小部経典(クッダカ・ニカーヤ)

 

14. 1. マハー・ニッデーサ聖典(大義釈)

 

【目次】

 

1. 八なるものの章[1]

 

1. 1. 欲望の経についての釈示[2]

1. 2. 洞窟についての八なるものの経についての釈示[86]

1. 3. 汚れについての八なるものの経についての釈示[217]

1. 4. 清浄についての八なるものの経についての釈示[283]

1. 5. 最高についての八なるものの経についての釈示[355]

1. 6. 老の経についての釈示[415]

1. 7. ティッサ・メッテイヤの経についての釈示[509]

1. 8. パスーラの経についての釈示[591]

1. 9. マーガンディヤの経についての釈示[677]

1. 10. 「〔身体の〕破壊の前に」の経についての釈示[795]

1. 11. 紛争と論争の経についての釈示[940]

1. 12. 小さなまとまりの経についての釈示[1068]

1. 13. 大きなまとまりの経についての釈示[1184]

1. 14. 迅速の経についての釈示[1344]

1. 15. 自己の棒の経についての釈示[1572]

1. 16. サーリプッタの経についての釈示[1779]

 

 

 

 

 [1]阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

14. 1. マハー・ニッデーサ聖典(大義釈)

 

1. 八なるものの章

 

1. 1. 欲望の経についての釈示

 

1.

 

 [2]772.(766) 欲望〔の対象〕を欲しているとして、もし、彼の、その〔欲望〕が等しく実現するなら、たしかに、喜悦の意ある者と成る──人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て。(1)

 

 [3]「欲望〔の対象〕を欲しているとして」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物()の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の欲望である。(1)どのようなものが、諸々の事物の欲望であるのか。諸々の意に適う形態()、諸々の意に適う音声()、諸々の意に適う臭気()、諸々の意に適う味感()、諸々の意に適う感触(所触)、諸々の敷物、諸々の着物、奴婢や奴隷たち、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち、田畑、地所、金貨、黄金、村や町や王都、かつまた、国土、かつまた、地方、かつまた、蔵、かつまた、貯蔵庫、それが何であれ、貪るべき事物は、諸々の事物の欲望である。

 

 [4]さらに、また、諸々の過去の欲望〔の対象〕、諸々の未来の欲望〔の対象〕、諸々の現在の欲望〔の対象〕、諸々の内なる欲望〔の対象〕、諸々の外なる欲望〔の対象〕、諸々の内なると外なる欲望〔の対象〕、諸々の下劣なる欲望〔の対象〕、諸々の中等なる欲望〔の対象〕、諸々の精妙なる欲望〔の対象〕、諸々の悪所の欲望〔の対象〕、諸々の人間の欲望〔の対象〕、諸々の天の欲望〔の対象〕、諸々の〔因縁によって〕現起した欲望〔の対象〕(地獄を除く他の悪趣の有情・人間・四大王天・兜率天における欲望の対象)、諸々の化作された欲望〔の対象〕(化楽天における欲望の対象)、諸々の化作されたものではない欲望〔の対象〕、諸々の他によって化作された欲望〔の対象〕(他化自在天における欲望の対象)、諸々の遍く収取された欲望〔の対象〕、諸々の遍く収取されたものではない欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕された欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕されたものではない欲望〔の対象〕があり、一切の欲望の行境(欲界)の法(事象)もまた、一切の形態の行境(色界:心と身体が完全に同調して機能している世界)の法(事象)もまた、一切の形態なき行境(無色界:心が身体に依存せず単独で機能している世界)の法(事象)もまた、渇愛の基盤(根拠)となり、渇愛の対象(所縁)となるなら、欲するべきものの義(意味)によって、貪るべきものの義(意味)によって、酔うべきものの義(意味)によって、諸々の欲望〔の対象〕となる。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。

 

 [5](2)どのようなものが、諸々の〔心の〕汚れの欲望であるのか。欲〔の思い〕は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟と貪り〔の思い〕は、欲望である。すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛()、欲望〔の対象〕にたいする執取()、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害()である。

 

 [6]〔そこで、詩偈に言う〕「欲望よ、おまえの根元を、〔わたしは〕見た。欲望よ、〔誤った〕思惟から、〔おまえは〕生じた。おまえのことを、〔もはや、わたしは〕思惟しない。欲望よ、このように、〔もはや、おまえは〕有りはしない」と。

 

 [7]これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「欲しているとして」とは、欲しているとして、欲求しているとして、愛用しているのとして、切望しているとして、熱望しているとして、渇望しているとして。ということで、「欲望〔の対象〕を欲しているとして」。

 

 [8]「もし、彼の、その〔欲望〕が等しく実現するなら」とは、「もし、彼の」とは、彼の──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「その〔欲望〕が」とは、諸々の事物の欲望と説かれる。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭気、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。「等しく実現する」とは、実現する、等しく実現する、得る、獲得する、到達する、見出す。ということで、「もし、彼の、その〔欲望〕が等しく実現するなら」。

 

 [9]「たしかに、喜悦の意ある者と成る」とは、「たしかに」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、誤解なき言葉、確保する言葉。これが、「たしかに」ということになる。「喜悦」とは、すなわち、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)に関係したものとしての、喜悦、歓喜、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、満足、心の、勇躍すること、わが意を得ること、満悦することである。「意」とは、すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。これが、意と説かれる。この意が、この喜悦と、共具したもの、共に生じたもの、交わり合ったもの、結び付いたもの、一なる生起あるもの、一なる止滅あるもの、一なる基盤あるもの、一なる対象あるものと成る。「喜悦の意ある者と成る」とは、喜悦の意ある者と成り、満足した意ある者、笑喜した意ある者、欣喜した意ある者、わが意を得た者、勇躍する意ある者、歓喜した意ある者、強く歓喜した意ある者と成る。ということで、「たしかに、喜悦の意ある者と成る」。

 

 [10]「人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て」とは、「得て」とは、得て、獲得して、到達して、見出して。「人(マッチャ)は」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者は。「〔まさに〕その、求めるところのものを」とは、〔まさに〕その、欲求するところのもので、〔まさに〕その、愛用するところのもので、〔まさに〕その、切望するところのもので、〔まさに〕その、熱望するところのもので、〔まさに〕その、渇望するところのもので、あるいは、形態を、あるいは、音声を、あるいは、臭気を、あるいは、味感を、あるいは、感触を。ということで、「人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て」。

 

 [11]それによって、世尊は言った。

 

 [12]「欲望〔の対象〕を欲しているとして、もし、彼の、その〔欲望〕が等しく実現するなら、たしかに、喜悦の意ある者と成る──人は、〔まさに〕その、求めるところのものを得て」と。

 

2.

 

 [13]773.(767) もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして──人に、欲〔の思い〕が生じたとして──それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するなら、矢に貫かれた者のように悩み苦しむ。(2)

 

 [14]「もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして」とは、「もし、彼が」とは、彼が──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「〔欲望の対象を〕欲しているとして」とは、諸々の欲望〔の対象〕を、欲求しているとして、愛用しているのとして、切望しているとして、熱望しているとして、渇望しているとして。さらに、あるいは、欲望〔の対象〕にたいする渇愛によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められる。たとえば、あるいは、象の乗物によって、あるいは、馬の乗物によって、あるいは、牛の乗物によって、あるいは、山羊の乗物によって、あるいは、羊の乗物によって、あるいは、駱駝の乗物によって、あるいは、驢馬の乗物によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められるように、まさしく、このように、欲望〔の対象〕にたいする渇愛によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められる。ということで、「もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして」。

 

 [15]「人に、欲〔の思い〕が生じたとして」とは、「欲〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛、欲望〔の対象〕にたいする執取、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害である。彼には、〔まさに〕その、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、生じたもの、産出したもの、発現したもの、結実したもの、出現したものとして有る。「人(ジャントゥ)に」とは、有情に、人(ナラ)に、人間(マーナヴァ)に、人士に、人物に、生ある者に、生に赴く者に、人(ジャントゥ)に、死に至る者に、マヌから生じる者に。ということで、「人に、欲〔の思い〕が生じたとして」。

 

 [16]「それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するなら」とは、(1)あるいは、それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するなら。(2)あるいは、彼が、〔それらの〕欲望〔の対象〕から遍く衰退するなら。(1)どのように、それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するのか。彼が、まさしく、〔世に〕止住しているとして、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去り、あるいは、安置しておいたものに到達せず、あるいは、難儀している生業(仕事)が破綻し、あるいは、家に、家の炭たる者(家を滅ぼす者)が生起し、彼が、それらの財物を、離散し、砕破し、砕破させる。まさしく、無常性が、第八のものとなる。このように、それらの欲望〔の対象〕が、衰退し、遍く衰退し、滅亡し、崩落し、消没し、破滅する。(2)どのように、彼が、〔それらの〕欲望〔の対象〕から遍く衰退するのか。それらの財物が、まさしく、〔世に〕止住しているとして、彼が、死滅し、死に、破滅する。このように、彼が、〔それらの〕欲望〔の対象〕から、衰退し、遍く衰退し、滅亡し、崩落し、消没し、破滅する。

 

 [17]〔そこで、詩偈に言う〕「盗賊たちが、王たちが、〔財を〕運び去る。火が、〔財を〕焼き尽くし、〔財は〕滅し行く。そこで、終極には、執持〔の対象〕(所有物)と共に、肉体を捨棄する。思慮ある者は、このことを了知して、そして、〔自ら正しく〕受益し、さらに、〔他者に〕施すがよい。〔自らの〕威力のままに、そして、〔他者に〕施して、さらに、〔自ら正しく〕受益して、〔誰からも〕非難されることなく、天上の境位へと近しく至る」〔と〕。ということで──

 

 [18]「それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するなら」。

 

 [19]「矢に貫かれた者のように悩み苦しむ」とは、たとえば、あるいは、鉄製の矢に貫かれた者が、あるいは、骨製の矢に〔貫かれた者が〕、あるいは、牙製の矢に〔貫かれた者が〕、あるいは、角製の矢に〔貫かれた者が〕、あるいは、木製の矢に貫かれた者が、悩み苦しみ、怒り狂い、傷つけられ、責め苛まれ、病者と〔成り〕、失意の者と成るように、まさしく、このように、諸々の事物の欲望の変化と他なる状態あることから、〔彼に〕諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起する。彼は、そして、欲望の矢に〔貫かれ〕、さらに、憂いの矢に貫かれ、悩み苦しみ、怒り狂い、傷つけられ、責め苛まれ、病者と〔成り〕、失意の者と成る。ということで、「矢に貫かれた者のように悩み苦しむ」。

 

 [20]それによって、世尊は言った。

 

 [21]「もし、彼が、〔欲望の対象を〕欲しているとして──人に、欲〔の思い〕が生じたとして──それらの欲望〔の対象〕が遍く衰退するなら、矢に貫かれた者のように悩み苦しむ」と。

 

3.

 

 [22]774.(768) 足で蛇の頭を〔避ける〕ように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら、彼は、世における、この執着を超克する──〔常に〕気づきある者として。(3)

 

 [23]「彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら」とは、「彼が」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位に至り得た者として、或る法(性質)を具備した者として──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける」とは、二つの契機によって、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。(1)あるいは、鎮静〔の観点〕から。(2)あるいは、断絶〔の観点〕から。(1)どのように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるのか。「悦楽少なきものの義(意味)によって、骨の鎖の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「共通多きものの義(意味)によって、肉片の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「焼き尽くすものの義(意味)によって、草の松明の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「大いなる苦悶の義(意味)によって、火坑の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「暫し現起するものの義(意味)によって、夢の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「暫時のものの義(意味)によって、借り物の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「折れ裂けるものの義(意味)によって、木の果の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「断頭の義(意味)によって、屠殺場の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「貫くものの義(意味)によって、刃や槍の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「恐怖を有するものの義(意味)によって、蛇の頭の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。「大いなる苦しめるものの義(意味)によって、火の塊の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。

 

 [24]覚者(:ブッダ)の随念を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。法(:ダンマ)の随念を修行しながらもまた……略……。僧団(:サンガ)の随念を修行しながらもまた……。戒の随念を修行しながらもまた……。施捨の随念を修行しながらもまた……。天神たちの随念を修行しながらもまた……。呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)を修行しながらもまた……。死についての気づき(死念:死の瞑想)を修行しながらもまた……。身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)を修行しながらもまた……。寂止の随念を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。

 

 [25]第一の瞑想(初禅・第一禅)を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。第二の瞑想(第二禅)を修行しながらもまた……略……。第三の瞑想(第三禅)を修行しながらもまた……。第四の瞑想(第四禅)を修行しながらもまた……。虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定を修行しながらもまた……。識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定を修行しながらもまた……。無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定を修行しながらもまた……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。このように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。

 

 [26](2)どのように、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるのか。預流道を修行しながらもまた、悪所に赴くべき諸々の欲望〔の対象〕を、断絶〔の観点〕から遍く避ける。一来道を修行しながらもまた、粗雑なる諸々の欲望〔の対象〕を、断絶〔の観点〕から遍く避ける。不還道を修行しながらもまた、微細なる〔状態〕を共具した諸々の欲望〔の対象〕を、断絶〔の観点〕から遍く避ける。阿羅漢道を修行しながらもまた、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。このように、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける。ということで、「彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら」。

 

 [27]「足で蛇の頭を〔避ける〕ように」とは、蛇(サッパ)は、蛇(アヒ)と説かれる。どのような義(意味)によって、蛇(サッパ)となるのか。這い回りながら(サンサッパント)赴く、ということで、「蛇(サッパ)」。曲がりながら(ブジャント)赴く(ガッチャティ)、ということで、「蛇(ブジャガ)」。胸(ウラ)で赴く(ガッチャティ)、ということで、「蛇(ウラガ)」。降ろした(パンナ)頭で赴く(ガッチャティ)、ということで、「蛇(パンナガ)」。頭(シラ)で眠る(スパティ)、ということで、「蛇(サリーサパ)」。穴(ビラ)に臥す(サヤティ)、ということで、「蛇(ビラーサヤ)」。洞窟(グハー)に臥す(サヤティ)、ということで、「蛇(グハーサヤ)」。彼の牙(ダーター)は武器(アーヴダ)となる、ということで、「蛇(ダーターヴダ)」。彼の毒(ヴィサ)はおぞましい(ゴーラ)、ということで、「蛇(ゴーラヴィサ)」。彼の舌(ジヴハー)は二様(ドゥヴィダー)である、ということで、「蛇(ドゥヴィジヴハ)」。二つ(ドゥヴィ)の舌で味(ラサ)を味わう、ということで、「蛇(ドゥヴィラサンニュー)」。たとえば、人が、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌い、足で蛇の頭を、避けるべきであり、退避するべきであり、遍く避けるべきであり、回避するべきであるように、まさしく、このように、安楽を欲し、苦痛を嫌う者は、諸々の欲望〔の対象〕を、避けるべきであり、退避するべきであり、遍く避けるべきであり、回避するべきである。ということで、足で蛇の頭を〔避ける〕ように」。

 

 [28]「彼は、世における、この執着を超克する──〔常に〕気づきある者として」とは、「彼は」とは、〔まさに〕その、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける者は。執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染、随貪、共感、愉悦、愉悦への貪欲、心の貪染、欲求、耽溺、固執、貪求、遍き貪求、執着(サンガ)、汚泥、動揺、幻惑、生じさせるもの(輪廻を生むもの)、産出させるもの(苦を生むもの)、貪愛(縫うもの)、網、流れ、執着(ヴィサッティカー)、糸、執着(ヴィサター)、専業するもの(業を作るもの)、伴侶、切願、〔迷いの〕生存に導くもの、〔欲の〕林、〔欲の〕林の下生え、親愛、愛執、期待、結縛、願望、願望すること、願望あること、形態への願望、音声への願望、臭気への願望、味感への願望、感触への願望、利得への願望、財産への願望(※)、子供への願望、生命への願望、渇望、強き渇望、固き渇望、渇望すること、渇望あること、妄動、妄動すること、妄動あること、問尋あること、善を欲すること、法(正義)ならざるものへの貪欲(ラーガ)、不正への貪欲(ローバ)、欲念、欲念すること、切望、羨望、等しき切望、欲望の渇愛(欲愛)、生存の渇愛(有愛)、非生存の渇愛(非有愛)、形態〔の行境〕(色界)への渇愛、形態なき〔行境〕(無色界)への渇愛、止滅〔の入定〕(滅尽定)への渇愛、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛、激流、束縛、拘束、執取()、妨げ、妨害()、覆うもの、結縛するもの、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)、悪習(随眠)、妄執()、蔓、物欲、苦の根元、苦の因縁、苦の起源、悪魔の罠、悪魔の釣針、悪魔の境域、渇愛の川、渇愛の網、渇愛の革紐、渇愛の海、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。

 

※ テキストには janāsā とあるが、PTS版により dhanāsā と読む。

 

 [29]「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。執着したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。広きもの(ヴィサーラ)、ということで、「執着」。拡散したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。冒険する(ヴィサッカティ)、ということで、「執着」。収集する(ヴィサンハラティ)、ということで、「執着」。言葉を違える者(ヴィサンヴァーディカ)、ということで、「執着」。毒根(ヴィサムーラ)、ということで、「執着」。毒果(ヴィサパラ)、ということで、「執着」。毒の遍き受益(ヴィサパリボーガ)、ということで、「執着」。また、あるいは、その渇愛は、広きもの(ヴィサーラ)にして、形態にたいし、音声にたいし、臭気にたいし、味感にたいし、感触にたいし、家にたいし、衆徒にたいし、居住にたいし、利得にたいし、盛名にたいし、賞賛にたいし、安楽にたいし、衣料にたいし、〔行乞の〕施食にたいし、臥坐具にたいし、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)にたいし、欲望の界域(欲界)にたいし、形態の界域(色界)にたいし、形態なき界域(無色界)にたいし、欲望の生存(欲有)にたいし、形態の生存(色有)にたいし、形態なき生存(無色有)にたいし、表象の生存(想有)にたいし、表象なき生存(無想有)にたいし、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)にたいし、一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)にたいし、四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)にたいし、五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)にたいし、過去にたいし、未来にたいし、現在にたいし、諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。

 

 [30]「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇()の世における、〔十八の〕界域()の世における、〔十二の認識の〕場所()の世における。「〔常に〕気づきある者として」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立(身念処・身念住)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における感受の随観という気づきの確立(受念処・受念住)を修行している者は、気づきある者となり、心における心の随観という気づきの確立(心念処・心念住)を修行している者は、気づきある者となり、諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立(法念処・法念住)を修行している者は、気づきある者となる。

 

 [31]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきなき〔状態〕を遍く避けることから、気づきある者となり、気づきが為されるべき諸々の法(事象)が為されたことから、気づきある者となり、気づきを遍く結縛する諸々の法(事象)が打破されたことから、気づきある者となり、気づきの形相となる諸々の法(事象)が忘却なきことから、気づきある者となる。

 

 [32]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきを具備したことから、気づきある者となり、気づきによって住したことから、気づきある者となり、気づきによって熟練なることから、気づきある者となり、気づきによって低下なきことから、気づきある者となる。

 

 [33]他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。存するままなることから、気づきある者となり、〔心が〕静まったことから、気づきある者となり、〔心が〕静められたことから、気づきある者となり、寂静の法(性質)を具備したことから、気づきある者となる。覚者の随念によって、気づきある者となり、法(教え)の随念によって、気づきある者となり、僧団の随念によって、気づきある者となり、戒の随念によって、気づきある者となり、施捨の随念によって、気づきある者となり、天神たちの随念によって、気づきある者となり、呼吸についての気づき(安般念)によって、気づきある者となり、死についての気づき(死念)によって、気づきある者となり、身体の在り方についての気づき(身至念)によって、気づきある者となり、寂止の随念によって、気づきある者となる。すなわち、気づき()、随念、現念、気づきとしての、思念すること、保持すること、列挙すること、忘却なきこと、気づきとしての、気づきの機能(念根)、気づきの力(念力)、正しい気づき(正念)、気づきという正覚の支分(念覚支)、一路の道である。これが、気づきと説かれる。この気づきを、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者と成り、彼は、気づきある者と説かれる。

 

 [34]「彼は、世における、この執着を超克する──〔常に〕気づきある者として」とは、あるいは、世における、その執着があり、あるいは、世における、その執着を、〔常に〕気づきある者は、超え渡り、超え上がり、超え登り、等しく超越し、超克する。ということで、「彼は、世における、この執着を超克する──〔常に〕気づきある者として」。

 

 [35]それによって、世尊は言った。

 

 [36]「足で蛇の頭を〔避ける〕ように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるなら、彼は、世における、この執着を超克する──〔常に〕気づきある者として」と。

 

4.

 

 [37]775.(769) 田畑、地所、あるいは、黄金、牛や馬、奴隷や下僕、婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を、その人が貪り求めるなら──(4)

 

 [38]「田畑、地所、あるいは、黄金」とは、「田畑」とは、米の田畑、稲の田畑、緑豆の田畑、豆の田畑、麦の田畑、小麦の田畑、胡麻の田畑。「地所」とは、家屋の地所、貯蔵庫の地所、前〔庭〕の地所、後〔庭〕の地所、林園の地所、精舎の地所。「黄金」とは、黄金は、貨幣(金貨)と説かれる。ということで、「田畑、地所、あるいは、黄金」。

 

 [39]「牛や馬、奴隷や下僕」とは、「牛」とは、牛たちと説かれる。「馬」とは、家畜等々と説かれる。「奴隷」とは、四者の奴隷がいる。内なる生まれの奴隷、財によって買われた奴隷、あるいは、自ら奴隷たることへと近しく至る者(自発的に奴隷となる者)、あるいは、欲することなく奴隷の境域へと近しく至る者(非自発的に奴隷となる者)である。

 

 [40]〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、或る者たちは、生っ粋の者としてもまた、奴隷たちと成り、財によって買われた者としてもまた、奴隷たちと成り、さらに、或る者たちは、自ら〔望んで〕もまた、奴隷たることへと近しく至り、恐怖に駆られた者としてもまた、奴隷たちと成る」と。

 

 [41]「下僕」とは、三者の下僕がいる。雇われ者、労夫、〔他者に〕依拠して生きる者である。ということで、「牛や馬、奴隷や下僕」。

 

 [42]「婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を」とは、「婦女たち」とは、婦女を遍く収め取るものと説かれる(女性全般のことである)。「眷属たちを」とは、四者の眷属がいる。親族の眷属もまた、眷属である。氏姓の眷属もまた、眷属である。呪文の眷属もまた、眷属である。技能の眷属もまた、眷属である。「多々なる欲望〔の対象〕を」とは、多くの欲望〔の対象〕を。これらの多々なる欲望〔の対象〕として、諸々の意に適う形態……略……諸々の意に適う感触がある。ということで、「婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を」。

 

 [43]「その人が貪り求めるなら」とは、「その」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位に至り得た者として、或る法(性質)を具備した者として──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「人(ナラ)が」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者が。「貪り求める」とは、〔心の〕汚れの欲望によって、諸々の事物の欲望にたいし、貪り求め、貪求し、遍く貪求し、遍く結縛される。ということで、「その人が貪り求めるなら」。

 

 [44]それによって、世尊は言った。

 

 [45]「田畑、地所、あるいは、黄金、牛や馬、奴隷や下僕、婦女たち、眷属たちを、多々なる欲望〔の対象〕を、その人が貪り求めるなら」と。

 

5.

 

 [46]776.(770) 彼を、諸々の力なきものが押しつぶす。彼を、諸々の危難が踏みにじる。そののち、彼に、苦しみが従い行く──壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように。(5)

 

 [47]「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす」とは、「諸々の力なきものが」とは、力なく、力弱く、力少なく、強さ少なく、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)が──それらの〔心の〕汚れが、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。ということで、このようにもまた、「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす」。さらに、あるいは、力なく、力弱く、力少なく、強さ少なく、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である、人を──その〔人〕に、信の力(信力)と精進の力(精進力)と気づきの力(念力)と禅定の力(定力)と智慧の力(慧力)と恥〔の思い〕の力(慚力)と〔良心の〕咎めの力(愧力)が存在しないなら──それらの〔心の〕汚れが、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。ということで、このようにもまた、「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす」ということになる。

 

 [48]「彼を、諸々の危難が踏みにじる」とは、二つの諸々の危難がある。(1)そして、諸々の明白なる危難であり、(2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。(1)どのようなものが、諸々の明白なる危難であるのか。獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蠍たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕若者たちが──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして──存するべきであり、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋(かさぶた)、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触、あるいは、かくのごときものである。これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。

 

 [49](2)どのようなものが、諸々の隠蔽された危難であるのか。身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ない、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害()、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害、貪欲()、憤怒()、迷妄()、忿激(忿)、怨恨()、偽装()、加虐()、嫉妬()、物惜()、幻惑()、狡猾()、強情()、激昂()、思量()、高慢(過慢)、驕慢()、放逸、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)、一切の悪しき行ない、一切の懊悩、一切の苦悶、一切の熱苦、一切の善ならざる行作(現行)である。これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。

 

 [50]「諸々の危難(パリッサヤ)」とは、どのような義(意味)によって、諸々の危難となるのか。(1)遍く打ち負かす(パリサハティ)、ということで、「諸々の危難」。(2)遍き衰退(パリハーヤ)のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。(3)そこに依拠するもの(アーサヤ)、ということで、「諸々の危難」。(1)どのように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。このように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」。(2)どのように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、諸々の善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。どのような諸々の善なる法(性質)の、であるのか。正しい〔実践の〕道の、〔真理に〕随順する〔実践の〕道の、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道の、遮るものなき〔実践の〕道の、義(意味)のままなる〔実践の〕道の、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道の、諸戒における円満成就を作り為すことの、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていることの、食について量を知ることの、〔眠らずに〕起きていることへの専念の、気づきと正知の、四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法についての気づき)の修行への専念の、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)の修行への専念の、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)の修行への専念の、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)の修行への専念の、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)の修行への専念の、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)の修行への専念の、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の修行への専念の──これらの善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。このように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。

 

 [51](3)どのように、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」となるのか。そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態(個我的あり方・身体)の依所とする。たとえば、穴には穴に依拠する命あるものたちが臥し、水には水に依拠する命あるものたちが臥し、林には林に依拠する命あるものたちが臥し、木には木に依拠する命あるものたちが臥すように、まさしく、このように、そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [52]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [53]「比丘たちよ、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、では、どのように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む(アンヴァーサヴァティ)、ということで、それゆえに、『内弟子(アンテーヴァーシカ)を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる(サムダーチャラティ)、ということで、それゆえに、『師匠(アーチャリヤ)を有する』と説かれます。

 

 [54]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……舌によって、味感を味わって……身によって、感触と接触して……意によって、法(意の対象)を識知して、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む、ということで、それゆえに、『内弟子を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる、ということで、それゆえに、『師匠を有する』と説かれます。比丘たちよ、まさに、このように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます」と。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [55]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [56]「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。憤怒()は……略……。迷妄()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものがあります。

 

 [57]〔そこで、詩偈に言う〕『義(道理)ならざるものを生むのが、貪欲〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、貪欲〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [58]貪る者は、義(道理)を知らない。貪る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、貪欲〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [59]義(道理)ならざるものを生むのが、憤怒〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、憤怒〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [60]怒る者は、義(道理)を知らない。怒る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、憤怒〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [61]義(道理)ならざるものを生むのが、迷妄〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、迷妄〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [62]迷う者は、義(道理)を知らない。迷う者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、迷妄〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る』」と。

 

 [63]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [64]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「大王よ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、憤怒という……略……。大王よ、まさに、迷妄という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。

 

 [65]〔そこで、詩偈に言う〕『貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する──果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕ように、自己から発生した〔三つのもの〕が』」と。

 

 [66]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [67]さらに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 

 [68]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、貪欲は、さらに、憤怒は、因縁として〔まさに〕これ〔自身〕から〔生じる〕(自己自身から生起する)。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、〔まさに〕これ〔自身〕から生じる。諸々の思考は、〔まさに〕これ〔自身〕から現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てる〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」と。

 

 [69]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「彼を、諸々の危難が踏みにじる」とは、それらの危難が、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。ということで、「彼を、諸々の危難が踏みにじる」。

 

 [70]「そののち、彼に、苦しみが従い行く」とは、「そののち」とは、その〔危難〕その危難ののち、その人に、苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、生の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、老の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、病の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、死の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、地獄の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、畜生の胎の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、餓鬼の境域の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、人間の苦しみが……入胎を根元とする苦しみが……胎における止住を根元とする苦しみが……胎からの出起を根元とする苦しみが……生まれた者に連結する苦しみが……生まれた者が他者の配下となる苦しみが……自己の行動(自害)としての苦しみが……他者の行動(他害)としての苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、苦痛の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、形成の苦しみが……変化の苦しみが……眼の病が……耳の病が……鼻の病が……舌の病が……身の病が……頭の病が……耳(外耳)の病が……口の病が……歯の病が……咳が……喘息が……感昌が……発熱が……老化が……腹の病が……気絶が……下痢が……腹痛が……疫病が……癩病が……腫物が……疱瘡が……肺病が……癲癇が……肌荒が……搔痒が……疥癬が……掻傷が……瘡蓋が……出血が……糖尿が……痔が……吹出物が……潰瘍が……胆汁から等しく現起する諸々の病苦が……痰から等しく現起する諸々の病苦が……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦が……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦が……季節の変化から生じる諸々の病苦が……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦が……突発性の諸々の病苦が……行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦が……寒さが……暑さが……飢えが……渇きが……大便が……小便が……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみが……母の死の苦しみが……父の死の苦しみが……兄弟の死の苦しみが……姉妹の死の苦しみが……子の死の苦しみが……娘の死の苦しみが……親族の災厄の苦しみが……財物の災厄の苦しみが……病の災厄の苦しみが……戒の災厄の苦しみが……見解の災厄の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成る。ということで、「そののち、彼に、苦しみが従い行く」。

 

 [71]「壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように」とは、たとえば、水を行く壊れた舟に、そこかしこから、水が、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、前からもまた、水が、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、後からもまた……下からもまた……脇からもまた、水が、従い行き、従い赴き、随従のものと成るように、まさしく、このように、その〔危難〕その危難ののち、その人に、苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り、生の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成り……略([70]参照)……見解の災厄の苦しみが、従い行き、従い赴き、随従のものと成る。ということで、「壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように」。

 

 [72]それによって、世尊は言った。

 

 [73]「彼を、諸々の力なきものが押しつぶす。彼を、諸々の危難が踏みにじる。そののち、彼に、苦しみが従い行く──壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように」と。

 

6.

 

 [74]777.(771) それゆえに、人は、常に気づきある者となり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい。それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい。舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる。(6)

 

 [75]「それゆえに、人は、常に気づきある者となり」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の欲望〔の対象〕について、この危険(患・過患)を等しく見ながら。ということで、「それゆえに」。「人(ジャントゥ)は」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者は。「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に、常住時に、常恒時に、常久に、連続して、途切れなく、矢継ぎ早に、水波が生じたように、間隔なく、相続して、相伴い、接触し、食前に、食後に、初夜(宵の内)に、中夜(真夜中)に、後夜(明け方)に、黒〔分〕(月が欠ける期間)に、白〔分〕(月が満ちる期間)に、雨期に、冬に、夏に、初年期(青年期)に、中年期(壮年期)に、後年期(老年期)に。「気づきある者となり」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。……略([31-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「それゆえに、人は、常に気づきある者となり」。

 

 [76]「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい」とは、二つの契機によって、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。(1)あるいは、鎮静〔の観点〕から。(2)あるいは、断絶〔の観点〕から。(1)どのように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきであるのか。「悦楽少なきものの義(意味)によって、骨の鎖の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。「共通多きものの義(意味)によって、肉片の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。「焼き尽くすものの義(意味)によって、草の松明の喩えあるのが、諸々の欲望〔の対象〕である」と見ながら、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。……略([23-25]参照)……。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を修行しながらもまた、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。このように、鎮静〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。(2)……略([26]参照)……。このように、断絶〔の観点〕から、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるべきである。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい」。

 

 [77]「それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい」とは、「それらを」とは、諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、憎悪〔の思い〕という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害を……〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害を……疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超え渡るべきであり、超え上がるべきであり、超え登るべきであり、等しく超越するべきであり、超克するべきである。ということで、「それらを捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい」。

 

 [78]「舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる」とは、たとえば、重き舟の重荷となる水を、舟が軽くなるために、汲み出して、汲み捨てて、捨て放って、すみやかに、軽やかに、まさしく、難少なくして、彼岸に至るべきであるように、まさしく、このように、諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害を……憎悪〔の思い〕という〔修行の〕妨害を……〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害を……〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害を……疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、すみやかに、軽やかに、まさしく、難少なくして、彼岸に至るべきである。彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「彼岸に至るべきである」とは、彼岸に到達するべきであり、彼岸を体得するべきであり、彼岸を実証するべきである。「彼岸に至る者」とは、彼がまた、彼岸に至ることを欲する者であるなら、彼もまた、彼岸に至る者であり、彼がまた、彼岸に至るなら、彼もまた、彼岸に至る者であり、彼がまた、彼岸に至った者であるなら、彼もまた、彼岸に至る者である。

 

 [79]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 

 [80]「『〔海を〕超え渡り、彼岸に至り、〔真の〕婆羅門として、陸に立つ』とは、比丘たちよ、『婆羅門』とは、まさに、これは、阿羅漢の同義語です」〔と〕。彼は、証知によって彼岸に至る者、遍知によって彼岸に至る者、捨棄によって彼岸に至る者、修行によって彼岸に至る者、実証によって彼岸に至る者、入定(等至)によって彼岸に至る者、一切の法(事象)の証知によって彼岸に至る者、一切の苦痛の遍知によって彼岸に至る者、一切の〔心の〕汚れの捨棄によって彼岸に至る者、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)の修行によって彼岸に至る者、止滅〔の境地〕(涅槃)の実証によって彼岸に至る者、一切の入定〔の境地〕への入定によって彼岸に至る者である。彼は、聖なる戒において、自在に至り得た者、完全態に至り得た者、聖なる禅定において、自在に至り得た者、完全態に至り得た者、聖なる智慧において、自在に至り得た者、完全態に至り得た者、聖なる解脱において、自在に至り得た者、完全態に至り得た者である。彼は、彼岸に至った者、彼岸に至り得た者、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者、極限に至った者、極限に至り得た者、完成に至った者、完成に至り得た者、救護所に至った者、救護所に至り得た者、避難所に至った者、避難所に至り得た者、帰依所に至った者、帰依所に至り得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきに至り得た者、死滅なきに至った者、死滅なきに至り得た者、不死に至った者、不死に至り得た者、涅槃に至った者、涅槃に至り得た者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者、〔輪廻の〕旅程を去った者、〔涅槃の〕方角に赴いた者、突端に至った者、梵行を守った者、最上の見解に至り得た者、道を修行した者、〔心の〕汚れを捨棄した者、不動〔の境地〕(阿羅漢果)を理解した者、止滅〔の境地〕(涅槃)を実証した者である。彼にとって、苦しみは遍知され、集起は捨棄され、道は修行され、止滅は実証され、証知されるべきものは証知され、遍知されるべきものは遍知され、捨棄されるべきものは捨棄され、修行されるべきものは修行され、実証されるべきものは実証された。

 

 [81]彼は、閂を外した者(無明を捨棄した者)、堀を埋めた者(輪廻を捨棄した者)、柱を引き抜いた者(渇愛を捨棄した者)、閂なき者(五下分結を捨棄した者)、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる者(自我意識を捨棄した者)、五つの支分(五蓋)を捨棄した者、六つの支分(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者、一つの守護(気づきによる守護)ある者、四つの依託(智慧による受用と甘受と回避と除去)ある者、各自の真理(偏見)を除去した者、探し求めることを正しく完全に放棄した者、混濁なき思惟ある者、身体の形成〔作用〕(身行)を静息した者、善く解脱した心の者、善く解脱した智慧の者、全一者、〔梵行の〕完成者、最上の人士、最高の人士、最高の至り得るべきものに至り得た者である。彼は、まさしく、〔善悪の報いを〕蓄積することもなく摘出することもなく、〔すでに〕摘出して〔世に〕止住している者、まさしく、〔煩悩を〕捨棄することもなく執取することもなく、〔すでに〕捨棄して〔世に〕止住している者、まさしく、〔世俗を〕離れることもなく近づくこともなく、〔すでに〕離れて〔世に〕止住している者、まさしく、〔世俗を〕離煙することもなく喫煙することもなく、〔すでに〕離煙して〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき(無学)戒の範疇(戒蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備したことから〔世に〕止住している者、〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備したことから〔世に〕止住している者、真理()を等しく実践して〔世に〕止住している者、動揺〔の思い〕を等しく超越して〔世に〕止住している者、〔心の〕汚れの火を完全に取り払って〔世に〕止住している者、〔輪廻に〕遍く赴かないことから〔世に〕止住している者、幸運を受持して〔世に〕止住している者、解き放ちを受用することから〔世に〕止住している者、慈愛()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、慈悲()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、歓喜()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、放捨(:選択せず差別なき心)という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している者、究極にして完全なる清浄によって〔世に〕止住している者、それに関わることなき〔あり方〕(渇愛なきあり方)という(※)完全なる清浄によって〔世に〕止住している者、解脱したことから〔世に〕止住している者、満ち足りていることから〔世に〕止住している者、範疇()の極限において〔世に〕止住している者、界域()の極限において〔世に〕止住している者、〔認識の〕場所()の極限において〔世に〕止住している者、境遇()の極限において〔世に〕止住している者、再生の極限において〔世に〕止住している者、結生の極限において〔世に〕止住している者、生存()の極限において〔世に〕止住している者、輪廻の極限において〔世に〕止住している者、転起の極限において〔世に〕止住している者、最後の生存の極限において〔世に〕止住している者、最後の積身において〔世に〕止住している者、最後の肉身を保つ阿羅漢である。

 

※ テキストには akammayatāya とあるが、注釈書により atammayatāya と読む(PTS版は akammaññatāya)。

 

 [82]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、これは、最後の生存である。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで──

 

 [83]「舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる」。ということで、それによって、世尊は言った。

 

 [84]「それゆえに、人は、常に気づきある者となり、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい。それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい。舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる」と。

 

 [85]欲望の経についての釈示が、第一となる。

 

1. 2. 洞窟についての八なるものの経についての釈示

 

 [86]そこで、洞窟についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。

 

7.

 

 [87]778.(772) 〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われ、〔世に〕止住している人は、迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈んだ者である。そのような種類の者は、彼は、まさに、遠離〔の境地〕から遠くにある。なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである。(1)

 

 [88]「〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われ」とは、まさに、「執着し」と、まさに、説かれたが、しかしながら、また、まずは、洞窟が説かれるべきである。洞窟は、身体と説かれる。あるいは、「身体」ということになり、あるいは、「洞窟」ということになり、あるいは、「肉身(デーハ)」ということになり、あるいは、「肉身(サンデーハ)」ということになり、あるいは、「舟」ということになり、あるいは、「車」ということになり、あるいは、「旗」ということになり、あるいは、「蟻塚」ということになり、あるいは、「城市」ということになり、あるいは、「巣」ということになり、あるいは、「小屋」ということになり、あるいは、「腫物」ということになり、あるいは、「瓶」ということになり、あるいは、「象」ということになる。これは、身体の同義語である。「〔煩悩の〕洞窟に執着し」とは、洞窟(身体)に、執着し(サッタ)、強く執着し(ヴィサッタ)、近く執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となっている。たとえば、あるいは、壁の釘に、あるいは、吊り鉤に、物品が、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっているように、まさしく、このように、洞窟(身体)に、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっている。まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [89]「ラーダよ、まさに、形態()にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、そこにあって、執着したのであり(サッタ)、そこにあって、強く執着したのです(ヴィサッタ)。それゆえに、『有情(サッタ)』と説かれます。ラーダよ、まさに、感受〔作用〕()にたいし……略……。ラーダよ、まさに、表象〔作用〕()にたいし……。ラーダよ、まさに、諸々の形成〔作用〕()にたいし……。ラーダよ、まさに、識知〔作用〕()にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、そこにあって、執着したのであり、そこにあって、強く執着したのです。それゆえに、『有情』と説かれます。『有情』とは、付着することの同義語です」〔と〕。ということで、「〔煩悩の〕洞窟に執着し」。「多く〔の迷妄〕に覆われ」とは、多くの〔心の〕汚れ(煩悩)によって覆われ、貪欲()によって覆われ、憤怒()によって覆われ、迷妄()によって覆われ、忿激(忿)によって覆われ、怨恨()によって覆われ、偽装()によって覆われ、加虐()によって覆われ、嫉妬()によって覆われ、物惜()によって覆われ、幻惑()によって覆われ、狡猾()によって覆われ、強情()によって覆われ、激昂()によって覆われ、思量()によって覆われ、高慢(過慢)によって覆われ、驕慢()によって覆われ、放逸によって覆われ、一切の〔心の〕汚れによって覆われ、一切の悪しき行ないによって覆われ、一切の懊悩によって覆われ、一切の苦悶によって覆われ、一切の熱苦によって覆われ、一切の善ならざる行作(現行)によって、覆われ、しっかり覆われ、塗り隠され、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれている。ということで、「多く〔の迷妄〕に覆われ」。

 

 [90]「〔世に〕止住している人は、迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈んだ者である」とは、〔世に〕止住している人は、貪欲を所以に貪る者として〔世に〕止住し、憤怒を所以に怒る者として〔世に〕止住し、迷妄を所以に迷う者として〔世に〕止住し、思量を所以に結縛された者として〔世に〕止住し、見解を所以に偏執した者として〔世に〕止住し、高揚を所以に〔心の〕散乱に至った者として〔世に〕止住し、疑惑を所以に結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)として〔世に〕止住し、悪習を所以に強靭に至った者(頑迷固陋の者)として〔世に〕止住する。このようにもまた、「〔世に〕止住している人は」。

 

 [91]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それを、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら……。比丘たちよ、耳によって識知されるべき諸々の音声で……。比丘たちよ、鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……。比丘たちよ、舌によって識知されるべき諸々の味感で……。比丘たちよ、身によって識知されるべき諸々の感触で……。比丘たちよ、意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものが存在します。もし、比丘が、それを、愉悦し、迎合し、固執して止住するなら……」と。このようにもまた、「〔世に〕止住している人は」。

 

 [92]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、あるいは、形態に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、形態を対象(所縁)として、形態において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。比丘たちよ、あるいは、感受〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、表象〔作用〕に接近ある……略……。比丘たちよ、あるいは、諸々の形成〔作用〕に接近ある識知〔作用〕は、止住しつつ止住するでしょうし、諸々の形成〔作用〕を対象として、諸々の形成〔作用〕において確立し、愉悦を注ぐものとなり、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう」と。このようにもまた、「〔世に〕止住している人は」。

 

 [93]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、もし、物質としての食(段食:口にする食)において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態(名色)の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、生と老と死が存在します。そこにおいて、未来に、生と老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます」と。このようにもまた、「〔世に〕止住している人は」。

 

 [94]「比丘たちよ、もし、接触(感覚の発生)としての食(触食:知覚としての食)において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食(思食:意志としての食)において……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕としての食(識食:認識としての食)において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、生と老と死が存在します。そこにおいて、未来に、生と老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます」と。このようにもまた、「〔世に〕止住している人は」。

 

 [95]「迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈んだ者である」とは、諸々の迷妄ならしむものは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)と説かれる。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものである。何を契機とすることから、諸々の迷妄ならしむものは、五つの欲望の属性と説かれるのか。多くのところとして、天〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の属性にたいし、迷乱し、等しく迷乱し、等しく遍く迷乱する。迷乱し、等しく迷乱し、等しく遍く迷乱した者たちとなり、無明によって、暗愚に作り為され、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれた者たちとなる。それを契機とすることから、諸々の迷妄ならしむものは、五つの欲望の属性と説かれる。「迷妄ならしむもののうちに沈んだ者である」とは、迷妄ならしむもののうちに、沈み、沈潜し、潜入し、潜った者である。ということで、「〔世に〕止住している人は、迷妄ならしむもののうちに沈んだ者である」。

 

 [96]「そのような種類の者は、彼は、まさに、遠離〔の境地〕から遠くにある」とは、「遠離」とは、三つの遠離がある。(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)依り所の遠離である。(1)どのようなものが、身体の遠離であるのか。ここに、比丘が、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、峡谷に、岩窟に、墓場に、林野に、野外に、藁積場に、親近し、身体によって遠離した者として〔世に〕住む。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。これが、身体の遠離である。

 

 [97](2)どのようなものが、心の遠離であるのか。第一の瞑想に入定した者には、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)から、心は、遠離したものと成る。第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念(尋伺)から、心は、遠離したものと成る。第三の瞑想に入定した者には、喜悦()から、心は、遠離したものと成る。第四の瞑想に入定した者には、安楽と苦痛(楽苦)から、心は、遠離したものと成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象(色想)から、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)から、種々なる表象(異想)から、心は、遠離したものと成る。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。預流たる者には、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)から、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)から、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)から、見解の悪習(見随眠)から、疑惑〔の思い〕の悪習(疑随眠)から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)から、心は、遠離したものと成る。一来たる者には、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)という束縛するものから、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)という束縛するものから、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。不還たる者には、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。阿羅漢には、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪り〔の思い〕から、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から、思量()から、高揚(掉挙)から、無明から、思量の悪習から、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、無明の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、さらに、外なる一切の形相から、心は、遠離したものと成る。これが、心の遠離である。

 

 [98](3)どのようなものが、依り所の遠離であるのか。依り所は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。依り所の遠離は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その(※)、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、依り所の遠離である。(1)そして、身体の遠離は、遠離した身体の者たちのものであり、離欲を喜び楽しむ者たちのものであり、(2)そして、心の遠離は、完全なる清浄となった心の者たちのものであり、最高の浄化に至り得た者たちのものであり、(3)そして、依り所の遠離は、〔もはや〕依り所なく〔寿命を〕形成する働き()を離れるに至った人たちのものである。

 

※ テキストには Yo とあるが、PTS版により Yo so と読む。

 

 [99]「まさに、遠離〔の境地〕から遠くにある」とは、すなわち、彼が、このように、〔煩悩の〕洞窟に執着し、このように、多くの〔心の〕汚れに覆われ、このように、迷妄ならしむもののうちに沈んだ者であるなら、彼は、身体の遠離からもまた、遠くにあり、心の遠離からもまた、遠くにあり、依り所の遠離からもまた、遠くにあり、遠く離れ、極めて遠く離れ、現前になく、近隣になく、近くになく、遠く離れたところにある。「そのような種類の者」とは、そのような者、それを確立した者、それを流儀とする者、それを相似とする者。すなわち、〔まさに〕その、迷妄ならしむもののうちに沈んだ者である。ということで、「そのような種類の者は、彼は、まさに、遠離〔の境地〕から遠くにある」。

 

 [100]「なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物()の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の欲望である。(1)どのようなものが、諸々の事物の欲望であるのか。諸々の意に適う形態()、諸々の意に適う音声()、諸々の意に適う臭気()、諸々の意に適う味感()、諸々の意に適う感触(所触)、諸々の敷物、諸々の着物、奴婢や奴隷たち、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち、田畑、地所、金貨、黄金、村や町や王都、かつまた、国土、かつまた、地方、かつまた、蔵、かつまた、貯蔵庫、それが何であれ、貪るべき事物は、諸々の事物の欲望である。さらに、また、諸々の過去の欲望〔の対象〕、諸々の未来の欲望〔の対象〕、諸々の現在の欲望〔の対象〕、諸々の内なる欲望〔の対象〕、諸々の外なる欲望〔の対象〕、諸々の内なると外なる欲望〔の対象〕、諸々の下劣なる欲望〔の対象〕、諸々の中等なる欲望〔の対象〕、諸々の精妙なる欲望〔の対象〕、諸々の悪所の欲望〔の対象〕、諸々の人間の欲望〔の対象〕、諸々の天の欲望〔の対象〕、諸々の〔因縁によって〕現起した欲望〔の対象〕(地獄を除く他の悪趣の有情・人間・四大王天・兜率天における欲望の対象)、諸々の化作された欲望〔の対象〕(化楽天における欲望の対象)、諸々の化作されたものではない欲望〔の対象〕、諸々の他によって化作された欲望〔の対象〕(他化自在天における欲望の対象)、諸々の遍く収取された欲望〔の対象〕、諸々の遍く収取されたものではない欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕された欲望〔の対象〕、諸々のわがものと〔錯視〕されたものではない欲望〔の対象〕があり、一切の欲望の行境(欲界)の法(事象)もまた、一切の形態の行境(色界:心と身体が完全に同調して機能している世界)の法(事象)もまた、一切の形態なき行境(無色界:心が身体に依存せず単独で機能している世界)の法(事象)もまた、渇愛の基盤(根拠)となり、渇愛の対象(所縁)となるなら、欲するべきものの義(意味)によって、貪るべきものの義(意味)によって、酔うべきものの義(意味)によって、諸々の欲望〔の対象〕となる。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。

 

 [101](2)どのようなものが、諸々の〔心の〕汚れの欲望であるのか。欲〔の思い〕は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟は、欲望である。貪り〔の思い〕は、欲望である。思惟と貪り〔の思い〕は、欲望である。すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛()、欲望〔の対象〕にたいする執取()、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害()である。

 

 [102]〔そこで、詩偈に言う〕「欲望よ、おまえの根元を、〔わたしは〕見た。欲望よ、〔誤った〕思惟から、〔おまえは〕生じた。おまえのことを、〔もはや、わたしは〕思惟しない。欲望よ、このように、〔もはや、おまえは〕有りはしない」と。

 

 [103]これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇()の世における、〔十八の〕界域()の世における、〔十二の認識の〕場所()の世における。「なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」とは、なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、捨棄し難く、捨て去り難く、遍捨し難く、削除し難く、排し難く、排出し難く、超え渡り難く、超え登り難く、等しく超越し難く、超克し難いからである。ということで、「なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」。

 

 [104]それによって、世尊は言った。

 

 [105]「〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われ、〔世に〕止住している人は、迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈んだ者である。そのような種類の者は、彼は、まさに、遠離〔の境地〕から遠くにある。なぜなら、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨棄し易きものではないからである」と。

 

8.

 

 [106]779.(773) 〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存()の快楽に結縛された者たち、彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のものによる解脱(他者・他物を依り所とする解脱)は、〔どこにも存在し〕ないからである。未来に、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる──あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、諸々の以前のものを、〔貪りの思いで〕渇望しながら。(2)

 

 [107]「〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存()の快楽に結縛された者たち」とは、欲求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染、随貪、共感、愉悦、愉悦への貪欲、心の貪染、欲求、耽溺、固執、貪求、遍き貪求、執着(サンガ)、汚泥、動揺、幻惑、生じさせるもの(輪廻を生むもの)、産出させるもの(苦を生むもの)、貪愛(縫うもの)、網、流れ、執着(ヴィサッティカー)、糸、執着(ヴィサター)、専業するもの(業を作るもの)、伴侶、切願、〔迷いの〕生存に導くもの、〔欲の〕林、〔欲の〕林の下生え、親愛、愛執、期待、結縛、願望、願望すること、願望あること、形態への願望、音声への願望、臭気への願望、味感への願望、感触への願望、利得への願望、財産への願望、子供への願望、生命への願望、渇望、強き渇望、固き渇望、渇望すること、渇望あること、妄動、妄動すること、妄動あること、問尋あること、善を欲すること、法(正義)ならざるものへの貪欲(ラーガ)、不正への貪欲(ローバ)、欲念、欲念すること、切望、羨望、等しき切望、欲望の渇愛(欲愛)、生存の渇愛(有愛)、非生存の渇愛(非有愛)、形態〔の行境〕(色界)への渇愛、形態なき〔行境〕(無色界)への渇愛、止滅〔の入定〕(滅尽定)への渇愛、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛、激流、束縛、拘束、執取()、妨げ、妨害()、覆うもの、結縛するもの、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)、悪習(随眠)、妄執()、蔓、物欲、苦の根元、苦の因縁、苦の起源、悪魔の罠、悪魔の釣針、悪魔の境域、渇愛の川、渇愛の網、渇愛の革紐、渇愛の海、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「〔心の〕欲求という因縁ある者たち」とは、〔心の〕欲求を因縁とする者たち、〔心の〕欲求を因とする者たち、〔心の〕欲求を縁とする者たち、〔心の〕欲求を契機(動機)とする者たち、〔心の〕欲求を起源とする者たち。ということで、「〔心の〕欲求という因縁ある者たち」。

 

 [108]「生存()の快楽に結縛された者たち」とは、一つの生存の快楽がある。安楽の感受(楽受)である。二つの生存の快楽がある。そして、安楽の感受であり、さらに、好ましい事物である。三つの生存の快楽がある。若さ、無病、生命である。四つの生存の快楽がある。利得、盛名、賞賛、安楽である。五つの生存の快楽がある。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭気、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。六つの生存の快楽がある。眼の成就(視覚機能の完備)、耳の成就、鼻の成就、舌の成就、身の成就、意の成就である。「生存の快楽に結縛された者たち」とは(※)、安楽の感受にたいし結縛された者たち、好ましい事物にたいし結縛された者たち、若さにたいし結縛された者たち、無病にたいし結縛された者たち、生命にたいし結縛された者たち、利得にたいし結縛された者たち、盛名にたいし結縛された者たち、賞賛にたいし結縛された者たち、安楽にたいし結縛された者たち、諸々の意に適う形態にたいし結縛された者たち、諸々の意に適う音声にたいし……諸々の意に適う臭気にたいし……諸々の意に適う味感にたいし……諸々の意に適う感触にたいし結縛された者たち、眼の成就にたいし結縛された者たち、耳の……鼻の……舌の……身の……意の成就にたいし、結縛された者たち、縛着された者たち、連結された者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち。ということで、「〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存の快楽に結縛された者たち」。

 

※ テキストには Bhavasātabaddhā とあるが、PTS版により Bhavasātabaddhāti と読む。

 

 [109]「彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」とは、(1)あるいは、それらの生存の快楽の事物は、解脱し難い。(2)あるいは、有情たちは、ここから解き放ち難い。(1)どのように、それらの生存の快楽の事物は、解脱し難いのか。安楽の感受は、解脱し難く、好ましい事物は、解脱し難く、若さは、解脱し難く、無病は、解脱し難く、生命は、解脱し難く、利得は、解脱し難く、盛名は、解脱し難く、賞賛は、解脱し難く、安楽は、解脱し難く、諸々の意に適う形態は、解脱し難く、諸々の意に適う音声は……諸々の意に適う臭気は……諸々の意に適う味感は……諸々の意に適う感触は、解脱し難く、眼の成就は、解脱し難く、耳の……鼻の……舌の……身の……意の成就は、解脱し難く、解き放ち難く、強く解き放ち難く、排し難く、排出し難く、超え渡り難く、超え登り難く、等しく超越し難く、超克し難い。このように、それらの生存の快楽の事物は、解脱し難い。

 

 [110](2)どのように、有情たちは、ここから解き放ち難いのか。有情たちは、安楽の感受から解き放ち難く、好ましい事物から解き放ち難く、若さから解き放ち難く、無病から解き放ち難く、生命から解き放ち難く、利得から解き放ち難く、盛名から解き放ち難く、賞賛から解き放ち難く、安楽から解き放ち難く、諸々の意に適う形態から解き放ち難く、諸々の意に適う音声から……諸々の意に適う臭気から……諸々の意に適う味感から……諸々の意に適う感触から解き放ち難く、眼の成就から解き放ち難く、耳の……鼻の……舌の……身の……意の成就から、解き放ち難く、引き上げ難く、等しく引き上げ難く、出起させ難く、等しく出起させ難く、排し難く、排出し難く、超え渡り難く、超え登り難く、等しく超越し難く、超克し難い。このように、有情たちは、ここから解き放ち難い。ということで、「彼らは、解脱し難い」。

 

 [111]「なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」とは、自己みずから泥沼にはまった者たちは、彼らは、他の泥沼にはまった者を引き上げることができない。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「チュンダよ、まさに、自己みずから泥沼にはまった者が、彼が、他の泥沼にはまった者を引き上げることになる、という、この状況は見出されません(ありえない)。チュンダよ、まさに、自己みずから調御されず教導されず完全なる涅槃に到達していない者が、彼が、他の者を調御し教導し完全なる涅槃に到達させることになる、という、この状況は見出されません」と。このようにもまた、「なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 

 [112]さらに、あるいは、誰であれ、他者は、解き放ち手として存在することがない。すなわち、彼らが、〔自己を〕解き放つべきであるなら、自らの強靭によって、自らの活力によって、自らの精進によって、自らの勤勉によって、自らの人士たる強靭によって、自らの人士たる活力によって、自らの人士たる精進によって、自らの人士たる勤勉によって、自己みずから、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、実践しつつ、〔自己を〕解き放つべきである。ということで、このようにもまた、「なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 

 [113]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 

 [114]〔そこで、詩偈に言う〕「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません。ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕。ですから、最勝の法(真理)を〔常に〕証知しながら、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」と。

 

 [115]このようにもまた、「なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 

 [116]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 

 [117]〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、自己によって為されなかった悪は、まさしく、自己によって清まる。清浄と清浄ならざるは、各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)」と。

 

 [118]このようにもまた、「なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 

 [119]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに──まさしく、涅槃が止住し、涅槃に至る道が止住し、わたしが、〔道を〕受持させる者として止住し、そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、究極の目的である涅槃に、一部の者たちはまた達し、一部の者たちは達しません。婆羅門よ、ここにおいて、わたしが、何を為すというのでしょう。婆羅門よ、如来は、道を告げ知らせる者です。覚者は、道を告げ知らせます。〔彼らは〕自己みずから実践しながら、〔自己を〕解き放つべきです」と。このようにもまた、「なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。ということで、「彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のものによる解脱は、〔どこにも存在し〕ないからである」。

 

 [120]「未来に、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる」とは、未来に(パッチャー)は、未来に(アナーガタン)と説かれる。過去について(プレー)は、過去に(アティータン)と説かれる。さらに、また、過去と比較して、そして、未来は、さらに、現在は、未来にある。未来と比較して、そして、過去は、さらに、現在は、過去にある。どのように、過去について、期待を為すのか。「このような形態()の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。「このような感受〔作用〕()の者として、〔わたしは〕有った……。「このような表象〔作用〕()の者として、〔わたしは〕有った……。「このような諸々の形成〔作用〕()の者として、〔わたしは〕有った……。「このような識知〔作用〕()の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。このようにもまた、過去について、期待を為す。

 

 [121]さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成る。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となる。このようにもまた、過去について、期待を為す。「かくのごとく、わたしに、耳が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔有った〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成る。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したことから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となる。このようにもまた、過去について、期待を為す。

 

 [122]さらに、あるいは、すなわち、過去において、彼に、女性を相手に笑い談じ戯れたそれら〔の経験〕があるとして、それを味わい、それを欲し、そして、それによって、歓悦を起こす。このようにもまた、過去について、期待を為す。

 

 [123]どのように、未来について、期待を為すのか。「このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起する。このようにもまた、未来について、期待を為す。

 

 [124]さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為する。心に、作為の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となる。このようにもまた、未来について、期待を為す。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為する。心に、作為の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となる。このようにもまた、未来について、期待を為す。

 

 [125]さらに、あるいは、「わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為する。心に、作為の縁あることから、〔彼は〕それを愉悦し、それを愉悦している者となる。このようにもまた、未来について、期待を為す。ということで、「未来に、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる」。

 

 [126]「あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、諸々の以前のものを、〔貪りの思いで〕渇望しながら」とは、「あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を」とは、現在の五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を、欲求している者たち、愛用している者たち、切望している者たち、熱望している者たち、渇望している者たちがいる。「あるいは、諸々の以前のものを、〔貪りの思いで〕渇望しながら」とは、過去の五つの欲望の属性を、渇望している者たち、強く渇望している者たち、固く渇望している者たちがいる。ということで、「あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、諸々の以前のものを、〔貪りの思いで〕渇望しながら」。

 

 [127]それによって、世尊は言った。

 

 [128]「〔心の〕欲求という因縁ある者たち、生存()の快楽に結縛された者たち、彼らは、解脱し難い。なぜなら、他のものによる解脱(他者・他物を依り所とする解脱)は、〔どこにも存在し〕ないからである。未来に、あるいは、また、過去について、〔あれこれと〕期待している者たちがいる──あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、諸々の以前のものを、〔貪りの思いで〕渇望しながら」と。

 

9.

 

 [129]780.(774) 諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、遍く迷乱した者たち──しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した、それらの者たちは、〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ。「死滅した〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう」〔と〕。(3)

 

 [130]「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、遍く迷乱した者たち」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。貪求(貪り求め)は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。〔心の〕汚れの欲望によって、諸々の事物の欲望について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め」。

 

 [131]「追い求め」とは、彼らがまた、諸々の欲望〔の対象〕を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らがまた、渇愛を所以に、諸々の形態を、探し求め、追求し、遍く探し求め……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らがまた、渇愛を所以に、諸々の形態を獲得し……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を獲得し、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らがまた、渇愛を所以に、諸々の形態を遍く受益し……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を遍く受益し、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。たとえば、紛争を為す者が、紛争を追い求める者であり、作業を為す者が、作業を追い求める者であり、托鉢に歩んでいる者が、托鉢を追い求める者であり、瞑想する者が、瞑想を追い求める者であるように、まさしく、このように、彼らがまた、諸々の欲望〔の対象〕を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らがまた、渇愛を所以に、諸々の形態を、探し求め、追求し、遍く探し求め……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を、探し求め、追求し、遍く探し求め、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らがまた、渇愛を所以に、諸々の形態を獲得し……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を獲得し、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。彼らがまた、渇愛を所以に、諸々の形態を遍く受益し……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を遍く受益し、それを所行とする者たちであり、それが多くある者たちであり、それに尊重ある者たちであり、それに向かい行く者たちであり、それに傾倒する者たちであり、それに傾斜する者たちであり、それを信念した者たちであり、それを優位とする者たちであるなら、彼らもまた、諸々の欲望〔の対象〕を追い求める者たちである。

 

 [132]「遍く迷乱した者たち」とは、多くのところとして、天〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の属性にたいし、迷乱し、等しく迷乱し、等しく遍く迷乱する。迷乱し、等しく迷乱し、等しく遍く迷乱した者たちとなり、無明によって、暗愚に作り為され、覆蔽され、覆い護られ、覆い被され、覆い塞がれ、覆い隠され、覆い包まれた者たちとなる。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、遍く迷乱した者たち」。

 

 [133]「しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した、それらの者たちは」とは、「しみったれで」とは、(1)〔彼らは〕下に赴く、ということでもまた、「しみったれで」。(2)物惜〔の思い〕ある者たちもまた、しみったれの者たちと説かれる。(3)覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、〔彼らは〕取らない、ということで、「しみったれで」。(1)どのように、〔彼らは〕下に赴く、ということで、「しみったれ」となるのか。〔彼らは〕地獄に赴き、畜生の胎に赴き、餓鬼の境域に赴く。このように、〔彼らは〕下に赴く、ということで、「しみったれで」。(2)どのように、物惜〔の思い〕ある者たちは、しみったれの者たちと説かれるのか。五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、緊縮、心が掴み取られたあり方である。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜もまた、物惜であり、〔十八の〕界域の物惜もまた、物惜であり、〔十二の認識の〕場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。この物惜としみったれることを具備した人たちは、放逸の者たちである。このように、物惜〔の思い〕ある者たちは、しみったれの者たちと説かれる。(3)どのように、覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、〔彼らは〕取らない、ということで、「しみったれ」となるのか。覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、取らず、聞こうとせず、耳を傾けず、了知の心を現起させず、聞かない者たちであり、言葉を為さない者たちであり、逆転する者たちであり、まさしく、他によって、口を為す(教えと異なることを話す)。このように、覚者たちの、弟子たちの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示したことを、〔彼らは〕取らない、ということで、「しみったれで」。

 

 [134]「〔世の〕不正に〔思いが〕固着した、それらの者たちは」とは、〔世の〕不正である身体の行為(身業)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である言葉の行為(口業)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である意の行為(意業)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である命あるものを殺すことに〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である与えられていないものを取ることに〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である虚偽を説くことに〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である中傷の言葉に……〔世の〕不正である粗暴な言葉に……〔世の〕不正である雑駁な虚論に……〔世の〕不正である強欲〔の思い〕に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である憎悪〔の思い〕に……〔世の〕不正である誤った見解に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)に〔思いが〕固着した者たち、〔世の〕不正である五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)に、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕定着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち。ということで、「しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した、それらの者たちは」。

 

 [135]「〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ」とは、「〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら」とは、〔彼らが〕苦に至り得たなら、〔彼らが〕苦に得達したなら、〔彼らが〕苦に近しく赴いたなら、〔彼らが〕死に至り得たなら、〔彼らが〕死に得達したなら、〔彼らが〕死に近しく赴いたなら。「〔うってかわって〕嘆き悲しむ」とは、泣き喚き、泣き叫び、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起する。ということで、「〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ」。

 

 [136]「『死滅した〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう』〔と〕」とは、死滅した〔わたしたち〕は、これから、どう成るのだろう。地獄にある者たちと成るであろう。畜生の胎ある者たちと成るであろう。餓鬼の境域ある者たちと成るであろう。人間たちと成るであろう。天〔の神々〕たちと成るであろう。形態ある者たちと成るであろう。形態なき者たちと成るであろう。表象ある者たちと成るであろう。表象なき者たちと成るであろう。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者たちと成るであろう。「未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしたちは、〔世に〕有るのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、〔わたしたちは、世に〕有ることなくあるのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、わたしたちは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか」と、疑念に跳入した者たちとなり、疑問に跳入した者たちとなり、二様のものが生じた者たちとなり、泣き喚き、泣き叫び、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起する。ということで、「『死滅した〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう』〔と〕」。

 

 [137]それによって、世尊は言った。

 

 [138]「諸々の欲望〔の対象〕について、貪り求め、追い求め、遍く迷乱した者たち──しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した、それらの者たちは、〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ。『死滅した〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう』〔と〕」と。

 

10.

 

 [139]781.(775) まさに、それゆえに、人は、まさしく、この〔世において〕、学ぶように。それが何であれ、世において、「不正である」と知るなら、それを因として、不正を行なうことがないように。慧者たちは言う。「まさに、この生命(寿命)は、僅かである」〔と〕。(4)

 

 [140]「まさに、それゆえに、人は、まさしく、この〔世において〕、学ぶように」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の欲望〔の対象〕について、この危険を等しく見ながら。ということで、「それゆえに」。「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。

 

 [141](1)どのようなものが、卓越の戒の学びであるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。小なる戒の範疇、大いなる戒の範疇、戒、立脚するもの(依所)、最初〔の行〕、行ない、自制、統御、諸々の善なる法(性質)への入定のために、頭目となり、筆頭となるもの。これが、卓越の戒の学びである。

 

 [142](2)どのようなものが、卓越の心の学びであるのか。ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住む。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住む。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住む。これが、卓越の心の学びである。

 

 [143](3)どのようなものが、卓越の智慧の学びであるのか。ここに、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有る──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。彼は、「これは、苦しみである」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。「これらは、諸々の煩悩()である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。これが、卓越の智慧の学びである。

 

 [144]これらの三つの学び(三学:戒・禅定・智慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕見ている者として学ぶべきであり、綿密に注視している者として学ぶべきであり、心を確立している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、智慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。

 

 [145]「この〔世において〕」とは、この見解の、この受認(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて、この自己状態において、この人間の世において。それによって説かれる。「この〔世において〕」と。「人(ジャントゥ)」とは、有情、人(ナラ)……略([10]参照)……マヌから生じる者。ということで、「まさに、それゆえに、人は、まさしく、この〔世において〕、学ぶように」。

 

 [146]「それが何であれ、世において、『不正である』と知るなら」とは、「それが何であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「それが何であれ」ということになる。「『不正である』と知るなら」とは、〔世の〕不正である身体の行為を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である言葉の行為を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である意の行為を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である命あるものを殺すことを、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である与えられていないものを取ることを、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である虚偽を説くことを、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である中傷の言葉を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である粗暴な言葉を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である雑駁な虚論を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である強欲〔の思い〕を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である憎悪〔の思い〕を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である誤った見解を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である諸々の形成〔作用〕を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である五つの欲望の属性を、「不正である」と知るなら、〔世の〕不正である五つの〔修行の〕妨害を、「不正である」と、知るなら、了知するなら、識知するなら、解知するなら、理解するなら。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「それが何であれ、世において、『不正である』と知るなら」。

 

 [147]「それを因として、不正を行なうことがないように」とは、〔世の〕不正である身体の行為を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である言葉の行為を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である意の行為を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である命あるものを殺すことを因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である与えられていないものを取ることを因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である虚偽を説くことを因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である中傷の言葉を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である粗暴な言葉を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である雑駁な虚論を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である強欲〔の思い〕を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である憎悪〔の思い〕を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である誤った見解を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である諸々の形成〔作用〕を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である五つの欲望の属性を因として、不正を行なうべきではなく、〔世の〕不正である五つの〔修行の〕妨害を因として、不正を、行なうべきではなく、習行するべきではなく、励行するべきではなく、受持して行持するべきではない。ということで、「それを因として、不正を行なうことがないように」。

 

 [148]「慧者たちは言う。『まさに、この生命(寿命)は、僅かである』〔と〕」とは、「生命」とは、寿命、止住、〔身を〕保つこと、〔身を〕保ち行くこと、振る舞うこと、〔身を〕行持すること、〔身を〕守ること、生命、生命の機能(命根)。さらに、また、二つの契機によって、生命は、僅かである。(1)あるいは、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。(2)あるいは、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かである。(1)どのように、止住の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。過去における〔一つの〕心の瞬間においては、〔過去において〕生きたが、〔現在において〕生きることはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。未来における〔一つの〕心の瞬間においては、〔未来において〕生きるであろうが、〔現在において〕生きることはなく、〔過去において〕生きたことはない。現在における〔一つの〕心の瞬間においては、〔現在において〕生きるが、〔過去において〕生きたことはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。

 

 [149]〔そこで、詩偈に言う〕「生命は、そして、自己状態(個我的あり方・身体)も、さらに、楽と苦も、全部が、一つの心〔の瞬間〕と結び付いたものであり、〔その〕瞬間は、軽やかに転起する。

 

 [150]八万四千カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、それらの神たちが〔世に〕止住するとして、まさしく、しかし、彼らもまた、二つの心と結び付いたものとして、生きることはない(一つの心だけが転起する)。

 

 [151]この〔世において〕、死につつある者の、あるいは、止住している者の、それらの止滅した〔五つの心身を構成する〕範疇()は、全てもろともに、相同のものであり、〔すでに〕去り行ったものであり、結生なきものである(結生に至り着くことはない)。

 

 [152]そして、それらが、直前に滅壊した〔五つの範疇〕であるとして、さらに、それらが、未来に滅壊した〔五つの範疇〕であるとして、その直後に止滅した〔五つの範疇〕にとって、特相における差異は存在しない(両者ともに滅壊するものとしてある)。

 

 [153]発現した〔心〕が〔すでに〕ないなら、生じたものは〔もはや〕なく、現在〔の瞬間の心の転起〕によって、〔有情は〕生きる。心が滅壊したのち、世〔の人々〕の死がある。〔これが〕最高の義(勝義:最高の真実)〔としての死〕の通称(施設)となる。

 

 [154]たとえば、〔水が〕諸々の低きにあるものとして転起するように、欲〔の思い〕によって変化させられ、六つの〔認識の〕場所(六処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)の縁あることから、諸々の断絶なき保持が転起する。

 

 [155]諸々の滅壊したものは、安置に至らず、未来における堆積は存在しない。そして、それらが、諸々の発現したものとして止住するとして、錐の先の芥子の如きもの。

 

 [156]そして、諸々の発現した法(性質)には、それらには、滅壊が待ち受けている。諸々の崩壊の法(性質)として止住し、諸々の過去のものと交わることはない。

 

 [157]諸々の滅壊は、見えざるところから至り来て、見えざるところに去り行く。虚空における雷光の生起のように、〔それらは〕生起し、かつまた、衰失する」と。

 

 [158]このように、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。

 

 [159](2)どのように、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。出息に連結するものとして、生命はあり、入息に連結するものとして、生命はあり、出息と入息に連結するものとして、生命はあり、〔四つの〕大いなる元素(地・水・火・風)に連結するものとして、生命はあり、物質としての食に連結するものとして、生命はあり、熱(体熱)に連結するものとして、生命はあり、識知〔作用〕(意識)に連結するものとして、生命はある。これらのものの根元もまた、力弱きものであり、これらのものの前因もまた、力弱きものである。それらが、諸々の縁であるとして、それらもまた、力弱きものであり、たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらもまた、力弱きものである。これらのものと共に有るものもまた、力弱きものであり、これらのものと結合あるものもまた、力弱きものであり、これらのものと共に生じるものもまた、力弱きものである。たとえ、それが、専念するもの(渇愛)であるとして、それもまた、力弱きものである。これらは、互いに他と常に力弱きものであり、これらは、互いに他と安住なきものであり、これらは、互いに他を攻撃する。なぜなら、互いに他の救護者として存在せず、さらに、また、これらは、互いに他を救護しないからである。たとえ、それが、〔他を〕発現させるものであるとして、それは、〔もはや〕見出されない(すでに消滅したものとしてある)。

 

 [160]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、何をもってして、どこの誰が、失われることなくあるというのだろう。そして、これらは、まさに、全てにわたり、〔自ら〕壊れるべきものである。諸々の前のものがあるから、これらは、諸々の増加するものとしてある。たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらは、前に死んだものとしてある。そして、諸々の前のものもまた、さらに、諸々の後のものもまた、いついかなる時も、互いに他を見なかった」と。

 

 [161]このように、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かである。

 

 [162]さらに、また、四大王天〔の神々〕(四天王)たちの生命と比較して、人間たちの、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。三十三天〔の神々〕たちの……略……。耶摩天〔の神々〕たちの……。兜率天〔の神々〕たちの……。化楽天〔の神々〕たちの……。他化自在天〔の神々〕たちの……。梵衆天〔の神々〕たちの生命と比較して、人間たちの、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。

 

 [163]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [164]「比丘たちよ、人間たちの、この寿命は、僅かです。赴くべきは、未来(来世)です。明慧によって、覚るべきです。為すべきは、善なる〔行為〕です。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しません。比丘たちよ、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕。

 

 [165]〔そこで、詩偈に言う〕『人間たちの寿命は、僅かなもの。善き人は、それを蔑むもの。頭が燃えている者のように、〔世を〕歩むがよい。死魔の到来なきは、存在しない。

 

 [166]昼夜は過ぎ行き、生命は破却され、人間たちの寿命は滅尽する──諸々の小川の水のように』」〔と〕。ということで──

 

 [167]「慧者たちは言う。『まさに、この生命(寿命)は、僅かである』〔と〕」とは、慧者たちである(ディーラー)、ということで、「慧者たちは(ディーラー)」。〔道心〕堅固の者たちである(ディティマー)、ということで、「慧者たちは」。〔道心〕堅固の成就者たちである(ディティサンパンナー)、ということで、「慧者たちは」。為した悪を厭う者たちである(ディーカタパーパー)、ということで、「慧者たちは」。慧(ディー)は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正知、〔導きの〕鞭、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき〔あり方〕(無痴)、法(真理)の判別(択法)、正しい見解(正見)であり、その智慧を具備したことから、慧者たちとなる。さらに、また、〔五つの〕範疇()の慧ある者たち、〔十八の〕界域()の慧ある者たち、〔十二の認識の〕場所()の慧ある者たち、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)の慧ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念処・四念住)の慧ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)の慧ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)の慧ある者たち、〔五つの〕機能(五根)の慧ある者たち、〔五つの〕力(五力)の慧ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)の慧ある者たち、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)の慧ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)の慧ある者たち、涅槃の慧ある者たちである。それらの慧者たちは、このように言う。「人間たちの、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「慧者たちは言う。『まさに、この生命は、僅かである』〔と〕」。

 

 [168]それによって、世尊は言った。

 

 [169]「まさに、それゆえに、人は、まさしく、この〔世において〕、学ぶように。それが何であれ、世において、『不正である』と知るなら、それを因として、不正を行なうことがないように。慧者たちは言う。『まさに、この生命(寿命)は、僅かである』〔と〕」と。

 

11.

 

 [170]782.(776) 〔わたしは〕見る──世において、震えおののいている〔人々〕を──諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を。下劣な人たちは、死魔の門にて泣き喚く──諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに。(5)

 

 [171]「〔わたしは〕見る──世において、震えおののいている〔人々〕を」とは、「〔わたしは〕見る」とは、肉眼によってもまた、〔わたしは〕見る、天眼によってもまた、〔わたしは〕見る、智慧の眼によってもまた、〔わたしは〕見る、覚者の眼によってもまた、〔わたしは〕見る、一切にわたる眼によってもまた、〔わたしは〕見る、〔わたしは〕視認する、〔わたしは〕注目する、〔わたしは〕凝視する、〔わたしは〕近しく注視する。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。

 

 [172]「震えおののいている〔人々〕を」とは、渇愛による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、見解による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、〔心の〕汚れによる震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、専念〔努力〕(加行)による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、報い(異熟)による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、悪しき行ないによる震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、貪欲()によって貪る者となり震えおののいている〔人々〕を、憤怒()によって怒る者となり震えおののいている〔人々〕を、迷妄()によって迷う者となり震えおののいている〔人々〕を、思量()によって結縛された者となり震えおののいている〔人々〕を、見解によって偏執した者となり震えおののいている〔人々〕を、高揚によって〔心の〕散乱に至った者となり震えおののいている〔人々〕を、疑惑によって結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)となり震えおののいている〔人々〕を、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)によって強靭に至った者(頑迷固陋の者)となり震えおののいている〔人々〕を、利得によって震えおののいている〔人々〕を、利得なきによって震えおののいている〔人々〕を、盛名によって震えおののいている〔人々〕を、盛名なきによって震えおののいている〔人々〕を、賞賛によって震えおののいている〔人々〕を、非難によって震えおののいている〔人々〕を、安楽によって震えおののいている〔人々〕を、苦痛によって震えおののいている〔人々〕を、生によって震えおののいている〔人々〕を、老によって震えおののいている〔人々〕を、病によって震えおののいている〔人々〕を、死によって震えおののいている〔人々〕を、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤によって震えおののいている〔人々〕を、地獄の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、畜生の胎の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、餓鬼の境域の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、人間の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、入胎を根元とする苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、胎における止住を根元とする苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、胎からの出起を根元とする苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、生まれた者に連結する苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、生まれた者が他者の配下となる苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、自己の行動(自害)としての苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、他者の行動(他害)としての苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、苦痛の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、形成の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、変化の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、眼の病の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、耳の病の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、鼻の病の苦しみによって……略……舌の病の苦しみによって……身の病の苦しみによって……頭の病の苦しみによって……耳(外耳)の病の苦しみによって……口の病の苦しみによって……歯の病の苦しみによって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い(業報)から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみによって……母の死の苦しみによって……父の死の苦しみによって……兄弟の死の苦しみによって……姉妹の死の苦しみによって……子の死の苦しみによって……娘の死の苦しみによって……親族の災厄の苦しみによって……財物の災厄の苦しみによって……病の災厄の苦しみによって……戒の災厄の苦しみによって……見解の災厄の苦しみによって、震えおののいている〔人々〕を、強く震えおののいている〔人々〕を、等しく震えおののいている〔人々〕を、もがき震えおののいている〔人々〕を、動揺している〔人々〕を、強く動揺している〔人々〕を、等しく動揺している〔人々〕を、〔わたしは〕見る、〔わたしは〕視認する、〔わたしは〕注目する、〔わたしは〕凝視する、〔わたしは〕近しく注視する。ということで、「〔わたしは〕見る──世において、震えおののいている〔人々〕を」。

 

 [173]「諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を」とは、「人々」とは、有情の同義語である。「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「渇愛に陥った」とは、渇愛に陥った、渇愛に従い行った、渇愛に添着した、渇愛に近坐した、渇愛によって、打ち倒され、征服され、心が完全に奪い去られた。「諸々の生存にたいする」とは、欲望の生存(欲有)にたいする、形態の生存(色有)にたいする、形態なき生存(無色有)にたいする。ということで、「諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を」。

 

 [174]「下劣な人たちは、死魔の門にて泣き喚く」とは、「下劣な人たちは」とは、下劣な人たちは、下劣なる身体の行為を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる言葉の行為を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる意の行為を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる命あるものを殺すことを具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣なる与えられていないものを取ることを……略……下劣なる諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を……。下劣なる虚偽を説くことを……。下劣なる中傷の言葉を……。下劣なる粗暴な言葉を……。下劣なる雑駁な虚論を……。下劣なる強欲〔の思い〕を……。下劣なる憎悪〔の思い〕を……。下劣なる誤った見解を……。下劣なる諸々の形成〔作用〕を……。下劣なる五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を……。下劣なる五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を……。下劣なる思欲を……。下劣なる切望を……。下劣なる切願を具備した者たちである、ということで、「下劣な人たち」。下劣である、劣悪である、卑賎である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である、ということで、「下劣な人たちは」。「死魔の門にて泣き喚く」とは、「死魔の門にて」とは、悪魔の門において、死の門において。〔彼らが〕死魔に至り得たなら、〔彼らが〕死魔に得達したなら、〔彼らが〕死魔に近しく赴いたなら、〔彼らが〕悪魔に至り得たなら、〔彼らが〕悪魔に得達したなら、〔彼らが〕悪魔に近しく赴いたなら、〔彼らが〕死に至り得たなら、〔彼らが〕死に得達したなら、〔彼らが〕死に近しく赴いたなら、泣き喚き、泣き叫び、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起する。ということで、「下劣な人たちは、死魔の門にて泣き喚く」。

 

 [175]「諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「諸々の種々なる生存にたいする」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)にたいする、さらなる生存(再有)にたいする──欲望の生存(欲有)における行為の生存にたいする、欲望の生存におけるさらなる生存にたいする、形態の生存(色有)における行為の生存にたいする、形態の生存におけるさらなる生存にたいする、形態なき生存(無色有)における行為の生存にたいする、形態なき生存におけるさらなる生存にたいする。繰り返す生存()にたいする、繰り返す境遇()にたいする、繰り返す再生にたいする、繰り返す結生にたいする、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現にたいする、渇愛を離れていない者たちとして、渇愛を離れ去っていない者たちとして、渇愛を捨て去っていない者たちとして、渇愛を吐き捨てていない者たちとして、渇愛を解き放っていない者たちとして、渇愛を捨棄していない者たちとして、渇愛を放棄していない者たちとして。ということで、「諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」。

 

 [176]それによって、世尊は言った。

 

 [177]「〔わたしは〕見る──世において、震えおののいている〔人々〕を──諸々の生存にたいする渇愛に陥った、この人々を。下劣な人たちは、死魔の門にて泣き喚く──諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」と。

 

12.

 

 [178]783.(777) 見よ──わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)のなかで、震えおののいている者たちを──水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを(彼らは、所有物を失う不安と恐怖で悩み苦しんでいる)。このことをもまた見て、我執なき者として〔世を〕歩むように──諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者となり(何も執着せず、世を歩むべきである)。(6)

 

 [179]「見よ──わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)のなかで、震えおののいている者たちを」とは、「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)どのようなものが、渇愛の我執であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、極限が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「このかぎりのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭気であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、奴婢や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、そして、国土であり、そして、地方であり、そして、蔵であり、そして、貯蔵庫である」〔と〕、大いなる地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行じ歩むところの、そのかぎりのものである。これが、渇愛の我執である。

 

 [180](2)どのようなものが、見解の我執であるのか。二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)──すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解(長部経典第一『梵網経』参照)としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の我執である。「見よ──わがものと〔錯視〕されたもののなかで、震えおののいている者たちを」とは、わがものとされた事物について、略奪の疑いある者たちとしてもまた震えおののき、略奪されつつあるときもまた震えおののき、略奪されたときもまた震えおののき、わがものとされた事物について、変化の疑いある者たちとしてもまた震えおののき、変化しつつあるときもまた震えおののき、変化したときもまた、震えおののき、強く震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。このように、震えおののいている者たちを、強く震えおののいている者たちを、等しく震えおののいている者たちを、もがき震えおののいている者たちを、動揺している者たちを、強く動揺している者たちを、等しく動揺している者たちを、見よ、視認せよ、注目せよ、凝視せよ、近しく注視せよ。ということで、「見よ──わがものと〔錯視〕されたもののなかで、震えおののいている者たちを」。

 

 [181]「水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを」とは、たとえば、水が完全に取り払われ、水少なく水僅かのところで、魚たちが、あるいは、烏たちに、あるいは、鷹たちに、あるいは、鶴たちに、攻撃されつつ、引き揚げられつつ、喰われつつ、震えおののき、強く震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺するように、まさしく、このように、人々は、わがものとされた事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた震えおののき、略奪されつつあるときもまた震えおののき、略奪されたときもまた震えおののき、わがものとされた事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた震えおののき、変化しつつあるときもまた震えおののき、変化したときもまた、震えおののき、強く震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを」。

 

 [182]「このことをもまた見て、我執なき者として〔世を〕歩むように」とは、諸々の我執について、この危険(患・過患)を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた見て」。「我執なき者として〔世を〕歩むように」とは、「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、眼をわがものとせずにいる者として、耳をわがものとせずにいる者として、鼻をわがものとせずにいる者として、舌をわがものとせずにいる者として、身をわがものとせずにいる者として、意をわがものとせずにいる者として、諸々の形態を……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を……諸々の法(意の対象)を……家を……衆徒を……居住を……利得を……盛名を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕施食を……臥坐具を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を……欲望の界域(欲界)を……形態の界域(色界)を……形態なき界域(無色界)を……欲望の生存(欲有)を……形態の生存(色有)を……形態なき生存(無色有)を……表象の生存(想有)を……表象なき生存(無想有)を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)を……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)を……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を……過去を……未来を……現在を……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、わがものとせずにいる者として、収取せずにいる者として、偏執せずにいる者として、固着せずにいるものとして、〔世を〕歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「このことをもまた見て、我執なき者として〔世を〕歩むように」。

 

 [183]「諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者となり」とは、「諸々の生存にたいし」とは、欲望の生存にたいし、形態の生存にたいし、形態なき生存にたいし。執着〔の思い〕は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者となり」とは、諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者として、欲〔の思い〕を、愛情を、貪欲を、愛着を、為さずにいる者として、生じさせずにいる者として、産出させずにいる者として、発現させずにいる者として、結実させずにいる者として。ということで、「諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者となり」。

 

 [184]それによって、世尊は言った。

 

 [185]「見よ──わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)のなかで、震えおののいている者たちを──水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを(彼らは、所有物を失う不安と恐怖で悩み苦しんでいる)。このことをもまた見て、我執なき者として〔世を〕歩むように──諸々の生存にたいし、執着〔の思い〕を為さずにいる者となり(何も執着せず、世を歩むべきである)」と。

 

13.

 

 [186]784.(778) 〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように──〔感官とその対象の〕接触(:感覚の発生)を遍く知って、貪求なき者となり。〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為すこと〕、それを為さずにいる者は──慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない。(7)

 

 [187]「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように」とは、「極」とは、接触(:感覚の発生)は、一つの極であり、接触の集起は、第二の極である。過去は、一つの極であり、未来は、第二の極である。安楽の感受(楽受)は、一つの極であり、苦痛の感受(苦受)は、第二の極である。名前(:精神的事象)は、一つの極であり、形態(:物質的形態)は、第二の極である。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)は、一つの極であり、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処:色処・声処・香処・味処・触処・法処)は、第二の極である。身体を有すること(有身)は、一つの極であり、身体を有することの集起は、第二の極である。「欲〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛、欲望〔の対象〕にたいする執取、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害である。「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように」とは、〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を、取り除くべきであり、取り除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように」。

 

 [188]「〔感官とその対象の〕接触()を遍く知って、貪求なき者となり」とは、「接触」とは、眼の接触(眼触)、耳の接触(耳触)、鼻の接触(鼻触)、舌の接触(舌触)、身の接触(身触)、意の接触(意触)、名辞の接触、敵対するもの(有対・障礙:対峙対立するもの・客体物)の接触、安楽として感受されるべき接触、苦痛として感受されるべき接触、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触、善なる接触、善ならざる接触、〔善悪が〕説き明かされない接触(無記触)、欲望の行境の接触、形態の行境の接触、形態なき行境の接触、空性の接触、無相の接触、無願の接触、世〔俗〕の接触(世間触)、世〔俗〕を超える接触(出世間触)、過去の接触、未来の接触、現在の接触。すなわち、このような形態の、接触、触れること、接触すること、接触あることである。これが、接触と説かれる。

 

 [189]「〔感官とその対象の〕接触()を遍く知って」とは、接触を、三つの遍知によって──(1)所知の遍知によって、(2)推量の遍知によって、(3)捨棄の遍知によって──遍く知って。(1)どのようなものが、所知の遍知であるのか。〔彼は〕接触を知る。「これは、眼の接触である」「これは、耳の接触である」「これは、鼻の接触である」「これは、舌の接触である」「これは、身の接触である」「これは、意の接触である」「これは、名辞の接触である」「これは、敵対するものの接触である」「これは、安楽として感受されるべき接触である」「これは、苦痛として感受されるべき接触である」「これは、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触である」「これは、善なる接触である」「これは、善ならざる接触である」「これは、〔善悪が〕説き明かされない接触である」「これは、欲望の行境の接触である」「これは、形態の行境の接触である」「これは、形態なき行境の接触である」「これは、空性の接触である」「これは、無相の接触である」「これは、無願の接触である」「これは、世〔俗〕の接触である」「これは、世〔俗〕を超える接触である」「これは、過去の接触である」「これは、未来の接触である」「これは、現在の接触である」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。これが、所知の遍知である。

 

 [190](2)どのようなものが、推量の遍知であるのか。このように所知を為して、〔彼は〕接触を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常恒ならざるもの〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存(非有)〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの(有為)〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、滅至〔の観点〕から、悦楽〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。これが、推量の遍知である。

 

 [191](3)どのようなものが、捨棄の遍知であるのか。このように推量して、〔彼は〕接触にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それが、諸々の接触にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その接触は、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。これが、捨棄の遍知である。「〔感官とその対象の〕接触を遍く知って」とは、接触を、これらの三つの遍知によって遍く知って。「貪求なき者となり」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求なき者と説かれる。彼は、形態にたいし貪求なき者として、音声にたいし貪求なき者として、臭気にたいし貪求なき者として、味感にたいし貪求なき者として、感触にたいし貪求なき者として、家にたいし……衆徒にたいし……居住にたいし……利得にたいし……盛名にたいし……賞賛にたいし……安楽にたいし……衣料にたいし……〔行乞の〕施食にたいし……臥坐具にたいし……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)にたいし……欲望の界域(欲界)にたいし……形態の界域(色界)にたいし……形態なき界域(無色界)にたいし……欲望の生存(欲有)にたいし……形態の生存(色有)にたいし……形態なき生存(無色有)にたいし……表象の生存(想有)にたいし……表象なき生存(無想有)にたいし……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)にたいし……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)にたいし……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)にたいし……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)にたいし……過去にたいし……未来にたいし……現在にたいし……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「〔感官とその対象の〕接触を遍く知って、貪求なき者となり」。

 

 [192]「〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為すこと〕、それを為さずにいる者は」とは、「〔まさに〕その」とは、すなわち。「自己を難じる者が〔為すこと〕」とは、二つの契機によって、自己を難じる。そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから。どのように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、自己を難じるのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」「わたしによって、与えられていないものを取ることからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が為された」「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」「わたしによって、虚偽を説くことからの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、中傷の言葉が為された」「わたしによって、中傷の言葉からの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」「わたしによって、粗暴な言葉からの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」「わたしによって、雑駁な虚論からの離断が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、強欲〔の思い〕が為された」「わたしによって、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、憎悪〔の思い〕が為された」「わたしによって、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、自己を難じる。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、自己を難じる。さらに、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、自己を難じる。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と、自己を難じる。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と、自己を難じる。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に存している〕」と、自己を難じる。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に存している〕」と、自己を難じる。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念処・四念住)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と、自己を難じる。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と、自己を難じる。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、自己を難じる。このように、自己を難じる行為を、為さずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、結実させずにいる者。ということで、「〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為すこと〕、それを為さずにいる者は」。「慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない」とは、「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)そして、渇愛の汚れであり、(2)さらに、見解の汚れである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。「慧者」とは、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。慧者は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、見られたものに汚されず、聞かれたものに汚されず、思われたものに汚されず、識られたものに、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「慧者は、諸々の見られ聞かれたものに汚されない」。

 

 [193]それによって、世尊は言った。

 

 [194]「〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除くように──〔感官とその対象の〕接触(:感覚の発生)を遍く知って、貪求なき者となり。〔まさに〕その、自己を難じる者が〔為すこと〕、それを為さずにいる者は──慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない」と。

 

14.

 

 [195]785.(779) 〔心中の〕表象(:概念・心象)を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように──諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)となり。〔貪欲の〕矢を引き抜き、〔気づきを〕怠ることなく〔世を〕歩んでいる者は、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない。(8)

 

 [196]「〔心中の〕表象()を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように」とは、「表象」とは、欲望の表象、憎悪の表象、悩害の表象、離欲の表象、憎悪なき表象、悩害なき表象、形態の表象、音声の表象、臭気の表象、味感の表象、感触の表象、法(意の対象)の表象。すなわち、このような形態の、表象、表象すること、表象あることである。これが、表象と説かれる。「〔心中の〕表象を遍く知って」とは、表象を、三つの遍知によって──(1)所知の遍知によって、(2)推量の遍知によって、(3)捨棄の遍知によって──遍く知って。

 

 [197](1)どのようなものが、所知の遍知であるのか。〔彼は〕表象を知る。「これは、欲望の表象である」「これは、憎悪の表象である」「これは、悩害の表象である」「これは、離欲の表象である」「これは、憎悪なき表象である」「これは、悩害なき表象である」「これは、形態の表象である」「これは、音声の表象である」「これは、臭気の表象である」「これは、味感の表象である」「これは、感触の表象である」「これは、法(意の対象)の表象である」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。これが、所知の遍知である。

 

 [198](2)どのようなものが、推量の遍知であるのか。このように所知を為して、〔彼は〕表象を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常恒ならざるもの〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの(有為)〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生と老と病と死の法(性質)〔の観点〕から、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、滅至〔の観点〕から、悦楽〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。これが、推量の遍知である。

 

 [199](3)どのようなものが、捨棄の遍知であるのか。このように推量して、〔彼は〕表象にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それが、表象にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その表象は、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と。これが、捨棄の遍知である。「〔心中の〕表象を遍く知って」とは、表象を、これらの三つの遍知によって遍く知って。「〔貪欲の〕激流を超え渡るように」とは、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超え渡るべきであり、超え上がるべきであり、超え登るべきであり、等しく超越するべきであり、超克するべきである。ということで、「〔心中の〕表象を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように」。

 

 [200]「諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)となり」とは、「諸々の執持〔の対象〕」とは、二つの執持〔の対象〕がある。(1)そして、渇愛の執持〔の対象〕であり、(2)さらに、見解の執持〔の対象〕である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の執持〔の対象〕である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の執持〔の対象〕である。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。その知恵を具備した者が、牟尼であり、沈黙に至り得た者である。三つの牟尼の資質がある。(1)身体による牟尼の資質、(2)言葉による牟尼の資質、(3)意による牟尼の資質である。

 

 [201](1)どのようなものが、身体による牟尼の資質であるのか。三種類の身体による悪しき行ない(殺生・偸盗・邪淫)の捨棄が、身体による牟尼の資質である。三種類の身体による善き行ない(不殺生・不偸盗・不邪淫)が、身体による牟尼の資質である。身体という対象についての知恵が、身体による牟尼の資質である。身体の遍知が、身体による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、身体による牟尼の資質である。身体にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、身体による牟尼の資質である。身体の形成〔作用〕(出息と入息)の止滅である第四の瞑想(第四禅)への入定が、身体による牟尼の資質である。これが、身体による牟尼の資質である。

 

 [202](2)どのようなものが、言葉による牟尼の資質であるのか。四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論)の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。四種類の言葉による善き行ない(虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)が、言葉による牟尼の資質である。言葉という対象についての知恵が、言葉による牟尼の資質である。言葉の遍知が、言葉による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、言葉による牟尼の資質である。言葉にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。言葉の形成〔作用〕(思考と想念)の止滅である第二の瞑想(第二禅)への入定が、言葉による牟尼の資質である。これが、言葉による牟尼の資質である。

 

 [203](3)どのようなものが、意による牟尼の資質であるのか。三種類の意による悪しき行ない(強欲・憎悪の心・誤った見解)の捨棄が、意による牟尼の資質である。三種類の意による善き行ない(無欲・憎悪なき心・正しい見解)が、意による牟尼の資質である。心という対象についての知恵が、意による牟尼の資質である。心の遍知が、意による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、意による牟尼の資質である。心にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、意による牟尼の資質である。心の形成〔作用〕の止滅である表象と感覚の止滅(想受滅)への入定が、意による牟尼の資質である。これが、意による牟尼の資質である。

 

 [204]〔そこで、詩偈に言う〕「身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う。

 

 [205]身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『悪しきものが洗い清められた者』と言う」と。

 

 [206]これらの三つの牟尼の資質の法(性質)を具備した六者の牟尼たちがいる。家ある者たる牟尼たち、家なき者たる牟尼たち、〔いまだ〕学びある者(有学)たる牟尼たち、〔もはや〕学ぶことなき者(無学)たる牟尼たち、独者たる牟尼たち、牟尼たる牟尼たちである。どのような者たちが、家ある者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、家ある者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家ある者たる牟尼たちである。どのような者たちが、家なき者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、出家者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家なき者たる牟尼たちである。七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)が、〔いまだ〕学びある者たる牟尼たちである。阿羅漢たちが、〔もはや〕学ぶことなき者たる牟尼たちである。独覚(縁覚・辟支仏)たちが、独者たる牟尼たちである。牟尼たる牟尼たちは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちと説かれる。

 

 [207]〔そこで、詩偈に言う〕「迷乱した形態の無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、〔あたかも〕秤(はかり)を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って──

 

 [208]諸々の悪を遍く避けるなら、彼は、牟尼であり、それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、〔彼は〕『牟尼』〔と〕呼ばれる。

 

 [209]かつまた、正しからざる者たちの、かつまた、正しくある者たちの、〔両者の〕法(性質)を、内に、さらに、外に、一切の世において〔あるがままに〕知って、すなわち、天〔の神々〕と人間たちに供養される者──彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」と。

 

 [210]「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)そして、渇愛の汚れであり、(2)さらに、見解の汚れである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。牟尼は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、諸々の執持〔の対象〕について、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「諸々の執持〔の対象〕に汚されない牟尼となり」。

 

 [211]「〔貪欲の〕矢を引き抜き、〔気づきを〕怠ることなく〔世を〕歩んでいる者は」とは、「矢」とは、七つの矢がある。貪欲の矢、憤怒の矢、迷妄の矢、思量の矢、見解の矢、憂いの矢、懐疑の矢である。彼の、これらの矢が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔貪欲の〕矢を引き抜いた者と説かれ、矢を抜き去った者として、矢を取り出した者として、矢を等しく取り出した者として、矢を摘出した者として、矢を等しく摘出した者として、矢を捨て去った者として、矢を吐き捨てた者として、矢を解き放った者として、矢を捨棄した者として、矢を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「〔貪欲の〕矢を引き抜き」。

 

 [212]「〔世を〕歩んでいる者は」とは、〔世を〕歩んでいる者は、〔世に〕住んでいる者は、振る舞っている者は、行持している者は、〔身を〕守っている者は、〔身を〕保っている者は、〔身を〕保ち行っている者は。「〔気づきを〕怠ることなく」とは、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者として、常に為す者として、停滞なく為す者として、畏縮なき生活者として、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)として、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)として。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき戒の範疇を円満成就させるのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある戒の範疇を、その場その場に、智慧によって資助するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき禅定の範疇を円満成就させるのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある禅定の範疇を、その場その場に、智慧によって資助するのだろう」と……略……諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき智慧の範疇を円満成就させるのだろう……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を円満成就させるのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある解脱の知見の範疇を、その場その場に、智慧によって資助するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「どのように、わたしは、あるいは、〔いまだ〕遍知されていない苦痛を遍知するのだろう、あるいは、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の〔心の〕汚れを捨棄するのだろう、あるいは、〔いまだ〕修行されていない道を修行するのだろう、あるいは、〔いまだ〕実証されていない止滅を実証するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。ということで、「〔貪欲の〕矢を引き抜き、〔気づきを〕怠ることなく〔世を〕歩んでいる者は」。

 

 [213]「この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」とは、自らの自己状態である、この世を願い求めず、他の自己状態である、他〔の世〕を願い求めない。自らの形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕(色受想行識)である、この世を願い求めず、他の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕である、他〔の世〕を願い求めない。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である、この世を願い求めず、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)である、他〔の世〕を願い求めない。人間の世である、この世を願い求めず、天の世である、他〔の世〕を願い求めない。欲望の界域(欲界)である、この世を願い求めず、形態の界域(色界)や形態なき界域(無色界)である、他〔の世〕を願い求めない。欲望の界域や形態の界域である、この世を願い求めず、形態なき界域である、他〔の世〕を願い求めない。さらなる、あるいは、境遇を、あるいは、再生を、あるいは、結生を、あるいは、生存を、あるいは、輪廻を、あるいは、転起を、願望せず、欲求せず、愛用せず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」。

 

 [214]それによって、世尊は言った。

 

 [215]「〔心中の〕表象(:概念・心象)を遍く知って、〔貪欲の〕激流を超え渡るように──諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)となり。〔貪欲の〕矢を引き抜き、〔気づきを〕怠ることなく〔世を〕歩んでいる者は、この世を、さらに、他〔の世〕を、〔両者ともに〕願い求めない」と。

 

 [216]洞窟についての八なるものの経についての釈示が、第二となる。

 

1. 3. 汚れについての八なるものの経についての釈示

 

 [217]そこで、汚れについての八なるものの経についての釈示を説くであろう。

 

15.

 

 [218]786.(780) また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く。そこで、また、まさに、〔自説こそが〕真理()である〔という、高慢と我執の〕意で、〔自己の論を〕説く。しかしながら、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に、牟尼は近づかない。それゆえに、牟尼には、鬱積〔の思い〕が、どこにも存在しない。(1)

 

 [219]「また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く」とは、それらの異教の者(外道)たちは、汚れた意ある者たちとして、邪悪な意ある者たちとして、〔他を〕遮る意ある者たちとして、〔他を〕激しく遮る意ある者たちとして、〔他を〕打つ意ある者たちとして、〔他を〕打破する意ある者たちとして、〔他に〕憤懣させられた意ある者たちとして、〔他に〕激しく憤懣させられた意ある者たちとして、〔自己の論を〕説き、そして、世尊を、さらに、比丘の僧団を、事実ならざることによって批判する。ということで、「また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く」。

 

 [220]「そこで、また、まさに、〔自説こそが〕真理()である〔という、高慢と我執の〕意で、〔自己の論を〕説く」とは、彼らが、それらの異教の者たちに、信を置きながら、信用しながら、信念しながら、真理の意ある者たちとして、真理の表象ある者たちとして、事実の意ある者たちとして、事実の表象ある者たちとして、真実の意ある者たちとして、真実の表象ある者たちとして、あるがままの意ある者たちとして、あるがままの表象ある者たちとして、顛倒なき意ある者たちとして、顛倒なき表象ある者たちとして、〔自己の論を〕説き、そして、世尊を、さらに、比丘の僧団を、事実ならざることによって批判する。ということで、「そこで、また、まさに、〔自説こそが〕真理である〔という、高慢と我執の〕意で、〔自己の論を〕説く」。

 

 [221]「しかしながら、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に、牟尼は近づかない」とは、その論が、生じたもの、産出したもの、発現したもの、結実したもの、出現したものとして有り、そして、世尊への、さらに、比丘の僧団への、事実ならざることによる、他者の評判、罵倒、批判として〔有る〕。ということで、「しかしながら、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に」。「牟尼は近づかない」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。その知恵を具備した者が、牟尼であり、沈黙に至り得た者である。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。すなわち、論に近づく、彼は、二つの契機によって、論に近づく。〔悪しき論を〕作り為す者は、〔悪しき論を〕作り為す者たることによって、論に近づく。さらに、あるいは、〔論を〕説いているとして、〔他者によって〕批判されつつ、〔他者に〕激情し、〔他者に〕憎悪し、〔他者に〕反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す──「〔わたしは、悪しき論を〕作り為さない者として〔世に〕存している」と。すなわち、論に近づく、彼は、これらの二つの契機によって、論に近づく。牟尼は、二つの契機によって、論に近づかない。〔悪しき論を〕作り為さない者である牟尼は、〔悪しき論を〕作り為さない者たることによって、論に近づかない。さらに、あるいは、〔論を〕説いているとして、〔他者によって〕批判されつつ、〔他者に〕激情せず、〔他者に〕憎悪せず、〔他者に〕反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さない──「〔わたしは、悪しき論を〕作り為さない者として〔世に〕存している」と。牟尼は、これらの二つの契機によって、論に、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「しかしながら、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に、牟尼は近づかない」。

 

 [222]「それゆえに、牟尼には、鬱積〔の思い〕が、どこにも存在しない」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。牟尼には、〔他を〕打つ心性が〔存在せず〕、鬱積〔の思い〕が生じることもまた存在せず、五つの心の鬱積(覚者と法と僧団と学びと梵行を共にする者たちにたいする心の鬱積)もまた存在せず、三つの心の鬱積もまた存在せず、貪欲の鬱積も、憤怒の鬱積も、迷妄の鬱積も、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「それゆえに、牟尼には、鬱積〔の思い〕が、どこにも存在しない」。

 

 [223]それによって、世尊は言った。

 

 [224]「また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意で、〔自己の論を〕説く。そこで、また、まさに、〔自説こそが〕真理()である〔という、高慢と我執の〕意で、〔自己の論を〕説く。しかしながら、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に、牟尼は近づかない。それゆえに、牟尼には、鬱積〔の思い〕が、どこにも存在しない」と。

 

16.

 

 [225]787.(781) まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう──欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が。〔諸々の特定の見解について〕「〔それらは〕完全である」〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は、まさに、〔限定された自己の観点から〕知るであろう、そのとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう。(2)

 

 [226]「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」とは、すなわち、それらの異教の者たちが、女性遍歴遊行者のスンダリーを殺して、釈子たる沙門たちの栄誉ならざることを喧伝して、「このように、この利得と盛名と尊敬と敬仰を、〔沙門たちから〕取り戻すのだ」と、彼らが、このような見解ある者たちとなり、このような受認(信受)ある者たちとなり、このような嗜好(意欲)ある者たちとなり、このような主張ある者たちとなり、このような志欲ある者たちとなり、このような志向ある者たちとなるとして、彼らは、自らの見解を、自らの受認を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、超え行くことができなかった。そこで、まさに、その、盛名ならざる〔悪評〕こそが、彼らに戻り来たものとなる。ということで、このようにもまた、「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」。さらに、あるいは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、すなわち、彼が、このような論ある者であるなら、彼は、自らの見解を、自らの受認を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、どのように、超え行くというのだろう、超越するというのだろう、等しく超越するというのだろう、超克するというのだろう。それは、何を因とするのか。彼の、その見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたからである。ということで、このようにもまた、「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」。「世〔界〕は、常久ではない。……略……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、すなわち、彼が、このような論ある者であるなら、彼は、自らの見解を、自らの受認を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、どのように、超え行くというのだろう、超越するというのだろう、等しく超越するというのだろう、超克するというのだろう。それは、何を因とするのか。彼の、その見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたからである。ということで、このようにもまた、「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」。

 

 [227]「欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が」とは、「欲〔の思い〕に導かれ」とは、自らの見解によって、自らの受認によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められる。たとえば、あるいは、象の乗物によって、あるいは、馬の乗物によって、あるいは、牛の乗物によって、あるいは、山羊の乗物によって、あるいは、羊の乗物によって、あるいは、駱駝の乗物によって、あるいは、驢馬の乗物によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められるように、まさしく、このように、自らの見解によって、自らの受認によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められる。ということで、「欲〔の思い〕に導かれ」。「好みによって〔思いが〕固着した者が」とは、自らの見解によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、〔思いが〕固着した者が、〔思いが〕確立した者が、〔思いが〕付着した者が、近しく赴いた者が、固執した者が、信念した者が。ということで、「欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が」。

 

 [228]「〔諸々の特定の見解について〕『〔それらは〕完全である』〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は」とは、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この教師は、一切知者である」と、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕である」……。「この衆徒は、善き実践者である」……。「この見解は、立派である」……。「この〔実践の〕道は、善く報知された〔道〕である」……。「この〔聖者の〕道は、出脱〔の道〕である」と、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為し、生じさせ、産出させ、発現させ、結実させる。ということで、「〔諸々の特定の見解について〕『〔それらは〕完全である』〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は」。

 

 [229]「まさに、〔限定された自己の観点から〕知るであろう、そのとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう」とは、知るであろう、そのとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、知るであろう、そのとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、知るであろう、そのとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。ということで、「まさに、〔限定された自己の観点から〕知るであろう、そのとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう」。

 

 [230]それによって、世尊は言った。

 

 [231]「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう──欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者が。〔諸々の特定の見解について〕『〔それらは〕完全である』〔と〕、自ら、〔執着の思いを〕作り為している者は、まさに、〔限定された自己の観点から〕知るであろう、そのとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕説くであろう」と。

 

17.

