増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)
ナヴァカ・ニパータ聖典(九集:九なるものの集まり)
【目次】
1. 第一の五十なるもの(1.~)
1. 正覚の章(1.~)
1. 正覚の経
2. 依所の経
3. メーギヤの経
4. ナンダカの経
5. 力の経
6. 慣れ親しむことの経
7. スタヴァンの経
8. サッジャの経
9. 人の経
10. 〔供物を〕捧げられるべき者の経
2. 獅子吼の章(11.~)
1. 獅子吼の経
2. 〔生存の〕依り所という残りものを有する者の経
3. コッティカの経
4. サミッディの経
5. 腫物の経
6. 表象の経
7. 家の経
8. 九つの支分ある斎戒の経
9. 天神の経
10. ヴェーラーマの経
3. 有情の居住所の章(21.~)
1. 三つの状況の経
2. 野馬たる馬の経
3. 渇愛の根元の経
4. 有情の居住所の経
5. 智慧の経
6. 石柱の経
7. 第一の怨念の経
8. 第二の怨念の経
9. 憤懣の基盤の経
10. 憤懣の調伏の経
11. 順次の止滅の経
4. 大いなるものの章(32.~)
1. 順次の住の経
2. 順次の住への入定の経
3. 涅槃の安楽の経
4. 雌牛の如き者の経
5. 瞑想の経
6. アーナンダの経
7. 順世派の経
8. 天〔の神々〕たちと阿修羅たちの戦いの経
9. 象の経
10. タプッサの経
5. 同等の章(42.~)
1. 煩雑なるものの経
2. 身体による実証者の経
3. 智慧による解脱者の経
4. 両部の解脱者の経
5. 現に見られる法の経
6. 現に見られる涅槃の経
7. 涅槃の経
8. 完全なる涅槃の経
9. 確実なる涅槃の経
10. 所見の法における涅槃の経
2. 第二の五十なるもの(52.~)
(6)1. 平安の章(52.~)
1. 平安の経
2. 平安に至り得た者の経
3. 不死の経
4. 不死に至り得た者の経
5. 恐怖なき〔境地〕の経
6. 恐怖なき〔境地〕に至り得た者の経
7. 静息の経
8. 順次の静息の経
9. 止滅の経
10. 順次の止滅の経
11. 不可能の経
(7)2. 気づきの確立の章(63.~)
1. 学びの挫折の経
2. 〔修行の〕妨害の経
3. 欲望の属性の経
4. 執取の範疇の経
5. 下なる域の経
6. 境遇の経
7. 物惜〔の思い〕の経
8. 上なる域の経
9. 心の鬱積の経
10. 心の結縛の経
(8)3. 正しい精励の章(73.~)
1. 学びの経
10. 心の結縛の経
(9)4. 神通の足場の章(83.~)
1. 学びの経
10. 心の結縛の経
(10)5. 貪欲と省略〔の経典〕(93.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
ナヴァカ・ニパータ聖典(九集:九なるものの集まり)
1. 第一の五十なるもの
1. 正覚の章
1. 正覚の経
1. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。
「比丘たちよ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、諸々の正覚の項目の法(性質)を修めるために、何が、機縁となるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、どのようなものとして説き明かしますか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり……略……。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。
「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「それで、もし、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。『友よ、諸々の正覚の項目の法(性質)を修めるために、何が、機縁となるのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。
『(1)友よ、ここに、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。友よ、諸々の正覚の項目の法(性質)を修めるために、これが、第一の機縁となります。
(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。友よ、諸々の正覚の項目の法(性質)を修めるために、これが、第二の機縁となります。
(3)友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たること(少欲)についての議論、満ち足りていること(知足)についての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。友よ、諸々の正覚の項目の法(性質)を修めるために、これが、第三の機縁となります。
(4)友よ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。友よ、諸々の正覚の項目の法(性質)を修めるために、これが、第四の機縁となります。
(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。友よ、諸々の正覚の項目の法(性質)を修めるために、これが、第五の機縁となります』〔と〕。
比丘たちよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。戒ある者として〔世に〕有るでしょうし、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住むでしょうし、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶでしょう。
比丘たちよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論、満ち足りていることについての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るでしょう。
比丘たちよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。精進に励む者として〔世に〕住むでしょう──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。
比丘たちよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。智慧ある者として〔世に〕有るでしょう──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。
比丘たちよ、また、そして、その比丘によって、これらの五つの法(性質)において確立して〔そののち〕、より上なるものとして、四つの法(性質)が修められるべきです。(6)貪欲〔の思い〕の捨棄のために、不浄〔の表象〕(不浄想)が修められるべきであり、(7)憎悪〔の思い〕の捨棄のために、慈愛〔の心〕(慈:慈悲の瞑想)が修められるべきであり、(8)思考の断絶のために、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)が修められるべきであり、(9)『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)の根絶ために、無常の表象(無常想)が修められるべきです。比丘たちよ、無常の表象ある者には、無我の表象(無我想)が確立します。無我の表象ある者は、『〔わたしは〕存在する』という思量の根絶に、涅槃に、まさしく、所見の法(現法:現世)において至り得ます」と。〔以上が〕第一となる。
2. 依所の経
2. そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、『依所の成就者』『依所の成就者』と説かれます。尊き方よ、いったい、まさに、どのようなことから、依所の成就者と成るのですか」と。「(1)比丘よ、もし、比丘が、信に依拠して、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるなら、彼の、その善ならざるものは、まさしく、捨棄されたものと成ります。(2)比丘よ、もし、比丘が、恥〔の思い〕に依拠して……略……。(3)比丘よ、もし、比丘が、〔良心の〕咎めに依拠して……略……。(4)比丘よ、もし、比丘が、精進に依拠して……略……。(5)比丘よ、もし、比丘が、智慧に依拠して、善ならざるものを捨棄し、善なるものを修めるなら、彼の、その善ならざるものは、まさしく、捨棄されたものと成ります。まさに、その比丘の、その善ならざるものは、捨棄されたものと成り、善く捨棄されたものと〔成ります〕──すなわち、彼の、捨棄されたものを、聖なる智慧によって見て。
比丘よ、さらに、また、その比丘は、これらの五つの法(性質)において確立して〔そののち〕、四つのものに近しく依拠して、〔世に〕住むべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘よ、ここに、比丘が、(6)究明して〔そののち〕、或るものを受用し、(7)究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、(8)究明して〔そののち〕、或るものを遍く避け、(9)究明して〔そののち〕、或るものを除き去ります。比丘よ、このように、まさに、比丘は、依所の成就者と成ります」と。〔以上が〕第二となる。
3. メーギヤの経
3. 或る時のことです。世尊は、チャーリカーに住んでおられます。チャーリカ山において。また、まさに、その時点にあって、尊者メーギヤが、世尊の奉仕者(世話係・侍者)として〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者メーギヤは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入ることを求めます」と。「メーギヤよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。
そこで、まさに、尊者メーギヤは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入りました。ジャントゥ村において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、キミカーラー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者メーギヤは、キミカーラー川の岸辺において、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、澄浄で喜ばしいアンバ林(マンゴーの果樹園)を見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これは、澄浄で喜ばしいアンバ林である。まさに、この〔アンバ林〕は、〔刻苦〕精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励のために十分なるものがある。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、このアンバ林に、精励のために帰ってこよう」と。
そこで、まさに、尊者メーギヤは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入りました。ジャントゥ村において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、キミカーラー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きました。尊き方よ、まさに、わたしは、キミカーラー川の岸辺において、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、澄浄で喜ばしいアンバ林を見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、これは、澄浄で喜ばしいアンバ林である。まさに、この〔アンバ林〕は、〔刻苦〕精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励のために十分なるものがある。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、このアンバ林に、精励のために帰ってこよう』と。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために赴くでしょう」と。「メーギヤよ、まずは、待ちなさい。すなわち、誰かしら、他にまた、比丘がやってくるまでは、それまで、〔わたしは〕独りきりで存するのですから」と。
再度また、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、〔為すべきことを為した〕世尊には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しません。あるいは、為したことの〔より上なる〕蓄積は存在しません。尊き方よ、いっぽう、まさに、〔為すべきことを為していない〕わたしには、より上なる為すべきことが存在します。為したことの〔より上なる〕蓄積が存在します。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために赴くでしょう」と。再度また、まさに、世尊は、尊者メーギヤに、こう言いました。「メーギヤよ、まずは、待ちなさい。すなわち、誰かしら、他にまた、比丘がやってくるまでは、それまで、〔わたしは〕独りきりで存するのですから」と。
三度また、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、〔為すべきことを為した〕世尊には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しません。あるいは、為したことの〔より上なる〕蓄積は存在しません。尊き方よ、いっぽう、まさに、〔為すべきことを為していない〕わたしには、より上なる為すべきことが存在します。為したことの〔より上なる〕蓄積が存在します。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために赴くでしょう」と。「メーギヤよ、まさに、『精励する』と説いている者に、何をどう説くというのでしょう。メーギヤよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。
そこで、まさに、尊者メーギヤは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、そのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そのアンバ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために坐りました。そこで、まさに、尊者メーギヤが、そのアンバ林に住んでいると、多くのところとして、三つの悪しき善ならざる思考が行き交います。それは、すなわち、この──欲望の思考が、憎悪の思考が、悩害の思考が。そこで、まさに、尊者メーギヤに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。さてまた、まさに、〔わたしたちは〕信によって家から家なきへと出家した者たちとして〔世に〕存している。そこで、また、そして、これらの三つの悪しき善ならざる思考に取り付かれたのだ──欲望の思考に、憎悪の思考に、悩害の思考に」と。
そこで、まさに、尊者メーギヤは、夕刻時に、静坐から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ここに、わたしが、そのアンバ林に住んでいると、多くのところとして、三つの悪しき善ならざる思考が行き交います。それは、すなわち、この──欲望の思考が、憎悪の思考が、悩害の思考が。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。さてまた、まさに、〔わたしたちは〕信によって家から家なきへと出家した者たちとして〔世に〕存している。そこで、また、そして、これらの三つの悪しき善ならざる思考に取り付かれたのだ──欲望の思考に、憎悪の思考に、悩害の思考に』」と。
「メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、五つの法(性質)が、円熟のために等しく転起します。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)メーギヤよ、ここに、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第一の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。
(2)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第二の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。
(3)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論、満ち足りていることについての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第三の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。
(4)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第四の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。
(5)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。メーギヤよ、円熟なきものとしてある、〔止寂の〕心による解脱には、この第五の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。
メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。戒ある者として〔世に〕有るでしょうし、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住むでしょうし、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学ぶでしょう。
メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。すなわち、謹厳にして、心の開顕に正当なる、この議論──それは、すなわち、この、少なき欲求たることについての議論、満ち足りていることについての議論、遠離についての議論、〔世俗と〕交わりなきことについての議論、精進勉励についての議論、戒についての議論、禅定についての議論、智慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが、このような形態の議論を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有るでしょう。
メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。精進に励む者として〔世に〕住むでしょう──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。
メーギヤよ、善き朋友ある者であり、善き道友ある者であり、善き友人ある者である、比丘には、このことが期待できます。智慧ある者として〔世に〕有るでしょう──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。
メーギヤよ、さらに、また、その比丘によって、これらの五つの法(性質)において確立して〔そののち〕、より上なるものとして、四つの法(性質)が修められるべきです。(6)貪欲〔の思い〕の捨棄のために、不浄〔の表象〕が修められるべきであり、(7)憎悪〔の思い〕の捨棄のために、慈愛〔の心〕が修められるべきであり、(8)思考の断絶のために、呼吸についての気づきが修められるべきであり、(9)『〔わたしは〕存在する』という思量の根絶ために、無常の表象が修められるべきです。メーギヤよ、無常の表象ある者には、無我の表象が確立します。無我の表象ある者は、『〔わたしは〕存在する』という思量の根絶に、涅槃に、まさしく、所見の法(現世)において至り得ます」と。〔以上が〕第三となる。
4. ナンダカの経
4. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者ナンダカは、集会所において、比丘たちに、法(教え)の議論によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、議論の終了を待ちながら、門小屋の外に立ちました。そこで、まさに、世尊は、議論の終了を知って、咳払いをして、閂を打ち叩きました。まさに、それらの比丘たちは、世尊のために、扉を開きました。
そこで、まさに、世尊は、集会所に入って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者ナンダカに、こう言いました。「ナンダカよ、まさに、あなたの、この法(教え)の教相は長きものとして、比丘たちに示されました。議論の終了を待ちながら、門小屋の外に立っている、わたしの背が痛くなるほどに」と。
このように説かれたとき、尊者ナンダカは、当惑している様子で、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、まさに、わたしたちは、『世尊が門小屋の外に立っている』と知りません。尊き方よ、まさに、それで、もし、わたしたちが、『世尊が門小屋の外に立っている』と知るなら、これほどまでにもまた、〔長きものとして〕弁じることは、まさに、ないでしょう」と。
そこで、まさに、世尊は、尊者ナンダカの当惑している様子を知って、尊者ナンダカに、こう言いました。「ナンダカよ、善きかな、善きかな。ナンダカよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、法(教え)の議論のために着坐することです。ナンダカよ、あなたたちが参集したときには、二つの為すべきことがあります──あるいは、法(教え)の議論であるか、あるいは、聖なる沈黙の状態であるか、です。(1)ナンダカよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、戒ある者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕存するべきである』と。ナンダカよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。
(2)ナンダカよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、内に〔止寂の〕心による禅定の得者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、〔世に〕存するべきである』と。ナンダカよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。
(3)ナンダカよ、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、〔世に〕有ります──卓越の智慧による法(性質)の観察の得者ではなく。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。ナンダカよ、それは、たとえば、また、四足の命あるものが存し、彼の一足が下等にして悪辣であるなら、このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者として存するように、ナンダカよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、〔世に〕有り、卓越の智慧による法(性質)の観察の得者でないなら、このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──『どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、さらに、卓越の智慧による法(性質)の観察の得者として、〔世に〕存するべきである』と。
(4)ナンダカよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、さらに、卓越の智慧による法(性質)の観察の得者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、坐から立ち上がって、精舎に入りました。
そこで、まさに、尊者ナンダカは、世尊が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「友よ、今や、世尊は、四つの境処によって、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示して、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『ナンダカよ、比丘が、そして、信ある者として〔世に〕有ります──しかしながら、戒ある者ではありません。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──「どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕存するべきである」と。ナンダカよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります。ナンダカよ、比丘が、そして、信ある者として、さらに、戒ある者として、〔世に〕有ります──しかしながら、内に〔止寂の〕心による禅定の得者ではありません。……略……さらに、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、〔世に〕有ります──卓越の智慧による法(性質)の観察の得者ではなく。このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。ナンダカよ、それは、たとえば、また、四足の命あるものが存し、彼の一足が下等にして悪辣であるなら、このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者として存するように、ナンダカよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、さらに、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、〔世に〕有り、卓越の智慧による法(性質)の観察の得者でないなら、このように、彼は、その支分によって、円満成就なき者と成ります。彼は、その支分を、円満成就させるべきです──「どのようなわけであれ、わたしは、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、さらに、卓越の智慧による法(性質)の観察の得者として、〔世に〕存するべきである」と。ナンダカよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、そして、信ある者として、かつまた、戒ある者として、かつまた、内に〔止寂の〕心による禅定の得者として、さらに、卓越の智慧による法(性質)の観察の得者として、〔世に〕有ることから、このように、彼は、その支分によって、円満成就ある者と成ります』と。
友よ、五つのものがあります。これらの、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことと〔正しい〕時に法(教え)を論じることにおける福利です。どのようなものが、五つのものなのですか。(5)友よ、ここに、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示し、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、教師にとって、かつまた、愛しい者と成り、かつまた、意に適う者と〔成り〕、かつまた、重き者と〔成り〕、かつまた、尊ばれる者と〔成ります〕。友よ、これは、第一の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことと〔正しい〕時に法(教え)を論じることにおける福利です。
(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示し、最初が善きものとして……略……梵行を明示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。友よ、これは、第二の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことと〔正しい〕時に法(教え)を論じることにおける福利です。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示し、最初が善きものとして……略……梵行を明示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)において、深遠にして義(意味)ある句を、智慧によって理解して〔正しく〕見ます。友よ、これは、第三の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことと〔正しい〕時に法(教え)を論じることにおける福利です。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示し、最初が善きものとして……略……梵行を明示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕のことを、梵行を共にする者たちは、より以上に敬愛します。『たしかに、この尊者は、あるいは、〔すでに〕至り得たのであり、あるいは、〔こののち〕至り得るであろう』と。友よ、これは、第四の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことと〔正しい〕時に法(教え)を論じることにおける福利です。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、比丘たちに、法(教え)を説示し、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示するなら、そこにおいて、まさに、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らは、その法(教え)を聞いて、精進に励みます──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものに実証するために。また、そこにおいて、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らは、その法(教え)を聞いて、まさしく、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に専念する者たちとして〔世に〕住みます。友よ、これは、第五の、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことと〔正しい〕時に法(教え)を論じることにおける福利です。友よ、まさに、これらの五つの、〔正しい〕時に法(教え)を聞くことと〔正しい〕時に法(教え)を論じることにおける福利があります」と。〔以上が〕第四となる。
