相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)

 

 因縁の部(因縁篇・上)

 

【目次】

 

1(12). 因縁に相応するもの(1.~)

 

1. 覚者の章(1.~)

 

1. 縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の経

2. 区分の経

3. 〔実践の〕道の経

4. ヴィパッシンの経

5. シキンの経

6. ヴェッサブーの経

7. カクサンダの経

8. コーナーガマナの経

9. カッサパの経

10. ゴータマの経

 

2. 食の章(11.~)

 

1. 食の経

2. モーリヤ・パッグナの経

3. 沙門や婆羅門たちの経

4. 第二の沙門や婆羅門たちの経

5. カッチャーナ・ゴッタの経

6. 法の講話者の経

7. 無衣行者のカッサパの経

8. ティンバルカの経

9. 愚者と賢者の経

10. 縁の経

 

3. 十の力の章(21.~)

 

1. 十の力の経

2. 第二の十の力の経

3. 機縁の経

4. 〔教えを〕他にする異教の者たちの経

5. ブーミジャの経

6. ウパヴァーナの経

7. 縁の経

8. 比丘の経

9. 沙門や婆羅門たちの経

10. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

4. カラーラ・カッティヤの章(31.~)

 

1. 成ったものの経

2. カラーラの経

3. 知恵の基盤の経

4. 第二の知恵の基盤の経

5. 無明という縁の経

6. 第二の無明という縁の経

7. 「あなたたちのものではありません」の経

8. 思欲の経

9. 第二の思欲の経

10. 第三の思欲の経

 

5. 家長の章(41.~)

 

1. 五つの怨念と恐怖の経

2. 第二の五つの怨念と恐怖の経

3. 苦しみの経

4. 世の経

5. ニャーティカの経

6. 或るひとりの婆羅門の経

7. ジャーヌッソーニの経

8. 順世派の経

9. 聖なる弟子の経

10. 第二の聖なる弟子の経

 

6. 苦しみの章(51.~)

 

1. 遍き考察の経

2. 執取の経

3. 束縛の経

4. 第二の束縛の経

5. 大木の経

6. 第二の大木の経

7. 若木の経

8. 名前と形態の経

9. 識知〔作用〕の経

10. 因縁の経

 

7. 大いなるものの章(61.~)

 

1. 無聞の者の経

2. 第二の無聞の者の経

3. 子の肉の喩えの経

4. 「貪欲が存在する」の経

5. 城市の経

6. 触知の経

7. 葦の束の経

8. コーサンビーの経

9. 「上り行く」の経

10. スシマの経

 

8. 沙門や婆羅門たちの章(71.~)

 

1. 老と死の経

2-11. 生の経等の十なるもの

 

9. 中略〔の経典〕

 

1. 教師の経

2-11. 第二の教師の経等の十なるもの

2-12. 学びの経等の省略あるものの十なるもの

 

 

 

 

阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 

 因縁の部(因縁篇・上)

 

1(12). 因縁に相応するもの

 

1. 覚者の章

 

1. 縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕の経

 

1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。比丘たちよ、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。比丘たちよ、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(:認識作用)があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(:感覚の発生)があります。接触という縁あることから、感受(:楽苦の知覚)があります。感受という縁あることから、渇愛()があります。渇愛という縁あることから、執取()があります。執取という縁あることから、生存()があります。生存という縁あることから、生()があります。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)の集起が有ります。比丘たちよ、これは、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』〔と〕説かれます。

 

 まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。〔以上が〕第一となる。

 

2. 区分の経

 

2. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を、あなたたちに説示し、区分しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能()の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得は、比丘たちよ、これは、生と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。比丘たちよ、これらの三つの生存があります。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です。比丘たちよ、これは、生存と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。比丘たちよ、これらの四つの執取があります。欲望〔の対象〕への執取であり、見解への執取であり、戒と掟への執取であり、自己の論への執取です。比丘たちよ、これは、執取と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。比丘たちよ、これらの六つの渇愛の体系があります。形態()の渇愛であり、音声()の渇愛であり、臭気()の渇愛であり、味感()の渇愛であり、感触(所触)の渇愛であり、法(:意の対象)の渇愛です。比丘たちよ、これは、渇愛と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、感受なのですか。比丘たちよ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり、耳の接触から生じる感受であり、鼻の接触から生じる感受であり、舌の接触から生じる感受であり、身の接触から生じる感受であり、意の接触から生じる感受です。比丘たちよ、これは、感受と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。比丘たちよ、これらの六つの接触の体系があります。眼の接触であり、耳の接触であり、鼻の接触であり、舌の接触であり、身の接触であり、意の接触です。比丘たちよ、これは、接触と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。眼の〔認識の〕場所(眼処)であり、耳の〔認識の〕場所(耳処)であり、鼻の〔認識の〕場所(鼻処)であり、舌の〔認識の〕場所(舌処)であり、身の〔認識の〕場所(身処)であり、意の〔認識の〕場所(意処)です。比丘たちよ、これは、六つの〔認識の〕場所と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。感受()、表象()、思欲()、接触()、意を為すこと(作意)は、これは、名前と説かれます。そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)は、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)は、これは、形態と説かれます。かくのごとく、そして、この名前は、さらに、この形態は、比丘たちよ、これは、名前と形態と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕(眼識)であり、耳の識知〔作用〕(耳識)であり、鼻の識知〔作用〕(鼻識)であり、舌の識知〔作用〕(舌識)であり、身の識知〔作用〕(身識)であり、意の識知〔作用〕(意識)です。比丘たちよ、これは、識知〔作用〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、無明なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、比丘たちよ、これは、無明と説かれます。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 〔実践の〕道の経

 

3. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、では、誤った〔実践の〕道を、そして、正しい〔実践の〕道を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、誤った〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。比丘たちよ、これは、誤った〔実践の〕道と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい〔実践の〕道なのですか。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、正しい〔実践の〕道と説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. ヴィパッシンの経

 

4. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるヴィパッシン世尊に、この〔思い〕が有りました。『まさに、この世〔の人々〕は、苦難を惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する。そこで、また、さらに、この苦しみの、老と死の、出離を覚知しない。いったい、いつ、まさに、この苦しみの、老と死の、出離が覚知されるのだろう』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、老と死が有るのか。どのような縁あることから、老と死があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すこと(如理作意)から、智慧(慧・般若)による知悉(現観)が有りました。『まさに、生が存しているとき、老と死が有る。生という縁あることから、老と死がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生が有るのか。どのような縁あることから、生があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生存が存しているとき、生が有る。生存という縁あることから、生がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生存が有るのか。どのような縁あることから、生存があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、執取が存しているとき、生存が有る。執取という縁あることから、生存がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、執取が有るのか。どのような縁あることから、執取があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、渇愛が存しているとき、執取が有る。渇愛という縁あることから、執取がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、渇愛が有るのか。どのような縁あることから、渇愛があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、感受が存しているとき、渇愛が有る。感受という縁あることから、渇愛がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、感受が有るのか。どのような縁あることから、感受があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、接触が存しているとき、感受が有る。接触という縁あることから、感受がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、接触が有るのか。どのような縁あることから、接触があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、六つの〔認識の〕場所が存しているとき、接触が有る。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有るのか。どのような縁あることから、六つの〔認識の〕場所があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有る。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、名前と形態が有るのか。どのような縁あることから、名前と形態があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、識知〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、諸々の形成〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕が有る。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、諸々の形成〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。比丘たちよ、『集起』『集起』と、まさに、ヴィパッシン菩薩に、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵()が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、老と死が有ることはないのか。何の止滅あることから、老と死の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存していないとき、老と死が有ることはない。生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生が有ることはないのか。何の止滅あることから、生の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生存が存していないとき、生が有ることはない。生存の止滅あることから、生の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生存が有ることはないのか。何の止滅あることから、生存の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、執取が存していないとき、生存が有ることはない。執取の止滅あることから、生存の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、執取が有ることはないのか。何の止滅あることから、執取の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、渇愛が存していないとき、執取が有ることはない。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、渇愛が有ることはないのか。何の止滅あることから、渇愛の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、感受が存していないとき、渇愛が有ることはない。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、感受が有ることはないのか。何の止滅あることから、感受の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、接触が存していないとき、感受が有ることはない。接触の止滅あることから、感受の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、接触が有ることはないのか。何の止滅あることから、接触の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、六つの〔認識の〕場所が存していないとき、接触が有ることはない。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはないのか。何の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはない。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、名前と形態が有ることはないのか。何の止滅あることから、名前と形態の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、諸々の形成〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、そこで、まさに、ヴィパッシン菩薩に、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、『止滅』『止滅』と、まさに、ヴィパッシン菩薩に、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第四となる。

 

 (七者の覚者のばあいもまた、このように詳知されるべきである。)

 

5. シキンの経

 

5. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるシキン世尊に……略……。

 

6. ヴェッサブーの経

 

6. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるヴェッサブー世尊に……略……。

 

7. カクサンダの経

 

7. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊に……略……。

 

8. コーナーガマナの経

 

8. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるコーナーガマナ世尊に……略……。

 

9. カッサパの経

 

9. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に……略……。

 

10. ゴータマの経

 

10. 「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、この世〔の人々〕は、苦難を惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する。そこで、また、さらに、この苦しみの、老と死の、出離を覚知しない。いったい、いつ、まさに、この、苦しみの、老と死の、出離が覚知されるのだろう』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、老と死が有るのか。どのような縁あることから、老と死があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存しているとき、老と死が有る。生という縁あることから、老と死がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生が有るのか。……略……生存が……執取が……渇愛が……感受が……接触が……六つの〔認識の〕場所が……名前と形態が……識知〔作用〕が……諸々の形成〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、諸々の形成〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。比丘たちよ、『集起』『集起』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、老と死が有ることはないのか。何の止滅あることから、老と死の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存していないとき、老と死が有ることはない。生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生が……略……生存が……執取が……渇愛が……感受が……接触が……六つの〔認識の〕場所が……名前と形態が……識知〔作用〕が……諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と。

 

 まさに、かくのごとく、このことはあります。無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、『止滅』『止滅』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」と。〔以上が〕第十となる。

 

 覚者の章が第一となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「説示、そして、区分と〔実践の〕道、ヴィパッシン、そして、シキン、ヴェッサブー、カクサンダ、コーナーガマナ、カッサパ、そして、偉大なる釈迦〔族〕の牟尼たるゴータマがあり、〔章となる〕」と。

 

2. 食の章

 

1. 食の経

 

11. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……こう言いました。「比丘たちよ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食(動力源・エネルギー)です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食:口にする食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食:知覚としての食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食:意志としての食)であり、第四に、識知〔作用としての食〕(識食:認識としての食)です。比丘たちよ、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、まさに、これらの四つの食があります。

 

 比丘たちよ、これらの四つの食は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。これらの四つの食は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とします。比丘たちよ、では、渇愛は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします。比丘たちよ、では、感受は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とします。比丘たちよ、では、接触は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします。比丘たちよ、では、六つの〔認識の〕場所は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とします。比丘たちよ、では、名前と形態は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。名前と形態は、識知〔作用〕を因縁とし、識知〔作用〕を集起とし、識知〔作用〕を出生とし、識知〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、識知〔作用〕は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とします。比丘たちよ、では、諸々の形成〔作用〕は、これらは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とします。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. モーリヤ・パッグナの経

 

12. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食であり、第二に、接触〔としての食〕であり、第三に、意の思欲〔としての食〕であり、第四に、識知〔作用としての食〕です。比丘たちよ、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、まさに、これらの四つの食があります」と。

 

 このように説かれたとき、尊者モーリヤ・パッグナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、識知〔作用〕としての食を食するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕食する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕食する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、識知〔作用〕としての食を食するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、何のために、識知〔作用〕としての食があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『識知〔作用〕としての食は、未来に、さらなる生存の発現あるための縁となり、その生類が存しているとき、六つの〔認識の〕場所があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、接触するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕接触する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕接触する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、接触するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、接触があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。接触という縁あることから、感受があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、感受するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕感受する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕感受する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、感受するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、感受があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、渇愛するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕渇愛する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕渇愛する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、渇愛するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、渇愛があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、誰が、執取するのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「『〔誰かが〕執取する』と、わたしは説きません。『〔誰かが〕執取する』と、もし、わたしが説くなら、そこで、健全なる問いが存するべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、誰が、執取するのですか』と。しかしながら、わたしは、このように説きません。このように説かずにいる、わたしには、すなわち、このように尋ねるべきです。『尊き方よ、いったい、まさに、どのような縁あることから、執取があるのですか』と。これは、健全なる問いです。そこで、健全なる説き明かしがあります。『渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります』」と。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 パッグナよ、まさしく、しかし、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)の残りなき離貪と止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 沙門や婆羅門たちの経

 

13. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現法:現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

14. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの法(性質)を覚知せず、これらの法(性質)の集起を覚知せず、これらの法(性質)の止滅を覚知せず、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、どのような法(性質)を覚知せず、どのような法(性質)の集起を覚知せず、どのような法(性質)の止滅を覚知せず、どのような法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないのですか。

 

 老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知せず、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しません。これらの法(性質)を覚知せず、これらの法(性質)の集起を覚知せず、これらの法(性質)の止滅を覚知せず、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの法(性質)を覚知し、これらの法(性質)の集起を覚知し、これらの法(性質)の止滅を覚知し、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、どのような法(性質)を覚知し、どのような法(性質)の集起を覚知し、どのような法(性質)の止滅を覚知し、どのような法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するのですか。

 

 老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知し、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。これらの法(性質)を覚知し、これらの法(性質)の集起を覚知し、これらの法(性質)の止滅を覚知し、これらの法(性質)の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. カッチャーナ・ゴッタの経

 

15. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者カッチャーナ・ゴッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者カッチャーナ・ゴッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『正しい見解(正見)』『正しい見解』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、正しい見解と成るのですか」と。

 

 「カッチャーナよ、まさに、この世〔の人々〕は、多くのところが、二つ〔の極〕に依拠しています──まさしく、そして、存在あること(有)に、さらに、存在なきこと(無)に。カッチャーナよ、世の集起を、まさに、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者には、すなわち、世において存在なきことは、それは有りません。カッチャーナよ、世の止滅を、まさに、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者には、すなわち、世において存在あることは、それは有りません。カッチャーヤナよ、まさに、この世〔の人々〕は、多くのところが、〔渇愛と見解への〕接近と執取と固着による結縛があります。しかしながら、この者が、〔まさに〕その、〔渇愛と見解への〕接近と執取に、心の確立に、固着と悪習に、接近せず、執取せず、『わたしの自己である』と、〔心に〕確立せず、『まさしく、苦しみが、生起しつつ生起する。苦しみが、止滅しつつ止滅する』と〔あるがままに見て〕、疑わず、疑惑せず、〔もはや〕他を縁としないことから、ここにおいて、彼には、まさしく、知恵()が有ります。カッチャーナよ、このことから、まさに、正しい見解と成ります。