 

 [232]788.(782) その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を、まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら──彼が、自己のことを、まさしく、自ら、〔あれこれと〕説くなら──彼のことを、智者たちは、「聖ならざる法(性質)の者」と言う。(3)

 

 [233]「その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を」とは、「その」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位に至り得た者として、或る法(性質)を具備した者として──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「諸々の戒や掟を」とは、(1)まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるものが存在する。(2)掟ではあるが、戒ではないものが存在する。(1)どのように、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。すなわち、そこにおける、自制、統御、違犯なきことが、これが、戒であり、すなわち、受持することが、それが、掟である。統御の義(意味)によって、戒となり、受持の義(意味)によって、掟となる。これが、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもある、と説かれる。(2)どのように、掟ではあるが、戒ではないのか。八つの払拭〔行〕(頭陀)の支分がある。林にある者についての支分、〔行乞の〕施食の者についての支分、糞掃衣の者についての支分、三つの衣料の者についての支分、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者についての支分、〔規定された食〕以後の食を否とする者についての支分、常坐〔にして不臥〕なる者についての支分、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者についての支分である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の活力によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。

 

 [234]〔そこで、詩偈に言う〕「〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらに、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)──渇愛の矢が打破されないうちは」と──

 

 [235]心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この結跏を破らないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この坐から出起しないであろう……略……〔瞑想のための〕歩行場から降りないであろう……精舎から出ないであろう……半屋根から出ないであろう……高楼から出ないであろう……楼房から出ないであろう……洞窟から出ないであろう……山窟から出ないであろう……小屋から出ないであろう……楼閣から出ないであろう……見張塔から出ないであろう……円室から出ないであろう……堂舎から出ないであろう……奉仕堂から出ないであろう……天幕から出ないであろう……。「それまで、わたしは、この木の根元から出ないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。

 

 [236]「まさしく、この、早刻時に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「まさしく、この、日中時に……略……夕刻時に……食前に……食後に……初夜(宵の内)に……中夜(真夜中)に……後夜(明け方)に……黒〔分〕(月が欠ける期間)に……白〔分〕(月が満ちる期間)に……雨期に……冬に……夏に……初年期(青年期)に……中年期(壮年期)に……後年期(老年期)に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「人(ジャントゥ)が」とは、有情が、人(ナラ)が、人間(マーナヴァ)が、人士が、人物が、生ある者が、生に赴く者が、人(ジャントゥ)が、死に至る者が、マヌから生じる者が。ということで、「その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を」。

 

 [237]「まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら」とは、「他者たちに」とは、他の、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕たち、人間たちに。「〔他者から〕尋ねられていないのに」とは、尋ねられていないのに、問われていないのに、乞い求められていないのに、要請されていないのに、浄信されていないのに。「説くなら」とは、自己の、あるいは、戒を、あるいは、掟を、あるいは、戒と掟を、説く。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「秀逸なる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、〔世に存している〕」と、あるいは、「諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔規定された食〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら」。

 

 

 [238]「彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法(性質)の者』と言う」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇()に智ある者たち、〔十八の〕界域()に智ある者たち、〔十二の認識の〕場所()に智ある者たち、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念処・四念住)に智ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)に智ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)に智ある者たち、〔五つの〕機能(五根)に智ある者たち、〔五つの〕力(五力)に智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)に智ある者たち、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に智ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように言う。「これは、聖ならざる者たちの法(性質)であり、これは、聖なる者たちの法(性質)ではなく、これは、愚者たちの法(性質)であり、これは、賢者たちの法(性質)ではなく、これは、正なる人士ならざる者たちの法(性質)であり、これは、正なる人士たちの法(性質)ではない」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法(性質)の者』と言う」。

 

 [239]「彼が、自己のことを、まさしく、自ら、〔あれこれと〕説くなら」とは、自己(アートゥマン)は、自己(アッタン)と説かれる。「まさしく、自ら、〔あれこれと〕説くなら」とは、自己のことを、まさしく、自ら、〔あれこれと〕説く。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「秀逸なる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、〔世に存している〕」と、あるいは、「諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔規定された食〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、(※)あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「彼が、自己のことを、まさしく、自ら、〔あれこれと〕説くなら」。

 

※ テキストの Vibhavañca bhavañca vippahāya, vusitavā khīapunabbhavo sa bhikkhū’’ti. を、PTS版により削除する。

 

 [240]それによって、世尊は言った。

 

 [241]「その人が、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟を、まさしく、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら──彼が、自己のことを、まさしく、自ら、〔あれこれと〕説くなら──彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法(性質)の者』と言う」と。

 

18.

 

 [242]789.(783) しかしながら、〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が、「かくのごとく、わたしは」と、諸々の戒について誇らずにいるなら──彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら──彼のことを、智者たちは、「聖なる法(性質)の者」と説く。(4)

 

 [243]「しかしながら、〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が」とは、「〔心が〕寂静となり」とは、貪欲が静められたことから、寂静となった者として、憤怒が静められたことから、寂静となった者として、迷妄が静められたことから、寂静となった者として、忿激(忿)が……怨恨()が……偽装()が……加虐()が……嫉妬()が……物惜()が……幻惑()が……狡猾()が……強情()が……激昂()が……思量()が……高慢(過慢)が……驕慢()が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作(現行)が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「〔心が〕寂静となり」。「比丘(ビック)」とは、七つの法(性質)が破壊された(ビンナ)ことから、比丘となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、破壊されたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、破壊されたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、破壊されたものと成り、(4)貪欲()が、破壊されたものと成り、(5)憤怒()が、破壊されたものと成り、(6)迷妄()が、破壊されたものと成り、(7)思量()が、破壊されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、破壊されたものと成る。

 

 [244]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、自己みずから為した〔実践の〕道によって、完全なる涅槃に至り、疑いを超えた者──かつまた、虚無(非有:無)を、かつまた、実体(:存在)を、〔両者ともに〕捨棄して、さらなる生存(再有)が滅尽した、〔梵行の〕完成者──彼は、『比丘』〔と呼ばれます〕」と。

 

 [245]「しかしながら、〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が」とは、貪欲が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、憤怒が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、迷妄が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となる。ということで、「しかしながら、〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が」。

 

 [246]「『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいるなら」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく、わたしは」ということになる。「諸々の戒について誇らずにいるなら」とは、ここに、一部の者は、誇る者と成り、誇示する者と〔成る〕。彼は、誇り、誇示する。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって……略([237]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、誇り、誇示する。このように、誇らず、誇示せず、誇ることから、誇示することから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいるなら」。

 

 [247]「彼のことを、智者たちは、『聖なる法(性質)の者』と説く」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇に智ある者たち、〔十八の〕界域に智ある者たち、〔十二の認識の〕場所に智ある者たち、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立に智ある者たち、〔四つの〕正しい精励に智ある者たち、〔四つの〕神通の足場に智ある者たち、〔五つの〕機能に智ある者たち、〔五つの〕力に智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分に智ある者たち、〔聖者の〕道に智ある者たち、〔沙門の〕果に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように説く。「これは、聖なる者たちの法(性質)であり、これは、聖ならざる者たちの法(性質)ではなく、これは、賢者たちの法(性質)であり、これは、愚者たちの法(性質)ではなく、これは、正なる人士たちの法(性質)であり、これは、正なる人士ならざる者たちの法(性質)ではない」と、このように説く。聖者たちは、彼のことを、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「彼のことを、智者たちは、『聖なる法(性質)の者』と説く」。

 

 [248]「彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩()の滅尽者に。「増長」とは、七つの増長がある。貪欲の増長、憤怒の増長、迷妄の増長、思量の増長、見解の増長、〔心の〕汚れ(煩悩)の増長、行為()の増長である。彼に、これらの増長が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら」。

 

 [249]それによって、世尊は言った。

 

 [250]「しかしながら、〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が、『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいるなら──彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら──彼のことを、智者たちは、『聖なる法(性質)の者』と説く」と。

 

19.

 

 [251]790.(784) 彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕、〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら、〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である。(5)

 

 [252]「彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕」とは、「妄想(想い描き)」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。「形成された」とは、形成された、行作された、確立された、ということでもまた、「形成された」。さらに、あるいは、無常なるものであり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である、ということでもまた、「形成された」。「彼に」とは、悪しき見解ある者に。諸々の法(見解)は、六十二の悪しき見解と説かれる。ということで、「彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕」。

 

 [253]「〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら」とは、「偏重された」とは、二つの偏重がある。(1)そして、渇愛の偏重であり、(2)さらに、見解の偏重である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔いまだ〕捨棄されず、見解の偏重は〔いまだ〕放棄されず、彼の、渇愛の偏重が〔いまだ〕捨棄されていないことから、見解の偏重が〔いまだ〕放棄されていないことから、彼は、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、〔世を〕歩む。渇愛を旗とする者として、渇愛を幟とする者として、渇愛を優位とする者として、見解を旗とする者として、見解を幟とする者として、見解を優位とする者として、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩む。ということで、「偏重された」。「存在する」とは、存在する、等しく見出される、存する、認知される。「諸々の浄白ならざるもの」とは、諸々の浄白ならざるもの、諸々の清白ならざるもの、諸々の完全なる清浄ならざるもの、諸々の汚染したもの、諸々の汚染あるもの。ということで、「〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら」。

 

 [254]「すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら」とは、「すなわち、自己〔の見解〕について」とは、すなわち、自己について。自己は、悪しき見解と説かれる。自己の見解について、二つの福利を、〔彼は〕見る。(1)そして、所見の法(現法:現世)としての福利であり、(2)さらに、未来のものとしての福利である。(1)どのようなものが、見解について、所見の法(現世)としての福利であるのか。それを見解とする教師が〔世に〕有るなら、それを見解とする弟子たちが〔世に〕有る。それを見解とする教師を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、敬恭する。そして、それを因縁として、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を得る。これが、見解について、所見の法(現世)としての福利である。(2)どのようなものが、見解について、未来のものとしての福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために、あるいは、金翅鳥たることのために、あるいは、夜叉たることのために、あるいは、阿修羅たることのために、あるいは、音楽神たることのために、あるいは、〔天の〕大王たることのために、あるいは、インダ〔神〕(インドラ神)たることのために、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)たることのために、あるいは、天〔の神〕たることのために、十分である。この見解は、清らかさのために、清浄のために、完全なる清浄のために、解き放ちのために、解脱のために、完全なる解脱のために、十分である。この見解によって、〔人々は〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。この見解によって、〔わたしは〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するのだ」と、未来に果を期待できる者と成る。これが、見解について、未来のものとしての福利である。自己の見解について、これらの二つの福利を、〔彼は〕見る、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕凝視する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら」。

 

 [255]「〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」とは、三つの寂静がある。(1)究極の寂静、(2)特性(彼分)の寂静、(3)主義(世俗)の寂静である。(1)どのようなものが、究極の寂静であるのか。究極の寂静は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、究極の寂静である。(2)どのようなものが、特性の寂静であるのか。第一の瞑想に入定した者には、〔五つの修行の〕妨害が、寂静と成る。第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念(尋伺)が、寂静と成る。第三の瞑想に入定した者には、喜悦()が、寂静と成る。第四の瞑想に入定した者には、安楽と苦痛(楽苦)が、寂静と成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象(色想)が、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)が、種々なる表象(異想)が、寂静と成る。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が、寂静と成る。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が、寂静と成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が、寂静と成る。これが、特性の寂静である。(3)どのようなものが、主義の寂静であるのか。諸々の主義の寂静は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての寂静である。そして、また、主義の寂静が、この義(意味)において志向された「寂静」ということになる(本偈における「寂静」の意味である)。「〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」とは、動乱の寂静に、強き動乱の寂静に、揺らいでいる寂静に、等しく揺らいでいる寂静に、揺れ動いている寂静に、対立している寂静に、想い描かれた寂静に、妄想された寂静に、無常なるものに、形成されたもの(有為)に、縁によって生起したもの(縁已生)に、滅尽の法(性質)に、衰失の法(性質)に、離貪の法(性質)に、止滅の法(性質)に、〔虚妄の〕寂静に、依存する者、強く依存する者(※)、〔思いが〕付着した者、近しく赴いた者、固執した者、信念した者である。ということで、「〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」。

 

※ テキストには asito とあるが、PTS版により āsito と読む。

 

 [256]それによって、世尊は言った。

 

 [257]「彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(見解)が〔存在し〕、〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら、〔まさに〕その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である」と。

 

20.

 

 [258]791.(785) まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して(対象化し特別視して)、それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において、法(見解)を放棄し、かつまた、執取する。(6)

 

 [259]「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」とは、「諸々の見解にたいする固着」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔心の〕固着としての偏執であり、見解として〔妄執が〕固着する場である。「世〔界〕は、常久ではない。……略……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔心の〕固着としての偏執であり、見解として〔妄執が〕固着する場である。ということで、「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」とは、まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではなく、超克し難きものであり、超え渡り難く、超え登り難く、等しく超越し難く、超克し難い。ということで、「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」。

 

 [260]「諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して(対象化し特別視して)」とは、「諸々の法(見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔執着の対象と〕判別して」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「〔執着の対象として〕執持されたもの」とは、諸々の〔妄執が〕固着する場における、限界あるものの収取、片々のものの収取、優れたものの収取、部位のものの収取、積集のものの収取、等しき積集のものの収取であり、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものである。ということで、「諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」。

 

 [261]「それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「人(ナラ)は」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者は。「それらの〔妄執が〕固着する場において」とは、それらの見解として〔妄執が〕固着する場において。ということで、「それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において」。

 

 [262]「法(見解)を放棄し、かつまた、執取する」とは、「放棄し」とは、二つの契機によって放棄する。(1)あるいは、他者による中断によって放棄する。(2)あるいは、不可能であるとして放棄する。(1)どのように、他者による中断によって放棄するのか。他者が、中断させる。「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、善く報知された〔道〕にあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「ここにおいて、あるいは、〔人々が〕清らかとなることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、存在しない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように、他者が中断させる。このように中断させられつつ、教師を放棄し、法(教え)の告知を放棄し、衆徒を放棄し、見解を放棄し、〔実践の〕道を放棄し、〔聖者の〕道を放棄する。このように、他者による中断によって放棄する。(2)どのように、不可能であるとして放棄するのか。戒〔の成就〕を不可能であるとして、戒を放棄する。掟〔の成就〕を不可能であるとして、掟を放棄する。戒と掟〔の成就〕を不可能であるとして、戒と掟を放棄する。このように、不可能であるとして放棄する。「法(見解)を」「かつまた、執取する」とは、教師を収取し、法(教え)の告知を収取し、衆徒を収取し、見解を収取し、〔実践の〕道を収取し、〔聖者の〕道を、収取し、偏執し、固着する。ということで、「法(見解)を放棄し、かつまた、執取する」。

 

 [263]それによって、世尊は言った。

 

 [264]「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して(対象化し特別視して)、それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕固着する場において、法(見解)を放棄し、かつまた、執取する」と。

 

21.

 

 [265]792.(786) まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない。かつまた、幻惑〔の策略〕()も、かつまた、〔我想の〕思量()も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は──彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう──彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である。(7)

 

 [266]「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない」とは、「清き者」とは、清きは、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能、智慧の力、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、智慧と説かれるのか。その智慧によって、身体による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、言葉による悪しき行ないが……意による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、貪欲が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、憤怒が……略……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、嫉妬が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、物惜が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、幻惑が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、狡猾が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、強情が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。それを契機とすることから、清きは、智慧と説かれる。

 

 [267]さらに、あるいは、正しい見解(正見)によって、誤った見解(邪見)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい思惟(正思惟)によって、誤った思惟(邪思惟)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい言葉(正語)によって、誤った言葉(邪語)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗い清められ……略……正しい行業(正業)によって、誤った行業(邪業)が、かつまた、払拭され……正しい生き方(正命)によって、誤った生き方(邪命)が、かつまた、払拭され……正しい努力(正精進)によって、誤った努力(邪精進)が、かつまた、払拭され……正しい気づき(正念)によって、誤った気づき(邪念)が、かつまた、払拭され……正しい禅定(正定)によって、誤った禅定(邪定)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい知恵(正智)によって、誤った知恵(邪智)が、かつまた、払拭され……正しい解脱(正解脱)によって、誤った解脱(邪解脱)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。

 

 [268]さらに、あるいは、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)によって、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。阿羅漢は、これらの清き法(性質)を、具した者であり、具完した者であり、所有した者であり、完備した者であり、具有した者であり、完有した者であり、具備した者であり、それゆえに、阿羅漢は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した者であり、悪を払拭した者であり、〔心の〕汚れを払拭した者であり、苦悶を払拭した者である。ということで、「清き者」。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。

 

 [269]「〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。「諸々の種々なる生存にたいし」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)にたいし、さらなる生存(再有)にたいし──欲望の生存(欲有)における行為の生存にたいし、欲望の生存におけるさらなる生存にたいし、形態の生存(色有)における行為の生存にたいし、形態の生存におけるさらなる生存にたいし、形態なき生存(無色有)における行為の生存にたいし、形態なき生存におけるさらなる生存にたいし。繰り返す生存()にたいし、繰り返す境遇()にたいし、繰り返す再生にたいし、繰り返す結生にたいし、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現にたいし。「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない」とは、清き者には、そして、諸々の種々なる生存にたいし、想い描かれ、妄想され、行作され、確立された、〔特定の〕見解は、世において、どこにも、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない」。

 

 [270]「かつまた、幻惑〔の策略〕()も、かつまた、〔我想の〕思量()も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は」とは、幻惑は、騙しの性行と説かれる。ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、それを隠蔽することを因として、悪しき欲求を作為する。「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と求め、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と思惟し、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と言葉を語り、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と身体によって勤しむ。すなわち、このような形態の、幻惑、幻惑者たること、誇大、騙すこと、欺き、偽善、欺瞞、秘匿、遍き秘匿、隠蔽、遍き隠蔽、明瞭ならざる行為、公然ならざる行為、隠匿、悪行である。これが、幻惑と説かれる。

 

 [271]「思量」とは、一種類としての、思量がある。すなわち、心の傲慢である。二種類としての、思量がある。自己を賞揚する思量、他者を蔑視する思量である。三種類としての、思量がある。「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。四種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、安楽によって思量を生じさせる。五種類としての、思量がある。「〔わたしは〕諸々の意に適う形態の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせ、「〔わたしは〕諸々の意に適う音声の得者として〔世に〕存している」と……「〔わたしは〕諸々の意に適う臭気の得者として〔世に〕存している」と……「〔わたしは〕諸々の意に適う味感の得者として〔世に〕存している」と……「〔わたしは〕諸々の意に適う感触の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせる。六種類としての、思量がある。眼の成就(具足)によって思量を生じさせ、耳の成就によって……鼻の成就によって……舌の成就によって……身の成就によって……意の成就によって思量を生じさせる。七種類としての、思量がある。思量、高慢、思量と高慢、卑下慢、増上慢、我慢(自我意識)、邪慢である。八種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、利得なきによって卑下慢を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、盛名なきによって卑下慢を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、非難によって卑下慢を生じさせ、安楽によって思量を生じさせ、苦痛によって卑下慢を生じさせる。九種類としての、思量がある。勝る者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。十種類としての、思量がある。ここに、一部の者は、思量を生じさせる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、思量と説かれる。「かつまた、幻惑〔の策略〕も、かつまた、〔我想の〕思量も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は」とは、清き者は、かつまた、幻惑〔の策略〕も、かつまた、〔我想の〕思量も、〔両者ともに〕捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「かつまた、幻惑〔の策略〕も、かつまた、〔我想の〕思量も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は」。

 

 [272]「彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう──彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である」とは、「接近(近づく者)」とは、二つの接近がある。(1)そして、渇愛の接近であり、(2)さらに、見解の接近である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔すでに〕捨棄され、見解の接近は〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕放棄されたことから、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない人は、どのような貪欲によって、赴くというのだろう、どのような憤怒によって、赴くというのだろう、どのような迷妄によって、赴くというのだろう、どのような思量によって、赴くというのだろう、どのような見解によって、赴くというのだろう、どのような高揚によって、赴くというのだろう、どのような疑惑によって、赴くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、赴くというのだろう──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靭に至った者(頑迷固陋の者)である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇に、何よって、赴くというのだろう──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって〔迷いの生存に〕赴くであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう──彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である」。

 

 [273]それによって、世尊は言った。

 

 [274]「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない。かつまた、幻惑〔の策略〕()も、かつまた、〔我想の〕思量()も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は──彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう──彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である」と。

 

22.

 

 [275]793.(787) まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない)。なぜなら、彼には、自己も、自己ではないものも、〔両者ともに〕存在しないのだから。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ。(8)

 

 [276]「まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく」とは、「接近(近づく者)」とは、二つの接近がある。(1)そして、渇愛の接近であり、(2)さらに、見解の接近である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔いまだ〕捨棄されず、見解の接近は〔いまだ〕放棄されず、渇愛の接近が〔いまだ〕捨棄されていないことから、見解の接近が〔いまだ〕放棄されていないことから、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なき〔状態〕に至った者である」と、あるいは、「強靭に至った者である」と。〔彼の〕それらの行作は〔いまだ〕捨棄されず、〔それらの〕行作が〔いまだ〕捨棄されていないことから、〔未来の〕境遇について、論に近づく──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。〔特定の〕論に、〔彼は〕近づく、〔彼は〕近しく赴く、〔彼は〕収取する、〔彼は〕偏執する、〔彼は〕固着する。ということで、「まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく」。

 

 [277]「〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう」とは、「接近(近づく者)」とは、二つの接近がある。(1)そして、渇愛の接近であり、(2)さらに、見解の接近である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔すでに〕捨棄され、見解の接近は〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕放棄されたことから、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない人を、どのような貪欲によって、説くというのだろう、どのような憤怒によって、説くというのだろう、どのような迷妄によって、説くというのだろう、どのような思量によって、説くというのだろう、どのような見解によって、説くというのだろう、どのような高揚によって、説くというのだろう、どのような疑惑によって、説くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、説くというのだろう──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なき〔状態〕に至った者である」と、あるいは、「強靭に至った者である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇を、何によって、説くというのだろう──あるいは、「地獄にある者である」と……略([272]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう」。

 

 [278]「なぜなら、彼には、自己も、自己ではないものも、〔両者ともに〕存在しないのだから」とは、「自己も」とは、自己についての偏った見解が存在しない。「自己ではないものも」とは、断絶の見解が存在しない。「自己も」とは、掴み取られたものが存在しない。「自己ではないものも」とは、解き放つべきものが存在しない。彼に、掴み取られたものが存在するなら、彼に、解き放つべきものが存在する。彼に、解き放つべきものが存在するなら、彼に、掴み取られたものが存在する。阿羅漢は、掴み取ることと解き放つことを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者、〔輪廻の〕旅程を去った者、〔涅槃の〕方角に赴いた者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「なぜなら、彼には、自己も、自己ではないものも、〔両者ともに〕存在しないのだから」。

 

 [279]「彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の悪しき見解を、払い落とした、払拭した、等しく払拭した、振り払った、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。ということで、「彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ」。

 

 [280]それによって、世尊は言った。

 

 [281]「まさに、〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法(見解)のうち、〔特定の〕論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない)。なぜなら、彼には、自己も、自己ではないものも、〔両者ともに〕存在しないのだから。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ」と。

 

 [282]汚れについての八なるものの経についての釈示が、第三となる。

 

1. 4. 清浄についての八なるものの経についての釈示

 

 [283]そこで、清浄についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。

 

23.

 

 [284]794.(788) 「〔わたしは〕見る──清浄で、無病で、最高なる者を。見られたものによって、人の清浄は有る」〔と〕、このように、〔自己の観点で〕証知しながら、「〔これこそ〕最高である」と〔自分勝手に〕知って、清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する(盲信する)。(1)

 

 [285]「〔わたしは〕見る──清浄で、無病で、最高なる者を」とは、「〔わたしは〕見る──清浄で」とは、〔わたしは〕見る──清浄なる者を、〔わたしは〕視認する──清浄なる者を、〔わたしは〕注目する──清浄なる者を、〔わたしは〕凝視する──清浄なる者を、〔わたしは〕近しく注視する──清浄なる者を。「無病で、最高なる者を」とは、最高の、無病に至り得た者を、救護所に至り得た者を、避難所に至り得た者を、帰依所に至り得た者を、恐怖なきに至り得た者を、死滅なきに至り得た者を、不死に至り得た者を、涅槃に至り得た者を。ということで、「〔わたしは〕見る──清浄で、無病で、最高なる者を」。

 

 [286]「見られたものによって、人の清浄は有る」とは、眼の識知〔作用〕としての形態を見ることによって、人に、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱が、有り、人は、清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。ということで、「見られたものによって、人の清浄は有る」。

 

 [287]「このように、〔自己の観点で〕証知しながら、『〔これこそ〕最高である』と〔自分勝手に〕知って」とは、このように、証知しながら、了知しながら、識知しながら、解知しながら、理解しながら。「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このように、〔自己の観点で〕証知しながら、『〔これこそ〕最高である』と〔自分勝手に〕知って」。

 

 [288]「清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する(盲信する)」とは、彼が、清浄を見るなら、彼は、清浄を随観する者である。「知恵を信受する」とは、眼の識知〔作用〕としての形態を見ることによって、「知恵である」と信受する、「道(マッガ)である」と信受する、「道(パタ)である」と信受する、「出脱〔の道〕である」と信受する。ということで、「清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する」。

 

 [289]それによって、世尊は言った。

 

 [290]「『〔わたしは〕見る──清浄で、無病で、最高なる者を。見られたものによって、人の清浄は有る』〔と〕、このように、〔自己の観点で〕証知しながら、『〔これこそ〕最高である』と〔自分勝手に〕知って、清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する(盲信する)」と。

 

24.

 

 [291]795.(789) もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら、彼は、依り所(依存の対象)を有する者であり、〔自己ではない〕他のものによって清まる〔ことになる〕。なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである。(2)

 

 [292]「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら」とは、もし、眼の識知〔作用〕としての形態を見ることによって、人に、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱が、有り、人が、清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するなら。ということで、「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら」。

 

 [293]「あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら」とは、もし、眼の識知〔作用〕としての形態を見ることによって、人が、生の苦しみを捨棄し、老の苦しみを捨棄し、病の苦しみを捨棄し、死の苦しみを捨棄し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみを捨棄するなら。ということで、「あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら」。

 

 [294]「彼は、依り所(依存の対象)を有する者であり、〔自己ではない〕他のものによって清まる〔ことになる〕」とは、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕他のものである、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、人は、清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する〔ことになる〕。「依り所を有する者」とは、貪欲を有する者、憤怒を有する者、迷妄を有する者、渇愛を有する者、見解を有する者、〔心の〕汚れを有する者、執取を有する者。ということで、「彼は、依り所を有する者であり、〔自己ではない〕他のものによって清まる〔ことになる〕」。

 

 [295]「なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである」とは、まさしく、その見解が、その人のことを説く。「まさしく、かくのごとく、この人は、誤った見解ある者である、転倒した見ある者である」〔と〕。「そのように〔形だけで〕説いている者と」とは、そのように〔形だけで〕、説いている者と、言説している者と、発語している者と、提示している者と、語用している者と。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、そのように〔形だけで〕、説いている者と、言説している者と、発語している者と、提示している者と、語用している者と。「世〔界〕は、常久ではない。……略……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、そのように〔形だけで〕、説いている者と、言説している者と、発語している者と、提示している者と、語用している者と。ということで、「なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである」。

 

 [296]それによって、世尊は言った。

 

 [297]「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら、彼は、依り所(依存の対象)を有する者であり、〔自己ではない〕他のものによって清まる〔ことになる〕。なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼のことを、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである」と。

 

25.

 

 [298]796.(790) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、「〔事実ならざる〕他のものである」と〔見て〕、清浄を言わない。かつまた、善(功徳)についても、かつまた、悪(功徳なきもの)についても、〔両者ともに〕汚されない者は、自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる。(3)

 

 [299]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、『〔事実ならざる〕他のものである』と〔見て〕、清浄を言わない」とは、「ない」とは、否定〔の言葉〕。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、拒否されたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、拒否されたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、拒否されたものと成り、(4)貪欲()が、拒否されたものと成り、(5)憤怒()が、拒否されたものと成り、(6)迷妄()が、拒否されたものと成り、(7)思量()が、拒否されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、拒否されたものと成る。

 

 [300]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、一切の悪しき〔行為〕を拒否して、〔世俗の〕垢を離れ、〔心が〕善くしっかりと定められ、自己が安立した者──彼は、輪廻を超え行って、全一者となります──〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」と。

 

 [301]「〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、『〔事実ならざる〕他のものである』と〔見て〕、清浄を言わない」とは、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕他のものである、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、言わず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「〔真の〕婆羅門は、『〔事実ならざる〕他のものである』と〔見て〕、清浄を言わない」。

 

 [302]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて」とは、或る沙門や婆羅門たちで、見られたものを清浄とする者たちが存在し、彼らは、一部の〔特定の〕諸形態を見ることを、幸福と信受し、一部の〔特定の〕諸形態を見ることを、不幸と信受する。どのような諸形態を見ることを、幸福と信受するのか。彼らは、早朝に出起して、幸福の在り方をした諸形態を見る。チャータカ鳥を見る、珍重なるヴェールヴァ〔樹〕の新芽を見る、妊婦を見る、童子を肩に乗せて赴く者を見る、満ちた鉢を見る、赤魚を見る、良馬を見る、良馬の車を見る、雄牛を見る、褐色の牛を見る。このような形態の諸形態を見ることを、幸福と信受する。どのような諸形態を見ることを、不幸と信受するのか。籾殻の山を見る、酪の鉢を見る、空の鉢を見る、芸人を見る、裸の沙門を見る、驢馬を見る、驢馬の乗物を見る、一結の乗物を見る、片目を見る、手萎えを見る、足萎えを見る、半身不随を見る、老いた者を見る、病んだ者を見る、死んだ者を見る。このような形態の諸形態を見ることを、不幸と信受する。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、見られたものを清浄とする者たちである。彼らは、見られたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 

 [303]或る沙門や婆羅門たちで、聞かれたものを清浄とする者たちが存在し、彼らは、一部の〔特定の〕諸音声を聞くことを、幸福と信受し、一部の〔特定の〕諸音声を聞くことを、不幸と信受する。どのような諸音声を聞くことを、幸福と信受するのか。彼らは、早朝に出起して、幸福の在り方をした諸音声を聞く。あるいは、「繁栄」と、あるいは、「繁栄中」と、あるいは、「円満」と、あるいは、「珍重」と、あるいは、「無憂」と、あるいは、「悦意」と、あるいは、「善星」と、あるいは、「善福」と、あるいは、「吉祥」と、あるいは、「吉祥の繁栄」と。このような形態の諸音声を聞くことを、幸福と信受する。どのような諸音声を聞くことを、不幸と信受するのか。あるいは、「片目」と、あるいは、「手萎え」と、あるいは、「足萎え」と、あるいは、「半身不随」と、あるいは、「老いた者」と、あるいは、「病んだ者」と、あるいは、「死んだ者」と、あるいは、「切断」と、あるいは、「破壊」と、あるいは、「焼失」と、あるいは、「消失」と、あるいは、「非存」と。このような形態の諸音声を聞くことを、不幸と信受する。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、聞かれたものを清浄とする者たちである。彼らは、聞かれたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 

 [304]或る沙門や婆羅門たちで、戒を清浄とする者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。沙門のムンディカープッタは、このように言った。「家長よ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、身体による悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きません。家長よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します」〔と〕。まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、戒を清浄とする者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 

 [305]或る沙門や婆羅門たちで、掟を清浄とする者たちが存在し、彼らは、あるいは、象の掟ある者(象の行動を自らに課す者)たちと成り、あるいは、馬の掟ある者たちと成り、あるいは、牛の掟ある者たちと成り、あるいは、山犬の掟ある者たちと成り、あるいは、烏の掟ある者たちと成り、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕の掟ある者たちと成り、あるいは、バラデーヴァ〔力士〕の掟ある者たちと成り、あるいは、プンナバッダ〔夜叉〕の掟ある者たちと成り、あるいは、マニバッダ〔夜叉〕の掟ある者たちと成り、あるいは、祭火の掟ある者たちと成り、あるいは、龍の掟ある者たちと成り、あるいは、金翅鳥の掟ある者たちと成り、あるいは、夜叉の掟ある者たちと成り、あるいは、阿修羅の掟ある者たちと成り、あるいは、音楽神の掟ある者たちと成り、あるいは、〔天の〕大王の掟ある者たちと成り、あるいは、月〔の神〕の掟ある者たちと成り、あるいは、日〔の神〕の掟ある者たちと成り、あるいは、インダ〔神〕(インドラ神)の掟ある者たちと成り、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)の掟ある者たちと成り、あるいは、天〔の神〕の掟ある者たちと成り、あるいは、方角の掟ある者たちと成る。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、掟を清浄とする者たちである。彼らは、掟よって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

 

 [306]或る沙門や婆羅門たちで、思われたものを清浄とする者たちが存在し、彼らは、早朝に出起して、地を撫で、緑地を撫で、牛糞を撫で、亀を撫で、鋤先を踏み、胡麻の荷を撫で、珍重なる胡麻を咀嚼し、珍重なる油を塗布し、珍重なる楊枝を咀嚼し、珍重なる粘土によって沐浴し、珍重なる衣を着衣し、珍重なる頭巾を巻く。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、思われたものを清浄とする者たちである。彼らは、思われたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。ということで、「〔真の〕婆羅門は、『〔事実ならざる〕他のものである』と〔見て〕、清浄を言わない」。

 

 [307]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて」とは、〔真の〕婆羅門は、見られたものとしての清浄についてもまた、清浄を言わず、聞かれたものとしての清浄についてもまた、清浄を言わず、戒としての清浄についてもまた、清浄を言わず、掟としての清浄についてもまた、清浄を言わず、思われたものとしての清浄についてもまた、清浄を、言わず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、〔真の〕婆羅門は、『〔事実ならざる〕他のものである』と〔見て〕、清浄を言わない」。

 

 [308]「かつまた、善(功徳)についても、かつまた、悪(功徳なきもの)についても、〔両者ともに〕汚されない者は」とは、善(功徳)は、それが何であれ、三つの界域(三界)のもので、功徳ある行作と説かれる。悪(功徳なきもの)は、一切の善ならざるものと説かれる。すなわち、かつまた、功徳ある行作(善果を形成する働き)も、かつまた、功徳なき行作(悪果を形成する働き)も、かつまた、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、かつまた、善についても、かつまた、悪についても、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「かつまた、善についても、かつまた、悪についても、〔両者ともに〕汚されない者は」。

 

 [309]「自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」とは、「自己を捨棄する者」とは、自己の見解を捨棄する者。「自己を捨棄する者」とは、収取を捨棄する者。「自己を捨棄する者」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、その全てが、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものと成る。「この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」とは、あるいは、功徳ある行作を、あるいは、功徳なき行作を、あるいは、不動の行作を、為さずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、結実させずにいる者。ということで、「自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」。

 

 [310]それによって、世尊は言った。

 

 [311]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、『〔事実ならざる〕他のものである』と〔見て〕、清浄を言わない。かつまた、善(功徳)についても、かつまた、悪(功徳なきもの)についても、〔両者ともに〕汚されない者は、自己を捨棄する者であり、この〔世において〕、〔執着の思いを〕作り為さずにいる」と。

 

26.

 

 [312]797.(791) 前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち──動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない。彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する──猿が、枝を掴んでは放つようなもの。(4)

 

 [313]「前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち」とは、前の教師を捨棄して、他の教師に依存する者たち、前の法(教え)の告知を捨棄して、他の法(教え)の告知に依存する者たち、前の衆徒を捨棄して、他の衆徒に依存する者たち、前の見解を捨棄して、他の見解に依存する者たち、前の〔実践の〕道を捨棄して、他の〔実践の〕道に依存する者たち、前の〔聖者の〕道を捨棄して、他の〔聖者の〕道に、依存する者たち、等しく依存する者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たち。ということで、「前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち」。

 

 [314]「動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「動揺〔の思い〕に従い行く」とは、動揺〔の思い〕に従い行く者たち、動揺〔の思い〕に従い行った者たち、動揺〔の思い〕に添着した者たち、動揺〔の思い〕によって、倒され、打ち倒され、征服され、心が完全に奪い去られた者たち。「彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない」とは、貪欲の執着を、憤怒の執着を、迷妄の執着を、思量の執着を、見解の執着を、〔心の〕汚れの執着を、悪しき行ないの執着を、超え渡らず、超え上がらず、超え登らず、等しく超越せず、超克しない。ということで、「動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない」。

 

 [315]「彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する」とは、〔或る〕教師を収め取り、それを解き放って、他の教師を収め取る。〔或る〕法(教え)の告知を収め取り、それを解き放って、他の法(教え)の告知を収め取る。〔或る〕衆徒を収め取り、それを解き放って、他の衆徒を収め取る。〔或る〕見解を収め取り、それを解き放って、他の見解を収め取る。〔或る実践の〕道を収め取り、それを解き放って、他の〔実践の〕道を収め取る。〔或る聖者の〕道を収め取り、それを解き放って、他の〔聖者の〕道を収め取る。かつまた、収め取り、かつまた、解き放つ、かつまた、執取し、かつまた、放棄する。ということで、「彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する」。

 

 [316]「猿が、枝を掴んでは放つようなもの」とは、たとえば、猿が、林や森のなかを歩みつつ、〔或る〕枝を掴み、それを放って、他の枝を掴むように、まさしく、このように、多々なる沙門や婆羅門たちは、多々なる悪しき見解を、かつまた、収め取り、かつまた、解き放つ、かつまた、執取し、かつまた、放棄する。ということで、「猿が、枝を掴んでは放つようなもの」。

 

 [317]それによって、世尊は言った。

 

 [318]「前の〔教師や教義〕を捨棄して、他の〔教師や教義〕に依存する者たち──動揺〔の思い〕に従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えない。彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する──猿が、枝を掴んでは放つようなもの」と。

 

27.

 

 [319]798.(792) 諸々の掟を、自ら受持して、人は、〔特定の〕表象(:概念・心象)に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して、広き智慧ある者となり、高下に赴かない。(5)

 

 [320]「諸々の掟を、自ら受持して、人は」とは、「自ら(サヤン)受持して」とは、自ら(サーマン)受持して。「諸々の掟を」とは、あるいは、象の掟を、あるいは、馬の掟を、あるいは、牛の掟を、あるいは、山犬の掟を、あるいは、烏の掟を、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕の掟を、あるいは、バラデーヴァ〔力士〕の掟を、あるいは、プンナバッダ〔夜叉〕の掟を、あるいは、マニバッダ〔夜叉〕の掟を、あるいは、祭火の掟を、あるいは、龍の掟を、あるいは、金翅鳥の掟を、あるいは、夜叉の掟を、あるいは、阿修羅の掟を……略([305]参照)……あるいは、方角の掟を、取って、受持して、執取して、等しく執取して、収取して、偏執して、固着して。「人(ジャントゥ)」とは、有情、人(ナラ)……略([10]参照)……マヌから生じる者。ということで、「諸々の掟を、自ら受持して、人は」。

 

 [321]「〔特定の〕表象()に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く」とは、教師から教師へと赴く。法(教え)の告知から法(教え)の告知へと赴く。衆徒から衆徒へと赴く。見解から見解へと赴く。〔実践の〕道から〔実践の〕道へと赴く。〔聖者の〕道から〔聖者の〕道へと赴く。「〔特定の〕表象に執着し」とは、欲望の表象に、憎悪の表象に、悩害の表象に、見解の表象に、執着し(サッタ)、強く執着し(ヴィサッタ)、近く執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となっている。たとえば、あるいは、壁の釘に、あるいは、吊り鉤に、物品が、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっているように、まさしく、このように、欲望の表象に、憎悪の表象に、悩害の表象に、見解の表象に、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっている。ということで、「〔特定の〕表象に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く」。

 

 [322]「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して」とは、「知ある者」とは、知ある者、明知に至った者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「諸々の知によって」とは、諸々の知は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。それらの知によって、生と老と死の、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者、極限に至った者、極限に至り得た者、完成に至った者、完成に至り得た者、救護所に至った者、救護所に至り得た者、避難所に至った者、避難所に至り得た者、帰依所に至った者、帰依所に至り得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきに至り得た者、死滅なきに至った者、死滅なきに至り得た者、不死に至った者、不死に至り得た者、涅槃に至った者、涅槃に至り得た者。あるいは、諸々の知の、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、諸々の知によって、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、七つの法(性質)が知られたことから、〔真の〕知に至る者となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、知られたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、知られたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、知られたものと成り、(4)貪欲()が、知られたものと成り、(5)憤怒()が、知られたものと成り、(6)迷妄()が、知られたものと成り、(7)思量()が、知られたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、知られたものと成る。

 

 [323]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、この〔世において〕、それら〔の知〕が、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕、知(ヴェーダ)の全部を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(ヴェーダナー)について貪欲を離れた者──彼は、一切の知を超え行って、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」と。

 

 [324]「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して」とは、法(真理)を、行知して、知悉して。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(諸行)がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕()がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色)がある」と……。「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処)がある」と……。「六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触()がある」と……。「接触という縁あることから、感受()がある」と……。「感受という縁あることから、渇愛()がある」と……。「渇愛という縁あることから、執取()がある」と……。「執取という縁あることから、生存()がある」と……。「生存という縁あることから、生()がある」と……。「生という縁あることから、老と死(老死)がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある」と……。「名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある」と……。「六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある」と……。「接触の止滅あることから、感受の止滅がある」と……。「感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある」と……。「渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある」と……。「執取の止滅あることから、生存の止滅がある」と……。「生存の止滅あることから、生の止滅がある」と……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これは、苦しみである」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これは、苦しみの集起である」と……。「これは、苦しみの止滅である」と……。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これらは、諸々の煩悩()である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これは、諸々の煩悩の集起である」と……。「これは、諸々の煩悩の止滅である」と……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これらの法(性質)は、証知されるべきである」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、捨棄されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、修行されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と、法(真理)を、行知して、知悉して。六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、法(真理)として、行知して、知悉して。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、法(真理)として、行知して、知悉して。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、法(真理)として、行知して、知悉して。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、法(真理)を、行知して、知悉して。ということで、「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して」。

 

 [325]「広き智慧ある者となり、高下に赴かない」とは、教師から教師へと赴かない。法(教え)の告知から法(教え)の告知へと赴かない。衆徒から衆徒へと赴かない。見解から見解へと赴かない。〔実践の〕道から〔実践の〕道へと赴かない。〔聖者の〕道から〔聖者の〕道へと赴かない。「広き智慧ある者」とは、広き智慧ある者、大いなる智慧ある者、多々なる智慧ある者、敏速なる智慧ある者、疾走する智慧ある者、鋭敏なる智慧ある者、洞察の智慧ある者。広きは、地と説かれる。その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した者。ということで、「広き智慧ある者となり、高下に赴かない」。

 

 [326]それによって、世尊は言った。

 

 [327]「諸々の掟を、自ら受持して、人は、〔特定の〕表象(:概念・心象)に執着し、〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して、広き智慧ある者となり、高下に赴かない」と。

 

28.

 

 [328]799.(793) あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れている。このように見る者である彼を、〔迷妄の覆いが〕開かれた者として〔世を〕歩んでいる者を、ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(6)

 

 [329]「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れている」とは、敵は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿激は、悪魔の軍団である。怨恨は……略([49]参照)……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。

 

 [330]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [331]〔そこで、詩偈に言う〕「おまえの第一の軍団は、『欲望』であり、第二〔の軍団〕は、『不満』と説かれる。おまえの第三〔の軍団〕は、『飢えと渇き』であり、第四〔の軍団〕は、『渇愛』と呼ばれる(※)。

 

※ テキストには vuccati とあるが、PTS版により pavuccati と読む。

 

 [332]おまえの第五〔の軍団〕は、『〔心の〕沈滞と眠気』であり、第六〔の軍団〕は、『恐怖』と呼ばれる。おまえの第七〔の軍団〕は、『疑惑』であり、おまえの第八〔の軍団〕は、『偽装と強情』である。

 

 [333]利得、名声、尊敬は、さらに、すなわち、誤って得られた盛名も、そして、それが、自己を褒め上げ、さらに、他者たちを見下すとして──

 

 [334]ナムチ(悪魔)よ、これは、おまえの軍団であり、黒き者(悪魔)の攻撃である。勇士ならざる者は、それに勝利せず、しかしながら、〔勇士は、それに〕勝利して、安楽を得る」と。

 

 [335]すなわち、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、そして、一切の悪魔の軍団が、さらに、一切の敵視を為す〔心の〕汚れが、そして、敗れ、さらに、敗北し、滅壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、彼は、敵視という有り方を離れている者と説かれる。彼は、見られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、聞かれたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、思われたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、識られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者である。ということで、「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れている」。

 

 [336]「このように見る者である彼を、〔迷妄の覆いが〕開かれた者として〔世を〕歩んでいる者を」とは、まさしく、その、清らかな見ある者を、清浄の見ある者を、完全なる清浄の見ある者を、清白の見ある者を、完全なる清白の見ある者を。さらに、あるいは、清らかな見を、清浄の見を、完全なる清浄の見を、清白の見を、完全なる清白の見を。「〔迷妄の覆いが〕開かれた者として」とは、渇愛の覆い、見解の覆い、〔心の〕汚れの覆い、悪しき行ないの覆い、無明の覆いがあり、それらの覆いが、開かれ、砕破され、撤去され、等しく撤去され、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものと成る。「〔世を〕歩んでいる者を」とは、〔世を〕歩んでいる者を、〔世を〕行じ歩んでいる者を、〔世に〕住んでいる者を、振る舞っている者を、行持している者を、〔身を〕守っている者を、〔身を〕保っている者を、〔身を〕保ち行っている者を。ということで、「このように見る者である彼を、〔迷妄の覆いが〕開かれた者として〔世を〕歩んでいる者を」。

 

 [337]「ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」とは、「妄想(想い描き)」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、どのような貪欲によって、想い描くというのだろう、どのような憤怒によって、想い描くというのだろう、どのような迷妄によって、想い描くというのだろう、どのような思量によって、想い描くというのだろう、どのような見解によって、想い描くというのだろう、どのような高揚によって、想い描くというのだろう、どのような疑惑によって、想い描くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、想い描くというのだろう──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靭に至った者(頑迷固陋の者)である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇を、何によって、想い描くというのだろう──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、想い描くであろう、妄想するであろう、妄想を惹起するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」。

 

 [338]それによって、世尊は言った。

 

 [339]「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れている。このように見る者である彼を、〔迷妄の覆いが〕開かれた者として〔世を〕歩んでいる者を、ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)」と。

 

29.

 

 [340]800.(794) 〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、彼ら(智慧ある者たち)は、「〔これこそ〕究極の清浄である」と説かない。〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(執着の対象)を捨てて、世において、どこにも、〔自分勝手な〕願望を作らない。(7)

 

 [341]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「妄想(想い描き)」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼らの、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描かず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず」。「〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)そして、渇愛の偏重であり、(2)さらに、見解の偏重である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼らの、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者たちではなく、渇愛を幟とする者たちではなく、渇愛を優位とする者たちではなく、見解を旗とする者たちではなく、見解を幟とする者たちではなく、見解を優位とする者たちではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩むことはない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」。

 

 [342]「彼ら(智慧ある者たち)は、『〔これこそ〕究極の清浄である』と説かない」とは、究極の清浄を、輪廻の清浄(輪廻による浄化)を、無作の見解(修行不要論)を、常久の論(常住論)を、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「彼らは、『〔これこそ〕究極の清浄である』と説かない」。

 

 [343]「〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(執着の対象)を捨てて」とは、「拘束」とは、四つの拘束(四繋)がある。(1)強欲〔の思い〕としての身体の拘束、(2)憎悪〔の思い〕としての身体の拘束、(3)戒や掟への偏執としての身体の拘束、(4)「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。(1)自己の見解にたいする貪欲は、強欲〔の思い〕としての身体の拘束である。(2)他者たちの論にたいする憤懣と不興は、憎悪〔の思い〕としての身体の拘束である。(3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4)自己の見解は、「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。何を契機とすることから、執取の拘束と説かれるのか。それらの拘束によって、形態を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着し、感受〔作用〕を……略……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する。それを契機とすることから、執取の拘束と説かれる。「捨てて」とは、〔四つの〕拘束を、あるいは、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。たとえば、あるいは、駕篭を、あるいは、車を、あるいは、荷車を、あるいは、戦車を、執着を〔為してそののち〕、執着から離れることを為し、〔最後は〕破砕するように、まさしく、このように、〔四つの〕拘束を、あるいは(※)、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。ということで、「〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束を捨てて」。

 

※ PTS版により vā を補う。

 

 [344]「世において、どこにも、〔自分勝手な〕願望を作らない」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「〔自分勝手な〕願望を作らない」とは、願望を、作らず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「世において、どこにも、〔自分勝手な〕願望を作らない」。

 

 [345]それによって、世尊は言った。

 

 [346]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、彼ら(智慧ある者たち)は、『〔これこそ〕究極の清浄である』と説かない。〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(執着の対象)を捨てて、世において、どこにも、〔自分勝手な〕願望を作らない」と。

 

30.

 

 [347]801.(795) 〔執着の対象として〕執持されたものを、かつまた、〔あるがままに〕知って、かつまた、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門──彼には、〔執着の対象が〕存在しない。〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない。(8)

 

 [348]「〔執着の対象として〕執持されたものを、かつまた、〔あるがままに〕知って、かつまた、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門──彼には、〔執着の対象が〕存在しない」とは、「罪悪」とは、四つの罪悪(境界)がある。(1)身体を有するという見解、疑惑〔の思い〕、戒や掟への偏執、見解の悪習、疑惑〔の思い〕の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第一の罪悪である。(2)粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕という束縛するもの、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第二の罪悪である。(3)微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するもの、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するもの、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第三の罪悪である。(4)形態〔の行境〕にたいする貪り〔の思い〕、形態なき〔行境〕にたいする貪り〔の思い〕、思量、高揚、無明、思量の悪習、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習、無明の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ、これが、第四の罪悪である。すなわち、そして、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、これらの四つの罪悪(境界)が、超越され、等しく超越され、超克されたものと成ることから、彼は、〔世の〕罪悪を超え行く者と説かれる。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。(1)身体を有するという見解が、拒否されたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕が、拒否されたものと成り、(3)戒や掟への偏執が、拒否されたものと成り……略([299-300]参照)……〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。

 

 [349]「〔あるがままに〕知って」とは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵(他心智)によって知って、あるいは、過去における居住の随念の知恵(宿命随念智)によって知って。「〔あるがままに〕見て」とは、あるいは、肉眼によって見て、あるいは、天眼によって見て。「〔執着の対象として〕執持されたものを、かつまた、〔あるがままに〕知って、かつまた、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門──彼には、〔執着の対象が〕存在しない」とは、彼には、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔執着の対象として〕執持されたものを、かつまた、〔あるがままに〕知って、かつまた、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門──彼には、〔執着の対象が〕存在しない」。

 

 [350]「〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない」とは、貪り〔の対象〕を貪る者たちは、すなわち、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、と説かれる。離貪〔の思い〕に染まった者たちは、すなわち、諸々の形態の行境(色界)や形態なき行境(無色界)への入定(等持)について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、と説かれる。「〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない」とは、すなわち、かつまた、欲望〔の行境〕(欲界)にたいする貪り〔の思い〕も、かつまた、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪り〔の思い〕も、かつまた、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪り〔の思い〕も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。

 

 [351]「彼には、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたものが存在しない」。

 

 [352]それによって、世尊は言った。

 

 [353]「〔執着の対象として〕執持されたものを、かつまた、〔あるがままに〕知って、かつまた、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門──彼には、〔執着の対象が〕存在しない。〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない」と。

 

 [354]清浄についての八なるものの経についての釈示が、第四となる。

 

1. 5. 最高についての八なるものの経についての釈示

 

 [355]そこで、最高についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。

 

31.

 

 [356]802.(796) 諸々の見解について、「〔これこそ〕最高である」と〔独善的に固執し〕固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、〔その〕一切を、「劣る」と言う。それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる。(1)

 

 [357]「諸々の見解について、『〔これこそ〕最高である』と〔独善的に固執し〕固着しながら」とは、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。たとえば、あるいは、在家者たちが、諸々の家屋のうちに住し、あるいは、罪を有する者たちが、諸々の罪のうちに住し、あるいは、〔心の〕汚れを有する者たちが、諸々の〔心の〕汚れのうちに住するように、まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。ということで、「諸々の見解について、『〔これこそ〕最高である』と〔独善的に固執し〕固着しながら」。

 

 [358]「世において、人が、それをより上と為すなら」とは、「それを」とは、すなわち。「より上と為す」とは、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この教師は、一切知者である」と、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕である」……。「この衆徒は、善き実践者である」……。「この見解は、立派である」……。「この〔実践の〕道は、善く報知された〔道〕である」……。「この〔聖者の〕道は、出脱〔の道〕である」と、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為し、発現させ、結実させる。「人(ジャントゥ)が」とは、有情が、人(ナラ)が……略([10]参照)……マヌから生じる者が。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「世において、人が、それをより上と為すなら」。

 

 [359]「それより他のものについては、〔その〕一切を、『劣る』と言う」とは、自己の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、〔それらを〕除いて、一切の他の論説を、投げ放ち、投げ捨て、遍く投げ放つ。「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、善く報知された〔道〕にあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「ここにおいて、あるいは、〔人々が〕清らかとなることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、存在しない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「それより他のものについては、〔その〕一切を、『劣る』と言う」。

 

 [360]「それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「諸々の論争を」とは、諸々の見解の紛争を、諸々の見解の言争を、諸々の見解の口論を、諸々の見解の論争を、さらに、諸々の見解の確執を。「超克せずにいる」とは、〔いまだ〕超越していない者であり、〔いまだ〕等しく超越していない者であり、〔いまだ〕超克していない者である。ということで、「それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる」。

 

 [361]それによって、世尊は言った。

 

 [362]「諸々の見解について、『〔これこそ〕最高である』と〔独善的に固執し〕固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、〔その〕一切を、『劣る』と言う。それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる」と。

 

32.

 

 [363]803.(797) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら、彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して、他の一切を「劣る」と見る。(2)

 

 [364]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら」とは、「すなわち、自己〔の見解〕について」とは、すなわち、自己について。自己は、悪しき見解と説かれる。自己の見解について、二つの福利を、〔彼は〕見る。(1)そして、所見の法(現法:現世)としての福利であり、(2)さらに、未来のものとしての福利である。(1)どのようなものが、見解について、所見の法(現世)としての福利であるのか。それを見解とする教師が〔世に〕有るなら、それを見解とする弟子たちが〔世に〕有る。それを見解とする教師を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、敬恭する(※)。そして、それを因縁として、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を得る。これが、見解について、所見の法(現世)としての福利である。(2)どのようなものが、見解について、未来のものとしての福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために、あるいは、金翅鳥たることのために、あるいは、夜叉たることのために、あるいは、阿修羅たることのために、あるいは、音楽神たることのために、あるいは、〔天の〕大王たることのために、あるいは、インダ〔神〕(インドラ神)たることのために、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)たることのために、あるいは、天〔の神〕たることのために、十分である。この見解は、清らかさのために、清浄のために、完全なる清浄のために、解き放ちのために、解脱のために、完全なる解脱のために、十分である。この見解によって、〔人々は〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。この見解によって、〔わたしは〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するのだ」と、未来に果を期待できる者と成る。これが、見解について、未来のものとしての福利である。自己の見解について、これらの二つの福利を、〔彼は〕見る。見られたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……略……。聞かれたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……。戒としての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……。掟としての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。……。思われたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕見る。(1)そして、所見の法(現世)としての福利であり、(2)さらに、未来のものとしての福利である。(1)どのようなものが、思われたものとしての清浄について、所見の法(現世)としての福利であるのか。それを見解とする教師が〔世に〕有るなら、それを見解とする弟子たちが〔世に〕有る。……略……。これが、思われたものとしての清浄について、所見の法(現世)としての福利である。(2)どのようなものが、思われたものとしての清浄について、未来のものとしての福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために……十分である。……略……。これが、思われたものとしての清浄について、未来のものとしての福利である。思われたものとしての清浄についてもまた、これらの二つの福利を、〔彼は〕見る、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕凝視する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら」。

 

※ PTS版により apaciti karonti を補う。

 

 [365]「彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して」とは、「それだけに」とは、その悪しき見解に。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「執持して」とは、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「彼は、そこにおいて、それだけに執持して」。

 

 [366]「他の一切を『劣る』と見る」とは、他の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、〔彼は〕見る(※)、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕凝視する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「他の一切を『劣る』と見る」。

 

※ テキストには dissati passati とあるが、PTS版により passati と読む。

 

 [367]それによって、世尊は言った。

 

 [368]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、すなわち、自己〔の見解〕について、福利を見るなら、彼は、そこにおいて、それ(自己の見解)だけに執持して、他の一切を『劣る』と見る」と。

 

33.

 

 [369]804.(798) あるいは、また、それを、智者たちは、「拘束」と説く──それに依存する者が、他を「劣る」と見るなら。まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように。(3)

 

 [370]「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇()に智ある者たち、〔十八の〕界域()に智ある者たち、〔十二の認識の〕場所()に智ある者たち、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念処・四念住)に智ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)に智ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)に智ある者たち、〔五つの〕機能(五根)に智ある者たち、〔五つの〕力(五力)に智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)に智ある者たち、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に智ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように説く。「これは、拘束である」「これは、付着である」「これは、結縛である」「これは、障害である」と、このように説き、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く」。

 

 [371]「それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら」とは、「それに依存する者が」とは、〔まさに〕その、教師に、法(教え)の告知に、衆徒に、見解に、〔実践の〕道に、〔聖者の〕道に、依存する者が、等しく依存する者が、〔思いが〕付着した者が、近しく赴いた者が、固執した者が、信念した者が。「他を『劣る』と見るなら」とは、他の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、〔彼は〕見る(※)、〔彼は〕視認する、〔彼は〕注目する、〔彼は〕凝視する、〔彼は〕近しく注視する。ということで、「それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら」。

 

※ テキストには dissati passati とあるが、PTS版により passati と読む。

 

 [372]「まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。あるいは、見られたものに、あるいは、見られたものとしての清浄に、あるいは、聞かれたものに、あるいは、聞かれたものとしての清浄に、あるいは、思われたものに、あるいは、思われたものとしての清浄に、あるいは、戒に、あるいは、戒としての清浄に、あるいは、掟に、あるいは、掟としての清浄に、依存するべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではない。ということで、「まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」。

 

 [373]それによって、世尊は言った。

 

 [374]「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く──それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら。まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」と。

 

34.

 

 [375]805.(799) あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように。自己を〔他者と〕「等しい」と見なさないように──あるいは、また、「劣る」「勝る」〔と〕思いなさないように。(4)

 

 [376]「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように」とは、あるいは、八つの入定(四禅と四無色界定)の知恵によって、あるいは、五つの神知(漏尽通を除く五つの神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通)の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、戒と掟によって、見解を、想い描くべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように」。

 

 [377]「自己を〔他者と〕『等しい』と見なさないように」とは、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」と、自己を見なすべきではない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「自己を〔他者と〕『等しい』と見なさないように」。

 

 [378]「あるいは、また、『劣る』『勝る』〔と〕思いなさないように」とは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、自己を見なすべきではない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、自己を見なすべきではない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「あるいは、また、『劣る』『勝る』〔と〕思いなさないように」。

 

 [379]それによって、世尊は言った。

 

 [380]「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように。自己を〔他者と〕『等しい』と見なさないように──あるいは、また、『劣る』『勝る』〔と〕思いなさないように」と。

 

35.

 

 [381]806.(800) 自己を捨棄して、執取せずにいる者は──彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない。彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない。彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない。(5)

 

 [382]「自己を捨棄して、執取せずにいる者は」とは、「自己を捨棄して」とは、自己の見解を捨棄して。「自己を捨棄して」とは、収取を捨棄して。「自己を捨棄して」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものを、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「自己を捨棄して」。「執取せずにいる者は」とは、四つの執取によって、執取せずにいる者は、収取せずにいる者は、偏執せずにいる者は、固着せずにいる者は。ということで、「自己を捨棄して、執取せずにいる者は」。

 

 [383]「彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない」とは、あるいは、八つの入定の知恵によって、あるいは、五つの神知の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、渇愛の依所を、あるいは、見解の依所を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない」。

 

 [384]「彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない」とは、彼は、まさに、相争い、分裂し、二様に分かれ、二様のものが生じ、種々なる見解があり、種々なる受認(信受)があり、種々なる嗜好(意欲)があり、種々なる主張があり、種々なる見解の依所に依存する者たちのなかにいながら──欲〔の思い〕の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、憤怒の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、迷妄の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、恐怖の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、諸々の党派の法(性質)によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない」。

 

 [385]「彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、何であれ、悪しき見解を、信受せず、再帰しない。ということで、「彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない」。

 

 [386]それによって、世尊は言った。

 

 [387]「自己を捨棄して、執取せずにいる者は──彼は、〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない。彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない。彼は、〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない」と。

 

36.

 

 [388]807.(801) 彼に、この〔世において〕、〔種々に対立する〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕──彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して──(6)

 

 [389]「彼に、この〔世において〕、〔種々に対立する〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「極」とは、接触(:感覚の発生)は、一つの極であり、接触の集起は、第二の極である。過去は、一つの極であり、未来は、第二の極である。安楽の感受(楽受)は、一つの極であり、苦痛の感受(苦受)は、第二の極である。名前(:精神的事象)は、一つの極であり、形態(:物質的形態)は、第二の極である。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)は、一つの極であり、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処:色処・声処・香処・味処・触処・法処)は、第二の極である。身体を有すること(有身)は、一つの極であり、身体を有することの集起は、第二の極である。誓願は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。

 

 [390]「種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)のために、さらなる生存(再有)のために──欲望の生存(欲有)における行為の生存のために、欲望の生存におけるさらなる生存のために、形態の生存(色有)における行為の生存のために、形態の生存におけるさらなる生存のために、形態なき生存(無色有)における行為の生存のために、形態なき生存におけるさらなる生存のために。繰り返す生存のために、繰り返す境遇のために、繰り返す再生のために、繰り返す結生のために、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現のために。「この〔世〕」とは、自らの自己状態である。「あの〔世〕」とは、他の自己状態である。「この〔世〕」とは、自らの形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕(色受想行識)である。「あの〔世〕」とは、他の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕である。「この〔世〕」とは、六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)である。「あの〔世〕」とは、六つの外なる〔認識の〕場所(六外処)である。「この〔世〕」とは、人間の世である。「あの〔世〕」とは、天の世である。「この〔世〕」とは、欲望の界域(欲界)である。「あの〔世〕」とは、形態の界域(色界)や形態なき界域(無色界)である。「この〔世〕」とは、欲望の界域や形態の界域である。「あの〔世〕」とは、形態なき界域である。「彼に、この〔世において〕、〔種々に対立する〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕」とは、彼に、そして、両極について、さらに、種々なる生存のために、この〔世〕において、さらに、あの〔世〕において、渇愛としての誓願が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、この〔世において〕、〔種々に対立する〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕」。

 

 [391]「彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない」とは、「固着」とは、二つの固着がある。(1)そして、渇愛の固着であり、(2)さらに、見解の固着である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の固着である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の固着である。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない」とは、諸々の〔妄執が〕固着する場は、彼に存在しない、〔それらは〕何であれ、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない」。

 

 [392]「諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」とは、「諸々の法(見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔執着の対象と〕判別して」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「〔執着の対象として〕執持されたもの」とは、限界あるものの収取、片々のものの収取、優れたものの収取、部位のものの収取、積集のものの収取、等しき積集のものの収取であり、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、〔もはや〕存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」。

 

 [393]それによって、世尊は言った。

 

 [394]「彼に、この〔世において〕、〔種々に対立する〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら──この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕──彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」と。

 

37.

 

 [395]808.(802) 彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。(7)

 

 [396]「彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、あるいは、見られたものについて、あるいは、見られたものとしての清浄について、あるいは、聞かれたものについて、あるいは、聞かれたものとしての清浄について、あるいは、思われたものについて、あるいは、思われたものとしての清浄について、表象を先行とすることは、表象によって想い描かれるべきことは──表象による執持によって、表象において、現起され、等しく現起され、想い描かれ、妄想され、形成され、行作され、確立された、〔特定の〕見解は──存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない」。

 

 [397]「〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を」とは、「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。(1)身体を有するという見解が、拒否されたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕が、拒否されたものと成り、(3)戒や掟への偏執が、拒否されたものと成り……略([299-300]参照)……〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を」とは、〔特定の〕見解に、執取せず、収取せず、偏執せず、固着せずにいる、その婆羅門を。ということで、「〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を」。

 

 [398]「ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」とは、「妄想(想い描き)」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、どのような貪欲によって、想い描くというのだろう、どのような憤怒によって、想い描くというのだろう、どのような迷妄によって、想い描くというのだろう、どのような思量によって、想い描くというのだろう、どのような見解によって、想い描くというのだろう、どのような高揚によって、想い描くというのだろう、どのような疑惑によって、想い描くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、想い描くというのだろう──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なき〔状態〕に至った者である」と、あるいは、「強靭に至った者である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の〔未来の〕境遇を、何によって、想い描くというのだろう──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、想い描くであろう、妄想するであろう、妄想を惹起するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう」。

 

 [399]それによって、世尊は言った。

 

 [400]「彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)」と。

 

38.

 

 [401]809.(803) 〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない。〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない(この世に戻らない)。(8)

 

 [402]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「妄想(想い描き)」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)どのようなものが、渇愛の妄想であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、極限が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「このかぎりのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭気であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、奴婢や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、そして、国土であり、そして、地方であり、そして、蔵であり、そして、貯蔵庫である」〔と〕、大いなる地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行じ歩むところの、そのかぎりのものである。これが、渇愛の妄想である。(2)どのようなものが、見解の妄想であるのか。二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)──すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の妄想である。彼らの、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描かず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず」。

 

 [403]「〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)そして、渇愛の偏重であり、(2)さらに、見解の偏重である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼らの、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者たちではなく、渇愛を幟とする者たちではなく、渇愛を優位とする者たちではなく、見解を旗とする者たちではなく、見解を幟とする者たちではなく、見解を優位とする者たちではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩むことはない。ということで、「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず」。

 

 [404]「諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない」とは、諸々の法(見解)は、六十二の悪しき見解と説かれる。「彼らには」とは、彼らには、阿羅漢たちには、煩悩の滅尽者たちには。「受容されない」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と受用されない。「世〔界〕は、常久ではない。……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と受用されない。ということで、「諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない」。

 

 [405]「〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」とは、「ない」とは、否定〔の言葉〕。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。(1)身体を有するという見解が、拒否されたものと成り……略([299-300]参照)……〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」とは、〔真の〕婆羅門は、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、戒と掟によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」。

 

 [406]「彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない(この世に戻らない)」とは、彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。彼は、彼岸に至った者、彼岸に至り得た者、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「彼岸に至った」。「〔特定の見解を〕信受しない」とは、預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、不還道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。ということで、「彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない」。「如なる者」とは、阿羅漢は、五つの行相によって、如なる者である(あるがままの如実者である)。(1)好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者である。(2)捨て去った者、ということで、如なる者である。(3)超え渡った者、ということで、如なる者である。(4)解き放った者、ということで、如なる者である。(5)それを釈示することから、如なる者である。

 

 [407](1)どのように、阿羅漢は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者であるのか。阿羅漢は、利得にたいしてもまた、如なる者であり、利得なきにたいしてもまた、如なる者であり、盛名にたいしてもまた、如なる者であり、盛名なきにたいしてもまた、如なる者であり、賞賛にたいしてもまた、如なる者であり、非難にたいしてもまた、如なる者であり、安楽にたいしてもまた、如なる者であり、苦痛にたいしてもまた、如なる者である。一部の者たちが、腕を香料で塗るとして、一部の者たちが、腕を鉈で撃打するとして、それにたいし、貪り〔の思い〕は存在せず、それにたいし、敵対〔の思い〕は存在しない。〔彼は〕随貪と敵対を捨棄した者であり、興奮と失望を超克した者であり、共感と反感を等しく超越した者である。このように、阿羅漢は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者である。

 

 [408](2)どのように、阿羅漢は、捨て去った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢には、貪欲は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄され、憤怒は……略……迷妄は……忿激は……怨恨は……偽装は……加虐は……嫉妬は……物惜は……幻惑は……狡猾は……強情は……激昂は……思量は……高慢は……驕慢は……放逸は……一切の〔心の〕汚れは……一切の悪しき行ないは……一切の懊悩は……一切の苦悶は……一切の熱苦は……一切の善ならざる行作は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものとしてある。このように、阿羅漢は、捨て去った者、ということで、如なる者である。

 

 [409](3)どのように、阿羅漢は、超え渡った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢は、欲望の激流を超え渡った者であり、生存の激流を超え渡った者であり、見解の激流を超え渡った者であり、無明の激流を超え渡った者であり、一切の輪廻の道を、超え渡った者であり、超え上がった者であり、超え出た者であり、超越した者であり、等しく超越した者であり、超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。このように、阿羅漢は、超え渡った者、ということで、如なる者である。

 

 [410](4)どのように、阿羅漢は、解き放った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢には、貪欲から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、憤怒から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、迷妄から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、忿激から……略……怨恨から……偽装から……加虐から……嫉妬から……物惜から……幻惑から……狡猾から……強情から……激昂から……思量から……高慢から……驕慢から……放逸から……一切の〔心の〕汚れから……一切の悪しき行ないから……一切の懊悩から……一切の苦悶から……一切の熱苦から……一切の善ならざる行作から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。このように、阿羅漢は、解き放った者、ということで、如なる者である。

 

 [411](5)どのように、阿羅漢は、それを釈示することから、如なる者であるのか。阿羅漢は、戒が存しているとき、「戒ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、信が存しているとき、「信ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、精進が存しているとき、「精進ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、気づきが存しているとき、「気づきある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、禅定が存しているとき、「禅定ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、智慧が存しているとき、「智慧ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、明知が存しているとき、「三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、神知が存しているとき、「六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる者である。このように、阿羅漢は、それを釈示することから、如なる者である。ということで、「彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない」。

 

 [412]それによって、世尊は言った。

 

 [413]「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、諸々の法(見解)もまた、彼らには受容されない。〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕信受しない(この世に戻らない)」と。

 

 [414]最高についての八なるものの経についての釈示が、第五となる。

 

1. 6. 老の経についての釈示

 

 [415]そこで、老の経についての釈示を説くであろう。

 

39.

 

 [416]810.(804) まさに、この生命(寿命)は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ。彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ。(1)

 

 [417]「まさに、この生命(寿命)は、僅かである」とは、「生命」とは、寿命、止住、〔身を〕保つこと、〔身を〕保ち行くこと、振る舞うこと、〔身を〕行持すること、〔身を〕守ること、生命、生命の機能(命根)。さらに、また、二つの契機によって、生命は、僅かであり、生命は、僅少である。(1)あるいは、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。(2)あるいは、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かである。(1)どのように、止住の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。過去における〔一つの〕心の瞬間においては、〔過去において〕生きたが、〔現在において〕生きることはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。未来における〔一つの〕心の瞬間においては、〔未来において〕生きるであろうが、〔現在において〕生きることはなく、〔過去において〕生きたことはない。現在における〔一つの〕心の瞬間においては、〔現在において〕生きるが、〔過去において〕生きたことはなく、〔未来において〕生きるであろうことはない。

 

 [418]〔そこで、詩偈に言う〕「生命は、そして、自己状態(個我的あり方・身体)も、さらに、楽と苦も、全部が、一つの心〔の瞬間〕と結び付いたものであり、〔その〕瞬間は、軽やかに転起する。

 

 [419]八万四千カッパ(:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ、それらの神たちが〔世に〕止住するとして、まさしく、しかし、彼らもまた、二つの心と結び付いたものとして、生きることはない(一つの心だけが転起する)。

 

 [420]この〔世において〕、死につつある者の、あるいは、止住している者の、それらの止滅した〔五つの心身を構成する〕範疇()は、全てもろともに、相同のものであり、〔すでに〕去り行ったものであり、結生なきものである(結生に至り着くことはない)。

 

 [421]そして、それらが、直前に滅壊した〔五つの範疇〕であるとして、さらに、それらが、未来に滅壊した〔五つの範疇〕であるとして、その直後に止滅した〔五つの範疇〕にとって、特相における差異は存在しない(両者ともに滅壊するものとしてある)。

 

 [422]発現した〔心〕が〔すでに〕ないなら、生じたものは〔もはや〕なく、現在〔の瞬間の心の転起〕によって、〔有情は〕生きる。心が滅壊したのち、世〔の人々〕の死がある。〔これが〕最高の義(勝義:最高の真実)〔としての死〕の通称(施設)となる。

 

 [423]たとえば、〔水が〕諸々の低きにあるものとして転起するように、欲〔の思い〕によって変化させられ、六つの〔認識の〕場所(六処:眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)の縁あることから、諸々の断絶なき保持が転起する。

 

 [424]諸々の滅壊したものは、安置に至らず、未来における堆積は存在しない。そして、それらが、諸々の発現したものとして止住するとして、錐の先の芥子の如きもの。

 

 [425]そして、諸々の発現した法(性質)には、それらには、滅壊が待ち受けている。諸々の崩壊の法(性質)として止住し、諸々の過去のものと交わることはない。

 

 [426]諸々の滅壊は、見えざるところから至り来て、見えざるところに去り行く。虚空における雷光の生起のように、〔それらは〕生起し、かつまた、衰失する」と。

 

 [427]このように、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。

 

 [428](2)どのように、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。出息に連結するものとして、生命はあり、入息に連結するものとして、生命はあり、出息と入息に連結するものとして、生命はあり、〔四つの〕大いなる元素(地・水・火・風)に連結するものとして、生命はあり、物質としての食に連結するものとして、生命はあり、熱(体熱)に連結するものとして、生命はあり、識知〔作用〕(意識)に連結するものとして、生命はある。これらのものの根元もまた、力弱きものであり、これらのものの前因もまた、力弱きものである。それらが、諸々の縁であるとして、それらもまた、力弱きものであり、たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらもまた、力弱きものである。これらのものと共に有るものもまた、力弱きものであり、これらのものと結合あるものもまた、力弱きものであり、これらのものと共に生じるものもまた、力弱きものである。たとえ、それが、専念するもの(渇愛)であるとして、それもまた、力弱きものである。これらは、互いに他と常に力弱きものであり、これらは、互いに他と安住なきものであり、これらは、互いに他を攻撃する。なぜなら、互いに他の救護者として存在せず、さらに、また、これらは、互いに他を救護しないからである。たとえ、それが、〔他を〕発現させるものであるとして、それは、〔もはや〕見出されない(すでに消滅したものとしてある)。

 

 [429]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、何をもってして、どこの誰が、失われることなくあるというのだろう。そして、これらは、まさに、全てにわたり、〔自ら〕壊れるべきものである。諸々の前のものがあるから、これらは、諸々の増加するものとしてある。たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらは、前に死んだものとしてある。そして、諸々の前のものもまた、さらに、諸々の後のものもまた、いついかなる時も、互いに他を見なかった」と。

 

 [430]このように、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かである。

 

 [431]さらに、また、四大王天〔の神々〕(四天王)たちの生命と比較して、人間たちの、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。三十三天〔の神々〕たちの……略……。耶摩天〔の神々〕たちの……。兜率天〔の神々〕たちの……。化楽天〔の神々〕たちの……。他化自在天〔の神々〕たちの……。梵衆天〔の神々〕たちの生命と比較して、人間たちの、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、人間たちの、この寿命は、僅かです。赴くべきは、未来(来世)です。明慧によって、覚るべきです。為すべきは、善なる〔行為〕です。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しません。比丘たちよ、彼が、長く生きるとして、彼は、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕。

 

 [432]〔そこで、詩偈に言う〕『人間たちの寿命は、僅かなもの。善き人は、それを蔑むもの。頭が燃えているかのように、〔世を〕歩むがよい。死魔の到来なきは、存在しない。

 

 [433]昼夜は過ぎ行き、生命は破却され、人間たちの寿命は滅尽する──諸々の小川の水のように』」〔と〕。ということで──

 

 [434]「まさに、この生命は、僅かである」。

 

 [435]「百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ」とは、カララ(入胎後一週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、アッブダ(入胎後二週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、ペーシ(入胎後三週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、ガナ(入胎後四週間)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、パサーカ(入胎後五週間以降)の時でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、生まれたばかりでさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、産屋においてでさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、半月でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、一月でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、二月でさえも……略……三月でさえも……四月でさえも……五月でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、六月でさえも……七月でさえも……八月でさえも……九月でさえも……十月でさえも……一年でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、二年でさえも……三年でさえも……四年でさえも……五年でさえも……六年でさえも……七年でさえも……八年でさえも……九年でさえも……十年でさえも……二十年でさえも……三十年でさえも……四十年でさえも……五十年でさえも……六十年でさえも……七十年でさえも……八十年でさえも……九十年でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅する。ということで、「百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ」。

 

 [436]「彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして」とは、彼が、百年を超え行って生きるとして、彼は、あるいは、一年を生き、あるいは、二年を生き、あるいは、三年を生き、あるいは、四年を生き、あるいは、五年を生き……略……あるいは、十年を生き、あるいは、二十年を生き、あるいは、三十年を生き、あるいは、四十年を生きる。ということで、「彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして」。「そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」とは、すなわち、老いた者、年長の者、老練の者、歳月を重ねた者、年齢を加えた者、歯が破断した者、白髪の者、抜け毛の者、禿頭の者、皺の者、斑点だらけの五体の者、湾曲の者、蜷局の者、杖を行き着く所とする者と成るとき、彼は、老によってもまた、死滅し、死に、消没し、破滅し、死からの解脱は存在しない。

 

 [437]〔そこで、詩偈に言う〕「熟した諸果には、早く落ちるがゆえの恐れがあるように、このように、死すべき者(人間)として生まれた者たちには、常に、死ゆえの恐れがある。

 

 [438]たとえば、また、陶工の作った諸々の土器が、〔それらの〕全てが、破壊を結末とするように、このように、死すべき者たちの生命はある。

 

 [439]かつまた、青年たちも、かつまた、大人たちも、彼らが愚者たちであれ、そして、彼らが賢者たちであれ──全ての者たちが、死魔の支配に至り行く──全ての者たちが、死魔〔の支配〕を行き着く所とする。

 

 [440]死魔に打ち負かされた彼らが〔他の世に〕赴きつつあるとして、他の世からは、父が子を救うことはなく、また、あるいは、親族たちが親族たちを〔救うこともない〕。

 

 [441]見よ──〔死に行く者を〕見ているだけの親族たちを、個々に泣き叫んでいる〔親族〕たちを。死すべき者たちの、まさしく、一者一者が、屠殺される牛のように、〔死へと〕導かれる。このように、世〔の人々〕は、そして、死魔によって、さらに、老によって、悩み苦しめられている」〔と〕。ということで──

 

 [442]「そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」。

 

 [443]それによって、世尊は言った。

 

 [444]「まさに、この生命(寿命)は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ。彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」と。

 

40.

 

 [445]811.(805) わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない。これは、変じ異なる状態として存在しているだけである。かくのごとく見て、〔賢者は〕家に居住しないように。(2)

 

 [446]「わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ」とは、「〔世の〕人たちは」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちは。「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。わがものと〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、略奪されつつあるときもまた憂い悲しみ、略奪されたときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、変化しつつあるときもまた憂い悲しみ、変化したときもまた、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起する。ということで、「わがものと〔錯視〕されたものについて、〔世の〕人たちは憂い悲しむ」。

 

 [447]「まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない」とは、二つの執持〔の対象〕がある。(1)そして、渇愛の執持〔の対象〕であり、(2)さらに、見解の執持〔の対象〕である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の執持〔の対象〕である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の執持〔の対象〕である。渇愛の執持〔の対象〕は、無常なるものであり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)であり、変化の法(性質)である。見解の執持〔の対象〕もまた、無常なるものであり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)であり、変化の法(性質)である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──その執持〔の対象〕を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、この執持〔の対象〕です」と。〔比丘たちは答えた〕「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」と。〔世尊は言った〕「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません──この執持〔の対象〕を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、この執持〔の対象〕です」と。諸々の執持〔の対象〕は、常住なるものとして、常恒なるものとして、常久なるものとして、変化なき法(性質)として、存在せず、存さず、等しく見出されず、得られない。ということで、「まさに、諸々の執持〔の対象〕は、常住のものとして存在しない」。

 

 [448]「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」とは、種々なる状態として、変じ異なる状態として、他なる状態として、存している、等しく見出されている、認知されている。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「アーナンダよ、十分です。憂い悲しんではいけません。嘆き悲しんではいけません。アーナンダよ、まさに、このことは、わたしによって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。『まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕。アーナンダよ、それ(常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません(ありえない)」と。前のもの、前のものである、〔五つの〕範疇と〔十八の〕界域と〔十二の認識の〕場所に、変化と他なる状態あることから、後のもの、後のものである、かつまた、〔五つの〕範疇が〔転起し〕、かつまた、〔十八の〕界域が〔転起し〕、かつまた、〔十二の認識の〕場所が転起する。ということで、「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」。

 

 [449]「かくのごとく見て、〔賢者は〕家に居住しないように」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。諸々の我執〔の思い〕について、かくのごとく、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「かくのごとく見て」。「〔賢者は〕家に居住しないように」とは、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「かくのごとく見て、〔賢者は〕家に居住しないように」。

 

 [450]それによって、世尊は言った。

 

 [451]「わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない。これは、変じ異なる状態として存在しているだけである。かくのごとく見て、〔賢者は〕家に居住しないように」と。

 

41.

 

 [452]812.(806) それを、人が、「これは、わたしのものである」と思いなすも、それは、死によってもまた失われる。このことをもまた知って、賢者は、わたし(ブッダ)にならう者は、我執〔の思い〕に屈さないように。(3)

 

 [453]「それは、死によってもまた失われる」とは、「死」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶である。「それ」とは、形態の在り方をしたもの、感受〔作用〕の在り方をしたもの、表象〔作用〕の在り方をしたもの、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもの、識知〔作用〕の在り方をしたものである。「失われる」とは、失われ、捨棄され、喪失され、消没し、破滅する。まさに、このこともまた、語られた。

 

 [454]〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、〔死の〕前に、諸々の財物が、死すべき者(人間)を捨棄する。あるいは、それより前に、死すべき者が、それらを捨棄する。欲するままに欲する者よ、財物ある者たちは、常久ならず。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない。

 

 [455]月は、満ち行き、円満し、滅し去る。日は、〔闇を〕滅却に据え置いて、去り行く。賊よ、世の諸法(事物)は、わたしによって、〔あるがままに〕知られた。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない」と。

 

 [456]「それを、人が、『これは、わたしのものである』と思いなすも、それは、死によってもまた失われる」とは、「それを」とは、形態の在り方をしたものを、感受〔作用〕の在り方をしたものを、表象〔作用〕の在り方をしたものを、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものを、識知〔作用〕の在り方をしたものを。「人」とは、名称、呼称、通称、語用、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、語形、話法。「『これは、わたしのものである』と思いなすも」とは、渇愛の思いによって思いなし、見解の思いによって思いなし、思量の思いによって思いなし、〔心の〕汚れの思いによって思いなし、悪しき行ないの思いによって思いなし、専念〔努力〕(加行)の思いによって思いなし、報い(異熟)の思いによって思いなす。ということで、「それを、人が、『これは、わたしのものである』と思いなすも」。

 

 [457]「このことをもまた知って、賢者は」とは、諸々の我執〔の思い〕について、この危険(患・過患)を、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた知って」。「賢者」とは(※)、慧者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。ということで、「このことをもまた知って、賢者は」。

 

※ PTS版により ti を補う。

 

 [458]「わたし(ブッダ)にならう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」とは、「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。「わたしにならう者」とは、覚者にならう者、法(教え)にならう者、僧団にならう者。彼は、世尊をわがものとする。世尊は、その人を遍く収め取る。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちではありません。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちであり、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起せず〕、成長を〔惹起せず〕、広大を惹起しません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たちであるなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちではなく、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します。

 

 [459]〔そこで、詩偈に言う〕『虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たち──彼らは、正等覚者によって説示された法(教え)において成長しない。

 

 [460]虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たち──彼らは、まさに、正等覚者によって説示された法(教え)において成長する』」と。

 

 [461]「わたし(ブッダ)にならう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」とは、わたしにならう者は、渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、我執〔の思い〕に、屈するべきではなく、屈服するべきではなく、それに向かい行く者として〔世に〕存するべきではなく、それに傾倒する者として〔世に存するべきでは〕なく、それに傾斜する者として〔世に存するべきでは〕なく、それを信念した者として〔世に存するべきでは〕なく、それを優位とする者として〔世に存するべきでは〕ない。ということで、「わたしにならう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」。

 

 [462]それによって、世尊は言った。

 

 [463]「それを、人が、『これは、わたしのものである』と思いなすも、それは、死によってもまた失われる。このことをもまた知って、賢者は、わたし(ブッダ)にならう者は、我執〔の思い〕に屈さないように」と。

 

42.

 

 [464]813.(807) たとえば、また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、このように、また、〔かつて〕愛された人も、命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない。(4)

 

 [465]「たとえば、また、夢で一緒になった者を」とは、〔夢で〕一緒になった者を、〔夢で〕遭遇した者を、〔夢で〕集会した者を、〔夢で〕集合した者を。ということで、「たとえば、また、夢で一緒になった者を」。「目覚めた人が〔もはや〕見ないように」とは、たとえば、人が、夢に赴いたなら、月を見、日を見、大海を見、山の王たるシネール(須弥山)を見、象〔兵〕を見、馬〔兵〕を見、車〔兵〕を見、歩〔兵〕を見、軍勢を見、喜ばしき林園を見、喜ばしき林を見、喜ばしき地を見、喜ばしき蓮池を見るも、目覚めたなら、何であれ見ないように。ということで、「目覚めた人が〔もはや〕見ないように」。

 

 [466]「このように、また、〔かつて〕愛された人も」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「〔かつて〕愛された人も」とは、わがものと〔錯視〕された人で、あるいは、母を、あるいは、父を、あるいは、兄弟を、あるいは、姉妹を、あるいは、子を、あるいは、娘を、あるいは、朋友を、あるいは、僚友を、あるいは、親族を、あるいは、血縁を。ということで、「このように、また、〔かつて〕愛された人も」。

 

 [467]「命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない」とは、亡者は、死んだ者と説かれる。命を終えた者を、〔誰も〕見ない、〔誰も〕視認しない、〔誰も〕遭遇しない、〔誰も〕見出さない、〔誰も〕獲得しない。ということで、「命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない」。

 

 [468]それによって、世尊は言った。

 

 [469]「たとえば、また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、このように、また、〔かつて〕愛された人も、命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕見ない」と。

 

43.

 

 [470]814.(808) 〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは、彼らのこの名前〔だけ〕が呼ばれるのであり、人が亡者となるなら、告げ知らすべきものとして、名前だけが残る。(5)

 

 [471]「〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは」とは、「〔かつて〕見られもまたし」とは、すなわち、眼の識知〔作用〕によって対処された者たち(眼で認識された者たち)。「聞かれもまたした」とは、すなわち、耳の識知〔作用〕によって対処された者たち(耳で認識された者たち)。「それらの人たちは」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちは。ということで、「〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは」。

 

 [472]「彼らのこの名前〔だけ〕が呼ばれるのであり」とは、「彼らの」とは、それらの、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕たち、人間たちの。「名前」とは、名称、呼称、通称、語用、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、語形、話法。「呼ばれるのであり」とは、〔彼は〕説かれる、〔彼は〕呼ばれる、〔彼は〕言説される、〔彼は〕発語される、〔彼は〕提示される、〔彼は〕語用される。ということで、「彼らのこの名前〔だけ〕が呼ばれるのであり」。

 

 [473]「告げ知らすべきものとして、名前だけが残る」とは、形態の在り方をしたもの、感受〔作用〕の在り方をしたもの、表象〔作用〕の在り方をしたもの、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもの、識知〔作用〕の在り方をしたものが、失われ、捨棄され、喪失され、消没し、破滅し、名前だけが残る。「告げ知らすべきものとして」とは、告げ知らすために、言説するために、発語するために、提示するために、語用するために。ということで、「告げ知らすべきものとして、名前だけが残る」。「人が亡者となるなら」とは、「亡者となるなら」とは、死んだなら、命を終えたなら。「人(ジャントゥ)が」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者が。ということで、「人が亡者となるなら」。

 

 [474]それによって、世尊は言った。

 

 [475]「〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは、彼らのこの名前〔だけ〕が呼ばれるのであり、人が亡者となるなら、告げ知らすべきものとして、名前だけが残る」と。

 

44.

 

 [476]815.(809) わがものと〔錯視〕されたものにたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜〔の思い〕を捨棄しない。それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕を捨棄して〔世を〕歩んだ──〔無一物に〕平安を見る者たちとなり。(6)

 

 [477]「わがものと〔錯視〕されたものにたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜〔の思い〕を捨棄しない」とは、「憂い」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、内なる焼悩、内なる遍き焼悩、心の遍き焼尽、失意、憂いの矢。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の……略……あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。「物惜〔の思い〕」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、緊縮、心が掴み取られたあり方である。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜もまた、物惜であり、〔十八の〕界域の物惜もまた、物惜であり、〔十二の認識の〕場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。わがものと〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、略奪されつつあるときもまた憂い悲しみ、略奪されたときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、変化しつつあるときもまた憂い悲しみ、変化したときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、略奪されつつあるときもまた嘆き悲しみ、略奪されたときもまた嘆き悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、変化しつつあるときもまた嘆き悲しみ、変化したときもまた嘆き悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物を、守護し、保護し、執持し、わがものとし、物惜する。わがものと〔錯視〕された事物について、憂い〔の思い〕を捨棄せず、嘆き〔の思い〕を捨棄せず、物惜〔の思い〕を捨棄せず、貪求〔の思い〕を、捨棄せず、捨棄し去らず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らせない。ということで、「わがものと〔錯視〕されたものにたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜〔の思い〕を捨棄しない」。

 

 [478]「それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕を捨棄して〔世を〕歩んだ──〔無一物に〕平安を見る者たちとなり」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の我執〔の思い〕について、この危険を等しく見ている者たちは。ということで、「それゆえに」。「牟尼(ムニ)たち」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解であり、その知恵を具備した者たちが、牟尼たちであり、沈黙に至り得た者たちである。三つの牟尼の資質がある。(1)身体による牟尼の資質、(2)言葉による牟尼の資質、(3)意による牟尼の資質である。……略([201-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「執持〔の対象〕」とは、二つの執持〔の対象〕がある。(1)そして、渇愛の執持〔の対象〕であり、(2)さらに、見解の執持〔の対象〕である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の執持〔の対象〕である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の執持〔の対象〕である。牟尼たちは、渇愛の執持〔の対象〕を遍捨して、見解の執持〔の対象〕を、放棄して、捨て去って、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、〔世を〕歩んだ、〔世に〕住んだ、振る舞った、行持した、〔身を〕守った、〔身を〕保った、〔身を〕保ち行った。「〔無一物に〕平安を見る者たちとなり」とは、平安は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「平安を見る者たち」とは、平安を見る者たち、救護所を見る者たち、避難所を見る者たち、帰依所を見る者たち、恐怖なきを見る者たち、死滅なきを見る者たち、不死を見る者たち、涅槃を見る者たち。ということで、「それゆえに、牟尼たちは、執持〔の対象〕を捨棄して〔世を〕歩んだ──〔無一物に〕平安を見る者たちとなり」。

 

 [479]それによって、世尊は言った。

 

 [480]「わがものと〔錯視〕されたものにたいし貪求〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜〔の思い〕を捨棄しない。それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕を捨棄して〔世を〕歩んだ──〔無一物に〕平安を見る者たちとなり」と。

 

45.

 

 [481]816.(810) 〔欲望の対象から〕退去して〔世を〕歩む比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら、〔彼のことを、賢者たちは〕「彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである」〔と〕言う──彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら。(7)

 

 [482]「〔欲望の対象から〕退去して〔世を〕歩む比丘が」とは、退去して〔世を〕歩む者たちは、七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)と説かれる。阿羅漢は、〔すでに〕退去した者である。何を契機とすることから、退去して〔世を〕歩む者たちは、七者の〔いまだ〕学びある者と説かれるのか。彼らは、そこかしこから、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕歩み、〔世を〕行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、眼の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕歩み、〔世を〕行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、耳の門において、心を……略……鼻の門において、心を……舌の門において、心を……身の門において、心を……意の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕歩み、〔世を〕行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。たとえば、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓(薄片)が、火に投げ放たれたなら、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、まさしく、このように、そこかしこから、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕歩み、〔世を〕行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、眼の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕歩み、〔世を〕行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行き、耳の門において、心を……略……鼻の門において、心を……舌の門において、心を……身の門において、心を……意の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕歩み、〔世を〕行じ歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。それを契機とすることから、退去して〔世を〕歩む者たちは、七者の〔いまだ〕学びある者と説かれる。「比丘が」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘が、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘が。ということで、「〔欲望の対象から〕退去して〔世を〕歩む比丘が」。

 

 [483]「遠離の坐所に親しんでいるなら」とは、坐所は、そこにおいて坐るところと説かれる。坐床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。その坐所は、正当ならざる形態を見ることから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる音声を聞くことから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる臭気を嗅ぐことから……正当ならざる味感を味わうことから……正当ならざる感触と接触することから……正当ならざる五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)から、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてある。その遠離の坐所に、親しんでいるなら、等しく親しんでいるなら、慣れ親しんでいるなら、慣用しているなら、等しく慣れ親しんでいるなら、受用しているなら。ということで、「遠離の坐所に親しんでいるなら」。

 

 [484]「〔彼のことを、賢者たちは〕『彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕言う──彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」とは、「ふさわしいこと」とは、三つのふさわしいことがある。(1)衆徒としてふさわしいこと、(2)法(教え)としてふさわしいこと、(3)結実なきもの(不生のもの)としてふさわしいことである。(1)どのようなものが、衆徒としてふさわしいことであるのか。たとえ、もし、多くの比丘たちがいるとして、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住む。これが、衆徒としてふさわしいことである。(2)どのようなものが、法(教え)としてふさわしいことであるのか。四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)があり、それらが、一致して、〔涅槃に〕跳入し、浄信し、等しく確立し、解脱する。それらの法(教え)に、論争は〔存在せず〕、異論は存在しない(互いに他と矛盾しない)。これが、法(教え)としてふさわしいことである。(3)どのようなものが、結実なきものとしてふさわしいことであるのか。たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達するとして、彼らの、涅槃の界域における、あるいは、不足が〔覚知されることもなく〕、あるいは、満杯が覚知されることもない。これが、結実なきものとしてふさわしいことである。「〔迷いの〕生存域において」とは、地獄にある者たちにとって、地獄は、〔彼らの〕生存域であり、畜生の胎ある者たちにとって、畜生の胎は、〔彼らの〕生存域であり、餓鬼の境域ある者たちにとって、餓鬼の境域は、〔彼らの〕生存域であり、人間たちにとって、人間の世は、〔彼らの〕生存域であり、天〔の神々〕たちにとって、天の世は、〔彼らの〕生存域である。「〔彼のことを、賢者たちは〕『彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕言う──彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」とは、〔彼のことを、賢者たちは〕「彼にとって、これは、ふさわしいことである、これは、適合するものである、これは、適切なるものである、これは、至当なるものである、これは、随順するものである──彼が、このように、覆い隠されたところである地獄において、自己を見せないなら、畜生の胎において、自己を見せないなら、餓鬼の境域において、自己を見せないなら、人間の世において、自己を見せないなら、天の世において、自己を見せないなら」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「〔彼のことを、賢者たちは〕『彼にとって、それは、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕言う──彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」。

 

 [485]それによって、世尊は言った。

 

 [486]「〔欲望の対象から〕退去して〔世を〕歩む比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら、〔彼のことを、賢者たちは〕『彼にとって、それ(遠離の坐所)は、〔比丘として〕ふさわしいことである』〔と〕言う──彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」と。

 

46.

 

 [487]817.(811) 一切所において、牟尼は、依存なき者となり、愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。彼のうちに、嘆きや物惜〔の思い〕は〔存在しない〕──たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように。(8)

 

 [488]「一切所において、牟尼は、依存なき者となり」とは、一切は、十二の〔認識の〕場所(十二処)と説かれる。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態であり、そして、耳であり、さらに、諸々の音声であり、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気であり、そして、舌であり、さらに、諸々の味感であり、そして、身であり、さらに、諸々の感触であり、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象)である。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「依存なき者となり」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依所である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依所である。牟尼は、渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……諸々の法(意の対象)に……家に……衆徒に……居住に……利得に……盛名に……賞賛に……安楽に……衣料に……〔行乞の〕施食に……臥坐具に……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)に……欲望の界域(欲界)に……形態の界域(色界)に……形態なき界域(無色界)に……欲望の生存(欲有)に……形態の生存(色有)に……形態なき生存(無色有)に……表象の生存(想有)に……表象なき生存(無想有)に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)に……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)に……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)に……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)に……過去に……未来に……現在に……見られたものに……聞かれたものに……思われたものに……識られたものに……一切の法(事象)に、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「一切所において、牟尼は、依存なき者となり」。

 

 [489]「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない」とは、「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しい有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちであり、あるいは、母として、あるいは、父として、あるいは、兄弟たちとして、あるいは、姉妹たちとして、あるいは、子たちとして、あるいは、娘たちとして、あるいは、朋友たちとして、あるいは、僚友たちとして、あるいは、親族たちとして、あるいは、血縁たちとして、〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しい有情たちである。(2)どのようなものが、諸々の愛しい形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭気、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕である。「愛しくないもの」とは、二つの愛しくないものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しくない有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲し、生命を奪うことを欲する者たちとして〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しくない有情たちである。(2)どのようなものが、諸々の愛しくない形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適わない形態、諸々の意に適わない音声、諸々の意に適わない臭気、諸々の意に適わない味感、諸々の意に適わない感触である。これらが、諸々の愛しくない形成〔作用〕である。「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない」とは、「この者は、わたしにとって、愛しい有情である。そして、これらは、諸々の愛しい形成〔作用〕である」と、貪欲〔の思い〕を所以に、愛しいものを作らない。「この者は、わたしにとって、愛しくない有情である。そして、これらは、諸々の愛しくない形成〔作用〕である」と、敵対〔の思い〕を所以に、愛しくないものを、作らず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない」。

 

 [490]「彼のうちに、嘆きや物惜〔の思い〕は〔存在しない〕──たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように」とは、「彼のうちに」とは、その人のうちに、阿羅漢のうちに、煩悩の滅尽者のうちに。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。「物惜〔の思い〕」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、緊縮、心が掴み取られたあり方である。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜もまた、物惜であり、〔十八の〕界域の物惜もまた、物惜であり、〔十二の認識の〕場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。

 

 [491]「たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように」とは、葉は、蓮華の葉と説かれる。水(ヴァーリ)は、水(ウダカ)と説かれる。たとえば、水が、蓮華の葉に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように、まさしく、このように、その人に、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に、嘆き〔の思い〕は、さらに、物惜〔の思い〕は、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあり、そして、阿羅漢であるその人は、それらの〔心の〕汚れによって、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「彼のうちに、嘆きや物惜〔の思い〕は〔存在しない〕──たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように」。

 

 [492]それによって、世尊は言った。

 

 [493]「一切所において、牟尼は、依存なき者となり、愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。彼のうちに、嘆きや物惜〔の思い〕は〔存在しない〕──たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように」と。

 

47.

 

 [494]818.(812) たとえば、また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように、──たとえば、蓮華に、水が着かないように──このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない。(9)

 

 [495]「たとえば、また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように」とは、水滴は、水のしたたりと説かれる。蓮は、蓮華の葉と説かれる。たとえば、水滴が、蓮華の葉に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように。ということで、「たとえば、また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように」。「たとえば、蓮華に、水が着かないように」とは、蓮華は、蓮華の花と説かれる。水(ヴァーリ)は、水(ウダカ)と説かれる。たとえば、水が、蓮華の花に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように。ということで、「たとえば、蓮華に、水が着かないように」。

 

 [496]「このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)そして、渇愛の汚れであり、(2)さらに、見解の汚れである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。牟尼は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、見られたものについて汚されず、聞かれたものについて汚されず、思われたものについて汚されず、識られたものについて、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」。

 

 [497]それによって、世尊は言った。

 

 [498]「たとえば、また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように──たとえば、蓮華に、水が着かないように──このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」と。

 

48.

 

 [499]819.(813) まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって思い考えない。〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから。(10)

 

 [500]「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって思い考えない」とは、「清き者」とは、清きは、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、智慧と説かれるのか。その智慧によって、身体による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、言葉による悪しき行ないが……略……意による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、貪欲が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。それを契機とすることから、清きは、智慧と説かれる。

 

 [501]さらに、あるいは、正しい見解(正見)によって、誤った見解(邪見)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい思惟(正思惟)によって、誤った思惟(邪思惟)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい言葉(正語)によって、誤った言葉(邪語)が、かつまた、払拭され……正しい行業(正業)によって、誤った行業(邪業)が、かつまた、払拭され……正しい生き方(正命)によって、誤った生き方(邪命)が、かつまた、払拭され……正しい努力(正精進)によって、誤った努力(邪精進)が、かつまた、払拭され……正しい気づき(正念)によって、誤った気づき(邪念)が、かつまた、払拭され……正しい禅定(正定)によって、誤った禅定(邪定)が、かつまた、払拭され……正しい知恵(正智)によって、誤った知恵(邪智)が、かつまた、払拭され……正しい解脱(正解脱)によって、誤った解脱(邪解脱)が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。

 

 [502]さらに、あるいは、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)によって、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。阿羅漢は、これらの清き法(性質)を、具した者であり、具完した者であり、所有した者であり、完備した者であり、具有した者であり、完有した者であり、具備した者であり、それゆえに、阿羅漢は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した者であり、悪を払拭した者であり、〔心の〕汚れを払拭した者であり、苦悶を払拭した者である。ということで、「清き者」。

 

 [503]「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって思い考えない」とは、清き者は、見られたものを思い考えず、見られたものについて思い考えず、見られたもの〔の観点〕から思い考えず、見られたものを(※)、「わたしのものである」と思い考えず、聞かれたものを思い考えず、聞かれたものについて思い考えず、聞かれたもの〔の観点〕から思い考えず、聞かれたものを、「わたしのものである」と思い考えず、思われたものを思い考えず、思われたものについて思い考えず、思われたもの〔の観点〕から思い考えず、思われたものを、「わたしのものである」と思い考えず、識られたものを思い考えず、識られたものについて思い考えず、識られたもの〔の観点〕から思い考えず、識られたものを、「わたしのものである」と思い考えない。まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有るであろう(永存する)』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕有ることなくあるであろう(消滅する)』とは、これは、思い考えられたものです。『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。比丘たちよ、思い考えられたものは、病です。思い考えられたものは、腫物です。思い考えられたものは、矢です。思い考えられたものは、禍です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『〔わたしたちは〕思い考えることなき心によって〔世に〕住むのだ』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」〔と〕。ということで、「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それによって思い考えない」。

 

※ テキストには diṭṭhā とあるが、PTS版により diṭṭh と読む。

 

 [504]「〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない」とは、清き者は、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕他のものである、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、欲求せず、愛用せず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない」。

 

 [505]「なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」とは、愚者である凡夫は、全ての者たちが、〔欲に〕染まり(貪欲する)、七者の〔いまだ〕学びある者は、善き凡夫と比較して、離貪し(欲に染まらない)、阿羅漢は、まさしく、〔欲に〕染まることもなく、離貪することもない。彼は、〔すでに〕離貪した者として〔世に有る〕──貪欲の滅尽あることから、貪欲が離れたことから、憤怒の滅尽あることから、憤怒が離れたことから、迷妄の滅尽あることから、迷妄が離れたことから。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」。

 

 [506]それによって、世尊は言った。

 

 [507]「まさに、〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって思い考えない。〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」と。

 

 [508]老の経についての釈示が、第六となる。

 

1. 7. ティッサ・メッテイヤの経についての釈示

 

 [509]そこで、ティッサ・メッテイヤの経についての釈示を説くであろう。

 

49.

 

 [510]820.(814) かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕──淫事に束縛された者の悩み苦しみのことを──敬愛なる方よ、〔わたしたちに〕説いてください。あなたの教えを聞いて、〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです。(1)

 

 [511]「淫事に束縛された者の」とは、「淫事の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)、賎民の法(性質)、邪悪のもの、水を終極とするもの(行為後に水による洗浄を必要とするもの)、内密のもの、〔男女〕一対の両者による入定(性行為)である。何を契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれるのか。〔男女〕両者にとっての──〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心が完全に奪い去られた、相同の〔男女〕両者にとっての──法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。たとえば、両者が、紛争を為す者たちであるなら、「淫事の者たち(忘我の者たち)」と説かれ、両者が、言争を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、談義を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、論争を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、問題を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、論者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、談論者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれるように、まさしく、このように、〔男女〕両者にとっての──〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心が完全に奪い去られた、相同の〔男女〕両者にとっての──法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。

 

 [512]「淫事に束縛された者の」とは、淫事の法(性質)にたいし、束縛された者の、専念する者の、専従する者の、等しく専従する者の、それを所行とする者の、それが多くある者の、それに尊重ある者の、それに向かい行く者の、それに傾倒する者の、それに傾斜する者の、それを信念した者の、それを優位とする者の。ということで、「淫事に束縛された者の」。

 

 [513]「かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有する言葉、敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ティッサ」とは、その長老の、名前としての、名称、呼称、通称、語用、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、語形、話法。「メッテイヤ」とは、その長老の、氏姓としての、名称、呼称、通称、語用。ということで、「かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕」。

 

 [514]「悩み苦しみのことを──敬愛なる方よ、〔わたしたちに〕説いてください」とは、「悩み苦しみのことを」とは、悩み苦しみを、害障を、逼悩を、打撃を、禍を、災禍を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。「敬愛なる方よ」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有する言葉、敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「敬愛なる方よ」〔ということになる〕。ということで、「悩み苦しみのことを──敬愛なる方よ、〔わたしたちに〕説いてください」。

 

 [515]「あなたの教えを聞いて」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示されたものを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「あなたの教えを聞いて」。

 

 [516]「〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」とは、「遠離」とは、三つの遠離がある。(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)依り所の遠離である。(1)どのようなものが、身体の遠離であるのか。ここに、比丘が、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、峡谷に、岩窟に、墓場に、林野に、野外に、藁積場に、親近し、身体によって遠離した者として〔世に〕住む。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。これが、身体の遠離である。

 

 [517](2)どのようなものが、心の遠離であるのか。第一の瞑想に入定した者には、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)から、心は、遠離したものと成る。第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念(尋伺)から、心は、遠離したものと成る。第三の瞑想に入定した者には、喜悦()から、心は、遠離したものと成る。第四の瞑想に入定した者には、安楽と苦痛(楽苦)から、心は、遠離したものと成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象(色想)から、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)から、種々なる表象(異想)から、心は、遠離したものと成る。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。預流たる者には、身体を有するという見解(有身見)から、疑惑〔の思い〕()から、戒や掟への偏執(戒禁取)から、見解の悪習(見随眠)から、疑惑〔の思い〕の悪習(疑随眠)から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)から、心は、遠離したものと成る。一来たる者には、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)という束縛するものから、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)という束縛するものから、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。不還たる者には、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。阿羅漢には、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪り〔の思い〕から、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から、思量()から、高揚(掉挙)から、無明から、思量の悪習から、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、無明の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、さらに、外なる一切の形相から、心は、遠離したものと成る。これが、心の遠離である。

 

 [518](3)どのようなものが、依り所の遠離であるのか。依り所は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。依り所の遠離は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、依り所の遠離である。(1)そして、身体の遠離は、遠離した身体の者たちのものであり、離欲を喜び楽しむ者たちのものであり、(2)そして、心の遠離は、完全なる清浄となった心の者たちのものであり、最高の浄化に至り得た者たちのものであり、(3)そして、依り所の遠離は、〔もはや〕依り所なく〔寿命を〕形成する働き()を離れるに至った人たちのものである。「〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」とは、その長老は、元来において、学ぶことを学んだ者であるが、しかしながら、また、法(教え)の説示に関連して、法(教え)の説示を〔他に〕告げ聞かせつつ、このように言った。「〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」と。

 

 [519]それによって、長老ティッサ・メッテイヤが言った。

 

 [520]かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕──「淫事に束縛された者の悩み苦しみのことを──敬愛なる方よ、〔わたしたちに〕説いてください。あなたの教えを聞いて、〔わたしたちは〕遠離について学ぶのです」と。

 

50.