5. 力の経
5. 「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの力です。どのようなものが、四つのものなのですか。智慧の力であり、精進の力であり、罪過なきものの力であり、愛護の力です。(1)比丘たちよ、では、どのようなものが、智慧の力なのですか。すなわち、〔それらの〕法(性質)が善なるものであり、善なるものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が善ならざるものであり、善ならざるものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が罪過を有するものであり、罪過を有するものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が罪過なきものであり、罪過なきものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が黒のものであり、黒のものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が白のものであり、白のものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が慣れ親しむべきではないものであり、慣れ親しむべきではないものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が十全にして聖ならざるものであり、十全にして聖ならざるものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が十全にして聖なるものであり、十全にして聖なるものと究明されたなら、彼の、それらの法(性質)は、智慧によって、しっかりと見られたものと成り、しっかりと探査されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、これは、智慧の力と説かれます。
(2)比丘たちよ、では、どのようなものが、精進の力なのですか。すなわち、〔それらの〕法(性質)が善ならざるものであり、善ならざるものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が罪過を有するものであり、罪過を有するものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が黒のものであり、黒のものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が慣れ親しむべきではないものであり、慣れ親しむべきではないものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が十全にして聖ならざるものであり、十全にして聖ならざるものと究明されたなら、それらの法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。すなわち、〔それらの〕法(性質)が善なるものであり、善なるものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が罪過なきものであり、罪過なきものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が白のものであり、白のものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきものと究明されたなら、すなわち、〔それらの〕法(性質)が十全にして聖なるものであり、十全にして聖なるものと究明されたなら、それらの法(性質)の獲得のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、精進の力と説かれます。
(3)比丘たちよ、では、どのようなものが、罪過なきものの力なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、罪過なき身体の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過なき言葉の行為を具備した者として〔世に〕有り、罪過なき意の行為を具備した者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、これは、罪過なきものの力と説かれます。
(4)比丘たちよ、では、どのようなものが、愛護の力なのですか。比丘たちよ、四つのものがあります。これらの愛護の基盤です。布施であり、愛ある言葉であり、義(利益)ある行ないであり、〔自他が〕等しくあることです。比丘たちよ、諸々の布施のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、法(教え)の布施です。比丘たちよ、諸々の愛ある言葉のなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、義(目的)ある者のために、耳を傾ける者のために、繰り返し、法(教え)を説示することです。比丘たちよ、諸々の義(利益)ある行ないのなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、信なき者を、信の成就において、受持させ、固着させ、確立させ、劣戒の者を、戒の成就において……略……物惜の者を、施捨の成就において……略……智慧浅き者を、智慧の成就において、受持させ、固着させ、確立させることです。諸々の〔自他が〕等しくあることのなかでは、これが、至高のものとなります。すなわち、この、預流たる者が預流たる者と等しくあることであり、一来たる者が一来たる者と等しくあることであり、不還たる者が不還たる者と等しくあることであり、阿羅漢が阿羅漢と等しくあることです。比丘たちよ、これは、愛護の力と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの力があります。
比丘たちよ、まさに、これらの四つの力を具備した聖なる弟子は、五つの恐怖を超越した者として〔世に〕有ります。どのようなものが、五つのものなのですか。生計の恐怖であり、名声なき恐怖であり、衆のなかで恐れおののく恐怖であり、死の恐怖であり、悪趣の恐怖です。比丘たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『(5)わたしは、生計の恐怖を恐怖しない。わたしが、どのような生計の恐怖を恐怖するというのだろう。わたしには、四つの力が存在する。智慧の力であり、精進の力であり、罪過なきものの力であり、愛護の力である。まさに、智慧浅き者は、生計の恐怖を恐怖するであろう。怠惰の者は、生計の恐怖を恐怖するであろう。罪過を有する身体の生業と言葉の生業と意の生業ある者は、生計の恐怖を恐怖するであろう。愛護なき者は、生計の恐怖を恐怖するであろう。(6)わたしは、名声なき恐怖を恐怖しない。……略……。(7)わたしは、衆のなかで恐れおののく恐怖を恐怖しない。……略……。(8)わたしは、死の恐怖を恐怖しない。……略……。(9)わたしは、悪趣の恐怖を恐怖しない。わたしが、どのような悪趣の恐怖を恐怖するというのだろう。わたしには、四つの力が存在する。智慧の力であり、精進の力であり、罪過なきものの力であり、愛護の力である。まさに、智慧浅き者は、悪趣の恐怖を恐怖するであろう。怠惰の者は、悪趣の恐怖を恐怖するであろう。罪過を有する身体の生業と言葉の生業と意の生業ある者は、悪趣の恐怖を恐怖するであろう。愛護なき者は、悪趣の恐怖を恐怖するであろう』〔と〕。比丘たちよ、まさに、これらの四つの力を具備した聖なる弟子は、これらの五つの恐怖を超越した者として〔世に〕有ります」と。〔以上が〕第五となる。
6. 慣れ親しむことの経
6. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。
「友よ、人もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた。友よ、衣料もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた。友よ、〔行乞の〕施食もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた。友よ、臥坐所もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた。友よ、村や町もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた。友よ、地方や地域もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた。
『友よ、人もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。(1)そこにおいて、その人のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。さらに、すなわち、まさに、出家者であるわたしによって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、そして、それらは、困難をもって将来される。さらに、その義(目的)のために、家から家なきへと出家した者として〔世に〕存する〔わたし〕であるが、そして、わたしの、沙門たることの義(目的)は、それは、修行の円満成就に赴かない』と知るなら、友よ、その人(修行者)にとって、その人(共住者)は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、究明して〔そののち〕はまた、断りなくして立ち去るべきであり、付き従うべきではありません。
(2)そこにおいて、その人のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。さらに、すなわち、まさに、出家者であるわたしによって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、そして、それらは、難少なくして将来される。さらに、その義(目的)のために、家から家なきへと出家した者として〔世に〕存する〔わたし〕であるが、そして、わたしの、沙門たることの義(目的)は、それは、修行の円満成就に赴かない』と知るなら、友よ、その人にとって、その人は、あるいは、夜分であれ、あるいは、日中であれ、究明して〔そののち〕はまた、断りなくして立ち去るべきであり、付き従うべきではありません。
(3)そこにおいて、その人のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。さらに、すなわち、まさに、出家者であるわたしによって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、そして、それらは、困難をもって将来される。さらに、その義(目的)のために、家から家なきへと出家した者として存する〔わたし〕であるが、そして、わたしの、沙門たることの義(目的)は、それは、修行の円満成就に赴く』と知るなら、友よ、その人にとって、その人は、究明して〔そののち〕はまた、付き従うべきであり、立ち去るべきではありません。
(4)そこにおいて、その人のことを、〔修行者が〕『まさに、わたしが、この人に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。さらに、すなわち、まさに、出家者であるわたしによって集められるべき生命のための必需品としてある、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品は、そして、それらは、難少なくして将来される。さらに、その義(目的)のために、家から家なきへと出家した者として〔世に〕存する〔わたし〕であるが、そして、わたしの、沙門たることの義(目的)は、それは、修行の円満成就に赴く』と知るなら、友よ、その人にとって、その人は、生あるかぎり付き従うべきであり、しりぞけられてもまた、立ち去るではありません。『友よ、人もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(5)『友よ、衣料もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その衣料のことを、『まさに、わたしが、この衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その衣料のことを、『まさに、わたしが、この衣料に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の衣料は、慣れ親しむべきです。『友よ、衣料もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(6)『友よ、〔行乞の〕施食もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その〔行乞の〕施食のことを、『まさに、わたしが、この〔行乞の〕施食に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の〔行乞の〕施食は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その〔行乞の〕施食のことを、『まさに、わたしが、この〔行乞の〕施食に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の〔行乞の〕施食は、慣れ親しむべきです。『友よ、〔行乞の〕施食もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(7)『友よ、臥坐所もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その臥坐所のことを、『まさに、わたしが、この臥坐所に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の臥坐所は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その臥坐所のことを、『まさに、わたしが、この臥坐所に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の臥坐所は、慣れ親しむべきです。『友よ、臥坐所もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(8)『友よ、村や町もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その村や町のことを、『まさに、わたしが、この村や町に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の村や町は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その村や町のことを、『まさに、わたしが、この村や町に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の村や町は、慣れ親しむべきです。『友よ、村や町もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(9)『友よ、地方や地域もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。そこにおいて、その地方や地域のことを、『まさに、わたしが、この地方や地域に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と知るなら、このような形態の地方や地域は、慣れ親しむべきではありません。そこにおいて、その地方や地域のことを、『まさに、わたしが、この地方や地域に慣れ親しんでいると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と知るなら、このような形態の地方や地域は、慣れ親しむべきです。『友よ、地方や地域もまた、二種類のものとして知られるべきです──慣れ親しむべきともまた、慣れ親しむべきにあらずともまた』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。〔以上が〕第六となる。
7. スタヴァンの経
7. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。そこで、まさに、スタヴァン遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、スタヴァン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、これは、或る時のことです。世尊よ、わたしは、まさしく、ここに、ラージャガハに住んでいます。ギッジャクータ山において。尊き方よ、そこで、わたしは、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『スタヴァンよ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、五つの状況を行作することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります』と。尊き方よ、どうでしょう、世尊の、この〔言葉〕は、わたしによって、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれていますか」と。
「スタヴァンよ、たしかに、この〔言葉〕は、あなたによって、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれています。スタヴァンよ、そして、過去において、さらに、今現在も、わたしは、このように説きます。『すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、九つの状況を行作することが不可能となります。(1)煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。(2)煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。(3)煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。(4)煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。(5)煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります。(6)煩悩が滅尽した比丘は、欲〔の思い〕ゆえに非道に赴くことが不可能となります。(7)煩悩が滅尽した比丘は、憤怒ゆえに非道に赴くことが不可能となります。(8)煩悩が滅尽した比丘は、迷妄ゆえに非道に赴くことが不可能となります。(9)煩悩が滅尽した比丘は、恐怖ゆえに非道に赴くことが不可能となります』〔と〕。スタヴァンよ、そして、過去において、さらに、今現在、わたしは、このように説きます。『すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの九つの状況を行作することが不可能となります』」と。〔以上が〕第七となる。
8. サッジャの経
8. 或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において。そこで、まさに、サッジャ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サッジャ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、これは、或る時のことです。世尊よ、わたしは、まさしく、ここに、ラージャガハに住んでいます。ギッジャクータ山において。尊き方よ、そこで、わたしは、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。『サッジャよ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、五つの状況を行作することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります』と。尊き方よ、どうでしょう、世尊の、この〔言葉〕は、わたしによって、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれていますか」と。
「サッジャよ、たしかに、この〔言葉〕は、あなたによって、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれています。サッジャよ、そして、過去において、さらに、今現在も、わたしは、このように説きます。『すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、九つの状況を行作することが不可能となります。(1)煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。(2)煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。(3)煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。(4)煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。(5)煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります。(6)煩悩が滅尽した比丘は、覚者を拒絶することが不可能となります。(7)煩悩が滅尽した比丘は、法(教え)を拒絶することが不可能となります。(8)煩悩が滅尽した比丘は、僧団を拒絶することが不可能となります。(9)煩悩が滅尽した比丘は、学びを拒絶することが不可能となります』〔と〕。サッジャよ、そして、過去において、さらに、今現在、わたしは、このように説きます。『すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの九つの状況を行作することが不可能となります』」と。〔以上が〕第八となる。
9. 人の経
9. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、九つのものなのですか。阿羅漢(阿羅漢果)であり、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者(阿羅漢道)であり、不還たる者(不還果)であり、不還果の実証のために〔道を〕実践する者(不還道)であり、一来たる者(一来果)であり、一来果の実証のために〔道を〕実践する者(一来道)であり、預流たる者(預流果)であり、預流果の実証のために〔道を〕実践する者(預流道)であり、凡夫です。比丘たちよ、まさに、これらの九つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています」と。〔以上が〕第九となる。
10. 〔供物を〕捧げられるべき者の経
10. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり、〔供物を〕贈られるべき者たちであり、〔供物を〕施与されるべき者たちであり、合掌を為されるべき者たちであり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です。どのようなものが、九つのものなのですか。阿羅漢であり、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者であり、不還たる者であり、不還果の実証のために〔道を〕実践する者であり、一来たる者であり、一来果の実証のために〔道を〕実践する者であり、預流たる者であり、預流果の実証のために〔道を〕実践する者であり、〔新たな〕種姓と成る者です。比丘たちよ、まさに、これらの九つの人たちは、〔供物を〕捧げられるべき者たちであり……略……世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑です」と。〔以上が〕第十となる。
正覚の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「正覚、まさしく、そして、依所、メーギヤ、ナンダカ、力、慣れ親しむこと、スタヴァン、サッジャ、人があり、そして、〔供物を〕捧げられるべき者とともに、〔章となる〕」と。
2. 獅子吼の章
1. 獅子吼の経
11. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、サーヴァッティーにおける雨季の居住は、わたしの住するところとなりました。尊き方よ、わたしは、地方への遊行〔の旅〕に出ることを求めます」と。「サーリプッタよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、尊者サーリプッタが立ち去ったすぐあと、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、尊者サーリプッタは、わたしを攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出たのです」と。そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、サーリプッタに告げなさい。『友よ、サーリプッタよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者サーリプッタは、その比丘に答えました。
また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、かつまた、尊者アーナンダは、鍵を取って、精舎のなかを巡ります。「尊者たちは、出で来たれ。尊者たちは、出で来たれ。今や、尊者サーリプッタが、世尊の面前で獅子吼を吼え叫ぶでしょう」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタに、世尊は、こう言いました。「サーリプッタよ、ここに、あなたに、或るひとりの梵行を共にする者が、憤慨の法(性質)を惹起したのです。『尊き方よ、尊者サーリプッタは、わたしを攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出たのです』」と。
「尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(1)尊き方よ、それは、たとえば、また、〔人々が〕地のうえに、清らかなるものをもまた捨て置き、清らかならざるものをもまた捨て置き、糞となるに至ったものをもまた捨て置き、尿となるに至ったものをもまた捨て置き、唾液となるに至ったものをもまた捨て置き、膿となるに至ったものをもまた捨て置き、血となるに至ったものをもまた捨て置くとして、しかしながら、地は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく地に等しき心で〔世に〕住みます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(2)尊き方よ、それは、たとえば、また、〔人々が〕水のなかで、清らかなるものをもまた洗い清め、清らかならざるものをもまた洗い清め、糞となるに至ったものをもまた……尿となるに至ったものをもまた……唾液となるに至ったものをもまた……膿となるに至ったものをもまた……血となるに至ったものをもまた洗い清めるとして、しかしながら、水は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく水に等しき心で〔世に〕住みます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(3)尊き方よ、それは、たとえば、また、火が、清らかなるものをもまた焼き、清らかならざるものをもまた焼き、糞となるに至ったものをもまた……尿となるに至ったものをもまた……唾液となるに至ったものをもまた……膿となるに至ったものをもまた……血となるに至ったものをもまた焼くとして、しかしながら、火は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく火に等しき心で〔世に〕住みます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(4)尊き方よ、それは、たとえば、また、風が、清らかなるものにもまた吹き、清らかならざるものにもまた吹き、糞となるに至ったものにもまた……尿となるに至ったものにもまた……唾液となるに至ったものにもまた……膿となるに至ったものにもまた……血となるに至ったものにもまた吹くとして、しかしながら、風は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく風に等しき心で〔世に〕住みます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(5)尊き方よ、それは、たとえば、また、雑巾が、清らかなるものをもまた拭い、清らかならざるものをもまた拭い、糞となるに至ったものをもまた……尿となるに至ったものをもまた……唾液となるに至ったものをもまた……膿となるに至ったものをもまた……血となるに至ったものをもまた拭うとして、しかしながら、雑巾は、それによって、あるいは、苦悩することも、あるいは、自責することも、あるいは、忌避することもないように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく雑巾に等しき心で〔世に〕住みます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(6)尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、チャンダーラ(賎民)の少年が、あるいは、チャンダーラの少女が、壺を手にし、ぼろ布をまとい、あるいは、村に、あるいは、町に、入りつつあるなら、まさしく、低き心を現起させて入るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なくチャンダーラの少年とチャンダーラの少女に等しき心で〔世に〕住みます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(7)尊き方よ、それは、たとえば、また、角を切断された雄牛が、温和となり、善く調御され、善く教導され、道から道へ、十字路から十字路へと巡り行きながら、あるいは、足で、あるいは、角で、何であれ害さないように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく角を切断された雄牛に等しき心で〔世に〕住みます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(8)尊き方よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きで、頭を洗い清めた、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、蛇の死骸を、あるいは、犬の死骸を、あるいは、人間の死骸を、首に掛けられたなら、苦悩し、自責し、忌避するように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、この腐敗の身体によって、苦悩し、自責し、忌避します。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう。