 

 カッチャーナよ、『一切は、存在する』という〔見解は〕、まさに、これは、一つの極です(常見)。『一切は、存在しない』という〔見解は〕、これは、第二の極です(断見)。カッチャーナよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 法の講話者の経

 

16. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『法(教え)の講話者』『法(教え)の講話者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、法(教え)の講話者と成るのですか」と。

 

 「比丘よ、もし、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、老と死の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。

 

 比丘よ、もし、生の……略……。比丘よ、もし、生存の……。比丘よ、もし、執取の……。比丘よ、もし、渇愛の……。比丘よ、もし、感受の……。比丘よ、もし、接触の……。比丘よ、もし、六つの〔認識の〕場所の……。比丘よ、もし、名前と形態の……。比丘よ、もし、識知〔作用〕の……。比丘よ、もし、諸々の形成〔作用〕の……。比丘よ、もし、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。比丘よ、もし、無明の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 無衣行者のカッサパの経

 

17. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、無衣行者のカッサパは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「わたしどもは、貴君ゴータマに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、貴君ゴータマが、わたしどもの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。

 

 「カッサパよ、まさに、まだ、問いのための時ではありません。〔わたしたちは〕町中に入ったところですから」と。再度また、まさに、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「わたしどもは、貴君ゴータマに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、貴君ゴータマが、わたしどもの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「カッサパよ、まさに、まだ、問いのための時ではありません。〔わたしたちは〕町中に入ったところですから」と。三度また、まさに、無衣行者のカッサパは……略……。〔わたしたちは〕町中に入ったところですから」と。このように説かれたとき、世尊に、無衣行者のカッサパは、こう言いました。「また、まさに、わたしどもは、貴君ゴータマに、まさしく、多くを尋ねることを欲する者たちにあらず」と。「カッサパよ、尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみはあるのですか」と。「カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、苦しみは存在しないのですか」と。「カッサパよ、まさに、苦しみは存在しないのではありません。カッサパよ、まさに、苦しみは存在します」と。「まさに、それでは、貴君ゴータマは、苦しみを知らず見ないのですか」と。「カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知らず見ないのではありません。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知ります。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを見ます」と。

 

 「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみはあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、苦しみは存在しないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、苦しみは存在しないのではありません。カッサパよ、まさに、苦しみは存在します』と、〔あなたは〕説きます。『まさに、それでは、貴君ゴータマは、苦しみを知らず見ないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知らず見ないのではありません。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを知ります。カッサパよ、まさに、わたしは、苦しみを見ます』と、〔あなたは〕説きます。尊き方よ、では、世尊は、わたしに、苦しみのことを告知したまえ。尊き方よ、では、世尊は、わたしに、苦しみのことを説示したまえ」と。

 

 「カッサパよ、『その者として、作り為し、その者として、得知する』と、まさに、最初から〔確定して〕存している者には、『自作されたものとして、苦しみはある』という〔見解があり〕、かくのごとく説いている者は、この常久〔の見解〕に陥ります。カッサパよ、『他の者として、作り為し、他の者として、得知する』と、まさに、〔最初から隔絶され〕制圧された感受が存している者には、『他作されたものとして、苦しみはある』という〔見解があり〕、かくのごとく説いている者は、この断絶〔の見解〕に陥ります。カッサパよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように……略……『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。

 

 「カッサパよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、別住を別住した者を出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望み、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、別住を別住した者を出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、別住を別住した〔わたし〕を出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。

 

 まさに、無衣行者のカッサパは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、そして、〔戒を〕成就したばかりの尊者カッサパは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、そして、尊者カッサパは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。〔以上が〕第七となる。

 

8. ティンバルカの経

 

18. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに、ティンバルカ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ティンバルカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦はあるのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません」と、世尊は言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、楽と苦は存在しないのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在しないのではありません。ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在します」と。「まさに、それでは、貴君ゴータマは、楽と苦を知らず見ないのですか」と。「ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知らず見ないのではありません。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知ります。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を見ます」と。

 

 「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、まさに、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦はあるのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、このように〔尋ねては〕いけません』と、〔あなたは〕説きます。『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、楽と苦は存在しないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在しないのではありません。ティンバルカよ、まさに、楽と苦は存在します』と、〔あなたは〕説きます。『まさに、それでは、貴君ゴータマは、楽と苦を知らず見ないのですか』と、〔問いを〕尋ねられた者として存しつつ、『ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知らず見ないのではありません。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を知ります。ティンバルカよ、まさに、わたしは、楽と苦を見ます』と、〔あなたは〕説きます。では、貴君ゴータマは、わたしに、楽と苦のことを告知したまえ。では、貴君ゴータマは、わたしに、楽と苦のことを説示したまえ」と。

 

 「ティンバルカよ、『そのものとして感受があり、その者が感受する』と、まさに、最初から〔確定して〕存している者には、『自作されたものとして、楽と苦はある』という、このような〔思い〕もまたあるとして、わたしは、〔そのようには〕説きません。ティンバルカよ、『他なるものとして感受があり、他の者が感受する』と、まさに、〔最初から隔絶され〕制圧された感受が存している者には、『他作されたものとして、楽と苦はある』という、このような〔思い〕もまたあるとして、わたしは、〔そのようには〕説きません。ティンバルカよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、ティンバルカ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者(優婆塞)として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 愚者と賢者の経

 

19. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、〔過去において〕無明の妨害があり渇愛と結び付いた愚者には、このように、生まれ来たものとして、この身体があります。かくのごとく、まさしく、そして、この身体があり、さらに、外に、名前と形態があります。ここにおいて、この二つのものがあり、二つのものを縁として、接触があり、まさしく、六つの〔接触の〕場所があります。それらに接触された、〔その〕愚者は、楽と苦を得知します──あるいは、これらのなかのどれか一つに〔接触されたなら〕。

 

 比丘たちよ、〔過去において〕無明の妨害があり渇愛と結び付いた賢者には、このように、生まれ来たものとして、この身体があります。かくのごとく、まさしく、そして、この身体があり、さらに、外に、名前と形態があります。ここにおいて、この二つのものがあり、二つのものを縁として、接触があり、まさしく、六つ〔の接触〕ある〔認識の〕場所があります。それらに接触された、〔その〕賢者は、楽と苦を得知します──あるいは、これらのなかのどれか一つに〔接触されたなら〕。

 

 比丘たちよ、そこで、愚者と賢者には、どのような差異があり、どのような格差があり、どのような多様性があるのですか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

 

 「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、そして、すなわち、〔過去において〕無明の妨害があり、さらに、すなわち、渇愛と結び付いた、〔その〕愚者には、生まれ来たものとして、この身体があり、〔その〕愚者の、まさしく、そして、その無明は〔いまだ〕捨棄されていないものとしてあり、さらに、その渇愛も〔いまだ〕完全に滅尽していないものとしてあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、愚者は、梵行を歩まなかったからです──正しく苦しみの滅尽のために。それゆえに、愚者は、身体の破壊ののち、身体を具す者と成ります。彼は、身体を具す者として〔世に〕存しつつ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、そして、すなわち、〔過去において〕無明の妨害があり、さらに、すなわち、渇愛と結び付いた、〔その〕賢者には、生まれ来たものとして、この身体があり、〔その〕賢者の、まさしく、そして、その無明は〔すでに〕捨棄されたものとしてあり、さらに、その渇愛も〔すでに〕完全に滅尽したものとしてあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、賢者は、梵行を歩んだからです──正しく苦しみの滅尽のために。それゆえに、賢者は、身体の破壊ののち、身体を具す者と成りません。彼は、身体を具すことなき者として〔世に〕存しつつ、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、愚者と賢者には、まさに、この差異があり、この格差があり、この多様性があります──すなわち、この、梵行の住が」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 縁の経

 

20. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、では、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を、そして、縁によって生起した諸々の法(性質)を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕なのですか。比丘たちよ、生という縁あることから、老と死があります。あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域()は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があり、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)があります。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。そして、『見よ』と言いました。『比丘たちよ、生という縁あることから、老と死があります』〔と〕。

 

 比丘たちよ、生存という縁あることから、生があります。……略……。比丘たちよ、執取という縁あることから、生存があります。……。比丘たちよ、渇愛という縁あることから、執取があります。……。比丘たちよ、感受という縁あることから、渇愛があります。……。比丘たちよ、接触という縁あることから、感受があります。……。比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。……。比丘たちよ、名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。……。比丘たちよ、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……。比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。あるいは、如来たちの生起あるも、あるいは、如来たちの生起なきも、その界域は、まさしく、安立し、法(性質)の安立性があり、法(性質)の決定性があり、これを縁とすることがあります。それを、如来は、現正覚し、知悉します。現正覚して、知悉して、〔他者に〕告知し、説示し、報知し、確立し、開顕し、区分し、明瞭と為します。そして、『見よ』と言いました。『比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります』〔と〕。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、そこにあっては、真実たるものとして、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、これを縁とすることがあります。比丘たちよ、これは、『縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、縁によって生起した諸々の法(性質)なのですか。比丘たちよ、老と死は、無常であり、形成されたもの(有為)であり、縁によって生起したもの(縁已生)であり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、生は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、生存は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、執取は……略……。比丘たちよ、渇愛は……。比丘たちよ、感受は……。比丘たちよ、接触は……。比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所は……。比丘たちよ、名前と形態は……。比丘たちよ、識知〔作用〕は……。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕は……。比丘たちよ、無明は、無常であり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)です。比丘たちよ、これらは、『縁によって生起した諸々の法(性質)』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、そして、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が、さらに、これらの、縁によって生起した諸々の法(性質)が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ることから、彼が、まさに、あるいは、『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』と、過去の極(前際:過去の種々相)に走り行くことになり──あるいは、『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』と、未来の極(後際:未来の種々相)に走り行くことになり──あるいは、『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴くのだろうか』と、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕有ることになる──この状況は見出されません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、まさに、そのように、聖なる弟子には、そして、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕が、さらに、これらの、縁によって生起した諸々の法(性質)が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るからです」と。〔以上が〕第十となる。

 

 食の章が第二となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「食、まさしく、そして、パッグナ、さらに、二つの沙門や婆羅門たち、カッチャーナ・ゴッタ、法(教え)の講話者、無衣行者があり、そして、ティンバルカとともに、まさしく、そして、愚者と賢者のあと、さらに、第十のものとして、縁とともに、〔章となる〕」と。

 

3. 十の力の章

 

1. 十の力の経

 

21. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、十の力を具備した如来は、そして、四つの離怖を具備した者として、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪(不滅の真理)を転起させます。『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の十の力の経

 

22. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、十の力を具備した如来は、そして、四つの離怖を具備した者として、雄牛たる境位を明言し、諸々の衆のなかで獅子吼を吼え叫び、梵の輪を転起させます。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。

 

 比丘たちよ、このように、法(教え)は、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れは切断されました。比丘たちよ、このように、法(教え)が、わたしによって見事に告げ知らされ、明瞭となり、開顕され、明示され、〔覆いの〕布切れが切断されたとき、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちとして精進に励むに、まさしく、十分なるものがあります。『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』と。

 

 比丘たちよ、怠惰の者は、苦痛のうちに〔世に〕住み、諸々の悪しき善ならざる法(性質)に犯され、そして、大いなる自らの義(目的)を遍く衰退させます。比丘たちよ、しかしながら、まさに、精進に励む者は、安楽のうちに〔世に〕住み、諸々の悪しき善ならざる法(性質)から遠離し、そして、大いなる自らの義(目的)を円満成就させます。比丘たちよ、下劣なるものによって至高のものに至り得ることは有りません。しかしながら、まさに、至高のものによって至高のものに至り得ることは有ります。比丘たちよ、この梵行は醍醐の甘露であり、教師は面前の状態にあります。比丘たちよ、それゆえに、ここに、精進に励みなさい──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために。『このように、まさに、わたしたちの、この出家は、徒労なきものと成り、果を有するものと〔成り〕、生成を有するものと〔成るのだ〕。さらに、それらの者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を、わたしたちが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、わたしたちにおいて、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、なぜなら、あるいは、自己の義(利益)を正しく見ているなら、不放逸によって〔為すべきことを〕成就させるに、まさしく、十分なるものがあるからです。比丘たちよ、なぜなら、あるいは、他者の義(利益)を正しく見ているなら、不放逸によって〔為すべきことを〕成就させるに、まさしく、十分なるものがあるからです。比丘たちよ、なぜなら、あるいは、両者の義(利益)を正しく見ているなら、不放逸によって〔為すべきことを〕成就させるに、まさしく、十分なるものがあるからです」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 機縁の経

 

23. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩()の滅尽を説きます──〔あるがままに〕知っていない者にではなく、〔あるがままに〕見ていない者にではなく。比丘たちよ、では、何を〔あるがままに〕知っている者に、何を〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有るのですか。『かくのごとく、形態があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、表象〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕があり……略……』『かくのごとく、識知〔作用〕があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、比丘たちよ、まさに、このように、〔あるがままに〕知っている者に、このように、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽が有ります。

 

 比丘たちよ、すなわち、また、彼に、〔諸々の煩悩の〕滅尽あるとき、〔まさに〕その、滅尽についての知恵があるなら、それをもまた、機縁を有するものと、〔わたしは〕説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、滅尽についての知恵の機縁なのですか。『解脱』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、解脱もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、解脱の機縁なのですか。『離貪』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、離貪もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、離貪の機縁なのですか。『厭離』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、厭離もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、厭離の機縁なのですか。『事実のとおりの知見(如実知見:あるがままに知り見ること)』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、事実のとおりの知見もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、事実のとおりの知見の機縁なのですか。『禅定(三昧)』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、禅定もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、何が、禅定の機縁なのですか。『安楽』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、安楽もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、安楽の機縁なのですか。『静息』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、静息もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、静息の機縁なのですか。『喜悦』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、喜悦もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、喜悦の機縁なのですか。『歓喜』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、歓喜もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、歓喜の機縁なのですか。『信』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、信をもまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、何が、信の機縁なのですか。『苦しみ』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、苦しみもまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、苦しみの機縁なのですか。『生』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、生もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、生の機縁なのですか。『生存』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、生存もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、生存の機縁なのですか。『執取』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、執取もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、執取の機縁なのですか。『渇愛』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、渇愛もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。

 