 

 [521]821.(815) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッテイヤよ、淫事に束縛されたなら、まさしく、また、教えは忘却され、そして、〔彼は〕誤って実践します。〔淫事に束縛された〕彼のうちには、この聖ならざる〔汚点〕があります。(2)

 

 [522]「淫事に束縛されたなら」とは、「淫事の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)、賎民の法(性質)、邪悪のもの、水を終極とするもの(行為後に水による洗浄を必要とするもの)、内密のもの、〔男女〕一対の両者による入定(性行為)である。何を契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれるのか。〔男女〕両者にとっての──〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心が完全に奪い去られた、相同の〔男女〕両者にとっての──法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。たとえば、両者が、紛争を為す者たちであるなら、「淫事の者たち(忘我の者たち)」と説かれ、両者が、言争を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、談義を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、論争を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、問題を為す者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、論者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれ、両者が、談論者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれるように、まさしく、このように、〔男女〕両者にとっての──〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心が完全に奪い去られた、相同の〔男女〕両者にとっての──法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。

 

 [523]「淫事に束縛されたなら」とは、淫事の法(性質)にたいし、束縛されたなら、専念する者であるなら、専従する者であるなら、等しく専従する者であるなら、それを所行とする者であるなら、それが多くある者であるなら、それに尊重ある者であるなら、それに向かい行く者であるなら、それに傾倒する者であるなら、それに傾斜する者であるなら、それを信念した者であるなら、それを優位とする者であるなら。ということで、「淫事に束縛されたなら」。

 

 [524]「メッテイヤよ」とは、世尊は、その長老に、氏姓で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を滅壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(意味)の味を、法(教え)の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心(瞑想)を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想(四禅)を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱(八解脱)を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき(安般念)という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)を、六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)を、六つの覚者の法(一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する・一切の言葉の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する・一切の意の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する・覚者たる世尊の知恵は、過去において打破されざるものとしてある・覚者たる世尊の知恵は、未来において打破されざるものとしてある・覚者たる世尊の知恵は、現在において打破されざるものとしてある)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──メッテイヤよ」。

 

 [525]「まさしく、また、教えは忘却され」とは、二つの契機によって、教えを忘却する。(1)聖典の教えもまた忘却され、(2)実践の教えもまた忘却される。(1)どのようなものが、聖典の教えであるのか。すなわち、彼が学得したところの、経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)である。これが、聖典の教えである。それもまた、忘却され、等しく忘却され、強く忘却され、等しく強く忘却され、遍く外にあるものと成る。ということで、このようにもまた、「まさしく、また、教えは忘却され」。

 

 [526](2)どのようなものが、実践の教えであるのか。正しい〔実践の〕道、〔真理に〕随順する〔実践の〕道、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道、義(意味)のままなる〔実践の〕道、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていること、食について量を知ること、〔眠らずに〕起きていることへの専念、気づきと正知、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道である。これが、実践の教えである。それもまた、忘却され、等しく忘却され、強く忘却され、等しく強く忘却され、遍く外にあるものと成る。ということで、このようにもまた、「まさしく、また、教えは忘却され」。

 

 [527]「そして、〔彼は〕誤って実践します」とは、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話す。ということで、「そして、〔彼は〕誤って実践します」。

 

 [528]「〔淫事に束縛された〕彼のうちには、この聖ならざる〔汚点〕があります」とは、その人のうちには、この、聖ならざる法(性質)、愚者の法(性質)、迷乱の法(性質)、無知の法(性質)、詭弁の法(性質)がある。すなわち、この、誤った〔実践の〕道がある。ということで、「〔淫事に束縛された〕彼のうちには、この聖ならざる〔汚点〕があります」。

 

 [529]それによって、世尊は言った。

 

 [530]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「メッテイヤよ、淫事に束縛されたなら、まさしく、また、教えは忘却され、そして、〔彼は〕誤って実践します。〔淫事に束縛された〕彼のうちには、この聖ならざる〔汚点〕があります」と。

 

51.

 

 [531]822.(816) 過去においては独り〔世を〕歩んで、〔そののち〕彼が、淫事に慣れ親しむなら、世における迷走する乗物のような彼のことを、〔賢者たちは〕「下劣な凡夫」と言います。(3)

 

 [532]「過去においては独り〔世を〕歩んで」とは、二つの契機によって、過去においては独り〔世を〕歩んで。(1)あるいは、出家と名づけられたことによって。(2)あるいは、衆徒を捨て去る義(意味)によって。(1)どのように、出家と名づけられたことによって、「過去においては独り〔世を〕歩んで」であるのか。一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、出家と名づけられたことによって、「過去においては独り〔世を〕歩んで」。

 

 [533](2)どのように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「過去においては独り〔世を〕歩んで」であるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「過去においては独り〔世を〕歩んで」。

 

 [534]「〔そののち〕彼が、淫事に慣れ親しむなら」とは、「淫事の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。「彼が、淫事に慣れ親しむなら」とは、彼が、他時にあって、覚者(:ブッダ)と法(:ダンマ)と僧団(:サンガ)を〔離脱し〕、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りして(戒を捨てて還俗して)、淫事の法(性質)に、慣れ親しみ、慣用し、等しく慣れ親しみ、受用するなら。ということで、「〔そののち〕彼が、淫事に慣れ親しむなら」。

 

 [535]「世における迷走する乗物のような彼のことを」とは、「乗物」とは、象の乗物、馬の乗物、牛の乗物、山羊の乗物、羊の乗物、駱駝の乗物、驢馬の乗物。〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する〔乗物〕は、非道を収め取り、不正なるところである、木株にもまた〔乗り上げ〕、岩にもまた乗り上げ、乗物をもまた〔打ち砕き〕、乗っている者をもまた打ち砕き、深淵にもまた落ち行く。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、非道を収め取るように、まさしく、このように、その離脱者(還俗者)は、迷走する乗物と相似の者として、非道を収取し、誤った見解を収取し……略……誤った禅定を収取する。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、不正なるところである、木株にもまた〔乗り上げ〕、岩にもまた乗り上げるように、まさしく、このように、その離脱者は、迷走する乗物と相似の者として、〔世の〕不正である身体の行為を増進し、〔世の〕不正である言葉の行為を増進し、〔世の〕不正である意の行為を増進し、〔世の〕不正である命あるものを殺すことを増進し、〔世の〕不正である与えられていないものを取ることを増進し、〔世の〕不正である諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を増進し、〔世の〕不正である虚偽を説くことを増進し、〔世の〕不正である中傷の言葉を増進し、〔世の〕不正である粗暴な言葉を増進し、〔世の〕不正である雑駁な虚論を増進し、〔世の〕不正である強欲〔の思い〕を増進し、〔世の〕不正である憎悪〔の思い〕を増進し、〔世の〕不正である誤った見解を増進し、〔世の〕不正である諸々の形成〔作用〕(諸行)を増進し、〔世の〕不正である五つの欲望の属性(五妙欲)を増進し、〔世の〕不正である五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を増進する。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、乗物をもまた〔打ち砕き〕、乗っている者をもまた打ち砕くように、まさしく、このように、その離脱者は、迷走する乗物と相似の者として、地獄において、自己を打ち砕き、畜生の胎において、自己を打ち砕き、餓鬼の境域において、自己を打ち砕き、人間の世において、自己を打ち砕き、天の世において、自己を打ち砕く。たとえば、〔まさに〕その、〔いまだ〕調御されず、訓練されず、教導されていない、迷走する乗物が、深淵に落ち行くように、まさしく、このように、その離脱者は、迷走する乗物と相似の者として、生の深淵にもまた落ち行き、老の深淵にもまた落ち行き、病の深淵にもまた落ち行き、死の深淵にもまた落ち行き、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の深淵にもまた落ち行く。「世における」とは、悪所の世における、人間の世における。ということで、「世における迷走する乗物のような彼のことを」。

 

 [536]「〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」とは、「凡夫(プトゥジャナ)たち」とは、どのような義(意味)によって、凡夫たちとなるのか。広く(プトゥ)、諸々の〔心の〕汚れを生じさせる(ジャーネーティ)、ということで、「凡夫たち」。広く、身体を有するという見解が〔いまだ〕打破されていない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、教師たちの顔色をうかがう者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、一切の境遇から〔いまだ〕出起していない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる行作を行作する、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる激流によって運ばれる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる熱苦によって熱せられる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる苦悶によって嘆き悲しまされる、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの欲望の属性について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの〔修行の〕妨害によって、覆蔽された者たち、覆い護られた者たち、覆い被された者たち、覆い塞がれた者たち、覆い隠された者たち、覆い包まれた者たち、ということで、「凡夫たち」。「〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」とは、「凡夫である、下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」。

 

 [537]それによって、世尊は言った。

 

 [538]「過去においては独り〔世を〕歩んで、〔そののち〕彼が、淫事に慣れ親しむなら、世における迷走する乗物のような彼のことを、〔賢者たちは〕『下劣な凡夫』と言います」と。

 

52.

 

 [539]823.(817) 〔彼の〕盛名は、さらに、すなわち、過去の名誉も、彼のそれは、まさしく、また、衰退します。このことをもまた見て、淫事を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように。(4)

 

 [540]「〔彼の〕盛名は、さらに、すなわち、過去の名誉も、彼のそれは、まさしく、また、衰退します」とは、どのようなものが、盛名であるのか。ここに、一部の者は、過去の沙門の状態において、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕有る。これが、盛名である。どのようなものが、名誉であるのか。ここに、一部の者は、過去の沙門の状態において、名誉と栄誉に至った者として、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、多聞の者として、様々な言説ある者として、応答に巧みな智ある者として、〔世に〕有る──あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔規定された食〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と。これが、名誉である。ということで、「〔彼の〕盛名は、さらに、すなわち、過去の名誉も」。

 

 [541]「彼のそれは、まさしく、また、衰退します」とは、彼が、他時にあって、覚者と法(教え)と僧団を〔離脱し〕、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたなら(戒を捨てて還俗したなら)、そして、その盛名も、さらに、その名誉も、衰退し、遍く衰退し、滅亡し、崩落し、消没し、破滅する。ということで、「〔彼の〕盛名は、さらに、すなわち、過去の名誉も、彼のそれは、まさしく、また、衰退します」。

 

 [542]「このことをもまた見て、淫事を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」とは、「このことを」とは、過去の沙門の状態において、盛名があり、さらに、名誉があり、後段部分(後日)において、覚者と法(教え)と僧団を〔離脱し〕、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたなら、そして、盛名なき〔状態〕があり、さらに、名誉なき〔状態〕がある──この得達と衰滅を。「見て」とは、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた見て」。「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。(1)どのようなものが、卓越の戒の学びであるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。小なる戒の範疇、大いなる戒の範疇、戒、立脚するもの(依所)、最初〔の行〕、行ない、自制、統御、諸々の善なる法(性質)への入定のために、頭目となり、筆頭となるもの。これが、卓越の戒の学びである。

 

 [543](2)どのようなものが、卓越の心の学びであるのか。ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む。……略([142]参照)……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住む。これが、卓越の心の学びである。

 

 [544](3)どのようなものが、卓越の智慧の学びであるのか。ここに、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有る──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。彼は、「これは、苦しみである」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。「これらは、諸々の煩悩()である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。これが、卓越の智慧の学びである。「淫事の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。

 

 [545]「このことをもまた見て、淫事を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」とは、淫事の法(性質)の、捨棄のために、寂止のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学び(三学:戒・禅定・智慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕見ている者として学ぶべきであり、綿密に注視している者として学ぶべきであり、心を確立している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、智慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「このことをもまた見て、淫事を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」。

 

 [546]それによって、世尊は言った。

 

 [547]「〔彼の〕盛名は、さらに、すなわち、過去の名誉も、彼のそれは、まさしく、また、衰退します。このことをもまた見て、淫事を捨棄するべく、〔遠離こそを〕学ぶように」と。

 

53.

 

 [548]824.(818) 諸々の思惟(妄想)に打ち負かされた彼は、貧者のように当惑します。そのような種類の者は、他者たちの〔自分に関する悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります。(5)

 

 [549]「諸々の思惟(妄想)に打ち負かされた彼は、貧者のように当惑します」とは、欲望の思惟によって、憎悪の思惟によって、悩害の思惟によって、見解の思惟によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者となり、閉塞された者は、貧者のように、愚か者のように、迷愚の者のように、当惑し、強く当惑し、尋思し、沈思する。たとえば、梟が、木の枝で鼠を狙いながら、当惑し、強く当惑し、尋思し、沈思するように、たとえば、野狐(ジャッカル)が、川岸で魚たちを狙いながら、当惑し、強く当惑し、尋思し、沈思するように、たとえば、猫が、隙間やどぶやごみためで鼠を狙いながら、当惑し、強く当惑し、尋思し、沈思するように、たとえば、流水で〔道を〕断ち切られた驢馬が、隙間やどぶやごみためで、当惑し、強く当惑し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、その離脱者は、欲望の思惟によって、憎悪の思惟によって、悩害の思惟によって、見解の思惟によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者となり、閉塞された者は、貧者のように、愚か者のように、迷愚の者のように、当惑し、強く当惑し、尋思し、沈思する。ということで、「諸々の思惟に打ち負かされた彼は、貧者のように当惑します」。

 

 [550]「そのような種類の者は、他者たちの〔自分に関する悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります」とは、「他者たちの」とは、あるいは、師父(和尚)たちが、あるいは、師匠(阿闍梨)たちが、あるいは、師父を等しくする者たちが、あるいは、師匠を等しくする者たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、同輩たちが、あるいは、知己たちが、あるいは、道友たちが、〔彼を〕叱責する。「友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざるものがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しく得られたものがあります。すなわち、あなたは、このような形態の秀逸なる教師を得て〔そののち〕、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家して〔そののち〕、このような形態の聖なる衆徒を得て〔そののち〕、下劣なる淫事の法(性質)を契機とすることから、覚者と法(教え)と僧団を〔離脱し〕、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りし、〔世に〕存しています。諸々の善なる法(性質)において、信もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)において、恥〔の思い〕()もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)において、〔良心の〕咎め()もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)において、精進もまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)において、気づきもまた、まさに、あなたには有りませんでした。諸々の善なる法(性質)において、智慧もまた、まさに、あなたには有りませんでした」と。彼らの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示されたものを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て、愕然と成り、責め苛まれ、打ち叩かれ、病者と〔成り〕、失意の者と成る。「そのような種類の者」とは、そのような種類の者、そのような者、それを確立した者、それを流儀とする者、それを相似とする者。すなわち、〔まさに〕その、離脱者(還俗者)である。ということで、「そのような種類の者は、他者たちの〔自分に関する悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります」。

 

 [551]それによって、世尊は言った。

 

 [552]「諸々の思惟(妄想)に打ち負かされた彼は、貧者のように当惑します。そのような種類の者は、他者たちの〔自分に関する悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります」と。

 

54.

 

 [553]825.(819) そこで、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します。これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所。〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます。(6)

 

 [554]「そこで、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「諸々の刃を」とは、三つの刃がある。(1)身体による刃、(2)言葉による刃、(3)意による刃である。(1)三種類の身体による悪しき行ない(殺生・偸盗・邪淫)は、身体による刃である。(2)四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論)は、言葉による刃である。(3)三種類の意による悪しき行ない(強欲・憎悪の心・誤った見解)は、意による刃である。「他者たちの論によって叱責された者は」とは、あるいは、師父たちによって、あるいは、師匠たちによって、あるいは、師父を等しくする者たちによって、あるいは、師匠を等しくする者たちによって、あるいは、朋友たちによって、あるいは、同輩たちによって、あるいは、知己たちによって、あるいは、道友たちによって、叱責された者は、正知しつつ虚偽を語る(故意に嘘をつく)。「尊き方よ、わたしは、出家を喜び楽しむ者として〔世に〕有りました。母は、わたしによって養われるべきであり、それによって、〔わたしは〕離脱者として存しています(還俗した)」と話し、「父は、わたしによって養われるべきであり、それによって、〔わたしは〕離脱者として存しています」と話し、「兄弟は、わたしによって養われるべきであり……「姉妹は、わたしによって養われるべきであり……「子は、わたしによって養われるべきであり……「娘は、わたしによって養われるべきであり……「朋友たちは、わたしによって養われるべきであり……「僚友たちは、わたしによって養われるべきであり……「親族たちは、わたしによって養われるべきであり……「血縁たちは、わたしによって養われるべきであり、それによって、〔わたしは〕離脱者として存しています」と話す。言葉の刃を、作り為し、行作し、生じさせ、産出させ、発現させ、結実させる。ということで、「そこで、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します」。

 

 [555]「これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所」とは、これは、彼にとって、大いなる難所、大いなる林、大いなる茂み、大いなる難路、大いなる凹凸、大いなる屈曲、大いなる汚泥、大いなる泥沼、大いなる障害、大いなる結縛であり、すなわち、この、正知の者として虚偽を説くこと(故意の嘘)である。ということで、「これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所」。

 

 [556]「〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」とは、虚偽の言葉は、虚偽を説くことと説かれる。ここに、一部の者は、あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、「さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け」と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、「知る」と言い、あるいは、知っているのに、「知らない」と言い、あるいは、見ていないのに、「見る」と言い、あるいは、見ているのに、「見ない」と言う。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る。これが、虚偽の言葉と説かれる。

 

 [557]さらに、また、三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。これらの三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。(4)〔自己の〕見解と異なって〔虚偽を話す〕。これらの四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、五つの行相によって……略……六つの行相によって……七つの行相によって……八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。(4)〔自己の〕見解と異なって〔虚偽を話す〕。(5)〔自己の〕受認(信受)と異なって〔虚偽を話す〕。(6)〔自己の〕嗜好(意欲)と異なって〔虚偽を話す〕。(7)〔自己の〕表象と異なって〔虚偽を話す〕。(8)〔自己の〕状態と異なって〔虚偽を話す〕。これらの八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。「〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」とは、〔彼は〕虚偽の言葉に、沈み、沈潜し、潜入し、入り行く。ということで、「〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」。

 

 [558]それによって、世尊は言った。

 

 [559]「そこで、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃を作り為します。これは、まさに、彼にとっては、大いなる難所。〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます」と。

 

55.

 

 [560]826.(820) 〔過去においては〕「賢者」と呼称され、独り歩むこと(独行)を〔心に〕確立した者が、そして、また、彼が、淫事に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます。(7)

 

 [561]「〔過去においては〕『賢者』と呼称され」とは、ここに、一部の者は、過去の沙門の状態において、名誉と栄誉に至った者として、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、多聞の者として、様々な言説ある者として、応答に巧みな智ある者として、〔世に〕有る──あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と……略([237]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と。このように知られた者として、〔このように〕覚知された者として、〔このように〕呼称された者として、〔世に〕有る。ということで、「〔過去においては〕『賢者』と呼称され」。

 

 [562]「独り歩むこと(独行)を〔心に〕確立した者が」とは、二つの契機によって、独り歩むことを〔心に〕確立した者が。(1)あるいは、出家と名づけられたことによって。(2)あるいは、衆徒を捨て去る義(意味)によって。(1)どのように、出家と名づけられたことによって、「独り歩むことを〔心に〕確立した者が」であるのか。一切の、家の居住の障害を断ち切って……略([532]参照)……。このように、出家と名づけられたことによって、「独り歩むことを〔心に〕確立した者が」。(2)どのように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り歩むことを〔心に〕確立した者が」であるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を……略([533]参照)……。このように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り歩むことを〔心に〕確立した者が」。

 

 [563]「そして、また、彼が、淫事に束縛されたなら」とは、「淫事の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。「そして、また、彼が、淫事に束縛されたなら」とは、彼が、他時にあって、覚者と法(教え)と僧団を〔離脱し〕、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りして、淫事の法(性質)にたいし、束縛された者であるなら、専念する者であるなら、専従する者であるなら、等しく専従する者であるなら。ということで、「そして、また、彼が、淫事に束縛されたなら」。

 

 [564]「愚か者のように引き回されます」とは、貧者のように、愚か者のように、迷愚の者のように、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話す。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切る。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。

 

 [565]さらに、あるいは、欲望の渇愛によって征服され、心が完全に奪い去られた者は、諸々の財物を遍く探し求めつつ、船で大海に乗り入れるとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつ、ティグンバ〔国〕へと赴き、タッコーラ〔国〕へと赴き、タッカシーラ〔国〕へと赴き、カーラムカ〔国〕へと赴き、プラプーラ〔国〕へと赴き、ヴェースンガ〔国〕へと赴き、ヴェーラーパタ〔国〕へと赴き、ジャヴァ〔国〕へと赴き、ターマリ〔国〕へと赴き、ヴァンガ〔国〕へと赴き、エーラバンダナ〔国〕へと赴き、スヴァンナクータ〔国〕へと赴き、スヴァンナブーミ〔国〕へと赴き、タンバパーニ〔国〕へと赴き、スッパーダカ〔国〕へと赴き、バールカッチャ〔国〕へと赴き、スラッタ〔国〕へと赴き、バンガローカ〔国〕へと赴き、バンガナ〔国〕へと赴き、サラマタンガナ〔国〕へと赴き、ヨーナ〔国〕へと赴き、パラマヨーナ〔国〕へと赴き、ヴィナカ〔国〕へと赴き、ムーラパダ〔国〕へと赴き、マルカンターラ〔国〕へと赴き、膝行の道を赴き、山羊の道を赴き、羊の道を赴き、杭の道を赴き、傘の道を赴き、竹の道を赴き、鳥の道を赴き、鼠の道を赴き、洞窟の道を赴き、杖で歩むところを赴く。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。

 

 [566]〔財物を〕探し求めつつ〔ついに〕見出さず、利得なき〔状態〕を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。

 

 [567]〔財物を〕探し求めつつ〔ついに〕見出すとして、利得あることからもまた、守護を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。「どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか」と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物は破滅する。彼は、別離を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。このようにもまた、引き回され、遍く引き回され、遍く汚れる。ということで、「そして、また、彼が、淫事に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます」。

 

 [568]それによって、世尊は言った。

 

 [569]「〔過去においては〕『賢者』と呼称され、独り歩むこと(独行)を〔心に〕確立した者が、そして、また、彼が、淫事に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます」と。

 

56.

 

 [570]827.(821) 牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って、独り歩むことを、断固として為すように。淫事に慣れ親しまないように。(8)

 

 [571]「牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って」とは、「この〔危険〕を」とは、過去の沙門の状態において、そして、盛名があり、さらに、名誉があり、後段部分(後日)において、覚者と法(教え)と僧団を〔離脱し〕、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたなら、そして、盛名なき〔状態〕があり、さらに、名誉なき〔状態〕がある──この得達と衰滅を(※)。「知って」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「この〔世において〕」とは、この見解の、この受認(信受)の、この嗜好(意欲)の、この所取〔の経論〕において、この法(教え)において、この律において、この法(教え)と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて、この自己状態において、この人間の世において。ということで、「牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って」。

 

※ テキストには vipattiñca とあるが、PTS版により vipatti と読む。

 

 [572]「独り歩むことを、断固として為すように」とは、二つの契機によって、独り歩むことを、断固として為すべきである。(1)あるいは、出家と名づけられたことによって。(2)あるいは、衆徒を捨て去る義(意味)によって。(1)どのように、出家と名づけられたことによって、「独り歩むことを、断固として為すように」であるのか。一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。このように、出家と名づけられたことによって、「独り歩むことを、断固として為すように」。

 

 [573](2)どのように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り歩むことを、断固として為すように」であるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用するべきである──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。彼は、独りで赴くべきであり、独りで立つべきであり、独りで坐るべきであり、独りで臥所を営むべきであり、独りで〔行乞の〕食のために村に入るべきであり、独りで戻るべきであり、独りで静所に坐るべきであり、独りで歩行〔瞑想〕に〔心を〕確立するべきであり、独りで、〔世を〕歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。このように、衆徒を捨て去る義(意味)によって、「独り歩むことを、断固として為すように」。かくのごとく、独り歩むことを、断固として為すべきであり、強固に為すべきであり、諸々の善なる法(性質)において、断固たる受持ある者として〔世に〕存するべきであり、受持を確立した者として〔世に〕存するべきである。ということで、「独り歩むことを、断固として為すように」。

 

 [574]「淫事に慣れ親しまないように」とは、「淫事の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)……略([511]参照)……それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。淫事の法(性質)に、慣れ親しむべきではなく、慣用するべきではなく、等しく慣れ親しむべきではなく、受用するべきではなく、行なうべきではなく、励行するべきではなく、受持して行持するべきではない。ということで、「淫事に慣れ親しまないように」。

 

 [575]それによって、世尊は言った。

 

 [576]「牟尼は、この〔世において〕、過去と未来について、この危険を知って、独り歩むことを、断固として為すように。淫事に慣れ親しまないように」と。

 

57.

 

 [577]828.(822) 遠離こそを学ぶように。これは、聖者たちにとって、最上のもの。それによって、〔自己を〕「最勝である」〔と〕思いなさないなら、彼は、まさに、涅槃の現前にあります。(9)

 

 [578]「遠離こそを学ぶように」とは、「遠離」とは、三つの遠離がある。(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)依り所の遠離である。(1)どのようなものが、身体の遠離であるのか。……略([96-98]参照)……。これが、依り所の遠離である。(1)そして、身体の遠離は、遠離した身体の者たちのものであり、離欲を喜び楽しむ者たちのものであり、(2)そして、心の遠離は、完全なる清浄となった心の者たちのものであり、最高の浄化に至り得た者たちのものであり、(3)そして、依り所の遠離は、〔もはや〕依り所なく〔寿命を〕形成する働き()を離れるに至った人たちのものである。「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。……略([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「遠離こそを学ぶように」とは、遠離こそを、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「遠離こそを学ぶように」。

 

 [579]「これは、聖者たちにとって、最上のもの」とは、聖者たちは、そして、覚者たちと〔説かれ〕、さらに、覚者の弟子たちと〔説かれ〕、かつまた、独覚(縁覚・辟支仏)たちと説かれる。聖者たちにとって、これは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものであり、すなわち、この、遠離の行である。ということで、「これは、聖者たちにとって、最上のもの」。

 

 [580]「それによって、〔自己を〕『最勝である』〔と〕思いなさないなら」とは、身体による遠離の行によって、傲慢を為すべきではなく、傲慢に為すべきではなく、思量を為すべきではなく(慢心しない)、強靭を為すべきではなく、強情を為すべきではなく、それによって、思量を生じさせるべきではなく、それによって、〔心が〕強情となった者として、〔心が〕硬直した者として、頭が励起した者(天狗になった者)として、〔世に〕存するべきではない。ということで、「それによって、〔自己を〕『最勝である』〔と〕思いなさないなら」。

 

 [581]「彼は、まさに、涅槃の現前にあります」とは、彼は、涅槃の、現前にあり、近隣にあり、近くにあり、遠く離れていないところにあり、付近にある。ということで、「彼は、まさに、涅槃の現前にあります」。

 

 [582]それによって、世尊は言った。

 

 [583]「遠離こそを学ぶように。これは、聖者たちにとって、最上のもの。それによって、〔自己を〕『最勝である』〔と〕思いなさないなら、彼は、まさに、涅槃の現前にあります」と。

 

58.

 

 [584]829.(823) 〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔世を〕歩んでいる者を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます。(10)

 

 [585]「〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔世を〕歩んでいる者を」とは、〔一切から〕遠ざかり、離れ、遠離した者を。身体による悪しき行ないから、遠ざかり、離れ、遠離した者を、言葉による悪しき行ないから……略……意による悪しき行ないから……貪欲から……憤怒から……迷妄から……忿激から……怨恨から……偽装から……加虐から……物惜から……幻惑から……狡猾から……強情から……激昂から……思量から……高慢から……驕慢から……放逸から……一切の〔心の〕汚れから……一切の悪しき行ないから……一切の懊悩から……一切の苦悶から……一切の熱苦から……一切の善ならざる行作から、遠ざかり、離れ、遠離した者を。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「〔世を〕歩んでいる者を」とは、〔世を〕歩んでいる者を、〔世に〕住んでいる者を、振る舞っている者を、行持している者を、〔身を〕守っている者を、〔身を〕保っている者を、〔身を〕保ち行っている者を。ということで、「〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔世を〕歩んでいる者を」。

 

 [586]「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、諸々の欲望〔の対象〕について、期待なき者として、欲望を離れた者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き捨てた者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、諸々の欲望〔の対象〕について、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」。

 

 [587]「激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」とは、「人々」とは、有情の同義語である。人々は、諸々の欲望〔の対象〕について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちであり、彼らは、欲望の激流を超え渡った者を、生存の激流を超え渡った者を、見解の激流を超え渡った者を、無明の激流を超え渡った者を、一切の形成〔作用〕の道を、超え渡った者を、超え上がった者を、超え出た者を、超越した者を、等しく超越した者を、超克した者を、彼岸に至った者を、彼岸に至り得た者を、終極に至った者を、終極に至り得た者を、突端に至った者を、突端に至り得た者を、極限に至った者を、極限に至り得た者を、完成に至った者を、完成に至り得た者を、救護所に至った者を、救護所に至り得た者を、避難所に至った者を、避難所に至り得た者を、帰依所に至った者を、帰依所に至り得た者を、恐怖なきに至った者を、恐怖なきに至り得た者を、死滅なきに至った者を、死滅なきに至り得た者を、不死に至った者を、不死に至り得た者を、涅槃に至った者を、涅槃に至り得た者を、欲求し、愛用し、切望し、熱望し、渇望する。たとえば、借金ある者たちが、借金なくあることを、切望し、熱望するように、たとえば、病苦ある者たちが、無病を、切望し、熱望するように、たとえば、結縛に結縛された者たちが、結縛からの解放を、切望し、熱望するように、たとえば、奴隷たちが、自由を、切望し、熱望するように、たとえば、難路に乗り入れた者たちが、平安の極地(安全地帯)を、切望し、熱望するように、まさしく、このように、人々は、諸々の欲望〔の対象〕について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちであり、彼らは、欲望の激流を超え渡った者を、生存の激流を超え渡った者を……略……涅槃に至った者を、涅槃に至り得た者を、欲求し、愛用し、切望し、熱望し、渇望する。ということで、「激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」。

 

 [588]それによって、世尊は言った。

 

 [589]「〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔世を〕歩んでいる者を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、激流を超えた者を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」と。

 

 [590]ティッサ・メッテイヤの経についての釈示が、第七となる。

 

1. 8. パスーラの経についての釈示

 

 [591]そこで、パスーラの経についての釈示を説くであろう。

 

59.

 

 [592]830.(824) 〔対話者パスーラに、世尊は答えた〕──〔彼らは〕「まさしく、ここ(自説)に、清浄がある」と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません。それ(自説)に依存する者たちが、そこにおいて、「美しい(価値がある)」と説いているなら、〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々それぞれに固着しているのです。(1)

 

 [593]「〔彼らは〕『まさしく、ここ(自説)に、清浄がある』と説きます」とは、まさしく、ここに、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久ではない。……。「世〔界〕は、終極がある。……。「世〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「〔彼らは〕『まさしく、ここに、清浄がある』と説きます」。

 

 [594]「他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません」とは、自己の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、〔それらを〕除いて、一切の他の論を、投げ放ち、投げ捨て、遍く投げ放つ。「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、善く報知された〔道〕にあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「そこにおいて、あるいは、〔人々が〕清らかとなることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、〔存在し〕ない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように説き、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません」。

 

 [595]「それ(自説)に依存する者たちが、そこにおいて、『美しい(価値がある)』と説いているなら」とは、「それに依存する者たちが」とは、〔まさに〕その、教師に、法(教え)の告知に、衆徒に、見解に、〔実践の〕道に、〔聖者の〕道に、依存する者たちが、強く依存する者たちが、〔思いが〕付着した者たちが、近しく赴いた者たちが、固執した者たちが、信念した者たちが。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「『美しい』と説いているなら」とは、自らの主張について、美しいと説く者たちであるなら、荘厳と説く者たちであるなら、賢者と説く者たちであるなら、強固と説く者たちであるなら、正理と説く者たちであるなら、〔正しい〕因と説く者たちであるなら、〔正しい〕特相と説く者たちであるなら、〔正しい〕契機と説く者たちであるなら、〔正しい〕拠点と説く者たちであるなら。ということで、「それに依存する者たちが、そこにおいて、『美しい』と説いているなら」。

 

 [596]「〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々それぞれに固着しているのです」とは、多々なる沙門や婆羅門たちは、多々なる各自の真理にたいし、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たちである。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たちである。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たちである。ということで、「〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々それぞれに固着しているのです」。

 

 [597]それによって、世尊は言った。

 

 [598]〔対話者パスーラに、世尊は答えた〕──「〔彼らは〕『まさしく、ここ(自説)に、清浄がある』と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません。それ(自説)に依存する者たちが、そこにおいて、『美しい(価値がある)』と説いているなら、〔彼らは〕各自の諸々の真理にたいし、個々それぞれに固着しているのです」と。

 

60.

 

 [599]831.(825) 彼ら、論を欲する者たちは、衆のうちに入って、互いに他と競い合い、〔他者を〕愚者と決め付けます。彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます──〔自らについて〕「智者である」〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして。(2)

 

 [600]「彼ら、論を欲する者たちは、衆のうちに入って」とは、「彼ら、論を欲する者たちは」とは、それらの、論を欲する者たちとして、論を義(目的)とする者たちとして、論を志向する者たちとして、論を尊奉する者たちとして、論を遍く探求する者たちとして、〔世を〕歩んでいる者たちは。「衆のうちに入って」とは、士族の衆に、婆羅門の衆に、家長の衆に、沙門の衆に、入って、沈潜して、潜入して、入り行って。ということで、「彼ら、論を欲する者たちは、衆のうちに入って」。

 

 [601]「互いに他と競い合い、〔他者を〕愚者と決め付けます」とは、「競い合い」とは、二者の人で、二者の紛争を為す者、二者の言争を為す者、二者の談義を為す者、二者の論争を為す者、二者の問題を為す者、二者の論者、二者の談論者。彼らは、互いに他を、愚者〔の観点〕から、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、決め付ける、見る、視認する、注目する、凝視する、近しく注視する。ということで、「互いに他と競い合い、〔他者を〕愚者と決め付けます」。

 

 [602]「彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます」とは、他の、教師に、法(教え)の告知に、衆徒に、見解に、〔実践の〕道に、〔聖者の〕道に、依存する者たち、強く依存する者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たち。論難の言説は、紛争、言争、口論、論争、確執、と説かれる。さらに、あるいは、「論難の言説」とは、滋養(効用)なき、〔まさに〕その、言説である(※)。〔彼らは〕論難の言説を説き、紛争〔の言説〕を説き、言争〔の言説〕を説き、口論〔の言説〕を説き、論争〔の言説〕を説き、確執〔の言説〕を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます」。

 

※ テキストには nisākathā とあるが、PTS版により sā kathā と読む。

 

 [603]「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして」とは、「賞賛を欲する者たちとして」とは、賞賛を欲する者たちとして、賞賛を義(目的)とする者たちとして、賞賛を志向する者たちとして、賞賛を尊奉する者たちとして、賞賛を遍く探求する者たちとして、〔世を〕歩んでいる者たちは。「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら」とは、自らの主張について、智者と説く者たち、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして」。

 

 [604]それによって、世尊は言った。

 

 [605]「彼ら、論を欲する者たちは、衆のうちに入って、互いに他と競い合い、〔他者を〕愚者と決め付けます。彼らは、他者〔の権威〕に依存し、論難の言説を説きます──〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、賞賛を欲する者たちとして」と。

 

61.

 

 [606]832.(826) 衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は、賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります。また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります。彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります。(3)

 

 [607]「衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は」とは、あるいは、士族の衆の、あるいは、婆羅門の衆の、あるいは、家長の衆の、あるいは、沙門の衆の、〔それらの〕中で言説するために、自己の言説に、束縛された者は、専念する者は、専従する者は、等しく専従する者は、等しく専念する者は。ということで、「衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は」。

 

 [608]「賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります」とは、「賞賛を求めつつ」とは、賞賛を、賛嘆を、名誉を、栄誉の伝播を、欲求しつつ、愛用しつつ、切望しつつ、熱望しつつ、渇望しつつ。「敗北を恐れる者と成ります」とは、談論〔を交わす〕より、まさしく、過去において、懐疑ある者と〔成り〕、敗北を恐れる者と成る。「いったい、まさに、わたしに、勝利が有るのだろうか」「いったい、まさに、わたしに、敗北が有るのだろうか」「どのように、批判〔の論〕を為そうか」「どのように、反駁〔の論〕を為そうか」「どのように、特別〔の論〕を為そうか」「どのように、特化〔の論〕を為そうか」「どのように、独特〔の論〕を為そうか」「どのように、弁明〔の論〕を為そうか」「どのように、要約〔の論〕を為そうか」「どのように、総合〔の論〕を為そうか」と、このように、談論〔を交わす〕より、まさしく、過去において、懐疑ある者と〔成り〕、敗北を恐れる者と成る。ということで、「賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります」。

 

 [609]「また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります」とは、すなわち、それらの、問尋の審査者たち、衆たち、衆の属類たち、試問者たちが、彼らが、〔彼を〕排斥する(敗北を宣言する)。「義(意味)を離れ去ったことが話された」と、義(意味)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「文(語形)を離れ去ったことが話された」と、文(語形)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「義(意味)と文(語形)を離れ去ったことが話された」と、義(意味)と文(語形)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「あなたの義(意味)は、悪しく導かれた」「あなたの文(語形)は、悪しく用いられた」「あなたの義(意味)と文(語形)は、悪しく導かれ、悪しく用いられた」「あなたの批判〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの反駁〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの特別〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの特化〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの独特〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの弁明〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの要約〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの総合〔の論〕は、悪しく為され、悪しく言説され、悪しく発語され、悪しく談じられ、悪しく言われ、悪しく語られた、不正なる言説である」と、〔彼を〕排斥する。「また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります」とは、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成り、責め苛まれ、打ち叩かれ、病者と〔成り〕、失意の者と成る。ということで、「また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります」。

 

 [610]「彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります」とは、〔自己への〕非難には、〔自己への〕難詰には、〔自己の〕不名誉には、〔自己の〕栄誉ならざることの伝播には、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す。ということで、「彼は、〔自己への〕非難には怒ります」。「〔他者の〕欠点を探し求める者」とは、〔他者の〕欠点を探し求める者、〔他者の〕違反を探し求める者、〔他者の〕躓きを探し求める者、〔他者の〕落度を探し求める者、〔他者の〕欠陥を探し求める者。ということで、「彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります」。

 

 [611]それによって、世尊は言った。

 

 [612]「衆の中で〔自己の〕言説に束縛された者は、賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります。また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります。彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自己への〕非難には怒ります」と。

 

62.

 

 [613]833.(827) すなわち、彼の論を、〔人々が〕「遍く劣る」と言うなら、問尋の審査者たちが「〔あなたの論は〕排斥された」と〔言うなら〕、劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます。「〔彼は〕わたしを超え行った」と、泣き悲しむのです。(4)

 

 [614]「すなわち、彼の論を、〔人々が〕『遍く劣る』と言うなら」とは、すなわち、彼の論を、円満成就したものではなく、下劣のものと、劣悪のものと、遍く劣るものと、遍く退けられたものと、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用するなら。ということで、「すなわち、彼の論を、〔人々が〕『遍く劣る』と言うなら」。

 

 [615]「問尋の審査者たちが『〔あなたの論は〕排斥された』と〔言うなら〕」とは、すなわち、それらの、問尋の審査者たち、衆たち、衆の属類たち、試問者たちが、彼らが、〔彼を〕排斥する(敗北を宣言する)。「義(意味)を離れ去ったことが話された」と、義(意味)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「文(語形)を離れ去ったことが話された」と、文(語形)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「義(意味)と文(語形)を離れ去ったことが話された」と、義(意味)と文(語形)〔の観点〕から〔彼の賞賛を〕奪い去り、「あなたの義(意味)は、悪しく導かれた」「あなたの文(語形)は、悪しく用いられた」「あなたの義(意味)と文(語形)は、悪しく導かれ、悪しく用いられた」「あなたの批判〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの反駁〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの特別〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの特化〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの独特〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの弁明〔の論〕は、悪しく為された」「あなたの要約〔の論〕は、〔正しく〕為されていない」「あなたの総合〔の論〕は、悪しく為され、悪しく言説され、悪しく発語され、悪しく談じられ、悪しく言われ、悪しく語られた、不正なる言説である」と、〔彼を〕排斥する。ということで、「問尋の審査者たちが『〔あなたの論は〕排斥された』と〔言うなら〕」。

 

 [616]「劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます」とは、「〔それを〕嘆き」とは、「わたしによって、他のものが思案され、他のものが思い考えられ、他のものが近しく保持され、他のものが近しく観られた」「彼は、大いなる徒党ある者であり、大いなる衆ある者であり、大いなる取り巻きある者である。しかしながら、この党派は、和合の衆にあらず。和合の衆を因として、〔勝利をもたらす〕言説と談論はある。〔わたしは〕ふたたび敗れ去るであろう」と、すなわち、このような形態の、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあることである。ということで、「〔それを〕嘆き」。「憂い悲しみます」とは、「彼に、勝利がある」と憂い悲しみ、「わたしに、敗北がある」と憂い悲しみ、「彼に、利得がある」と憂い悲しみ、「わたしに、利得なきがある」と憂い悲しみ、「彼に、盛名がある」と憂い悲しみ、「わたしに、盛名なきがある」と憂い悲しみ、「彼に、賞賛がある」と憂い悲しみ、「わたしに、非難がある」と憂い悲しみ、「彼に、安楽がある」と憂い悲しみ、「わたしに、苦痛がある」と憂い悲しみ、「彼は、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者である。わたしは、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者ではなく、〔世に〕存している」と、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起する。ということで、「〔それを〕嘆き、憂い悲しみます」。「劣った論の者」とは、円満成就した論の者ではなく、下劣なる論の者、劣悪なる論の者、遍く劣る論の者、遍く退けられた論の者。ということで、「劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます」。

 

 [617]「『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです」とは、「彼は、わたしの論を、論によって、超えた、超え行った──超越した者として、等しく超越した者として、超克した者として」と、このようにもまた、「『〔彼は〕わたしを超え行った』と」。さらに、あるいは、「わたしの論を、論によって、征服して、覆い尽くして、完全に奪い去って、踏みにじって、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く」と、このようにもまた、「『〔彼は〕わたしを超え行った』と」。泣き悲しむことは、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること、と説かれる。ということで、「『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです」。

 

 [618]それによって、世尊は言った。

 

 [619]「すなわち、彼の論を、〔人々が〕『遍く劣る』と言うなら、問尋の審査者たちが『〔あなたの論は〕排斥された』と〔言うなら〕、劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます。『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです」と。

 

63.

 

 [620]834.(828) これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら、これらのうちには、興奮と失望が有ります。このことをもまた見て、論難の言説を離れるように。なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです。(5)

 

 [621]「これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら」とは、「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、この〔僧団〕より外の者たちで、遍歴遊行〔の生活〕を具した者たちであり、遍歴遊行〔の生活〕に入った者たちである。これらの、見解の紛争が、見解の言争が、見解の口論が、見解の論争が、見解の確執が、沙門たちのあいだで、生じたなら、産出したなら、発現したなら、結実したなら、出現したなら。ということで、「これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら」。

 

 [622]「これらのうちには、興奮と失望が有ります」とは、勝利と敗北が有り、利得と利得なきが有り、盛名と盛名なきが有り、賞賛と非難が有り、安楽と苦痛が有り、悦意と失意が有り、好ましいものと好ましくないものが有り、随貪と敵対が有り、興奮と失望が有り、共感と反感が有り、勝利によって、心は、興奮したものと成り、敗北によって、心は、失望したものと成り、利得によって、心は、興奮したものと成り、利得なきによって、心は、失望したものと成り、盛名によって、心は、興奮したものと成り、盛名なきによって、心は、失望したものと成り、賞賛によって、心は、興奮したものと成り、非難によって、心は、失望したものと成り、安楽によって、心は、興奮したものと成り、苦痛によって、心は、失望したものと成り、悦意によって、心は、興奮したものと成り、失意によって、心は、失望したものと成り、傲慢によって、心は、興奮したものと成り、屈服によって、心は、失望したものと成る。ということで、「これらのうちには、興奮と失望が有ります」。

 

 [623]「このことをもまた見て、論難の言説を離れるように」とは、「このことをもまた見て」とは、諸々の見解の紛争について、諸々の見解の言争について、諸々の見解の口論について、諸々の見解の論争について、諸々の見解の確執について、この危険を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた見て」。「論難の言説を離れるように」とは、論難の言説は、紛争、言争、口論、論争、確執、と説かれる。さらに、あるいは、「論難の言説」とは、滋養(効用)なき、〔まさに〕その、言説である(※)。論難の言説を為すべきではなく、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、紛争と言争と口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、別離した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「このことをもまた見て、論難の言説を離れるように」。

 

※ テキストには nisākathā とあるが、PTS版により sā kathā と読む。

 

 [624]「なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです」とは、賞賛の利得より、他の義(利益)は存在しない。あるいは、自己の義(利益)は、あるいは、他者の義(利益)は、あるいは、両者の義(利益)は、あるいは、所見の法(現法:現世)の義(利益)は、あるいは、未来の義(利益)は、あるいは、明瞭なる義(利益)は、あるいは、深遠なる義(利益)は、あるいは、秘密にされた義(利益)は、あるいは、隠蔽された義(利益)は、あるいは、導かれるべき義(利益)は、あるいは、導かれた義(利益)は、あるいは、罪過なきものの義(利益)は、あるいは、〔心の〕汚れなきものの義(利益)は、あるいは、浄化の義(利益)は、あるいは、最高の義(勝義:最高の利益)としての義(利益)は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。ということで、「なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです」。

 

 [625]それによって、世尊は言った。

 

 [626]「これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら、これらのうちには、興奮と失望が有ります。このことをもまた見て、論難の言説を離れるように。なぜなら、賞賛を得ることより他に、義(利益)は存在しないからです」と。

 

64.

 

 [627]835.(829) また、あるいは、衆の中で〔自己の〕論を告げて、そこにおいて、賞賛された者と成るとして、彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります──意が〔そう〕有ったとおりの、〔まさに〕その義(利益)に至り得て(想定どおりの結果になって慢心する)。(6)

 

 [628]「また、あるいは」「そこにおいて、賞賛された者と成るとして」とは、「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。〔彼は〕賞賛された者、賛嘆された者、名誉とされた者、栄誉とされた者と成る。ということで、「また、あるいは」「そこにおいて、賞賛された者と成るとして」。

 

 [629]「衆の中で〔自己の〕論を告げて」とは、あるいは、士族の衆の、あるいは、婆羅門の衆の、あるいは、家長の衆の、あるいは、沙門の衆の、〔それらの〕中で、自己の論を、告げて、告げ知らせて、付随する論を、告げて、告げ知らせて、強調して、増進して、提示して、照明して、語用して、遍く収取して。ということで、「衆の中で〔自己の〕論を告げて」。

 

 [630]「彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります」とは、彼は、〔まさに〕その、勝利の義(利益)によって、満足した者と成り、笑喜した者と〔成り〕、欣喜した者と〔成り〕、わが意を得た者と〔成り〕、円満成就した思惟ある者と〔成る〕。さらに、あるいは、歯を見せながら笑っている者と〔成る〕。「彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります」とは、彼は、〔まさに〕その、勝利の義(利益)によって、傲慢した者と成り、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することがある。ということで、「彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります」。

 

 [631]「意が〔そう〕有ったとおりの、〔まさに〕その義(利益)に至り得て」とは、〔まさに〕その、勝利の義(利益)に、至り得て、至り獲て、到達して、見出して、獲得して。「意が〔そう〕有ったとおりの」とは、意が〔そう〕有ったとおりの、心が〔そう〕有ったとおりの、思惟が〔そう〕有ったとおりの、識知が〔そう〕有ったとおりの。ということで、「意が〔そう〕有ったとおりの、〔まさに〕その義(利益)に至り得て」。

 

 [632]それによって、世尊は言った。

 

 [633]「また、あるいは、衆の中で〔自己の〕論を告げて、そこにおいて、賞賛された者と成るとして、彼は、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります──意が〔そう〕有ったとおりの、〔まさに〕その義(利益)に至り得て(想定どおりの結果になって慢心する)」と。

 

65.

 

 [634]836.(830) その傲慢なるもの──それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます。このことをもまた見て、論争しないように。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです。(7)

 

 [635]「その傲慢なるもの──それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地」とは、すなわち、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲すること。ということで、「その傲慢なるもの」。「それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地」とは、それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地、害障の境地、逼悩の境地、打撃の境地、禍の境地、災禍の境地。ということで、「その傲慢なるもの──それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地」。

 

 [636]「また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます」とは、その人は、そして、思量〔の論〕を説き、さらに、高慢〔の論〕を説く。ということで、「また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます」。

 

 [637]「このことをもまた見て、論争しないように」とは、諸々の見解の紛争について、諸々の見解の言争について、諸々の見解の口論について、諸々の見解の論争について、諸々の見解の確執について、この危険を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた見て」。「論争しないように」とは、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、紛争と言争と口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、別離した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「このことをもまた見て、論争しないように」。

 

 [638]「なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇()に智ある者たち、〔十八の〕界域()に智ある者たち、〔十二の認識の〕場所()に智ある者たち、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立(四念処・四念住)に智ある者たち、〔四つの〕正しい精励(四正勤)に智ある者たち、〔四つの〕神通の足場(四神足)に智ある者たち、〔五つの〕機能(五根)に智ある者たち、〔五つの〕力(五力)に智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)に智ある者たち、〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)に智ある者たち、〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、見解の紛争によって、見解の言争によって、見解の口論によって、見解の論争によって、見解の確執によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」。

 

 [639]それによって、世尊は言った。

 

 [640]「その傲慢なるもの──それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。また、この者は、〔以前にも増して〕思量と高慢〔の論〕を説きます。このことをもまた見て、論争しないように。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」と。

 

66.

 

 [641]837.(831) たとえば、王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が、敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように、勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところに、そこに去り行きなさい。〔ここには〕戦いのための〔契機となる〕、〔まさに〕その、「これ」〔という思い〕は、まさしく、過去において〔消滅し〕、存在しないのです(「これこそが、真理である」と主張するための「これ」という思いは、もはや存在しない)。(8)

 

 [642]「たとえば、王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が」とは、「勇士」とは、勇士、勇者、勇猛なる者、恐怖なき者、驚愕なき者、恐懼なき者、逃げない者。「王の食禄に養われた」とは、王の食禄によって、王の食料によって、養われた者、養育された者、育成された者、増大した者。ということで、「たとえば、王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が」。

 

 [643]「敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように」とは、彼は、敵の勇士を、敵の人士を、敵の兵士を、敵の力士を、欲求しながら、愛用しながら、切望しながら、熱望しながら、渇望しながら、わめきつつ、叫喚しつつ、雄叫びをあげつつ、行く、近づく、近しく赴く。ということで、「敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように」。

 

 [644]「勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところに、そこに去り行きなさい」とは、まさしく、その悪しき見解ある者のいるところに、そこに去り行きなさい、そこに行きなさい、そこに赴きなさい、そこに超え行きなさい。彼は、あなたにとって、敵の勇士であり、敵の人士であり、敵の兵士であり、敵の力士である。ということで、「勇士よ、まさしく、彼のいるところに、そこに去り行きなさい」。

 

 [645]「〔ここには〕戦いのための〔契機となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い〕は、まさしく、過去において〔消滅し〕、存在しないのです」とは、まさしく、過去において、菩提〔樹〕の根元において、それらの、敵視を為すものであり、反逆を為すものであり、対抗を為すものであり、相反を為すものである、諸々の〔心の〕汚れは、〔もはや〕それらは、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。「戦いのための〔契機となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い〕」とは、すなわち、この、戦いを義(目的)として、紛争を義(目的)として、言争を義(目的)として、口論を義(目的)として、論争を義(目的)として、確執を義(目的)として。ということで、「〔ここには〕戦いのための〔契機となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い〕は、まさしく、過去において〔消滅し〕、存在しないのです」。

 

 [646]それによって、世尊は言った。

 

 [647]「たとえば、王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が、敵の勇士を求めながら、雄叫びをあげつつ行くように、勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところに、そこに去り行きなさい。〔ここには〕戦いのための〔契機となる〕、〔まさに〕その、『これ』〔という思い〕は、まさしく、過去において〔消滅し〕、存在しないのです(「これこそが、真理である」と主張するための「これ」という思いは、もはや存在しない)」と。

 

67.

 

 [648]838.(832) すなわち、〔特定の〕見解に執持して論争し、そして、「これこそが、真理である」と説く、それらの者たちに、あなたは説きなさい。ここに、それらの者たちは、まさに、存在しません──論が生じたとき、敵視を為す者たちは。(9)

 

 [649]「すなわち、〔特定の〕見解に執持して論争し」とは、すなわち、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、収め取って、収取して、執持して、偏執して、固着して、論争し、紛争を為し、言争を為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「すなわち、〔特定の〕見解に執持して論争し」。

 

 [650]「そして、『これこそが、真理である』と説く」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「そして、『これこそが、真理である』と説く」。

 

 [651]「それらの者たちに、あなたは説きなさい。ここに、それらの者たちは、まさに、存在しません──論が生じたとき、敵視を為す者たちは」とは、それらの悪しき見解ある者たちに、あなたは説きなさい──論によって、論を、批判〔の論〕によって、批判〔の論〕を、反駁〔の論〕によって、反駁〔の論〕を、特別〔の論〕によって、特別〔の論〕を、特化〔の論〕によって、特化〔の論〕を、独特〔の論〕によって、独特〔の論〕を、弁明〔の論〕によって、弁明〔の論〕を、要約〔の論〕によって、要約〔の論〕を、総合〔の論〕によって、総合〔の論〕を。それらの者たちは、あなたにとって、敵の勇士たちであり、敵の人士たちであり、敵の兵士たちであり、敵の力士たちである。ということで、「それらの者たちに、あなたは説きなさい。ここに、それらの者たちは、まさに、存在しません」。「論が生じたとき、敵視を為す者たちは」とは、論が、まさしく、生じたとき、産出したとき、発現したとき、結実したとき、出現したとき、敵視を為す者たちは、反逆を為す者たちは、対抗を為す者たちは、相反を為す者たちは、紛争を為し、言争を為し、口論を為し、論争を為し、確執を為すであろうが、彼らは、〔ここには〕存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「それらの者たちに、あなたは説きなさい。ここに、それらの者たちは、まさに、存在しません──論が生じたとき、敵視を為す者たちは」。

 

 [652]それによって、世尊は言った。

 

 [653]「すなわち、〔特定の〕見解に執持して論争し、そして、『これこそが、真理である』と説く、それらの者たちに、あなたは説きなさい。ここに、それらの者たちは、まさに、存在しません──論が生じたとき、敵視を為す者たちは」と。

 

68.

 

 [654]839.(833) また、すなわち、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩み、諸々の見解によって見解を遮られることがない者たちがいます。パスーラよ、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう──彼らには、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないのです。(10)

 

 [655]「また、すなわち、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩み」とは、敵は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿激は……。怨恨は……。偽装は……。加虐は……。嫉妬は……。物惜は……。幻惑は……。狡猾は……。強情は……。激昂は……。思量は……。高慢は……。驕慢は……。放逸は……。一切の〔心の〕汚れは……。一切の悪しき行ないは……。一切の懊悩は……。一切の苦悶は……。一切の熱苦は……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。

 

 [656]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [657]〔そこで、詩偈に言う〕「おまえの第一の軍団は、『欲望』であり、第二〔の軍団〕は、『不満』と説かれる。……略([331-334]参照)……勇士ならざる者は、それに勝利せず、しかしながら、〔勇士は、それに〕勝利して、安楽を得る」と。

 

 [658]すなわち、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、そして、一切の悪魔の軍団が、さらに、一切の敵視を為す〔心の〕汚れが、そして、敗れ、さらに、敗北し、滅壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、それによって説かれる。「〔一切にたいし〕敵視を為さずして」と。「すなわち」とは、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち。「〔世を〕歩み」とは、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「また、すなわち、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩み」。

 

 [659]「諸々の見解によって見解を遮られることがない者たちがいます」とは、彼らの、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼らは、諸々の見解によって見解を、遮られずにいる者たちであり、激しく遮られずにいる者たちであり、捨棄されずにいる者たちであり、打ちのめされずにいる者たちであり、打破されずにいる者たちである。ということで、「諸々の見解によって見解を遮られることがない者たちがいます」。

 

 [660]「パスーラよ、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう」とは、彼らにたいし、阿羅漢たちにたいし、煩悩の滅尽者たちにたいし、どのような、敵の勇士を、敵の人士を、敵の兵士を、敵の力士を、得るというのだろう。ということで、「パスーラよ、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう」。

 

 [661]「彼らには、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないのです」とは、彼らには、阿羅漢たちには、煩悩の滅尽者たちには、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼らには、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないのです」。

 

 [662]それによって、世尊は言った。

 

 [663]「また、すなわち、〔一切にたいし〕敵視を為さずして〔世を〕歩み、諸々の見解によって見解を遮られることがない者たちがいます。パスーラよ、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう──彼らには、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないのです」と。

 

69.

 

 [664]840.(834) そこで、あなたは、〔何かを〕尋ね求めつつ、〔ここに〕やってきました──意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら。清き者(ブッダ)とともに、〔あなたは、論争という〕軛(くびき)を装着しました。まさに、あなたは、〔それゆえに、もはや〕進み行くことができないのです。(11)

 

 [665]「そこで、あなたは、〔何かを〕尋ね求めつつ、〔ここに〕やってきました」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「〔何かを〕尋ね求めつつ、〔ここに〕やってきました」とは、〔何かを〕考えながら、〔何かを〕思考しながら、〔何かを〕思惟しながら。「いったい、まさに、わたしに、勝利が有るのだろうか」「いったい、まさに、わたしに、敗北が有るのだろうか」「どのように、批判〔の論〕を為そうか」「どのように、反駁〔の論〕を為そうか」「どのように、特別〔の論〕を為そうか」「どのように、特化〔の論〕を為そうか」「どのように、独特〔の論〕を為そうか」「どのように、弁明〔の論〕を為そうか」「どのように、要約〔の論〕を為そうか」「どのように、総合〔の論〕を為そうか」と、このように、〔何かを〕考えながら、〔何かを〕思考しながら、〔何かを〕思惟しながら、〔ここに〕やってきた者として、〔あなたは〕存している、〔ここに〕近しく赴いた者として、〔あなたは〕存している、〔ここに〕得達した者として、〔あなたは〕存している、わたしと共に〔論争という軛を〕装着した者として、〔あなたは〕存している。ということで、「そこで、あなたは、〔何かを〕尋ね求めつつ、〔ここに〕やってきました」。

 

 [666]「意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら」とは、「意」とは、すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。心で、見解を──あるいは、「世〔界〕は、常久である」と、あるいは、「世〔界〕は、常久ではない」と……略([226]参照)……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と──思い考えながら、熟慮しながら。ということで、「意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら」。

 

 [667]「清き者(ブッダ)とともに、〔あなたは、論争という〕軛(くびき)を装着しました。まさに、あなたは、〔それゆえに、もはや〕進み行くことができないのです」とは、清きは、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、智慧と説かれるのか。その智慧によって、身体による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、言葉による悪しき行ないが……略([266]参照)……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。それを契機とすることから、清きは、智慧と説かれる。さらに、あるいは、正しい見解によって、誤った見解が……正しい思惟によって、誤った思惟が……略([267]参照)……正しい解脱によって、誤った解脱が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。さらに、あるいは、聖なる八つの支分ある道によって、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。世尊は、これらの清き法(性質)を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方であり、それゆえに、世尊は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した方であり、悪を払拭した方であり、〔心の〕汚れを払拭した方であり、苦悶を払拭した方である。ということで、「清き者」。

 

 [668]「清き者(ブッダ)とともに、〔あなたは、論争という〕軛を装着しました。まさに、あなたは、〔それゆえに、もはや〕進み行くことができないのです」とは、パスーラ遍歴遊行者は、清き者にして覚者たる世尊と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持して、論議するための、談論するための、論議に入定するための、能力がない。それは、何を因とするのか。パスーラ遍歴遊行者は、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小であるからである。まさに、彼は、世尊は、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、殊勝であり、かつまた、筆頭であり、かつまた、最上であり、かつまた、最も優れた方である。たとえば、兎が、発情した象と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持するための能力がないように、たとえば、野狐が、獣の王たる獅子と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持するための能力がないように、たとえば、乳を飲む幼い子牛が、こぶある雄牛と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持するための能力がないように、たとえば、烏が、ヴェーナテイヤたるガルラ(金翅鳥)と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持するための能力がないように、たとえば、チャンダーラ(旃陀羅:賎民・非人)が、転輪王と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持するための能力がないように、たとえば、泥鬼が、天の王たるインダ(インドラ神)と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持するための能力がないように、まさしく、このように、パスーラ遍歴遊行者は、清き者にして覚者たる世尊と共に、軛の装着を装着して、軛の把持を把持して、論議するための、談論するための、論議に入定するための、能力がない。それは、何を因とするのか。パスーラ遍歴遊行者は、下劣の智慧ある者であり、劣悪の智慧ある者であり、下等の智慧ある者であり、悪辣の智慧ある者であり、劣小の智慧ある者であり、微小の智慧ある者であるからである。まさに、彼は、世尊は、偉大なる智慧ある方であり、多々なる智慧ある方であり、敏速なる智慧ある方であり、疾走する智慧ある方であり、鋭敏なる智慧ある方であり、洞察の智慧ある方であり、智慧の細別に巧みな智ある方であり、細別された知恵ある方であり、融通無礙に到達した方であり、四つの離怖に至り得た方であり、十の力を保持する方であり、人の雄牛たる方であり、人の獅子たる方であり、人の龍象たる方であり、人の良馬たる方(善き生まれの者)であり、人の荷牛たる方(忍耐強き者)であり、終極なき知恵ある方であり、終極なき威光ある方であり、終極なき福徳ある方であり、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方であり、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、浄信させる方である。まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住む、彼の弟子たちは、のちに、〔教えを〕具備した者たちとなる。

 

 [669]まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る、〔世の〕眼と成った方であり、〔世の〕知恵と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、〔いまだ〕知られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見出されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕実証されていないものは〔存在せず〕、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(事象)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの(未了義のもの)が、まさに、存在するなら、〔その〕法(性質)は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義(利益)が、あるいは、他者の義(利益)が、あるいは、両者の義(利益)が、あるいは、所見の法(現法:現世)の義(利益)が、あるいは、未来の義(利益)が、あるいは、明瞭なる義(利益)が、あるいは、深遠なる義(利益)が、あるいは、秘密にされた義(利益)が、あるいは、隠蔽された義(利益)が、あるいは、導かれるべき義(利益)が、あるいは、導かれた義(利益)が、あるいは、罪過なきものの義(利益)が、あるいは、〔心の〕汚れなきものの義(利益)が、あるいは、浄化の義(利益)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(利益)が、その全てが、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [670]一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の言葉の行為は、〔覚者たる世尊の〕知恵に遍く随転し、一切の意の行為は、〔覚者たる世尊の〕知恵に遍く随転する。覚者たる世尊の知恵は、過去において、打破されざるものとしてあり、未来において、打破されざるものとしてあり、現在において、打破されざるものとしてある。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を極限の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、かつまた、導かれるべきものも、かつまた、知恵も、互いに他を極限の境位とするものとなる。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。一切の法(事象)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。

 

 [671]一切の法(事象)は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することに連結したものとしてあり、望みに連結したものとしてあり、意を為すことに連結したものとしてあり、心の生起に連結したものとしてある。一切の有情たちにおいて、覚者たる世尊の知恵は転起する。そして、世尊は、一切の有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、可能なる者たちとして、可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [672]たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。たとえば、それらが何であれ、翼あるものたち(鳥類)が、もしくは、ヴェーナテイヤたるガルラ(金翅鳥)を加え含めて、虚空の分際(天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、智慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の分際において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕と人間たちの智慧を、充満して〔止住し〕、凌駕して止住する。

 

 [673]すなわち、また、それらの、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちであり、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩むも、彼らは、諸々の問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に(※)尋ねる──そして、諸々の秘密にされたものを、さらに、諸々の隠蔽されたものを。それらの問いは、世尊によって、言説され、まさしく、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。そして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。そこで、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる──すなわち、この、智慧によって。ということで、「清き者とともに、〔あなたは、論争という〕軛を装着しました。まさに、あなたは、〔それゆえに、もはや〕進み行くことができないのです」。

 

※ テキストには tathāgate とあるが、PTS版により tathāgata と読む。

 

 [674]それによって、世尊は言った。

 

 [675]「そこで、あなたは、〔何かを〕尋ね求めつつ、〔ここに〕やってきました──意によって、諸々の悪しき見解を思い考えながら。清き者(ブッダ)とともに、〔あなたは、論争という〕軛(くびき)を装着しました。まさに、あなたは、〔それゆえに、もはや〕進み行くことができないのです」と。

 

 [676]パスーラの経についての釈示が、第八となる。

 

1. 9. マーガンディヤの経についての釈示

 

 [677]そこで、マーガンディヤの経についての釈示を説くであろう。

 

70.

 

 [678]841.(835) 〔世尊は言った〕──渇愛(タンハー)を、不満(アラティ)を、さらに、貪欲(ラガー)を、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫事にたいする欲〔の思い〕さえも有りませんでした。この糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません。(1)

 

 [679]「渇愛(タンハー)を、不満(アラティ)を、さらに、貪欲(ラガー)を、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫事にたいする欲〔の思い〕さえも有りませんでした」とは、そして、渇愛(タンハー)を、かつまた、不満(アラティ)を、さらに、貪欲(ラガー)を、〔これらの名をもつ〕悪魔の娘たちを、見て〔そののち〕、観て〔そののち〕、淫事の法(性質)にたいする、あるいは、欲〔の思い〕は、あるいは、貪欲は、あるいは、愛情は、有ることなくあった。ということで、「渇愛を、不満を、さらに、貪欲を、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫事にたいする欲〔の思い〕さえも有りませんでした」。

 

 [680]「この糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」とは、尿に満ち、糞に満ち、痰に満ち、血に満ち、骨の群結と腱の連結、血と肉の塗装、皮の結合にして、表皮に覆われ、種々の穴があり、〔不浄物が〕滲み出ては流れ出ている、虫の群れの慣れ親しむところ、種々なる汚垢に遍く満ちた、この肉体が、まさしく、何だというのだろう。足でさえも、〔それを〕踏むことを求めない。また、どうして、あるいは、共住が、あるいは、共合が。ということで、「この糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」。〔対話者であるマーガンディヤは〕「さてまた、これは、稀有ならざることです──諸々の天の欲望〔の対象〕を切望している人間が、諸々の人間の欲望〔の対象〕を求めないのは、あるいは、諸々の人間の欲望〔の対象〕を切望している〔人間〕が、諸々の天の欲望〔の対象〕を求めないのは。すなわち、あなたは、両者ともどもに、欲求せず、愛用せず、切望せず、熱望せず、渇望しません。どのような見が、あなたにあるのですか、どのような見解を具備した者として、あなたはあるのですか」と、〔世尊に〕尋ねる。ということで──

 

 [681]それによって、世尊は言った。

 

 [682]〔世尊は言った〕──「渇愛(タンハー)を、不満(アラティ)を、さらに、貪欲(ラガー)を、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、〔わたしには〕淫事にたいする欲〔の思い〕さえも有りませんでした。この糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」と。

 

71.

 

 [683]842.(836) 〔マーガンディヤが尋ねた〕──もし、〔あなたが〕このような宝を求めないなら、〔すなわち〕多くの人のインダ(国王)たちに切望された女性〔という宝〕を〔求めないなら〕、悪しき見解を、戒や掟を、生命(生き方)を、さらに、〔迷いの〕生存への再生を、いったい、〔あなたは〕どのようなものと説くのですか。(2)

 

72.

 

 [684]843.(837) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──マーガンディヤよ、「〔わたしは〕これを説く」という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して、さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして、〔常に正しく〕弁別している者として、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです。(3)

 

 [685]「『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません」とは、「〔わたしは〕これを説く」とは、〔わたしは〕これを説く、〔わたしは〕このことを説く、〔わたしは〕これだけを説く、〔わたしは〕これだけで説く、〔わたしは〕この悪しき見解を説く──あるいは、「世〔界〕は、常久である」と……略([226]参照)……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と。「彼には有りません」とは、わたしには有りません。「〔わたしは〕これだけで説く」という〔執着は〕、彼には有りません。ということで、「『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼には有りません」。

 

 [686]「マーガンディヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる通称であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──マーガンディヤよ」。

 

 [687]「諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」とは、「諸々の法(見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔執着の対象と〕判別して」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。限界あるものの収取、片々のものの収取、優れたものの収取、部位のものの収取、積集のものの収取、等しき積集のものの収取は、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、〔もはや〕存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」。

 

 [688]「さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして」とは、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。さらに、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして」。

 

 [689]さらに、あるいは、「『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、これは、見解の成立(悪しき見解)であり、見解の捕捉であり、見解の難所であり、見解の狂騒であり、見解の紛糾であり、見解の束縛であり、苦痛を有するものであり、悩苦を有するものであり、葛藤を有するものであり、苦悶を有するものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起する」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。さらに、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして」。

 

 [690]さらに、あるいは、「『世〔界〕は、常久ではない。……。「『世〔界〕は、終極がある。……。「『世〔界〕は、終極がない。……。「『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)。……。「『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「『如来は、死後に有る。……。「『如来は、死後に有ることがない。……。「『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、これは、見解の成立(悪しき見解)であり、見解の捕捉であり、見解の難所であり、見解の狂騒であり、見解の紛糾であり、見解の束縛であり、苦痛を有するものであり、悩苦を有するものであり、葛藤を有するものであり、苦悶を有するものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起する」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。さらに、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして」。

 

 [691]さらに、あるいは、「これらの見解を、このように収取した者たちは、このように偏執した者たちは、このような境遇の者たちと成るであろう、このような未来の運命ある者たちと〔成るであろう〕」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。さらに、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして」。

 

 [692]さらに、あるいは、「これらの見解は、地獄のために等しく転起するものであり、畜生の胎のために等しく転起するものであり、餓鬼の境域のために等しく転起するものである」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。さらに、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして」。

 

 [693]さらに、あるいは、「これらの見解は、無常なるものであり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である」と、諸々の見解について、危険を見ている者として、諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない。さらに、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして」。

 

 [694]「〔常に正しく〕弁別している者として、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」とは、「内なる寂静を」とは、内なる、貪欲の寂静を、憤怒の寂静を、迷妄の寂静を、忿激の……怨恨の……偽装の……加虐の……嫉妬の……物惜の……幻惑の……狡猾の……強情の……激昂の……思量の……高慢の……驕慢の……放逸の……一切の〔心の〕汚れの……一切の悪しき行ないの……一切の懊悩の……一切の苦悶の……一切の熱苦の……一切の善ならざる行作の、静まりを、寂静を、寂止を、寂滅を、安息を(※)。「〔常に正しく〕弁別している者として」とは、選別している者として、弁別している者として、精査している者として、比較している者として、推量している者として、分明している者として、明確と為している者として。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、選別している者として、弁別している者として、精査している者として、比較している者として、推量している者として、分明している者として、明確と為している者として。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、選別している者として、弁別している者として、精査している者として……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、選別している者として、弁別している者として、精査している者として、比較している者として、推量している者として、分明している者として、明確と為している者として。「見たのです」とは、〔わたしは〕見た、〔わたしは〕視認した、〔わたしは〕観た、〔わたしは〕理解した。ということで、「〔常に正しく〕弁別している者として、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」。

 

※ テキストには paipassaddhi santi とあるが、PTS版により santi を削除する。

 

 [695]それによって、世尊は言った。

 

 [696]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「マーガンディヤよ、『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して、さらに、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして、〔常に正しく〕弁別している者として、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」と。

 

73.

 

 [697]844.(838) かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕──それら〔の見解〕が、〔執持の対象として〕想い描かれた、諸々の〔断定的〕判断であるとして、牟尼よ、まさに、それらに執持せずして、〔あなたは〕説きます──「内なる寂静」という、〔まさに〕その、この義(意味)を。それは、慧者たちによって、いったい、どのように知らされたのですか。(4)

 

 [698]「それら〔の見解〕が、〔執持の対象として〕想い描かれた、諸々の〔断定的〕判断であるとして」とは、諸々の〔断定的〕判断は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての〔断定的〕判断である。「〔執持の対象として〕想い描かれた」とは、諸々の想い描かれたもの、諸々の妄想されたもの、諸々の行作されたもの、諸々の確立されたもの、ということでもまた、「〔執持の対象として〕想い描かれた」。さらに、あるいは、諸々の無常なるもの、諸々の形成されたもの、諸々の縁によって生起したもの、諸々の滅尽の法(性質)、諸々の衰失の法(性質)、諸々の離貪の法(性質)、諸々の止滅の法(性質)、諸々の変化の法(性質)、ということでもまた、「〔執持の対象として〕想い描かれた」。ということで、「それら〔の見解〕が、〔執持の対象として〕想い描かれた、諸々の〔断定的〕判断であるとして」。

 

 [699]「かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「マーガンディヤ」とは、その婆羅門の、名前としての、名称、呼称、通称、語用。ということで、「かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕」。

 

 [700]「牟尼よ、まさに、それらに執持せずして、〔あなたは〕説きます──『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を」とは、「まさに、それらに」とは、六十二の悪しき見解に。「牟尼(ムニ)よ」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「執持せずして」とは、諸々の見解について、危険を見ている者として、そして、「諸々の見解を、〔わたしは〕収取しない、〔わたしは〕偏執しない、〔わたしは〕固着しない」と、〔あなたは〕話し、さらに、「〔わたしには〕内なる寂静がある」と、〔あなたは〕話す。「〔まさに〕その、この義(意味)を」とは、すなわち、最高の義(勝義:最高の真実)としては。ということで、「牟尼よ、まさに、それらに執持せずして、〔あなたは〕説きます──『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を」。

 

 [701]「それは、慧者たちによって、いったい、どのように知らされたのですか」とは、「いったい、どのように」とは、疑念についての問い(※)、疑問についての問い、二様のものについての問い、多様のものについての問い。「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」〔と〕。ということで、「いったい、どのように」。「慧者たちによって」とは、慧者たちによって、賢者たちによって、智慧ある者たちによって、覚慧ある者たちによって、知恵ある者たちによって、分明ある者たちによって、思慮ある者たちによって。「知らされたのですか」とは、知らされたのですか、知らしめられたのですか、告げ知らされたのですか、説示されたのですか、報知されたのですか、確立されたのですか、開顕されたのですか、区分されたのですか、明瞭と為されたのですか、明示されたのですか。ということで、「それは、慧者たちによって、いったい、どのように知らされたのですか」。

 

※ テキストには pada sasayapucchā とあるが、PTS版により pada を削除する。

 

 [702]それによって、その婆羅門が言った。

 

 [703]かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕──「それら〔の見解〕が、〔執持の対象として〕想い描かれた、諸々の〔断定的〕判断であるとして、牟尼よ、まさに、それらに執持せずして、〔あなたは〕説きます──『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を。それは、慧者たちによって、いったい、どのように知らされたのですか」と。

 

74.

 

 [704]845.(839) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──マーガンディヤよ、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何にも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです。(5)

 

 [705]「〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」とは、見られたもの(見解)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、聞かれたもの(伝承)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、見られたものと聞かれたもの(見解と伝承)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、知恵によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」。

 

 [706]「マーガンディヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる通称であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──マーガンディヤよ」。

 

 [707]「戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです」とは、戒によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、戒と掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです」。

 

 [708]「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです」とは、見解もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。「(1)布施された〔施物の果〕は存在する。(2)祭祀された〔供物の果〕は存在する。(3)捧げられたもの〔の果〕は存在する。(4)諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する。(5)この世は存在する。(6)他の世は存在する。(7)母は存在する。(8)父は存在する。(9)化生の有情たちは存在する。(10)すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する」という、十の基盤(根拠)ある、正しい見解である。聴聞もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。他者から〔伝え聞く〕話としての、経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)である。知恵もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。行為を自らのものとする知恵、真理に随順する知恵、神知の知恵、入定の知恵である。戒もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御である。掟もまた、〔正しいものは〕求められるべきである。「林にある者についての支分、〔行乞の〕施食の者についての支分、糞掃衣の者についての支分、三つの衣料の者についての支分、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者についての支分、〔規定された食〕以後の食を否とする者についての支分、常坐〔にして不臥〕なる者についての支分、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者についての支分」という、八つの払拭〔行〕(頭陀)の支分である。

 

 [709]「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです」とは、〔人が〕内なる寂静に至り得た者と成るのは、正しい見解のみによってでもまたなく、聴聞のみによってでもまたなく、知恵のみによってでもまたなく、戒のみによってでもまたなく、掟のみによってでもまたなく、これらの法(性質)なくして、内なる寂静に至り得ることもまたない。さらに、また、これらの法(性質)は、内なる寂静に、至り得るための、到達するための、体得するための、実証するための、資糧と成る。ということで、「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです」。

 

 [710]「そして、これらを放棄して、執持せずして」とは、「これらを」とは、根絶〔の観点〕から、諸々の黒の項目の法(性質)の捨棄が求められるべきであり、三つの界域(三界)に属する諸々の善なる法(性質)については、それに関わらない〔あり方〕が求められるべきである。すなわち、諸々の黒の項目の法(性質)は、根絶の捨棄によって、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、かつまた、三つの界域に属する諸々の善なる法(性質)については、それに関わらない〔あり方〕が有ることから、このことからもまた、〔彼は〕収取しない、〔彼は〕偏執しない、〔彼は〕固着しない。さらに、あるいは、〔諸々の見解は〕収取されるべきではない、〔諸々の見解は〕偏執されるべきではない、〔諸々の見解は〕固着されるべきではない。ということで、このようにもまた、「そして、これらを放棄して、執持せずして」。すなわち、かつまた、渇愛も、かつまた、見解も、かつまた、思量も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、ということで、このことからもまた、〔彼は〕収取しない、〔彼は〕偏執しない、〔彼は〕固着しない。ということで、このようにもまた、「そして、これらを放棄して、執持せずして」。

 

 [711]すなわち、かつまた、功徳ある行作(善果を形成する働き)も、かつまた、功徳なき行作(悪果を形成する働き)も、かつまた、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、ということで、このことからもまた、〔彼は〕収取しない、〔彼は〕偏執しない、〔彼は〕固着しない。ということで、このようにもまた、「そして、これらを放棄して、執持せずして」。

 

 [712]「〔心が〕寂静となり、〔何にも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」とは、「〔心が〕寂静となり」とは、貪欲が静められたことから、寂静となった者となり、憤怒が静められたことから、寂静となった者となり、迷妄が静められたことから、寂静となった者となり、忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「〔心が〕寂静となり」。

 

 [713]「〔何にも〕依存せずして」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依所である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依所である。渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存せずして、耳に依存せずして、鼻に依存せずして、舌に依存せずして、身に依存せずして、意に依存せずして、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……利得に……盛名に……賞賛に……安楽に……衣料に……〔行乞の〕施食に……臥坐具に……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)に……欲望の界域(欲界)に……形態の界域(色界)に……形態なき界域(無色界)に……欲望の生存(欲有)に……形態の生存(色有)に……形態なき生存(無色有)に……表象の生存(想有)に……表象なき生存(無想有)に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)に……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)に……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)に……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)に……過去に……未来に……現在に……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依存せずして、収取せずして、偏執せずして、固着せずして。ということで、「〔心が〕寂静となり、〔何にも〕依存せずして」。「〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」とは、欲望の生存を渇望するべきではなく、形態の生存を渇望するべきではなく、形態なき生存を、渇望するべきではなく、強く渇望するべきではなく、固く渇望するべきではない。ということで、「〔心が〕寂静となり、〔何にも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」。

 

 [714]それによって、世尊は言った。

 

 [715]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「マーガンディヤよ、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何にも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」と。

 

75.

 

 [716]846.(840) かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕──もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら、〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を信受します。(6)

 

 [717]「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」とは、見られたもの(見解)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった、聞かれたもの(伝承)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を……見られたものと聞かれたもの(見解と伝承)によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を……知恵によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず」。

 

 [718]「かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([246]参照)……。「マーガンディヤ」とは、その婆羅門の、名前としての……略([699]参照)……。ということで、「かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕」。

 

 [719]「戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら」とは、戒によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を……略……掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を……略……戒と掟によってもまた、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、〔慧者は〕言わなかった、〔慧者は〕言説しなかった、〔慧者は〕発語しなかった、〔慧者は〕提示しなかった、〔慧者は〕語用しなかった。ということで、「戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら」。

 

 [720]「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら」とは、「見解もまた、〔正しいものは〕求められるべきである」と、このように、〔あなたは〕話し、「聴聞もまた、〔正しいものは〕求められるべきである」と、このように、〔あなたは〕話し、「知恵もまた、〔正しいものは〕求められるべきである」と、このように、〔あなたは〕話し、一定して承認することが、〔あなたは〕できない、一定して拒絶することもまた、〔あなたは〕できない。ということで、「〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら」。

 

 [721]「わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです」とは、「あなたには、この、迷愚の法(教え)があり、愚者の法(性質)があり、迷乱の法(性質)があり、無知の法(性質)があり、詭弁の法(性質)がある」と、このように、〔わたしは〕思う、このように、〔わたしは〕知る、このように、〔わたしは〕了知する、このように、〔わたしは〕識知する、このように、〔わたしは〕解知する、このように、〔わたしは〕理解する。ということで、「わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです」。

 

 [722]「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」とは、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって(※)、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。ということで、「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」。

 

※ テキストには Suddhidiṭṭhiyā とあるが、PTS版により Diṭṭhiyā と読む。

 

 [723]それによって、その婆羅門が言った。

 

 [724]かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕──「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら、〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を信受します」と。

 

76.

 

 [725]847.(841) かくのごとく、世尊は〔言った〕──マーガンディヤよ、つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです。諸々の執持されたものにたいする迷妄に陥り、そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(:概念・心象)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕「迷愚である」と決め付けるのです。(7)

 

 [726]「つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです」とは、マーガンディヤ婆羅門は、見解に依存して、見解を尋ね、付着に依存して、付着を尋ね、結縛に依存して、結縛を尋ね、障害に依存して、障害を尋ねる。「問い尋ねているのです」とは、繰り返し尋ねる。ということで、「つまり、〔あなたは〕見解に依存して問い尋ねているのです」。

 

 [727]「マーガンディヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる通称であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──マーガンディヤよ」。

 

 [728]「諸々の執持されたものにたいする迷妄に陥り」とは、すなわち、その見解が、あなたによって、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたなら、あなたは、まさしく、その見解によって、迷乱した者として〔世に〕存し、遍く迷乱した者として〔世に〕存し、等しく迷乱した者として〔世に〕存し、迷妄に陥った者として〔世に〕存し、強き迷妄に陥った者として〔世に〕存し、等しき迷妄に陥った者として〔世に〕存し、暗黒に跳入した者として〔世に〕存している。ということで、「諸々の執持されたものにたいする迷妄に陥り」。

 

 [729]「そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象()を、微塵でさえも見なかったのです」とは、この〔法〕から、あるいは、内なる寂静から、あるいは、〔実践の〕道から、あるいは、法(教え)の説示から、〔正しく〕結び付いた表象を、〔正しく〕得た表象を、〔正しい〕特相の表象を、〔正しい〕契機の表象を、〔正しい〕拠点の表象を、獲得しない。どうして、知恵を〔獲得するというのだろう〕。ということで、このようにもまた、「そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象を、微塵でさえも見なかったのです」。さらに、あるいは、あるいは、無常を、あるいは、無常の表象に随順するものを、あるいは、苦痛を、あるいは、苦痛の表象に随順するものを、あるいは、無我を、あるいは、無我の表象に随順するものを、獲得しない。どうして、知恵を〔獲得するというのだろう〕。ということで、このようにもまた、「そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象を、微塵でさえも見なかったのです」。

 

 [730]「それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。迷愚の法(性質)〔の観点〕から、愚者の法(性質)〔の観点〕から、迷乱の法(性質)〔の観点〕から、無知の法(性質)〔の観点〕から、詭弁の法(性質)〔の観点〕から、〔あなたは〕決め付ける、〔あなたは〕見る、〔あなたは〕視認する、〔あなたは〕注目する、〔あなたは〕凝視する、〔あなたは〕近しく注視する。ということで、「それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです」。

 

 [731]それによって、世尊は言った。

 

 [732]かくのごとく、世尊は〔言った〕──「マーガンディヤよ、つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです。諸々の執持されたものにたいする迷妄に陥り、そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(:概念・心象)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです」と。

 

77.

 

 [733]848.(842) 「等しい」「勝る」、あるいは、また、「劣る」〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでしょう。〔しかしながら、これらの〕三つの様相について〔心が〕動かずにいるなら、「等しい」「勝る」という〔思いは〕、彼には有りません。(8)

 

 [734]「『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでしょう」とは、あるいは、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その思量によって、その見解によって、あるいは、その人とともに、紛争を為すであろう、言争を為すであろう、口論を為すであろう、論争を為すであろう、確執を為すであろう。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでしょう」。

 

 [735]「〔しかしながら、これらの〕三つの様相について〔心が〕動かずにいるなら、『等しい』『勝る』という〔思いは〕、彼には有りません」とは、彼の、これらの三つの様相〔の思い〕が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔これらの〕三つの様相について、〔心が〕動かず、〔心が〕動揺しない。〔心が〕動かずにいる人には、あるいは、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と。「彼には有りません」とは、わたしには有ることがない。ということで、「〔しかしながら、これらの〕三つの様相について〔心が〕動かずにいるなら、『等しい』『勝る』という〔思いは〕、彼には有りません」。

 

 [736]それによって、世尊は言った。

 

 [737]「『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでしょう。〔しかしながら、これらの〕三つの様相について〔心が〕動かずにいるなら、『等しい』『勝る』という〔思いは〕、彼には有りません」と。

 

78.

 

 [738]849.(843) 〔真の〕婆羅門たる彼は、「〔これこそ〕真理である」と、何を説くというのでしょう。あるいは、彼は、「〔それは〕虚偽である」と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう。あるいは、また、彼のうちに、「等しい」「等しくない」〔という思い〕が存在しないなら、彼は、何によって、論に関わるというのでしょう。(9)

 

 [739]「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、何を説くというのでしょう」とは、「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。……略([299-300]参照)……〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、何を説くというのでしょう」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔真の〕婆羅門は、何を説くというのだろう、何を言説するというのだろう、何を発語するというのだろう、何を提示するというのだろう、何を語用するというのだろう。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔真の〕婆羅門は、何を説くというのだろう、何を言説するというのだろう、何を発語するというのだろう、何を提示するというのだろう、何を語用するというのだろう。ということで、「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、何を説くというのでしょう」。

 

 [740]「あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう」とは、〔真の〕婆羅門は、「わたしの〔見解〕こそ、真理である。あなたの〔見解は〕、虚偽である」と、どのような思量によって、どのような見解によって、あるいは、どのような人とともに、紛争を為すというのだろう、言争を為すというのだろう、口論を為すというのだろう、論争を為すというのだろう、確執を為すというのだろう。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう」。

 

 [741]「あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら」とは、「彼のうちに」とは、その人のうちに、阿羅漢のうちに、煩悩の滅尽者のうちに。「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量が存在せず、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量が存在せず、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という卑下慢が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら」。

 

 [742]「彼は、何によって、論に関わるというのでしょう」とは、彼は、どのような思量によって、どのような見解によって、あるいは、どのような人ともに、論に、関わるというのだろう、加わるというのだろう、紛争を為すというのだろう、言争を為すというのだろう、口論を為すというのだろう、論争を為すというのだろう、確執を為すというのだろう。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「彼は、何によって、論に関わるというのでしょう」。

 

 [743]それによって、世尊は言った。

 

 [744]「〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、何を説くというのでしょう。あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう。あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら、彼は、何によって、論に関わるというのでしょう」と。

 

79.

 

 [745]850.(844) 家を捨棄して、住所なくして行く者──牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何も〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです。(10)

 

 [746]そこで、まさに、ハーリッダカーニ家長が、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行った。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを敬拝して、一方に坐った。一方に坐った、まさに、ハーリッダカーニ家長は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言った。「尊き方よ、カッチャーナよ、この〔言葉〕が、『八なるものの章』(スッタニパータ第四章)におけるマーガンディヤの問いにおいて、世尊によって説かれました。

 

 [747]〔すなわち〕『家を捨棄して、住所なくして行く者──牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何も〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです』と。

 

 [748]尊き方よ、カッチャーナよ、いったい、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。

 

 [749]〔尊者マハー・カッチャーナは答えた〕「家長よ、まさに、形態の界域は、識知〔作用〕にとっての家です。また、そして、形態の界域にたいする貪り〔の思い〕による結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、まさに、感受〔作用〕の界域は……。家長よ、まさに、表象〔作用〕の界域は……。家長よ、まさに、諸々の形成〔作用〕の界域は、識知〔作用〕にとっての家です。また、そして、諸々の形成〔作用〕の界域にたいする貪り〔の思い〕による結縛としての識知〔作用〕は、『家ありて行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、家ありて行く者と成ります。

 

 [750]家長よ、では、どのように、家なくして行く者と成るのですか。家長よ、まさに、形態の界域にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、如来の、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『家なくして行く者』と説かれます。家長よ、まさに、感受〔作用〕の界域にたいし……。家長よ、まさに、表象〔作用〕の界域にたいし……。家長よ、まさに、諸々の形成〔作用〕の界域にたいし……。家長よ、まさに、識知〔作用〕の界域にたいし、それが、欲〔の思い〕としてあるなら、それが、貪り〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近と執取としてあるなら、心の確立としてあるなら、固着と悪習としてあるなら、如来の、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『家なくして行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、家なくして行く者と成ります。

 

 [751]家長よ、では、どのように、住所ありて行く者と成るのですか。家長よ、まさに、形態の形相にたいし住所ありて行く結縛あることから、『住所ありて行く者』と説かれます。家長よ、まさに、音声の形相にたいする……。家長よ、まさに、臭気の形相にたいする……。家長よ、まさに、味感の形相にたいする……。家長よ、まさに、感触の形相にたいし住所ありて行く結縛あることから、まさに……。家長よ、法(意の対象)の形相にたいし住所ありて行く結縛あることから、まさに、『住所ありて行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、住所ありて行く者と成ります。

 

 [752]家長よ、では、どのように、住所なくして行く者と成るのですか。家長よ、まさに、如来の、形態の形相にたいし住所ありて行く結縛は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『住所なくして行く者』と説かれます。家長よ、まさに、如来の、音声の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、臭気の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、味感の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、感触の形相にたいする……。家長よ、まさに、如来の、法(意の対象)の形相にたいし住所ありて行く結縛は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、『住所なくして行く者』と説かれます。家長よ、このように、まさに、住所なくして行く者と成ります。

 

 [753]家長よ、では、どのように、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、在家者たちと交わりある者として〔世に〕住みます。喜びを共にし、憂いを共にし、安楽の者たちのなかで安楽の者となり、苦痛の者たちのなかで苦痛の者となり、諸々の義務や用事が生起したとき、自己みずから、専念〔努力〕を惹起します。家長よ、このように、まさに、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成ります。

 

 [754]家長よ、では、どのように、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成らないのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、在家者たちと交わりなき者として〔世に〕住みます。喜びを共にせず、憂いを共にせず、安楽の者たちのなかで安楽の者とならず、苦痛の者たちのなかで苦痛の者とならず、諸々の義務や用事が生起したとき、自己みずから、専念〔努力〕を惹起しません。家長よ、このように、まさに、村において、親愛〔の情〕が生じた者と成りません。

 

 [755]家長よ、では、どのように、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざからない者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去っていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。家長よ、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕か遠ざからない者と成ります。

 

 [756]家長よ、では、どのように、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れ去った者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。家長よ、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者と成ります。

 

 [757]家長よ、では、どのように、偏重している者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘に、このような〔思いが〕有ります。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時(未来世)に』『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』と。家長よ、このように、まさに、偏重している者と成ります。

 

 [758]家長よ、では、どのように、偏重せずにいる者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の比丘に、このような〔思いが〕有りません。『このような形態の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時(未来世)に』『このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』『このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するのだ──未来の時に』と。家長よ、このように、まさに、偏重せずにいる者と成ります。

 

 [759]家長よ、では、どのように、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成るのですか。家長よ、ここに、一部の者は、このような形態の言説を為す者と成ります。『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう』『あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している』『わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある』『前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った』『あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として』『歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。家長よ、このように、まさに、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成ります。

 

 [760]家長よ、では、どのように、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成らないのですか。家長よ、ここに、一部の者は、このような形態の言説を為す者と成りません。『あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ』と。家長よ、このように、まさに、〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為す者と成りません。家長よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、『八なるものの章』(スッタニパータ第四章)におけるマーガンディヤの問いにおいて、世尊によって説かれました。

 

 [761]〔すなわち〕『家を捨棄して、住所なくして行く者──牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何も〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです』と。

 

 [762]家長よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。

 

 [763]それによって、世尊は言った。

 

 [764]「家を捨棄して、住所なくして行く者──牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何も〕偏重せずにいるのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです」と。

 

80.

 

 [765]851.(845) それら〔の見解〕から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら、龍たる者(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです。たとえば、汚水に生える、棘ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらに、泥に汚されないように、このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、かつまた、欲望〔の対象〕についても、かつまた、世〔の人々〕についても、汚されないのです。(11)

 

 [766]「それら〔の見解〕から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら」とは、「それら〔の見解〕から」とは、それらの悪しき見解から。「遠離した者」とは、身体による悪しき行ないから、遠ざかり、離れ、遠離した者、言葉による悪しき行ないから……意による悪しき行ないから……貪欲から……略([585]参照)……一切の善ならざる行作から、遠ざかり、離れ、遠離した者。「渡り歩くべきである」とは、〔世を〕渡り歩くべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。「世を」とは、悪所の世を……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世を。ということで、「それら〔の見解〕から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら」。

 

 [767]「龍たる者(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです」とは、「龍(ナーガ)」とは、(1)罪悪(アーグ)を為さない(ナ・カローティ)、ということで、「龍」。(2)赴かない(ナ・ガッチャティ)、ということで、「龍」。(3)帰り来ない(ナ・アーガッチャティ)、ということで、「龍」。(1)どのように、罪悪を為さない、ということで、「龍」となるのか。罪悪は、諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすもの、と説かれる。

 

 [768]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、世において、何であれ、罪悪を作らず、一切の束縛を捨て去って、〔一切の〕結縛を〔捨て去って〕、一切所において執着しない、解脱者──真実なることから、如なる者は、『龍』〔と〕呼ばれます」と。

 

 [769]このように、罪悪を為さない、ということで、「龍」。

 

 [770](2)どのように、赴かない、ということで、「龍」となるのか。欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、諸々の党派の法(性質)によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。このように、赴かない、ということで、「龍」。

 

 [771](3)どのように、帰り来ない、ということで、「龍」となるのか。預流道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって……不還道によって……阿羅漢道によって、それらの〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。このように、帰り来ない、ということで、「龍」。

 

 [772]「龍たる者(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです」とは、龍たる者は、それらの悪しき見解を、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、説くであろうことは、言説するであろうことは、発語するであろうことは、提示するであろうことは、語用するであろうことは──「世〔界〕は、常久である。……略……「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説くであろうことは、言説するであろうことは、発語するであろうことは、提示するであろうことは、語用するであろうことは──ない。ということで、「龍たる者は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです」。

 

 [773]「たとえば、汚水に生える、棘ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらに、泥に汚されないように」とは、汚(エーラ)は、水(ウダカ)と説かれる。水に生える(アンブジャ)は、蓮華と説かれる。棘ある(カンダカ)は、荒々しい茎ある(カラダンダ)と説かれる。水(ヴァーリ)は、水(ウダカ)と説かれる。蓮(ヴァーリジャ)は、蓮華、水から発生するもの、と説かれる。水(ジャラ)は、水(ウダカ)と説かれる。泥は、泥土と説かれる。たとえば、蓮華が、水から生じ、水から発生し、かつまた、水によっても、かつまた、泥によっても、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されないものとしてあり、等しく汚されないものとしてあり、近しく汚されないものとしてあるように。ということで、「たとえば、汚水に生える、棘ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらに、泥に汚されないように」。

 

 [774]「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、かつまた、欲望〔の対象〕についても、かつまた、世〔の人々〕についても、汚されないのです」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「〔内なる〕寂静を説く」とは、牟尼は、〔内なる〕寂静を説く者であり、救護所を説く者であり、避難所を説く者であり、帰依所を説く者であり、恐怖なきを説く者であり、死滅なきを説く者であり、不死を説く者であり、涅槃を説く者である。ということで、「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は」。「貪求なき者であり」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求なき者と説かれる。彼は、形態にたいし貪求なき者として、音声にたいし……臭気にたいし……味感にたいし……感触にたいし……家にたいし……衆徒にたいし……居住にたいし……利得にたいし……盛名にたいし……賞賛にたいし……安楽にたいし……衣料にたいし……〔行乞の〕施食にたいし……臥坐具にたいし……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)にたいし……欲望の界域(欲界)にたいし……形態の界域(色界)にたいし……形態なき界域(無色界)にたいし……欲望の生存(欲有)にたいし……形態の生存(色有)にたいし……形態なき生存(無色有)にたいし……表象の生存(想有)にたいし……表象なき生存(無想有)にたいし……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)にたいし……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)にたいし……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)にたいし……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)にたいし……過去にたいし……未来にたいし……現在にたいし……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり」。

 

 [775]「かつまた、欲望〔の対象〕についても、かつまた、世〔の人々〕についても、汚されないのです」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「世〔の人々〕について」とは、悪所の世について、人間の世について、天の世について、〔五つの〕範疇の世について、〔十八の〕界域の世について、〔十二の認識の〕場所の世について。「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)そして、渇愛の汚れであり、(2)さらに、見解の汚れである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。牟尼は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、かつまた、欲望〔の対象〕についても、かつまた、世〔の人々〕についても、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、かつまた、欲望〔の対象〕についても、かつまた、世〔の人々〕についても、汚されないのです」。

 

 [776]それによって、世尊は言った。

 

 [777]「それら〔の見解〕から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら、龍たる者(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです。たとえば、汚水に生える、棘ある水蓮が、水に〔汚されず〕、さらに、泥に汚されないように、このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、かつまた、欲望〔の対象〕についても、かつまた、世〔の人々〕についても、汚されないのです」と。

 

81.

 

 [778]852.(846) 〔真の〕知に至る者は、見解によって〔導かれることが〕なく、思想によって、彼が〔我想の〕思量()に至ることもありません。なぜなら、彼は、それに関わらないからです。〔特定の宗教〕行為()によって〔導かれることも〕なく、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによって導かれることもありません。彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に近しく導かれないのです。(12)

 

 [779]「〔真の〕知に至る者は、見解によって〔導かれることが〕なく、思想によって、彼が〔我想の〕思量()に至ることもありません」とは、「なく」とは、否定〔の言葉〕。「〔真の〕知に至る者」とは、知は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。それらの知によって、生と老と死の、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者、極限に至った者、極限に至り得た者、完成に至った者、完成に至り得た者、救護所に至った者、救護所に至り得た者、避難所に至った者、避難所に至り得た者、帰依所に至った者、帰依所に至り得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきに至り得た者、死滅なきに至った者、死滅なきに至り得た者、不死に至った者、不死に至り得た者、涅槃に至った者、涅槃に至り得た者。あるいは、諸々の知の、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、諸々の知によって、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、七つの法(性質)が知られたことから、〔真の〕知に至る者となる。(1)身体を有するという見解(有身見)が、知られたものと成り、(2)疑惑〔の思い〕()が、知られたものと成り、(3)戒や掟への偏執(戒禁取)が、知られたものと成り、(4)貪欲()が、知られたものと成り、(5)憤怒()が、知られたものと成り、(6)迷妄()が、知られたものと成り、(7)思量()が、知られたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、知られたものと成る。

 

 [780]かくのごとく、世尊は〔言った〕「サビヤよ、この〔世において〕、それら〔の知〕が、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕、知(ヴェーダ)の全部を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(ヴェーダナー)について貪欲を離れた者──彼は、一切の知を超え行って、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」と。

 

 [781]「見解によって〔導かれることが〕なく」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、見解によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められず、また、その悪しき見解を、真髄〔の観点〕から、信受せず、再帰しない。ということで、「〔真の〕知に至る者は、見解によって〔導かれることが〕なく」。「思想によって、彼が〔我想の〕思量に至ることもありません」とは(※)、あるいは、思われたものとしての形態()によって、あるいは、他者の評判によって、あるいは、大勢の人の〔信奉する〕主義(世俗)によって、〔我想の〕思量に、至らず、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔真の〕知に至る者は、見解によって〔導かれることが〕なく、思想によって、彼が〔我想の〕思量に至ることもありません」。

 

※ テキストには Na mutiyāti とあるが、PTS版により Na mutiyā sa mānam etīti と読む。

 

 [782]「なぜなら、彼は、それに関わらないからです」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、それに関わる者と〔成らず〕、それを最高とする者と〔成らず〕、それを行き着く所とする者と成らない。すなわち、彼の、かつまた、渇愛も、かつまた、見解も、かつまた、思量も、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、それに関わる者と〔成らず〕、それを最高とする者と〔成らず〕、それを行き着く所とする者と成らない。ということで、「なぜなら、彼は、それに関わらないからです」。

 

 [783]「〔特定の宗教〕行為()によって〔導かれることも〕なく、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによって導かれることもありません」とは、「〔特定の宗教〕行為によって〔導かれることも〕なく」とは、あるいは、功徳ある行作によって、あるいは、功徳なき行作によって、あるいは、不動の行作によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「〔特定の宗教〕行為によって〔導かれることも〕なく」。「また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによって導かれることもありません」とは、あるいは、聞かれたものとしての清浄によって、あるいは、他者の評判によって、あるいは、大勢の人の〔信奉する〕主義によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「〔特定の宗教〕行為によって〔導かれることも〕なく、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによって導かれることもありません」。

 

 [784]「彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に近しく導かれないのです」とは、「接近(近づく者)」とは、二つの接近がある。(1)そして、渇愛の接近であり、(2)さらに、見解の接近である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔すでに〕捨棄され、見解の接近は〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕放棄されたことから、彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に、近づかない者として、近しく汚されない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に近しく導かれないのです」。

 

 [785]それによって、世尊は言った。

 

 [786]「〔真の〕知に至る者は、見解によって〔導かれることが〕なく、思想によって、彼が〔我想の〕思量()に至ることもありません。なぜなら、彼は、それに関わらないからです。〔特定の宗教〕行為()によって〔導かれることも〕なく、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによって導かれることもありません。彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に近しく導かれないのです」と。

 

82.

 

 [787]853.(847) 〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。智慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。そして、〔特定の〕表象を〔収め取り〕、さらに、〔特定の〕見解を収め取った、それらの者たちが──彼らが、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです。(13)

 

 [788]「〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです」とは、彼が、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)を先行とする聖者の道を修行するなら、彼には、最初から、〔他と〕比較して、諸々の拘束は、鎮静されたものとして有る。阿羅漢の資質が至り得られたとき、〔その〕阿羅漢の、かつまた、諸々の拘束も、かつまた、諸々の迷妄も、かつまた、諸々の〔修行の〕妨害も、欲望の表象も、憎悪の表象も、悩害の表象も、さらに、見解の表象も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成る。ということで、「〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです」。

 

 [789]「智慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです」とは、彼が、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を先行とする聖者の道を修行するなら、彼には、最初から、〔他と〕比較して、諸々の迷妄は、鎮静されたものとして有る。阿羅漢の資質が至り得られたとき、〔その〕阿羅漢の、かつまた、諸々の拘束も、かつまた、諸々の迷妄も、かつまた、諸々の〔修行の〕妨害も、欲望の表象も、憎悪の表象も、悩害の表象も、さらに、見解の表象も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成る。ということで、「智慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです」。

 

 [790]「そして、〔特定の〕表象を〔収め取り〕、さらに、〔特定の〕見解を収め取った、それらの者たちが──彼らが、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」とは、彼らが、表象を──欲望の表象を、憎悪の表象を、悩害の表象を──収取するなら、彼らは、表象を所以に、〔互いに〕対立し、等しく対立する。王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争する。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃する。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇する〕。彼らが、見解を──あるいは、「世〔界〕は、常久である」と……略([226]参照)……あるいは、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」と──収取するなら、彼らは、見解を所以に、〔互いに〕対立し、等しく対立する。〔自己の〕教師〔の観点〕から〔他者の〕教師と対立し、〔自己の〕法(教え)の告知〔の観点〕から〔他者の〕法(教え)の告知と対立し、〔自己の〕衆徒〔の観点〕から〔他者の〕衆徒と対立し、〔自己の〕見解〔の観点〕から〔他者の〕見解と対立し、〔自己の実践の〕道〔の観点〕から〔他者の実践の〕道と対立し、〔自己の聖者の〕道〔の観点〕から〔他者の聖者の〕道と対立する。

 

 [791]さらに、あるいは、彼らは、論争し、紛争を為し、言争を為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。彼らの、諸々の行作は〔いまだ〕捨棄されず、諸々の行作が〔いまだ〕捨棄されていないことから、〔未来の〕境遇において対立し、地獄において対立し、畜生の胎において対立し、餓鬼の境域において対立し、人間の世において対立し、天の世において対立し、〔自己の〕境遇〔の観点〕によって〔他者の〕境遇と……〔自己の〕再生〔の観点〕によって〔他者の〕再生と……〔自己の〕結生〔の観点〕によって〔他者の〕結生と……〔自己の〕生存〔の観点〕によって〔他者の〕生存と……〔自己の〕輪廻〔の観点〕によって〔他者の〕輪廻と……〔自己の〕転起〔の観点〕によって〔他者の〕転起と、対立し、等しく対立し、〔論を〕説き、〔世を〕渡り歩き、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。「世を」とは、悪所の世を……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世を。ということで、「そして、〔特定の〕表象を〔収め取り〕、さらに、〔特定の〕見解を収め取った、それらの者たちが──彼らが、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」。

 

 [792]それによって、世尊は言った。

 

 [793]「〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。智慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。そして、〔特定の〕表象を〔収め取り〕、さらに、〔特定の〕見解を収め取った、それらの者たちが──彼らが、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」と。

 

 [794]マーガンディヤの経についての釈示が、第九となる。

 

1. 10. 「〔身体の〕破壊の前に」の経についての釈示

 

 [795]そこで、「〔身体の〕破壊の前に」の経についての釈示を説くであろう。

 

83.

 

 [796]854.(848) 〔対話者が尋ねた〕──どのように見ある者が、どのように戒ある者が、「寂静者」と説かれるのですか。ゴータマよ、それを、わたしに説いてください──〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを。(1)

 

 [797]「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と説かれるのですか」とは、「どのように見ある者が」とは、何を確立したことで、何を流儀とすることで、何を相似とすることで、どのようなものとして見を具備した者が。ということで、「どのように見ある者が」。「どのように戒ある者が」とは、何を確立したことで、何を流儀とすることで、何を相似とすることで、どのようなものとして戒を具備した者が。ということで、「どのように見ある者が、どのように戒ある者が」。「『寂静者』と説かれるのですか」とは、「〔心が〕静まった者」「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「安息した者」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。〔対話者は、世尊に〕「どのように見ある者が」と、卓越の智慧を尋ね、「どのように戒ある者が」と、卓越の戒を尋ね、「『寂静者』〔と説かれるのですか〕」と、卓越の心(瞑想)を尋ねる。ということで、「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と説かれるのですか」。

 

 [798]「ゴータマよ、それを、わたしに説いてください」とは、「それを」とは、〔わたしが〕尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕浄信するところの、それを。「ゴータマよ」とは、その〔対話者として〕化作された者(化仏)は、覚者たる世尊に、氏姓で語りかける。「説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「ゴータマよ、それを、わたしに説いてください」。

 

 [799]「〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」とは、尋ねられた者として、問われた者として、乞い求められた者として、要請された者として、浄信された者として。「最上の人のことを」とは、至高者のことを、最勝者のことを、殊勝者のことを、筆頭者のことを、最上者のことを、最も優れた者のことを。ということで、「〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」。

 

 [800]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [801]〔対話者が尋ねた〕──「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と説かれるのですか。ゴータマよ、それを、わたしに説いてください──〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」と。

 

84.

 

 [802]855.(849) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去の極(前際:過去の種々相)に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者──彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません。(2)

 

 [803]「〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ」とは、身体の破壊より前に、自己状態の破壊より前に、死体の捨置より前に、生命の機能の断絶より前に、渇愛を離れた者として、渇愛を離れ去った者として、渇愛を捨て去った者として、渇愛を吐き捨てた者として、渇愛を解き放った者として、渇愛を捨棄した者として、渇愛を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。

 

 [804]「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を滅壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(意味)の味を、法(教え)の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心(瞑想)を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想(四禅)を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱(八解脱)を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を(※)、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき(安般念)という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──〔身体の〕破壊の前に、渇愛〔の思い〕を離れ」。

 

※ テキストには paññābhāvanāna とあるが、PTS版により saññābhāvanāna と読む。

 

 [805]「過去の極(前際:過去の種々相)に依存せず」とは、過去の極は、過去の時(過去世)と説かれる。過去の時に関して、〔彼の〕渇愛は〔すでに〕捨棄され、〔彼の〕見解は〔すでに〕放棄され、渇愛が〔すでに〕捨棄されたことから、見解が〔すでに〕放棄されたことから、このようにもまた、「過去の極に依存せず」。さらに、あるいは、「このような形態の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕有った──過去の時(過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成らない。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結しなかったことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。「かくのごとく、わたしに、耳が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔有った〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が有った──過去の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔有った〕」と、そこにおいて、〔彼の〕識知〔作用〕は、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結したものと成らない。〔彼の〕識知〔作用〕が、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕に連結しなかったことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。さらに、あるいは、すなわち、過去において、女性を相手に笑い談じ戯れたそれら〔の経験〕があるとして、それを味わず、それを欲さず、そして、それによって、歓悦を起こさない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。

 

 [806]「〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者」とは、中間は、現在の時と説かれる。現在の時に関して、〔彼の〕渇愛は〔すでに〕捨棄され、〔彼の〕見解は〔すでに〕放棄され、渇愛が〔すでに〕捨棄されたことから、見解が〔すでに〕放棄されたことから、「貪る者である」と名称されるべき者ではなく、「怒る者である」と名称されるべき者ではなく、「迷う者である」と名称されるべき者ではなく、「結縛された者である」と名称されるべき者ではなく、「偏執した者である」と名称されるべき者ではなく、「〔心の〕散乱に至った者である」と名称されるべき者ではなく、「結論なき〔状態〕に至った者である」と名称されるべき者ではなく、「強靭に至った者である」と名称されるべき者ではない。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、〔未来の〕境遇によって名称されるべき者ではない──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、〔虚構の〕名称に赴くであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「〔過去と未来の〕中間において名称されない者」。

 

 [807]「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)そして、渇愛の偏重であり、(2)さらに、見解の偏重である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者ではなく、渇愛を幟とする者ではなく、渇愛を優位とする者ではなく、見解を旗とする者ではなく、見解を幟とする者ではなく、見解を優位とする者ではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩むことはない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。さらに、あるいは、「このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の臭気が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の感触が〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。さらに、あるいは、「わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」。

 

 [808]それによって、世尊は言った。

 

 [809]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去の極(前際:過去の種々相)に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において名称されない者──彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません」と。

 

85.

