相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)
詩偈を有するものの部(有偈篇・ 下)
【目次】
4. 悪魔に相応するもの(137.~)
1. 第一の章(137.~)
1. 苦行の行為の経
2. 象の王の姿の経
3. 浄美なるものの経
4. 第一の悪魔の罠の経
5. 第二の悪魔の罠の経
6. 蛇の経
7. 「眠る」の経
8. 「喜び楽しむ」の経
9. 第一の寿命の経
10. 第二の寿命の経
2. 第二の章(147.~)
1. 岩の経
2. 「いったい、どうして、獅子のように」の経
3. 石片の経
4. 適切なることの経
5. 意図の経
6. 鉢の経
7. 六つの接触ある〔認識の〕場所の経
8. 〔行乞の〕食の経
9. 耕作者の経
10. 王権の経
3. 第三の章(157.~)
1. 大勢の者たちの経
2. サミッディの経
3. ゴーディカの経
4. 七年のつきまといの経
5. 悪魔の娘たちの経
5. 比丘尼に相応するもの(162.~)
1. アーラヴィカーの経
2. ソーマーの経
3. キサー・ゴータミーの経
4. ヴィジャヤーの経
5. ウッパラヴァンナーの経
6. チャーラーの経
7. ウパチャーラーの経
8. シースパチャーラーの経
9. セーラーの経
10. ヴァジラーの経
6. 梵〔天〕に相応するもの(172.~)
1. 第一の章(172.~)
1. 梵〔天〕の懇願の経
2. 尊重の経
3. ブラフマデーヴァの経
4. 梵〔天〕のバカの経
5. 或るひとりの梵〔天〕の経
6. 梵の世の経
7. コーカーリカの経
8. カタモーダカ・ティッサカの経
9. 梵〔天〕のトゥルーの経
10. コーカーリカの経
2. 第二の章(182.~)
1. サナンクマーラの経
2. デーヴァダッタの経
3. アンダカヴィンダの経
4. アルナヴァティーの経
5. 完全なる涅槃の経
7. 婆羅門に相応するもの(187.~)
1. 阿羅漢の章(187.~)
1. ダナンジャーニーの経
2. 罵倒の経
3. アスリンダカの経
4. ビランギカの経
5. アヒンサカの経
6. ジャターの経
7. スッディカの経
8. アッギカの経
9. スンダリカの経
10. 娘多き者の経
2. 在俗信者の章(197.~)
1. カシ・バーラドヴァージャの経
2. ウダヤの経
3. デーヴァヒタの経
4. 大家の経
5. マーナッタッダの経
6. パッチャニーカの経
7. ナヴァカンミカの経
8. 薪運びの者たちの経
9. 母を養う者の経
10. 行乞者の経
11. サンガーラヴァの経
12. コーマドゥッサの経
8. ヴァンギーサに相応するもの(209.~)
1. 離欲者の経
2. 不満〔の思い〕の経
3. 博愛なる者たちの経
4. アーナンダの経
5. 見事に語られたものの経
6. サーリプッタの経
7. 〔雨季の〕充足の経
8. 千を超える者たちの経
9. コンダンニャの経
10. モッガッラーナの経
11. ガッガラーの経
12. ヴァンギーサの経
9. 林に相応するもの(221.~)
1. 遠離の経
2. 奮起の経
3. カッサパゴッタの経
4. 大勢の者たちの経
5. アーナンダの経
6. アヌルッダの経
7. ナーガダッタの経
8. 家の主婦の経
9. ヴァッジー族の経
10. 読誦の経
11. 善ならざる思考の経
12. 正午の経
13. 〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者たちの経
14. 香りを盗む者の経
10. 夜叉に相応するもの(209.~)
1. インダカの経
2. サッカという名〔の夜叉〕の経
3. スーチローマの経
4. マニバッダの経
5. サーヌの経
6. ピヤンカラの経
7. プナッバスの経
8. スダッタの経
9. 第一のスッカーの経
10. 第二のスッカーの経
11. チーラーの経
12. アーラヴァカの経
11. 帝釈〔天〕に相応するもの(247.~)
1. 第一の章(247.~)
1. スヴィーラの経
2. スシーマの経
3. 旗の先端の経
4. ヴェーパチッティの経
5. 見事に語られたものによる勝利の経
6. 鳥の巣の経
7. 「裏切るべきにあらず」の経
8. 阿修羅のインダたるヴェーローチャナの経
9. 林所の聖賢たちの経
10. 海にある者たちの経
2. 第二の章(257.~)
1. 掟の句の経
2. 帝釈〔天〕の名前の経
3. マハーリの経
4. 貧しき者の経
5. 喜ぶべきものの経
6. 祭祀をしている者の経
7. 覚者への敬拝の経
8. 在家者への敬拝の経
9. 教師への敬拝
10. 僧団への敬拝
3. 第三の章(267.~)
1. 「断ち切って」の経
2. 醜き色艶の者の経
3. サンバリの幻術の経
4. 過誤の経
5. 忿激しないことの経
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
詩偈を有するものの部(有偈篇・下)
4. 悪魔に相応するもの
1. 第一の章
1. 苦行の行為の経
137. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「解き放たれた者として、まさに、〔わたしは〕存している──〔まさに〕その、為すに為し難きこと(苦行)から〔解き放たれた者として〕。善きかな、解き放たれた者として、まさに、〔わたしは〕存している──〔まさに〕その、義(道理)ならざることを伴った、為すに為し難きことから〔解き放たれた者として〕。善きかな、解き放たれた者として、まさに、〔わたしは〕存している──覚り(菩提)に、〔わたしは〕正しく到達した」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「それによって、学徒たちが清浄となる、苦行の行為から立ち去って、清浄ならざる〔あなた〕は、〔自らについて〕清浄と思いなす──清浄の道に反した者でありながら」と。
そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました(※)。
※ テキストには ajjhabhāsi とあるが、PTS版により pacchabhāsi と読む。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それが何であれ、不死の苦行であるなら、義(道理)ならざることを伴ったものと知って──〔その〕全てが、義(道理)ならざることをもたらすものと成り、陸のうえの櫂と舵のようなものと〔知って〕──
戒を、さらに、禅定と智慧を、覚りのための道を修めながら、〔わたしは〕存している──最高の清浄に至り得た者として。死神よ、おまえは存している──打ち倒された者として」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. 象の王の姿の経
138. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、漆黒の闇夜のなか、野外において、坐った状態でおられます。そして、天は、ぽつぽつと雨を降らせます。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、大いなる象の王の姿に化作して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。それは、たとえば、また、まさに、大いなる黒の宝珠のように、このように、彼の頭は有ります。それは、たとえば、また、まさに、純銀のように、このように、彼の諸々の牙は有ります。それは、たとえば、また、まさに、大いなる鋤の柄(え)のように、このように、彼の鼻は有ります。そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「長時の輪廻を、浄美と浄美ならざる色艶に作り為して、パーピマントよ、おまえには、それで十分だ。死神よ、おまえは存している──打ち倒された者として」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
3. 浄美なるものの経
139. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、漆黒の闇夜のなか、野外において、坐った状態でおられます。そして、天は、ぽつぽつと雨を降らせます。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊から遠く離れていないところで、高下諸々の色艶の輝きを示します──まさしく、そして、諸々の浄美なるものとして、さらに、諸々の浄美ならざるものとして。そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「長時の輪廻を、浄美と浄美ならざる色艶に作り為して、パーピマントよ、おまえには、それで十分だ。死神よ、おまえは存している──打ち倒された者として。
しかしながら、すなわち、身体によって、言葉によって、さらに、意によって、善く統御された者たちは──彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではない──彼らは、悪魔に追随する者たちではない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
4. 第一の悪魔の罠の経
140. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、わたしには、まさに、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)から、根源のままに正しく精励することから、無上なる解脱が獲得され、無上なる解脱が実証されました。比丘たちよ、あなたたちもまた、根源のままに意を為すことから、根源のままに正しく精励することから、無上なる解脱を獲得し、無上なる解脱を実証しなさい」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「〔あなたは〕存しています──結縛された者として。それらが天のものであれ、さらに、それらが人間のものであれ、悪魔の罠によって。〔あなたは〕存しています──悪魔の結縛によって結縛された者として。沙門よ、〔あなたは〕わたしから解き放たれないでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「わたしは〔存している〕──解き放たれた者として。それらが、天のものであれ、さらに、それらが、人間のものであれ、悪魔の罠から。〔わたしは〕存している──悪魔の結縛から解き放たれた者として。死神よ、おまえは存している──打ち倒された者として」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
5. 第二の悪魔の罠の経
141. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、解き放たれた者として、わたしはあります──それらが、天のものであれ、さらに、それらが、人間のものであれ、一切の罠から。比丘たちよ、あなたたちもまた、解き放たれた者たちとしてあります──それらが、天のものであれ、さらに、それらが、人間のものであれ、一切の罠から。比丘たちよ、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、遊行を歩みなさい。一つ〔の道〕を、二者で赴いてはいけません。比丘たちよ、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、法(教え)を説示しなさい。義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示しなさい。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう。比丘たちよ、わたしもまた、ウルヴェーラーのセーナー村のあるところに、そこへと近づいて行くでしょう──法(教え)を説示するために」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「〔あなたは〕存しています──結縛された者として。それらが天のものであれ、さらに、それらが人間のものであれ、悪魔の罠によって。〔あなたは〕存しています──悪魔の結縛によって結縛された者として。沙門よ、〔あなたは〕わたしから解き放たれないでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「わたしは〔存している〕──解き放たれた者として。それらが、天のものであれ、さらに、それらが、人間のものであれ、一切の罠から。〔わたしは〕存している──大いなる結縛から解き放たれた者として。死神よ、おまえは存している──打ち倒された者として」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
6. 蛇の経
142. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、世尊は、漆黒の闇夜のなか、野外において、坐った状態でおられます。そして、天は、ぽつぽつと雨を降らせます。
そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、大いなる蛇の王の姿に化作して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。それは、たとえば、また、まさに、大いなる一木作りの舟のように、このように、彼の身体は有ります。それは、たとえば、また、まさに、酒作りの筵(むしろ)のように、このように、彼の鎌首は有ります。それは、たとえば、また、まさに、コーサラ産の銅鉢のように、このように、彼の〔両の〕眼は有ります。それは、たとえば、また、まさに、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせているなか、諸々の雷光が放たれるように、このように、彼の顔から、舌が放たれます。それは、たとえば、また、まさに、鍛冶屋の鞴(ふいご)を吹いていると、音声が有るように、このように、彼の出息と入息の音声は有ります。
そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼が、諸々の空家に慣れ親しむなら、彼は、自己が自制された牟尼であり、〔誰よりも〕より勝っている。彼は、そこにおいて、〔一切を〕放棄して行なうであろう。それは、そのような種類の者にとって、まさに、適切なることである。
多くのうろつきまわるものたちが、多くの恐ろしいものたちが、さらに、多くの虻や蛇たちがいるとして、空家に赴いた偉大なる牟尼は、そこにおいて、〔一本の〕毛さえも動かさない。
〔風が〕天空を裂き、地を揺らすも、あるいは、一切もろともの命あるたちが恐慌するも、たとえ、もし、〔人々が〕矢を胸に向けるも、覚者たちは、諸々の〔生存の〕依り所(肉体)にたいし、救いを為さない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
7. 「眠る」の経
143. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、世尊は、まさしく、夜の多くを、野外において、歩行瞑想をして、夜の早朝の時分に、〔両の〕足を洗って、精舎に入って、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みました(右脇を下にして獅子のように臥した)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象(想:概念・心象)に意を為して。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「どうして、〔あなたは〕眠るのですか。いったい、どうして、〔あなたは〕眠るのですか。どうして、こう、惨めな雇われ者のように、〔あなたは〕眠るのですか。『空家である』と、〔あなたは〕眠るのですか。どうして、こう、太陽が昇ったのに、〔あなたは〕眠るのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼に、執着の網が〔存在せず〕、どこにであれ、誘い導くための渇愛が存在しないなら、一切の〔生存の〕依り所(依存の対象)の完全なる滅尽あることから、覚者として、〔彼は〕眠る。悪魔よ、ここにおいて、おまえに、何〔の用〕があるというのだ」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
8. 「喜び楽しむ」の経
144. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「子をもつ者は、子たちによって喜び楽しむ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちによって喜び楽しむ。まさに、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は、人の喜び楽しみである。彼が、依り所なき者であるなら、彼は、まさに、喜び楽しむことがない」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「子をもつ者は、子たちによって憂い悲しむ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちによって憂い悲しむ。まさに、諸々の〔生存の〕依り所は、人の憂い悲しみである。彼が、依り所なき者であるなら、彼は、まさに、憂い悲しむことがない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
9. 第一の寿命の経
145. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、人間たちの、この寿命は、僅かです。赴くべきは、未来(来世)です。為すべきは、善なる〔行為〕です。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しません。比丘たちよ、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「人間たちの寿命は、長きもの。善き人は、それを蔑まないもの。〔無邪気な〕乳飲み子のように、〔世を〕歩むがよい。死魔の到来は、存在しない」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「人間たちの寿命は、僅かなもの。善き人は、それを蔑むもの。頭が燃えている者のように、〔世を〕歩むがよい。死魔の到来なきは、存在しない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
10. 第二の寿命の経
146.
このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、世尊は……略……こう言いました。
「比丘たちよ、人間たちの、この寿命は、僅かです。赴くべきは、未来(来世)です。為すべきは、善なる〔行為〕です。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しません。比丘たちよ、すなわち、長く生きるとして、それは、百年のあいだ〔生きるか〕、あるいは、僅かに多く〔生きるかです〕」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「昼夜は過ぎ行かず、生命は破却されず、人間たちの寿命は巡り行く──車軸を〔回転する〕外輪のように」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「昼夜は過ぎ行き、生命は破却され、人間たちの寿命は滅尽する──諸々の小川の水のように」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
〔以上が〕第一の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、苦行と行為、さらに、象、浄美なるもの、罠によって、それらの二つのものが〔説かれ〕、蛇、『眠る』があり、『喜び楽しむ』があり、寿命によって、他に、二つのものが〔説かれた〕」と。
2. 第二の章
1. 岩の経
147. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、漆黒の闇夜のなか、野外において、坐った状態でおられます。そして、天は、ぽつぽつと雨を降らせます。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊から遠く離れていないところで、諸々の大いなる岩を破砕しました。
そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それで、もし、また、〔おまえが〕ギッジャクータ〔山〕の一切全部を揺れ動かすとして、正しく解脱した覚者たちに、〔心が〕動じ動くことは、まさしく、存在しない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. 「いったい、どうして、獅子のように」の経
148. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、大いなる衆に取り囲まれ、法(教え)を説示します。
そこで、まさに、悪魔パーピマントに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、沙門ゴータマは、大いなる衆に取り囲まれ、法(教え)を説示する。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのだ──〔彼の〕眼を眩ますために」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「いったい、どうして、獅子のように、〔あなたは〕吼え叫ぶのですか──衆のなか、恐れおののきを離れた者として。まさに、あなたの相手をする力士が、〔ここに〕存在します。はてさて、〔あなたは、自らについて〕征圧者と思いますか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「偉大なる勇者たちは、まさに、喜ぶ──衆のなか、恐れおののきを離れた者たちとして。如来たちは、力に至り得た者たちであり、世における執着を超え渡った者たちである」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
3. 石片の経
149. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。マッダクッチの鹿園において。また、まさに、その時点にあって、世尊の足は、石片によって傷つくところと成ります。諸々の激しい〔苦痛の〕感受(受:楽苦の知覚)が、まさに、世尊に転起します──肉体のものとして、強烈で粗野で辛辣で、不快にして意に適わない、諸々の苦痛の感受が。それら〔の苦痛の感受〕を、まさに、世尊は、気づきと正知の者として耐え忍びます──打ちのめされることなく。そこで、まさに、世尊は、四重に大衣を設けて、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みます(右脇を下にして獅子のように臥す)──足に足を重ねて、気づきと正知の者として。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「いったい、まさに、〔あなたは〕愚鈍ゆえに臥しているのですか、それとも、詩作に夢中になっているのですか。はてさて、あなたには、多岐にわたる義(利益)が存在しないのですか。独り、遠離の臥坐所にあり、眠気顔で、どうして、こう、まさしく、眠っているのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔わたしは〕愚鈍ゆえに臥しているのではない。また、詩作に夢中になっているのでもない。わたしは、義(目的)を行知して、憂いを離れた者である。独り、遠離の臥坐所にあるも、一切の生類に慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしは臥している。
彼らの胸にもまた、矢が突き入り、ムフンムフンと心臓が揺れ動いているが、彼らもまた、ここに、矢と共に眠りを得る。何ゆえに(※)、〔煩悩の〕矢を離れたわたしが、眠れないというのだろう。
※ テキストには Tasmā とあるが、PTS版により kasmā と読む。
〔眠らずに〕起きている〔わたし〕は、〔何も〕危惧せず、また、眠ることを恐れない。諸々の夜と昼は、わたしを悩み苦しめない。どこにであれ、世において、〔わたしは〕損失を見ない。それゆえに、一切の生類に慈しみ〔の思い〕ある者として、〔ここに〕眠るのだ」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
4. 適切なることの経
150. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。エーカサーラーの婆羅門の村において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、大いなる在家者たちの衆に取り囲まれ、法(教え)を説示します。
そこで、まさに、悪魔パーピマントに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、沙門ゴータマは、大いなる在家者たちの衆に取り囲まれ、法(教え)を説示する。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのだ──〔彼の〕眼を眩ますために」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「このことは、あなたにとって、適切なることではありません。すなわち、〔あなたは〕他者に教示します。それを習行しながら、〔他者たちの〕共感と反感に執着してはいけません」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「〔一切の生類に〕利益と慈しみ〔の思い〕ある正覚者として、すなわち、〔彼は〕他者に教示する。〔他者たちの〕共感と反感から解脱した如来として」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
5. 意図の経
151. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「すなわち、〔迷いのままに〕歩む、この意図は、空中を歩む罠である。それによって、〔わたしは〕おまえを結縛するであろう。沙門よ、〔おまえは〕わたしから解き放たれないであろう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「意が喜びとするのが、諸々の形態(色:眼の対象)であり、諸々の音声(声:耳の対象)であり、諸々の味感(味:舌の対象)であり、諸々の臭気(香:鼻の対象)であり、さらに、諸々の感触(所触:身の対象)であるなら、ここにおいて、わたしの欲〔の思い〕は、〔すでに〕離れ去っている。死神よ、おまえは存している──打ち倒された者として」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
6. 鉢の経
152. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、世尊は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)に関して、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。
そこで、まさに、悪魔パーピマントに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、沙門ゴータマは、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇に関して、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞く。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのだ──〔彼らの〕眼を眩ますために」と。
また、まさに、その時点にあって、数多くの鉢が、野外において、置かれた状態であります。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、荷牛の姿に化作して、それらの鉢のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、或るひとりの比丘に、こう言いました。「比丘よ、比丘よ、この荷牛が、〔それらの〕鉢を壊すでしょう」と。このように説かれたとき、世尊は、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、その荷牛が、〔それらの鉢を壊すことは〕ありません。これは、悪魔パーピマントです。あなたたちの眼を眩ますために、やってきたのです」と。そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「形態(色:物質的身体・肉体)も、〔感受作用によって〕感受されたもの(楽苦の感覚)も、表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)も、識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)も、さらに、すなわち、〔形成作用によって〕形成されたもの(有為:心と身体)も、『これは、わたしとして存在しない(五蘊は、わたしにあらず)。これは、わたしのものではない(五蘊は、わがものにあらず)』〔と〕、このように、そこにおいて、〔心は〕離貪する。
このように、〔心が〕離貪した平安の自己ある者を、一切の束縛するものを超え行く者を、一切の境位において探し求めつつ、悪魔の軍団もまた、〔ついに〕到達しなかった」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
7. 六つの接触ある〔認識の〕場所の経
153. 或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)に関して、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。
そこで、まさに、悪魔パーピマントに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、沙門ゴータマは、六つの接触ある〔認識の〕場所に関して、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞く。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのだ──〔彼らの〕眼を眩ますために」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊から遠く離れていないところで、大いなる恐怖と恐ろしさある音声を作り為しました。さてまた、まさに、地が鳴るかに思われます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、或るひとりの比丘に、こう言いました。「比丘よ、比丘よ、この地が鳴るかに思われます」と。このように説かれたとき、世尊は、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、この地が鳴るのではありません。これは、悪魔パーピマントです。あなたたちの眼を眩ますために、やってきたのです」と。そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「諸々の形態(色)も、諸々の音声(声)も、諸々の味感(味)も、諸々の臭気(香)も、諸々の接触(触)も、さらに、諸々の法(法:意の対象)も、〔それらの〕全部が──これは、世の財貨にして、おぞましきもの。ここにおいて、世〔の人々〕は耽溺している。
しかしながら、これを等しく超え行って、〔常に〕気づきある覚者の弟子は、悪魔の領域を超え行って、太陽のように光り輝く」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
8. 〔行乞の〕食の経
154. 或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。パンチャサーラーという婆羅門の村において。また、まさに、その時点にあって、パンチャサーラーの婆羅門の村において、少女たちの贈物祭が有ります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、パンチャサーラーの婆羅門の村に〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、パンチャサーラーの婆羅門や家長たちは、悪魔パーピマントに憑依され、〔世に〕有ります。「沙門ゴータマが、〔行乞の〕食を得ることがあってはならない」と。
そこで、まさに、世尊は、洗い清めた鉢とともに、パンチャサーラーの婆羅門の村に〔行乞の〕食のために入った、そのとおりに、そのとおりの洗い清めた鉢とともに、〔村から〕立ち去りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「さて、沙門よ、あなたは、〔行乞の〕食を得ましたか」と。「パーピマントよ、さてまた、そのように、おまえが為したのですね。すなわち、わたしが、〔行乞の〕食を得ないように」と。「尊き方よ、まさに、それでは、再度また、世尊は、パンチャサーラーの婆羅門の村に〔行乞の〕食のために入りたまえ。そのように、わたしが為しましょう。すなわち、あなたが、〔行乞の〕食を得るように」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「悪魔は、功徳ならざるものを生んだ──彼を、如来を、襲って。パーピマントよ、いったい、何を思うのだ。わたしに、悪〔の報い〕は煮られない。
極めて安楽に、まさに、〔わたしたちは〕生きる──すなわち、わたしたちには、何も存在しない(無一物である)。〔わたしたちは〕喜悦を食物とする者たちとして〔世に〕有るのだ──あたかも、光音天〔の神々〕たちのように」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
9. 耕作者の経
155. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。
そこで、まさに、悪魔パーピマントに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、沙門ゴータマは、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって……略……。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのだ──〔彼らの〕眼を眩ますために」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、耕作者の姿に化作して、大いなる鋤を肩に掛けて、長い牛追い用の刺し棒を掴んで、髪を振り乱し、麻布を着衣し、泥にまみれた〔両の〕足で、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「さて、沙門よ、荷牛たちを見たか」と。「パーピマントよ、また、荷牛たちが、おまえにとって、何〔の用〕があるというのだ」と。「沙門よ、まさしく、わたしのものとして、眼があり、わたしのものとして、諸々の形態があり、わたしのものとして、眼の接触と識知〔作用〕(識)と〔認識の〕場所(処)がある。沙門よ、どこに赴いて、わたしから解き放たれるというのだ。沙門よ、まさしく、わたしのものとして、耳があり、わたしのものとして、諸々音声があり……略……。沙門よ、まさしく、わたしのものとして、意があり、わたしのものとして、諸々の法(意の対象)があり、わたしのものとして、意の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所がある。沙門よ、どこに赴いて、わたしから解き放たれるというのだ」と。
「パーピマントよ、まさしく、おまえのものとして、眼があり、おまえのものとして、諸々の形態があり、おまえのものとして、眼の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所がある。パーピマントよ、しかしながら、すなわち、まさに、眼が存在せず、諸々の形態が存在せず、眼の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所が存在しないところがあり、パーピマントよ、そこにおいては、おまえの赴く所はない。パーピマントよ、まさしく、おまえのものとして、耳があり、おまえのものとして、諸々の音声があり、おまえのものとして、耳の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所がある。パーピマントよ、しかしながら、すなわち、まさに、耳が存在せず、諸々の音声が存在せず、耳の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所が存在しないところがあり、パーピマントよ、そこにおいては、おまえの赴く所はない。パーピマントよ、まさしく、おまえのものとして、鼻があり、おまえのものとして、諸々の臭気があり、おまえのものとして、鼻の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所がある。パーピマントよ、しかしながら、すなわち、まさに、鼻が存在せず、諸々の臭気が存在せず、鼻の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所が存在しないところがあり、パーピマントよ、そこにおいては、おまえの赴く所はない。パーピマントよ、まさしく、おまえのものとして、舌があり、おまえのものとして、諸々の味感があり、おまえのものとして、舌の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所がある。……略……。パーピマントよ、まさしく、おまえのものとして、身があり、おまえのものとして、諸々の感触があり、おまえのものとして、身の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所がある。……略……。パーピマントよ、まさしく、おまえのものとして、意があり、おまえのものとして、諸々の法(意の対象)があり、おまえのものとして、意の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所がある。パーピマントよ、しかしながら、すなわち、まさに、意が存在せず、諸々の法(意の対象)が存在せず、意の接触と識知〔作用〕と〔認識の〕場所が存在しないところがあり、パーピマントよ、そこにおいては、おまえの赴く所はない」と。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「それを、『これは、わたしのものである』と説き、さらに、それらの者たちが、『わたしのものである』と説く、ここにおいて、もし、おまえの意が存するなら、沙門よ、〔おまえは〕わたしから解き放たれないであろう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それを、『これは、わたしのものである』と説き、さらに、それらの者たちが、『わたしのものである』と説くとして、それらの者たちは、わたしにあらず。パーピマントよ、このように知りなさい。〔おまえは〕わたしの道さえも見ない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは……略……まさしく、その場において、消没した、ということです。
10. 王権の経
156. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山麓の林の小屋において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「いったい、まさに、王権を為すことができるのだろうか──殺さず、殺させず、勝たず、勝たせず、憂い悲しまず、憂い悲しませず、法(正義)によって」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、王権を為したまえ。善き至達者たる方は、王権を為したまえ。殺さず、殺させず、勝たず、勝たせず、憂い悲しまず、憂い悲しませず、法(正義)によって」と。「パーピマントよ、また、おまえは、わたしの、何を見るのだ。すなわち、おまえは、わたしに、このように説く。『尊き方よ、世尊は、王権を為したまえ。善き至達者たる方は、王権を為したまえ。殺さず、殺させず、勝たず、勝たせず、憂い悲しまず、憂い悲しませず、法(正義)によって』」と。「尊き方よ、世尊によって、まさに、四つの神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)は、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されました。尊き方よ、そして、望んでいる世尊が、山の王たるヒマヴァント(ヒマラヤ)に、まさしく、『金となれ』と信念するなら、また、そして、金が存するでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「『金と銀の山の全部が、まさしく、〔それが〕二つ三つあるとして、〔迷える〕一者にとっては、十分ならず』と〔知って〕、知ある者は、正義〔の道〕を歩むべきである。
すなわち、苦しみを見たなら、〔それが〕因縁として何から〔発生したのか〕を〔見たなら〕、その人は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、どうして、〔心が〕傾くというのだろう。〔生存の〕依り所を、『世における執着〔の対象〕である』と知って、人は、まさしく、それを取り除くために学ぶべきである」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「世尊は、わたしのことを知る。善き至達者は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
〔以上が〕第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「岩、獅子、石片、そして、適切なること、意図、鉢、〔認識の〕場所、〔行乞の〕食、耕作者があり、王権とともに、それらの十がある」と。
3. 第三の章
1. 大勢の者たちの経
157. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。シラーヴァティーにおいて。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、世尊から遠く離れていないところで、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、婆羅門の姿に化作して、大いなる結髪を結び束ね、網状の皮衣を着衣し、老い朽ちた、垂木の湾曲ある者となり、グルグルと入息する者となり、ウドゥンバラ〔樹〕の杖を掴んで、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「貴君たちは、年少の出家者たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者たちであるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なくあります。貴君たちは、人間の諸々の欲望〔の対象〕を享受したまえ。現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけてはいけません」と。「婆羅門よ、まさに、わたしたちは、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけることはありません。婆羅門よ、しかしながら、まさに、わたしたちは、時を要するものを捨棄して、現に見られるものを追いかけます。婆羅門よ、なぜなら、世尊によって説かれたからです。『諸々の欲望〔の対象〕は、時を要するものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものであり、ここにおいて、より一層の危険があります。この法(真理)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです』」と。このように説かれたとき、悪魔パーピマントは、頭を振って、舌を上げ下げして、額に三筋の皺を寄せて、杖に頼って、立ち去りました。
そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、世尊から遠く離れていないところで、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます。尊き方よ、そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、大いなる結髪を結び束ね、網状の皮衣を着衣し、老い朽ちた、垂木の湾曲ある者が、グルグルと入息する者が、ウドゥンバラ〔樹〕の杖を掴んで、わたしたちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしたちに、こう言いました。『貴君たちは、年少の出家者たちであるも──若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期を具備した者たちであるも──諸々の欲望〔の対象〕に遊楽なくあります。貴君たちは、人間の諸々の欲望〔の対象〕を享受したまえ。現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけてはいけません』と。尊き方よ、このように説かれたとき、わたしたちは、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、まさに、わたしたちは、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけることはありません。婆羅門よ、しかしながら、まさに、わたしたちは、時を要するものを捨棄して、現に見られるものを追いかけます。婆羅門よ、なぜなら、世尊によって説かれたからです。「諸々の欲望〔の対象〕は、時を要するものであり、苦痛多きものであり、葛藤多きものであり、ここにおいて、より一層の危険があります。この法(真理)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです」』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その婆羅門は、頭を振って、舌を上げ下げして、額に三筋の皺を寄せて、杖に頼って、立ち去ったのです」と。
「比丘たちよ、これは、婆羅門ではありません。これは、悪魔パーピマントです。あなたたちの眼を眩ますために、やってきたのです」と。そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この詩偈を語りました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、苦しみを見たなら、〔それが〕因縁として何から〔発生したのか〕を〔見たなら〕、その人は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、どうして、〔心が〕傾くというのだろう。〔生存の〕依り所を、『世における執着〔の対象〕である』と知って、人は、まさしく、それを取り除くために学ぶべきである」と。
2. サミッディの経