 比丘たちよ、では、何が、渇愛の機縁なのですか。『感受』と説かれるべきものが存在します。……略……。『接触』と説かれるべきものが存在します。……。『六つの〔認識の〕場所』と説かれるべきものが存在します。……。『名前と形態』と説かれるべきものが存在します。……。『諸々の形成〔作用〕』と説かれるべきものが存在します。比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕もまた、機縁を有するものと、わたしは説きます──機縁なきものではなく。比丘たちよ、では、何が、諸々の形成〔作用〕の機縁なのですか。『無明』と説かれるべきものが存在します。

 

 比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明を機縁とする、諸々の形成〔作用〕があり、諸々の形成〔作用〕を機縁とする、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕を機縁とする、名前と形態があり、名前と形態を機縁とする、六つの〔認識の〕場所があり、六つの〔認識の〕場所を機縁とする、接触があり、接触を機縁とする、感受があり、感受を機縁とする、渇愛があり、渇愛を機縁とする、執取があり、執取を機縁とする、生存があり、生存を機縁とする、生があり、生を機縁とする、苦しみがあり、苦しみを機縁とする、信があり、信を機縁とする、歓喜があり、歓喜を機縁とする、喜悦があり、喜悦を機縁とする、静息があり、静息を機縁とする、安楽があり、安楽を機縁とする、禅定があり、禅定を機縁とする、事実のとおりの知見があり、事実のとおりの知見を機縁とする、厭離があり、厭離を機縁とする、離貪があり、離貪を機縁とする、解脱があり、解脱を機縁とする、滅尽についての知恵があります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の上において、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、その水が向かい行くとおりに転じ行きつつ、山の渓谷や峡谷や支流を遍く満たします。山の渓谷や峡谷や支流が遍く満ちるなら、諸々の小池を遍く満たします。諸々の小池が遍く満ちるなら、諸々の大池を遍く満たします。諸々の大池が遍く満ちるなら、諸々の小川を遍く満たします。諸々の小川が遍く満ちるなら、諸々の大河を遍く満たします。諸々の大河が遍く満ちるなら、大海を遍く満たします。

 

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、無明を機縁とする、諸々の形成〔作用〕があり、諸々の形成〔作用〕を機縁とする、識知〔作用〕があり、識知〔作用〕を機縁とする、名前と形態があり、名前と形態を機縁とする、六つの〔認識の〕場所があり、六つの〔認識の〕場所を機縁とする、接触があり、接触を機縁とする、感受があり、感受を機縁とする、渇愛があり、渇愛を機縁とする、執取があり、執取を機縁とする、生存があり、生存を機縁とする、生があり、生を機縁とする、苦しみがあり、苦しみを機縁とする、信があり、信を機縁とする、歓喜があり、歓喜を機縁とする、喜悦があり、喜悦を機縁とする、静息があり、静息を機縁とする、安楽があり、安楽を機縁とする、禅定があり、禅定を機縁とする、事実のとおりの知見があり、事実のとおりの知見を機縁とする、厭離があり、厭離を機縁とする、離貪があり、離貪を機縁とする、解脱があり、解脱を機縁とする、滅尽についての知恵があります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 〔教えを〕他にする異教の者たちの経

 

24. ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為()の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知します。友よ、サーリプッタよ、また、ここに、沙門ゴータマは、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、沙門ゴータマの説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、沙門ゴータマを事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「友よ、まさに、苦しみは、世尊によって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存しています。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません」と。

 

 まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタの、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者サーリプッタの、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。サーリプッタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。アーナンダよ、まさに、苦しみは、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、ここに、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。アーナンダよ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。

 

 アーナンダよ、そこで、まさに、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、わたしに、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、こう言いました。

 

 『友よ、ゴータマよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、ゴータマよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、ゴータマよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知します。友よ、ゴータマよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知します。ここに、まさに、尊者ゴータマは、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、尊者ゴータマの説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、尊者ゴータマを事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか』と。

 

 アーナンダよ、このように説かれたとき、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、こう言いました。『友よ、まさに、苦しみは、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません』」と。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。なぜなら、そこで、まさに、一つの句によって、一切の義(意味)が説かれたものと成るからです。尊き方よ、いったい、まさに、存在するのでしょうか。詳細〔の観点〕によって説かれているなら、まさしく、そして、深遠なるものとして存在することになり、さらに、深遠なる暗示あるものとして〔存在することになる〕、まさしく、この義(意味)が」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて、〔答えが〕明白となれ」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、老と死は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、老と死は、まさに、生を因縁とし、生を集起とし、生を出生とし、生を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。

 

 尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生は、まさに、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。

 

 尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生存は、まさに、執取を因縁とし、執取を集起とし、執取を出生とし、執取を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。

 

 尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、執取は……略……。『友よ、アーナンダよ、また、渇愛は……略……。『友よ、アーナンダよ、また、感受は……略……。尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、アーナンダよ、また、接触は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、接触は、まさに、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします』と。『友よ、まさしく、しかし、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の残りなき離貪と止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ブーミジャの経

 

25. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ブーミジャは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ブーミジャは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

 

 「友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、ここに、まさに、世尊は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「友よ、まさに、楽と苦は、世尊によって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存しています。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません」と。

 

 まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタの、尊者ブーミジャを相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者サーリプッタの、尊者ブーミジャを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

 

 「アーナンダよ、善きかな、善きかな。サーリプッタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。アーナンダよ、まさに、楽と苦は、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 アーナンダよ、まさに、あるいは、身体が存しているとき、身体にたいする思欲()を因として、内に、楽と苦が生起します。アーナンダよ、まさに、あるいは、言葉が存しているとき、言葉にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します。アーナンダよ、まさに、あるいは、意が存しているとき、意にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します──そして、無明という縁あることから。

 

 アーナンダよ、あるいは、自ら、その身体の形成〔作用〕(身行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その身体の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(無意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 アーナンダよ、あるいは、自ら、その言葉の形成〔作用〕(口行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 アーナンダよ、あるいは、自ら、その意の形成〔作用〕(意行)を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

 

 アーナンダよ、これらの法(性質)においては、無明〔という縁〕が起こっているのですが、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その身体は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その言葉は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その意は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その田畑(環境)は有ることなくあり……略……その地所(基盤)は有ることなくあり……略……その場所(縁)は有ることなくあり……略……それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その事因(契機)は有ることなくあります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. ウパヴァーナの経

 

26. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ウパヴァーナが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウパヴァーナは、世尊に、こう言いました。

 

 「尊き方よ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知します。尊き方よ、ここに、まさに、世尊は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

 

 「ウパヴァーナよ、まさに、苦しみは、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

 

 ウパヴァーナよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。

 

 ウパヴァーナよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、苦しみを報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、苦しみを〕得知するであろう、という、この状況は見出されません」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 縁の経

 

27. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、感受なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。……。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、縁を覚知し、このように、縁の集起を覚知し、このように、縁の止滅を覚知し、このように、縁の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 比丘の経

 

28. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、ここに、比丘が、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。生を覚知し……略……。生存を覚知し……。執取を覚知し……。渇愛を覚知し……。感受を覚知し……。接触を覚知し……。六つの〔認識の〕場所を覚知し……。名前と形態を覚知し……。識知〔作用〕を覚知し……。諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知します。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。……。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、このように、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、このように、生を覚知し……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕の集起を……諸々の形成〔作用〕の止滅を……このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、比丘たちよ、この者は、比丘として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 沙門や婆羅門たちの経

 

29. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を遍知せず、老と死の集起を遍知せず、老と死の止滅を遍知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を遍知しないなら、生を……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を遍知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を遍知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を遍知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を遍知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を遍知し、老と死の集起を遍知し、老と死の止滅を遍知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を遍知するなら、生を遍知し……略……生存を……執取を……渇愛を……感受を……接触を……六つの〔認識の〕場所を……名前と形態を……識知〔作用〕を……諸々の形成〔作用〕を遍知し、諸々の形成〔作用〕の集起を遍知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を遍知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を遍知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の沙門や婆羅門たちの経

 

30. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、彼らが、まさに、老と死を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されません。生を覚知せず……略……。生存を……。執取を……。渇愛を……。感受を……。接触を……。六つの〔認識の〕場所を……。名前と形態を……。識知〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、彼らが、まさに、諸々の形成〔作用〕を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知し、老と死の集起を覚知し、老と死の止滅を覚知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、彼らが、まさに、老と死を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されます。生を覚知し……略……。生存を……。執取を……。渇愛を……。感受を……。接触を……。六つの〔認識の〕場所を……。名前と形態を……。識知〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を覚知し、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、彼らが、まさに、諸々の形成〔作用〕を超越して安立するであろう、という、この状況は見出されます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 十の力の章が第三となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの十の力、そして、機縁、〔教えを〕他にする異教の者たちとブーミジャ、ウパヴァーナ、縁、比丘、そして、二つの沙門や婆羅門たちがあり、〔章となる〕」と。

 

4. カラーラ・カッティヤの章

 

1. 成ったものの経

 

31. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』(スッタニパータ第五章)におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者(阿羅漢)たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者(有学)たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方(ブッダ)よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください』と。

 

 サーリプッタよ、いったい、まさに、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。……略……。再度また、尊者サーリプッタは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。「サーリプッタよ、この〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞いを、わたしに説いてください』と。

 

 サーリプッタよ、いったい、まさに、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。三度また、尊者サーリプッタは、沈黙の者と成りました。

 

 「サーリプッタよ、『これは、成ったものである』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。〔彼は〕『それは、食(動力源・エネルギー)によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。尊き方よ、このように、まさに、〔いまだ〕学びある者と成ります(有学となる)。

 

 尊き方よ、では、どのように、法(真理)を究めた者と成るのですか。尊き方よ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。〔彼は〕『それは、食(動力源・エネルギー)によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。尊き方よ、このように、まさに、法(真理)を究めた者と成ります(阿羅漢となる)。尊き方よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞いを、わたしに説いてください』と。

 

 尊き方よ、まさに、わたしは、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。〔彼は〕『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。サーリプッタよ、このように、まさに、〔いまだ〕学びある者と成ります。

 

 サーリプッタよ、では、どのように、法(真理)を究めた者と成るのですか。サーリプッタよ、〔ここに、比丘が〕『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、成ったものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。〔彼は〕『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、食によって発生あるものの、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。その食の止滅あることから、『それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、止滅の法(性質)の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。サーリプッタよ、このように、まさに、法(真理)を究めた者と成ります。サーリプッタよ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、『彼岸に至るもの』におけるアジタの問いにおいて説かれました。

 

 〔すなわち〕『そして、彼ら、法(真理)を究めた者たちが、さらに、彼ら、〔いまだ〕学びある者たちが、多くの者たちが、ここにいるのですが、敬愛なる方よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞いを、わたしに説いてください』と。

 

 サーリプッタよ、まさに、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、このように見られるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. カラーラの経

 

32. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘が、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、モーリヤ・パッグナ比丘が、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りしたのです(戒を捨てて還俗した)」と。「まさに、まちがいなく、その尊者は、この法(教え)と律において、安堵を得ませんでした」と。「まさに、それでは、尊者サーリプッタは、この法(教え)と律において、安堵に至り得たのですか」と。

 

 「友よ、まさに、わたしは疑いません」と。「友よ、また、未来のことは」と。

 

 「友よ、まさに、わたしは疑惑しません」と。

 

 そこで、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者サーリプッタによって、了知が説き明かされたのです。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。

 

 そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、サーリプッタに告げなさい。『友よ、サーリプッタよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、本当に、まさに、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「尊き方よ、まさに、これらの句によって、これらの文によって、〔その〕義(意味)が説かれたのではありません」と。「サーリプッタよ、すなわち、たとえ、どのような教相によってであれ、良家の子息が、了知を説き明かすなら、そこで、まさに、説き明かされたものは、説き明かされたものとして見られるべきです」と。「尊き方よ、わたしもまた、まちがいなく、このように説きます。『尊き方よ、まさに、これらの句によって、これらの文によって、〔その〕義(意味)が説かれたのではありません』」と。

 

 「サーリプッタよ、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。

 

 「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、その因縁あることから、生があるとします。その因縁の滅尽あることから、滅尽したものについて、「〔わたしは〕滅尽者として存している」と知るところとなります。「〔わたしは〕滅尽者として存している」と知って、「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生は、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、生存は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、生存は、執取を因縁とし、執取を集起とし、執取を出生とし、執取を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、執取は……略……。サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、渇愛は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、渇愛は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、また、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたに、すなわち、諸々の感受における愉悦〔の思い〕は、それは現起しなかったのですか』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように知っている者として、どのように見ている者として、あなたに、すなわち、諸々の感受における愉悦〔の思い〕は、それは現起しなかったのですか』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、三つのものがあります。まさに、これらの感受です。どのようなものが、三つのものなのですか。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。友よ、まさに、これらの三つの感受は、無常です。「それが、無常であるなら、それは、苦痛である」と知るところとなり、すなわち、諸々の感受における愉悦〔の思い〕は、それは現起しませんでした』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、これもまた、まさしく、この義(意味)の、簡略〔の観点〕による説き明かしのための教相となります。『それが何であれ、感受されたものは、それは、苦しみのうちにある』と。

 

 サーリプッタよ、それで、もし、〔人々が〕あなたに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように、解脱あることから、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。サーリプッタよ、このように尋ねられたなら、あなたは、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、それで、もし、〔人々が〕わたしに、このように尋ねるとします。『友よ、サーリプッタよ、また、どのように、解脱あることから、あなたによって、了知が説き明かされたのですか。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう。『友よ、まさに、わたしは、内に、解脱あることから、一切の執取の滅尽あることから、すなわち、気づきある者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が流れ出ない、そのとおりに、気づきある者として〔世に〕住み、そして、自己を見下しません』と。尊き方よ、このように尋ねられたなら、わたしは、このように説き明かすでしょう」と。

 

 「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、これもまた、まさしく、この義(意味)の、簡略〔の観点〕による説き明かしのための教相となります。『すなわち、諸々の煩悩は、それらは、わたしによって〔すでに〕捨棄された』と、沙門によって説かれましたが、わたしは、それらについて疑わず、疑惑しません」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。

 

 そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「友よ、過去において、世尊は、〔問いの意図について〕得知していないわたしに、第一の問いを尋ね、〔まさに〕その、わたしには、遅滞が有りました(返答せず沈黙していた)。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、世尊が、わたしの第一の問い〔の答え〕に随喜したことから、友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『もし、また、昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、夜のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、夜のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、二つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、二つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、三つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、三つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、四つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、四つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、五つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、五つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、六つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……この義(意味)を尋ねるなら、六つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に……略……この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、七つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、七つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう』」と。

 