(9)尊き方よ、それは、たとえば、また、人が、種々の穴があり、〔不浄物が〕滲み出ては流れ出ている、油壺を持ち運ぶように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、種々の穴があり、〔不浄物が〕滲み出ては流れ出ている、この身体を持ち運びます。尊き方よ、たしかに、或る者に、身体の在り方についての気づきが現起なきものとして存するなら、その者は、ここに、或るひとりの梵行を共にする者を攻撃して、謝罪せずして、遊行〔の旅〕に出るでしょう」と。
そこで、まさに、その比丘は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、尊者サーリプッタを、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗しました。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。「比丘よ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました──あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、尊者サーリプッタを、正しからざることによって〔誹謗し〕、虚妄なるまま虚偽なるままに、事実ならざることによって誹謗しました。比丘よ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。比丘よ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。
そこで、まさに、世尊は、尊者サーリプッタに告げました。「サーリプッタよ、この愚人を許してあげなさい。彼の頭が、まさしく、その場において、七様に裂ける前に」と。「尊き方よ、わたしは、その尊者を許します。それで、もし、その尊者が、わたしに、このように言ったなら──『さてまた、その尊者は、わたしを許したまえ』」と。〔以上が〕第一となる。
2. 〔生存の〕依り所という残りものを有する者の経
12. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、尊者サーリプッタに、このような〔思いが〕有りました。「サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。
また、まさに、その時点にあって、着坐し参集しているそれらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、この合間の議論が起こりました。「友よ、まさに、彼が誰であれ、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えるなら、その全てが、地獄から完全に解き放たれず、畜生の胎から完全に解き放たれず、餓鬼の境域から完全に解き放たれず、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれていない」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『サーヴァッティーを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行くのだ』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。尊き方よ(※)、また、まさに、その時点にあって、着坐し参集しているそれらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、この合間の議論が起こりました。『友よ、まさに、彼が誰であれ、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えるなら、その全てが、地獄から完全に解き放たれず、畜生の胎から完全に解き放たれず、餓鬼の境域から完全に解き放たれず、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれていない』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちの語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。『世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ』」と。
※ PTS版により bhante を補う。
「サーリプッタよ、さてまた、愚者にして明敏ならざる異教の遍歴遊行者たちの誰が、そして、どうして、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者(有余依)のことを、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と知り、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者(無余依)のことを、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と知るというのでしょう。
サーリプッタよ、九つのものがあります。これらの人たちは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者たちとなります。どのようなものが、九つのものなのですか。(1)サーリプッタよ、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、〔天に再生して寿命の〕中途において完全なる涅槃に到達する者と成ります。サーリプッタよ、この、第一の人は、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者となります。
(2)サーリプッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定における円満成就を為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、再生して〔寿命の後半に〕完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……(3)形成〔作用〕なく(意志的努力をせずに)完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……(4)形成〔作用〕を有し(意志的努力をして)完全なる涅槃に到達する者と成ります。……略……(5)上なる流れの色究竟〔天〕に赴く者と成ります。サーリプッタよ、この、第五の人は、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者となります。
(6)サーリプッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定においては限定して為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。サーリプッタよ、この、第六の人は、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ……略……悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者となります。
(7)サーリプッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定においては限定して為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、一つの種ある者と成ります。まさしく、一つの人間の生存に発現して、苦しみの終極を為します。サーリプッタよ、この、第七の人は、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ……略……悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者となります。
(8)サーリプッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定においては限定して為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、〔善き〕家〔善き〕家〔の再生〕ある者と成ります。あるいは、二つの、あるいは、三つの、〔善き〕家を、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為します。サーリプッタよ、この、第八の人は、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ……略……悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者となります。
(9)サーリプッタよ、さらに、また、他に、ここに、一部の人は、諸戒における円満成就を為す者として、禅定においては限定して為す者として、智慧においては限定して為す者として、〔世に〕有ります。彼は、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、最高で七回〔の再生〕ある者と成ります。最高で七回、そして、天〔の世〕において、さらに、人間〔の世〕において、流転して、輪廻して、苦しみの終極を為します。サーリプッタよ、この、第九の人は、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者となります。
サーリプッタよ、さてまた、愚者にして明敏ならざる異教の遍歴遊行者たちの誰が、そして、どうして、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者のことを、『〔生存の〕依り所という残りものを有する者である』と知り、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものがない者のことを、『〔生存の〕依り所という残りものがない者である』と知るというのでしょう。サーリプッタよ、まさに、これらの九つの人たちは、〔生存の〕依り所という残りものを有する者として命を終えつつ、地獄から完全に解き放たれ、畜生の胎から完全に解き放たれ、餓鬼の境域から完全に解き放たれ、悪所と悪趣と堕所から完全に解き放たれた者たちとなります。サーリプッタよ、この法(教え)の教相は、まだ、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちにも示されていません。それは、何を因とするのですか。『この法(教え)の教相を聞いて、〔彼らが〕放逸を将来してはならない』と〔思ったからです〕。サーリプッタよ、しかしながら、また、問いの志向するところとして、わたしによって、法(教え)の教相が語られました」と。〔以上が〕第二となる。
3. コッティカの経
13. そこで、まさに、尊者マハー・コッティカが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、『その行為が、所見の法(現世)において感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、未来において感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、また(※)、どうなのでしょう、『その行為が、未来において感受されるべきものであるなら(※※)、その行為は、わたしによって、所見の法(現世)において感受されるべきものと(※※※)成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
※ テキストには nu kho, āvuso とあるが、PTS版により panāvuso と読む。
※※ テキストには sukhavedanīyaṃ とあるが、PTS版により samparāyavedanīyaṃ と読む。
※※※ テキストには dukkhavedanīyaṃ とあるが、PTS版により diṭṭhadhammavedanīyaṃ と読む。
「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、『その行為が、安楽として感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、苦痛として感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、『その行為が、苦痛として感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、安楽として感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、『その行為が、円熟あるものとして感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、円熟なきものとして感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、『その行為が、円熟なきものとして感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、円熟あるものとして感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、『その行為が、多く感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、少なく感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、『その行為が、少なく感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、多く感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、『その行為が、感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、感受されるべきではないものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、『その行為が、感受されるべきではないものであるなら、その行為は、わたしによって、感受されるべきものと成れ』と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず」と。
「『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、「その行為が、所見の法(現世)において感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、未来において感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、「その行為が、未来において感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、所見の法(現世)において感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、「その行為が、安楽として感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、苦痛として感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、「その行為が、苦痛として感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、安楽として感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、「その行為が、円熟あるものとして感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、円熟なきものとして感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、「その行為が、円熟なきものとして感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、円熟あるものとして感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、「その行為が、多く感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、少なく感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、「その行為が、少なく感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、多く感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、「その行為が、感受されるべきものであるなら、その行為は、わたしによって、感受されるべきではないものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。
『友よ、サーリプッタよ、また、どうなのでしょう、「その行為が、感受されるべきではないものであるなら、その行為は、わたしによって、感受されるべきものと成れ」と、これを義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、このことは〔尋ねるべきに〕あらず』と、〔あなたは〕説きます。友よ、そこで、そうしますと、何を義(目的)として、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。
「友よ、まさに、それが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕至り得られず、〔いまだ〕実証されず、〔いまだ〕知悉されていないものとして存するなら、それを、知るために、見るために、至り得るために、実証するために、知悉するために、世尊のもと、梵行は住されます」と。「友よ、また、何が、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕至り得られず、〔いまだ〕実証されず、〔いまだ〕知悉されていないものとして存するなら、それを、知るために、見るために、至り得るために、実証するために、知悉するために、世尊のもと、梵行が住されるのですか」と。「友よ、まさに、『これは、苦しみである』と、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕至り得られず、〔いまだ〕実証されず、〔いまだ〕知悉されていないものとして存するなら、それを、知るために、見るために、至り得るために、実証するために、知悉するために、世尊のもと、梵行は住されます。友よ、まさに、『これは、苦しみの集起である』と……略……。友よ、まさに、『これは、苦しみの止滅である』と……略……。友よ、まさに、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕至り得られず、〔いまだ〕実証されず、〔いまだ〕知悉されていないものとして存するなら、それを、知るために、見るために、至り得るために、実証するために、知悉するために、世尊のもと、梵行は住されます。友よ、まさに、これが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕至り得られず、〔いまだ〕実証されず、〔いまだ〕知悉されていないものとして存するなら、それを、知るために、見るために、至り得るために、実証するために、知悉するために、世尊のもと、梵行は住されます」と。〔以上が〕第三となる。
4. サミッディの経
14. そこで、まさに、尊者サミッディが、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サミッディに、尊者サーリプッタは、こう言いました。(1)「サミッディよ、人の諸々の思惟と思考は、何を対象(所縁)として生起するのですか」と。「尊き方よ、名称と形態(名色)を対象として」と。(2)「サミッディよ、また、それらは、どこにおいて種々なることに至るのですか」と。「尊き方よ、諸々の界域(界)において」と。(3)「サミッディよ、また、それらは、何を集起とするのですか」と。「尊き方よ、接触(触)を集起とします」と。(4)「サミッディよ、また、それらは、何に集結するのですか」と。「尊き方よ、感受(受)に集結します」と。(5)「サミッディよ、また、それらは、何を筆頭とするのですか」と。「尊き方よ、禅定(定)を筆頭とします」と。(6)「サミッディよ、また、それらは、何を優位とするのですか」と。「尊き方よ、気づき(念)を優位とします」と。(7)「サミッディよ、また、それらは、何をより上とするのですか」と。「尊き方よ、智慧(慧・般若)をより上とします」と。(8)「サミッディよ、また、それらは、何を真髄とするのですか」と。「尊き方よ、解脱を真髄とします」と。(9)「サミッディよ、また、それらは、何をと沈潜とするのですか」と。「尊き方よ、不死(涅槃)を沈潜とします」と。
「『サミッディよ、人の諸々の思惟と思考は、何を対象として生起するのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方よ、名称と形態を対象として』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、どこにおいて種々なることに至るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、諸々の界域において』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、何を集起とするのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、接触を集起とします』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、何に集結するのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、感受に集結します』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、何を筆頭とするのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、禅定を筆頭とします』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、何を優位とするのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、気づきを優位とします』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、何をより上とするのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、智慧をより上とします』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、何を真髄とするのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、解脱を真髄とします』と、〔あなたは〕説きます。『サミッディよ、また、それらは、何をと沈潜とするのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『尊き方、不死を沈潜とします』と、〔あなたは〕説きます。サミッディよ、善きかな、善きかな。サミッディよ、善きかな、まさに、あなたは、尋ねられては尋ねられ、〔正しく〕答えます。しかしながら、それによって、思い考えることがあってはいけません(思い上がってはいけない)」と。〔以上が〕第四となる。
5. 腫物の経
15. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、年代物の腫物のようなものです。その腫物には、九つの傷口が存在します──九つの生来の開口部として。そこから、それが何であれ、流れ出すなら、まさしく、不浄物として流れ出し、まさしく、悪臭あるものとして流れ出し、まさしく、忌避するべきものとして流れ出します。それが何であれ、生み出すなら、まさしく、不浄物として生み出し、まさしく、悪臭あるものとして生み出し、まさしく、忌避するべきものとして生み出します。
比丘たちよ、『腫物』とは、まさに、これは、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)ある、この身体の同義語です。その腫物には、九つの傷口が存在します──九つの生来の開口部として。そこから、それが何であれ、流れ出すなら、まさしく、不浄物として流れ出し、まさしく、悪臭あるものとして流れ出し、まさしく、忌避するべきものとして流れ出します。それが何であれ、生み出すなら、まさしく、不浄物として生み出し、まさしく、悪臭あるものとして生み出し、まさしく、忌避するべきものとして生み出します。比丘たちよ、それゆえに、ここに、この身体にたいし厭離しなさい」と。〔以上が〕第五となる。
6. 表象の経
16. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの表象(想)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死(涅槃)への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕。どのようなものが、九つのものなのですか。不浄の表象であり、死の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象であり、無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象です。比丘たちよ、まさに、これらの九つの表象が、修められ、多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、不死への沈潜と〔成り〕、不死を結末とするものと〔成ります〕」と。〔以上が〕第六となる。
7. 家の経
17. 「比丘たちよ、九つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものはなく、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、坐るに十分なるものはありません。どのようなものが、九つのものなのですか。〔その家の者たちは〕意に適う〔やり方〕で立礼しません。意に適う〔やり方〕で敬拝しません。意に適う〔やり方〕で坐を与えません。彼に、存しているものを完全に秘密にします。多くのものあるもまた、僅かなものを施します。精妙なるものあるもまた、粗末なものを施します。恭しくなく施します──恭しく、ではなく。法(教え)を聞くために近しく坐りません。語られたことを聞こうとしません。比丘たちよ、まさに、これらの九つの支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものはなく、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、坐るに十分なるものはありません。
比丘たちよ、九つのものがあります。〔これらの〕支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものがあり、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、坐るに十分なるものがあります。どのようなものが、九つのものなのですか。〔その家の者たちは〕意に適う〔やり方〕で立礼します。意に適う〔やり方〕で敬拝します。意に適う〔やり方〕で坐を与えます。彼に、存しているものを完全に秘密にしません。多くのものあるもまた、多くのものを施します。精妙なるものあるもまた、精妙なるものを施します。恭しく施します──恭しくなく、ではなく。法(教え)を聞くために近しく坐ります。語られたことを聞こうとします。比丘たちよ、まさに、これらの九つの支分を具備した家に、あるいは、〔いまだ〕近しく赴かずしてあるなら、近しく赴くに十分なるものがあり、あるいは、〔すでに〕近しく赴いてあるなら、坐るに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第七となる。
8. 九つの支分ある斎戒の経
18. 「比丘たちよ、九つの支分を具備した斎戒は、〔このように〕入ったなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕。比丘たちよ、では、どのように入ったなら、九つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、かくのごとく深慮します。(1)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者たちとして、棒を置いた者たちとして、刃を置いた者たちとして、恥を知る者たちとして、憐憫〔の思い〕を起こした者たちとして、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者たちとして、〔世に〕住む。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むのだ。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習うのだ。そして、斎戒は、わたしの入るところと成るのだ』と、この第一の支分を具備したものと成ります。……略……。