158. 或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。シラーヴァティーにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者サミッディが、世尊から遠く離れていないところで、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、静所に赴き静坐している尊者サミッディに、このような心の思索が浮かびました。「まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしの教師は、阿羅漢にして正等覚者である。まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者である。まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしと梵行を共にする者たちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、〔自らの〕心をとおして、尊者サミッディの心の思索を了知して、尊者サミッディのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サミッディから遠く離れていないところで、大いなる恐怖と恐ろしさある音声を作り為しました。さてまた、まさに、地が鳴るかに思われます。
そこで、まさに、尊者サミッディは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サミッディは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、世尊から遠く離れていないところで、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいます。尊き方よ、〔まさに〕その、静所に赴き静坐しているわたしに、このような心の思索が浮かびました。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしの教師は、阿羅漢にして正等覚者である。まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者である。まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしと梵行を共にする者たちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしから遠く離れていないところで、大いなる恐怖と恐ろしさある音声が有りました。さてまた、まさに、地が鳴るかに思われます」と。
「サミッディよ、この地が鳴るのではありません。これは、悪魔パーピマントです。あなたの眼を眩ますために、やってきたのです。サミッディよ、赴きなさい。あなたは、まさしく、そこにおいて、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者サミッディは、世尊に答えて、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。再度また、まさに、尊者サミッディは、まさしく、そこにおいて、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住みました。再度また、まさに、静所に赴き静坐している尊者サミッディに……略……。再度また、まさに、悪魔パーピマントは、〔自らの〕心をとおして、尊者サミッディの心の思索を了知して……略……。さてまた、まさに、地が鳴るかに思われます。そこで、まさに、尊者サミッディは、悪魔パーピマントに、詩偈をもって語りかけました。
〔サミッディが、詩偈に言う〕「わたしは、信によって家から家なきへと出家した者である。そして、わたしによって、気づきと智慧は覚るところとなり、さらに、心も善く定められた。〔おまえの〕欲するままに、諸々の形態を作り為せ。〔おまえが〕わたしを悩ますことは、まさしく、ないであろう」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「サミッディ比丘は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
3. ゴーディカの経
159. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者ゴーディカは、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩に住んでいます。そこで、まさに、尊者ゴーディカは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、暫時のものとして、〔止寂の〕心による解脱を体得しました。そこで、まさに、尊者ゴーディカは、その、暫時のものとしての、〔止寂の〕心による解脱から遍く衰退しました。再度また、まさに、尊者ゴーディカは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、暫時のものとして、〔止寂の〕心による解脱を体得しました。再度また、まさに、尊者ゴーディカは、その、暫時のものとしての、〔止寂の〕心による解脱から遍く衰退しました。三度また、まさに、尊者ゴーディカは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、暫時のものとして、〔止寂の〕心による解脱を体得しました。三度また、まさに、尊者ゴーディカは、その……略……遍く衰退しました。四度また、まさに、尊者ゴーディカは、〔気づきを〕怠らず……略……〔止寂の〕心による解脱を体得しました。四度また、まさに、尊者ゴーディカは……略……〔止寂の〕心による解脱から遍く衰退しました。五度また、まさに、尊者ゴーディカは、〔気づきを〕怠らず……略……〔止寂の〕心による解脱を体得しました。五度また、まさに、尊者ゴーディカは……略……〔止寂の〕心による解脱から遍く衰退しました。六度また、まさに、尊者ゴーディカは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、暫時のものとして、〔止寂の〕心による解脱を体得しました。六度また、まさに、尊者ゴーディカは、その、暫時のものとしての、〔止寂の〕心による解脱から遍く衰退しました。七度また、まさに、尊者ゴーディカは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、暫時のものとして、〔止寂の〕心による解脱を体得しました。
そこで、まさに、尊者ゴーディカに、この〔思い〕が有りました。「すなわち、六度に至るまで、まさに、わたしは、暫時のものとしての〔止寂の〕心による解脱から遍く衰退したのだ。それなら、さあ、わたしは、刃を持とうか(今や、命を絶つ時である)」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、〔自らの〕心をとおして、尊者ゴーディカの心の思索を了知して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「偉大なる勇者よ、偉大なる智慧ある方よ、神通と福徳によって燃え盛る方よ、一切の怨念と恐怖を超え行った方よ、眼ある方よ、〔あなたの両の〕足を、〔わたしは〕敬拝します。
偉大なる勇者よ、あなたの弟子が、死の征服者となり、死を望み、〔死を〕思います。光輝を保つ方よ、彼を制止するのです。
世尊よ、まさに、どうして、あなたの教えを喜ぶ弟子が、〔いまだ〕学びある者(有学)であり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者であるのに、命を終えるべきなのですか──人における所聞の者たる方よ」と。
また、まさに、その時点にあって、尊者(※)ゴーディカによって、刃が持たれるところと成ります(自死を決行する)。そこで、まさに、世尊は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、詩偈をもって語りかけました。
※ テキストには āyasmato とあるが、PTS版により āyasmatā と読む。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさに、このように、慧者たちは為す。〔彼らは〕生命を望まない。渇愛を根ごと引き抜いて、ゴーディカは、完全なる涅槃に到達した者となる」と。
そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、行きましょう。イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、そこへと近づいて行くのです。そこにおいて、良家の子息であるゴーディカによって、刃が持たれました」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。
そこで、まさに、世尊は、大勢の比丘たちと共に、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者ゴーディカが、はるか遠くに、臥床の上で肩をまるめ、臥しているのを見ました。また、まさに、その時点にあって、煙のような黒いものが、まさしく、東の方角に赴き、西の方角に赴き、北の方角に赴き、南の方角に赴き、上に赴き、下に赴き、〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に赴きます。
そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか──この、煙のような黒いものが、まさしく、東の方角に赴き、西の方角に赴き、北の方角に赴き、南の方角に赴き、上に赴き、下に赴き、〔四〕維に赴きます」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「比丘たちよ、これは、まさに、悪魔パーピマントです。良家の子息であるゴーディカの識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)を等しく探し求めているのです。『どこにおいて、良家の子息であるゴーディカの識知〔作用〕は止住しているのか』と。比丘たちよ、しかしながら、識知〔作用〕は止住することなく、良家の子息であるゴーディカは、完全なる涅槃に到達したのです」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、黄色い栃の実のような琵琶を携えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「上に、そして、下に、横に、〔四〕方に、〔四〕維に、〔まさに〕その、わたしは、〔ゴーディカを〕探し求めながら、〔ついに〕到達しません。ゴーディカは、彼は、どこに赴いたのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼は、慧者である。〔道心〕堅固を成就した者、常に瞑想を喜ぶ瞑想者である。昼夜に専念している者、生命を欲することなき者である。
死魔の軍団に勝利して、さらなる生存に帰り来ずして、渇愛を根ごと引き抜いて、ゴーディカは、完全なる涅槃に到達した者となる」と。
憂いに打ち負かされた彼の脇から、琵琶が落ちました。そののち、その夜叉(悪魔)は、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
4. 七年のつきまといの経
160. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において。また、まさに、その時点にあって、悪魔パーピマントは、七年のあいだ、世尊につきまとい、弱点〔の発見〕を期待するも、弱点を得ずにいながら、〔世に〕有ります。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「はてさて、〔あなたは〕憂いに沈んだ者となり、林のなかで瞑想するのですか。はてさて、〔あなたは〕富を失ったのですか、あるいは、〔何かを〕切望しているのですか。はてさて、〔あなたは〕村において、何らかの罪悪を作ったのですか。何ゆえに、〔あなたは〕人と、友誼を為さないのですか。誰とであれ、あなたに、友誼は成就しないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「一切の憂いの根元を掘り尽くして、罪悪なき者となり、憂いなく、〔わたしは〕瞑想する。〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕と渇望〔の思い〕の一切を断ち切って、煩悩なき者となり、怠りの眷属(悪魔)よ、〔わたしは〕瞑想する」と。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「それを、『これは、わたしのものである』と説き、さらに、それらの者たちが、『わたしのものである』と説く、ここにおいて、もし、あなたの意が存するなら、沙門よ、〔あなたは〕わたしから解き放たれないでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それを、『これは、わたしのものである』と説き、さらに、それらの者たちが、『わたしのものである』と説くとして、それらの者たちは、わたしにあらず。パーピマントよ、このように知りなさい。〔おまえは〕わたしの道さえも見ない」と。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「それで、もし、平安にして不死に至る道が随覚されたとして、あなたは、まさしく、独りで、離れ去りたまえ、去り行きたまえ。どうして、他者に教示するのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、彼岸に至る人たちがいる。〔彼らは〕死魔の領域ならざる〔境地〕を、〔わたしに〕尋ねる。〔問いを〕尋ねられた者として、わたしは、彼らに告げ知らせる。すなわち、真理を、〔まさに〕その、依り所なき〔境地〕を」と。
「尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、蓮池があり、そこに、蟹が存するとします。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の、あるいは、童子たちが、あるいは、童女たちが、その、あるいは、村から、あるいは、町から、出て、その蓮池のあるところに、そこへと近づいて行くとします。近づいて行って、その蟹を、水から引き上げて、陸に据え置くとします。尊き方よ、まさに、その蟹が、まさしく、その〔はさみ〕、そのはさみを、向けるなら、それらの、あるいは、童子たちは、あるいは、童女たちは、まさしく、その〔はさみ〕、その〔はさみ〕を、あるいは、木片で、あるいは、小石で、等しく切断し、等しく破壊し、等しく打ち砕くでしょう。尊き方よ、まさに、このように、全てのはさみが、等しく切断され、等しく破壊され、等しく打ち砕かれたことで、その蟹は、その蓮池に入り行くことができません。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の粉飾や術策や紛糾は、それらの全てが、世尊によって、等しく切断され、等しく破壊され、等しく打ち砕かれました。尊き方よ、今や、わたしは、ふたたび、世尊のもとに近づいて行くことができません。すなわち、この、弱点〔の発見〕を期待する者として」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、世尊の現前において、これらの厭離の詩偈を語りました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「そして、〔愚かな〕烏は、脂肪の色をした岩〔の周り〕を、〔肉を求めて〕歩き回った。『さてまた、ここにおいて、柔和なるものが見つかるであろうか。さてまた、美味なるものが存するであろうか』〔と〕。
そこにおいて、美味なる〔肉〕を得ずして、烏は、ここから立ち去るであろう。〔脂肪の色をした〕岩に近づいて、〔馬鹿を見た〕烏のように、〔わたしたちは〕厭離して、ゴータマから離れ去る」と。
5. 悪魔の娘たちの経
161. そこで、まさに、悪魔パーピマントは、世尊の現前において、これらの厭離の詩偈を語って、その場から立ち去って、世尊から遠く離れていないところで、地において、結跏をもって坐りました。沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、困惑し、応答なく、木片で地面を引っ掻きながら。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハー(渇愛)が、かつまた、アラティ(不満)が、かつまた、ラガー(貪欲)が、悪魔パーピマントのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、悪魔パーピマントに、詩偈をもって語りかけました。
〔娘たちが、詩偈に言う〕「父よ、どのようなことで、〔あなたは〕失意の者として存しているのですか。はてさて、どのような人のことを憂い悲しむのですか。わたしたちが、その〔人〕を、貪欲の罠で、林の象のように結縛して、連れてきましょう。あなたの支配に赴く者と成るでしょう」と。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「世における善き至達者たる阿羅漢は、貪欲〔の罠〕で簡単に連れてこられる者ではない。悪魔の領域を超え行った者である。それゆえに、わたしは、激しく憂い悲しむ」と。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「沙門よ、あなたの〔両の〕足を、お世話いたします」と。そこで、まさに、世尊は、意を為しませんでした。すなわち、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱した者として、そのとおりに。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、一方に立ち去って、このように、等しく思弁しました。「まさに、男たちには、高下諸々の志向がある。それなら、さあ、わたしたちは、それぞれが百の少女の姿を化作するのだ」と。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、それぞれが百の少女の姿を化作して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「沙門よ、あなたの〔両の〕足を、お世話いたします」と。それでもまた、世尊は、意を為しませんでした。すなわち、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱した者として、そのとおりに。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、一方に立ち去って、このように、等しく思弁しました。「まさに、男たちには、高下諸々の志向がある。それなら、さあ、わたしたちは、それぞれが百の未産の女の姿を化作するのだ」と。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、それぞれが百の未産の女の姿を化作して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「沙門よ、あなたの〔両の〕足を、お世話いたします」と。それでもまた、世尊は、意を為しませんでした。すなわち、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱した者として、そのとおりに。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……それなら、さあ、わたしたちは、それぞれが百の既産の女の姿を化作するのだ」と。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……既産の女の姿を化作して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「沙門よ、あなたの〔両の〕足を、お世話いたします」と。それでもまた、世尊は、意を為しませんでした。すなわち、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱した者として、そのとおりに。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……それなら、さあ、わたしたちは、それぞれが百の再産の女の姿を化作するのだ」と。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……再産の女の姿を化作して、世尊のおられるところに……略……。すなわち、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱した者として、そのとおりに。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……中年の婦女の姿を化作するのだ」と。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……中年の婦女の姿を化作して、世尊のおられるところに……略……。すなわち、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱した者として、そのとおりに。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……年増の婦女の姿を化作するのだ」と。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは……略……年増の婦女の姿を化作して、世尊のおられるところに……略……。すなわち、依り所の消滅という無上なるものにおいて解脱した者として、そのとおりに。そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、一方に立ち去って、こう言いました。「真に、まさに、わたしたちの父は言ったものだ。
〔すなわち〕『世における善き至達者たる阿羅漢は、貪欲〔の罠〕で簡単に連れてこられる者ではない。悪魔の領域を超え行った者である。それゆえに、わたしは、激しく憂い悲しむ』と。
まさに、すなわち、わたしたちが、あるいは、沙門であれ、あるいは、婆羅門であれ、〔いまだ〕貪欲を離れていない者に、この攻撃によって襲い掛かるなら、あるいは、彼の、心臓が張り裂けるであろうし、あるいは、熱血が口から吹き上がるであろうし、あるいは、狂気に至り得るであろうし、あるいは、心の散乱に〔至り得るであろう〕。また、あるいは、それは、たとえば、刈り取られた緑の葦が、枯れ尽き、干上がり、干涸びるように、まさしく、このように、枯れ尽きるであろうし、干上がるであろうし、干涸びるであろう」と。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、悪魔の娘であるタンハーは、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔タンハーが、詩偈に言う〕「はてさて、〔あなたは〕憂いに沈んだ者となり、林のなかで瞑想するのですか。はてさて、〔あなたは〕富を失ったのですか、あるいは、〔何かを〕切望しているのですか。はてさて、〔あなたは〕村において、何らかの罪悪を作ったのですか。何ゆえに、〔あなたは〕人と、友誼を為さないのですか。誰とであれ、あなたに、友誼は成就しないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「義(目的)の獲得を〔成就し〕、心臓(心)の寂静を〔成就し〕、愛しく快なる形態の軍団に勝利して、独り、わたしは瞑想しながら、〔真の〕安楽を随覚しました。それゆえに、〔わたしは〕人と、友誼を為しません。誰とであれ、わたしに、友誼は成就しません」と。
そこで、まさに、悪魔の娘であるアラティは、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔アラティが、詩偈に言う〕「どのような住ある者として多くあるなら、この〔世において〕、比丘は、五つの激流(色・声・香・味・触)を超えた者としてあり、この〔世において〕、第六のもの(法)を超えたのですか。どのような瞑想者として(※)多くあるなら、諸々の欲望の表象(想:概念・心象)は、遍く外にあるもの(無関係のもの)と成るのですか──その〔瞑想者〕を得ることなく(※※)」と。
※ テキストには jhāyiṃ とあるが、PTS版により jhāyaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。
※※ テキストには aladdha yo とあるが、PTS版により aladdhāyo と読む。以下の平行箇所も同様。
〔世尊が、詩偈に言う〕「身体が静息し、心が善く解脱した者──〔迷いの生存を〕形成する働きなく、〔常に〕気づきある、家なき者──法(事象)を〔あるがままに〕了知して、思考なく瞑想する者──〔心が〕動乱せず、〔悪を〕思念せず、〔心の〕沈滞なき者──
このような住ある者として多くあるなら、この〔世において〕、比丘は、五つの激流を超えた者としてあり、この〔世において〕、第六のものを超えたのです。このような瞑想者として多くあるなら、諸々の欲望の表象は、遍く外にあるものと成ります──その〔瞑想者〕を得ることなく」と。
そこで、まさに、悪魔の娘であるラガーは、世尊の現前において、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔ラガーが、詩偈に言う〕「〔多くの人民の〕渇愛〔の思い〕を奪い取って、衆徒とともに僧団とともに歩む方です。そして、たしかに、多くの者たちが、信ある者たちとなり、〔道を〕歩むでしょう。まさに、この方は、家なき者として、多くの人民を奪い取って、死魔の王の彼岸へと導くでしょう」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさに、偉大なる勇者たちは、〔多くの人民を、彼岸へと〕導きます──正なる法(教え)によって、如来たちは。法(真理)によって導いている者たちに、〔法を〕識知している者たちに、何の嫉妬があるというのでしょう」と。
そこで、まさに、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーは、かつまた、アラティは、かつまた、ラガーは、悪魔パーピマントのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、悪魔パーピマントは、悪魔の娘たちである、かつまた、タンハーが、かつまた、アラティが、かつまた、ラガーが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「愚者なるかな、〔おまえたちは〕諸々の蓮の茎で山を打ち砕く。〔おまえたちは〕爪で岩山を掘り崩す。〔おまえたちは〕諸々の歯で鉄を咀嚼する。
あたかも、頭で巌を持ち上げて、〔おまえたちは〕依って立つ所を深淵に探し求める。あたかも、胸で杭を打ち付けて、〔おまえたちは〕厭離して、ゴータマから離れ去る」と。
発光しながらやってきた、かつまた、タンハーであり、アラティであり、ラガーであるも、そこにおいて、教師は、風が落ちた綿毛を〔吹き払う〕ように、彼女たちを除き去った、ということです。
〔以上が〕第三の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「大勢の者たち、そして、サミッディ、ゴーディカ、七年、娘たちが説示され、最勝の覚者によって、この、悪魔についての五なるものが〔説かれた〕」と。
悪魔に相応するものは〔以上で〕完結となる。
5. 比丘尼に相応するもの
1. アーラヴィカーの経
162. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、アーラヴィカー比丘尼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行きました──遠離を義(目的)とする者として。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、アーラヴィカー比丘尼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、遠離〔の境地〕から死滅させることを欲し、アーラヴィカー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラヴィカー比丘尼に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「世に、出離は存在しない。遠離によって、〔おまえは〕何を為すというのだろう。諸々の欲望の歓楽を享受しなさい。のちに悩み苦しむ者と成ってはならない」と。
そこで、まさに、アーラヴィカー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「いったい、誰なのだ、まさに、この者は。あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者(精霊・悪霊)が、詩偈を語るのか」と。そこで、まさに、アーラヴィカー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「これは、まさに、悪魔パーピマントである。わたしに、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、遠離〔の境地〕から死滅させることを欲し、詩偈を語る」と。そこで、まさに、アーラヴィカー比丘尼は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました。
〔アーラヴィカーが、詩偈に言う〕「世に、出離は存在する。智慧によって、わたしの善く体得するところ。怠りの眷属(悪魔)よ、パーピマントよ、おまえは、その境処を知らない。
諸々の欲望〔の対象〕は、刃と槍の如きもの。〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)にとっての断頭台である。すなわち、欲望の歓楽を、おまえは説くが、それは、わたしにとって、歓楽ならざるものと成った」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「アーラヴィカー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. ソーマーの経
163. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ソーマー比丘尼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために。アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、ソーマー比丘尼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、ソーマー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ソーマー比丘尼に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「すなわち、〔まさに〕その、征服し難き境位にして、聖賢たちによって至り得られるべきもの(阿羅漢の資質)は、二指の智慧なる女には、それに至り得ることができない」と。
そこで、まさに、ソーマー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「いったい、誰なのだ、まさに、この者は。あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、詩偈を語るのか」と。そこで、まさに、ソーマー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「これは、まさに、悪魔パーピマントである。わたしに、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、詩偈を語る」と。そこで、まさに、ソーマー比丘尼は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました。
〔ソーマーが、詩偈に言う〕「女の状態が、何を為すというのだろう(性差は妨げにならない)──心が善く定められ、知恵(智)が転起しているとき、正しく法(事象)を観察しているなら。
その者に、まちがいなく、このような〔思いが〕存するなら──あるいは、『わたしは女である』『〔わたしは〕男である』と、また、あるいは、他に、何であれ、『〔わたしは〕存在する』と──悪魔は、その者に説くのがふさわしい」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「ソーマー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
3. キサー・ゴータミーの経
164. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、キサー・ゴータミー比丘尼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、キサー・ゴータミー比丘尼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、キサー・ゴータミー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、キサー・ゴータミー比丘尼に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「いったい、どうして、あなたは、子が死んだ者のように泣き顔の者となり、独りで存しているのですか。独り、林の中に赴き、はてさて、男を探し求めているのですか」と。
そこで、まさに、キサー・ゴータミー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「いったい、誰なのだ、まさに、この者は。あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、詩偈を語るのか」と。そこで、まさに、キサー・ゴータミー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「これは、まさに、悪魔パーピマントである。わたしに、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、詩偈を語る」と。
そこで、まさに、キサー・ゴータミー比丘尼は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました。
〔キサー・ゴータミーが、詩偈に言う〕「結局のところ、子が死んだ者として、〔わたしは〕存しています。男たちも、これを終極とします(ともに死に果てた)。〔もはや、わたしは〕憂い悲しまず、泣き悲しまず、友よ、あなたを恐れません。
一切所において、喜び〔の思い〕は打破され、闇の塊は破られました。死魔の軍団に勝利して、煩悩なき者となり、〔世に〕住みます」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「キサー・ゴータミー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
4. ヴィジャヤーの経
165. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ヴィジャヤー比丘尼は、早刻時に、着衣して……略……或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、ヴィジャヤー比丘尼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、ヴィジャヤー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ヴィジャヤー比丘尼に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「あなたは、青年で、〔善き〕形姿ある者(美人)です。かつまた、わたしも、青年で、若き者です。尊貴なる方よ、さあ、五つの支分ある楽器で、〔わたしたちは〕喜び楽しむのです」と。
そこで、まさに、ヴィジャヤー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「いったい、誰なのだ、まさに、この者は。あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、詩偈を語るのか」と。そこで、まさに、ヴィジャヤー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「これは、まさに、悪魔パーピマントである。わたしに、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、詩偈を語る」と。そこで、まさに、ヴィジャヤー比丘尼は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました。
〔ヴィジャヤーが、詩偈に言う〕「意が喜びとするのが、諸々の形態(色:眼の対象)であり、諸々の音声(声:耳の対象)であり、諸々の味感(味:舌の対象)であり、諸々の臭気(香:鼻の対象)であり、さらに、諸々の感触(所触:身の対象)であるなら、まさしく、あなたに、〔これらの全てを〕引き渡します。悪魔よ、わたしは、それに義(目的)ある者にあらず。
壊れ去り、壊れ崩れる、この腐った身体によって、〔わたしは〕苦悩し、自責します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする渇愛〔の思い〕は完破されました。
そして、すなわち、形態〔の界域〕(色界)に近しく赴く有情たちがあり、さらに、すなわち、形態なき〔界域〕(無色界)に止住する者たちがあり、そして、すなわち、〔八つの〕寂静なる入定〔の境地〕があるも、〔それらの〕一切所において、闇は打破されました」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「ヴィジャヤー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
5. ウッパラヴァンナーの経
166. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ウッパラヴァンナー比丘尼は、早刻時に、着衣して……略……或るどこかの見事に花ひらいたサーラ樹の根元に立ちました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、ウッパラヴァンナー比丘尼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、ウッパラヴァンナー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウッパラヴァンナー比丘尼に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「比丘尼よ、先端が見事に花ひらいた〔木〕へと近しく赴いて、あなたは、独り、サーラ〔樹〕の根元に立ちます。そして、あなたに、伴侶は存在しません──〔すなわち、あなたと同等の〕色艶の界域ある者は。愚かな方よ、あなたは、質の悪い者たちを恐れないのですか」と。
そこで、まさに、ウッパラヴァンナー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「いったい、誰なのだ、まさに、この者は。あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、詩偈を語るのか」と。そこで、まさに、ウッパラヴァンナー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「これは、まさに、悪魔パーピマントである。わたしに、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、詩偈を語る」と。そこで、まさに、ウッパラヴァンナー比丘尼は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました。
〔ウッパラヴァンナーが、詩偈に言う〕「たとえ、質の悪い者たちの百千が、ここに到来し、あなたのように有るとして、〔わたしは〕毛〔の一本〕も動かないであろうし、恐慌もしないであろう。悪魔よ、たとえ、独りなるも、〔わたしは〕おまえを恐れない。
この〔わたし〕は、消没もする。あるいは、おまえの腹に入りもする。眉の間に立ちもするし、立っているわたしを、〔おまえは〕見ない。
心において自在と成った者として、〔わたしは〕存している。〔四つの〕神通の足場(四神足:意欲・専心・精進・考察)は善く修められた。一切の結縛するものから解き放たれた者として、〔わたしは〕存している。友よ、〔わたしは〕おまえを恐れない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「ウッパラヴァンナー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
6. チャーラーの経
167. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、チャーラー比丘尼は、早刻時に、着衣して……略……或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、チャーラー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、チャーラー比丘尼に、こう言いました。「比丘尼よ、いったい、何を、あなたは喜ばないのですか」と。「友よ、生(世に生まれること)を、まさに、わたしは喜びません」と。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「いったい、どうして、あなたは、生を喜ばないのですか。生まれた者は、諸々の欲望〔の対象〕を享受します。いったい、誰が、あなたに、このことを執取させたのですか。『比丘尼よ、生を喜んではいけない』」と。
〔チャーラーが、詩偈に言う〕「生まれた者には、死が有る。生まれた者は、諸々の苦しみに触れる──結縛に、殴打に、遍き〔心の〕汚れに。それゆえに、生を喜ばない。
覚者は、法(教え)を説示した──生の超越〔という法を〕を。一切の苦しみを捨棄するために、彼は、わたしを、真理において確たるものとした。
そして、すなわち、形態〔の界域〕(色界)に近しく赴く有情たちも、さらに、すなわち、形態なき〔界域〕(無色界)に止住する者たちも、止滅〔の界域〕を覚知することなく、さらなる生存に帰り来る者たちである」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「チャーラー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
7. ウパチャーラーの経
168. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ウパチャーラー比丘尼は、早刻時に、着衣して……略……或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、ウパチャーラー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウパチャーラー比丘尼に、こう言いました。「比丘尼よ、いったい、どこにおいて、生起することを、あなたは欲するのですか」と。「友よ、どこにおいてであれ、生起することを、まさに、わたしは欲しません」と。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「そして、三十三〔天の神々〕たちが、さらに、耶摩〔天の神々〕たちがいます。さらに、また、兜率〔天〕の天神たちがいます。すなわち、化楽天〔の神々〕たちも、自在天〔の神々〕たちもいます。そこにおいて、心を向けなさい。喜びを味わい楽しむでしょう」と。
〔ウパチャーラーが、詩偈に言う〕「そして、三十三〔天の神々〕たちが、さらに、耶摩〔天の神々〕たちがいる。さらに、また、兜率〔天〕の天神たちがいる。すなわち、化楽天〔の神々〕たちも、自在天〔の神々〕たちもいる。彼らは、欲望の結縛に結縛された者たちであり、ふたたび、悪魔の支配に至り行く。
一切の世は、燃えている。一切の世は、燻(くすぶ)っている。一切の世は、燃え盛っている。一切の世は、揺れ動いている。
凡夫の慣れ親しむところならざる、不動にして動揺なきところがある。そこにおいて、悪魔の赴く所はなく、そこにおいて、わたしの意は喜びあるものとなる」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「ウパチャーラー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
8. シースパチャーラーの経
169. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、シースパチャーラー比丘尼は、早刻時に、着衣して……略……或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、シースパチャーラー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、シースパチャーラー比丘尼に、こう言いました。「比丘尼よ、はてさて、あなたは、誰の宗派を喜ぶのですか」と。「友よ、まさに、わたしは、誰のものであれ、宗派を喜びません」と。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「いったい、誰を、〔師と〕定めて、〔あなたは〕剃髪者として存しているのですか。〔あなたは〕沙門尼のように見えます。そして、〔あなたは〕宗派を喜びません。どうして、〔あなたは〕迷愚の者であるかのように歩むのですか」と。
〔シースパチャーラーが、詩偈に言う〕「これより外の宗派の者たちは、彼らは、諸々の見解に信を置く。わたしは、彼らの法(教え)を喜ばない。彼らは、法(教え)の熟知者たちにあらず。
釈迦〔族〕の家に生まれた覚者が、対する人なき方が、〔世に〕存在する(※)。一切を征服する方であり、悪魔を除去する方であり、一切所において敗れることなき方である。
※ テキストには Atthtththi とあるが、PTS版により Atthi と読む。
一切所において解き放たれ、依存なく、眼ある方であり、一切を見る。一切の行為の滅尽に至り得た方であり、依り所の消滅において解脱した方である。彼は、世尊は、わたしの教師である。〔わたしは〕彼の教えを喜ぶ」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「シースパチャーラー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
9. セーラーの経
170. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、セーラー比丘尼は、早刻時に、着衣して……略……或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、セーラー比丘尼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し……略……セーラー比丘尼に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「誰によって、この幻影(虚妄の身体)は作り為されたのですか。いったい、どこに、幻影の作り手はいるのですか。いったい、どこで、幻影は生起したのですか。いったい、どこで、幻影は止滅するのですか」と。
そこで、まさに、セーラー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「いったい、誰なのだ、まさに、この者は。あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、詩偈を語るのか」と。そこで、まさに、セーラー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「これは、まさに、悪魔パーピマントである。わたしに、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、詩偈を語る」と。そこで、まさに、セーラー比丘尼は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました。
〔セーラーが、詩偈に言う〕「この幻影は、自己によって作られたものにあらず。この悩苦は、他者によって作られたものにあらず。因を縁として発生したものであり、因の滅壊あることから止滅する。