 そこで、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カラーラ・カッティヤ比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者サーリプッタによって、獅子吼が吼え叫ばれました。『友よ、過去において、世尊は、〔問いの意図について〕得知していないわたしに、第一の問いを尋ね、〔まさに〕その、わたしには、遅滞が有りました。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、世尊が、わたしの第一の問い〔の答え〕に随喜したことから、友よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。「もし、また、昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう。もし、また、夜のあいだ、世尊が、わたしに……略……。もし、また、夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……。もし、また、二つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに……略……。三つの……四つの……五つの……六つの……。もし、また、七つの夜と昼のあいだ、世尊が、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、七つの夜と昼のあいだであろうが、わたしは、世尊に、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすであろう」』」と。

 

 「比丘よ、まさに、サーリプッタの、その法(真理)の界域は、善く理解されました。その法(真理)の界域が、善く理解されたことから、もし、また、昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、夜のあいだ、わたしが、サーリプッタに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、夜のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……略……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、二つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、二つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、三つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、三つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、四つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、四つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、五つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、五つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、六つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに……この義(意味)を尋ねるなら、六つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに……この義(意味)を説き明かすでしょう。もし、また、七つの夜と昼のあいだ、わたしが、サーリプッタに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を尋ねるなら、七つの夜と昼のあいだであろうが、サーリプッタは、わたしに、諸々の互いに他なる句によって、諸々の互いに他なる教相によって、この義(意味)を説き明かすでしょう」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 知恵の基盤の経

 

33. サーヴァッティーに……略……。「比丘たちよ、四十四の知恵の基盤を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、どのようなものが、四十四の知恵の基盤なのですか。老と死についての知恵であり、老と死の集起についての知恵であり、老と死の止滅についての知恵であり、老と死の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、生についての知恵であり、生の集起についての知恵であり、生の止滅についての知恵であり、生の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、生存についての知恵であり、生存の集起についての知恵であり、生存の止滅についての知恵であり、生存の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、執取についての知恵であり、執取の集起についての知恵であり、執取の止滅についての知恵であり、執取の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、渇愛についての知恵であり、渇愛の集起についての知恵であり、渇愛の止滅についての知恵であり、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、感受についての知恵であり、感受の集起についての知恵であり、感受の止滅についての知恵であり、感受の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵であり、接触についての知恵であり……略……六つの〔認識の〕場所についての知恵であり……名前と形態についての知恵であり……識知〔作用〕についての知恵であり……諸々の形成〔作用〕についての知恵であり、諸々の形成〔作用〕の集起についての知恵であり、諸々の形成〔作用〕の止滅についての知恵であり、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。比丘たちよ、これらは、四十四の知恵の基盤と説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、老と死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、これは、老と説かれます。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置は、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、比丘たちよ、これは、老と死と説かれます。

 

 生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、老と死を覚知することから、このように、老と死の集起を覚知することから、このように、老と死の止滅を覚知することから、このように、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼には、この、法(性質)についての知恵があります。彼は、この法(性質)によって──〔あるがままに〕見られ〔あるがままに〕知られた〔法〕によって、時を要さずに至り得られ深解された〔法〕によって──過去と未来についての理趣(方法・道理)を(※)導きます。

 

※ テキストには atītānāgatena ya とあるが、注釈書により atītānāgate naya と区切って読む。以下の平行箇所も同様。

 

 まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を証知したなら、老と死の集起を証知したなら、老と死の止滅を証知したなら、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を証知したなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知しました──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。

 

 まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を証知するであろうなら、老と死の集起を証知するであろうなら、老と死の止滅を証知するであろうなら、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を証知するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知するでしょう──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。かくのごとく、彼には、この、類推についての知恵があります。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの二つの知恵が、完全なる清浄にして完全なる清白と成ることから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、生存なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、執取なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、渇愛なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、感受なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、接触なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、名前と形態なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。……。比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕であり、言葉の形成〔作用〕であり、心の形成〔作用〕です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。

 

 無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の形成〔作用〕を覚知することから、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知することから、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知することから、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼には、この、法(性質)についての知恵があります。彼は、この法(性質)によって──〔あるがままに〕見られ〔あるがままに〕知られた〔法〕によって、時を要さずに至り得られ深解された〔法〕によって──過去と未来についての理趣を導きます。

 

 まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の形成〔作用〕を証知したなら、諸々の形成〔作用〕の集起を証知したなら、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知したなら、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知したなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知しました──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。

 

 まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の形成〔作用〕を証知するであろうなら、諸々の形成〔作用〕の集起を証知するであろうなら、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知するであろうなら、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように証知するでしょう──それは、すなわち、また、今現在、わたしが〔証知するように〕。彼には、この、類推についての知恵があります。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの二つの知恵が、完全なる清浄にして完全なる清白と成ることから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の知恵の基盤の経

 

34. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、七十七の知恵の基盤を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、どのようなものが、七十七の知恵の基盤なのですか。『生という縁あることから、老と死がある』と、知恵があり、『生が存していないとき、老と死は存在しない』と、知恵があり、過去の時にもまた、『生という縁あることから、老と死がある』と、知恵があり、『生が存していないとき、老と死は存在しない』と、知恵があり、未来の時にもまた、『生という縁あることから、老と死がある』と、知恵があり、『生が存していないとき、老と死は存在しない』と、知恵があり、すなわち、また、彼に、〔まさに〕その、法(性質)の止住についての知恵があるなら、『それもまた、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である』と、知恵があり──

 

 『生存という縁あることから、生がある』と、知恵があり……略……『執取という縁あることから、生存がある』と、知恵があり……『渇愛という縁あることから、執取がある』と、知恵があり……『感受という縁あることから、渇愛がある』と、知恵があり……『接触という縁あることから、感受がある』と、知恵があり……『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と、知恵があり……『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所ある』と、知恵があり……『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と、知恵があり……『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と、知恵があり……『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、知恵があり、『無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存在しない』と、知恵があり、過去の時にもまた、『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、知恵があり、『無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存在しない』と、知恵があり、未来の時にもまた、『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、知恵があり、『無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕は存在しない』と、知恵があり、すなわち、また、彼に、〔まさに〕その、法(性質)の止住についての知恵があるなら、『それもまた、滅尽の法(性質)であり、衰失の法(性質)であり、離貪の法(性質)であり、止滅の法(性質)である』と、知恵があります。比丘たちよ、これらは、『七十七の知恵の基盤』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 無明という縁の経

 

35. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、比丘よ、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある(生命と肉体は同じものである)』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある(生命と肉体は別のものである)』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『生という縁あることから、老と死がある』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、生があり、また、そして、どのような者に、この生があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、生があり、また、そして、どのような者に、この生があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、比丘よ、『他なるものとして、生があり、また、そして、他なる者に、この生がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『生存という縁あることから、生がある』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、生存があり、また、そして、どのような者に、この生存があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、生存があり、また、そして、どのような者に、この生存があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、比丘よ、『他なるものとして、生存があり、また、そして、他なる者に、この生存がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『執取という縁あることから、生存がある』」と。……略……。『渇愛という縁あることから、執取がある』」と。……。『感受という縁あることから、渇愛がある』」と。……。『接触という縁あることから、感受がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』」と。……。『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所ある』」と。……。『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』」と。

 

 「尊き方よ、いったい、まさに、どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか」と。「健全なる問いにあらず」と、世尊は言いました。「比丘よ、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、比丘よ、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、これらの形成〔作用〕がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘よ、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼の、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼の、それら〔の粉飾や術策や紛糾〕は、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼の、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、生があり、また、そして、どのような者に、この生があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、生があり、また、そして、他なる者に、この生がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼の、それら〔の粉飾や術策や紛糾〕は、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼の、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、生存があり……略……あるいは、『どのようなものとして、執取があり……あるいは、『どのようなものとして、渇愛があり……あるいは、『どのようなものとして、感受があり……あるいは、『どのようなものとして、接触があり……あるいは、『どのようなものとして、六つの〔認識の〕場所があり……あるいは、『どのようなものとして、名前と形態があり……あるいは、『どのようなものとして、識知〔作用〕があり……略……。

 

 比丘よ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼の、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、これらの形成〔作用〕がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼の、それら〔の粉飾や術策や紛糾〕は、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の無明という縁の経

 

36. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、比丘たちよ、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘たちよ、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘たちよ、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘たちよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『生という縁あることから、老と死がある』と。

 

 比丘たちよ、『どのようなものとして、生があり……略……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、生存があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、執取があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、渇愛があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、感受があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、接触があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、六つの〔認識の〕場所があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、名前と形態があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、識知〔作用〕があり……。比丘たちよ、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、比丘たちよ、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、これらの形成〔作用〕がある』と、あるいは、かくのごとく、或る者が説くなら、この二つのものは、義(意味)を一つとします──まさしく、文は、種々なるも。比丘たちよ、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘たちよ、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』と、見解が存しているとき、梵行の住は有りません。比丘たちよ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と。

 

 比丘たちよ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼の、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、老と死があり、また、そして、どのような者に、この老と死があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、老と死があり、また、そして、他なる者に、この老と死がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼の、それら〔の粉飾や術策や紛糾〕は、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります。

 

 比丘たちよ、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、すなわち、彼の、それらの粉飾や術策や紛糾は──あるいは、『どのようなものとして、生があり……略……あるいは、『どのようなものとして、生存があり……あるいは、『どのようなものとして、執取があり……あるいは、『どのようなものとして、渇愛があり……あるいは、『どのようなものとして、感受があり……あるいは、『どのようなものとして、接触があり……あるいは、『どのようなものとして、六つの〔認識の〕場所があり……あるいは、『どのようなものとして、名前と形態があり……あるいは、『どのようなものとして、識知〔作用〕があり……あるいは、『どのようなものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、どのような者に、これらの形成〔作用〕があるのですか』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、諸々の形成〔作用〕があり、また、そして、他なる者に、この諸々の形成〔作用〕がある』という〔見解も〕、あるいは、『そのものとして、生命があり、そのものとして、肉体がある』という〔見解も〕、あるいは、『他なるものとして、生命があり、他なるものとして、肉体がある』という〔見解も〕──何であれ、何であれ、彼の、それら〔の粉飾や術策や紛糾〕は、全てが〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)と成ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 「あなたたちのものではありません」の経

 

37. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、この身体は、あなたたちのものではありません。他者たちのものでもまたありません。比丘たちよ、これは、古い行為(旧業)〔が結果したもの〕であり、行作されたものとして、行思されたものとして、感受されるべきであり、見られるべきです。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 思欲の経

 

38. サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、そして、すなわち、思欲し、かつまた、すなわち、妄想し、さらに、すなわち、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住(識住)のための対象(所縁)と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、未来に、さらなる生存の発現が有ります。未来に、さらなる生存の発現が存しているとき、未来に、生があり、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、もし、思欲せず、もし、妄想せず、そこで、もし、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、未来に、さらなる生存の発現が有ります。未来に、さらなる生存の発現が存しているとき、未来に、生があり、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、思欲せず、かつまた、妄想せず、さらに、悪習とならないなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成りません。対象が存していないとき、識知〔作用〕の確立は有りません。その識知〔作用〕が、確立せず、成長しなかったとき、未来に、さらなる生存の発現は有りません。未来に、さらなる生存の発現が存していないとき、未来に、生〔の止滅〕があり、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 第二の思欲の経

 

39. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、そして、すなわち、思欲し、かつまた、すなわち、妄想し、さらに、すなわち、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、名前と形態の顕現が有ります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があり、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があり、接触という縁あることから、感受があります。……略……渇愛があります。……執取があります。……生存があります。……生があります。……老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、もし、思欲せず、もし、妄想せず、そこで、もし、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、名前と形態の顕現が有ります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、思欲せず、かつまた、妄想せず、さらに、悪習とならないなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成りません。対象が存していないとき、識知〔作用〕の確立は有りません。その識知〔作用〕が、確立せず、成長しなかったとき、名前と形態の顕現は有りません。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第三の思欲の経

 

40. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、そして、すなわち、思欲し、かつまた、すなわち、妄想し、さらに、すなわち、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、誘導が有ります。誘導が存しているとき、帰る所と赴く所が有ります。帰る所と赴く所が存しているとき、死滅と再生が有ります。死滅と再生が存しているとき、未来に、生があり、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、もし、思欲せず、もし、妄想せず、そこで、もし、悪習となるなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成ります。対象が存しているとき、識知〔作用〕の確立が有ります。その識知〔作用〕が確立し成長したものとなるとき、誘導が有ります。誘導が存しているとき、帰る所と赴く所が有ります。帰る所と赴く所が存しているとき、死滅と再生が有ります。死滅と再生が存しているとき、未来に、生があり、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、思欲せず、かつまた、妄想せず、さらに、悪習とならないなら、これは、識知〔作用〕の止住のための対象と成りません。対象が存していないとき、識知〔作用〕の確立は有りません。その識知〔作用〕が、確立せず、成長しなかったとき、誘導は有りません。誘導が存していないとき、帰る所と赴く所は有りません。帰る所と赴く所が存していないとき、死滅と再生は有りません。死滅と再生が存していないとき、未来に、生〔の止滅〕があり、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 カラーラ・カッティヤの章が第四となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「『これは、成ったものである』があり、そして、カラーラ、そして、二つの知恵の基盤、そして、二つの無明という縁、『あなたたちのものではありません』があり、三つの思欲があり、〔章となる〕」と。

 

5. 家長の章

 

1. 五つの怨念と恐怖の経

 

41. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

 

 「家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。

 

 どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)家長よ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。命あるものを殺すことから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。命あるものを殺すことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (2)家長よ、すなわち、与えられていないものを取る者は、与えられていないものを取ることを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。与えられていないものを取ることから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。与えられていないものを取ることから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (3)家長よ、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (4)家長よ、すなわち、虚偽を説く者は、虚偽を説くことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。虚偽を説くことから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。虚偽を説くことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。

 

 (5)家長よ、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。

 

 どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(1)家長よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。

 

 (2)法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。

 

 (3)僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。

 

 (4)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。

 

 では、どのようなものが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成るのですか〕。家長よ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの生起あることから、これが生起する。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。これが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ります〕。

 

 家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の五つの怨念と恐怖の経

 

42. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。

 

 どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)比丘たちよ、すなわち、命あるものを殺す者は……略……。(2)比丘たちよ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……。(3)比丘たちよ、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は……。(4)比丘たちよ、すなわち、虚偽を説く者は……。(5)比丘たちよ、すなわち、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は……略……。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。

 

 どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする……略……。(2)法(教え)にたいする……。(3)僧団にたいする……。(4)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。

 

