られている言葉の生業があり、守られている意の生業があるなら、身体の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出ないものと成り、言葉の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出ないものと成り、意の行為もまた、〔煩悩が〕漏れ出ないものと成ります。彼に、〔煩悩が〕漏れ出ない身体の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出ない言葉の生業があり、〔煩悩が〕漏れ出ない意の生業があるなら、身体の行為もまた、腐敗しないものと成り、言葉の行為もまた、腐敗しないものと成り、意の行為もまた、腐敗しないものと成ります。彼に、腐敗しない身体の生業があり、腐敗しない言葉の生業があり、腐敗しない意の生業があるなら、幸いなる死と成り、幸いなる命終と〔成ります〕」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 憎悪しているものの経

 

111. 一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、心が憎悪しているときは、身体の行為もまた、憎悪しているものと成り、言葉の行為もまた、憎悪しているものと成り、意の行為もまた、憎悪しているものと成ります。彼に、憎悪している身体の生業があり、憎悪している言葉の生業があり、憎悪している意の生業があるなら、幸いなる死と成らず、幸いなる命終と〔成り〕ません。家長よ、それは、たとえば、また、屋頂ある家がだらしなく覆われたときは、屋頂もまた、害されるものと成り、諸々の垂木もまた、害されるものと成り、壁もまた、害されるものと成るようなものです。家長よ、まさしく、このように、まさに、心が憎悪しているときは、身体の行為もまた、憎悪しているものと成り、言葉の行為もまた、憎悪しているものと成り、意の行為もまた、憎悪しているものと成ります。彼に、憎悪している身体の生業があり、憎悪している言葉の生業があり、憎悪している意の生業があるなら、幸いなる死と成らず、幸いなる命終と〔成り〕ません。

 

 家長よ、心が憎悪していないときは、身体の行為もまた、憎悪していないものと成り、言葉の行為もまた、憎悪していないものと成り、意の行為もまた、憎悪していないものと成ります。彼に、憎悪していない身体の生業があり、憎悪していない言葉の生業があり、憎悪していない意の生業があるなら、幸いなる死と成り、幸いなる命終と〔成ります〕。家長よ、それは、たとえば、また、屋頂ある家がしっかりと覆われたときは、屋頂もまた、害されないものと成り、諸々の垂木もまた、害されないものと成り、壁もまた、害されないものと成るようなものです。家長よ、まさしく、このように、まさに、心が憎悪していないときは、身体の行為もまた、憎悪していないものと成り、言葉の行為もまた、憎悪していないものと成り、意の行為もまた、憎悪していないものと成ります。彼に、憎悪していない身体の生業があり、憎悪していない言葉の生業があり、憎悪していない意の生業があるなら、幸いなる死と成り、幸いなる命終と〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第一の因縁の経

 

112. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為()の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲()は、諸々の行為の集起のための因縁です。憤怒()は、諸々の行為の集起のための因縁です。迷妄()は、諸々の行為の集起のための因縁です。比丘たちよ、その行為が、貪欲によって作り為されたものであり、貪欲から生じるものであり、貪欲を因縁とするものであり、貪欲を集起とするものであるなら、その行為は、善ならざるものであり、その行為は、罪過を有するものであり、その行為は、苦痛の報いあるものであり、その行為は、行為の集起のために等しく転起し、行為の止滅のために等しく転起しません。比丘たちよ、その行為が、憤怒によって作り為されたものであり、憤怒から生じるものであり、憤怒を因縁とするものであり、憤怒を集起とするものであるなら、その行為は、善ならざるものであり、その行為は、罪過を有するものであり、その行為は、苦痛の報いあるものであり、その行為は、行為の集起のために等しく転起し、行為の止滅のために等しく転起しません。比丘たちよ、その行為が、迷妄によって作り為されたものであり、迷妄から生じるものであり、迷妄を因縁とするものであり、迷妄を集起とするものであるなら、その行為は、善ならざるものであり、その行為は、罪過を有するものであり、その行為は、苦痛の報いあるものであり、その行為は、行為の集起のために等しく転起し、行為の止滅のために等しく転起しません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、諸々の行為の集起のための因縁です。憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、諸々の行為の集起のための因縁です。迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、諸々の行為の集起のための因縁です。比丘たちよ、その行為が、貪欲によって作り為されたものではなく、貪欲から生じるものではなく、貪欲を因縁とするものではなく、貪欲を集起とするものではないなら、その行為は、善なるものであり、その行為は、罪過なきものであり、その行為は、安楽の報いあるものであり、その行為は、行為の止滅のために等しく転起し、その行為は、行為の集起のために等しく転起しません。比丘たちよ、その行為が、憤怒によって作り為されたものではなく、憤怒から生じるものではなく、憤怒を因縁とするものではなく、憤怒を集起とするものではないなら、その行為は、善なるものであり、その行為は、罪過なきものであり、その行為は、安楽の報いあるものであり、その行為は、行為の止滅のために等しく転起し、その行為は、行為の集起のために等しく転起しません。比丘たちよ、その行為が、迷妄によって作り為されたものではなく、迷妄から生じるものではなく、迷妄を因縁とするものではなく、迷妄を集起とするものではないなら、その行為は、善なるものであり、その行為は、罪過なきものであり、その行為は、安楽の報いあるものであり、その行為は、行為の止滅のために等しく転起し、その行為は、行為の集起のために等しく転起しません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の因縁の経

 

113. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれます。比丘たちよ、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれます。比丘たちよ、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれます。比丘たちよ、では、どのように、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれるのですか。比丘たちよ、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、心によって、刻々と思考し、刻々と想念します。過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、心によって、刻々と思考し、刻々と想念していると、彼に、欲〔の思い〕が生まれます。欲〔の思い〕が生まれた者は、それらの法(事象)によって束縛された者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それは、心の貪染であり、わたしは、これを、束縛するもの()と説きます。比丘たちよ、このように、まさに、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれるのですか。比丘たちよ、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、心によって、刻々と思考し、刻々と想念します。未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、心によって、刻々と思考し、刻々と想念していると、彼に、欲〔の思い〕が生まれます。欲〔の思い〕が生まれた者は、それらの法(事象)によって束縛された者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それは、心の貪染であり、わたしは、これを、束縛するものと説きます。比丘たちよ、このように、まさに、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれるのですか。比丘たちよ、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、心によって、刻々と思考し、刻々と想念します。現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、心によって、刻々と思考し、刻々と想念していると、彼に、欲〔の思い〕が生まれます。欲〔の思い〕が生まれた者は、それらの法(事象)によって束縛された者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それは、心の貪染であり、わたしは、これを、束縛するものと説きます。比丘たちよ、このように、まさに、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、諸々の行為の集起のための因縁です。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれません。比丘たちよ、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれません。比丘たちよ、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれません。比丘たちよ、では、どのように、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれないのですか。比丘たちよ、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)の、未来の報いを覚知します。未来の報いを知って、それを回避します。それを回避して、心によって洞察して、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、このように、まさに、過去の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれないのですか。比丘たちよ、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)の、未来の報いを覚知します。未来の報いを知って、それを回避します。それを回避して、心によって洞察して、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、このように、まさに、未来の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれないのですか。比丘たちよ、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)の、未来の報いを覚知します。未来の報いを知って、それを回避します。それを回避して、心によって洞察して、智慧によって理解して〔あるがままに〕見ます。比丘たちよ、このように、まさに、現在の欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が止住するべき諸々の法(事象)を対象として、欲〔の思い〕が生まれません。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、諸々の行為の集起のための因縁があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 正覚の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『まさしく、過去において』があり、二つの悦楽、沙門、第五のものとして、泣き叫ぶこと、不満、そして、〔守られていないものと憎悪しているものの〕二つのものが説かれ、他に、二つの因縁があり、〔章となる〕」と。