たとえば、田畑に蒔かれた或る一つの種が、そして、地の味(滋養)を、さらに、湿潤を、その両者を縁として成長するように──
このように、〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)は、そして、〔十八の認識の〕界域(界)は、さらに、六つの〔の認識の〕場所(処)は、これらは、因を縁として発生したものであり、因の滅壊あることから止滅する」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「セーラー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
10. ヴァジラーの経
171. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ヴァジラー比丘尼は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。そこで、まさに、悪魔パーピマントが、ヴァジラー比丘尼に、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、ヴァジラー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ヴァジラー比丘尼に、詩偈をもって語りかけました。
〔悪魔が、詩偈に言う〕「誰によって、この有情は作り為されたのですか。どこに、有情の作り手はいるのですか。どこで、有情は生起したのですか。どこで、有情は止滅するのですか」と。
そこで、まさに、ヴァジラー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「いったい、誰なのだ、まさに、この者は。あるいは、人間が、あるいは、人間ならざる者が、詩偈を語るのか」と。そこで、まさに、ヴァジラー比丘尼に、この〔思い〕が有りました。「これは、まさに、悪魔パーピマントである。わたしに、恐怖と驚愕と身の毛のよだちを生起させることを欲し、禅定から死滅させることを欲し、詩偈を語る」と。そこで、まさに、ヴァジラー比丘尼は、「これは、悪魔パーピマントである」と知って、悪魔パーピマントに、諸々の詩偈をもって答えました。
〔ヴァジラーが、詩偈に言う〕「いったい、どうして、『有情』と信受するのか。悪魔よ、まさに、おまえには、悪しき見解がある。これは、単なる形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の集まりである。ここに、有情は認められない。
まさに、たとえば、部品の集合あることから、『車』という声(名称)が有るように、このように、〔五つの心身を構成する〕範疇が存しているとき、『有情』という〔言葉の〕慣習(世俗:社会通念)が有る。
まさに、苦しみだけが発生する。苦しみが止住し、そして、衰失する。苦しみより他に、〔何も〕発生しない。苦しみより他に、〔何も〕止滅しない」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントは、「ヴァジラー比丘尼は、わたしのことを知る」と、苦痛の者となり、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した、ということです。
比丘尼に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、アーラヴィカー、そして、ソーマー、ゴータミー、さらに、ヴィジャヤー、そして、ウッパラヴァンナー、チャーラー、ウパチャーラー、そして、シースパチャーラー、セーラーがあり、ヴァジラーとともに、それらの十がある」と。
6. 梵〔天〕に相応するもの
1. 第一の章
1. 梵〔天〕の懇願の経
172. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「まさに、わたしが到達した、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。また、まさに、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜するのが、この、〔世の〕人々である。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々にとって、この境位は、見難きものとしてある。すなわち、この、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)であり、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)である。まさに、この境位もまた、見難きものとしてある。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、法(教え)を説示するとして、しかしながら、他者たちは、わたしの〔法を〕了知しないであろう。それは、わたしにとって、疲弊として存するであろう。それは、わたしにとって、悩害として存するであろう」と。さてまた、まさに、世尊に、稀有ならざるものとして、これらの詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの詩偈〕が。
〔世尊が、詩偈に言う〕「苦難をもって、わたしが到達したものを、〔世に〕明示するべくも、今は、まさに、十分である(その時ではない)。この法(真理)は、貪欲と憤怒に打ち負かされた者たちによって、善く正覚されるものにあらず。
〔世の〕流れに反して赴く精緻なる〔この法〕を、深遠にして見難く微細なる〔この法〕を、貪欲に染まり闇の塊に覆われた者たちは〔あるがままに〕見ない」と。
まさに、かくのごとく、世尊が深慮していると、心は、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾きません(説法を躊躇する)。
そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティに──〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して──この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、世が滅びる。ああ、まさに、世が滅び去る。なぜなら、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来の心が、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾かないからだ」と。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう」と。梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。
〔サハンパティが、詩偈に言う〕「過去において、マガダ〔国〕に、清浄ならざる法(教え)が出現しました──〔世俗の〕垢を有する者たちによって思弁されたものとして。〔あなたこそは〕開示したまえ──〔まさに〕この、不死の門を。〔世の人々は〕聞け──〔世俗の〕垢を離れる方によって随覚された〔清浄なる〕法(教え)を。
たとえば、山の頂きの巌に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、思慮深き方よ、一切に眼ある方よ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視したまえ。
勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。先導者たる方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。世尊は、法(教え)を説示してください。〔世の人々は、法の〕了知者たちと成るでしょう」と。
そこで、まさに、世尊は、そして、梵〔天〕の要請を知って、さらに、有情たちにたいし慈悲あることを縁として、覚者の眼によって、世を眺めました。まさに、世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、まさしく、このように、世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。見て、梵〔天〕のサハンパティに、詩偈をもって答えました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼ら、耳ある者たちは、信を解き放て。不死の諸門は、彼らに開示された。梵〔天〕よ、〔わたしは〕悩害の表象ある者となり、人間たちにたいし、至徳にして精妙なる法(真理)を語らなかった」と。
そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、「まさに、〔わたしは〕存している──法(教え)を説示するために、世尊が機会を作った者として」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. 尊重の経
173. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺のアジャパーラ・ニグローダ〔樹〕の根元において、最初に現正覚した者として。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「まさに、尊重〔の思い〕なき者は、敬虔〔の思い〕なき者は、苦痛のうちに〔世に〕住む。いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきであろうか」と。
そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、戒の範疇(戒蘊)が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、自己よりもより戒を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。
まさに、禅定の範疇(定蘊)が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含む世において……略……自己よりもより禅定を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。
まさに(※)、智慧の範疇(慧蘊)が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含む世において……略……自己よりもより智慧を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。
※ PTS版により kho を補う。
まさに、解脱の範疇が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含む世において……略……自己よりもより解脱を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。
まさに、解脱の知見の範疇が円満成就なくあるなら、〔その〕円満成就のために、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである。また、まさに、わたしは、見ない──天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、自己よりもより解脱の知見を成就した、他の、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を──すなわち、わたしが、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むべきである、〔そのような者を〕。それなら、さあ、わたしは、すなわち、この、わたしによって現正覚された法(真理)であるが、まさしく、その法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことにしよう」と。
そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、〔自らの〕心をとおして、世尊の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、世尊の前に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、すなわち、また、過去の時に〔世に〕有った、それらの阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちもまた、まさしく、法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みました。尊き方よ、すなわち、また、未来の時に〔世に〕有るであろう、それらの阿羅漢にして正等覚者たちも、それらの世尊たちもまた、まさしく、法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むでしょう。尊き方よ、今現在、阿羅漢にして正等覚者たる世尊もまた、まさしく、法(真理)を、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みたまえ」と。梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。
〔サハンパティが、詩偈に言う〕「そして、すなわち、過去の正覚者たちも、かつまた、すなわち、未来の覚者たちも、さらに、すなわち、多くの者たちの憂いを滅ぼす者である、今現在の正覚者も──
全ての者たちが、正なる法(教え)を重んじる者たちとして、〔過去に〕住み、そして、〔現在に〕住み、そのように、また、〔未来に〕住むであろう。これは、覚者たちの法(真理)たることである。
まさに、それゆえに、自己〔の義〕を欲する者によって、大いなるものを希求している者によって、正なる法(教え)が尊重されるべきである──覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら」と。
3. ブラフマデーヴァの経
174. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの女性婆羅門の、ブラフマデーヴァという名の子が、世尊の現前において、家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。
そこで、まさに、尊者ブラフマデーヴァが、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者ブラフマデーヴァは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。
そこで、まさに、尊者ブラフマデーヴァは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて、歩々淡々と行乞〔行乞の〕食のために歩みながら、自らの母の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、尊者ブラフマデーヴァの母の女性婆羅門は、梵〔天〕に、捧げものを常に差し出します。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者ブラフマデーヴァの母の女性婆羅門は、梵〔天〕に、捧げものを常に差し出す。それなら、さあ、わたしは、近づいて行って、彼女を畏怖させるのだ」と。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、尊者ブラフマデーヴァの母の住居地に出現しました。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、宙空に立ち、尊者ブラフマデーヴァの母の女性婆羅門に、諸々の詩偈をもって(※)語りかけました。
※ テキストには gāthāya とあるが、PTS版により gāthāhi と読む。
〔サハンパティが、詩偈に言う〕「婆羅門の女よ、それがために、〔あなたが〕常に捧げものを差し出す、梵の世(梵天界)は、ここから遠く離れている。婆羅門の女よ、このようなものは、梵の食物にあらず。梵の道を知らずにいながら、〔あなたは〕何を渇望するのだ。
婆羅門の女よ、まさに、この者は、あなたの〔子である〕ブラフマデーヴァは、依り所なき者であり、天を超える〔境地〕に至り得た者である。無一物の比丘にして、他者を扶養する〔義務〕なき者である。すなわち、あなたの〔子である〕彼が、〔行乞の〕食のために、家に入ったのだ。
〔供物を〕捧げるべき者であり、〔真の〕知に至る者であり、自己を修めた者である。〔世の〕人たちにとって、さらに、天〔の神々〕たちにとって、〔供物を〕施与されるべき者である。諸々の悪を拒んで汚れなき者となり、食糧を探し求めるに〔しかるべく〕振る舞う──〔心が〕清涼と成った者として。
彼には、未来に〔何も存在せ〕ず、過去に〔何も〕存在しない。寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なく、動くものと動かないものたち(一切の生類)にたいし棒(武器)を置いた者である。彼が、あなたの捧げものを、至高の〔行乞の〕食を、受益せよ。
敵視という有り方を離れた者であり、寂止した心の者であり、象のように〔自己が〕調御され、〔心に〕動揺なき者として〔世を〕歩む。善き戒ある比丘にして、心が善く解脱した者である。彼が、あなたの捧げものを、至高の〔行乞の〕食を、受益せよ。
〔あなたは〕彼にたいし、浄信した者となり、動揺なき者となり、〔供物を〕施与されるべき者において、施物を確立せよ──未来の安楽となる功徳を作り為せ──婆羅門の女よ、激流を超えた牟尼(ブラフマデーヴァ)を見て〔そののち〕」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「〔女性婆羅門は〕彼にたいし、浄信した者となり、動揺なき者となり、〔供物を〕施与されるべき者において、施物を確立した──未来の安楽となる功徳を作り為した──婆羅門の女は、激流を超えた牟尼を見て〔そののち〕」と。
4. 梵〔天〕のバカの経
175. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、梵〔天〕のバカに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「これは、常住である。これは、常恒である。これは、常久である。これは、全一である。これは、死滅なき法(性質)である。まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない。また、さらに、これより他に、より上なる出離は存在しない」と。
そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、梵〔天〕のバカの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、その梵の世に出現しました。まさに、梵〔天〕のバカは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「敬愛なる方よ、まさに、来たれ。敬愛なる方よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。敬愛なる方よ、長きのはてに、まさに、〔あなたは〕この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。敬愛なる方よ、まさに、これは、常住です。これは、常恒です。これは、常久です。これは、全一です。これは、死滅なき法(性質)です。まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しません。また、さらに、これより他に、より上なる出離は存在しません」と。
このように説かれたとき、世尊は、梵〔天〕のバカに、こう言いました。「ああ、まさに、梵〔天〕のバカは、無明を具した者です。ああ、まさに、梵〔天〕のバカは、無明を具した者です。なぜなら、そこで、まさに、まさしく、常住ならざるものとして存しているものを、『常住』と説き、まさしく、常恒ならざるものとして存しているものを、『常恒』と説き、まさしく、常久ならざるものとして存しているものを、『常久』と説き、まさしく、全一ならざるものとして存しているものを、『全一』と説き、まさしく、死滅ある法(性質)として存しているものを、『死滅なき法(性質)』と説くからです。さらに、また、そこにおいては、そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生するのに、しかしながら、それを、『まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない』〔と〕、そのように説くからです。また、さらに、他に、より上なる出離が存在しているのに、『他に、より上なる出離は存在しない』と説くからです」と。
〔バカが、詩偈に言う〕「ゴータマよ、七十二者の功徳の行為ある者たちがいます。自在の転起ある者たちであり、生と老を超え行った者たちです。梵〔の世〕の再生は、これは、最後〔の生〕であり、〔真の〕知に至るものです。無数の人たちが、わたしたちを渇望します」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「この〔寿命〕は、まさに、僅かです。まさに、長き寿命ではありません。バカよ、それを、あなたは、長き寿命と思い考えます。梵〔天〕よ、わたしは、あなたの寿命を、百千のニラッブダ(数の単位・巨大数)と覚知します」と。
〔バカが、詩偈に言う〕「世尊よ、わたしは、無限の見ある者として存しています。生と老を〔超克し〕、憂いを超克した者です。何が、わたしの、過去の掟と戒の行持なのですか。それを、〔わたしに〕告げ知らせてください。すなわち、わたしが、〔それを〕識知できるように」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、あなたは、炎暑のなか等しく打ち負かされ渇いている多くの人間たちに、〔水を〕飲ませました。それが、あなたの、過去の掟と戒の行持です。眠りから目覚めた者のように、〔わたしは〕思い起こします。
すなわち、エーニー〔川〕の堤防において、捕捉され虜囚として連行される人々を、〔あなたは〕解放しました。それが、あなたの、過去の掟と戒の行持です。眠りから目覚めた者のように、〔わたしは〕思い起こします。
ガンガー〔川〕の流れのなか、残忍な龍によって、人間への欲望から捕捉された舟を、〔あなたは〕力ずくで打ち負かして解き放ちました。それが、あなたの、過去の掟と戒の行持です。眠りから目覚めた者のように、〔わたしは〕思い起こします。
そして、〔わたしは〕カッパ〔という名〕の、あなたの従僕として〔世に〕有りました。〔あなたのことを〕正覚ある者と、掟ある者と、〔わたしは〕思い考えました。それが、あなたの、過去の掟と戒の行持です。眠りから目覚めた者のように、〔わたしは〕思い起こします」と。
〔バカが、詩偈に言う〕「たしかに、わたしの、この寿命を、〔あなたは〕覚知します。まさに、そのように、諸々の他のことをもまた、覚者である〔あなた〕は、〔あるがままに〕知ります。まさに、そのように、あなたの、この燃え盛る威力は、梵の世を照らしながら止住します」と。
5. 或るひとりの梵〔天〕の経
176. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの梵〔天〕に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「その者が、ここにやってくるとして、彼は、あるいは、沙門としても、あるいは、婆羅門としても、存在せず(沙門や婆羅門は梵天界にはやってこない)」と。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、その梵〔天〕の心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が……略……その梵の世に出現しました。そこで、まさに、世尊は、その梵〔天〕の上に、宙空に結跏をもって坐りました──火の界域に入定して。
そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どこに、今現在、世尊は住んでいるのか」と。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、人間を超越した清浄の天眼によって、世尊が、その梵〔天〕の上に、宙空に結跏をもって坐り、火の界域に入定しているのを見ました。見て、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ジェータ林において消没し、その梵の世に出現しました。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、東の方角に依拠して、その梵〔天〕の上に、世尊よりは低く、宙空に結跏をもって坐りました──火の界域に入定して。
そこで、まさに、尊者マハー・カッサパに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どこに、今現在、世尊は住んでいるのか」と。まさに、尊者マハー・カッサパは、人間を超越した清浄の天眼によって、世尊が……略……火の界域に入定しているのを見ました。見て、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が……略……まさしく、このように、ジェータ林において消没し、その梵の世に出現しました。そこで、まさに、尊者マハー・カッサパは、南の方角に依拠して、その梵〔天〕の上に、世尊よりは低く、宙空に結跏をもって坐りました──火の界域に入定して。
そこで、まさに、尊者マハー・カッピナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どこに、今現在、世尊は住んでいるのか」と。まさに、尊者マハー・カッピナは、人間を超越した清浄の天眼によって、世尊が……略……火の界域に入定しているのを見ました。見て、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が……略……まさしく、このように、ジェータ林において消没し、その梵の世に出現しました。そこで、まさに、尊者マハー・カッピナは、西の方角に依拠して、その梵〔天〕の上に、世尊よりは低く、宙空に結跏をもって坐りました──火の界域に入定して。
そこで、まさに、尊者アヌルッダに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どこに、今現在、世尊は住んでいるのか」と。まさに、尊者アヌルッダは、人間を超越した清浄の天眼によって、世尊が……略……火の界域に入定しているのを見ました。見て、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が……略……まさしく、このように、ジェータ林において消没し、その梵の世に出現しました。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、北の方角に依拠して、その梵〔天〕の上に、世尊よりは低く、宙空に結跏をもって坐りました──火の界域に入定して。
そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その梵〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔モッガッラーナが、詩偈に言う〕「友よ、〔まさに〕その、かつて有った、あなたの見解ですが、その見解は、今日もまた、あなたに〔有りますか〕(あなたの見解は以前のままですか)。梵の世における光り輝きが離転しつつあるのを、〔あなたは〕見ますか(あなたの光輝が徐々に消滅するのを認めますか)」と。
〔梵天が、詩偈に言う〕「敬愛なる方よ、〔まさに〕その、かつて有った、わたしの見解ですが、その見解は、わたしに〔有り〕ません。梵の世における光り輝きが離転しつつあるのを、〔わたしは〕見ます。〔まさに〕その、わたしが、今日、どうして、〔かつてのように〕説くというのでしょう。『常住にして常久なる者として、わたしは存している』」と。
そこで、まさに、世尊は、その梵〔天〕を畏怖させて、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、その梵の世において消没し、ジェータ林に出現しました。そこで、まさに、その梵〔天〕は、或るひとりの梵〔天〕の会衆に告げました。「敬愛なる者よ、さあ、あなたは、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナに、このように説きなさい。『敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、いったい、まさに、存在するのですか。他にもまた、彼の、世尊の、弟子たちで、このように大いなる神通ある者たちが、このように大いなる威力たちが──それは、たとえば、また、尊貴なる、モッガッラーナのように、カッサパのように、カッピナのように、アヌルッダのように』」と。「敬愛なる方よ、わかりました」と、まさに、その梵〔天〕の会衆は、その梵〔天〕に答えて、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、いったい、まさに、存在するのですか。彼の、世尊の、弟子たちで、他にもまた、このように大いなる神通ある者たちが、このように大いなる威力たちが──それは、たとえば、また、尊貴なる、モッガッラーナのように、カッサパのように、カッピナのように、アヌルッダのように」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その梵〔天〕の会衆に、詩偈をもって語りかけました。
〔モッガッラーナが、詩偈に言う〕「三つの明知ある者たちがいる──神通に至り得た者たちが、そして、〔他者の〕心の探知の熟知者たちが、煩悩の滅尽者たる阿羅漢たちが──覚者の弟子として、多くの者たちが」と。
そこで、まさに、梵〔天〕の会衆は、尊者マハー・モッガッラーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、その梵〔天〕のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その梵〔天〕に、こう言いました。「敬愛なる方よ、尊者マハー・モッガッラーナは、このように言いました。
〔すなわち〕『三つの明知ある者たちがいる──神通に至り得た者たちが、そして、〔他者の〕心の探知の熟知者たちが、煩悩の滅尽者たる阿羅漢たちが──覚者の弟子として、多くの者たちが』」と。
その梵〔天〕の会衆は、この〔言葉〕を言いました。そして、わが意を得たその梵〔天〕は、その梵〔天〕の会衆の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
6. 梵の世の経
177. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、世尊は、昼の休息に赴き、静坐の状態でおられます。そこで、まさに、かつまた、独りある梵〔天〕のスブラフマーが、かつまた、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、各自に門の両脇に依拠して立ちました。そこで、まさに、独りある梵〔天〕のスブラフマーは、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサに、こう言いました。「敬愛なる者よ、まさに、まだ、世尊に奉侍するための時ではありません。世尊は、昼の休息に赴き、そして、静坐しているところです。さてまた、何某の、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆する、梵の世があります。かつまた、そこにあって、梵〔天〕は、放逸の住に住んでいます(怠けている)。敬愛なる者よ、行きましょう。その梵の世のあるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、その梵〔天〕を畏怖させるのです」と。「敬愛なる者よ、わかりました」と、まさに、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサは、独りある梵〔天〕のスブラフマーに答えました。
そこで、まさに、かつまた、独りある梵〔天〕のスブラフマーは、かつまた、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が……略……まさしく、このように、世尊の前において消没し、その〔梵の〕世に出現しました。まさに、その梵〔天〕は、それらの梵〔天〕たちが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらの梵〔天〕たちに、こう言いました。「敬愛なる者たちよ、さて、いったい、どこから、あなたたちはやってきたのですか」と。「敬愛なる者よ、まさに、わたしたちは存しています──彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、現前からやってきた者たちとして。敬愛なる者よ、また、あなたも、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、奉仕に赴くべきです」と。
このように説かれた、まさに、その梵〔天〕は、その言葉に承諾することなく、千回、自己を化作して、独りある梵〔天〕のスブラフマーに、こう言いました。「敬愛なる者よ、まさに、あなたは見ますか──わたしの、このような形態の神通の威力を」と。「敬愛なる者よ、まさに、わたしは見ます──あなたの、このような形態の神通の威力を」と。「敬愛なる者よ、それで、まさに、わたしは、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者です。他の誰の、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、奉仕に赴くというのでしょう」と。
そこで、まさに、独りある梵〔天〕のスブラフマーは、二千回、自己を化作して、その梵〔天〕に、こう言いました。「敬愛なる者よ、まさに、あなたは見ますか──わたしの、このような形態の神通の威力を」と。「敬愛なる者よ、まさに、わたしは見ます──あなたの、このような形態の神通の威力を」と。「敬愛なる者よ、しかしながら、まさに、あなたよりも、さらに、わたしよりも、まさしく、彼は、世尊は、まさしく、そして、より偉大なる神通ある方であり、さらに、より偉大なる威力ある方です。敬愛なる者よ、あなたは、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、奉仕に赴くべきです」と。そこで、まさに、その梵〔天〕は、独りある梵〔天〕のスブラフマーに、詩偈をもって語りかけました。
〔梵天が、詩偈に言う〕「三者の金翅鳥が、そして、四者の鵞鳥が、さらに、五百の鷹がいる──瞑想者たる〔わたし〕には。梵〔天〕よ、〔まさに〕その、この天宮は、北の方角を照らしながら、そして、光り輝く」と。
〔スブラフマーが、詩偈に言う〕「たとえ、何であれ、あなたの、その天宮が、北の方角を照らしながら、光り輝くとして、形態のうちに、相克を見て、常に動揺を〔見て〕、それゆえに、思慮深き者は、形態を喜びません」と。
そこで、まさに、かつまた、独りある梵〔天〕のスブラフマーは、かつまた、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサは、その梵〔天〕を畏怖させて、まさしく、その場において、消没しました。そして、まさに、その梵〔天〕は、他時にあって、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の奉仕に赴いた、ということです。
7. コーカーリカの経
178. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、世尊は、昼の休息に赴き、静坐の状態でおられます。そこで、まさに、かつまた、独りある梵〔天〕のスブラフマーが、かつまた、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、各自に門の両脇に依拠して立ちました。そこで、まさに、独りある梵〔天〕のスブラフマーは、コーカーリカ比丘に関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔スブラフマーが、詩偈に言う〕「量るべきではないものを量っているなら、誰が、ここに、知ある者となり、〔正しく〕分別できるというのだろう。量るべきではないものを量る者を、彼を、〔迷妄に〕覆われた凡夫と、〔わたしは〕思う」と。
8. カタモーダカ・ティッサカ(※)の経
※ テキストには tissa とあるが、PTS版により tissaka と読む。
179. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、世尊は、昼の休息に赴き、静坐の状態でおられます。そこで、まさに、かつまた、独りある梵〔天〕のスブラフマーが、かつまた、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、各自に門の両脇に依拠して立ちました。そこで、まさに、独りある梵〔天〕のスッダーヴァーサは、カタモーダカ・ティッサカ比丘に関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔スッダーヴァーサが、詩偈に言う〕「量るべきではないものを量っているなら、誰が、ここに、知ある者となり、〔正しく〕分別できるというのだろう。量るべきではないものを量る者を、彼を、〔迷妄に〕覆われた智なき者と、〔わたしは〕思う」と。
9. 梵〔天〕のトゥルーの経
180. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、コーカーリカ比丘は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。そこで、まさに、独りある梵〔天〕のトゥルーが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、コーカーリカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、宙空に立ち、コーカーリカ比丘に、こう言いました。「コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を浄信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。「友よ、誰なのですか、〔ここに〕存する、あなたは」と。「わたしは、独りある梵〔天〕のトゥルーです」と。「友よ、まさに、あなたは、世尊によって授記された、不還たる者ではないですか。そこで、それなのに、どうして、ここにやってきたのですか。見たまえ──そして、どれほどまでに、この〔到来〕が、あなた〔の不還たる境遇〕に反するものであるかを」と。
〔トゥルーが、詩偈に言う〕「まさに、人が生まれたなら、口には斧が生え、それによって、愚者は、自己を断つ──悪語(悪口)を話しながら。
彼が、非難するべき者を賞賛するなら、あるいは、その〔人〕が賞賛するべき者であるのに、その〔人〕を非難するなら、彼は、口(言葉)によって、〔悪しき〕賽の目を弁別する(自ら罪過を選び取る)──その賽の目によって、安楽を見出すことなく。
この賽の目は、〔その罪悪の報いは〕僅かばかりのもの──彼が、諸々の博打において、自己さえも含む一切もろともの財を失うことになるとして。彼が、善き至達者たちにたいし、意を汚すなら(悪意を抱き非難するなら)、この賽の目こそは、より大いなるものとなる。
百千の三十六のニラッブダ(地獄の名・巨大数)のあいだ、さらに、五つのアッブダ(地獄の名・巨大数)のあいだ、〔まさに〕その、〔終わりなき〕地獄に、聖者を難詰する者は近づく──悪しき言葉を、そして、〔悪しき〕意を、〔聖者に〕向けて〔そののち〕」と。
10. コーカーリカの経
181. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、コーカーリカ比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーカーリカは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、サーリプッタとモッガッラーナは、悪しき欲求ある者たちであり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。このように説かれたとき、世尊は、コーカーリカ比丘に、こう言いました。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を浄信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。再度また、まさに、コーカーリカ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、たとえ、何であれ、わたしにとって、世尊が、信を置ける頼りになる方であるとして、尊き方よ、そこで、まさに、サーリプッタとモッガッラーナは、悪しき欲求ある者たちであり、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。コーカーリカよ、サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を浄信させなさい。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。三度また、まさに、コーカーリカ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、たとえ、何であれ……略……諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者たちです」と。三度また、まさに、世尊は、コーカーリカ比丘に、こう言いました。「コーカーリカよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。……略……。サーリプッタとモッガッラーナは、博愛なる者たちです」と。
そこで、まさに、コーカーリカ比丘は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そして、コーカーリカ比丘が立ち去ったすぐあと、〔彼の〕全身は、芥子粒ほどの諸々の吹出物で充満したものと成りました。芥子粒ほどのものと成って〔そののち〕、緑豆ほどのものと成りました。緑豆ほどのものと成って〔そののち〕、大豆ほどのものと成りました。大豆ほどのものと成って〔そののち〕、棗の核ほどのものと成りました。棗の核ほどのものと成って〔そののち〕、棗ほどのものと成りました。棗ほどのものと成って〔そののち〕、アーマラカ〔の果実〕ほどのものと成りました。アーマラカ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、未熟のベールヴァ〔の果実〕ほどのものと成りました。未熟のベールヴァ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、ビッラ〔の果実〕(パパイヤ)ほどのものと成りました。ビッラ〔の果実〕ほどのものと成って〔そののち〕、破れました。そして、膿が、さらに、血が、流れ出ました。そこで、まさに、コーカーリカ比丘は、まさしく、その病苦によって、命を終えました。そして、命を終えたコーカーリカ比丘は、パドゥマ地獄(紅蓮地獄)に再生しました──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて。
そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、コーカーリカ比丘が、命を終えたのです。尊き方よ、そして、命を終えたコーカーリカ比丘が、パドゥマ地獄に再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて」と。梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
そこで、まさに、世尊は、その夜が明けると、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この夜、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。比丘たちよ、一方に立った、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、コーカーリカ比丘が、命を終えたのです。尊き方よ、そして、命を終えたコーカーリカ比丘が、パドゥマ地獄に再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて』と。比丘たちよ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、わたしに右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました」と。
このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さが、パドゥマ地獄における寿命の量となるのですか」と。「比丘よ、長いのです──まさに、パドゥマ地獄における寿命の量は。それは、計測するに為し易くはなく、あるいは、『これなる〔数〕の、年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、千の年となる』と、あるいは、『これなる〔数〕の、百千の年となる』と、〔計測できないのです〕」と。「尊き方よ、また、喩えを為すことはできますか」と。「比丘よ、できます」と、世尊は言いました。
「比丘よ、それは、たとえば、また、コーサラ〔国の枡目〕で二十カーリ(重さの単位・一石)の胡麻の積み荷があるとします。その〔胡麻の積み荷〕から、人が、百年が〔経過し〕百年が経過しては、一つ一つの胡麻を取り出すとします。比丘よ、よりすみやかに、まさに、その、コーサラ〔国の枡目〕で二十カーリの胡麻の積み荷は、このやり方によって、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至るでしょうが、まさしく、しかし、一つのアッブダ地獄〔の寿命〕は、〔そのようなことは〕ありません。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアッブダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのニラッブダ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のニラッブダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアババ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアババ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアタタ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアタタ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのアハハ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のアハハ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのクムダ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のクムダ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのソーガンディカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のソーガンディカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのウッパラカ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のウッパラカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのプンダリーカ(※)地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、それは、たとえば、また、二十のプンダリーカ地獄〔の寿命〕があるとして、このように、一つのパドゥマ地獄〔の寿命〕があります。比丘よ、また、パドゥマ地獄において、コーカーリカ比丘は再生したのです──サーリプッタとモッガッラーナにたいし、心を憤懣させて」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