 では、どのようなものが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。……略……。これが、彼の、聖なる正理であり、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ります〕。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、さらに、彼の、聖なる正理が、智慧によって、善く見られたものと成り、善く理解されたものと〔成ることから〕、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 苦しみの経

 

43. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、苦しみの、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕(眼識)が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの集起です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕(耳識)が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕(鼻識)が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕(舌識)が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕(身識)が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕(意識)が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの集起です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの滅至なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの滅至です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、苦しみの滅至です」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 世の経

 

44. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、では、どのようなものが、世の集起なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。比丘たちよ、これは、まさに、世の集起です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があり、感受という縁あることから、渇愛があります。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。比丘たちよ、これは、まさに、世の集起です。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、世の滅至なのですか。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、世の滅至です。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起します。三つのものの接合は、接触です。接触という縁あることから、感受があります。感受という縁あることから、渇愛があります。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、これは、まさに、世の滅至です」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. ニャーティカの経

 

45. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ニャーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、世尊は、静所に赴き静坐し、この法(教え)の教相を語りました。

 

 「かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。

 

 かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、眼の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る。

 

 かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、耳の識知〔作用〕が……略……。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、鼻の識知〔作用〕が……略……。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、舌の識知〔作用〕が……略……。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、身の識知〔作用〕が……略……。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、意の識知〔作用〕が生起する。三つのものの接合は、接触である。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る」と。

 

 また、まさに、その時点にあって、或るひとりの比丘が、世尊の〔言葉に〕聞き入り、立った状態でいます。まさに、世尊は、その比丘が、〔言葉に〕聞き入り、立っているのを見ました。見て、その比丘に、こう言いました。「比丘よ、まさに、あなたは、この法(教え)の教相を聞きましたか」と。「尊き方よ、そのとおりです(聞きました)」と。「比丘よ、まさに、あなたは、この法(教え)の教相を把握しなさい。比丘よ、あなたは、この法(教え)の教相を遍く学得しなさい。比丘よ、あなたは、この法(教え)の教相を保持しなさい。比丘よ、この法(教え)の教相は、義(道理)を伴ったものとして、初等の梵行たるものとなります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 或るひとりの婆羅門の経

 

46. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、或るひとりの婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、その者として、作り為し、その者として、得知するのですか」と。「婆羅門よ、『その者として、作り為し、その者として、得知する』とは、まさに、これは、一つの極です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、他の者として、作り為し、他の者として、得知するのですか」と。「婆羅門よ、『他の者として、作り為し、他の者として、得知する』とは、まさに、これは、第二の極です。婆羅門よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、その婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. ジャーヌッソーニの経

 

47. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、一切は存在するのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在する』とは、まさに、これは、一つの極です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は存在しないのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在しない』とは、まさに、これは、第二の極です。婆羅門よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、ジャーヌッソーニは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 順世派の経

 

48. サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、順世派(順世外道:唯物論者)の婆羅門が、世尊のおられるところに……略……。一方に坐った、まさに、順世派の婆羅門は、世尊に、こう言いました。

 

 「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、一切は存在するのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在する』とは、まさに、これは、最初の世理です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は存在しないのですか」と。「婆羅門よ、『一切は存在しない』とは、まさに、これは、第二の世理です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は一なるものですか」と。「婆羅門よ、『一切は一なるものである』とは、まさに、これは、第三の世理です」〔と〕。

 

 「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、一切は多々なるものですか」と。「婆羅門よ、『一切は多々なるものである』とは、まさに、これは、第四の世理です。

 

 婆羅門よ、如来は、これらの二つの極に、それらに近しく赴かずして、中によって、法(教え)を説示します。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります』」と。

 

 このように説かれたとき、順世派の婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 聖なる弟子の経

 

49. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存しているとき、何が有るのか。何の生起あることから、何が生起するのか。何が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、名前と形態が有るのか。何が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有るのか。何が存しているとき、接触が有るのか。何が存しているとき、感受が有るのか。何が存しているとき、渇愛が有るのか。何が存しているとき、執取が有るのか。何が存しているとき、生存が有るのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存しているとき、老と死が有るのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。諸々の形成〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕が有る。識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。名前と形態が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有る。六つの〔認識の〕場所が存しているとき、接触が有る。接触が存しているとき、感受が有る。感受が存しているとき、渇愛が有る。渇愛が存しているとき、執取が有る。執取が存しているとき、生存が有る。生存が存しているとき、生が有る。生が存しているとき、老と死が有る』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は集起する』と。

 

 比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存していないとき、何が有ることはないのか。何の止滅あることから、何が止滅するのか。何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、名前と形態が有ることはないのか。何が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはないのか。何が存していないとき、接触が有ることはないのか。何が存していないとき、感受が有ることはないのか。何が存していないとき、渇愛が有ることはないのか。何が存していないとき、執取が有ることはないのか。何が存していないとき、生存が有るのか。何が存していないとき、生が有ることはないのか。何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。諸々の形成〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。名前と形態が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはない。六つの〔認識の〕場所が存していないとき、接触が有ることはない。接触が存していないとき、感受が有ることはない。感受が存していないとき、渇愛が有ることはない。渇愛が存していないとき、執取が有ることはない。執取が存していないとき、生存が有ることはない。生存が存していないとき、生が有ることはない。生が存していないとき、老と死が有ることはない』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は止滅する』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕……略……『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 第二の聖なる弟子の経

 

50. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存しているとき、何が有るのか。何の生起あることから、何が生起するのか。何が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。何が存しているとき、名前と形態が有るのか。何が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有るのか。何が存しているとき、接触が有るのか。何が存しているとき、感受が有るのか。何が存しているとき、渇愛が有るのか。何が存しているとき、執取が有るのか。何が存しているとき、生存が有るのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存しているとき、老と死が有るのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。諸々の形成〔作用〕が存しているとき、識知〔作用〕が有る。識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。名前と形態が存しているとき、六つの〔認識の〕場所が有る。六つの〔認識の〕場所が存しているとき、接触が有る。接触が存しているとき、感受が有る。感受が存しているとき、渇愛が有る。渇愛が存しているとき、執取が有る。執取が存しているとき、生存が有る。生存が存しているとき、生が有る。生が存しているとき、老と死が有る』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は集起する』と。

 

 比丘たちよ、有聞の聖なる弟子には、このような〔思い〕が有りません。『どうなのだろう、いったい、まさに、何が存していないとき、何が有ることはないのか。何の止滅あることから、何が止滅するのか。何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何が存していないとき、名前と形態が有ることはないのか。何が存していないとき、六つの〔認識の〕場所が有ることはないのか。何が存していないとき、接触が有ることはないのか。何が存していないとき、感受が有ることはないのか。何が存していないとき、渇愛が有ることはないのか。……略……執取が……生存が……生が……何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。

 

 比丘たちよ、そこで、まさに、有聞の聖なる弟子には、他〔の教え〕を縁としないことから、ここにおいて、まさしく、知恵が有ります。『これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。無明が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない。諸々の形成〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。……略……。生が存していないとき、老と死が有ることはない』と。彼は、このように覚知します。『このように、この世は止滅する』と。

 

 比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、世の、そして、集起を、さらに、滅至を、事実のとおりに覚知することから、比丘たちよ、この者は、聖なる弟子として、『〔正しい〕見解を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『見を成就した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)に精通した者』ともまた〔説かれ〕、『この正なる法(教え)を見る』ともまた〔説かれ〕、『学びの知恵を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『学びの明知を具備した者』ともまた〔説かれ〕、『法(真理)の流れを成就した者』ともまた〔説かれ〕、『聖なる洞察の智慧ある者』ともまた〔説かれ〕、『不死の門を叩いて立つ』ともまた説かれます」と。〔以上が〕第十となる。

 

 家長の章が第五となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの五つの怨念と恐怖が説かれ、苦しみ、そして、世、ニャーティカ、或るひとりの者、そして、ジャーヌッソーニがあり、第八のものとして、順世派とともに、二つの聖なる弟子が説かれ、それによって、章と呼ばれる」と。

 

6. 苦しみの章

 

1. 遍き考察の経

 

51. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、遍く考察しつつ遍く考察するべきですか──全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、遍く考察しつつ遍く考察します。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死がある。この苦しみは、いったい、まさに、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、老と死が有るのか。何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。彼は、遍く考察しつつ、このように覚知します。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死がある。この苦しみは、まさに、生を因縁とし、生を集起とし、生を出生とし、生を起源とする。生が存しているとき、老と死が有る。生が存していないとき、老と死が有ることはない』と。

 

 彼は、そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、そして、それが、老と死の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者、老と死の滅尽のために〔実践する者〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、遍く考察しつつ遍く考察します。『また、この生は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存していないとき、生が有ることはないのか』と。彼は、遍く考察しつつ、このように覚知します。『生は、まさに、生存を因縁とし、生存を集起とし、生存を出生とし、生存を起源とする。生存が存しているとき、生が有る。生存が存していないとき、生が有ることはない』と。

 

 彼は、そして、生を覚知し、かつまた、生の集起を覚知し、かつまた、生の止滅を覚知し、そして、それが、生の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者、生の滅尽のために〔実践する者〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、遍く考察しつつ遍く考察します。『また、この生存は、いったい、まさに、何を因縁とし……略……。『また、この執取は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、この渇愛は、いったい、まさに、何を因縁とし……感受は……接触は……。『また、この六つの〔認識の〕場所は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、この名前と形態は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、この識知〔作用〕は、いったい、まさに、何を因縁とし……。『また、これらの形成〔作用〕は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、生が有るのか。何が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはないのか』と。彼は、遍く考察しつつ、このように覚知します。『諸々の形成〔作用〕は、まさに、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とする。無明が存しているとき、諸々の形成〔作用〕が有る。生存が存していないとき、諸々の形成〔作用〕が有ることはない』と。

 

 彼は、そして、諸々の形成〔作用〕を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、そして、それが、諸々の形成〔作用〕の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者、諸々の形成〔作用〕の滅尽のために〔実践する者〕』〔と〕説かれます。

 

 比丘たちよ、すなわち、無明を具した人士たる人が、もし、功徳ある形成〔作用〕(善果を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、功徳に近しく赴くものと成り、もし、功徳なき形成〔作用〕(悪果を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、功徳に近しく赴かないものと成り、もし、不動の形成〔作用〕(無色界の禅定を形成する働き)を行作するなら、識知〔作用〕は、不動に近しく赴くものと成ります。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘の、無明が捨棄されたものと成り、明知が生起したものと〔成ることから〕、彼は、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、まさしく、功徳ある行作を行作することもなく、功徳なき行作を行作することもなく、不動の行作を行作することもありません。行作せずにいながら、行思せずにいながら、世において、何であれ執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、まさしく、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦痛の感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、『それは、無常である』と覚知し、『〔わたしの〕固執するところにあらず』と覚知し、『〔わたしの〕愉悦するところにあらず』と覚知します。彼が、もし、安楽の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦痛の感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。もし、苦でもなく楽でもない感受を感受するなら、束縛を離れた者として、それを感受します。

 

 彼は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成り、諸々の肉体〔の各部〕が残るであろう』と覚知します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、陶工の窯から、熱のある瓶を取り出して、平坦な土地の部分に置くとします。そこで、すなわち、この熱は、それは、まさしく、そこにおいて、止み静まり、諸々の鉢が残るでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕身体を制限とする感受を感受する』と覚知し、生命を制限とする感受を感受しているなら、『〔わたしは〕生命を制限とする感受を感受する』と覚知し、『身体の破壊ののち、以後は、生命の消尽あることから、まさしく、ここに、一切の感受されたものは、〔わたしの〕愉悦するところにあらず、〔いずれ〕冷たく成り、諸々の肉体〔の各部〕が残るであろう』と覚知します。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、煩悩が滅尽した比丘は、あるいは、功徳ある行作を行作するでしょうか、あるいは、功徳なき行作を行作するでしょうか、あるいは、不動の行作を行作するでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、諸々の形成〔作用〕が存していないとき、諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、さて、いったい、まさに、識知〔作用〕は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、識知〔作用〕が存していないとき、識知〔作用〕の止滅あることから、さて、いったい、まさに、名前と形態は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、名前と形態が存していないとき、名前と形態の止滅あることから、さて、いったい、まさに、六つの〔認識の〕場所は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、六つの〔認識の〕場所が存していないとき、六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、さて、いったい、まさに、接触は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、接触が存していないとき、接触の止滅あることから、さて、いったい、まさに、感受は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、感受が存していないとき、感受の止滅あることから、さて、いったい、まさに、渇愛は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、渇愛が存していないとき、渇愛の止滅あることから、さて、いったい、まさに、執取は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、執取が存していないとき、執取の止滅あることから、さて、いったい、まさに、生存は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、生存が存していないとき、生存の止滅あることから、さて、いったい、まさに、生は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「また、あるいは、全てにわたり、生が存していないとき、生の止滅あることから、さて、いったい、まさに、老と死は覚知されるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、このように、このことはあります。比丘たちよ、このことは、他のようにありません。比丘たちよ、わたしのその〔言葉〕に信を置きなさい。信念しなさい。ここにおいて、疑いなき者たちと成りなさい。疑惑なき者たちと〔成りなさい〕。まさしく、これは、苦しみの終極です」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 執取の経

 

52. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、十の薪の荷車の、あるいは、二十の薪の荷車の、あるいは、三十の薪の荷車の、あるいは、四十の薪の荷車の、大いなる火の塊が燃え上がっているとします。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、まさしく、そして、諸々の乾いた草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾いた牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾いた薪を投げ入れるなら、比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる火の塊は、それを食(動力源・エネルギー)として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、燃え上がるでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、十の薪の荷車の、あるいは、二十の薪の荷車の、あるいは、三十の薪の荷車の、あるいは、四十の薪の荷車の、大いなる火の塊が燃え上がっているとします。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、まさしく、そして、諸々の乾いた草を投げ入れず、かつまた、諸々の乾いた牛糞を投げ入れず、さらに、諸々の乾いた薪を投げ入れないなら、比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる火の塊は、そして、以前の燃料の消尽あることから、さらに、他〔の燃料〕の供給なきことから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 束縛の経

 

53. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注ぎ、灯芯を設置するなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、燃え上がるでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注がず、灯芯を設置しないなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、そして、以前の燃料の消尽あることから、さらに、他〔の燃料〕の供給なきことから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 第二の束縛の経

 

54. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注ぎ、灯芯を設置するなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、燃え上がるでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、油を縁として、さらに、灯芯を縁として、油の灯明が燃えるようなものです。そこで、人が、〔その〕時〔その〕時に、油を注がず、灯芯を設置しないなら、比丘たちよ、まさに、このように、その油の灯明は、そして、以前の燃料の消尽あることから、さらに、他〔の燃料〕の供給なきことから、食なきものとなり、〔いずれ〕消え行くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 大木の経