 

(12)2. 悪所にある者の章

 

1. 悪所にある者の経

 

114. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、これを捨棄せずして、悪所にある者たちであり、地獄にある者たちです。どのようなものが、三つのものなのですか。そして、すなわち、梵行者ではないのに梵行者と明言する者であり、かつまた、すなわち、清浄なる梵行者として歩んでいる者を、根元ならざることによって、梵行ならざることによって、攻撃する者であり、さらに、すなわち、この、『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点は存在しない』と、このような論ある者であり、このような見解ある者です。彼は、それによって、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、これを捨棄せずして、悪所にある者たちがあり、地獄にある者たちがあります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 得難きものの経

 

115. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらのものの〕出現は、世において得難くあります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、阿羅漢にして正等覚者たる如来の出現は、世において得難くあります。如来によって知らされた法(教え)と律を説示する人は、世において得難くあります。恩を知り恩を感じる人は、世において得難くあります。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものの出現は、世において得難くあります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 無量なるものの経

 

116. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、量り易き者であり、量り難き者であり、無量なる者です。比丘たちよ、では、どのような人が、量り易き者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者として、正知なき者として、〔心が〕定められていない者として、混迷した心の者として、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この人は、量り易き者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、量り難き者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、〔心が〕高揚せず、傲慢とならず、軽薄ならず、駄弁ならず、言葉が乱れ飛ばず、気づきが現起された者として、正知の者として、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔感官の〕機能が統御された者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この人は、量り難き者と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのような人が、無量なる者なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として〔世に〕有ります。比丘たちよ、この人は、無量なる者と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 不動なるものの経

 

117. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちには、二万カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)の寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちには、四万カッパの寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において。

 

 比丘たちよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。彼は、それを味わい、それを欲し、さらに、それによって歓悦を体験し、そこにおいて止住した者として、それを信念した者として、それが多くある住者として、遍き衰退なき者として、命を終えつつ、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生します。比丘たちよ、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちには、六万カッパの寿命の量があります。そこにおいて、凡夫は、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、地獄にもまた赴き、畜生の胎にもまた赴き、餓鬼の境域にもまた赴きます。いっぽう、世尊の弟子は、そこにおいて、寿命のあるかぎり止住して、すなわち、それらの天〔の神々〕たちの寿命の量のあるかぎり、その全てを過ごして、まさしく、その生存において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、無聞の凡夫と有聞の聖なる弟子には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、〔未来の〕境遇において、〔未来の〕再生において。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 衰滅と成就の経

 

118. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの衰滅です。どのようなものが、三つのものなのですか。戒の衰滅であり、心の衰滅であり、見解の衰滅です。比丘たちよ、では、どのようなものが、戒の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、戒の衰滅と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、心の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、心の衰滅と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、見解の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、これは、見解の衰滅と説かれます。比丘たちよ、あるいは、戒の衰滅を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、あるいは、心の衰滅を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、あるいは、見解の衰滅を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの衰滅があります」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、三つのものなのですか。戒の成就であり、心の成就であり、見解の成就です。比丘たちよ、では、どのようなものが、戒の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、戒の成就と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、心の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、心の成就と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、見解の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、これは、見解の成就と説かれます。比丘たちよ、あるいは、戒の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、あるいは、心の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、あるいは、見解の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの成就があります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 純正品の経

 

119. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの衰滅です。どのようなものが、三つのものなのですか。戒の衰滅であり、心の衰滅であり、見解の衰滅です。比丘たちよ、では、どのようなものが、戒の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、戒の衰滅と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、心の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、心の衰滅と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、見解の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、これは、見解の衰滅と説かれます。比丘たちよ、あるいは、戒の衰滅を因として……略……。比丘たちよ、あるいは、見解の衰滅を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、純正品の賽子(さいころ)が、上に投げられたなら、まさしく、止まるところ〔止まる〕ところで、まさしく、見事に止まるべくして止まるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、あるいは、戒の衰滅を因として、有情たちは……略……再生します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの衰滅があります」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、三つのものなのですか。戒の成就であり、心の成就であり、見解の成就です。比丘たちよ、では、どのようなものが、戒の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……。比丘たちよ、これは、戒の成就と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、心の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、心の成就と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、見解の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、これは、見解の成就と説かれます。比丘たちよ、あるいは、戒の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、あるいは、心の成就を因として……略……。比丘たちよ、あるいは、見解の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、純正品の賽子が、上に投げられたなら、まさしく、止まるところ〔止まる〕ところで、まさしく、見事に止まるべくして止まるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、あるいは、戒の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、あるいは、心の成就を因として……略……。比丘たちよ、あるいは、見解の成就を因として、有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの成就があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 生業の経

 

120. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの衰滅です。どのようなものが、三つのものなのですか。生業の衰滅であり、生き方の衰滅であり、見解の衰滅です。比丘たちよ、では、どのようなものが、生業の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、生業の衰滅と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生き方の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った生き方の者として〔世に〕有り、誤った生き方によって生計を営みます。比丘たちよ、これは、生き方の衰滅と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、見解の衰滅なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。比丘たちよ、これは、見解の衰滅と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの衰滅があります」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、三つのものなのですか。生業の成就であり、生き方の成就であり、見解の成就です。比丘たちよ、では、どのようなものが、生業の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、生業の成就と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生き方の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい生き方の者として〔世に〕有り、正しい生き方によって生計を営みます。比丘たちよ、これは、生き方の成就と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、見解の成就なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。比丘たちよ、これは、見解の成就と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの成就があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第一の清廉たることの経