※ テキストには puṇḍariko とあるが、PTS版により puṇḍarīko と読む。以下の平行箇所も同様。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさに、人が生まれたなら、口には斧が生え、それによって、愚者は、自己を断つ──悪語を話しながら。
彼が、非難するべき者を賞賛するなら、あるいは、その〔人〕が賞賛するべき者であるのに、その〔人〕を非難するなら、彼は、口によって、〔悪しき〕賽の目を弁別する──その賽の目によって、安楽を見出すことなく。
この賽の目は、〔その罪悪の報いは〕僅かばかりのもの──彼が、諸々の博打において、自己さえも含む一切もろともの財を失うことになるとして。彼が、善き至達者たちにたいし、意を汚すなら、この賽の目こそは、より大いなるものとなる。
百千の三十六のニラッブダ(地獄の名・巨大数)のあいだ、さらに、五つのアッブダ(地獄の名・巨大数)のあいだ、〔まさに〕その、〔終わりなき〕地獄に、聖者を難詰する者は近づく──悪しき言葉を、そして、〔悪しき〕意を、〔聖者に〕向けて〔そののち〕」と。
〔以上が〕第一の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「懇願、尊重、ブラフマデーヴァ、そして、梵〔天〕のバカ、さらに、他に、見解、そして、放逸とコーカーリヤとティッサカ、そして、梵〔天〕のトゥルー、さらに、他に、コーカーリカがあり、〔章となる〕」と。
2. 第二の章
1. サナンクマーラの経
182. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。サッピニー〔川〕の岸辺において。そこで、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくサッピニー〔川〕の岸辺を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔サナンクマーラが、詩偈に言う〕「彼らが、氏姓を支えとする者たちであるなら、その人々においては、士族(王)が最勝の者となる。天〔の神〕と人間においては、明知と行ないの成就者が、彼が、最勝の者となる」と。
梵〔天〕のサナンクマーラは、この〔言葉〕を言いました。教師は、〔梵天の言葉を〕正しくお認めに成りました(梵天に随喜した)。そこで、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、「教師は、わたしのことを正しくお認めです」と、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没した、ということです。
2. デーヴァダッタの経
183. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくギッジャクータ山を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、デーヴァダッタに関して、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔サハンパティが、詩偈に言う〕「〔成熟した〕果は、まさに、芭蕉を損なう。〔成熟した〕果は、竹を〔損ない〕、〔成熟した〕果は、葦を〔損なう〕。あたかも、〔妊娠した〕胎が、雌騾馬を〔損なう〕ように、〔他者の〕尊敬は、悪しき人を損なう」と。
3. アンダカヴィンダの経
184. 或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。アンダカヴィンダ〔村〕において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、漆黒の闇夜のなか、野外において、坐った状態でおられます。そして、天は、ぽつぽつと雨を降らせます。そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくアンダカヴィンダ〔村〕を照らして、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔サハンパティが、詩偈に言う〕「諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しむように。束縛するものからの解脱〔の道〕を歩むように。それで、もし、そこにおいて、喜びに到達できないなら、僧団において、自己が守られた気づきある者として住するように。
家から家へと〔行乞の〕食のために歩みながら、〔感官の〕機能が守られた、賢明なる気づきある者となり、恐怖〔の思い〕から解き放たれた、恐怖なき〔境地〕において解脱した者となり、諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しむように。
そこにおいて、恐ろしい蛇たちがいるとして、雷光が飛び交い、天が〔雷鳴を〕鳴り響かせるとして、漆黒の闇夜のなか、そこにおいて、比丘は坐った──身の毛のよだちを離れ去り。
まさに、たしかに、これは、わたしが見たこと。これは、伝聞にあらず。一つの梵行あるとき、死魔を捨棄する千の者たちがいる。
より一層のものとして、五百の、さらに、十の十の十倍の、〔いまだ〕学びある者たちがいる。全ての者たちが、預流たる者たちであり、畜生〔の胎〕に赴かない者たちである。
そこで、この、他の人々は、功徳の分有者たちとなる。かくのごとく、わたしの意はある。〔その数を〕数えることは、もはや、できない──虚偽を説くことを〔自ら〕咎めつつ」と。
4. アルナヴァティーの経
185. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、過去の事ですが、アルナヴァントという名の王が〔世に〕有りました。比丘たちよ、また、まさに、アルナヴァント王には、アルナヴァティーという名の王都が有りました。比丘たちよ、また、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、アルナヴァティーの王都に近しく依拠して〔世に〕住みました。比丘たちよ、また、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊には、アビブーとサンバヴァという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、アビブー比丘に告げました。『婆羅門よ、行きましょう。或るどこかの梵の世のあるところに、そこへと近づいて行くのです。食事の時と成るであろう、それまでのあいだ』と。比丘たちよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、アビブー比丘は、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊に答えました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、さらに、アビブー比丘は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、アルナヴァティーの王都において消没し、その梵の世に出現しました。
比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、アビブー比丘に告げました。『婆羅門よ、あなたに、そして、その梵〔天〕への、かつまた、梵〔天〕の衆への、さらに、梵〔天〕の会衆たちへの、法(教え)の講話が明白となれ(彼らに説法せよ)』と。比丘たちよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、アビブー比丘は、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊に答えて、そして、梵〔天〕に、かつまた、梵〔天〕の衆に、さらに、梵〔天〕の会衆たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。比丘たちよ、そこで、まさに、そして、梵〔天〕は、かつまた、梵〔天〕の衆は、さらに、梵〔天〕の会衆たちは、譴責し、憤慨し、文句を言います。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、どうして、まさに、教師が面前に有るところで、弟子が、法(教え)を説示するというのだろう』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、アビブー比丘に告げました。『婆羅門よ、そして、梵〔天〕は、かつまた、梵〔天〕の衆は、さらに、梵〔天〕の会衆たちは、まさに、彼らは譴責します。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、どうして、まさに、教師が面前に有るところで、弟子が、法(教え)を説示するというのだろう」と。婆羅門よ、まさに、それでは、あなたは、より激しく、そして、梵〔天〕を、かつまた、梵〔天〕の衆を、さらに、梵〔天〕の会衆たちを、畏怖させなさい』と。比丘たちよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、アビブー比丘は、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊に答えて、見られる身体(可見の身体)によってもまた、法(教え)を説示し、見られない身体(不可見の身体)によってもまた、法(教え)を説示し、見られる下半分の身体と見られない上半分の身体によってもまた、法(教え)を説示し、見られる上半分の身体と見られない下半分の身体によってもまた、法(教え)を説示します。比丘たちよ、そこで、まさに、そして、梵〔天〕は、かつまた、梵〔天〕の衆は、さらに、梵〔天〕の会衆たちは、稀有にして未曾有の心が生じた者たちと成りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。沙門の、大いなる神通たることは、大いなる威力たることは』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、アビブー比丘は、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊に、こう言いました。『尊き方よ、まさに、わたしは証知します(記憶している)──比丘の僧団の中において、語り手として〔語った〕、このような形態の言葉を。「友よ、まさに、わたしは、梵の世に立ち、千の世の界域を、声によって識知させることができます」』と。『婆羅門よ、このための時です。婆羅門よ、このための時です。婆羅門よ、すなわち、あなたは、梵の世に立ち、千の世の界域を、声によって識知させるのです』と。比丘たちよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、アビブー比丘は、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊に答えて、梵の世に立ち、これらの詩偈を語りました。
〔すなわち〕『励め、勤しめ、覚者の教えに専念せよ。象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、死魔の軍団を打ち払え。
すなわち、この法(教え)と律(規律)において、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むなら、生の輪廻を捨棄して、苦しみの終極を為すであろう』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、そして、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、さらに、アビブー比丘は、そして、梵〔天〕を、かつまた、梵〔天〕の衆を、さらに、梵〔天〕の会衆たちを、畏怖させて、それは、たとえば、また、まさに……略……その梵の世において消没し、アルナヴァティーの王都に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、まさに、あなたたちは聞きましたか──梵の世に立ち、諸々の詩偈を語っているアビブー比丘の〔声を〕』と。『尊き方よ、まさに、わたしたちは聞きました──梵の世に立ち、諸々の詩偈を語っているアビブー比丘の〔声を〕』と。『比丘たちよ、また、すなわち、どのように、あなたたちは聞きましたか──梵の世に立ち、諸々の詩偈を語っているアビブー比丘の〔声を〕』と。『尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは聞きました──梵の世に立ち、諸々の詩偈を語っているアビブー比丘の〔声を〕。
〔すなわち〕「励め、勤しめ、覚者の教えに専念せよ。象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、死魔の軍団を打ち払え。
すなわち、この法(教え)と律(規律)において、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むなら、生の輪廻を捨棄して、苦しみの終極を為すであろう」と。
尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは聞きました──梵の世に立ち、諸々の詩偈を語っているアビブー比丘の〔声を〕』と。『比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、まさに、あなたたちは聞きました──梵の世に立ち、諸々の詩偈を語っているアビブー比丘の〔声を〕』」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
5. 完全なる涅槃の経
186. 或る時のことです。世尊は、クシナーラーに住んでおられます。マッラ〔族〕の者たちの、ウパヴァッタナのサーラ〔樹〕の林において、対なるサーラ〔樹〕(沙羅双樹)の間にあって、完全なる涅槃の時のこと。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さあ、今や、あなたたちに告げます。衰失の法(性質)あるのが、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)です。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、〔道を〕成就させなさい」と。これは、如来の最後の言葉です。
そこで、まさに、世尊は、第一の瞑想(初禅・第一禅)に入定しました。第一の瞑想から出起して、第二の瞑想(第二禅)に入定しました。第二の瞑想から出起して、第三の瞑想(第三禅)に入定しました。第三の瞑想から出起して、第四の瞑想(第四禅)に入定しました。第四の瞑想から出起して、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に入定しました。虚空無辺なる〔認識の〕場所から出起して、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に入定しました。識知無辺なる〔認識の〕場所から出起して、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に入定しました。無所有なる〔認識の〕場所から出起して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に入定しました。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所から出起して、表象と感覚の止滅(想受滅)に入定しました。
表象と感覚の止滅から出起して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定しました。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所から出起して、無所有なる〔認識の〕場所に入定しました。無所有なる〔認識の〕場所から出起して、識知無辺なる〔認識の〕場所に入定しました。識知無辺なる〔認識の〕場所から出起して、虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定しました。虚空無辺なる〔認識の〕場所から出起して、第四の瞑想に入定しました。第四の瞑想から出起して、第三の瞑想に入定しました。第三の瞑想から出起して、第二の瞑想に入定しました。第二の瞑想から出起して、第一の瞑想に入定しました。第一の瞑想から出起して、第二の瞑想に入定しました。第二の瞑想から出起して、第三の瞑想に入定しました。第三の瞑想から出起して、第四の瞑想に入定しました。第四の瞑想から出起して、等しく直後に、世尊は、完全なる涅槃に到達しました。世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、梵〔天〕のサハンパティは、この詩偈を語りました。
〔サハンパティが、詩偈に言う〕「世における生類たちは、まさしく、全ての者たちが、積身を捨置するであろう。そこにおいて、このような〔世の〕教師たる方が、世において対する人なき方が、如来が、力に至り得た方が、正覚者が、完全なる涅槃に到達したからには」と。
世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕は、この詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言う〕「無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、まさに、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である」と。
世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、尊者アーナンダは、この詩偈を語りました。
〔アーナンダが、詩偈に言う〕「そのとき、〔まさに〕その、禍々しき〔思い〕が存した──そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した──〔すなわち〕一切の優れた行相を具した正覚者が、完全なる涅槃に到達したとき」と。
世尊が完全なる涅槃に到達したとき、完全なる涅槃と共に、尊者アヌルッダは、これらの詩偈を語りました。
〔アヌルッダが、詩偈に言う〕「心が安立した如なる方に、出息と入息は有ることなくあった。〔心の〕動揺なき方は、〔心の〕寂静に励んで、眼ある方は、完全なる涅槃に到達した者となる。
〔彼は〕退去なき心で、〔苦痛の〕感受を耐えた。灯火に涅槃(火が消えること)があるように、〔彼の〕心には、解脱が有った」と。
〔以上が〕第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「梵〔天〕のサナ(サナンクマーラ)、デーヴァダッタ、アンダカヴィンダ、アルナヴァティーがあり、そして、完全なる涅槃とともに、この梵〔天〕についての五なるものが説示された」と。
梵〔天〕に相応するものは〔以上で〕完結となる。
7. 婆羅門に相応するもの
1. 阿羅漢の章
1. ダナンジャーニーの経
187. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、或るひとりのバーラドヴァージャ姓の婆羅門の、ダナンジャーニーという名の女性婆羅門が、そして、覚者(仏:ブッダ)にたいし、かつまた、法(法:ダンマ)にたいし、さらに、僧団(僧:サンガ)にたいし、大いに浄信した者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は、バーラドヴァージャ姓の婆羅門に、食事を近しく運びつつ、近しく進み行って、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。
「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。
彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。
彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。
このように説かれたとき、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、ダナンジャーニー女性婆羅門に、こう言いました。「また、まさしく、このように、この賎民女は、あるいは、そのときであるなら、あるいは、そのときとなるや、その坊主頭の似非沙門の栄誉を語る。賎民女よ、今や、わたしは、おまえの、その教師の論を論破してやる」と。「婆羅門よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、論を論破するであろう、その者を、まさに、わたしは見ません。婆羅門よ、ですが、ともあれ、あなたは赴きなさい。赴いて、〔このことを〕識知するでしょう」と。
そこで、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、激情し、わが意を得ない者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「いったい、何を断ち切って、安楽のうちに臥すのですか。いったい、何を断ち切って、憂い悲しまないのですか。いったい、どのような一つの法(性質)の打倒を、ゴータマよ、〔あなたは〕喜ぶのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「忿激〔の思い〕を断ち切って、安楽のうちに臥します。忿激〔の思い〕を断ち切って、憂い悲しみません。婆羅門よ、先端が〔蜜のように〕甘美な忿激という毒根の打倒を、聖者たちは賞賛します。まさに、それを断ち切って、憂い悲しみません」と。
このように説かれたとき、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態(色)を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように」と。
まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者バーラドヴァージャは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
2. 罵倒の経
188. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。まさに、アッコーサカ(罵倒者)・バーラドヴァージャ婆羅門は、「どうやら、バーラドヴァージャ姓の婆羅門が、沙門ゴータマの現前において、家から家なきへと出家したらしい」と耳にしました。〔彼は〕激情し、わが意を得ない者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を、諸々の不当かつ粗暴な言葉で罵倒し口撃します。
このように説かれたとき、世尊は、アッコーサカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、あなたの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、客としてやってきますか」と。「貴君ゴータマよ、或る時にあってはまた、わたしの、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、客としてやってきます」と。「婆羅門よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、彼らに、あるいは、固形の食料を、あるいは、軟らかい食料を、あるいは、美味なるものを、付与しますか」と。「貴君ゴータマよ、或る時にあってはまた、彼らに、わたしは、あるいは、固形の食料を、あるいは、軟らかい食料を、あるいは、美味なるものを、付与します」と。「婆羅門よ、また、まさに、それで、もし、彼らが納受しないなら、それは、誰のものと成りますか」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、彼らが納受しないなら、それは、まさしく、わたしたちのものと成ります」と。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、あなたが、〔他者を〕罵倒せずにいるわたしたちを罵倒し、〔他者を〕悩まさずにいる〔わたしたち〕を悩まし、〔他者と〕言い争わずにいる〔わたしたち〕と言い争うとして、あなたの、その〔言葉〕を、わたしたちは納受しません。婆羅門よ、これは、まさしく、あなたのものと成ります。婆羅門よ、これは、まさしく、あなたのものと成ります。
婆羅門よ、彼が、まさに、〔他者を〕罵倒している者に罵倒し返し、〔他者を〕悩ましている者に悩まし返し、〔他者と〕言い争っている者に言い争い返すなら、婆羅門よ、この者は、『共に受益し、行き交う』と説かれます。〔まさに〕その、わたしたちは、あなたと、まさしく、共に受益せず、行き交いません。婆羅門よ、これは、まさしく、あなたのものと成ります。婆羅門よ、これは、まさしく、あなたのものと成ります」と。「王を含む衆は、まさに、貴君ゴータマのことを、このように知ります。『沙門ゴータマは、阿羅漢である』と。そこで、また、しかしながら、貴君ゴータマは忿激します」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「忿激〔の思い〕なく、〔自己が〕調御され、平等の生ある者に、どうして、忿激〔の思い〕があるというのだろう──正しい了知による解脱者にして寂静者たる、そのような者に。
すなわち、忿激した者に忿激し返すなら、それによって、まさしく、彼に、より悪しきことがある。忿激した者に忿激し返さずにいる者は、勝利し難き戦いに勝利する。
他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら、かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者の義(利益)を行なう。
かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者のために癒している者を、彼のことを(※)、〔世の〕人たちは、『愚者である』と思いなす──すなわち、法(真理)の熟知者ならざる者たちは」と。
※ テキストには tikicchantānaṃ とあるが、テーラガーター444偈により tikicchantaṃ taṃ と読む。
このように説かれたとき、アッコーサカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。
まさに、アッコーサカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者アッコーサカ・バーラドヴァージャは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
3. アスリンダカの経
189. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。まさに、アスリンダカ(阿修羅の王)・バーラドヴァージャ婆羅門は、「どうやら、バーラドヴァージャ姓の婆羅門が、沙門ゴータマの現前において、家から家なきへと出家したらしい」と耳にしました。〔彼は〕激情し、わが意を得ない者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を、諸々の不当かつ粗暴な言葉で罵倒し口撃します。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、アスリンダカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、〔おまえは〕存している──勝利された者(敗者)として」「沙門よ、〔おまえは〕存している──勝利された者として」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「言葉によって、粗暴なことを話しながら、『〔わたしは〕勝利している』〔と〕、まさに、愚者は思いなす。すなわち、忍受が、識知している者にあるなら(識者が沈黙を守っているなら)、まさしく、そして、『〔わたしは〕勝利している』〔と〕、彼には、その〔思いなし〕が有る。
すなわち、忿激した者に忿激し返すなら、それによって、まさしく、彼に、より悪しきことがある。忿激した者に忿激し返さずにいる者は、勝利し難き戦いに勝利する。
他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら、かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者の義(利益)を行なう。
かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者のために癒している者を、彼のことを(※)、〔世の〕人たちは、『愚者である』と思いなす──すなわち、法(真理)の熟知者ならざる者たちは」と。
※ テキストには tikicchantānaṃ とあるが、テーラガーター444偈により tikicchantaṃ taṃ と読む。
このように説かれたとき、アスリンダカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……と証知しました。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
4. ビランギカの経
190. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。まさに、ビランギカ(酸粥者)・バーラドヴァージャ婆羅門は、「どうやら、バーラドヴァージャ姓の婆羅門が、沙門ゴータマの現前において、家から家なきへと出家したらしい」と耳にしました。〔彼は〕激情し、わが意を得ない者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、沈黙の状態で、一方に立ちました。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、ビランギカ・バーラドヴァージャ婆羅門の心の思索を了知して、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼が、汚れなき人を汚すなら、清浄で穢れなき人を〔穢すなら〕(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱くなら)、まさしく、その愚者に、悪は戻り来る──風に逆らって投げられた細かい塵が、〔投げた者自身に戻り来る〕ように」と。
このように説かれたとき、ビランギカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……と証知しました。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
5. アヒンサカの経
191. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、アヒンサカ(不害の者)・バーラドヴァージャ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アヒンサカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、わたしは、アヒンサカです。貴君ゴータマよ、わたしは、アヒンサカです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、名前のように、そして、そのとおりに存するなら、まさに、あなたは、不害の者(アヒンサカ)として存するべきです。そして、彼が、身体によって、言葉によって、さらに、意によって、〔他者を〕害さないなら──彼が、他者を害し傷つけないなら──彼は、まさに、不害の者と成ります」と。
このように説かれたとき、アヒンサカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……と証知しました。また、そして、尊者アヒンサカ・バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
6. ジャターの経
192. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、ジャター(結髪)・バーラドヴァージャ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャター・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「内に結髪あり、外に結髪あり、〔世の〕人々は、結髪によって結束されています。ゴータマよ、それを、あなたに尋ねます。誰が、この結髪を解きほぐすのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「戒において〔自己を〕確立して、智慧を有する人が、心を〔修めながら〕、そして、智慧を修めながら、熱情ある賢明なる比丘として、彼は、この結髪を解きほぐすでしょう。
それらの者たちの、そして、貪欲(貪)が、かつまた、憤怒(瞋)が、さらに、無明が──〔それらが〕離貪されたなら、〔彼らは〕煩悩の滅尽者たる阿羅漢たちであり、彼らの結髪は〔すでに〕解きほぐされたのです。
そこにおいて、そして、名前(名:精神的事象)が、さらに、形態(色:物質的形態)が、残りなく破却されるなら──かつまた、敵対〔の表象〕(有対想:自己に対峙対立する表象)と形態の表象(色想)が〔残りなく破却されるなら〕──ここにおいて、この結髪は断ち切られます」と。
このように説かれたとき、ジャター・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
7. スッディカの経
193. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、スッディカ(清浄の者)・バーラドヴァージャ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、スッディカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「たとえ、戒ある者が苦行を為しているとして、世において、婆羅門の誰もが清浄となるのではない。明知と行ないの成就者が、彼が、清浄となる。他の、この人々は、さにあらず」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「たとえ、多くの唱えものを呟いているとして、内は屑に汚染され、虚言に近しく依拠している者が、出生によって、婆羅門と成るのではない。
士族であれ、婆羅門であれ、庶民であれ、隷民であれ、チャンダーラ(賎民)やプックサ(非人)であれ、精進に励み、自己を精励し、常に断固たる努力ある者であるなら、最高の清浄に至り得る。婆羅門よ、このように知りなさい」と。
このように説かれたとき、スッディカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
8. アッギカの経
194. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、アッギカ(祭火者)・バーラドヴァージャ婆羅門のために、酥と粥が差配されるところと成ります。「祭火に捧げものをするのだ。祭火の捧げものを世話するのだ」と。
そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩みながら、アッギカ・バーラドヴァージャ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。まさに、アッギカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊が、ラージャガハを〔行乞の〕食のために立っているのを見ました。見て、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「三つの明知を成就した、出生よく、多くの所聞ある者が、明知と行ないの成就者が、彼が、この粥を食べるがよい」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「たとえ、多くの唱えものを呟いているとして、内は屑に汚染され、虚言に取り囲まれた者が、出生によって、婆羅門と成るのではない。
彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼であり──
これらの三つの明知によって、三つの明知ある婆羅門と成る。明知と行ないの成就者が、彼が、この粥を食べるがよい」と。
「貴君ゴータマは、お食べください。貴君は、婆羅門です」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「わたしにとって、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕は、食べるべきにあらず。婆羅門よ、〔常に〕正しく見ている者たちにとって、これは、法(正義)にあらず。覚者たちは、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕を除き去ります。婆羅門よ、法(正義)が存しているとき、これが、生活〔のあり方〕となります。
そして、煩悩(漏)が滅尽し、悔恨〔の思い〕が寂止した、全一者たる偉大なる聖賢には、他の食べ物と飲み物によって奉仕するのです。なぜなら、それは、功徳を期す者の田畑(福田)と成るからです」と。
このように説かれたとき、アッギカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。また、そして、尊者アッギカ・バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
9. スンダリカの経
195. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。スンダリカー川の岸辺において。また、まさに、その時点にあって、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門が、スンダリカー川の岸辺において、祭火に捧げものをし、祭火の捧げものを世話します。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、祭火に捧げものをして、祭火の捧げものを世話して、坐から立ち上がって、遍きにわたり、四方を見回しました。「いったい、まさに、誰が、この捧げものの残りを食べるべきなのか」と。まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊が、或るどこかの木の根元において、〔衣料を〕頭まで包着し、坐っているのを見ました。見て、左手で捧げものの残りを掴んで、右手で長口の水瓶を掴んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門の足音で〔その来訪を知り〕、頭を顕わにしました。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、「この尊き者は、剃髪者だ。この尊き者は、剃髪坊主だ」と、まさしく、そこから、ふたたび引き返すことを欲する者と成りました。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、たとえ、剃髪者なるも、ここに、一部の者たちは、婆羅門たちとして〔世に〕有る。それなら、さあ、わたしは、近づいて行って、彼に、〔彼の〕出生を尋ねてみよう」と。
そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「貴君は、どのような出生ですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「出生を尋ねてはいけません。そして、行ない〔こそ〕を尋ねなさい。火は、まさに、〔元の木が何であれ、あらゆる〕薪から生まれます。たとえ、卑しい家系の者でも、〔道心〕堅固の牟尼として、恥〔の思い〕で〔身を〕慎む者は、善き生まれの者として〔世に〕有ります。
真理によって調御され、〔心身の〕調御を具し、知の終極に至る、梵行の完成者──祭祀が準備されたなら、彼を呼ぶべきです。その〔祭祀者〕は、〔正しい〕時に、捧げものをします──〔供物を〕施与されるべき者にたいし」と。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「たしかに、わたしの、この〔捧げもの〕は、善く供えられ、善く捧げられました。すなわち、そのような〔真の〕知に至る方を、〔わたしは〕見たのです。まさに、あなたさまのような方たちを見ないので、他の人が捧げものの残りを受けるのです」と。
「貴君ゴータマは、お食べください。貴君は、婆羅門です」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「わたしにとって、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕は、食べるべきにあらず。婆羅門よ、〔常に〕正しく見ている者たちにとって、これは、法(正義)にあらず。覚者たちは、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕を除き去ります。婆羅門よ、法(正義)が存しているとき、これが、生活〔のあり方〕となります。
そして、煩悩が滅尽し、悔恨〔の思い〕が寂止した、全一者たる偉大なる聖賢には、他の食べ物と飲み物によって奉仕するのです。なぜなら、それは、功徳を期す者の田畑と成るからです」と。
「貴君ゴータマよ、そこで、では、誰に、わたしは、この捧げものの残りを施すことになるのですか」と。「婆羅門よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、彼が、その捧げものの残りを食べたとして、正しく変化に至るであろう(消化吸収できる)、〔まさに〕その者を、婆羅門よ、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、まさに、わたしは見ません。婆羅門よ、まさに、それでは、あなたは、その捧げものの残りを、あるいは、緑が少ないところに捨てなさい、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めなさい」と。
そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、その捧げものの残りを、命あるものがいない水のなかに沈めました。そこで、まさに、水のなかに入れられた、その捧げものの残りは、チッチと音をたて、チティチと音をたて、湯気をあげ、湯煙をあげます。それは、たとえば、また、まさに、昼に等しく熱せられた鋤先が、水のなかに入れられたなら、チッチと音をたて、チティチと音をたて、湯気をあげ、湯煙をあげるように、まさしく、このように、水のなかに入れられた、その捧げものの残りは、チッチと音をたて、チティチと音をたて、湯気をあげ、湯煙をあげます。
そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、畏怖し、身の毛のそばだちを生じ、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、世尊は、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「婆羅門よ、木片を焼きながら、これを清浄と、まさに、外に思いなしてはいけません。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです。すなわち、外なるものによって、完全なる清浄を求めるなら。
婆羅門よ、わたしは、木片を焼くことを捨棄して、まさしく、内に、火を燃やします。常に〔内なる〕祭火ある者として、常に自己が定められた者として、阿羅漢として、わたしは、梵行を歩みます。
婆羅門よ、まさに、〔我想の〕思量(慢:思い上がりの心)は、あなたにとって、カーリー(重さの単位・一石)の重荷です。忿激〔の思い〕は、煙です。虚偽の言葉は、灰のうちにあります。舌は、〔献供の〕杓子です。心臓は、〔献供の〕火の拠点です。善く調御された自己は、人にとって、〔導きの〕火です。
婆羅門よ、法(教え)は、戒を水浴場とする湖です。正しくある者たちによって、正しくある者たちのために賞賛された、濁りなきものです。そこにおいて、まさに、沐浴した〔真の〕知に至る者たちは、まさしく、執着なき五体の者たちとなり(※)、彼岸へと超え渡ります。
※ テキストには Anallagattāva とあるが、PTS版により Anallīnagattāva と読む。
真理(諦)があり、法(教え)があり、自制があり、梵行があり、婆羅門よ、中なる〔道〕に依拠したものとして、梵に至り得ること(覚り)があります。〔まさに〕その、あなたは、〔心が〕真っすぐと成った者たちにたいし、礼拝を為しなさい。〔礼拝を為す〕その人のことを、『法(教え)に走り行く者』と、わたしは説きます」と。
このように説かれたとき、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
10. 娘多き者の経
196. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりのバーラドヴァージャ姓の婆羅門の十四の荷牛が、消失するところと成ります。そこで、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、それらの十四の荷牛を探し求めながら、その密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊が、その密林において、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の現前において、これらの詩偈を語りました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「まさに、まちがいなく、この沙門にはない。『十四の荷牛が、今日で第六〔日〕となるのに、〔まだ〕見つからない』〔と嘆き悲しむことが〕。それによって、この沙門は、安楽の者なのだ。
まさに、まちがいなく、この沙門にはない。『諸々の胡麻が、田畑に〔蒔かれるも〕、悪しきものにして、一葉のものか、かつまた、二葉のもの〔ばかり〕』〔と嘆き悲しむことが〕。それによって、この沙門は、安楽の者なのだ。
まさに、まちがいなく、この沙門にはない。『鼠たちが、虚しき貯蔵庫のなか、勇ましく舞い踊る』〔と嘆き悲しむことが〕。それによって、この沙門は、安楽の者なのだ。
まさに、まちがいなく、この沙門にはない。『敷物が、七つの月が過ぎ、蚤たちに等しく覆われている』〔と嘆き悲しむことが〕。それによって、この沙門は、安楽の者なのだ。
まさに、まちがいなく、この沙門にはない。『七者の娘たちが、寡婦となり、一子の者か、かつまた、二子の者〔ばかり〕』〔と嘆き悲しむことが〕。それによって、この沙門は、安楽の者なのだ。
まさに、まちがいなく、この沙門にはない。『褐色となり斑点だらけになった〔妻〕が、眠っている〔わたし〕を、足で目覚めさせる』〔と嘆き悲しむことが〕。それによって、この沙門は、安楽の者なのだ。
まさに、まちがいなく、この沙門にはない。『債権者たちが、早朝に〔やってきて〕、「〔金を〕よこせ」「〔金を〕よこせ」と催促する』〔と嘆き悲しむことが〕。それによって、この沙門は、安楽の者なのだ」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「婆羅門よ、まさに、わたしにはない。『十四の荷牛が、今日で第六〔日〕となるのに、〔まだ〕見つからない』〔と嘆き悲しむことは〕。婆羅門よ、それによって、わたしは、安楽の者なのだ。