(8)『生あるかぎり、阿羅漢たちは、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者たちとして、低き臥所を営む──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。わたしもまた、今日、そして、この夜のあいだ、さらに、この昼のあいだ、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕を捨棄して、高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として、低き臥所を営むのだ──あるいは、臥床において、あるいは、草の敷物において。この支分によってもまた、〔わたしは〕阿羅漢たちに見習うのだ。そして、斎戒は、わたしの入るところと成るのだ』と、この第八の支分を具備したものと成ります。
(9)〔彼は〕慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。この第九の支分を具備したものと成ります。比丘たちよ、このように入った、まさに、九つの支分を具備した斎戒は、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成り〕、大いなる光輝と〔成り〕、大いなる充満と〔成ります〕」と。〔以上が〕第八となる。
9. 天神の経
19. 「比丘たちよ、さてまた、この夜、大勢の天神たちが、夜が更けると、見事な色艶となり、全面あまねくジェータ林を照らして、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。(1)比丘たちよ、一方に立った、まさに、それらの天神たちは、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、過去において、人間として有ったわたしたちの家々に、出家者たちが近づいて行きました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、立礼しましたが、しかしながら、まさに、敬拝しませんでした。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、円満成就した行業なき者たちとして、後悔ある者たちとして、のちに悩み苦しむ者たちとして、下劣なる身体に再生したのです』と。
(2)比丘たちよ、他にもまた、大勢の天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、過去において、人間として有ったわたしたちの家々に、出家者たちが近づいて行きました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、立礼し、敬拝しましたが、しかしながら、彼らに、坐を与えませんでした。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、円満成就した行業なき者たちとして、後悔ある者たちとして、のちに悩み苦しむ者たちとして、下劣なる身体に再生したのです』と。
(3)比丘たちよ、他にもまた、大勢の天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、過去において、人間として有ったわたしたちの家々に、出家者たちが近づいて行きました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、立礼し、敬拝し、坐を与えましたが、しかしながら、まさに、能あるままに、力あるままに、分け与えませんでした。……略……(4)能あるままに、力あるままに、分け与えましたが、しかしながら、まさに、法(教え)を聞くために近しく坐りませんでした。……略……(5)法(教え)を聞くために近しく坐りましたが、しかしながら、まさに、耳を傾け、法(教え)を聞きませんでした。……略……(6)そして、耳を傾け、法(教え)を聞きましたが、しかしながら、まさに、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持しませんでした。……略……(7)さらに、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持しましたが、しかしながら、まさに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視しませんでした。……略……(8)さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視しましたが、しかしながら、まさに、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践しませんでした。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、円満成就した行業なき者たちとして、後悔ある者たちとして、のちに悩み苦しむ者たちとして、下劣なる身体に再生したのです』と。
(9)比丘たちよ、他にもまた、大勢の天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、過去において、人間として有ったわたしたちの家々に、出家者たちが近づいて行きました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、立礼し、敬拝し、坐を与え、能あるままに、力あるままに、分け与え、法(教え)を聞くために近しく坐り、そして、耳を傾け、法(教え)を聞き、かつまた、聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持し、さらに、諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視し、義(意味)を了知して、法(教え)を了知して、法(教え)を法(教え)のままに実践しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちは、円満成就した行業ある者たちとして、後悔なき者たちとして、のちに悩み苦しまない者たちとして、精妙なる身体に再生したのです』と。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。それは、たとえば、また、それらの従前の天神たちのように」と。〔以上が〕第九となる。
10. ヴェーラーマの経
20. 或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。
「家長よ、さて、いったい、あなたの家において、布施は施されますか」と。「尊き方よ、わたしの家において、布施は施されます。しかしながら、それは、まさに、粗末な屑米であり、酸えた粥を添え物とします」と。「家長よ、もし、また、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、布施を施すとして、そして、それを、恭しくなく施すなら、心作なく施すなら、自らの手でなく施すなら、捨てられたものを施すなら、〔報いとして〕帰り来るものを見ない者として施すなら、そこかしこにおいて、その〔布施〕その布施の報いが発現するままに、秀逸なる食事の受益に、〔彼の〕心は傾かず、秀逸なる衣装の受益に、〔彼の〕心は傾かず、秀逸なる乗物の受益に、〔彼の〕心は傾かず、秀逸なる五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)の受益に、〔彼の〕心は傾きません。すなわち、また、彼にとって、あるいは、『子たち』ということで、あるいは、『妻たち』ということで、あるいは、『奴隷たち』ということで、あるいは、『労夫たち』ということで、あるいは、『召使たち』ということで、〔世に〕有る、それらの者たちも、彼らもまた、〔話を〕聞こうとせず、〔話に〕耳を傾けず、了知の心を現起させません。それは、何を因とするのですか。家長よ、なぜなら、このように、このことは有るからです──諸々の恭しくなく為された行為の報いとして。
家長よ、もし、また、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、布施を施すとして、そして、それを、恭しく施すなら、心作して施すなら、自らの手で施すなら、捨てられていないものを施すなら、〔報いとして〕帰り来るものを見る者として施すなら、そこかしこにおいて、その〔布施〕その布施の報いが発現するままに、秀逸なる食事の受益に、〔彼の〕心は傾き、秀逸なる衣装の受益に、〔彼の〕心は傾き、秀逸なる乗物の受益に、〔彼の〕心は傾き、秀逸なる五つの欲望の属性の受益に、〔彼の〕心は傾きます。すなわち、また、彼にとって、あるいは、『子たち』ということで、あるいは、『妻たち』ということで、あるいは、『奴隷たち』ということで、あるいは、『労夫たち』ということで、あるいは、『召使たち』ということで、〔世に〕有る、それらの者たちも、彼らもまた、〔話を〕聞こうとし、〔話に〕耳を傾け、了知の心を現起させます。それは、何を因とするのですか。家長よ、なぜなら、このように、このことは有るからです──諸々の恭しく為された行為の報いとして。
家長よ、過去の事(過去世)ですが、ヴェーラーマという名の婆羅門が〔世に〕有りました。彼は、このような形態の布施を、大いなる布施を施しました。(1)銀に満ちた、八万四千の金の鉢を施し、(2)金に満ちた、八万四千の銀の鉢を施し、(3)金貨に満ちた、八万四千の銅の鉢を施し、(4)金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、八万四千の象を施し、(5)獅子の皮を付属品とし、虎の皮を付属品とし、豹の皮を付属品とし、黄の毛布を付属品とし、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、八万四千の車を施し、(6)黄麻のつなぎ紐があり、銅の容器がある、八万四千の乳牛を施し、(7)宝珠の耳飾を付けた、八万四千の少女を施し、(8)毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端に赤い枕がある、八万四千の寝台を施し、(9)繊細なる麻布の、繊細なる絹布の、繊細なる毛布の、繊細なる木綿の、八万四千コーティ(数の単位・千万)の衣装を施しました。食べ物と飲み物と固形の食料と軟らかい食料と舐める食料と飲む食料のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。思うに、諸々の川のように、〔それらは〕流れ出ます。
家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、ヴェーラーマ婆羅門として〔世に〕有ったのだ。彼が、その布施を、大いなる布施を施したのだ』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、ヴェーラーマ婆羅門として〔世に〕有ったのです。わたしは、その布施を、大いなる布施を施しました。家長よ、また、まさに、その布施があるとき、誰であれ、施与されるべき者は〔世に〕有りませんでしたし、誰であれ、その施物を清めません。
家長よ、すなわち、ヴェーラーマ婆羅門が、布施を、大いなる布施を施したとして、しかしながら、すなわち、一者の〔正しい〕見解を成就した者を受益させるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります。
さらに、すなわち、百者の〔正しい〕見解を成就した者たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の一来たる者を受益させるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります。
さらに、すなわち、百者の一来たる者たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の不還たる者を受益させるなら……略……。さらに、すなわち、百者の不還たる者たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の阿羅漢を受益させるなら……。さらに、すなわち、百者の阿羅漢たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の独覚を受益させるなら……。さらに、すなわち、百者の独覚たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来を受益させるなら……しかしながら、すなわち、覚者を筆頭とする比丘の僧団を受益させるなら……しかしながら、すなわち、四方の僧団を指定して、精舎を作らせるなら……しかしながら、すなわち、浄信した心の者となり、帰依所として、そして、覚者のもとに、かつまた、法(教え)のもとに、さらに、僧団のもとに、赴くなら……しかしながら、すなわち、浄信した心の者となり、諸々の学びの境処を──命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を──受持するなら、もしくは、そして、すなわち、たとえ、匂いを嗅ぎつける間ほどであれ、慈愛の心を修めるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります。
家長よ、そして、すなわち、ヴェーラーマ婆羅門が、布施を、大いなる布施を施したとして、しかしながら、すなわち、一者の〔正しい〕見解を成就した者を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の一来たる者を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の不還たる者を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の阿羅漢を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の独覚を受益させるなら……しかしながら、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来を受益させるなら……しかしながら、すなわち、覚者を筆頭とする比丘の僧団を受益させるなら……しかしながら、すなわち、四方の僧団を指定して、精舎を作らせるなら……しかしながら、すなわち、浄信した心の者となり、帰依所として、そして、覚者のもとに、かつまた、法(教え)のもとに、さらに、僧団のもとに、赴くなら……しかしながら、すなわち、浄信した心の者となり、諸々の学びの境処を──命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を──受持するなら、もしくは、そして、すなわち、たとえ、匂いを嗅ぎつける間ほどであれ、慈愛の心を修めるなら、さらに、すなわち、たとえ、指を弾く間ほどであれ、無常の表象を修めるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります」と。〔以上が〕第十となる。
獅子吼の章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「〔獅子〕吼、そして、〔生存の〕依り所という残りものを有する者があり、コッティカとともに、サミッディとともに、腫物と表象、家、慈愛、天神があり、そして、ヴェーラーマとともに、〔章となる〕」と。
3. 有情の居住所の章
1. 三つの状況の経
21. 「比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕境位によって、ウッタラ・クル(北倶廬洲)の人間たちは、そして、三十三天〔の神々〕たちを圧倒し、さらに、ジャンブ・ディーパ(南贍部洲・閻浮提:インド大陸)の人間たちを〔圧倒します〕。どのようなものが、三つのものなのですか。〔彼らは〕我執なく執持なき者たちであり、決定された寿命ある者たちであり、殊勝の徳ある者たちです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの境位によって、ウッタラ・クルの人間たちは、そして、三十三天〔の神々〕たちを圧倒し、さらに、ジャンブ・ディーパの人間たちを〔圧倒します〕。
比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕境位によって、三十三天〔の神々〕たちは、そして、ウッタラ・クルの人間たちを圧倒し、さらに、ジャンブ・ディーパの人間たちを〔圧倒します〕。どのようなものが、三つのものなのですか。天の寿命によって、天の色艶によって、天の安楽によって。比丘たちよ、まさに、これらの三つの境位によって、三十三天〔の神々〕たちは、そして、ウッタラ・クルの人間たちを圧倒し、さらに、ジャンブ・ディーパの人間たちを〔圧倒します〕。
比丘たちよ、三つのものがあります。〔これらの〕境位によって、ジャンブ・ディーパの人間たちは、そして、ウッタラ・クルの人間たちを圧倒し、さらに、三十三天〔の神々〕たちを〔圧倒します〕。どのようなものが、三つのものなのですか。〔彼らは〕勇士たちであり、気づきある者たちであり、ここに、梵行の住があります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの境位によって、ジャンブ・ディーパの人間たちは、そして、ウッタラ・クルの人間たちを圧倒し、さらに、三十三天〔の神々〕たちを〔圧倒します〕」と。〔以上が〕第一となる。
2. 野馬たる馬の経
22. 「比丘たちよ、では、三つの野馬たる馬を、かつまた、三つの野馬たる人を、そして、三つの駿馬たる馬を、かつまた、三つの駿馬たる人を、さらに、三つの賢馬にして良馬たる馬を、かつまた、三つの賢馬にして良馬たる人を、説示しましょう。それを聞きなさい。
比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの野馬たる馬なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる馬は、速さを成就した者として、〔世に〕有ります──栄誉(色艶)を成就した者ではなく、高さと広さ(均整)を成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる馬は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有ります──高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる馬は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの野馬たる馬があります。
比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの野馬たる人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の野馬たる人は、速さを成就した者として〔世に〕有ります──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有ります──高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、また、ここに、一部の野馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。
(1)比丘たちよ、では、どのように、野馬たる人は、速さを成就した者として〔世に〕有るのですか──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)について、高次の律理(対律・勝律)について、問いを尋ねられたなら、放置し、回答しません。彼の栄誉ならざることについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有りません。彼の高さと広さなきことについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、野馬たる人は、速さを成就した者として、〔世に〕有ります──栄誉を成就した者ではなく、高さと広さを成就した者ではなく。
(2)比丘たちよ、では、どのように、野馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有るのですか──高さと広さを成就した者ではなく。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律理について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有りません。彼の高さと広さなきことについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、野馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、〔世に〕有ります──高さと広さを成就した者ではなく。
(3)比丘たちよ、では、どのように、野馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律理について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼の高さと広さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、野馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの野馬たる人があります。
比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの駿馬たる馬なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の駿馬たる馬は……略……そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの駿馬たる馬があります。
比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの駿馬たる人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の駿馬たる人は……略……そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。
(4・5・6)比丘たちよ、では、どのように、駿馬たる人は……略……そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律理について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼の高さと広さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、駿馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの駿馬たる人があります。
比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの賢馬にして良馬たる馬なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の賢馬にして良馬たる馬は……略……そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの賢馬にして良馬たる馬があります。
比丘たちよ、では、どのようなものが、三つの賢馬にして良馬たる人なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の賢馬にして良馬たる人は……略……そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。
(7・8・9)比丘たちよ、では、どのように、賢馬にして良馬たる人は……略……そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼の速さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、高次の法理について、高次の律理について、問いを尋ねられたなら、回答し、放置しません。彼の栄誉について、このことを、〔わたしは〕説きます。また、まさに、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。彼の高さと広さについて、このことを、〔わたしは〕説きます。比丘たちよ、このように、まさに、賢馬にして良馬たる人は、そして、速さを成就した者として、かつまた、栄誉を成就した者として、さらに、高さと広さを成就した者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、まさに、これらの三つの賢馬にして良馬たる人があります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 渇愛の根元の経
23. 「比丘たちよ、九つの渇愛の根元の法(性質)を説示しましょう。それを聞きなさい。比丘たちよ、では、どのようなものが、九つの渇愛の根元の法(性質)なのですか。(1)渇愛を縁として、遍き探し求めがあります。(2)遍き探し求めを縁として、利得があります。(3)利得を縁として、〔断定的〕判断があります。(4)〔断定的〕判断を縁として、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があります。(5)欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を縁として、固執があります。(6)固執を縁として、執持〔の対象〕(所有物)があります。(7)執持〔の対象〕を縁として、物惜があります。(8)物惜を縁として、守護があります。(9)守護を事因として、棒を与えることがあり、刃を与えることがあり、諸々の紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことがあり、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。比丘たちよ、まさに、これらの九つの渇愛の根元の法(性質)があります」と。〔以上が〕第三となる。
4. 有情の居住所の経
24. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの有情の居住所(有情居)です。どのようなものが、九つのものなのですか。(1)比丘たちよ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の有情の居住所です。
(2)比丘たちよ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵衆天〔の神々〕たちのように。これは、第二の有情の居住所です。
(3)比丘たちよ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の有情の居住所です。
(4)比丘たちよ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の有情の居住所です。
(5)比丘たちよ、表象なく得知なき有情たちが存在します。それは、たとえば、また、表象なき有情たる天〔の神々〕たちのように。これは、第五の有情の居住所です。
(6)比丘たちよ、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の有情の居住所です。
(7)比丘たちよ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の有情の居住所です。
(8)比丘たちよ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第八の有情の居住所です。
(9)比丘たちよ、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第九の有情の居住所です。比丘たちよ、まさに、これらの九つの有情の居住所があります」と。〔以上が〕第四となる。
5. 智慧の経
25. 「比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘に、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ることから、比丘たちよ、その比丘にとって、このことは、〔自己の了知を説き明かす〕言葉たるに健全なるものがあります。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』と。
比丘たちよ、では、どのように、比丘に、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有るのですか。『わたしには、貪欲を離れた心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、憤怒を離れた心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、迷妄を離れた心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、貪欲を有する法(性質)なき心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、憤怒を有する法(性質)なき心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、迷妄を有する法(性質)なき心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、欲望の生存に戻り来る法(性質)なき心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、形態の生存に戻り来る法(性質)なき心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、形態なき生存に戻り来る法(性質)なき心がある』と、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ります。比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘に、智慧によって完全無欠に蓄積された心が有ることから、比丘たちよ、その比丘にとって、このことは、〔自己の了知を説き明かす〕言葉たるに健全なるものがあります。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。〔以上が〕第五となる。
6. 石柱の経
26. 或る時のことです。かつまた、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者チャンディカープッタは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。そこで、まさに、尊者チャンディカープッタは、比丘たちに告げました。「友よ、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります(授記できる)。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』」と。
このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者チャンディカープッタに、こう言いました。「友よ、チャンディカープッタよ、まさに、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示しません。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』と。友よ、チャンディカープッタよ、しかしながら、まさに、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって完全無欠に蓄積された心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』」と。
再度また、まさに、尊者チャンディカープッタは、比丘たちに告げました。「友よ、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』」と。再度また、まさに、尊者サーリプッタは、尊者チャンディカープッタに、こう言いました。「友よ、チャンディカープッタよ、まさに、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示しません。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』と。友よ、チャンディカープッタよ、しかしながら、まさに、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって完全無欠に蓄積された心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』」と。
三度また、まさに、尊者チャンディカープッタは、比丘たちに告げました。「友よ、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』」と。三度また、まさに、尊者サーリプッタは、尊者チャンディカープッタに、こう言いました。「友よ、チャンディカープッタよ、まさに、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示しません。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』と。友よ、チャンディカープッタよ、しかしながら、まさに、デーヴァダッタは、比丘たちに、このように、法(教え)を説示します。『友よ、すなわち、まさに、比丘に、心によって完全無欠に蓄積された心が有ることから、その比丘にとって、このことは、〔自己みずから、自己のことを〕説き明かすに健全なるものがあります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知する」』と。
友よ、では、どのように、比丘に、心によって完全無欠に蓄積された心が有るのですか。『わたしには、貪欲を離れた心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、憤怒を離れた心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、迷妄を離れた心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、貪欲を有する法(性質)なき心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、憤怒を有する法(性質)なき心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、迷妄を有する法(性質)なき心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、欲望の生存に戻り来る法(性質)なき心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、形態の生存に戻り来る法(性質)なき心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。『わたしには、形態なき生存に戻り来る法(性質)なき心がある』と、心によって完全無欠に蓄積された心が有ります。友よ、このように、まさに、正しく心が解脱した比丘に、たとえ、もし、激しいものとして、眼によって識知されるべき諸々の形態が、眼の視野にやってくるも、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。彼の心は、まさしく、混合なきものに作り為され、安立し不動に至り得たものと成り、そして、その〔形態〕の衰失を随観します。
友よ、それは、たとえば、また、十六クック(長さの単位・一クックは約五十センチ)の石柱があるとします。その〔石柱〕の、八クックは基部の下に在し、八クックは基部の上にあります。そこで、東の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、それを、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもありません。そこで、西の方角から……。そこで、北の方角から……。そこで、南の方角から、たとえ、もし、激しい風雨がやってくるとして、まさしく、それを、等しく動転させることもなく、等しく激動させることもありません。それは、何を因とするのですか。友よ、石柱の基部が深く、善く埋められているからです。友よ、まさしく、このように、まさに、このように(※)、正しく心が解脱した比丘に、たとえ、もし、激しいものとして、眼によって識知されるべき諸々の形態が、眼の視野にやってくるも、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。彼の心は、まさしく、混合なきものに作り為され、安立し不動に至り得たものと成り、そして、その〔形態〕の衰失を随観します。
※ PTS版により evaṃ を補う。
たとえ、もし、激しいものとして、耳によって識知されるべき諸々の音声が……鼻によって識知されるべき諸々の臭気が……舌によって識知されるべき諸々の味感が……身によって識知されるべき諸々の感触が……意によって識知されるべき諸々の法(意の対象)が、意の視野にやってくるも、彼の心を完全に奪い去ることは、まさしく、ありません。彼の心は、まさしく、混合なきものに作り為され、安立し不動に至り得たものと成り、そして、その〔法〕の衰失を随観します」と。〔以上が〕第六となる。
7. 第一の怨念の経
27. そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。
「家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう(授記する)。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。
どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)家長よ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。命あるものを殺すことから離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。命あるものを殺すことから離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。
(2)家長よ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は……(4)虚偽を説く者は……(5)穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。
どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(6)家長よ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。
(7)法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。
(8)僧団にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。
(9)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。
家長よ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第七となる。
8. 第二の怨念の経
28. 「比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、四つの預流の支分を具備した者と成ることから、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』と。
どのような五つの恐怖と怨念が寂止したものと成るのですか。(1)比丘たちよ、すなわち、命あるものを殺す者は、命あるものを殺すことを縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。……略……このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。
(2・3・4)比丘たちよ、すなわち、与えられていないものを取る者は……略……(5)穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位ある者は、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位を縁として、所見の法(現世)としての恐怖と怨念をもまた生み出し、未来のものとしての恐怖と怨念をもまた生み出し、心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者は、まさしく、所見の法(現世)としての恐怖と怨念を生み出さず、未来のものとしての恐怖と怨念を生み出さず、心の属性としての苦痛と失意を得知しません。穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者には、このように、その恐怖と怨念は寂止したものと成ります。これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ります。
どのような四つの預流の支分を具備した者と成るのですか。(6)比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(7・8)法(教え)にたいする……略……僧団にたいする……。(9)聖者たちに愛される諸戒を具備した者として〔世に〕有ります──破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させる〔諸戒〕を。これらの四つの預流の支分を具備した者と成ります。
比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子には、これらの五つの恐怖と怨念が寂止したものと成ることから、そして、これらの四つの預流の支分を具備した者と成ることから、彼は、望んでいるなら、まさしく、自己みずから、自己のことを説き明かすでしょう。『〔わたしは〕地獄が滅尽した者として〔世に〕存している──畜生の胎が滅尽した者として、餓鬼の境域が滅尽した者として、悪所と悪趣と堕所が滅尽した者として。預流たる者として、わたしは〔世に〕存している──堕所の法(性質)なき者であり、決定の者であり、正覚を行き着く所とする者である』」と。〔以上が〕第八となる。
9. 憤懣の基盤の経
29. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの憤懣の基盤です。どのようなものが、九つのものなのですか。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった』と……略……(5)義(利益)ならざることを行なう』と……略……(6)義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった』と……略……(8)義(利益)を行なう』と……略……(9)義(利益)を行なうであろう』と、憤懣を結びます。比丘たちよ、まさに、これらの九つの憤懣の基盤があります」と。〔以上が〕第九となる。
10. 憤懣の調伏の経
30. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの憤懣の調伏(取り除き)です。どのようなものが、九つのものなのですか。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった。それ(他者の阻止)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう(他者の行為はどうにもならない)』と、憤懣を取り除きます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった。……略……(5)義(利益)ならざることを行なう。……略……(6)義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった。……略……(8)義(利益)を行なう。……略……(9)義(利益)を行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。比丘たちよ、まさに、これらの九つの憤懣の調伏があります」と。〔以上が〕第十となる。
11. 順次の止滅の経
31. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの順次の止滅です。どのようなものが、九つのものなのですか。(1)第一の瞑想(初禅・第一禅)に入定した者には、欲望の表象が止滅したものと成ります。(2)第二の瞑想(第二禅)に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が止滅したものと成ります。(3)第三の瞑想(第三禅)に入定した者には、喜悦が止滅したものと成ります。(4)第四の瞑想(第四禅)に入定した者には、出息と入息が止滅したものと成ります。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)に入定した者には、形態の表象が止滅したものと成ります。(6)識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(7)無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(9)表象と感覚の止滅(想受滅)に入定した者には、そして、表象が、さらに、感受が、止滅したものと成ります。比丘たちよ、まさに、これらの九つの順次の止滅があります」と。〔以上が〕第十一となる。
有情の居住所の章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「三つの状況、野馬、渇愛、有情と智慧、石柱、二つの怨念、二つの憤懣があり、そして、順次の止滅とともに、〔章となる〕」と。
4. 大いなるものの章
1. 順次の住の経
32. 「比丘たちよ、九つのものがあります。これらの順次の住です。どのようなものが、九つのものなのですか。第一の瞑想であり、第二の瞑想であり、第三の瞑想であり、第四の瞑想であり、虚空無辺なる〔認識の〕場所であり、識知無辺なる〔認識の〕場所であり、無所有なる〔認識の〕場所であり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所であり、表象と感覚の止滅です。比丘たちよ、まさに、これらの九つの順次の住があります」と。〔以上が〕第一となる。
2. 順次の住への入定の経
33. 「比丘たちよ、これらの九つの順次の住への入定を説示しましょう。それを聞きなさい。……略……。比丘たちよ、では、どのようなものが、九つの順次の住への入定なのですか。(1)そこにおいて、諸々の欲望が止滅し、さらに、彼らが、諸々の欲望を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、諸々の欲望が止滅し、さらに、どのような者たちが、諸々の欲望を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、諸々の欲望は止滅し、さらに、彼らは、諸々の欲望を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(2)そこにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が止滅し、さらに、彼らが、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が止滅し、さらに、どのような者たちが、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念は止滅し、さらに、彼らは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(3)そこにおいて、喜悦が止滅し、さらに、彼らが、喜悦を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、喜悦が止滅し、さらに、どのような者たちが、喜悦を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、喜悦は止滅し、さらに、彼らは、喜悦を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(4)そこにおいて、放捨の安楽が止滅し、さらに、彼らが、放捨の安楽を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、放捨の安楽が止滅し、さらに、どのような者たちが、放捨の安楽を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、放捨の安楽は止滅し、さらに、彼らは、放捨の安楽を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(5)そこにおいて、形態の表象が止滅し、さらに、彼らが、形態の表象を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、形態の表象が止滅し、さらに、どのような者たちが、形態の表象を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象(色想)の超越あることから、諸々の敵対の表象(有対想:自己に対峙対立する表象)の滅至あることから、諸々の種々なる表象(異想)に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、形態の表象は止滅し、さらに、彼らは、形態の表象を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(6)そこにおいて、虚空無辺なる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、彼らが、虚空無辺なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、虚空無辺なる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、どのような者たちが、虚空無辺なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、虚空無辺なる〔認識の〕場所は止滅し、さらに、彼らは、虚空無辺なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(7)そこにおいて、識知無辺なる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、彼らが、識知無辺なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、識知無辺なる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、どのような者たちが、識知無辺なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、識知無辺なる〔認識の〕場所は止滅し、さらに、彼らは、識知無辺なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(8)そこにおいて、無所有なる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、彼らが、無所有なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、無所有なる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、どのような者たちが、無所有なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、無所有なる〔認識の〕場所は止滅し、さらに、彼らは、無所有なる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。
(9)そこにおいて、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、彼らが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むなら、『たしかに、それらの尊者たちは、その支分によって、無欲の者たちとなり、涅槃に到達した者たちとなり、超え渡った者たちとなり、彼岸に至った者たちとなる』と、〔わたしは〕説きます。『どこにおいて、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所が止滅し、さらに、どのような者たちが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住むのですか。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ません』と、かくのごとく、或る者が、このように説くなら、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所は止滅し、さらに、彼らは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を止滅させては止滅させて〔世に〕住みます』と。比丘たちよ、たしかに、狡猾なき者であり、幻惑なき者であるなら、『善きかな』と、語られたことを大いに喜ぶでしょうし、随喜するでしょう。『善きかな』と、語られたことを大いに喜んで、随喜して、礼拝しながら、合掌の者となり、奉侍するでしょう。比丘たちよ、まさに、これらの九つの順次の住への入定があります」と。〔以上が〕第二となる。
3. 涅槃の安楽の経
34. 或る時のことです。尊者サーリプッタは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、安楽なるは、この涅槃です。友よ、安楽なるは、この涅槃です」と。このように説かれたとき、尊者ウダーインは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、また、ここにおいて、どのような安楽があるのですか。ここにおいて、それは、〔もはや〕感覚として存在しません」と。「友よ、まさに、ここにおいて、まさしく、この安楽があります。ここにおいて、それは、〔もはや〕感覚として存在しません。友よ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。友よ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。友よ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、友よ、これは、欲望の安楽と説かれます。
(1)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、欲望を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、欲望を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、思考を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、思考を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(3)友よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、喜悦を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、喜悦を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(4)友よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、放捨〔の安楽〕を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、放捨〔の安楽〕を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、形態を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、形態を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、識知無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、識知無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、もし、この住によって〔世に〕住んでいるその比丘に、無所有なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、彼に、それらの、無所有なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、彼にとって、それは、病苦と成ります。友よ、また、まさに、すなわち、病苦は、これは、世尊によって、苦痛と説かれました。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。友よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、安楽なるは、涅槃であることが」と。〔以上が〕第三となる。
4. 雌牛の如き者の経
35. 「比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔一部の〕山の雌牛が、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智なくあるようなものです。その〔山の雌牛〕に、このような〔思いが〕存するとします。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くのだ。さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うのだ。かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むのだ』と。その〔山の雌牛〕が、前足を善く確立されたものとして確立させずして、後足を引き上げるなら、その〔山の雌牛〕は、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くこともなく、さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うこともなく、かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むこともありません。さらに、すなわち、〔その〕地域において、その〔山の雌牛〕が立っていたとき、『それなら、さあ、わたしは、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くのだ。さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うのだ。かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むのだ』と、このような〔思いが〕存したのですが、しかしながら、〔その山の雌牛は、その地域を離れてそののち、かつて立っていた〕その地域に、〔無事〕安穏に戻れません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その山の雌牛は、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智なくあるからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、巧みな智なき者として、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、その形相を、習修せず、修めず、多く為さず、善く確立されたものとして〔心に〕確立しません。
彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住むことができません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住むこともできません。比丘たちよ、この者は、『比丘として、両者から転落した者であり、両者から遍く衰退した者である。それは、たとえば、また、その山の雌牛が、愚かで、明敏ならず、田畑を知らず、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智なくあるように』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔一部の〕山の雌牛が、賢く、明敏で、田畑を知り、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智あるようなものです。その〔山の雌牛〕に、このような〔思いが〕存するとします。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くのだ。さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うのだ。かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むのだ』と。その〔山の雌牛〕が、前足を善く確立されたものとして確立させて、後足を引き上げるなら、その〔山の雌牛〕は、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くでしょうし、さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うでしょうし、かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むでしょう。さらに、すなわち、〔その〕地域において、その〔山の雌牛〕が立っていたとき、『それなら、さあ、わたしは、まさしく、そして、過去に赴いたことのない方角に赴くのだ。さらに、過去に喰ったことのない諸々の草を喰うのだ。かつまた、過去に飲んだことのない諸々の飲み物を飲むのだ』と、このような〔思いが〕存したのですが、そして、〔その山の雌牛は、その地域を離れてそののち、かつて立っていた〕その地域に、〔無事〕安穏に戻れます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、その山の雌牛は、賢く、明敏で、田畑を知り、平坦ならざる山を渡り歩くことに巧みな智あるからです。(1)比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の比丘は、賢く、明敏で、田畑を知り、巧みな智ある者として、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(2)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、第二の瞑想を損なうことなく、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(3)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、第三の瞑想を損なうことなく、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(4)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、第四の瞑想を損なうことなく、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(5)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、「虚空は、終極なきものである」と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、虚空無辺なる〔認識の〕場所を損なうことなく、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(6)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「識知〔作用〕は、終極なきものである」と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、識知無辺なる〔認識の〕場所を損なうことなく、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(7)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「何であれ、存在しない」と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、無所有なる〔認識の〕場所を損なうことなく、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(8)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を損なうことなく、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
(9)彼に、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住むのだ』と。彼は、表象と感覚の止滅を損なうことなく、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。その形相を、習修し、修め、多く為し、善く確立されたものとして〔心に〕確立します。
比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘が、まさしく、その〔入定〕その入定に、入定もまたし出起もまたすることから、彼の心は、柔和と成り、行為に適するものと〔成ります〕。柔和で行為に適する心によって、禅定は、無量なるものと成り、善く修められたものと〔成ります〕。彼は、無量なる禅定によって、善く修められた〔禅定〕によって、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせ、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、証知による実証あることから、実証の可能性に至り得ます。
それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するのだ。一なる者としてもまた有って、多種なる者として存するのだ。多種なる者としてもまた有って、一なる者として存するのだ。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させるのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。
それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天耳の界域によって……略……』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。
それで、もし、彼が、『他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのだ。あるいは、貪欲を有する心を、「貪欲を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、貪欲を離れた心を、「貪欲を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を有する心を、「憤怒を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、憤怒を離れた心を、「憤怒を離れた心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を有する心を、「迷妄を有する心である」と覚知するのだ。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、「解脱していない心である」と覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。
それで、もし、彼が、『無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。
それで、もし、彼が、『人間を超越した清浄の天眼によって……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。
それで、もし、彼が、『諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます」と。〔以上が〕第四となる。
5. 瞑想の経
36. 「比丘たちよ、わたしは、第一の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは、第二の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは、第三の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは、第四の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは、虚空無辺なる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは、識知無辺なる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは無所有なる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。比丘たちよ、わたしは、表象と感覚の止滅にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます。
(1)『比丘たちよ、わたしは、第一の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態(色)の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕(受)の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕(想)の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕(行)の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕(識)の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域(涅槃)に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、射手が、あるいは、射手の内弟子が、あるいは、草の人形にたいし、あるいは、粘土の塊にたいし、訓練を為して、彼は、他時にあって、そして、遠くから射る者と成り、かつまた、瞬時に貫く者と〔成り〕、さらに、大いなる身体を切り裂く者と〔成るように〕、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。『比丘たちよ、わたしは、第一の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(2)『比丘たちよ、わたしは、第二の瞑想にもまた依拠して……略……。(3)『比丘たちよ、わたしは、第三の瞑想にもまた依拠して……略……。(4)『比丘たちよ、わたしは、第四の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、射手が、あるいは、射手の内弟子が、あるいは、草の人形にたいし、あるいは、粘土の塊にたいし、訓練を為して、彼は、他時にあって、そして、遠くから射る者と成り、かつまた、瞬時に貫く者と〔成り〕、さらに、大いなる身体を切り裂く者と〔成るように〕、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、形態の在り方をしたものとして有り、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。『比丘たちよ、わたしは、第四の瞑想にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(5)『比丘たちよ、わたしは、虚空無辺なる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、射手が、あるいは、射手の内弟子が、あるいは、草の人形にたいし、あるいは、粘土の塊にたいし、訓練を為して、彼は、他時にあって、そして、遠くから射る者と成り、かつまた、瞬時に貫く者と〔成り〕、さらに、大いなる身体を切り裂く者と〔成るように〕、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕……略……その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。『比丘たちよ、わたしは、虚空無辺なる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(6)『比丘たちよ、わたしは、識知無辺なる〔認識の〕場所にもまた依拠して……略……。『(7)比丘たちよ、わたしは、無所有なる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、射手が、あるいは、射手の内弟子が、あるいは、草の人形にたいし、あるいは、粘土の塊にたいし、訓練を為して、彼は、他時にあって、そして、遠くから射る者と成り、かつまた、瞬時に貫く者と〔成り〕、さらに、大いなる身体を切り裂く者と〔成るように〕、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、それが、そこにおいて、感受〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、表象〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものとして〔有り〕、識知〔作用〕の在り方をしたものとして〔有るなら〕、それらの法(事象)を、無常〔の観点〕から、苦痛〔の観点〕から、病〔の観点〕から、腫物〔の観点〕から、矢〔の観点〕から、悩苦〔の観点〕から、病苦〔の観点〕から、他者〔の観点〕から、崩壊〔の観点〕から、空〔の観点〕から、無我〔の観点〕から、等しく随観します。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去ります。彼は、それらの法(事象)から、心を放ち去って、不死の界域に、心を近しく集中します。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である』と。彼は、そこにおいて安立し、諸々の煩悩の滅尽に至り得ます。もし、諸々の煩悩の滅尽に至り得ないなら、まさしく、その、法(性質)にたいする貪り〔の思い〕によって、その、法(性質)にたいする愉悦〔の思い〕によって、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。『比丘たちよ、わたしは、無所有なる〔認識の〕場所にもまた依拠して、諸々の煩悩の滅尽を説きます』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
比丘たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、表象ある入定として、そのかぎりの了知の理解が〔説かれました〕。(8・9)比丘たちよ、さらに、すなわち、まさに、これらのものに依拠して、二つの〔認識の〕場所があります。そして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所であり、さらに、表象と感覚の止滅です。比丘たちよ、入定に巧みな智あり、入定からの出起に巧みな智ある、瞑想者たちによって、これら〔の禅定〕に入定して、出起して〔そののち〕、〔二つの認識の場所が〕正しく告げ知らされるべきです。かくのごとく、〔わたしは〕説きます」と。〔以上が〕第五となる。
6. アーナンダの経
37. 或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。
「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、これほどのものとして、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が随覚されたのです──有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。(1)まさしく、すなわち、まさに、眼も有るでしょうし、すなわち、諸々の形態も〔有るでしょうが〕、しかしながら、その〔認識の〕場所を得知することはないのです。(2)まさしく、すなわち、まさに、耳も有るでしょうし、すなわち、諸々の音声も〔有るでしょうが〕、しかしながら、その〔認識の〕場所を得知することはないのです。(3)まさしく、すなわち、まさに、鼻も有るでしょうし、すなわち、諸々の臭気も〔有るでしょうが〕、しかしながら、その〔認識の〕場所を得知することはないのです。(4)まさしく、すなわち、まさに、舌も有るでしょうし、すなわち、諸々の味感も〔有るでしょうが〕、しかしながら、その〔認識の〕場所を得知することはないのです。(5)まさしく、すなわち、まさに、身も有るでしょうし、すなわち、諸々の感触も〔有るでしょうが〕、しかしながら、その〔認識の〕場所を得知することはないのです」と。
このように説かれたとき、尊者ウダーインは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、いったい、まさに、まさしく、表象ある者として、その〔認識の〕場所を得知しないのですか──もしくは、表象なき者として〔得知しないのですか〕」と。「友よ、まさしく、表象ある者として、まさに、その〔認識の〕場所を得知しません──表象なき者として、ではなく」と。
「友よ、また、どのような表象ある者として、その〔認識の〕場所を得知しないのですか」と。「(6)友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、このように、表象ある者としてあるもまた、まさに、その〔認識の〕場所を得知しません。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、このように、表象ある者としてあるもまた、まさに、その〔認識の〕場所を得知しません。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、このように、表象ある者としてあるもまた、まさに、その〔認識の〕場所を得知しません(※)。
※ テキストには paṭisaṃvedetī’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。
友よ、これは、或る時のことです。わたしは、サーケータに住んでいます。アンジャナ林の鹿園において。友よ、そこで、まさに、ジャティラヴァーシカー比丘尼が、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に坐りました。友よ、一方に坐った、まさに、ジャティラヴァーシカー比丘尼は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アーナンダよ、すなわち、この禅定は、かつまた、傾いたものではなく、かつまた、逸れたものではなく、かつまた、形成〔作用〕を有し制御して阻止に至ったものでもなく、解脱したことから安立し、安立したことから、満足し、満足したことから、思い悩みません。尊き方よ、アーナンダよ、この禅定は、世尊によって、どのような果あるものと説かれたのですか』と。
(9)友よ、このように説かれたとき、〔まさに〕その、わたしは、ジャティラヴァーシカー比丘尼に、こう言いました。『姉妹よ、すなわち、この禅定は、かつまた、傾いたものではなく、かつまた、逸れたものではなく、かつまた、形成〔作用〕を有し制御して阻止に至ったものでもなく、解脱したことから安立し、安立したことから、満足し、満足したことから、思い悩みません。姉妹よ、この禅定は、世尊によって、了知の果あるものと説かれました』と。友よ、このように、表象ある者としてあるもまた、まさに、その〔認識の〕場所を得知しません」と。〔以上が〕第六となる。
7. 順世派の経
38. そこで、まさに、二者の順世派(順世外道:唯物論者)の婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの婆羅門たちは、世尊に、こう言いました。
「貴君ゴータマよ、プーラナ・カッサパ(六師外道の一者・道徳否定論者)は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と。彼は、このように言います。『わたしは、終極なき知恵によって、終極なき世を、〔あるがままに〕知りながら、〔あるがままに〕見ながら、〔世に〕住む』と。貴君ゴータマよ、このニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)もまた、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と。彼は、このように言います。『わたしは、終極なき知恵によって、終極なき世を、〔あるがままに〕知りながら、〔あるがままに〕見ながら、〔世に〕住む』と。貴君ゴータマよ、〔あるがままの〕知恵を説く者たちである両者の、互いに他と正反対のものを説く者たちである両者の、これら者たちの、誰が、真理を言ったのですか、誰が、虚偽を〔言ったのですか〕」と。
「婆羅門たちよ、十分です。『〔あるがままの〕知恵を説く者たちである両者の、互いに他と正反対のものを説く者たちである両者の、これら者たちの、誰が、真理を言ったのですか、誰が、虚偽を〔言ったのですか〕』という、このことは、ほうっておきなさい。婆羅門たちよ、法(真理)を、あなたたちに説示しましょう。それを、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、それらの婆羅門たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「婆羅門たちよ、それは、たとえば、また、四者の人が四つの方角に立ち、そして、最高の速さを、さらに、最高の歩幅を、具備しているとします。彼らは、このような形態の速さを具備した者たちとして存しています。それは、たとえば、また、まさに、強弓をもつ弓の使い手として習練し鍛練し訓練した弓術の達人が、矢で軽々と難少なく、ターラ〔樹〕の影を横切り、射通すほどに。さらに、このような形態の最高の歩幅を〔具備した者たちとして存しています〕。それは、たとえば、また、まさに、東の海から西の海ほどに。そこで、東の方角に立つ人が、このように説くとします。『赴くことによって、わたしは、世の終極に至り得るのだ』と。彼は、まさしく、食べたり飲んだり咀嚼したり臥したりするより他には、大小便の行為より他には、眠気や疲労を除き去るより他には、百年の寿命ある者として、百年の生命ある者として、百年のあいだ赴いて、まさしく、世の終極に至り得ずして、中途に、命を終えるでしょう。そこで、西の方角に……略……。そこで、北の方角に……略……。そこで、南の方角に立つ人が、このように説くとします。『赴くことによって、わたしは、世の終極に至り得るのだ』と。彼は、まさしく、食べたり飲んだり咀嚼したり臥したりするより他には、大小便の行為より他には、眠気や疲労を除き去るより他には、百年の寿命ある者として、百年の生命ある者として、百年のあいだ赴いて、まさしく、世の終極に至り得ずして、中途に、命を終えるでしょう。それは、何を因とするのですか。婆羅門たちよ、『世の終極は、このような形態の走り行くことによって、知るべきであり、見るべきであり、至り得るべきである』と、わたしは説きません。婆羅門たちよ、さらに、『世の終極に至り得ずして、苦しみの終極を為すべきである』〔と〕、わたしは説きません。
婆羅門たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性であり、聖者の律において、『世』と説かれます。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。婆羅門たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があり、聖者の律において、『世』と説かれます。
(1)婆羅門たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門たちよ、この者は、『比丘として、世の終極に至り着いて、世の終極において住む』〔と〕説かれます。彼のことを、他の者たちは、このように言います。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。婆羅門たちよ、まさに、わたしもまた、このように説きます。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。
(2)婆羅門たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……(3)第三の瞑想を……(4)第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門たちよ、この者は、『比丘として、世の終極に至り着いて、世の終極において住む』〔と〕説かれます。彼のことを、他の者たちは、このように言います。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。婆羅門たちよ、まさに、わたしもまた、このように説きます。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。
(5)婆羅門たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。婆羅門たちよ、この者は、『比丘として、世の終極に至り着いて、世の終極において住む』〔と〕説かれます。彼のことを、他の者たちは、このように言います。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。婆羅門たちよ、まさに、わたしもまた、このように説きます。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。
(6)婆羅門たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……略……(7)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……略……(8)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。婆羅門たちよ、この者は、『比丘として、世の終極に至り着いて、世の終極において住む』〔と〕説かれます。彼のことを、他の者たちは、このように言います。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。婆羅門たちよ、まさに、わたしもまた、このように説きます。『この者もまた、世に属している。この者もまた、世から出離していない』と。
(9)婆羅門たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。婆羅門たちよ、この者は、『比丘として、世の終極に至り着いて、世の終極において住む──世における執着を超えた者となり』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第七となる。
8. 天〔の神々〕たちと阿修羅たちの戦いの経
39. 「比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、また、まさに、その戦いにおいて、阿修羅たちが勝利し、天〔の神々〕たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、敗北した天〔の神々〕たちは、まさしく、北に向かって離れ去り、阿修羅たちは攻め立てました。比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、阿修羅たちは、まさしく、攻め立てる。それなら、さあ、わたしたちは、再度また、阿修羅たちと戦うのだ』と。比丘たちよ、再度また、まさに、天〔の神々〕たちは、阿修羅たちと戦いました。比丘たちよ、再度また、まさに、阿修羅たちが勝利し、天〔の神々〕たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、敗北した天〔の神々〕たちは、まさしく、北に向かって離れ去り、阿修羅たちは攻め立てました。
比丘たちよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、阿修羅たちは、まさしく、攻め立てる。それなら、さあ、わたしたちは、三度また、阿修羅たちと戦うのだ』と。比丘たちよ、三度また、まさに、天〔の神々〕たちは、阿修羅たちと戦いました。比丘たちよ、三度また、まさに、阿修羅たちが勝利し、天〔の神々〕たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、敗北した天〔の神々〕たちは、恐怖し、まさしく、天の都に入りました。また、そして、天の都に至った天〔の神々〕たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、わたしたちは、今現在、自己みずから住む──阿修羅たちの為しようがない者たちとなり』と。比丘たちよ、阿修羅たちにもまた、この〔思い〕が有りました。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、天〔の神々〕たちは、今現在、自己みずから住む──わたしたちの為しようがない者たちとなり』と。
比丘たちよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。比丘たちよ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちが勝利し、阿修羅たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、敗北した阿修羅たちは、まさしく、南に向かって離れ去り、天〔の神々〕たちは攻め立てました。比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、天〔の神々〕たちは、まさしく、攻め立てる。それなら、さあ、わたしたちは、再度また、天〔の神々〕たちと戦うのだ』と。比丘たちよ、再度また、まさに、阿修羅たちは、天〔の神々〕たちと戦いました。比丘たちよ、再度また、まさに、天〔の神々〕たちが勝利し、阿修羅たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、敗北した阿修羅たちは、まさしく、南に向かって離れ去り、天〔の神々〕たちは攻め立てました。
比丘たちよ、そこで、まさに、阿修羅たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、天〔の神々〕たちは、まさしく、攻め立てる。それなら、さあ、わたしたちは、三度また、天〔の神々〕たちと戦うのだ』と。比丘たちよ、三度また、まさに、阿修羅たちは、天〔の神々〕たちと戦いました。比丘たちよ、三度また、まさに、天〔の神々〕たちが勝利し、阿修羅たちは敗北しました。比丘たちよ、そして、敗北した阿修羅たちは、恐怖し、まさしく、阿修羅の都に入りました。また、そして、阿修羅の都に至った阿修羅たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、わたしたちは、今現在、自己みずから住む──天〔の神々〕たちの為しようがない者たちとなり』と。比丘たちよ、天〔の神々〕たちにもまた、この〔思い〕が有りました。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、阿修羅たちは、今現在、自己みずから住む──わたしたちの為しようがない者たちとなり』と。