 

121. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの清廉たることです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体の清廉たることであり、言葉の清廉たることであり、意の清廉たることです。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体の清廉たることなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、身体の清廉たることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、言葉の清廉たることなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、言葉の清廉たることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、意の清廉たることなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、意の清廉たることと説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの清廉たることがあります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の清廉たることの経

 

122. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの清廉たることです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体の清廉たることであり、言葉の清廉たることであり、意の清廉たることです。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体の清廉たることなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、梵行ならざることから離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、身体の清廉たることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、言葉の清廉たることなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、言葉の清廉たることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、意の清廉たることなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が存在しているのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。あるいは、内に、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が存在しているのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、憎悪〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した憎悪〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕沈滞と眠気の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕高揚と悔恨の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。あるいは、内に、疑惑〔の思い〕()が存在しているのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、疑惑〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した疑惑〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。比丘たちよ、これは、意の清廉たることと説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの清廉たることがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「身体が清らかで、言葉が清らかで、心が清らかで、煩悩なき者を、〔三つの〕清廉たることが成就した清らかな者を、〔賢者たちは〕『悪しきものが洗い清められた者』と言う」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 沈黙たることの経

 

123. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの沈黙たることです。どのようなものが、三つのものなのですか。身体の沈黙たることであり、言葉の沈黙たることであり、意の沈黙たることです。比丘たちよ、では、どのようなものが、身体の沈黙たることなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、梵行ならざることから離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、身体の沈黙たることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、言葉の沈黙たることなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、言葉の沈黙たることと説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、意の沈黙たることなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、意の沈黙たることと説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの沈黙たることがあります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕沈黙たることが成就した牟尼(沈黙の聖者)を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う」と。〔以上が〕第十となる。

 

 悪所にある者の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「悪所にある者、得難きもの、無量なるもの、不動なるものと衰滅と成就、そして、純正品、生業、二つの清廉たること、沈黙たることがあり、〔章となる〕」と。

 

(13)3. クシナーラーの章

 

1. クシナーラーの経

 

124. 或る時のことです。世尊は、クシナーラーに住んでおられます。バリハラナの密林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、翌日の食事に招きます。比丘たちよ、望んでいるなら、比丘は承諾します。彼は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、その、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、住居地のあるところに、そこへと近づいて行きます。近づいて行って、設けられた坐に坐ります。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕します。

 

 彼に、このような〔思いが〕有ります。『善きかな、まさに、わたしを、この、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕する』と。彼に、また、このような〔思いも〕有ります。『ああ、まさに、わたしを、この、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、未来にもまた、このような形態の上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕するべきだ』と。彼は、その〔行乞の〕施食を、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益します。彼は、そこにおいて、欲望の思考をもまた思考し、憎悪の思考をもまた思考し、悩害の思考をもまた思考します。『比丘たちよ、このような形態の比丘に施されたものは、大いなる果とならない』と、わたしは説きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、〔彼は、気づきを〕怠る比丘として〔世に〕住むからです。

 

 比丘たちよ、また、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、翌日の食事に招きます。比丘たちよ、望んでいるなら、比丘は承諾します。彼は、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、その、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、住居地のあるところに、そこへと近づいて行きます。近づいて行って、設けられた坐に坐ります。〔まさに〕その、この者を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕します。

 

 彼に、このような〔思いは〕有りません。『善きかな、まさに、わたしを、この、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕する』と。彼に、また、このような〔思いも〕有りません。『ああ、まさに、わたしを、この、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、未来にもまた、このような形態の上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕するべきだ』と。彼は、その〔行乞の〕施食を、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益します。彼は、そこにおいて、離欲の思考をもまた思考し、憎悪なき思考をもまた思考し、悩害なき思考をもまた思考します。『比丘たちよ、このような形態の比丘に施されたものは、大いなる果となる』と、わたしは説きます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、〔彼は、気づきを〕怠らない比丘として〔世に〕住むからです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 言争の経

 

125. 「比丘たちよ、その方角において、比丘たちが、言争(いいあらそい)を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、この方角は、わたしにとって、意を為すことさえも平穏のものと成らず、ましてや、赴くことは〔言うまでもありません〕。ここにおいて、〔わたしは〕結論に至ります。『たしかに、それらの尊者たちは、三つの法(性質)を捨棄し、三つの法(性質)を多く為した』〔と〕。どのような三つの法(性質)を捨棄したのですか。離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考です。これらの三つの法(性質)を捨棄しました。どのような三つの法(性質)を多く作り為したのですか。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考です。これらの三つの法(性質)を多く作り為しました。比丘たちよ、その方角において、比丘たちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、この方角は、わたしにとって、意を為すことさえも平穏のものと成らず、ましてや、赴くことは〔言うまでもありません〕。ここにおいて、〔わたしは〕結論に至ります。『たしかに、それらの尊者たちは、これらの三つの法(性質)を捨棄し、これらの三つの法(性質)を多く為した』〔と〕。

 

 比丘たちよ、いっぽう、その方角において、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、この方角は、わたしにとって、赴くことさえも平穏のものと成り、ましてや、意を為すことは〔言うまでもありません〕。ここにおいて、〔わたしは〕結論に至ります。『たしかに、それらの尊者たちは、三つの法(性質)を捨棄し、三つの法(性質)を多く為した』〔と〕。どのような三つの法(性質)を捨棄したのですか。欲望の思考であり、憎悪の思考であり、悩害の思考です。これらの三つの法(性質)を捨棄しました。どのような三つの法(性質)を多く作り為したのですか。離欲の思考であり、憎悪なき思考であり、悩害なき思考です。これらの三つの法(性質)を多く作り為しました。比丘たちよ、その方角において、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、この方角は、わたしにとって、赴くことさえも平穏のものと成り、ましてや、意を為すことは〔言うまでもありません〕。ここにおいて、〔わたしは〕結論に至ります。『たしかに、それらの尊者たちは、これらの三つの法(性質)を捨棄し、これらの三つの法(性質)を多く為した』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. ゴータマカ塔廟の経

 

126. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。ゴータマカ塔廟において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、わたしは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示します。証知せずして、ではありません。比丘たちよ、わたしは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示します。因縁なきものとして、ではありません。比丘たちよ、わたしは、神変(変容)を有するものとして、法(教え)を説示します。神変なきものとして、ではありません。比丘たちよ、証知せずして、ではなく、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示している〔わたし〕には──因縁なきものとしてではなく、因縁を有するものとして、法(教え)を説示している〔わたし〕には──神変なきものとしてではなく、神変を有するものとして、法(教え)を説示している〔わたし〕には──〔まさに〕その、わたしには、為すべきこととして、教諭があり、為すべきこととして、教示があります。比丘たちよ、また、そして、あなたたちには、満足たるに十分なるものがあり、わが意を得るに十分なるものがあり、悦意たるに十分なるものがあります。世尊は、正等覚者です。法(教え)は、見事に告げ知らされました。僧団は、善き実践者です」と。