婆羅門よ、まさに、わたしにはない。『諸々の胡麻が、田畑に〔蒔かれるも〕、悪しきものにして、一葉のものか、かつまた、二葉のもの〔ばかり〕』〔と嘆き悲しむことは〕。婆羅門よ、それによって、わたしは、安楽の者なのだ。
婆羅門よ、まさに、わたしにはない。『鼠たちが、虚しき貯蔵庫のなか、勇ましく舞い踊る』〔と嘆き悲しむことは〕。婆羅門よ、それによって、わたしは、安楽の者なのだ。
婆羅門よ、まさに、わたしにはない。『敷物が、七つの月が過ぎ、蚤たちに等しく覆われている』〔と嘆き悲しむことは〕。婆羅門よ、それによって、わたしは、安楽の者なのだ。
婆羅門よ、まさに、わたしにはない。『七者の娘たちが、寡婦となり、一子の者か、かつまた、二子の者〔ばかり〕』〔と嘆き悲しむことは〕。婆羅門よ、それによって、わたしは、安楽の者なのだ。
婆羅門よ、まさに、わたしにはない。『褐色となり斑点だらけになった〔妻〕が、眠っている〔わたし〕を、足で目覚めさせる』〔と嘆き悲しむことは〕。婆羅門よ、それによって、わたしは、安楽の者なのだ。
婆羅門よ、まさに、わたしにはない。『債権者たちが、早朝に〔やってきて〕、「〔金を〕よこせ」「〔金を〕よこせ」と催促する』〔と嘆き悲しむことは〕。婆羅門よ、それによって、わたしは、安楽の者なのだ」と。
このように説かれたとき、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。
まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、〔戒を〕成就したばかりの尊者バーラドヴァージャは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。
阿羅漢の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、ダナンジャーニー、罵倒、アスリンダ、ビランギカ、アヒンサカ、まさしく、そして、ジャター、まさしく、さらに、スッディカ、アッギカ、スンダリカがあり、そして、娘多き者とともに、それらの十がある」と。
2. 在俗信者の章
1. カシ・バーラドヴァージャの経
197. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。ダッキナーギリにあるエーカナーラーという婆羅門の村において。また、まさに、その時点にあって、カシ(耕作者)・バーラドヴァージャ婆羅門の五百ばかりの鋤が、〔種の〕蒔き時にあたり、〔牛たちに〕取り付けられた状態でいます。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カシ・バーラドヴァージャ婆羅門の仕事場のあるところに、そこへと近づいて行きました。
また、まさに、その時点にあって、カシ・バーラドヴァージャ婆羅門の〔作業者たちへの、食事の〕給仕が転起します(配食の最中だった)。そこで、まさに、世尊は、〔食事の〕給仕のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一方に立ちました。まさに、カシ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊が、行乞〔の施食〕のために立っているのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「沙門よ、まさに、わたしは、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きます。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べます。沙門よ、あなたもまた、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きたまえ。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べたまえ」と。「婆羅門よ、まさに、わたしもまた、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きます。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べます」と。「まさに、わたしどもは、貴君ゴータマの、あるいは、軛を、あるいは、鋤を、あるいは、鋤先を、あるいは、刺し棒を、あるいは、荷牛たちを、見ません。そこで、また、そして、貴君ゴータマは、このように言います。『婆羅門よ、まさに、わたしもまた、かつまた、〔畑を〕耕し、かつまた、〔種を〕蒔きます。かつまた、〔畑を〕耕して、かつまた、〔種を〕蒔いて、〔収穫したものを〕食べます』」と。そこで、まさに、カシ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「〔あなたは、自らについて〕『耕作者である』〔と〕明言します。しかしながら、〔わたしたちは〕あなたの耕作を見ません。〔問いを〕尋ねられた者として、〔あなたの〕耕作を、わたしたちに説いてください──すなわち、〔わたしたちが〕あなたの耕作を知りうるように」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「信が、種です。苦行が、雨です。智慧(慧・般若)が、わたしの軛と鋤です。恥〔の思い〕(慚)が、轅(ながえ)です。意が、結び紐です。気づき(念)が、わたしの鋤先と刺し棒です。
身体が守られた者として、言葉が守られた者として、食については腹において〔自己を〕制した者として、〔わたしは〕真理(諦)という草刈りを為します。温和な〔心〕が、わたしの解き放ち(放牧)です。
精進が、束縛からの平安(軛安穏)に運んでくれる、わたしの荷駄牛です。〔その荷駄牛は〕引き返すことなく、赴きます──すなわち、赴いて〔そののち〕、憂い悲しまないところ(涅槃)へと。
このように、これが、〔わたしの〕耕作であり、耕作するところです。それは、不死の果と成ります。この耕作を耕作して、〔人は〕一切の苦しみから解き放たれます」と。
「貴君ゴータマは、食べたまえ。貴君は、耕作者です。なぜなら、すなわち、貴君ゴータマは、不死の果となる耕作をもまた耕作するからです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「わたしにとって、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕は、食べるべきにあらず。婆羅門よ、〔常に〕正しく見ている者たちにとって、これは、法(正義)にあらず。覚者たちは、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕を除き去ります。婆羅門よ、法(正義)が存しているとき、これが、生活〔のあり方〕となります。
そして、煩悩が滅尽し、悔恨〔の思い〕が寂止した、全一者たる偉大なる聖賢には、他の食べ物と飲み物によって奉仕するのです。なぜなら、それは、功徳を期す者の田畑と成るからです」と。
このように説かれたとき、カシ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
2. ウダヤの経
198. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ウダヤ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、ウダヤ婆羅門は、世尊の鉢を、飯で満たしました。再度また、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ウダヤ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。……略……。三度また、まさに、ウダヤ婆羅門は、世尊の鉢を、飯で満たして、世尊に、こう言いました。「うるさいやつだ。この者は、沙門ゴータマは、繰り返しやってくる」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「まさしく、そして、繰り返し、〔耕作者たちは〕種を蒔く。繰り返し、天の王は雨を降らせる。繰り返し、耕作者たちは田畑を耕作する。繰り返し、穀物は国土に近しく至る(国土に収穫をもたらす)。
繰り返し、乞う者たちは〔食を〕乞う。繰り返し、施主たちは〔施物を〕施す。繰り返し、施主たちは〔施物を〕施して、繰り返し、天上の境位に近しく至る。
繰り返し、〔牛飼いたちは〕乳牛たちを搾乳する。繰り返し、子牛は母〔牛〕に近しく至る。繰り返し、〔人は〕疲れおののき、かつまた、震えおののく。繰り返し、愚か者は、〔母の〕胎に近しく至る。
繰り返し、〔人は〕生まれ、かつまた、死ぬ。繰り返し、〔親族たちは死体を〕墓所へと運ぶ。しかしながら、さらなる生存なきための道を得て、広き智慧ある者は、繰り返し、〔世に〕生まれることがない」と。
このように説かれたとき、ウダヤ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
3. デーヴァヒタの経
199. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、世尊は、諸々の風(体調不良を引き起こす体内の風)によって病苦の者として〔世に〕有ります。そして、尊者ウパヴァーナが、世尊の奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。そこで、まさに、世尊は、尊者ウパヴァーナに告げました。「ウパヴァーナよ、さあ、あなたは、わたしのために、温かい水を見つけてきておくれ」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ウパヴァーナは、世尊に答えて、着衣して鉢と衣料を取って、デーヴァヒタ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、沈黙の状態で、一方に立ちました。まさに、デーヴァヒタ婆羅門は、尊者ウパヴァーナが、沈黙の状態で、一方に立っているのを見ました。見て、尊者ウパヴァーナに、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「貴君は、沈黙の状態で立っている。大衣に包まれた剃髪者である。何を望み求めているのだ。何を探し求めているのだ。いったい、何を乞い求めるためにやってきたのだ」と。
〔ウパヴァーナが、詩偈に言う〕「世における阿羅漢たる善き至達者が、牟尼が、諸々の風によって病苦の者となる。それで、もし、温かい水が存するなら、婆羅門よ、牟尼に施したまえ。
供養されるべき者たちのなかの供養される者、尊敬されるべき者たちのなかの尊敬される者、敬恭されるべき者たちのなかの敬恭される者──彼に、〔温かい水を〕運ぶことを〔わたしは〕求める」と。
そこで、まさに、デーヴァヒタ婆羅門は、温かい水の天秤棒を、下僕に担がせて、さらに、糖の袋を、尊者ウパヴァーナに委ねました。そこで、まさに、尊者ウパヴァーナは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を、温かい水で沐浴させて、温かい水で糖を溶かして、世尊に与えました。そこで、まさに、世尊の病苦は安息しました。
そこで、まさに、デーヴァヒタ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、デーヴァヒタ婆羅門は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「どこにおいて、施すべき法(施物)を施すべきであり、どこにおいて、施されたものは、大いなる果となるのですか。まさに、どのように、祭祀をしているなら、どのように、施物はうまくゆくのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼であり──
ここにおいて、施すべき法(施物)を施すべきであり、ここにおいて、施されたものは、大いなる果となります。まさに、このように、祭祀をしているなら、このように、施物はうまくゆきます」と。
このように説かれたとき、デーヴァヒタ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
4. 大家の経
200. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、或るひとりの婆羅門の大家で、粗野なる着物の粗野なる者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門の大家に、世尊は、こう言いました。「婆羅門よ、いったい、どうして、あなたは、粗野なる着物の粗野なる者なのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、わたしには、四者の子たちがいます。彼らは、妻たちと謀って、わたしを、家から追い出します」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、あなたは、これらの詩偈を遍く学得して、集会場において、大勢の人の衆が参集し、かつまた、子たちが着坐したとき、〔彼らに〕語るのです。
〔すなわち〕『彼らが生まれたことで、〔わたしは〕喜んだ。かつまた、彼らの生存を、〔わたしは〕求めた。彼らは、妻たちと謀って、わたしを〔追い出す〕。犬たちが、豚を追い払うように。
正しからざる者たちが、卑しむべき者たちが、わたしのことを、まさに、「父よ」「父よ」と語る。子の形をした羅刹たちである。彼らは、衰えに至った者を捨棄する。
老いた役立たずの馬が、糧食から離されるように、若き者たちの老いた父は、他者の家々に行乞する。
すなわち、もし、子たちが、従順なくあるなら、わたしにとって、杖こそは、まさに、より勝っている。狂暴な牛をもまた追い払い、さらに、狂暴な山犬をもまた〔追い払うからだ〕。
暗黒のなか、〔常に〕前に有り、深みにおいて、依って立つ所を確保する。杖の威力によって、躓いても立ち上がる』」と。
そこで、まさに、その婆羅門の大家は、世尊の現前において、これらの詩偈を遍く学得して、集会場において、大勢の人の衆が参集し、かつまた、子たちが着坐したとき、〔彼らに〕語りました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「彼らが生まれたことで、〔わたしは〕喜んだ。かつまた、彼らの生存を、〔わたしは〕求めた。彼らは、妻たちと謀って、わたしを〔追い出す〕。犬たちが、豚を追い払うように。
正しからざる者たちが、卑しむべき者たちが、わたしのことを、まさに、『父よ』『父よ』と語る。子の形をした羅刹たちである。彼らは、衰えに至った者を捨棄する。
老いた役立たずの馬が、糧食から離されるように、若き者たちの老いた父は、他者の家々に行乞する。
すなわち、もし、子たちが、従順なくあるなら、わたしにとって、杖こそは、まさに、より勝っている。狂暴な牛をもまた追い払い、さらに、狂暴な山犬をもまた〔追い払うからだ〕。
暗黒のなか、〔常に〕前に有り、深みにおいて、依って立つ所を確保する。杖の威力によって、躓いても立ち上がる」と。
そこで、まさに、その婆羅門の大家を、子たちは、家に導いて、沐浴させて、各自が、ひと組の布地をまとわせました。そこで、まさに、その婆羅門の大家は、ひと組の布地の一つを携えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門の大家は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門であるわたしたちは、まさに、師匠のために、師匠の財を遍く探し求めます。わたしのために、貴君ゴータマは、師匠の財として、〔この布地を〕納受したまえ」と。世尊は、〔その布地を〕納受しました──慈しみ〔の思い〕を抱いて。そこで、まさに、その婆羅門の大家は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
5. マーナッタッダの経
201. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、マーナッタッダ(高慢で強情の者)という名の婆羅門が、サーヴァッティーに滞在しています。彼は、まさしく、母を敬拝せず、父を敬拝せず、師匠を敬拝せず、長兄を敬拝しません。また、まさに、その時点にあって、世尊は、大いなる衆に取り囲まれ、法(教え)を説示します。そこで、まさに、マーナッタッダ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、沙門ゴータマは、大いなる衆に取り囲まれ、法(教え)を説示する。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。それで、もし、沙門ゴータマが、わたしに話しかけるなら、わたしもまた、彼に話しかけるであろうし、もし、沙門ゴータマが、わたしに話しかけないなら、わたしもまた、彼に話しかけないであろう」と。そこで、まさに、マーナッタッダ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、沈黙の状態で、一方に立ちました。そこで、まさに、世尊は、彼に話しかけませんでした。そこで、まさに、マーナッタッダ婆羅門は、「この者は、沙門ゴータマは、何も知らない」と、まさしく、そこから、ふたたび引き返すことを欲する者と成りました。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、マーナッタッダ婆羅門の心の思索を了知して、マーナッタッダ婆羅門に、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「婆羅門よ、〔我想の〕思量(慢:思い上がりの心)は、善きにあらず。婆羅門よ、ここに、義(目的)ある者にとして存するなら。それを義(目的)として、〔あなたが〕やってきたなら、まさしく、その〔義〕を増進するべきである」と。
そこで、まさに、マーナッタッダ婆羅門は、「沙門ゴータマは、わたしの心を知る」と、まさしく、その場において、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、名前を告げ聞かせます。「貴君ゴータマよ、わたしは、マーナッタッダです。貴君ゴータマよ、わたしは、マーナッタッダです」と。そこで、まさに、その衆は、未曽有の心が生じたものと成りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。なぜなら、この者は、マーナッタッダは、まさしく、母を敬拝せず、父を敬拝せず、師匠を敬拝せず、長兄を敬拝しないが、そこで、また、しかしながら、沙門ゴータマにたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為すからだ」と。そこで、まさに、世尊は、マーナッタッダ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、十分です。立ち上がりなさい。自らの坐に坐りなさい。すなわち、あなたの心が、わたしにたいし浄信したからには」と。そこで、まさに、マーナッタッダ婆羅門は、自らの坐に坐って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「どのような者たちにたいし、〔我想の〕思量を為すべきではないのですか(慢心せずにいるべきか)。そして、どのような者たちにたいし、尊重〔の思い〕を有する者として存するべきですか。どのような者たちが、彼にとって、敬う者たちとして存するべきですか。どのような者たちが、善く供養される善き者たちとして存するべきですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「母、そして、また、父、さらに、長兄、第四の者として、師匠──彼らにたいし、〔我想の〕思量を為すべきではありません。彼らにたいし、尊重〔の思い〕を有する者として存するべきです。彼らは、彼にとって、敬う者たちとして存するべきです。彼らは、善く供養される善き者たちとして存するべきです。
阿羅漢たちを、〔心が〕清涼と成った者たちを、為すべきことを為した者たちを、煩悩なき者たちを、それらの無上なる者たちを礼拝するべきです──〔我想の〕思量を打ち倒して、強情ならざる者となり」と。
このように説かれたとき、マーナッタッダ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
6. パッチャニーカの経
202. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、パッチャニーカサータ(正反対のものを快とする者)という名の婆羅門が、サーヴァッティーに滞在しています。そこで、まさに、パッチャニーカサータ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。まさしく、そのこと、そのことを、沙門ゴータマが語るなら、まさしく、そのこと、そのことを、その正反対へと、わたしは〔導くのだ〕」と。また、まさに、その時点にあって、世尊は、野外において、歩行瞑想をします。そこで、まさに、パッチャニーカサータ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、歩行瞑想をしている世尊に、こう言いました。「沙門よ、法(教え)を話せ」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「正反対のものを快とする者によるなら、見事に語られた〔言葉〕は、識知し易きものにあらず──汚れた心の者によるなら、そして、激昂多き者によるなら。
しかしながら、彼が、激昂〔の思い〕を、さらに、心の浄信なき〔思い〕を、〔両者ともに〕取り除くなら、憤懣〔の思い〕を放棄して、彼は、まさに、見事に語られた〔言葉〕を知るであろう」と。
このように説かれたとき、パッチャニーカサータ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
7. ナヴァカンミカの経
203. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、ナヴァカンミカ(新築業者)・バーラドヴァージャ婆羅門が、その密林において、〔人々に〕仕事を課します。まさに、ナヴァカンミカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊が、或るどこかのサーラ樹の根元において、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしは、この密林において、〔人々に〕仕事を課しながら喜ぶ。この者は、沙門ゴータマは、何を課しながら喜ぶのか」と。そこで、まさに、ナヴァカンミカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「比丘よ、いったい、どのような諸々の仕事が為されるのですか──サーラ〔樹〕の林において、あなたに。すなわち、ゴータマは、独りある者として、林地にあり、喜びを見出します」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「林において、わたしに、為すべきことは存在しません。わたしの、〔煩悩の〕根は断たれ、〔欲の〕林と薮は〔断たれました〕。〔まさに〕その、わたしは、林において、〔欲の〕林の下生えなき者として、〔煩悩の〕矢を抜いた者として、独り、不満〔の思い〕を捨棄して、喜びます」と。
このように説かれたとき、ナヴァカンミカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
8. 薪運びの者たちの経
204. 或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりのバーラドヴァージャ姓の婆羅門の大勢の内弟子たちである薪運びの学生たちが、密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊が、その密林において、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。見て、バーラドヴァージャ姓の婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、バーラドヴァージャ姓の婆羅門に、こう言いました。「どうか、尊き方は、お知りください。何某の密林において、沙門が、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っています」と。そこで、まさに、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、それらの学生たちと共に、その密林のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊が、その密林において、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて、坐っているのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔婆羅門が、詩偈に言う〕「深遠なる形態の、多くの恐ろしいことがある、林のなか、人〔里〕離れた空なる林地に入って、動揺することなく、〔心が〕安立し、麗美なる〔姿〕で、比丘よ、まさに、極めて典雅なる形態〔の瞑想〕を、〔あなたは〕瞑想します。
そこにおいては、歌詠なく、そこにおいては、音楽もまたなく、独り、林地において、〔あなたは〕林に住する牟尼としてあります。このことは、稀有なる形態であることが、わたしに明白となります。すなわち、独りある者が、喜悦の意ある者となり、林に住します。
わたしが思うに、世の君主(梵天)との共住を、無上なる三十三〔天への再生〕を、〔あなたは〕望んでいるのです。何ゆえに、貴君は、人〔里〕離れた林地に依拠し、梵に至り得るために、ここに、苦行を為すのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「それらが何であれ、諸々の期待〔の思い〕は、あるいは、諸々の愉悦〔の思い〕は、無数なる界域において、多々なる〔心の汚れ〕が常に依拠するものであり、無知の根を起源とするものであり、〔欲の思いで〕渇望されたものであり、〔それらの〕全てが、わたしによって、根ごと終息が為されました。
〔まさに〕その、わたしは、期待〔の思い〕なく、依拠するものなく、接近するものなく、一切の法(事象)に清浄の見ある者です。無上にして至福の正覚に至り得て、婆羅門よ、わたしは、静所に〔赴き〕、恐れおののきを離れた者として瞑想します」と。
このように説かれたとき、バーラドヴァージャ姓の婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
9. 母を養う者の経
205. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、母を養う婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、母を養う婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、法(正義)によって、行乞〔の施食〕を遍く探し求めます。法(正義)によって、行乞〔の施食〕を遍く探し求めて、母と父を養います。貴君ゴータマよ、どうでしょう、わたしが、このように為す者であるなら、〔わたしは〕為すべきことを為す者として〔世に〕有りますか」と。「婆羅門よ、たしかに、あなたが、このように為す者であるなら、〔あなたは〕為すべきことを為す者として〔世に〕有ります。婆羅門よ、彼が、まさに、法(正義)によって、行乞〔の施食〕を遍く探し求めるなら、法(正義)によって、行乞〔の施食〕を遍く探し求めて、母と父を養うなら、彼は、多くの功徳を生みます」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、人が、母を、あるいは、父を、法(正義)によって養うなら、母と父にたいする、その世話によって、彼を──まさしく、この〔世において〕、彼を──賢者たちは賞賛し、〔彼は〕死してのち、天上において歓喜する」と。
このように説かれたとき、母を養う婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
10. 行乞者の経
206. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、行乞者の婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、行乞者の婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、わたしもまた、まさに、行乞者であり、貴君もまた、行乞者です。ここに、わたしたちには、どのような多様性(相違点)があるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「すなわち、他者たちに〔食を〕乞うだけで、それによって、行乞者と成るのではない。腐臭の法(性質)を受持して〔世に有るなら〕、それだけでは、比丘と成らない。
彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、〔両者ともに〕拒否して、梵行を究めて、世を歩むなら、彼は、まさに、『比丘』と説かれる」と。
このように説かれたとき、行乞者の婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
11. サンガーラヴァの経
207. サーヴァッティーの因縁となります。また、まさに、その時点にあって、サンガーラヴァという名の婆羅門が、サーヴァッティーに滞在しています。水による清浄者として、水による清浄を(※)信受します。夕に、朝に、水行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、サンガーラヴァという名の婆羅門が、サーヴァッティーに滞在しています。水による清浄者として、水による清浄を信受します。夕に、朝に、水行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住んでいます。尊き方よ、どうか、世尊は、サンガーラヴァ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。
※ テキストには parisuddhiṃ とあるが、PTS版により suddhiṃ と読む。
そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サンガーラヴァ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、サンガーラヴァ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ婆羅門に、世尊は、こう言いました。「婆羅門よ、本当に、まさに、あなたは、水による清浄者として、水による清浄を信受するのですか。夕に、朝に、水行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住んでいるのですか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「婆羅門よ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、水による清浄者として、水による清浄を信受するのですか。夕に、朝に、水行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住んでいるのですか」と。「貴君ゴータマよ、ここに、わたしに、すなわち、悪しき行為(悪業)が作り為され、昼に有るなら、それを、沐浴によって、夕に流し去ります。すなわち、悪しき行為が作り為され、夜に有るなら、それを、沐浴によって、朝に流し去ります。貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、この義(利益)たる所以を正しく見ながら、水による清浄者として、水による清浄を信受します。夕に、朝に、水行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住んでいます」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「婆羅門よ、法(教え)は、戒を水浴場とする湖です。正しくある者たちによって、正しくある者たちのために賞賛された、濁りなきものです。そこにおいて、まさに、沐浴した〔真の〕知に至る者たちは、まさしく、執着なき五体の者たちとなり(※)、彼岸へと超え渡ります」と。
※ テキストには Anallagattāva とあるが、PTS版により Anallīnagattāva と読む。
このように説かれたとき、サンガーラヴァ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
12. コーマドゥッサの経
208. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、コーマドゥッサという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、コーマドゥッサの町に〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、コーマドゥッサ〔の住者〕たる婆羅門や家長たちが、集会場において、参集した状態でいます──何らかの或る用事があって。そして、天は、ぽつぽつと雨を降らせます。そこで、まさに、世尊は、その集会場のあるところに、そこへと近づいて行きました。コーマドゥッサ〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、こう言いました。「さてまた、誰なのだ、坊主頭の似非沙門たちは。さてまた、誰なのだ、集会場の法(規則)を知ることになるのは」と。そこで、まさに、世尊は、コーマドゥッサ〔の住者〕たる婆羅門や家長たちに、詩偈をもって語りかけました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「そこにおいて、正しくある者たちが存在しないなら、これは、集会場にあらず。彼らが、法(教え)を説かないなら、彼らは、正しくある者たちにあらず。そして、貪欲(貪)を、さらに、憤怒(瞋)を、迷妄(痴)を捨棄して、そして、法(教え)を説いているなら、正しくある者たちとして〔世に〕有る」と。
このように説かれたとき、コーマドゥッサ〔の住者〕たる婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。
在俗信者の章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「カシ、ウダヤ、デーヴァヒタ、或るひとりの大家、マーナッタッダ(※)、パッチャニーカ、ナヴァカンミカと薪運びの者たち、母を養う者、行乞者、そして、サンガーラヴァがあり、コーマドゥッサとともに、〔それらの〕十二がある」と。
※ テキストには Mānathaddhaṃ とあるが、PTS版により Mānatthaddhaṃ と読む。
婆羅門に相応するものは〔以上で〕完結となる。
8. ヴァンギーサに相応するもの
1. 離欲者の経
209. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者ヴァンギーサは、アーラヴィーに住んでいます。アッガーラヴァ塔廟において、師父である尊者ニグローダ・カッパと共に。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴァンギーサは、新参者であり、出家したばかりであり、精舎を守る留守番として〔世に〕有ります。そこで、まさに、大勢の婦女たちが、〔装いを〕十二分に作り為して、精舎を見学する者たちとなり、アッガーラヴァの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、それらの婦女たちを見て、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕が生起し、貪欲〔の思い〕が、心を攻撃します。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕が生起し、貪欲〔の思い〕が、心を攻撃する。すなわち、わたしのために、他者が、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕を取り除いて、〔梵行を〕喜び楽しむ〔思い〕を生起させてくれる、その〔状況〕が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう。それなら、さあ、わたしは、まさしく、自己みずから、自己の、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕を取り除いて、〔梵行を〕喜び楽しむ〔思い〕を生起させるのだ」と。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、まさしく、自己みずから、自己の、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕を取り除いて、〔梵行を〕喜び楽しむ〔思い〕を生起させて、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「家から家なきへと、まさに、離欲者として〔世に〕存しているわたしに、これらの尊大なる思考が、黒き者(悪魔)から〔やってきて〕まとわりつく。
大いなる射手の貴公子たちが、強弓をもつ手練の者たちが、〔勇猛で〕逃げることなき千の者を、遍きにわたり、完全に退散させるとして──
それで、もし、また、これよりも、より一層の女たちがやってくるとして、わたしを悩ますことは、まさしく、ないであろう。〔わたしは〕自らの法(教え)における確立者である。
なぜなら、わたしによって、このことが、じかに聞かれたからだ。覚者の、太陽の眷属(ブッダ)の、涅槃に至る道を〔聞いて〕、そこにおいて、わたしの意は喜びあるものとなる。
パーピマント(悪魔)よ、もし、このように〔世に〕住んでいるわたしのもとへと、〔おまえが〕近しく赴くなら、死魔よ、そのように、〔わたしは〕為すであろう。わたしの道すらも、〔おまえは〕見ない」と。
2. 不満〔の思い〕の経
210. 或る時のことです。尊者ヴァンギーサは、アーラヴィーに住んでいます。アッガーラヴァ塔廟において、師父である尊者ニグローダ・カッパと共に。また、まさに、その時点にあって、尊者ニグローダ・カッパは、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、精舎に入ります。あるいは、夕に、あるいは、翌日の〔行乞の〕時に、〔精舎から〕出ます。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴァンギーサに、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕が生起するところと成り、貪欲〔の思い〕が、心を攻撃します。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕が生起し、貪欲〔の思い〕が、心を攻撃する。すなわち、わたしのために、他者が、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕を取り除いて、〔梵行を〕喜び楽しむ〔思い〕を生起させてくれる、その〔状況〕が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう。それなら、さあ、わたしは、まさしく、自己みずから、自己の、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕を取り除いて、〔梵行を〕喜び楽しむ〔思い〕を生起させるのだ」と。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、まさしく、自己みずから、自己の、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕を取り除いて、〔梵行を〕喜び楽しむ〔思い〕を生起させて、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「そして、不満〔の思い〕を、かつまた、歓楽〔の思い〕を、〔両者ともに〕捨棄して、さらに、家〔の生活〕に依拠した〔悪しき〕思考を、全てにわたり〔捨棄して〕、どこにであれ、〔欲の〕林の下生え(欲の思い)を作らないなら、〔欲の〕林の下生えなき者となり、〔欲望の対象を〕喜ばない者となる。まさに、彼は、比丘である。
この〔世において〕、そして、地に、宙に、さらに、それが、形態の在り方をしたものであり、地上に沈潜したものであるなら、何であれ、全てが常住ならざるもの(無常)であり、老い朽ちる。所思ある者たちは、このように行知して、〔世を〕歩む。
諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)において、〔世の〕人たちは拘束されている──見られ聞かれたものにおいて、そして、敵対するもの(有対・障礙:対峙対立するもの・客体物)において、さらに、思われたものにおいて。ここにおいて、〔心が〕不動の者となり、欲〔の思い〕を除き去れ。彼が、ここにおいて、〔欲望の対象に〕汚されないなら、彼を、〔賢者たちは〕『牟尼』〔と〕言う。
そこで、六十〔二の悪しき見解〕に依拠した〔悪しき〕思考を有し多々なる法(正義)ならざるものが、人民において固着するところとなる。しかしながら、どこにであれ、〔特定の〕党派に赴く者(特定の党派に肩入れする者)として存さず、また、邪悪な話し手として〔存さないなら〕、彼は、比丘である。
明晰で、長夜にわたり〔心が〕定められ、虚言なく、賢明で、羨望〔の思い〕なき者──牟尼は、寂静の境処に到達した。〔涅槃を〕縁として、完全なる涅槃に到達した者は、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ」と。
3. 博愛なる者たちの経
211. 或る時のことです。尊者ヴァンギーサは、アーラヴィーに住んでいます。アッガーラヴァ塔廟において、師父である尊者ニグローダ・カッパと共に。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴァンギーサは、自己の弁才によって、他の博愛なる比丘たちを軽んじます。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしは、自己の弁才によって、他の博愛なる比丘たちを軽んじる」と。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、まさしく、自己みずから、自己に、後悔〔の思い〕を生起させて、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「ゴータマ〔の弟子〕(ヴァンギーサ)よ、〔我想の〕思量(慢:思い上がりの心)を捨棄するのだ──そして、思量の道を捨棄するのだ──残りなく。〔おまえは〕思量の道に耽溺し、後悔ある者と成った──長夜にわたり。
偽装〔の思い〕によって〔心を〕偽装した〔世の〕人々は、〔我想の〕思量に打ち倒され、地獄へと落ち行く。〔我想の〕思量に打ち倒され、地獄に再生した人たちは、長夜にわたり憂い悲しむ。
道の勝者にして正しき実践者たる比丘は、いつであれ、まさに、憂い悲しまない。そして、名誉を、さらに、安楽を、〔彼は〕受領する。彼のことを、自己を精励する者を、〔賢者たちは〕『法(真理)を見る者』と言う。
それゆえに、この〔世において〕、〔心に〕鬱積なく精励ある者は、〔五つの修行の〕妨害(蓋)を捨棄して、清浄の者となる。そして、〔我想の〕思量を残りなく捨棄して、明知によって、〔苦しみの〕終極を為す者となり、〔心が〕静まった者となる」と。
4. アーナンダの経
212. 或る時のことです。尊者アーナンダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊者ヴァンギーサを随伴の沙門として。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴァンギーサに、〔梵行を〕喜び楽しまない〔思い〕が生起するところと成り、貪欲〔の思い〕が、心を攻撃します。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、尊者アーナンダに、詩偈をもって語りかけます。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「〔わたしは〕欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕によって焼かれます。わたしの心は遍く焼かれます。ゴータマ(アーナンダ)よ、どうか、〔欲の炎を〕寂滅させる〔道〕を説いてください──慈しみ〔の思い〕によって」と。
〔アーナンダが、詩偈に言う〕「表象(想:概念・心象)の転倒あることから、あなたの心は遍く焼かれます。貪欲を伴った浄美なる相(美しく価値あるように見えるもの)を遍く避けなさい。
諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)を、『他者である』と見なさい。『苦しみである』と〔見なさい〕。そして、『自己である』と〔見ては〕いけません。大いなる貪欲〔の思い〕を寂滅させなさい。繰り返し、〔貪欲の思いに〕焼かれてはいけません。
不浄〔の表象〕(不浄想:身体を不浄と見る観察)によって、一境に善く定められた心を修めなさい。あなたに、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が〔常に〕存しなさい。〔迷いの世について〕厭離〔の思い〕多き者と成りなさい(※)。
※ テキストには bha とあるが、PTS版により bhava と読む。
さらに、無相〔の表象〕を修めなさい。思量の悪習(慢随眠)を廃棄しなさい。そののち、思量の寂止あることから、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」と。
5. 見事に語られたものの経
213. サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、四つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した言葉は、見事に語られたものとして有り、拙劣に語られたものではなく、識者たちにとって、かつまた、罪過なきものとなり、かつまた、批判なきものとなります。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、見事に語られた〔言葉〕を語ります──拙劣に語られた〔言葉〕ではなく。まさしく、法(教え)〔の言葉〕を語ります──法(教え)ならざる〔言葉〕ではなく。まさしく、愛慕ある〔言葉〕を語ります──愛慕なき〔言葉〕ではなく。まさしく、真理(真実)〔の言葉〕を語ります──偽り〔の言葉〕ではなく。比丘たちよ、まさに、これらの四つの支分を具備した言葉は、見事に語られたものとして有り、拙劣に語られたものではなく、識者たちにとって、かつまた、罪過なきものとなり、かつまた、批判なきものとなります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「『見事に語られた〔言葉〕は、最上のものである』〔と〕、正しくある者たちは言う。『法(教え)〔の言葉〕を話すべきである──法(教え)ならざる〔言葉〕ではなく』〔と〕、それが、第二の〔見事に語られた言葉〕となる。『愛慕ある〔言葉〕を話すべきである──愛慕なき〔言葉〕ではなく』〔と〕、それが、第三の〔見事に語られた言葉〕となる。『真理(真実)〔の言葉〕を話すべきである──偽り〔の言葉〕ではなく』〔と〕、それが、第四の〔見事に語られた言葉〕となる」と。
そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります(詩偈が思い浮かびます)。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「まさしく、その言葉を語るべきである──その〔言葉〕によって、自己を苦しめず、かつまた、他者たちを害さないなら──その〔言葉〕が、まさに、見事に語られた言葉であるなら。
まさしく、愛慕ある言葉を語るべきである──その言葉が、〔皆に〕喜ばれるものであるなら──その〔言葉〕が、諸々の悪しきものを取らずして、他者たちに語る、愛慕ある〔言葉〕であるなら。
真理は、まさに、不死の言葉である。これは、永遠の法(真理)である。真理において、そして、義(意味)において、さらに、法(教え)において、〔自己を〕確立した正しくある者たちは、〔このように〕言う。