 

 [810]856.(850) 忿激せず、恐慌せず、誇らず、悔やまず、明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者──彼は、まさに、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です。(3)

 

 [811]「忿激せず、恐慌せず」とは、まさに、「忿激せず」と、まさに、それが説かれたが、しかしながら、また、まずは、忿激が説かれるべきである。十の行相によって、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なうであろう」と、忿激は生じる。また、あるいは、状況(道理)なきことがあるとき、忿激は生じる。すなわち、このような形態の、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒()、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕、意の強き憤怒、忿激(忿)、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、忿激と説かれる。

 

 [812]さらに、また、忿激の、旺盛なることと微小なることが知られるべきである。どのような時でも、忿激は存在する──心の混濁ほどのものとして有り、そして、それまでは、口を痙攣させるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──口を痙攣させるほどのものとして有り、そして、それまでは、顎を動かすものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──顎を動かすほどのものとして有り、そして、それまでは、粗暴な言葉を放つものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──粗暴な言葉を放つほどのものとして有り、そして、それまでは、方々を睨み付けるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──方々を睨み付けるほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を撫で回すものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──棒や刃を撫で回すほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を振り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──棒や刃を振り上げるほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を打ち落とすものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──棒や刃を打ち落とすほどのものとして有り、そして、それまでは、素振りや振り回しを為すものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──素振りや振り回しを為すほどのものとして有り、そして、それまでは、等しく打ち砕き遍く打ち砕くものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──等しく打ち砕き遍く打ち砕くほどのものとして有り、そして、それまでは、手足と肢体を引き裂くものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──手足と肢体を引き裂くほどのものとして有り、そして、それまでは、生命を取り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する──生命を取り上げるほどのものとして有り、そして、それまでは、一切を捨て去り遍く捨て去る様相と成ることはない。すなわち、忿激は、他の人を害して〔そののち〕、自己を害することから、このことから、忿激は、最高の増長に至ったものと〔成り〕、最高の広大に至り得たものと成る。彼の、この(※)忿激が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、忿激しない者と説かれる。忿激が捨棄されたことから、忿激しない者となり、忿激の基盤(根拠)が遍知されたことから、忿激しない者となり、忿激の因が断絶されたことから、忿激しない者となる。ということで、「忿激せず」。

 

※ テキストには Yassa so とあるが、PTS版により Yass' eso と読む。

 

 [813]「恐慌せず」とは、ここに、一部の者は、恐れある者と成り、恐懼ある者と〔成り〕、遍き恐れある者と〔成る〕。彼は、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、恐慌を惹起する。「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、盛名を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、賞賛を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、〔行乞の〕施食を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐具を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、看病の者を、〔わたしは〕得ない」「〔わたしは〕未詳の者として〔世に〕存している」と、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、恐慌を惹起する。

 

 [814]ここに、比丘が、恐れなき者と成り、恐懼なき者と〔成り〕、遍き恐れなき者と〔成る〕。彼は、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、恐慌を惹起しない。「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、盛名を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、賞賛を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、〔行乞の〕施食を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐具を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、看病の者を、〔わたしは〕得ない」「〔わたしは〕未詳の者として〔世に〕存している」と、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、恐慌を惹起しない。ということで、「忿激せず、恐慌せず」。

 

 [815]「誇らず、悔やまず」とは、ここに、一部の者は、誇る者と成り、誇示する者と〔成る〕。彼は、誇り、誇示する。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「秀逸なる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、〔世に存している〕」と、あるいは、「諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「三つの衣料の者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔規定された食〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕」と、あるいは、「〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、誇り、誇示する。このように、誇らず、誇示せず、誇ることから、誇示することから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「誇らず」。

 

 [816]「悔やまず」とは、「悔恨(悪作)」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、時ならざるものについて、時なるものとする了解あること、時なるものについて、時ならざるものとする了解あること、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。

 

 [817]さらに、また、二つの契機によって、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから。どのように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」「わたしによって、与えられていないものを取ることからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が為された」「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」「わたしによって、虚偽を説くことからの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」「わたしによって、中傷の言葉からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」「わたしによって、粗暴な言葉からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」「わたしによって、雑駁な虚論からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、強欲〔の思い〕が為された」「わたしによって、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕が為されなかった」と……。「わたしによって、憎悪〔の思い〕が為された」「わたしによって、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕が為されなかった」と……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。

 

 [818]さらに、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と……。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に〕存している」と……。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に〕存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念処・四念住)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。彼の、この悔恨が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、悔恨なき者と説かれる。ということで、「誇らず、悔やまず」。

 

 [819]「明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者」とは、明慧は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。明慧によって、遍く収取しては遍く収取して、言葉を語る。たとえ、多くを言説しつつも、たとえ、多くを発語しつつも、たとえ、多くを説示しつつも、たとえ、多くを語用しつつも、悪しく言説されたものとして、悪しく発語されたものとして、悪しく談じられたものとして、悪しく言われたものとして、悪しく語られたものとして、言葉を語らない。ということで、「明慧によって話し」。「〔心が〕高揚しない者」とは、そこにおいて、どのようなものが、〔心の〕高揚(掉挙)であるのか。すなわち、心の、高揚、寂止なき〔あり方〕、心の散乱、心の迷走である。これが、〔心の〕高揚と説かれる。彼の、この〔心の〕高揚が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔心が〕高揚しない者と説かれる。ということで、「明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者」。

 

 [820]「彼は、まさに、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です」とは、ここに、比丘が、(1)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、正直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有る。(2)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有る。(3)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有る。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有る。(4)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有る。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有る。〔彼は〕四つの言葉による善き行ない(虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)を具備した者として、四つの汚点から離れ去った言葉を語り、三十二の畜生の議論(無用論・無駄話:[1449]参照)から、離れた者として(※)、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。

 

※ テキストには ārato assa とあるが、PTS版により ārato と読む。

 

 [821]〔彼は〕十の議論の基盤(根拠)を議論する。それは、すなわち、この、(1)少なき欲求たること(少欲)についての議論を議論し、(2)満ち足りていること(知足)についての議論を議論し、(3)遠離についての議論を……(4)〔世俗と〕交わりなきことについての議論を……(5)精進勉励についての議論を……(6)戒についての議論を……(7)禅定についての議論を……(8)智慧についての議論を……(9)解脱についての議論を……(10)解脱の知見についての議論を……〔四つの〕気づきの確立(四念処・四念住)についての議論を……〔四つの〕正しい精励(四正勤)についての議論を……〔四つの〕神通の足場(四神足)についての議論を……〔五つの〕機能(五根)についての議論を……〔五つの〕力(五力)についての議論を……〔七つの〕覚りの支分(七覚支)についての議論を……〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)についての議論を……〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)についての議論を……涅槃についての議論を議論する。「言葉を制した」とは、〔言葉が〕傾念された者として、〔言葉が〕遍く傾念された者として、〔言葉が〕守られた者として、〔言葉が〕保護された者として、〔言葉が〕守護された者として、〔言葉が〕寂止した者として。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。ということで、「彼は、まさに、言葉を制した牟尼です」。

 

 [822]それによって、世尊は言った。

 

 [823]「忿激せず、恐慌せず、誇らず、悔やまず、明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者──彼は、まさに、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です」と。

 

86.

 

 [824]857.(851) 未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(:感覚の発生)について遠離を見る者は、そして、諸々の見解について導かれません。(4)

 

 [825]「未来について執着なき者は」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この執着としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、このようにもまた、「未来について執着なき者は」。さらに、あるいは、「このような形態の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような表象〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような諸々の形成〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう……。「このような識知〔作用〕の者として、〔わたしは〕存するであろう──未来の時(未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう──未来の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)が〔存するであろう〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。さらに、あるいは、「わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕」と、〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、〔彼は〕心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。

 

 [826]「過去を憂いません」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化したのだ」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭気が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの盛名が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕施食が……「わたしの臥坐具が……「わたしの病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化したのだ」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、「過去を憂いません」。

 

 [827]「諸々の接触(:感覚の発生)について遠離を見る者は」とは、「接触」とは(※)、眼の接触(眼触)、耳の接触(耳触)、鼻の接触(鼻触)、舌の接触(舌触)、身の接触(身触)、意の接触(意触)、名辞の接触、敵対するものの接触、安楽として感受されるべき接触、苦痛として感受されるべき接触、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触、善なる接触、善ならざる接触、〔善悪が〕説き明かされない接触(無記触)、欲望の行境の接触、形態の行境の接触、形態なき行境の接触、空性の接触、無相の接触、無願の接触、世〔俗〕の接触(世間触)、世〔俗〕を超える接触(出世間触)、過去の接触、未来の接触、現在の接触。すなわち、このような形態の、接触、触れること、接触すること、接触あることである。これが、接触と説かれる。

 

※ PTS版により Phasso ti を補う。

 

 [828]「諸々の接触について遠離を見る者は」とは、眼の接触を、あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。耳の接触を……遠離したものとして見る。鼻の接触を……遠離したものとして見る。舌の接触を……遠離したものとして見る。身の接触を……遠離したものとして見る。意の接触を……遠離したものとして見る。名辞の接触を……遠離したものとして見る。敵対するものの接触を……遠離したものとして見る。安楽として感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。苦痛として感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。善なる接触を……遠離したものとして見る。善ならざる接触を……遠離したものとして見る。〔善悪が〕説き明かされない接触を……遠離したものとして見る。欲望の行境の接触を……遠離したものとして見る。形態の行境の接触を……遠離したものとして見る。形態なき行境の接触を……遠離したものとして見る。世〔俗〕の接触を、あるいは、自己〔の観点〕によっても、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によっても、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によっても、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。

 

 [829]さらに、あるいは、過去の接触を、かつまた、諸々の未来〔の接触の観点〕によっても、かつまた、諸々の現在の接触〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。未来の接触を、かつまた、諸々の過去〔の接触の観点〕によっても、かつまた、諸々の現在の接触〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。現在の接触を、かつまた、諸々の過去〔の接触の観点〕によっても、かつまた、諸々の未来の接触〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。さらに、あるいは、すなわち、それらの接触が、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、空性に関係したものであるなら、それらの接触を、遠離したものとして見る。貪欲〔の観点〕によっても、憤怒〔の観点〕によっても、迷妄〔の観点〕によっても、忿激〔の観点〕によっても、怨恨〔の観点〕によっても、偽装〔の観点〕によっても、加虐〔の観点〕によっても、嫉妬〔の観点〕によっても、物惜〔の観点〕によっても、幻惑〔の観点〕によっても、狡猾〔の観点〕によっても、強情〔の観点〕によっても、激昂〔の観点〕によっても、思量〔の観点〕によっても、高慢〔の観点〕によっても、驕慢〔の観点〕によっても、放逸〔の観点〕によっても、一切の〔心の〕汚れ〔の観点〕によっても、一切の悪しき行ない〔の観点〕によっても、一切の懊悩〔の観点〕によっても、一切の苦悶〔の観点〕によっても、一切の熱苦〔の観点〕によっても、一切の善ならざる行作〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。ということで、「諸々の接触について遠離を見る者は」。

 

 [830]「そして、諸々の見解について導かれません」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、見解によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められず、また、その悪しき見解を、真髄〔の観点〕から、信受せず、再帰しない。ということで、「そして、諸々の見解について導かれません」。

 

 [831]それによって、世尊は言った。

 

 [832]「未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(:感覚の発生)について遠離を見る者は、そして、諸々の見解について導かれません」と。

 

87.

 

 [833]858.(852) 〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者に〕忌避されず、かつまた、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません。(5)

 

 [834]「〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく」とは、「〔欲望の対象から〕退去し」とは、貪欲が捨棄されたことから、退去した者となり、憤怒が捨棄されたことから、退去した者となり、迷妄が捨棄されたことから、退去した者となり、忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が捨棄されたことから、退去した者となる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、では、どのように、比丘は、退去した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、退去した者と成ります」〔と〕。ということで、「〔欲望の対象から〕退去し」。

 

 [835]「虚言なく」とは、三つの虚言の事例がある。(1)日用品の受用と名づけられた虚言の事例、(2)振る舞いの道と名づけられた虚言の事例、(3)なぞかけと名づけられた虚言の事例である。

 

 [836](1)どのようなものが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、〔在俗の〕家長たちが、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって〔布施をするために〕、比丘を招く。その〔比丘〕は、悪しき欲求ある者であり、〔自らの〕欲求に支配された者であり、〔それらの施物を〕義(目的)とする者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品をより一層欲することに執取して、衣料を〔とりあえずは〕拒絶し、〔行乞の〕施食を〔とりあえずは〕拒絶し、臥坐具を〔とりあえずは〕拒絶し、病のための日用品たる薬の必需品を〔とりあえずは〕拒絶する。彼は、このように言う。「沙門にとって、高価な衣料が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けるなら。沙門にとって、高価な〔行乞の〕施食が何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、残飯行(乞食行)によって、〔施しの〕握り飯によって、生計を営むなら。沙門にとって、高価な臥坐具が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、木の根元にある者として、あるいは、墓場にある者として、あるいは、野外にある者として、〔世に〕存するなら。沙門にとって、高価な病のための日用品たる薬の必需品が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、腐尿(発酵した牛の尿)によって、あるいは、薬果の破断したものによって、薬と為すなら」と。それ(施物)に執取して、粗末な衣料を〔身に〕付け、粗末な〔行乞の〕施食を遍く受益し、粗末な臥坐所を受用し、粗末な病のための日用品たる薬の必需品を受用する。〔まさに〕その、この者のことを、〔在俗の〕家長たちは、このように知る。「この沙門は、少なき欲求の者であり、〔常に〕満ち足りている者であり、遠離している者であり、〔世俗と〕交わりなき者であり、精進に励む者であり、〔俗塵の〕払拭(頭陀)を説く者である」と。より一層、より一層、〔家長たちは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施をするために、その比丘を〕招く。彼は、このように言う。「三つのものが面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第一に〕信が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第二に〕施すべき法(施物)が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第三に〕施与されるべき者たちが、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。まさしく、そして、あなたたちには、この信が存在し、さらに、施すべき法(施物)が等しく見出される。かつまた、わたしは、納受する者である。それで、もし、わたしが納受しないであろうなら、このように、あなたたちは、功徳から遍く外にある者たちと成るであろう。わたしには、これに義(目的)はないが、しかしながら、また、まさしく、あなたたちへの慈しみ〔の思い〕によって、〔わたしは〕納受する」と。それに執取して、さらに、多くの衣料を納受し、さらに、多くの〔行乞の〕施食を納受し、さらに、多くの臥坐具を納受し、さらに、多くの病のための日用品たる薬の必需品を納受する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例である。

 

 [837](2)どのようなものが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、赴くに装い、立つに装い、坐るに装い、臥すに装い、作為して赴き、作為して立ち、作為して坐り、作為して臥所を営み、〔心が〕定められた者であるかのように赴き、〔心が〕定められた者であるかのように立ち、〔心が〕定められた者であるかのように坐り、〔心が〕定められた者であるかのように臥所を営み、まさしく、視野のうちなる瞑想者(見かけ上の瞑想者)と成る。すなわち、このような形態の、振る舞いの道(行住坐臥)のための、作為的虚飾、虚飾、常習的虚飾、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例である。

 

 [838](3)どのようなものが、なぞかけと名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、聖なる法(教え)に等しく依拠した言葉を語る。「彼が、このような形態の衣料を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の鉢を〔身に〕保つなら……銅椀を〔身に〕保つなら……水瓶を〔身に〕保つなら……濾過器を〔身に〕保つなら……袋を〔身に〕保つなら……履物を〔身に〕保つなら……身体を縛る〔帯〕を〔身に〕保つなら……〔縛り〕紐を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師父(和尚)がいるなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師匠(阿闍梨)がいるなら……師父を等しくする者たちがいるなら……師匠を等しくする者たちがいるなら……朋友たちがいるなら……同輩たちがいるなら……知己たちがいるなら……道友たちがいるなら……彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の精舎に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の半屋根に住するなら……高楼に住するなら……楼房に住するなら……岩窟に住するなら……山窟に住するなら……小屋に住するなら……楼閣に住するなら……見張塔に住するなら……円室に住するなら……堂舎に住するなら……奉仕堂に住するなら……天幕に住するなら……木の根元に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。

 

 [839]さらに、あるいは、逆上に逆上し、渋面に渋面し、虚言に虚言し、饒舌に饒舌し、口で尊ばれている者が、「この沙門は、このような形態の、これらの寂静なる住への入定の得者である」と、そのような、深遠で、秘密にされ、精緻で、隠蔽され、世〔俗〕を超える、空性に関係した言説を言説する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、なぞかけと名づけられた虚言の事例である。彼の、これらの三つの虚言の事例が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、虚言なき者と説かれる。ということで、「〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく」。

 

 [840]「羨望〔の思い〕なく、物惜〔の思い〕なき者は」とは、羨望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この羨望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、羨望〔の思い〕なき者と説かれる。彼は、諸々の形態を羨望せず、諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を……家を……衆徒を……居住を……利得を……盛名を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕施食を……臥坐具を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を……欲望の界域(欲界)を……形態の界域(色界)を……形態なき界域(無色界)を……欲望の生存(欲有)を……形態の生存(色有)を……形態なき生存(無色有)を……表象の生存(想有)を……表象なき生存(無想有)を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)を……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)を……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を……過去を……未来を……現在を……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、羨望せず、欲求せず、愛用せず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「羨望〔の思い〕なく」。「物惜〔の思い〕なき者は」とは、「物惜〔の思い〕」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、緊縮、心が掴み取られたあり方である。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜もまた、物惜であり、〔十八の〕界域の物惜もまた、物惜であり、〔十二の認識の〕場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。彼の、この物惜が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、物惜〔の思い〕なき者と説かれる。ということで、「羨望〔の思い〕なく、物惜〔の思い〕なき者は」。

 

 [841]「尊大ならず、〔他者に〕忌避されず」とは、尊大とは、三つの尊大がある。(1)身体の属性としての尊大、(2)言葉の属性としての尊大、(3)心の属性としての尊大である。(1)どのようなものが、身体の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、(1―1)僧団に赴くもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―2)衆徒に赴くもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―3)食堂においてもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―4)浴室においてもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―5)水浴場においてもまた、身体の属性としての尊大を見示する。(1―6)家屋の内に入りながらもまた、身体の属性としての尊大を見示する。(1―7)家屋の内に入ったあともまた、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [842](1―1)どのように、僧団に赴き、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、僧団に赴いたとして(僧団の一員となっても)、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、僧団に赴き、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [843](1―2)どのように、衆徒に赴き、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に赴いたとして(衆徒の一員となっても)、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちが、履物無しで歩行〔瞑想〕をしているのに、履物有りで歩行〔瞑想〕をし、低い歩行場で歩行〔瞑想〕をしているのに、高い歩行場で歩行〔瞑想〕をし、大地で歩行〔瞑想〕をしているのに、歩行場で歩行〔瞑想〕をする。ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、衆徒に赴き、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [844](1―3)どのように、食堂において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、食堂において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに分け入って坐り、新参の比丘たちにもまた坐を拒み、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、食堂において、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [845](1―4)どのように、浴室において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、浴室において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、許しを乞わずにいようが、要請されていなかろうが、薪をくべ、扉をもまた締め、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、浴室において、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [846](1―5)どのように、水浴場において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、水浴場において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが入り、前であろうが入り、ぶつかりながらであろうが沐浴し、前であろうが沐浴し、上であろうが沐浴し、ぶつかりながらであろうが上がり、前であろうが上がり、上であろうが上がる。このように、水浴場において、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [847](1―6)どのように、家屋の内に入りながら、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入りながら、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが赴き、前であろうが赴き、〔家から〕離れてもまた、長老の比丘たちの前を(※)赴く。このように、家屋の内に入りながら、身体の属性としての尊大を見示する。

 

※ テキストには purato purato とあるが、PTS版により purato と読む。

 

 [848](1―7)どのように、家屋の内に入ったあと、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入ったあと、「尊き方よ、入らないでください」と説かれているのに入り、「尊き方よ、立たないでください」と説かれているのに立ち、「尊き方よ、坐らないでください」と説かれているのに坐り、空間なくもまた入り、空間なくもまた立ち、空間なくもまた坐り、すなわち、また、家々には、そして、秘密の、さらに、隠蔽された、それらの内室が有り、そこにおいて、良家の婦女たちが〔坐り〕、良家の娘たちが〔坐り〕、良家の嫁たちが〔坐り〕、良家の少女たちが坐るなら、そこにおいてもまた、無理やり入り、少年の頭をもまた撫でまわす。このように、家屋の内に入ったあと、身体の属性としての尊大を見示する。これが、身体の属性としての尊大である。

 

 [849](2)どのようなものが、言葉の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、(2―1)僧団に赴くもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、(2―2)衆徒に赴くもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、(2―3)家屋の内に入ったあともまた、言葉の属性としての尊大を見示する。

 

 [850](2―1)どのように、僧団に赴き、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、僧団に赴いたとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていないのに、林園に赴いた比丘たちに、法(教え)を話し、問いに答え、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を誦説する。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、僧団に赴き、言葉の属性としての尊大を見示する。

 

 [851](2―2)どのように、衆徒に赴き、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に赴いたとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていないのに、林園に赴いた比丘たちに、法(教え)を話し、問いに答える。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。林園に赴いた比丘尼たちに、在俗信者(優婆塞)たちに、女性在俗信者(優婆夷)たちに、法(教え)を話し、問いに答える。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、衆徒に赴き、言葉の属性としての尊大を見示する。

 

 [852](2―3)どのように、家屋の内に入ったあと、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、〔布施を受けるために〕家屋の内に入ったあと、あるいは、婦女に、あるいは、少女に、このように言う。「某名よ、某姓よ、何が存するのか。粥は存するのか。食べるものは存するのか。固形の食料は存するのか。〔わたしたちは〕何を飲むことになるのか。〔わたしたちは〕何を頂戴することになるのか。〔わたしたちは〕何を咀嚼することになるのか。あるいは、何が存するのか。あるいは、〔あなたたちは〕わたしに、何を布施してくれるのか」と語り散らす。このように、家屋の内に入ったあと、言葉の属性としての尊大を見示する。これが、言葉の属性としての尊大である。

 

 [853](3)どのようなものが、心の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、高貴なる家からの出家者として〔世に〕存していないのに、高貴なる家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる家からの出家者として〔世に〕存していないのに、大いなる家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる財物ある家からの出家者として〔世に〕存していないのに、大いなる財物ある家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、秀逸なる財物ある家からの出家者として〔世に〕存していないのに、秀逸なる財物ある家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、経の専門家として〔世に〕存していないのに、経の専門家を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、律の保持者として〔世に〕存していないのに……法(教え)の言説者として〔世に〕存していないのに……林にある者として〔世に〕存していないのに……〔行乞の〕施食の者として〔世に〕存していないのに……糞掃衣の者として〔世に〕存していないのに……三つの衣料の者として〔世に〕存していないのに……〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に〕存していないのに……〔規定された食〕以後の食を否とする者として〔世に〕存していないのに……常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に〕存していないのに……〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に〕存していないのに……第一の瞑想の得者として〔世に〕存していないのに、第一の瞑想の得者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め……略([237]参照)……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に〕存していないのに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定める。これが、心の属性としての尊大である。彼の、これらの三つの尊大が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、尊大ならざる者と説かれる。ということで、「尊大ならず」。

 

 [854]「〔他者に〕忌避されず」とは、(1)〔他者に〕忌避される人が存在し、(2)〔他者に〕忌避されない〔人〕が存在する。(1)では、どのような人が、〔他者に〕忌避される人であるのか。ここに、一部の人は、劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し(沙門を名乗り)、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑として、〔世に〕有る。これが、〔他者に〕忌避される人と説かれる。さらに、あるいは、忿激する者として、葛藤が多くある者として、〔世に〕有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す。これが、〔他者に〕忌避される人と説かれる。さらに、あるいは、忿激する者として、怨恨ある者として、〔世に〕有り、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有り、嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有り、幻惑ある者として、狡猾ある者として、〔世に〕有り、強情ある者として、高慢ある者として、〔世に〕有り、悪しき欲求ある者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有り、自らの見解に偏執し、執取するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有る。これが、〔他者に〕忌避される人と説かれる。

 

 [855](2)では、どのような人が、〔他者に〕忌避されない人であるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。さらに、あるいは、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、〔世に〕有り、たとえ、多くのことを言われたとして、〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さない。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。さらに、あるいは、忿激しない者として、怨恨なき者として、〔世に〕有り、偽装なき者として、加虐なき者として、〔世に〕有り、嫉妬なき者として、物惜なき者として、〔世に〕有り、幻惑なき者として、狡猾なき者として、〔世に〕有り、強情なき者として、高慢なき者として、〔世に〕有り、悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕有り、自らの見解に偏執せず、執取するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕有る。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。愚者である凡夫は、全ての者たちが、〔他者に〕忌避される者たちであり、八者の聖者たる人(預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道・阿羅漢果)は、善き凡夫と比較して、〔他者に〕忌避されない者たちである。ということで、「尊大ならず、〔他者に〕忌避されず」。

 

 [856]「かつまた、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません」とは、「中傷」とは、ここに、一部の者は、中傷の言葉ある者として〔世に〕有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者であり、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者であり、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有る。これが、中傷と説かれる。

 

 [857]さらに、また、二つの契機によって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(1)あるいは、愛慕を欲することによって。(2)あるいは、分裂を志向することによって。(1)どのように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「この者にとって、〔わたしは〕愛しい者と成るのだ、〔わたしは〕意に適う者と成るのだ、〔わたしは〕信頼ある者と成るのだ、〔わたしは〕内々の者と成るのだ、〔わたしは〕親密の者と成るのだ」と、このように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(2)どのように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「どのように、これらの者たちは、種々に存することになるのか、別々に存することになるのか、諸々の党派の者たちとして存することになるのか、二種の者たちとして存することになるのか、二様の者たちとして存することになるのか、二派の者たちとして存することになるのか、分裂することになるのか、和合しないことになるのか、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むことになるのか」と、このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。彼の、この中傷〔の思い〕が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、中傷〔の思い〕に、陥る者ではなく、束縛された者ではなく、専念する者ではなく、等しく専従する者ではない。ということで、「かつまた、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません」。

 

 [858]それによって、世尊は言った。

 

 [859]「〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者に〕忌避されず、かつまた、中傷〔の思い〕に陥る者でもありません」と。

 

88.

 

 [860]859.(853) 諸々の快楽にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者は、かつまた、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません。そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の智慧〕ある者は、信仰なく、離貪しません(真理を確信した者に信仰は不要であり、無執着の者には離貪という行為自体が存在しない)。(6)

 

 [861]「諸々の快楽にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者は」とは、諸々の快楽は、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)と説かれる。何を契機とすることから、諸々の快楽は、五つの欲望の属性と説かれるのか。多くのところとして、天〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の属性を、欲求し、愛用し、切望し、熱望し、渇望する。それを契機とすることから、諸々の快楽は、五つの欲望の属性と説かれる。彼らの、この快楽としての渇愛が、〔いまだ〕捨棄されていないなら、彼らの、眼からは、形態への渇愛が、流れ出、漏れ出、流れ、転起し、耳からは、音声への渇愛が……鼻からは、臭気への渇愛が……舌からは、味感への渇愛が……身からは、感触への渇愛が……意からは、法(意の対象)への渇愛が、流れ出、漏れ出、流れ、転起する。彼らの、この快楽としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼らの、眼からは、形態への渇愛が、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起せず、耳からは、音声への渇愛が……略……意からは、法(意の対象)への渇愛が、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。ということで、「諸々の快楽にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者は」。

 

 [862]「かつまた、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません」とは、どのようなものが、高慢(過慢)であるのか。ここに、一部の者は、他者を軽んじる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、高慢と説かれる。彼の、この高慢が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、かつまた、高慢〔の思い〕に、陥る者でもなく、束縛された者でもなく、専念する者でもなく、等しく専従する者でもない。ということで、「かつまた、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません」。

 

 [863]「そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の智慧〕ある者は」とは、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」とは、優雅な身体の行為を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。優雅な言葉の行為を……。優雅な意の行為を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。優雅な〔四つの〕気づきの確立を具備した者……。優雅な〔四つの〕正しい精励を具備した者……。優雅な〔四つの〕神通の足場を具備した者……。優雅な〔五つの〕機能を具備した者……。優雅な〔五つの〕力を具備した者……。優雅な〔七つの〕覚りの支分を具備した者を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。優雅な聖なる八つの支分ある道を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」。

 

 [864]「即応即答〔の智慧〕ある者は」とは、三者の即応即答〔の智慧〕ある者がいる。(1)聖典について即応即答〔の智慧〕ある者、(2)遍問について即応即答〔の智慧〕ある者、(3)到達(証得)について即応即答〔の智慧〕ある者である。(1)どのような者が、聖典について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、〔生来の〕性向によって、経(スッタ)、頌歌(ゲイヤ)、授記(ヴェイヤーカラナ)、詩偈(ガーター)、感興語(ウダーナ)、如是語(イティヴッタカ)、本生(ジャータカ)、未曾有法(アッブタダンマ)、問答(ヴェーダッラ)が、学得されたものとして有る。〔学得した〕聖典に依拠して、彼に、〔答えが〕明白となる。これが、聖典について即応即答〔の智慧〕ある者である。(2)どのような者が、遍問について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者は、かつまた、自己の義(意味)について、かつまた、正理の義(意味)について、かつまた、特相について、かつまた、契機について、かつまた、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)について、遍問された者として有る。その遍問に依拠して、彼に、〔答えが〕明白となる。これが、遍問について即応即答〔の智慧〕ある者である。(3)どのような者が、到達について即応即答〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)、四つの沙門の果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)、四つの融通無礙(四無礙解:義・法・言語・応答の融通無礙)、六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)が、到達されたものとして有る。彼に、義(意味)は知られ、法(教え)は知られ、言語は知られ、義(意味)が知られたとき、義(意味)は明白となり、法(教え)が知られたとき、法(教え)は明白となり、言語が知られたとき、言語は明白となる。これらの三つについて、知恵があり、応答の融通無礙がある。この応答の融通無礙を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、即応即答〔の智慧〕ある者と説かれる。彼に、聖典が存在しないなら、遍問が存在しないなら、到達が存在しないなら、どうして、彼に、〔答えが〕明白となるというのだろう。ということで、「そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の智慧〕ある者は」。

 

 [865]「信仰なく、離貪しません」とは、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)に〔信を置き〕、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、あるいは、天〔の神〕の、あるいは、悪魔の、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)の、誰であれ、他者の〔法に〕信を置かない。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、自らをもって、自ら、証知したものとして……略……。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と……。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と……略([324]参照)……。「生という縁あることから、老と死がある」と……。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と……略([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と……。「これは、苦しみである」と……略([324]参照)……。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と……。「これらは、諸々の煩悩である」と……略([324]参照)……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と……。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と……略([324]参照)……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と、自らをもって、自ら、証知したものとして……略……。六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起に、さらに、滅至に、そして、悦楽に、かつまた、危険に、さらに、出離に……略……。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起に……略……。四つの大いなる元素の、そして、集起に、さらに、滅至に、そして、悦楽に、かつまた、危険に、さらに、出離に、自らをもって、自ら、証知したものとして……略……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)に〔信を置き〕、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、あるいは、天〔の神〕の、あるいは、悪魔の、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)の、誰であれ、他者の〔法に〕信を置かない。

 

 [866]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「サーリプッタよ、あなたは、信を置きますか──信の機能(信根)が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃)と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成り〕、精進の機能(精進根)が……気づきの機能(念根)が……禅定の機能(定根)が……智慧の機能(慧根)が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃)と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。

 

 [867]〔尊者サーリプッタは答えた〕「尊き方よ、まさに、わたしは、ここにおいて、世尊への信(信仰)によって赴くのではありません──信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……禅定の機能が……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃)と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、たしかに、それらの者たちにとって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものとして存するなら、彼らは、そこにおいて、他者たちへの信によって赴くでしょう──信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……禅定の機能が……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃)と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、しかしながら、それらの者たちにとって、まさに、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって〔すでに〕体得されているなら、彼らは、そこにおいて、疑いなき者たちとしてあり、疑惑なき者たちとしてあります──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。尊き方よ、そして、わたしにとって、まさに、このことは、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって〔すでに〕体得されています。わたしは、そこにおいて、疑いなき者としてあり、疑惑なき者としてあります──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。

 

 [868]〔世尊は言った〕「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、それらの者たちにとって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものとして存するなら、彼らは、そこにおいて、他者たちへの信によって赴くでしょう──信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……禅定の機能が……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕。サーリプッタよ、しかしながら、それらの者たちにとって、まさに、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって〔すでに〕体得されているなら、彼らは、そこにおいて、疑いなき者たちとしてあり、疑惑なき者たちとしてあります──信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕、不死を結末とするものと〔成る、という、このことに〕」と。

 

 [869]〔そこで、詩偈に言う〕「〔特定のものについて〕信なく、かつまた、作られざるもの(涅槃)について知あり、そして、〔輪廻の〕鎖を断ち切る、その人──〔造悪の〕機会を打ち砕き、〔自利の〕願望を吐き捨てた者──彼は、まさに、最上の人士である」と。

 

 [870]「信仰なく、離貪しません」とは、愚者である凡夫は、全ての者たちが、〔欲に〕染まり(貪欲する)、七者の〔いまだ〕学びある者は、善き凡夫と比較して、離貪し(欲に染まらない)、阿羅漢は、まさしく、〔欲に〕染まることもなく、離貪することもない。彼は、〔すでに〕離貪した者として〔世に有る〕──貪欲の滅尽あることから、貪欲が離れたことから、憤怒の滅尽あることから、憤怒が離れたことから、迷妄の滅尽あることから、迷妄が離れたことから。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「信仰なく、離貪しません」。

 

 [871]それによって、世尊は言った。

 

 [872]「諸々の快楽にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者は、かつまた、高慢〔の思い〕に陥る者でもありません。そして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の智慧〕ある者は、信仰なく、離貪しません(真理を確信した者に信仰は不要であり、無執着の者には離貪という行為自体が存在しない)」と。

 

89.

 

 [873]860.(854) 利得(行乞の施物)を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません。そして、〔他者を〕遮らない者(他者に悪意なき者)は、諸々の味について、渇愛〔の思い〕で貪り求めません。(7)

 

 [874]「利得(行乞の施物)を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません」とは、どのように、利得を欲して学ぶのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者である、〔他の〕比丘を見る。彼に、このような〔思いが〕有る。「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者であるのか」と。彼に、このような〔思いが〕有る。「この尊者は、まさに、経の専門家として〔世に存している〕。それによって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を亢進させながら、経典を遍く学得する。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

 

 [875]さらに、あるいは、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者である、〔他の〕比丘を見る。彼に、このような〔思いが〕有る。「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者であるのか」と。彼に、このような〔思いが〕有る。「この尊者は、まさに、律の保持者として〔世に存している〕。……略……法(教え)の言説者として〔世に存している〕。……論の専門家として〔世に存している〕。それによって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を亢進させながら、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)を遍く学得する。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

 

 [876]さらに、あるいは、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者である、〔他の〕比丘を見る。彼に、このような〔思いが〕有る。「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者であるのか」と。彼に、このような〔思いが〕有る。「この尊者は、まさに、林にある者として〔世に存している〕。……〔行乞の〕施食の者として〔世に存している〕。……糞掃衣の者として〔世に存している〕。……三つの衣料の者として〔世に存している〕。……〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に存している〕。……〔規定された食〕以後の食を否とする者として〔世に存している〕。……常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に存している〕。……〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に存している〕。それによって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を亢進させながら、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者と成る。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

 

 [877]どのように、利得を欲して学ばないのか。ここに、比丘が、利得を因としてではなく、利得を縁としないことから、利得を契機としないことから、利得の発現のためではなく、利得を亢進させることなく、自己の調御を義(目的)として、自己の平静を義(目的)として、自己を完全なる涅槃に到達させること事を義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、経典を学得し、律を学得し、高次の法理を学得する。このようにもまた、利得を欲して学ばない。

 

 [878]さらに、あるいは、比丘が、利得を因としてではなく、利得を縁としないことから、利得を契機としないことから、利得の発現のためではなく、利得を亢進させることなく、少欲だけに依拠して、知足だけに依拠して、謹厳だけに依拠して、遠離だけに依拠して、この義(目的)たることだけに依拠して、まさしく、そのかぎりにおいて、林にある者と成り、〔行乞の〕施食の者と成り、糞掃衣の者と成り、三つの衣料の者と成り、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者と成り、〔規定された食〕以後の食を否とする者と成り、常坐〔にして不臥〕なる者と成り、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者と成る。このようにもまた、利得を欲して学ばない。ということで、「利得を欲して学ばず」。

 

 [879]「さらに、利得がないときも怒りません」とは、どのように、利得がないときに怒るのか。ここに、一部の者は、「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、盛名を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、賞賛を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、〔行乞の〕施食を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐具を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、看病の者を、〔わたしは〕得ない」「〔わたしは〕未詳の者として〔世に〕存している」と、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す。このように、利得がないときに怒る。

 

 [880]どのように、利得がないときに怒らないのか。ここに、比丘が、「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」……略……「〔わたしは〕未詳の者として〔世に〕存している」と、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さない。このように、利得がないときに怒らない。ということで、「利得を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません」。

 

 [881]「そして、〔他者を〕遮らない者(他者に悪意なき者)は、諸々の味について、渇愛〔の思い〕で貪り求めません」とは、「遮るもの」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕、意の強き憤怒、忿激、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、遮るもの(反感)と説かれる。彼の、この遮るものが、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、遮らない者(敵意なき者)と説かれる。「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「味」とは、根の味、幹の味、皮の味、葉の味、花の味、果の味、酸っぱみ、甘み、苦み、辛み、塩気、刺激、弛緩、渋み、美味、不味、冷、暖。或る沙門や婆羅門たちで、味に貪求ある者たちが存在し、彼らは、舌の先端で諸々の至高の味を遍く探し求めながら、〔各地を〕逍遥する。彼らは、酸っぱいものを得ては、酸っぱくないものを遍く探し求め、酸っぱくないものを得ては、酸っぱいものを遍く探し求め、甘いものを得ては、甘くないものを遍く探し求め、甘くないものを得ては、甘いものを遍く探し求め、苦いものを得ては、苦くないものを遍く探し求め、苦くないものを得ては、苦いものを遍く探し求め、辛いものを得ては、辛くないものを遍く探し求め、辛くないものを得ては、辛いものを遍く探し求め、塩気のものを得ては、塩気のないものを遍く探し求め、塩気のないものを得ては、塩気のものを遍く探し求め、刺激のものを得ては、刺激のないものを遍く探し求め、刺激のないものを得ては、刺激のものを遍く探し求め、弛緩のものを得ては、弛緩のないものを遍く探し求め、弛緩のないものを得ては、弛緩のものを遍く探し求め、美味しいものを得ては、不味いものを遍く探し求め、不味いものを得ては、美味しいものを遍く探し求め、冷たいものを得ては、暖かいものを遍く探し求め、暖かいものを得ては、冷たいものを遍く探し求める。彼らは、それぞれのものを得ても、それぞれのもので満足せず、次から次へと遍く探し求める。諸々の意に適う味について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちとなる。彼の、この味への渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。

 

 [882]たとえば、〔木を〕育成することを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、林を燃やすように、あるいは、また、たとえば、荷を超え渡すことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、車軸に塗油するように、あるいは、また、たとえば、砂漠を超え出ることを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、子の肉を食として食するように、まさしく、このように、比丘は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する──まさしく、戯れのためではなく……略……かつまた、平穏の住が」と。〔彼は〕味への渇愛を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。〔彼は〕味への渇愛から、離れた者として(※)、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「そして、〔他者を〕遮らない者は、諸々の味について、渇愛〔の思い〕で貪り求めません」。

 

※ テキストには ārato assa とあるが、PTS版により ārato と読む。

 

 [883]それによって、世尊は言った。

 

 [884]「利得(行乞の施物)を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません。そして、〔他者を〕遮らない者(他者に悪意なき者)は、諸々の味についても、渇愛〔の思い〕で貪りません」と。

 

90.

 

 [885]861.(855) 〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕「等しい」と思いません。「勝る」〔とも思い〕ません。「より劣る」〔とも思い〕ません。彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕は存在しません。(8)

 

 [886]「〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は」とは、「〔愛憎の思いを〕放捨し」とは、六つの支分ある放捨(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者。眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。眼によって、形態を見て、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲〔の思い〕を生じさせない。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。まさしく、また、まさに、眼によって、形態を見て、意に適わないものであるも、愕然と成らず、止住する心なく(怒りの思いを維持しない)、畏縮する意なく、憎悪する心なくある。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲を生じさせない。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。まさしく、また、まさに、意によって、法(意の対象)を識知して、意に適わないものであるも、愕然と成らず、止住する心なく、畏縮する意なく、憎悪する心なくある。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。

 

 [887]眼によって、形態を見て、諸々の意に適う〔形態〕と意に適わない形態にたいし、彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、諸々の意に適う〔法〕と意に適わない法(意の対象)にたいし、彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。

 

 [888]眼によって、形態を見て、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、激情するべきものについて激情せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、激情するべきものについて激情せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。見られたものにおいては、見られたもののみがあり、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみがあり、思われたものにおいては、思われたもののみがあり、識られたものにおいては、識られたもののみがある。見られたものについて汚されず、聞かれたものについて汚されず、思われたものについて汚されず、識られたものについて汚されない。見られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。聞かれたものについて……略……。思われたものについて……。識られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。

 

 [889]阿羅漢に、眼は等しく見出され、阿羅漢は、眼によって、形態を見るも、阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。阿羅漢に、耳は等しく見出され、阿羅漢は、耳によって、音声を聞くも、阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。阿羅漢に、鼻は等しく見出され、阿羅漢は、鼻によって、臭気を嗅ぐも、阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。阿羅漢に、舌は等しく見出され、阿羅漢は、舌によって、味感を……略……。阿羅漢に、身は等しく見出され、阿羅漢は、身によって、感触と……略……。阿羅漢に、意は等しく見出され、阿羅漢は、意によって、法(意の対象)を識知するも、阿羅漢に、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。

 

 [890]眼は、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜するも、阿羅漢のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示する。耳は、音声を喜びとし……略……。鼻は、臭気を喜びとし……。舌は、味感を喜びとし、味感を喜び、味感に歓喜するも、阿羅漢のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示する。身は、感触を喜びとし……略……。意は、法(意の対象)を喜びとし、法(意の対象)を喜び、法(意の対象)に歓喜するも、阿羅漢のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示する。

 

 [891]〔そこで、詩偈に言う〕「調御された〔象〕を、〔人々は〕戦場へと導く。調御された〔象〕に、王は乗る。〔自己が〕調御された者は、人間たちのなかの最勝の者──彼は、〔他者からの〕責め咎めを忍受する。

 

 [892]優れているのは、調御された騾馬たちであり、そして、善き生まれのシンダヴァたち(シンドゥ産の良馬)であり、さらに、クンジャラの大いなる象たちである。それよりも優れているのは、自己が調御された者である。

 

 [893]まさに、これらの乗物では、〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴くことはできない──すなわち、善く調御された自己〔という乗物〕で、調御された者が調御によって赴くようには。

 

 [894]〔『勝る』『等しい』『劣る』の三つの〕種類にたいし、〔彼らは〕動揺しない。さらなる生存から解脱した者たちであり、調御された境地に至り得た者たちであり、彼らは、世における征圧者たちである。

 

 [895]彼の、諸々の〔感官の〕機能が、内に、さらに、外に、一切の世において修められたなら──この〔世〕を、さらに、他の世を、〔あるがままに〕洞察して、〔自己を〕修めた者となり、〔死の〕時を待つ──彼は、『調御された者』〔と呼ばれる〕」〔と〕。ということで──

 

 [896]「〔愛憎の思いを〕放捨し」。「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に、常住時に、常恒時に……略([75]参照)……後年期(老年期)に。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略([31-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は」。

 

 [897]「世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません」とは、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません」。

 

 [898]「『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません」とは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、高慢を生じさせない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、卑下慢を生じさせない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません」。

 

 [899]「彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕は存在しません」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「増長〔の思い〕」とは、七つの増長がある。貪欲の増長、憤怒の増長、迷妄の増長、思量の増長、見解の増長、〔心の〕汚れ(煩悩)の増長、行為()の増長である。彼に、これらの増長は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕は存在しません」。

 

 [900]それによって、世尊は言った。

 

 [901]「〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません。彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の思い〕は存在しません」と。

 

91.

 

 [902]862.(856) 彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、生存への〔渇愛の思いが見出されないなら〕、あるいは、生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が見出されないなら──(9)

 

 [903]「彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「依存」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依所である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依所である。彼の、渇愛の依所は〔すでに〕捨棄され、見解の依所は〔すでに〕放棄され、渇愛の依所が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の依所が〔すでに〕放棄されたことから、彼に、〔他者に〕依存することが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら」。

 

 [904]「法(真理)を知って、依存なき者となります」とは、「知って」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と(※)、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「依存なき者となります」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依所である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依所である。渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……略([29]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「法(真理)を知って、依存なき者となります」。

 

※ テキストには nirodhadhamma’’ntntti とあるが、PTS版により nirodhadhamman’’ti と読む。以下に見られる同様箇所については、明確な誤記であることから指摘を省略する。

 

 [905]「彼に、生存への〔渇愛の思いが見出されないなら〕、あるいは、生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が見出されないなら」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「生存への」とは、生存の見解(有見:実体論)への。「生存から離れることへの」とは、非生存の見解(非有見:虚無論)への。「生存への」とは、常久の見解(常見:常住論)への。「生存から離れることへの」とは、断絶の見解(断見:断滅論)への。「生存への」とは、繰り返す生存への、繰り返す境遇への、繰り返す再生への、繰り返す結生への、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現への。彼に、渇愛が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、生存への〔渇愛の思いが見出されないなら〕、あるいは、生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が見出されないなら」。

 

 [906]それによって、世尊は言った。

 

 [907]「彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、生存への〔渇愛の思いが見出されないなら〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が見出されないなら」と。

 

92.

 

 [908]863.(857) 諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、彼を、〔わたしは〕「寂静者」と説きます。彼に、諸々の拘束は見出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです。(10)

 

 [909]「彼を、〔わたしは〕『寂静者』と説きます」とは、「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「安息した者」と、彼のことを、〔わたしは〕説く、彼のことを、〔わたしは〕言説する、彼のことを、〔わたしは〕発語する、彼のことを、〔わたしは〕提示する、彼のことを、〔わたしは〕語用する。ということで、「彼を、〔わたしは〕『寂静者』と説きます」。

 

 [910]「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の〔心の〕汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、諸々の欲望〔の対象〕について、期待なき者として、欲望を離れた者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き捨てた者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、諸々の欲望〔の対象〕について、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を」。

 

 [911]「彼に、諸々の拘束は見出されません」とは、「拘束」とは、四つの拘束(四繋)がある。(1)強欲〔の思い〕としての身体の拘束、(2)憎悪〔の思い〕としての身体の拘束、(3)戒や掟への偏執としての身体の拘束、(4)「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。(1)自己の見解にたいする貪欲は、強欲〔の思い〕としての身体の拘束である。(2)他者たちの論にたいする憤懣と不興は、憎悪〔の思い〕としての身体の拘束である。(3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4)自己の見解は、「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「彼に、諸々の拘束は見出されません」とは、彼に、諸々の拘束は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、諸々の拘束は見出されません」。

 

 [912]「彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着(ヴィサッティカー)」とは、どのような義(意味)によって、執着となるのか。執着したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。広きもの(ヴィサーラ)、ということで、「執着」。拡散したもの(ヴィサタ)、ということで、「執着」。不正なるもの(ヴィサマ)、ということで、「執着」。冒険する(ヴィサッカティ)、ということで、「執着」。収集する(ヴィサンハラティ)、ということで、「執着」。言葉を違える者(ヴィサンヴァーディカ)、ということで、「執着」。毒根(ヴィサムーラ)、ということで、「執着」。毒果(ヴィサパラ)、ということで、「執着」。毒の遍き受益(ヴィサパリボーガ)、ということで、「執着」。また、あるいは、その渇愛は、広きもの(ヴィサーラ)にして、形態にたいし、音声にたいし、臭気にたいし、味感にたいし、感触にたいし、家にたいし、衆徒にたいし、居住にたいし……略([29]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、拡散したもの(ヴィサタ)となり、拡張したもの(ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」とは、彼は、この執着としての渇愛を、超え渡った、超え上がった、超え登った、等しく超越した、超克した。ということで、「彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」。

 

 [913]それによって、世尊は言った。

 

 [914]「諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、彼を、〔わたしは〕『寂静者』と説きます。彼に、諸々の拘束は見出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです」と。

 

93.

 

 [915]864.(858) 彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕ません。さらに、田畑や地所も見出され〔ません〕。あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです。(11)

 

 [916]「彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕ません。さらに、田畑や地所も見出され〔ません〕」とは、「ません」とは、否定〔の言葉〕。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「子供たち」とは、四者の子供がいる。実子としての子供、国人の子供、養子としての子供、内弟子としての子供である。「家畜たち」とは、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち。「田畑」とは、米の田畑、稲の田畑、緑豆の田畑、豆の田畑、麦の田畑、小麦の田畑、胡麻の田畑。「地所」とは、家屋の地所、貯蔵庫の地所、前〔庭〕の地所、後〔庭〕の地所、林園の地所、精舎の地所。「彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕ません。さらに、田畑や地所も見出され〔ません〕」とは、彼に、あるいは、子供という執持〔の対象〕は、あるいは、家畜という執持〔の対象〕は、あるいは、田畑という執持〔の対象〕は、あるいは、地所という執持〔の対象〕は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕ません。さらに、田畑や地所も見出され〔ません〕」。

 

 [917]「あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです」とは、「自己が」とは、自己の見解が。「自己ではないものが」とは、断絶の見解が。「自己が」とは、掴み取られたものが存在しない。「自己ではないものが」とは、解き放つべきものが存在しない。彼に、掴み取られたものが存在しないなら、彼に、解き放つべきものは存在しない。彼に、解き放つべきものが存在しないなら、彼に、掴み取られたものは存在しない。阿羅漢は、掴み取ることと解き放つことを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです」。

 

 [918]それによって、世尊は言った。

 

 [919]「彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕ません。さらに、田畑や地所も見出され〔ません〕。あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです」と。

 

94.

 

 [920]865.(859) そこで、〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを〔種々に〕説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません(どうでもいいことである)。それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです。(12)

 

 [921]「そこで、〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを〔種々に〕説くとして」とは、「凡夫(プトゥジャナ)」とは、広く(プトゥ)、諸々の〔心の〕汚れを生じさせる(ジャーネーティ)、ということで、「凡夫たち」。広く、身体を有するという見解が〔いまだ〕打破されていない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、教師たちの顔色をうかがう者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、一切の境遇から〔いまだ〕出起していない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる行作を行作する、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる激流によって運ばれる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる熱苦によって熱せられる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる苦悶によって嘆き悲しまされる、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの欲望の属性について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの〔修行の〕妨害によって、覆蔽された者たち、覆い護られた者たち、覆い被された者たち、覆い塞がれた者たち、覆い隠された者たち、覆い包まれた者たち、ということで、「凡夫たち」。「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、この〔僧団〕より外の者たちで、遍歴遊行〔の生活〕を具した者たちであり、遍歴遊行〔の生活〕に入った者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)たちである。「そこで、〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを〔種々に〕説くとして」とは、〔世の〕凡夫たちが、彼のことを、すなわち、貪欲によって説くとして、すなわち、憤怒によって説くとして、すなわち、迷妄によって説くとして、すなわち、思量によって説くとして、すなわち、見解によって説くとして、すなわち、高揚によって説くとして、すなわち、疑惑によって説くとして、すなわち、諸々の悪習によって説くとして──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靭に至った者(頑迷固陋の者)である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、彼のことを、すなわち、〔未来の〕境遇によって説くとして──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。彼のことを、それによって、説くとして、言説するとして、発語するとして、提示するとして、語用するとして、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「そこで、〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを〔種々に〕説くとして」。

 

 [922]「そのことは、彼にとって偏重されることではありません」とは、「彼にとって」とは、阿羅漢にとって、煩悩の滅尽者にとって。「偏重」とは、二つの偏重がある。(1)そして、渇愛の偏重であり、(2)さらに、見解の偏重である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔すでに〕捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者ではなく、渇愛を幟とする者ではなく、渇愛を優位とする者ではなく、見解を旗とする者ではなく、見解を幟とする者ではなく、見解を優位とする者ではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩むことはない。ということで、「そのことは、彼にとって偏重されることではありません」。

 

 [923]「それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の論にたいし、諸々の批判にたいし、〔自己への〕非難によって、〔自己への〕難詰によって、〔自己の〕不名誉によって、〔自己の〕栄誉ならざることの伝播によって、動かず、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです」。

 

 [924]それによって、世尊は言った。

 

 [925]「そこで、〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを〔種々に〕説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません(どうでもいいことである)。それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです」と。

 

95.

 

 [926]866.(860) 貪求〔の思い〕を離れ、物惜〔の思い〕なく、牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔時間の〕妄想に至りません(輪廻しない・妄想しない)。(13)

 

 [927]「貪求〔の思い〕を離れ、物惜〔の思い〕なく」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求〔の思い〕を離れた者と説かれる。彼は、形態にたいし貪求なき者として……略([29]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、無欲の者として……略([191]参照)……梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「貪求〔の思い〕を離れ」。「物惜〔の思い〕なく」とは、「物惜〔の思い〕」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の……略([133]参照)……収取である。これが、物惜と説かれる。彼の、この物惜が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、物惜〔の思い〕なき者と説かれる。ということで、「貪求〔の思い〕を離れ、物惜〔の思い〕なく」。

 

 [928]「牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。あるいは、「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」と、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません」。

 

 [929]「〔時間の〕妄想なき者は、〔時間の〕妄想に至りません」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想に、あるいは、見解の妄想に、至らず、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔時間の〕妄想に至りません」。「〔時間の〕妄想なき者は」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、営まず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔時間の〕妄想なき者は、〔時間の〕妄想に至りません」。

 

 [930]それによって、世尊は言った。

 

 [931]「貪求〔の思い〕を離れ、物惜〔の思い〕なく、牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔時間の〕妄想に至りません(輪廻しない・妄想しない)」と。

 

96.

 

 [932]867.(861) 彼に、世において、自らのものが存在しないなら、そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず、さらに、諸々の法(見解)にたいし赴かず、彼は、まさに、「寂静者」と説かれます。(14)

 

 [933]「彼に、世において、自らのものが存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「世において、自らのものが存在しないなら」とは、彼に、あるいは、「これは、わたしのものである」〔と〕、あるいは、「これは、他者たちのものである」と、何であれ、形態の在り方をしたもので、感受〔作用〕の在り方をしたもので、表象〔作用〕の在り方をしたもので、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもので、識知〔作用〕の在り方をしたもので、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、存在せず、存さず……略([222]参照)……知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、世において、自らのものが存在しないなら」。「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化したのだ」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの意が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭気が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの盛名が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕施食が……「わたしの臥坐具が……「わたしの病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化したのだ」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」。

 

 [934]さらに、あるいは、〔実体として〕存していない苦痛の感受によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。眼の病によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起せず、耳の病によって……略……鼻の病によって……舌の病によって……身の病によって……頭の病によって……耳(外耳)の病によって……口の病によって……歯の病によって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い(業報)から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」。

 

 [935]さらに、あるいは、存在していないときに、等しく見出されていないときに、認知されていないときに、「ああ、まさに、わたしには、それが存在しない」「まさに、わたしには、それが存在するべきだ」「まさに、わたしは、それを得ないであろう」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」。「さらに、諸々の法(見解)にたいし赴かず」とは、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、そして、諸々の党派の法(性質)によって、行か〔ず〕、導かれ〔ず〕、運ばれ〔ず〕、集められない。ということで、「さらに、諸々の法(見解)にたいし赴かず」。

 

 [936]「彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」とは、彼は、「〔心が〕静まった者」「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「安息した者」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。ということで、「彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」。

 

 [937]それによって、世尊は言った。

 

 [938]「彼に、世において、自らのものが存在しないなら、そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず、さらに、諸々の法(見解)にたいし赴かず、彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」と。

 

 [939]「〔身体の〕破壊の前に」の経についての釈示が、第十となる。

 

1. 11. 紛争と論争の経についての釈示

 

 [940]そこで、紛争と論争の経についての釈示を説くであろう。

 

97.

 

 [941]868.(862) 〔対話者が尋ねた〕──諸々の紛争と諸々の論争は、どこから発生したのですか。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは、さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量()と高慢(過慢)は、それらは、どこから発生したのですか。どうか、それを説いてください。(1)

 

 [942]「諸々の紛争と諸々の論争は、どこから発生したのですか」とは、「紛争」とは、一つの行相によるなら、紛争であり、また、「論争」とは、まさしく、それである(両者は同一である)。それが、紛争であるなら、それは、論争である。それが、論争であるなら、それは、紛争である。さらに、あるいは、他の行相によるなら、論争は、紛争の前段部分としての論争と説かれる。王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争する。これが、論争である。どのようなものが、紛争であるのか。在家者たちは、棒(罰)を追求する者たちとして、身体によって、言葉によって、紛争を為す。出家者たちは、罪を犯している者たちとして、身体によって、言葉によって、紛争を為す。これが、紛争である。

 

 [943]「諸々の紛争と諸々の論争は、どこから発生したのですか」とは、〔対話者は〕「そして、諸々の紛争は、さらに、諸々の論争は、どこから発生したものであり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、そして、紛争の、さらに、論争の、根元を尋ね、因を尋ね、因縁を尋ね、発生を尋ね、起源を尋ね、等しく現起するもの(発生源)を尋ね、食(動力源・エネルギー)を尋ね、対象(所縁)を尋ね、縁を尋ね、集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「諸々の紛争と諸々の論争は、どこから発生したのですか」。

 

 [944]「そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは」とは、「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。「憂い」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、内なる焼悩、内なる遍き焼悩、心の遍き焼尽、失意、憂いの矢。「物惜〔の思い〕」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、緊縮、心が掴み取られたあり方である。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕範疇の物惜もまた、物惜であり、〔十八の〕界域の物惜もまた、物惜であり、〔十二の認識の〕場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。ということで、「そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは」。

 

 [945]「さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量()と高慢(過慢)は」とは、「思量」とは、ここに、一部の者は、思量を生じさせる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。「高慢」とは、ここに、一部の者は、他者を軽んじる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。「中傷〔の思い〕」とは、ここに、一部の者は、中傷の言葉ある者として〔世に〕有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者であり、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者であり、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有る。これが、中傷〔の思い〕と説かれる。さらに、また、二つの契機によって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(1)あるいは、愛慕を欲することによって。(2)あるいは、分裂を志向することによって。(1)どのように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「この者にとって、〔わたしは〕愛しい者と成るのだ、〔わたしは〕意に適う者と成るのだ、〔わたしは〕信頼ある者と成るのだ、〔わたしは〕内々の者と成るのだ、〔わたしは〕親密の者と成るのだ」と、このように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(2)どのように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「どのように、これらの者たちは、種々に存することになるのか、別々に存することになるのか、諸々の党派の者たちとして存することになるのか、二種の者たちとして存することになるのか、二様の者たちとして存することになるのか、二派の者たちとして存することになるのか、分裂することになるのか、和合しないことになるのか、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むことになるのか」と、このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。ということで、「さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量と高慢は」。

 

 [946]「それらは、どこから発生したのですか。どうか、それを説いてください」とは、〔対話者は〕「そして、紛争は、そして、論争は、そして、嘆きは、そして、憂いは、そして、物惜は、そして、思量は、そして、高慢は、そして、中傷は、かくのごとく、これらの八つの〔心の〕汚れ(煩悩)は、どこから発生したものであり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、これらの八つの〔心の〕汚れの、根元を尋ね、因を尋ね、因縁を尋ね、発生を尋ね、起源を尋ね、等しく現起するもの(発生源)を尋ね、食(動力源・エネルギー)を尋ね、対象(所縁)を尋ね、縁を尋ね、集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「それらは、どこから発生したのですか」。「どうか、それを説いてください」とは、どうか、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「それらは、どこから発生したのですか。どうか、それを説いてください」。

 

 [947]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [948]〔対話者が尋ねた〕──「諸々の紛争と諸々の論争は、どこから発生したのですか。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは、さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量()と高慢(過慢)は、それらは、どこから発生したのですか。どうか、それを説いてください」と。

 

98.

 

 [949]869.(863) 〔世尊は答えた〕──諸々の紛争と諸々の論争は、愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)から発生しました。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは、さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量と高慢は、〔それらもまた、愛しいものから発生しました〕。諸々の紛争と諸々の論争は、諸々の物惜〔の思い〕に束縛されたものであり、そして、〔他者とのあいだで〕諸々の論争が生じたとき、諸々の中傷〔の思い〕があります。(2)

 

 [950]「諸々の紛争と諸々の論争は、愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)から発生しました。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは」とは、「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しい有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちであり、あるいは、母として、あるいは、父として、あるいは、兄弟たちとして、あるいは、姉妹たちとして、あるいは、子たちとして、あるいは、娘たちとして、あるいは、朋友たちとして、あるいは、僚友たちとして、あるいは、親族たちとして、あるいは、血縁たちとして、〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しい有情たちである。(2)どのようなものが、諸々の愛しい形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適う形態()、諸々の意に適う音声()、諸々の意に適う臭気()、諸々の意に適う味感()、諸々の意に適う感触(所触)、これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕である。

 

 [951]愛しい事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた紛争を為し、略奪されつつあるときもまた紛争を為し、略奪されたときもまた紛争を為す。愛しい事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた紛争を為し、変化しつつあるときもまた紛争を為し、変化したときもまた紛争を為す。愛しい事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた論争し、略奪されつつあるときもまた論争し、略奪されたときもまた論争する。愛しい事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた論争し、変化しつつあるときもまた論争し、変化したときもまた論争する。愛しい事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、略奪されつつあるときもまた嘆き悲しみ、略奪されたときもまた嘆き悲しむ。愛しい事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、変化しつつあるときもまた嘆き悲しみ、変化したときもまた嘆き悲しむ。愛しい事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、略奪されつつあるときもまた憂い悲しみ、略奪されたときもまた憂い悲しむ。愛しい事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、変化しつつあるときもまた憂い悲しみ、変化したときもまた憂い悲しむ。愛しい事物を、守護し、保護し、執持し、わがものとし、物惜する。

 

 [952]「さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量と高慢は、〔それらもまた、愛しいものから発生しました〕」とは、(1)愛しい事物に依存して、思量を生じさせる。(2)愛しい事物に依存して、高慢を生じさせる。(1)どのように、愛しい事物に依存して、思量を生じさせるのか。「わたしたちは、諸々の意に適う形態の、諸々の意に適う音声の、諸々の意に適う臭気の、諸々の意に適う味感の、諸々の意に適う感触の、得者たちである」と、このように、愛しい事物に依存して、思量を生じさせる。(2)どのように、愛しい事物に依存して、高慢を生じさせるのか。「わたしたちは、諸々の意に適う形態の、諸々の意に適う音声の、諸々の意に適う臭気の、諸々の意に適う味感の、諸々の意に適う感触の、得者たちである。いっぽう、これらの他の者たちは、諸々の意に適う形態の、諸々の意に適う音声の、諸々の意に適う臭気の、諸々の意に適う味感の、諸々の意に適う感触の、得者たちではない」と、このように、愛しい事物に依存して、高慢を生じさせる。「中傷〔の思い〕」とは、ここに、一部の者は、中傷の言葉ある者として〔世に〕有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者であり……略([856]参照)……このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。ということで、「諸々の紛争と諸々の論争は、愛しいものから発生しました。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは、さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量と高慢は、〔それらもまた、愛しいものから発生しました〕」。

 

 [953]「諸々の紛争と諸々の論争は、諸々の物惜〔の思い〕に束縛されたものであり」とは、そして、紛争は、そして、論争は、そして、嘆きは、そして、憂いは、そして、思量は、そして、高慢は、そして、中傷は、かくのごとく、これらの七つの〔心の〕汚れは、諸々の物惜〔の思い〕に、束縛されたものであり、専念するものであり、専従するものであり、等しく専従するものである。ということで、「諸々の紛争と諸々の論争は、諸々の物惜〔の思い〕に束縛されたものであり」。

 

 [954]「そして、〔他者とのあいだで〕諸々の論争が生じたとき、諸々の中傷〔の思い〕があります」とは、論争が、生じたとき、産出したとき、発現したとき、結実したとき、出現したとき、中傷〔の思い〕に近しく集中する。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知し、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知し、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者たちとして、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者たちとして、党派を喜びとする者たちとして、党派を喜ぶ者たちとして、党派を愉悦とする者たちとして、党派を作り為す言葉を語る者たちとして、〔世に〕有る。これが、中傷〔の思い〕と説かれる。さらに、また、二つの契機によって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(1)あるいは、愛慕を欲することによって。(2)あるいは、分裂を志向することによって。(1)どのように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「この者にとって、〔わたしたちは〕愛しい者たちと成るのだ、〔わたしたちは〕意に適う者たちと成るのだ、〔わたしたちは〕信頼ある者たちと成るのだ、〔わたしたちは〕内々の者たちと成るのだ、〔わたしたちは〕親密の者たちと成るのだ」と、このように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(2)どのように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「どのように、これらの者たちは、種々に存することになるのか、別々に存することになるのか、諸々の党派の者たちとして存することになるのか、二種の者たちとして存することになるのか、二様の者たちとして存することになるのか、二派の者たちとして存することになるのか、分裂することになるのか、和合しないことになるのか、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むことになるのか」と、このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。ということで、「そして、〔他者とのあいだで〕諸々の論争が生じたとき、諸々の中傷〔の思い〕があります」。

 

 [955]それによって、世尊は言った。

 

 [956]〔世尊は答えた〕──「諸々の紛争と諸々の論争は、愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)から発生しました。そして、諸々の物惜〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂いは、さらに、諸々の中傷〔の思い〕と共にある諸々の思量と高慢は、〔それらもまた、愛しいものから発生しました〕。諸々の紛争と諸々の論争は、諸々の物惜〔の思い〕に束縛されたものであり、そして、〔他者とのあいだで〕諸々の論争が生じたとき、諸々の中傷〔の思い〕があります」と。

 

99.

 

 [957]870.(864) 〔対話者が尋ねた〕──世における諸々の愛しいものは、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕──さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして。そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕──それらが、人の未来のために有るとして。(3)

 

 [958]「世における諸々の愛しいものは、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」とは、〔対話者は〕「諸々の愛しいものは、因縁としてどこから〔発生したもの〕であり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、諸々の愛しいものの、根元を尋ね……略([943]参照)……集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「世における諸々の愛しいものは、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」。

 

 [959]「さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして」とは、「さらに、また、彼らが」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちが。「貪欲〔の思い〕」とは、すなわち、貪欲(ローバ)、貪欲すること、貪欲あること、貪染、貪染すること、貪染あること、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「渡り歩く」とは、〔世を〕渡り歩き、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。「世を」とは、悪所の世を、人間の世を、天の世を、〔五つの〕範疇()の世を、〔十八の〕界域()の世を、〔十二の認識の〕場所()の世を。ということで、「さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして」。

 

 [960]「そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」とは、〔対話者は〕「そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてどこから〔発生したもの〕であり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、そして、願望の、さらに、目標の、根元を尋ね……略([943]参照)……集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」。「それらが、人の未来のために有るとして」とは、それらのもので、人にとって、諸々の行き着く所と成るもの、諸々の灯明と成るもの、諸々の救護所と成るもの、諸々の避難所と成るもの、諸々の帰依所と成るもの、諸々の目標として行き着く所と成るもの。ということで、「それらが、人の未来のために有るとして」。

 

 [961]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [962]〔対話者が尋ねた〕──「世における諸々の愛しいものは、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕──さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして。そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕──それらが、人の未来のために有るとして」と。

 

100.

 

 [963]871.(865) 〔世尊は答えた〕──世における諸々の愛しいものは、因縁として欲〔の思い〕から〔発生しました〕──さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして。そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてこれ(欲の思い)から〔発生しました〕──それらが、人の未来のために有るとして。(4)

 

 [964]「世における諸々の愛しいものは、因縁として欲〔の思い〕から〔発生しました〕」とは、「欲〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛、欲望〔の対象〕にたいする執取、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害である。さらに、また、五つの欲〔の思い〕がある。(1)遍き探し求めとしての欲〔の思い〕、(2)獲得としての欲〔の思い〕、(3)遍き受益としての欲〔の思い〕、(4)蓄積としての欲〔の思い〕、(5)消費としての欲〔の思い〕である。(1)どのようなものが、遍き探し求めとしての欲〔の思い〕であるのか。ここに、一部の者は、まさしく、固執した者として、義(目的)とする者として、欲〔の思い〕を生じた者として、諸々の形態を遍く探し求め、諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を遍く探し求める。これが、遍き探し求めとしての欲〔の思い〕である。(2)どのようなものが、獲得としての欲〔の思い〕であるのか。ここに、一部の者は、まさしく、固執した者として、義(目的)とする者として、欲〔の思い〕を生じた者として、諸々の形態を獲得し、諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を獲得する。これが、獲得としての欲〔の思い〕である。(3)どのようなものが、遍き受益としての欲〔の思い〕であるのか。ここに、一部の者は、まさしく、固執した者として、義(目的)とする者として、欲〔の思い〕を生じた者として、諸々の形態を遍く受益し、諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を遍く受益する。これが、遍き受益としての欲〔の思い〕である。(4)どのようなものが、蓄積としての欲〔の思い〕であるのか。ここに、一部の者は、まさしく、固執した者として、義(目的)とする者として、欲〔の思い〕を生じた者として、財産の蓄積を為す。「諸々の災害があるとき、〔これが〕有るであろう(役に立つ)」と。これが、蓄積としての欲〔の思い〕である。(5)どのようなものが、消費としての欲〔の思い〕であるのか。ここに、一部の者は、まさしく、固執した者として、義(目的)とする者として、欲〔の思い〕を生じた者として、象兵たちのために、馬兵たちのために、車兵たちのために、弓の使い手たちのために、歩兵たちのために、財産を消費する。「これらの者たちは、わたしを、守護するであろう、保護するであろう、囲繞するであろう」と。これが、消費としての欲〔の思い〕である。「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)……略([489]参照)……。これらの者たちが、愛しい有情たちである。(2)……略([489]参照)……。これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕である。「世における諸々の愛しいものは、因縁として欲〔の思い〕から〔発生しました〕」とは、諸々の愛しいものは、欲〔の思い〕を因縁とするものであり、欲〔の思い〕を集起とするものであり、欲〔の思い〕を出生とするものであり、欲〔の思い〕を起源とするものである。ということで、「世における諸々の愛しいものは、因縁として欲〔の思い〕から〔発生しました〕」。

 

 [965]「さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして」とは、「さらに、また、彼らが」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちが。「貪欲〔の思い〕」とは、すなわち、貪欲(ローバ)、貪欲すること、貪欲あること、貪染、貪染すること、貪染あること、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「渡り歩く」とは、〔世を〕渡り歩き、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。「世を」とは、悪所の世を……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世を。ということで、「さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして」。

 

 [966]「そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてこれ(欲の思い)から〔発生しました〕」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「目標」とは、ここに、一部の者は、諸々の形態を遍く探し求めながら、形態を獲得し、形態を目標とする者として〔世に〕有り、諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を……家を……衆徒を……居住を……利得を……盛名を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕施食を……臥坐具を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を……経典を……律を……高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)を……林にある者の支分を……〔行乞の〕施食の者の支分を……糞掃衣の者の支分を……三つの衣料の者の支分を……〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者の支分を……〔規定された食〕以後の食を否とする者の支分を……常坐〔にして不臥〕なる者の支分を……〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者の支分を……第一の瞑想(初禅・第一禅)を……第二の瞑想(第二禅)を……第三の瞑想(第三禅)を……第四の瞑想(第四禅)を……虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定を……識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)への入定を……無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)への入定を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)への入定を遍く探し求めながら、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を獲得し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定を目標とする者として〔世に〕有る。

 

 [967]〔そこで、詩偈に言う〕「願望あるがゆえに、〔耕作者は〕田畑を耕す。願望あるがゆえに、種子は蒔かれる。願望あるがゆえに、財を運ぶ商人たちは、海を行く。その願望あるがゆえに、〔わたしが〕依って立つ──わたしの、その願望は、等しく実現せよ」と。

 

 [968]目標は、願望の繁栄(成就)と説かれる。「そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてこれ(欲の思い)から〔発生しました〕」とは、そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、これから〔発生したものであり〕、欲〔の思い〕を因縁とするものであり、欲〔の思い〕を集起とするものであり、欲〔の思い〕を出生とするものであり、欲〔の思い〕を起源とするものである。ということで、「そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてこれから〔発生しました〕」。

 

 [969]「それらが、人の未来のために有るとして」とは、それらのもので、人にとって、諸々の行き着く所と成るもの、諸々の灯明と成るもの、諸々の救護所と成るもの、諸々の避難所と成るもの、諸々の帰依所と成るもの、諸々の目標として行き着く所と成るもの。ということで、「それらが、人の未来のために有るとして」。

 

 [970]それによって、世尊は言った。

 

 [971]〔世尊は答えた〕──「世における諸々の愛しいものは、因縁として欲〔の思い〕から〔発生しました〕──さらに、また、彼らが、貪欲〔の思い〕から、世を渡り歩くとして。そして、諸々の願望は、さらに、諸々の目標は、因縁としてこれ(欲の思い)から〔発生しました〕──それらが、人の未来のために有るとして」と。

 

101.

 

 [972]872.(866) 〔対話者が尋ねた〕──世における欲〔の思い〕は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。さらに、また、〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断は、〔因縁として〕どこから発生したのですか。忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、〔因縁としてどこから発生したのですか〕──さらに、また、それらの法(性質)が、沙門によって説かれたとして。(5)

 

 [973]「世における欲〔の思い〕は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」とは、〔対話者は〕「欲〔の思い〕は、因縁としてどこから〔発生したもの〕であり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、欲〔の思い〕の、根元を尋ね……略([943]参照)……集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「世における欲〔の思い〕は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」。

 

 [974]「さらに、また、〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断は、〔因縁として〕どこから発生したのですか」とは、〔対話者は〕「諸々の〔断定的〕判断は、どこから発生したものであり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、諸々の〔断定的〕判断の、根元を尋ね……略([943]参照)……集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「さらに、また、〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断は、〔因縁として〕どこから発生したのですか」。

 

 [975]「忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、〔因縁としてどこから発生したのですか〕」とは、「忿激」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕、意の強き憤怒、忿激、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。虚偽の言葉は、虚偽を説くことと説かれる。懐疑は、疑惑と説かれる。ということで、「忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、〔因縁としてどこから発生したのですか〕」。

 

 [976]「さらに、また、それらの法(性質)が、沙門によって説かれたとして」とは、「さらに、また、それら」とは、それらの、そして、忿激と、かつまた、虚偽の言葉と、さらに、懐疑と、共具したもの、共に生じたもの、交わり合ったもの、結び付いたもの、一なる生起あるもの、一なる止滅あるもの、一なる基盤あるもの、一なる対象あるものである。これらのものが、さらに、また、それらの法(性質)と説かれる。さらに、あるいは、すなわち、それらの、〔心の〕汚れとしてある、他の類のものであり、他〔の流儀〕に関したものである。これらのものが、さらに、また、それらの法(性質)と説かれる。「沙門によって説かれた」とは、悪しきを静めた沙門によって、悪しき法(性質)を拒否した婆羅門によって、〔心の〕汚れの根元を破壊した比丘によって、一切の善ならざるものの根元の結縛から解き放たれた者によって、説かれた、呼ばれた、告げ知らされた、説示された、報知された、確立された、開顕された、区分された、明瞭と為された、明示された。ということで、「さらに、また、それらの法(性質)が、沙門によって説かれたとして」。

 

 [977]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [978]〔対話者が尋ねた〕──「世における欲〔の思い〕は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。さらに、また、〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断は、〔因縁として〕どこから発生したのですか。忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、〔因縁としてどこから発生したのですか〕──さらに、また、それらの法(性質)が、沙門によって説かれたとして」と。

 

102.

 

 [979]873.(867) 〔世尊は答えた〕──〔まさに〕その、「快がある、不快がある」と、世において、〔人々が〕言うところの、その〔二者〕(快と不快)に依存して、欲〔の思い〕は発生します。諸々の形態(:妄想によって固定され実体化した形相)のうちに、〔表象として妄想した〕虚無(非有:無)を見て、さらに、〔表象として顕現した〕実体(:存在)を〔見て〕、人は、世において、〔断定的〕判断を為します。(6)

 

 [980]「〔まさに〕その、『快がある、不快がある』と、世において、〔人々が〕言うところの」とは、「快」とは、そして、安楽の感受(楽受)であり、さらに、好ましい事物である。「不快」とは、そして、苦痛の感受(苦受)であり、さらに、好ましくない事物である。「〔まさに〕その、世において、〔人々が〕言うところの」とは、すなわち、〔人々が〕言うところのもの、すなわち、〔人々が〕言説するところのもの、すなわち、〔人々が〕発語するところのもの、すなわち、〔人々が〕提示するところのもの、すなわち、〔人々が〕語用するところのもの。ということで、「〔まさに〕その、『快がある、不快がある』と、世において、〔人々が〕言うところの」。

 

 [981]「その〔二者〕(快と不快)に依存して、欲〔の思い〕は発生します」とは、快と不快に依存して、安楽と苦痛に依存して、悦意と失意に依存して、好ましいものと好ましくないものに依存して、随貪と敵対に依存して、欲〔の思い〕は、発生し、起源し、生じ、産出し、発現し、結実する。ということで、「その〔二者〕に依存して、欲〔の思い〕は発生します」。

 

 [982]「諸々の形態()のうちに、〔表象として妄想した〕虚無(非有)を見て、さらに、〔表象として顕現した〕実体()を〔見て〕」とは、「諸々の形態」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。(1)どのようなものが、諸々の形態にとっての実体であるのか。すなわち、諸々の形態の、生存()、生、産出、発現、結実、出現である。これが、諸々の形態にとっての実体である。(2)どのようなものが、諸々の形態にとっての虚無であるのか。すなわち、諸々の形態の、滅尽、衰失、破壊、完全なる破壊、無常性、消没である。これが、諸々の形態にとっての虚無である。「諸々の形態のうちに、〔表象として妄想した〕虚無を見て、さらに、〔表象として顕現した〕実体を〔見て〕」とは、諸々の形態のうちに、そして、実体を、さらに、虚無を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「諸々の形態のうちに、〔表象として妄想した〕虚無を見て、さらに、〔表象として顕現した〕実体を〔見て〕」。

 

 [983]「人は、世において、〔断定的〕判断を為します」とは、「判断」とは、二つの判断がある。(1)そして、渇愛の判断であり、(2)さらに、見解の判断である。(1)どのように、渇愛の判断を為すのか。ここに、一部の者に、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない諸々の財物が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した諸々の財物が完全なる滅尽へと赴く。彼に、このような〔思いが〕有る。「いったい、まさに、どのような手段(仕組み)によって、わたしに、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない諸々の財物が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した諸々の財物が完全なる滅尽へと赴くのか」と。また、彼に、このような〔思いが〕有る。「穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位への専念に専念するわたしに、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない諸々の財物が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した諸々の財物が完全なる滅尽へと赴く。非時に路地を歩むこと(夜遊び)への専念に専念するわたしに、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない諸々の財物が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した諸々の財物が完全なる滅尽へと赴く。祭礼に通いつめることへの専念に専念するわたしに……賭事による放逸の境位への専念に専念するわたしに……悪しき朋友への専念に専念するわたしに、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない諸々の財物が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した諸々の財物が完全なる滅尽へと赴く。怠けへの専念に専念するわたしに、まさしく、そして、〔いまだ〕生起していない諸々の財物が生起せず、さらに、〔すでに〕生起した諸々の財物が完全なる滅尽へと赴く」と。このように、知恵を作り為して、六つの財物の損失の入口に慣れ親しまず、六つの財物の収益の入口に慣れ親しむ。このようにもまた、渇愛の判断を為す。

 

 [984]さらに、あるいは、あるいは、耕作によって、あるいは、商売によって、あるいは、牧畜によって、あるいは、弓術によって、あるいは、仕官によって、あるいは、或るひとつの技能によって、実践する(生活する)。このようにもまた、渇愛の判断を為す。(2)どのように、見解の判断を為すのか。眼が生起したとき、「わたしの自己が、生起したのだ」と知る。眼が消没したとき、「わたしの自己が、消没したのだ。わたしの自己が、離れ去ったのだ」と知る。このようにもまた、見解の判断を為す。耳が……。鼻が……。舌が……。身が……。形態が……。音声が……。臭気が……。味感が……。感触が生起したとき、「わたしの自己が、生起したのだ」と知る。感触が消没したとき、「わたしの自己が、消没したのだ。わたしの自己が、離れ去ったのだ」と知る。このようにもまた、見解の判断を、為し、生じさせ、産出させ、発現させ、結実させる。「人(ジャントゥ)」とは、有情、人(ナラ)……略([10]参照)……マヌから生じる者。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「人は、世において、〔断定的〕判断を為します」。

 

 [985]それによって、世尊は言った。

 

 [986]〔世尊は答えた〕──「〔まさに〕その、『快がある、不快がある』と、世において、〔人々が〕言うところの、その〔二者〕(快と不快)に依存して、欲〔の思い〕は発生します。諸々の形態(:妄想によって固定され実体化した形相)のうちに、〔表象として妄想した〕虚無(非有:無)を見て、さらに、〔表象として顕現した〕実体(:存在)を〔見て〕、人は、世において、〔断定的〕判断を為します」と。

 

103.

 

 [987]874.(868) 忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、これらの法(性質)もまた、まさしく、〔快と不快の〕二者(概念的二項対立図式)に〔依存して〕、存在します。懐疑ある者は、知恵の道に学ぶのです。〔このように〕知って、〔これらの〕法(性質)は、沙門によって説かれました。(7)

 

 [988]「忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は」とは、「忿激」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣……略([811]参照)……。虚偽の言葉は、虚偽を説くことと説かれる。懐疑は、疑惑と説かれる。好ましい事物に依存してもまた、忿激は生じる。好ましくない事物に依存してもまた、忿激は生じる。好ましい事物に依存してもまた、虚偽を説くことは生起する。好ましくない事物に依存してもまた、虚偽を説くことは生起する。好ましい事物に依存してもまた、懐疑は生起する。好ましくない事物に依存してもまた、懐疑は生起する。

 

 [989]どのように、好ましくない事物に依存して、忿激は生じるのか。元来において、好ましくない事物に依存して、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった」……義(利益)ならざることを行なう」……義(利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった」……義(利益)を行なう」……義(利益)を行なうであろう」と、忿激は生じる。このように、好ましくない事物に依存して、忿激は生じる。

 

 [990]どのように、好ましい事物に依存して、忿激は生じるのか。好ましい事物に、略奪の疑いある者としてもまた、忿激は生じ、略奪されつつあるときもまた、忿激は生じ、略奪されたときもまた、忿激は生じる。好ましい事物に、変化の疑いある者としてもまた、忿激は生じ、変化しつつあるときもまた、忿激は生じ、変化したときもまた、忿激は生じる。このように、好ましい事物に依存して、忿激は生じる。

 

 [991]どのように、好ましくない事物に依存して、虚偽を説くことは生起するのか。ここに、一部の者は、あるいは、枷の結縛に結縛された者として、その結縛の解放を義(目的)として、正知しつつ虚偽を語り(故意に嘘をつく)、あるいは、縄の結縛に結縛された者として……あるいは、鎖の結縛に結縛された者として……あるいは、藤の結縛に結縛された者として……あるいは、蔓の結縛に結縛された者として……あるいは、柵の結縛に結縛された者として……あるいは、遍き柵の結縛に結縛された者として……あるいは、村や町や城市や国土の結縛に結縛された者として……あるいは、地方の結縛に結縛された者として、その結縛の解放を義(目的)として、正知しつつ虚偽を語る(故意に嘘をつく)。このように、好ましくない事物に依存して、虚偽を説くことは生起する。

 

 [992]どのように、好ましい事物に依存して、虚偽を説くことは生起するのか。ここに、一部の者は、諸々の意に適う形態を因として、正知しつつ虚偽を語り、諸々の意に適う音声を……諸々の意に適う臭気を……諸々の意に適う味感を……諸々の意に適う感触を因として……衣料を因として……〔行乞の〕施食を因として……臥坐具を因として……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を因として、正知しつつ虚偽を語る。このように、好ましい事物に依存して、虚偽を説くことは生起する。

 

 [993]どのように、好ましくない事物に依存して、懐疑は生起するのか。「いったい、まさに、〔わたしは〕解き放たれるのであろうか──眼の病から」「いったい、まさに、〔わたしは〕解き放たれないのであろうか──眼の病から」「いったい、まさに、〔わたしは〕解き放たれるのであろうか──耳の病から」……鼻の病から」……舌の病から」……身の病から」……頭の病から」……耳(外耳)の病から」……口の病から」「いったい、まさに、〔わたしは〕解き放たれるのであろうか──歯の病から」「いったい、まさに、〔わたしは〕解き放たれないのであろうか──歯の病から」と、このように、好ましくない事物に依存して、懐疑は生起する。

 

 [994]どのように、好ましい事物に依存して、懐疑は生起するのか。「いったい、まさに、〔わたしは〕得るのであろうか──諸々の意に適う形態を」「いったい、まさに、〔わたしは〕得ないのであろうか──諸々の意に適う形態を」「いったい、まさに、〔わたしは〕得るのであろうか──諸々の意に適う音声を」……諸々の意に適う臭気を」……諸々の意に適う味感を」……諸々の意に適う感触を」……家を」……衆徒を」……居住を」……利得を」……盛名を」……賞賛を」……安楽を」……衣料を」……〔行乞の〕施食を」……臥坐具を」……病のための日用品たる薬の必需品を」と、このように、好ましい事物に依存して、懐疑は生起する。ということで、「忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は」。

 

 [995]「これらの法(性質)もまた、まさしく、〔快と不快の〕二者(概念的二項対立図式)に〔依存して〕、存在します」とは、快と不快が存しているとき、安楽と苦痛が存しているとき、悦意と失意が存しているとき、好ましいものと好ましくないものが存しているとき、随貪と敵対が、存しているとき、等しく見出されているとき、認知されているとき、存在する。ということで、「これらの法(性質)もまた、まさしく、〔快と不快の〕二者に〔依存して〕、存在します」。

 

 [996]「懐疑ある者は、知恵の道に学ぶのです」とは、知恵もまた、知恵の道である。知恵の対象もまた、知恵の道である。知恵と共に有る諸法(性質)もまた、知恵の道である。たとえば、聖者の道(マッガ)が、聖者の道(パタ)であるように、天の道(マッガ)が、天の道(パタ)であるように、梵の道(マッガ)が、梵の道(パタ)であるように、まさしく、このように、知恵もまた、知恵の道である。知恵の対象もまた、知恵の道である。知恵と共に有る諸法(性質)もまた、知恵の道である。

 

 [997]「学ぶのです」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。(1)どのようなものが、卓越の戒の学びであるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。小なる戒の範疇、大いなる戒の範疇、戒、立脚するもの(依所)、最初〔の行〕、行ない、自制、統御、諸々の善なる法(性質)への入定のために、頭目となり、筆頭となるもの。これが、卓越の戒の学びである。(2)どのようなものが、卓越の心の学びであるのか。ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略([142]参照)……第四の瞑想を成就して〔世に〕住む。これが、卓越の心の学びである。(3)どのようなものが、卓越の智慧の学びであるのか。ここに、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有る──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。彼は、「これは、苦しみである」と、事実のとおりに覚知し……略([143]参照)……「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。「これらは、諸々の煩悩である」と、事実のとおりに覚知し……略([143]参照)……「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。これが、卓越の智慧の学びである。

 

 [998]「懐疑ある者は、知恵の道に学ぶのです」とは、人として、懐疑ある者は、疑いを有する者は、散乱〔の思い〕を有する者は、二種〔の思い〕を有する者は、疑惑を有する者は、知恵の到達(証得)のために、知恵の体得のために、知恵の実証のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心(瞑想)をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学び(三学:戒・禅定・智慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕見ている者として学ぶべきであり、綿密に注視している者として学ぶべきであり、心を確立している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、智慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「懐疑ある者は、知恵の道に学ぶのです」。

 

 [999]「〔このように〕知って、〔これらの〕法(性質)は、沙門によって説かれました」とは、「知って」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して、説かれた、呼ばれた、告げ知らされた、説示された、報知された、確立された、開顕された、区分された、明瞭と為された、明示された。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して、説かれた、呼ばれた、告げ知らされた、説示された、報知された、確立された、開顕された、区分された、明瞭と為された、明示された。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と……。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と……略([324]参照)……。「生という縁あることから、老と死がある」と……。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と……略([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と……。「これは、苦しみである」と……略([324]参照)……。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と……。「これらは、諸々の煩悩である」と……略([324]参照)……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と……。「これらの法(性質)は、証知されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、捨棄されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、修行されるべきである」と……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と……。六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を……。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を……。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して、説かれた、呼ばれた、告げ知らされた、説示された、報知された、確立された、開顕された、区分された、明瞭と為された、明示された。

 

 [1000]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、わたしは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示します──証知せずして、ではなく。比丘たちよ、わたしは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示します──因縁なきものとして、ではなく。比丘たちよ、わたしは、神変(変容)を有するものとして、法(教え)を説示します──神変なきものとして、ではなく。比丘たちよ、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示していると──証知せずして、ではなく──因縁を有するものとして、法(教え)を説示していると──因縁なきものとして、ではなく──神変を有するものとして、法(教え)を説示していると──神変なきものとして、ではなく──〔まさに〕その、わたしには、為すべきこととして、教諭があり、為すべきこととして、教示があります。比丘たちよ、また、そして、あなたたちには、満足たるに十分なるものがあり、歓喜たるに十分なるものがあり、悦意たるに十分なるものがあります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である』」と。また、そして、この説き明かしが語られているとき、千の世の界域が揺れ動いた。ということで、「〔このように〕知って、〔これらの〕法(性質)は、沙門によって説かれました」。

 

 [1001]それによって、世尊は言った。

 

 [1002]「忿激は、そして、虚偽の言葉は、さらに、懐疑は、これらの法(性質)もまた、まさしく、〔快と不快の〕二者(概念的二項対立図式)に〔依存して〕、存在します。懐疑ある者は、知恵の道に学ぶのです。〔このように〕知って、〔これらの〕法(性質)は、沙門によって説かれました」と。

 

104.

 

 [1003]875.(869) 〔対話者が尋ねた〕──そして、快と不快〔の二者〕は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。何が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあるのですか。虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は、因縁としてどこから〔発生するのか〕を、このことを、わたしに説いてください。(8)

 

 [1004]「そして、快と不快〔の二者〕は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」とは、〔対話者は〕「快と不快〔の二者〕は、因縁としてどこから〔発生したもの〕であり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、快と不快〔の二者〕の、根元を尋ね……略([943]参照)……集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「そして、快と不快〔の二者〕は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」。

 

 [1005]「何が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあるのですか」とは、何が、存在していないとき、等しく見出されていないとき、認知されていないとき、快と不快〔の二者〕は、存在しないのか、有ることなくあり、起源せず、生ぜず、産出せず、発現せず、結実しないのか。ということで、「何が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあるのですか」。

 

 [1006]「虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は」とは、(1)どのようなものが、快と不快〔の二者〕にとっての実体であるのか。すなわち、快と不快〔の二者〕の、生存、起源、生、産出、発現、結実、出現である。これが、快と不快〔の二者〕にとっての実体である。(2)どのようなものが、快と不快〔の二者〕にとっての虚無であるのか。すなわち、快と不快〔の二者〕の、滅尽、衰失、破壊、完全なる破壊、無常性、消没である。これが、諸々の形態にとっての虚無である。「〔まさに〕その、この義(意味)は」とは、すなわち、最高の義(勝義:最高の真実)としては。ということで、「虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は」。

 

 [1007]「因縁としてどこから〔発生するのか〕を、このことを、わたしに説いてください」とは、「このことを」とは、〔わたしが〕尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕浄信するところの、それを。「説いてください」とは、説いてください、論じてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「このことを、わたしに説いてください」。「因縁としてどこから〔発生するのか〕を」とは、すなわち、因縁を、すなわち、集起を、すなわち、出生を、すなわち、起源を。ということで、「因縁としてどこから〔発生するのか〕を、このことを、わたしに説いてください」。

 

 [1008]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1009]〔対話者が尋ねた〕──「そして、快と不快〔の二者〕は、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。何が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあるのですか。虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は、因縁としてどこから〔発生するのか〕を、このことを、わたしに説いてください」と。

 

105.

 

 [1010]876.(870) 〔世尊は答えた〕──快と不快〔の二者〕は、因縁として接触(:感覚の発生)から〔発生しました〕。接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります。虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は、因縁としてこれ(接触)から〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます。(9)

 

 [1011]「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触()から〔発生しました〕」とは、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受(楽受)は生起する。すなわち、まさしく、その、安楽として感受されるべき接触の、止滅あることから、すなわち、それに応じて感受された安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止する。苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受(苦受)は生起する。すなわち、まさしく、その、苦痛として感受されるべき接触の、止滅あることから、すなわち、それに応じて感受された苦痛として感受されるべき接触を縁として生起した、苦痛の感受は、それは止滅し、それは寂止する。苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)は生起する。すなわち、まさしく、その、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の、止滅あることから、すなわち、それに応じて感受された苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止する。「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触から〔発生しました〕」とは、快と不快〔の二者〕は、接触を因縁とするものであり、接触を集起とするものであり、接触を出生とするものであり、接触を起源とするものである。ということで、「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触から〔発生しました〕」。

 

 [1012]「接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります」とは、接触が、存在していないとき、等しく見出されていないとき、認知されていないとき、快と不快〔の二者〕は、存在しない、有ることなくあり、起源せず、生ぜず、産出せず、発現せず、結実しない。ということで、「接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります」。

 

 [1013]「虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は」とは、実体の見解もまた、接触を因縁とするものである。虚無の見解もまた、接触を因縁とするものである。「〔まさに〕その、この義(意味)は」とは、すなわち、最高の義(勝義:最高の真実)としては。ということで、「虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は」。

 

 [1014]「因縁としてこれ(接触)から〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます」とは、「このことを」とは、〔あなたが〕尋ねるところの、それを、〔あなたが〕乞い求めるところの、それを、〔あなたが〕要請するところの、それを、〔あなたが〕浄信するところの、それを。「説きます」とは、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「このことを、あなたに説きます」。「因縁としてこれから〔発生すること〕を」とは、これ(接触)から〔発生することを〕──接触を因縁とすることを、接触を集起とすることを、接触を出生とすることを、接触を起源とすることを。ということで、「因縁としてこれから〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます」。

 

 [1015]それによって、世尊は言った。

 

 [1016]〔世尊は答えた〕──「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触(:感覚の発生)から〔発生しました〕。接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります。虚無、さらに、また、実体という、〔まさに〕その、この義(意味)は、因縁としてこれ(接触)から〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます」と。

 

106.

 

 [1017]877.(871)〔対話者が尋ねた〕──世における接触(感覚の発生)は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。さらに、また、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、〔因縁として〕どこから発生したのですか。何が存在していないとき、我執は存在しないのですか。何が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しないのですか。(10)

 

 [1018]「世における接触(感覚の発生)は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」とは、〔対話者は〕「接触は、因縁としてどこから〔発生したもの〕であり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、接触の、根元を尋ね、因を尋ね……略([943]参照)……集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「世における接触は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕」。

 

 [1019]「さらに、また、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、〔因縁として〕どこから発生したのですか」とは、〔対話者は〕「諸々の執持〔の対象〕は、因縁としてどこから〔発生したもの〕であり、どこから生じたものであり、どこから産出したものであり、どこから発現したものであり、どこから結実したものであり、どこから出現したものであり、何を因縁とするものであり、何を集起とするものであり、何を出生とするものであり、何を起源とするものであるのか」と、諸々の執持〔の対象〕の、根元を尋ね、因を尋ね……略([943]参照)……集起を、尋ね、問い、乞い求め、要請し、浄信する。ということで、「さらに、また、諸々の執持〔の対象〕は、〔因縁として〕どこから発生したのですか」。

 

 [1020]「何が存在していないとき、我執は存在しないのですか」とは、何が、存在していないとき、等しく見出されていないとき、認知されていないとき、我執は、存在しないのか、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてあるのか。ということで、「何が存在していないとき、我執は存在しないのですか」。

 

 [1021]「何が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しないのですか」とは、何が、実体を離れたとき、非有となったとき、超越されたとき、等しく超越されたとき、超克されたとき、諸々の接触は接触しないのか。ということで、「何が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しないのですか」。

 

 [1022]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1023]〔対話者が尋ねた〕──「世における接触(感覚の発生)は、いったい、因縁としてどこから〔発生したのですか〕。さらに、また、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、〔因縁として〕どこから発生したのですか。何が存在していないとき、我執は存在しないのですか。何が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しないのですか」と。

 

107.

 

 [1024]878.(872) 〔世尊は答えた〕──かつまた、名前(:妄想によって固定され概念化した言葉)を、かつまた、形態(:妄想によって固定され実体化した形相)を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕。諸々の執持〔の対象〕は、因縁として欲求(潜在的な心の衝動)から〔発生しました〕。欲求が存在していないとき、我執は存在しません。形態が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しません。(11)

 

 [1025]「かつまた、名前()を、かつまた、形態()を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕」とは、かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕(眼識)が生起する。三つのものの接合は、接触である。かつまた、眼は、かつまた、諸々の形態は、形態のうちにあり(物質的事象である)、眼の接触を除いて、〔それらと〕結び付いた諸法(性質)は、名前のうちにある(精神的事象である)。このようにもまた、「かつまた、名前を、かつまた、形態を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕」。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕(耳識)が生起する。三つのものの接合は、接触である。かつまた、耳は、かつまた、諸々の音声は、形態のうちにあり(物質的事象である)、耳の接触を除いて、〔それらと〕結び付いた諸法(性質)は、名前のうちにある(精神的事象である)。このようにもまた、「かつまた、名前を、かつまた、形態を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕」。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕(鼻識)が生起する。三つのものの接合は、接触である。かつまた、鼻は、かつまた、諸々の臭気は、形態のうちにあり(物質的事象である)、鼻の接触を除いて、〔それらと〕結び付いた諸法(性質)は、名前のうちにある(精神的事象である)。このようにもまた、「かつまた、名前を、かつまた、形態を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕」。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕(舌識)が生起する。三つのものの接合は、接触である。かつまた、舌は、かつまた、諸々の味感は、形態のうちにあり(物質的事象である)、舌の接触を除いて、〔それらと〕結び付いた諸法(性質)は、名前のうちにある(精神的事象である)。このようにもまた、「かつまた、名前を、かつまた、形態を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕」。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕(身識)が生起する。三つのものの接合は、接触である。かつまた、身は、かつまた、諸々の感触は、形態のうちにあり(物質的事象である)、身の接触を除いて、〔それらと〕結び付いた諸法(性質)は、名前のうちにある(精神的事象である)。このようにもまた、「かつまた、名前を、かつまた、形態を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕」。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕(意識)が生起する。三つのものの接合は、接触である。そして、〔心臓の〕基盤としての形態(基色:意識の所依となる色法・心基)は、形態のうちにあり(物質的事象である)、形態ある諸々の法(意の対象)は、形態のうちにあり(物質的事象である)、意の接触を除いて、〔それらと〕結び付いた諸法(性質)は、名前のうちにある(精神的事象である)。このようにもまた、「かつまた、名前を、かつまた、形態を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕」。

 

 [1026]「諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、因縁として欲求(潜在的な心の衝動)から〔発生しました〕」とは、欲求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「執持」とは、二つの執持〔の対象〕がある。(1)そして、渇愛の執持〔の対象〕であり、(2)さらに、見解の執持〔の対象〕である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の執持〔の対象〕である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の執持〔の対象〕である。「諸々の執持〔の対象〕は、因縁として欲求から〔発生しました〕」とは、諸々の執持〔の対象〕は、欲求を因縁とするものであり、欲求を因とするものであり、欲求を縁とするものであり、欲求を契機とするものであり、欲求を起源とするものである。ということで、「諸々の執持〔の対象〕は、因縁として欲求から〔発生しました〕」。

 

 [1027]「欲求が存在していないとき、我執は存在しません」とは、欲求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。「欲求が存在していないとき、我執は存在しません」とは、欲求が、存在していないとき、等しく見出されていないとき、認知されていないとき、我執は、存在しない、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「欲求が存在していないとき、我執は存在しません」。

 

 [1028]「形態が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しません」とは、「形態」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。「形態が実体を離れたとき」とは、四つの行相によって、形態は、実体を離れたものと成る。(1)知恵という実体を離れたものによって、(2)推量という実体を離れたものによって、(3)捨棄という実体を離れたものによって、(4)超越という実体を離れたものによって。(1)どのように、知恵という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成るのか。〔彼は〕形態を知る。「それが何であれ、形態であるなら、全ての形態が、そして、四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態である」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。このように、知恵という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成る。

 

 [1029](2)どのように、推量という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成るのか。このように知恵を作り為して、〔彼は〕形態を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、疾患〔の観点〕から、禍〔の観点〕から、恐怖〔の観点〕から、災禍〔の観点〕から、動揺するもの〔の観点〕から、滅壊するもの〔の観点〕から、常恒ならざるもの〔の観点〕から、救護所ならざるもの〔の観点〕から、避難所ならざるもの〔の観点〕から、帰依所ならざるもの〔の観点〕から、空虚〔の観点〕から、虚妄〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、変化の法(性質)〔の観点〕から、真髄なきもの〔の観点〕から、悩苦の根元〔の観点〕から、殺戮者〔の観点〕から、非生存(非有)〔の観点〕から、煩悩を有するもの〔の観点〕から、形成されたもの(有為)〔の観点〕から、悪魔の餌〔の観点〕から、生の法(性質)〔の観点〕から、老の法(性質)〔の観点〕から、病の法(性質)〔の観点〕から、死の法(性質)〔の観点〕から、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)の法(性質)〔の観点〕から、〔心の〕汚染(雑染)の法(性質)〔の観点〕から、集起〔の観点〕から、滅至〔の観点〕から、悦楽〔の観点〕から、危険〔の観点〕から、出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。このように、推量という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成る。

 

 [1030](3)どのように、捨棄という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成るのか。このように推量して、〔彼は〕形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それが、形態にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕であるなら、それを捨棄しなさい。このように、その形態は、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成るでしょう」と、このように、捨棄という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成る。

 

 [1031](4)どのように、超越という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成るのか。四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を獲得した者の諸々の形態は、実体を離れたものと成り、非有となったもの、超越されたもの、等しく超越されたもの、超克されたものと〔成る〕。このように、超越という実体を離れたものによって、形態は、実体を離れたものと成る。これらの四つの行相によって、形態は、実体を離れたものと成る。

 

 [1032]「形態が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しません」とは、形態が、実体を離れたとき、非有となったとき、超越されたとき、等しく超越されたとき、超克されたとき、五つの接触は──眼の接触は、耳の接触は、鼻の接触は、舌の接触は、身の接触は──接触しない。ということで、「形態が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しません」。

 

 [1033]それによって、世尊は言った。

 

 [1034]〔世尊は答えた〕──「かつまた、名前(:妄想によって固定され概念化した言葉)を、かつまた、形態(:妄想によって固定され実体化した形相)を、〔両者を〕縁として、接触は〔発生しました〕。諸々の執持〔の対象〕は、因縁として欲求(潜在的な心の衝動)から〔発生しました〕。欲求が存在していないとき、我執は存在しません。形態が実体を離れたとき、諸々の接触は接触しません」と。

 

108.

 

 [1035]879.(873)〔対話者が尋ねた〕──どのように行知した者の形態は、実体を離れるのですか。楽は、さらに、また、苦は、どのように、実体を離れるのですか。このことを、〔それが〕実体を離れる、そのとおりに、わたしに説いてください。それを、〔わたしたちは〕知りたいのです。かくのごとく、わたしの意は成りました。(12)

 

 [1036]「どのように行知した者の形態は、実体を離れるのですか」とは、「どのように行知した者の」とは、どのように行知した者の、どのように実践した者の、どのように振る舞っている者の、どのように行持している者の、どのように〔身を〕守っている者の、どのように〔身を〕保っている者の、どのように〔身を〕保ち行っている者の、形態は、実体を離れ、非有となり、超越され、等しく超越され、超克されるのか。ということで、「どのように行知した者の形態は、実体を離れるのですか」。

 

 [1037]「楽は、さらに、また、苦は、どのように、実体を離れるのですか」とは、そして、安楽は、さらに、苦痛は、どのように、実体を離れ、非有となり、超越され、等しく超越され、超克されるのか。ということで、「楽は、さらに、また、苦は、どのように、実体を離れるのですか」。

 

 [1038]「このことを、〔それが〕実体を離れる、そのとおりに、わたしに説いてください」とは、「このことを」とは、〔わたしが〕尋ねるところの、それを、〔わたしが〕乞い求めるところの、それを、〔わたしが〕要請するところの、それを、〔わたしが〕浄信するところの、それを。ということで、「このことを」。「わたしに説いてください」とは、わたしに、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「このことを、わたしに説いてください」。「〔それが〕実体を離れる、そのとおりに」とは、〔それが〕実体を離れ、非有となり、超越され、等しく超越され、超克される、そのとおりに。ということで、「このことを、〔それが〕実体を離れる、そのとおりに、わたしに説いてください」。

 

 [1039]「それを、〔わたしたちは〕知りたいのです。かくのごとく、わたしの意は成りました」とは、「それを、〔わたしたちは〕知りたいのです」とは、それを、〔わたしたちは〕知りたい、〔わたしたちは〕了知したい、〔わたしたちは〕識知したい、〔わたしたちは〕解知したい、〔わたしたちは〕理解したい。ということで、「それを、〔わたしたちは〕知りたいのです」。「かくのごとく、わたしの意は成りました」とは、かくのごとく、わたしの意は成った、かくのごとく、わたしの心は成った、かくのごとく、わたしの思惟は成った、かくのごとく、わたしの識知は成った。ということで、「それを、〔わたしたちは〕知りたいのです。かくのごとく、わたしの意は成りました」。

 

 [1040]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1041]〔対話者が尋ねた〕──「どのように行知した者の形態は、実体を離れるのですか。楽は、さらに、また、苦は、どのように、実体を離れるのですか。このことを、〔それが〕実体を離れる、そのとおりに、わたしに説いてください。それを、〔わたしたちは〕知りたいのです。かくのごとく、わたしの意は成りました」と。

 

109.

 

 [1042]880.(874) 〔世尊は答えた〕──表象としての表象ある者(既存の表象に随従する者)ではなく、表象を離れる表象ある者(異常な表象を妄想する者)ではなく、また、表象なき者(表象を有さない者)ではなく、実体を離れた表象ある者(無色界禅定の得者)ではなく、このように行知した者の形態は、実体を離れます。なぜなら、諸々の虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)は、因縁として表象〔作用〕(:認識対象を表象し概念化する働き)から〔発生する〕からです。(13)

 

 [1043]「表象としての表象ある者ではなく、表象を離れる表象ある者ではなく」とは、表象としての表象ある者たちは、すなわち、〔生来の〕性向の表象によって〔自ずと〕止住している者たちと説かれる。彼は、〔生来の〕性向の表象によって〔自ずと〕止住している者でもまたない。表象を離れる表象ある者たちは、狂者たち、さらに、すなわち、散乱した心の者たち、と説かれる。彼は、狂者でもまたなく、散乱した心の者でもまたない。ということで、「表象としての表象ある者ではなく、表象を離れる表象ある者ではなく」。

 

 [1044]「また、表象なき者ではなく、実体を離れた表象ある者ではなく」とは、表象なき者たちは、止滅〔の入定〕に入定した者たち、さらに、すなわち、表象なき有情たち、と説かれる。彼は、止滅〔の入定〕に入定した者でもまたなく、表象なき有情でもまたない。実体を離れた表象ある者たちは、すなわち、四つの形態なき〔行境〕への入定の得者たちと説かれる。彼は、四つの形態なき〔行境〕への入定の得者でもまたない。ということで、「また、表象なき者ではなく、実体を離れた表象ある者ではなく」。

 

 [1045]「このように行知した者の形態は、実体を離れます」とは、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略([142]参照)……第四の瞑想〔の境地〕(第四禅)を成就して〔世に〕住む。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)への入定の獲得を義(目的)として、心を、導引し、向かわせ、形態なき道を保有する者となる。ということで、このように行知した者の、このように実践した者の、このように振る舞っている者の、このように行持している者の、このように〔身を〕守っている者の、このように〔身を〕保っている者の、このように〔身を〕保ち行っている者の、形態は、実体を離れ、非有となり、超越され、等しく超越され、超克される。ということで、「このように行知した者の形態は、実体を離れます」。

 

 [1046]「なぜなら、諸々の虚構(戯論)の名称は、因縁として表象〔作用〕()から〔発生する〕からです」とは、まさしく、諸々の虚構は、諸々の虚構の名称であり、諸々の渇愛の虚構の名称であり、諸々の見解の虚構の名称であり、諸々の思量の虚構の名称であり、諸々の表象を因縁とするものであり、諸々の表象を集起とするものであり、諸々の表象を出生とするものであり、諸々の表象を起源とするものである。ということで、「なぜなら、諸々の虚構の名称は、因縁として表象〔作用〕から〔発生する〕からです」。

 

 [1047]それによって、世尊は言った。

 

 [1048]〔世尊は答えた〕──「表象としての表象ある者(既存の表象に随従する者)ではなく、表象を離れる表象ある者(異常な表象を妄想する者)ではなく、また、表象なき者(表象を有さない者)ではなく、実体を離れた表象ある者(無色界禅定の得者)ではなく、このように行知した者の形態は、実体を離れます。なぜなら、諸々の虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)は、因縁として表象〔作用〕(:認識対象を表象し概念化する働き)から〔発生する〕からです」と。

 

110.