 

55. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。彼は、その木を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。もしくは、諸々の細根や繊維ほどのものをもまた〔引き上げます〕。彼は、その木を、切れ切れに断ち切ります。切れ切れに断ち切って、切り裂きます。切り裂いて、片々と為します。片々と為して、熱風において干上がらせます。熱風において干上がらせて、火で焼きます。火で焼いて、煤(すす)と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 第二の大木の経

 

56. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。彼は、その木を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。……略……あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 若木の経

 

57. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、若木があるとして、人が、その〔若木〕のために、〔その〕時〔その〕時に、諸々の根を掃き清め、〔その〕時〔その〕時に、肥を与え、〔その〕時〔その〕時に、水を与えるとします。比丘たちよ、まさに、このように、その若木は、それを食として、それを燃料として、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起るでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、若木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。……略……あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その若木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第七となる。

 

8. 名前と形態の経

 

58. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有ります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有ります。……略……。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有りません。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。……略……未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、名前と形態の顕現が有りません。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 識知〔作用〕の経

 

59. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有ります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が……略……。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有ります。……略……。

 

 比丘たちよ、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有りません。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。……略……未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、諸々の束縛されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、識知〔作用〕の顕現が有りません。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. 因縁の経

 

60. 或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、それほどまでに、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)が、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものであるとは。そこで、また、そして、わたしには、明瞭のうえにも明瞭であるように思えます」と。

 

 「アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、まさに、このように〔言っては〕いけません。アーナンダよ、この、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕は、そして、深遠なるものであり、さらに、深遠なる暗示あるものです。アーナンダよ、この法(性質)の随覚なく理解なきことから、このように、この〔世の〕人々は、絡んだ紐の類の者たちとなり、縺れた〔糸〕玉の類の者たちとなり(※)、ムンジャ〔草〕やパッバジャ〔草〕の生類たちとなり、悪所と悪趣と堕所への輪廻を超克しません。

 

※ テキストには kulagaṇṭhikajātā とあるが、PTS版により gulāguṇṭhikajātā と読む。

 

 アーナンダよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、その〔大木〕の、まさしく、そして、それらの根が下に赴き、さらに、それら〔の根〕が横に赴くなら、それら〔の根〕の全てが、上に、滋養を運ぶでしょう。アーナンダよ、まさに、このように、その大木は、それを食として、それを燃料として、長きにわたり、長時のあいだ、止住するでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、諸々の執取されるべき法(性質)において、悦楽を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が増大します。渇愛という縁あることから、執取があります。執取という縁あることから、生存があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。

 

 アーナンダよ、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。

 

 アーナンダよ、それは、たとえば、また、大木があるとして、そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。彼は、その木を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。もしくは、諸々の細根や繊維ほどのものをもまた〔引き上げます〕。彼は、その木を、切れ切れに断ち切ります。切れ切れに断ち切って、切り裂きます。切り裂いて、片々と為します。片々と為して、熱風において干上がらせます。熱風において干上がらせて、火で焼きます。火で焼いて、煤と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、まさに、このように、その大木は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)として存するでしょう。アーナンダよ、まさしく、このように、諸々の執取されるべき法(性質)において、危険を随観する者として〔世に〕住んでいると、渇愛〔の思い〕が止滅します。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。〔以上が〕第十となる。

 

 苦しみの章が第六となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「遍き考察と燃料、そして、二つの束縛するもの、さらに、大木によって、二つのものが説かれ、そして、第七のものとして、若木とともに、さらに、名前と形態、識知〔作用〕があり、そして、因縁とともに、それらの十がある」と。

 

7. 大いなるものの章

 

1. 無聞の者の経

 

61. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。……略……。「比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる身体にたいし、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体の、集積もまた〔見え〕、滅減もまた〔見え〕、取着もまた〔見え〕、捨置もまた見えるからです。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、これは、無聞の凡夫にとって、長夜にわたり、固執されたものであり、我執されたものであり、偏執されたものであるからです。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。

 

 比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素からなる身体に、〔これを〕優れたものとして、『自己である』と、近しく赴くことがあります──まさしく、しかし、心に、ではなく。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体は、一年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、より一層のあいだでさえも止住しているものとして見えるからです。

 

 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、それは、そして、夜に、さらに、昼に、まさしく、他なるものとして、生起し、他なるものとして、止滅します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、猿が、林のなかや森のなかを歩みつつ、枝を掴み、それを解き放っては、他のものを掴み、それを解き放っては、他のものを掴むように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、それは、そして、夜に、さらに、昼に、まさしく、他なるものとして、生起し、他なるものとして、止滅します。

 

 比丘たちよ、そこで、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る。まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第一となる。

 

2. 第二の無聞の者の経

 

62. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素からなる身体にたいし、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体の、集積もまた〔見え〕、滅減もまた〔見え〕、取着もまた〔見え〕、捨置もまた見えるからです。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離することもまたあり、離貪することもまたあり、解脱することもまたあります。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、これは、無聞の凡夫にとって、長夜にわたり、固執されたものであり、我執されたものであり、偏執されたものであるからです。『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と。それゆえに、そこで、無聞の凡夫は、厭離するに十分ではなく、離貪するに十分ではなく、解脱するに十分ではありません。

 

 比丘たちよ、無聞の凡夫は、この四つの大いなる元素からなる身体に、〔これを〕優れたものとして、『自己である』と、近しく赴くことがあります──まさしく、しかし、心に、ではなく。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、この四つの大いなる元素からなる身体は、一年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、二十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、三十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、四十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、五十年のあいだでさえも止住しているものとして〔見え〕、より一層のあいだでさえも止住しているものとして見えるからです。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、『心』ともまた〔説かれ〕、『意』ともまた〔説かれ〕、『識知〔作用〕』ともまた説かれるものがあり、それは、そして、夜に、さらに、昼に、まさしく、他なるものとして、生起し、他なるものとして、止滅します。

 

 比丘たちよ、そこで、有聞の聖なる弟子は、まさしく、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕に、善くしっかりと、根源のままに意を為します。『かくのごとく、これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。かくのごとく、これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する』と。比丘たちよ、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受(楽受)が生起します。まさしく、その、安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、苦痛として感受されるべき接触を縁として、苦痛の感受(苦受)が生起します。まさしく、その、苦痛として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦痛として感受されるべき接触を縁として生起した、苦痛の感受は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)が生起します。まさしく、その、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止します。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、二つの薪の摩擦と接合あることから、熱が生まれ、火が発現するようなものです。まさしく、それらの二つの薪の別離と分散あることから、すなわち、それに応じるものである熱は、それは止滅し、それは寂止します。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、安楽として感受されるべき接触を縁として、安楽の感受が生起します。まさしく、その、安楽として感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、安楽として感受されるべき接触を縁として生起した、安楽の感受は、それは止滅し、それは寂止します。……略……。苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として、苦でもなく楽でもない感受が生起します。まさしく、その、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触の止滅あることから、すなわち、それに応じるものとして感受され、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を縁として生起した、苦でもなく楽でもない感受は、それは止滅し、それは寂止します。

 

 比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、接触にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第二となる。

 

3. 子の肉の喩えの経

 

63. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食(動力源・エネルギー)です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食:口にする食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食:知覚としての食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食:意志としての食)であり、第四に、識知〔作用としての食〕(識食:認識としての食)です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食があります。

 

 比丘たちよ、では、どのように、物質としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、妻と夫の二者が、僅かな糧食を携えて、砂漠の道を行くとします。彼らには、愛しく意に適う独り子が存するとします。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの砂漠を赴く妻と夫の二者の、その僅かな糧食の量が、それが、完全なる滅尽に〔至り〕、完全なる消尽に至ります。かつまた、彼らには、〔いまだ〕超え渡っていない残りの砂漠が存在します。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの妻と夫の二者に、このような〔思いが〕存します。『まさに、わたしたちの、その僅かな糧食の量は、それは、完全に滅尽し、完全に消尽したのだ。かつまた、この、〔いまだ〕超え渡っていない残りの砂漠が存在する。それなら、さあ、わたしたちは、この愛しく意に適う独り子を打ち殺して、そして、干し肉と〔為して〕、さらに、胡椒漬けの肉と為して、〔それらの〕子の肉を喰いながら、このように、その残りの砂漠を超え出るのだ。まさしく、三者の全てが滅び去ってはならない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、それらの妻と夫の二者は、その愛しく意に適う独り子を打ち殺して、そして、干し肉と〔為して〕、さらに、胡椒漬けの肉と為して、〔それらの〕子の肉を喰いながら、このように、その残りの砂漠を超え出ます。彼らは、まさしく、そして、〔それらの〕子の肉を喰い、さらに、胸を打ち叩きます。『独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ』と。

 

 比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、彼らは、あるいは、戯れのために、食を食したのですか、あるいは、驕りのために、食を食したのですか、あるいは、装うことのために、食を食したのですか、あるいは、飾ることのために、食を食したのですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、彼らは、砂漠を超え出ることを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、食を食したのではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『物質としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、物質としての食が遍知されたとき、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)からなる貪欲は、遍知されたものと成ります。五つの欲望の属性からなる貪欲が遍知されたとき、その束縛するものによって束縛された聖なる弟子が、ふたたびこの世に帰り来ることになる、〔まさに〕その、束縛するものは存在しません。

 

 比丘たちよ、では、どのように、接触としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、皮なしの雌牛が、もし、壁に依拠して止住しているなら、すなわち、壁に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょうし、もし、木に依拠して止住しているなら、すなわち、木に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょうし、もし、水に依拠して止住しているなら、すなわち、水に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょうし、もし、空に依拠して止住しているなら、すなわち、空に依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょう。比丘たちよ、まさに、その皮なしの雌牛が、まさしく、そのもの、そのものに依拠して止住しているなら、すなわち、それに依拠している命あるものたちは、彼らは、その〔雌牛〕を喰うでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『接触としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、接触としての食が遍知されたとき、三つの感受(三受:苦受・楽受・不苦不楽受)は、遍知されたものと成ります。三つの感受が遍知されたとき、『聖なる弟子には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、意の思欲としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、無炎にして無煙の諸々の炭に満ちた、人〔の高さ〕を優に超える、火坑があるとして、そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者を、二者の力ある人が、別々に腕を掴んで、その火坑に引きずり込みます。比丘たちよ、そこで、まさに、その人の、思欲は、遠く離れたものとして存するでしょうし、切望は、遠く離れたものとして〔存するでしょうし〕、切願は、遠く離れたものとして〔存するでしょう〕。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その人に、このような〔思いが〕有るからです。『そして、わたしは、この火坑に落ちるであろう。それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『意の思欲としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、意の思欲としての食が遍知されたとき、三つの渇愛(三愛:欲望の渇愛・生存の渇愛・非生存の渇愛)は、遍知されたものと成ります。三つの渇愛が遍知されたとき、『聖なる弟子には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、では、どのように、識知〔作用〕としての食は見られるべきですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕盗賊の犯罪者を捕捉して、王に見せるとします。『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、早刻時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、早刻時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。そこで、王は、日中時に、このように説きます。『さて、どのように、その男はある』と。『陛下よ、まさしく、そのままに、〔その男は〕生きています』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、日中時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、日中時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。そこで、王は、夕刻時に、このように説きます。『さて、どのように、その男はある』と。『陛下よ、まさしく、そのままに、〔その男は〕生きています』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、夕刻時に、百の槍で打ちなさい』と。〔まさに〕その、この者を、夕刻時に、〔人々は〕百の槍で打ちます。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、昼のあいだに、三百の槍で打たれつつ、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょうか」と。「尊き方よ、一つの槍でさえも、打たれつつあるなら、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょう。三百の槍で打たれつつあるなら、また、何の論があるというのでしょう」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、『識知〔作用〕としての食は見られるべきである』と、わたしは説きます。比丘たちよ、識知〔作用〕としての食が遍知されたとき、名前と形態は、遍知されたものと成ります。名前と形態が遍知されたとき、『聖なる弟子には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第三となる。

 

4. 「貪欲が存在する」の経

 

64. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食であり、第二に、接触〔としての食〕であり、第三に、意の思欲〔としての食〕であり、第四に、識知〔作用としての食〕です。比丘たちよ、まさに、これらの四つの、あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、食があります。

 

 比丘たちよ、もし、物質としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、染色師が、あるいは、絵師が、あるいは、染料が存しているとき、あるいは、塗料が〔存しているとき〕、あるいは、鬱金が〔存しているとき〕、あるいは、藍が〔存しているとき〕、あるいは、緋が〔存しているとき〕、あるいは、完全無欠に磨かれた延べ板のうえに、あるいは、壁のうえに、あるいは、布板のうえに、全ての手足と肢体ある、あるいは、女の形姿を、あるいは、男の形姿を、化作するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、物質としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕としての食において、貪欲が存在し、愉悦が存在し、渇愛が存在するなら、そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立し成長したものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現が存在します。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在するなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在します。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在するなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在します。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在するなら、そこにおいて、未来に、老と死が存在します。そこにおいて、未来に、老と死が存在するなら、比丘たちよ、『それは、憂いを有し、懊悩を有し、葛藤を有するものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、物質としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら、そこにおいて、識知〔作用〕は確立せず成長しないものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立せず成長しないものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現は存在しません。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在しないなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大は存在しません。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在しないなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現は存在しません。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在しないなら、そこにおいて、未来に、老と死は存在しません。そこにおいて、未来に、老と死が存在しないなら、比丘たちよ、『それは、憂いなく、懊悩なく、葛藤なきものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら、そこにおいて、識知〔作用〕は確立せず成長しないものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立せず成長しないものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現は存在しません。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在しないなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大は存在しません。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在しないなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現は存在しません。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在しないなら、そこにおいて、未来に、老と死は存在しません。そこにおいて、未来に、老と死が存在しないなら、比丘たちよ、『それは、憂いなく、懊悩なく、葛藤なきものである』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、楼閣に、あるいは、楼閣堂に、あるいは、北の、あるいは、南の、あるいは、東の、窓から、太陽が昇りつつあるとき、光は、窓から入って〔そののち〕、どこに止住し、存在することになりますか」と。「尊き方よ、西の壁において」と。「比丘たちよ、もし、西の壁が存在しないなら、どこに止住し、存在することになりますか」と。「尊き方よ、地において」と。「比丘たちよ、もし、地が存在しないなら、どこに止住し、存在することになりますか」と。「尊き方よ、水において」と。「比丘たちよ、もし、水が存在しないなら、どこに止住し、存在することになりますか」と。「尊き方よ、〔もはや〕止住することなくあります」と。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、もし、物質としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら……略……。

 