涅槃〔の境処〕に至り得るために、苦しみの終極を為すために、覚者が語る、〔まさに〕その、平安の言葉──それは、まさに、諸々の言葉のなかの最上のものである」と。
6. サーリプッタの経
214. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます──上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉によって。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「この方は、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる──上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉によって。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞く。それなら、さあ、わたしは、尊者サーリプッタを、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。
そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、尊者サーリプッタのおられるところに、そこへと合掌を手向けて、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります(詩偈が思い浮かびます)。友よ、サーリプッタよ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「友よ、ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ(それを語りなさい)」と。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、尊者サーリプッタを、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「深遠なる智慧の思慮ある者は、道と道ならざるものを熟知する者は、大いなる智慧あるサーリプッタは、比丘たちに、法(教え)を説示する。
簡略〔の観点〕によってもまた説示し、詳細〔の観点〕によってもまた語る。サーリカー〔鳥〕(九官鳥)の鳴き声のように、弁才を発揮した。
それを説示している彼の、〔蜜のように〕甘美な言葉を、〔比丘たちは〕聞く。〔愛着に〕染まり聞き惚れてしまう麗美な声によって、勇躍する心の者たちとなり、歓喜した者たちとなり、比丘たちは、耳を傾ける」と。
7. 〔雨季の〕充足の経
215. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。大いなる比丘の僧団にして、まさしく、全ての者たちが阿羅漢である、五百ばかりの比丘たちと共に。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒のその日、十五〔日〕において、〔雨季の〕充足のとき、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態の比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、さあ、今や、あなたたちに、〔わたしは〕申し出ます。では、何であれ、わたしの、あるいは、身体のものとして、あるいは、言葉のものとして、非難することはないですか」と。
このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしたちが、何であれ、世尊の、あるいは、身体のものとして、あるいは、言葉のものとして、非難することはありません。尊き方よ、まさに、世尊は、〔いまだ〕生起していない道を生起させる方であり、〔いまだ〕産出されていない道を産出させる方であり、〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方です。尊き方よ、そして、弟子たちは、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕住みます──〔世尊の〕そのあとに〔教えを〕具備した者たちとして。尊き方よ、そして、まさに、わたしは、世尊に申し出ます。では、世尊は、何であれ、わたしの、あるいは、身体のものとして、あるいは、言葉のものとして、非難することはないですか」と。
「サーリプッタよ、まさに、わたしが、何であれ、あなたの、あるいは、身体のものとして、あるいは、言葉のものとして、非難することはありません。サーリプッタよ、あなたは、賢者です。サーリプッタよ、あなたは、大いなる智慧ある者です。サーリプッタよ、あなたは、多々なる智慧ある者です。サーリプッタよ、あなたは、敏速なる智慧ある者です。サーリプッタよ、あなたは、疾走する智慧ある者です。サーリプッタよ、あなたは、鋭敏なる智慧ある者です。サーリプッタよ、あなたは、洞察の智慧ある者です。サーリプッタよ、それは、たとえば、また、転輪王の長子が、父が転起させた輪を、まさしく、正しく、随転させるように、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、わたしが転起させた無上なる法(真理)の輪を、まさしく、正しく、随転させます」と。
「尊き方よ、おっしゃるように、もし、世尊が、何であれ、わたしの、あるいは、身体のものとして、あるいは、言葉のものとして、非難することがないなら、尊き方よ、また、世尊は、何であれ、これらの五百の比丘たちの、あるいは、身体のものとして、あるいは、言葉のものとして、非難することはないですか」と。「サーリプッタよ、まさに、わたしが、何であれ、また、これらの五百の比丘たちの、あるいは、身体のものとして、あるいは、言葉のものとして、非難することはありません。サーリプッタよ、まさに、これらの五百の比丘たちのなかの、六十者の比丘は、三つの明知ある者たちであり、六十者の比丘は、六つの神知ある者たちであり、六十者の比丘は、両部の解脱者たちであり、さらに、他の者たちは、智慧による解脱者たちです」と。
そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ」と、世尊は言いました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「今日、〔満月の〕十五〔日〕に、清浄のために集いあつまった、五百の比丘たちは、束縛するものと結縛するものを断ち切る者たちであり、煩悶なく、さらなる生存が滅尽した聖賢たちである。
あたかも、家臣たちに取り囲まれた転輪王が、この大地を、海辺に至るまで、遍きにわたり訪ね回るように──
このように、戦場の征圧者にして先導者たる無上なる方(ブッダ)に、弟子たちは奉侍する──三つの明知ある者たちにして、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちは。
〔彼らの〕全てが、世尊の子たちである。ここにおいて、籾殻(中身のない者)は見出されない。渇愛の矢を打ち砕く方を、太陽の眷属たる方を、敬拝するがよい」と。
8. 千を超える者たちの経
216. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「この方は、まさに、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させる。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞く。それなら、さあ、わたしは、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。
そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ」と、世尊は言いました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切な詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「千を超える比丘たちが、善き至達者たる方に奉侍する──〔世俗の〕塵を離れる法(教え)を、何も恐れない涅槃〔の境処〕を、説示している方に。
〔比丘たちは〕聞く──正等覚者によって説示された、〔世俗の〕垢を離れる法(教え)を。まさに、正覚者は、比丘の僧団に囲まれ、美しく輝く。
世尊よ、〔あなたは〕存している──象の名ある方として、聖賢たちのなかの第七の聖賢たる方(過去七仏のなかの第七の覚者)として。まさしく、大いなる雨雲と成って、弟子たちに雨を降らせる。
昼の休息から出て、教師と会見することを欲し、偉大なる勇者よ、弟子のヴァンギーサは、あなたの〔両の〕足を敬拝する」と。
「ヴァンギーサよ、いったい、どうなのでしょう、あなたの、これらの詩偈は、過去において思索されたものなのですか、それとも、まさしく、即座に、あなたに、〔これらの詩偈が〕明白となるのですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしの、これらの詩偈は、過去において思索されたものではなく、そこで、まさに、まさしく、即座に、わたしに、〔これらの詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、まさに、それでは、あなたに、より一層しっかりと、過去において思索されたものではない、諸々の詩偈が明白となれ」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ヴァンギーサは、世尊に答えて、より一層しっかりと、世尊を、過去において思索されたものではない、諸々の詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「〔世尊は〕悪魔の邪道なる道を征服して、諸々の鬱積〔の思い〕を破壊して、〔世を〕歩む。彼を見よ──結縛からの解放を為す方を、〔何にも〕依存せず〔物事を〕等分に区分する方を。
まさに(※)、激流の超脱を義(目的)とする、無数〔の流儀〕に関した道を、〔世尊は〕告げ知らせた。もし、その、不死〔の境処〕が告げ知らされたなら、法(真理)を見る者たちは、〔自己が〕安立した不動の者たちとなる。
※ PTS版により hi を補う。
灯火の作り手たる方は、〔あるがままに〕理解して、一切の止住(認識対象の固着・停滞)の超越を見た。そして、〔あるがままに〕知って、さらに、〔あるがままに〕実証して、彼は、至高〔の境地〕を、十の半分の者たち(ブッダが最初に説法した五人の修行者)に説示した。
このように、法(真理)が見事に説示されたとき、法(真理)を識知している者たちに、何の怠り(放逸)があるというのだろう。まさに、それゆえに、彼の、世尊の教えにおいて、常に、〔気づきを〕怠ることなく、〔彼を〕礼拝しながら随学するべきである」と。
9. コンダンニャの経
217. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者アンニャーシ・コンダンニャが、まさしく、極めて長きのはてに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、名前を告げ聞かせます。「世尊よ、わたしは、コンダンニャです。善き至達者たる方よ、わたしは、コンダンニャです」と。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「この方は、まさに、尊者アンニャーシ・コンダンニャは、まさしく、極めて長きのはてに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行った。近づいて行って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、〔自らの〕名を、〔世尊に〕告げ聞かせる。『世尊よ、わたしは、コンダンニャです。善き至達者たる方よ、わたしは、コンダンニャです』と。それなら、さあ、わたしは、尊者アンニャーシ・コンダンニャを、世尊の面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。
そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ」と、世尊は言いました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、尊者アンニャーシ・コンダンニャを、世尊の面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「覚者に従い覚った、その長老──コンダンニャは、強き勤勉〔努力〕の者であり、間断なく、諸々の安楽の住の、諸々の遠離〔の境地〕の、〔それらの〕得者としてある。
それが、教師の教えを為す弟子によって至り得られるべきなら、それは、全てにわたり獲得するところとなった──怠ることなく、〔彼が〕学んでいると。
大いなる威力ある者、三つの明知ある者、〔他者の〕心を探知することの熟知者──覚者の相続者たるコンダンニャは、教師の〔両の〕足を敬拝する」と。
10. モッガッラーナの経
218. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。イシギリ〔山〕の山麓の黒岩において。大いなる比丘の僧団にして、まさしく、全ての者たちが阿羅漢である、五百ばかりの比丘たちと共に。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、〔自らの〕心をとおして、彼らの心を調べます。解脱しているのか、依り所なくあるのかと。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この方は、世尊は、ラージャガハに住んでおられる。イシギリ〔山〕の山麓の黒岩において。大いなる比丘の僧団にして、まさしく、全ての者たちが阿羅漢である、五百ばかりの比丘たちと共に。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、〔自らの〕心をとおして、彼らの心を調べる。解脱しているのか、依り所なくあるのかと。それなら、さあ、わたしは、尊者マハー・モッガッラーナを、世尊の面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。
そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ」と、世尊は言いました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、尊者マハー・モッガッラーナを、世尊の面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「山腹に端坐する〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、弟子たちは奉侍する──三つの明知ある者たちにして、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちは。
大いなる神通あるモッガッラーナは、心によって、彼ら〔の性行〕を探索する──解脱しているのか、依り所なくあるのかと、彼らの心を調べながら。
このように、一切の〔覚りの〕支分を成就した〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、無数の行相を成就したゴータマに、〔比丘たちは〕奉侍する」と。
11. ガッガラーの経
219. 或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に。そして、七百の在俗信者たちと〔共に〕、かつまた、七百の女性在俗信者たちと〔共に〕、さらに、幾千の天神たちと〔共に〕。まさに、世尊は、彼らに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この方は、世尊は、ラージャガハに住んでおられる。ガッガラーの蓮池の岸辺において。五百ばかりの比丘たちと共に。そして、七百の在俗信者たちと〔共に〕、かつまた、七百の女性在俗信者たちと〔共に〕、さらに、幾千の天神たちと〔共に〕。まさに、世尊は、彼らに輝きまさる──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。それなら、さあ、わたしは、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。
そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります。善き至達者たる方よ、わたしに、〔詩偈が〕明白となります」と。「ヴァンギーサよ、あなたに、〔詩偈が〕明白となれ」と、世尊は言いました。そこで、まさに、尊者ヴァンギーサは、世尊を、〔その〕面前で、適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「あたかも、雷雲が離れ去った天空における月のように、〔世俗の〕垢を離れた方は、太陽のように光り輝く。アンギーラサ(放光者・ブッダの尊称の一つ)よ、このように、また、あなたは、偉大なる牟尼として、福徳によって、一切の世に輝きまさる」と。
12. ヴァンギーサの経
220. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ヴァンギーサは、阿羅漢の資質に至り得たばかりであり、解脱の安楽の得知者と成って、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔ヴァンギーサが、詩偈に言う〕「村から村へ、都から都へと、過去において、〔わたしたちは〕詩作に夢中になり、渡り歩いた。そこで、〔わたしたちは〕見た──正覚者を。わたしたちに、信が生起した。
彼は、わたしに、法(教え)を説示した──〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)と〔十二の認識の〕場所(処)と〔十八の認識の〕界域(界)を。彼の法(教え)を聞いて、わたしは、〔家から〕家なきへと出家した。
まさに、多くの者たちの義(利益)のために、牟尼は、覚り(菩提)に到達した──すなわち、〔正道の〕決定に至った見ある者たちである、〔そのような〕比丘たちのために、そして、〔そのような〕比丘尼たちのために。
わたしにとって、まさに、善き訪問として存した──覚者の現前にあるわたしにとって。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。
〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。三つの明知ある者として、神通に至り得た者として、〔他者の〕心を探知することの熟知者として、〔わたしは〕存している」と。
ヴァンギーサに相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「離欲者、まさしく、そして、不満〔の思い〕、博愛なる者たちを軽んじることがあり、アーナンダとともに、見事に語られたもの、サーリプッタと〔雨季の〕充足、千を超える者たち、コンダンニャがあり、モッガッラーナとともに、ガッガラーがあり、ヴァンギーサとともに、〔それらの〕十二がある」と。
9. 林に相応するもの
1. 遠離の経
221. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。或るひとりの比丘が、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、その比丘は、昼の休息(昼住:熱暑の回避)に赴き、諸々の悪しき善ならざる思考を思考します──家〔の生活〕に依拠したものとして。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、その比丘への慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔その比丘の〕義(利益)を欲し、その比丘を畏怖させることを欲し、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「〔あなたは〕遠離を欲し、林に入った者として存するも、そこで、あなたの意は、〔林の〕外に出て行きます。人として、人にたいする欲〔の思い〕を取り除くのです。そののち、〔あなたは〕貪欲を離れた安楽の者と成るでしょう。
不満〔の思い〕を捨棄するのです。気づきある者として〔世に〕有るのです。あなたに、気づきある〔あり方〕を、〔わたしたちが〕思い出させましょう。まさに、深淵の塵(煩悩の汚れ)は、越え難きもの。欲望の塵(欲望の対象)が、あなたを運び去ってはいけません。
あたかも、砂にまみれた鳥が、〔羽を〕振るわせながら、付着した塵を落とすように、このように、比丘は、〔刻苦〕精励の者となり、気づきある者となり、〔身を〕振るわせながら、付着した塵を落とします」と。
そこで、まさに、その比丘は、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
2. 奮起の経
222. 或る時のことです。或るひとりの比丘が、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、その比丘は、昼の休息に赴き、眠ります。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、その比丘への慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔その比丘の〕義(利益)を欲し、その比丘を畏怖させることを欲し、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「比丘よ、起きなさい。どうして、〔あなたは〕臥しているのですか。あなたにとって、眠っていることに、どのような義(利益)があるのですか。まさに、病んでいる者に、矢に貫かれ苦しんでいる者に、何の眠りがあるのですか。
その信によって、〔あなたは〕家から家なきへと出家したのです。まさしく、その信を、増進させなさい。眠りの支配に赴いてはいけません」と。
〔比丘が、詩偈に言う〕「諸々の欲望〔の対象〕は、常住ならず、常恒ならず、それらのうちに耽溺するのが、まさしく、愚か者であるなら、結縛された者たちのなかにいながら解き放たれた依存なき出家者を、どうして、〔眠りが〕苦しめるというのでしょう。
欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)あることから、無明の超越あることから、〔まさに〕その、最高の浄化となる知恵ある出家者を、どうして、〔眠りが〕苦しめるというのでしょう。
明知によって無明を断って、諸々の煩悩の完全なる滅尽あることから、憂いなく葛藤なき出家者を、どうして、〔眠りが〕苦しめるというのでしょう。
精進に励み、自己を精励し、常に断固たる勤勉ある者として、涅槃を希求している出家者を、どうして、〔眠りが〕苦しめるというのでしょう」と。
3. カッサパゴッタの経
223. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者カッサパゴッタは、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、尊者カッサパゴッタは、昼の休息に赴き、或るひとりの山民を教え諭します。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、尊者カッサパゴッタを畏怖させることを欲し、尊者カッサパゴッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者カッサパゴッタに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「山の難所を歩む山民に、智慧少なく心なき者に、時ならざる〔時〕に教え諭している比丘は、まさしく、愚か者であることが、わたしに明白となる。
〔彼は〕聞くが、識知しない。〔彼は〕眺めるが、見ない。法(教え)が話されているのに、愚者は、義(意味)を覚らない。
カッサパよ、それで、もし、また、〔あなたが〕十の灯火を保持するとして、〔彼が〕諸々の形態を見ることは、まさしく、ない。なぜなら、彼には、〔智慧の〕眼が見出されないからである」と。
そこで、まさに、尊者カッサパゴッタは、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
4. 大勢の者たちの経
224. 或る時のことです。大勢の比丘たちが、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。そこで、まさに、それらの比丘たちは、雨期を過ごし、三月が経過して、遊行〔の旅〕に出ました。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、それらの比丘たちを見ずにいるので嘆き悲しみながら、その時に、この詩偈を語りました。
〔天神が、詩偈に言う〕「今日、わたしには、不満〔の思い〕があるかに思える──遠離された多くの坐所を見て。彼らは、様々な言説ある者たちであり、多聞の者たちである。これらのゴータマの弟子たちは、どこに赴いたのだろう」と。
このように説かれたとき、或るひとりの天神が、その天神に、詩偈をもって語りかけました。
〔他の天神が、詩偈に言う〕「マガダに赴いた者たちがいる。コーサラに赴いた者たちがいる。また、一部の者たちは、ヴァッジーの地にある。鹿たちのように、執着なく歩む者たち──比丘たちは、住所なき者たちとして〔世に〕住む」と。
5. アーナンダの経
225. 或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、尊者アーナンダは、限度を超えて在家者への説得多き者となり、〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、尊者アーナンダへの慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔尊者アーナンダの〕義(利益)を欲し、尊者アーナンダを畏怖させることを欲し、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「木の根元の茂みに入って、心臓(心)に涅槃を置いて、ゴータマ(アーナンダ)よ、瞑想せよ(※)。〔気づきを〕怠ること(放逸)があってはならない。べちゃべちゃと雑談することが、おまえのために、何を為すというのだろう」と。
※ テキストには Jhā とあるが、PTS版により Jhāya と読む。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
6. アヌルッダの経
226. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。そこで、まさに、或るひとりの三十三〔天〕の身体ある天神で、ジャーリニーという名の、尊者アヌルッダの以前の伴侶が、尊者アヌルッダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アヌルッダに、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「すなわち、かつて、あなたが住したところです。そこにおいて、心を向けなさい。一切の欲望が等しく実現するところ、三十三天において。天の少女たちに傅(かしず)かれ取り囲まれ、〔あなたは〕美しく輝きます」と。
〔アヌルッダが、詩偈に言う〕「身体を有すること(有身)に〔思いが〕確立した天の少女たちは、悪しき境遇の者たちである。そして、また、天の少女に切望された、それらの有情たち(三十三天の神々)も、悪しき境遇の者たちである」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「〔天の〕ナンダナ〔林〕を見ない、それらの者たちは、彼らは、〔真の〕安楽を覚知しません。天人たちの居住所を、盛名ある三十〔三天の神々〕たちの〔居住所を、彼らが見ないなら〕」と。
〔アヌルッダが、詩偈に言う〕「愚者よ、あなたは識知しない──すなわち、阿羅漢たちの言葉のとおりに。無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、一切の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である。
ジャーリニーよ、今や、天の衆における、さらなる居住は存在しない。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない」と。
7. ナーガダッタの経
227. 或る時のことです。尊者ナーガダッタは、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、尊者ナーガダッタは、早朝に町に入り、昼過ぎに戻ります。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、尊者ナーガダッタへの慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔尊者ナーガダッタの〕義(利益)を欲し、尊者ナーガダッタを畏怖させることを欲し、尊者ナーガダッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ナーガダッタに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「ナーガダッタよ、〔しかるべき〕時に〔町に〕入りなさい。しかしながら、昼に帰って、限度を超えて歩む〔あなた〕は、在家者たちと交わる者であり、〔彼らと〕楽と苦を等しくする者です。
〔わたしは〕恐れます──ナーガダッタが、極めて尊大なる者となり、家々に結縛された者となるのを。死魔の王たる力ある死神の支配に、まさしく、まさに、近づいてはいけません」と。
そこで、まさに、尊者ナーガダッタは、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
8. 家の主婦の経
228. 或る時のことです。或るひとりの比丘が、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、その比丘は、或るどこかの家に、限度を超えて入り込むことに至り得た者となり、〔世に〕住んでいます。そこで、まさに、その密林に住している天神が、その比丘への慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔その比丘の〕義(利益)を欲し、その比丘を畏怖させることを欲し、すなわち、その家の主婦である、彼女の姿に化作して、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「諸々の川の岸辺において、広場において、諸々の集会場において、さらに、諸々の道端において、人たちは、集いあつまって話し合います。そして、わたしのことを、さらに、あなたのことを。『どのような機微があるのか』」と。
〔比丘が、詩偈に言う〕「まさに、〔世の〕多くの声(他者の悪評)は、害障にして、苦行者が忍耐するべきもの。それによって、愕然と成るべきではない。なぜなら、それによって、汚されないからである。
そして、彼が、あたかも、林のなかで風に〔怯える〕鹿のように、〔他者の〕声に恐れおののく者であるなら、彼のことを、〔賢者たちは〕『軽心の者』と言う。彼の掟は、成就しない」と。
9. ヴァッジー族の経
229. 或る時のことです。或るひとりのヴァッジー族の比丘が、ヴェーサーリーに住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、ヴェーサーリーにおいて、ヴァッジー族の全夜の練り歩きが有ります(星祭りがあった)。そこで、まさに、その比丘は、ヴェーサーリーで楽器を打ったり奏でたりする音や声を聞いて、嘆き悲しみながら、その時に、この詩偈を語りました。
〔比丘が、詩偈に言う〕「わたしたちは、独りある者たちとなり、林地において住む──林のなかに捨てられた木片のように。このような夜に、いったい、まさに、わたしたちよりも、より悪しき者として、誰がいるというのだろう」と。
そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、その比丘への慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔その比丘の〕義(利益)を欲し、その比丘を畏怖させることを欲し、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「あなたは、まさしく、独りある者となり、林地において住む──林のなかに捨てられた木片のように。〔まさに〕その、あなたを、多くの者たちは羨む──地獄にある者たちが、天上に赴く者を〔羨む〕ように」と。
そこで、まさに、その比丘は、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
10. 読誦の経
230. 或る時のことです。或るひとりの比丘が、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、その比丘は、すなわち、まさに、過去においては、限度を超えて、〔聖典の〕読誦多き者となり、〔世に〕住むも、彼は、他時にあって、思い入れ少なき者となり、沈黙の状態で引き籠ります。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、その比丘の法(教え)を聞かずにいるので、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「比丘よ、何ゆえに、あなたは、諸々の法(教え)の句を学得しないのですか──比丘たちと共に住んでいるのに。法(教え)を聞いて、浄信を得ます。まさしく、所見の法(現世)において、賞賛を得ます」と。
〔比丘が、詩偈に言う〕「〔わたしたちが〕離貪を具現した、それまでは、かつて、諸々の法(教え)の句にたいし、欲〔の思い〕が有りました。〔わたしたちが〕離貪を具現した、そののちは、それが何であれ、あるいは、見られたものも、あるいは、聞かれたもの、思われたものも、了知して〔そののち、それらを〕捨て置くことを、正しくある者たちは言います」と。
11. 善ならざる思考の経
231. 或る時のことです。或るひとりの比丘が、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、その比丘は、昼の休息に赴き、諸々の悪しき善ならざる思考を思考します──家〔の生活〕に依拠したものとして。それは、すなわち、この──欲望の思考を、憎悪の思考を、悩害の思考を。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、その比丘への慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔その比丘の〕義(利益)を欲し、その比丘を畏怖させることを欲し、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「根源のままならずに意を為すことから、〔まさに〕その〔あなた〕は、諸々の思考に喰い尽くされます。根源ならざるものを(※)放棄して、根源のままに弁別しなさい。
※ テキストには Ayoniso とあるが、PTS版により Ayoniṃ と読む。
教師に、法(教え)に、僧団に、自己の諸戒に、〔それらに〕励んで、歓喜に、〔瞑想の〕喜悦と安楽に、疑念〔の余地〕なく、〔あなたは〕到達します。そののち、歓喜多き者となり、苦しみの終極を為すでしょう」と。
そこで、まさに、その比丘は、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
12. 正午の経
232. 或る時のことです。或るひとりの比丘が、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。そこで、まさに、その密林に住している、或る(※)天神が、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘の現前において、この詩偈を語りました。
※ PTS版により yā を補う。
〔天神が、詩偈に言う〕「正午の時がやってきて、鳥たちが〔枝に〕群れ集まったとき、密林が、まさしく、騒ぎ立てると、わたしに、その恐怖が明白となる」と。
〔比丘が、詩偈に言う〕「正午の時がやってきて、鳥たちが〔枝に〕群れ集まったとき、密林が、まさしく、騒ぎ立てると、わたしに、その喜びが明白となる」と。
13. 〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者たちの経
233. 或る時のことです。大勢の比丘たちが、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において、〔心が〕高揚し、傲慢となり、軽薄で、駄弁で、言葉が乱れ飛び、気づきが忘却された者たちとなり、正知なき者たちとなり、〔心が〕定められていない者たちとなり、混迷した心の者たちとなり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者(自制なく節操なき者)たちとなり。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、それらの比丘たちへの慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔それらの比丘たちの〕義(利益)を欲し、それらの比丘たちを畏怖させることを欲し、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「かつて、ゴータマの弟子たる比丘たちは、安楽に生きる者たちとして〔世に〕存した──求めることなく〔行乞の〕食を探し求める者たちとして、求めることなく臥坐所を〔探し求める者たちとして〕。世において、無常なることを知って、彼らは、苦しみの終極を為した。
〔しかしながら、今の比丘たちは〕村の村長たちのように、自己を〔他者にとって〕養い難きものと為して、〔施物を〕食べては食べて、〔すぐに〕横たわる──他者の家々に耽溺する者たちとなり。
僧団に合掌を為して、ここに、わたしは、一部の者たちに説く。彼らは、〔導き手に〕捨てられた主なき者たちであり、亡者たちのように、まさしく、そのように、彼らはある。
すなわち、まさに、〔気づきを〕怠る者たちとして〔世に〕住む、彼らに関して、わたしの語るところである。すなわち、〔気づきを〕怠らない者たちとして〔世に〕住む、それらの者たちに、わたしは礼拝を為す」と。
そこで、まさに、それらの比丘たちは、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
14. 香りを盗む者の経
234. 或る時のことです。或るひとりの比丘が、コーサラ〔国〕に住んでいます。或るどこかの密林において。また、まさに、その時点にあって、その比丘は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、蓮池に入って行って、蓮華〔の臭い〕を嗅ぎます。そこで、まさに、その密林に住している、或る天神が、その比丘への慈しみ〔の思い〕ある者となり、〔その比丘の〕義(利益)を欲し、その比丘を畏怖させることを欲し、その比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その比丘に、詩偈をもって語りかけました。
〔天神が、詩偈に言う〕「すなわち、〔あなたが臭いを〕嗅ぐ、この水蓮の花〔の香り〕は、〔誰からも〕与えられていないものであり、これは、諸々の盗みのなかの一つの支分です。敬愛なる方よ、〔今のあなたは〕香りを盗む者として存しています」と。
〔比丘が、詩偈に言う〕「〔わたしは〕奪っていません。〔わたしは〕折っていません。遠くから、水蓮〔の香り〕を嗅ぐ〔だけのこと〕。そこで、いったい、何を理由に、〔わたしは〕『香りを盗む者』と説かれるのですか。
すなわち、諸々の蓮根を掘り取り、諸々の白蓮華を折り取る、この者は、このように、残酷なる生業ある者です。何ゆえに、この者は、〔『盗む者』と〕説かれないのですか」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「残酷で残忍な人は、〔糞尿に〕まみれた乳児の衣(使用後のおむつ)のようなもの。彼について、わたしに言葉は存在せず、しかしながら、あなたに言うことはできます。
常に清らかさを探し求めている穢れなき人に悪があるなら、毛先ばかりのものでも、まさしく、雲ほどに見えてしまうのです(甚大なものとして認知される)」と。
〔比丘が、詩偈に言う〕「夜叉(天神)よ、たしかに、〔あなたは〕わたしのことを知ります。さらに、わたしを慈しんでくれます。夜叉よ、ふたたび、また、〔あなたは、わたしに〕説くべきです。すなわち、〔あなたが、わたしの〕このような〔罪過〕を見るときは(これからもわたしの罪過を指摘してほしい)」と。
〔天神が、詩偈に言う〕「〔わたしたちが〕あなたに依拠して生きることは、まさしく、ありません。わたしたちは、あなたの雇われでもまた、ありません。比丘よ、まさしく、あなたは、〔自ら〕知るべきです──それによって、〔あなたが〕善き境遇に赴くことになる、〔まさに、その道を〕」〔と〕。
そこで、まさに、その比丘は、その天神によって畏怖させられ、畏怖〔の思い〕を起こした、ということです。
林に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「遠離、そして、奮起があり、カッサパゴッタとともに、大勢の者たち、アーナンダ、そして、アヌルッダ、そして、ナーガダッタ、家の主婦──
そして、ヴァッジー族、ヴェーサーリーがあり、読誦とともに、『根源のままならずに』があり、『正午の時に』があり、〔感官の〕機能の現じ顕われるままの者たちがあり、蓮の花とともに、〔それらの〕十四が有る」と。
10. 夜叉に相応するもの
1. インダカの経
235. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。インダクータ山にあるインダカ夜叉の居所において。そこで、まさに、インダカ夜叉が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「『形態(色:物質的身体・肉体)は、生命にあらず』と、覚者たちは説きます。いったい、どのように、この者は、この肉体を見出すのですか。彼の骨と臓器の肉塊は、どこから至り来るのですか。いったい、どのように、この者は、〔母の〕胎に執着するのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「最初に、カララ(入胎後一週間)と成ります。カララから、アッブダ(入胎後二週間)と成ります。アッブダから、ペーシ(入胎後三週間)が生じます。ペーシから、ガナ(入胎後四週間)が発現します。ガナから、諸々のパサーカ(身体各部位)が生じます──諸々の髪が、諸々の毛が、さらに、諸々の爪もまた。
そして、すなわち、食べ物を、さらに、飲み物を、食料を、彼の母が食べるなら、それによって、彼は、そこにおいて、〔身を〕保ち行きます──人として、母の子宮に赴いた者は」と。
2. サッカという名〔の夜叉〕の経
236. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、サッカという名の夜叉が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「一切の拘束を捨棄した解脱者として、あなたが〔世に〕存しているなら、沙門にとって、それは、善きことにあらず。すなわち、他者に教え示すことは」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「サッカよ、それが、どのような理由であれ、〔特定の者と〕共に住むことが生じるなら、智慧を有する者として、意によって彼を慈しむに値しません。
もし、浄信した意で、すなわち、他者に教え示すなら、それによって、束縛された者と成ることはありません──すなわち、〔彼に〕慈しみ〔の思い〕があり、〔他者への〕思いやりがあるなら」と。
3. スーチローマの経
237. 或る時のことです。世尊は、ガヤーに住んでおられます。タンキタの石床にあるスーチローマ夜叉の居所において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、カラ夜叉が、かつまた、スーチローマ夜叉が、世尊から遠く離れていないところを通り過ぎます。そこで、まさに、カラ夜叉は、スーチローマ夜叉に、こう言いました。「この者は、沙門だ」と。〔スーチローマ夜叉は言いました〕「この者は、〔本物の〕沙門ではない。この者は、〔格好だけの〕似非沙門だ。あるいは、すなわち、彼が、〔本物の〕沙門であるのか、また、あるいは、すなわち、彼が、〔格好だけの〕似非沙門であるのか、〔わたしが〕知る、それまでは」と。
そこで、まさに、スーチローマ夜叉は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、身体を近づけました。そこで、まさに、世尊は、身体を離しました。そこで、まさに、スーチローマ夜叉は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、わたしを恐れるのか」と。「友よ、まさに、わたしは、あなたを恐れません。ですが、ともあれ、あなたに触れることは、悪しきことなのです」と。「沙門よ、おまえに、問いを尋ねよう。それで、もし、わたしに、〔答えを〕説き明かさないなら、あるいは、おまえの心を投げ放つ、あるいは、おまえの心臓を切り裂く、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つ」と。「友よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、あるいは、わたしの心を投げ放ち、あるいは、わたしの心臓を切り裂き、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つであろう、その者を、まさに、わたしは見ません。友よ、ですが、ともあれ、あなたは尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。そこで、まさに、スーチローマ夜叉は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「そして、貪欲(貪)は、さらに、憤怒(瞋)は、因縁としてどこから〔生じるのですか〕。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、どこから生じるのですか。諸々の思考(尋)は、どこから現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てるのですか〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「そして、貪欲は、さらに、憤怒は、因縁として〔まさに〕これ〔自身〕から〔生じます〕(自己自身から生起する)。不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕と身の毛のよだつ〔思い〕は、〔まさに〕これ〔自身〕から生じます。諸々の思考は、〔まさに〕これ〔自身〕から現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てます〕──少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように。
〔それらは〕愛執〔の思い〕から生じるものであり、自己から発生したものです──ニグローダ〔樹〕の幹から生じる〔枝や葉〕のように。〔それらは〕諸々の欲望〔の対象〕に多々に絡みついています──林にはびこる蔓草のように。
彼らが、それが因縁としてどこから〔発生したのか〕を覚知するなら、彼らは、それを除き去ります。夜叉よ、聞きなさい。彼らは、超え難く、過去に超えられたことなき、この激流を超えます──さらなる生存なきために」と。
4. マニバッダの経