 

 [1049]881.(875)〔対話者が尋ねた〕──〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。まさに、或る者たちは、いったい、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説くのですか──ここに、〔自らを〕賢者たちとして。あるいは、また、これ(形態の非有)とは他のものを説くのですか。(14)

 

 [1050]「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました」とは、すなわち、あなたに、〔わたしたちが〕尋ねたこと、〔わたしたちが〕乞い求めたこと、〔わたしたちが〕要請したこと、〔わたしたちが〕浄信したこと。「〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました」とは、〔あなたによって〕述べられた、〔あなたによって〕述べ伝えられた、〔あなたによって〕告げ知らされた、〔あなたによって〕説示された、〔あなたによって〕報知された、〔あなたによって〕確立された、〔あなたによって〕開顕された、〔あなたによって〕区分された、〔あなたによって〕明瞭と為された、〔あなたによって〕明示された。ということで、「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました」。

 

 [1051]「〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください」とは、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕尋ねる、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕乞い求める、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕要請する、他のものを、あなたに、〔わたしたちは〕浄信する、より上なるものを、あなたに、〔わたしたちは〕尋ねる。「どうか、それを説いてください」とは、どうか、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください」。

 

 [1052]「まさに、或る者たちは、いったい、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説くのですか──ここに、〔自らを〕賢者たちとして」とは、或る沙門や婆羅門たちは、これらの形態なき〔行境〕への入定を、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「精神の」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者の。「清浄を」とは、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を。「ここに、〔自らを〕賢者たちとして」とは、ここに、自らの主張について、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「まさに、或る者たちは、いったい、これだけで、精神の至高の清浄を説くのですか──ここに、〔自らを〕賢者たちとして」。

 

 [1053]「あるいは、また、これ(形態の非有)とは他のものを説くのですか」とは、あるいは、或る沙門や婆羅門たちは、これらの形態なき〔行境〕への入定を、超越して、等しく超越して、超克して、この形態なき〔行境〕への入定とは他のより上なるものを、精神の、清らかさと、清浄と、完全なる清浄と、解き放ちと、解脱と、完全なる解脱と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「あるいは、また、これとは他のものを説くのですか」。

 

 [1054]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1055]〔対話者が尋ねた〕──「〔まさに〕その、〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことですが、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものを、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。まさに、或る者たちは、いったい、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説くのですか──ここに、〔自らを〕賢者たちとして。あるいは、また、これ(形態の非有)とは他のものを説くのですか」と。

 

111.

 

 [1056]882.(876) 〔世尊は答えた〕──まさに、或る者たちは、また、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説きます(常住論)──ここに、〔自らを〕賢者たちとして。いっぽうで、彼らのなかの或る者たちは、〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)について、〔別の誤った〕教義を説きます(断滅論)──〔自らについて〕「智者である」〔と〕説きながら。(15)

 

 [1057]「まさに、或る者たちは、また、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説きます(常住論)──ここに、〔自らを〕賢者たちとして」とは、或る沙門や婆羅門たちで、常久の論ある者たちが存在する。〔彼らは〕これらの形態なき〔行境〕への入定を、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「精神の」とは、有情、人(ナラ)、人間(マーナヴァ)、人士(ポーサ)、人物(プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人(ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者の。「清浄を」とは、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を。「ここに、〔自らを〕賢者たちとして」とは、ここに、自らの主張について、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「まさに、或る者たちは、また、これだけで、精神の至高の清浄を説きます──ここに、〔自らを〕賢者たちとして」。

 

 [1058]「いっぽうで、彼らのなかの或る者たちは、〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)について、〔別の誤った〕教義を説きます(断滅論)──〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら」とは、まさしく、それらの沙門や婆羅門たちのなかの、或る沙門や婆羅門たちは、断絶の論ある者たちであり、生存に怯えた者たちであり、虚無(非有)を喜び楽しむ。彼らは、有情(精神)の、静まりを、寂静を、寂止を、止滅を、安息を、かくのごとく説く。「すなわち、何となれば、まさに、この自己は、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくあることから、このことから、〔生存の〕依り所という残りものがないものとなる」と。「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら」とは、自らの主張について、智者と説く者たち、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「いっぽうで、彼らのなかの或る者たちは、〔生存の〕依り所という残りものがないものについて、〔別の誤った〕教義を説きます──〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら」。

 

 [1059]それによって、世尊は言った。

 

 [1060]〔世尊は答えた〕──「まさに、或る者たちは、また、これ(形態の非有)だけで、精神の至高の清浄を説きます(常住論)──ここに、〔自らを〕賢者たちとして。いっぽうで、彼らのなかの或る者たちは、〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)について、〔別の誤った〕教義を説きます(断滅論)──〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら」と。

 

112.

 

 [1061]883.(877) しかしながら、これらの者たちを、「〔いまだ〕依存ある者たちである」と知って──牟尼にして〔あるがままの〕考察者たる彼は、〔彼らのことを〕依存〔の対象〕ある者たちと知って──解脱者は、知って〔そののち〕、〔無益な〕論争に至らず、〔真の〕慧者は、〔もはや〕種々なる生存のために行知しません(輪廻的あり方を超越する)。(16)

 

 [1062]「しかしながら、これらの者たちを、『〔いまだ〕依存ある者たちである』と知って」とは、「これらの者たちを」とは、悪しき見解ある者たちを。「〔いまだ〕依存ある者たちである」とは、「常久の見解に依存する者たちである」と知って、「断絶の見解に依存する者たちである」と知って、「常久と断絶の見解に依存する者たちである」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「しかしながら、これらの者たちを、『〔いまだ〕依存ある者たちである』と知って」。

 

 [1063]「牟尼にして〔あるがままの〕考察者たる彼は、〔彼らのことを〕依存〔の対象〕ある者たちと知って」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。牟尼は、「常久の見解に依存する者たちである」と知って、「断絶の見解に依存する者たちである」と知って、「常久と断絶の見解に依存する者たちである」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「〔あるがままの〕考察者たる彼」とは、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。ということで、「牟尼にして〔あるがままの〕考察者たる彼は、〔彼らのことを〕依存〔の対象〕ある者たちと知って」。「解脱者は、知って〔そののち〕、〔無益な〕論争に至らず」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「解脱者」とは、究極の執取なき解脱によって、解き放たれた者、解脱者、完全に解き放たれた者、善く解き放たれた者。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して、究極の執取なき解脱によって、解き放たれた者、解脱者、完全に解き放たれた者、善く解き放たれた者。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と……。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して、究極の執取なき解脱によって、解き放たれた者、解脱者、完全に解き放たれた者、善く解き放たれた者。ということで、「解脱者は、知って〔そののち〕」。「〔無益な〕論争に至らず」とは、紛争を為さず、言争を為さず、口論を為さず、論争を為さず、確執を為さない。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「アッギヴェッサナよ、このように、まさに、心が解脱した比丘は、誰とであれ、同調せず、誰とであれ、論争せず、かつまた、それが、世において説かれるところであるとして、偏執することなく、なおかつ、それによって語用します」〔と〕。ということで、「解脱者は、知って〔そののち〕、〔無益な〕論争に至らず」。

 

 [1064]「〔真の〕慧者は、〔もはや〕種々なる生存のために行知しません」とは、「種々なる生存のために」とは、種々なる生存における(※)、行為の生存(業有)のために、さらなる生存(再有)のために──欲望の生存(欲有)における行為の生存のために、欲望の生存におけるさらなる生存のために、形態の生存(色有)における行為の生存のために、形態の生存におけるさらなる生存のために、形態なき生存(無色有)における行為の生存のために、形態なき生存におけるさらなる生存のために。繰り返す生存のために、繰り返す境遇のために、繰り返す再生のために、繰り返す結生のために、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現のために(※※)、行知せず、具現せず、収取せず、偏執せず、固着しない。「慧者」とは、慧者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。ということで、「〔真の〕慧者は、〔もはや〕種々なる生存のために行知しません」。

 

※ テキストには bhavāya とあるが、PTS版により bhavābhavāya と読む。

※※ テキストには punappunaattabhāvāya punappunābhinibbattiyā とあるが、PTS版により punappuna attabhāvābhinibbattiyā と読む。

 

 [1065]それによって、世尊は言った。

 

 [1066]「しかしながら、これらの者たちを、『〔いまだ〕依存ある者たちである』と知って──牟尼にして〔あるがままの〕考察者たる彼は、〔彼らのことを〕依存〔の対象〕ある者たちと知って──解脱者は、知って〔そののち〕、〔無益な〕論争に至らず、〔真の〕慧者は、〔もはや〕種々なる生存のために行知しません(輪廻的あり方を超越する)」と。

 

 [1067]紛争と論争の経についての釈示が、第十一となる。

 

1. 12. 小さなまとまりの経についての釈示

 

 [1068]そこで、小さなまとまりの経についての釈示を説くであろう。

 

113.

 

 [1069]884.(878) 〔対話者が尋ねた〕──互いに自らの見解に固着している者たちは、〔自らの見解に〕種々に執持して、〔自らについて〕「智者である」〔と〕説きます。「彼が、このように知るなら、彼は、法(真理)を知っている」「このことを非難している彼は、全一者ではない」〔等々と〕。(1)

 

 [1070]「互いに自らの見解に固着している者たちは」とは、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。たとえば、あるいは、在家者たちが、諸々の家屋のうちに住し、あるいは、罪を有する者たちが、諸々の罪のうちに住し、あるいは、〔心の〕汚れを有する者たちが、諸々の〔心の〕汚れのうちに住するように、まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。ということで、「互いに自らの見解に固着している者たちは」。

 

 [1071]「〔自らの見解に〕種々に執持して、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きます」とは、「執持して」とは、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、種々に説き、様々な種類に説き、互いに他を説き、多々に説き、一つのことを、説か〔ず〕、言説せ〔ず〕、発語せ〔ず〕、提示せ〔ず〕、語用しない。「〔自らについて〕『智者である』〔と〕」とは、自らの主張について、智者と説く者たち、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「〔自らの見解に〕種々に執持して、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きます」。

 

 [1072]「彼が、このように知るなら、彼は、法(真理)を知っている」とは、彼が、この、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、知るなら、彼は、法(教え)を、知った、了知した、見た、理解した。ということで、「彼が、このように知るなら、彼は、法(真理)を知っている」。

 

 [1073]「このことを非難している彼は、全一者ではない」とは、彼が、この、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、非難するなら、彼は、全一者ではなく、彼は、完全者ではなく、彼は、円満成就した者ではなく、彼は、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である。ということで、「このことを非難している彼は、全一者ではない」。

 

 [1074]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1075]〔対話者が尋ねた〕──「互いに自らの見解に固着している者たちは、〔自らの見解に〕種々に執持して、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きます。『彼が、このように知るなら、彼は、法(真理)を知っている』『このことを非難している彼は、全一者ではない』〔等々と〕」と。

 

114.

 

 [1076]885.(879) このように、また、〔世の自称智者たちは、自らの見解に〕執持して論争します。そして、「他者は、愚者である、智者ではない」と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕「智者である」〔と〕説いています。(2)

 

 [1077]「このように、また、〔世の自称智者たちは、自らの見解に〕執持して論争します」とは、このように、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、論争し、紛争を為し、言争を為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「このように、また、〔世の自称智者たちは、自らの見解に〕執持して論争します」。

 

 [1078]「そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います」とは、「他者は、愚者である、下劣である、劣悪である、卑賎である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である、智なき者である、知なき者である、無明を具した者である、知恵なき者である、分明なき者である、思慮浅き者である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います」。

 

 [1079]「いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか」とは、これらの沙門や婆羅門たちの、どの論が、真理であるのか、如実であるのか、真実であるのか、事実であるのか、あるがままであるのか、転倒ならざるものであるのか。ということで、「いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか」。

 

 [1080]「まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」とは、これらの沙門や婆羅門者たちは、まさしく、全ての者たちが、自らの主張について、智者と説く者たちである、賢者と説く者たちである、強固と説く者たちである、正理と説く者たちである、〔正しい〕因と説く者たちである、〔正しい〕特相と説く者たちである、〔正しい〕契機と説く者たちである、〔正しい〕拠点と説く者たちである。ということで、「まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」。

 

 [1081]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1082]「このように、また、〔世の自称智者たちは、自らの見解に〕執持して論争します。そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」と。

 

115.

 

 [1083]886.(880) 〔世尊は答えた〕──もし、他者の法(見解)を承認しないでいるとして、〔それによって、他者が〕愚者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、智慧の劣る者と成るなら、まさしく、全ての者たちが、愚者たちと〔成り〕、智慧の極めて劣る者たちと〔成ります〕。これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔各自の〕見解に固着しています。(3)

 

 [1084]「もし、他者の法(見解)を承認しないでいるとして」とは、他者の、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、承認せずにいる、随観せずにいる、認可せずにいる、許認せずにいる、随喜(同意)せずにいる。ということで、「もし、他者の法(見解)を承認しないでいるとして」。

 

 [1085]「〔それによって、他者が〕愚者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、智慧の劣る者と成るなら」とは、他者は、愚者と成り、下劣の者と〔成り〕、劣悪の者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、悪辣の者と〔成り〕、劣小の者と〔成り〕、微小の者と〔成り〕、下劣の智慧ある者と〔成り〕、劣悪の智慧ある者と〔成り〕、下等の智慧ある者と〔成り〕、悪辣の智慧ある者と〔成り〕、劣小の智慧ある者と〔成り〕、微小の智慧ある者と〔成る〕。ということで、「〔それによって、他者が〕愚者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、智慧の劣る者と成るなら」。

 

 [1086]「まさしく、全ての者たちが、愚者たちと〔成り〕、智慧の極めて劣る者たちと〔成ります〕」とは、これらの沙門や婆羅門者たちは、まさしく、全ての者たちが、愚者たちと〔成り〕、下劣の者たちと〔成り〕、劣悪の者たちと〔成り〕、下等の者たちと〔成り〕、悪辣の者たちと〔成り〕、劣小の者たちと〔成り〕、微小の者たちと〔成り〕、下劣の智慧ある者たちと〔成り〕、劣悪の智慧ある者たちと〔成り〕、下等の智慧ある者たちと〔成り〕、悪辣の智慧ある者たちと〔成り〕、劣小の智慧ある者たちと〔成り〕、微小の智慧ある者たちと〔成る〕。ということで、「まさしく、全ての者たちが、愚者たちと〔成り〕、智慧の極めて劣る者たちと〔成ります〕」。

 

 [1087]「これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔各自の〕見解に固着しています」とは、これらの沙門や婆羅門者たちは、まさしく、全ての者たちが、悪しき見解ある者たちであり、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。たとえば、あるいは、在家者たちが、諸々の家屋のうちに住し、あるいは、罪を有する者たちが、諸々の罪のうちに住し、あるいは、〔心の〕汚れを有する者たちが、諸々の〔心の〕汚れのうちに住するように、まさしく、このように、これらの沙門や婆羅門者たちは、まさしく、全ての者たちが、悪しき見解ある者たちであり……略……遍く住する。ということで、「これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔各自の〕見解に固着しています」。

 

 [1088]それによって、世尊は言った。

 

 [1089]〔世尊は答えた〕──「もし、他者の法(見解)を承認しないでいるとして、〔それによって、他者が〕愚者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、智慧の劣る者と成るなら、まさしく、全ての者たちが、愚者たちと〔成り〕、智慧の極めて劣る者たちと〔成ります〕。これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔各自の〕見解に固着しています」と。

 

116.

 

 [1090]887.(881) まさしく、そして、自らの見解によって、〔これらの者たちが〕浄白の者たちと〔成ることは〕ありません。〔もし、彼らが〕清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、智者たちと〔成り〕、思慧ある者たちと〔成るなら〕、彼らのなかに、智慧の遍く劣る者は、誰もいなくなります。なぜなら、彼らの見解は、ともに、そのように、〔各自に〕完全であるからです。(4)

 

 [1091]「まさしく、そして、自らの見解によって、〔これらの者たちが〕浄白の者たちと〔成ることは〕ありません」とは、自らの見解によって、自らの受認(信受)によって、自らの嗜好(意欲)によって、自らの主張によって、浄白ならざる者たちと〔成り〕、清白ならざる者たちと〔成り〕、完全なる清白ならざる者たちと〔成り〕、〔心が〕汚染した者たちと〔成り〕、〔心の〕汚染ある者たちと〔成る〕。ということで、「まさしく、そして、自らの見解によって、〔これらの者たちが〕浄白の者たちと〔成ることは〕ありません」。

 

 [1092]「〔もし、彼らが〕清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、智者たちと〔成り〕、思慧ある者たちと〔成るなら〕」とは、清らかな智慧ある者たちと〔成り〕、清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、完全なる清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、清白の智慧ある者たちと〔成り〕、完全なる清白の智慧ある者たちと〔成り〕。さらに、あるいは、清らかな見ある者たちと〔成り〕、清浄の見ある者たちと〔成り〕、完全なる清浄の見ある者たちと〔成り〕、清白の見ある者たちと〔成り〕、完全なる清白の見ある者たちと〔成り〕。ということで、「清浄の智慧ある者たちと〔成り〕」。「智者たちと〔成り〕」とは、智者たちと〔成り〕、賢者たちと〔成り〕、智慧ある者たちと〔成り〕、覚慧ある者たちと〔成り〕、知恵ある者たちと〔成り〕、分明ある者たちと〔成り〕、思慮ある者たちと〔成り〕。ということで、「〔もし、彼らが〕清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、智者たちと〔成り〕」。「思慧ある者たちと〔成るなら〕」とは、思慧ある者たちと〔成るなら〕、賢者たちと〔成るなら〕、智慧ある者たちと〔成るなら〕、覚慧ある者たちと〔成るなら〕、知恵ある者たちと〔成るなら〕、分明ある者たちと〔成るなら〕、思慮ある者たちと〔成るなら〕。ということで、「〔もし、彼らが〕清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、智者たちと〔成り〕、思慧ある者たちと〔成るなら〕」。

 

 [1093]「彼らのなかに、智慧の遍く劣る者は、誰もいなくなります」とは、それらの沙門や婆羅門たちのなかに、誰であれ、下劣の智慧ある者は〔存在せず〕、劣悪の智慧ある者は〔存在せず〕、下等の智慧ある者は〔存在せず〕、悪辣の智慧ある者は〔存在せず〕、劣小の智慧ある者は〔存在せず〕、微小の智慧ある者は存在せず、まさしく、全ての者たちが、最勝の智慧ある者たちと〔成り〕、殊勝の智慧ある者たちと〔成り〕、筆頭の智慧ある者たちと〔成り〕、最上の智慧ある者たちと〔成り〕、最も優れた智慧ある者たちと〔成る〕。ということで、「彼らのなかに、智慧の遍く劣る者は、誰もいなくなります」。

 

 [1094]「なぜなら、彼らの見解は、ともに、そのように、〔各自に〕完全であるからです」とは、それらの沙門や婆羅門たちにとって、〔各自の〕見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたからである。ということで、「なぜなら、彼らの見解は、ともに、そのように、〔各自に〕完全であるからです」。

 

 [1095]それによって、世尊は言った。

 

 [1096]「まさしく、そして、自らの見解によって、〔これらの者たちが〕浄白の者たちと〔成ることは〕ありません。〔もし、彼らが〕清浄の智慧ある者たちと〔成り〕、智者たちと〔成り〕、思慧ある者たちと〔成るなら〕、彼らのなかに、智慧の遍く劣る者は、誰もいなくなります。なぜなら、彼らの見解は、ともに、そのように、〔各自に〕完全であるからです」と。

 

117.

 

 [1097]888.(882) わたしは、「これは、真実である」と説くことが、まさしく、ないのです──それを、愚者たちが、互いに他と競い合い、〔「これは、真実である」と〕言うとして。〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけ〕を、真理と為したのですが、まさに、それゆえに、他者を「愚者である」と決め付けるのです。(5)

 

 [1098]「わたしは、『これは、真実である』と説くことが、まさしく、ないのです」とは、「ないのです」とは、否定〔の言葉〕。「これは」とは、わたしは、六十二の悪しき見解を、「これは、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、説くことが、告げ知らせることが、説示することが、報知することが、確立することが、開顕することが、区分することが、明瞭と為すことが、明示することが、ない。ということで、「わたしは、『これは、真実である』と説くことが、まさしく、ないのです」。

 

 [1099]「それを、愚者たちが、互いに他と競い合い、〔『これは、真実である』と〕言うとして」とは、「競い合い」とは、二者の人で、二者の紛争を為す者、二者の言争を為す者、二者の談義を為す者、二者の論争を為す者、二者の問題を為す者、二者の論者、二者の談論者。彼らは、互いに他を、「愚者である、下劣である、劣悪である、卑賎である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「それを、愚者たちが、互いに他と競い合い、〔『これは、真実である』と〕言うとして」。

 

 [1100]「〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけ〕を、真理と為したのですが」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、「〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけ〕を、真理と為したのですが」。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、「〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけ〕を、真理と為したのですが」。

 

 [1101]「まさに、それゆえに、他者を『愚者である』と決め付けるのです」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。他者を、「愚者である、下劣である、劣悪である、卑賎である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、決め付ける、見る、視認する、注目する、凝視する、近しく注視する。ということで、「まさに、それゆえに、他者を『愚者である』と決め付けるのです」。

 

 [1102]それによって、世尊は言った。

 

 [1103]「わたしは、『これは、真実である』と説くことが、まさしく、ないのです──それを、愚者たちが、互いに他と競い合い、〔『これは、真実である』と〕言うとして。〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけ〕を、真理と為したのですが、まさに、それゆえに、他者を『愚者である』と決め付けるのです」と。

 

118.

 

 [1104]889.(883) 〔対話者が尋ねた〕──それを、或る者たちが、「真理である。真実である」と言うなら、それを、他の者たちはまた、「虚妄である。虚偽である」と言います。このように、また、〔世の迷える沙門たちは、自らの見解に〕執持して論争します。何ゆえに、沙門たちは、一つのことを説かないのですか。(6)

 

 [1105]「それを、或る者たちが、『真理である。真実である』と言うなら」とは、〔まさに〕その、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちが、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、このように言うなら、このように言説するなら、このように発語するなら、このように提示するなら、このように語用するなら。ということで、「それを、或る者たちが、『真理である。真実である』と言うなら」。

 

 [1106]「それを、他の者たちはまた、『虚妄である。虚偽である』と言います」とは、まさしく、その、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちは、「これは、虚妄である」「これは、虚偽である」「これは、事実ならざるものである」「これは、偽りである」「これは、あるがままならざるものである」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「それを、他の者たちはまた、『虚妄である。虚偽である』と言います」。

 

 [1107]「このように、また、〔世の迷える沙門たちは、自らの見解に〕執持して論争します」とは、このように、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、論争し、紛争を為し、言争を為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「このように、また、〔世の迷える沙門たちは、自らの見解に〕執持して論争します」。

 

 [1108]「何ゆえに、沙門たちは、一つのことを説かないのですか」とは、「何ゆえに」とは、何ゆえに、何を契機とすることから、何を因として、何を縁とすることから、何を因縁とすることから、何を集起とすることから、何を出生とすることから、何を起源とすることから。一つのことを説かないのか、種々に説くのか、様々な種類に説くのか、互いに他を説くのか、多々に、説き、言説し、発語し、提示し、語用するのか。ということで、「何ゆえに、沙門たちは、一つのことを説かないのですか」。

 

 [1109]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1110]〔対話者が尋ねた〕──「それを、或る者たちが、『真理である。真実である』と言うなら、それを、他の者たちはまた、『虚妄である。虚偽である』と言います。このように、また、〔世の迷える沙門たちは、自らの見解に〕執持して論争します。何ゆえに、沙門たちは、一つのことを説かないのですか」と。

 

119.

 

 [1111]890.(884) 〔世尊は答えた〕──まさに、真理は一つです。第二のものは存在しません。それについて、人々が、覚知しているなら、論争することはないでしょう。〔しかしながら、覚知していない〕彼ら(迷える沙門たち)は、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に、「これこそは、真理である」と〕唱えます。それゆえに、〔世の迷える〕沙門たちは、一つのことを説かないのです。(7)

 

 [1112]「まさに、真理は一つです。第二のものは存在しません」とは、一なる真理は、苦しみの止滅たる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。さらに、あるいは、一なる真理は、〔聖者の〕道の真理、出脱〔の道〕の真理、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)と説かれる。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)である。ということで、「まさに、真理は一つです。第二のものは存在しません」。

 

 [1113]「それについて、人々が、覚知しているなら、論争することはないでしょう」とは、「それについて」とは、すなわち、真理について。「人々」とは、有情の同義語である。「覚知しているなら」とは、すなわち、真理を、覚知しているなら、了知しているなら、識知しているなら、解知しているなら、理解しているなら、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「それについて、人々が、覚知しているなら、論争することはないでしょう」。

 

 [1114]「〔しかしながら、覚知していない〕彼ら(迷える沙門たち)は、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に、『これこそは、真理である』と〕唱えます」とは、彼らは、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に〕、唱え、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、自ら〔自分勝手に〕、唱え、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、自ら〔自分勝手に〕、唱え、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「〔しかしながら、覚知していない〕彼らは、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に、『これこそは、真理である』と〕唱えます」。

 

 [1115]「それゆえに、〔世の迷える〕沙門たちは、一つのことを説かないのです」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。一つのことを説かず、種々に説き、様々な種類に説き、互いに他を説き、多々に、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「それゆえに、〔世の迷える〕沙門たちは、一つのことを説かないのです」。

 

 [1116]それによって、世尊は言った。

 

 [1117]〔世尊は答えた〕──「まさに、真理は一つです。第二のものは存在しません。それについて、人々が、覚知しているなら、論争することはないでしょう。〔しかしながら、覚知していない〕彼ら(迷える沙門たち)は、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に、『これこそは、真理である』と〕唱えます。それゆえに、〔世の迷える〕沙門たちは、一つのことを説かないのです」と。

 

120.

 

 [1118]891.(885) 〔対話者が尋ねた〕──〔自らについて〕「智者である」〔と〕説いている、論争好きの者たちは、いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか。諸々の真理は、〔他者から〕聞かれたものとして、種々に多くあるのですか。あるいは、彼らは、〔自己の〕考え(自説)を、〔独善的に「真理である」と〕思い込んでいるのですか。(8)

 

 [1119]「いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか」とは、「何ゆえに」とは、何ゆえに、何を契機とすることから、何を因として、何を縁とすることから、何を因縁とすることから。諸々の真理を、種々に説くのか、様々な種類に説くのか、互いに他を説くのか、多々に、説き、言説し、発語し、提示し、語用するのか。ということで、「いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか」。

 

 [1120]「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている、論争好きの者たちは」とは、「論争好きの者たち」とは、〔彼らは〕反論する、ということでもまた、「論争好きの者たち」。さらに、あるいは、互いに自らの悪しき見解を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている」とは、自らの主張について、智者と説く者たち、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている、論争好きの者たちは」。

 

 [1121]「諸々の真理は、〔他者から〕聞かれたものとして、種々に多くあるのですか」とは、諸々の真理は、〔他者から〕聞かれたものとして、多くあるものであり、種々なるものであり、様々な種類あるものであり、互いに他なるものであり、多々なるものであるのか。ということで、「諸々の真理は、〔他者から〕聞かれたものとして、種々に多くあるのですか」。

 

 [1122]「あるいは、彼らは、〔自己の〕考え(自説)を、〔独善的に『真理である』と〕思い込んでいるのですか」とは、あるいは、〔自己の〕考えによって、〔自己の〕思惟によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められるのか。ということで、このようにもまた、「あるいは、彼らは、〔自己の〕考えを、〔独善的に『真理である』と〕思い込んでいるのですか」。さらに、あるいは、考慮によって撃打されたもの(思考を重ねたもの)を、考察に随行するもの(思考に適合するもの)を、自らの応答として、説き、言説し、発語し、提示し、語用するのか。ということで、このようにもまた、「あるいは、彼らは、〔自己の〕考えを、〔独善的に『真理である』と〕思い込んでいるのですか」。

 

 [1123]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1124]〔対話者が尋ねた〕──「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている、論争好きの者たちは、いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか。諸々の真理は、〔他者から〕聞かれたものとして、種々に多くあるのですか。あるいは、彼らは、〔自己の〕考え(自説)を、〔独善的に『真理である』と〕思い込んでいるのですか」と。

 

121.

 

 [1125]892.(886) 〔世尊は答えた〕──種々に多くある〔それらの〕真理は、まさしく、まさに、〔真理では〕ありません。〔盲信された虚妄の〕表象より他に〔真理はあり〕、世における諸々の常住なるものは、〔真理ではありません〕。そして、〔彼らは〕諸々の見解のうちに〔自己の〕考えを〔独善的に〕想い描いて、「〔自説は〕真理である」「〔他説は〕虚偽である」と、二つの法(見解)を言います。(9)

 

 [1126]「種々に多くある〔それらの〕真理は、まさしく、まさに、〔真理では〕ありません」とは、多くあるものであり、種々なるものであり、様々な種類あるものであり、互いに他なるものであり、多々なるものである、〔それらの〕真理は、まさしく、まさに、〔真理では〕ない。ということで、「種々に多くある〔それらの〕真理は、まさしく、まさに、〔真理では〕ありません」。

 

 [1127]「〔盲信された虚妄の〕表象より他に〔真理はあり〕、世における諸々の常住なるものは、〔真理ではありません〕」とは、常住の収取という〔虚妄の〕表象より他に、まさしく、一なる真理は、世において、言説され、発語され、提示され、語用される。苦しみの止滅たる涅槃である。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。さらに、あるいは、一なる真理は、〔聖者の〕道の真理、出脱〔の道〕の真理、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道、聖なる八つの支分ある道と説かれる。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定である。ということで、「〔盲信された虚妄の〕表象より他に〔真理はあり〕、世における諸々の常住なるものは、〔真理ではありません〕」。

 

 [1128]「そして、〔彼らは〕諸々の見解のうちに〔自己の〕考えを〔独善的に〕想い描いて、『〔自説は〕真理である』『〔他説は〕虚偽である』と、二つの法(見解)を言います」とは、〔自己の〕考えを、〔自己の〕思考を、〔自己の〕思惟を、〔独善的に〕考えて、〔独善的に〕思考して、〔独善的に〕思惟して、諸々の悪しき見解を、生じさせ、産出させ、発現させ、結実させる。諸々の悪しき見解を、生じさせて、産出させて、発現させて、結実させて、「わたしのものは、真理である」「あなたのものは、虚偽である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「そして、〔彼らは〕諸々の見解のうちに〔自己の〕考えを〔独善的に〕想い描いて、『〔自説は〕真理である』『〔他説は〕虚偽である』と、二つの法(見解)を言います」。

 

 [1129]それによって、世尊は言った。

 

 [1130]〔世尊は答えた〕──「種々に多くある〔それらの〕真理は、まさしく、まさに、〔真理では〕ありません。〔盲信された虚妄の〕表象より他に〔真理はあり〕、世における諸々の常住なるものは、〔真理ではありません〕。そして、〔彼らは〕諸々の見解のうちに〔自己の〕考えを〔独善的に〕想い描いて、『〔自説は〕真理である』『〔他説は〕虚偽である』と、二つの法(見解)を言います」と。

 

122.

 

 [1131]893.(887) 見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、そして、これらのものに依存して、〔他者を〕軽侮して見る者がいます。〔断定的〕判断(自己顕示の道具としての主義・主張)に立脚して、〔他者を〕嘲笑しつつ、そして、「他者は、愚者である、智者ではない」と言います。(10)

 

 [1132]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、そして、これらのものに依存して、〔他者を〕軽侮して見る者がいます」とは、あるいは、見られたものに、あるいは、見られたものとしての清浄に、あるいは、聞かれたものに、あるいは、聞かれたものとしての清浄に、あるいは、戒に、あるいは、戒としての清浄に、あるいは、掟に、あるいは、掟としての清浄に、あるいは、思われたものに、あるいは、思われたものとしての清浄に、依存して、近しく依存して、収取して、偏執して、固着して、ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて」。「そして、これらのものに依存して、〔他者を〕軽侮して見る者がいます」とは、〔他者を〕敬わない、ということでもまた、「〔他者を〕軽侮して見る者がいます」。さらに、あるいは、〔他者に〕失意を生じさせる、ということでもまた、「〔他者を〕軽侮して見る者がいます」。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、そして、これらのものに依存して、〔他者を〕軽侮して見る者がいます」。

 

 [1133]「〔断定的〕判断に立脚して、〔他者を〕嘲笑しつつ」とは、諸々の〔断定的〕判断は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての〔断定的〕判断に、諸々の〔断定的〕判断としての見解に、立脚して、確立して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「〔断定的〕判断に立脚して」。「〔他者を〕嘲笑しつつ」とは、満足した者と成り、笑喜した者と〔成り〕、欣喜した者と〔成り〕、わが意を得た者と〔成り〕、円満成就した思惟ある者と〔成る〕。さらに、あるいは、歯を見せながら笑っている者と〔成る〕。ということで、「〔断定的〕判断に立脚して、〔他者を〕嘲笑しつつ」。

 

 [1134]「そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います」とは、「他者は、愚者である、下劣である、劣悪である、卑賎である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である、智なき者である、知なき者である、無明を具した者である、知恵なき者である、分明なき者である、思慮浅き者である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います」。

 

 [1135]それによって、世尊は言った。

 

 [1136]「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、そして、これらのものに依存して、〔他者を〕軽侮して見る者がいます。〔断定的〕判断(自己顕示の道具としての主義・主張)に立脚して、〔他者を〕嘲笑しつつ、そして、『他者は、愚者である、智者ではない』と言います」と。

 

123.

 

 [1137]894.(888) まさしく、すなわち、他者を「愚者である」と決め付けることで、それによって、そして、自己を「智者である」と言います。自ら、自己によって、〔自らについて〕「智者である」〔と〕説きながら、彼は、〔一方的に〕他者を軽侮し、まさしく、それ(自説)を、〔独善的に〕説きます。(11)

 

 [1138]「まさしく、すなわち、他者を『愚者である』と決め付けることで」とは、まさしく、その因によって、その縁によって、その契機によって、その起源によって、他者を、愚者〔の観点〕から、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、決め付ける、見る、視認する、注目する、凝視する、近しく注視する。ということで、「まさしく、すなわち、他者を『愚者である』と決め付けることで」。

 

 [1139]「それによって、そして、自己を『智者である』と言います」とは、自己(アートゥマン)は、自己(アッタン)と説かれる。彼もまた、まさしく、その因によって、その縁によって、その契機によって、その起源によって、自己のことを、「わたしは、智者として、賢者として、智慧ある者として、覚慧ある者として、知恵ある者として、分明ある者として、思慮ある者として、〔世に〕存している」〔と言う〕。ということで、「それによって、そして、自己を『智者である』と言います」。

 

 [1140]「自ら、自己によって、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、彼は」とは、まさしく、自ら、自己のことを、自らの主張について、智者と説く者、賢者と説く者、強固と説く者、正理と説く者、〔正しい〕因と説く者、〔正しい〕特相と説く者、〔正しい〕契機と説く者、〔正しい〕拠点と説く者。ということで、「自ら、自己によって、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、彼は」。

 

 [1141]「〔一方的に〕他者を軽侮し、まさしく、それ(自説)を、〔独善的に〕説きます」とは、〔他者を〕敬わない、ということでもまた、「〔一方的に〕他者を軽侮し」。さらに、あるいは、〔他者に〕失意を生じさせる、ということでもまた、「〔一方的に〕他者を軽侮し」。「まさしく、それを、〔独善的に〕説きます」とは、まさしく、それを、その悪しき見解を、〔独善的に〕説く。「かくのごとくもまた、この人は、誤った見解ある者である、転倒した見ある者である」〔と〕。ということで、「〔一方的に〕他者を軽侮し、まさしく、それを、〔独善的に〕説きます」。

 

 [1142]それによって、世尊は言った。

 

 [1143]「まさしく、すなわち、他者を『愚者である』と決め付けることで、それによって、そして、自己を『智者である』と言います。自ら、自己によって、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説きながら、彼は、〔一方的に〕他者を軽侮し、まさしく、それ(自説)を、〔独善的に〕説きます」と。

 

124.

 

 [1144]895.(889) 錯誤の見解によって、〔自らについて〕「完全である」〔と見る〕彼は、〔我想の〕思量によって驕慢した者であり、〔自らについて〕「円満成就した者である」と思量する者です。まさしく、自ら、自らについて、〔自らの〕意で灌頂しているのです(自らを自らの手で王位に就けている)。なぜなら、彼にとって、その見解は、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです。(12)

 

 [1145]「錯誤の見解によって、〔自らについて〕『完全である』〔と見る〕彼は」とは、諸々の錯誤の見解は、六十二の悪しき見解と説かれる。何を契機とすることから、諸々の錯誤の見解は、六十二の悪しき見解と説かれるのか。それらの見解は、全てが、〔正しい〕契機を超越したものであり、〔正しい〕特相を超越したものであり、〔正しい〕拠点を超越したものである。それを契機とすることから、諸々の錯誤の見解は、六十二の悪しき見解と説かれる。異教の者たちは、全てもろともに、錯誤の見解ある者たちである。何を契機とすることから、異教の者たちは、全てもろともに、錯誤の見解ある者たちであるのか。彼らは、互いに他を、超越して、等しく超越して、超克して、諸々の悪しき見解を、生じさせ、産出させ、発現させ、結実させる。それを契機とすることから、異教の者たちは、全てもろともに、錯誤の見解ある者たちである。「錯誤の見解によって、〔自らについて〕『完全である』〔と見る〕彼は」とは、錯誤の見解によって、〔自らについて〕「完全である」「円満成就した者である」「至上である」〔と見る者は〕。ということで、「錯誤の見解によって、〔自らについて〕『完全である』〔と見る〕彼は」。

 

 [1146]「〔我想の〕思量によって驕慢した者であり、〔自らについて〕『円満成就した者である』と思量する者です」とは、見解の思量によって、自らの見解について、驕慢した者、強く驕慢した者、傲慢となった者、極めて驕慢した者。ということで、「〔我想の〕思量によって驕慢した者であり」。「〔自らについて〕『円満成就した者である』と思量する者です」とは、〔自らについて〕「円満成就した者である」と思量する者、「完全である」と思量する者、「至上である」と思量する者。ということで、「〔我想の〕思量によって驕慢した者であり、〔自らについて〕「円満成就した者である」と思量する者です」。

 

 [1147]「まさしく、自ら、自らについて、〔自らの〕意で灌頂しているのです」とは、まさしく、自ら、自己のことを、心によって灌頂する。「わたしは、智者として、賢者として、智慧ある者として、覚慧ある者として、知恵ある者として、分明ある者として、思慮ある者として、〔世に〕存している」〔と〕。ということで、「まさしく、自ら、自らについて、〔自らの〕意で灌頂しているのです」。

 

 [1148]「なぜなら、彼にとって、その見解は、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです」とは、彼にとって、その見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたからである。ということで、「なぜなら、彼にとって、その見解は、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです」。

 

 [1149]それによって、世尊は言った。

 

 [1150]「錯誤の見解によって、〔自らについて〕『完全である』〔と見る〕彼は、〔我想の〕思量によって驕慢した者であり、〔自らについて〕『円満成就した者である』と思量する者です。まさしく、自ら、自らについて、〔自らの〕意で灌頂しているのです(自らを自らの手で王位に就けている)。なぜなら、彼にとって、その見解は、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです」と。

 

125.

 

 [1151]896.(890) もし、まさに、他者の言葉によって、〔人が〕劣る者と〔成るなら〕、〔その他者〕自身も、〔別の他者の言葉によって〕共に智慧の劣る者と成ります。そこで、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に至る者と成り、慧者と〔成るなら〕、沙門たちのなかに、誰であれ、愚者は存在しません。(13)

 

 [1152]「もし、まさに、他者の言葉によって、〔人が〕劣る者と〔成るなら〕」とは、もし、他者の、言によって、言葉によって、非難されたことを契機とすることから、難詰されたことを契機とすることから、批判されたことを契機とすることから、〔別の〕他者が、愚者と成り、下劣の者と〔成り〕、劣悪の者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、悪辣の者と〔成り〕、劣小の者と〔成り〕、微小の者と〔成るなら〕。ということで、「もし、まさに、他者の言葉によって、〔人が〕劣る者と〔成るなら〕」。「〔その他者〕自身も、〔別の他者の言葉によって〕共に智慧の劣る者と成ります」とは、彼もまた、まさしく、彼(別の他者)と共に、下劣の智慧ある者と成り、劣悪の智慧ある者と〔成り〕、下等の智慧ある者と〔成り〕、悪辣の智慧ある者と〔成り〕、劣小の智慧ある者と〔成り〕、微小の智慧ある者と〔成る〕。ということで、「〔その他者〕自身も、〔別の他者の言葉によって〕共に智慧の劣る者と成ります」。

 

 [1153]「そこで、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に至る者と成り、慧者と〔成るなら〕」とは、そこで、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に至る者と成り、慧者と〔成り〕、賢者と〔成り〕、智慧ある者と〔成り〕、覚慧ある者と〔成り〕、知恵ある者と〔成り〕、分明ある者と〔成り〕、思慮ある者と〔成るなら〕。ということで、「そこで、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に至る者と成り、慧者と〔成るなら〕」。

 

 [1154]「沙門たちのなかに、誰であれ、愚者は存在しません」とは、沙門たちのなかに、誰であれ、愚者は〔存在せず〕、下劣の者は〔存在せず〕、劣悪の者は〔存在せず〕、下等の者は〔存在せず〕、悪辣の者は〔存在せず〕、劣小の者は〔存在せず〕、微小の者は存在せず、まさしく、全ての者たちが、最勝の智慧ある者たちと〔成り〕、殊勝の智慧ある者たちと〔成り〕、筆頭の智慧ある者たちと〔成り〕、最上の智慧ある者たちと〔成り〕、最も優れた智慧ある者たちと〔成る〕。ということで、「沙門たちのなかに、誰であれ、愚者は存在しません」。

 

 [1155]それによって、世尊は言った。

 

 [1156]「もし、まさに、他者の言葉によって、〔人が〕劣る者と〔成るなら〕、〔その他者〕自身も、〔別の他者の言葉によって〕共に智慧の劣る者と成ります。そこで、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に至る者と成り、慧者と〔成るなら〕、沙門たちのなかに、誰であれ、愚者は存在しません」と。

 

126.

 

 [1157]897.(891) 「彼らが、これ(自説)より他の法(見解)を宣説するなら、彼らは、清浄に反する者たちであり、全一者たちではない」〔と〕、このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔自説を〕説きます。まさに、彼らは、自らの見解にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちです。(14)

 

 [1158]「彼らが、これ(自説)より他の法(見解)を宣説するなら、彼らは、清浄に反する者たちであり、全一者たちではない」とは、彼らが、これより他の、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、宣説するなら、彼らは、清らかさの道に、清浄の道に、完全なる清浄の道に、清白の道に、完全なる清白の道に、亡失する者たちであり、違反する者たちであり、惑乱ある者たちであり、落度ある者たちであり、了知に違反する者たちであり、彼らは、全一者たちではなく、彼らは、完全者たちではなく、彼らは、円満成就した者たちではなく、下劣であり、劣悪であり、下等であり、悪辣であり、劣小であり、微小である。ということで、「彼らが、これより他の法(見解)を宣説するなら、彼らは、清浄に反する者たちであり、全一者たちではない」。

 

 [1159]「このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔自説を〕説きます」とは、異教は、悪しき見解と説かれる。異教の者たちは、悪しき見解ある者たちと説かれる。多々なる見解ある者たちは、多々なる悪しき見解を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔自説を〕説きます」。

 

 [1160]「まさに、彼らは、自らの見解にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちです」とは、見解の貪欲によって、自らの見解について、〔欲に〕染まった者たちであり、〔欲に〕貪染した者たちである。ということで、「まさに、彼らは、自らの見解にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちです」。

 

 [1161]それによって、世尊は言った。

 

 [1162]「『彼らが、これ(自説)より他の法(見解)を宣説するなら、彼らは、清浄に反する者たちであり、全一者たちではない』〔と〕、このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔自説を〕説きます。まさに、彼らは、自らの見解にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちです」と。

 

127.

 

 [1163]898.(892) 〔彼らは〕「まさしく、ここ(自説)に、清浄がある」と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません。このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔思いが〕固着し、自らの道において、そこにおいて、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです。(15)

 

 [1164]「〔彼らは〕『まさしく、ここ(自説)に、清浄がある』と説きます」とは、ここに、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、ここに、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、ここに、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「〔彼らは〕『まさしく、ここに、清浄がある』と説きます」。

 

 [1165]「他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません」とは、自己の、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、〔それらを〕除いて、一切の他の論を、投げ放ち、投げ捨て、遍く投げ放つ。「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、善く報知された〔道〕にあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「ここにおいて、あるいは、〔人々が〕清らかとなることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、存在しない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません」。

 

 [1166]「このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔思いが〕固着し」とは、異教は、悪しき見解と説かれる。異教の者たちは、悪しき見解ある者たちと説かれる。多々なる見解ある者たちは、多々なる悪しき見解にたいし、〔思いが〕固着した者たち、〔思いが〕確立した者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たちである。ということで、「このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔思いが〕固着し」。

 

 [1167]「自らの道において、そこにおいて、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです」とは、法(教え)は、自らの道であり、見解は、自らの道であり、〔実践の〕道は、自らの道であり、〔聖者の〕道は、自らの道であり、自らの道について、断固たるものと説く者たち、強固たるものと説く者たち、力あるものと説く者たち、確立されたものと説く者たち。ということで、「自らの道において、そこにおいて、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです」。

 

 [1168]それによって、世尊は言った。

 

 [1169]「〔彼らは〕『まさしく、ここ(自説)に、清浄がある』と説きます。他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません。このように、また、異教の者たちは、個々それぞれに〔思いが〕固着し、自らの道において、そこにおいて、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです」と。

 

128.

 

 [1170]899.(893) あるいは、また、自らの道において、断固として〔自らの正しさを〕説いている者が、ここにおいて、どうして、他者を、「愚者である」と決め付けられるというのでしょう。彼は、まさしく、自ら、〔他者とのあいだに〕確執をもたらすでしょう──他者を、清浄ならざる法(見解)の愚者と説きつつ。(16)

 

 [1171]「あるいは、また、自らの道において、断固として〔自らの正しさを〕説いている者が」とは、法(教え)は、自らの道であり、見解は、自らの道であり、〔実践の〕道は、自らの道であり、〔聖者の〕道は、自らの道であり、自らの道について、断固たるものと説く者たち、強固たるものと説く者たち、力あるものと説く者たち、確立されたものと説く者たち。ということで、「あるいは、また、自らの道において、断固として〔自らの正しさを〕説いている者が」。

 

 [1172]「ここにおいて、どうして、他者を、『愚者である』と決め付けられるというのでしょう」とは、「ここにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。他者を、愚者〔の観点〕から、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、どうして、決め付けられるというのだろう、どうして、見られるというのだろう、どうして、視認できるというのだろう、どうして、注目できるというのだろう、どうして、凝視できるというのだろう、どうして、近しく注視できるというのだろう。ということで、「ここにおいて、どうして、他者を、『愚者である』と決め付けられるというのでしょう」。

 

 [1173]「彼は、まさしく、自ら、〔他者とのあいだに〕確執をもたらすでしょう──他者を、清浄ならざる法(見解)の愚者と説きつつ」とは、「他者は、愚者である、下劣である、劣悪である、卑賎である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である、清らかさならざる法(見解)ある者である、清浄ならざる法(見解)ある者である、完全なる清浄ならざる法(見解)ある者である、清白ならざる法(見解)ある者である」と、このように説きつつ、このように言説しつつ、このように発語しつつ、このように提示しつつ、このように語用しつつ、まさしく、自ら、紛争を、言争を、口論を、論争を、確執を、もたらすであろう、等しくもたらすであろう、運び来るであろう、等しく運び来るであろう、引き寄せるであろう、等しく引き寄せるであろう、収取するであろう、偏執するであろう、固着するであろう。ということで、「彼は、まさしく、自ら、〔他者とのあいだに〕確執をもたらすでしょう──他者を、清浄ならざる法(見解)の愚者と説きつつ」。

 

 [1174]それによって、世尊は言った。

 

 [1175]「あるいは、また、自らの道において、断固として〔自らの正しさを〕説いている者が、ここにおいて、どうして、他者を、『愚者である』と決め付けられるというのでしょう。彼は、まさしく、自ら、〔他者とのあいだに〕確執をもたらすでしょう──他者を、清浄ならざる法(見解)の愚者と説きつつ」と。

 

129.

 

 [1176]900.(894) 〔断定的〕判断に立脚して、自ら、〔独善的に〕思量して、その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争に至ります。一切の〔断定的〕判断を捨棄して、〔真の慧者たる〕人は、世において、〔一切にたいし〕確執を為しません。(17)

 

 [1177]「〔断定的〕判断に立脚して、自ら、〔独善的に〕思量して」とは、諸々の〔断定的〕判断は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の〔断定的〕判断としての見解に、立脚して、確立して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「〔断定的〕判断に立脚して」。「自ら、〔独善的に〕思量して」とは、自ら、思量して、思い量って。「この教師は、一切知者である」と、自ら、思量して、思い量って。「この法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕である」……。「この衆徒は、善き実践者である」……。「この見解は、立派である」……。「この〔実践の〕道は、善く報知された〔道〕である」……。「この〔聖者の〕道は、出脱〔の道〕である」と、自ら、思量して、思い量って。ということで、「〔断定的〕判断に立脚して、自ら、〔独善的に〕思量して」。

 

 [1178]「その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争に至ります」とは、その上では(※)、未来にと説かれる。自己の論を据え置いて、その上で、まさしく、自ら、紛争に、言争に、口論に、論争に、確執に、〔彼は〕至る、〔彼は〕近づく、〔彼は〕近しく赴く、〔彼は〕収取する、〔彼は〕偏執する、〔彼は〕固着する。ということで、このようにもまた、「その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争に至ります」。さらに、あるいは、その上で、他の論を相手に、〔彼は〕紛争を為す、〔彼は〕言争を為す、〔彼は〕口論を為す、〔彼は〕論争を為す、〔彼は〕確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、このようにもまた、「その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争に至ります」。

 

※ テキストには uddhaso とあるが、PTS版により uddha と読む。

 

 [1179]「一切の〔断定的〕判断を捨棄して」とは、諸々の〔断定的〕判断は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての〔断定的〕判断である。一切の〔断定的〕判断を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「一切の〔断定的〕判断を捨棄して」。

 

 [1180]「〔真の慧者たる〕人は、世において、〔一切にたいし〕確執を為しません」とは、紛争を為さず、言争を為さず、口論を為さず、論争を為さず、確執を為さない。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「アッギヴェッサナよ、このように、まさに、心が解脱した比丘は、誰とであれ、同調せず、誰とであれ、論争せず、かつまた、それが、世において説かれるところであるとして、偏執することなく、なおかつ、それによって語用します」と。「人(ジャントゥ)」とは、有情、人(ナラ)……略([10]参照)……マヌから生じる者。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「〔真の慧者たる〕人は、世において、〔一切にたいし〕確執を為しません」。

 

 [1181]それによって、世尊は言った。

 

 [1182]「〔断定的〕判断に立脚して、自ら、〔独善的に〕思量して、その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争に至ります。一切の〔断定的〕判断を捨棄して、〔真の慧者たる〕人は、世において、〔一切にたいし〕確執を為しません」と。

 

 [1183]小さなまとまりの経についての釈示が、第十二となる。

 

1. 13. 大きなまとまりの経についての釈示

 

 [1184]そこで、大きなまとまりの経についての釈示を説くであろう。

 

130.

 

 [1185]901.(895) 〔世尊は言った〕──彼らが誰であれ、これらの〔各自の〕見解に固着している者たちは、そして、「これ(自説)こそが、真理である」と説きます。彼らは、まさしく、全ての者たちが、〔他者からの〕非難を招き寄せます──そこで、たとえ、そこにおいて、〔一部の〕賞賛を得るとして。(1)

 

 [1186]「彼らが誰であれ、これらの〔各自の〕見解に固着している者たちは」とは、「彼らが誰であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「彼らが誰であれ」ということになる。「〔各自の〕見解に固着している者たちは」とは、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。たとえば、あるいは、在家者たちが、諸々の家屋のうちに住し、あるいは、罪を有する者たちが、諸々の罪のうちに住し、あるいは、〔心の〕汚れを有する者たちが、諸々の〔心の〕汚れのうちに住するように、まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し……略……遍く住する。ということで、「〔各自の〕見解に固着している者たちは」。

 

 [1187]「そして、『これ(自説)こそが、真理である』と説きます」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「そして、『これこそが、真理である』と説きます」。

 

 [1188]「彼らは、まさしく、全ての者たちが、〔他者からの〕非難を招き寄せます」とは、それらの沙門や婆羅門たちは、まさしく、全ての者たちが、まさしく、非難へと従い行く、まさしく、難詰へと従い行く、まさしく、不名誉へと従い行く。全ての者たちが、まさしく、非難された者たちと成る、まさしく、難詰された者たちと成る、まさしく、不名誉の者たちと成る。ということで、「彼らは、まさしく、全ての者たちが、〔他者からの〕非難を招き寄せます」。

 

 [1189]「そこで、たとえ、そこにおいて、〔一部の〕賞賛を得るとして」とは、そこにおいて、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において、賞賛を、賛嘆を、名誉を、栄誉を運び行くものを、〔彼らは〕得る、〔彼らは〕獲得する、〔彼らは〕具す、〔彼らは〕見出す。ということで、「そこで、たとえ、そこにおいて、〔一部の〕賞賛を得るとして」。

 

 [1190]それによって、世尊は言った。

 

 [1191]〔世尊は言った〕──「彼らが誰であれ、これらの〔各自の〕見解に固着している者たちは、そして、『これ(自説)こそが、真理である』と説きます。彼らは、まさしく、全ての者たちが、〔他者からの〕非難を招き寄せます──そこで、たとえ、そこにおいて、〔一部の〕賞賛を得るとして」と。

 

131.

 

 [1192]902.(896) まさに、この〔賞賛〕は、僅かです。〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません。〔わたしは〕論争の結果を、〔非難と賞賛の〕二者〔だけ〕と説きます。このことをもまた見て、論争しないように──論争なき境地を、平安と証見しながら。(2)

 

 [1193]「まさに、この〔賞賛〕は、僅かです。〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません」とは、「まさに、この〔賞賛〕は、僅かです」とは、この〔賞賛〕は、僅かであり、この〔賞賛〕は、下等であり、この〔賞賛〕は、僅少であり、この〔賞賛〕は、悪辣であり、この〔賞賛〕は、劣小であり、この〔賞賛〕は、微小である。ということで、「まさに、この〔賞賛〕は、僅かです」。「〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません」とは、貪欲の静まりのために、憤怒の静まりのために、迷妄の静まりのために、忿激の……怨恨の……偽装の……加虐の……嫉妬の……物惜の……幻惑の……狡猾の……強情の……激昂の……思量の……高慢の……驕慢の……放逸の……一切の〔心の〕汚れの……一切の悪しき行ないの……一切の懊悩の……一切の苦悶の……一切の熱苦の……一切の善ならざる行作の、静まりのために、寂静のために、寂止のために、涅槃のために、放棄のために、安息のために、十分ではない。ということで、「まさに、この〔賞賛〕は、僅かです。〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません」。

 

 [1194]「〔わたしは〕論争の結果を、〔非難と賞賛の〕二者〔だけ〕と説きます」とは、見解の紛争には、見解の言争には、見解の口論には、見解の論争には、見解の確執には、二つの結果が有る。勝利と敗北が有り、利得と利得なきが有り、盛名と盛名なきが有り、非難と賞賛が有り、安楽と苦痛が有り、悦意と失意が有り、好ましいものと好ましくないものが有り、随貪と敵対が有り、興奮と失望が有り、共感と反感が有る。さらに、あるいは、「その行為()は、地獄のために等しく転起するものであり、畜生の胎のために等しく転起するものであり、餓鬼の境域のために等しく転起するものである」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「〔わたしは〕論争の結果を、〔非難と賞賛の〕二者〔だけ〕と説きます」。

 

 [1195]「このことをもまた見て、論争しないように」とは、「このことをもまた見て」とは、諸々の見解の紛争について、諸々の見解の言争について、諸々の見解の口論について、諸々の見解の論争について、諸々の見解の確執について、この危険を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた見て」。「論争しないように」とは、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、紛争と言争と口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「このことをもまた見て、論争しないように」。

 

 [1196]「論争なき境地を、平安と証見しながら」とは、論争なき境地は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。この論争なき境地を、平安〔の観点〕から、救護所〔の観点〕から、避難所〔の観点〕から、帰依所〔の観点〕から、恐怖なき〔の観点〕から、死滅なき〔の観点〕から、不死〔の観点〕から、涅槃〔の観点〕から、見ながら、視認しながら、注目しながら、凝視しながら、近しく注視しながら。ということで、「論争なき境地を、平安と証見しながら」。

 

 [1197]それによって、世尊は言った。

 

 [1198]「まさに、この〔賞賛〕は、僅かです。〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません。〔わたしは〕論争の結果を、〔非難と賞賛の〕二者〔だけ〕と説きます。このことをもまた見て、論争しないように──論争なき境地を、平安と証見しながら」と。

 

132.

 

 [1199]903.(897) それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義(世俗:通念化した特定の世界観)は──まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです。〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう──見られたものについて、聞かれたものについて、愛着〔の思い〕を為さずにいる者が。(3)

 

 [1200]「それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義(世俗)は」とは、「それらが何であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「それらが何であれ」ということになる。「諸々の主義は」とは、諸々の主義は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての主義である。「凡俗なる」とは、あるいは、多々なる人たち(凡夫たち)によって生まれた、それらの(※)主義、ということで、「凡俗なる」。あるいは、多々にして種々なる人たちによって生まれた、それらの(※※)主義、ということで、「凡俗なる」。ということで、「それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義は」。

 

※ テキストには puthujjanehi janitā とあるが、PTS版により puthujjanehi janitā vā tā と読む。

※※ テキストには puthu nānājanehi janitā vā とあるが、PTS版により puthu nānājanehi janitā vā tā と読む。

 

 [1201]「まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです」とは、知ある者、明知に至った者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者は、まさしく、これらの見解としての主義の全てに、至らず、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです」。

 

 [1202]「〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう」とは、「接近(近づく者)」とは、二つの接近がある。(1)そして、渇愛の接近であり、(2)さらに、見解の接近である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の接近である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は〔すでに〕捨棄され、見解の接近は〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕放棄されたことから、〔特定の見解に〕近づかない人が、どうして、形態に、近づくというのだろう、近しく赴くというのだろう、収取するというのだろう、偏執するというのだろう、固着するというのだろう──「わたしの自己である」と。どうして、感受〔作用〕に……。どうして、表象〔作用〕に……。どうして、諸々の形成〔作用〕に……。どうして、識知〔作用〕に……。どうして、境遇に……。どうして、再生に……。どうして、結生に……。どうして、生存に……。どうして、輪廻に……。どうして、転起に、近づくというのだろう、近しく赴くというのだろう、収取するというのだろう、偏執するというのだろう、固着するというのだろう。ということで、「〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう」。

 

 [1203]「見られたものについて、聞かれたものについて、愛着〔の思い〕を為さずにいる者が」とは、あるいは、見られたものについて、あるいは、見られたものとしての清浄について、あるいは、聞かれたものについて、あるいは、聞かれたものとしての清浄について、あるいは、思われたものについて、あるいは、思われたものとしての清浄について、愛着〔の思い〕を為さずにいる者が、欲〔の思い〕を為さずにいる者が、愛情〔の思い〕を為さずにいる者が、貪欲〔の思い〕を、為さずにいる者が、生じさせずにいる者が、産出させずにいる者が、発現させずにいる者が、結実させずにいる者が。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、愛着〔の思い〕を為さずにいる者が」。

 

 [1204]それによって、世尊は言った。

 

 [1205]「それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義(世俗:通念化した特定の世界観)は──まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです。〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう──見られたものについて、聞かれたものについて、愛着〔の思い〕を為さずにいる者が」と。

 

133.

 

 [1206]904.(898) 〔与えられた〕戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います──〔守るべき〕掟を受持して、〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして。「まさしく、ここに、〔わたしたちは〕学ぶべきだ。そこで、清浄は、〔ここに〕存するべきだ」〔と〕──〔迷いの〕生存に導かれた者たちは、〔自らについて〕「智者である」〔と〕説いています。(4)

 

 [1207]「〔与えられた〕戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います」とは、或る沙門や婆羅門たちで、戒を最上と説く者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことにのみよって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、言い、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。

 

 [1208]沙門のムンディカープッタは、このように言った。「家長よ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、身体による悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きません。家長よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します」〔と〕。まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、戒を最上と説く者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、言い、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「〔与えられた〕戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います」。

 

 [1209]「〔守るべき〕掟を受持して、〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして」とは、「掟」とは、あるいは、象の掟を、あるいは、馬の掟を、あるいは、牛の掟を、あるいは、山犬の掟を、あるいは、烏の掟を、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕の掟を、あるいは、バラデーヴァ〔力士〕の掟を、あるいは、プンナバッダ〔夜叉〕の掟を、あるいは、マニバッダ〔夜叉〕の掟を、あるいは、祭火の掟を、あるいは、龍の掟を、あるいは、金翅鳥の掟を、あるいは、夜叉の掟を、あるいは、阿修羅の掟を、あるいは、音楽神の掟を、あるいは、〔天の〕大王の掟を、あるいは、月〔の神〕の掟を、あるいは、日〔の神〕の掟を、あるいは、インダ〔神〕(インドラ神)の掟を、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)の掟を、あるいは、天〔の神〕の掟を、あるいは、方角の掟を、取って、受持して、執取して、等しく執取して、収取して、偏執して、固着して、奉仕している者たちとして、現に奉仕している者たちとして、〔思いが〕付着した者たちとして、近しく赴いた者たちとして、固執した者たちとして、信念した者たちとして。ということで、「〔守るべき〕掟を受持して、〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして」。

 

 [1210]「『まさしく、ここに、〔わたしたちは〕学ぶべきだ。そこで、清浄は、〔ここに〕存するべきだ』〔と〕」とは、「ここに」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「〔わたしたちは〕学ぶべきだ」とは、〔わたしたちは〕学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「まさしく、ここに、〔わたしたちは〕学ぶべきだ」。「そこで、清浄は、〔ここに〕存するべきだ」とは、そこで、清らかさは、清浄は、完全なる清浄は、解き放ちは、解脱は、完全なる解脱は、〔ここに〕存するべきである。ということで、「『まさしく、ここに、〔わたしたちは〕学ぶべきだ。そこで、清浄は、〔ここに〕存するべきだ』〔と〕」。

 

 [1211]「〔迷いの〕生存に導かれた者たちは、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」とは、「〔迷いの〕生存に導かれた者たちは」とは、生存に導かれた者たち、生存に近しく赴いた者たち、生存に固執した者たち、生存に信念した者たち。ということで、「〔迷いの〕生存に導かれた者たちは」。「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」とは、自らの主張について、智者と説く者たち、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕因と説く者たち、〔正しい〕特相と説く者たち、〔正しい〕契機と説く者たち、〔正しい〕拠点と説く者たち。ということで、「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」。

 

 [1212]それによって、世尊は言った。

 

 [1213]「〔与えられた〕戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います──〔守るべき〕掟を受持して、〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして。『まさしく、ここに、〔わたしたちは〕学ぶべきだ。そこで、清浄は、〔ここに〕存するべきだ』〔と〕──〔迷いの〕生存に導かれた者たちは、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」と。

 

134.

 

 [1214]905.(899) それで、もし、戒や掟から死滅した者(喪失者)と成るなら、〔為すべき宗教〕行為()を失って、動揺します。〔彼は〕清浄を渇望し、かつまた、切望します──家から離れて旅する者が、〔共に旅する〕隊商から捨棄されたかのように。(5)

 

 [1215]「それで、もし、戒や掟から死滅した者(喪失者)と成るなら」とは、二つの契機によって、戒や掟から死滅する。(1)あるいは、他者による中断によって死滅する。(2)あるいは、不可能であるとして死滅する。(1)どのように、他者による中断によって死滅するのか。他者が、中断させる。「その教師は、一切知者にあらず」「〔その〕法(教え)は、見事に告げ知らされた〔教え〕にあらず」「〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「〔その〕見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕道は、善く報知された〔道〕にあらず」「〔その聖者の〕道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「ここにおいて、あるいは、〔人々が〕清らかとなることは、あるいは、〔人々が〕清浄となることは、あるいは、〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、〔人々が〕解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕解脱することは、あるいは、〔人々が〕完全に解脱することは、存在しない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように、他者が中断させる。このように中断させられつつ、教師から死滅し、法(教え)の告知から死滅し、衆徒から死滅し、見解から死滅し、〔実践の〕道から死滅し、〔聖者の〕道から死滅する。このように、他者による中断によって死滅する。(2)どのように、不可能であるとして死滅するのか。戒〔の成就〕を不可能であるとして、戒から死滅する。掟〔の成就〕を不可能であるとして、掟から死滅する。戒と掟〔の成就〕を不可能であるとして、戒と掟から死滅する。このように、不可能であるとして死滅する。ということで、「それで、もし、戒や掟から死滅した者と成るなら」。

 

 [1216]「〔為すべき宗教〕行為()を失って、動揺します」とは、「動揺します」とは、あるいは、戒に、あるいは、掟に、あるいは、戒と掟に、「わたしによって、亡失するものとなった」「わたしによって、違反するものとなった」「わたしによって、惑乱あるものとなった」「わたしによって、落度あるものとなった」「わたしは、了知に違反する者となった」と、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「動揺します」。「〔為すべき宗教〕行為を失って」とは、あるいは、功徳ある行作(善果を形成する働き)に、あるいは、功徳なき行作(悪果を形成する働き)に、あるいは、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)に、「わたしによって、亡失するものとなった」「わたしによって、違反するものとなった」「わたしによって、惑乱あるものとなった」「わたしによって、落度あるものとなった」「わたしは、了知に違反する者となった」と、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「〔為すべき宗教〕行為を失って、動揺します」。

 

 [1217]「〔彼は〕清浄を渇望し、かつまた、切望します」とは、「渇望し」とは、あるいは、戒を渇望し、あるいは、掟を渇望し、あるいは、戒と掟を、渇望し、強く渇望し、固く渇望する。ということで、「渇望し」。「〔彼は〕清浄を」「かつまた、切望します」とは、あるいは、戒としての清浄を切望し、あるいは、掟としての清浄を切望し、あるいは、戒と掟としての清浄を、切望し、熱望し、渇望する。ということで、「〔彼は〕清浄を渇望し、かつまた、切望します」。

 

 [1218]「家から離れて旅する者が、〔共に旅する〕隊商から捨棄されたかのように」とは、たとえば、家から出た人が、隊商とともに旅をしながら住しつつ、隊商からはぐれたなら、あるいは、その隊商を追跡し、あるいは、自らの家に帰還するように、まさしく、このように、彼は、悪しき見解ある者は、あるいは、その教師を収取し、あるいは、他の教師を収取し、あるいは、その法(教え)の告知を収取し、あるいは、他の法(教え)の告知を収取し、あるいは、その衆徒を収取し、あるいは、他の衆徒を収取し、あるいは、その見解を収取し、あるいは、他の見解を収取し、あるいは、その〔実践の〕道を収取し、あるいは、他の〔実践の〕道を収取し、あるいは、その〔聖者の〕道を収取し、あるいは、他の〔聖者の〕道を、収取し、偏執し、固着する。ということで、「家から離れて旅する者が、〔共に旅する〕隊商から捨棄されたかのように」。

 

 [1219]それによって、世尊は言った。

 

 [1220]「それで、もし、戒や掟から死滅した者(喪失者)と成るなら、〔為すべき宗教〕行為()を失って、動揺します。〔彼は〕清浄を渇望し、かつまた、切望します──家から離れて旅する者が、〔共に旅する〕隊商から捨棄されたかのように」と。

 

135.

 

 [1221]906.(900) あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、さらに、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕行為を〔捨棄して〕、清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、〔一切を〕切望せずにいる者は、〔一切の執着を〕離れ、寂静に〔さえも〕執持せずして、〔世を〕歩むでしょう。(6)

 

 [1222]「あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」とは、一切の戒としての清浄を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、一切の掟としての清浄を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、一切の戒と掟としての清浄を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」。

 

 [1223]「さらに、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕行為を〔捨棄して〕」とは、罪を有する行為は、黒きもの、黒き報いあるもの、と説かれる。罪なき行為は、白きもの、白き報いあるもの、と説かれる。そして、罪を有する行為を、さらに、罪なき行為を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「さらに、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕行為を〔捨棄して〕」。

 

 [1224]「清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、〔一切を〕切望せずにいる者は」とは、「清浄ならざるものも」とは、清浄ならざるものを切望するとして、諸々の善ならざる法(性質)を切望する。「清浄なるものも」とは、清浄なるものを切望するとして、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を切望する。清浄ならざるものを切望するとして、諸々の善ならざる法(性質)を切望し、五つの欲望の属性を切望する。清浄なるものを切望するとして、六十二の悪しき見解を切望する。清浄ならざるものを切望するとして、諸々の善ならざる法(性質)を切望し、五つの欲望の属性を切望し、六十二の悪しき見解を切望する。清浄なるものを切望するとして、三つの界域(三界)に属する諸々の善なる法(性質)を切望する。清浄ならざるものを切望するとして、諸々の善ならざる法(性質)を切望し、五つの欲望の属性を切望し、六十二の悪しき見解を切望し、三つの界域に属する諸々の善なる法(性質)を切望する。清浄なるものを切望するとして、善き凡夫たちは、〔正道たることの〕決定に入ることを切望し、〔いまだ〕学びある者(有学)たちは、至高の法(性質)たる阿羅漢の資質を切望する。阿羅漢の資質が至り得られたとき、〔その〕阿羅漢は、まさしく、諸々の善ならざる法(性質)を切望することもなく、五つの欲望の属性を切望することもまたなく、六十二の悪しき見解を切望することもまたなく、三つの界域に属する諸々の善なる法(性質)を切望することもまたなく、〔正道たることの〕決定に入ることを切望することもまたなく、至高の法(性質)たる阿羅漢の資質を切望することもまたない。阿羅漢は、切望することを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、〔一切を〕切望せずにいる者は」。

 

 [1225]「〔一切の執着を〕離れ、寂静に〔さえも〕執持せずして、〔世を〕歩むでしょう」とは、「〔一切の執着を〕離れ」とは、清浄なるものと清浄ならざるものから、離れた者として(※)、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「〔一切の執着を〕離れ」。「〔世を〕歩むでしょう」とは、〔世を〕歩むべきであり、〔世を〕行じ歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「〔一切の執着を〕離れ、〔世を〕歩むでしょう」。「寂静に〔さえも〕執持せずして」とは、諸々の寂静は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての寂静である。〔それらに〕収取せずにいる者、〔それらに〕偏執せずにいる者、〔それらに〕固着せずにいる者。ということで、「〔一切の執着を〕離れ、寂静に〔さえも〕執持せずして、〔世を〕歩むでしょう」。

 

※ テキストには ārato assa とあるが、PTS版により ārato と読む。

 

 [1226]それによって、世尊は言った。

 

 [1227]「あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、さらに、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕行為を〔捨棄して〕、清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、〔一切を〕切望せずにいる者は、〔一切の執着を〕離れ、寂静に〔さえも〕執持せずして、〔世を〕歩むでしょう」と。

 

136.

 

 [1228]907.(901) あるいは、〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して、そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕、声高に清浄を唱えます──諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに。(7)

 

 [1229]「あるいは、〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して」とは、或る沙門や婆羅門たちで、〔世の人々に〕忌避されている苦行を説く者たちが存在する。〔世の人々に〕忌避されている苦行を真髄とする者たち、〔世の人々に〕忌避されている苦行に、依存する者たち、強く依存する者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たちである。ということで、「あるいは、〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して」。

 

 [1230]「そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕」とは、あるいは、見られたものに、あるいは、見られたものとしての清浄に、あるいは、聞かれたものに、あるいは、聞かれたものとしての清浄に、あるいは、思われたものに、あるいは、思われたものとしての清浄に、依存して、近しく依存して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕」。

 

 [1231]「声高に清浄を唱えます」とは、或る沙門や婆羅門たちで、声高に説く者たちが存在する。どのような者たちが、それらの沙門や婆羅門たちで、声高に説く者たちであるのか。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちで、究極の清浄ある者たち(特定の見解を究極の清浄と説く者たち)、輪廻の清浄ある者たち(輪廻による浄化を説く者たち)、無作の見解ある者たち(修行不要論を説く者たち)、常久の論ある者たち(常住論を説く者たち)であるなら、これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちで、声高に説く者たちである。彼らは、輪廻のうちに、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、唱え、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「声高に清浄を唱えます」。

 

 [1232]「諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「諸々の種々なる生存にたいする」とは、種々なる生存における、行為の生存(業有)にたいする、さらなる生存(再有)にたいする──欲望の生存(欲有)における行為の生存にたいする、欲望の生存におけるさらなる生存にたいする、形態の生存(色有)における行為の生存にたいする、形態の生存におけるさらなる生存にたいする、形態なき生存(無色有)における行為の生存にたいする、形態なき生存におけるさらなる生存にたいする。繰り返す生存にたいする、繰り返す境遇にたいする、繰り返す再生にたいする、繰り返す結生にたいする、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現にたいする、渇愛を離れていない者たちとして、渇愛を離れ去っていない者たちとして、渇愛を捨て去っていない者たちとして、渇愛を吐き捨てていない者たちとして、渇愛を解き放っていない者たちとして、渇愛を捨棄していない者たちとして、渇愛を放棄していない者たちとして。ということで、「諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」。

 

 [1233]それによって、世尊は言った。

 

 [1234]「あるいは、〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して、そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕、声高に清浄を唱えます──諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに」と。

 

137.

 

 [1235]908.(902) まさに、〔何かを〕切望している者には、諸々の渇望されたもの(欲望の対象)があります。あるいは、また、諸々の想い描かれたもの(妄想)にたいする動揺があります。〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず(渇愛なき聖者に輪廻は存在せず)、彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう。(8)

 

 [1236]「まさに、〔何かを〕切望している者には、諸々の渇望されたもの(欲望の対象)があります」とは、切望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「〔何かを〕切望している者には」とは、切望している者には、欲求している者には、愛用している者には、熱望している者には、渇望している者には。ということで、「まさに、〔何かを〕切望している者には」。「諸々の渇望されたものがあります」とは、渇望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。ということで、「まさに、〔何かを〕切望している者には、諸々の渇望されたものがあります」。

 

 [1237]「あるいは、また、諸々の想い描かれたもの(妄想)にたいする動揺があります」とは、「妄想(想い描き)」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。「あるいは、また、諸々の想い描かれたものにたいする動揺があります」とは、想い描かれた事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた動揺し、略奪されつつあるときもまた動揺し、略奪されたときもまた動揺し、想い描かれた事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた動揺し、変化しつつあるときもまた動揺し、変化したときもまた、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「あるいは、また、諸々の想い描かれたものにたいする動揺があります」。

 

 [1238]「〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、〔他の世に〕赴くことが、〔他の世から〕来ることが、〔他の世に〕赴くことと〔他の世から〕来ることが、〔輪廻の〕時が、境遇が、種々なる生存が、かつまた、死滅が、かつまた、再生が、かつまた、発現が、かつまた、破壊が、かつまた、生が、かつまた、老と死が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず」。

 

 [1239]「彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」とは、彼は、どのような貪欲によって、動揺するというのだろう、どのような憤怒によって、動揺するというのだろう、どのような迷妄によって、動揺するというのだろう、どのような思量によって、動揺するというのだろう、どのような見解によって、動揺するというのだろう、どのような高揚によって、動揺するというのだろう、どのような疑惑によって、動揺するというのだろう、どのような諸々の悪習によって、動揺するというのだろう──あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)である」と、あるいは、「強靭に至った者(頑迷固陋の者)である」と。〔彼の〕それらの行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、〔未来の〕境遇について、何によって、動揺するというのだろう──あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、動揺するであろう、強く動揺するであろう、等しく動揺するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「彼は、何によって、動揺するというのでしょう」。「あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」とは、あるいは、どこに、渇望するというのだろう、どこで、渇望するというのだろう、どこにおいて、渇望するというのだろう、強く渇望するというのだろう、固く渇望するというのだろう。ということで、「彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」。

 

 [1240]それによって、世尊は言った。

 

 [1241]「まさに、〔何かを〕切望している者には、諸々の渇望されたもの(欲望の対象)があります。あるいは、また、諸々の想い描かれたもの(妄想)にたいする動揺があります。〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず(渇愛なき聖者に輪廻は存在せず)、彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」と。

 

138.

 

 [1242]909.(903) 〔対話者が尋ねた〕──或る者たちが、〔まさに〕その、〔自らの〕法(見解)を、「最高である」と言うなら、いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を、「劣る」と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕「智者である」〔と〕説いています。(9)

 

 [1243]「或る者たちが、〔まさに〕その、〔自らの〕法(見解)を、『最高である』と言うなら」とは、〔まさに〕その、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちが、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、このように言うなら、このように言説するなら、このように発語するなら、このように提示するなら、このように語用するなら。ということで、「或る者たちが、〔まさに〕その、〔自らの〕法(見解)を、『最高である』と言うなら」。

 

 [1244]「いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を、『劣る』と言います」とは、まさしく、その、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちは、「これは、下劣である」「これは、劣悪である」「これは、下等である」「これは、悪辣である」「これは、劣小である」「これは、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を、『劣る』と言います」。

 

 [1245]「いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか」とは、これらの沙門や婆羅門の、どの論が、真理であるのか、如実であるのか、真実であるのか、事実であるのか、あるがままであるのか、転倒ならざるものであるのか。ということで、「いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか」。

 

 [1246]「まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」とは、これらの沙門や婆羅門者たちは、まさしく、全ての者たちが、自らの主張について、智者と説く者たちである、賢者と説く者たちである、強固と説く者たちである、正理と説く者たちである、〔正しい〕因と説く者たちである、〔正しい〕特相と説く者たちである、〔正しい〕契機と説く者たちである、〔正しい〕拠点と説く者たちである。ということで、「まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」。

 

 [1247]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1248]〔対話者が尋ねた〕──「或る者たちが、〔まさに〕その、〔自らの〕法(見解)を、『最高である』と言うなら、いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を、『劣る』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」と。

 

139.

 

 [1249]910.(904) 〔世尊は答えた〕──まさに、〔彼らは〕自らの法(見解)を、円満成就したものと言い、いっぽうで、他者の法(見解)を、劣るものと言います。このように、また、〔自らの法に〕執持して論争し、互いに自らの主義〔だけ〕を、真理と言います。(10)

 

 [1250]「まさに、〔彼らは〕自らの法(見解)を、円満成就したものと言い」とは、自らの、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちは、「これは、完全である、円満成就したものである、至上である」と、このように言い……略([167]参照)……このように語用する。ということで、「まさに、〔彼らは〕自らの法(見解)を、円満成就したものと言い」。

 

 [1251]「いっぽうで、他者の法(見解)を、劣るものと言います」とは、他者の、法(教え)を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちは、「これは、下劣である」「これは、劣悪である」「これは、下等である」「これは、悪辣である」「これは、劣小である」「これは、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「いっぽうで、他者の法(見解)を、劣るものと言います」。

 

 [1252]「このように、また、〔自らの法に〕執持して論争し」とは、このように、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、論争し、紛争を為し、言争を為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」〔と〕。ということで、「このように、また、〔自らの法に〕執持して論争し」。

 

 [1253]「互いに自らの主義〔だけ〕を、真理と言います」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、「互いに自ら〔各自の〕主義を、真理と言います」。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、「互いに自らの主義〔だけ〕を、真理と言います」。

 

 [1254]それによって、世尊は言った。

 

 [1255]〔世尊は答えた〕──「まさに、〔彼らは〕自らの法(見解)を、円満成就したものと言い、いっぽうで、他者の法(見解)を、劣るものと言います。このように、また、〔自らの法に〕執持して論争し、互いに自らの主義〔だけ〕を、真理と言います」と。

 

140.

 

 [1256]911.(905) もし、他者に誹られたことで、〔或る法が〕劣るものと〔成るなら〕、諸々の法(見解)のなかに、何であれ、勝るものは存在しないでしょう。なぜなら、〔彼らは〕個々それぞれに、他者の法(見解)を、「劣る」と説くからです──自ら〔の法〕において、断固として〔自らの正しさを〕説きながら。(11)

 

 [1257]「もし、他者に誹られたことで、〔或る法が〕劣るものと〔成るなら〕」とは、もし、他者に、誹られたことを契機とすることから、非難されたことを契機とすることから、難詰されたことを契機とすることから、批判されたことを契機とすることから、〔別の〕他者が、愚者と成り、下劣の者と〔成り〕、劣悪の者と〔成り〕、下等の者と〔成り〕、悪辣の者と〔成り〕、劣小の者と〔成り〕、微小の者と〔成り〕、下劣の智慧ある者と〔成り〕、劣悪の智慧ある者と〔成り〕、下等の智慧ある者と〔成り〕、悪辣の智慧ある者と〔成り〕、劣小の智慧ある者と〔成り〕、微小の智慧ある者と〔成るなら〕。ということで、「もし、他者に誹られたことで、〔或る法が〕劣るものと〔成るなら〕」。

 

 [1258]「諸々の法(見解)のなかに、何であれ、勝るものは存在しないでしょう」とは、諸々の法(見解)のなかに、何であれ、至高のものは、最勝のものは、殊勝のものは、筆頭のものは、最上のものは、最も優れたものは、存在しないであろう。ということで、「諸々の法(見解)のなかに、何であれ、勝るものは存在しないでしょう」。

 

 [1259]「なぜなら、〔彼らは〕個々それぞれに、他者の法(見解)を、『劣る』と説くからです」とは、多なる者たちはまた、多なる者たちの法(見解)を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、説き、批判し、非難し、難詰し、多なる者たちはまた、一なる者の法(見解)を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、説き、批判し、非難し、難詰し、一なる者はまた、多なる者たちの法(見解)を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、説き、批判し、非難し、難詰し、一なる者はまた、一なる者の法(見解)を、下劣〔の観点〕から、劣悪〔の観点〕から、下等〔の観点〕から、悪辣〔の観点〕から、劣小〔の観点〕から、微小〔の観点〕から、説き、批判し、非難し、難詰する。ということで、「なぜなら、〔彼らは〕個々それぞれに、他者の法(見解)を、『劣る』と説くからです(※)」。

 

※ テキストには vadanti dhamma とあるが、PTS版により vadanti dhamma nihīnato と読む(nihīnato を[1260]の冒頭から移動)。

 

 [1260]「自ら〔の法〕において(※)、断固として〔自らの正しさを〕説きながら」とは、法(教え)は、自らの道であり、見解は、自らの道であり、〔実践の〕道は、自らの道であり、〔聖者の〕道は、自らの道であり、自らの道について、断固たるものと説く者たち、強固たるものと説く者たち、力あるものと説く者たち、確立されたものと説く者たち。ということで、「自ら〔の法〕において(※※)、断固として〔自らの正しさを〕説きながら」。

 

※ テキストには Nihīnato samhi とあるが、PTS版により Samhi と読む(Nihīnato を[1259]の末尾に移動)。

※※ テキストには nihīnato samhi とあるが、PTS版により samhi と読む。

 

 [1261]それによって、世尊は言った。

 

 [1262]「もし、他者に誹られたことで、〔或る法が〕劣るものと〔成るなら〕、諸々の法(見解)のなかに、何であれ、勝るものは存在しないでしょう。なぜなら、〔彼らは〕個々それぞれに、他者の法(見解)を、『劣る』と説くからです──自ら〔の法〕において、断固として〔自らの正しさを〕説きながら」と。

 

141.

 

 [1263]912.(906) いっぽう、〔個々それぞれの〕自らの法(見解)への供養(信奉)もまた、まさしく、そのとおりにあります──すなわち、〔彼らが、個々それぞれの〕自らの道を賞賛するとおりに、〔そのようなものとして〕。〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう。なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄〔の論〕があるからです。(12)

 

 [1264]「いっぽう、〔個々それぞれの〕自らの法(見解)への供養(信奉)もまた、まさしく、そのとおりにあります」とは、どのようなものが、自らの法(見解)への供養であるのか。自らの教師を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。「この教師は、一切知者である」と。これが、自らの法(見解)への供養である。自らの法(教え)の告知を……。自らの衆徒を……。自らの見解を……。自らの〔実践の〕道を……。自らの〔聖者の〕道を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。「この〔聖者の〕道は、出脱〔の道〕である」と。これが、自らの法(見解)への供養である。「いっぽう、〔個々それぞれの〕自らの法(見解)への供養(信奉)もまた、まさしく、そのとおりにあります」とは、諸々の自らの法(見解)への〔個々それぞれの〕供養は、真実である、如実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである。ということで、「いっぽう、〔個々それぞれの〕自らの法(見解)への供養(信奉)もまた、まさしく、そのとおりにあります」。

 

 [1265]「すなわち、〔彼らが、個々それぞれの〕自らの道を賞賛するとおりに、〔そのようなものとして〕」とは、法(教え)は、自らの道であり、見解は、自らの道であり、〔実践の〕道は、自らの道であり、〔聖者の〕道は、自らの道であり、諸々の自らの道を、〔彼らは〕賞賛する、〔彼らは〕賛嘆する、〔彼らは〕名誉とする、〔彼らは〕栄誉とする。ということで、「すなわち、〔彼らが、個々それぞれの〕自らの道を賞賛するとおりに、〔そのようなものとして〕」。

 

 [1266]「〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう」とは、〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と〔成り〕、如実と〔成り〕、事実と〔成り〕、あるがままと〔成り〕、転倒ならざるものと成るであろう。ということで、「〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう」。

 

 [1267]「なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄〔の論〕があるからです」とは、まさしく、各自それぞれに、それらの沙門や婆羅門たちには、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱がある。ということで、「なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄〔の論〕があるからです」。

 

 [1268]それによって、世尊は言った。

 

 [1269]「いっぽう、〔個々それぞれの〕自らの法(見解)への供養(信奉)もまた、まさしく、そのとおりにあります──すなわち、〔彼らが、個々それぞれの〕自らの道を賞賛するとおりに、〔そのようなものとして〕。〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう。なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄〔の論〕があるからです」と。

 

142.

 

 [1270]913.(907) 〔真の〕婆羅門(人格完成者)には、他者に導かれることが存在しないのです。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して、それゆえに、〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります。なぜなら、〔彼は〕他者の法(見解)を「勝る」と見ないからです。(13)

 

 [1271]「〔真の〕婆羅門(人格完成者)には、他者に導かれることが存在しないのです」とは、「ない」とは、否定〔の言葉〕。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。……略([299-300]参照)……〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔真の〕婆羅門には、他者に導かれることが存在しないのです」とは、〔真の〕婆羅門には、他者に導かれることが存在せず、〔真の〕婆羅門は、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔真の〕婆羅門には、他者に導かれることが存在せず、〔真の〕婆羅門は、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔真の〕婆羅門には、他者に導かれることが存在せず、〔真の〕婆羅門は、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。ということで、「〔真の〕婆羅門には、他者に導かれることが存在しないのです」。

 

 [1272]「諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」とは、「諸々の法(見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔執着の対象と〕判別して」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。限界あるものの収取、片々のものの収取、優れたものの収取、部位のものの収取、積集のものの収取、等しき積集のものの収取は、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、〔もはや〕存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔彼は〕諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して」。

 

 [1273]「それゆえに、〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の見解の紛争を、諸々の見解の言争を、諸々の見解の口論を、諸々の見解の論争を、諸々の見解の確執を、近しく超克した者となり、超越した者となり、等しく超越した者となり、超克した者となる。ということで、「それゆえに、〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります」。

 

 [1274]「なぜなら、〔彼は〕他者の法(見解)を『勝る』と見ないからです」とは、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕他のものである、教師を、法(教え)の告知を、衆徒を、見解を、〔実践の〕道を、〔聖者の〕道を、法(見解)として、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、〔彼は〕見ない、〔彼は〕視認しない、〔彼は〕注目しない、〔彼は〕凝視しない、〔彼は〕近しく注視しない。ということで、「なぜなら、〔彼は〕他者の法(見解)を『勝る』と見ないからです」。

 

 [1275]それによって、世尊は言った。

 

 [1276]「〔真の〕婆羅門(人格完成者)には、他者に導かれることが存在しないのです。諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して、それゆえに、〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります。なぜなら、〔彼は〕他者の法(見解)を『勝る』と見ないからです」と。

 

143.

 

 [1277]914.(908) 「〔わたしは〕知る。〔わたしは〕見る。まさしく、そのとおりに、この〔清浄〕を」〔と〕、或る者たちは、見解によって清浄を信受します。もし、〔彼が〕見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう。〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のもの(他者・他物)によって、清浄を説きます。(14)

 

 [1278]「『〔わたしは〕知る。〔わたしは〕見る。まさしく、そのとおりに、この〔清浄〕を』〔と〕」とは、「〔わたしは〕知る」とは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵(他心智)によって知る、あるいは、過去における居住の随念の知恵(宿命随念智)によって知る。「〔わたしは〕見る」とは、あるいは、肉眼によって見る、あるいは、天眼によって見る。「まさしく、そのとおりに、この〔清浄〕を」とは、この〔清浄〕を、真実として、如実として、事実として、あるがままとして、転倒ならざるものとして。ということで、「『〔わたしは〕知る。〔わたしは〕見る。まさしく、そのとおりに、この〔清浄〕を』〔と〕」。

 

 [1279]「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」とは、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。ということで、「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」。

 

 [1280]「もし、〔彼が〕見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう」とは、「見た」とは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵によって見た、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって見た、あるいは、肉眼によって見た、あるいは、天眼によって見た。ということで、「もし、〔彼が〕見たとして」。「そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう」とは、彼の、その見によって、何が為されたというのだろう。苦痛の遍知は存在せず、集起の捨棄は存在せず、道の修行は存在せず、果の実証は存在せず、貪欲の、断絶の捨棄は存在せず、憤怒の、断絶の捨棄は存在せず、迷妄の、断絶の捨棄は存在せず、諸々の〔心の〕汚れの、断絶の捨棄は存在せず、輪廻の転起の、断絶は存在しない。ということで、「もし、〔彼が〕見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう」。

 

 [1281]「〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のもの(他者・他物)によって、清浄を説きます」とは、それらの異教の者たちは、清らかさの道を、清浄の道を、完全なる清浄の道を、清白の道を、完全なる清白の道を、超越して、等しく超越して、超克して、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、このようにもまた、「〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のものによって、清浄を説きます」。

 

 [1282]さらに、あるいは、そして、覚者たちは、さらに、覚者の弟子たちは、かつまた、独覚たちは、それらの異教の者たちの、清らかさならざる道を、清浄ならざる道を、完全なる清浄ならざる道を、清白ならざる道を、完全なる清白ならざる道を、超越して、等しく超越して、超克して、〔四つの〕気づきの確立によって、〔四つの〕正しい精励によって、〔四つの〕神通の足場によって、〔五つの〕機能によって、〔五つの〕力によって、〔七つの〕覚りの支分によって、聖なる八つの支分ある道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、このようにもまた、「〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のものによって、清浄を説きます」。

 

 [1283]それによって、世尊は言った。

 

 [1284]「『〔わたしは〕知る。〔わたしは〕見る。まさしく、そのとおりに、この〔清浄〕を』〔と〕、或る者たちは、見解によって清浄を信受します。もし、〔彼が〕見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう。〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のもの(他者・他物)によって、清浄を説きます」と。

 

144.

 

 [1285]915.(909) 〔他のものによって〕見ている人は、名前と形態(名色:心と身体)を、〔常住と〕見ます。あるいは、〔そのように〕見て、まさしく、それら(名前と形態)を、〔常住と〕知るのです。〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ──あるいは、少なくを。なぜなら、〔真の〕智者たちは、それ(邪見)によって、清浄を説かないからです。(15)

 

 [1286]「〔他のものによって〕見ている人は、名前と形態(名色:心と身体)を、〔常住と〕見ます」とは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵によって見ているとして、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって見ているとして、あるいは、肉眼によって見ているとして、あるいは、天眼によって見ているとして、まさしく、名前と形態を、常住〔の観点〕から、安楽〔の観点〕から、自己〔の観点〕から、見る。それらの法(性質)の、あるいは、集起を、あるいは、滅至を、あるいは、悦楽を、あるいは、危険を、あるいは、出離を、見ない。ということで、「〔他のものによって〕見ている人は、名前と形態を、〔常住と〕見ます」。

 

 [1287]「あるいは、〔そのように〕見て、まさしく、それら(名前と形態)を、〔常住と〕知るのです」とは、「〔そのように〕見て」とは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵によって見て、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって見て、あるいは、肉眼によって見て、あるいは、天眼によって見て、まさしく、名前と形態を、常住〔の観点〕から、安楽〔の観点〕から、自己〔の観点〕から、知るであろう。それらの法(性質)の、あるいは、集起を、あるいは、滅至を、あるいは、悦楽を、あるいは、危険を、あるいは、出離を、知ることはないであろう。ということで、「あるいは、〔そのように〕見て、まさしく、それらを、〔常住と〕知るのです」。

 

 [1288]「〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ──あるいは、少なくを」とは、名前と形態を、常住〔の観点〕から、安楽〔の観点〕から、自己〔の観点〕から、欲するままに、あるいは、多くを、あるいは、少なくを、見ている者は。ということで、「〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ──あるいは、少なくを」。

 

 [1289]「なぜなら、〔真の〕智者たちは、それ(邪見)によって、清浄を説かないからです」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、〔五つの〕範疇に智ある者たち、〔十八の〕界域に智ある者たち、〔十二の認識の〕場所に智ある者たち、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に智ある者たち、〔四つの〕気づきの確立に智ある者たち、〔四つの〕正しい精励に智ある者たち、〔四つの〕神通の足場に智ある者たち、〔五つの〕機能に智ある者たち、〔五つの〕力に智ある者たち、〔七つの〕覚りの支分に智ある者たち、〔聖者の〕道に智ある者たち、〔沙門の〕果に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵によって、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって、あるいは、肉眼によって、あるいは、天眼によって、名前と形態の見によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「なぜなら、〔真の〕智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」。

 

 [1290]それによって、世尊は言った。

 

 [1291]「〔他のものによって〕見ている人は、名前と形態(名色:心と身体)を、〔常住と〕見ます。あるいは、〔そのように〕見て、まさしく、それら(名前と形態)を、〔常住と〕知るのです。〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ──あるいは、少なくを。なぜなら、〔真の〕智者たちは、それ(邪見)によって、清浄を説かないからです」と。

 

145.

 

 [1292]916.(910) 〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません。〔執着の対象として〕想い描かれた(※)〔特定の〕見解を偏重している者です。それ(自説)に依存する者が、そこにおいて、「美しい(価値がある)」と説いているなら、彼は、〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです。(16)

 

※ テキストには pakappitā とあるが、PTS版により pakappita と読む。以下の平行箇所も同様。

 

 [1293]「〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、「〔特定の見解に〕固着して説く者は」。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、「〔特定の見解に〕固着して説く者は」。「まさに、導くに易き者ではありません」とは、〔特定の見解に〕固着して説く者は、教導するに難き者であり、報知するに難き者であり、納得させるに難き者であり、注視させるに難き者であり、浄信させるに難き者である。ということで、「〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません」。

 

 [1294]「〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕見解を偏重している者です」とは、想い描かれ、妄想され、行作され、確立された(※)、〔特定の〕見解を、偏重して、〔世を〕歩む。見解を旗とする者として、見解を幟とする者として、見解を優位とする者として、〔特定の〕見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩む。ということで、「〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕見解を偏重している者です」。

 

※ テキストには Kappitā pakappitā abhisakhatā saṇṭhapitā とあるが、PTS版により Kappita pakappita abhisakhata saṇṭhapita と読む。

 

 [1295]「それ(自説)に依存する者が、そこにおいて、『美しい(価値がある)』と説いているなら」とは、「それに依存する者が」とは、〔まさに〕その、教師に、法(教え)の告知に、衆徒に、見解に、〔実践の〕道に、〔聖者の〕道に、依存する者が、強く依存する者が、〔思いが〕付着した者が、近しく赴いた者が、固執した者が、信念した者が。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「『美しい』と説いているなら」とは、自らの主張について、美しいと説く者であるなら、荘厳と説く者であるなら、賢者と説く者であるなら、強固と説く者であるなら、正理と説く者であるなら、〔正しい〕因と説く者であるなら、〔正しい〕特相と説く者であるなら、〔正しい〕契機と説く者であるなら、〔正しい〕拠点と説く者であるなら。ということで、「それに依存する者が、そこにおいて、『美しい』と説いているなら」。

 

 [1296]「彼は、〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです」とは、清らかさの論ある者、清浄の論ある者、完全なる清浄の論ある者、清白の論ある者、完全なる清白の論ある者。さらに、あるいは、清らかさの見ある者、清浄の見ある者、完全なる清浄の見ある者、清白の見ある者、完全なる清白の見ある者。ということで、「清浄を説く者」。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受)において、自らの嗜好(意欲)において、自らの主張において。「真実である、如実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、〔彼は〕見た、〔彼は〕視認した、〔彼は〕観た、〔彼は〕理解した。ということで、「彼は、〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです」。

 

 [1297]それによって、世尊は言った。

 

 [1298]「〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません。〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕見解を偏重している者です。それ(自説)に依存する者が、そこにおいて、『美しい(価値がある)』と説いているなら、彼は、〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです」と。

 

146.

 

 [1299]917.(911) 〔真の〕婆羅門は、〔正しく〕究明して、〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属(知識に結縛された者)でもありません。そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って、〔それらを〕放捨します──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして。(17)

 

 [1300]「〔真の〕婆羅門は、〔正しく〕究明して、〔時間の〕妄想に近づきません」とは、「ません」とは、否定〔の言葉〕。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。……略([299-300]参照)……〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。究明は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。「〔真の〕婆羅門は、〔正しく〕究明して、〔時間の〕妄想に近づきません」とは、〔真の〕婆羅門は、究明して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して、「一切の形成〔作用〕は、無常である」……「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」……略([324]参照)……「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、究明して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して、あるいは、渇愛の妄想に、あるいは、見解の妄想に、至らず、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔真の〕婆羅門は、〔正しく〕究明して、〔時間の〕妄想に近づきません」。

 

 [1301]「見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属(知識に結縛された者)でもありません」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、見解によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められず、また、その悪しき見解を、真髄〔の観点〕から、信受せず、再帰しない。ということで、「見解に走り行く者ではなく」。「また、知恵の眷属でもありません」とは、あるいは、八つの入定(四禅と四無色界定)の知恵によって、あるいは、五つの神知(漏尽通を除く五つの神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通)の知恵によって、あるいは、渇愛の眷属を、あるいは、見解の眷属を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属でもありません」。

 

 [1302]「そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って」とは、「知って」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「そして、彼は」「知って」。諸々の主義は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての主義である。「凡俗なる」とは、あるいは、多々なる人たち(凡夫たち)によって生まれた、それらの主義、ということで、「凡俗なる」。あるいは、多々にして種々なる人たちによって生まれた、それらの(※)主義、ということで、「凡俗なる」。ということで、「そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って」。

 

※ テキストには puthu nānājanehi janitā vā とあるが、PTS版により puthu nānājanehi janitā vā tā と読む。

 

 [1303]「〔それらを〕放捨します──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」とは、他者たちは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取し、偏執し、固着する。阿羅漢は、〔それらを〕放捨し、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔それらを〕放捨します──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」。

 

 [1304]それによって、世尊は言った。

 

 [1305]「〔真の〕婆羅門は、〔正しく〕究明して、〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属(知識に結縛された者)でもありません。そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って、〔それらを〕放捨します──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」と。

 

147.

 

 [1306]918.(912) 牟尼(沈黙の聖者)は、ここに、〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて、諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は、〔特定の見解に〕執持する者ではありません──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして。(18)

 

 [1307]「牟尼(沈黙の聖者)は、ここに、〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて」とは、「拘束」とは、四つの拘束(四繋)がある。(1)強欲〔の思い〕としての身体の拘束、(2)憎悪〔の思い〕としての身体の拘束、(3)戒や掟への偏執としての身体の拘束、(4)「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。(1)自己の見解にたいする貪欲は、強欲〔の思い〕としての身体の拘束である。(2)他者たちの論にたいする憤懣と不興は、憎悪〔の思い〕としての身体の拘束である。(3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4)自己の見解は(※)、「これは真理である」という〔心の〕固着としての身体の拘束である。「捨てて」とは、〔四つの〕拘束を、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。たとえば、あるいは、駕篭を、あるいは、車を、あるいは、荷車を、あるいは、戦車を、執着を〔為してそののち〕、執着から離れることを為し、〔最後は〕破砕するように、まさしく、このように、〔四つの〕拘束を、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「この〔世において〕」とは、この見解の……略([145]参照)……この人間の世において。ということで、「牟尼は、ここに、〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて」。

 

※ テキストには diṭṭhi abhiniveso kāyagantho とあるが、PTS版により diṭṭhi と読む。

 

 [1308]「諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません」とは、諸々の論争が、生じたとして、産出したとして、発現したとして、結実したとして、出現したとして、欲〔の思い〕の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、憤怒の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、迷妄の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、恐怖の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、そして、諸々の党派の法(性質)によって、行か〔ず〕、導かれ〔ず〕、運ばれ〔ず〕、集められない。ということで、「諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません」。

 

 [1309]「寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は」とは、「寂静で」とは、貪欲が静まったことから、寂静となった者となり、憤怒が静まったことから、寂静となった者となり、迷妄が静まったことから、寂静となった者となり……略([243]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「寂静で」。「寂静ならざる者たちのなかにいながら」とは、〔心が〕静まっていない者たちのなかにいながら、寂静ならざる者たちのなかにいながら、寂止ならざる者たちのなかにいながら、寂滅ならざる者たちのなかにいながら、安息ならざる者たちのなかにいながら。ということで、「寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で」。「〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は」とは、阿羅漢は、六つの支分ある放捨(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者であり、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住む〕。耳によって、音声を聞いて……略([886-895]参照)……〔感官を〕修めた者となり、〔死の〕時を待つ──寂静なる者として」〔と〕。ということで、「寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は」。

 

 [1310]「〔特定の見解に〕執持する者ではありません──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」とは、他者たちは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取し、偏執し、固着する。阿羅漢は、〔それらを〕放捨し、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔特定の見解に〕執持する者ではありません──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」。

 

 [1311]それによって、世尊は言った。

 

 [1312]「牟尼(沈黙の聖者)は、ここに、〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて、諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は、〔特定の見解に〕執持する者ではありません──他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」と。

 

148.

 

 [1313]919.(913) 諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者は、欲〔の思い〕に至る者ではありません──また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕慧者です。自己を難じることなき者は、世において、〔何にも〕汚されません。(19)

 

 [1314]「諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者は」とは、諸々の過去の煩悩は、諸々の過去の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕と説かれる。諸々の過去の形成〔作用〕に関して、それらの〔心の〕汚れが生起するべくあるとして、それらの〔心の〕汚れを、捨棄して、捨て去って、遍捨して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「諸々の過去の煩悩を捨棄して」。「諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者は」とは、諸々の新しい〔煩悩〕は、諸々の現在の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕と説かれる。諸々の現在の形成〔作用〕に関して、欲〔の思い〕を作らずにいる者、愛情〔の思い〕を作らずにいる者、貪欲〔の思い〕を、作らずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、結実させずにいる者。ということで、「諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者は」。

 

 [1315]「欲〔の思い〕に至る者ではありません──また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません」とは、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、そして、諸々の党派の法(性質)によって、行か〔ず〕、導かれ〔ず〕、運ばれ〔ず〕、集められない。ということで、「欲〔の思い〕に至る者ではありません」。「また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません」とは、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔特定の見解に〕固着して説く者はない。「世〔界〕は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、〔特定の見解に〕固着して説く者ではない。ということで、「欲〔の思い〕に至る者ではありません──また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません」。

 

 [1316]「彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕慧者です」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、諸々の悪しき見解から、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。「慧者」とは、慧者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。ということで、「彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕慧者です」。

 

 [1317]「自己を難じることなき者は、世において、〔何にも〕汚されません」とは、「汚れ」とは、二つの汚れがある。(1)そして、渇愛の汚れであり、(2)さらに、見解の汚れである。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の汚れである。(2)……略([180]参照)……これが、見解の汚れである。彼の、渇愛の汚れは〔すでに〕捨棄され、見解の汚れは〔すでに〕放棄され、渇愛の汚れが〔すでに〕捨棄されたことから、見解の汚れが〔すでに〕放棄されたことから、悪所の世において、〔何にも〕汚されず、人間の世において、〔何にも〕汚されず、天の世において、〔何にも〕汚されず、〔五つの〕範疇の世において、〔何にも〕汚されず、〔十八の〕界域の世において、〔何にも〕汚されず、〔十二の認識の〕場所の世において、〔何にも〕汚されず、〔何にも〕強く汚されず、〔何にも〕近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「世において、〔何にも〕汚されません」。

 

 [1318]「自己を難じることなき者」とは、二つの契機によって、自己を難じる。そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから。どのように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、自己を難じるのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」……略……。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」……。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」……略([192]参照)……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、自己を難じる。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、自己を難じる。

 

 [1319]さらに、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、自己を難じる。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と……。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と……。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に〕存している」と……。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に〕存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念処・四念住)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と……。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、自己を難じる。このように、自己を難じる者となる。〔まさに〕その、この行為を、為さずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、結実させずにいる者は、自己を難じることなき者となる。ということで、「自己を難じることなき者は、世において、〔何にも〕汚されません」。

 

 [1320]それによって、世尊は言った。

 

 [1321]「諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者は、欲〔の思い〕に至る者ではありません──また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕慧者です。自己を難じることなき者は、世において、〔何にも〕汚されません」と。

 

149.