 比丘たちよ、もし、接触としての食において……略……。比丘たちよ、もし、意の思欲としての食において……。比丘たちよ、もし、識知〔作用〕としての食において、貪欲が存在せず、愉悦が存在せず、渇愛が存在しないなら、そこにおいて、識知〔作用〕は確立せず成長しないものとなります。そこにおいて、識知〔作用〕が確立せず成長しないものとなるなら、そこにおいて、名前と形態の顕現は存在しません。そこにおいて、名前と形態の顕現が存在しないなら、そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大は存在しません。そこにおいて、諸々の形成〔作用〕の増大が存在しないなら、そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現は存在しません。そこにおいて、未来に、さらなる生存の発現が存在しないなら、そこにおいて、未来に、老と死は存在しません。そこにおいて、未来に、老と死が存在しないなら、比丘たちよ、『それは、憂いなく、懊悩なく、葛藤なきものである』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第四となる。

 

5. 城市の経

 

65. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。「比丘たちよ、正覚より、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、この世〔の人々〕は、苦難を(※)惹起している。そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生する。そこで、また、さらに、この、苦しみの、老と死の、出離を覚知しない。いったい、いつ、まさに、この、苦しみの、老と死の、出離が覚知されるのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、老と死が有るのか。どのような縁あることから、老と死があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存しているとき、老と死が有る。生という縁あることから、老と死がある』と。

 

※ テキストには kicchā とあるが、PTS版により kiccha と読む。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、生が有るのか。……略……生存が有るのか。……執取が有るのか。……渇愛が有るのか。……感受が有るのか。……接触が有るのか。……六つの〔認識の〕場所が有るのか。……名前と形態が有るのか。どのような縁あることから、名前と形態があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存しているとき、名前と形態が有る。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存しているとき、識知〔作用〕が有るのか。どのような縁あることから、識知〔作用〕があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存しているとき、識知〔作用〕が有る。名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、この識知〔作用〕は、名前と形態から反転し、他に赴かない。このかぎりにおいて、あるいは、生まれることになり、あるいは、老いることになり、あるいは、死ぬことになり、あるいは、死滅することになり、あるいは、再生することになる。すなわち、この、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有る』と。比丘たちよ、『集起』『集起』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、老と死が有ることはないのか。何の止滅あることから、老と死の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、生が存していないとき、老と死が有ることはない。生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、生が有ることがないのか。……略……生存が有ることがないのか。……執取が有ることがないのか。……渇愛が有ることがないのか。……感受が有ることがないのか。……接触が有ることがないのか。……六つの〔認識の〕場所が有ることがないのか。……名前と形態が有ることはないのか。何の止滅あることから、名前と形態の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、識知〔作用〕が存していないとき、名前と形態が有ることはない。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはないのか。何の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があるのか』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、根源のままに意を為すことから、智慧による知悉が有りました。『まさに、名前と形態が存していないとき、識知〔作用〕が有ることはない。名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と。

 

 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしによって、この、覚りのための道が到達するところとなった。すなわち、この、名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』と。比丘たちよ、『止滅』『止滅』と、まさに、わたしに、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、林のなかや森のなかを歩みつつ、過去の道を、往古の人間たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕を、見るとします。その〔道〕に、彼は従い行きます。その〔道〕に従い行きつつ、過去の城市を、往古の人間たちが居住した過去の王都を──林園が完備され、林野が完備され、蓮池が完備され、土塁がある、喜ばしき〔城市〕を──見ます。比丘たちよ、そこで、まさに、その人は、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、告げます。『尊き方よ、どうか、お知りください。わたしは、林のなかや森のなかを歩みつつ、過去の道を、往古の人間たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕を、見ました。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、過去の城市を、往古の人間たちが居住した過去の王都を──林園が完備され、林野が完備され、蓮池が完備され、土塁がある、喜ばしき〔城市〕を──見ました。尊き方よ、その城市を造作したまえ(復興したまえ)』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その、あるいは、王は、あるいは、王の大臣は、その城市を造作します。その城市は、他時にあって、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる、増大と広大に至り得た〔城市〕として存するでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、過去の道を、往古の正等覚者たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕を、見ました。

 

 比丘たちよ、では、どのようなものが、その、過去の道であり、往古の正等覚者たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。比丘たちよ、これは、まさに、その、過去の道であり、往古の正等覚者たちが辿った過去の曲がりなき〔道〕です。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、老と死を証知し、老と死の集起を証知し、老と死の止滅を証知し、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を証知しました。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、生を証知し……略……生存を証知し……執取を証知し……渇愛を証知し……感受を証知し……接触を証知し……六つの〔認識の〕場所を証知し……名前と形態を証知し……識知〔作用〕を証知し……。その〔道〕に、〔わたしは〕従い行きました。その〔道〕に従い行きつつ、諸々の形成〔作用〕を証知し、諸々の形成〔作用〕の集起を証知し、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知し、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知しました。それを、証知して〔そののち〕、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちに告げ知らせました。比丘たちよ、〔まさに〕その、この梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったのです」と。〔以上が〕第五となる。

 

6. 触知の経

 

66. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、内なる触知を触知しますか」と。このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、内なる触知を触知します」と。「比丘よ、また、すなわち、どのように、あなたは、内なる触知を触知しますか」と。そこで、まさに、その比丘は説き明かしました。すなわち、その比丘が説き明かしたところ、その比丘は、世尊の心を喜ばせませんでした。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、内なる触知を語るなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

 

 「比丘たちよ、ここに、比丘が、内なる触知を触知しつつ触知します。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死がある。この苦しみは、まさに、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、老と死が有るのか。何が存していないとき、老と死が有ることはないのか』と。彼は、触知しつつ、このように知ります。『すなわち、まさに、この、無数なる種類にして種々なる流儀の苦しみが世に生起し、老と死がある。この苦しみは、まさに、〔生存の〕依り所を因縁とし、〔生存の〕依り所を集起とし、〔生存の〕依り所を出生とし、〔生存の〕依り所を起源とする。〔生存の〕依り所が存しているとき、老と死が有る。〔生存の〕依り所が存していないとき、老と死が有ることはない』と。彼は、そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、そして、それが、老と死の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者であり、老と死の滅尽のために〔実践する者である〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、内なる触知を触知しつつ触知します。『また、この〔生存の〕依り所は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのか。何が存しているとき、〔生存の〕依り所が有るのか。何が存していないとき、〔生存の〕依り所が有ることはないのか』と。彼は、触知しつつ、このように知ります。『〔生存の〕依り所は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とする。渇愛が存しているとき、〔生存の〕依り所が有る。渇愛が存していないとき、〔生存の〕依り所が有ることはない』と。彼は、そして、〔生存の〕依り所を覚知し、かつまた、〔生存の〕依り所の集起を覚知し、かつまた、〔生存の〕依り所の止滅を覚知し、そして、それが、依り所の止滅に適切に至る〔実践の〕道であるなら、そして、それを覚知し、さらに、そのとおりに実践する者として、法(教え)のままに歩む者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、全てにわたり、正しく苦しみの滅尽のために実践する者であり、〔生存の〕依り所の滅尽のために〔実践する者である〕』〔と〕説かれます。

 

 そこで、他にも、内なる触知を触知しつつ触知します。『また、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのか』と。彼は、触知しつつ、このように知ります。『それが、まさに、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるのか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する。耳は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……略……。鼻は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……。舌は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……。身は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態である。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着する』〔と〕。

 

 比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見たなら、安楽〔の観点〕から見たなら、自己〔の観点〕から見たなら、無病〔の観点〕から見たなら、平安〔の観点〕から見たなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させました。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させたなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させました。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させたなら、彼らは、苦しみを増大させました。彼らが、苦しみを増大させたなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれませんでした。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれなかった』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見るであろうなら、安楽〔の観点〕から見るであろうなら、自己〔の観点〕から見るであろうなら、無病〔の観点〕から見るであろうなら、平安〔の観点〕から見るであろうなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させるでしょう。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させるであろうなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させるでしょう。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させるであろうなら、彼らは、苦しみを増大させるでしょう。彼らが、苦しみを増大させるであろうなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれないでしょう。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれないであろう』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見るなら、安楽〔の観点〕から見るなら、自己〔の観点〕から見るなら、無病〔の観点〕から見るなら、平安〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させます。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させるなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させます。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させるなら、彼らは、苦しみを増大させます。彼らが、苦しみを増大させるなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適する銅杯があるとします。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっています。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、おまえに、この、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適する銅杯がある。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっている。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、おまえを喜ばせるであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。彼は、その飲むに適する銅杯を、即座に、審慮せずして飲み、放棄しません。彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態あるものであり……略……未来の時に……略……今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、常住〔の観点〕から見るなら、安楽〔の観点〕から見るなら、自己〔の観点〕から見るなら、無病〔の観点〕から見るなら、平安〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を増大させます。彼らが、渇愛〔の思い〕を増大させるなら、彼らは、〔生存の〕依り所を増大させます。彼らが、〔生存の〕依り所を増大させるなら、彼らは、苦しみを増大させます。彼らが、苦しみを増大させるなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見たなら、苦痛〔の観点〕から見たなら、無我〔の観点〕から見たなら、病〔の観点〕から見たなら、恐怖〔の観点〕から見たなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄しました。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄したなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄しました。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄したなら、彼らは、苦しみを捨棄しました。彼らが、苦しみを捨棄したなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれました。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれた』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見るであろうなら、苦痛〔の観点〕から見るであろうなら、無我〔の観点〕から見るであろうなら、病〔の観点〕から見るであろうなら、恐怖〔の観点〕から見るであろうなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄するでしょう。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄するであろうなら……略……。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれるであろう』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見るなら、苦痛〔の観点〕から見るなら、無我〔の観点〕から見るなら、病〔の観点〕から見るなら、恐怖〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄します。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄するなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄します。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄するなら、彼らは、苦しみを捨棄します。彼らが、苦しみを捨棄するなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、それは、たとえば、また、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適する銅杯があるとします。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっています。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、おまえに、この、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適する銅杯がある。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっている。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、おまえを喜ばせるであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、それを因縁として、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その人に、このような〔思いが〕存します。『まさに、わたしの、この酒への渇きは、あるいは、飲用水によって取り除くことが、あるいは、乳酪や醍醐によって取り除くことが、あるいは、塩気ある食事によって取り除くことが、あるいは、塩粥によって取り除くことが、できる。まさしく、かくのごとく、わたしが、その〔毒〕を飲まないなら、それは、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するであろう』と。彼は、その飲むに適する銅杯を、審慮して〔そののち〕飲まず、放棄します。彼は、それを因縁として、あるいは、死に遭遇しないでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇しないでしょう〕。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見たなら、苦痛〔の観点〕から見たなら、無我〔の観点〕から見たなら、病〔の観点〕から見たなら、恐怖〔の観点〕から見たなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄しました。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄したなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄しました。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄したなら、彼らは、苦しみを捨棄しました。彼らが、苦しみを捨棄したなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれました。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれた』と、〔わたしは〕説きます。

 

 比丘たちよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に……略……今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるとして、それを、無常〔の観点〕から見るなら、苦痛〔の観点〕から見るなら、無我〔の観点〕から見るなら、病〔の観点〕から見るなら、恐怖〔の観点〕から見るなら、彼らは、渇愛〔の思い〕を捨棄します。彼らが、渇愛〔の思い〕を捨棄するなら、彼らは、〔生存の〕依り所を捨棄します。彼らが、〔生存の〕依り所を捨棄するなら、彼らは、苦しみを捨棄します。彼らが、苦しみを捨棄するなら、彼らは、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれます。『〔彼らは〕苦しみから完全に解き放たれる』と、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第六となる。

 

7. 葦の束の経

 

67. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者マハー・コッティカは、バーラーナシー(波羅奈)に住んでおられます。イシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、老と死はあるのですか、他作されたものとして、老と死はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、老と死はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、老と死はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、老と死があることはなく、他作されたものとして、老と死があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、老と死があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、老と死があることもまたありません。しかしながら、また、生という縁あることから、老と死があります」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、生はあるのですか、他作されたものとして、生はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、生はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、生はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、生があることはなく、他作されたものとして、生があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、生があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、生があることもまたありません。しかしながら、また、生存という縁あることから、生があります」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、生存はあるのですか……略……自作されたものとして、執取はあるのですか……自作されたものとして、渇愛はあるのですか……自作されたものとして、感受はあるのですか……自作されたものとして、接触はあるのですか……自作されたものとして、六つの〔認識の〕場所はあるのですか……自作されたものとして、名前と形態はあるのですか、他作されたものとして、名前と形態はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、名前と形態はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、名前と形態はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、名前と形態があることはなく、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、名前と形態があることもまたありません。しかしながら、また、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります」と。

 

 「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、自作されたものとして、識知〔作用〕はあるのですか、他作されたものとして、識知〔作用〕はあるのですか、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、識知〔作用〕はあるのですか、それとも、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、識知〔作用〕はあるのですか」と。「友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、識知〔作用〕があることもまたありません。しかしながら、また、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があります」と。

 

 「まさしく、今や、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように知ります。『友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、名前と形態があることはなく、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、名前と形態があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、名前と形態があることもまたありません。しかしながら、また、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります』と。

 

 また、そして、まさしく、今や、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように知ります。『友よ、コッティカよ、まさに、自作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、識知〔作用〕があることはなく、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、識知〔作用〕があることもまたありません。しかしながら、また、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があります』と。

 

 友よ、サーリプッタよ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。「友よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します(※)。友よ、それは、たとえば、また、二つの葦の束が、互いに他に依拠して立つようなものです。友よ、まさしく、このように、まさに、名前と形態という縁あることから、識知〔作用〕があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。友よ、もし、それらの葦の束の一つを引き抜くなら、一つは倒れ落ちるでしょう。もし、他のものを引き抜くなら、他のものは倒れ落ちるでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。……略……。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります」と。「友よ、サーリプッタよ、めったにないことです。友よ、サーリプッタよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、尊者サーリプッタによって、これほどまでに、見事に語られたのは。また、そして、わたしたちは、この、尊者サーリプッタの語ったことを、これらの三十六の基盤によって随喜します。友よ、もし、比丘が、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、老と死の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、生の……生存の……執取の……渇愛の……感受の……接触の……六つの〔認識の〕場所の……名前と形態の……識知〔作用〕の……諸々の形成〔作用〕の……無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、法(教え)を説示するなら、〔それだけで〕『法(教え)の講話者たる比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成るなら、〔それだけで〕『法(教え)を法(教え)のままに実践する比丘』という言葉たるに十分なるものがあります。友よ、もし、比丘が、無明の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、〔何も〕執取せずして解脱した者と成るなら、〔それだけで〕『所見の法(現世)において涅槃に至り得た比丘』という言葉たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。