238. 或る時のことです。世尊は、マガダ〔国〕に住んでおられます。マニマーラカ塔廟にあるマニバッダ夜叉の居所において。そこで、まさに、マニバッダ夜叉が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「気づきある者には、常に幸せがあります。気づきある者は、安楽に満ち栄えます。気づきある者には、明日において、より勝ることがあります。そして、〔彼は、他者の〕怨念から、完全に解き放たれます」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「気づきある者には、常に幸せがあります。気づきある者は、安楽に満ち栄えます。気づきある者には、明日において、より勝ることがあります。〔しかしながら、彼は、他者の〕怨念から、完全に解き放たれることはありません。
彼に、昼夜全てに、不害を喜ぶ意があるなら、彼は、一切の生類にたいし、慈愛〔の思い〕を〔修め〕、彼には、誰によってであれ、怨恨は〔存在し〕ません」と。
5. サーヌの経
239. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの女性在俗信者の、サーヌという名の子が、夜叉に取り憑かれ、〔世に〕有ります。そこで、まさに、その女性在俗信者は、嘆き悲しみながら、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔女性在俗信者が、詩偈に言う〕「『十四日と十五日に、そして、すなわち、半月〔ごと〕の第八日に、さらに、神変月には、八つの支分が見事に備わった──
斎戒に入り、彼らが、梵行を歩むなら、夜叉たちは、彼らと遊び戯れない』〔と〕、かくのごとく、わたしは、阿羅漢たちの〔言葉を〕聞いた。今や、今日、〔まさに〕その〔わたし〕は見る。夜叉たちは、サーヌと遊び戯れる」と。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「『十四日と十五日に、そして、すなわち、半月〔ごと〕の第八日に、さらに、神変月には、八つの支分が見事に備わった斎戒に入り、彼らが、梵行を歩むなら──
夜叉たちは、彼らと遊び戯れない』〔と〕、善きかな、あなたは、阿羅漢たちの〔言葉を〕聞いた。目覚めたサーヌに、〔あなたは〕説くがよい──この、夜叉たちの言葉を。『もしくは、公然であろうが、内密であろうが、〔あなたは〕悪しき行為を為してはならない。
そして、それで、もし、〔あなたが〕悪しき行為を〔未来において〕為すであろうなら、あるいは、〔いまここに〕為すなら、たとえ、〔空中に〕跳び上がって逃げようとしても、あなたに、苦しみからの解き放ちは存在しない』」と。
〔目覚めたサーヌが、詩偈に言う〕「母よ、あるいは、死んだ者のことを、〔世の人々は〕泣き叫び、あるいは、彼が生きているとして、見ることができないなら、〔彼のことをもまた泣き叫びます〕。母よ、生きている〔わたし〕を見ていながら、母よ、何ゆえに、わたしのことを泣き叫ぶのですか」と。
〔女性在俗信者が、詩偈に言う〕「子よ、あるいは、死んだ者のことを、〔世の人々は〕泣き叫び、あるいは、彼が生きているとして、見ることができないなら、〔彼のことをもまた泣き叫びます〕。さらに、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を捨てて〔そののち〕、ここに、ふたたび帰り来るなら、子よ、あるいは、また、彼のことを、〔世の人々は〕泣き叫びます。なぜなら、彼は、生きているとして、ふたたび死んだ者となるからです。
息子よ、〔あなたは〕熱灰から引き出されたのに、〔ふたたび〕熱灰に落ちることを求めます。息子よ、〔あなたは〕奈落から引き出されたのに、〔ふたたび〕奈落に落ちることを求めます。
急ぎ行きなさい。あなたに、幸せ〔有れ〕。〔わたしたちは〕誰に文句を言えばよいのでしょう。〔あなたは〕燃え盛るところから運び出された物品を、ふたたび焼くことを求めます」と。
6. ピヤンカラの経
240. 或る時のことです。尊者アヌルッダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者アヌルッダは、夜の早朝の時分に起きて、諸々の法(真理)の句を語ります。そこで、まさに、ピヤンカラの母である女夜叉は、〔彼女の〕子供を、このようにあやしました。
〔女夜叉が、詩偈に言う〕「ピヤンカラよ、声を為してはいけません。比丘が、諸々の法(真理)の句を語ります。そして、また、〔わたしたちは〕法(真理)の句を識知して実践するのです。わたしたちの利益のために存するでしょう。
そして、命あるものたちにたいし、〔わたしたちは〕自制します。〔わたしたちは〕正知しつつ虚偽を話しません。自己のために善き戒を、〔わたしたちは〕学ぶのです。さあ、〔わたしたちは〕魔物の胎から解き放たれるのです」と。
7. プナッバスの経
241. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘たちに、涅槃に関係した法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。そして、それらの比丘たちは、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。そこで、まさに、プナッバスの母である女夜叉は、〔彼女の〕子供たちを、このようにあやしました。
〔女夜叉が、詩偈に言う〕「ウッタリカーよ、沈黙の者と成りなさい。プナッバスよ、沈黙の者と成りなさい。わたしが、最勝の覚者たる教師の法(教え)を聞く、そのあいだは。
世尊は言います──涅槃〔の境処〕を、一切の拘束からの解き放ちと。そして、わたしには、限度を超えて、この法(教え)にたいし、愛しいものとする〔思い〕が有ります。
世において愛しいものは、自らの子。世において愛しいものは、自らの亭主。わたしにとって、それよりも、より愛しいものは、その法(教え)を求め行くこと。
まさに、子は、あるいは、また、亭主は、愛しいものなるも、苦しみから解き放ってはくれません。すなわち、正なる法(教え)の聴聞が、命あるものを、苦しみから解き放つようには。
苦しみに打ち負かされ、老と死に束縛された世において、老と死から解脱するために、その法(真理)が現正覚されたのです。〔わたしは〕その法(教え)を聞くことを求めます。プナッバスよ、沈黙の者と成りなさい」と。
〔プナッバスが、詩偈に言う〕「母よ、〔わたしは、言葉を〕発しません。このウッタラーも沈黙の状態です。まさしく、法(教え)を、傾聴してください。正なる法(教え)の聴聞は、安楽です。母よ、正なる法(教え)を了知せずして、〔わたしたちは〕苦痛のうちに〔世を〕歩みます。
この方は、天〔の神々〕と人間たちにとって、等しく迷乱した者たちにとって、光の作り手たる方です。覚者は、最後の肉体ある方です。眼ある方は、法(真理)を説示します」と。
〔女夜叉が、詩偈に言う〕「善きかな、まさに、賢者である──まさに、子として生まれ、胸に臥す、わたしの子は、最勝の覚者の清浄の法(教え)を、愛しいものとする。
プナッバスよ、安楽の者と成りなさい。まさに、今日、わたしは、〔悪しき境遇から〕引き起こされたのです。〔四つの〕聖なる真理(聖諦)は、〔あるがままに〕見られました。ウッタラーもまた、わたしの〔言葉を〕聞きなさい」と。
8. スダッタの経
242. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。シータ林(寒林:死体置き場)において。また、まさに、その時点にあって、アナータピンディカ家長が、ラージャガハに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。まさに、アナータピンディカ家長は、「どうやら、覚者が、世に生起したらしい」と耳にしました。また、そして、まさしく、ただちに、世尊と会見するために近づいて行くことを欲する者と成ります。そこで、彼に、アナータピンディカ家長に、この〔思い〕が有りました。「まさに、今日は、世尊と会見するために近づいて行く時ではない。明日、今や、わたしは、〔しかるべき〕時に、世尊と会見するために赴くのだ」と、覚者の在り方についての気づきとともに横になりました。夜には、まさに、三回、「夜明けだ」と思いながら起き上がりました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、墓所への門のあるところに、そこへと近づいて行きました。人間ならざる者(精霊・悪霊)たちは、門を開きました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が城市から出つつあると、光明は消没し、暗黒が出現しました。恐怖と驚愕と身の毛のよだちが生起し、まさしく、そののち、ふたたび引き返すことを欲する者と成りました。そこで、まさに、シーヴァカ夜叉は、消没したまま、声を上げました。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「百の象、百の馬、百の雌騾馬の車、宝珠の耳飾を付けた百千の少女も、一歩を運ぶ者の十六分の一にも値しない。
家長よ、進め。家長よ、進め。あなたにとって、進むことは、より勝っている。戻ることは、さにあらず」と。
そこで、まさに、アナータピンディカ家長に、暗黒は消没し、光明が出現しました。すなわち、〔彼に〕有った、恐怖と驚愕と身の毛のよだちは、それは、安息しました。再度また、まさに、アナータピンディカ家長に、光明は消没し、暗黒が出現しました。恐怖と驚愕と身の毛のよだちが生起し、まさしく、そののち、ふたたび引き返すことを欲する者と成りました。再度また、まさに、シーヴァカ夜叉は、消没したまま、声を上げました。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「百の象、百の馬……略……十六分の一にも値しない。
家長よ、進め。家長よ、進め。あなたにとって、進むことは、より勝っている。戻ることは、さにあらず」と。
そこで、まさに、アナータピンディカ家長に、暗黒は消没し、光明が出現しました。すなわち、〔彼に〕有った、恐怖と驚愕と身の毛のよだちは、それは、安息しました。三度また、まさに、アナータピンディカ家長に、光明は消没し、暗黒が出現しました。恐怖と驚愕と身の毛のよだちが生起し、まさしく、そののち、ふたたび引き返すことを欲する者と成りました。三度また、まさに、シーヴァカ夜叉は、消没したまま、声を上げました。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「百の象、百の馬……略……十六分の一にも値しない。
家長よ、進め。家長よ、進め。あなたにとって、進むことは、より勝っている。戻ることは、さにあらず」と。
そこで、まさに、アナータピンディカ家長に、暗黒は消没し、光明が出現しました。すなわち、〔彼に〕有った、恐怖と驚愕と身の毛のよだちは、それは、安息しました。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、シータ林のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。
また、まさに、その時点にあって、世尊は、夜の早朝の時分に起きて、野外において、歩行瞑想をします。まさに、世尊は、アナータピンディカ家長が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、歩行場から降りて、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、アナータピンディカ家長に、こう言いました。「スダッタよ、来たれ」と。そこで、まさに、アナータピンディカ家長は、「名前によって、世尊は、わたしに話しかける」と、欣喜した者となり、勇躍する者となり、まさしく、その場において、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、どうでしょう、世尊は、安楽のうちに臥されましたか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「完全なる涅槃に到達した婆羅門は、一切時において、まさに、安楽のうちに臥す。彼が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし汚れなくあるなら、〔心が〕清涼と成った者であり、〔生存の〕依り所なき者であり──
一切の執着を断ち切って、心臓(心)のうちなる懊悩を取り除いて、寂静なる者となり、心の寂静に至り得て、安楽のうちに臥す」と。
9. 第一のスッカーの経
243. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、スッカー比丘尼は、大いなる衆に取り囲まれ、法(教え)を説示します。そこで、まさに、スッカー比丘尼にたいし大いに浄信している夜叉は、ラージャガハにおいて、道端から道端へと、十字路から十字路へと、近づいて行って、その時に、これらの詩偈を語ります。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「ラージャガハにおいて、これらの者たちが、何を為したというのだ。人間たちは、蜜を飲んだかのように臥している。すなわち、不死の句を説示しているスッカーに近侍することなく。
また、しかしながら、遮るものなく、混ざりものなしの、〔まさに〕その、滋養ある〔不死の句〕を、思うに、智慧を有する者たちは飲む──〔待ち望んだ〕雷雲〔の水〕を、旅行く者(遊行者)たちが〔飲み干す〕ように」と。
10. 第二のスッカーの経
244. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの在俗信者が、スッカー比丘尼に、食料を施しました。そこで、まさに、スッカー比丘尼にたいし大いに浄信している夜叉は、ラージャガハにおいて、道端から道端へと、十字路から十字路へと、近づいて行って、その時に、この詩偈を語ります。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「まさに、多くの功徳を生んだ。この在俗信者は、まさに、智慧を有する者である。彼は、スッカーに、食料を施した。一切の拘束からの解脱のために」と。
11. チーラーの経
245. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの在俗信者が、チーラー比丘尼に、衣料を施しました。そこで、まさに、チーラー比丘尼にたいし大いに浄信している夜叉は、ラージャガハにおいて、道端から道端へと、十字路から十字路へと、近づいて行って、その時に、この詩偈を語ります。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「まさに、多くの功徳を生んだ。この在俗信者は、まさに、智慧を有する者である。彼は、チーラーに、衣料を施した。一切の拘束からの解脱のために」と。
12. アーラヴァカの経
246. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アーラヴィーに住んでおられます。アーラヴァカ夜叉の居所において。そこで、まさに、アーラヴァカ夜叉が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「沙門よ、出ろ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は出ました。「沙門よ、入れ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は入りました。再度また、まさに、アーラヴァカ夜叉は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、出ろ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は出ました。「沙門よ、入れ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は入りました。三度また、まさに、アーラヴァカ夜叉は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、出ろ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は出ました。「沙門よ、入れ」と。「友よ、いいでしょう」と、世尊は入りました。四度また、まさに、アーラヴァカ夜叉は、世尊に、こう言いました。「沙門よ、出ろ」と。「友よ、まさに、わたしは、それでは、〔もう〕出ません。それが、あなたにとって為すべきことであるなら、それを為しなさい」と。「沙門よ、おまえに、問いを尋ねよう。それで、もし、わたしに、〔答えを〕説き明かさないなら、あるいは、おまえの心を投げ放つ、あるいは、おまえの心臓を切り裂く、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つ」と。「友よ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち(※)、あるいは、わたしの心を投げ放ち、あるいは、わたしの心臓を切り裂き、あるいは、〔両の〕足を掴んでガンガー〔川〕の彼岸に投げ放つであろう、その者を、まさに、わたしは見ません。友よ、ですが、ともあれ、あなたは尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。
※ テキストには ye とあるが、PTS版により yo と読む。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「いったい、何が、この〔世において〕、人にとって、最勝の富となるのですか。いったい、何が、善く行なわれたなら、安楽をもたらすのですか。いったい、何が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものとなるのですか。どのように生きる生命を、〔賢者たちは〕最勝のものと言うのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「信が、この〔世において〕、人にとって、最勝の富となります。法(教え)が、善く行なわれたなら、安楽をもたらします。真理が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものとなります。智慧によって生きる生命を、〔賢者たちは〕最勝のものと言います」と。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「いったい、どのように、〔貪欲の〕激流を超えるのですか。いったい、どのように、〔輪廻の〕海を超えるのですか。いったい、どのように、苦しみを超え行くのですか。いったい、どのように、完全なる清浄となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「信によって、〔貪欲の〕激流を超えます。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、〔輪廻の〕海を〔超えます〕。精進によって、苦しみを超え行きます。智慧によって、完全なる清浄となります」と。
〔夜叉が、詩偈に言う〕「いったい、どのように、智慧を得るのですか。いったい、どのように、財を見出すのですか。いったい、どのように、名誉に至り得るのですか。どのように、朋友たちと〔交友を〕結ぶのですか。この世から他の世へと、どのように、死してのち、憂い悲しまないのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「涅槃〔の境処〕に至り得るために、阿羅漢たちの法(教え)に信を置き、〔法を〕聞こうとしている、明眼で〔気づきを〕怠らない者は、智慧を得ます。
適切なることを為し、重荷をにない、奮起する者は、財を見出します。真理によって、名誉に至り得ます。〔常に〕与えている者は、朋友たちと〔交友を〕結びます。この世から他の世へと、このように、死してのち、憂い悲しみません。
すなわち、信ある〔在家の〕家主に、真理と調御と〔道心〕堅固と施捨が、これらの四つの法(性質)があるなら、彼は、まさに、死してのち、憂い悲しみません。
さあ、他の多々なる沙門や婆羅門たちにもまた、尋ねなさい。すなわち、この〔世において〕、真理と調御と施捨と忍耐よりも、より一層のものが見出されるなら」と。
〔アーラヴァカ夜叉が、詩偈に言う〕「いったい、どうして、今や、〔他の〕多々なる沙門や婆羅門たちに尋ねられましょう。すなわち、わたしは、今日、覚知します──それは、未来(来世)における義(利益)となります。
まさに、わたしの義(利益)のために、覚者は、アーラヴィーに住するべく、やってきたのです。すなわち、わたしは、今日、覚知します──そこにおいて、施されたものは、大いなる果となります。
〔まさに〕その、わたしは、村から村へ、都から都へと、渡り歩くでしょう──正覚者を礼拝しながら、そして、法(教え)が見事に法(教え)たることを〔礼拝しながら〕」と。
夜叉に相応するものは〔以上で〕完結となる。
その〔相応するもの〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「インダカ、サッカ、そして、スーチ、そして、マニバッダ、そして、サーヌ、ピヤンカラとプナッバス、そして、スダッタ、二つのスッカー、チーラー、アーラヴィーがあり、〔それらの〕十二がある」と。
11. 帝釈〔天〕に相応するもの
1. 第一の章
1. スヴィーラの経
247. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と 「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、過去の事ですが、阿修羅たちが、天〔の神々〕たちを攻めました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スヴィーラ天子に告げました。『親愛なる者よ、スヴィーラよ、これらの阿修羅たちが、天〔の神々〕たちを攻める。親愛なる者よ、スヴィーラよ、赴け。阿修羅たちを迎え撃て』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、スヴィーラ天子は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて〔そののち〕、放逸を起こしました(命令に従わなかった)。比丘たちよ、再度また、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スヴィーラ天子に告げました。『親愛なる者よ、スヴィーラよ、これらの阿修羅たちが、天〔の神々〕たちを攻める。親愛なる者よ、スヴィーラよ、赴け。阿修羅たちを迎え撃て』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、スヴィーラ天子は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて〔そののち〕、再度また、放逸を起こしました。比丘たちよ、三度また、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スヴィーラ天子に告げました。『親愛なる者よ、スヴィーラよ、これらの阿修羅たちが、天〔の神々〕たちを攻める。親愛なる者よ、スヴィーラよ、赴け。阿修羅たちを迎え撃て』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、スヴィーラ天子は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて〔そののち〕、三度また、放逸を起こしました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スヴィーラ天子に、詩偈をもって語りかけました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『奮起せず努力せずにいる者が、そこにあって、安楽に到達する〔そのようなところがあるなら〕、スヴィーラよ、そこに赴け。さらに、わたしを、まさしく、そこに至り得させよ』と。
〔天子が、詩偈に言いました〕『奮起しない怠け者として存し、かつまた、諸々の為すべきことを為さずに、一切の欲望が等しく実現する者として存することになる、その優れたもの〔に至る道〕を、帝釈〔天〕よ、わたしに示したまえ』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『奮起しない怠け者が、そこにおいて、究極の安楽に満ち栄える〔そのようなところがあるなら〕、スヴィーラよ、そこに赴け。さらに、わたしを、まさしく、そこに至り得させよ』と。
〔天子が、詩偈に言いました〕『最勝の天〔の神〕よ、帝釈〔天〕よ、行為(業)なくして、憂いなく葛藤なきものを、すなわち、安楽を、〔わたしたちが〕見出すことになる、その優れたもの〔に至る道〕を、帝釈〔天〕よ、わたしに示したまえ』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『それで、もし、行為なくして存し、誰であれ、どこにであれ、老い朽ちない(※)〔そのようなところがあるなら〕、まさに、それは、涅槃への道である。スヴィーラよ、そこに赴け。さらに、わたしを、まさしく、そこに至り得させよ』と。
※ テキストには na jīvati とあるが、PTS版により na jīyati と読む。
比丘たちよ、なぜなら、彼が、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、自らの功徳の果に依拠して生きつつ、三十三天〔の神々〕たちの権力者にして君主たる王権を為しながら、奮起と精進の栄誉を説く者として〔世に〕有るのです。比丘たちよ、まさに、そうであるなら、ここに、〔あなたたちもまた〕美しく輝くでしょう。すなわち、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者たちとして〔世に〕存している、あなたたちが、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、奮起し、勤労し、努力するなら」と。
2. スシーマの経
248. サーヴァッティーにおいて。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、過去の事ですが、阿修羅たちが、天〔の神々〕たちを攻めました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スシーマ天子に告げました。『親愛なる者よ、スシーマよ、これらの阿修羅たちが、天〔の神々〕たちを攻める。親愛なる者よ、スシーマよ、赴け。阿修羅たちを迎え撃て』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、スシーマ天子は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて〔そののち〕、放逸を起こしました(命令に従わなかった)。比丘たちよ、再度また、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スシーマ天子に告げました。『親愛なる者よ、スシーマよ、これらの阿修羅たちが、天〔の神々〕たちを攻める。親愛なる者よ、スシーマよ、赴け。阿修羅たちを迎え撃て』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、スシーマ天子は、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて〔そののち〕、再度また、放逸を起こしました。比丘たちよ、三度また、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スシーマ天子に告げました。……略……三度また、放逸を起こしました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、スシーマ天子に、詩偈をもって語りかけました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『奮起せず努力せずにいる者が、そこにあって、安楽に到達する〔そのようなところがあるなら〕、スシーマよ、そこに赴け。さらに、わたしを、まさしく、そこに至り得させよ』と。
〔天子が、詩偈に言いました〕『奮起しない怠け者として存し、かつまた、諸々の為すべきことを為さずに、一切の欲望が等しく実現する者として存することになる、その優れたもの〔に至る道〕を、帝釈〔天〕よ、わたしに示したまえ』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『奮起しない怠け者が、そこにおいて、究極の安楽に満ち栄える〔そのようなところがあるなら〕、スシーマよ、そこに赴け。さらに、わたしを、まさしく、そこに至り得させよ』と。
〔天子が、詩偈に言いました〕『最勝の天〔の神〕よ、帝釈〔天〕よ、行為(業)なくして、憂いなく葛藤なきものを、すなわち、安楽を、〔わたしたちが〕見出すことになる、その優れたもの〔に至る道〕を、帝釈〔天〕よ、わたしに示したまえ』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『それで、もし、行為なくして存し、誰であれ、どこにであれ、老い朽ちない(※)〔そのようなところがあるなら〕、まさに、それは、涅槃への道である。スシーマよ、そこに赴け。さらに、わたしを、まさしく、そこに至り得させよ』と。
※ テキストには na jīvati とあるが、PTS版により na jīyati と読む。
比丘たちよ、なぜなら、彼が、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、自らの功徳の果に依拠して生きつつ、三十三天〔の神々〕たちの権力者にして君主たる王権を為しながら、奮起と精進の栄誉を説く者として〔世に〕有るのです。比丘たちよ、まさに、そうであるなら、ここに、〔あなたたちもまた〕美しく輝くでしょう。すなわち、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者たちとして〔世に〕存している、あなたたちが、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、奮起し、勤労し、努力するなら」と。
3. 旗の先端の経
249. サーヴァッティーにおいて。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに告げました。
『敬愛なる者たちよ、それで、もし、戦場に赴いた天〔の神々〕たちに、あるいは、恐怖が、あるいは、驚愕が、あるいは、身の毛のよだちが、生起するなら、その時点において、まさしく、わたしの、旗の先端を見上げるのだ。まさに、あなたたちが、わたしの旗の先端を見上げていると、すなわち、〔あなたたちに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは捨棄されるであろう。
もし、わたしの旗の先端を見上げられないなら、そこで、天〔の神々〕たちの王たるパジャーパティの旗の先端を見上げるのだ。まさに、あなたたちが、天〔の神々〕たちの王たるパジャーパティの旗の先端を見上げていると、すなわち、〔あなたたちに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは捨棄されるであろう。
もし、天〔の神々〕たちの王たるパジャーパティの旗の先端を見上げられないなら、そこで、天〔の神々〕たちの王たるヴァルナの旗の先端を見上げるのだ。まさに、あなたたちが、天〔の神々〕たちの王たるヴァルナの旗の先端を見上げていると、すなわち、〔あなたたちに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは捨棄されるであろう。
もし、天〔の神々〕たちの王たるヴァルナの旗の先端を見上げられないなら、そこで、天〔の神々〕たちの王たるイーサーナの旗の先端を見上げるのだ。まさに、あなたたちが、天〔の神々〕たちの王たるイーサーナの旗の先端を見上げていると、すなわち、〔あなたたちに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは捨棄されるであろう』と。
比丘たちよ、また、まさに、それで、あるいは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の旗の先端を見上げていると、あるいは、天〔の神々〕たちの王たるパジャーパティの旗の先端を見上げていると、あるいは、天〔の神々〕たちの王たるヴァルナの旗の先端を見上げていると、あるいは、天〔の神々〕たちの王たるイーサーナの旗の先端を見上げていると、すなわち、〔彼らに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは、捨棄されることもまたあるでしょうし、捨棄されないこともまたあるでしょう。
それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、貪欲を離れていない者であり、憤怒を離れていない者であり、迷妄を離れていない者であり、恐怖し、驚愕し、恐懼し、逃げ去る者であるからです」と。
「比丘たちよ、そして、まさに、わたしは、このように説きます。比丘たちよ、それで、もし、あなたたちが、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、あるいは、恐怖が、あるいは、驚愕が、あるいは、身の毛のよだちが、〔あなたたちに〕生起するなら、その時点において、まさしく、わたしを、随念するのです。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。比丘たちよ、まさに、あなたたちが、わたしを随念していると、すなわち、〔あなたたちに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは捨棄されるでしょう。
もし、わたしを随念できないなら、そこで、法(教え)を随念するのです。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。比丘たちよ、まさに、あなたたちが、法(教え)を随念していると、すなわち、〔あなたたちに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは捨棄されるでしょう。
もし、法(教え)を随念できないなら、そこで、僧団を随念するのです。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。比丘たちよ、まさに、あなたたちが、僧団を随念していると、すなわち、〔あなたたちに〕有るであろう、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、身の毛のよだちは、それは捨棄されるでしょう。
それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、阿羅漢にして正等覚者たる如来は、貪欲を離れた者であり、憤怒を離れた者であり、迷妄を離れた者であり、恐怖せず、驚愕せず、恐懼せず、逃げ去らない者であるからです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔世尊が、詩偈に言う〕「比丘たちよ、林において、あるいは、木の根元において、あるいは、空家において、正覚者を随念するがよい。あなたたちに、恐怖は、〔もはや〕存在しないであろう。
もし、世の最尊者にして人の雄牛たる覚者(仏:ブッダ)を思念できないなら、そこで、見事に説示された出脱〔の教え〕である法(法:ダンマ)を思念するがよい。
もし、見事に説示された出脱〔の教え〕である法(教え)を思念できないなら、そこで、無上なる功徳の田畑である僧団(僧:サンガ)を思念するがよい。
比丘たちよ、このように、〔あなたたちが〕覚者を思念しているなら、法(教え)を〔思念し〕、さらに、僧団を〔思念しているなら〕、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、身の毛のよだちは、〔もはや〕有ることなくあるであろう」と。
4. ヴェーパチッティの経
250. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、阿修羅たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、それで、もし、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦において、阿修羅たちが勝利し、天〔の神々〕たちが敗北するなら、それによって、彼を、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕を、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛して、わたしの現前に、阿修羅の都へと連行するのだ』と。比丘たちよ、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕もまた、三十三天〔の神々〕たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、それで、もし、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦において、天〔の神々〕たちが勝利し、阿修羅たちが敗北するなら、それによって、彼を、阿修羅のインダたるヴェーパチッティを、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛して、わたしの現前に、スダンマーの集会場(善法講堂)へと連行するのだ』と。比丘たちよ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちは勝利し、阿修羅たちは敗北しました。比丘たちよ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、阿修羅のインダたるヴェーパチッティを、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の現前に、スダンマーの集会場へと連行しました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で結縛され、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕を、スダンマーの集会場に、そして、入りつつあるなら、さらに、出つつあるなら、諸々の不当かつ粗暴な言葉で罵倒し口撃します。比丘たちよ、そこで、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、詩偈をもって(※)語りかけました。
※ テキストには gāthāhi とあるが、PTS版により gāthāya と読む。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『マガヴァントよ、帝釈〔天〕よ、はてさて、恐怖ゆえに、力弱きゆえに、まさに、忍受するのですか。面前に、ヴェーパチッティの粗暴な言葉を聞きながら』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『恐怖ゆえにあらず、力弱きゆえにあらず、わたしが、ヴェーパチッティに忍耐するのは。まさに、どうして、わたしのような識者たる者が、愚者と関わるというのだろう』と。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『もし、制止する者が存在しないなら、より一層、愚者たちは勢いづくでしょう。それゆえに、過酷な棒(厳罰)によって、慧者は、愚者を制止するべきです』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『わたしが思うに、これこそが、愚者の制止となるのだ。他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら』と。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『ヴァーサヴァよ、〔わたしは〕見ます──これこそが、忍受の罪過であると。すなわち、愚者が、彼のことを、「この者は、恐怖ゆえに、わたしを忍受する」〔と〕思うとき、思慮浅き者は、調子に乗ります。牛が、逃げ去る者を、より一層、〔追いかける〕ように』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『欲するままに、あるいは、思え、あるいは、〔思う〕なかれ。「この者は、恐怖ゆえに、わたしを忍受する」〔と〕。自らの義(利益)となる最高の義(利益)として、忍耐よりも、より一層のものは見出されない。
彼が、まさに、力ある者として存していながら、力弱き者を忍受するなら、彼を、〔賢者たちは〕「最高の忍耐ある者」と言う。〔一方的に〕常に忍耐するのが、力弱き者である。
彼が、愚者の力を力とするなら、その力を、〔賢者たちは〕「力なきもの」と言う。法(正義)に守られた力には、言い返す者は見出されない。
すなわち、忿激した者に忿激し返すなら、それによって、まさしく、彼に、より悪しきことがある。忿激した者に忿激し返さずにいる者は、勝利し難き戦いに勝利する。
他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら、かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者の義(利益)を行なう。
かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者のために癒している者を、彼のことを(※)、〔世の〕人たちは、「愚者である」と思いなす──すなわち、法(真理)の熟知者ならざる者たちは』と。
※ テキストには tikicchantānaṃ とあるが、テーラガーター444偈により tikicchantaṃ taṃ と読む。
比丘たちよ、なぜなら、彼が、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、自らの功徳の果に依拠して生きつつ、三十三天〔の神々〕たちの権力者にして君主たる王権を為しながら、忍耐と温和の栄誉を説く者として〔世に〕有るのです。比丘たちよ、まさに、そうであるなら、ここに、〔あなたたちもまた〕美しく輝くでしょう。すなわち、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家した者たちとして〔世に〕存している、あなたたちが、かつまた、忍耐ある者たちとして、かつまた、温和なる者たちとして、〔世に〕有るなら」と。
5. 見事に語られたものによる勝利の経
251. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、見事に語られたものによる勝利有れ』と。『ヴェーパチッティよ、見事に語られたものによる勝利有れ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、そして、天〔の神々〕たちは、さらに、阿修羅たちは、〔それぞれの〕会衆を立たせました。『これらの者たちは、わたしたちの見事に語られたものと拙劣に語られたものを了知するであろう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、詩偈を話せ』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、阿修羅のインダたるヴェーパチッティに、こう言いました。『ヴェーパチッティよ、まさに、ここにおいて、あなたたちは、過去の天〔の神々〕たちとしてある。ヴェーパチッティよ、詩偈を話せ』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、この詩偈を語りました。
〔阿修羅が、詩偈に言いました〕『もし、制止する者が存在しないなら、より一層、愚者たちは勢いづくであろう。それゆえに、過酷な棒(厳罰)によって、慧者は、愚者を制止するべきである』と。
比丘たちよ、また、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティによって詩偈が語られたとき、阿修羅たちは随喜し、天〔の神々〕たちは沈黙の者たちと成りました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、詩偈を話せ』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、この詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『わたしが思うに、これこそが、愚者の制止となるのだ。他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら』と。
比丘たちよ、また、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって詩偈が語られたとき、天〔の神々〕たちは随喜し、阿修羅たちは沈黙の者たちと成りました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、阿修羅のインダたるヴェーパチッティに、こう言いました。『ヴェーパチッティよ、詩偈を話せ』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、この詩偈を語りました。
〔阿修羅が、詩偈に言いました〕『ヴァーサヴァよ、〔わたしは〕見る──これこそが、忍受の罪過であると。すなわち、愚者が、彼のことを、「この者は、恐怖ゆえに、わたしを忍受する」〔と〕思うとき、思慮浅き者は、調子に乗る。牛が、逃げ去る者を、より一層、〔追いかける〕ように』と。
比丘たちよ、さて、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティによって詩偈が語られたとき、阿修羅たちは随喜し、天〔の神々〕たちは沈黙の者たちと成りました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、詩偈を話せ』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、これらの詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『欲するままに、あるいは、思え、あるいは、〔思う〕なかれ。「この者は、恐怖ゆえに、わたしを忍受する」〔と〕。自らの義(利益)となる最高の義(利益)として、忍耐よりも、より一層のものは見出されない。
彼が、まさに、力ある者として存していながら、力弱き者を忍受するなら、彼を、〔賢者たちは〕「最高の忍耐ある者」と言う。〔一方的に〕常に忍耐するのが、力弱き者である。
彼が、愚者の力を力とするなら、その力を、〔賢者たちは〕「力なきもの」と言う。法(正義)に守られた力には、言い返す者は見出されない。
すなわち、忿激した者に忿激し返すなら、それによって、まさしく、彼に、より悪しきことがある。忿激した者に忿激し返さずにいる者は、勝利し難き戦いに勝利する。
他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら、かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者の義(利益)を行なう。
かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者のために癒している者を、彼のことを(※)、〔世の〕人たちは、「愚者である」と思いなす──すなわち、法(真理)の熟知者ならざる者たちは』と。
※ テキストには tikicchantānaṃ とあるが、テーラガーター444偈により tikicchantaṃ taṃ と読む。
比丘たちよ、また、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって詩偈が語られたとき、天〔の神々〕たちは随喜し、阿修羅たちは沈黙の者たちと成りました。比丘たちよ、そこで、まさに、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、阿修羅たちの、〔それぞれの〕会衆は、こう言いました。『まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティによって、諸々の詩偈が語られた。そして、それらは、まさに、棒(暴力)を有するものを行境とし、刃を有するものを行境とし、かくのごとく、言争あるものであり、かくのごとく、口論あるものであり、かくのごとく、紛争あるものである。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって、諸々の詩偈が語られた。そして、それらは、まさに、棒なきものを行境とし、刃なきものを行境とし、かくのごとく、言争なきものであり、かくのごとく、口論なきものであり、かくのごとく、紛争なきものである。天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、見事に語られたものによる勝利がある』と。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、見事に語られたものによる勝利が有りました」と。