(1)比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、比丘には、このような〔思い〕が有ります。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、わたしは、今現在、自己みずから住む──悪魔の為しようがない者となり』と。比丘たちよ、悪魔パーピマントにもまた、このような〔思い〕が有ります。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、比丘は、今現在、自己みずから住む──わたしの為しようがない者となり』と。
(2)比丘たちよ、その時点において、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……(3)第三の瞑想を……(4)第四の瞑想を成就して〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、比丘には、このような〔思い〕が有ります。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、わたしは、今現在、自己みずから住む──悪魔の為しようがない者となり』と。比丘たちよ、悪魔パーピマントにもまた、このような〔思い〕が有ります。『まさに、今や、恐怖からの救護所に至ったことから、比丘は、今現在、自己みずから住む──わたしの為しようがない者となり』と。
(5)比丘たちよ、その時点において、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むなら、比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を終極と為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り(※)』〔と〕説かれます。
※ テキストには adassanaṃ gato pāpimato tiṇṇo loke visattika’’’nti とあるが、PTS版により tiṇṇo loke visattika’’’nti を削除する。
(6)比丘たちよ、その時点において、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むなら……略……(7)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むなら……略……(8)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むなら……略……(9)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住むなら、そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を終極と為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り、世における執着を超えた者となり』〔と〕説かれます」と。〔以上が〕第八となる。
9. 象の経
40. 「比丘たちよ、その時点において、林にある象が餌場を追い求めていると、〔他の〕雄象たちもまた、雌象たちもまた、子象たちもまた、幼象たちもまた、〔彼の〕前から前へと赴いて、諸々の草の先端を断ち切ります。比丘たちよ、それによって、林にある象は、苦悩し、自責し、忌避します。比丘たちよ、その時点において、林にある象が餌場を追い求めていると、〔他の〕雄象たちもまた、雌象たちもまた、子象たちもまた、幼象たちもまた、〔彼が〕折り曲げては折り曲げた枝の束を喰います。比丘たちよ、それによって、林にある象は、苦悩し、自責し、忌避します。比丘たちよ、その時点において、林にある象が水場に入ったなら、〔他の〕雄象たちもまた、雌象たちもまた、子象たちもまた、幼象たちもまた、〔彼の〕前から前へと赴いて、水を鼻で散らかします。比丘たちよ、それによって、林にある象は、苦悩し、自責し、忌避します。比丘たちよ、その時点において、林にある象が水場から上がったなら、雌象たちが身体を擦り寄せながら赴きます。比丘たちよ、それによって、林にある象は、苦悩し、自責し、忌避します。
比丘たちよ、その時点において、林にある象には、このような〔思い〕が有ります。『わたしは、まさに、今現在、雄象たちや雌象たちや子象たちや幼象たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住む。まさしく、そして、〔わたしは〕先端が断ち切られた諸々の草を喰い、さらに、わたしが折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔彼らは〕喰う。そして、〔わたしは〕濁った諸々の飲み水を飲み、さらに、わたしが水場から上がると、雌象たちは身体を擦り寄せながら赴く。それなら、さあ、わたしは、独り、〔象たちの〕群れから隠棲し、〔世に〕住むのだ』と。彼は、他時にあって、独り、〔象たちの〕群れから隠棲し、〔世に〕住みます。まさしく、そして、〔彼は〕先端が断ち切られていない諸々の草を喰い、さらに、彼が折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔他の象たちが〕喰うこともありません。そして、〔彼は〕濁っていない諸々の飲み水を飲み、さらに、彼が水場から上がると、雌象たちが身体を擦り寄せながら赴くこともありません。
比丘たちよ、その時点において、林にある象には、このような〔思い〕が有ります。『わたしは、まさに、過去において、雄象たちや雌象たちや子象たちや幼象たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住んでいた。まさしく、そして、〔わたしは〕先端が断ち切られた諸々の草を喰い、さらに、わたしが折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔彼らは〕喰った。そして、〔わたしは〕濁った諸々の飲み水を飲み、さらに、わたしが水場から上がると、雌象たちは身体を擦り寄せながら赴いた。〔まさに〕その、わたしは、今現在、独り、〔象たちの〕群れから隠棲し、〔世に〕住む。まさしく、そして、〔わたしは〕先端が断ち切られていない諸々の草を喰い、さらに、わたしが折り曲げては折り曲げた枝の束を、〔彼らが〕喰うこともない。そして、〔わたしは〕濁っていない諸々の飲み水を飲み、さらに、わたしが水場から上がると、雌象たちが身体を擦り寄せながら赴くこともない』と。その〔象〕は、鼻で、枝の束を折って、枝の束で身体を擦って、わが意を得た者となり、鼻をたたみます。
比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、比丘が、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住むなら、比丘たちよ、その時点において、比丘には、このような〔思い〕が有ります。『わたしは、まさに、今現在、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住む。それなら、さあ、わたしは、独り、〔人々の〕群れから隠棲し、〔世に〕住むのだ』と。彼は、遠離の臥坐所である、林に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。
彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕(疑)を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、(1)まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、わが意を得た者となります──鼻をたたむ〔象のように〕。(2)〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……(3)第三の瞑想を……(4)第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、わが意を得た者となります──鼻をたたむ〔象のように〕。
(5)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。彼は、わが意を得た者となります──鼻をたたむ〔象のように〕。(6)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……。(7)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……。(8)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……。(9)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。彼は、わが意を得た者となります──鼻をたたむ〔象のように〕」と。〔以上が〕第九となる。
10. タプッサの経
41. 或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕に住んでおられます。マッラ〔国〕には、ウルヴェーラカッパという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ウルヴェーラカッパに〔行乞の〕食のために入りました。ウルヴェーラカッパにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、すなわち、わたしが、昼の休息のために、マハー林に深く分け入っているあいだ、それまで、あなたは、まさしく、ここに有りなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、マハー林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。
そこで、まさに、タプッサ家長が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、タプッサ家長は、尊者アーナンダに、こう言いました。
「尊き方よ、アーナンダよ、わたしたちは、欲望〔の対象〕を喜びとし、欲望〔の対象〕を喜び、欲望〔の対象〕に歓喜する、欲望の享受者たる在家者たちです。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさに、欲望〔の対象〕を喜びとし、欲望〔の対象〕を喜び、欲望〔の対象〕に歓喜する、欲望の享受者たる在家者たちには、深淵のように思われます。すなわち、この、離欲です。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『この法(教え)と律において、若くあるうえにも若くある比丘たちも、離欲にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱する──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。尊き方よ、〔まさに〕その、このことは、この法(教え)と律における比丘たちと、多くの人々とでは、部分を共にしません(相違する)。すなわち、この、離欲です」と。
「家長よ、まさに、このことは、世尊と会見するための議題として存します。家長よ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。
「尊き方よ、わかりました」と、まさに、タプッサ家長は、尊者アーナンダに答えました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、タプッサ家長と共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、このタプッサ家長が、このように言いました。『尊き方よ、アーナンダよ、わたしたちは、欲望〔の対象〕を喜びとし、欲望〔の対象〕を喜び、欲望〔の対象〕に歓喜する、欲望の享受者たる在家者たちです。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさに、欲望〔の対象〕を喜びとし、欲望〔の対象〕を喜び、欲望〔の対象〕に歓喜する、欲望の享受者たる在家者たちには、深淵のように思われます。すなわち、この、離欲です。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。「この法(教え)と律において、若くあるうえにも若くある比丘たちも、離欲にたいし、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱する──このことを『寂静』と見ながら」〔と〕。尊き方よ、〔まさに〕その、このことは、この法(教え)と律における比丘たちと、多くの人々とでは、部分を共にしません。すなわち、この、離欲です』」と。
「アーナンダよ、このように、このことはあります。アーナンダよ、このように、このことはあります。(1)アーナンダよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしにもまた、この〔思い〕が有りました。『善きかな、離欲は。善きかな、遠離は』と。アーナンダよ、離欲にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、離欲にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、諸々の欲望〔の対象〕における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、離欲における福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、離欲にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、諸々の欲望〔の対象〕における危険を見て、それを多きものと為し、離欲における福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、離欲にたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、諸々の欲望〔の対象〕における危険を見て、それを多きものと為し、離欲における福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、離欲にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、欲望を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、欲望を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(2)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、思考なきものにたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、思考なきものにたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、諸々の思考における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、思考なきものにおける福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、思考なきものにたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、諸々の思考における危険を見て、それを多きものと為し、思考なきものにおける福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、思考なきものにたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、諸々の思考における危険を見て、それを多きものと為し、思考なきものにおける福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、思考なきものにたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、思考を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、思考を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(3)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、「放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である」と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、喜悦なくあるものにたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、喜悦なくあるものにたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、喜悦における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、喜悦なくあるものにおける福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、喜悦なくあるものにたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、喜悦における危険を見て、それを多きものと為し、喜悦なくあるものにおける福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、喜悦なくあるものにたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、喜悦における危険を見て、それを多きものと為し、喜悦なくあるものにおける福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、喜悦なくあるものにたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、喜悦を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、喜悦を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(4)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、苦でもなく楽でもないものにたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、苦でもなく楽でもないものにたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、放捨の安楽における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、苦でもなく楽でもないものにおける福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、苦でもなく楽でもないものにたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、放捨の安楽における危険を見て、それを多きものと為し、苦でもなく楽でもないものにおける福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、苦でもなく楽でもないものにたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、放捨の安楽における危険を見て、それを多きものと為し、苦でもなく楽でもないものにおける福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、苦でもなく楽でもないものにたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、放捨〔の安楽〕を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、放捨〔の安楽〕を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(5)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、「虚空は、終極なきものである」と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、虚空無辺なる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、虚空無辺なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、諸々の形態における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、虚空無辺なる〔認識の〕場所における福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、虚空無辺なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、諸々の形態における危険を見て、それを多きものと為し、虚空無辺なる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、虚空無辺なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、諸々の形態における危険を見て、それを多きものと為し、虚空無辺なる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、虚空無辺なる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、形態を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、形態を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(6)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「識知〔作用〕は、終極なきものである」と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、識知無辺なる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、識知無辺なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、虚空無辺なる〔認識の〕場所における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、識知無辺なる〔認識の〕場所における福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、識知無辺なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、虚空無辺なる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、識知無辺なる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、識知無辺なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、虚空無辺なる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、識知無辺なる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、識知無辺なる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、虚空無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(7)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、「何であれ、存在しない」と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、無所有なる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、無所有なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、識知無辺なる〔認識の〕場所における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、無所有なる〔認識の〕場所における福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、無所有なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、識知無辺なる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、無所有なる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、無所有なる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、識知無辺なる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、無所有なる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、無所有なる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、識知無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、識知無辺なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(8)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、無所有なる〔認識の〕場所における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所における福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、無所有なる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所にたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、無所有なる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所における福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。アーナンダよ、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、無所有なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。アーナンダよ、それは、たとえば、また、安楽ある者には、病苦あるために、そのかぎりにおいて、苦痛が生起するように、まさしく、このように、この住によって〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、無所有なる〔認識の〕場所を共具したものとして、諸々の表象に意を為すことが慣行となるなら、〔まさに〕その、わたしにとって、それは、病苦と成ります。
(9)アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住むのだ』と。アーナンダよ、表象と感覚の止滅にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しません──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、表象と感覚の止滅にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのか──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所における危険は、わたしによって、〔いまだ〕見られていない。そして、それは、わたしによって、〔いまだ〕多きものと為されていない。かつまた、表象と感覚の止滅における福利は、〔いまだ〕到達されていない。さらに、それは、わたしによって、〔いまだ〕習修されていない。それゆえに、表象と感覚の止滅にたいし、わたしの心は、跳入せず、浄信せず、確立せず、解脱しないのだ──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それで、もし、まさに、わたしが、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、表象と感覚の止滅における福利に到達して、それを習修するなら、また、まさに、この状況は見出される。すなわち、表象と感覚の止滅にたいし、わたしの心は、跳入するであろうし、浄信するであろうし、確立するであろうし、解脱するであろう──このことを「寂静」と見ながら』〔と〕。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所における危険を見て、それを多きものと為し、表象と感覚の止滅における福利に到達して、それを習修しました。アーナンダよ、表象と感覚の止滅にたいし、〔まさに〕その、わたしの、心は、跳入し、浄信し、確立し、解脱します──このことを『寂静』と見ながら。アーナンダよ、それで、まさに、わたしは、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、わたしの諸々の煩悩は、完全なる滅尽に至りました。
アーナンダよ、さてまた、何はともあれ、わたしが、これらの九つの順次の住への入定に、このように、順逆に、入定もまたし出起もまたすることがなかったあいだは、アーナンダよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。アーナンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしが、これらの九つの順次の住への入定に、順逆に、入定もまたし出起もまたしたことから、アーナンダよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。〔以上が〕第十となる。