 

 世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、千の世の界域が揺れ動きました」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. カーラーマ〔族〕のバランドゥの経

 

127. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、遊行〔の旅〕を歩みながら、カピラヴァットゥのあるところに、そこへと至り着きました。まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、「どうやら、世尊が、カピラヴァットゥに到着したらしい」と耳にしました。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、世尊は、こう言いました。

 

 「マハー・ナーマよ、赴きなさい。カピラヴァットゥにおいて、そこにおいて、今日、わたしたちが一夜を住むことになる、そのような形態の居住所を見つけてきておくれ」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に答えて、カピラヴァットゥに入って、全面あまねくカピラヴァットゥを徘徊しながら、カピラヴァットゥにおいて、そこにおいて、今日、世尊が一夜を住むことになる、そのような形態の居住所を見ませんでした。

 

 そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、カピラヴァットゥにおいて、そこにおいて、今日、世尊が一夜を住むことになる、そのような形態の居住所は存在しません。尊き方よ、この者は、カーラーマ〔族〕のバランドゥは、世尊にとって、以前に梵行を共にした者です。世尊は、彼の庵所において、今日、一夜を住みたまえ」と。「マハー・ナーマよ、赴きなさい。敷物を設けなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に答えて、カーラーマ〔族〕のバランドゥの庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、敷物を設けて、〔両の〕足を洗い清めるための水を据え置いて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、敷物が広げられ、〔両の〕足を洗い清めるための水が据え置かれました。尊き方よ、今が、そのための時と、世尊がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、カーラーマ〔族〕のバランドゥの庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、〔両の〕足を洗いました。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、この〔思い〕が有りました。「まさに、今日は、世尊に奉侍するための時にあらず。世尊は、お疲れである。明日、まさに、わたしは、世尊に奉侍するのだ」と。〔彼は〕世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

 

 そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、その夜が明けると、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、世尊は、こう言いました。「マハー・ナーマよ、三つのものがあります。まさに、これらの教師たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。マハー・ナーマよ、ここに、一部の教師は、諸々の欲望の遍知を報知し、諸々の形態の遍知を報知せず、諸々の感受の遍知を報知しません。ここに、一部の教師は、諸々の欲望の遍知を報知し、諸々の形態の遍知を報知し、諸々の感受の遍知を報知しません。ここに、一部の教師は、諸々の欲望の遍知を報知し、諸々の形態の遍知を報知し、諸々の感受の遍知を報知します。マハー・ナーマよ、まさに、これらの三つの教師たちが、世において等しく見出されつつ存しています。マハー・ナーマよ、これらの三つの教師たちには、同一の結論がありますか、それとも、多々なる結論がありますか」と。

 

 このように説かれたとき、カーラーマ〔族〕のバランドゥは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、こう言いました。「マハー・ナーマよ、『同一のものがある』と説きなさい」と。このように説かれたとき、世尊は、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、こう言いました。「マハー・ナーマよ、『種々なるものがある』と説きなさい」と。再度また、まさに、カーラーマ〔族〕のバランドゥは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、こう言いました。「マハー・ナーマよ、『同一のものがある』と説きなさい」と。再度また、まさに、世尊は、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、こう言いました。「マハー・ナーマよ、『種々なるものがある』と説きなさい」と。三度また、まさに、カーラーマ〔族〕のバランドゥは、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、こう言いました。「マハー・ナーマよ、『同一のものがある』と説きなさい」と。三度また、まさに、世尊は、釈迦〔族〕のマハー・ナーマに、こう言いました。「マハー・ナーマよ、『種々なるものがある』と説きなさい」と。

 

 そこで、まさに、カーラーマ〔族〕のバランドゥに、この〔思い〕が有りました。「まさに、〔わたしは〕存している──大いなる権能ある釈迦〔族〕のマハー・ナーマの面前で、沙門ゴータマによって、三度に至るまで指弾された者として。それなら、さあ、わたしは、カピラヴァットゥから立ち去るべきだ」と。そこで、まさに、カーラーマ〔族〕のバランドゥは、カピラヴァットゥから立ち去りました。すなわち、カピラヴァットゥから立ち去った、そのままに、まさしく、立ち去った者として有り、ふたたび戻り来ることはなかった、ということです。〔以上が〕第四となる。

 

5. ハッタカの経

 

128. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ハッタカ天子が、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、「世尊の前に立つのだ」と〔試みるも〕、まさしく、〔地に〕沈み込み、まさしく、〔地に〕沈み行き、〔その場に〕立つことができません。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、酥が、あるいは、油が、砂のうえに注がれたなら、まさしく、〔地に〕沈み込み、まさしく、〔地に〕沈み行き、〔その場に〕止住しないように、まさしく、このように、ハッタカ天子は、「世尊の前に立つのだ」と〔試みるも〕、まさしく、〔地に〕沈み込み、まさしく、〔地に〕沈み行き、〔その場に〕立つことができません。

 

 そこで、まさに、世尊は、ハッタカ天子に、こう言いました。「ハッタカよ、粗大なる自己状態(個我的あり方・身体)を化作しなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ハッタカ天子は、世尊に答えて、粗大なる自己状態を化作して、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ハッタカ天子に、世尊は、こう言いました。

 

 「ハッタカよ、過去において、人間たる生類のあなたに、転起あるものとして有った、それらの法(教え)ですが、さて、いったい、それらの法(教え)は、今現在、あなたに、転起あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、さてまた、過去において、人間たる生類のわたしに、転起あるものとして有った、それらの法(教え)ですが、かつまた、それらの法(教え)は、今現在、わたしに、転起あるものとして〔有ります〕。尊き方よ、さてまた、過去において、人間たる生類のわたしに、転起あるものとして有ることなくあった、それらの法(教え)ですが、かつまた、それらの法(教え)は、今現在、わたしに、転起あるものとして〔有ります〕。尊き方よ、それは、たとえば、また、世尊が、今現在、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちに取り囲まれ〔世に〕住むように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、天子たちに取り囲まれ〔世に〕住みます。尊き方よ、遠くからもまた、天子たちはやってきます。『ハッタカ天子の現前において、法(教え)を聞くのだ』と。尊き方よ、三つのものがあります。わたしは、〔これらの〕法(性質)に満足なく際限なき者として命を終えたのです。どのようなものが、三つのものなのでしょうか。尊き方よ、わたしは、世尊と会見することに満足なく際限なき者として命を終えたのです。尊き方よ、わたしは、正なる法(教え)を聞くことに満足なく際限なき者として命を終えたのです。尊き方よ、わたしは、僧団に奉仕することに満足なく際限なき者として命を終えたのです。尊き方よ、わたしは、まさに、これらの三つの法(性質)に満足なく際限なき者として命を終えたのです」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「わたしは、世尊と会見することに、いついかなる時も、満足に到達しなかった。僧団に奉仕することに、さらに、正なる法(教え)を聞くことにも。