6. 鳥の巣の経
252. サーヴァッティーにおいて。「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、また、まさに、その戦いにおいて、阿修羅たちは勝利し、天〔の神々〕たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、まさに、敗北した天〔の神々〕たちは、北に向かい、まさしく、離去し、阿修羅たちは、彼らを、まさしく、攻めました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、戦車の馭者のマータリに、詩偈をもって語りかけました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『マータリよ、シンバリ〔樹〕には、〔金翅鳥の〕雛鳥たちがいる。轅(ながえ)の面で〔殺すことがないように、彼らを〕遍く避けよ。むしろ、〔わたしたちは〕阿修羅たちのもとで命を捨てるのだ。これらの鳥たちが、巣を離れるものたちと成ってはならない』と。
比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を反転させました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、今や、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の、千の良馬を設えた車が反転するところとなった。再度また、まさに、天〔の神々〕たちは、阿修羅たちと戦いを交わすであろう』と。〔阿修羅たちは〕恐怖し、まさしく、阿修羅の都に入りました。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、法(正義)による勝利が有りました」と。
7. 「裏切るべきにあらず」の経
253. サーヴァッティーにおいて。「比丘たちよ、過去の事ですが、静所に赴き静坐している天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、このような心の思索が浮かびました。『たとえ、その者が、わたしにとって、極めて義(利益)に反する者として存するも、彼をもまた、わたしは裏切るべきにあらず』と。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、〔自らの〕心をとおして、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の心の思索を了知して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕のいるところに、そこへと近づいて行きました。比丘たちよ、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、阿修羅のインダたるヴェーパチッティが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、阿修羅のインダたるヴェーパチッティに、こう言いました。『ヴェーパチッティよ、止まれ。〔おまえは〕捕捉された者として存している』と。
『敬愛なる者よ、まさしく、その心が、過去において、あなたにあるなら、まさしく、その〔心〕を、あなたは捨棄してはいけない』と。
『ヴェーパチッティよ、では、わたしに誓うのだ。裏切りなくあることを』と。
〔阿修羅が、詩偈に言いました〕『それが、虚偽を話している者の悪〔の報い〕であるなら──それが、聖者を批判する者の悪〔の報い〕であるなら──さらに、それが、朋友を裏切る者の悪〔の報い〕であるなら──それが、恩を知らない者の悪〔の報い〕であるなら──まさしく、その悪〔の報い〕が、〔わたしに〕触れよ。スジャーの夫(帝釈天)よ、すなわち、〔わたしが〕あなたを裏切るなら』」と。
8. 阿修羅のインダたるヴェーローチャナの経
254. サーヴァッティーのジェータ林において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、昼の休息に赴き、静坐の状態でおられます。そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、かつまた、阿修羅のインダたるヴェーローチャナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、各自に門の両脇に依拠して立ちました。そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーローチャナは、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔阿修羅が、詩偈に言う〕「人は、まさしく、努めるべきである──義(目的)の完遂ある、それまでは。完遂されて美しく輝くのが、義(目的)である。これは、ヴェーローチャナの言葉である」と。
〔帝釈天が、詩偈に言う〕「人は、まさしく、努めるべきである──義(目的)の完遂ある、それまでは。完遂されて美しく輝くのが、義(目的)である。忍耐よりも、より一層のものは見出されない」と。
〔阿修羅が、詩偈に言う〕「そこかしこにおいて、〔自らの〕分のままに、義(目的)ある者たちとして生まれたのが、一切の有情たちである。一切の命あるものたちにとって、諸々の享受は、まさしく、かくのごとく、〔義と〕結び付くものが最高である。完遂されて美しく輝くのが、義(目的)である。これは、ヴェーローチャナの言葉である」と。
〔帝釈天が、詩偈に言う〕「そこかしこにおいて、〔自らの〕分のままに、義(目的)ある者たちとして生まれたのが、一切の有情たちである。一切の命あるものたちにとって、諸々の享受は、まさしく、かくのごとく、〔義と〕結び付くものが最高である。完遂されて美しく輝くのが、義(目的)である。忍耐よりも、より一層のものは見出されない」と。
9. 林所の聖賢たちの経
255. サーヴァッティーにおいて。「比丘たちよ、過去の事ですが、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、大勢の聖賢たちが、林所にある諸々の柴小屋において暮らしています。比丘たちよ、そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、かつまた、阿修羅のインダたるヴェーパチッティが、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、頑丈な履物を履いて、剣を差して、傘を保持させながら、正門から庵所に入って、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちに、軽侮を為して過ぎ行きました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、頑丈な履物を脱いで、剣を他者たちに預けて、傘を畳んで、ただの門から庵所に入って、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちに、風下にて、合掌の者となり、礼拝しながら立ちました。比丘たちよ、そこで、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔聖賢たちが、詩偈に言いました〕『入信長き聖賢たちの臭いは、身体から移行し、風とともに赴く。千の眼ある者よ、ここから立ち去れ。天の王よ、聖賢たちの臭いは、不浄である』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『入信長き聖賢たちの香りは、身体から移行し、風とともに赴け。美しい彩りある花を、頭に花飾として〔求める〕ように、尊き方よ、この香りを、〔わたしどもは〕待ち望みます。まさに、ここにおいて、天〔の神々〕たちは、嫌悪の表象なき者たちとなります』」と。
10. 海にある者たちの経
256. サーヴァッティーにおいて。「比丘たちよ、過去の事ですが、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、大勢の聖賢たちが、海の岸辺にある諸々の柴小屋において暮らしています。また、まさに、その時点にあって、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、天〔の神々〕たちは、法(正義)にかなう者たちであり、阿修羅たちは、法(正義)にかなわない者たちである。阿修羅ゆえの恐怖が、さてまた、わたしたちに存するであろう。それなら、さあ、わたしたちは、近づいて行って、阿修羅のインダであるサンバラに、施物として、恐怖なき〔平安〕を乞い求めるのだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちは、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、海の岸辺にある諸々の柴小屋において消没し、阿修羅のインダであるサンバラの面前に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちは、阿修羅のインダであるサンバラに、詩偈をもって語りかけました。
〔聖賢たちが、詩偈に言いました〕『サンバラのもとに至り得た聖賢たちは、施物として、恐怖なき〔平安〕を乞い求める。まさに、あなたに、欲するままに為すことあれ──恐怖を、あるいは、恐怖なき〔平安〕を、〔あなたが〕施すべく』と。
〔阿修羅が、詩偈に言いました〕『帝釈〔天〕に慣れ親しむ〔心が〕汚れた聖賢たちに、恐怖なき〔平安〕は存在せず。恐怖なき〔平安〕を乞い求めているあなたたちに、まさしく、恐怖を、〔わたしは〕施す』と。
〔聖賢たちが、詩偈に言いました〕『恐怖なき〔平安〕を乞い求めているわたしたちに、まさしく、恐怖を、〔あなたは〕施す。あなたの、この〔施物〕を、〔わたしたちは〕納受する。あなたに、滅尽なき恐怖有れ。
そのようなものとして、種を蒔くなら、そのようなものとして、果を運ぶ──善き〔行為〕を為す者は、善き〔報い〕を、そして、悪しき〔行為〕を為す者は、悪しき〔報い〕を。親愛なる者よ、あなたの種は蒔かれた。〔あなたは〕果を味わうであろう』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちは、阿修羅のインダであるサンバラに呪いをかけて、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、阿修羅のインダであるサンバラの面前において消没し、海の岸辺にある諸々の柴小屋に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダであるサンバラは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、それらの聖賢たちによって呪いをかけられ、夜に、まさに、三回、戦慄した、ということです。
〔以上が〕第一の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「スヴィーラ、まさしく、そして、スシーマ、旗の先端、ヴェーパチッティ、まさしく、そして、見事に語られたものによる勝利、鳥の巣、『裏切るべきにあらず』があり、阿修羅のインダたるヴェーローチャナ、まさしく、そして、林にある聖賢たち、さらに、海にある聖賢たちがあり、〔章となる〕」と。
2. 第二の章
1. 掟の句の経
257. サーヴァッティーにおいて。「比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、過去において、人間として有ったとき、完全なるものとして受持された、七つの掟の句が有りました。それらが受持されたことから、帝釈〔天〕は、帝釈〔天〕たる〔境遇〕に到達したのです。どのようなものが、七つの掟の句なのですか。『(1)生あるかぎり、母と父を養う者として存するのだ。(2)生あるかぎり、家における最尊者を敬う者として存するのだ。(3)生あるかぎり、優しい言葉の者として存するのだ。(4)生あるかぎり、中傷の言葉なき者として存するのだ。(5)生あるかぎり、物惜の垢を離れ去った心で家に居住するのだ──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。(6)生あるかぎり、真理(真実)を説く者として存するのだ。(7)生あるかぎり、忿激しない者として存するのだ。それで、もし、また、わたしに、忿激〔の思い〕が生起するなら、それを、まさしく、すみやかに取り除くのだ』と。比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、過去において、人間として有ったとき、完全なるものとして受持された、これらの七つの掟の句が有りました。それらが受持されたことから、帝釈〔天〕は、帝釈〔天〕たる〔境遇〕に到達したのです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「母と父を養う人を、家における最尊者を敬う者を、優しく友誼の会話ある者を、中傷〔の言葉〕を捨棄する者を──
物惜〔の思い〕を取り除くことに専念する者を、真理の者を、忿激〔の思い〕を征服する人を、彼を、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、『正なる人士』と言う」と。
2. 帝釈〔天〕の名前の経
258. サーヴァッティーにおいて。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに、こう言いました。「比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、マガという名の学徒として〔世に〕有りました。それゆえに、『マガヴァント』と呼ばれます。
比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、都(プラ)において、布施(ダーナ)を施しました(アダーシ)。それゆえに、『プリンダダ(都において施す者)』と呼ばれます。
比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、恭しく(サッカッチャ)、布施を施しました。それゆえに、『帝釈〔天〕(サッカ)』と呼ばれます。
比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、居住所(アーヴァサタ)を施しました。それゆえに、『ヴァーサヴァ』と呼ばれます。
比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、千(サハッサ)の義(アッタ)でさえも、寸時に思い考えます。それゆえに、『千の眼ある者(サハッサッカ)』と呼ばれます。
比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕には、スジャーという名の、阿修羅の少女が、夫人としてあります。それゆえに、『スジャーの夫』と呼ばれます。
比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちの権力者にして君主たる王権を為します。それゆえに、『天〔の神々〕たちのインダ』と呼ばれます。
比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、過去において、人間として有ったとき、完全なるものとして受持された、七つの掟の句が有りました。それらが受持されたことから、帝釈〔天〕は、帝釈〔天〕たる〔境遇〕に到達したのです。どのようなものが、七つの掟の句なのですか。『(1)生あるかぎり、母と父を養う者として存するのだ。(2)生あるかぎり、家における最尊者を敬う者として存するのだ。(3)生あるかぎり、優しい言葉の者として存するのだ。(4)生あるかぎり、中傷の言葉なき者として存するのだ。(5)生あるかぎり、物惜の垢を離れ去った心で家に居住するのだ──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。(6)生あるかぎり、真理を説く者として存するのだ。(7)生あるかぎり、忿激しない者として存するのだ。それで、もし、また、わたしに、忿激〔の思い〕が生起するなら、それを、まさしく、すみやかに取り除くのだ』と。比丘たちよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、過去において、人間として有ったとき、完全なるものとして受持された、これらの七つの掟の句が有りました。それらが受持されたことから、帝釈〔天〕は、帝釈〔天〕たる〔境遇〕に到達したのです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「母と父を養う人を、家における最尊者を敬う者を、優しく友誼の会話ある者を、中傷〔の言葉〕を捨棄する者を──
物惜〔の思い〕を取り除くことに専念する者を、真理の者を、忿激〔の思い〕を征服する人を、彼を、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、『正なる人士』と言う」と。
3. マハーリの経
259. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕のマハーリが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のマハーリは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、まさに、世尊によって見られましたか(帝釈天を見たことがありますか)」と。
「マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、まさに、わたしによって見られました」と。
「尊き方よ、まさに、その者は、まちがいなく、帝釈〔天〕のそれらしい形態をした〔偽物〕として有るのです。尊き方よ、まさに、見難きは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕です」と。
「マハーリよ、まさに、わたしは覚知します──そして、帝釈〔天〕を、さらに、帝釈〔天の境遇〕を作り為す諸々の法(性質)を。それらの法(性質)が受持されたことから、帝釈〔天〕は、帝釈〔天〕たる〔境遇〕に到達したのです。そして、それを、〔わたしは〕覚知します。
マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、都(プラ)において、布施(ダーナ)を施しました(アダーシ)。それゆえに、『プリンダダ(都において施す者)』と呼ばれます。
マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、恭しく(サッカッチャ)、布施を施しました。それゆえに、『帝釈〔天〕(サッカ)』と呼ばれます。
マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、居住所(アーヴァサタ)を施しました。それゆえに、『ヴァーサヴァ』と呼ばれます。
マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、千(サハッサ)の義(アッタ)でさえも、寸時に思い考えます。それゆえに、『千の眼ある者(サハッサッカ)』と呼ばれます。
マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕には、スジャーという名の、阿修羅の少女が、夫人としてあります。それゆえに、『スジャーの夫』と呼ばれます。
マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちの権力者にして君主たる王権を為します。それゆえに、『天〔の神々〕たちのインダ』と呼ばれます。
マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、過去において、人間として有ったとき、完全なるものとして受持された、七つの掟の句が有りました。それらが受持されたことから、帝釈〔天〕は、帝釈〔天〕たる〔境遇〕に到達したのです。どのようなものが、七つの掟の句なのですか。どのようなものが、七つの掟の句なのですか。『(1)生あるかぎり、母と父を養う者として存するのだ。(2)生あるかぎり、家における最尊者を敬う者として存するのだ。(3)生あるかぎり、優しい言葉の者として存するのだ。(4)生あるかぎり、中傷の言葉なき者として存するのだ。(5)生あるかぎり、物惜の垢を離れ去った心で家に居住するのだ──施捨を解き放ち、〔布施のために〕手を洗い清め、放棄を喜び、乞いに応じ、布施と分与を喜ぶ者として。(6)生あるかぎり、真理を説く者として存するのだ。(7)生あるかぎり、忿激しない者として存するのだ。それで、もし、また、わたしに、忿激〔の思い〕が生起するなら、それを、まさしく、すみやかに取り除くのだ』と。マハーリよ、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、過去において、人間として有ったとき、完全なるものとして受持された、これらの七つの掟の句が有りました。それらが受持されたことから、帝釈〔天〕は、帝釈〔天〕たる〔境遇〕に到達したのです」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「母と父を養う人を、家における最尊者を敬う者を、優しく友誼の会話ある者を、中傷〔の言葉〕を捨棄する者を──
物惜〔の思い〕を取り除くことに専念する者を、真理の者を、忿激〔の思い〕を征服する人を、彼を、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、『正なる人士』と言う」と。
4. 貧しき者の経
260. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、過去の事ですが、或るひとりの男が、まさしく、このラージャガハにおいて、貧しい人間として、哀れな人間として、惨めな人間として、〔世に〕有りました。彼は、如来によって知らされた法(教え)と律において、信を受持し、戒を受持し、所聞(聴聞した教え)を受持し、施捨を受持し、智慧を受持しました。彼は、如来によって知らされた法(教え)と律において、信を受持して、戒を受持して、所聞を受持して、施捨を受持して、智慧を受持して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生しました。彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。比丘たちよ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、譴責し、憤慨し、文句を言います。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。なぜなら、この天子は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、貧しい人間として、哀れな人間として、惨めな人間として、〔世に〕有った。〔その〕彼が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生したのだ。〔その〕彼が、他の天〔の神々〕たちに輝きまさるとは──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、まさに、あなたたちは、この天子を譴責してはいけません。敬愛なる者たちよ、まさに、この天子は、過去において、人間として有り、〔世に〕存しているとき、如来によって知らされた法(教え)と律において、信を受持し、戒を受持し、所聞を受持し、施捨を受持し、智慧を受持しました。彼は、如来によって知らされた法(教え)と律において、信を受持して、戒を受持して、所聞を受持して、施捨を受持して、智慧を受持して、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生したのです。彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちを教え導きつつ、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──
その者に、僧団にたいする浄信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕「貧ならざる者」と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。
それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕浄信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら』」と。
5. 喜ぶべきものの経
261. サーヴァッティーのジェータ林において。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものが、喜ぶべき土地なのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「諸々の林園の塔廟、諸々の林野の塔廟、諸々の美しく化作された蓮池──〔それらは〕人間が喜ぶべきものの、十六分の一にも値しない。
もしくは、村であろうが、林であろうが、もしくは、低地であろうが、高地であろうが、そこにおいて、阿羅漢たちが住むなら、その地は、喜ぶべきものとなる」と。
6. 祭祀をしている者の経
262. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔帝釈天が、詩偈に言う〕「祭祀をしている人間たちにとって、功徳を期す命あるものたちにとって、依り所ある功徳を作り為している者たちにとって、どこにおいて、施されたものは、大いなる果となるのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「そして、〔道の〕実践者たる四者(四向:預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)がいて、さらに、果における安立者たる四者(四果:預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)がいます。この僧団は、〔心が〕真っすぐと成り、智慧と戒によって〔心が〕定められています。
祭祀をしている人間たちにとって、功徳を期す命あるものたちにとって、依り所ある功徳を作り為している者たちにとって、僧団において、施されたものは、大いなる果となります」と。
7. 覚者への敬拝の経
263. サーヴァッティーのジェータ林において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、昼の休息に赴き、静坐の状態でおられます。そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、かつまた、梵〔天〕のサハンパティが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、各自に門の両脇に依拠して立ちました。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の現前において、この詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言う〕「勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。〔生の〕重荷を降ろした方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。そして、あなたの心は、善く解脱しています。すなわち、十五夜の月のように」と。
「天〔の神々〕たちのインダよ、まさに、如来たちは、このように敬拝されるべきではありません。天〔の神々〕たちのインダよ、そして、まさに、如来たちは、このように敬拝されるべきです」〔と〕。
〔梵天が、詩偈に言う〕「勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。先導者たる方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。世尊は、法(教え)を説示してください。〔世の人々は、法の〕了知者たちと成るでしょう」と。
8. 在家者への敬拝の経
264. サーヴァッティーにおいて。そこで……略……こう言いました。「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、戦車の馭者のマータリに告げました。『友よ、マータリよ、設えよ──千の良馬を設えた車を。〔わたしたちは〕赴くのだ──庭園のある地に、美しき地を見るために』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を設えて、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に知らせました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたのために、千の良馬を設えた車が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ヴェージャヤンタの高楼から降りつつ、合掌を為して、まさに、多々なる方角を礼拝します。比丘たちよ、そこで、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『三つのヴェーダ〔の精通者〕たちが、そして、一切の地上の士族たちが、さらに、〔天の〕四大王(四天王)たちが、かつまた、盛名ある三十〔三天の神々〕たちが、あなたを礼拝します。そこで、誰なのですか、まさに、その夜叉は。帝釈〔天〕よ、すなわち、あなたが礼拝する、〔その夜叉は〕』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『三つのヴェーダ〔の精通者〕たちが、そして、一切の地上の士族たちが、さらに、〔天の〕四大王たちが、かつまた、盛名ある三十〔三天の神々〕たちが、わたしを礼拝する。
そして、わたしは、戒の成就者たちを、長夜に〔心が〕定められた者たちを、正しく出家した者たちを、梵行を行き着く所とする者たちを、〔彼らを〕敬拝する。
すなわち、功徳を作り為す在家者たちとして、戒ある在俗信者たちが、法(正義)によって、妻を養うなら、マータリよ、彼らを、〔わたしは〕礼拝する』と。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『まさに、おっしゃるとおり、〔彼らは〕世における最勝の者たちです。帝釈〔天〕よ、すなわち、あなたが礼拝する、〔それらの者たちは〕。彼らを、わたしもまた礼拝します。ヴァーサヴァよ、すなわち、あなたが礼拝する、〔それらの者たちを〕』」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「マガヴァントは、天の王たるスジャーの夫は、この〔言葉〕を言って、多々なる方角を礼拝して、筆頭の者として、車に乗りました」と。
9. 教師への敬拝
265. サーヴァッティーのジェータ林において。「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、戦車の馭者のマータリに告げました。『友よ、マータリよ、設えよ──千の良馬を設えた車を。〔わたしたちは〕赴くのだ──庭園のある地に、美しき地を見るために』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を設えて、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に知らせました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたのために、千の良馬を設えた車が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ヴェージャヤンタの高楼から降りつつ、合掌を為して、まさに、世尊を礼拝します。比丘たちよ、そこで、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『天〔の神々〕たちが、さらに、人間たちが、まさに、すなわち、ヴァーサヴァよ、あなたを礼拝します。そこで、誰なのですか、まさに、その夜叉は。帝釈〔天〕よ、すなわち、あなたが礼拝する、〔その夜叉は〕』と。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『彼は、ここに、天を含むこの世における、正等覚者である。至上の名ある方を、〔世の〕教師たる方を、マータリよ、彼を、〔わたしは〕礼拝する。
彼らの、そして、貪欲が、かつまた、憤怒が、さらに、無明が──〔それらが〕離貪されたなら、〔彼らは〕煩悩の滅尽者たる阿羅漢たちであり、マータリよ、彼らを、〔わたしは〕礼拝する。
彼らが、貪欲と憤怒の調伏あることから、無明の超越あることから、〔煩悩の〕滅減を喜びとする〔いまだ〕学びある者(有学)たちとなり、〔気づきを〕怠らずに随学するなら、マータリよ、彼らを、〔わたしは〕礼拝する』と。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『まさに、おっしゃるとおり、〔彼らは〕世における最勝の者たちです。帝釈〔天〕よ、すなわち、あなたが礼拝する、〔それらの者たちは〕。彼らを、わたしもまた礼拝します。ヴァーサヴァよ、すなわち、あなたが礼拝する、〔それらの者たちを〕』」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「マガヴァントは、天の王たるスジャーの夫は、この〔言葉〕を言って、世尊を礼拝して、筆頭の者として、車に乗りました」と。
10. 僧団への敬拝
266. サーヴァッティーのジェータ林において。そこで、まさに……略……こう言いました。「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、戦車の馭者のマータリに告げました。『友よ、マータリよ、設えよ──千の良馬を設えた車を。〔わたしたちは〕赴くのだ──庭園のある地に、美しき地を見るために』と。比丘たちよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を設えて、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に知らせました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたのために、千の良馬を設えた車が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ヴェージャヤンタの高楼から降りつつ、合掌を為して、まさに、比丘の僧団を礼拝します。比丘たちよ、そこで、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔マータリが、詩偈に言う〕『これらの腐敗の肉身(母胎)に臥す人たちは、まさに、あなたを礼拝するべきです。これらの者たちは、諸々の死骸のなかに潜り、飢えと渇きに引き渡された者たちです。
ヴァーサヴァよ、いったい、どうして、それらの家なき者たちを羨むのですか。聖賢たちの行ないを説いてください。あなたの、その言葉を、〔わたしどもは〕お聞きします』と。
〔帝釈天が、詩偈に言う〕『マータリよ、それらの家なき者たちの、この〔行ない〕を、〔わたしは〕羨む。村から立ち去る、そののちは、彼らは、期待〔の思い〕なき者たちとして去り行く。
彼らは、自らのものを(※)、蔵に貯め置かず、瓶に〔貯め置か〕ず、壷に〔貯め置か〕ない。他者によって仕立てられたもの(行乞の施食)を探し求める者たちであり、それによって、〔身を〕保ち行く──善き掟の者たちとして。
※ テキストには tesaṃ とあるが、注釈書により te saṃ と読む。
善き明慧を告げる慧者たちであり、沈黙の状態で平等に〔世を〕歩む者たちである。天〔の神々〕たちは、阿修羅たちとともに、〔道を〕遮る者たちであり、マータリよ、さらに、多々なる人間たちも、〔道を遮る者たちである〕。
〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を、マータリよ、彼らを、〔わたしは〕礼拝する』と。
〔マータリが、詩偈に言いました〕『まさに、おっしゃるとおり、〔彼らは〕世における最勝の者たちです。帝釈〔天〕よ、すなわち、あなたが礼拝する、〔それらの者たちは〕。彼らを、わたしもまた礼拝します。ヴァーサヴァよ、すなわち、あなたが礼拝する、〔それらの者たちを〕』」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「マガヴァントは、天の王たるスジャーの夫は、この〔言葉〕を言って、比丘の僧団を礼拝して、筆頭の者として、車に乗りました」と。
〔以上が〕第二の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「また、三つの天〔の神々〕たちが説かれ、そして、貧しき者、喜ぶべきもの、そして、祭祀をしている者、敬拝、三つの帝釈〔天〕の礼拝があり、〔章となる〕」と。
3. 第三の章
1. 「断ち切って」の経
267. サーヴァッティーのジェータ林において。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔帝釈天が、詩偈に言う〕「いったい、何を断ち切って、安楽のうちに臥すのですか。いったい、何を断ち切って、憂い悲しまないのですか。いったい、どのような一つの法(性質)の打倒を、ゴータマよ、〔あなたは〕喜ぶのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「忿激〔の思い〕を断ち切って、安楽のうちに臥します。忿激〔の思い〕を断ち切って、憂い悲しみません。ヴァーサヴァよ、先端が〔蜜のように〕甘美な忿激という毒根の打倒を、聖者たちは賞賛します。まさに、それを断ち切って、憂い悲しみません」と。
2. 醜き色艶の者の経
268. サーヴァッティーのジェータ林において。そこで、まさに……略……こう言いました。「比丘たちよ、過去の事ですが、或るひとりの醜き色艶の猫背の夜叉が、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の坐に坐り、〔世に〕有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、譴責し、憤慨し、文句を言います。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。この醜き色艶の猫背の夜叉が、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の坐に坐ったのだ』と。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、三十三天〔の神々〕たちが、譴責し、憤慨し、文句を言うと、そのとおり、そのとおりに、その夜叉は、まさしく、そして、より形姿麗しき者と成り、かつまた、より美しい者と〔成り〕、さらに、より澄浄なる者と〔成ります〕。
比丘たちよ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『敬愛なる方よ、ここに、或るひとりの醜き色艶の猫背の夜叉が、あなたの、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の、坐に坐ったのです。敬愛なる方よ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、譴責し、憤慨し、文句を言います。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。この醜き色艶の猫背の夜叉が、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の坐に坐ったのだ」と。敬愛なる方よ、そのとおり、そのとおりに、まさに、三十三天〔の神々〕たちが、譴責し、憤慨し、文句を言うと、そのとおり、そのとおりに、その夜叉は、まさしく、そして、より形姿麗しき者と成り、かつまた、より美しい者と〔成り〕、さらに、より澄浄なる者と〔成ります〕。敬愛なる方よ、まさに、まちがいなく、その夜叉は、忿激〔の思い〕を食物とする者として〔世に〕有るのです』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、忿激〔の思い〕を食物とする、その夜叉のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一つの肩に上衣を掛けて、右の膝頭を地に着けて、忿激〔の思い〕を食物とする、その夜叉のいるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、名前を告げ聞かせました。『敬愛なる者よ、わたしは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕です。敬愛なる者よ、わたしは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕です』と。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、名前を告げ聞かせると、そのとおり、そのとおりに、その夜叉は、まさしく、そして、より醜き色艶と成り、さらに、より猫背と〔成ります〕。まさしく、そして、より醜き色艶と成って、さらに、より猫背と〔成って〕、まさしく、その場において、消没した、ということです。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、自らの坐に坐って、三十三天〔の神々〕たちを教え導きつつ、その時に、これらの詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『まさに、〔わたしが〕打ち砕かれた心の者として〔世に〕存することはなく、〔忿激の〕渦に巻き込まれ易い者として〔存することも〕ない。長きにわたり、あなたたちのことで、わたしが忿激することはなく、わたしのうちに、忿激〔の思い〕が止住することもない。
わたしが忿激する者となり、粗暴な〔言葉〕を説くことはなく、かつまた、〔自己の〕諸々の法(性質)を賛じ称えることもない。〔わたしは〕自己を正しく制御する──自己の義(利益)を正しく見ながら』」と。
3. サンバリの幻術の経
269. サーヴァッティーにおいて。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、過去の事ですが、阿修羅のインダたるヴェーパチッティが、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有りました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、阿修羅のインダたるヴェーパチッティのいるところに、そこへと近づいて行きました。病者を見舞う者として。比丘たちよ、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、わたし〔の病苦〕を癒してくれ』と。『ヴェーパチッティよ、わたしに、サンバリの幻術を教えよ』と。『敬愛なる者よ、すなわち、わたしが阿修羅たちに問い尋ねるまで、それまでは、わたしが教えることはない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、阿修羅たちに問い尋ねました。『敬愛なる者たちよ、わたしは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、サンバリの幻術を教える』と。『敬愛なる方よ、まさに、あなたは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、サンバリの幻術を教えてはいけません』と。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅のインダたるヴェーパチッティは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、詩偈をもって語りかけました。
〔阿修羅が、詩偈に言いました〕『マガヴァントよ、帝釈〔天〕よ、天の王たるスジャーの夫よ、幻術者は、おぞましき地獄へと近しく至る。百年のあいだ、〔地獄に落ちた〕サンバリのように』」と。
4. 過誤の経
270. サーヴァッティーの……略……林園において。また、まさに、その時点にあって、二者の比丘が、言い合いをしました。そこで、一者の比丘が、〔罪を〕犯しました。そこで、まさに、その比丘は、その比丘の現前において、〔自己の〕過誤を、「過誤である」と説示するも、その比丘は、〔それを〕納受しません。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、二者の比丘が、言い合いをしました。そこで、一者の比丘が、〔罪を〕犯しました。尊き方よ、そこで、まさに、その比丘は、その比丘の現前において、〔自己の〕過誤を、『過誤である』と説示するも、その比丘は、〔それを〕納受しません」と。
「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの愚者たちです。そして、すなわち、〔自己の〕過誤を、『過誤である』と見ない、〔愚者であり〕、さらに、すなわち、説示している者の過誤を、法(正義)のとおりに納受しない、〔愚者です〕。比丘たちよ、まさに、これらの二つの愚者たちがいます。比丘たちよ、二つのものがあります。これらの賢者たちです。そして、すなわち、〔自己の〕過誤を、『過誤である』と見る、〔賢者であり〕、さらに、すなわち、説示している者の過誤を、法(正義)のとおりに納受する、〔賢者です〕。比丘たちよ、まさに、これらの二つの賢者たちがいます。
比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、スダンマーの集会場において、三十三天〔の神々〕たちを教え導きつつ、その時に、この詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『忿激〔の思い〕は、あなたたちの支配に行き着け(怒りを調御して支配せよ)。そして、朋友にたいし、まさに、あなたたちに老があってはならない(友情をなくしてはならない)。難詰するべきではない者を難詰してはならない。かつまた、中傷〔の言葉〕を語ってはならない。そこで、悪しき人を、忿激〔の思い〕は、山のように打ち砕く』」と。
5. 忿激しないことの経
271. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに……略……世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、スダンマーの集会場において、三十三天〔の神々〕たちを教え導きつつ、その時に、この詩偈を語りました。
〔帝釈天が、詩偈に言いました〕『忿激〔の思い〕が、あなたたちを征服することがあってはならない。そして、忿激している者たちに忿激してはならない。さらに、聖者たちにおける〔実践の〕道として、忿激しないことがあり、かつまた、害さないことがある。そこで、悪しき人を、忿激〔の思い〕は、山のように打ち砕く』」と。
〔以上が〕第三の章となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「『断ち切って』があり、醜き色艶の者と幻術があり、過誤とともに、忿激しないことがあり、最勝の覚者によって、まさに、この、帝釈〔天〕についての五なるものが説示された」と。
帝釈〔天〕に相応するものは〔以上で〕完結となる。
詩偈を有するものの部(有偈篇)が第一となる。
その〔部〕のための摂頌となる
〔そこで、詩偈に言う〕「天神、そして、天子、王、そして、悪魔、比丘尼、梵〔天〕、婆羅門、ヴァンギーサがあり、林と夜叉とともに、ヴァーサヴァがあり、〔部となる〕」と。
詩偈を有するものの部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。