大いなるものの章が第四となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、二つの住、涅槃、雌牛があり、第五のものとして、瞑想とともに、アーナンダ、婆羅門たち、天〔の神〕があり、象とともに、さらに、タプッサともに、〔章となる〕」と。
5. 同等の章
1. 煩雑なるものの経
42. 或る時のことです。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者ウダーインが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ウダーインは、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、この〔言葉〕が、パンチャーラ・チャンダ天子によって説かれました。
〔すなわち〕『煩雑なるもののうちにありながら、去り行くところを、〔出離の〕空間となるものを、広き思慮ある方(ブッダ)は見出した──すなわち、瞑想を覚った、覚者として、〔世俗から〕退去した雄牛たる牟尼は』と。
友よ、世尊によって、どのようなものが、煩雑なるものと〔説かれ〕、どのようなものが、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達と説かれたのですか」と。「友よ、五つのものがあります。これらの欲望の属性が、世尊によって、煩雑なるものと説かれました。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。友よ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。友よ、まさに、これらの五つの欲望の属性が、世尊によって、煩雑なるものと説かれました。
(1)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕(具体的説明)によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、喜悦が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(3)友よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、放捨の安楽が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(4)友よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、形態の表象が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(7)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、無所有なる〔認識の〕場所の表象が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。そこでもまた、煩雑なるものが存在します。では、どのようなものが、そこにおいて、煩雑なるものとなるのですか。まさしく、すなわち、そこにおいて、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所の表象が、〔いまだ〕止滅していないものとして有り、これが、ここにおいて、煩雑なるものとなります。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。友よ、このことからもまた、まさに、煩雑なるもののうちにありながら、〔出離の〕空間への到達が説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕(理論的説明)によって」と。〔以上が〕第一となる。
2. 身体による実証者の経
43. 「友よ、『身体による実証者』『身体による実証者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、身体による実証者と説かれたのですか──世尊によって」と。「(1)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、そのとおり、そのとおりに、その〔認識の〕場所があるなら、そのとおり、そのとおりに、それと、身体によって接触して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、身体による実証者と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。
(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……(3)第三の瞑想を……(4)第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、そのとおり、そのとおりに、その〔認識の〕場所があるなら、そのとおり、そのとおりに、それと、身体によって接触して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、身体による実証者と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。
(5・6・7・8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。そして、そのとおり、そのとおりに、その〔認識の〕場所があるなら、そのとおり、そのとおりに、それと、身体によって接触して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、身体による実証者と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、そのとおり、そのとおりに、その〔認識の〕場所があるなら、そのとおり、そのとおりに、それと、身体によって接触して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、身体による実証者と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第二となる。
3. 智慧による解脱者の経
44. 「友よ、『智慧による解脱者』『智慧による解脱者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、智慧による解脱者と説かれたのですか──世尊によって」と。
「(1・2・3・4・5・6・7・8)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって、それを覚知します。友よ、このことからもまた、まさに、智慧による解脱者と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。そして、智慧によって、それを覚知します。友よ、このことからもまた、まさに、智慧による解脱者と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第三となる。
4. 両部の解脱者の経
45. 「友よ、『両部の解脱者』『両部の解脱者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、両部の解脱者と説かれたのですか──世尊によって」と。
「(1・2・3・4・5・6・7・8)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。そして、そのとおり、そのとおりに、その〔認識の〕場所があるなら、そのとおり、そのとおりに、それと、身体によって接触して〔世に〕住みます。そして、智慧によって、それを覚知します。友よ、このことからもまた、まさに、両部の解脱者と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、そのとおり、そのとおりに、その〔認識の〕場所があるなら、そのとおり、そのとおりに、それと、身体によって接触して〔世に〕住みます。そして、智慧によって、それを覚知します。友よ、このことからもまた、まさに、両部の解脱者と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第四となる。
5. 現に見られる法の経
46. 「友よ、『現に見られる法(教え)』『現に見られる法(教え)』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、現に見られる法(教え)と説かれたのですか──世尊によって」と。
「(1・2・3・4・5・6・7・8)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、現に見られる法(教え)と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。友よ、このことからもまた、まさに、現に見られる法(教え)と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第五となる。
6. 現に見られる涅槃の経
47. 「友よ、『現に見られる涅槃』『現に見られる涅槃』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、現に見られる涅槃と説かれたのですか──世尊によって」と。
「(1・2・3・4・5・6・7・8)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、現に見られる涅槃と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。友よ、このことからもまた、まさに、現に見られる涅槃と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第六となる。
7. 涅槃の経
48. 「友よ、『涅槃』『涅槃』と説かれます。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 完全なる涅槃の経
49. 「友よ、『完全なる涅槃(般涅槃)』『完全なる涅槃』と説かれます。……略……。〔以上が〕第八となる。
9. 確実なる涅槃の経
50. 「友よ、『確実なる涅槃(一向涅槃)』『確実なる涅槃』と説かれます。……略……。〔以上が〕第九となる。
10. 所見の法における涅槃の経
51. 「友よ、『所見の法(現世)における涅槃(現法涅槃)』『所見の法(現世)における涅槃』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、所見の法(現世)における涅槃と説かれたのですか──世尊によって」と。
「(1・2・3・4・5・6・7・8)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、所見の法(現世)における涅槃と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。友よ、このことからもまた、まさに、所見の法(現世)における涅槃と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第十となる。
同等の章が第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「煩雑なるもの、身体による実証者、智慧、両部、二つの現に見られるもの、涅槃、完全なる涅槃があり、そして、確実なる〔涅槃〕と所見のものとともに、〔章となる〕」と。
第一の五十なるものは〔以上で〕完結となる。
2. 第二の五十なるもの
(6)1. 平安の章
1. 平安の経
52. 「友よ、『平安』『平安』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、平安と説かれたのですか──世尊によって」と。
「(1・2・3・4・5・6・7・8)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、平安と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。友よ、このことからもまた、まさに、平安と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第一となる。
2. 平安に至り得た者の経
53. 「友よ、『平安に至り得た者』『平安に至り得た者』と説かれます。……略……。〔以上が〕第二となる。
3. 不死の経
54. 「友よ、『不死』『不死』と説かれます。……略……。〔以上が〕第三となる。
4. 不死に至り得た者の経
55. 「友よ、『不死に至り得た者』『不死に至り得た者』と説かれます。……略……。〔以上が〕第四となる。
5. 恐怖なき〔境地〕の経
56. 「友よ、『恐怖なき〔境地〕』『恐怖なき〔境地〕』と説かれます。……略……。〔以上が〕第五となる。
6. 恐怖なき〔境地〕に至り得た者の経
57. 「友よ、『恐怖なき〔境地〕に至り得た者』『恐怖なき〔境地〕に至り得た者』と説かれます。……略……。〔以上が〕第六となる。
7. 静息の経
58. 「友よ、『静息』『静息』と説かれます。……略……。〔以上が〕第七となる。
8. 順次の静息の経
59. 「友よ、『順次の静息』『順次の静息』と説かれます。……略……。〔以上が〕第八となる。
9. 止滅の経
60. 「友よ、『止滅』『止滅』と説かれます。……略……。〔以上が〕第九となる。
10. 順次の止滅の経
61. 「友よ、『順次の止滅』『順次の止滅』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、順次の止滅と説かれたのですか──世尊によって」と。
「(1・2・3・4・5・6・7・8)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このことからもまた、まさに、順次の止滅と説かれました──世尊によって、教相〔の観点〕によって。……略……。
(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。友よ、このことからもまた、まさに、順次の止滅と説かれました──世尊によって、教相なき〔観点〕によって」と。〔以上が〕第十となる。
11. 不可能の経
62. 「比丘たちよ、九つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。どのようなものが、九つのものなのですか。貪欲であり、憤怒であり、迷妄であり、忿激であり、怨恨であり、偽装であり、加虐であり、嫉妬であり、物惜です。比丘たちよ、まさに、これらの九つの法(性質)を捨棄せずして、阿羅漢の資質を実証することが不可能となります。
比丘たちよ、九つのものがあります。〔これらの〕法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります。どのようなものが、九つのものなのですか。貪欲であり、憤怒であり、迷妄であり、忿激であり、怨恨であり、偽装であり、加虐であり、嫉妬であり、物惜です。比丘たちよ、まさに、これらの九つの法(性質)を捨棄して、阿羅漢の資質を実証することが可能となります」と。〔以上が〕第十一となる。
平安の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、平安、まさしく、そして、不死、恐怖なき〔境地〕があり、さらに、静息とともに、止滅、そして、順次があり、さらに、『法(性質)を捨棄して、可能となります』とともに、〔章となる〕」と。
(7)2. 気づきの確立の章
1. 学びの挫折の経
63. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの学びの挫折です。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことであり、与えられていないものを取ることであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)であり、虚偽を説くことであり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折の捨棄のために、四つの気づきの確立(四念処・四念住)が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折の捨棄のために、これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
2. 〔修行の〕妨害の経
64. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔修行の〕妨害(五蓋)です。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)であり、疑惑〔の思い〕(疑)です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害の捨棄のために、四つの気づきの確立が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害の捨棄のために、これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第二となる。
3. 欲望の属性の経
65. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(五妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態(色)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声(声)で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気(香)で……舌によって識知されるべき諸々の味感(味)で……身によって識知されるべき諸々の感触(触・所触)で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性の捨棄のために……略……これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第三となる。
4. 執取の範疇の経
66. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの〔心身を構成する〕執取の範疇(取蘊)です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の捨棄のために……略……これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第四となる。
5. 下なる域の経
67. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)です。どのようなものが、五つのものなのですか。身体を有するという見解(有身見)であり、疑惑〔の思い〕(疑)であり、戒や掟への偏執(戒禁取)であり、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの下なる域に束縛するものがあります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの下なる域に束縛するものの捨棄のために……略……これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第五となる。
6. 境遇の経
68. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの境遇(五趣)です。どのようなものが、五つのものなのですか。地獄であり、畜生の胎であり、餓鬼の境域であり、人間たちであり、天〔の神々〕たちです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの境遇があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの境遇の捨棄のために……略……これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第六となる。
7. 物惜〔の思い〕の経
69. 「比丘たちよ、五つのものがあります。物惜〔の思い〕です。どのようなものが、五つのものなのですか。居住への物惜〔の思い〕であり、家への物惜〔の思い〕であり、利得への物惜〔の思い〕であり、栄誉への物惜〔の思い〕であり、法(教え)への物惜〔の思い〕です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの物惜〔の思い〕があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの物惜〔の思い〕の捨棄のために……略……これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第七となる。
8. 上なる域の経
70. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの上なる域に束縛するもの(五上分結:人を色界と無色界に束縛する五つの煩悩)です。どのようなものが、五つのものなのですか。形態にたいする貪り〔の思い〕(色貪)であり、形態なきものにたいする貪り〔の思い〕(無色貪)であり、〔我想の〕思量(慢)であり、〔心の〕高揚(掉挙)であり、無明です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものがあります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの上なる域に束縛するものの捨棄のために……略……これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第八となる。
9. 心の鬱積の経
71. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの心の鬱積です。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の鬱積です。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い……略……(3)僧団にたいし、疑い……略……(4)学びにたいし、疑い……略……(5)梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の鬱積です。(※)比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の鬱積があります。(※)
※ 「比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の鬱積があります。」の欠落を、PTS版により補う。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の鬱積の捨棄のために……略……これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第九となる。
10. 心の結縛の経
72. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの心の結縛です。どのようなものが、五つのものなのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有るなら──欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として──彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の結縛です。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……(3)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……(4)〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます。……略……(5)或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して梵行を歩むなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の結縛です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛の捨棄のために、四つの気づきの確立が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛の捨棄のために、これらの四つの気づきの確立が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
気づきの確立の章が第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「学び、〔修行の〕妨害と欲望、そして、範疇、下なる域、境遇、物惜〔の思い〕、第八のものとして、上なる域、心の鬱積、結縛があり、〔章となる〕」と。
(8)3. 正しい精励の章
1. 学びの経
73. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの学びの挫折です。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことであり……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折の捨棄のために、四つの正しい精励(四正勤)が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折の捨棄のために、これらの四つの正しい精励が修められるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
74-81. (すなわち、気づきの確立の章におけるように、そのように詳知されるべきである。)
10. 心の結縛の経
82. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの心の結縛です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛の捨棄のために、四つの正しい精励が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛の捨棄のために、これらの四つの正しい精励が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
正しい精励の章が第三となる。
(9)4. 神通の足場の章
1. 学びの経
83. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの学びの挫折です。どのようなものが、五つのものなのですか。命あるものを殺すことであり……略……穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位です。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折の捨棄のために、四つの神通の足場(四神足)が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……。心(専心)の禅定と……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの学びの挫折の捨棄のために、これらの四つの神通の足場が修められるべきです」と。〔以上が〕第一となる。
84-91. (すなわち、気づきの確立の章におけるように、そのように詳知されるべきである。)
10. 心の結縛の経
92. 「比丘たちよ、五つのものがあります。これらの心の結縛です。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛があります。
比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛の捨棄のために、四つの神通の足場が修められるべきです。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……。心の禅定と……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。比丘たちよ、まさに、これらの五つの心の結縛の捨棄のために、これらの四つの神通の足場が修められるべきです」と。〔以上が〕第十となる。
神通の足場の章が第四となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、すなわち、気づきの確立のように、また、そして、四つの精励が、さらに、四つの神通の足場が、まさしく、そのように、結び付けられる」〔と〕。
(10)5. 貪欲と省略〔の経典〕
93. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、九つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが九つのものなのですか。不浄の表象であり、死の表象であり、食についての嫌悪の表象であり、一切の世についての歓楽なき表象であり、無常の表象であり、無常についての苦痛の表象であり、苦痛についての無我の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの九つの法(性質)が修められるべきです」と。
94. 「比丘たちよ、貪欲の証知のために、九つの法(性質)が修められるべきです。どのようなものが九つのものなのですか。第一の瞑想であり、第二の瞑想であり、第三の瞑想であり、第四の瞑想であり、虚空無辺なる〔認識の〕場所であり、識知無辺なる〔認識の〕場所であり、無所有なる〔認識の〕場所であり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所であり、表象と感覚の止滅です。比丘たちよ、貪欲の証知のために、これらの九つの法(性質)が修められるべきです」と。
95-112. 「比丘たちよ、貪欲の遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの九つの法(性質)が修められるべきです」と。
113-432. 「比丘たちよ、憤怒の……略……迷妄の……忿激(忿)の……怨恨(恨)の……偽装(覆)の……加虐(悩)の……嫉妬(嫉)の……物惜(慳)の……幻惑(誑)の……狡猾(諂)の……強情(傲)の……激昂(怒)の……思量(慢)の……高慢(過慢)の……驕慢(驕)の……放逸の証知のために……遍知のために……完全なる滅尽のために……捨棄のために……滅尽のために……衰失のために……離貪のために……止滅のために……施捨のために……放棄のために、これらの九つの法(性質)が修められるべきです」と。
貪欲と省略〔の経典〕は〔以上で〕終了となる。
ナヴァカ・ニパータ聖典は〔以上で〕終了となる。