 

 卓越の戒を学びながら、正なる法(教え)を聞くことを喜び、ハッタカは、三つの法(性質)に満足なき者として、無煩〔天〕に赴いたのだ」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 辛く穢れとなるものの経

 

129. 或る時のことです。世尊は、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、バーラーナシーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、世尊は、ピラッカ〔樹〕のある牛市場において、〔行乞の〕食のために歩みながら、或るひとりの比丘が、〔内に〕空虚な悦楽ある者としてあり、外に〔欲望の〕悦楽ある者としてあるのを──気づきが忘却された者としてあり、正知なき者としてあり、〔心が〕定められていない者としてあり、混迷した心の者としてあり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者としてあるのを──見ました。見て、その比丘に、こう言いました。

 

 「比丘よ、まさに、あなたは、自己に辛く穢れとなるものを作り為してはいけません。比丘よ、自己に辛く穢れとなるものが作り為され、生臭(なまぐさ)が漏れ出ている、まさに、その者に、蝿たちが群集せず来襲しない、という、この状況は見出されません」と。そこで、まさに、その比丘は、世尊によって、この教諭によって教え諭され、畏怖〔の思い〕を起こしました。そこで、まさに、世尊は、バーラーナシーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、比丘たちに告げました。

 

 「比丘たちよ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、バーラーナシーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、わたしは、ピラッカ〔樹〕のある牛市場において、〔行乞の〕食のために歩みながら、或るひとりの比丘が、〔内に〕空虚な悦楽ある者としてあり、外に〔欲望の〕悦楽ある者としてあるのを──気づきが忘却された者としてあり、正知なき者としてあり、〔心が〕定められていない者としてあり、混迷した心の者としてあり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者としてあるのを──見ました。見て、その比丘に、こう言いました。

 

 『比丘よ、まさに、あなたは、自己に辛く穢れとなるものを作り為してはいけません。比丘よ、自己に辛く穢れとなるものが作り為され、生臭が漏れ出ている、まさに、その者に、蝿たちが群集せず来襲しない、という、この状況は見出されません』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その比丘は、わたしによって、この教諭によって教え諭され、畏怖〔の思い〕を起こしました」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、何が、辛く穢れとなるものなのですか。何が、生臭なのですか。何が、蝿たちなのですか」と。

 

 「比丘よ、まさに、強欲〔の思い〕が、辛く穢れとなるものです。憎悪〔の思い〕が、生臭です。諸々の悪しき善ならざる思考が、蝿たちです。比丘よ、自己に辛く穢れとなるものが作り為され、生臭が漏れ出ている、まさに、その者に、蝿たちが群集せず来襲しない、という、この状況は見出されません」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「眼と耳において守られず、諸々の〔感官の〕機能において統御されていない者に、貪欲〔の思い〕に依拠した妄想の蝿たちは、従い行くであろう。

 

 〔自己に〕辛く穢れとなるものを作り為し、生臭にたいし〔煩悩が〕漏れ出ている比丘は、涅槃から遠く離れて〔世に〕有る──まさしく、〔世の〕悩苦を分有する者として。

 

 もしくは、村においてであろうが、林においてであろうが、自己の〔心の〕止寂を得ずして、〔妄想の〕蝿たちに囲まれ、思慮浅き愚者は、〔世を〕巡り行く。

 

 しかしながら、彼ら、戒を成就し、智慧と寂止を喜ぶ者たちがいる。寂静者たちは、〔妄想の〕蝿たちを滅ぼして、安楽のうちに臥す」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第一のアヌルッダの経

 

130. そこで、まさに、尊者アヌルッダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、多くのところとして、女性が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しつつあるのを見ます。尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの諸々の法(性質)を具備した女性が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか」と。

 

 「アヌルッダよ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。どのようなものが、三つのものなのですか。アヌルッダよ、ここに、女性が、早刻時のあいだ、物惜の垢に遍く取り囲まれた心で家に居住し、日中時のあいだ、嫉妬〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で家に居住し、夕刻時のあいだ、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた心で家に居住します。アヌルッダよ、まさに、これらの三つの支分を具備した女性は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第二のアヌルッダの経

 

131. そこで、まさに、尊者アヌルッダが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます。また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものとなり、気づきは現起され、忘却なきものとなり、身体は静息し、懊悩を有さないものとなり、心は定められ、一境のものとなります。そこで、また、そして、わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します」と。

 

 「友よ、アヌルッダよ、すなわち、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます』と。あなたのこの〔思い〕は、〔我想の〕思量()のうちにあります。友よ、アヌルッダよ、すなわち、また、あなたに、このような〔思いが〕有ります。『わたしの、精進は勉励され、退去なきものとなり、気づきは現起され、忘却なきものとなり、身体は静息し、懊悩を有さないものとなり、心は定められ、一境のものとなります』と。あなたのこの〔思い〕は、〔心の〕高揚(掉挙)のうちにあります。友よ、アヌルッダよ、すなわち、また、あなたに、このような〔思いが〕有ります。『わたしの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱します』と。あなたのこの〔思い〕は、〔心の〕悔恨(悪作)のうちにあります。どうか、まさに、尊者アヌルッダは、これらの三つの法(性質)を捨棄して、これらの三つの法(性質)に意を為さずして、不死の界域(涅槃)に、心を近しく集中したまえ」と。

 

 そこで、まさに、尊者アヌルッダは、他時にあって、これらの三つの法(性質)を捨棄して、これらの三つの法(性質)に意を為さずして、不死の界域に、心を近しく集中しました。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者アヌルッダは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第八となる。

 

9. 隠されたものの経

 

132. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらのものは、隠されたときに〔繁栄を〕もたらします──開かれたときではなく。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、女性は、隠されたときに〔繁栄を〕もたらします──開かれたときではなく。比丘たちよ、婆羅門たちの諸々の呪文は、隠されたときに〔繁栄を〕もたらします──開かれたときではなく。比丘たちよ、誤った見解は、隠されたときに〔繁栄を〕もたらします──開かれたときではなく。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものは、隠されたときに〔繁栄を〕もたらします──開かれたときではなく。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。これらのものは、開かれたときに遍照します──隠されたときではなく。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、月輪は、開かれたときに遍照します──隠されたときではなく。比丘たちよ、日輪は、開かれたときに遍照します──隠されたときではなく。比丘たちよ、如来によって知らされた法(教え)と律は、開かれたときに遍照します──隠されたときではなく。比丘たちよ、まさに、これらの三つのものは、開かれたときに遍照します──隠されたときではなく」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 線の経

 

133. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、三つのものなのですか。岩の線の如き人であり、地の線の如き人であり、水の線の如き人です。比丘たちよ、では、どのようなものが、岩の線の如き人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、幾度となく忿激し、そして、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、岩に〔刻まれた〕線が、あるいは、風によって、あるいは、水によって、すみやかに崩壊せず、長く止住するものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、幾度となく忿激し、そして、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となります。比丘たちよ、この者は、岩の線の如き人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、地の線の如き人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、幾度となく忿激し、そして、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となりません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、地に〔画かれた〕線が、あるいは、風によって、あるいは、水によって、すみやかに崩壊し、長く止住するものと成らないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、幾度となく忿激し、そして、まさに、彼の、その忿激は、長夜にわたり、悪習となりません。比丘たちよ、この者は、地の線の如き人と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、水の線の如き人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、荒々しい〔言葉〕で説かれているときもまた、粗暴な〔言葉〕で説かれているときもまた、意に適わない〔言葉〕で説かれているときもまた、まさしく、〔普通に〕関係し、まさしく、〔普通に〕合流し、〔普通に〕挨拶を交わします。比丘たちよ、それは、たとえば、また、水に〔引かれた〕線が、まさしく、すみやかに消え行き、長く止住するものと成らないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の人は、荒々しい〔言葉〕で説かれているときもまた、粗暴な〔言葉〕で説かれているときもまた、意に適わない〔言葉〕で説かれているときもまた、まさしく、〔普通に〕関係し、まさしく、〔普通に〕合流し、〔普通に〕挨拶を交わします。比丘たちよ、この者は、水の線の如き人と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第十となる。

 

 クシナーラーの章が第十三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、クシナーラーと言争、ゴータマとバランドゥとハッタカ、辛く穢れとなるもの、二つのアヌルッダ、隠されたものがあり、線とともに、それらの十がある」と。

 

(14)4. 軍人の章

 

1. 軍人の経

 

134. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した軍人は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、軍人が、そして、遠くから射る者として、かつまた、瞬時に貫く者として、さらに、大いなる身体を切り裂く者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した軍人は、王に値するものと成り、王の財物たるものと〔成り〕、まさしく、『王の支分』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、遠くから射る者として、かつまた、瞬時に貫く者として、さらに、大いなる身体を切り裂く者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、遠くから射る者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の感受〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、表象〔作用〕()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の表象〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形成〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、識知〔作用〕()としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、遠くから射る者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、瞬時に貫く者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、瞬時に貫く者として〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、大いなる身体を切り裂く者として〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、大いなる無明の範疇()を切り裂きます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、大いなる身体を切り裂く者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、〔供物を〕捧げられるべき者と成り……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑と〔成ります〕」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 衆の経

 

135. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、三つのものなのですか。巧言によって教導された衆であり、反問によって教導された衆であり、ある限りのものによって教導された衆です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの衆があります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 朋友の経

 

136. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した者は、朋友として慣れ親しむべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。施し難きものを施します。為し難きことを為します。忍耐し難きことを忍耐します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの支分を具備した者は、朋友として慣れ親しむべきです」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 生起の経

 

137. 「比丘たちよ、あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域()は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があります。一切の形成〔作用〕は、無常です(諸行無常)。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『一切の形成〔作用〕は、無常である』と。あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があります。一切の形成〔作用〕は、苦痛です(一切皆苦)。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『一切の形成〔作用〕は、苦痛である』と。あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があります。一切の法(事象)は、無我です(諸法無我)。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。『一切の法(事象)は、無我である』」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 髪の毛布の経

 

138. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の織物の衣のなかでは、髪の毛布が、それらのなかの劣等のものと告げ知らされます。比丘たちよ、髪の毛布は、寒いときは寒く、暑いときは暑く、悪しき色艶あるものであり、悪しき臭気あるものであり、苦痛の接触あるものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、多々なる沙門や婆羅門たちの論のなかでは、マッカリ(マッカリ・ゴーサーラ:六師外道の一者・運命決定論者)の論が、それらのなかの劣等のものと告げ知らされます。

 

 比丘たちよ、愚人のマッカリは、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『行為は存在しない。作用は存在しない。精進は存在しない』と。比丘たちよ、たとえ、彼らが誰であれ、過去の時に〔世に〕有った、阿羅漢にして正等覚者たちであるなら、それらの世尊たちもまた、まさしく、そして、行為を説く者たちとして、かつまた、作用を説く者たちとして、さらに、精進を説く者たちとして、〔世に〕有りました。比丘たちよ、彼らをもまた、愚人のマッカリは拒否します。『行為は存在しない。作用は存在しない。精進は存在しない』と。比丘たちよ、たとえ、彼らが誰であれ、未来の時に〔世に〕有るであろう、阿羅漢にして正等覚者たちであるなら、それらの世尊たちもまた、まさしく、そして、行為を説く者たちとして、かつまた、作用を説く者たちとして、さらに、精進を説く者たちとして、〔世に〕有るでしょう。比丘たちよ、彼らをもまた、愚人のマッカリは拒否します。『行為は存在しない。作用は存在しない。精進は存在しない』と。比丘たちよ、わたしもまた、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、まさしく、そして、行為を説く者であり、かつまた、作用を説く者であり、さらに、精進を説く者です。比丘たちよ、わたしをもまた、愚人のマッカリは拒否します。『行為は存在しない。作用は存在しない。精進は存在しない』と。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、河口において、多くの魚たちの、利益ならざるもののために、苦痛のために、不幸のために、災厄のために、捕獲網を仕掛けるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、愚人のマッカリは、思うに、人間の捕獲網として、多くの有情たちの、利益ならざるもののために、苦痛のために、不幸のために、災厄のために、世に生起したのです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 成就の経

 

139. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの成就です。どのようなものが、三つのものなのですか。信の成就であり、戒の成就であり、智慧の成就です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの成就があります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 増大の経

 

140. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの増大です。どのようなものが、三つのものなのですか。信の増大であり、戒の増大であり、智慧の増大です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの増大があります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 野馬たる馬の経

 