 

 [1322]920.(914) あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れています。彼は、〔生の〕重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です。〔時間の〕妄想ある者ではなく、〔作為の〕止息ある者ではなく、〔未来の〕切望ある者ではありません──かくのごとく、世尊は〔語った〕。(20)

 

 [1323]「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れています」とは、敵は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿激は、悪魔の軍団である。怨恨は……。偽装は……。加虐は……。嫉妬は……。物惜は……。幻惑は……。狡猾は……。強情は……。激昂は……。思量は……。高慢は……。驕慢は……。放逸は……。一切の〔心の〕汚れは……。一切の悪しき行ないは……。一切の懊悩は……。一切の苦悶は……。一切の熱苦は……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。

 

 [1324]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [1325]〔そこで、詩偈に言う〕「おまえの第一の軍団は、『欲望』であり、第二〔の軍団〕は、『不満』と説かれる。……略([331-334]参照)……勇士ならざる者は、それに勝利せず、しかしながら、〔勇士は、それに〕勝利して、安楽を得る」と。

 

 [1326]すなわち、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)によって、そして、一切の悪魔の軍団が、さらに、一切の敵視を為す〔心の〕汚れが、そして、敗れ、さらに、敗北し、滅壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、彼は、敵視という有り方を離れている者と説かれる。彼は、見られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、聞かれたものにたいし……思われたものにたいし……識られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者である。ということで、「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れています」。

 

 [1327]「彼は、〔生の〕重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です」とは、「重荷」とは、三つの重荷がある。(1)〔五つの〕範疇の重荷、(2)〔心の〕汚れの重荷、(3)行作の重荷である。(1)どのようなものが、〔五つの〕範疇の重荷であるのか。結生における、形態、感受〔作用〕、表象〔作用〕、諸々の形成〔作用〕、識知〔作用〕である。これが、〔五つの〕範疇の重荷である。(2)どのようなものが、〔心の〕汚れの重荷であるのか。貪欲、憤怒、迷妄……略([49]参照)……一切の善ならざる行作である。これが、〔心の〕汚れの重荷である。(3)どのようなものが、行作の重荷であるのか。功徳ある行作(善果を形成する働き)、功徳なき行作(悪果を形成する働き)、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)である。これが、行作の重荷である。すなわち、かつまた、〔五つの〕範疇の重荷が、かつまた、〔心の〕汚れの重荷が、かつまた、行作の重荷が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、彼は、〔生の〕重荷を降ろした者、〔生の〕重荷を落とした者、〔生の〕重荷を下ろした者、〔生の〕重荷を等しく下ろした者、〔生の〕重荷を捨て置いた者、〔生の〕重荷を安息した者、と説かれる。

 

 [1328]「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、〔あるがままの〕観察、正知、〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能、智慧の力、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。その知恵を具備した者が、牟尼であり、沈黙に至り得た者である。

 

 [1329]三つの牟尼の資質がある。(1)身体による牟尼の資質、(2)言葉による牟尼の資質、(3)意による牟尼の資質である。(1)どのようなものが、身体による牟尼の資質であるのか。三種類の身体による悪しき行ない(殺生・偸盗・邪淫)の捨棄が、身体による牟尼の資質である。三種類の身体による善き行ない(不殺生・不偸盗・不邪淫)が、身体による牟尼の資質である。身体という対象についての知恵が、身体による牟尼の資質である。身体の遍知が、身体による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、身体による牟尼の資質である。身体にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、身体による牟尼の資質である。身体の形成〔作用〕(出息と入息)の止滅である第四の瞑想(第四禅)への入定が、身体による牟尼の資質である。これが、身体による牟尼の資質である。

 

 [1330](2)どのようなものが、言葉による牟尼の資質であるのか。四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論)の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。四種類の言葉による善き行ない(虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)が、言葉による牟尼の資質である。言葉という対象についての知恵が、言葉による牟尼の資質である。言葉の遍知が、言葉による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、言葉による牟尼の資質である。言葉にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。言葉の形成〔作用〕(思考と想念)の止滅である第二の瞑想(第二禅)への入定が、言葉による牟尼の資質である。これが、言葉による牟尼の資質である。

 

 [1331](3)どのようなものが、意による牟尼の資質であるのか。三種類の意による悪しき行ない(強欲・憎悪の心・誤った見解)の捨棄が、意による牟尼の資質である。三種類の意による善き行ない(無欲・憎悪なき心・正しい見解)が、意による牟尼の資質である。心という対象についての知恵が、意による牟尼の資質である。心の遍知が、意による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、意による牟尼の資質である。心にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄が、意による牟尼の資質である。心の形成〔作用〕の止滅である表象と感覚の止滅(想受滅)への入定が、意による牟尼の資質である。これが、意による牟尼の資質である。

 

 [1332]〔そこで、詩偈に言う〕「身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う。

 

 [1333]身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕牟尼の資質を成就した牟尼を、〔賢者たちは〕『悪しきものが洗い清められた者』と言う」と。

 

 [1334]これらの三つの牟尼の資質の法(性質)を具備した六者の牟尼たちがいる。家ある者たる牟尼たち、家なき者たる牟尼たち、〔いまだ〕学びある者(有学)たる牟尼たち、〔もはや〕学ぶことなき者(無学)たる牟尼たち、独者たる牟尼たち、牟尼たる牟尼たちである。どのような者たちが、家ある者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、家ある者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家ある者たる牟尼たちである。どのような者たちが、家なき者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、出家者たちであり、〔涅槃の〕境処が見られ、〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家なき者たる牟尼たちである。七者の〔いまだ〕学びある者(七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道)が、〔いまだ〕学びある者たる牟尼たちである。阿羅漢たちが、〔もはや〕学ぶことなき者たる牟尼たちである。独覚(縁覚・辟支仏)たちが、独者たる牟尼たちである。牟尼たる牟尼たちは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちと説かれる。

 

 [1335]〔そこで、詩偈に言う〕「迷乱した形態の無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、〔あたかも〕秤(はかり)を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って──

 

 [1336]諸々の悪を遍く避けるなら、彼は、牟尼であり、それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、〔彼は〕『牟尼』〔と〕呼ばれる。

 

 [1337]かつまた、正しからざる者たちの、かつまた、正しくある者たちの、〔両者の〕法(性質)を、内に、さらに、外に、一切の世において〔あるがままに〕知って、すなわち、天〔の神々〕と人間たちに供養される者──彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」と。

 

 [1338]「解脱者です」とは、牟尼の、心は、貪欲から、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、心は、憤怒から……心は、迷妄から、解き放たれ、解脱し、善く解脱し……略([410]参照)……心は、一切の善ならざる行作から、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。ということで、「彼は、〔生の〕重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です」。

 

 [1339]「〔時間の〕妄想ある者ではなく、〔作為の〕止息ある者ではなく、〔未来の〕切望ある者ではありません──かくのごとく、世尊は〔語った〕」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1)そして、渇愛の妄想であり、(2)さらに、見解の妄想である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、営まず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔時間の〕妄想ある者ではなく」。「〔作為の〕止息の者ではなく」とは、愚者である凡夫は、全ての者たちが、〔欲に〕染まり(貪欲する)、七者の〔いまだ〕学びある者は、善き凡夫と比較して、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、離れ、離去し、離間し、阿羅漢は、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「〔時間の〕妄想ある者ではなく、〔作為の〕止息の者ではなく」。「〔未来の〕切望ある者ではありません」とは、切望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この切望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、切望なき者と説かれる。

 

 [1340]「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を滅壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(意味)の味を、法(教え)の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心(瞑想)を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想(四禅)を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱(八解脱)を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき(安般念)という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「〔時間の〕妄想ある者ではなく、〔作為の〕止息ある者ではなく、〔未来の〕切望ある者ではありません──かくのごとく、世尊は〔語った〕」。

 

 [1341]それによって、世尊は言った。

 

 [1342]「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象)にたいし、敵視という有り方を離れています。彼は、〔生の〕重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です。〔時間の〕妄想ある者ではなく、〔作為の〕止息ある者ではなく、〔未来の〕切望ある者ではありません」と──かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 

 [1343]大きなまとまりの経についての釈示が、第十三となる。

 

1. 14. 迅速の経についての釈示

 

 [1344]そこで、迅速の経についての釈示を説くであろう。

 

150.

 

 [1345]921.(915) 〔対話者が尋ねた〕──太陽の眷属よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。偉大なる聖賢よ、遠離を、さらに、寂静の境処を、〔あなたに尋ねます〕。比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか──何であれ、世において、執取することなく。(1)

 

 [1346]「太陽の眷属よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、「問い」とは、三つの問いがある。(1)〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問い、(2)〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問い、(3)疑問を断絶するものとしての問いである。(1)どのようなものが、〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問いであるのか。元来において、特相が、知られていないもの、見られていないもの、比較されていないもの、推量されていないもの、明確にされていないもの、分明されていないものとして有り、それを、知るために、見るために、比較するために、推量するために、分明するために、問いを尋ねる。これが、〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問いである。(2)どのようなものが、〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問いであるのか。元来において、特相が、知られたもの、見られたもの、比較されたもの、推量されたもの、明確にされたもの、分明されたものとして有り、他の賢者たちを相手に、適応を義(目的)として、問いを尋ねる。これが、〔すでに〕見られたものを適応するものとしての問いである。(3)どのようなものが、疑問を断絶するものとしての問いであるのか。元来において、疑念に跳入した者、疑問に跳入した者、二様のものが生じた者として有り、「このように、いったい、まさに、あるのか」「いったい、まさに、ないのか」「何が、いったい、まさに」「どのように、いったい、まさに」と、彼は、疑問の断絶を義(目的)として、問いを尋ねる。これが、疑問を断絶するものとしての問いである。これらの三つの問いがある。

 

 [1347]他にも、また、三つの問いがある。(1)人間の問い、(2)人間ならざるもの(精霊・悪霊)の問い、(3)化作された者(化仏)の問いである。(1)どのようなものが、人間の問いであるのか。人間たちが、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ねる。比丘たちが尋ねる、比丘尼たちが尋ねる、在俗信者(優婆塞)たちが尋ねる、女性在俗信者(優婆夷)たちが尋ねる、王たちが尋ねる、士族たちが尋ねる、婆羅門たちが尋ねる、庶民たちが尋ねる、隷民たちが尋ねる、在家者たちが尋ねる、出家者たちが尋ねる。これが、人間の問いである。(2)どのようなものが、人間ならざるものの問いであるのか。人間ならざるものたちが、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ねる。龍たちが尋ねる、金翅鳥たちが尋ねる、夜叉たちが尋ねる、阿修羅たちが尋ねる、音楽神たちが尋ねる、〔天の〕大王たちが尋ねる、インダ(インドラ神)たちが尋ねる、梵〔天〕(ブラフマー神)たちが尋ねる、天神たちが尋ねる。これが、人間ならざるものの問いである。(3)どのようなものが、化作された者の問いであるのか。すなわち、世尊が、〔まさに〕その、〔自己の〕形態を──意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして──化作するなら、〔まさに〕その、化作された者は、覚者たる世尊に、近づいて行って、問いを尋ね、世尊は、彼に答える。これが、化作された者の問いである。これらの三つの問いがある。

 

 [1348]他にも、また、三つの問いがある。(1)自己の義(利益)の問い、(2)他者の義(利益)の問い、(3)両者の義(利益)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)所見の法(現法:現世)の義(利益)の問い、(2)未来の義(利益)の問い、(3)最高の義(勝義:最高の利益)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)罪過なきものの義(利益)の問い、(2)〔心の〕汚れなきものの義(利益)の問い、(3)浄化の義(利益)の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)過去の問い、(2)未来の問い、(3)現在の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)内なる問い、(2)外なる問い、(3)内なると外なる問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)善なる問い、(2)善ならざる問い、(3)〔善悪が〕説き明かされない問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔五つの〕範疇の問い、(2)〔十八の〕界域の問い、(3)〔十二の認識の〕場所の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔四つの〕気づきの確立の問い、(2)〔四つの〕正しい精励の問い、(3)〔四つの〕神通の足場の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔五つの〕機能の問い、(2)〔五つの〕力の問い、(3)〔七つの〕覚りの支分の問いである。他にも、また、三つの問いがある。(1)〔聖者の〕道の問い、(2)〔沙門の〕果の問い、(3)涅槃の問いである。

 

 [1349]「〔わたしは〕あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕あなたに尋ねる、〔わたしは〕あなたに乞い求める、〔わたしは〕あなたに要請する、〔わたしは〕あなたに浄信する、〔あなたは〕わたしに言説してください。ということで、「〔わたしは〕あなたに尋ねます」。「太陽の眷属よ」とは、太陽(アーディッチャ)は、日(スーリヤ・太陽神)と説かれる。日は、姓としては、ゴータマとなる。世尊もまた、姓としては、ゴータマとなる。世尊は、日にとって、姓の親族となり、姓の眷属となる。それゆえに、覚者は、太陽の眷属である。ということで、「太陽の眷属よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます」。

 

 [1350]「偉大なる聖賢よ、遠離を、さらに、寂静の境処を、〔あなたに尋ねます〕」とは、「遠離」とは、三つの遠離がある。(1)身体の遠離、(2)心の遠離、(3)依り所の遠離である。

 

 [1351](1)どのようなものが、身体の遠離であるのか。ここに、比丘が、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、峡谷に、岩窟に、墓場に、林野に、野外に、藁積場に、親近し、身体によって遠離した者として(※)〔世に〕住む。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。これが、身体の遠離である。

 

※ テキストには vivittena とあるが、PTS版により vivitto と読む。

 

 [1352](2)どのようなものが、心の遠離であるのか。第一の瞑想に入定した者には、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)から、心は、遠離したものと成る。第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念(尋伺)から、心は、遠離したものと成る。第三の瞑想に入定した者には、喜悦()から、心は、遠離したものと成る。第四の瞑想に入定した者には、安楽と苦痛(楽苦)から、心は、遠離したものと成る。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象(色想)から、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)から、種々なる表象(異想)から、心は、遠離したものと成る。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象から、心は、遠離したものと成る。預流たる者には、身体を有するという見解(有身見)から、疑惑〔の思い〕()から、戒や掟への偏執(戒禁取)から、見解の悪習(見随眠)から、疑惑〔の思い〕の悪習(疑随眠)から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)から、心は、遠離したものと成る。一来たる者には、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)という束縛するものから、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)という束縛するものから、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。不還たる者には、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、遠離したものと成る。阿羅漢には、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪り〔の思い〕から、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から、思量()から、高揚(掉挙)から、無明から、思量の悪習から、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、無明の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、さらに、外なる一切の形相から、心は、遠離したものと成る。これが、心の遠離である。

 

 [1353](3)どのようなものが、依り所の遠離であるのか。依り所は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる(※)。依り所の遠離は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、依り所の遠離である。(1)そして、身体の遠離は、遠離した身体の者たちのものであり、離欲を喜び楽しむ者たちのものであり、(2)そして、心の遠離は、完全なる清浄となった心の者たちのものであり、最高の浄化に至り得た者たちのものであり、(3)そして、依り所の遠離は、〔もはや〕依り所なく〔寿命を〕形成する働き()を離れるに至った人たちのものである。

 

※ テキストには vuccati とあるが、PTS版により vuccanti と読む。

 

 [1354]「寂静」とは、一つの行相によるなら、寂静でもまたあり、寂静の境処でもまたあり、まさしく、そのものとしてあり(両者は同一である)、不死なる涅槃である。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「これは、寂静なる境処である。これは、精妙なる境処である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である」と。さらに、他の行相によるなら、それらの法(性質)が、寂静に到達するために、寂静を体得するために、寂静を実証するために、等しく転起するなら──それは、すなわち、この、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道であるが──これら〔の法〕は、寂静の境処、救護の境処、避難の境処、帰依の境処、恐怖なき境処、死滅なき境処、不死の境処、涅槃の境処、と説かれる。

 

 [1355]「偉大なる聖賢よ」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢(偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる禅定の範疇を……略……。大いなる智慧の範疇を……。大いなる解脱の範疇を……。大いなる解脱の知見の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる闇の体系を破り裂くことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる転倒を破り去ることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる渇愛の矢を引き抜くことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる見解の群結を解きほぐすことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる思量の旗を落とし去ることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる行作を寂止することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる激流を超え出ることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる重荷を捨て置くことを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる輪廻の転起を断絶することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる熱苦を寂滅させることを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる苦悶を安息することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる法(真理)の旗を掲揚することを、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる〔四つの〕気づきの確立を……略……。大いなる〔四つの〕正しい精励を……。大いなる〔四つの〕神通の足場を……。大いなる〔五つの〕機能を……。大いなる〔五つの〕力を……。大いなる〔七つの〕覚りの支分を……。大いなる聖なる八つの支分ある道を……。大いなる最高の義(勝義:最高の真実)たる不死なる涅槃を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。あるいは、大いなる権能ある有情たちによって、「覚者は、どこにいるのか」「世尊は、どこにいるのか」「天の天たる方は、どこにいるのか」「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。ということで、「偉大なる聖賢よ、遠離を、さらに、寂静の境処を、〔あなたに尋ねます〕」。

 

 [1356]「比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか」とは、どのように、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して、自己の、貪欲を寂滅させるのですか、憤怒を寂滅させるのですか、迷妄を寂滅させるのですか、忿激を……怨恨を……偽装を……加虐を……嫉妬を……物惜を……幻惑を……狡猾を……強情を……激昂を……思量を……高慢を……驕慢を……放逸を……一切の〔心の〕汚れを……一切の悪しき行ないを……一切の懊悩を……一切の苦悶を……一切の熱苦を……一切の善ならざる行作を、寂滅させるのですか、静めるのですか、寂静させるのですか、寂止させるのですか、安息させるのですか。「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘は。ということで、「比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか」。

 

 [1357]「何であれ、世において、執取することなく」とは、四つの執取によって、執取することなく、収取することなく、偏執することなく、固着することなく。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。「何であれ」とは、何であれ、形態の在り方をしたものを、感受〔作用〕の在り方をしたものを、表象〔作用〕の在り方をしたものを、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものを、識知〔作用〕の在り方をしたものを。ということで、「何であれ、世において、執取することなく」。

 

 [1358]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1359]〔対話者が尋ねた〕──「太陽の眷属よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。偉大なる聖賢よ、遠離を、さらに、寂静の境処を、〔あなたに尋ねます〕。比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか──何であれ、世において、執取することなく」と。

 

151.

 

 [1360]922.(916) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、「〔わたしは〕存在する」という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように。それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。(2)

 

 [1361]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──虚構の名称の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように」とは、虚構の名称は、まさしく、虚構である。(1)渇愛の虚構の名称であり、(2)見解の虚構の名称である。(1)どのようなものが、渇愛の虚構の、根元であるのか。無明は、根元である。根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)は、根元である。「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)は、根元である。恥〔の思い〕なき(無慚)は、根元である。〔良心の〕咎めなき(無愧)は、根元である。〔心の〕高揚(掉挙)は、根元である。これが、渇愛の虚構の、根元である。(2)どのようなものが、見解の虚構の、根元であるのか。無明は、根元である。根源のままならずに意を為すことは、根元である。「〔わたしは〕存在する」という思量は、根元である。恥〔の思い〕なきは、根元である。〔良心の〕咎めなきは、根元である。〔心の〕高揚は、根元である。これが、見解の虚構の、根元である。

 

 [1362]「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を滅壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(意味)の味を、法(教え)の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心(瞑想)を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想(四禅)を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱(八解脱)を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき(安般念)という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──虚構の名称の根元を」。

 

 [1363]「『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように」とは、明慧は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。「〔わたしは〕存在する」とは、形態について、「〔わたしは〕存在する」という思量、「〔わたしは〕存在する」という欲〔の思い〕、「〔わたしは〕存在する」という悪習。感受〔作用〕について……。表象〔作用〕について……。諸々の形成〔作用〕について……。識知〔作用〕について、「〔わたしは〕存在する」という思量、「〔わたしは〕存在する」という欲〔の思い〕、「〔わたしは〕存在する」という悪習。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──虚構の名称の根元を」。「『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように」とは、そして、虚構の名称の根元を、さらに、「〔わたしは〕存在する」という思量を、明慧によって、〔その〕一切を、壊すべきであり、破却するべきであり、止滅させるべきであり、寂止させるべきであり、滅至させるべきであり、安息させるべきである。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──虚構の名称の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように」。

 

 [1364]「それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら」とは、「それらが何であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「それらが何であれ」ということになる。「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。「内に」とは、あるいは、その渇愛が、内に等しく現起するものとしてある。ということで、「内に」。さらに、あるいは、内なるものは、心と説かれる。すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。その渇愛が、心と、共具したもの、共に生じたもの、交わり合ったもの、結び付いたもの、一なる生起あるもの、一なる止滅あるもの、一なる基盤あるもの、一なる対象あるものと〔成る〕。ということでもまた、「内に」。ということで、「それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら」。

 

 [1365]「それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように」とは、「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に、常住時に、常恒時に、常久に、連続して、途切れなく、矢継ぎ早に、水波が生じたように、間隔なく、相続して、相伴い、接触し、食前に、食後に、初夜(宵の内)に、中夜(真夜中)に、後夜(明け方)に、黒〔分〕(月が欠ける期間)に、白〔分〕(月が満ちる期間)に、雨期に、冬に、夏に、初年期(青年期)に、中年期(壮年期)に、後年期(老年期)に。「気づきある者として」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきなき〔状態〕を遍く避けることから、気づきある者となり、気づきが為されるべき諸々の法(事象)が為されたことから、気づきある者となり、気づきを遍く結縛する諸々の法(事象)が打破されたことから、気づきある者となり、気づきの形相となる諸々の法(事象)が忘却なきことから、気づきある者となる。他の四つの契機によってもまた、気づきある者となる。気づきを具備したことから、気づきある者となり、気づきによって住したことから、気づきある者となり、気づきによって熟練なることから、気づきある者となり、気づきによって低下なきことから、気づきある者となる。他の四つの契機によってもまた、存するままなることから、気づきある者となり、〔心が〕静まったことから、気づきある者となり、〔心が〕静められたことから、気づきある者となり、寂静の法(性質)を具備したことから、気づきある者となる。覚者の随念によって、気づきある者となり、法(教え)の随念によって、気づきある者となり、僧団の随念によって、気づきある者となり、戒の随念によって、気づきある者となり、施捨の随念によって、気づきある者となり、天神たちの随念によって、気づきある者となり、呼吸についての気づき(安般念)によって、気づきある者となり、死についての気づき(死念)によって、気づきある者となり、身体の在り方についての気づき(身至念)によって、気づきある者となり、寂止の随念によって、気づきある者となる。すなわち、気づき()、随念、現念、気づきとしての、思念すること、保持すること、列挙すること、忘却なきこと、気づきとしての、気づきの機能(念根)、気づきの力(念力)、正しい気づき(正念)、気づきという正覚の支分(念覚支)、一路の道である。これが、気づきと説かれる。この気づきを、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、気づきある者と説かれる。

 

 [1366]「〔怠ることなく〕学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。(1)どのようなものが、卓越の戒の学びであるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。小なる戒の範疇、大いなる戒の範疇、戒、立脚するもの(依所)、最初〔の行〕、行ない、自制、統御、諸々の善なる法(性質)への入定のために、頭目となり、筆頭となるもの。これが、卓越の戒の学びである。

 

 [1367](2)どのようなものが、卓越の心の学びであるのか。ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住む。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者(愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者)として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住む。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住む。これが、卓越の心の学びである。

 

 [1368](3)どのようなものが、卓越の智慧の学びであるのか。ここに、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有る──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。彼は、「これは、苦しみである」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。「これらは、諸々の煩悩()である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の集起である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅である」と、事実のとおりに覚知し、「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、事実のとおりに覚知する。これが、卓越の智慧の学びである。

 

 [1369]「それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように」とは、それらの渇愛の、取り除きのために、取り除き去りのために、捨棄のために、寂止のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学び(三学:戒・禅定・智慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として(※)学ぶべきであり、〔あるがままに〕見ている者として学ぶべきであり、綿密に注視している者として学ぶべきであり、心を確立している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、智慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように」。

 

※ テキストには pajānanto とあるが、PTS版により jānanto と読む。

 

 [1370]それによって、世尊は言った。

 

 [1371]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって破却するように。それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように」と。

 

152.

 

 [1372]923.(917) それが何であれ、法(事象)を〔あるがままに〕証知するように──内に、そこで、あるいは、また、外に。〔ただし〕それによって、〔心の〕強靭(固着・強制)を為さないように。なぜなら、正しくある者たちの説く、〔まさに〕その、寂滅〔の境処〕(涅槃)ではないからです。(3)

 

 [1373]「それが何であれ、法(事象)を〔あるがままに〕証知するように──内に、そこで、あるいは、また、外に」とは、それが何であれ、自己の徳を、あるいは、諸々の善なる法(事象)を、あるいは、諸々の〔善悪が〕説き明かされない法(事象)を、〔あるがままに〕知るべきである。どのようなものが、自己の、諸々の徳であるのか。あるいは、高貴なる家からの出家者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、大いなる家からの出家者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、大いなる財物ある家からの出家者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、秀逸なる財物ある家からの出家者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、経の専門家として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、律の保持者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、法(教え)の言説者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、林にある者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、〔行乞の〕施食の者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、糞掃衣の者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、三つの衣料の者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、〔規定された食〕以後の食を否とする者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、常坐〔にして不臥〕なる者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、第一の瞑想の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、第二の瞑想の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、第三の瞑想の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、第四の瞑想の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、虚空無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、識知無辺なる〔認識の〕場所への入定の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、無所有なる〔認識の〕場所への入定の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。あるいは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として、かくのごとく、〔わたしは〕存しているのだ。これらが、自己の、諸々の徳と説かれる。それが何であれ、自己の徳を、知るべきであり、了知するべきであり、識知するべきであり、解知するべきであり、理解するべきである。ということで、「それが何であれ、法(事象)を〔あるがままに〕証知するように──内に」。「そこで、あるいは、また、外に」とは、あるいは、師父(和尚)の、あるいは、師匠(阿闍梨)の、それらの徳が存しているのだ。ということで、「そこで、あるいは、また、外に」。

 

 [1374]「〔ただし〕それによって、〔心の〕強靭(固着・強制)を為さないように」とは、あるいは、自己の徳によって、あるいは、他者たちの徳によって、強靭を為すべきではなく、強情を為すべきではなく、思量を為すべきではなく(慢心しない)、傲慢を為すべきではなく、傲慢になることを為すべきではなく、それによって、思量を生じさせるべきではなく、それによって、〔心が〕強情となった者として、〔心が〕硬直した者として、頭が励起した者(天狗になった者)として、〔世に〕存するべきではない。ということで、「〔ただし〕それによって、〔心の〕強靭を為さないように」。

 

 [1375]「なぜなら、正しくある者たちの説く、〔まさに〕その、寂滅〔の境処〕ではないからです」とは、正しい者たちの、正しくある者たちの、正なる人士たちの、覚者たちの、覚者の弟子たちの、独覚たちの、「〔まさに〕その、寂滅〔の境処〕である」と、説かれたものではなく、呼ばれたものではなく、告げ知らされたものではなく、説示されたものではなく、報知されたものではなく、確立されたものではなく、開顕されたものではなく、区分されたものではなく、明瞭と為されたものではなく、明示されたものではない。ということで、「なぜなら、正しくある者たちの説く、〔まさに〕その、寂滅〔の境処〕ではないからです」。

 

 [1376]それによって、世尊は言った。

 

 [1377]「それが何であれ、法(事象)を〔あるがままに〕証知するように──内に、そこで、あるいは、また、外に。〔ただし〕それによって、〔心の〕強靭(固着・強制)を為さないように。なぜなら、正しくある者たちの説く、〔まさに〕その、寂滅〔の境処〕(涅槃)ではないからです」と。

 

153.

 

 [1378]924.(918) それによって、〔他者より〕「より勝る」〔と〕思わないように。「より劣る」〔と〕、そこで、あるいは、また、「等しい」〔と思わないように〕。無数なる形態〔の特質〕を体得したとして、自己を〔あれこれと〕想い描きながら、〔世に〕止住しないように。(4)

 

 [1379]「それによって、〔他者より〕『より勝る』〔と〕思わないように」とは、「わたしは、勝る者として〔世に〕存している」と、高慢を生じさせるべきではない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「それによって、〔他者より〕『より勝る』〔と〕思わないように」。

 

 [1380]「『より劣る』〔と〕、そこで、あるいは、また、『等しい』〔と思わないように〕」とは、「わたしは、劣る者として〔世に〕存している」と、卑下慢を生じさせるべきではない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。「わたしは、同等の者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせるべきではない──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「『より劣る』〔と〕、そこで、あるいは、また、『等しい』〔と思わないように〕」。

 

 [1381]「無数なる形態〔の特質〕を体得したとして」とは、無数なる種類の行相を、体得した者、完具した者、配備した者、具備した者。ということで、「無数なる形態〔の特質〕を体得したとして」。

 

 [1382]「自己を〔あれこれと〕想い描きながら、〔世に〕止住しないように」とは、自己(アートゥマン)は、自己(アッタン)と説かれる。自己を、〔あれこれと〕想い描いている者として、〔あれこれと〕分別している者として、分別を惹起している者として、〔世に〕止住するべきではない。ということで、「自己を〔あれこれと〕想い描きながら、〔世に〕止住しないように」。

 

 [1383]それによって、世尊は言った。

 

 [1384]「それによって、〔他者より〕『より勝る』〔と〕思わないように。『より劣る』〔と〕、そこで、あるいは、また、『等しい』〔と思わないように〕。無数なる形態〔の特質〕を体得したとして、自己を〔あれこれと〕想い描きながら、〔世に〕止住しないように」と。

 

154.

 

 [1385]925.(919) 比丘は、内こそを、寂止するように。他のものから、寂静を探し求めないように。内なる寂静に、自己は存在せず、あるいは、どうして、自己ではないものが〔存在するというのでしょう〕。(5)

 

 [1386]「比丘は、内こそを、寂止するように」とは、内なる、貪欲を静めるべきであり、憤怒を静めるべきであり、迷妄を静めるべきであり、忿激を……怨恨を……偽装を……加虐を……嫉妬を……物惜を……幻惑を……狡猾を……強情を……激昂を……思量を……高慢を……驕慢を……放逸を……一切の〔心の〕汚れを……一切の悪しき行ないを……一切の懊悩を……一切の苦悶を……一切の熱苦を……一切の善ならざる行作を、静めるべきであり、寂静させるべきであり、寂止させるべきであり、寂滅させるべきであり、安息させるべきである。ということで、「比丘は、内こそを、寂止するように」。

 

 [1387]「他のものから、寂静を探し求めないように」とは、他のものから〔生起した〕、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、〔四つの〕気づきの確立より他の、〔四つの〕正しい精励より他の、〔四つの〕神通の足場より他の、〔五つの〕機能より他の、〔五つの〕力より他の、〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、静まりを、寂静を、寂止を、寂滅を、安息を、探し求めるべきではなく、追求するべきではなく、遍く探し求めるべきではない。ということで、このようにもまた、「他のものから、寂静を探し求めないように」。

 

 [1388]「内なる寂静に」とは、内なる、貪欲の静まりに、憤怒の静まりに、迷妄の静まりに……略([49]参照)……一切の善ならざる行作の、静まりに、寂静に、寂止に、寂滅に、安息に。ということで、「内なる寂静に」。

 

 [1389]「自己は存在せず、あるいは、どうして、自己ではないものが〔存在するというのでしょう〕」とは、「存在せず」とは、否定〔の言葉〕。「自己は」とは、自己の見解が存在しない。「自己ではないものが」とは、断絶の見解が存在しない。「自己は」とは、収め取られたものが存在しない。「自己ではないものが」とは、解き放つべきものが存在しない。彼に、掴み取られたものが存在するなら、彼に、解き放つべきものが存在する。彼に、解き放つべきものが存在するなら、彼に、掴み取られたものが存在する。阿羅漢は、掴み取ることと解き放つことを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ者……略([80-82]参照)……。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」〔と〕。ということで、「自己は存在せず、あるいは、どうして、自己ではないものが〔存在するというのでしょう〕」。

 

 [1390]それによって、世尊は言った。

 

 [1391]「比丘は、内こそを、寂止するように。他のものから、寂静を探し求めないように。内なる寂静に、自己は存在せず、あるいは、どうして、自己ではないものが〔存在するというのでしょう〕」と。

 

155.

 

 [1392]926.(920) たとえば、海の中では波が立たず、〔全てが〕安立したものとして有るように、このように、〔心が〕安立した動揺なき者として存するように。比丘は、どこにおいても、増長〔の思い〕(心の高ぶり)を為さないように。(6)

 

 [1393]「たとえば、海の中では波が立たず、〔全てが〕安立したものとして有るように」とは、海は、高さにして、八万四千ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)の深さがある。下から四万ヨージャナの水は、魚や亀たちによって動く。上から四万ヨージャナの水は、諸々の風によって動く。中間の四千ヨージャナの(※)水は、動かず、動じ動かず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。動くことなく、ぶつかることなく、揺れ動くことなく、掻き乱されることなく、迷走することなく、寂止したものとしてある。そこでは、波は生じず、海は、安立したものとして有る。ということで、このようにもまた、「たとえば、海の中では波が立たず、〔全てが〕安立したものとして有るように」。

 

※ テキストには cattārīsayojanasahassāni とあるが、PTS版により cattāri yojanasahassāni と読む。

 

 [1394]さらに、あるいは、七つの山(須弥山の周囲にある七つの山)の〔それぞれの〕間に、七つのシーダンタラの大海がある。そこでは、水は、動かず、動じ動かず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。動くことなく、ぶつかることなく、揺れ動くことなく、掻き乱されることなく、迷走することなく、寂止したものとしてある。そこでは、波は生じず、海は、安立したものとして有る。ということで、このようにもまた、「たとえば、海の中では波が立たず、〔全てが〕安立したものとして有るように」。

 

 [1395]「このように、〔心が〕安立した動揺なき者として存するように」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「〔心が〕安立した」とは、利得にたいしてもまた、動かず、利得なきにたいしてもまた、動かず、盛名にたいしてもまた、動かず、盛名なきにたいしてもまた、動かず、賞賛にたいしてもまた、動かず、非難にたいしてもまた、動かず、安楽にたいしてもまた、動かず、苦痛にたいしてもまた、動かず、動じ動かず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「このように、〔心が〕安立した」。「動揺なき者として存するように」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この動揺としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、動揺なき者と説かれる。動揺が〔すでに〕捨棄されたことから、動揺なき者。彼は、利得にたいしてもまた、動じず、利得なきにたいしてもまた、動じず、盛名にたいしてもまた、動じず、盛名なきにたいしてもまた、動じず、賞賛にたいしてもまた、動じず、非難にたいしてもまた、動じず、安楽にたいしてもまた、動じず、苦痛にたいしてもまた、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「このように、〔心が〕安立した動揺なき者として存するように」。

 

 [1396]「比丘は、どこにおいても、増長〔の思い〕(心の高ぶり)を為さないように」とは、「増長」とは、七つの増長がある。貪欲の増長を、憤怒の増長を、迷妄の増長を、思量の増長を、見解の増長を、〔心の〕汚れの増長を、行為の増長を、為すべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。「どこにおいても」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「比丘は、どこにおいても、増長〔の思い〕を為さないように」。

 

 [1397]それによって、世尊は言った。

 

 [1398]「たとえば、海の中では波が立たず、〔全てが〕安立したものとして有るように、このように、〔心が〕安立した動揺なき者として存するように。比丘は、どこにおいても、増長〔の思い〕(心の高ぶり)を為さないように」と。

 

156.

 

 [1399]927.(921) 〔対話者が尋ねた〕──開かれた眼ある方よ、〔あなたは〕述べ伝えてくれました──実証の法(真理)として、危難を取り除くことを。あなたに、幸せ〔有れ〕。〔実践の〕道を説いてください。戒条(波羅提木叉:戒律条項)を〔説いてください〕。そこで、あるいは、また、禅定(定・三昧)を〔説いてください〕。(7)

 

 [1400]「開かれた眼ある方よ、〔あなたは〕述べ伝えてくれました」とは、「〔あなたによって〕述べ伝えてくれました」とは、〔あなたによって〕述べ伝えられた、〔あなたによって〕告げ知らされた、〔あなたによって〕説示された、〔あなたによって〕報知された、〔あなたによって〕確立された、〔あなたによって〕開顕された、〔あなたによって〕区分された、〔あなたによって〕明瞭と為された、〔あなたによって〕明示された。ということで、「〔あなたは〕述べ伝えてくれました」。「開かれた眼ある方よ」とは、世尊は、五つの眼によって、開かれた眼ある方である。(1)肉眼によってもまた、開かれた眼ある方である。(2)天眼によってもまた、開かれた眼ある方である。(3)智慧の眼によってもまた、開かれた眼ある方である。(4)覚者の眼によってもまた、開かれた眼ある方である。(5)一切にわたる眼によってもまた、開かれた眼ある方である。

 

 [1401](1)どのように、世尊は、肉眼によってもまた、開かれた眼ある方であるのか。世尊の肉眼にはまた、五つの色が等しく見出される──かつまた、青色が、かつまた、黄色が、かつまた、赤色が、かつまた、黒色が、かつまた、白色が。そして、世尊の諸々の眼毛は、そして、そこにおいて、諸々の眼毛が立脚している、その〔眼毛〕は、青く、極めて青く、澄浄で、美しく、ウンマーの花に等しきものとして有る。その後方(毛根)は、黄で、極めて黄で、黄金の色で、澄浄で、美しく、カニカーラの花に等しきものとして有る。そして、世尊の両の眼球は、赤く、極めて赤く、澄浄で、美しく、黄金虫〔の色艶〕に等しきものとして有る。中央においては、黒く、極めて黒く、粗野ならず、滑らかで、澄浄で、美しく、濡れたアリッタカ(黒岩)に等しきものとして有る。その後方は、白く(オーダータ)、極めて白く(スオーダータ)、白く(セータ)、白く(パンダラ)、澄浄で、美しく、明けの明星に等しきものとして有る。過去(前世)の善き行ないの行為によって発現したものとして、自己状態(個我的あり方・身体)に属するところの、〔まさに〕その、〔生来の〕性向の肉眼によって、世尊は、まさしく、そして、昼に、さらに、夜に、遍きにわたり、〔一〕ヨージャナを見る。すなわち、まさに、四つの支分を具備した暗黒が有るときでさえも──かつまた(※)、滅至した太陽が有り、かつまた、黒分の斎戒(新月の夜)が有り、かつまた、漆黒の密林が有り、かつまた、立ちのぼった大いなる黒雲が有る、このような形態の四つの支分を具備した暗黒においてでさえも──遍きにわたり、〔一〕ヨージャナを見る。〔まさに〕その、諸々の形態を見るための妨げとなる、あるいは、壁は、あるいは、戸は、あるいは、垣は、あるいは、山は、あるいは、薮は、あるいは、蔓は、存在しない。もし、一つの胡麻の果を、〔それに〕形相を為して、胡麻の荷のなかに置くなら、まさしく、その胡麻の果を、取り出すであろう。このように、世尊の、〔生来の〕性向の肉眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、肉眼によってもまた、開かれた眼ある方である。

 

※ テキストには vā とあるが、PTS版により ca と読む。

 

 [1402](2)どのように、世尊は、天眼によってもまた、開かれた眼ある方であるのか。世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為の受持ある者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。そして、世尊は、望んでいるなら、一つの世の界域をもまた見るであろうし、二つの世の界域をもまた見るであろうし、三つの世の界域をもまた見るであろうし、四つの世の界域をもまた見るであろうし、五つの世の界域をもまた見るであろうし、十の世の界域をもまた見るであろうし、二十の世の界域をもまた見るであろうし、三十の世の界域をもまた見るであろうし、四十の世の界域をもまた見るであろうし、五十の世の界域をもまた見るであろうし、百の世の界域をもまた見るであろうし、千の小なる世の界域をもまた見るであろうし、二千の中なる世の界域をもまた見るであろうし、三千の世の界域をもまた見るであろうし、大千の世の界域をもまた見るであろう。また、あるいは、あるかぎりのものを望むなら、そのかぎりのものを見るであろう。このように、世尊の天眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、天眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [1403](3)どのように、世尊は、智慧の眼によってもまた、開かれた眼ある方であるのか。世尊は、偉大なる智慧ある方であり、多々なる智慧ある方であり、敏速なる智慧ある方であり、疾走する智慧ある方であり、鋭敏なる智慧ある方であり、洞察の智慧ある方であり、智慧の細別に巧みな智ある方であり、細別された知恵ある方であり、融通無礙に到達した方であり、四つの離怖に至り得た方であり、十の力を保持する方であり、人の雄牛たる方であり、人の獅子たる方であり、人の龍象たる方であり、人の良馬たる方(善き生まれの者)であり、人の荷牛たる方(忍耐強き者)であり、終極なき知恵ある方であり、終極なき威光ある方であり、終極なき福徳ある方であり、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方であり、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、浄信させる方である。まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住む、〔彼の〕弟子たちは、のちに、〔教えを〕具備した者たちとなる。

 

 [1404]まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る、〔世の〕眼と成った方であり、〔世の〕知恵と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、〔いまだ〕知られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見出されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕実証されていないものは〔存在せず〕、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(事象)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの(未了義のもの)が、まさに、存在するなら、〔その〕法(性質)は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義(利益)が、あるいは、他者の義(利益)が、あるいは、両者の義(利益)が、あるいは、所見の法(現法:現世)の義(利益)が、あるいは、未来の義(利益)が、あるいは、明瞭なる義(利益)が、あるいは、深遠なる義(利益)が、あるいは、秘密にされた義(利益)が、あるいは、隠蔽された義(利益)が、あるいは、導かれるべき義(利益)が、あるいは、導かれた義(利益)が、あるいは、罪過なきものの義(利益)が、あるいは、〔心の〕汚れなきものの義(利益)が、あるいは、浄化の義(利益)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(利益)が、その全てが、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [1405]一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の言葉の行為は……一切の意の行為は……。覚者たる世尊の知恵は、過去において、打破されざるものとしてあり、未来において、打破されざるものとしてあり、現在において、打破されざるものとしてある。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を極限の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、かつまた、導かれるべきものも、かつまた、知恵も、互いに他を極限の境位とするものとなる。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。

 

 [1406]一切の法(事象)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。一切の法(事象)は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することに連結したものとしてあり、望みに連結したものとしてあり、意を為すことに連結したものとしてあり、心の生起に連結したものとしてある。一切の有情たちにおいて、覚者たる世尊の知恵は転起する。世尊は、一切の有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、可能なる者たちとして、可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [1407]たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。たとえば、それらが何であれ、翼あるものたち(鳥類)が、もしくは、ヴェーナテイヤたるガルラ(金翅鳥)を加え含めて、虚空の分際(天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、智慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の分際において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕と人間たちの智慧を、充満して〔止住し〕、凌駕して止住する。すなわち、また、それらの、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちであり、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩むも、彼らは、問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に尋ねる──そして、諸々の秘密にされたものを、さらに、諸々の隠蔽されたものを。それらの問いは、世尊によって、言説され、まさしく、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。そして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。そこで、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる──すなわち、この、智慧によって。ということで、このように、世尊は、智慧の眼によってもまた、開かれた眼ある方である。

 

 [1408](4)どのように、世尊は、覚者の眼によってもまた、開かれた眼ある方であるのか。世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、まさしく、このように、世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。世尊は知る。「この人は、貪欲の行ないの者である」「この〔人〕は、憤怒の行ないの者である」「この〔人〕は、迷妄の行ないの者である」「この〔人〕は、思考の行ないの者である」「この〔人〕は、信の行ないの者である」「この〔人〕は、知恵の行ないの者である」と。世尊は、貪欲の行ないの人には、不浄の言説を言説する(不浄想を説く)。世尊は、憤怒の行ないの人には、慈愛の修行(慈悲の瞑想)を告げ知らせる。世尊は、迷妄の行ないの人には、誦説(聖典)について、遍問(義釈)について、〔しかるべき〕時には、法(真理)の聴聞において、〔しかるべき〕時には、法(真理)の論議において、導師との共住において確たるものとする。世尊は、思考の行ないの人には、呼吸についての気づき(安般念)を告げ知らせる。世尊は、信の行ないの人には、浄信するべき形相を告げ知らせる──覚者の善き覚り(菩提)を、法(教え)の善き法(教え)たることを、僧団の善き実践を、さらに、自己の諸戒を。世尊は、知恵の行ないの人には、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の形相を告げ知らせる──無常の行相を、苦痛の行相を、無我の行相を。

 

 [1409]〔そこで、詩偈に言う〕「たとえば、山の頂きの巌(いわお)に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、スメーダよ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、一切に眼ある者となり、憂いを離れた者として、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視しなさい」と。

 

 [1410]このように、世尊は、覚者の眼によってもまた、開かれた眼ある方である。

 

 [1411](5)どのように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、開かれた眼ある方であるのか。一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。世尊は、一切知者たる知恵を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。

 

 [1412]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。

 

 [1413]このように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、開かれた眼ある方である。ということで、「開かれた眼ある方よ、〔あなたは〕述べ伝えてくれました」。

 

 [1414]「実証の法(真理)として、危難を取り除くことを」とは、「実証の法(真理)として」とは、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)として。ということで、「実証の法(真理)として」。「危難を取り除くことを」とは、「諸々の危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1)そして、諸々の明白なる危難であり、(2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。(1)どのようなものが、諸々の明白なる危難であるのか。獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蠍たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕若者たちが──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして──存するべきであり、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触、あるいは、かくのごときものである。これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。

 

 [1415](2)どのようなものが、諸々の隠蔽された危難であるのか。身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ない、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害()、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害、貪欲()、憤怒()、迷妄()、忿激(忿)、怨恨()、偽装()、加虐()、嫉妬()、物惜()、幻惑()、狡猾()、強情()、激昂()、思量()、高慢(過慢)、驕慢()、放逸、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)、一切の悪しき行ない、一切の懊悩、一切の苦悶、一切の熱苦、一切の善ならざる行作(現行)である。これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。

 

 [1416]「諸々の危難(パリッサヤ)」とは、どのような義(意味)によって、諸々の危難となるのか。(1)遍く打ち負かす(パリサハティ)、ということで、「諸々の危難」。(2)遍き衰退(パリハーヤ)のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。(3)そこに依拠するもの(アーサヤ)、ということで、「諸々の危難」。(1)どのように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。このように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1417](2)どのように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、諸々の善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。どのような諸々の善なる法(性質)の、であるのか。正しい〔実践の〕道の、〔真理に〕随順する〔実践の〕道の、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道の、遮るものなき〔実践の〕道の、義(意味)のままなる〔実践の〕道の、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道の、諸戒における円満成就を作り為すことの、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていることの、食について量を知ることの、〔眠らずに〕起きていることへの専念の、気づきと正知の、四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法についての気づき)の修行への専念の、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)の……四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)の……五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)の……五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)の……七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)の……聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の修行への専念の──これらの善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。このように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1418](3)どのように、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」となるのか。そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。たとえば、穴には穴に依拠する命あるものたちが臥し、水には水に依拠する命あるものたちが臥し、林には林に依拠する命あるものたちが臥し、木には木に依拠する命あるものたちが臥すように、まさしく、このように、そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1419]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、では、どのように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む(アンヴァーサヴァティ)、ということで、それゆえに、『内弟子(アンテーヴァーシカ)を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる(サムダーチャラティ)、ということで、それゆえに、『師匠(アーチャリヤ)を有する』と説かれます。

 

 [1420]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……舌によって、味感を味わって……身によって、感触と接触して……意によって、法(意の対象)を識知して、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む、ということで、それゆえに、『内弟子を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる、ということで、それゆえに、『師匠を有する』と説かれます。比丘たちよ、まさに、このように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます」と。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1421]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。憤怒()は……略……。迷妄()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものがあります。

 

 [1422]〔そこで、詩偈に言う〕『義(道理)ならざるものを生むのが、貪欲〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、貪欲〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1423]貪る者は、義(道理)を知らない。貪る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、貪欲〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [1424]義(道理)ならざるものを生むのが、憤怒〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、憤怒〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1425]怒る者は、義(道理)を知らない。怒る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、憤怒〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [1426]義(道理)ならざるものを生むのが、迷妄〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、迷妄〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1427]迷う者は、義(道理)を知らない。迷う者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、迷妄〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る』」と。

 

 [1428]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1429]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「大王よ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、憤怒という……略……。大王よ、まさに、迷妄という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。

 

 [1430]〔そこで、詩偈に言う〕『貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する──果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕ように、自己から発生した〔三つのもの〕が』」と。

 

 [1431]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1432]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [1433]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、貪欲は、さらに、憤怒は、因縁として〔まさに〕これ〔自身〕から〔生じる〕(自己自身から生起する)。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、〔まさに〕これ〔自身〕から生じる。諸々の思考は、〔まさに〕これ〔自身〕から現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てる〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」と。

 

 [1434]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1435]「危難を取り除くことを」とは、危難を取り除くことを、危難の捨棄を、危難の寂止を、危難の放棄を、危難の安息を、不死なる涅槃を。ということで、「実証の法(真理)として、危難を取り除くことを」。

 

 [1436]「あなたに、幸せ〔有れ〕。〔実践の〕道を説いてください」とは、〔実践の〕道を説いてください。正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、遮るものなき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、諸戒における円満成就を作り為すことを、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることを、食について量を知ることを、〔眠らずに〕起きていることへの専念を、気づきと正知を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「〔実践の〕道を説いてください」。「あなたに、幸せ〔有れ〕」とは、その〔対話者として〕化作された者(化仏)は、覚者たる世尊に語りかける。さらに、あるいは、あなたが、告げ知らせた、説示した、報知した、確立した、開顕した、区分した、明瞭と為した、明示した、〔まさに〕その、法(教え)は、その〔全て〕が、すばらしく、幸いにして、巧みな智あり、罪過なく、習修されるべきである。ということで、「あなたに、幸せ〔有れ〕。〔実践の〕道を説いてください」。

 

 [1437]「戒条(波羅提木叉:戒律条項)を〔説いてください〕。そこで、あるいは、また、禅定(定・三昧)を〔説いてください〕」とは、「戒条を」とは、戒を、立脚するものを、最初〔の行〕を、行ないを、自制を、統御を、諸々の善なる法(性質)への入定における、頭目を、筆頭を。「そこで、あるいは、また、禅定を〔説いてください〕」とは、すなわち、心の、止住、確立、定置、乱雑なき、散乱なき、乱雑なき意図あること、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)、禅定の機能(定根)、禅定の力(定力)、正しい禅定(正定)である。ということで、「戒条を〔説いてください〕。そこで、あるいは、また、禅定を〔説いてください〕」。

 

 [1438]それによって、その〔対話者として〕化作された者が言った。

 

 [1439]〔対話者が尋ねた〕──「開かれた眼ある方よ、〔あなたは〕述べ伝えてくれました──実証の法(真理)として、危難を取り除くことを。あなたに、幸せ〔有れ〕。〔実践の〕道を説いてください。戒条(波羅提木叉:戒律条項)を〔説いてください〕。そこで、あるいは、また、禅定(定・三昧)を〔説いてください〕」と。

 

157.

 

 [1440]928.(922) 〔世尊は答えた〕──〔両の〕眼による妄動ある者(眼による刺激を探し求める者)として、まさしく、存さないように。村の議論(卑俗な話)から、耳を遠ざけるように。そして、味について貪り求めないように。さらに、世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。(8)

 

 [1441]「〔両の〕眼による妄動ある者(眼による刺激を探し求める者)として、まさしく、存さないように」とは、どのように、眼の妄動ある者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の者は、眼の妄動を具備した者として〔世に〕有る。「〔いまだ〕見られていないものは、見られるべきである。〔すでに〕見られたものは、等しく超越されるべきである(やりすごすべきである)」と、林園から林園へと、庭園から庭園へと、村から村へと、町から町へと、城市から城市へと、国土から国土へと、地方から地方へと、形態を見るために、長き遊行に〔専念する者として〕、さらに、定めなき遊行に専念する者として、〔世に〕有る。このようにもまた、眼の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1442]さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御されていない者として赴く。象〔兵〕を眺めながら、馬〔兵〕を眺めながら、車〔兵〕を眺めながら、歩〔兵〕を眺めながら、女たちを眺めながら、男たちを眺めながら、少女たちを眺めながら、少年たちを眺めながら、店の内を眺めながら、家の入り口を眺めながら、上を眺めながら、下を眺めながら、方々を眺め見ながら、赴く。このようにもまた、眼の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1443]さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成る〕。すなわち、眼の機能(眼根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践せず、眼の機能を守らず、眼の機能における統御を惹起しない。このようにもまた、眼の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1444]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念する者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃(シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵、あるいは、かくのごときものである。このようにもまた、眼の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1445]どのように、眼の妄動ある者ではなく〔世に〕有るのか。ここに、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御された者として赴く。象〔兵〕を眺めることなく、馬〔兵〕を眺めることなく、車〔兵〕を眺めることなく、歩〔兵〕を眺めることなく、女たちを眺めることなく、男たちを眺めることなく、少女たちを眺めることなく、少年たちを眺めることなく、店の内を眺めることなく、家の入り口を眺めることなく、上を眺めることなく、下を眺めることなく、方々を眺め見ることなく、赴く。このようにもまた、眼の妄動ある者ではなく〔世に〕有る。

 

 [1446]さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ない。すなわち、眼の機能(眼根)が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起する。このようにもまた、眼の妄動ある者ではなく〔世に〕有る。

 

 [1447]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念しない者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物……略([1444]参照)……閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有る。このようにもまた、眼の妄動ある者ではなく〔世に〕有る。

 

 [1448]「〔両の〕眼による妄動ある者として、まさしく、存さないように」とは、眼の妄動を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、眼の妄動から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「〔両の〕眼による妄動ある者として、まさしく、存さないように」。

 

 [1449]「村の議論(卑俗な話)から、耳を遠ざけるように」とは、村の議論は、三十二の畜生の議論(無用論・無駄話)と説かれる。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、乗物についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、男についての議論(※)、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものである(林についての議論・山についての議論・川についての議論・島についての議論)。「村の議論から、耳を遠ざけるように」とは、村の議論から、耳を、遠ざけるべきであり、防護するべきであり、統御するべきであり、守護するべきであり、保護するべきであり、閉塞するべきであり、断絶するべきである。ということで、「村の議論から、耳を遠ざけるように」。

 

※ PTS版により purisakathā を補う。

 

 [1450]「そして、味について貪り求めないように」とは、「味」とは、根の味、幹の味、皮の味、葉の味、花の味、果の味、酸っぱみ、甘み、苦み、辛み、塩気、刺激、弛緩、渋み、美味、不味、冷、暖。或る沙門や婆羅門たちで、味に貪求ある者たちが存在し、彼らは、舌の先端で諸々の至高の味を遍く探し求めながら、〔各地を〕逍遥する。彼らは、酸っぱいものを得ては、酸っぱくないものを遍く探し求め、酸っぱくないものを得ては、酸っぱいものを遍く探し求め……略([881]参照)……冷たいものを得ては、暖かいものを遍く探し求め、暖かいものを得ては、冷たいものを遍く探し求める。彼らは、それぞれのものを得ても、それぞれのもので満足せず、次から次へと遍く探し求める。諸々の意に適う味について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちとなる。彼の、この味への渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する──まさしく、戯れのためではなく……略([881]参照)……かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。

 

 [1451]たとえば、〔木を〕育成することを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、林を燃やすように、あるいは、また、たとえば、荷を超え渡すことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、車軸に塗油するように、あるいは、また、たとえば、砂漠を超え出ることを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、子の肉を食として食するように、まさしく、このように、比丘は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する──まさしく、戯れのためではなく……略([881]参照)……かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。〔彼は〕味への渇愛を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせるべきである。〔彼は〕味への渇愛から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「そして、味について貪り求めないように」。

 

 [1452]「さらに、世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように」とは、「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、眼を、わがものとするべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではなく、耳を……鼻を……舌を……身を……諸々の形態を……諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を……家を……衆徒を……居住を……利得を……盛名を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕施食を……臥坐具を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を……欲望の界域(欲界)を……形態の界域(色界)を……形態なき界域(無色界)を……欲望の生存(欲有)を……形態の生存(色有)を……形態なき生存(無色有)を……表象の生存(想有)を……表象なき生存(無想有)を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)を……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)を……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)を……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)を……過去を……未来を……現在を……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、わがものとするべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではない。「何であれ」とは、何であれ、形態の在り方をしたものを、感受〔作用〕の在り方をしたものを、表象〔作用〕の在り方をしたものを、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものを、識知〔作用〕の在り方をしたものを。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照)……〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「さらに、世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように」。

 

 [1453]それによって、世尊は言った。

 

 [1454]〔世尊は答えた〕──「〔両の〕眼による妄動ある者(眼による刺激を探し求める者)として、まさしく、存さないように。村の議論(卑俗な話)から、耳を遠ざけるように。そして、味について貪り求めないように。さらに、世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように」と。

 

158.

 

 [1455]929.(923) すなわち、〔病いに〕罹り〔飢えに〕襲われた者として存するとき、比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように。そして、〔迷いの〕生存を渇望しないように。さらに、諸々の恐ろしいことに動揺しないように。(9)

 

 [1456]「すなわち、〔病いに〕罹り〔飢えに〕襲われた者として存するとき」とは、「罹り」とは、病の接触。病の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら。眼の病によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら、耳の病によって……略……鼻の病によって……舌の病によって……身の病によって……頭の病によって……耳(外耳)の病によって……口の病によって……歯の病によって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い(業報)から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら。ということで、「すなわち、〔病いに〕罹り〔飢えに〕襲われた者として存するとき」。

 

 [1457]「比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように」とは、悲嘆を、嘆きを、悲嘆することを、嘆くことを、悲嘆あることを、嘆きあることを、言葉の騒ぎを、大騒ぎを、泣き叫びを、泣き叫ぶことを、泣き叫びあることを、為すべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。「どこにおいても」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように」。

 

 [1458]「そして、〔迷いの〕生存を渇望しないように」とは、欲望の生存を渇望するべきではなく、形態の生存を渇望するべきではなく、形態なき生存を、渇望するべきではなく、強く渇望するべきではなく、固く渇望するべきではない。というわけで、「そして、〔迷いの〕生存を渇望しないように」。

 

 [1459]「さらに、諸々の恐ろしいことに動揺しないように」とは、「恐ろしいこと」とは、一つの行相によるなら、恐怖でもまたあり、恐ろしさでもまたあり、まさしく、それである(両者は同一である)。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「これが、〔まさに〕その恐怖と恐ろしさが、〔人を〕捨棄することなく、まちがいなく、やってくるではないか」と。〔恐怖の〕外なる対象として説かれた、獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蠍たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕若者たちが──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして──存するべきである。さらに、他の行相によるなら、恐怖は、内なるものにして心から等しく現起するものとしての恐怖、恐怖させるもの、驚愕、身の毛のよだつこと、心の、戦慄、恐懼、と説かれる。生の恐怖、老の恐怖、病の恐怖、死の恐怖、王の恐怖、盗賊の恐怖、火の恐怖、水の恐怖、自己の批判の恐怖、他者の批判の恐怖、棒(刑罰)の恐怖、悪しき境遇の恐怖、波の恐怖、鰐の恐怖、渦の恐怖、鮫の恐怖、生計の恐怖、汚名の恐怖、衆のなかで恐れおののく恐怖、驕慢の恐怖、恐怖させるもの、驚愕、身の毛のよだつこと、心の、戦慄、恐懼である。「さらに、諸々の恐ろしいことに動揺しないように」とは、諸々の恐ろしいことを、あるいは、見て、あるいは、聞いて、動揺するべきではなく、強く動揺するべきではなく、等しく動揺するべきではなく、恐れるべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐怖するべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕存するべきであり、〔世に〕住むべきである。ということで、「さらに、諸々の恐ろしいことに動揺しないように」。

 

 [1460]それによって、世尊は言った。

 

 [1461]「すなわち、〔病いに〕罹り〔飢えに〕襲われた者として存するとき、比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように。そして、〔迷いの〕生存を渇望しないように。さらに、諸々の恐ろしいことに動揺しないように」と。

 

159.

 

 [1462]930.(924) そこで、諸々の食べ物を、諸々の飲み物を、さらに、また、諸々の固形の食料を、諸々の衣を──〔それらを〕得ても、蓄積を為さないように。そして、それらを得ないでいるとして、思い悩まないように。(10)

 

 [1463]「そこで、諸々の食べ物を、諸々の飲み物を、さらに、また、諸々の固形の食料を、諸々の衣を」とは、「諸々の食べ物を」とは、飯、粥、粉(パン類)、魚、肉である。「諸々の飲み物を」とは、八つの飲み物がある。アンバ〔果〕の飲み物、ジャンブ〔果〕の飲み物、チョーチャ〔果〕の飲み物、モーチャ〔果〕の飲み物、甘美な飲み物、柔和な飲み物、サールーカ〔樹〕の飲み物、パールカ〔樹〕の飲み物である。他にも、また、八つの飲み物がある。コーサンバ〔果〕の飲み物、コーラ〔果〕の飲み物、バダラ〔果〕の飲み物、酪の飲み物、油の飲み物、乳の飲み物、粥の飲み物、液状の飲み物である。「諸々の固形の食料を」とは、粉の固形の食料、菓子の固形の食料、根の固形の食料、樹皮の固形の食料、葉の固形の食料、花の固形の食料、果の固形の食料である。「諸々の衣を」とは、六つの衣料がある。亜麻、木綿、絹、毛、麻、粗麻である。ということで、「そこで、諸々の食べ物を、諸々の飲み物を、さらに、また、諸々の固形の食料を、諸々の衣を」。

 

 [1464]「〔それらを〕得ても、蓄積を為さないように」とは、「〔それらを〕得ても」とは、得て、獲て、到達して、見出して、獲得して。虚言によってではなく、饒舌によってではなく、予言によってではなく、詐術によってではなく、利得による利得の追求によってではなく、木を与えることによってではなく、竹を与えることによってではなく、葉を与えることによってではなく、花を与えることによってではなく、果を与えることによってではなく、洗粉を与えることによってではなく、塗粉を与えることによってではなく、塗料を与えることによってではなく、楊枝を与えることによってではなく、洗顔水を与えることによってではなく、追従によってではなく、豆汁たること(半煮えの虚言)によってではなく、機嫌取りによってではなく、陰口によってではなく、地相術によってではなく、畜生術によってではなく、人相術よってではなく、占星術によってではなく、使者の派遣によってではなく、使節の派遣によってではなく、使い走りによってではなく、医療行為によってではなく、新築行為によってではなく、〔行乞の〕食のやりとりによってではなく、施し物のやりとりによってではなく、法(真理)によって、正義によって、得て、獲て、到達して、見出して、獲得して。「蓄積を為さないように」とは、食べ物の蓄積を、飲み物の蓄積を、衣の蓄積を、乗物の蓄積を、臥具の蓄積を、香料の蓄積を、財貨の蓄積を、為すべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。ということで、「〔それらを〕得ても、蓄積を為さないように」。

 

 [1465]「そして、それらを得ないでいるとして、思い悩まないように」とは、「あるいは、食べ物を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、飲み物を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、家を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衆徒を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、盛名を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、賞賛を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、〔行乞の〕施食を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐具を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を、〔わたしは〕得ない」「あるいは、看病の者を、〔わたしは〕得ない」「〔わたしは〕未詳の者として〔世に〕存している」と、恐れるべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐怖するべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕存するべきであり、〔世に〕住むべきである。ということで、「そして、それらを得ないでいるとして、思い悩まないように」。

 

 [1466]それによって、世尊は言った。

 

 [1467]「そこで、諸々の食べ物を、諸々の飲み物を、さらに、また、諸々の固形の食料を、諸々の衣を──〔それらを〕得ても、蓄積を為さないように。そして、それらを得ないでいるとして、思い悩まないように」と。

 

160.

 

 [1468]931.(925) 瞑想者は、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)として存さないように。悔恨〔の思い〕から離れるように。〔常に気づきを〕怠らないように。そこで、諸々の坐所と臥所として、比丘は、音声少なきところに住むように。(11)

 

 [1469]「瞑想者は、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)として存さないように」とは、「瞑想者」とは、第一の瞑想(初禅・第一禅)によってもまた、瞑想者であり、第二の瞑想(第二禅)によってもまた、瞑想者であり、第三の瞑想(第三禅)によってもまた、瞑想者であり、第四の瞑想(第四禅)によってもまた、瞑想者であり、〔粗雑なる〕思考を有し〔繊細なる〕想念を有する(有尋有伺)瞑想によってもまた、瞑想者であり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念のみの(無尋唯伺)瞑想によってもまた、瞑想者であり、〔粗雑なる〕思考なく〔繊細なる〕想念なき(無尋無伺)瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦を有する瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦なき瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、快楽を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、安楽を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、放捨を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、空性の瞑想によってもまた、瞑想者であり、無相の瞑想によってもまた、瞑想者であり、無願の瞑想によってもまた、瞑想者であり、世〔俗〕の瞑想によってもまた、瞑想者であり、世〔俗〕を超える瞑想によってもまた、瞑想者であり、瞑想を喜ぶ者であり、一なることに専念する者であり、最高の義(勝義:最高の真実)に尊重ある者である。ということで、「瞑想者は」。

 

 [1470]「足の妄動ある者として存さないように」とは、どのように、足の妄動ある者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の者は、足の妄動を具備した者として〔世に〕有る。林園から林園へと、庭園から庭園へと、村から村へと、町から町へと、城市から城市へと、国土から国土へと、地方から地方へと、長き遊行に〔専念する者として〕、定めなき遊行に専念する者として、〔世に〕住む。このようにもまた、足の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1471]さらに、あるいは、比丘が、僧団の林園の内にあるもまた、足の妄動を具備した者として〔世に〕有る。義(道理)を因とする者ではなく、〔正しい〕契機を因とする者ではなく、〔心が〕高揚した者として、寂止していない心の者として、僧房から僧房へと赴き、精舎から精舎へと赴き、半屋根から半屋根へと赴き、高楼から高楼へと赴き、楼房から楼房へと赴き、岩窟から岩窟へと赴き、山窟から山窟へと赴き、小屋から小屋へと赴き、楼閣から楼閣へと赴き、見張塔から見張塔へと赴き、円室から円室へと赴き、堂舎から堂舎へと赴き、奉仕堂から奉仕堂へと赴き、天幕から天幕へと赴き、木の根元から木の根元へと赴く。また、あるいは、そこにおいて、比丘たちが坐っているなら、そこへと赴き、そこにおいて、あるいは、一者がいるなら、第二者と成り、あるいは、二者がいるなら、第三者と成り、あるいは、三者がいるなら、第四者と成り、そこにおいて、多くの雑談や虚論を交わす。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものである。このようにもまた、足の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [1472]「足の妄動ある者として存さないように」とは、足の妄動を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、足の妄動から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきであり、〔世を〕歩むべきであり、〔世を〕行じ歩むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきであり、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想を無視しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者たる瞑想者として、瞑想を喜ぶ者として、一なることに専念する者として、最高の義(勝義:最高の真実)に尊重ある者として、〔世に〕存するべきである。ということで、「足の妄動ある者として存さないように」。

 

 [1473]「悔恨〔の思い〕から離れるように。〔常に気づきを〕怠らないように」とは、「悔恨(悪作)」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。

 

 [1474]さらに、また、二つの契機によって、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから。どのように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と……略……。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」……。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が為された」……。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」……。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」……。「わたしによって、強欲〔の思い〕が為された」……。「わたしによって、憎悪〔の思い〕が為された」……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。

 

 [1475]さらに、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と……略……。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と……。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に〕存している」と……。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に〕存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念処・四念住)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「悔恨〔の思い〕から離れるように」とは、悔恨〔の思い〕から、離れるべきであり、離去するべきであり、離間するべきであり、悔恨〔の思い〕を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、悔恨〔の思い〕から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「悔恨〔の思い〕から離れるように」。

 

 [1476]「〔常に気づきを〕怠らないように」とは、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者として、常に為す者として、停滞なく為す者として、畏縮なき生活者として、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)として、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)として、不放逸の者として、〔世に〕存するべきである。「いつ、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき戒の範疇を円満成就させるのだろう、あるいは、〔すでに〕円満成就ある戒の範疇を、その場その場に、智慧によって資助するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。「いつ、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき禅定の範疇を……略……智慧の範疇を……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を……。「いつ、わたしは、あるいは、〔いまだ〕遍知されていない苦痛を遍知するのだろう、あるいは、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の〔心の〕汚れを捨棄するのだろう、あるいは、〔いまだ〕修行されていない道を修行するのだろう、あるいは、〔いまだ〕実証されていない止滅を実証するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。ということで、「悔恨〔の思い〕から離れるように。〔常に気づきを〕怠らないように」と。

 

 [1477]「そこで、諸々の坐所と臥所として、比丘は、音声少なきところに住むように」とは、「そこで」とは、句の連鎖……略([554]参照)……また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。坐所は、そこにおいて坐るところと説かれる。坐床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。臥所は、臥坐所と説かれる。精舎、半屋根、高楼、楼房、洞窟である。ということで、「諸々の坐所と臥所として」。

 

 [1478]「比丘は、音声少なきところに住むように」とは、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の臥坐所において、〔世を〕歩むべきであり、〔世を〕行じ歩むべきであり、〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「そこで、諸々の坐所と臥所として、比丘は、音声少なきところに住むように」。

 

 [1479]それによって、世尊は言った。

 

 [1480]「瞑想者は、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)として存さないように。悔恨〔の思い〕から離れるように。〔常に気づきを〕怠らないように。そこで、諸々の坐所と臥所として、比丘は、音声少なきところに住むように」と。

 

161.

 

 [1481]932.(926) 眠りを多く為さないように。熱情ある者として、〔眠らずに〕起きていることに親しむように。倦怠、幻惑、笑喜、遊興、淫事を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨棄するように。(12)

 

 [1482]「眠りを多く為さないように」とは、夜と昼を六つの部位と為して、五つの部位を〔眠らずに〕起きているべきであり、一つの部位を〔眠りに〕就くべきである。ということで、「眠りを多く為さないように」。

 

 [1483]「熱情ある者として、〔眠らずに〕起きていることに親しむように」とは、ここに、比丘は、昼には、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清めるべきであり、夜の初夜のあいだ(宵の内)は、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清めるべきであり、夜の中夜のあいだ(真夜中)は、気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営むべきであり(右脇を下にして獅子のように臥す)、夜の後夜のあいだ(明け方)は、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清めるべきである。

 

 [1484]「〔眠らずに〕起きていることに親しむように」とは、〔眠らずに〕起きていることに、親しむべきであり、等しく親しむべきであり、慣れ親しむべきであり、慣用するべきであり、等しく慣れ親しむべきであり、受用するべきである。ということで、「〔眠らずに〕起きていることに親しむように」。

 

 [1485]「熱情ある者として」とは、熱情は、精進と説かれる。すなわち、心の属性にして、精進勉励、勤しむこと、勤勉、努めること、努力、邁進、勤勇、強靭、〔道心〕堅固、緩慢ならざる勤勉たること、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かないこと、重荷を捨て置かないこと、重荷の堅持、精進、精進の機能(精進根)、精進の力(精進力)、正しい努力(正精進)である。この熱情を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、熱情ある者と説かれる。ということで、「熱情ある者として、〔眠らずに〕起きていることに親しむように」。

 

 [1486]「倦怠、幻惑、笑喜、遊興、淫事を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨棄するように」とは、「倦怠」とは、倦怠、倦怠なること、倦怠あること、倦怠の意たること、怠け、怠けること、怠けあること。幻惑は、騙しの性行と説かれる。ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、それを隠蔽することを因として、悪しき欲求を作為する。「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と求め、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と思惟し、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と言葉を語り、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と身体によって勤しむ。すなわち、このような形態の、幻惑、幻惑者たること、誇大、騙すこと、欺き、偽善、欺瞞、秘匿、遍き秘匿、隠蔽、遍き隠蔽、明瞭ならざる行為、公然ならざる行為、隠匿、悪行である。これが、幻惑と説かれる。「笑喜」とは、ここに、一部の者は、限度を超えて、歯を見せながら笑う。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、聖者の律において、すなわち、この、歯を見せながら限度を超えて笑うことは、これは、童子のすることです」と。

 

 [1487]「遊興」とは、二つの遊興がある。(1)そして、身体の属性としての遊興であり、(2)さらに、言葉の属性としての遊興である。(1)どのようなものが、身体の属性としての遊興であるのか。〔人々は〕象たちによってもまた遊び戯れ、馬たちによってもまた遊び戯れ、諸々の車によってもまた遊び戯れ、諸々の弓によってもまた遊び戯れ、八目〔将棋〕によってもまた遊び戯れ、十目〔将棋〕によってもまた遊び戯れ、虚空〔将棋〕によってもまた遊び戯れ、けんけん遊びによってもまた遊び戯れ、山くずし遊びによってもまた遊び戯れ、さいころ遊びによってもまた遊び戯れ、ちゃんばら遊びによってもまた遊び戯れ、手形遊びによってもまた遊び戯れ、博打によってもまた遊び戯れ、葉笛によってもまた遊び戯れ、おもちゃの鋤によってもまた遊び戯れ、逆立ちによってもまた遊び戯れ、風車遊びによってもまた遊び戯れ、葉の枡遊びによってもまた遊び戯れ、車遊びによってもまた遊び戯れ、弓遊びによってもまた遊び戯れ、文字判じによってもまた遊び戯れ、意思判じによってもまた遊び戯れ、不具者の物真似によってもまた遊び戯れる。これが、身体の属性としての遊興である。(2)どのようなものが、言葉の属性としての遊興であるのか。口の太鼓遊び、口の鼓、口の小鼓遊び、口の皺声遊び、口の鳴声遊び、口の擬音遊び、舞踊遊び、朗唱、歌詠、戯言である。これが、言葉の属性としての遊興である。

 

 [1488]「淫事の法(性質)」というものは、すなわち、〔まさに〕その、正ならざる法(性質)、野卑の法(性質)、賎民の法(性質)、邪悪のもの、水を終極とするもの(行為後に水による洗浄を必要とするもの)、内密のもの、〔男女〕一対の両者による入定(性行為)である。何を契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれるのか。〔男女〕両者にとっての──〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心が完全に奪い去られた、相同の〔男女〕両者にとっての──法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。たとえば、両者が、紛争を為す者たちであるなら、「淫事の者たち(忘我の者たち)」と説かれ、両者が、言争を為す者たちであるなら……両者が、談義を為す者たちであるなら……両者が、論争を為す者たちであるなら……両者が、問題を為す者たちであるなら……両者が、論者たちであるなら……両者が、談論者たちであるなら、「淫事の者たち」と説かれるように、まさしく、このように、〔男女〕両者にとっての──〔欲に〕染まり、〔欲に〕貪染し、〔煩悩が〕漏れ出ていて、〔妄執に〕遍く取り囲まれ、心が完全に奪い去られた、相同の〔男女〕両者にとっての──法(性質)である、ということで、それを契機とすることから、淫事の法(性質)と説かれる。

 

 [1489]「飾り立て」とは、二つの飾り立てがある。(1)在家者の飾り立てが存在し、(2)出家者の飾り立てが存在する。(1)どのようなものが、在家者の飾り立てであるのか。そして、諸々の髪、そして、諸々の髭、そして、花飾、そして、香料、そして、塗料、そして、装飾品、そして、装身具、そして、衣、そして、臥坐具、そして、頭巾、塗身、按摩、沐浴、洗髪、鏡、塗薬、花飾の塗料、口の塗粉、口紅、腕飾、頭飾、杖、筒、剣、傘、彩色ある履物、髻、宝珠、毛扇、諸々の白衣、諸々の長袖、あるいは、かくのごときものである。これが、在家者の飾り立てである。(2)どのようなものが、出家者の飾り立てであるのか。衣料の装飾、鉢の装飾、臥坐具の装飾、あるいは、この腐敗の身体のための、あるいは、外部の諸々の必需品のための、装飾、飾り立て、華美、贅沢、貪求なること、貪求あること、軽薄なること、軽薄あることである。これが、出家者の飾り立てである。

 

 [1490]「倦怠、幻惑、笑喜、遊興、淫事を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨棄するように」とは、かつまた、倦怠を、かつまた、幻惑を、笑喜を、かつまた、遊興を、かつまた、淫事の法(性質)を、付属品を含め、繋属品を含め、必需品を含め、〔身を〕飾り立てることと共に、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「倦怠、幻惑、笑喜、遊興、淫事を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨棄するように」。

 

 [1491]それによって、世尊は言った。

 

 [1492]「眠りを多く為さないように。熱情ある者として、〔眠らずに〕起きていることに親しむように。倦怠、幻惑、笑喜、遊興、淫事を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨棄するように」と。

 

162.

 

 [1493]933.(927) 魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、さらに、また、星〔占い〕に関わらないように。そして、わたしにならう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に慣れ親しまないように。(13)

 

 [1494]「魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、さらに、また、星〔占い〕に関わらないように」とは、魔術師たちは、魔術に従事する。あるいは、城市が包囲されたとき、あるいは、戦闘が現起したとき、敵軍である義(利益)に反する者たちのなかに、対立者たちのなかに、疾患を生起させ、禍を生起させ、病を生起させ、熱病を作り為し、腹痛を作り為し、疫病を作り為し、下痢を作り為す。このように、魔術師たちは、魔術に従事する。

 

 [1495]夢を占う者たちは、夢を指摘する。「彼が、早刻時に夢を見るなら、このように、報いが有る」「彼が、日中時に夢を見るなら、このように、報いが有る」「彼が、夕刻時に夢を見るなら、このように、報いが有る」「彼が、初夜(宵の内)に……「彼が、中夜(真夜中)に……「彼が、後夜(明け方)に……「彼が、右脇をもって横になり……「彼が、左脇をもって横になり……「彼が、上向きで横になり……「彼が、下向きで横になり……「彼が、月を見るなら……「彼が、日を見るなら……「彼が、大海を見るなら……「彼が、山の王のシネールを見るなら……「彼が、象〔兵〕を見るなら……「彼が、馬〔兵〕を見るなら……「彼が、車〔兵〕を見るなら……「彼が、歩〔兵〕を見るなら……「彼が、軍勢を見るなら……「彼が、喜ばしき林園を見るなら……「彼が、喜ばしき林を見るなら……「彼が、喜ばしき地を見るなら……「彼が、喜ばしき蓮池を見るなら、このように、報いが有る」と、このように、夢を占う者たちは、夢〔占い〕に従事する。

 

 [1496]特相を占う者たちは、特相を指摘する。「宝珠の特相である」「棒の特相である」「衣の特相である」「剣の特相である」「矢の特相である」「弓の特相である」「武器の特相である」「女の特相である」「男の特相である」「少女の特相である」「少年の特相である」「奴婢の特相である」「奴隷の特相である」「象の特相である」「馬の特相である」「水牛の特相である」「雄牛の特相である」「雌牛の特相である」「山羊の特相である」「羊の特相である」「鶏の特相である」「鶉の特相である」「大蜥蜴の特相である」「兎の特相である」「亀の特相である」「鹿の特相である」「あるいは、かくのごときものである」と、このように、特相を占う者たちは、特相〔占い〕に従事する。

 

 [1497]星を占う者たちは、星宿を指摘する。二十八の星宿がある。「この星宿によって、家入りが為されるべきである」「この星宿によって、棟飾が結ばれるべきである」「この星宿によって、婚礼が執行されるべきである」「この星宿によって、種の運び出しが為されるべきである」「この星宿によって、共住に赴くべきである」と、このように、星を占う者たちは、星〔占い〕に従事する。

 

 [1498]「魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、さらに、また、星〔占い〕に関わらないように」とは、かつまた、魔術に、かつまた、夢〔占い〕に、かつまた、特相〔占い〕に、かつまた、星〔占い〕に、関わるべきではなく、行なうべきではなく、励行するべきではなく、受持して行持するべきではない。さらに、あるいは、収取するべきではなく、執持するべきではなく、保持するべきではなく、近しく保持するべきではなく、近しく観るべきではなく、専念するべきではない。ということで、「魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、さらに、また、星〔占い〕に関わらないように」。

 

 [1499]「そして、わたしにならう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に慣れ親しまないように」とは、叫び声は、狩猟の成否と説かれる。狩猟の成否を占う者たちは、狩猟の成否を指摘する。あるいは、鳥たちの、あるいは、四つ足のものたちの、叫び声を、鳴き声を、〔彼らは〕知る。ということで、このように、狩猟の成否を占う者たちは、狩猟の成否を指摘する。懐妊術師たちは、〔母の〕胎を懐妊させる。二つの契機によって、〔母の〕胎は懐妊しない。あるいは、命あるもの(寄生虫)たちによって、あるいは、諸々の風の動乱(体調不良)によって。あるいは、命あるものたちの、あるいは、諸々の風の動乱の、防御のために、〔彼らは〕薬を与える。ということで、このように、懐妊術師たちは、〔母の〕胎を懐妊させる。「医術」とは、五つの医術がある。眼科、外科、身体の医術(内科)、憑霊(精神科)、小児科である。「わたしにならう者」とは、覚者にならう者、法(教え)にならう者、僧団にならう者。あるいは、彼は、世尊をわがものとする。あるいは、世尊は、その人を遍く収め取る。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちではありません。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちであり、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起せず〕、成長を〔惹起せず〕、広大を惹起しません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの(※)比丘たちが、虚言なく、饒舌ならず、慧者で、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、まさに、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え)と律から離れ去った者たちではなく、さらに、彼らは、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起します。

 

※ PTS版により te を補う。

 

 [1500]〔そこで、詩偈に言う〕『虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たち──彼らは、正等覚者によって説示された法(教え)において、成長しない。

 

 [1501]虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たち──彼らは、まさに、正等覚者によって説示された法(教え)において成長する』」と。

 

 [1502]「そして、わたしにならう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に慣れ親しまないように」とは、かつまた、〔動物の〕叫び声〔による占い〕に、かつまた、懐妊術に、かつまた、医術に、わたしにならう者は、慣れ親しむべきではなく、慣用するべきではなく、等しく慣れ親しむべきではなく、受用するべきではなく、行なうべきではなく、励行するべきではなく、受持して行持するべきではない。さらに、あるいは、収取するべきではなく、執持するべきではなく、保持するべきではなく、近しく保持するべきではなく、近しく観るべきではなく、専念するべきではない。ということで、「そして、わたしにならう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に慣れ親しまないように」。

 

 [1503]それによって、世尊は言った。

 

 [1504]「魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、さらに、また、星〔占い〕に関わらないように。そして、わたしにならう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に慣れ親しまないように」と。

 

163.

 

 [1505]934.(928) 〔他者の〕非難に動揺しないように。比丘は、〔他者から〕賞賛されたとして、傲慢にならないように。物惜〔の思い〕と共に、貪欲〔の思い〕を〔除き去るように〕。忿激〔の思い〕を、そして、中傷〔の思い〕を、除き去るように。(14)

 

 [1506]「〔他者の〕非難に動揺しないように」とは、ここに、一部の者たちは、比丘たちを非難する。あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、非難し、難詰し、批判する。非難され、難詰され、批判された者は、非難によって、難詰によって、批判によって、〔自己の〕不名誉によって、〔自己の〕栄誉ならざることの伝播によって、動揺するべきではなく、強く動揺するべきではなく、等しく動揺するべきではなく、恐れるべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐怖するべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕存するべきであり、〔世に〕住むべきである。ということで、「〔他者の〕非難に動揺しないように」。

 

 [1507]「比丘は、〔他者から〕賞賛されたとして、傲慢にならないように」とは、ここに、一部の者たちは、比丘たちを賞賛する。あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、賞賛し、賛嘆し、名誉とし、栄誉とする。賞賛され、賛嘆され、名誉とされ、栄誉とされた者は、賞賛によって、賛嘆によって、〔自己の〕名誉によって、〔自己の〕栄誉の伝播によって、傲慢を為すべきではなく、傲慢になることを為すべきではなく、思量を為すべきではなく(慢心しない)、強情を為すべきではなく、それによって、思量を生じさせるべきではなく、それによって、〔心が〕強情となった者として、〔心が〕硬直した者として、頭が励起した者(天狗になった者)として、〔世に〕存するべきではない。ということで、「比丘は、〔他者から〕賞賛されたとして、傲慢にならないように」。

 

 [1508]「物惜〔の思い〕と共に、貪欲〔の思い〕を〔除き去るように〕。忿激〔の思い〕を、そして、中傷〔の思い〕を、除き去るように」とは、「貪欲〔の思い〕」とは、すなわち、貪欲(ローバ)、貪欲すること、貪欲あること、貪染、貪染すること、貪染あること、強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「物惜〔の思い〕」とは、五つの物惜がある。居住の物惜……略([133]参照)……収取である。〔これが〕物惜と説かれる。「忿激〔の思い〕」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕、意の強き憤怒、忿激、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。「中傷〔の思い〕」とは、ここに、一部の者は、中傷の言葉ある者として〔世に〕有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者であり、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者であり、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有る。これが、中傷〔の思い〕と説かれる。

 

 [1509]さらに、また、二つの契機によって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(1)あるいは、愛慕を欲することによって。(2)あるいは、分裂を志向することによって。(1)どのように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「この者にとって、〔わたしは〕愛しい者と成るのだ、〔わたしは〕意に適う者と成るのだ、〔わたしは〕信頼ある者と成るのだ、〔わたしは〕内々の者と成るのだ、〔わたしは〕親密の者と成るのだ」と、このように、愛慕を欲することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。(2)どのように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中するのか。「どのように、これらの者たちは、種々に存することになるのか、別々に存することになるのか、諸々の党派の者たちとして存することになるのか、二種の者たちとして存することになるのか、二様の者たちとして存することになるのか、二派の者たちとして存することになるのか、分裂することになるのか、和合しないことになるのか、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むことになるのか」と、このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。「物惜〔の思い〕と共に、貪欲〔の思い〕を〔除き去るように〕。〔他者への〕忿激、そして、中傷〔の思い〕を除き去るように」とは、かつまた、貪欲〔の思い〕を、かつまた、物惜〔の思い〕を、かつまた、〔他者への〕忿激を、かつまた、中傷〔の思い〕を、除くべきであり、除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「物惜〔の思い〕と共に、貪欲〔の思い〕を〔除き去るように〕。忿激〔の思い〕を、そして、中傷〔の思い〕を、除き去るように」。

 

 [1510]それによって、世尊は言った。

 

 [1511]「〔他者の〕非難に動揺しないように。比丘は、〔他者から〕賞賛されたとして、傲慢にならないように。物惜〔の思い〕と共に、貪欲〔の思い〕を〔除き去るように〕。忿激〔の思い〕を、そして、中傷〔の思い〕を、除き去るように」と。

 

164.

 

 [1512]935.(929) 〔生活を〕売買に立脚しないように。比丘は、どこにおいても、批判を為さないように。そして、村において、〔在家者たちと〕交際しないように。利得(行乞の施物)を欲して、人と談じないように。(15)

 

 [1513]「〔生活を〕売買に立脚しないように」とは、すなわち、律において拒絶された諸々の売買があり、それらは、この義(意味)において志向されたものではない(この場合の売買ではない)。どのように、〔生活を〕売買に立脚するのか。五つ〔の必需品〕を含め、あるいは、鉢を、あるいは、衣料を、あるいは、他の、何らかの必需品を、あるいは、騙しを為しつつ、あるいは、〔その〕生成を切望しつつ、遍く転起させる(交換する)。このように、〔生活を〕売買に立脚する。どのように、〔生活を〕売買に立脚しないのか。五つ〔の必需品〕を含め、あるいは、鉢を、あるいは、衣料を、あるいは、他の、何らかの必需品を、あるいは、騙しを為すことなく、あるいは、〔その〕生成を切望することなく、遍く転起させる(交換する)。このように、〔生活を〕売買に立脚しない。「〔生活を〕売買に立脚しないように」とは、〔生活を〕売買に、立脚するべきではなく、確立するべきではなく、売買を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、売買から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「〔生活を〕売買に立脚しないように」。

 

 [1514]「比丘は、どこにおいても、批判を為さないように」とは、どのようなものが、〔他者の〕批判を為すもの、ということで、諸々の〔心の〕汚れとなるのか。或る沙門や婆羅門たちで、神通者たちが存在する。天眼ある者たちであり、他者の心を知る者たちである。彼らは、遠くからもまた〔他者を〕見、近くからもまた〔他者に〕見られず、心をとおしてもまた〔他者の〕心を覚知する。天神たちもまた、まさに、神通者たちが存在する。天眼ある者たちであり、他者の心を知る者たちである。彼らは、遠くからもまた〔他者を〕見、近くからもまた〔他者に〕見られず、心をとおしてもまた〔他者の〕心を覚知する。彼らは、あるいは、諸々の粗雑なる〔心の〕汚れによって、あるいは、諸々の中等なる〔心の〕汚れによって、あるいは、諸々の繊細なる〔心の〕汚れによって、〔他者を〕批判するであろう。どのようなものが、諸々の粗雑なる〔心の〕汚れであるのか。身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ないである。これらが、諸々の粗雑なる〔心の〕汚れと説かれる。どのようなものが、諸々の中等なる〔心の〕汚れであるのか。欲望の思考、憎悪の思考、悩害の思考である。これらが、諸々の中等なる〔心の〕汚れと説かれる。どのようなものが、諸々の繊細なる〔心の〕汚れであるのか。親族の思考(親族に関する品定めの思考)、地方の思考(地域に関する品定めの思考)、不死の思考(※)、他者への憐憫に関係した思考、利得と尊敬と名声に関係した思考、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考である。これらが、諸々の繊細なる〔心の〕汚れと説かれる。彼らは、あるいは、諸々の粗雑なる〔心の〕汚れによって、あるいは、諸々の中等なる〔心の〕汚れによって、あるいは、諸々の繊細なる〔心の〕汚れによって、〔他者を〕批判するであろう(※※)。〔他者の〕批判を為すべきではなく、〔他者の〕批判を為す諸々の〔心の〕汚れを、為すべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではなく、〔他者の〕批判を為す諸々の〔心の〕汚れを、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、〔他者の〕批判を為す諸々の〔心の〕汚れから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。「どこにおいても」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「比丘は、どこにおいても、批判を為さないように」。

 

※ テキストには aparavitakko とあるが、PTS版により amaravitakko と読む。

※※ テキストには na upavadeyya とあるが、PTS版により upavadeyyu と読む。

 

 [1515]「そして、村において、〔在家者たちと〕交際しないように」とは、どのように、村において執着するのか(交際するのか)。ここに、一部の比丘が、村において、在家者たちと交わりある者として〔世に〕住む。喜びを共にし、憂いを共にし、安楽の者たちのなかで安楽の者となり、苦痛の者たちのなかで苦痛の者となり、諸々の義務や用事が生起したとき、自己みずから、専念〔努力〕を惹起する。このように、村において執着する。

 

 [1516]さらに、あるいは、比丘が、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、あるいは、村に、行乞〔の施食〕のために入る──まさしく、守られていない身体によって、守られていない言葉によって、守られていない心によって、現起されていない気づきによって、諸々の統御されていない〔感官の〕機能によって。彼は、そこかしこにおいて執着し、そこかしこにおいて収取し、そこかしこにおいて結縛され、そこかしこにおいて不幸と災厄を惹起する。このようにもまた、村において執着する。

 

 [1517]どのように、村において執着しないのか(交際しないのか)。ここに、一部の比丘が、村において、在家者たちと交わりある者として〔世に〕住まない。喜びを共にせず、憂いを共にせず、安楽の者たちのなかで安楽の者とならず、苦痛の者たちのなかで苦痛の者とならず、生起した諸々の義務や用事にたいし、自己みずから、専念〔努力〕を惹起しない。このように、村において執着しない。

 

 [1518]さらに、あるいは、比丘が、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、あるいは、村に、あるいは、町に、行乞〔の施食〕のために入る──まさしく、守られている身体によって、守られている言葉によって、守られている心によって、現起されている気づきによって、諸々の統御されている〔感官の〕機能によって。彼は、そこかしこにおいて執着せず、そこかしこにおいて収取せず、そこかしこにおいて結縛されず、そこかしこにおいて不幸と災厄を惹起しない。このようにもまた、村において執着しない。「そして、村において、〔在家者たちと〕交際しないように」とは、村において、執着するべきではなく、収取するべきではなく、結縛されるべきではなく、遍く結縛されるべきではなく、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として……略([191]参照)……〔世に〕存するべきであり、梵と成った自己によって〔世に〕住むべきである。ということで、「そして、村において、〔在家者たちと〕交際しないように」。

 

 [1519]「利得(行乞の施物)を欲して、人と談じないように」とは、どのようなものが、饒舌(談じること)であるのか。利得と尊敬と名声に依存する者の、悪しき欲求ある者の、〔自らの〕欲求に支配された者の、財貨に眼ある者の、世〔俗〕の法(事象)に尊重ある者の、すなわち、他者たちへの、一方的饒舌、饒舌、常習的饒舌、高揚的饒舌、常習的高揚的饒舌、粘言、常習的粘言、巧言、常習的巧言、愛慕の話し方をすること、追従をすること、豆汁たること(半煮えの虚言)、機嫌取りをすること、他者の陰口をすること、すなわち、そこにおける、優雅なる言葉たること、友誼ある言葉たること、緩慢なる言葉たること、粗暴ならざる言葉たることである。これが、饒舌と説かれる。

 

 [1520]さらに、また、二つの契機によって、人と談じる。(1)あるいは、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、人と談じる。(2)あるいは、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、人と談じる。(1)どのように、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、人と談じるのか。「あなたたちは、わたしにとって、多くの資益ある方たちです。わたしは、あなたたちに依存して、衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を得ます。すなわち、他の者たちもまた、あなたたちに依存して、あなたたちとお会いしながら、わたしに、あるいは、施すことを、あるいは、為すことを、思い考えます。すなわち、わたしの、以前の、母と父による命名もまた、それさえも、わたしにとっては、消没したものとなりました(名前として通用しなくなった)。〔今の〕わたしは、あなたたちによって、『誰某氏の家に親近ある者』『誰某女史の家に親近ある者』として〔世に〕知られます」と、このように、自己を低きに据え置きながら、他者を高きに据え置きつつ、人と談じる。

 

 [1521](2)どのように、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、人と談じるのか。「わたしは、あなたたちにとって、多くの資益ある者である。あなたたちは、わたしを頼りにして、帰依所として、覚者のもとに赴いた者たちであり、帰依所として、法(教え)のもとに赴いた者たちであり、帰依所として、僧団のもとに赴いた者たちであり、命あるものを殺すことから離間した者たちであり、与えられていないものを取ることから離間した者たちであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者たちであり、虚偽を説くことから離間した者たちであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者たちである。わたしは、あなたたちに、誦説(聖典)を与え、遍問(義釈)を与え、斎戒(布薩)を告知し、新しい行為を確立する。そこで、また、あなたたちは、わたしを廃棄して、他の者たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する」と、このように、自己を高きに据え置きながら、他者を低きに据え置きつつ、人と談じる。

 

 [1522]「利得(行乞の施物)を欲して、人と談じないように」とは、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を亢進させながら、人と談じるべきではなく、饒舌を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、饒舌から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「利得を欲して、人と談じないように」。

 

 [1523]それによって、世尊は言った。

 

 [1524]「〔生活を〕売買に立脚しないように。比丘は、どこにおいても、批判を為さないように。そして、村において、〔在家者たちと〕交際しないように。利得(行乞の施物)を欲して、人と談じないように」と。

 

165.

 

 [1525]936.(930) そして、比丘は、自慢する者として存さないように。さらに、画策された言葉(食を得るためのほのめかしの言葉)を語らないように。尊大に学ばないように。口論となる言説を発しないように。(16)

 

 [1526]「そして、比丘は、自慢する者として存さないように」とは、ここに、一部の者は、誇る者と成り、誇示する者と〔成る〕。彼は、誇り、誇示する。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕存している」と、あるいは、「掟の成就者として〔世に存している〕」と、あるいは、「戒と掟の成就者として〔世に存している〕」と──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業)によって、あるいは、技能の場所(技術)によって、あるいは、学術の境位(学識)によって、あるいは、所聞(知識)によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「秀逸なる財物ある家からの出家者として〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、〔世に存している〕」と、あるいは、「諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として〔世に存している〕」と、あるいは、「法(教え)の言説者として〔世に存している〕」と、あるいは、「林にある者として〔世に存している〕」と……略([237]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に存している〕」と、誇り、誇示する。このように、誇るべきではなく、誇示するべきではなく、誇ることを、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、誇ることから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「そして、比丘は、自慢する者として存さないように」。

 

 [1527]「さらに、画策された言葉(食を得るためのほのめかしの言葉)を語らないように」とは、どのようなものが、画策された言葉であるのか。ここに、一部の者は、衣料〔の獲得〕が画策された言葉を語り、〔行乞の〕施食〔の獲得〕が画策された言葉を語り、臥坐具〔の獲得〕が画策された言葉を語り、病のための日用品たる薬の必需品〔の獲得〕が画策された言葉を語る。これもまた、画策された言葉と説かれる。

 

 [1528]さらに、あるいは、衣料を因として、〔行乞の〕施食を因として、臥坐具を因として、病のための日用品たる薬の必需品を因として、真理をもまた話し、虚偽をもまた話し、中傷〔の言葉〕をもまた話し、中傷なき〔言葉〕をもまた話し、粗暴な〔言葉〕をもまた話し、粗暴ならざる〔言葉〕をもまた話し、雑談や虚論〔の言葉〕をもまた話し、雑談や虚論なき〔言葉〕をもまた話し、明慧によってもまた言葉を語る。これもまた、画策された言葉と説かれる。さらに、あるいは、浄信した心の者として、他者たちに、法(教え)を説示する。「ああ、まさに、わたしの法(教え)を聞くがよい。聞いて、法(教え)を浄信するがよい。そして、浄信した者たちとなり、わたしに、浄信の行相を作り為すべきである」と。これが、画策された言葉と説かれる。「さらに、画策された言葉を語らないように」とは、もしくは、法(教え)の説示としての言葉を加え含めて、画策された言葉を、語るべきではなく、言説するべきではなく、発語するべきではなく、提示するべきではなく、語用するべきではなく、画策された言葉を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、画策された言葉から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「さらに、画策された言葉を語らないように」。

 

 [1529]「尊大に学ばないように」とは、尊大とは、三つの尊大がある。(1)身体の属性としての尊大、(2)言葉の属性としての尊大、(3)心の属性としての尊大である。(1)どのようなものが、身体の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、(1―1)僧団に赴くもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―2)衆徒に赴くもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―3)食堂においてもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―4)浴室においてもまた、身体の属性としての尊大を見示し、(1―5)水浴場においてもまた、身体の属性としての尊大を見示する。(1―6)家屋の内に入りながらもまた、身体の属性としての尊大を見示する。(1―7)家屋の内に入ったあともまた、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [1530](1―1)どのように、僧団に赴き、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、僧団に赴いたとして(僧団の一員となっても)、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、僧団に赴き、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [1531](1―2)どのように、衆徒に赴き、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に赴いたとして(衆徒の一員となっても)、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちが、履物無しで歩行〔瞑想〕をしているのに、履物有りで歩行〔瞑想〕をし、低い歩行場で歩行〔瞑想〕をしているのに、高い歩行場で歩行〔瞑想〕をし、大地で歩行〔瞑想〕をしているのに、歩行場で歩行〔瞑想〕をする。ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、衆徒に赴き、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [1532](1―3)どのように、食堂において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、食堂において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに分け入って坐り、新参の比丘たちにもまた坐を拒み、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、食堂において、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [1533](1―4)どのように、浴室において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、浴室において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高い坐であろうが坐り、許しを乞わずにいようが、要請されていなかろうが、薪をくべ、扉をもまた締め、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、浴室において、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [1534](1―5)どのように、水浴場において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、水浴場において、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが入り、前であろうが入り、ぶつかりながらであろうが沐浴し、前であろうが沐浴し、上であろうが沐浴し、ぶつかりながらであろうが上がり、前であろうが上がり、上であろうが上がる。このように、水浴場において、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [1535](1―6)どのように、家屋の内に入りながら、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入りながら、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが赴き、前であろうが赴き、〔家から〕離れてもまた、長老の比丘たちの前を赴く。このように、家屋の内に入りながら、身体の属性としての尊大を見示する。

 

 [1536](1―7)どのように、家屋の内に入ったあと、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入ったあと、「尊き方よ、入らないでください」と説かれているのに入り、「尊き方よ、立たないでください」と説かれているのに立ち、「尊き方よ、坐らないでください」と説かれているのに坐り、空間なくもまた入り、空間なくもまた立ち、空間なくもまた坐り、すなわち、また、家々には、そして、秘密の、さらに、隠蔽された、それらの内室が有り、そこにおいて、良家の婦女たちが〔坐り〕、良家の娘たちが〔坐り〕、良家の嫁たちが〔坐り〕、良家の少女たちが坐るなら、そこにおいてもまた、無理やり入り、少年の頭をもまた撫でまわす。このように、家屋の内に入ったあと、身体の属性としての尊大を見示する。これが、身体の属性としての尊大である。

 

 [1537](2)どのようなものが、言葉の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、(2―1)僧団に赴くもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、(2―2)衆徒に赴くもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、(2―3)家屋の内に入ったあともまた、言葉の属性としての尊大を見示する。(2―1)どのように、僧団に赴き、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、僧団に赴いたとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていないのに、林園に赴いた比丘たちに、法(教え)を話し、問いに答え、戒条(波羅提木叉:戒律条項)を誦説する。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、僧団に赴き、言葉の属性としての尊大を見示する。

 

 [1538](2―2)どのように、衆徒に赴き、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に赴いたとして、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていないのに、林園に赴いた比丘たちに、法(教え)を話し、問いに答える。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。林園に赴いた比丘尼たちに、在俗信者(優婆塞)たちに、女性在俗信者(優婆夷)たちに、法(教え)を話し、問いに答える。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、衆徒に赴き、言葉の属性としての尊大を見示する。

 

 [1539](2―3)どのように、家屋の内に入ったあと、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、〔布施を受けるために〕家屋の内に入ったあと、あるいは、婦女に、あるいは、少女に、このように言う。「某名よ、某姓よ、何が存するのか。粥は存するのか。食べるものは存するのか。固形の食料は存するのか。〔わたしたちは〕何を飲むことになるのか。〔わたしたちは〕何を頂戴することになるのか。〔わたしたちは〕何を咀嚼することになるのか。あるいは、何が存するのか。あるいは、〔あなたたちは〕わたしに、何を布施してくれるのか」と語り散らす。このように、家屋の内に入ったあと、言葉の属性としての尊大を見示する。これが、言葉の属性としての尊大である。

 

 [1540](3)どのようなものが、心の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、高貴なる家からの出家者として〔世に〕存していないのに、高貴なる家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる家からの出家者として〔世に〕存していないのに、大いなる家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる財物ある家からの出家者として〔世に〕存していないのに、大いなる財物ある家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、秀逸なる財物ある家からの出家者として〔世に〕存していないのに、秀逸なる財物ある家からの出家者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、経の専門家として〔世に〕存していないのに、経の専門家を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、律の保持者として〔世に〕存していないのに、律の保持者を……法(教え)の言説者として〔世に〕存していないのに、法(教え)の言説者を……林にある者として〔世に〕存していないのに、林にある者を……〔行乞の〕施食の者として〔世に〕存していないのに、〔行乞の〕施食の者を……糞掃衣の者として〔世に〕存していないのに、糞掃衣の者を……三つの衣料の者として〔世に〕存していないのに、三つの衣料の者を……〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として〔世に〕存していないのに、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者を……〔規定された食〕以後の食を否とする者として〔世に〕存していないのに、〔規定された食〕以後の食を否とする者を……常坐〔にして不臥〕なる者として〔世に〕存していないのに、常坐〔にして不臥〕なる者を……〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として〔世に〕存していないのに、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、第一の瞑想の得者として〔世に〕存していないのに、第一の瞑想の得者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定め、第二の瞑想の得者として〔世に〕存していないのに、第二の瞑想の……第三の瞑想の得者として〔世に〕存していないのに、第三の瞑想の……第四の瞑想の得者として〔世に〕存していないのに、第四の瞑想の……虚空無辺なる〔認識の〕場所の得者として〔世に〕存していないのに、虚空無辺なる〔認識の〕場所の……識知無辺なる〔認識の〕場所の得者として〔世に〕存していないのに、識知無辺なる〔認識の〕場所の……無所有なる〔認識の〕場所の得者として〔世に〕存していないのに、無所有なる〔認識の〕場所の……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者として〔世に〕存していないのに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への入定の得者を相手に、〔彼と〕相同の者として、自己を、心によって思い定める。これが、心の属性としての尊大である。「尊大に(※)学ばないように」とは、尊大に、学ぶべきではなく、行なうべきではなく、習行するべきではなく、励行するべきではなく、受持して行持するべきではなく、尊大を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、尊大から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「尊大に学ばないように」。

 

※ PTS版により pāgabbhiya を補う。

 

 [1541]「口論となる言説を発しないように」とは、どのようなものが、口論となる言説であるのか。ここに、一部の者は、このような形態の言説を為す者と成る。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。……略([649]参照)……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「モッガッラーナよ、まさに、口論となる言説が存しているとき、言説の過剰(多弁)が待っています。言説の過剰が存しているとき、〔心の〕高揚があります。〔心が〕高揚した者には、統御なき〔生き方〕があります。統御されていない者の心は、禅定から遠く離れています」と。「口論となる言説を発しないように」とは、口論となる言説を、言説するべきではなく、発語するべきではなく、提示するべきではなく、語用するべきではなく、口論となる言説を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、口論となる言説から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「口論となる言説を発しないように」。

 

 [1542]それによって、世尊は言った。

 

 [1543]「そして、比丘は、自慢する者として存さないように。さらに、画策された言葉(食を得るためのほのめかしの言葉)を語らないように。尊大に学ばないように。口論となる言説を発しないように」と。

 

166.

 

 [1544]937.(931) 虚偽の言葉に導かれないように。正知の者として、諸々の狡猾な〔行ない〕を為さないように。そこで、生き方によって、智慧によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように。(17)

 

 [1545]「虚偽の言葉に導かれないように」とは、虚偽の言葉は、虚偽を説くことと説かれる。ここに、一部の者は、あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き……略([556]参照)……あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者と成る。これが、虚偽の言葉と説かれる。さらに、また、三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。これらの三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、四つの行相によって……五つの行相によって……六つの行相によって……七つの行相によって……八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1)まさしく、過去において、彼に、「〔わたしは〕虚偽を話すであろう」という〔思いが〕有る。(2)〔現に〕話している者に、「〔わたしは〕虚偽を話す」という〔思いが〕有る。(3)〔すでに〕話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という〔思いが〕有る。(4)〔自己の〕見解と異なって〔虚偽を話す〕。(5)〔自己の〕受認(信受)と異なって〔虚偽を話す〕。(6)〔自己の〕嗜好(意欲)と異なって〔虚偽を話す〕。(7)〔自己の〕表象と異なって〔虚偽を話す〕。(8)〔自己の〕状態と異なって〔虚偽を話す〕。これらの八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。「虚偽の言葉に導かれないように」とは、虚偽の言葉に、行くべきではなく、導かれるべきではなく、運ばれるべきではなく、集められるべきではなく、虚偽の言葉を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、虚偽の言葉から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「虚偽の言葉に導かれないように」。

 

 [1546]「正知の者として、諸々の狡猾な〔行ない〕を為さないように」とは、どのようなものが、狡猾たるべきことであるのか。ここに、一部の者は、狡猾なる者と成り、遍く狡猾なる者と〔成る〕。すなわち、そこにおける、狡猾、狡猾なること、狡猾たるべきこと、粗剛なること、粗剛たるべきこと、遍く粗剛なること、遍く粗剛たるべきことである。これが、狡猾たるべきことと説かれる。「正知の者として、諸々の狡猾な〔行ない〕を為さないように」とは、正知の者として有って、狡猾たるべきことを、為すべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではなく、狡猾たるべきことを、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、狡猾たるべきことから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「正知の者として、諸々の狡猾な〔行ない〕を為さないように」。

 

 [1547]「そこで、生き方によって、智慧によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように」とは、「そこで」とは、句の連鎖……略([554]参照)……また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。ここに、一部の者は、粗末な生き方を生きている者として〔世に有り〕、他の贅沢な生き方を生きている者を軽んじる。「また、どうして、この者は、潤沢な生計ある者となり、全てのものを等しく食物とするのだろう。それは、すなわち、この、根の種を、幹の種を、節の種を、枝の種を、第五のものとして、まさしく、種の種を、雷電が〔発するかのように〕歯を槌とする沙門の精励によって」と。彼は、その粗末な生き方によって、他の贅沢な生き方を生きている者を軽んじる。

 

 [1548]ここに、一部の者は、贅沢な生き方を生きている者として〔世に有り〕、他の粗末な生き方を生きている者を軽んじる。「また、どうして、この者は、功徳少なく権能少なき者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者ではないのだろう」と。彼は、その贅沢な生き方によって、他の粗末な生き方を生きている者を軽んじる。ここに、一部の者は、智慧を成就した者(知識の保有者)として〔世に〕有る。彼は、〔問いを〕尋ねられた者として、問いに答える。彼に、このような〔思いが〕有る。「わたしは、智慧を成就した者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の者たちは、智慧を成就した者たちではない」と。彼は、その智慧の成就によって、他者を軽んじる。ここに、一部の者は、戒を成就した者として〔世に〕有る。戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。彼に、このような〔思いが〕有る。「わたしは、戒を成就した者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちである」と。彼は、その戒の成就によって、他者を軽んじる。ここに、一部の者は、掟を成就した者として〔世に〕有る。あるいは、林にある者として、あるいは、〔行乞の〕施食の者として、あるいは、糞掃衣の者として、あるいは、三つの衣料の者として、あるいは、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、あるいは、〔規定された食〕以後の食を否とする者として、あるいは、常坐〔にして不臥〕なる者として、あるいは、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として。彼に、このような〔思いが〕有る。「わたしは、掟を成就した者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の者たちは、掟を成就した者たちではない」と。彼は、その掟の成就によって、他者を軽んじる。「そこで、生き方によって、智慧によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように」とは、あるいは、粗末な生き方によって、あるいは、贅沢な生き方によって、あるいは、智慧の成就によって、あるいは、戒の成就によって、あるいは、掟の成就によって、他者を、軽んじるべきではなく、見下すべきではなく、それによって、思量を生じさせるべきではなく、それによって、〔心が〕強情となった者として、〔心が〕硬直した者として、頭が励起した者(天狗になった者)として、〔世に〕存するべきではない。ということで、「そこで、生き方によって、智慧によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように」。

 

 [1549]それによって、世尊は言った。

 

 [1550]「虚偽の言葉に導かれないように。正知の者として、諸々の狡猾な〔行ない〕を為さないように。そこで、生き方によって、智慧によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように」と。

 

167.