 

※ テキストには jānanti とあるが、PTS版により ājānanti と読む。

 

8. コーサンビーの経

 

68. 或る時のことです。かつまた、尊者ムシラは、かつまた、尊者パヴィッタは、かつまた、尊者ナーラダは、かつまた、尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者パヴィッタは、尊者ムシラに、こう言いました。「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞(伝聞)より他に、行相による思索(考証)より他に、見解の納得による受認(受諾)より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生という縁あることから、老と死がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存という縁あることから、生がある』」と。……略……。『執取という縁あることから、生存がある』」と。……。『渇愛という縁あることから、執取がある』」と。……。『感受という縁あることから、渇愛がある』」と。……。『接触という縁あることから、感受がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』」と。……。『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』」と。……。『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』」と。……。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。……略……。『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』」と。……。『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』」と。……。『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』」と。……。『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』」と。……。『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』」と。……。『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』」と。……。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。

 

 「まさに、それでは、尊者ムシラは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢なのですか」と。このように説かれたとき、尊者ムシラは、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、尊者ナーラダは、尊者パヴィッタに、こう言いました。「友よ、パヴィッタよ、どうか、わたしが、この問いを得られますように。わたしに、この問いを尋ねたまえ。わたしが、あなたに、この問いを説き明かしましょう」と。「尊者ナーラダは、この問いを得ます。わたしは、尊者ナーラダに、この問いを尋ねます。では、尊者ナーラダは、わたしに、この問いを説き明かしたまえ」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生という縁あることから、老と死がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存という縁あることから、生がある』」と。……略……。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。……略……。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。

 

 「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。

 

 「まさに、それでは、尊者ナーラダは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢なのですか」と。「友よ、『生存の止滅があり、涅槃がある』と、まさに、わたしによって、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。しかしながら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として、〔わたしは〕存していません。友よ、それは、たとえば、また、砂漠の道に井戸があるとします。そこにあっては、縄も、水瓶も、まさしく、存在しません。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。彼は、その井戸を眺め見ます。まさに、彼には、『水がある』と、まさに、知恵(知ること)が存在します。しかしながら、身体によって接触して住むことはないでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、『生存の止滅があり、涅槃がある』と、まさに、わたしによって、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。しかしながら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として、〔わたしは〕存していません」と。

 

 このように説かれたとき、尊者アーナンダは、尊者パヴィッタに、こう言いました。「友よ、パヴィッタよ、このように説く者であるなら、あなたは、尊者ナーラダのことを、何と説きますか」と。「友よ、アーナンダよ、このように説く者であるなら、わたしは、尊者ナーラダのことを、健全なることより他に、善巧なることより他に、何であれ、説くことはありません」と。〔以上が〕第八となる。

 

9. 「上り行く」の経

 

69. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに……略……。「比丘たちよ、上り行きつつある大海〔の水〕は、諸々の大河〔の水〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の大河〔の水〕は、諸々の小川〔の水〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の小川〔の水〕は、諸々の大池〔の水〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の大池〔の水〕は、諸々の小池〔の水〕を上り行かせます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、上り行きつつある無明は、諸々の形成〔作用〕を上り行かせます。上り行きつつある諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕を上り行かせます。上り行きつつある識知〔作用〕は、名前と形態を上り行かせます。上り行きつつある名前と形態は、六つの〔認識の〕場所を上り行かせます。上り行きつつある六つの〔認識の〕場所は、接触を上り行かせます。上り行きつつある接触は、感受を上り行かせます。上り行きつつある感受は、渇愛を上り行かせます。上り行きつつある渇愛は、執取を上り行かせます。上り行きつつある執取は、生存を上り行かせます。上り行きつつある生存は、生を上り行かせます。上り行きつつある生は、老と死を上り行かせます。

 

 比丘たちよ、下り行きつつある大海〔の水〕は、諸々の大河〔の水〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の大河〔の水〕は、諸々の小川〔の水〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の小川〔の水〕は、諸々の大池〔の水〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の大池〔の水〕は、諸々の小池〔の水〕を下り行かせます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、下り行きつつある無明は、諸々の形成〔作用〕を下り行かせます。下り行きつつある諸々の形成〔作用〕は、識知〔作用〕を下り行かせます。下り行きつつある識知〔作用〕は、名前と形態を下り行かせます。下り行きつつある名前と形態は、六つの〔認識の〕場所を下り行かせます。下り行きつつある六つの〔認識の〕場所は、接触を下り行かせます。下り行きつつある接触は、感受を下り行かせます。下り行きつつある感受は、渇愛を下り行かせます。下り行きつつある渇愛は、執取を下り行かせます。下り行きつつある執取は、生存を下り行かせます。下り行きつつある生存は、生を下り行かせます。下り行きつつある生は、老と死を下り行かせます」と。〔以上が〕第九となる。

 

10. スシマの経

 

70. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、世尊は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕有ります。比丘の僧団もまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。いっぽう、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。

 

 また、まさに、その時点にあって、スシマ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、ラージャガハに滞在しています。そこで、まさに、スシマ遍歴遊行者の衆は、スシマ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、スシマよ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのもとで梵行を歩みたまえ。あなたは、法(教え)を遍く学得して、わたしたちに教授するのです。わたしたちは、その法(教え)を遍く学得して、在家者たちに語りましょう。このように、わたしたちもまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちとして〔世に〕有るでしょう」と。「友よ、わかりました」と、スシマ遍歴遊行者は、自らの衆に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、スシマ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます」と。

 

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、スシマ遍歴遊行者を携えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、スシマ遍歴遊行者は、このように言いました。『友よ、アーナンダよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、スシマを出家させなさい」と。まさに、スシマ遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。

 

 また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされるところと成ります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。まさに、尊者スシマは、「どうやら、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたらしい。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と耳にしました。そこで、まさに、尊者スシマは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者スシマは、それらの比丘たちに、こう言いました。「本当に、まさに、尊者たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「友よ、そのとおりです」と。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現しますか。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りますか。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成りますか。明現状態と〔成りますか〕。超没状態と〔成りますか〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きますか──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為しますか──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きますか──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きますか──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわしますか。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きますか──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しますか。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知しますか。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知しますか。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知しますか。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知しますか。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知しますか。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知しますか。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知しますか。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知しますか。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知しますか。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知しますか。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知しますか。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知しますか。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、無数〔の流儀〕に関した過去における居住(過去世)を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みますか──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「尊者たちよ、ここにおいて、今や、かつまた、この〔了知の〕説き明かしがあり、かつまた、これらの法(性質)への入定なき〔状態〕があります。友よ、これは、まさに、どのようにあるのですか」と。「友よ、スシマよ、まさに、智慧による解脱者たちとして、わたしたちはあります」と。

 

 「まさに、わたしは、尊者たちの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。尊者たちは、どうか、わたしに、すなわち、尊者たちの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、わたしが了知できるように、そのように語ってください」と。「友よ、スシマよ、あるいは、あなたが了知するとして、あるいは、あなたが了知しないとして、そこで、まさに、智慧による解脱者たちとして、わたしたちはあります」と。

 

 そこで、まさに、尊者スシマは、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者スシマは、すなわち、それらの比丘たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。「スシマよ、まさに、前に、法(性質)の止住の知恵があり、後に、涅槃についての知恵があります」と。

 

 「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。世尊は、どうか、わたしに、すなわち、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、わたしが了知できるように、そのように語ってください」と。「スシマよ、あるいは、あなたが了知するとして、あるいは、あなたが了知しないとして、そこで、まさに、前に、法(性質)の止住の知恵があり、後に、涅槃についての知恵があります。

 

 スシマよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「表象〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の形成〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の感受〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形成〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。

 

 スシマよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

 

 スシマよ、『生という縁あることから、老と死がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「スシマよ、『生存という縁あることから、生がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『執取という縁あることから、生存がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『渇愛という縁あることから、執取がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『感受という縁あることから、渇愛がある』と……『接触という縁あることから、感受がある』と……『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と……『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所ある』と……『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と……『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と……『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「スシマよ、『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「スシマよ、『生存の止滅あることから、生の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』と……『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』と……『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』と……『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』と……『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』と……『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』と……『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と……『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と……『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現しますか。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りますか。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成りますか。明現状態と〔成りますか〕。超没状態と〔成りますか〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きますか──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為しますか──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きますか──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きますか──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわしますか。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きますか──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しますか。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知しますか。……略……。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知しますか。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みますか──すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。

 

 「スシマよ、ここにおいて、今や、かつまた、この〔了知の〕説き明かしがあり、かつまた、これらの法(性質)への入定なき〔状態〕があります。スシマよ、これは、まさに、どのようにあるのですか」と。

 

 そこで、まさに、尊者スシマは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者として出家したのです。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。

 

 「スシマよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者として出家したのです。スシマよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕盗賊の犯罪者を捕捉して、王に見せるとします。『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切りなさい』と。〔まさに〕その、この者を、王の家来たちは、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切るでしょう。スシマよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。

 

 「スシマよ、すなわち、まさに、その人が、それを因縁として、苦痛と失意を得知するとして、すなわち、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者の出家であるなら、この〔出家〕は、それよりも、そして、より苦痛なる報い(異熟)あるものとなり、かつまた、より辛辣なる報いあるものとなり、さらに、また、堕所〔への再生〕のために等しく転起します。スシマよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。スシマよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、そして、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。〔以上が〕第十となる。

 

 大いなるものの章が第七となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「二つの無聞の者が説かれ、そして、他に、子の肉とともに、さらに、『貪欲が存在する』があり、城市、触知、葦の束、コーサンビー、そして、『上り行く』があり、さらに、第十のものとして、スシマとともに、〔章となる〕」と。

 

8. 沙門や婆羅門たちの章

 

1. 老と死の経

 

71. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は……略……。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知せず、老と死の集起を覚知せず、老と死の止滅を覚知せず、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、あるいは、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちでも、あるいは、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちでも、ありません。また、そして、それらの尊者たちは、あるいは、沙門の資質の義(目的)を、あるいは、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みません。

 

 比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、老と死を覚知し……略……老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知するなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの、あるいは、沙門たちは、あるいは、婆羅門たちは、まさしく、そして、沙門たちのなかで沙門として等しく思認される者たちであり、さらに、婆羅門たちのなかで婆羅門として等しく思認される者たちです。また、そして、それらの尊者たちは、そして、沙門の資質の義(目的)を、さらに、婆羅門の資質の義(目的)を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。(〔以上が〕一つの経典となる。)〔以上が〕第一となる。

 

2-11. 生の経等の十なるもの

 

72. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……(2)生を覚知せず……略……。

 

 (3)生存を覚知せず……略……。

 

 (4)執取を覚知せず……略……。

 

 (5)渇愛を覚知せず……略……。

 

 (6)感受を覚知せず……略……。

 

 (7)接触を覚知せず……略……。

 

 (8)六つの〔認識の〕場所を覚知せず……略……。

 

 (9)名前と形態を覚知せず……略……。

 

 (10)識知〔作用〕を覚知せず……略……。

 

 (11)諸々の形成〔作用〕を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知せず、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知しないなら……略……諸々の形成〔作用〕を覚知し……略……実証して、成就して、〔世に〕住みます」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 沙門や婆羅門たちの章が第八となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「四つの真理の区分あるものとして、十一の縁が説かれ、沙門や婆羅門たちの章が、因縁〔に相応するもの〕における第八のものとして有る」と。

 

 章の摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「生存、食、十の力、カラーラ、第五のものとして、家長、苦しみの章、大いなるものの章、第八のものとして、沙門や婆羅門たちがある」と。

 

9. 中略〔の経典〕

 

1. 教師の経

 

73. サーヴァッティーに住んでおられます。……略……。(1-1)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。老と死の集起を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死の集起について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。老と死の止滅を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死の止滅について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。老と死の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死の止滅に至る〔実践の〕道について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです」と。(〔以上が〕一つの経典となる。)〔以上が〕第一となる。

 

 (〔以下の〕全てのものの省略が、このように詳知されるべきである。)

 

2-11. 第二の教師の経等の十なるもの

 

 (1-2)「比丘たちよ、生を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-3)「比丘たちよ、生存を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-4)「比丘たちよ、執取を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-5)「比丘たちよ、渇愛を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-6)「比丘たちよ、感受を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-7)「比丘たちよ、接触を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-8)「比丘たちよ、六つの〔認識の〕場所を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-9)「比丘たちよ、名前と形態を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-10)「比丘たちよ、識知〔作用〕を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……。

 

 (1-11)「比丘たちよ、諸々の形成〔作用〕を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。諸々の形成〔作用〕の集起を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕の集起について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。諸々の形成〔作用〕の止滅を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕の止滅について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです。諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道について、事実のとおりに知恵あるために、教師が遍く探し求められるべきです」と。〔以上が〕第十一となる。

 

 (全てのものに、四つの真理あるものが為されるべきである。)

 

2-12. 学びの経等の省略あるものの十なるもの

 

 (2)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって、老と死について、事実のとおりに知恵あるために、学びが為されるべきです。……略……。

 

 (省略。四つの真理あるものが為されるべきである。)

 

 (3)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……〔心の〕制止(瑜伽)が為されるべきです。……略……。

 

 (4)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……欲〔の思い〕(意欲)が為されるべきです。……略……。

 

 (5)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……勤勇が為されるべきです。……略……。

 

 (6)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……反転なき〔精励〕が為されるべきです。……略……。

 

 (7)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……熱勤が為されるべきです。……略……。

 

 (8)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……精進が為されるべきです。……略……。

 

 (9)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……堅忍が為されるべきです。……略……。

 

 (10)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……気づき()が為されるべきです。……略……。

 

 (11)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……正知が為されるべきです。……略……。

 

 (12)「比丘たちよ、老と死を、事実のとおりに知らず見ていない者によって……略……不放逸が為されるべきです。……略……。

 

 中略〔の経典〕が第九となる。

 

 その〔章〕のための摂頌となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「教師、そして、学び、そして、〔心の〕制止、欲〔の思い〕、第五のものとして、勤勇、反転なき〔精励〕、熱勤、精進、堅忍が説かれ、そして、気づき、さらに、正知があり、不放逸とともに、〔それらの〕十二がある」と。

 

 中略の経典は〔以上で〕終了となる。

 

 〔そこで、詩偈に言う〕「他に、それらの十二があり、〔それぞれに十一の経を配して〕百三十二の経と成る。四つの真理〔の観点〕によって、それらは説かれた。すなわち、中略〔の経典〕において」と。

 

 諸々の中略〔の経典〕についての摂頌は〔以上で〕完結となる。

 

 因縁に相応するものは〔以上で〕完結となる。