141. 「比丘たちよ、では、三つの野馬たる馬を、そして、三つの野馬たる人を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの野馬たる馬なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、速さを成就したものとして、〔世に〕有ります──栄誉(色艶)を成就したものではなく、高さと広さ(均整)を成就したものではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる馬は、かつまた、速さを成就したものとして、かつまた、栄誉を成就したものとして、〔世に〕有ります──高さと広さを成就したものではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる馬は、かつまた、速さを成就したものとして、かつまた、栄誉を成就したものとして、かつまた、高さと広さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの野馬たる馬があります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの野馬たる人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、速さを成就した者として〔世に〕有ります──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有ります──高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、野馬たる人は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)について、高次の律(対律・勝律)について、問いを尋ねられたなら、放置し、回答しません。彼の栄誉ならざることについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有りません。彼の高さと広さなきことについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、野馬たる人は、速さを成就した者として、〔世に〕有ります──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、野馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有るのですか──高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有りません。彼の高さと広さなきことについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、野馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有ります──高さと広さを成就した者ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、野馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼の高さと広さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、野馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの野馬たる人があります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 駿馬たる馬の経

 

142. 「比丘たちよ、では、三つの駿馬たる馬を、そして、三つの駿馬たる人を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの駿馬たる馬なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の駿馬たる馬は、速さを成就したものとして〔世に〕有ります──栄誉(色艶)を成就したものではなく、高さと広さ(均整)を成就したものではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の駿馬たる馬は、かつまた、速さを成就したものとして、かつまた、栄誉を成就したものとして、〔世に〕有ります──高さと広さを成就したものではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の駿馬たる馬は、かつまた、速さを成就したものとして、かつまた、栄誉を成就したものとして、かつまた、高さと広さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの駿馬たる馬があります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの駿馬たる人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の駿馬たる人は、速さを成就した者として〔世に〕有ります──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の駿馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有ります──高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の駿馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、駿馬たる人は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられたなら、放置し、回答しません。彼の栄誉ならざることについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有りません。彼の高さと広さなきことについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、駿馬たる人は、速さを成就した者として、〔世に〕有ります──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、駿馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有るのですか──高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有りません。彼の高さと広さなきことについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、駿馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有ります──高さと広さを成就した者ではなく。

 

 比丘たちよ、では、どのように、駿馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼の高さと広さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、駿馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの駿馬たる人があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 良馬たる馬の経

 

143. 「比丘たちよ、では、三つの賢馬にして良馬たる馬を、そして、三つの賢馬にして良馬たる人を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの賢馬にして良馬たる馬なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の賢馬にして良馬たる馬は……略……かつまた、速さを成就したものとして、かつまた、栄誉を成就したものとして、かつまた、高さと広さを成就したものとして、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの賢馬にして良馬たる馬があります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの賢馬にして良馬たる人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の賢馬にして良馬たる人は……略……かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、賢馬にして良馬たる人は……略……かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼の高さと広さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、賢馬にして良馬たる人は、かつまた、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、かつまた、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの賢馬にして良馬たる人があります」と。〔以上が〕第十となる。

 

11. 第一のモーラ・ニヴァーパの経

 

144. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。〔もはや〕学ぶことなき戒の範疇であり、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇であり、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十一となる。

 

12. 第二のモーラ・ニヴァーパの経

 

145. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。神通の神変であり、指摘の神変であり、教示の神変です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十二となる。

 

13. 第三のモーラ・ニヴァーパの経

 

146. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕。どのようなものが、三つのものなのですか。正しい見解であり、正しい知恵であり、正しい解脱です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した比丘は、究極の結論ある者と成り、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕」と。〔以上が〕第十三となる。

 

 軍人の章が第十四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「戦士、そして、衆と朋友、生起、髪の毛布、成就、増大、三つの馬、三つのモーラ・ニヴァーパがあり、〔章となる〕」と。

 

(15)5. 幸福の章

 

1. 善ならざるものの経

 

147. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。善ならざる身体の行為であり、善ならざる言葉の行為であり、善ならざる意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。善なる身体の行為であり、善なる言葉の行為であり、善なる意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 罪過を有するものの経

 

148. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。罪過を有する身体の行為であり、罪過を有する言葉の行為であり、罪過を有する意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。罪過なき身体の行為であり、罪過なき言葉の行為であり、罪過なき意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの……略……このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 正しからざるものの経

 

149. 「比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。正しからざる身体の行為であり、正しからざる言葉の行為であり、正しからざる意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの……略……このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。正しい身体の行為であり、正しい言葉の行為であり、正しい意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの……略……このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 清らかならざるものの経

 

150. 「比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。清らかならざる身体の行為であり、清らかならざる言葉の行為であり、清らかならざる意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの……略……このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。清らかな身体の行為であり、清らかな言葉の行為であり、清らかな意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 第一の掘り崩されたものの経

 

151. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。どのようなものが、三つのものなのですか。善ならざる身体の行為であり、善ならざる言葉の行為であり、善ならざる意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した、明敏ならず正なる人士ならざる愚者は、掘り崩され打ち砕かれた自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過を有する者と成り、かつまた、批判を有する者と〔成り〕、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します。どのようなものが、三つのものなのですか。善なる身体の行為であり、善なる言葉の行為であり、善なる意の行為です。……略……。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の掘り崩されたものの経

 

152. 「比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。罪過を有する身体の行為であり、罪過を有する言葉の行為であり、罪過を有する意の行為です。……略……。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。罪過なき身体の行為であり、罪過なき言葉の行為であり、罪過なき意の行為です。……略……。〔以上が〕第六となる。

 

7. 第三の掘り崩されたものの経

 

153. 「比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。正しからざる身体の行為であり、正しからざる言葉の行為であり、正しからざる意の行為です。……略……。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。正しい身体の行為であり、正しい言葉の行為であり、正しい意の行為です。……略……。〔以上が〕第七となる。

 

8. 第四の掘り崩されたものの経

 

154. 「比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。清らかならざる身体の行為であり、清らかならざる言葉の行為であり、清らかならざる意の行為です。……略……。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。……略……。清らかな身体の行為であり、清らかな言葉の行為であり、清らかな意の行為です。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した、明敏にして正なる人士たる賢者は、掘り崩されず打ち砕かれない自己を守り抜き、識者たちにとって、そして、罪過なき者と成り、かつまた、批判なき者と〔成り〕、さらに、多くの功徳を生み出します」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 敬拝の経

 

155. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの敬拝です。どのようなものが、三つのものなのですか。身体によるものであり、言葉によるものであり、意によるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの敬拝があります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 早刻の経

 