 

 [1551]938.(932) あるいは、〔迷える〕沙門たちや凡夫たちの、多くの〔悪しき〕言葉を聞いて悩まされたとして、彼らに、粗暴な〔言葉〕で言い返さないように。なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵視を為さないからです。(18)

 

 [1552]「あるいは、〔迷える〕沙門たちや凡夫たちの、多くの〔悪しき〕言葉を聞いて悩まされたとして」とは、「悩まされたとして」とは、汚されたとして、責められたとして、打たれたとして、誹られたとして、難詰されたとして、批判されたとして。「〔迷える〕沙門たち」とは、彼らが誰であれ、この〔僧団〕より外の者たちで、遍歴遊行〔の生活〕を具した者たちであり、遍歴遊行〔の生活〕に入った者たちである。「凡夫たち」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たち。彼らは、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない多くの言葉で、罵倒するであろう、口撃するであろう、悩ませるであろう、苦しめるであろう、害するであろう、悩害するであろう、傷つけるであろう、悩み苦しめるであろう、傷害するであろう、害障するであろう、害障を為すであろう。彼らの、好ましくなく愛らしくなく意に適わない多くの〔悪しき〕言葉を、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「あるいは、〔迷える〕沙門たちや凡夫たちの、多くの〔悪しき〕言葉を聞いて悩まされたとして」。

 

 [1553]「彼らに、粗暴な〔言葉〕で言い返さないように」とは、「粗暴な〔言葉〕で」とは、粗暴な〔言葉〕で、粗剛な〔言葉〕で、言い返すべきではなく、話し返すべきではなく、罵倒している者に罵倒し返すべきではなく、悩ましている者に悩まし返すべきではなく、言い争いしている者に言い争い返すべきではなく、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、紛争と言争と口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「彼らに、粗暴な〔言葉〕で言い返さないように」。

 

 [1554]「なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵視を為さないからです」とは、「正しくある者たち(寂静者)」とは、貪欲が静まったことから、寂静となった者となり、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……略([243]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「正しくある者たち(寂静者)」。「なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵視を為さないからです」とは、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵視を、対峙を、対抗を、対処を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵視を為さないからです」。

 

 [1555]それによって、世尊は言った。

 

 [1556]「あるいは、〔迷える〕沙門たちや凡夫たちの、多くの〔悪しき〕言葉を聞いて悩まされたとして、彼らに、粗暴な〔言葉〕で言い返さないように。なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵視を為さないからです」と。

 

168.

 

 [1557]939.(933) そして、この法(教え)を了知して、比丘は、〔常に正しく〕弁別している者として、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。寂滅〔の境処〕(涅槃)を、「〔真の〕寂静である」と知って、ゴータマの教えにおいて、〔気づきを〕怠らないように。(19)

 

 [1558]「そして、この法(教え)を了知して」とは、「この」とは、告げ知らされたものを、説示されたものを、報知されたものを、確立されたものを、開顕されたものを、区分されたものを、明瞭と為されたものを、明示されたものを、法(教え)を、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、このようにもまた、「そして、この法(教え)を了知して」。さらに、あるいは、そして、正義を、さらに、不正を、そして、道を、さらに、邪道を、そして、罪を有するものを、さらに、罪なきものを、そして、下劣なるものを、さらに、精妙なるものを、そして、黒を、さらに、白を、そして、識者によって難詰されたことを、さらに、識者によって賞賛されたことを、法(教え)を、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、このようにもまた、「そして、この法(教え)を了知して」。さらに、あるいは、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、遮るものなき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道を、諸戒における円満成就を作り為すことを、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていることを、食について量を知ることを、〔眠らずに〕起きていることへの専念を、気づきと正知を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、法(教え)を、了知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、このようにもまた、「そして、この法(教え)を了知して」。

 

 [1559]「比丘は、〔常に正しく〕弁別している者として、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように」とは、「〔常に正しく〕弁別している者として」とは、弁別している者として、精査している者として、比較している者として、推量している者として、分明している者として、明確と為している者として。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、弁別している者として、精査している者として、比較している者として、推量している者として、分明している者として、明確と為している者として。ということで、「比丘は、〔常に正しく〕弁別している者として」。「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に……略([75]参照)……後年期(老年期)に。「気づきある者として」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([30-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「〔怠ることなく〕学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。……略([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり……略([144]参照)……学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「比丘は、〔常に正しく〕弁別している者として、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように」。

 

 [1560]「寂滅〔の境処〕(涅槃)を、『〔真の〕寂静である』と知って」とは、貪欲の寂滅を、「寂静である」と知って、憤怒の……迷妄の……略([49]参照)……一切の善ならざる行作の寂滅を、「寂静である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「寂滅〔の境処〕を、『〔真の〕寂静である』と知って」。

 

 [1561]「ゴータマの教えにおいて、〔気づきを〕怠らないように」とは、ゴータマの教えにおいて、覚者の教えにおいて、勝者の教えにおいて、如来の教えにおいて、天たる方の教えにおいて、阿羅漢の教えにおいて。「〔気づきを〕怠らないように」とは、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者として、常に為す者として、停滞なく為す者として、畏縮なき生活者として、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)として、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)として、〔世に〕存するべきである。「いつ、わたしは、あるいは、〔いまだ〕円満成就なき戒の範疇を円満成就させるのだろう……略([1476]参照)……あるいは、〔いまだ〕円満成就なき禅定の範疇を……智慧の範疇を……解脱の範疇を……解脱の知見の範疇を……。「いつ、わたしは、あるいは、〔いまだ〕遍知されていない苦痛を遍知するのだろう、あるいは、〔いまだ〕捨棄されていない諸々の〔心の〕汚れを捨棄するのだろう、あるいは、〔いまだ〕修行されていない道を修行するのだろう、あるいは、〔いまだ〕実証されていない止滅を実証するのだろう」と、すなわち、そこにおける、そして、欲〔の思い〕(意欲)、そして、努力、そして、邁進、そして、勤勇、そして、反転なき〔精励〕、そして、気づき、そして、正知であり、諸々の善なる法(性質)における、熱情、精励、〔心の〕確立、専念〔努力〕、不放逸である。ということで、「ゴータマの教えにおいて、〔気づきを〕怠らないように」。

 

 [1562]それによって、世尊は言った。

 

 

 [1563]「そして、この法(教え)を了知して、比丘は、〔常に正しく〕弁別している者として、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。寂滅〔の境処〕(涅槃)を、『〔真の〕寂静である』と知って、ゴータマの教えにおいて、〔気づきを〕怠らないように」と。

 

169.

 

 [1564]940.(934) まさに、彼(ブッダ)は、〔煩悩を〕征服する者、〔煩悩に〕征服されざる者です。伝え聞きではない、実証の法(真理)を、〔彼は〕見ました。まさに、それゆえに、彼の、世尊の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように──かくのごとく、世尊は〔語った〕。(20)

 

 [1565]「まさに、彼(ブッダ)は、〔煩悩を〕征服する者」とは、「〔煩悩を〕征服する者」とは、形態を征服する者、音声を征服する者、臭気を征服する者、味感を征服する者、感触を征服する者、法(意の対象)を征服する者。何であれ、諸々の〔心の〕汚れによって、征服されざる者。それらの、諸々の悪しき善ならざる法(性質)にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものを、〔彼は〕征服した。ということで、「まさに、彼は、〔煩悩を〕征服する者、〔煩悩に〕征服されざる者です」。

 

 [1566]「伝え聞きではない、実証の法(真理)を、〔彼は〕見ました」とは、「実証の法(真理)を」とは、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)を、〔彼は〕見た、〔彼は〕視認した、〔彼は〕観た、〔彼は〕理解した。ということで、「伝え聞きではない、実証の法(真理)を、〔彼は〕見ました」。

 

 [1567]「まさに、それゆえに、彼の、世尊の教えにおいて」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「彼の、世尊の教えにおいて」とは、彼の、世尊の教えにおいて、ゴータマの教えにおいて、覚者の教えにおいて、勝者の教えにおいて、如来の教えにおいて、天たる方の教えにおいて、阿羅漢の教えにおいて。ということで、「まさに、それゆえに、彼の、世尊の教えにおいて」。

 

 [1568]「〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように──かくのごとく、世尊は〔語った〕」とは、「〔気づきを〕怠ることなく」とは、諸々の善なる法(性質)において、真剣に為す者として……略([1476]参照)……不放逸である。「常に」とは、常に、一切時において……略([75]参照)……後年期(老年期)に。「〔彼を〕礼拝しながら」とは、あるいは、身体によって礼拝しながら、あるいは、言葉によって礼拝しながら、あるいは、心によって礼拝しながら、あるいは、義(意味)のままなる実践によって礼拝しながら、あるいは、法(教え)が法(教え)のままなる実践によって、〔彼を〕礼拝しながら、尊敬しながら、尊重しながら、思慕しながら、供養しながら、敬恭しながら。「〔彼に〕学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。……略([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり……略([144]参照)……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる通称であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように──かくのごとく、世尊は〔語った〕」。

 

 [1569]それによって、世尊は言った。

 

 [1570]「まさに、彼(ブッダ)は、〔煩悩を〕征服する者、〔煩悩に〕征服されざる者です。伝え聞きではない、実証の法(真理)を、〔彼は〕見ました。まさに、それゆえに、彼の、世尊の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように」と──かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 

 [1571]迅速の経についての釈示が、第十四となる。

 

1. 15. 自己の棒の経についての釈示

 

 [1572]そこで、自己の棒の経についての釈示を説くであろう。

 

170.

 

 [1573]941.(935) 〔対話者に、世尊は答えた〕──自己の棒(暴力)から、恐怖が生じたのです。見なさい──確執ある人々を。〔まさに、その〕畏怖〔の思い〕を、〔あなたたちに〕述べ伝えましょう──わたしが、〔世の苦しみを〕畏怖した、そのとおりに。(1)

 

 [1574]「自己の棒(暴力)から、恐怖が生じたのです」とは、「棒」とは、三つの棒がある。身体の棒、言葉の棒、意の棒である。三種類の身体による悪しき行ない(殺生・偸盗・邪淫)は、身体の棒である。四種類の言葉による悪しき行ない(虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論)は、言葉の棒である。三種類の意による悪しき行ない(強欲・憎悪の心・誤った見解)は、意の棒である。「恐怖」とは、二つの恐怖がある。(1)そして、所見の法(現法:現世)としての恐怖であり、(2)さらに、未来のものとしての恐怖である。(1)どのようなものが、所見の法(現世)としての恐怖であるのか。ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行なう。命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話す。〔まさに〕その、この者を、〔人々は〕捕捉して、王に見せる。「陛下よ、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ」と。〔まさに〕その、この者を、王は誹謗する。彼は、誹謗の縁あることから、恐怖をもまた生起させ、苦痛と失意を得知する。彼の、この恐怖と苦痛と失意は、何から〔生じたものであるのか〕。自己の棒(暴力)から、生じたものであり、産出したものであり、発現したものであり、結実したものであり、出現したものである。

 

 [1575]これでもなお、王は満足しない。〔まさに〕その、この者を、王は──あるいは、枷の結縛によって、あるいは、縄の結縛によって、あるいは、鎖の結縛によって、あるいは、藤の結縛によって、あるいは、蔓の結縛によって、あるいは、柵の結縛によって、あるいは、遍き柵の結縛によって、あるいは、村の結縛によって、あるいは、町の結縛によって、あるいは、城市の結縛によって、あるいは、国土の結縛によって、あるいは、地方の結縛によって──結縛させる。もしくは、「おまえは、ここから立ち去ることを得ない」と、言い渡しをもまた為す。彼は、結縛の縁あることからもまた、苦痛と失意を得知する。彼の、この恐怖と苦痛と失意は、何から〔生じたものであるのか〕。自己の棒から、生じたものであり、産出したものであり、発現したものであり、結実したものであり、出現したものである。

 

 [1576]これでもなお、王は満足しない。王は、彼の財を──あるいは、百〔金〕を、あるいは、千〔金〕を、あるいは、百千〔金〕を──没収させる。彼は、財の衰退の縁あることからもまた、苦痛と失意を得知する。彼の、この恐怖と苦痛と失意は、何から〔生じたものであるのか〕。自己の棒から、生じたものであり、産出したものであり、発現したものであり、結実したものであり、出現したものである。

 

 [1577]これでもなお、王は満足しない。〔まさに〕その、この者に、王は、様々な種類の行罰刑を執行する。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切る。彼は、行罰刑の縁あることからもまた、苦痛と失意を得知する。彼の、この恐怖と苦痛と失意は、何から〔生じたものであるのか〕。自己の棒から、生じたものであり、産出したものであり、発現したものであり、結実したものであり、出現したものである。王は、これらの四つの棒(刑罰)の権ある者である。

 

 [1578]彼は、自らの行為()によって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生する。〔まさに〕その、この者に、地獄の番人(獄卒)たちは、五種類の結縛という名の行罰刑を執行する。熱せられた鉄杭を手に至らせる。熱せられた鉄杭を第二の手に至らせる。熱せられた鉄杭を足に至らせる。熱せられた鉄杭を第二の足に至らせる。熱せられた鉄杭を胸の中央に至らせる。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受する。しかしながら、すなわち、その悪しき行為(悪業)が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはない(地獄の業苦が続く)。彼の、この恐怖と苦痛と失意は、何から〔生じたものであるのか〕。自己の棒から、生じたものであり、産出したものであり、発現したものであり、結実したものであり、出現したものである。

 

 [1579]〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、横たわらせて、諸々の斧で激打する。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受する。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはない。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、諸々の鉈で激打する。……略……。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、車に結び付けて、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、地面のうえを、行かせもまたし、戻らせもまたする。……。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、大きな炭の山を、登らせもまたし、降ろさせもまたする。……。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、足を上に頭を下に捕捉して、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、熱せられた銅釜のなかに置く。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られる。彼は、そこにおいて、ぐつぐつと煮られながら、一度はまた上に赴き、一度はまた下に赴き、一度はまた横に赴く。彼は、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受する。しかしながら、すなわち、その悪しき行為が終息と成らないあいだは、それまでのあいだ、〔彼が〕命を終えることはない。彼の、この恐怖と苦痛と失意は、何から〔生じたものであるのか〕。自己の棒(暴力)から、生じたものである。〔まさに〕その、この者を、地獄の番人たちは、大地獄のなかに置く。また、まさに、その大地獄は──

 

 [1580]〔そこで、詩偈に言う〕「四つの隅があり、四つの門があり、等分に計量され区分され、鉄柵を極限とし、鉄によって覆い包まれている。

 

 [1581]その〔大地獄〕の鉄製の地面は、燃え盛り、火に充ち、百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)の遍きにわたり充満して、一切時に止住する。

 

 [1582]諸々のおぞましく惨憺たる熱苦があり、諸々の近づき難き火炎があり、そして、諸々の身の毛のよだつ形態があり、諸々の恐ろしさと恐怖と苦痛がある。

 

 [1583]そして(※)、東の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、西〔の壁〕に打ちつける。

 

※ PTS版により ca を補う。

 

 [1584]そして、西の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、東〔の壁〕に打ちつける。

 

 [1585]そして、北の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、南〔の壁〕に打ちつける。

 

 [1586]そして、南の壁に、炎の塊が等しく現起し、悪しき行為ある者たちを焼きながら、北〔の壁〕に打ちつける。

 

 [1587]そして、下から等しく現起して、恐怖させる炎の塊が、悪しき行為ある者たちを焼きながら、天井に打ちつける。

 

 [1588]天井から等しく現起して、恐怖させる炎の塊が、悪しき行為ある者たちを焼きながら、地に打ちつける。

 

 [1589]あたかも、燃え盛り燃え上がる熱せられた鉄鍋のように、このように、下に、上に、脇に、アヴィーチ(阿鼻)地獄はある。

 

 [1590]そこにおいて、有情たちは、大いなる残忍なる者たちとして、大いなる罪障の作り手たちとして、究極の悪しき行為ある者たちとして、煮られ、なおかつ、死ぬことはない。

 

 [1591]地獄の住者たる彼らの身体は、火に等しきものとなる。見よ──諸々の〔為した〕行為の堅固なることを。灰と成ることはなく、煤もまた〔見出され〕ない。

 

 [1592]〔彼らは〕東からもまた走り行き、そののち、西へと走り行く。〔彼らは〕北からもまた走り行き、そののち、南へと走り行く。

 

 [1593]〔彼らは〕それぞれの方角へと走り行くが、それぞれの門は締められる。それらの有情たちは、出ることを願い、解き放ちを探し求めるが──

 

 [1594]行為の縁あることから、彼らは、そこから出ることを得ない。そして、彼らの悪しき行為は、多く為され、〔いまだ〕報いなきものとしてある」と。

 

 [1595]彼の、この恐怖と苦痛と失意は、何から〔生じたものであるのか〕。自己の棒から、生じたものであり、産出したものであり、発現したものであり、結実したものであり、出現したものである。そして、それらが、地獄の苦痛であるなら、そして、それらが、畜生の胎の苦しみであるなら、そして、それらが、餓鬼の境域の苦しみであるなら、そして、それらが、人間の苦しみであるなら、それらは、何から生じたものであり、それらは、何から産出したものであり、それらは、何から発現したものであり、それらは、何から結実したものであり、それらは、何から出現したものであるのか。自己の棒から、生じたものであり、産出したものであり、発現したものであり、結実したものであり、出現したものである。ということで、「自己の棒から、恐怖が生じたのです」。

 

 [1596]「見なさい──確執ある人々を」とは、「人々を」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちを。確執ある人々を、紛争ある人々を、〔他者を〕遮る人々を、〔他者を〕激しく遮る人々を、〔他者を〕打つ人々を、〔他者を〕打破する人々を、〔他者に〕憤懣させられた人々を、〔他者に〕激しく憤懣させられた人々を、見なさい、視認しなさい、注目しなさい、凝視しなさい、近しく注視しなさい。ということで、「見なさい──確執ある人々を」。

 

 [1597]「〔まさに、その〕畏怖〔の思い〕を、〔あなたたちに〕述べ伝えましょう」とは、畏怖〔の思い〕を、戦慄を、恐懼を、恐怖を、逼悩を、打撃を、禍を、災禍を。「〔あなたたちに〕述べ伝えましょう」とは、〔わたしは〕述べ伝えるであろう、〔わたしは〕告げ知らせるであろう、〔わたしは〕説示するであろう、〔わたしは〕報知するであろう、〔わたしは〕確立するであろう、〔わたしは〕開顕するであろう、〔わたしは〕区分するであろう、〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。ということで、「〔まさに、その〕畏怖〔の思い〕を、〔あなたたちに〕述べ伝えましょう」。

 

 [1598]「わたしが、〔世の苦しみを〕畏怖した、そのとおりに」とは、すなわち、わたしによって、まさしく、自己みずから、自己を、畏怖させられたとおりに、戦慄させられたとおりに、畏怖を惹起させられたとおりに。ということで、「わたしが、〔世の苦しみを〕畏怖した、そのとおりに」。

 

 [1599]それによって、世尊は言った。

 

 [1600]〔対話者に、世尊は答えた〕──「自己の棒(暴力)から、恐怖が生じたのです。見なさい──確執ある人々を。〔まさに、その〕畏怖〔の思い〕を、〔あなたたちに〕述べ伝えましょう──わたしが、〔世の苦しみを〕畏怖した、そのとおりに」と。

 

171.

 

 [1601]942.(936) あたかも、水少なきところにいる魚たちのように、〔動揺し〕震えおののいている人々を見て、互いに他の者たちと〔敵対し〕反目する者たちを見て、わたしを、恐怖〔の思い〕が侵しました。(2)

 

 [1602]「〔動揺し〕震えおののいている人々を見て」とは、「人々」とは、有情の同義語である。人々を、渇愛による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、見解による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、〔心の〕汚れによる震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、悪しき行ないによる震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、専念〔努力〕(加行)による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、報い(異熟)による震えおののきによって震えおののいている〔人々〕を、貪欲によって貪る者となり震えおののいている〔人々〕を、憤怒によって怒る者となり震えおののいている〔人々〕を、迷妄によって迷う者となり震えおののいている〔人々〕を、思量によって結縛された者となり震えおののいている〔人々〕を、見解によって偏執した者となり震えおののいている〔人々〕を、高揚によって〔心の〕散乱に至った者となり震えおののいている〔人々〕を、疑惑によって結論なき〔状態〕に至った者(疑惑者)となり震えおののいている〔人々〕を、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)によって強靭に至った者(頑迷固陋の者)となり震えおののいている〔人々〕を、利得によって震えおののいている〔人々〕を、利得なきによって震えおののいている〔人々〕を、盛名によって震えおののいている〔人々〕を、盛名なきによって震えおののいている〔人々〕を、賞賛によって震えおののいている〔人々〕を、非難によって震えおののいている〔人々〕を、安楽によって震えおののいている〔人々〕を、苦痛によって震えおののいている〔人々〕を、生によって震えおののいている〔人々〕を、老によって震えおののいている〔人々〕を、病によって震えおののいている〔人々〕を、死によって震えおののいている〔人々〕を、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤によって震えおののいている〔人々〕を、地獄の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、畜生の胎の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、餓鬼の境域の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、人間の苦しみによって震えおののいている〔人々〕を、入胎を根元とする苦しみによって……胎における止住を根元とする苦しみによって……胎からの出起を根元とする苦しみによって……生まれた者に連結する苦しみによって……生まれた者が他者の配下となる苦しみによって……自己の行動(自害)としての苦しみによって……他者の行動(他害)としての苦しみによって……苦痛の苦しみによって……形成の苦しみによって……変化の苦しみによって……眼の病の苦しみによって……耳の病の苦しみによって……鼻の病の苦しみによって……舌の病の苦しみによって……身の病の苦しみによって……頭の病の苦しみによって……耳(外耳)の病の苦しみによって……口の病の苦しみによって……歯の病の苦しみによって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い(業報)から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみによって……母の死の苦しみによって……父の死の苦しみによって……兄弟の死の苦しみによって……姉妹の死の苦しみによって……子の死の苦しみによって……娘の死の苦しみによって……親族の災厄の苦しみによって……財物の災厄の苦しみによって……病の災厄の苦しみによって……戒の災厄の苦しみによって……見解の災厄の苦しみによって、震えおののいている〔人々〕を、等しく震えおののいている〔人々〕を、もがき震えおののいている〔人々〕を、動揺している〔人々〕を、強く動揺している〔人々〕を、等しく動揺している〔人々〕を。「見て」とは、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「〔動揺し〕震えおののいている人々を見て」。

 

 [1603]「あたかも、水少なきところにいる魚たちのように」とは、あたかも、水が完全に取り払われた水少なきところにいる魚たちが、あるいは、烏たちに、あるいは、鷹たちに、あるいは、鶴たちに、攻撃されつつ、引き揚げられつつ、喰われつつ、震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺するように、まさしく、このように、人々は、渇愛による震えおののきによって震えおののき……略([1602]参照)……見解の災厄の苦しみによって、震えおののき、等しく震えおののき、もがき震えおののき、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「あたかも、水少なきところにいる魚たちのように」。

 

 [1604]「互いに他の者たちと〔敵対し〕反目する者たちを」とは、互いに他の者たちと、有情たちは〔敵対し〕、〔他者を〕遮る者たちとして、〔他者を〕激しく遮る者たちとして、〔他者を〕打つ者たちとして、〔他者を〕打破する者たちとして、〔他者に〕憤懣させられた者たちとして、〔他者に〕激しく憤懣させられた者たちとしてある。王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争する。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃する。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇する〕。ということで、「互いに他の者たちと〔敵対し〕反目する者たちを」。

 

 [1605]「見て、わたしを、恐怖〔の思い〕が侵しました」とは、「見て」とは、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。恐怖が、逼悩が、打撃が、禍が、災禍が、〔わたしを〕侵した。ということで、「見て、わたしを、恐怖〔の思い〕が侵しました」。

 

 [1606]それによって、世尊は言った。

 

 [1607]「あたかも、水少なきところにいる魚たちのように、〔動揺し〕震えおののいている人々を見て、互いに他の者たちと〔敵対し〕反目する者たちを見て、わたしを、恐怖〔の思い〕が侵しました」と。

 

172.

 

 [1608]943.(937) 世は、遍きにわたり、真髄なく〔常住ならざるもの〕。全ての方角は、動揺し〔常住ならざるもの〕。自己の居所を求めつつ、〔苦しみに〕取り憑かれていないところを、〔ついに〕見ませんでした。(3)

 

 [1609]「世は、遍きにわたり、真髄なく〔常住ならざるもの〕」とは、「世」とは、地獄の世、畜生の胎の世、餓鬼の境域の世、人間の世、天の世、〔五つの〕範疇の世、〔十八の〕界域の世、〔十二の認識の〕場所の世、この世、他の世、梵の世、天の世。これが、世と説かれる。地獄の世は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。畜生の胎の世は……。餓鬼の境域の世は……。人間の世は……。天の世は……。〔五つの〕範疇の世は……。〔十八の〕界域の世は……。〔十二の認識の〕場所の世は……。この世は……。他の世は……。梵の世は……。天の世は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。

 

 [1610]また、たとえば、葦が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、エーランダ(伊蘭)が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、ウドゥンバラ(無曇華)が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、セータ(白花)の薮が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、パーリバッダカ〔樹〕が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、泡沫の団塊が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、水泡が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、陽炎が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、芭蕉の幹が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、たとえば、幻想が、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものであるように、まさしく、このように、地獄の世は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。

 

 [1611]畜生の胎の世は……。餓鬼の境域の世は……。人間の世は……。天の世は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。〔五つの〕範疇の世は……。〔十八の〕界域の世は……。〔十二の認識の〕場所の世は……。この世は……。他の世は……。梵の世は……。天の世は、真髄なきものであり、真髄ならざるものであり、真髄を離れ去ったものである──あるいは、常住の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、安楽の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、自己の真髄という真髄〔の観点〕によって、あるいは、常住なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常恒なるもの〔の観点〕によって、あるいは、常久なるもの〔の観点〕によって、あるいは、変化なき法(性質)〔の観点〕によって。

 

 [1612]「全ての方角は、動揺し〔常住ならざるもの〕」とは、それらが、東方にある諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)であるなら、それらもまた、無常なることによって、揺らぎ、等しく揺らぎ、揺れ動き、対立し、生によって随行され、老によって添着され、病によって征服され、死によって侵攻され、苦しみのうちに確立し、救護所ならず、避難所ならず、帰依所ならず、帰依所なく有るものとなる。それらが、西方にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、北方にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、南方にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、東維にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、西維にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、北維にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、南維にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、下方にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、上方にある諸々の形成〔作用〕であるなら……。それらが、十方にある諸々の形成〔作用〕であるなら、それらもまた、無常なることによって、揺らぎ、等しく揺らぎ、揺れ動き、対立し、生によって随行され、老によって添着され、病によって征服され、死によって侵攻され、苦しみのうちに確立し、救護所ならず、避難所ならず、帰依所ならず、帰依所なく有るものとなる。そして、このこともまた語られた。

 

 [1613]〔そこで、詩偈に言う〕「さてまた、たとえ、何であれ、この宮殿が、北方において、〔周囲を〕照らしながら光り輝くとして、形態のうちに、相克を見て、常に動揺を〔見て〕、それゆえに、思慮深き者は、形態を喜ばない。

 

 [1614]死魔によって、世〔の人々〕は侵されている。老によって、〔世の人々は〕取り囲まれている。渇愛の矢によって、〔世の人々は〕貫かれている。欲求のために、〔世の人々は〕常に燻(いぶ)られている。

 

 [1615]一切の世は、燃えている。一切の世は、燻(くすぶ)っている。一切の世は、燃え盛っている。一切の世は、揺れ動いている」〔と〕。ということで──

 

 [1616]「全ての方角は、動揺し〔常住ならざるもの〕」。

 

 [1617]「自己の居所を求めつつ」とは、自己の、居所を、救護所を、避難所を、帰依所を、赴く所を、行き着く所を、欲求しつつ、愛用しつつ、切望しつつ、熱望しつつ、渇望しつつ。ということで、「自己の居所を求めつつ」。「〔苦しみに〕取り憑かれていないところを、〔ついに〕見ませんでした」とは、固執されたものだけを、〔わたしは〕見た。固執されていないものを、〔わたしは〕見なかった。一切の若さは、老によって取り憑かれ、一切の無病は、病によって取り憑かれ、一切の生命は、死によって取り憑かれ、一切の利得は、利得なきによって取り憑かれ、一切の盛名は、盛名なきによって取り憑かれ、一切の賞賛は、非難によって取り憑かれ、一切の安楽は、苦痛によって取り憑かれている。

 

 [1618]〔そこで、詩偈に言う〕「利得と利得なきも、かつまた、盛名と盛名なきも、かつまた、非難と賞賛も、かつまた、安楽と苦痛も──人間たちにおける、これらの法(事象)は、常住ではなく、常久ではなく、変化の法(性質)である」〔と〕。ということで──

 

 [1619]「〔苦しみに〕取り憑かれていないところを、〔ついに〕見ませんでした」。

 

 [1620]それによって、世尊は言った。

 

 [1621]「世は、遍きにわたり、真髄なく〔常住ならざるもの〕。全ての方角は、動揺し〔常住ならざるもの〕。自己の居所を求めつつ、〔苦しみに〕取り憑かれていないところを、〔ついに〕見ませんでした」と。

 

173.

 

 [1622]944.(938) まさしく、しかし、最後には反目する者たちを見て、わたしに、満たされない〔思い〕が有りました。そこで、ここにおいて、〔わたしは〕矢を見ました──心臓(心)に依拠する、〔凡夫には〕見難き〔矢〕を。(4)

 

 [1623]「まさしく、しかし、最後には反目する者たちを」とは、「まさしく、しかし、最後には」とは、一切の若さを、老は終結させ、一切の無病を、病は終結させ、一切の生命を、死は終結させ、一切の利得を、利得なきは終結させ、一切の盛名を、盛名なきは終結させ、一切の賞賛を、非難は終結させ、一切の安楽を、苦痛は終結させる。ということで、「まさしく、しかし、最後には」。「反目する者たちを」とは、若さを欲する有情たちは、老によって激しく遮られ、無病を欲する有情たちは、病によって激しく遮られ、生命を欲する有情たちは、死によって激しく遮られ、利得を欲する有情たちは、利得なきによって激しく遮られ、盛名を欲する有情たちは、盛名なきによって激しく遮られ、賞賛を欲する有情たちは、非難によって激しく遮られ、安楽を欲する有情たちは、苦痛によって、激しく遮られ、打たれ、打破され、憤懣させられ、激しく憤懣させられている。ということで、「まさしく、しかし、最後には反目する者たちを」。

 

 [1624]「見て、わたしに、満たされない〔思い〕が有りました」とは、「見て」とは、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「見て」。「わたしに、満たされない〔思い〕が」とは、すなわち、不満〔の思い〕が、すなわち、歓楽なき〔思い〕が、すなわち、歓楽しないことが、すなわち、嫌悪することが、すなわち、恐慌することが、〔わたしに〕有った。ということで、「見て、わたしに、満たされない〔思い〕が有りました」。

 

 [1625]「そこで、ここにおいて、〔わたしは〕矢を見ました」とは、「そこで」とは、句の連鎖……略([554]参照)……また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「ここにおいて」とは、有情たちにおいて。「矢」とは、七つの矢がある。貪欲の矢、憤怒の矢、迷妄の矢、思量の矢、見解の矢、憂いの矢、懐疑の矢である。「見ました」とは、〔わたしは〕見た、〔わたしは〕視認した、〔わたしは〕観た、〔わたしは〕理解した。ということで、「そこで、ここにおいて、〔わたしは〕矢を見ました」。

 

 [1626]「心臓(心)に依拠する、〔凡夫には〕見難き〔矢〕を」とは、「見難き」とは、見難き、視認し難き、観難き、覚り難き、随覚し難き、理解し難き。ということで、「見難き」。「心臓に依拠する」とは、心臓は、心と説かれる。すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。「心臓に依拠する」とは、心臓に依拠するもの、心に依るもの、心に依拠するもの、心と、共具したもの、共に生じたもの、交わり合ったもの、結び付いたもの、一なる生起あるもの、一なる止滅あるもの、一なる基盤あるもの、一なる対象あるもの。ということで、「心臓に依拠する、〔凡夫には〕見難き〔矢〕を」。

 

 [1627]それによって、世尊は言った。

 

 [1628]「まさしく、しかし、最後には反目する者たちを見て、わたしに、満たされない〔思い〕が有りました。そこで、ここにおいて、〔わたしは〕矢を見ました──心臓(心)に依拠する、〔凡夫には〕見難き〔矢〕を」と。

 

174.

 

 [1629]945.(939) その矢に貫かれた者は、全ての方角に走ります。まさしく、その矢を引き抜いて、〔貪りの思いで〕走らず、〔欲の激流に〕沈みません。(5)

 

 [1630]「その矢に貫かれた者は、全ての方角に走ります」とは、「矢」とは、七つの矢がある。(1)貪欲の矢、(2)憤怒の矢、(3)迷妄の矢、(4)思量の矢、(5)見解の矢、(6)憂いの矢、(7)懐疑の矢である。(1)どのようなものが、貪欲の矢であるのか。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染、随貪、共感、愉悦、愉悦への貪欲、心の貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。これが、貪欲の矢である。

 

 [1631](2)どのようなものが、憤怒の矢であるのか。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった」と、憤懣は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう」と、憤懣は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう」と、憤懣は生じる。……略([811]参照)……狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、憤怒の矢である。

 

 [1632](3)どのようなものが、迷妄の矢であるのか。苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知、過去の極(前際:過去の種々相)についての無知、未来の極(後際:未来の種々相)についての無知、過去と未来の極についての無知、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)についての無知。すなわち、このような形態の、無見、知悉(現観)なき、随覚なき、正覚なき、理解(通達)なき、包摂なき、深解なき、正観なき、綿密の注視なき、綿密の注視の行為なき、浅き思慮、愚かさ、迷妄、強き迷妄、等しき迷妄、無明、無明の激流、無明の束縛、無明の悪習、無明の妄執、無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元である。これが、迷妄の矢である。

 

 [1633](4)どのようなものが、思量の矢であるのか。「わたしは、勝る者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、等しい者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、劣る者として〔世に〕存している」という思量がある。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、思量の矢である。

 

 [1634](5)どのようなものが、見解の矢であるのか。二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)──すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の矢である。

 

 [1635](6)どのようなものが、憂いの矢であるのか。あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、内なる焼悩、内なる遍き焼悩、心の遍き焼尽、失意である。これが、憂いの矢である。

 

 [1636](7)どのようなものが、懐疑の矢であるのか。苦しみについての疑い、苦しみの集起についての疑い、苦しみの止滅についての疑い、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての疑い、過去の極(前際:過去の種々相)についての疑い、未来の極(後際:未来の種々相)についての疑い、過去と未来の極についての疑い、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)と縁によって生起した諸法(縁已生法:縁によって生み出された物事)についての疑いがあり、すなわち、このような形態の、疑い、疑うこと、疑いあること、疑問、疑惑、二種なること、二種の道、疑念、多様の収取、躊躇、逡巡、深解なき、心の驚愕、意の散乱である。これが、懐疑の矢である。

 

 [1637]「その矢に貫かれた者は、全ての方角に走ります」とは、(1)貪欲の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行なう。命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話す。このようにもまた、貪欲の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、走り、走り行き、流転し、輪廻する。さらに、あるいは、貪欲の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、諸々の財物を遍く探し求めつつ、船で大海に乗り入れるとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつ、ティグンバ〔国〕へと赴き、タッコーラ〔国〕へと赴き、タッカシーラ〔国〕へと赴き、カーラムカ〔国〕へと赴き、プラプーラ〔国〕へと赴き、ヴェースンガ〔国〕へと赴き、ヴェーラーパタ〔国〕へと赴き、ジャヴァ〔国〕へと赴き、ターマリ〔国〕へと赴き、ヴァンガ〔国〕へと赴き、エーラバンダナ〔国〕へと赴き、スヴァンナクータ〔国〕へと赴き、スヴァンナブーミ〔国〕へと赴き、タンバパンニ〔国〕へと赴き、スッパーダカ〔国〕へと赴き、バールカッチャ〔国〕へと赴き、スラッタ〔国〕へと赴き、バンガローカ〔国〕へと赴き、バンガナ〔国〕へと赴き、パラマバンガナ〔国〕へと赴き、ヨーナ〔国〕へと赴き、パラマヨーナ〔国〕へと赴き、ヴィナカ〔国〕へと赴き、ムーラパダ〔国〕へと赴き、マルカンターラ〔国〕へと赴き、膝行の道を赴き、山羊の道を赴き、羊の道を赴き、杭の道を赴き、傘の道を赴き、竹の道を赴き、鳥の道を赴き、鼠の道を赴き、洞窟の道を赴き、杖で歩むところを赴く。〔財物を〕遍く探し求めつつ〔ついに〕得ず、利得なき〔状態〕を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。〔財物を〕遍く探し求めつつ〔ついに〕得るとして、利得あることから、守護を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。「どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか」と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物は破滅する。彼は、別離を根元とする苦痛と失意をもまた得知する。このようにもまた、貪欲の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、走り、走り行き、流転し、輪廻する。

 

 [1638](2)憤怒の矢に……。(3)迷妄の矢に……。(4)思量の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行なう。命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話す。このようにもまた、思量の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、走り、走り行き、流転し、輪廻する。

 

 [1639](5)見解の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、「幸いなる者よ、来たまえ」〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、「幸いなる者よ、止まりたまえ」〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けない。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲まない。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口の者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口の者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住む。このようにもまた、見解の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、走り、走り行き、流転し、輪廻する。

 

 [1640]さらに、あるいは、見解の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、胡麻を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食料とする者として、落ちた果を食料とする者として、〔身を〕保ち行く。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の皮衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせる者ともまた成り、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住む。坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者と成り、棘のうえに臥す臥所を営み、延べ板の臥所をもまた営み、野の臥所をもまた営み、片脇で臥す者と成り、塵や埃を〔身に〕付ける者と〔成り〕、野外にある者ともまた成り、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者と〔成り〕、汚物を食べることへの専念〔努力〕に専念する汚物行者ともまた成り、不飲を為すことに専念する不飲行者ともまた成り、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住む。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住む。このようにもまた、見解の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、走り、走り行き、流転し、輪廻する。

 

 [1641](6)憂いの矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起する。まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [1642]「婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティー(舎衛城)において、或るひとりの女の母が、命を終えました。彼女は、その〔母〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと、近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの母を見ましたか。さてまた、わたしの母を見ましたか』と。

 

 [1643]婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女の父が、命を終えました。……兄弟が、命を終えました。……姉妹が、命を終えました。……子が、命を終えました。……娘が、命を終えました。……夫が、命を終えました。彼女は、その〔夫〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと、近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの夫を見ましたか。さてまた、わたしの夫を見ましたか』と。

 

 [1644]婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの男の母が、命を終えました。彼は、その〔母〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと、近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの母を見ましたか。さてまた、わたしの母を見ましたか』と。

 

 [1645]婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの男の父が、命を終えました。……兄弟が、命を終えました。……姉妹が、命を終えました。……子が、命を終えました。……娘が、命を終えました。……妻が、命を終えました。彼は、その〔妻〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと、近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの妻を見ましたか。さてまた、わたしの妻を見ましたか』と。

 

 [1646]婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女が、親族の家に赴きました。彼女の、それらの親族たちは、〔彼女から〕夫を引き離して、〔彼女を〕他の者に与えることを欲しています。しかしながら、彼女は、それを求めません。そこで、まさに、その女は、夫に、こう言いました。『旦那さま、これらの親族たちは、わたしを、あなたから引き離して、他の者に与えることを欲しています。わたしたちは、両者ともに死ぬのです』と。そこで、まさに、その男は、その女を二様に断ち切って、自己を殺めました。『両者ともに、死してのち、〔一緒に〕成るのだ』」と。このように、憂いの矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、走り、走り行き、流転し、輪廻する。

 

 [1647](7)懐疑の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、疑念に跳入した者と成り、疑問に跳入した者と〔成り〕、二様のものが生じた者と〔成る〕。「過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか」「過去の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあったのか」「過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有ったのか」「過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有ったのか」「過去の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか」「未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有るのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあるのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有るのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有るのだろうか」「未来の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか」〔と〕。あるいは、今現在、現在の時(現在世)に、内に懐疑ある者と成る。「いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか」「いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか」「いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか」「いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか」「いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか」「彼は、どこに赴く者と成るのだろうか」と。このように、懐疑の矢に、貫かれ、刺し貫かれ、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者は、走り、走り行き、流転し、輪廻する。

 

 [1648]〔彼は〕それらの〔七つの〕矢を行作する。それらの〔七つの〕矢を行作している者は、矢の行作を所以に、東方へと走り、西方へと走り、北方へと走り、南方へと走る。〔彼の〕それらの〔七つの〕矢の行作は〔いまだ〕捨棄されず、〔七つの〕矢の行作が〔いまだ〕捨棄されていないことから、〔未来の〕境遇において走る。地獄において走り、畜生の胎において走り、餓鬼の境域において走り、人間の世において走り、天の世において走る。境遇から境遇へと、再生から再生へと、結生から結生へと、生存から生存へと、輪廻から輪廻へと、転起から転起へと、走り、走り行き、流転し、輪廻する。ということで、「その矢に貫かれた者は、全ての方角に走ります」。

 

 [1649]「まさしく、その矢を引き抜いて、〔貪りの思いで〕走らず、〔欲の激流に〕沈みません」とは、まさしく、その、貪欲の矢を、憤怒の矢を、迷妄の矢を、思量の矢を、見解の矢を、憂いの矢を、懐疑の矢を、抜いて、引き抜いて、取り出して、等しく取り出して、摘出して、等しく摘出して、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、まさしく、東方へと走らず、西方へと走らず、北方へと走らず、南方へと走らない。〔彼の〕それらの〔七つの〕矢の行作は〔すでに〕捨棄され、〔それらの〕行作が〔すでに〕捨棄されたことから、〔未来の〕境遇において走らない。地獄において走らず、畜生の胎において走らず、餓鬼の境域において走らず、人間の世において走らず、天の世において走らない。境遇から境遇へと〔走ら〕ず、再生から再生へと〔走ら〕ず、結生から結生へと〔走ら〕ず、生存から生存へと〔走ら〕ず、輪廻から輪廻へと〔走ら〕ず、転起から転起へと、走ら〔ず〕、走り行か〔ず〕、流転せ〔ず〕、輪廻しない。ということで、「まさしく、その矢を引き抜いて、〔貪りの思いで〕走らず」。「〔欲の激流に〕沈みません」とは、欲望の激流に沈まず、生存の激流に沈まず、見解の激流に沈まず、無明の激流に、沈まず、等しく沈まず、沈み行かず、落ち沈まず、行かず、落ち行かない。ということで、「〔欲の激流に〕沈みません」。

 

 [1650]それによって、世尊は言った。

 

 [1651]「その矢に貫かれた者は、全ての方角に走ります。まさしく、その矢を引き抜いて、〔貪りの思いで〕走らず、〔欲の激流に〕沈みません」と。

 

175.

 

 [1652]946.(940) そこにおいて、諸々の学び(学芸)が随説されるも、それらが、世において、諸々の拘束されたもの(執着の対象)としてあるなら、それらを追い求める者として存さないように。諸々の欲望〔の対象〕を、全てにわたり〔あるがままに〕洞察して、自己の涅槃を学ぶように。(6)

 

 [1653]「そこにおいて、諸々の学び(学芸)が随説されるも、それらが、世において、諸々の拘束されたもの(執着の対象)としてあるなら」とは、「諸々の学び」とは、象の学び、馬の学び、車の学び、弓の学び、眼科、外科、身体の医術(内科)、憑霊(精神科)、小児科。「随説されるも」とは、誦説され、唱説され、言説され、発語され、提示され、語用される。さらに、あるいは、諸々の拘束されたものの獲得のために、誦説され、収取され、執持され、保持され、近しく保持され、近しく観られる。諸々の拘束されたものは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)と説かれる。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものである。何を契機とすることから、諸々の拘束されたものは、五つの欲望の属性と説かれるのか。多くのところとして、天〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の属性を、欲求し、愛用し、切望し、熱望し、渇望する。それを契機とすることから、諸々の拘束されたものは、五つの欲望の属性と説かれる。「世において」とは、人間の世において。ということで、「そこにおいて、諸々の学びが随説されるも、それらが、世において、諸々の拘束されたものとしてあるなら」。

 

 [1654]「それらを追い求める者として存さないように」とは、あるいは、それらの学びについて、あるいは、五つの欲望の属性について、追い求める者として〔世に〕存するべきではなく、それに向かい行く者として〔世に〕存するべきではなく、それに傾倒する者として〔世に存するべきでは〕なく、それに傾斜する者として〔世に存するべきでは〕なく、それを信念した者として〔世に存するべきでは〕なく、それを優位とする者として〔世に存するべきでは〕ない。ということで、「それらを追い求める者として存さないように」。

 

 [1655]「諸々の欲望〔の対象〕を、全てにわたり〔あるがままに〕洞察して」とは、「〔あるがままに〕洞察して」とは、〔あるがままに〕理解して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と理解して……。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と理解して……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と理解して。「全てにわたり」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「全てにわたり」ということになる。「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。ということで、「諸々の欲望〔の対象〕を、全てにわたり〔あるがままに〕洞察して」。

 

 [1656]「自己の涅槃を学ぶように」とは、「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。……略([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「自己の涅槃を」とは、自己の、貪欲の寂滅のために、憤怒の寂滅のために、迷妄の寂滅のために……略([49]参照)……一切の善ならざる行作の、静まりのために、寂静のために、寂止のために、寂滅のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきであり、これらの三つの学び(三学:戒・禅定・智慧)を、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として学ぶべきであり……略([144]参照)……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「自己の涅槃を学ぶように」。

 

 [1657]それによって、世尊は言った。

 

 [1658]「そこにおいて、諸々の学び(学芸)が随説されるも、それらが、世において、諸々の拘束されたもの(執着の対象)としてあるなら、それらを追い求める者として存さないように。諸々の欲望〔の対象〕を、全てにわたり〔あるがままに〕洞察して、自己の涅槃を学ぶように」と。

 

176.

 

 [1659]947.(941) 真理の者として存するように。尊大ならず、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕から遠ざかった者として〔存するように〕。忿激しない者となり、貪欲〔の思い〕という悪を、物欲〔の思い〕(物惜の心)を、牟尼として超え渡るように。(7)

 

 [1660]「真理の者として存するように。尊大ならず」とは、「真理の者として存するように」とは、真理の言葉を具備した者として〔世に〕存するべきであり、正しい見解を具備した者として〔世に〕存するべきであり、聖なる八つの支分ある道を具備した者として〔世に〕存するべきである。ということで、「真理の者として存するように」。「尊大ならず」とは、三つの尊大がある。(1)身体の属性としての尊大、(2)言葉の属性としての尊大、(3)心の属性としての尊大である。……略([841-853]参照)……。これが、心の属性としての尊大である。彼の、これらの三つの尊大が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、尊大ならざる者と説かれる。ということで、「真理の者として存するように。尊大ならず」。

 

 [1661]「幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕から遠ざかった者として〔存するように〕」とは、幻惑は、騙しの性行と説かれる。ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、それを隠蔽することを因として、悪しき欲求を作為する。「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と求め、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と思惟し、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と言葉を語り、「〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と身体によって勤しむ。すなわち、このような形態の、幻惑、幻惑者たること、誇大、騙すこと、欺き、偽善、欺瞞、秘匿、遍き秘匿、隠蔽、遍き隠蔽、明瞭ならざる行為、公然ならざる行為、隠匿、悪行である。これが、幻惑と説かれる。彼の、この幻惑〔の策略〕が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、幻惑〔の策略〕なき者と説かれる。「中傷〔の思い〕から遠ざかった者として〔存するように〕」とは、「中傷〔の思い〕」とは、ここに、一部の者は、中傷の言葉ある者として〔世に〕有る。……略([856]参照)……このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕に近しく集中する。彼の、この中傷〔の思い〕が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、中傷〔の思い〕から遠ざかった者、中傷〔の思い〕から離れた者、中傷〔の思い〕から遠離した者、と説かれる。ということで、「幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕から遠ざかった者として〔存するように〕」。

 

 [1662]「忿激しない者となり、貪欲〔の思い〕という悪を、物欲〔の思い〕(物惜の心)を、牟尼として超え渡るように」とは、まさに、「忿激しない者」と、まさに、説かれたが、しかしながら、また、まずは、忿激が説かれるべきである。十の行相によって、忿激は生じる。「〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。……略([811-812]参照)……。彼の、この忿激が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、忿激しない者と説かれる。忿激が捨棄されたことから、忿激しない者となり、忿激の基盤(根拠)が遍知されたことから、忿激しない者となり、忿激の因が断絶されたことから、忿激しない者となる。「貪欲〔の思い〕」とは、すなわち、貪欲(ローバ)、貪欲すること、貪欲あること……略([1508]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。物欲〔の思い〕は、五つの物惜と説かれる。居住の物惜……略([133]参照)……収取である。〔これが〕物惜と説かれる。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。「忿激しない者となり、貪欲〔の思い〕という悪を、物欲〔の思い〕を、牟尼として超え渡るように」とは、牟尼は、そして、貪欲〔の思い〕という悪を、さらに、物欲〔の思い〕を、超え渡った、超え上がった、超え登った、等しく超越した、超克した。ということで、「忿激しない者となり、貪欲〔の思い〕という悪を、物欲〔の思い〕を、牟尼として超え渡るように」。

 

 [1663]それによって、世尊は言った。

 

 [1664]「真理の者として存するように。尊大ならず、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕から遠ざかった者として〔存するように〕。忿激しない者となり、貪欲〔の思い〕という悪を、物欲〔の思い〕(物惜の心)を、牟尼として超え渡るように。

 

177.

 

 [1665]948.(942) 眠気と倦怠と〔心の〕沈滞(昏沈)を打ち負かすように。怠り(放逸)と共に住まないように。涅槃の意ある人となり、高慢〔の思い〕に止住しないように。(8)

 

 [1666]「眠気と倦怠と〔心の〕沈滞(昏沈)を打ち負かすように」とは、「眠気」とは、すなわち、身体の、健全ならざること、行為に適合しないこと、閉塞、遍き閉塞、内に籠ること、眠気、眠り、居眠り、眠り、眠ること、眠りあることである。「倦怠」とは、すなわち、倦怠、倦怠すること、倦怠あること、倦怠の意たること、怠け、怠けること、怠けあることである。「〔心の〕沈滞」とは、すなわち、心の、健全ならざること、行為に適合しないこと、沈み込むこと、等しく畏縮すること、心の、畏縮、畏縮すること、畏縮あること、沈滞、沈滞すること、沈滞あることである。「眠気と倦怠と〔心の〕沈滞を打ち負かすように」とは、そして、眠気を、かつまた、倦怠を、さらに、〔心の〕沈滞を、打ち負かすがよい、打ち負かすべきであり、遍く打ち負かすべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「眠気と倦怠と〔心の〕沈滞を打ち負かすように」。

 

 [1667]「怠り(放逸)と共に住まないように」とは、怠りは、あるいは、身体による悪しき行ないについて、あるいは、言葉による悪しき行ないについて、あるいは、意による悪しき行ないについて、あるいは、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)について、説かれるべきものであり、心の、放縦、あるいは、放縦により〔善を〕生起させないこと、あるいは、諸々の善なる法(性質)のための修行において、真剣に為さないこと、常に為さないこと、停滞なく為さないこと、畏縮した生活あること、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置いたこと、重荷(責任)を捨て置いたこと、習修しないこと、修行しないこと、多き行為なきこと、〔心の〕確立なきこと、専念〔努力〕なきこと、怠りである。すなわち、このような形態の、怠り、怠ること、怠りあることである。これが、怠りと説かれる。「怠りと共に住まないように」とは、怠りとともに、住するべきではなく、共に住するべきではなく、固く住するべきではなく、遍く住するべきではなく、怠りを、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、怠りから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「怠りと共に住まないように」。

 

 [1668]「高慢〔の思い〕に止住しないように」とは、「高慢」とは、ここに、一部の者は、他者を軽んじる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、高慢と説かれる。「高慢〔の思い〕に止住しないように」とは、高慢〔の思い〕に、止住するべきではなく、確立するべきではなく、高慢〔の思い〕を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、高慢〔の思い〕から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「高慢〔の思い〕に止住しないように」。

 

 [1669]「涅槃の意ある人となり」とは、ここに、一部の者は、布施を施しつつ、戒を受持しつつ、斎戒(布薩)の行為を為しつつ、飲用水と洗浄水を奉仕しつつ、僧房を掃除しつつ、塔廟を敬拝しつつ、塔廟に香料と花飾を献上しつつ、塔廟に右回り〔の礼〕を為しつつ、それが何であれ、三つの界域(三界)のもので、善なる行作であるなら、〔それを〕行作しつつ、境遇の因なく、再生の因なく、結生の因なく、生存の因なく、輪廻の因なく、転起の因なく、束縛を離れることを優位とする者として、涅槃に向かい行く者として、涅槃に傾倒する者として、涅槃に傾斜する者として、その全てを行作する。このようにもまた、「涅槃の意ある人となり」。さらに、あるいは、一切の形成〔作用〕の界域から、心を放ち去って、不死なる界域にたいし、心を近しく集中する。「これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である」と。このようにもまた、「涅槃の意ある人となり」。

 

 [1670]〔そこで、詩偈に言う〕「賢者たちは、〔生存の〕依り所の安楽を因として、さらなる生存のために、諸々の布施を施すのではない。しかしながら、むしろ、彼らは、〔生存の〕依り所の完全なる滅尽のために、さらなる生存なきために、諸々の布施を施す。

 

 [1671]賢者たちは、〔生存の〕依り所の安楽を因として、さらなる生存のために、諸々の瞑想を修行するのではない。しかしながら、むしろ、彼らは、〔生存の〕依り所の完全なる滅尽のために、さらなる生存なきために、諸々の瞑想を修行する。

 

 [1672]彼らは、寂滅〔の境処〕を願望する〔心〕で〔布施を〕施す。それに心が向かい行く者たちであり、それを信念した者たちである。たとえば、諸々の川が、海洋の中へと近しく至るように、涅槃を行き着く所とする者たちとして、彼らは〔世に〕有る」〔と〕。ということで──

 

 [1673]「涅槃の意ある人となり」。それによって、世尊は言った。

 

 [1674]「眠気と倦怠と〔心の〕沈滞(昏沈)を打ち負かすように。怠り(放逸)と共に住まないように。涅槃の意ある人となり、高慢〔の思い〕に止住しないように」と。

 

178.

 

 [1675]949.(943) 虚偽の言葉に導かれないように。形態にたいし愛執〔の思い〕を為さないように。そして、〔我想の〕思量を遍く知るように。無理強い〔の性行〕から離れた者となり、〔世を〕歩むように。(9)

 

 [1676]「虚偽の言葉に導かれないように」とは、虚偽の言葉は、虚偽を説くことと説かれる。ここに、一部の者は、あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、「さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け」と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、「知る」と言い、あるいは、知っているのに、「知らない」と言い、あるいは、見ていないのに、「見る」と言い、あるいは、見ているのに、「見ない」と言う。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者と成る。これが、虚偽の言葉と説かれる。さらに、また、三つの行相によって……略([557]参照)……四つの行相によって……五つの行相によって……六つの行相によって……七つの行相によって……八つの行相によって……略([557]参照)……。これらの八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。「虚偽の言葉に導かれないように」とは、虚偽の言葉に、行くべきではなく、導かれるべきではなく、運ばれるべきではなく、集められるべきではなく、虚偽の言葉を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、虚偽の言葉から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「虚偽の言葉に導かれないように」。

 

 [1677]「形態にたいし愛執〔の思い〕を為さないように」とは、「形態」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。「形態にたいし愛執〔の思い〕を為さないように」とは、形態にたいし、愛執〔の思い〕を為すべきではなく、欲〔の思い〕を為すべきではなく、愛情を為すべきではなく、貪欲を、為すべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。ということで、「形態にたいし愛執〔の思い〕を為さないように」。

 

 [1678]「そして、〔我想の〕思量を遍く知るように」とは、「思量」とは、一種類としての、思量がある。すなわち、心の傲慢である。二種類としての、思量がある。自己を賞揚する思量、他者を蔑視する思量である。三種類としての、思量がある。「わたしは、〔他者に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、「わたしは、〔他者に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。四種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、安楽によって思量を生じさせる。五種類としての、思量がある。「〔わたしは〕諸々の意に適う形態の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせ、「〔わたしは〕諸々の意に適う音声の……略……「〔わたしは〕諸々の意に適う臭気の……「〔わたしは〕諸々の意に適う味感の……「〔わたしは〕諸々の意に適う感触の得者として〔世に〕存している」と、思量を生じさせる。六種類としての、思量がある。眼の成就(具足)によって思量を生じさせ、耳の成就によって……鼻の成就によって……舌の成就によって……身の成就によって……意の成就によって思量を生じさせる。七種類としての、思量がある。思量、高慢、思量と高慢、卑下慢、増上慢、我慢(自我意識)、邪慢である。八種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、利得なきによって卑下慢を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、盛名なきによって卑下慢を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、非難によって卑下慢を生じさせ、安楽によって思量を生じさせ、苦痛によって卑下慢を生じさせる。九種類としての、思量がある。勝る者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼に〕勝る者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼と〕等しい者として〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、〔彼に〕劣る者として〔世に〕存している」という思量である。十種類としての、思量がある。ここに、一部の者は、思量を生じさせる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕旗、横柄、心が〔高慢の〕幟を欲することである。これが、思量と説かれる。

 

 [1679]「そして、〔我想の〕思量を遍く知るように」とは、〔我想の〕思量を、三つの遍知によって──(1)所知の遍知によって、(2)推量の遍知によって、(3)捨棄の遍知によって──遍く知るべきである。(1)どのようなものが、所知の遍知であるのか。〔彼は〕思量を知る。「この、一種類としての、思量がある。すなわち、心の傲慢である」「この、二種類としての、思量がある。自己を賞揚する思量であり、他者を蔑視する思量である」……略……「この、十種類としての、思量がある。ここに、一部の者は、思量を生じさせる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって」と、〔あるがままに〕知り、〔あるがままに〕見る。これが、所知の遍知である。

 

 [1680](2)どのようなものが、推量の遍知であるのか。このように所知を為して、〔彼は〕思量を推量する。無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から……略([190]参照)……出離〔の観点〕から、〔彼は〕推量する。これが、推量の遍知である。

 

 [1681](3)どのようなものが、捨棄の遍知であるのか。このように推量して、〔彼は〕思量を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。これが、捨棄の遍知である。「そして、〔我想の〕思量を遍く知るように」とは、〔我想の〕思量を、これらの三つの遍知によって遍く知るべきである。ということで、「そして、〔我想の〕思量を遍く知るように」。

 

 [1682]「無理強い〔の性行〕から離れた者となり、〔世を〕歩むように」とは、どのようなものが、無理強いの性行であるのか。貪る者の、貪欲の性行は、無理強いの性行である。怒る者の、憤怒の性行は、無理強いの性行である。迷う者の、迷妄の性行は、無理強いの性行である。結縛された者の、思量の性行は、無理強いの性行である。偏執した者の、見解の性行は、無理強いの性行である。〔心の〕散乱に至った者の、〔心の〕高揚の性行は、無理強いの性行である。結論なき〔状態〕に至った者の、疑惑の性行は、無理強いの性行である。強靭に至った者の、悪習の性行は、無理強いの性行である。これが、無理強いの性行である。「無理強い〔の性行〕から離れた者となり、〔世を〕歩むように」とは、無理強いの性行から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきであり、〔世を〕歩むべきであり、〔世を〕行じ歩むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、〔身を〕守るべきであり、〔身を〕保つべきであり、〔身を〕保ち行くべきである。ということで、「無理強い〔の性行〕から離れた者となり、〔世を〕歩むように」。

 

 [1683]それによって、世尊は言った。

 

 [1684]「虚偽の言葉に導かれないように。形態にたいし愛執〔の思い〕を為さないように。そして、〔我想の〕思量を遍く知るように。無理強い〔の性行〕から離れた者となり、〔世を〕歩むように」と。

 

179.

 

 [1685]950.(944) 古いものを喜ばないように。新しいものにたいし愛着〔の思い〕を為さないように。失われつつあるものについて憂い悲しまないように。惹き付けるもの(渇愛の思い)に依存する者として存さないように。(10)

 

 [1686]「古いものを喜ばないように」とは、古いものは、諸々の過去の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕と説かれる。諸々の過去の形成〔作用〕を、渇愛を所以に、見解を所以に、愉悦するべきではなく、迎合するべきではなく、固執するべきではなく、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「古いものを喜ばないように」。

 

 [1687]「新しいものにたいし愛着〔の思い〕を為さないように」とは、新しいものは、諸々の現在の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕と説かれる。諸々の現在の形成〔作用〕を、渇愛を所以に、見解を所以に、愛着〔の思い〕を為すべきではなく、欲〔の思い〕を為すべきではなく、愛情を為すべきではなく、貪欲を、為すべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。ということで、「新しいものにたいし愛着〔の思い〕を為さないように」。

 

 [1688]「失われつつあるものについて憂い悲しまないように」とは、失われつつあるものについて、失われ行きつつあるものについて、遍く失われ行きつつあるものについて、衰失しつつあるものについて、離れ去りつつあるものについて、消没しつつあるものについて、憂い悲しむべきではなく、疲弊するべきではなく、嘆き悲しむべきではなく、胸を打ち泣き叫ぶべきではなく、等しき迷妄を惹起するべきではない。眼が、失われつつあるとき、失われ行きつつあるとき、遍く失われ行きつつあるとき、衰失しつつあるとき、離れ去りつつあるとき、消没しつつあるとき、耳が……略……鼻が……舌が……身が……諸々の形態が……音声が……臭気が……味感が……感触が……家が……衆徒が……居住が……利得が……盛名が……賞賛が……安楽が……衣料が……〔行乞の〕施食が……臥坐具が……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が、失われつつあるとき、失われ行きつつあるとき、遍く失われ行きつつあるとき、衰失しつつあるとき、離れ去りつつあるとき、消没しつつあるとき、憂い悲しむべきではなく、疲弊するべきではなく、嘆き悲しむべきではなく、胸を打ち泣き叫ぶべきではなく、等しき迷妄を惹起するべきではない。ということで、「失われつつあるものについて憂い悲しまないように」。

 

 [1689]「惹き付けるもの(渇愛の思い)に依存する者として存さないように」とは、惹き付けるものは、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。何を契機とすることから、惹き付けるものは、渇愛と説かれるのか。すなわち、渇愛によって、形態を、引き寄せ、等しく引き寄せ、収取し、偏執し、固着し、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、引き寄せ、等しく引き寄せ、収取し、偏執し、固着する。それを契機とすることから、惹き付けるものは、渇愛と説かれる。「惹き付けるものに依存する者として存さないように」とは、渇愛に依存する者として〔世に〕存するべきではなく、渇愛を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、渇愛から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「惹き付けるものに依存する者として存さないように」。

 

 [1690]それによって、世尊は言った。

 

 [1691]「古いものを喜ばないように。新しいものにたいし愛着〔の思い〕を為さないように。失われつつあるものについて憂い悲しまないように。惹き付けるもの(渇愛の思い)に依存する者として存さないように」と。

 

180.

 

 [1692]951.(945) 〔わたしは〕貪欲〔の思い〕を、「大いなる激流」と説きます。〔欲望の〕奔流を、渇望〔の思い〕を、〔「大いなる激流」と〕説きます。〔欲望の〕対象(所縁:欲望の対象として想い描かれた認識対象)を、〔対象の〕妄想(遍計:認識対象を欲望の対象として想い描く心の働き)を、「超え難き欲望の汚泥」〔と説きます〕。(11)

 

 [1693]「〔わたしは〕貪求〔の思い〕を、『大いなる激流』と説きます」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。大いなる激流は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「〔わたしは〕貪求〔の思い〕を、『大いなる激流』と説きます」とは、貪求を、「大いなる激流」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「〔わたしは〕貪求〔の思い〕を、『大いなる激流』と説きます」。

 

 [1694]「〔欲望の〕奔流を、渇望〔の思い〕を、〔『大いなる激流』と〕説きます」とは、〔欲望の〕奔流は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。渇望〔の思い〕もまた、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。「〔欲望の〕奔流を、渇望〔の思い〕を、〔『大いなる激流』と〕説きます」とは、〔欲望の〕奔流を、「渇望〔の思い〕」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる、〔わたしは〕説示する、〔わたしは〕報知する、〔わたしは〕確立する、〔わたしは〕開顕する、〔わたしは〕区分する、〔わたしは〕明瞭と為す、〔わたしは〕明示する。ということで、「〔欲望の〕奔流を、渇望〔の思い〕を、〔『大いなる激流』と〕説きます」。

 

 [1695]「〔欲望の〕対象(所縁)を、〔対象の〕妄想(遍計)を」とは、〔欲望の〕対象もまた、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。〔対象の〕妄想もまた、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。ということで、「〔欲望の〕対象を、〔対象の〕妄想を」。

 

 [1696]「『超え難き欲望の汚泥』〔と説きます〕」とは、超え難く、超え行き難く、超え渡り難く、超え登り難く、等しく超越し難く、超克し難い、欲望の汚泥、欲望の泥土、欲望の汚れ、欲望の泥沼、欲望の障害。ということで、「『超え難き欲望の汚泥』〔と説きます〕」。

 

 [1697]それによって、世尊は言った。

 

 [1698]「〔わたしは〕貪求〔の思い〕を、『大いなる激流』と説きます。〔欲望の〕奔流を、渇望〔の思い〕を、〔『大いなる激流』と〕説きます。〔欲望の〕対象(所縁:欲望の対象として想い描かれた認識対象)を、〔対象の〕妄想(遍計:認識対象を欲望の対象として想い描く心の働き)を、『超え難き欲望の汚泥』〔と説きます〕」と。

 

181.

 

 [1699]952.(946) 牟尼は、真理から外れずして、〔真の〕婆羅門は、陸地に立ちます。彼は、一切を放棄して、彼は、まさに、「寂静者」と説かれます。(12)

 

 [1700]「牟尼は、真理から外れずして」とは、真理の言葉から外れずにいる者、正しい見解から外れずにいる者、聖なる八つの支分ある道から外れずにいる者。「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。ということで、「牟尼は、真理から外れずして」。

 

 [1701]「〔真の〕婆羅門は、陸地に立ちます」とは、陸地は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「婆羅門(ブラーフマナ)」とは、七つの法(性質)が拒否された(バーヒタ)ことから、婆羅門となる。……略([299-300]参照)……〔何にも〕依存しない、如なる者──彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます」〔と〕。「〔真の〕婆羅門は、陸地に立ちます」とは、陸地に立ち、洲に立ち、救護所に立ち、避難所に立ち、帰依所に立ち、恐怖なきところに立ち、死滅なきところに立ち、不死なるところに立ち、涅槃に立つ。ということで、「〔真の〕婆羅門は、陸地に立ちます」。

 

 [1702]「彼は、一切を放棄して」とは、一切は、十二の〔認識の〕場所と説かれる。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態であり……略([488]参照)……まさしく、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象)である。すなわち、内なると外なる〔認識の〕場所にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことからもまた、一切は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものと成る。すなわち、かつまた、渇愛も、かつまた、見解も、かつまた、思量も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことからもまた、一切は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものと成る。すなわち、かつまた、功徳ある行作(善果を形成する働き)も、かつまた、功徳なき行作(悪果を形成する働き)も、かつまた、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことからもまた、一切は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものと成る。ということで、「彼は、一切を放棄して」。

 

 [1703]「彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」とは、「〔心が〕静まった者」「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「安息した者」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。ということで、「彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」。

 

 [1704]それによって、世尊は言った。

 

 [1705]「牟尼は、真理から外れずして、〔真の〕婆羅門は、陸地に立ちます。彼は、一切を放棄して、彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」と。

 

182.

 

 [1706]953.(947) 彼は、まさに、知ある者です。彼は、〔真の〕知に至る者です。法(真理)を知って、依存なき者となります。彼は、世において、正しく振る舞う者です。この〔世において〕、誰をも羨みません。(13)

 

 [1707]「彼は、まさに、知ある者です。彼は、〔真の〕知に至る者です」とは、「知ある者」とは、知ある者、明知に至った者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「〔真の〕知に至る者」とは、知は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵……略([779-780]参照)……一切の感受(ヴェーダナー)について貪欲を離れた者──彼は、一切の知を超え行って、『〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)』〔と呼ばれます〕」〔と〕。ということで、「彼は、まさに、知ある者です。彼は、〔真の〕知に至る者です」。

 

 [1708]「法(真理)を知って、依存なき者となります」とは、「知って」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「依存なき者となります」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の依所である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の依所である。渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存しない者として……耳に依存しない者として……鼻に依存しない者として……略([904]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「法(真理)を知って、依存なき者となります」。

 

 [1709]「彼は、世において、正しく振る舞う者です」とは、すなわち、内なると外なる〔認識の〕場所にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことからもまた、彼は、世において、正しく、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。すなわち、かつまた、渇愛も、かつまた、見解も、かつまた、思量も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことからもまた、彼は、世において、正しく、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。すなわち、かつまた、功徳ある行作(善果を形成する働き)も、かつまた、功徳なき行作(悪果を形成する働き)も、かつまた、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことからもまた、彼は、世において、正しく、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。ということで、「彼は、世において、正しく振る舞う者です」。

 

 [1710]「この〔世において〕、誰をも羨みません」とは、羨望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この羨望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、誰をも羨まない──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。ということで、「この〔世において〕、誰をも羨みません」。

 

 [1711]それによって、世尊は言った。

 

 [1712]「彼は、まさに、知ある者です。彼は、〔真の〕知に至る者です。法(真理)を知って、依存なき者となります。彼は、世において、正しく振る舞う者です。この〔世において〕、誰をも羨みません」と。

 

183.

 

 [1713]954.(948) 彼は、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を超え渡ったのであり、世における超え難き執着〔の思い〕を〔超え渡ったのであり〕、彼は、〔もはや〕憂い悲しまず、悩みません──〔渇愛の〕流れを断ち切った、結縛なき者となり。(14)

 

 [1714]「彼は、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を超え渡ったのであり、世における超え難き執着〔の思い〕を〔超え渡ったのであり〕」とは、「彼は」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位に至り得た者として、或る法(性質)を具備した者として──あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕であれ、あるいは、人間であれ。「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。(1)そして、諸々の事物の欲望であり、(2)さらに、諸々の〔心の〕汚れの欲望である。(1)……略([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。(2)……略([5-6]参照)……。これらが、諸々の〔心の〕汚れの欲望と説かれる。「執着〔の思い〕」とは、七つの執着がある。貪欲の執着、憤怒の執着、迷妄の執着、思量の執着、見解の執着、〔心の〕汚れの執着、悪しき行ないの執着である。「世における」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕範疇の世において、〔十八の〕界域の世において、〔十二の認識の〕場所の世において。「世における超え難き執着〔の思い〕を〔超え渡ったのであり〕」とは、彼が、そして、諸々の欲望〔の対象〕を、さらに、世における、超え難く、超え行き難く、超え渡り難く、超え登り難く、等しく超越し難く、超克し難い、諸々の執着〔の思い〕を、超え渡ったなら、超え上がったなら、超え登ったなら、等しく超越したなら、超克したなら。ということで、「彼は、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を超え渡ったのであり、世における超え難き執着〔の思い〕を〔超え渡ったのであり〕」。

 

 [1715]「彼は、〔もはや〕憂い悲しまず、悩みません」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化したのだ」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭気が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの盛名が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕施食が……「わたしの臥坐具が……「わたしの病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化したのだ」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、「憂い悲しまず」。「悩みません」とは、悩まない、悩まず、近しく尋思せず、尋思せず、強く尋思しない。さらに、あるいは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない。ということで、「悩みません」。ということで、「彼は、〔もはや〕憂い悲しまず、悩みません」。

 

 [1716]「〔渇愛の〕流れを断ち切った、結縛なき者となり」とは、流れは、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この流れとしての渇愛が、捨棄され、断絶され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたなら、彼は、〔渇愛の〕流れを断った者と説かれる。「結縛なき者となり」とは、貪欲の結縛、憤怒の結縛、迷妄の結縛、思量の結縛、見解の結縛、〔心の〕汚れの結縛、悪しき行ないの結縛がある。彼の、これらの結縛が、捨棄され、断絶され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたなら、彼は、結縛なき者と説かれる。ということで、「〔渇愛の〕流れを断ち切った、結縛なき者となり」。

 

 [1717]それによって、世尊は言った。

 

 [1718]「彼は、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を超え渡ったのであり、世における超え難き執着〔の思い〕を〔超え渡ったのであり〕、彼は、〔もはや〕憂い悲しまず、悩みません──〔渇愛の〕流れを断ち切った、結縛なき者となり」と。

 

184.

 

 [1719]955.(949) それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来において、あなたには、何も有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう。(15)

 

 [1720]「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい」とは、諸々の過去の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)を対象として、それらの〔心の〕汚れ(煩悩)が生起するなら、それらの〔心の〕汚れを、干しなさい、干上がらせなさい、乾かしなさい、乾燥させなさい、種なきものと為しなさい、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、このようにもまた、「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい」。さらに、あるいは、それらが、諸々の過去の行為()の行作(現行)にして〔いまだ〕報い(異熟)が熟していないものであるなら、それらの行為の行作を、干しなさい、干上がらせなさい、乾かしなさい、乾燥させなさい、種なきものと為しなさい、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、このようにもまた、「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい」。

 

 [1721]「未来において、あなたには、何も有ってはなりません」とは、未来において(パッチャー)は、未来に(アナーガタン)と説かれる。諸々の未来の形成〔作用〕を対象として、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕汚れの所有、悪しき行ないの所有が、それらのものが生起するなら、あなたに、これらの所有が、有ってはならない、〔それを〕作り為してはならない、生じさせてはならない、産出させてはならない、発現させてはならない、結実させてはならない、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、「未来において、あなたには、何も有ってはなりません」。

 

 [1722]「もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら」とは、中間は、諸々の現在の形態と感受〔作用〕と表象〔作用〕と諸々の形成〔作用〕と識知〔作用〕と説かれる。諸々の現在の形成〔作用〕を、渇愛を所以に、見解を所以に、〔あなたが〕収め取らないなら、〔あなたが〕執持しないなら、〔あなたが〕収取しないなら、〔あなたが〕偏執しないなら、〔あなたが〕愉悦しないなら、〔あなたが〕迎合しないなら、〔あなたが〕固執しないなら、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、〔あなたが〕捨棄するなら、〔あなたが〕除去するなら、〔あなたが〕終息を為すなら、〔あなたが〕状態なきへと至らせるなら。ということで、「もし、〔その〕中間において、〔何も〕収め取らないなら」。

 

 [1723]「〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」とは、貪欲が、静まったことから、静められたことから、寂静となったことから、憤怒が、静まったことから、静められたことから、寂静となったことから……略([243]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂静となったことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となり、〔世を〕歩むであろう、〔世に〕住むであろう、振る舞うであろう、行持するであろう、〔身を〕守るであろう、〔身を〕保つであろう、〔身を〕保ち行くであろう。ということで、「〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」。

 

 [1724]それによって、世尊は言った。

 

 [1725]「それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来において、あなたには、何も有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何も〕収め取らないなら、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」と。

 

185.

 

 [1726]956.(950) 彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:心と身体)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら、そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず、彼は、まさに、世において、〔何も〕失いません。(16)

 

 [1727]「彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:心と身体)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら」とは、「全てにあまねく」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「全てにあまねく」ということになる。「名前」とは、四つの形態なき範疇(受・想・行・識)。「形態」とは、そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「わがものと〔錯視〕されたもの(ママーイタ)」とは、二つの我執(ママッタ)がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。「彼に、全てにあまねく、名前と形態について、わがものと〔錯視〕されたものが存在しないなら」とは、彼に、全てにあまねく、名前と形態について、わがものと〔錯視〕されたものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、全てにあまねく、名前と形態について、わがものと〔錯視〕されたものが存在しないなら」。

 

 [1728]「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化したのだ」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭気が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの盛名が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕施食が……「わたしの臥坐具が……「わたしの病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化したのだ」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」。

 

 [1729]さらに、あるいは、〔実体として〕存在していない苦痛の感受によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」。さらに、あるいは、眼の病によって、襲われ、打ち負かされ……略([934]参照)……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」。さらに、あるいは、存在していないときに、等しく見出されていないときに、認知されていないときに、「まさに、わたしに、〔それは〕有ったが、まさに、わたしに、それは存在しない。まさに、わたしに、〔それは〕存在するべきであるが、まさに、わたしは、それを得ない」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず」。

 

 [1730]「彼は、まさに、世において、〔何も〕失いません」とは、彼に、あるいは、「これは、わたしのものである」〔と〕、あるいは、「これは、他者たちのものである」と、何であれ、形態の在り方をしたもので、感受〔作用〕の在り方をしたもので、表象〔作用〕の在り方をしたもので、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもので、識知〔作用〕の在り方をしたもので、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが存在するなら、彼に、衰退が存在する。

 

 [1731]まさに、このこともまた語られた。

 

 [1732]〔菩薩に、侵略者の王が尋ねた〕「車と馬を、さらに、諸々の宝珠の耳飾も、失ったのです。そして、子たちを、さらに、妻たちも、まさしく、そのように、失ったのです。一切の財物が、残りなく〔消失したとき〕、何ゆえに、憂いの時において、〔あなたは〕熱苦しないのですか」〔と〕。

 

 [1733]〔菩薩は答えた〕「まさしく、〔死の〕前に、諸々の財物が、死すべき者(人間)を捨棄する。あるいは、それより前に、死すべき者が、それらを捨棄する。欲するままに欲する者(王)よ、財物ある者たちは、常久ならず。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない。

 

 [1734]月は、満ち行き、円満し、滅し去る。日は、〔闇を〕滅却に据え置いて、去り行く。賊(王)よ、世の諸法(事物)は、わたしによって、〔あるがままに〕知られた。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない」と。

 

 [1735]彼に、あるいは、「これは、わたしのものである」〔と〕、あるいは、「これは、他者たちのものである」と、何であれ、形態の在り方をしたもので、感受〔作用〕の在り方をしたもので、表象〔作用〕の在り方をしたもので、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもので、識知〔作用〕の在り方をしたもので、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが存在しないなら、彼に、衰退は存在しない。まさに、このこともまた語られた。「〔天子が尋ねた〕『沙門よ、〔あなたは〕愉悦しますか』と。〔世尊は答えた〕『友よ、何を得たというのでしょう』と。〔天子が尋ねた〕『沙門よ、まさに、それでは、〔あなたは〕憂悲しますか』と。〔世尊は答えた〕『友よ、何を失ったというのでしょう』と。〔天子が尋ねた〕『沙門よ、まさに、それでは、まさしく、愉悦することもなく、憂悲することもないのですか』と。〔世尊は答えた〕『友よ、そのとおりです』と。

 

 [1736]〔そこで、詩偈に言う〕『長きのはてに、まさに、〔わたしたちは〕見る──完全なる涅槃に到達した〔真の〕婆羅門(ブッダ)を──愉悦なく、煩悶なき比丘を──世における執着を超え渡った方を』」〔と〕。ということで──

 

 [1737]「彼は、まさに、世において、〔何も〕失いません」。それによって、世尊は言った。

 

 [1738]「彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:心と身体)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら、そして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや〕憂い悲しまず、彼は、まさに、世において、〔何も〕失いません」と。

 

186.

 

 [1739]957.(951) 彼に、「これは、わたしのものである」という〔思いが〕、あるいは、また、「他者たちのものである」〔という思いが〕、何も存在しないなら、彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見出すことなく、「わたしには、〔何も〕存在しない」と憂い悲しみません。(17)

 

 [1740]「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。彼に、あるいは、「これは、わたしのものである」〔と〕、あるいは、「これは、他者たちのものである」と、何であれ、形態の在り方をしたもので、感受〔作用〕の在り方をしたもので、表象〔作用〕の在り方をしたもので、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたもので、識知〔作用〕の在り方をしたもので、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。

 

 [1741]まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、この身体は、あなたたちのものではありません。他者たちのものでもまたありません。比丘たちよ、これは、古い行為(旧業)〔が結果したもの〕であり、行作されたものとして、行思されたものとして、感受されるべきであり、見られるべきです。比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)がある。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)がある。感受という縁あることから、渇愛()がある。渇愛という縁あることから、執取()がある。執取という縁あることから、生存()がある。生存という縁あることから、生()がある。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。

 

 [1742]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 

 [1743]〔そこで、詩偈に言う〕「モーガラージャンよ、常に気づきある者として、世〔のあり様〕を『空である』と注視しなさい。自己についての偏った見解を取り去って、このように、死魔〔の領域〕を超え渡る者として存するのです。このように、世〔のあり様〕を注視している者を、死魔の王は見ません」と。

 

 [1744]このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。

 

 [1745]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、それを、どのように思いますか。すなわち、このジェータ林にある草や薪や枝や葉を、それを、人が、あるいは、運び去るとして、あるいは、焼くとして、あるいは、縁のままに為すとして、さて、いったい、あなたたちに、このような〔思いが〕存するでしょうか。『わたしたちを、人が、あるいは、運び去り、あるいは、焼き、あるいは、縁のままに為す』」と。〔比丘たちは答えた〕「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、わたしたちの、あるいは、自己でも、あるいは、自己に属するものでも、ないからです」と。〔世尊は言った〕「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、あなたたちのものでないなら、それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。比丘たちよ、では、何が、あなたたちのものでないのですか。比丘たちよ、形態は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。感受〔作用〕は……。表象〔作用〕は……。諸々の形成〔作用〕は……。識知〔作用〕は、あなたたちのものではありません。それを捨棄しなさい。それは、捨棄されたなら、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。まさに、このこともまた語られた。

 

 [1746]〔そこで、詩偈に言う〕「単なる法(事象)の生起を、単なる形成〔作用〕の相続を、事実のとおりに見ている者に、頭目よ、恐怖は有ることなくある。

 

 [1747]世〔のあり様〕を、草や薪に等しきものと、智慧によって見る、そのとき、結生なきもの(涅槃)より他に、何であれ、他のものを望み求めない」と。

 

 [1748]このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。ヴァジラー比丘尼は、悪魔パーピマントに、こう言った。

 

 [1749]〔そこで、詩偈に言う〕「いったい、どうして、『有情』と信受するのか。悪魔よ、まさに、おまえには、悪しき見解がある。これは、単なる形成〔作用〕(:生の輪廻を施設し造作する働き)の集まりである。ここに、有情は認められない。

 

 [1750]まさに、たとえば、部品の集合あることから、『車』という声(名称)が有るように、このように、〔五つの心身を構成する〕範疇が存しているとき、『有情』という〔言葉の〕慣習(世俗:社会通念)が有る。

 

 [1751]まさに、苦しみだけが発生する。苦しみが止住し、そして、衰失する。苦しみより他に、〔何も〕発生しない。苦しみより他に、〔何も〕止滅しない」と。

 

 [1752]このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [1753]「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、およそ、形態に赴く所があるかぎり、形態を正しく調査し……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……およそ、識知〔作用〕に赴く所があるかぎり、識知〔作用〕を正しく調査します。彼が、およそ、形態に赴く所があるかぎり、形態を正しく調査していると……感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……およそ、識知〔作用〕に赴く所があるかぎり、識知〔作用〕を正しく調査していると、すなわち、また、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』と、彼に有る、その〔思い〕は、それもまた、彼には有りません」と。このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。

 

 [1754]尊者アーナンダが、世尊に、こう言った。「尊き方よ、『空である世』『空である世』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、『空である世』と説かれるのですか」と。〔世尊は答えた〕「アーナンダよ、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます。アーナンダよ、では、何が、空なのですか──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、まさに、眼は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。諸々の形態は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の識知〔作用〕は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。眼の接触は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。耳は、空です……。諸々の音声は、空です……。鼻は、空です……。諸々の臭気は、空です……。舌は、空です……。諸々の味感は、空です……。身は、空です……。諸々の感触は、空です……。意は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。諸々の法(意の対象)は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。意の識知〔作用〕は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。意の接触は、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。すなわち、また、この、意の接触という縁あることから生起する、感受されたものであるなら、あるいは、安楽も、あるいは、苦痛も、あるいは、苦でもなく楽でもないものも、それもまた、空です──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって。アーナンダよ、すなわち、まさに、空であることから──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって──それゆえに、『空である世』と説かれます」と。このようにもまた、「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら」。

 

 [1755]「彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見出すことなく」とは、「我執(わがもの)」とは、二つの我執がある。(1)そして、渇愛の我執であり、(2)さらに、見解の我執である。(1)……略([179]参照)……これが、渇愛の我執である。(2)……略([180]参照)……これが、見解の我執である。渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、我執〔の思い〕を、見出さずにいる者は、等しく見出さずにいる者は、到達せずにいる者は、獲得せずにいる者は。ということで、「彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見出すことなく」。

 

 [1756]「『わたしには、〔何も〕存在しない』と憂い悲しみません」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化したのだ」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……略([826]参照)……「わたしの血縁たちが、変化したのだ」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、「『わたしには、〔何も〕存在しない』と憂い悲しみません」。

 

 [1757]それによって、世尊は言った。

 

 [1758]「彼に、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいは、また、『他者たちのものである』〔という思いが〕、何も存在しないなら、彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見出すことなく、『わたしには、〔何も〕存在しない』と憂い悲しみません」と。

 

187.

 

 [1759]958.(952) 嫉視なく、貪求なく、動揺なく、〔一切にたいし〕一切所に等しくあります。〔心が〕動かない者のことを尋ねられたなら、それを、福利として、〔わたしは〕説きます。(18)

 

 [1760]「嫉視なく、貪求なく、動揺なく、〔一切にたいし〕一切所に等しくあります」とは、どのようなものが、嫉視であるのか。ここに、一部の者は、嫉視ある者として〔世に〕有る。他者たちの諸々の利得と尊敬と尊重と敬慕と敬拝と供養にたいし、嫉妬し、妬み、嫉妬を結ぶ。すなわち、このような形態の、嫉視、嫉視の行為、嫉妬、嫉妬すること、嫉妬あること、妬み、妬むこと、妬みあることである。これが、嫉視と説かれる。彼の、この嫉視が、捨棄され、断絶され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたなら、彼は、嫉視なき者と説かれる。ということで、「嫉視なく」(※)。「貪求なく」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求なき者と説かれる。彼は、形態にたいし貪求なき者として、音声にたいし……略([927]参照)……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住む。ということで、「嫉視なく、貪求なく」。

 

※ テキストには so vuccati aniṭṭhurīti とあるが、PTS版により so vuccati aniṭṭhurī ti, aniṭṭhurī と読む。

 

 [1761]「動揺なく、〔一切にたいし〕一切所に等しくあります」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この動揺としての渇愛が、捨棄され、断絶され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたなら、彼は、動揺なき者と説かれる。動揺が〔すでに〕捨棄されたことから、動揺なき者。彼は、利得にたいしてもまた、動じず、利得なきにたいしてもまた、動じず、盛名にたいしてもまた、動じず、盛名なきにたいしてもまた、動じず、賞賛にたいしてもまた、動じず、非難にたいしてもまた、動じず、安楽にたいしてもまた、動じず、苦痛にたいしてもまた、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「動揺なく」。「〔一切にたいし〕一切所に等しくあります」とは、一切は、十二の〔認識の〕場所と説かれる。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態であり……略([488]参照)……まさしく、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象)である。すなわち、内なると外なる〔認識の〕場所にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、彼は、〔一切にたいし〕一切所に等しくある者と説かれる。彼は、一切所において如なる者であり、一切所において中なる者であり、一切所において放捨の者である。ということで、「動揺なく、〔一切にたいし〕一切所に等しくあります」。

 

 [1762]「〔心が〕動かない者のことを尋ねられたなら、それを、福利として、〔わたしは〕説きます」とは、〔心が〕動かない人のことを、尋ねられた者として、問われた者として、乞い求められた者として、要請された者として、浄信された者として、これらの四つの福利を、〔わたしは〕説く。すなわち、彼は、「嫉視なき者である」「貪求なき者である」「動揺なき者である」「〔一切にたいし〕一切所に等しくある者である」と、〔わたしは〕説く、〔わたしは〕告げ知らせる……略([1014]参照)……〔わたしは〕明示する。ということで、「〔心が〕動かない者のことを尋ねられたなら、それを、福利として、〔わたしは〕説きます」。

 

 [1763]それによって、世尊は言った。

 

 [1764]「嫉視なく、貪求なく、動揺なく、〔一切にたいし〕一切所に等しくあります。〔心が〕動かない者のことを尋ねられたなら、それを、福利として、〔わたしは〕説きます」と。

 

188.

 

 [1765]959.(953) 〔心に〕動揺なく、〔あるがままに〕識知している者に、作為〔の思い〕は、何であれ、存在しません。〔作為の〕勉励から離れた彼は、一切所に平安を見ます。(19)

 

 [1766]「〔心に〕動揺なく、〔あるがままに〕識知している者に」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ)、貪染……略([28]参照)……強欲、貪欲(ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この動揺としての渇愛が、捨棄され、断絶され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたなら、彼は、動揺なき者と説かれる。動揺が〔すでに〕捨棄されたことから、動揺なき者。彼は、利得にたいしてもまた、動じず、利得なきにたいしてもまた、動じず、盛名にたいしてもまた、動じず、盛名なきにたいしてもまた、動じず、賞賛にたいしてもまた、動じず、非難にたいしてもまた、動じず、安楽にたいしてもまた、動じず、苦痛にたいしてもまた、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「〔心に〕動揺なく」。「〔あるがままに〕識知している者に」とは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕了知している者に、〔あるがままに〕識知している者に、〔あるがままに〕解知している者に、〔あるがままに〕理解している者に。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕了知している者に、〔あるがままに〕識知している者に、〔あるがままに〕解知している者に、〔あるがままに〕理解している者に。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である」と……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕了知している者に、〔あるがままに〕識知している者に、〔あるがままに〕解知している者に、〔あるがままに〕理解している者に。ということで、「〔心に〕動揺なく、〔あるがままに〕識知している者に」。

 

 [1767]「作為〔の思い〕は、何であれ、存在しません」とは、作為は、功徳の行作、功徳なき行作、不動の行作(無色界の禅定を形成する働き)、と説かれる。すなわち、かつまた、功徳ある行作も、かつまた、功徳なき行作も、かつまた、不動の行作も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、諸々の作為は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「作為〔の思い〕は、何であれ、存在しません」。

 

 [1768]「〔作為の〕勉励から離れた彼は」とは、勉励は、功徳ある行作、功徳なき行作、不動の行作、と説かれる。すなわち、かつまた、功徳ある行作も、かつまた、功徳なき行作も、かつまた、不動の行作も、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ることから、このことから、励むことから、勉励から、離れた者として(※)、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「〔作為の〕勉励から離れた彼は」。

 

※ テキストには ārato assa とあるが、PTS版により ārato と読む。

 

 [1769]「一切所に平安を見ます」とは、恐怖の作り手は、貪欲であり、恐怖の作り手は、憤怒であり、恐怖の作り手は、迷妄であり……略……恐怖の作り手は、諸々の〔心の〕汚れである。恐怖の作り手たる貪欲が捨棄されたことから……略……恐怖の作り手たる諸々の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、一切所において平安を見る、一切所において恐怖なきを見る、一切所において疾患なきを見る、一切所において禍なきを見る、一切所において災禍なきを見る、一切所において迫害なきを見る。ということで、「一切所に平安を見ます」。

 

 [1770]それによって、世尊は言った。

 

 [1771]「〔心に〕動揺なく、〔あるがままに〕識知している者に、作為〔の思い〕は、何であれ、存在しません。〔作為の〕勉励から離れた彼は、一切所に平安を見ます」と。

 

189.

 

 [1772]960.(954) 牟尼は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。彼は、寂静なる者です。物惜〔の思い〕を離れた者です。〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません──かくのごとく、世尊は〔語った〕。(20)

 

 [1773]「牟尼は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。増長している者たちのなかで〔論を〕説きません」とは、「牟尼(ムニ)」とは、沈黙(モーナ)は、知恵と説かれる。……略([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕」〔と〕。あるいは、「わたしは、勝る者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、同等の者として〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、劣る者として〔世に〕存している」と、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「牟尼は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。増長している者たちのなかで〔論を〕説きません」。

 

 [1774]「彼は、寂静なる者です。物惜〔の思い〕を離れた者です」とは、「寂静なる者です」とは、貪欲が、静まったことから、静められたことから、寂静となった者となり、憤怒が……略……迷妄が……略([243]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「彼は、寂静なる者です」。「物惜〔の思い〕を離れた者です」とは、五つの物惜がある。居住の物惜……略([133]参照)……収取である。〔これが〕物惜と説かれる。彼の、この物惜が、捨棄され、断絶され……略([191]参照)……知恵の火によって焼かれたなら、彼は、物惜〔の思い〕を離れた者、物惜〔の思い〕を離れ去った者、物惜〔の思い〕を捨て去った者、物惜〔の思い〕を吐き捨てた者、物惜〔の思い〕を解き放った者、物惜〔の思い〕を捨棄した者、物惜〔の思い〕を放棄した者、と説かれる。ということで、「彼は、寂静なる者です。物惜〔の思い〕を離れた者です」。

 

 [1775]「〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません──かくのごとく、世尊は〔語った〕」とは、「〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず」とは、形態を、取らず、執取せず、収取せず、偏執せず、固着せず、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取らず、執取せず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず」。「〔排除の対象として〕放棄しません」とは、形態を、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らせず、感受〔作用〕を……表象〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らせない。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。……略([524]参照)……〔その〕実証となる通称であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません──かくのごとく、世尊は〔語った〕」。

 

 [1776]それによって、世尊は言った。

 

 [1777]「牟尼は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。彼は、寂静なる者です。物惜〔の思い〕を離れた者です。〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません」と──かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 

 [1778]自己の棒の経についての釈示が、第十五となる。

 

1. 16. サーリプッタの経についての釈示

 

 [1779]そこで、サーリプッタの経についての釈示を説くであろう。

 

190.

 

 [1780]961.(955) かくのごとく、尊者サーリプッタが〔尋ねた〕──これより過去において、わたしには見たことがなく、あるいは、誰にも聞いたことがありません──このように、麗しき論者にして〔世の〕教師たる方(ブッダ)は、兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は。(1)

 

 [1781]「これより過去において、わたしには見たことがなく」とは、これより過去において、わたしにとって、わたしによって、過去において見られたことがない──彼は、世尊は、この眼によって、この自己状態(個我的あり方・身体)として。そのとき、世尊は、三十三〔天〕の居所において、パーリッチャッタカ〔樹〕の根元にあるパンドゥカンバラの石床(帝釈坐)において、雨期を過ごしたあと、天〔の神々〕の群れに取り囲まれ、〔黄金製と宝珠製と白銀製の三つの梯子があるなかの〕中央の宝珠製の梯子によって、サンカッサの城市へと降り行ったのだが、この見示は、過去において見られたことがない。ということで、「これより過去において、わたしには見たことがなく」。

 

 [1782]「かくのごとく、尊者サーリプッタが〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕を有し敬虔〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「サーリプッタ」とは、その長老の、名前としての、名称、呼称、通称、語用、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、語形、話法。ということで、「かくのごとく、尊者サーリプッタが〔尋ねた〕」。

 

 [1783]「あるいは、誰にも聞いたことがありません」とは、「ありません」とは、否定〔の言葉〕。「あるいは」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「あるいは」ということになる。「誰にも」とは、あるいは、士族に、あるいは、婆羅門に、あるいは、庶民に、あるいは、隷民に、あるいは、在家者に、あるいは、出家者に、あるいは、天〔の神〕に、あるいは、人間に。ということで、「あるいは、誰にも聞いたことがありません」。

 

 [1784]「このように、麗しき論者にして〔世の〕教師たる方(ブッダ)は」とは、このように、麗しき論者、甘美なる論者、愛すべき論者、心臓に至る(心に響く)論者、カラヴィーカ〔鳥〕の鳴き声の美妙なる話し声ある者。また、まさに、彼の、世尊の、口からは、八つの支分を具備した話し声が放たれます。かつまた、明瞭で、かつまた、識知でき、かつまた、美妙で、かつまた、必聴にして、かつまた、円滑で、かつまた、拡散せず、かつまた、深遠で、かつまた、雄大なるものとして。また、まさに、彼が、世尊が、すなわち、衆に、声によって識知させるとおりに、彼の話し声は、衆の外に放たれることがない(衆の外に漏れ出ない)。また、まさに、彼は、世尊は、梵の声ある方であり、カラヴィーカ〔鳥〕の話し手たる方である。ということで、「このように、麗しき論者にして」。

 

 [1785]「〔世の〕教師たる方は」とは、〔世の〕教師(サッタル)たる世尊は、先導者(サッタヴァーハ:隊商の長)である。たとえば、隊商の長が、隊商たちを(※)〔導いて〕、難所(砂漠)を超え渡し、盗賊の難所を超え渡し、猛獣の難所を超え渡し、飢餓の難所を超え渡し、無水の難所を、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地(安全地帯)へと得達させるように、まさしく、このように、世尊は、先導者(隊商の長)であり、有情たちを〔導いて〕、難所を超え渡し、生の難所を超え渡し、老の難所を超え渡し、病の難所を……略……死の難所を……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の難所を超え渡し、貪欲の難所を超え渡し、憤怒の難所を……迷妄の難所を……思量の難所を……見解の難所を……〔心の〕汚れの難所を……悪しき行ないの難所を超え渡し、貪欲の茂みを超え渡し、憤怒の茂みを……迷妄の茂みを……思量の茂みを……見解の茂みを……〔心の〕汚れの茂みを……悪しき行ないの茂みを、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地へと、不死なる涅槃へと、得達させる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者(隊商の長)である。

 

※ テキストには satte とあるが、PTS版により satthe と読む。

 

 [1786]さらに、あるいは、世尊は、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、浄信させる方である。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。

 

 [1787]さらに、あるいは、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住む、〔彼の〕弟子たちは、のちに、〔教えを〕具備した者たちとなる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。ということで、「このように、麗しき論者にして〔世の〕教師たる方は」。

 

 [1788]「兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は」とは、世尊は、兜率〔天〕の衆から死滅して、気づきと正知の者として、母の子宮に入った方である。ということで、このようにもまた、「兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は」。

 

 [1789]さらに、あるいは、天〔の神々〕たちは、兜率〔天の神々〕たちと説かれる。彼らは、満ち足りている者たちであり、等しく満ち足りている者たちであり、わが意を得た者たちであり、歓喜した者たちであり、喜悦と悦意を生じた者たちであり、〔その〕天の世から、衆師としてやってきた方である。ということで、このようにもまた、「兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は」。さらに、あるいは、阿羅漢たちは、兜率〔天の神々〕たちと説かれる。彼らは、満ち足りている者たちであり、等しく満ち足りている者たちであり、わが意を得た者たちであり、歓喜した者たちであり、喜悦と悦意を生じた者たちであり、〔それらの〕阿羅漢たちの、衆師としてやってきた方である。ということで、このようにもまた、「兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は」。「〔世の〕衆師たる方は」とは、〔世の〕衆師たる世尊は、衆の師匠、ということで、「衆師」。衆にとっての教師、ということで、「衆師」。衆を守り抜く、ということで、「衆師」。衆を教諭する、ということで、「衆師」。衆に教示する、ということで、「衆師」。恐れおののきを離れた者として、衆に近づいて行く、ということで、「衆師」。衆が、彼の〔言葉を〕聞こうとし、耳を傾け、了知の心を現起させる、ということで、「衆師」。衆を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる、ということで、「衆師」。比丘の衆にとって、衆師であり、比丘尼の衆にとって、衆師であり、在俗信者(優婆塞)の衆にとって、衆師であり、女性在俗信者(優婆夷)の衆にとって、衆師であり、王の衆にとって、衆師であり、士族の衆にとって……婆羅門の衆にとって……庶民の衆にとって……隷民の衆にとって……天の衆にとって……梵の衆にとって、衆師である。僧師であり、衆師であり、衆の師匠である。「やってきた」とは、サンカッサの城市へと、近しく赴いた者、到着した者、到来した者。ということで、「兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は」。

 

 [1790]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1791]かくのごとく、尊者サーリプッタが〔尋ねた〕──「これより過去において、わたしには見たことがなく、あるいは、誰にも聞いたことがありません──このように、麗しき論者にして〔世の〕教師たる方(ブッダ)は、兜率〔天〕からやってきた〔世の〕衆師たる方は」と。

 

191.

 

 [1792]962.(956) すなわち、天を含む世〔の人々〕に〔はっきりと〕見えるように、眼ある方(ブッダ)は、一切の闇を除き去って、まさしく、独り、〔真の〕喜びに到達しました。(2)

 

 [1793]「天を含む世〔の人々〕に」とは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に。ということで、「天を含む世〔の人々〕に」。

 

 [1794]「〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は」とは、すなわち、世尊が、三十三〔天〕の居所において、パーリッチャッタカ〔樹〕の根元にあるパンドゥカンバラの石床(帝釈坐)において坐り、法(教え)を説示しているのを、天神たちが見るように、そのように、人間たちが見る。すなわち、人間たちが見るように、そのように、天神たちが見る。すなわち、天〔の神々〕たちに見えるように、そのように、人間たちに見える。すなわち、人間たちに見えるように、そのように、天〔の神々〕たちに見える。ということで、このようにもまた、「〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は」。また、あるいは、たとえば、或る尊き〔異教の〕沙門や婆羅門たちが、〔いまだ〕調御されていない者たちでありながら、調御された姿で見え、〔心が〕静まっていない者たちでありながら、〔心が〕静まった姿で見え、寂静ならざる者たちでありながら、寂静となった姿で見え、寂滅ならざる者たちでありながら、寂滅した姿で見えるように──

 

 [1795]〔そこで、詩偈に言う〕「土の耳飾のような、金で覆われた銅の半銭のような、それらしい形態をした者がいる。〔彼らは〕取り巻きたちに覆われ、世を歩む──内に清浄ならず、外に美しく輝きながら」と──

 

 [1796]世尊は、このように見えることがない。世尊は、事実によって、如実によって、真実によって、あるがままによって、転倒ならざるものによって、自らの状態(自性)によって、〔すでに〕調御された者であり、調御された姿で見え、〔心が〕静まった者であり、〔心が〕静まった姿で見え、寂静となった者であり、寂静となった姿で見え、寂滅した者であり、寂滅した姿で見える。そして、覚者たる世尊たちは、誓願を成就した者たちであり、振る舞いの道を〔心に〕想い描かない者たちである。ということで、このようにもまた、「〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は」。

 

 [1797]さらに、あるいは、世尊は、清浄の声(評判)ある方であり、名誉の声と名声を具した方であり、かつまた、龍の生存域においても、かつまた、金翅鳥の生存域においても、かつまた、夜叉の生存域においても、かつまた、阿修羅の生存域においても、かつまた、音楽神の生存域においても、かつまた、〔天の〕大王の居所においても、かつまた、インダ〔神〕(インドラ神)の居所においても、かつまた、梵〔天〕(ブラフマー神)の居所においても、かつまた、天〔の神〕の居所においても、そして、このとおりの方であり、かつまた、そのとおりの方であり、さらに、それよりもより一層の方である。ということで、このようにもまた、「〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は」。

 

 [1798]さらに、あるいは、世尊は、十の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、具備した方であり、かつまた、威光によって、かつまた、力によって、かつまた、徳によって、かつまた、精進によって、かつまた、智慧によって、見え、知られ、覚知される。

 

 [1799]〔そこで、詩偈に言う〕「正しくある者たちは、遠くにあるも知れわたる──ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山嶺のように。正しからざる者たちは、この場にあるも見られない──あたかも、夜に放たれた諸々の矢のように」〔と〕。ということで──

 

 [1800]このようにもまた、「〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は」。

 

 [1801]「眼ある方は」とは、世尊は、五つの眼によって、眼ある方である。(1)肉眼によってもまた、眼ある方である。(2)天眼によってもまた、眼ある方である。(3)智慧の眼によってもまた、眼ある方である。(4)覚者の眼によってもまた、眼ある方である。(5)一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [1802](1)どのように、世尊は、肉眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊の肉眼にはまた、五つの色が等しく見出される──かつまた、青色が、かつまた、黄色が、かつまた、赤色が、かつまた、黒色が、かつまた、白色が。そして、世尊の諸々の眼毛は、そして、そこにおいて、諸々の眼毛が立脚している、その〔眼毛〕は、青く、極めて青く、澄浄で、美しく、ウンマーの花に等しきものとして有る。その後方(毛根)は、黄で、極めて黄で、黄金の色で、澄浄で、美しく、カニカーラの花に等しきものとして有る。そして、世尊の両の眼球は、赤く、極めて赤く、澄浄で、美しく、黄金虫〔の色艶〕に等しきものとして有る。中央においては、黒く、極めて黒く、粗野ならず、滑らかで、澄浄で、美しく、濡れたアリッタカ(黒岩)に等しきものとして有る。その後方は、白く(オーダータ)、極めて白く(スオーダータ)、白く(セータ)、白く(パンダラ)、澄浄で、美しく、明けの明星に等しきものとして有る。過去(前世)の善き行ないの行為によって発現したものとして、自己状態(個我的あり方・身体)に属するところの、〔まさに〕その、〔生来の〕性向の肉眼によって、世尊は、まさしく、そして、昼に、さらに、夜に、遍きにわたり、〔一〕ヨージャナを見る。すなわち、また、四つの支分を具備した暗黒が有るときも──かつまた、滅至した太陽が有り、かつまた、黒分の斎戒(新月の夜)が有り、かつまた、漆黒の密林が有り、かつまた、立ちのぼった大いなる黒雲が有る、このような形態の四つの支分を具備した暗黒においてでさえも──遍きにわたり、〔一〕ヨージャナを見る。〔まさに〕その、諸々の形態を見るための妨げとなる、あるいは、壁は、あるいは、戸は、あるいは、垣は、あるいは、山は、あるいは、薮は、あるいは、蔓は、存在しない。もし、一つの胡麻の果を、〔それに〕形相を為して、胡麻の荷のなかに置くなら、まさしく、その胡麻の果を、取り出すであろう。このように、世尊の、〔生来の〕性向の肉眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、肉眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [1803](2)どのように、世尊は、天眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為の受持ある者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。そして、世尊は、望んでいるなら、一つの世の界域をもまた見るであろうし、二つの世の界域をもまた見るであろうし、三つの世の界域をもまた見るであろうし、四つの世の界域をもまた見るであろうし、五つの世の界域をもまた見るであろうし、十の世の界域をもまた見るであろうし、二十の世の界域をもまた見るであろうし、三十の世の界域をもまた見るであろうし、四十の世の界域をもまた見るであろうし、五十の世の界域をもまた見るであろうし、百の世の界域をもまた見るであろうし、千の小なる世の界域をもまた見るであろうし、二千の中なる世の界域をもまた見るであろうし、三千の世の界域をもまた見るであろうし、大千の世の界域をもまた見るであろう。あるいは、あるかぎりのものを望むなら、そのかぎりのものを見るであろう。このように、世尊の天眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、天眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [1804](3)どのように、世尊は、智慧の眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、偉大なる智慧ある方であり、多々なる智慧ある方であり、敏速なる智慧ある方であり、疾走する智慧ある方であり、鋭敏なる智慧ある方であり、洞察の智慧ある方であり、智慧の細別に巧みな智ある方であり、細別された知恵ある方であり、融通無礙に到達した方であり、四つの離怖に至り得た方であり、十の力を保持する方であり、人の雄牛たる方であり、人の獅子たる方であり、人の龍象たる方であり、人の良馬たる方(善き生まれの者)であり、人の荷牛たる方(忍耐強き者)であり、終極なき知恵ある方であり、終極なき威光ある方であり、終極なき福徳ある方であり、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方であり、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、浄信させる方である。まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住む、〔彼の〕弟子たちは、のちに、〔教えを〕具備した者たちとなる。

 

 [1805]まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見る、〔世の〕眼と成った方であり、〔世の〕知恵と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授者たる方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、〔いまだ〕知られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見られていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕見出されていないものは〔存在せず〕、〔いまだ〕実証されていないものは〔存在せず〕、智慧によって〔いまだ〕体得されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(事象)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの(未了義のもの)が、まさに、存在するなら、〔その〕法(性質)は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義(利益)が、あるいは、他者の義(利益)が、あるいは、両者の義(利益)が、あるいは、所見の法(現法:現世)の義(利益)が、あるいは、未来の義(利益)が、あるいは、明瞭なる義(利益)が、あるいは、深遠なる義(利益)が、あるいは、秘密にされた義(利益)が、あるいは、隠蔽された義(利益)が、あるいは、導かれるべき義(利益)が、あるいは、導かれた義(利益)が、あるいは、罪過なきものの義(利益)が、あるいは、〔心の〕汚れなきものの義(利益)が、あるいは、浄化の義(利益)が、あるいは、最高の義(勝義)としての義(利益)が、その全てが、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [1806]覚者たる世尊の知恵は、過去において、打破されざるものとしてあり、未来において、打破されざるものとしてあり、現在において、打破されざるものとしてある。一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の言葉の行為は……一切の意の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を極限の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、かつまた、導かれるべきものも、かつまた、知恵も、互いに他を極限の境位とするものとなる。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。

 

 [1807]一切の法(事象)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。一切の法(事象)は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することに連結したものとしてあり、望みに連結したものとしてあり、意を為すことに連結したものとしてあり、心の生起に連結したものとしてある。一切の有情たちにおいて、覚者たる世尊の知恵は転起する。世尊は、一切の有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、可能なる者たちとして、可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。

 

 [1808]たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。たとえば、それらが何であれ、翼あるものたち(鳥類)が、もしくは、ヴェーナテイヤたるガルラ(金翅鳥)を加え含めて、虚空の分際(天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、智慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の分際において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕と人間たちの智慧を、充満して〔止住し〕、凌駕して止住する。すなわち、また、それらの、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちであり、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩むも、彼らは、諸々の問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に尋ねる──そして、諸々の秘密にされたものを、さらに、諸々の隠蔽されたものを。それらの問いは、世尊によって、言説され、まさしく、回答され、〔問い尋ねの〕契機が釈示されたものと成る。そして、商売人(質問者)たちは、それら〔の問い〕を、世尊のために成就する。そこで、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる──すなわち、この、智慧によって。ということで、このように、世尊は、智慧の眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [1809](4)どのように、世尊は、覚者の眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、まさしく、このように、世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。世尊は知る。「この人は、貪欲の行ないの者である」「この〔人〕は、憤怒の行ないの者である」「この〔人〕は、迷妄の行ないの者である」「この〔人〕は、思考の行ないの者である」「この〔人〕は、信の行ないの者である」「この〔人〕は、知恵の行ないの者である」と。世尊は、貪欲の行ないの人には、不浄の言説を言説する(不浄想を説く)。世尊は、憤怒の行ないの人には、慈愛の修行(慈悲の瞑想)を告げ知らせる。世尊は、迷妄の行ないの人には、誦説(聖典)について、遍問(義釈)について、〔しかるべき〕時には、法(真理)の聴聞において、〔しかるべき〕時には、法(真理)の論議において、導師との共住において確たるものとする。世尊は、思考の行ないの人には、呼吸についての気づき(安般念)を告げ知らせる。世尊は、信の行ないの人には、浄信するべき形相を告げ知らせる──覚者の善き覚り(菩提)を、法(教え)の善き法(教え)たることを、僧団の善き実践を、さらに、自己の諸戒を。世尊は、知恵の行ないの人には、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の形相を告げ知らせる──無常の行相を、苦痛の行相を、無我の行相を。

 

 [1810]〔そこで、詩偈に言う〕「たとえば、山の頂きの巌(いわお)に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、スメーダよ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、一切に眼ある者となり、憂いを離れた者として、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視しなさい」と。

 

 [1811]このように、世尊は、覚者の眼によってもまた、眼ある方である。

 

 [1812](5)どのように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、眼ある方であるのか。一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。世尊は、一切知者たる知恵を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。

 

 [1813]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、〔いまだ〕見られていないものは、この〔世において〕、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕識られていないものは〔存在せず〕、知ることができないものは〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの(未了義のもの)として存在するなら、〔その〕一切を、〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と〔説かれる〕」と。

 

 [1814]このように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。ということで、「〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は」。

 

 [1815]「一切の闇を除き去って」とは、一切の、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、除いて、除き去って、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「一切の闇を除き去って」。

 

 [1816]「まさしく、独り、〔真の〕喜びに到達しました」とは、「独り」とは、世尊は、(1)出家と名づけられたことによって、独りであり、(2)伴侶なきの義(意味)によって、独りであり、(3)渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りであり、(4)絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に〔心の〕汚れなき方、ということで、独りであり、(5)一路の道に至った方、ということで、独りであり、(6)独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。

 

 [1817](1)どのように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りであるのか。世尊は、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、親族の群れを捨棄して、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りである。

 

 [1818](2)どのように、世尊は、伴侶なきの義(意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、出家者として〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する──音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。彼は、独りで歩み、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り(瞑想する)、独りで歩行〔瞑想〕(経行)に〔心を〕確立し、独りで、〔世を〕歩み、〔世に〕住み、振る舞い、行持し、〔身を〕守り、〔身を〕保ち、〔身を〕保ち行く。このように、世尊は、伴侶なきの義(意味)によって、独りである。

 

 [1819](3)どのように、世尊は、渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、独りで、伴侶なく、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みつつ、ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、大いなる精励をもって〔自己を〕精励しながら、軍団を有する悪魔を、黒き者たるナムチを、放逸の眷属を、砕破して〔そののち〕、渇愛の網を、〔渇愛の〕流れを、〔渇愛の〕執着を、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。

 

 [1820]〔そこで、詩偈に言う〕「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。

 

 [1821]この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。

 

 [1822]このように、世尊は、渇愛の捨棄の義(意味)によって、独りである。

 

 [1823](4)どのように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであるのか。貪欲が捨棄されたことから、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、憤怒が捨棄されたことから、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、迷妄が捨棄されたことから、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、諸々の〔心の〕汚れが捨棄されたことから、絶対的に〔心の〕汚れなき方、ということで、独りである。このように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りである。

 

 [1824](5)どのように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りであるのか。一路の道は、四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)、五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、と説かれる。

 

 [1825]〔そこで、詩偈に言う〕「生の滅尽と終極を見る〔覚者〕は、〔人々に〕利益と慈しみ〔の思い〕ある〔覚者〕は、一路の道を覚知する。この道によって、〔人々は〕過去において〔激流を〕超えたのであり、〔未来においても〕超えるであろうし、そして、すなわち、〔今現在も〕激流を超えるのだ」と。

 

 [1826]このように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りである。

 

 [1827](6)どのように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りであるのか。覚り(菩提)は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。世尊は、その覚りの知恵によって、「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と覚った。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と覚った。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と覚った。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と覚った。……略([324]参照)……。「生という縁あることから、老と死がある」と覚った。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と覚った。……略([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と覚った。「これは、苦しみである」と覚った。「これは、苦しみの集起である」と覚った。「これは、苦しみの止滅である」と覚った。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と覚った。「これらは、諸々の煩悩である」と覚った。……略([324]参照)……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と覚った。「これらの法(性質)は、証知されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、遍知されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、捨棄されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、修行されるべきである」と覚った。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と覚った。六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔それらを〕覚った。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔それらを〕覚った。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、〔それらを〕覚った。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と覚った。

 

 [1828]さらに、あるいは、それが何であれ、覚られるべきものであるなら、随覚されるべきものであるなら、醒覚されるべきものであるなら、正覚されるべきものであるなら、到達されるべきものであるなら、体得されるべきものであるなら、実証されるべきものであるなら、その全てを、その覚りの知恵によって、覚った、随覚した、醒覚した、正覚した、到達した、体得した、実証した。このように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。

 

 [1829]「〔真の〕喜びに到達しました」とは、「〔真の〕喜びに」とは、離欲の喜びに、遠離の喜びに、寂止の喜びに、正覚の喜びに、到達した、正しく到達した、到達した、体得した、実証した。ということで、「まさしく、独り、〔真の〕喜びに到達しました」。

 

 [1830]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1831]「すなわち、天を含む世〔の人々〕に〔はっきりと〕見えるように、眼ある方(ブッダ)は、一切の闇を除き去って、まさしく、独り、〔真の〕喜びに到達しました」と。

 

192.