156. 「比丘たちよ、それらの有情たちが、早刻時に、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行なうなら、比丘たちよ、それらの有情たちには、善き早刻があります。

 

 比丘たちよ、それらの有情たちが、日中時に、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行なうなら、比丘たちよ、それらの有情たちには、善き日中があります。

 

 比丘たちよ、それらの有情たちが、夕刻時に、身体による善き行ないを行ない、言葉による善き行ないを行ない、意による善き行ないを行なうなら、比丘たちよ、それらの有情たちには、善き夕刻があります」と。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「善き星宿と善き幸福、すばらしい夜明けとすばらしい目覚め、そして、善き瞬間と善き刻限──梵行者たちにおいては、善き供えものがある。

 

 僥倖なる身体の行為、僥倖なる言葉の行為、僥倖なる意の行為──僥倖なる〔行為〕においては、誓願がある。彼らは、諸々の僥倖なる〔行為〕を為して、諸々の僥倖なる義(利益)を得る。

 

 彼らは、義(利益)を得た者たちとなり、安楽の者たちとなり、覚者の教えにおいて成長した者たちとなる。〔あなたたちも〕無病で安楽の者たちと成れ──全ての親族たちと共に」と。〔以上が〕第十となる。

 

 幸福の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「そして、善ならざるもの、罪過を有するもの、正しからざるものと清らかならざるものと共に、四つの掘り崩されたもの、敬拝があり、さらに、早刻とともに、それらの十がある」と。

 

 第三の五十なるものは〔以上で〕完結となる。

 

(16)6. 無衣の者の章

 

157-163. 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、三つのものなのですか。荒々しい〔実践の〕道であり、焼尽する〔実践の〕道であり、中なる〔実践の〕道(中道)です。比丘たちよ、では、どのようなものが、荒々しい〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点は存在しない』と。彼は、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。比丘たちよ、これは、荒々しい〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、焼尽する〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。

 

 彼は、野菜を食物とする者ともまた成り、粟を食物とする者ともまた成り、野生米を食物とする者ともまた成り、革屑を食物とする者ともまた成り、苔を食物とする者ともまた成り、糠を食物とする者ともまた成り、飯汁を食物とする者ともまた成り、胡麻粉を食物とする者ともまた成り、草を食物とする者ともまた成り、牛糞を食物とする者ともまた成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。

 

 彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、焼尽する〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、中なる〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの〔実践の〕道があります」と。

 

 「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、三つのものなのですか。荒々しい〔実践の〕道であり、焼尽する〔実践の〕道であり、中なる〔実践の〕道です。比丘たちよ、では、どのようなものが、荒々しい〔実践の〕道なのですか。……略……。比丘たちよ、これは、荒々しい〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、焼尽する〔実践の〕道なのですか。……略……。比丘たちよ、これは、焼尽する〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。……。

 

 ……欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心(専心)の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。……略……。

 

 ……信の機能を修めます。……精進の機能を修めます。……気づきの機能を修めます。禅定の機能を修めます。……智慧の機能を修めます。……。

 

 ……信の力を修めます。……精進の力を修めます。……気づきの力を修めます。……禅定の力を修めます。……智慧の力を修めます。……。

 

 ……気づきという正覚の支分を修めます。……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。……放捨という正覚の支分を修めます。……。

 

 ……正しい見解を修めます。……正しい思惟を修めます。……正しい言葉を修めます。……正しい行業を修めます。……正しい生き方を修めます。……正しい努力を修めます。……正しい気づきを修めます。……正しい禅定を修めます。比丘たちよ、これは、中なる〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの〔実践の〕道があります」と。

 

 無衣の者の章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「気づきの確立、正しい精励があり、そして、神通の足場と機能とともに、力、覚りの支分、さらに、道があり、〔実践の〕道と結び付けるべきである」と。

 

(17)7. 行為の道と省略〔の経典〕

 

164-183. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。そして、自己みずから、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことを受持させ、かつまた、命あるものを殺すことを等しく承認する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、地獄に放ち置かれる者となります。

 

 比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります。どのようなものが、三つのものなのですか。そして、自己みずから、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることを受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることを等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、虚偽を説く者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことを受持させ、かつまた、虚偽を説くことを等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉を受持させ、かつまた、中傷の言葉を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、中傷の言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉を受持させ、かつまた、粗暴な言葉を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、さらに、雑駁な虚論を受持させ、かつまた、雑駁な虚論を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、さらに、他者に、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を受持させ、かつまた、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、さらに、他者に、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、憎悪している心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、さらに、他者に、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を受持させ、かつまた、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、誤った見解ある者として〔世に〕有り、さらに、他者に、誤った見解を受持させ、かつまた、誤った見解を等しく承認する者として〔世に〕有ります。……。

 

 ……そして、自己みずから、正しい見解ある者として〔世に〕有り、さらに、正しい見解を受持させ、かつまた、正しい見解を等しく承認する者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの法(性質)を具備した者は、運ばれるままに、このように、天上に放ち置かれる者となります」と。

 

 行為の道と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 そのための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「命あるもの、そして、与えられていないものと誤った〔行ない〕、さらに、虚偽を説くこと、中傷、粗暴、そして、雑駁な虚論、強欲〔の思い〕、さらに、憎悪〔の思い〕と見解があり、諸々の行為の道と省略〔の経典〕となり、三なるものと結び付けるべきである」と。

 

(18)8. 貪欲と省略〔の経典〕

 

184. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、三つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが、三つのものなのですか。空性の禅定であり、無相の禅定であり、無願の禅定です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです。

 

 比丘たちよ、貪欲の遍知のために……略……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです。

 

 比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨()の……偽装()の……加虐()の……嫉妬()の……物惜()の……幻惑()の……狡猾()の……強情()の……激昂()の……思量()の……高慢(過慢)の……驕慢()の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの三つの法(性質)が修められるべきです」と。

 

 (世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。)

 

 貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。

 

 そのための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲、そして、憤怒、さらに、迷妄、忿激、第五のものとして、怨恨、そして、偽装と加虐と嫉妬、物惜と幻惑と狡猾──

 

 そして、強情と激昂と思量、さらに、高慢と驕慢、第十七のものとして、放逸が説かれ、貪欲と省略〔の経典〕の依拠するところとなる。

 

 これらのものに、類似のものとして結び付き、惹起するものとして、証知、遍知、完全なる滅尽、捨棄と滅尽と衰失、離貪と止滅と施捨、放棄が、これらの十がある。

 

 空性、そして、無相、さらに、無願が、〔これらの〕三者が、禅定の根元たるものとして、省略〔の経典〕においてもまた、そして、定め置かれるところとなる」と。

 

 ティカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。