 

 [1832]963.(957) その覚者に、依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に、〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました──この〔世における〕、多くの結縛された者たちのために。(3)

 

 [1833]「その覚者に、依存なき方に、如なる方に」とは、「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は、〔他に依らず〕自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに至り得た。さらに、諸々の力における自在なる状態に至り得た。「覚者」とは、どのような義(意味)によって、覚者となるのか。諸々の真理を覚った者、ということで、「覚者」。人々を覚らせる者、ということで、「覚者」。一切知者たることによって、「覚者」。一切見者たることによって、「覚者」。他者に導かれないことによって、「覚者」。〔世俗を〕発出することによって、「覚者」。煩悩の滅尽者と名づけられたことによって、「覚者」。汚れなき者と名づけられたことによって、「覚者」。絶対的に貪欲を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に憤怒を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に迷妄を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に〔心の〕汚れなき者、ということで、「覚者」。一路の道に至った者、ということで、「覚者」。独りで、無上なる正等覚を現正覚した者、ということで、「覚者」。覚慧の打破されざることから、覚慧の獲得あることから、ということで、「覚者」。「覚者」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、覚者である。「依存なき方に」とは、二つの依所(依存の対象)がある。(1)そして、渇愛の依所であり、(2)さらに、見解の依所である。(1)どのようなものが、渇愛の依所であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、極限が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「このかぎりのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭気であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、奴婢や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、そして、国土であり、そして、地方であり、そして、蔵であり、そして、貯蔵庫である」〔と〕、大いなる地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行じ歩むところの、そのかぎりのものである。これが、渇愛の依所である。

 

 [1834](2)どのようなものが、見解の依所であるのか。二十の事態ある身体を有するという見解(有身見)、十の事態ある誤った見解(邪見)、十の事態ある極〔論〕を収め取るものとしての見解(辺執見)──すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕場所(境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取──およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の依所である。

 

 [1835]覚者たる世尊の、渇愛の依所は〔すでに〕捨棄され、見解の依所は〔すでに〕放棄され、渇愛の依所が〔すでに〕捨棄されたことから、見解の依所が〔すでに〕放棄されたことから、世尊は、眼に依存しない者として、耳に……鼻に……舌に……身に……意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……利得に……盛名に……賞賛に……安楽に……衣料に……〔行乞の〕施食に……臥坐具に……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)に……欲望の界域(欲界)に……形態の界域(色界)に……形態なき界域(無色界)に……欲望の生存(欲有)に……形態の生存(色有)に……形態なき生存(無色有)に……表象の生存(想有)に……表象なき生存(無想有)に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存(非想非非想有)に……一つの構成としての生存(色蘊のみを有する生存)に……四つの構成としての生存(色蘊以外の四蘊を有する生存)に……五つの構成としての生存(五蘊すべてを有する生存)に……過去に……未来に……現在に……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)に、依らない者として、依存しない者として、〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「その覚者に、依存なき方に」。

 

 [1836]「如なる方に」とは、世尊は、五つの行相によって、如なる方である(あるがままの如実者である)。(1)好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる方である。(2)捨て去った者、ということで、如なる方である。(3)超え渡った者、ということで、如なる方である。(4)解き放った者、ということで、如なる方である。(5)それを釈示することから、如なる方である。

 

 [1837](1)どのように、世尊は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる方であるのか。世尊は、利得にたいしてもまた、如なる方であり、利得なきにたいしてもまた、如なる方であり、盛名にたいしてもまた、如なる方であり、盛名なきにたいしてもまた、如なる方であり、賞賛にたいしてもまた、如なる方であり、非難にたいしてもまた、如なる方であり、安楽にたいしてもまた、如なる方であり、苦痛にたいしてもまた、如なる方である。一部の者たちが、腕を香料で塗るとして、一部の者たちが、腕を鉈で撃打するとして、それにたいし、貪り〔の思い〕は存在せず、それにたいし、敵対〔の思い〕は存在しない。〔彼は〕随貪と敵対を捨棄した方であり、興奮と失望を超克した方であり、共感と反感を等しく超越した方である。このように、世尊は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる方である。

 

 [1838](2)どのように、世尊は、捨て去った者、ということで、如なる方であるのか。世尊には、貪欲は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄され、憤怒は……迷妄は……忿激は……怨恨は……偽装は……加虐は……嫉妬は……物惜は……幻惑は……狡猾は……強情は……激昂は……思量は……高慢は……驕慢は……放逸は……一切の〔心の〕汚れは……一切の悪しき行ないは……一切の懊悩は……一切の苦悶は……一切の熱苦は……一切の善ならざる行作は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものとしてある。このように、世尊は、捨て去った者、ということで、如なる方である。

 

 [1839](3)どのように、世尊は、超え渡った者、ということで、如なる方であるのか。世尊は、欲望の激流を超え渡った方であり、生存の激流を超え渡った方であり、見解の激流を超え渡った方であり、無明の激流を超え渡った方であり、一切の輪廻の道を、超え渡った方であり、超え上がった方であり、超え出た方であり、超越した方であり、等しく超越した方であり、超克した方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者)、歩むことを歩んだ方、〔輪廻の〕旅程を去った方、〔涅槃の〕方角に赴いた方、突端に至った方、梵行を守った方、最上の見解に至り得た方、道を修行した方、〔心の〕汚れを捨棄した方、不動〔の境地〕(阿羅漢果)を理解した方、止滅〔の境地〕(涅槃)を実証した方である。彼にとって、苦しみは遍知され、集起は捨棄され、道は修行され、止滅は実証され、証知されるべきものは証知され、遍知されるべきものは遍知され、捨棄されるべきものは捨棄され、修行されるべきものは修行され、実証されるべきものは実証された。彼は、閂を外した方(無明を捨棄した者)、堀を埋めた方(輪廻を捨棄した者)、柱を引き抜いた方(渇愛を捨棄した者)、閂なき方(五下分結を捨棄した者)、〔高慢の〕旗を降ろし〔生の〕重荷を降ろし束縛を離れた聖なる方(自我意識を捨棄した者)、五つの支分(五蓋)を捨棄した方、六つの支分(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した方、一つの守護(気づきによる守護)ある方、四つの依託(智慧による受用と甘受と回避と除去)ある方、各自の真理(偏見)を除去した方、探し求めることを正しく完全に放棄した方、混濁なき思惟ある方、身体の形成〔作用〕(身行)を静息した方、善く解脱した心の方、善く解脱した智慧の方、全一者、〔梵行の〕完成者、最上の人士、最高の人士、最高の至り得るべきものに至り得た方である。彼は、まさしく、〔善悪の報いを〕蓄積することもなく摘出することもなく、〔すでに〕摘出して〔世に〕止住している方、まさしく、〔煩悩を〕捨棄することもなく執取することもなく、〔すでに〕捨棄して〔世に〕止住している方、まさしく、〔世俗を〕離れることもなく近づくこともなく、〔すでに〕離れて〔世に〕止住している方、まさしく、〔世俗を〕離煙することもなく喫煙することもなく、〔すでに〕離煙して〔世に〕止住している方、〔もはや〕学ぶことなき(無学)戒の範疇(戒蘊)を具備したことから〔世に〕止住している方、〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇(定蘊)を具備したことから〔世に〕止住している方、〔もはや〕学ぶことなき智慧の範疇(慧蘊)を具備したことから〔世に〕止住している方、〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備したことから〔世に〕止住している方、〔もはや〕学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備したことから〔世に〕止住している方、真理()を等しく実践して〔世に〕止住している方、動揺〔の思い〕を等しく超越して〔世に〕止住している方、〔心の〕汚れの火を完全に取り払って〔世に〕止住している方、〔輪廻に〕遍く赴かないことから〔世に〕止住している方、幸運を受持して〔世に〕止住している方、解き放ちを受用することから〔世に〕止住している方、慈愛()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している方、慈悲()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している方、歓喜()という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している方、放捨(:選択せず差別なき心)という完全なる清浄あることから〔世に〕止住している方、究極にして完全なる清浄によって〔世に〕止住している方、それに関わることなき〔あり方〕(渇愛なきあり方)という完全なる清浄によって〔世に〕止住している方、解脱したことから〔世に〕止住している方、満ち足りていることから〔世に〕止住している方、範疇()の極限において〔世に〕止住している方、界域()の極限において〔世に〕止住している方、〔認識の〕場所()の極限において〔世に〕止住している方、境遇()の極限において〔世に〕止住している方、再生の極限において〔世に〕止住している方、結生の極限において〔世に〕止住している方、生存()の極限において〔世に〕止住している方、輪廻の極限において〔世に〕止住している方、転起の極限において〔世に〕止住している方、最後の生存の極限において〔世に〕止住している方、最後の積身において〔世に〕止住している方、最後の肉身を保つ世尊である。

 

 [1840]〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、これは、最後の生存である。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。

 

 [1841]このように、世尊は、超え渡った者、ということで、如なる方である。

 

 [1842](4)どのように、世尊は、解き放った者、ということで、如なる方であるのか。世尊には、貪欲から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、憤怒から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、迷妄から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、忿激から……怨恨から……偽装から……加虐から……嫉妬から……物惜から……幻惑から……狡猾から……強情から……激昂から……思量から……高慢から……驕慢から……放逸から……一切の〔心の〕汚れから……一切の悪しき行ないから……一切の懊悩から……一切の苦悶から……一切の熱苦から……一切の善ならざる行作から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。このように、世尊は、解き放った者、ということで、如なる方である。

 

 [1843](5)どのように、世尊は、それを釈示することから、如なる方であるのか。世尊は、戒が存しているとき、「戒ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、信が存しているとき、「信ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、精進が存しているとき、「精進ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、気づきが存しているとき、「気づきある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、禅定が存しているとき、「禅定ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、智慧が存しているとき、「智慧ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、明知が存しているとき、「三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、神知が存しているとき、「六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる方である。このように、世尊は、それを釈示することから、如なる方である。ということで、「その覚者に、依存なき方に、如なる方に」。

 

 [1844]「虚言なき方に、〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に」とは、「虚言なき方に」とは、三つの虚言の事例がある。(1)日用品の受用と名づけられた虚言の事例、(2)振る舞いの道と名づけられた虚言の事例、(3)なぞかけと名づけられた虚言の事例である。

 

 [1845](1)どのようなものが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、〔在俗の〕家長たちが、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって〔布施をするために〕、比丘を招く。その〔比丘〕は、悪しき欲求ある者であり、〔自らの〕欲求に支配された者であり、〔それらの施物を〕義(目的)とする者であり、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品をより一層欲することに執取して、衣料を〔とりあえずは〕拒絶し、〔行乞の〕施食を〔とりあえずは〕拒絶し、臥坐具を〔とりあえずは〕拒絶し、病のための日用品たる薬の必需品を〔とりあえずは〕拒絶する。彼は、このように言う。「沙門にとって、高価な衣料が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けるなら。沙門にとって、高価な〔行乞の〕施食が何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、残飯行(乞食行)によって、〔施しの〕握り飯によって、生計を営むなら。沙門にとって、高価な臥坐具が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、木の根元にある者として、あるいは、墓場にある者として、あるいは、野外にある者として、〔世に〕存するなら。沙門にとって、高価な病のための日用品たる薬の必需品が、何だというのだ。これが、適切なることとなる──すなわち、沙門が、あるいは、腐尿(発酵した牛の尿)によって、あるいは、薬果の破断したものによって、薬と為すなら」と。それ(施物)に執取して、粗末な衣料を〔身に〕付け、粗末な〔行乞の〕施食を遍く受益し、粗末な臥坐所を受用し、粗末な病のための日用品たる薬の必需品を受用する。〔まさに〕その、この者のことを、〔在俗の〕家長たちは、このように知る。「この沙門は、少なき欲求の者であり、〔常に〕満ち足りている者であり、遠離している者であり、〔世俗と〕交わりなき者であり、精進に励む者であり、〔俗塵の〕払拭(頭陀)を説く者である」と。より一層、より一層、〔家長たちは〕諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施をするために、その比丘を〕招く。彼は、このように言う。「三つのものが面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第一に〕信が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第二に〕施すべき法(施物)が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第三に〕施与されるべき者たちが、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。まさしく、そして、あなたたちには、この信が存在し、さらに、施すべき法(施物)が等しく見出される。かつまた、わたしは、納受する者である。それで、もし、わたしが納受しないであろうなら、このように、あなたたちは、功徳から遍く外にある者たちと成るであろう。わたしには、これに義(目的)はないが、しかしながら、また、まさしく、あなたたちへの慈しみ〔の思い〕によって、〔わたしは〕納受する」と。それに執取して、さらに、多くの衣料を納受し、さらに、多くの〔行乞の〕施食を納受し、さらに、多くの臥坐具を納受し、さらに、多くの病のための日用品たる薬の必需品を納受する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例である。

 

 [1846](2)どのようなものが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、赴くに装い、立つに装い、坐るに装い、臥すに装い、作為して赴き、作為して立ち、作為して坐り、作為して臥所を営み、〔心が〕定められた者であるかのように赴き、〔心が〕定められた者であるかのように立ち、〔心が〕定められた者であるかのように坐り、〔心が〕定められた者であるかのように臥所を営み、まさしく、視野のうちなる瞑想者(見かけ上の瞑想者)と成る。すなわち、このような形態の、振る舞いの道(行住坐臥)のための、作為的虚飾、虚飾、常習的虚飾、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例である。

 

 [1847](3)どのようなものが、なぞかけと名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕欲求に支配された者として、〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、聖なる法(教え)に等しく依拠した言葉を語る。「彼が、このような形態の衣料を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の鉢を〔身に〕保つなら……銅椀を〔身に〕保つなら……水瓶を〔身に〕保つなら……濾過器を〔身に〕保つなら……袋を〔身に〕保つなら……履物を〔身に〕保つなら……身体を縛る〔帯〕を〔身に〕保つなら……〔縛り〕紐を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師父(和尚)がいるなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師匠(阿闍梨)がいるなら……師父を等しくする者たちがいるなら……師匠を等しくする者たちがいるなら……朋友たちがいるなら……同輩たちがいるなら……知己たちがいるなら……道友たちがいるなら……彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の精舎に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の半屋根に住するなら……高楼に住するなら……楼房に住するなら……岩窟に住するなら……山窟に住するなら……小屋に住するなら……楼閣に住するなら……見張塔に住するなら……円室に住するなら……堂舎に住するなら……奉仕堂に住するなら……天幕に住するなら……木の根元に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。

 

 [1848]さらに、あるいは、逆上に逆上し、渋面に渋面し、虚言に虚言し、饒舌に饒舌し、口で尊ばれている者が、「この沙門は、このような形態の、これらの寂静なる住への入定の得者である」と、そのような、深遠で、秘密にされ、精緻で、隠蔽され、世〔俗〕を超える、空性に関係した言説を言説する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、なぞかけと名づけられた虚言の事例である。覚者たる世尊の、これらの三つの虚言の事例は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、虚言なき方である。ということで、「虚言なき方に」。

 

 [1849]「〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に」とは、「〔世の〕衆師たる方」とは、〔世の〕衆師たる世尊は、衆の師匠、ということで、「衆師」。衆にとっての教師、ということで、「衆師」。衆を守り抜く、ということで、「衆師」。衆を教諭する、ということで、「衆師」。衆に教示する、ということで、「衆師」。恐れおののきを離れた者として、衆に近づいて行く、ということで、「衆師」。衆が、彼の〔言葉を〕聞こうとし、耳を傾け、了知の心を現起させる、ということで、「衆師」。衆を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる、ということで、「衆師」。比丘の衆にとって、衆師であり、比丘尼の衆にとって、衆師であり、在俗信者(優婆塞)の衆にとって、衆師であり、女性在俗信者(優婆夷)の衆にとって、衆師であり、王の衆にとって、衆師であり、士族の衆にとって……婆羅門の衆にとって……庶民の衆にとって……隷民の衆にとって……天の衆にとって……梵の衆にとって、衆師である。僧師であり、衆師であり、衆の師匠である。「やってきた」とは、サンカッサの城市へと、近しく赴いた方に、到着した方に、到来した方に。ということで、「〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に」。

 

 [1850]「この〔世における〕、多くの結縛された者たちのために」とは、多くの、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕たち、人間たちのために。「結縛された者たちのために」とは、結縛された者たちであり、歩みが結縛された者たちである、侍者たちのために、弟子たちのために。ということで、「この〔世における〕、多くの結縛された者たちのために」。

 

 [1851]「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」とは、〔わたしは〕問いを義(目的)とする到来者として存している。〔わたしは〕問いを尋ねることを欲する到来者として存している。〔わたしは〕問いを聞くことを欲する到来者として存している。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、問いを義(目的)とする者たちの、問いを尋ねることを欲する者たちの、問いを聞くことを欲する者たちの、到来することが、来訪することが、近づいて行くことが、奉侍することが、存するであろうし、存する。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、「あなたには、問いのための到来者が存在します。あなたは、また、可能なる方です。あなたは、十分なる自己ある方として(※)存しています──わたしによって尋ねられたことを、言説するべく、答えるべく。これは、運ぶ者の荷です」〔と〕。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました」。

 

※ テキストには alamattho とあるが、PTS版により alamatto と読む。

 

 [1852]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1853]「その覚者に、依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に、〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました──この〔世における〕、多くの結縛された者たちのために」と。

 

193.

 

 [1854]964.(958) 〔世俗の生活を〕忌避している比丘にとって、〔無用となり〕遠ざけられた坐所に親近している〔比丘〕にとって、あるいは、木の根元や墓場に〔親近している比丘にとって〕、あるいは、山々の諸々の洞窟において〔臥所を営む比丘にとって〕──(4)

 

 [1855]「〔世俗の生活を〕忌避している比丘にとって」とは、「比丘にとって」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘にとって、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘にとって。「〔世俗の生活を〕忌避している」とは、生によって〔世俗の生活を〕忌避している者にとって、老によって……病によって……死によって……諸々の憂いによって……諸々の嘆きによって……諸々の苦痛によって……諸々の失意によって……諸々の葛藤によって〔世俗の生活を〕忌避している者にとって、地獄の苦しみによって……畜生の胎の苦しみによって……餓鬼の境域の苦しみによって……人間の苦しみによって……入胎を根元とする苦しみによって……胎における止住を根元とする苦しみによって……胎からの出起を根元とする苦しみによって……生まれた者に連結する苦しみによって……生まれた者が他者の配下となる苦しみによって……自己の行動(自害)としての苦しみによって……他者の行動(他害)としての苦しみによって……苦痛の苦しみによって……形成の苦しみによって……変化の苦しみによって……眼の病の苦しみによって……耳の病の苦しみによって……鼻の病の苦しみによって……舌の病の苦しみによって……身の病の苦しみによって……頭の病の苦しみによって……耳(外耳)の病の苦しみによって……口の病の苦しみによって……歯の病の苦しみによって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い(業報)から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみによって……母の死の苦しみによって……父の死の苦しみによって……兄弟の死の苦しみによって……姉妹の死の苦しみによって……子の死の苦しみによって……娘の死の苦しみによって……親族の災厄の苦しみによって……財物の災厄の苦しみによって……病の災厄の苦しみによって……戒の災厄の苦しみによって……見解の災厄の苦しみによって、〔世俗の生活を〕忌避している者にとって、苦悩している者にとって、自責している者にとって、忌避している者にとって。ということで、「〔世俗の生活を〕忌避している比丘にとって」。

 

 [1856]「〔無用となり〕遠ざけられた坐所に親近している〔比丘〕にとって」とは、坐所は、そこにおいて坐るところと説かれる。坐床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。その坐所は、正当ならざる形態を見ることから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる音声を聞くことから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり……正当ならざる五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)から、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてある。その遠離の坐所に、親近している〔比丘〕にとって、等しく親近している〔比丘〕にとって、慣れ親しんでいる〔比丘〕にとって、慣用している〔比丘〕にとって、等しく慣れ親しんでいる〔比丘〕にとって、受用している〔比丘〕にとって。ということで、「〔無用となり〕遠ざけられた坐所に親近している〔比丘〕にとって」。

 

 [1857]「あるいは、木の根元や墓場に〔親近している比丘にとって〕」とは、まさしく、木の根元は、木の根元であり、まさしく、墓場は、墓場である。ということで、「あるいは、木の根元や墓場に〔親近している比丘にとって〕」。「あるいは、山々の諸々の洞窟において〔臥所を営む比丘にとって〕」とは、まさしく、山々は、山々であり、まさしく、諸々の石窟は、諸々の石窟であり、まさしく、諸々の山の洞窟は、諸々の山の洞窟である。山々の中間は、山々の山腹と説かれる。ということで、「あるいは、山々の諸々の洞窟において〔臥所を営む比丘にとって〕」。

 

 [1858]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1859]「〔世俗の生活を〕忌避している比丘にとって、〔無用となり〕遠ざけられた坐所に親近している〔比丘〕にとって、あるいは、木の根元や墓場に〔親近している比丘にとって〕、あるいは、山々の諸々の洞窟において〔臥所を営む比丘にとって〕」と。

 

194.

 

 [1860]965.(959) 諸々の高下の臥所において、そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか。音なき臥坐所において、まさに、それらに〔遭遇しても〕動揺しないのが、比丘であるとして。(5)

 

 [1861]「諸々の高下の臥所において」とは、「諸々の高下の」とは、諸々の高下には、諸々の下劣なる〔臥所〕と精妙なる〔臥所〕には、諸々の良き〔臥所〕と悪しき〔臥所〕には。臥所は、臥坐所と説かれる。精舎、半屋根、高楼、楼房、洞窟である。ということで、「諸々の高下の臥所において」。「そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか」とは、「どれだけの」とは、どれだけのものが、鳴いているのか、吼えているのか、声を為しているのか。さらに、あるいは、「どれだけの」とは、それらは、どれほどであるのか、どれだけであるのか、どれだけのものであるのか、どれだけ多くのものであるのか。「恐ろしいものたち」とは、獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蠍たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕若者たちが──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして──存するべきである。ということで、「そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか」。

 

 [1862]「まさに、それらに〔遭遇しても〕動揺しないのが、比丘であるとして」とは、「まさに、それらに〔遭遇しても〕」とは、まさに、それらの恐ろしいものたちを、あるいは、見て、あるいは、聞いて、動揺するべきではなく、強く動揺するべきではなく、等しく動揺するべきではなく、恐れるべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐怖するべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕存するべきであり、〔世に〕住むべきである。ということで、「まさに、それらに〔遭遇しても〕動揺しないのが、比丘であるとして」。

 

 [1863]「音なき臥坐所において」とは、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、臥坐所において。ということで、「音なき臥坐所において」。

 

 [1864]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1865]「諸々の高下の臥所において、そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか。音なき臥坐所において、まさに、それらに〔遭遇しても〕動揺しないのが、比丘であるとして」と。

 

195.

 

 [1866]966.(960) 〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴きつつある者にとって、世において、どれだけの危難があるのですか。辺地の臥坐所において、それらを征服するのが、比丘であるとして。(6)

 

 [1867]「世において、どれだけの危難があるのですか」とは、「どれだけの」とは、どれほどであるのか、どれだけであるのか、どれだけのものであるのか、どれだけ多くのものであるのか。「諸々の危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1)そして、諸々の明白なる危難であり、(2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。(1)どのようなものが、諸々の明白なる危難であるのか。獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蠍たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕若者たちが──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして──存するべきであり、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝)から等しく現起する諸々の病苦、〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い(業報)から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触、あるいは、かくのごときものである。これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。

 

 [1868](2)どのようなものが、諸々の隠蔽された危難であるのか。身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ない、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害()、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害、疑惑〔の思い〕()という〔修行の〕妨害、貪欲()、憤怒()、迷妄()、忿激(忿)、怨恨()、偽装()、加虐()、嫉妬()、物惜()、幻惑()、狡猾()、強情()、激昂()、思量()、高慢(過慢)、驕慢()、放逸、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)、一切の悪しき行ない、一切の懊悩、一切の苦悶、一切の熱苦、一切の善ならざる行作(現行)である。これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。

 

 [1869]「諸々の危難(パリッサヤ)」とは、どのような義(意味)によって、諸々の危難となるのか。(1)遍く打ち負かす(パリサハティ)、ということで、「諸々の危難」。(2)遍き衰退(パリハーヤ)のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。(3)そこに依拠するもの(アーサヤ)、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1870](1)どのように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。このように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1871](2)どのように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、諸々の善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。どのような諸々の善なる法(性質)の、であるのか。正しい〔実践の〕道の、〔真理に〕随順する〔実践の〕道の、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道の、遮るものなき〔実践の〕道の、義(意味)のままなる〔実践の〕道の、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道の、諸戒における円満成就を作り為すことの、諸々の〔感官の〕機能()において門が守られていることの、食について量を知ることの、〔眠らずに〕起きていることへの専念の、気づきと正知の、四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法についての気づき)の修行への専念の、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)の……四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)の……五つの機能(五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)の……五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)の……七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)の……聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の修行への専念の──これらの善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。このように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1872](3)どのように、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」となるのか。そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。たとえば、穴には穴に依拠する命あるものたちが臥し、水には水に依拠する命あるものたちが臥し、林には林に依拠する命あるものたちが臥し、木には木に依拠する命あるものたちが臥すように、まさしく、このように、そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1873]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [1874]「比丘たちよ、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、では、どのように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む(アンヴァーサヴァティ)、ということで、それゆえに、『内弟子(アンテーヴァーシカ)を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる(サムダーチャラティ)、ということで、それゆえに、『師匠(アーチャリヤ)を有する』と説かれます。

 

 [1875]比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……舌によって、味感を味わって……身によって、感触と接触して……意によって、法(意の対象)を識知して、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が流れ込む、ということで、それゆえに、『内弟子を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる、ということで、それゆえに、『師匠を有する』と説かれます。比丘たちよ、まさに、このように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます」と。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1876]まさに、このことが、世尊によって説かれた。

 

 [1877]「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。憤怒()は……略……。迷妄()は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものがあります。

 

 [1878]〔そこで、詩偈に言う〕『義(道理)ならざるものを生むのが、貪欲〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、貪欲〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1879]貪る者は、義(道理)を知らない。貪る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、貪欲〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [1880]義(道理)ならざるものを生むのが、憤怒〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、憤怒〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1881]怒る者は、義(道理)を知らない。怒る者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、憤怒〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。

 

 [1882]義(道理)ならざるものを生むのが、迷妄〔の思い〕である。〔人の〕心を乱すのが、迷妄〔の思い〕である。〔心の〕内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。

 

 [1883]迷う者は、義(道理)を知らない。迷う者は、法(真理)を見ない。すなわち、人を、迷妄〔の思い〕が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る』」と。

 

 [1884]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1885]まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「大王よ、三つのものがあります。まさに、〔これらの〕法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、憤怒という……略……。大王よ、まさに、迷妄という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。

 

 [1886]〔そこで、詩偈に言う〕『貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する──果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕ように、自己から発生した〔三つのもの〕が』」と。

 

 [1887]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。

 

 [1888]さらに、このこともまた、世尊によって説かれた。

 

 [1889]〔そこで、詩偈に言う〕「そして、貪欲は、さらに、憤怒は、因縁として〔まさに〕これ〔自身〕から〔生じる〕(自己自身から生起する)。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、〔まさに〕これ〔自身〕から生じる。諸々の思考は、〔まさに〕これ〔自身〕から現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てる〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」と。

 

 [1890]このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「世において」とは、人間の世において。ということで、「世において、どれだけの危難があるのですか」。

 

 [1891]「〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴きつつある者にとって」とは、〔いまだ〕赴かざる方角は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。過去に赴いたことなき、その方角は、この長時にあって、過去に赴いたことがある、その方角ではない。

 

 [1892]〔そこで、詩偈に言う〕「あたかも、残すことなく縁まで一杯の油の鉢を持ち運ぶように、このように、自らの心を守るがよい──過去に赴いたことなき方角を望み求めているなら」〔と〕──

 

 [1893]過去に赴いたことなき方角に、行きつつある者にとって、赴きつつある者にとって、進みつつある者にとって。ということで、「〔いまだ〕赴かざる方角に赴きつつある者にとって」。

 

 [1894]「それらを征服するのが、比丘であるとして」とは、「それらを」とは、それらの危難を、等しく征服するべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「それらを征服するのが、比丘であるとして」。

 

 [1895]「辺地の臥坐所において」とは、辺地において、辺境において、最辺地において、あるいは、岩の辺地において、あるいは、林の辺地において、あるいは、川の辺地において、あるいは、水の辺地において、そこにおいては、耕されず、蒔かれず、人境を超え行って、人間たちの行境にあらざる臥坐所において。ということで、「辺地の臥坐所において」。

 

 [1896]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1897]「〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)に赴きつつある者にとって、世において、どれだけの危難があるのですか。辺地の臥坐所において、それらを征服するのが、比丘であるとして」と。

 

196.

 

 [1898]967.(961) 彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途(言葉の用い方)として存するべきですか。彼にとって、どのようなものが、この〔世において〕、諸々の境涯(行為のあり方)として存するべきですか。自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘にとって、どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか。(7)

 

 [1899]「彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途(言葉の用い方)として存するべきですか」とは、「どのような言葉の用途を、何を確立した〔言葉の用途〕を、何を流儀とする〔言葉の用途〕を、何を相似とする〔言葉の用途〕を、具備した者として〔世に〕存するべきであるのか」と、言葉の完全なる清浄を尋ねる。どのようなものが、言葉の完全なる清浄であるのか。ここに、比丘が、(1)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、正直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有る。(2)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有る。(3)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有る。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有る。(4)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有る。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有る。〔彼は〕四つの言葉による善き行ない(虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)を具備した者として、四つの汚点から離れ去った言葉を語り、三十二の畜生の議論(無用論・無駄話:[1449]参照)から、離れた者として(※)、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。〔彼は〕十の議論の基盤(根拠)を議論する。それは、すなわち、この、(1)少なき欲求たること(少欲)についての議論を議論し、(2)満ち足りていること(知足)についての議論を議論し、(3)遠離についての議論を……(4)〔世俗と〕交わりなきことについての議論を……(5)精進勉励についての議論を……(6)戒についての議論を……(7)禅定についての議論を……(8)智慧についての議論を……(9)解脱についての議論を……(10)解脱の知見についての議論を……〔四つの〕気づきの確立(四念処・四念住)についての議論を……〔四つの〕正しい精励(四正勤)についての議論を……〔四つの〕神通の足場(四神足)についての議論を……〔五つの〕機能(五根)についての議論を……〔五つの〕力(五力)についての議論を……〔七つの〕覚りの支分(七覚支)についての議論を……〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)についての議論を……〔沙門の〕果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)についての議論を……涅槃についての議論を議論する──言葉によって、〔自己が〕制された者として、〔自己が〕傾念された者として、〔自己が〕遍く傾念された者として、〔自己が〕守られた者として、〔自己が〕保護された者として、〔自己が〕守護された者として、〔自己が〕統御された者として。これが、言葉の完全なる清浄である。このような言葉の完全なる清浄を具備した者として、〔彼は〕存するべきである。ということで、「彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途として存するべきですか」。

 

※ テキストには ārato assa とあるが、PTS版により ārato と読む。

 

 [1900]「彼にとって、どのようなものが、この〔世において〕、諸々の境涯(行為のあり方)として存するべきですか」とは、「どのような境涯を、何を確立した〔境涯〕を、何を流儀とする〔境涯〕を、何を相似とする〔境涯〕を、具備した者として〔世に〕存するべきであるのか」と、境涯を尋ねる。(1)〔正しい〕境涯が存在し、(2)〔正しい〕境涯ならざるものが存在する。

 

 [1901](2)どのようなものが、〔正しい〕境涯ならざるものであるのか。ここに、一部の者は、あるいは、娼婦を境涯とする者(娼婦のもとに足しげく通う者)として〔世に〕有り、あるいは、寡婦を境涯とする者として〔世に〕有り、あるいは、年増娘を境涯とする者として〔世に〕有り、あるいは、陰間を境涯とする者として〔世に〕有り、あるいは、比丘尼を境涯とする者として〔世に〕有り、あるいは、酒場を境涯とする者として〔世に〕有り、王たちと、王の大臣たちと、異教の者たちと、異教の弟子たちと、〔正しい行為に〕随順しない交わり方で交わる者として〔世に〕住む。また、あるいは、すなわち、それらの家々が、比丘たちに、比丘尼たちに、在俗信者たちに、在俗女性信者たちに、信なく、浄信なく、給水者と成ることなく(布施をしない)、罵倒し口撃し、義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する〔家々〕であるなら、そのような形態の家々に、慣れ親しみ、親近し、奉侍する。これが、〔正しい〕境涯ならざるものと説かれる。

 

 [1902]さらに、あるいは、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御されていない者として赴く。象〔兵〕を眺めながら、馬〔兵〕を眺めながら、車〔兵〕を眺めながら、歩〔兵〕を眺めながら、女たちを眺めながら、男たちを眺めながら、少年たちを眺めながら、少女たちを眺めながら、店の内を眺めながら、家の入り口を眺めながら、上を眺めながら、下を眺めながら、方々を眺め見ながら、赴く。これもまた、〔正しい〕境涯ならざるものと説かれる。

 

 [1903]さらに、あるいは、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成る〕。……略([1443]参照)……。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成る〕。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践せず、意の機能を守らず、意の機能における統御を惹起しない。これもまた、〔正しい〕境涯ならざるものと説かれる。

 

 [1904]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念する者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃(シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念する者として〔世に〕有る。これもまた、〔正しい〕境涯ならざるものと説かれる。

 

 [1905]五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)もまた、〔正しい〕境涯ならざるものである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩んではいけません。比丘たちよ、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕を得るでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象(所縁)を得るでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、〔自己の〕境涯ならざる他者の境域なのですか。すなわち、この、五つの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、これが、比丘にとって、〔正しい〕境涯ならざる他者の境域と説かれます」〔と〕。これもまた、〔正しい〕境涯ならざるものと説かれる。

 

 [1906](1)どのようなものが、〔正しい〕境涯であるのか。ここに、比丘が、娼婦を境涯とする者(娼婦のもとに足しげく通う者)ではなく〔世に〕有り、寡婦を境涯とする者ではなく〔世に〕有り、年増娘を境涯とする者ではなく〔世に〕有り、陰間を境涯とする者ではなく〔世に〕有り、比丘尼を境涯とする者ではなく〔世に〕有り、酒場を境涯とする者ではなく〔世に〕有り、王たちと、王の大臣たちと、異教の者たちと、異教の弟子たちと、〔正しい行為に〕随順しない交わり方で交わらない者として〔世に〕住む。また、あるいは、すなわち、それらの家々が、比丘たちに、比丘尼たちに、在俗信者たちに、在俗女性信者たちに、信あり、浄信あり、給水者と成り(布施をする)、袈裟を灯火とし、聖賢の風が行き来し、義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する〔家々〕であるなら、そのような形態の家々に、慣れ親しみ、親近し、奉侍する。これが、〔正しい〕境涯と説かれる。

 

 [1907]さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御された者として赴く。象〔兵〕を眺めることなく、馬〔兵〕を眺めることなく、車〔兵〕を眺めることなく、歩〔兵〕を眺めることなく、女たちを眺めることなく、男たちを眺めることなく、少女たちを眺めることなく、少年たちを眺めることなく、店の内を眺めることなく、家の入り口を眺めることなく、上を眺めることなく、下を眺めることなく、方々を眺め見ることなく、赴く。これもまた、〔正しい〕境涯と説かれる。

 

 [1908]さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず……略([1446]参照)……。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ない。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起する。これもまた、〔正しい〕境涯と説かれる。

 

 [1909]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念しない者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽……略……閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有る。これもまた、〔正しい〕境涯と説かれる。

 

 [1910]四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法についての気づき)もまた、〔正しい〕境涯である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩みなさい。比丘たちよ、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕を得ないでしょうし、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ないでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域なのですか。すなわち、この、四つの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これが、比丘にとって、〔正しい〕境涯たる自らの父祖の境域と説かれます」〔と〕。これもまた、〔正しい〕境涯と説かれる。このような境涯を具備した者として、〔彼は〕存するべきである。ということで、「彼にとって、どのようなものが、この〔世において〕、諸々の境涯として存するべきですか」。

 

 [1911]「どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか」とは、「どのような戒や掟を、何を確立した〔戒や掟〕を、何を流儀とする〔戒や掟〕を、何を相似とする〔戒や掟〕を、具備した者として〔世に〕存するべきであるのか」と、戒や掟の完全なる清浄を尋ねる。どのようなものが、戒や掟の完全なる清浄であるのか。(1)まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるものが存在する。(2)掟ではあるが、戒ではないものが存在する。(1)どのように、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。すなわち、そこにおける、自制、統御、違犯なきことが、これが、戒であり、すなわち、受持することが、それが、掟である。統御の義(意味)によって、戒となり、受持の義(意味)によって、掟となる。これが、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもある、と説かれる。

 

 [1912](2)どのように、掟ではあるが、戒ではないのか。八つの払拭〔行〕(頭陀)の支分がある。林にある者についての支分、〔行乞の〕施食の者についての支分、糞掃衣の者についての支分、三つの衣料の者についての支分、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者についての支分、〔規定された食〕以後の食を否とする者についての支分、常坐〔にして不臥〕なる者についての支分、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者についての支分である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の活力によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。

 

 [1913]〔そこで、詩偈に言う〕「〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらに、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)──渇愛の矢が打破されないうちは」と──

 

 [1914]心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この結跏を破らないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この坐から出起しないであろう……。「それまで、わたしは、この〔瞑想のための〕歩行場から降りないであろう……精舎から出ないであろう……半屋根から出ないであろう……高楼から出ないであろう……楼房から出ないであろう……洞窟から出ないであろう……山窟から出ないであろう……小屋から出ないであろう……楼閣から出ないであろう……見張塔から出ないであろう……円室から出ないであろう……堂舎から出ないであろう……奉仕堂から出ないであろう……天幕から出ないであろう……。「それまで、わたしは、この木の根元から出ないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「まさしく、この、早刻時に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「まさしく、この、日中時に……略……夕刻時に……食前に……食後に……初夜(宵の内)に……中夜(真夜中)に……後夜(明け方)に……黒〔分〕(月が欠ける期間)に……白〔分〕(月が満ちる期間)に……雨期に……冬に……夏に……初年期(青年期)に……中年期(壮年期)に……後年期(老年期)に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。これが、戒や掟の完全なる清浄である。このような戒や掟の完全なる清浄を具備した者として、〔彼は〕存するべきである。ということで、「どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか」。

 

 [1915]「自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘にとって」とは、「自己を精励する」とは、諸々の善なる法(性質)において、精進に励む者にとって、強靭に至った者にとって、断固たる勤勉〔努力〕ある者にとって、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かない者(道心堅固の者)にとって、重荷を捨て置かない者(忍耐強固の者)にとって。さらに、あるいは、自己に命じる者にとって──すなわち、〔彼の〕自己が(※)、かつまた、自己の義(意味)について、かつまた、正理について、かつまた、特相について、かつまた、契機について、かつまた、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと)について、命じられたなら、〔その彼にとって〕。「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、自己に命じる者にとって。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、自己に命じる者にとって。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、自己に命じる者にとって。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある」と、自己に命じる者にとって。……略([324]参照)……。「生という縁あることから、老と死がある」と、自己に命じる者にとって。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある」と、自己に命じる者にとって。……略([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と、自己に命じる者にとって。「これは、苦しみである」と、自己に命じる者にとって。……略([324]参照)……。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、自己に命じる者にとって。「これらは、諸々の煩悩である」と、自己に命じる者にとって。……略([324]参照)……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である」と、自己に命じる者にとって。「これらの法(性質)は、証知されるべきである」と、自己に命じる者にとって。……略([324]参照)……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と、自己に命じる者にとって。六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、自己に命じる者にとって。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、自己に命じる者にとって。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、自己に命じる者にとって。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、自己に命じる者にとって。「比丘にとって」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘にとって、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘にとって。ということで、「自己を精励する比丘にとって」。

 

※ テキストには yassatthāya とあるが、PTS版により yass' attā と読む。

 

 [1916]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1917]「彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途(言葉の用い方)として存するべきですか。彼にとって、どのようなものが、この〔世において〕、諸々の境涯(行為のあり方)として存するべきですか。自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘にとって、どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか」と。

 

197.

 

 [1918]968.(962) 彼は、どのような学びを受持して、〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うのですか。(8)

 

 [1919]「彼は、どのような学びを受持して」とは、彼は、どのような学びを、取って、受持して、執取して、等しく執取して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「彼は、どのような学びを受持して」。

 

 [1920]「〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり」とは、「〔心が〕専一なる者」とは、一境の心ある者、散乱なき心ある者、乱雑なき意図ある者、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)、禅定の機能(定根)、禅定の力(定力)、正しい禅定(正定)。「賢明なる者」とは、賢明なる者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「気づきある者となり」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略([31-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「彼は、どのような学びを受持して」とは、卓越の戒の学びを尋ねる。「〔心が〕専一なる者となり」とは、卓越の心(瞑想)の学びを尋ねる。「賢明なる者となり」とは、卓越の智慧の学びを尋ねる。「気づきある者となり」とは、完全なる清浄を尋ねる。ということで、「彼は、どのような学びを受持して、〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり」。

 

 [1921]「鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うのですか」とは、鍛冶屋は、金工と説かれる。銀は、黄金と説かれる。たとえば、金工が、黄金の、粗雑なる垢をもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、中等なる垢をもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、繊細なる垢をもまた、吹き、等しく吹き、取り払うように、まさしく、このように、比丘は、自己の、諸々の粗雑なる〔心の〕汚れをもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせ、諸々の中等なる〔心の〕汚れをもまた……諸々の繊細なる〔心の〕汚れをもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。

 

 [1922]さらに、あるいは、比丘は、自己の、貪欲の垢を、憤怒の垢を、迷妄の垢を、思量の垢を、見解の垢を、〔心の〕汚れの垢を、悪しき行ないの垢を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。

 

 [1923]さらに、あるいは、正しい見解(正見)によって、誤った見解(邪見)を、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせ、正しい思惟(正思惟)によって、誤った思惟(邪思惟)を……略……正しい言葉(正語)によって、誤った言葉(邪語)を……正しい行業(正業)によって、誤った行業(邪業)を……正しい生き方(正命)によって、誤った生き方(邪命)を……正しい努力(正精進)によって、誤った努力(邪精進)を……正しい気づき(正念)によって、誤った気づき(邪念)を……正しい禅定(正定)によって、誤った禅定(邪定)を……正しい知恵(正智)によって、誤った知恵(邪智)を……正しい解脱(正解脱)によって、誤った解脱(邪解脱)を、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。

 

 [1924]さらに、あるいは、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)によって、一切の〔心の〕汚れを、一切の悪しき行ないを、一切の懊悩を、一切の苦悶を、一切の熱苦を、一切の善ならざる行作を、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。ということで、「鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うのですか」。

 

 [1925]それによって、サーリプッタ長老が言った。

 

 [1926]「彼は、どのような学びを受持して、〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うのですか」と。

 

198.

 

 [1927]969.(963) かくのごとく、世尊は〔答えた〕──サーリプッタよ、〔世俗の生活を〕忌避している者には、すなわち、この、平穏〔の境地〕があります──〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、〔彼が〕慣れ親しんでいるなら。正覚を欲する者のために、法(教え)のままなる、そのとおりに、それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。(9)

 

 [1928]「〔世俗の生活を〕忌避している者には、すなわち、この、平穏〔の境地〕があります」とは、「〔世俗の生活を〕忌避している者には」とは、生によって、〔世俗の生活を〕忌避している者には、老によって……病によって……死によって……諸々の憂いによって……諸々の嘆きによって……諸々の苦痛によって……諸々の失意によって……諸々の葛藤によって……略([1855]参照)……見解の災厄の苦しみによって、〔世俗の生活を〕忌避している者には、苦悩している者には、自責している者には、忌避している者には。ということで、「〔世俗の生活を〕忌避している者には」。「すなわち、この、平穏〔の境地〕があります」とは、すなわち、平穏の住があり、それを、〔わたしは〕言説するであろう。どのようなものが、平穏の住であるのか。正しい〔実践の〕道、〔真理に〕随順する〔実践の〕道、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道、遮るものなき〔実践の〕道、義(意味)のままなる〔実践の〕道、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていること、食について量を知ること、〔眠らずに〕起きていることへの専念、気づきと正知、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、そして、涅槃であり、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道である。これが、平穏の住である。ということで、「〔世俗の生活を〕忌避している者には、すなわち、この、平穏〔の境地〕があります」。

 

 [1929]「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──サーリプッタよ」とは、その長老に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を滅壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(意味)の味を、法(教え)の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心(瞑想)を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想(四禅)を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱(八解脱)を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき(安般念)という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は〔答えた〕──サーリプッタよ」。

 

 [1930]「〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、〔彼が〕慣れ親しんでいるなら」とは、坐所は、そこにおいて坐るところと説かれる。坐床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。臥所は、臥坐所と説かれる。精舎、半屋根、高楼、楼房、洞窟である。その臥坐所は、正当ならざる形態を見ることから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる音声を聞くことから……略……正当ならざる五つの欲望の属性から、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてある。その臥坐所に、慣れ親しんでいるとして、慣用しているとして、等しく慣れ親しんでいるとして、受用しているとして。ということで、「〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、〔彼が〕慣れ親しんでいるなら」。

 

 [1931]「正覚を欲する者のために、法(教え)のままなる、そのとおりに」とは、正覚は、四つの〔聖者の〕道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵()、智慧(慧・般若)、智慧の機能(慧根)、智慧の力(慧力)、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)、〔あるがままの〕考察、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)、正しい見解(正見)、と説かれる。その正覚を、覚ることを欲する者のために、随覚することを欲する者のために、醒覚することを欲する者のために、正覚することを欲する者のために、到達することを欲する者のために、体得することを欲する者のために、実証することを欲する者のために。ということで、「正覚を欲する者のために」。

 

 [1932]「法(教え)のままなる、そのとおりに」とは、どのようなものが、覚り(菩提)のための諸々の法(教え)のままなるものであるのか。正しい〔実践の〕道、〔真理に〕随順する〔実践の〕道、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道、遮るものなき〔実践の〕道、義(意味)のままなる〔実践の〕道、法(教え)が法(教え)のままなる〔実践の〕道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の〔感官の〕機能において門が守られていること、食について量を知ること、〔眠らずに〕起きていることへの専念、気づきと正知、これらが、覚りのための諸々の法(教え)のままなるものと説かれる。さらに、あるいは、四つの〔聖者の〕道の、前段部分における〔あるがままの〕観察、これらが、覚りのための諸々の法(教え)のままなるものと説かれる。ということで、「正覚を欲する者のために、法(教え)のままなる、そのとおりに」。

 

 [1933]「それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」とは、「それを」とは、覚りのための法(教え)のままなるものを。「言示しましょう」とは、〔わたしは〕言示するであろう、〔わたしは〕告げ知らせるであろう、〔わたしは〕説示するであろう、〔わたしは〕報知するであろう、〔わたしは〕確立するであろう、〔わたしは〕開顕するであろう、〔わたしは〕区分するであろう、〔わたしは〕明瞭と為すであろう、〔わたしは〕明示するであろう。「〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」とは、覚知している、そのとおりに、すなわち、覚知している者として、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法(真理)を、それを、〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」。

 

 [1934]それによって、世尊は言った。

 

 [1935]かくのごとく、世尊は〔答えた〕──「サーリプッタよ、〔世俗の生活を〕忌避している者には、すなわち、この、平穏〔の境地〕があります──〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、〔彼が〕慣れ親しんでいるなら。正覚を欲する者のために、法(教え)のままなる、そのとおりに、それを、あなたに言示しましょう──〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」と。

 

199.

 

 [1936]970.(964) 慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように。比丘は、気づきある者となり、制限を有する〔道〕を歩む者(戒律等の行為の制限を自らに課す者)となり、虻と蚋(ぶゆ)たちに、蛇たちに、人間たちとの接触(悪人と遭遇すること)に、四足〔の動物〕たちに、〔恐怖しないように〕。(10)

 

 [1937]「慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように」とは、「慧者」とは、慧者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。慧者は、五つの恐怖に、恐怖するべきではなく、恐れるべきではなく、等しく恐れるべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕存するべきであり、〔世に〕住むべきである。ということで、「慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように」。

 

 [1938]「比丘は、気づきある者となり、制限を有する〔道〕を歩む者(戒律等の行為の制限を自らに課す者)となり」とは、「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘は。「気づきある者となり」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……略……心における……諸々の法(性質)における法(性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略([31-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「制限を有する〔道〕を歩む者となり」とは、四つの制限がある。(1)戒による統御という制限、(2)〔感官の〕機能における統御という制限、(3)食について量を知ることという制限、(4)〔眠らずに〕起きていることへの専念という制限である。

 

 [1939](1)どのようなものが、戒による統御という制限であるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶ。内なる腐敗の状態を綿密に注視しながら、戒による統御という制限の内を歩み、〔その〕制約を破らない。これが、戒による統御という制限である。

 

 [1940](2)どのようなものが、〔感官の〕機能における統御という制限であるのか。ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ない。……略([1446]参照)……眼の機能における統御を惹起する。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ない。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起する。燃え盛るものの教相を綿密に注視しながら、〔感官の〕機能における統御という制限の内を歩み、〔その〕制約を破らない。これが、〔感官の〕機能における統御という制限である。

 

 [1941](3)どのようなものが、食について量を知ることという制限であるのか。ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。車軸に塗油することや傷を覆うことや子の肉の喩えを綿密に注視しながら、食について量を知ることという制限の内を歩み、〔その〕制約を破らない。これが、食について量を知ることという制限である。

 

 [1942](4)どのようなものが、〔眠らずに〕起きていることへの専念という制限であるのか。ここに、比丘が、昼には、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清め、夜の初夜のあいだ(宵の内)は、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清め、夜の中夜のあいだ(真夜中)は、気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営み(右脇を下にして獅子のように臥す)、夜の後夜のあいだ(明け方)は、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清める。賢く幸いなる一夜ある者の住(中部経典第一三一『一夜賢者経』参照)を綿密に注視しながら、〔眠らずに〕起きていることへの専念という制限の内を歩み、〔その〕制約を破らない。これが、〔眠らずに〕起きていることへの専念という制限である。ということで、「比丘は、気づきある者となり、制限を有する〔道〕を歩む者となり」。

 

 [1943]「虻と蚋たちに、蛇たちに」とは、虻たちは、赤眼蝿たちと説かれる。蚋たちは、一切もろともの蝿の衆と説かれる。何を契機とすることから、蚋たちは、一切もろともの蝿の衆と説かれるのか。彼らは、飛び上がっては飛び上がって喰う。それを契機とすることから、蚋たちは、一切もろともの蝿の衆と説かれる。蛇(サリーサパ)たちは、蛇(アヒ)たちと説かれる。ということで、「虻と蚋たちに、蛇たちに」。

 

 [1944]「人間たちとの接触(悪人と遭遇すること)に、四足〔の動物〕たちに、〔恐怖しないように〕」とは、人間たちとの接触は、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕若者たちが──あるいは、〔すでに〕行為を為した者(既遂の者)たちとして、あるいは、〔いまだ〕行為を為していない者(未遂の者)たちとして──存するべきであり、〔そのような者たちと〕説かれる。彼らは、比丘に、あるいは、問いを尋ねるであろう、あるいは、論を提起するであろう、罵倒するであろう、口撃するであろう、悩ませるであろう、苦しめるであろう、害するであろう、悩害するであろう、傷つけるであろう、悩み苦しめるであろう、傷害するであろう、害障するであろう、あるいは、害障を為すであろう。それが何であれ、人間からの害障は、人間の接触である。「四足〔の動物〕たちに」とは、獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち。彼らは、比丘を、踏み敷くであろう、喰うであろう、害するであろう、悩害するであろう、傷つけるであろう、悩み苦しめるであろう、傷害するであろう、害障するであろう、あるいは、害障を為すであろう。四足〔の動物〕からの害障は、それが何であれ、四足〔の動物〕の恐怖である。ということで、「人間たちとの接触に、四足〔の動物〕たちに、〔恐怖しないように〕」。

 

 [1945]それによって、世尊は言った。

 

 [1946]「慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように。比丘は、気づきある者となり、制限を有する〔道〕を歩む者(戒律等の行為の制限を自らに課す者)となり、虻と蚋(ぶゆ)たちに、蛇たちに、人間たちとの接触(悪人と遭遇すること)に、四足〔の動物〕たちに、〔恐怖しないように〕」と。

 

200.

 

 [1947]971.(965) また、他の法(教え)にしたがう者(異教徒)たちに──たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても──恐慌しないように。そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように。(11)

 

 [1948]「また、他の法(教え)にしたがう者(異教徒)たちに──たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても──恐慌しないように」とは、他の法(教え)にしたがう者たちは、法(教え)を共にする七者(比丘・比丘尼・正学女・沙弥・沙弥尼・在俗信者・女性在俗信者)を除いて、彼らが誰であれ、覚者にたいし、法(教え)にたいし、僧団にたいし、浄信していない者たちと説かれる。彼らは、比丘に、あるいは、問いを尋ねるであろう、あるいは、論を提起するであろう、罵倒するであろう、口撃するであろう、悩ませるであろう、苦しめるであろう、害するであろう、悩害するであろう、傷つけるであろう、悩み苦しめるであろう、傷害するであろう、害障するであろう、あるいは、害障を為すであろう。彼らの、多くの恐ろしいことを、あるいは、見て、あるいは、聞いて、動揺するべきではなく、強く動揺するべきではなく、等しく動揺するべきではなく、恐れるべきではなく、恐慌するべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐怖するべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕存するべきであり、〔世に〕住むべきである。ということで、「また、他の法(教え)にしたがう者たちに──たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても──恐慌しないように」。

 

 [1949]「そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように」とは、そこで、他にもまた、諸々の等しく征服されるべきものが、諸々の征服されるべきものが、諸々の覆い尽くされるべきものが、諸々の完全に奪い去られるべきものが、諸々の踏みにじられるべきものが、存在する。「諸々の危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1)そして、諸々の明白なる危難であり、(2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。……略([48-69]参照)……。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「善を追い求める者となり」とは、正しい〔実践の〕道を、〔真理に〕随順する〔実践の〕道を、正反対のもの(敵対者)なき〔実践の〕道を、遮るものなき〔実践の〕道を、義(意味)のままなる〔実践の〕道を……略([50]参照)……聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕道を、探し求めている者によって、追求している者によって、遍く探し求めている者によって、諸々の危難が、等しく征服されるべきであり、征服されるべきであり、覆い尽くされるべきであり、完全に奪い去られるべきであり、踏みにじられるべきである。ということで、「そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように」。

 

 [1950]それによって、世尊は言った。

 

 [1951]「また、他の法(教え)にしたがう者(異教徒)たちに──たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても──恐慌しないように。そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように」と。

 

201.

 

 [1952]972.(966) 病いに罹り、飢えに襲われたとして、寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように。家なき者たる彼は、それら〔の危難〕に、多種に襲われたとして、精進と勤勉〔努力〕を、断固として為すように。(12)

 

 [1953]「病いに罹り、飢えに襲われたとして」とは、病いに罹った者は、病の接触ある者と説かれる。病の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら。眼の病によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら、耳の病によって……鼻の病によって……舌の病によって……身の病によって……略([1456]参照)……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら。飢えは、空腹と説かれる。空腹の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら。ということで、「病いに罹り、飢えに襲われたとして」。

 

 [1954]「寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように」とは、「寒さ」とは、二つの契機によって、寒さと成る。あるいは、内部の界域の動乱(体調不良)を所以に、寒さと成り、あるいは、外なる季節を所以に、寒さと成る。「暑さ」とは、二つの契機によって、暑さと成る。あるいは、内部の界域の動乱(体調不良)を所以に、暑さと成り、あるいは、外なる季節を所以に、暑さと成る。ということで、「寒さを、さらに、暑さを」。「耐え忍ぶように」とは、忍耐ある者として〔世に〕存するべきである。寒さに、暑さに、飢えに、渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、悪しく説かれ悪しく言及された諸々の言葉の用途に、肉体のものとして生起した強烈で粗野で辛辣で不快で意に適わず生を奪う諸々の苦痛の感受に、耐え忍ぶ類の者として〔世に〕存するべきである。ということで、「寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように」。

 

 [1955]「家なき者たる彼は、それら〔の危難〕に、多種に襲われたとして」とは、「彼は、それら〔の危難〕に」とは、そして、病悩の接触によって、そして、飢えによって、そして、寒さによって、そして、暑さによって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら。ということで、「彼は、それら〔の危難〕に、襲われたとして」。「多種に」とは、無数なる種類の行相によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備した者として、〔世に〕存するなら。ということで、「彼は、それら〔の危難〕に、多種に襲われたとして」。「家なき者(アノーカ)」とは、諸々の行作を共具した識知〔作用〕のための機会(オーカ)を作らない、ということでもまた、「家なき者」。さらに、あるいは、身体による悪しき行ないのための、言葉による悪しき行ないのための、意による悪しき行ないのための、機会を作らない、ということでもまた、「家なき者」。ということで、「家なき者たる彼は、それら〔の危難〕に、多種に襲われたとして」。

 

 [1956]「精進と勤勉〔努力〕を、断固として為すように」とは、精進と勤勉〔努力〕は、すなわち、心の属性にして、精進勉励、勤しむこと、勤勉、努めること、努力、邁進、勤勇、反転なき〔精励〕、強靭、〔道心〕堅固、緩慢ならざる勤勉たること、欲〔の思い〕(意欲)を捨て置かないこと、重荷を捨て置かないこと、重荷の堅持、精進、精進の機能(精進根)、精進の力(精進力)、正しい努力(正精進)である。「精進と勤勉〔努力〕を、断固として為すように」とは、精進を、勤勉〔努力〕を、断固として為すべきであり、強固として為すべきであり、断固たる受持ある者として、受持を確立した者として、〔世に〕存するべきである。ということで、「精進と勤勉〔努力〕を、断固として為すように」。

 

 [1957]それによって、世尊は言った。

 

 [1958]「病いに罹り、飢えに襲われたとして、寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように。家なき者たる彼は、それら〔の危難〕に、多種に襲われたとして、精進と勤勉〔努力〕を、断固として為すように」と。

 

202.

 

 [1959]973.(967) 盗みを為さないように。虚偽を話さないように。動くものと動かないものたち(一切の生類)に、慈愛〔の心〕で接するように。意に混濁あることを識知するなら、そのときは、「黒き者(悪魔)の徒である」と、除き去るように。(13)

 

 [1960]「盗みを為さないように。虚偽を話さないように」とは、「盗みを為さないように」とは、ここに、比丘は、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として、与えられたもの〔だけ〕を取る者として、与えられたもの〔だけ〕を待っている者として、〔世に〕存するべきであり、盗むことなく清らかと成った自己によって〔世に〕住むべきである。ということで、「盗みを為さないように」。「虚偽を話さないように」とは、ここに、比丘は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、正直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕存するべきである。ということで、「盗みを為さないように。虚偽を話さないように」。

 

 [1961]「動くものと動かないものたち(一切の生類)に、慈愛〔の心〕で接するように」とは、「慈愛〔の心〕」とは、すなわち、有情たちにたいする、慈愛、慈愛すること、慈愛あること、思いやり、思いやること、思いやりあること、益を探し求めること、慈しみ、憎悪なき、憎悪なくあること、憤怒なき、善なるものの根元である。「動くものたち」とは、彼らの、〔心の〕動き(恐れ・渇き)としての渇愛が〔いまだ〕捨棄されていない者たち、さらに、彼らの、恐怖と恐ろしさが〔いまだ〕捨棄されていない者たち。何を契機とすることから、動くものたちと説かれるのか。彼らは、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、恐慌を惹起する。それを契機とすることから、動くものたちと説かれる。「動かないものたち」とは、彼らの、〔心の〕動き(恐れ・渇き)としての渇愛が〔すでに〕捨棄された者たち、さらに、彼らの、恐怖と恐ろしさが〔すでに〕捨棄された者たち。何を契機とすることから、動かないものたちと説かれるのか。彼らは、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、恐慌を惹起しない。それを契機とすることから、動かないものたちと説かれる。「動くものと動かないものたちに、慈愛〔の心〕で接するように」とは、かつまた、動くものたちにも、かつまた、動かないものたちにも、慈愛〔の心〕で、接するべきであり、充満するべきである。広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住むべきである。ということで、「動くものと動かないものたちに、慈愛〔の心〕で接するように」。

 

 [1962]「意に混濁あることを識知するなら、そのときは」とは、「そのときは」とは、そのとき。「意に」とは、すなわち、心、意(マノー)、意図(マーナサ)、心臓(心)、白きもの(認識の領域)、意(マノー)、意の〔認識の〕場所(意処)、意の機能(意根)、識知〔作用〕()、識知〔作用〕の範疇(識蘊)、それに応じる意の識知〔作用〕の界域(意識界)である。身体による悪しき行ないによって、心は、混濁し、掻き乱され、揺らぎ、対立し、揺れ動き、迷走し、寂止ならざるものと成る。言葉による悪しき行ないによって……略……。意による悪しき行ないによって……。貪欲によって……。憤怒によって……。迷妄によって……。忿激によって……。怨恨によって……。偽装によって……。加虐によって……。嫉妬によって……。物惜によって……。幻惑によって……。狡猾によって……。強情によって……。激昂によって……。思量によって……。高慢によって……。驕慢によって……。放逸によって……。一切の〔心の〕汚れによって……。一切の悪しき行ないによって……。一切の懊悩によって……。一切の苦悶によって……。一切の熱苦によって……。一切の善ならざる行作によって、心は、混濁し、掻き乱され、揺らぎ、対立し、揺れ動き、迷走し、寂止ならざるものと成る。「意に混濁あることを識知するなら、そのときは」とは、心の、混濁の状態を、知るなら、了知するなら、識知するなら、解知するなら、理解するなら。ということで、「意に混濁あることを識知するなら、そのときは」。

 

 [1963]「『黒き者の徒(悪魔)である』と、除き去るように」とは、「黒き者」とは、すなわち、〔まさに〕その、悪魔、黒き者、君主、終極に至る者、ナムチ、放逸の眷属である。「黒き者の徒であり、悪魔の徒であり、悪魔の罠であり、悪魔の釣針であり、悪魔の餌であり、悪魔の境域であり、悪魔の居住であり、悪魔の境涯であり、悪魔の結縛である」と、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、このようにもまた、「『黒き者の徒である』と、除き去るように」。さらに、あるいは、「黒き者の徒であり、悪魔の徒であり、善ならざるものの徒であり、苦しみの生成であり、苦しみの報いであり、地獄のために等しく転起するものであり、畜生の胎のために等しく転起するものであり、餓鬼の境域のために等しく転起するものである」と、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、このようにもまた、「『黒き者の徒である』と、除き去るように」。

 

 [1964]それによって、世尊は言った。

 

 [1965]「盗みを為さないように。虚偽を話さないように。動くものと動かないものたち(一切の生類)に、慈愛〔の心〕で接するように。意に混濁あることを識知するなら、そのときは、『黒き者(悪魔)の徒である』と、除き去るように」と。

 

203.

 

 [1966]974.(968) 忿激と高慢の支配に赴かないように。それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように。そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように。(14)

 

 [1967]「忿激と高慢の支配に赴かないように」とは、「忿激」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣……略([811]参照)……狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。「高慢」とは、ここに、一部の者は、他者を軽んじる──あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。「忿激と高慢の支配に赴かないように」とは、そして、忿激の、さらに、高慢の、支配に赴くべきではなく、そして、忿激を、さらに、高慢を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「忿激と高慢の支配に赴かないように」。

 

 [1968]「それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように」とは、どのようなものが、忿激の、根元であるのか。無明は、根元である。根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)は、根元である。「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)は、根元である。恥〔の思い〕なき(無慚)は、根元である。〔良心の〕咎めなき(無愧)は、根元である。〔心の〕高揚(掉挙)は、根元である。これが、忿激の、根元である。どのようなものが、高慢の、根元であるのか。無明は、根元である。根源のままならずに意を為すことは、根元である。「〔わたしは〕存在する」という思量は、根元である。恥〔の思い〕なきは、根元である。〔良心の〕咎めなきは、根元である。〔心の〕高揚は、根元である。これが、高慢の、根元である。「それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように」とは、そして、忿激の、さらに、高慢の、根元を、掘り尽くして、取り出して、等しく取り出して、摘出して、等しく摘出して、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、安立するべきであり、確立するべきである。ということで、「それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように」。

 

 [1969]「そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しい有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちであり、あるいは、母として、あるいは、父として、あるいは、兄弟たちとして、あるいは、姉妹たちとして、あるいは、子たちとして、あるいは、娘たちとして、あるいは、朋友たちとして、あるいは、僚友たちとして、あるいは、親族たちとして、あるいは、血縁たちとして、〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しい有情たちである。(2)どのようなものが、諸々の愛しい形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭気、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕である。「愛しくないもの」とは、二つの愛しくないものがある。(1)あるいは、有情たちであり、(2)あるいは、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。(1)どのような者たちが、愛しくない有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲し、生命を奪うことを欲する者たちとして〔世に〕有るなら、これらの者たちが、愛しくない有情たちである。(2)どのようなものが、諸々の愛しくない形成〔作用〕であるのか。諸々の意に適わない形態、諸々の意に適わない音声、諸々の意に適わない臭気、諸々の意に適わない味感、諸々の意に適わない感触である。これらが、諸々の愛しくない形成〔作用〕である。「確実に」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、誤解なき言葉、確保する言葉。これが、「確実に」ということになる。「そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように」とは、愛しいものと愛しくないものを、快と不快を、安楽と苦痛を、悦意と失意を、好ましいものと好ましくないものを、あるいは、等しく征服している者として征服するべきであり、あるいは、征服している者として等しく征服するべきである。ということで、「そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように」。

 

 [1970]それによって、世尊は言った。

 

 [1971]「忿激と高慢の支配に赴かないように。それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように。そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように」と。

 

204.

 

 [1972]975.(969) 智慧を尊んで、善きことに喜悦ある者となり、それらの危難を除き鎮めるように。辺境の臥所における不満〔の思い〕を打ち負かすように。四つの嘆き悲しみの法(事象)を打ち負かすように。(15)

 

 [1973]「智慧を尊んで、善きことに喜悦ある者となり」とは、「智慧」とは、すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別……略([167]参照)……迷妄なき〔あり方〕、法(真理)の判別、正しい見解である。「智慧を尊んで」とは、ここに、一部の者は、智慧を尊んで〔世を〕歩む──智慧を旗とする者として、智慧を幟とする者として、智慧を優位とする者として、判別が多くある者として、精査が多くある者として、見察が多くある者として、正しい見察が多くある者として、明確なる住者として、それを所行とする者として、それが多くある者として、それに尊重ある者として、それに向かい行く者として、それに傾倒する者として、それに傾斜する者として、それを信念した者として、それを優位とする者として。ということで、このようにもまた、「智慧を尊んで」。

 

 [1974]さらに、あるいは、あるいは、赴きつつあるなら、「〔わたしは〕赴く」と覚知し、あるいは、立っているなら、「立っている者として、〔わたしは〕存している」と覚知し、あるいは、坐っているなら、「坐っている者として、〔わたしは〕存している」と覚知し、あるいは、臥しているなら、「臥している者として、〔わたしは〕存している」と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知する。ということで、このようにもまた、「智慧を尊んで」。

 

 [1975]さらに、あるいは、前進するとき、後進するとき、正知を為す者として有り、前視するとき、後視するとき、正知を為す者として有り、屈曲するとき、伸直するとき、正知を為す者として有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として有り、食べるとき、飲むとき、咀嚼するとき、味わうとき、正知を為す者として有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として有り、赴くとき、立つとき、坐るとき、眠るとき、起きているとき、語るとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として有る。ということで、このようにもまた、「智慧を尊んで」。

 

 [1976]「善きことに喜悦ある者となり」とは、覚者の随念を所以に、喜悦と歓喜が生起し、善きことに喜悦ある者となる、ということで──法(教え)の随念と僧団の随念と戒の随念と施捨の随念と天神たちの随念と呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)と死についての気づき(死念:死の瞑想)と身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)と寂止の随念を所以に、喜悦と歓喜が生起し、善きことに喜悦ある者となる、ということで──「智慧を尊んで、善きことに喜悦ある者となり」。

 

 [1977]「それらの危難を除き鎮めるように」とは、「諸々の危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1)そして、諸々の明白なる危難であり、(2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。(1)……略([48]参照)……これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。(2)……略([49]参照)……これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。……略([48-69]参照)……。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「それらの危難を除き鎮めるように」とは、それらの危難を、鎮静するべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「それらの危難を除き鎮めるように」。

 

 [1978]「辺境の臥所における不満〔の思い〕を打ち負かすように」とは、「不満」とは、不満〔の思い〕、不満なること、歓楽なき〔思い〕、歓楽しないこと、嫌悪すること、恐慌すること。「辺境の臥所において」とは、あるいは、諸々の辺地の臥坐所における、あるいは、諸々の何らかの或る卓越の善なる法(性質)における、不満を、打ち負かすべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「辺境の臥所における不満〔の思い〕を打ち負かすように」。

 

 [1979]「四つの嘆き悲しみの法(事象)を打ち負かすように」とは、四つの嘆き悲しみの法(事象)を、打ち負かすべきであり、遍く打ち負かすべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「四つの嘆き悲しみの法(事象)を打ち負かすように」。

 

 [1980]それによって、世尊は言った。

 

 [1981]「智慧を尊んで、善きことに喜悦ある者となり、それらの危難を除き鎮めるように。辺境の臥所における不満〔の思い〕を打ち負かすように。四つの嘆き悲しみの法(事象)を打ち負かすように」と。

 

205.

 

 [1982]976.(970) 「いったい、何を食べようか」「あるいは、どこで食べようか」「まさに、苦しみのうちに臥した」「今日は、どこで臥そうか」〔という〕、嘆き悲しみに導く、これらの〔四つの〕思考()を、〔いまだ〕学びある者(有学)は、住所なくして歩む者となり、取り除くように。(16)

 

 [1983]「いったい、何を食べようか」「あるいは、どこで食べようか」とは、「いったい、何を食べようか」とは、何を、〔わたしは〕食べようか──あるいは、飯を、あるいは、粥を、あるいは、粉(パン類)を、あるいは、魚を、あるいは、肉を。ということで、「いったい、何を食べようか」。「あるいは、どこで食べようか」とは、どこで、〔わたしは〕食べようか──あるいは、士族の家で、あるいは、婆羅門の家で、あるいは、庶民の家で、あるいは、隷民の家で。ということで、「いったい、何を食べようか」「あるいは、どこで食べようか」。

 

 [1984]「まさに、苦しみのうちに臥した」「今日は、どこで臥そうか」とは、この夜を、苦痛のうちに臥した──あるいは、延べ板のうえで、あるいは、座布団のうえで、あるいは、皮革のうえで、あるいは、草の敷物のうえで、あるいは、葉の敷物のうえで、あるいは、藁の敷物のうえで。やってくる夜を、どこにおいて、安楽のうちに臥すのだろう──あるいは、臥床において、あるいは、椅子(ベンチ)において、あるいは、敷布において、あるいは、枕において、あるいは、半屋根において、あるいは、高楼において、あるいは、楼房において、あるいは、岩窟において。ということで、「まさに、苦しみのうちに臥した」「今日は、どこで臥そうか」。

 

 [1985]「嘆き悲しみに導く、これらの〔四つの〕思考()を」とは、「これらの思考を」とは、二つの〔行乞の〕施食に関係した思考を、二つの臥坐所に関係した思考を。「嘆き悲しみに導く」とは、諸々の悲嘆に導くものを、諸々の嘆き悲しみに導くものを。ということで、「嘆き悲しみに導く、これらの〔四つの〕思考を」。

 

 [1986]「〔いまだ〕学びある者(有学)は、住所なくして歩む者となり、取り除くように」とは、「学びある者」とは、何を契機とすることから、学びある者と説かれるのか。〔彼は〕学ぶ、ということで、「学びある者」。では、何を学ぶのか。(1)卓越の戒をもまた学び、(2)卓越の心をもまた学び、(3)卓越の智慧をもまた学ぶ。(1)どのようなものが、卓越の戒の学びであるのか。……略([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学び、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、綿密に注視している者として、心を確立している者として、学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として、気づきを現起させている者として、心を定めている者として、智慧によって覚知している者として、学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として、捨棄されるべきものを捨棄している者として、修行されるべきものを修行している者として、実証されるべきものを実証している者として、学び、習行し、励行し、受持して学ぶ。それを契機とすることから、学びある者と説かれる。取り除きのために、取り除き去りのために、捨棄のために、寂止のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として……略……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「〔いまだ〕学びある者は、取り除くように」。

 

 [1987]「住所なくして歩む者となり」とは、どのように、住所ありて歩む者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の者は、家の障害を具備した者として〔世に〕有り、衆徒の障害を……居住の障害を……衣料の障害を……〔行乞の〕施食の障害を……臥坐具の障害を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の障害を具備した者として〔世に〕有る。このように、住所ありて歩む者として〔世に〕有る。どのように、住所なくして歩む者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の者は、家の障害を具備した者ではなく〔世に〕有り、衆徒の障害を具備した者ではなく……居住の障害を具備した者ではなく……衣料の障害を具備した者ではなく……〔行乞の〕施食の障害を具備した者ではなく……臥坐具の障害を具備した者ではなく……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の障害を具備した者ではなく〔世に〕有る。このように、住所なくして歩む者として〔世に〕有る。

 

 [1988]〔そこで、詩偈に言う〕「マガダに赴いた者たちがいる。コーサラに赴いた者たちがいる。また、一部の者たちは、ヴァッジーの地にある。鹿たちのように、執着なく歩む者たち──比丘たちは、住所なき者たちとして〔世に〕住む。

 

 [1989]善きかな──〔教えとして〕歩まれたものは。善きかな──〔教えとして〕善く歩まれたものは。善きかな──常に住所なくして〔世に〕住むことは。義(意味)を尋ねること、右回り〔の礼〕の行為──これは、無一物の者にとっての、沙門の資質である」〔と〕。ということで──

 

 [1990]「〔いまだ〕学びある者は、住所なくして歩む者となり、取り除くように」。それによって、世尊は言った。

 

 [1991]「『いったい、何を食べようか』『あるいは、どこで食べようか』『まさに、苦しみのうちに臥した』『今日は、どこで臥そうか』〔という〕、嘆き悲しみに導く、これらの〔四つの〕思考()を、〔いまだ〕学びある者(有学)は、住所なくして歩む者となり、取り除くように」と。

 

206.

 

 [1992]977.(971) そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕時に得て、彼は、量を知るように──ここに、満足を義(目的)として。彼は、それら(衣食)にたいし〔自己を〕守り、村においては〔自己を〕制して歩み、たとえ、〔村人の言葉に〕悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように。(17)

 

 [1993]「そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕時に得て」とは、「食べ物」とは、飯、粥、粉、魚、肉。「衣」とは、六つの衣料がある。亜麻、木綿、絹、毛、麻、粗麻である。「そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕時に得て」とは、衣料を得て、〔行乞の〕施食を得て。虚言によってではなく、饒舌によってではなく、予言によってではなく、詐術によってではなく、利得による利得の追求によってではなく、木を与えることによってではなく、竹を与えることによってではなく、葉を与えることによってではなく、花を与えることによってではなく、果を与えることによってではなく、洗粉を与えることによってではなく、塗粉を与えることによってではなく、塗料を与えることによってではなく、楊枝を与えることによってではなく、洗顔水を与えることによってではなく、追従によってではなく、豆汁たること(半煮えの虚言)によってではなく、機嫌取りによってではなく、陰口によってではなく、地相術によってではなく、畜生術によってではなく、人相術よってではなく、占星術によってではなく、使者の派遣によってではなく、使節の派遣によってではなく、使い走りによってではなく、医療行為によってではなく、新築行為によってではなく、〔行乞の〕食のやりとりによってではなく、施し物のやりとりによってではなく、法(真理)によって、正義によって、得て、獲て、到達して、見出して、獲得して。ということで、「そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕時に得て」。

 

 [1994]「彼は、量を知るように──ここに、満足を義(目的)として」とは、「彼は、量を知るように」とは、二つの契機によって、量を知るべきである。(1)あるいは、納受〔の観点〕から。(2)あるいは、遍き受益〔の観点〕から。(1)どのように、納受〔の観点〕から、量を知るのか。たとえ、僅かのものが施されているときも、〔施してくれた〕家への思いやりによって、〔施してくれた〕家への守護によって、〔施してくれた〕家への慈しみによって、〔施物を〕納受する。たとえ、多くのものが施されているときも、身体を維持するものとして、衣料を納受し、腹を維持するものとして、〔行乞の〕施食を納受する。このように、納受〔の観点〕から、量を知る。(2)どのように、遍き受益〔の観点〕から、量を知るのか。

 

 [1995]根源のままに審慮して〔そののち〕、衣料を受用する──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて、恥〔の思い〕で隠すべきところ(陰部)を覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 [1996]根源のままに審慮して〔そののち〕、〔行乞の〕施食を受用する──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」〔と〕。

 

 [1997]根源のままに審慮して〔そののち〕、臥坐所を受用する──寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて、季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

 [1998]根源のままに審慮して〔そののち〕、病のための日用品たる薬の必需品を受用する──生起した諸々の病苦の(※)〔苦痛の〕感受の防御のために、憎悪なき〔あり方〕(息災)を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて。

 

※ テキストには veyyābyādhikāna とあるが、PTS版により veyyābādhikāna と読む。

 

 [1999]このように、遍き受益〔の観点〕から、量を知る。「彼は、量を知るように」とは、これらの二つの契機によって、量を、知るべきであり、了知するべきであり、識知するべきであり、解知するべきであり、理解するべきである。ということで、「彼は、量を知るように」。

 

 [2000]「ここに、満足を義(目的)として」とは、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。そして、衣料を得なくても、思い悩まない。さらに、衣料を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる衣料によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕説かれる。

 

 [2001]さらに、また、他に、比丘が、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることによって栄誉を説く者であり、さらに、〔行乞の〕施食を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。〔行乞の〕施食を得なくても、思い悩まない。〔行乞の〕施食を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕説かれる。

 

 [2002]さらに、また、他に、比丘が、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、臥坐具を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。臥坐具を得なくても、思い悩まない。臥坐具を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕説かれる。

 

 [2003]さらに、また、他に、比丘が、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、病のための日用品たる薬の必需品を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。病のための日用品たる薬の必需品を得なくても、思い悩まない。病のための日用品たる薬の必需品を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕説かれる。ということで、「彼は、量を知るように──ここに、満足を義(目的)として」。

 

 [2004]「彼は、それら(衣食)にたいし〔自己を〕守り、村においては〔自己を〕制して歩み」とは、「彼は、それらにたいし〔自己を〕守り」とは、衣料にたいし、〔行乞の〕施食にたいし、臥坐具にたいし、病のための日用品たる薬の必需品にたいし、〔自己が〕守られた者として、〔自己が〕保護された者として、〔自己が〕守護された者として、〔自己が〕統御された者として。ということで、このようにもまた、「彼は、それらにたいし〔自己を〕守り」。さらに、あるいは、〔六つの認識の〕場所()において、〔自己が〕守られた者として、〔自己が〕保護された者として、〔自己が〕守護された者として、〔自己が〕統御された者として。ということで、このようにもまた、「彼は、それらにたいし〔自己を〕守り」。

 

 [2005]「村においては〔自己を〕制して歩み」とは、村においては、〔自己が〕制された者として、〔自己が〕傾念された者として、〔自己が〕遍く傾念された者として、〔自己が〕守られた者として、〔自己が〕保護された者として、〔自己が〕守護された者として、〔自己が〕統御された者として。ということで、「彼は、それらにたいし〔自己を〕守り、村においては〔自己を〕制して歩み」。

 

 [2006]「たとえ、〔村人の言葉に〕悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように」とは、汚されたとして、責められたとして、打たれたとして、誹られたとして、難詰されたとして、批判されたとして、粗暴な〔言葉〕で、粗剛な〔言葉〕で、言い返すべきではなく、話し返すべきではなく、罵倒している者に罵倒し返すべきではなく、悩ましている者に悩まし返すべきではなく、言い争いしている者に言い争い返すべきではなく、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、紛争と言争と口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきである。ということで、「たとえ、〔村人の言葉に〕悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように」。

 

 [2007]それによって、世尊は言った。

 

 [2008]「そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕時に得て、彼は、量を知るように──ここに、満足を義(目的)として。彼は、それら(衣食)にたいし〔自己を〕守り、村においては〔自己を〕制して歩み、たとえ、〔村人の言葉に〕悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように」と。

 

207.

 

 [2009]978.(972) 〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念し、〔眠らずに〕多く起きている者として存するように。放捨(:選択せず差別なき心)に励んで、自己が定められた者となり、〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕を、断ち切るように。(18)

 

 [2010]「〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく」とは、どのように、眼を投げ放った者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、眼の妄動ある者として、眼の妄動を具備した者として、〔世に〕有る。「〔いまだ〕見られていないものは、見られるべきである。〔すでに〕見られたものは、等しく超越されるべきである(やりすごすべきである)」と、林園から林園へと、庭園から庭園へと、村から村へと、町から町へと、城市から城市へと、国土から国土へと、地方から地方へと、形態を見るために、長き遊行に〔専念する者として〕、さらに、定めなき遊行に専念する者として、〔世に〕有る。このように、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [2011]さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御されていない者として赴く。象〔兵〕を眺めながら、馬〔兵〕を眺めながら、車〔兵〕を眺めながら、歩〔兵〕を眺めながら、女たちを眺めながら、男たちを眺めながら、少女たちを眺めながら、少年たちを眺めながら、店の内を眺めながら、家の入り口を眺めながら、上を眺めながら、下を眺めながら、方々を眺め見ながら、赴く。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [2012]さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成る〕。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践せず、眼の機能を守らず、眼の機能における統御を惹起しない。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [2013]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念する者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃(シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵、あるいは、かくのごときものである。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕有る。

 

 [2014]どのように、眼を投げ放った者ではなく〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、眼の妄動ある者ではなく、眼の妄動を具備した者ではなく、〔世に〕有る。「〔いまだ〕見られていないものは、見られるべきである。〔すでに〕見られたものは、等しく超越されるべきである」と、林園から林園へと〔歩むことが〕なく、庭園から庭園へと〔歩むことが〕なく、村から村へと〔歩むことが〕なく、町から町へと〔歩むことが〕なく、城市から城市へと〔歩むことが〕なく、国土から国土へと〔歩むことが〕なく、地方から地方へと〔歩むことが〕なく、形態を見るために、長き遊行に〔専念しない者として〕、さらに、定めなき遊行に専念しない者として、〔世に〕有る。このように、眼を投げ放った者ではなく〔世に〕有る。

 

 [2015]さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕統御された者として赴く。象〔兵〕を眺めることなく……略([1445]参照)……方々を眺め見ることなく、赴く。このようにもまた、眼を投げ放った者ではなく〔世に〕有る。

 

 [2016]さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず……略([1446]参照)……眼の機能における統御を惹起する。このようにもまた、眼を投げ放った者ではなく〔世に〕有る。

 

 [2017]また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の〔様々な〕演芸の見物に専念しない者たちとして〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物……略([1444]参照)……閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有る。このようにもまた、眼を投げ放った者ではなく〔世に〕有る。ということで、「〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし」。

 

 [2018]「かつまた、足の妄動ある者ではなく」とは、どのように、足の妄動ある者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、足の妄動ある者として、足の妄動を具備した者として、〔世に〕有る。林園から林園へと……略([1470]参照)……長き遊行に〔専念する者として〕、定めなき遊行に専念する者として、〔世に〕有る。このようにもまた、足の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [2019]さらに、あるいは、比丘が、僧団の林園の内にあるもまた、足の妄動ある者として、足の妄動を具備した者として、〔世に〕有る。義(道理)を因とする者ではなく、〔正しい〕契機を因とする者ではなく、〔心が〕高揚した者として、寂止していない心の者として、僧房から僧房へと赴き、精舎から……略([1471]参照)……かく有り〔かく〕無しについての議論を、議論する。このようにもまた、足の妄動ある者として〔世に〕有る。

 

 [2020]「かつまた、足の妄動ある者ではなく」とは、足の妄動を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、足の妄動から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕存するべきであり、制約を離れることを為した心で〔世に〕住むべきであり、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想を無視しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者たる瞑想者として、瞑想を喜ぶ者として、一なることに専念する者として、自らの義(目的)に尊重ある者として、〔世に〕存するべきである。ということで、「かつまた、足の妄動ある者ではなく」。

 

 [2021]「瞑想(禅・静慮)に専念し、〔眠らずに〕多く起きている者として存するように」とは、「瞑想に専念し」とは、二つの契機によって、「瞑想に専念し」。(1)あるいは、〔いまだ〕生起していない第一の瞑想の生起のために、専らなる者となり、専念する者となり、専従する者となり、等しく専従する者となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない第二の瞑想の……第三の瞑想の……第四の瞑想の生起のために、専らなる者となり、専念する者となり、専従する者となり、等しく専従する者となる。ということで、このようにもまた、「瞑想に専念し」。(2)さらに、あるいは、〔すでに〕生起した第一の瞑想を、習修し、修め、多く為し、あるいは、〔すでに〕生起した第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を習修し、修め、多く為す。ということで、このようにもまた、「瞑想に専念し」。

 

 [2022]「〔眠らずに〕多く起きている者として存するように」とは、ここに、比丘が、昼には、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清め、夜の初夜のあいだ(宵の内)は、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清め、夜の中夜のあいだ(真夜中)は、気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営み(右脇を下にして獅子のように臥す)、夜の後夜のあいだ(明け方)は、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となるべき法(性質)から、心を完全に清める。ということで、「〔眠らずに〕多く起きている者として存するように」。

 

 [2023]「放捨()に励んで、自己が定められた者となり」とは、「放捨」とは、すなわち、第四の瞑想(第四禅)における、放捨、放捨すること、客観(客観的認識)、心の平静なること、心の安息なること、心が中なることである。「自己が定められた者」とは、すなわち、心の、止住、確立、定置、乱雑なき、散乱なき、乱雑なき意図あること、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)、禅定の機能(定根)、禅定の力(定力)、正しい禅定(正定)である。「放捨に励んで、自己が定められた者となり」とは、第四の瞑想における放捨に励んで、一境の心ある者となり、散乱なき心ある者となり、乱雑なき意図ある者となり。ということで、「放捨に励んで、自己が定められた者となり」。

 

 [2024]「〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕を、断ち切るように」とは、「考え」とは、九つの思考()がある。欲望の思考、憎悪の思考、悩害の思考、親族の思考、地方の思考、不死の思考、他者への憐憫に関係した思考、利得と尊敬と名声に関係した思考、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考である。これらが、九つの思考と説かれる。諸々の欲望の思考には、欲望の表象への志欲がある。諸々の憎悪の思考には、憎悪の表象への志欲がある。諸々の悩害の思考には、悩害の表象への志欲がある。さらに、あるいは、諸々の考えには、諸々の思考には、諸々の思惟には、無明への志欲があり、根源のままならずに意を為すことへの志欲があり、「〔わたしは〕存在する」という思量への志欲があり、〔良心の〕咎めなきへの志欲があり、〔心の〕高揚への志欲がある。

 

 [2025]「悔恨(悪作)」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。

 

 [2026]さらに、また、二つの契機によって、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから。どのように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」……。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」……。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」……。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)が為された」……。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」……。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」……。「わたしによって、強欲〔の思い〕が為された」……。「わたしによって、憎悪〔の思い〕が為された」……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。このように、そして、〔自己によって〕為されたことから、さらに、〔自己によって〕為されなかったことから、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。

 

 [2027]さらに、あるいは、「〔わたしは〕諸戒における円満成就を為す者として〔世に〕存していない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕諸々の〔感官の〕機能において門が守られていない者として〔世に〕存している」と……略……。「〔わたしは〕食について量を知らない者として〔世に〕存している」と……。「〔眠らずに〕起きていることに〔いまだ〕専念していない者として〔世に〕存している」と……。「気づきと正知を〔いまだ〕具備していない者として〔世に〕存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立(四念処・四念住)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤(四正勤)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場(四神足)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能(五根)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力(五力)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分(七覚支)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が〔いまだ〕遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が〔いまだ〕捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が〔いまだ〕実証されていない」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕を、断ち切るように」とは、そして、〔誤った〕考えを、かつまた、〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕を、断ち切るべきであり、断つべきであり、切断するべきであり、断絶するべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕を、断ち切るように」。

 

 [2028]それによって、世尊は言った。

 

 [2029]「〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者(欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念し、〔眠らずに〕多く起きている者として存するように。放捨(:選択せず差別なき心)に励んで、自己が定められた者となり、〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕を、断ち切るように」と。

 

208.

 

 [2030]979.(973) 諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕喜ぶように。梵行(禁欲清浄行)を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕(嫉妬心)を壊し去るように。限度を超えず、善の言葉を〔適時に〕放つように。〔世の〕人の論を法(事象)として、〔あれこれと〕思い考えないように。(19)

 

 [2031]「諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕喜ぶように」とは、「叱責された者」とは、あるいは、師父(和尚)たちが、あるいは、師匠(阿闍梨)たちが、あるいは、師父を等しくする者たちが、あるいは、師匠を等しくする者たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、同輩たちが、あるいは、知己たちが、あるいは、道友たちが、〔彼を〕叱責する。「友よ、このことは、あなたにとって相応せざるものです。このことは、あなたにとって至り得ざるものです。このことは、あなたにとって適切ならざるものです。このことは、あなたにとって戒の義(意味)ならざるものです」と。〔叱責された者は〕気づきを現起させて、その叱責を、喜ぶべきであり、大いに喜ぶべきであり、歓喜するべきであり、随喜(感謝)するべきであり、欲求するべきであり、愛用するべきであり、切望するべきであり、熱望するべきであり、渇望するべきである。たとえば、年少にして、若く、派手好きで、頭を洗い清めた、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、青蓮の花飾を、あるいは、ヴァッシカ(ジャスミン)の花飾を、あるいは、アティムッタカの花飾を、得て〔そののち〕、両の手で収め取って、頭の頂きに据え置いて、喜ぶべきであり、大いに喜ぶべきであり、歓喜するべきであり、随喜するべきであり、欲求するべきであり、愛用するべきであり、切望するべきであり、熱望するべきであり、渇望するべきであるように、まさしく、このように、〔叱責された者は〕気づきを現起させて、その叱責を、喜ぶべきであり、大いに喜ぶべきであり、歓喜するべきであり、随喜するべきであり、欲求するべきであり、愛用するべきであり、切望するべきであり、熱望するべきであり、渇望するべきである。

 

 [2032]〔そこで、詩偈に言う〕「諸々の財宝の〔隠し場所を〕伝授する者のように、〔わが身の〕罪過に見ある者(無自覚の罪過を指摘してくれる者)を、彼を、見るなら、そのような賢者と、〔過誤を『過誤である』と正しく〕批判して説く思慮ある者と、親しくするがよい。

 

 [2033]そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。〔他者を〕教え諭すように。〔真理を〕教え示すように。そして、不当なることから〔自己を〕防ぎ護るように。まさに、彼は、正しくある者たちにとって愛しき者と成り、正しからざる者たちにとって愛しからざる者と成る」〔と〕。ということで──

 

 [2034]「諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕喜ぶように」。「梵行(禁欲清浄行)を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕(嫉妬心)を壊し去るように」とは、「梵行を共にする者」とは、行為を一つとし、誦説を一つとし、学びを等しくする者。「梵行を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕を壊し去るように」とは、梵行を共にする者たちにたいする、打破の心あることを、鬱積の生じることを、破壊するべきであり、五つの心の鬱積(覚者と法と僧団と学びと梵行を共にする者たちにたいする心の鬱積)をもまた破壊するべきであり、三つの心の鬱積をもまた破壊するべきであり、貪欲の鬱積を、憤怒の鬱積を、迷妄の鬱積を、破壊するべきであり、強く破壊するべきであり、等しく破壊するべきである。ということで、「梵行を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕を壊し去るように」。

 

 [2035]「限度を超えず、善の言葉を〔適時に〕放つように」とは、知恵から等しく現起した言葉を放つべきであり、義(道理)を伴い法(真理)を伴った〔言葉〕を、〔正しい〕時に、理由を有し結末ある言葉を、放つべきであり、解き放つべきである。ということで、「善の言葉を〔適時に〕放つように」。「限度を超えず」とは、「限度」とは、二つの限度がある。(1)そして、時の限度であり、(2)さらに、戒の限度である。(1)どのようなものが、時の限度であるのか。時を超え行った言葉を語るべきではない。限度を超え行った言葉を語るべきではない。時の限度を超え行った言葉を語るべきではない。時に達し得ていない言葉を語るべきではない。限度に達し得ていない言葉を語るべきではない。時の限度に達し得ていない言葉を語るべきではない。

 

 [2036]〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、まさに、時に達し得ていないのに、限度を超えて語るなら、このように、彼は、打ち倒され、〔地に〕臥す──コーキラ〔鳥〕の雛のように」と。

 

 [2037]これが、時の限度である。(2)どのようなものが、戒の限度であるのか。貪る者として、言葉を語るべきではない。怒る者として、言葉を語るべきではない。迷う者として、言葉を語るべきではない。虚偽の論を語るべきではない。中傷の言葉を語るべきではない。粗暴な言葉を語るべきではない。雑駁な虚論を、語るべきではなく、言説するべきではなく、発語するべきではなく、提示するべきではなく、語用するべきではない。これが、戒の限度である。ということで、「限度を超えず、善の言葉を〔適時に〕放つように」。

 

 [2038]「〔世の〕人の論を法(事象)として、〔あれこれと〕思い考えないように」とは、「〔世の〕人」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たち。〔世の〕人の、論のために、批判のために、非難のために、難詰のために、批判のために、不名誉のために、栄誉ならざることの伝播のために、あるいは、戒の衰滅のために、あるいは、習行の衰滅のために、あるいは、見解の衰滅のために、あるいは、生き方の衰滅のために、思い考えるべきではなく、思欲を生起させるべきではなく、心を生起させるべきではなく、思惟を生起させるべきではなく、意を為すことを生起させるべきではない。ということで、「〔世の〕人の論を法(事象)として、〔あれこれと〕思い考えないように」。

 

 [2039]それによって、世尊は言った。

 

 [2040]「諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕喜ぶように。梵行(禁欲清浄行)を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕(嫉妬心)を壊し去るように。限度を超えず、善の言葉を〔適時に〕放つように。〔世の〕人の論を法(事象)として、〔あれこれと〕思い考えないように」と。

 

209.

 

 [2041]980.(974) そこで、他に、世における、五つの塵があります。それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕学ぶように。諸々の形態(:眼の対象)と諸々の音声(:耳の対象)にたいする、さらに、諸々の味感(:舌の対象)と諸々の臭気(:鼻の対象)と諸々の接触(:身の対象)にたいする、貪り〔の思い〕を打ち負かすように。(20)

 

 [2042]「そこで、他に、世における、五つの塵があります」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「五つの塵」とは、形態の塵、音声の塵、臭気の塵、味感の塵、感触の塵。

 

 [2043]〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、貪欲の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕の教えにおいて住む。

 

 [2044]憤怒は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、憤怒の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕の教えにおいて住む。

 

 [2045]迷妄は、塵である。また、そして、塵芥が〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、迷妄の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕の教えにおいて住む」と。

 

 [2046]「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕範疇の世における、〔十八の〕界域の世における、〔十二の認識の〕場所の世における。ということで、「そこで、他に、世における、五つの塵があります」。

 

 [2047]「それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕学ぶように」とは、「それらを」とは、形態の貪欲の、音声の貪欲の、臭気の貪欲の、味感の貪欲の、感触の貪欲の。「気づきある者」とは、すなわち、気づき()、随念、現念、気づきとしての、思念すること、保持すること、列挙すること、忘却なきこと、気づきとしての、気づきの機能(念根)、気づきの力(念力)、正しい気づき(正念)、気づきという正覚の支分(念覚支)、一路の道である。これが、気づきと説かれる。この気づきを、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、気づきある者と説かれる。「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1)卓越の戒の学び、(2)卓越の心の学び、(3)卓越の智慧の学びである。……略([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕学ぶように」とは、気づきある人は、すなわち、形態の貪欲の、音声の貪欲の、臭気の貪欲の、味感の貪欲の、感触の貪欲の、取り除きのために、取り除き去りのために、捨棄のために、寂止のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学びを、〔心を〕傾注している者として学ぶべきであり、〔あるがままに〕知っている者として……略([144]参照)……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕学ぶように」。

 

 [2048]「諸々の形態()と諸々の音声()にたいする、さらに、諸々の味感()と諸々の臭気()と諸々の接触()にたいする、貪り〔の思い〕を打ち負かすように」とは、諸々の形態にたいする、諸々の音声にたいする、諸々の臭気にたいする、諸々の味感にたいする、諸々の感触にたいする、貪り〔の思い〕を、打ち負かすべきであり、遍く打ち負かすべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「諸々の形態と諸々の音声にたいする、さらに、諸々の味感と諸々の臭気と諸々の接触にたいする、貪り〔の思い〕を打ち負かすように」。

 

 [2049]それによって、世尊は言った。

 

 [2050]「そこで、他に、世における、五つの塵があります。それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕学ぶように。諸々の形態(:眼の対象)と諸々の音声(:耳の対象)にたいする、さらに、諸々の味感(:舌の対象)と諸々の臭気(:鼻の対象)と諸々の接触(:身の対象)にたいする、貪り〔の思い〕を打ち負かすように」と。

 

210.

 

 [2051]981.(975) 比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり、これらの法(事象)にたいする、欲〔の思い〕を取り除くように。彼は、〔正しい〕時に正しく法(事象)を遍く考察している者、彼は、〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう──かくのごとく、世尊は〔語った〕。(21)

 

 [2052]「これらの法(事象)にたいする、欲〔の思い〕を取り除くように」とは、「これらの」とは、諸々の形態にたいする、諸々の音声にたいする、諸々の臭気にたいする、諸々の味感にたいする、諸々の感触にたいする。「欲〔の思い〕」とは、すなわち、〔五つの〕欲望〔の対象〕における、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕、欲望〔の対象〕にたいする愉悦、欲望〔の対象〕にたいする渇愛、欲望〔の対象〕にたいする愛執、欲望〔の対象〕にたいする苦悶、欲望〔の対象〕にたいする耽溺、欲望〔の対象〕にたいする固執、欲望〔の対象〕の激流、欲望〔の対象〕の束縛()、欲望〔の対象〕にたいする執取()、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害()である。「これらの法(事象)にたいする、欲〔の思い〕を取り除くように」とは、これらの法(事象)にたいする、欲〔の思い〕を、取り除くべきであり、取り除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「これらの法(事象)にたいする、欲〔の思い〕を取り除くように」。

 

 [2053]「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり」とは、「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、〔いまだ〕学びある比丘は。「気づきある者」とは、すなわち、気づき、随念……略([33]参照)……正しい気づき、気づきという正覚の支分、一路の道である。これが、気づきと説かれる。この気づきを、具した者、具完した者……略([33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。

 

 [2054]「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり」とは、第一の瞑想に入定した者には、〔五つの修行の〕妨害(五蓋)から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念(尋伺)から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。第三の瞑想に入定した者には、喜悦()から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。第四の瞑想に入定した者には、安楽と苦痛(楽苦)から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象(色想)から、敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)から、種々なる表象(異想)から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。預流たる者には、身体を有するという見解(有身見)から、疑惑〔の思い〕()から、戒や掟への偏執(戒禁取)から、見解の悪習(見随眠)から、疑惑〔の思い〕の悪習(疑随眠)から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。一来たる者には、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕(欲貪)という束縛するものから、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕(瞋恚・有対)という束縛するものから、粗雑なる欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔粗雑なる〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。不還たる者には、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕という束縛するものから、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕という束縛するものから、微細なる〔状態〕を共具した欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、〔微細なる状態を共具した〕敵対〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。阿羅漢には、形態〔の行境〕(色界)にたいする貪り〔の思い〕から、形態なき〔行境〕(無色界)にたいする貪り〔の思い〕から、思量()から、高揚(掉挙)から、無明から、思量の悪習から、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習から、無明の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕汚れから、さらに、外なる一切の形相から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。ということで、「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり」。

 

 [2055]「彼は、〔正しい〕時に正しく法(事象)を遍く考察している者」とは、「〔正しい〕時に」とは、心が高揚したなら、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)の時である。心が定められたなら、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)の時である。

 

 [2056]〔そこで、詩偈に言う〕「〔正しい〕時に、心を励起し、さらに、他〔の正しい時〕に、〔心を〕制御する。〔正しい〕時に、満悦し、〔正しい〕時に、心を定めるがよい。

 

 [2057]彼は、〔心の〕制止者であり、〔正しい〕時の熟知者であり、〔正しい〕時に、〔心を〕放捨する。どのような時に、励起であるのか。どのような時に、制御であるのか。

 

 [2058]どのようであるなら、満悦の時であるのか。そして、〔心の〕止寂の時は、どのようなものであるのか。心を放捨する時を、〔心の〕制止者は、どのように見示するのか。

 

 [2059]心が畏縮したなら、励起である。高揚したなら、制御である。快なきに至った心を、まさしく、ただちに、満悦させるがよい。

 

 [2060]そのとき、満悦した心が、畏縮せず、高揚せず、〔そのようなものとして〕有るなら、そして、それは、〔心の〕止寂の時であり、内に、意を喜ばせるがよい。

 

 [2061]まさしく、この手段によって、そのとき、定められた〔心〕が有るなら、定められた心を了知して、まさしく、ただちに、放捨するがよい。

 

 [2062]このように、時を知る慧者となり、時を知る者となり、時の熟知者となり、〔その〕時〔その〕時に、心の形相を近しく観るがよい」と。

 

 [2063]「彼は、〔正しい〕時に正しく法(事象)を遍く考察している者」とは、「一切の形成〔作用〕は、無常である(諸行無常)」と、正しく法(事象)を遍く考察している者。「一切の形成〔作用〕は、苦痛である(一切皆苦)」と、正しく法(事象)を遍く考察している者。「一切の法(事象)は、無我である(諸法無我)」と、〔正しい〕時に正しく法(事象)を遍く考察している者。……略([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、正しく法(事象)を遍く考察している者。

 

 [2064]「彼は、〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう──かくのごとく、世尊は〔語った〕」とは、「専一」とは、一境の心ある者、散乱なき心ある者、乱雑なき意図ある者、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)、禅定の機能(定根)、禅定の力(定力)、正しい禅定(正定)。ということで、「〔心が〕専一と成った者」。「彼は、〔世の〕闇を打破するでしょう」とは、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、打つであろう、打破するであろう、捨棄するであろう、除去するであろう、終息を為すであろう、状態なきへと至らせるであろう。

 

 [2065]「世尊(バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者(バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛)を滅壊した者、ということで、「世尊」。〔心の〕汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法(教え)の宝を、分けた(バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存(バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者(バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を分有する者(バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義(意味)の味を、法(教え)の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心(瞑想)を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想(四禅)を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、四つの形態なき〔行境〕への入定(四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱(八解脱)を、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を、九つの順次の住への入定(九次第定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき(安般念)という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、〔その〕実証となる通称(施設)であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「彼は、〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう──かくのごとく、世尊は〔語った〕」。

 

 [2066]それによって、世尊は言った。

 

 [2067]「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり、これらの法(事象)にたいする、欲〔の思い〕を取り除くように。彼は、〔正しい〕時に正しく法(事象)を遍く考察している者、彼は、〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう」と──かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 

 [2068]サーリプッタの経についての釈示が、第十六となる。

 

 [2069]八なるものの章の十六の経についての釈示は〔以上で〕完結となる。

 

 [2070]マハー・ニッデーサ聖典は〔以上で〕終了となる。