中部経典(マッジマ・ニカーヤ)
中間の五十の聖典(中分五十経篇・下)
【目次】
3. 遍歴遊行者の章(続き)
6(76). サンダカの経(223.~)
7(77). 大いなるサクルダーインの経(237.~)
8(78). サマナムンディカーの経(260.~)
9(79). 小なるサクルダーインの経(269.~)
10(80). ヴェーカナサの経(278.~)
4. 王の章
1(81). ガティカーラの経(282.~)
2(82). ラッタパーラの経(293.~)
3(83). マガデーヴァの経(308.~)
4(84). マドゥラーの経(317.~)
5(85). ボーディ王子の経(324.~)
6(86). アングリマーラの経(347.~)
7(87). 愛しいものから生じるものの経(353.~)
8(88). 外衣の経(358.~)
9(89). 法の塔廟の経(364.~)
10(90). カンナカッタラの経(375.~)
5. 婆羅門の章
1(91). ブラフマーユの経(383.~)
2(92). セーラの経(396.~)
3(93). アッサラーヤナの経(401.~)
4(94). ゴータムカの経(412.~)
5(95). チャンキンの経(422.~)
6(96). エースカーリンの経(436.~)
7(97). ダナンジャーニの経(445.~)
8(98). ヴァーセッタの経(454.~)
9(99). スバの経(462.~)
10(100). サンガーラヴァの経(473.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
中間の五十の聖典(中分五十経篇・下)
3. 遍歴遊行者の章(続き)
6(76). サンダカの経
223. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、サンダカ遍歴遊行者が、ピラッカ窟に滞在しています──大いなる遍歴遊行者の衆である、五百ばかりの遍歴遊行者と共に。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夕刻時に、静坐から出起し、比丘たちに告げました。「友よ、行きましょう。デーヴァカタソッバのあるところに、そこへと近づいて行くのです──窟を見るために」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、大勢の比丘たちと共に、デーヴァカタソッバのあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、サンダカ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。まさに、サンダカ遍歴遊行者は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマの弟子である沙門アーナンダがやってくる。また、まさに、すなわち、コーサンビーに滞在するかぎりの、沙門ゴータマの弟子たちで、この者は、沙門アーナンダは、彼らのなかの随一の者である。また、まさに、それらの尊者たちは、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕に教導され、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者たちである。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。
224. そこで、まさに、尊者アーナンダは、サンダカ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、サンダカ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「まさに、貴君アーナンダは、来たれ。貴君アーナンダにとって、善き訪問と〔成れ〕。長きのはてに、まさに、貴君アーナンダは、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。貴君アーナンダは、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。まさに、尊者アーナンダは、設けられた坐に坐りました。まさに、サンダカ遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンダカ遍歴遊行者に、尊者アーナンダは、こう言いました。「サンダカよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「貴君アーナンダよ、この議論は、さておくとしましょう──その議論のために、今現在、わたしたちが着坐しているとして。この議論は、貴君アーナンダにとって、得難きものとは成らないでしょう──のちにまた、聞くための〔機会を得るでしょう〕。どうか、まさに、まさしく、貴君アーナンダに、自らの師匠伝来のものについて、法(教え)の講話が明白となれ(わたしたちに師匠伝来の法を説いてください)」と。「サンダカよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サンダカ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに答えました。尊者アーナンダは、こう言いました。「サンダカよ、これらのものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、四つの梵行ならざる住と告げ知らされ、さらに、四つの安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。「貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの梵行ならざる住と告げ知らされたのですか──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。
225. 「サンダカよ、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。捧げられたもの〔の果〕は存在しない。諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報い(異熟)は存在しない。この世は存在しない。他の世は存在しない。母は存在しない。父は存在しない。化生の有情たちは存在しない。すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない。四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)からなる、この人が、すなわち、命を終えるとき、地は、地の体系に、入り行き、入り込み、水は、水の体系に、入り行き、入り込み、火は、火の体系に、入り行き、入り込み、風は、風の体系に、入り行き、入り込み、諸々の〔感官の〕機能は、虚空に移り行く。棺を第五とする〔四者の〕人たちが死者を担いで赴き、火葬場に至るまで、諸々の句が覚知される(唱えられる)。諸々の骨は灰白色と成り、諸々の捧げものは灰と〔成る〕。愚なる者たちによって報知されたのが、すなわち、この、布施である。彼らが誰であれ、存在の論を説くなら(生命の死後存続を認めるなら)、彼らの〔言葉は〕、虚妄であり、虚偽であり、駄弁である。そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある』と。
サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在しない。祭祀された〔供物の果〕は存在しない。捧げられたもの〔の果〕は存在しない。諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない。この世は存在しない。他の世は存在しない。母は存在しない。父は存在しない。化生の有情たちは存在しない。すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない。四つの大いなる元素からなる、この人が、すなわち、命を終えるとき、地は、地の体系に、入り行き、入り込み、水は、水の体系に、入り行き、入り込み、火は、火の体系に、入り行き、入り込み、風は、風の体系に、入り行き、入り込み、諸々の〔感官の〕機能は、虚空に移り行く。棺を第五とする〔四者の〕人たちが死者を担いで赴き、火葬場に至るまで、諸々の句が覚知される。諸々の骨は灰白色と成り、諸々の捧げものは灰と〔成る〕。愚なる者たちによって報知されたのが、すなわち、この、布施である。彼らが誰であれ、存在の論を説くなら、彼らの〔言葉は〕、虚妄であり、虚偽であり、駄弁である。そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくある」と。それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「両者ともに、身体の破壊ののち、断絶し、消失し、死後において、有ることなくあるであろう」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第一の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
226. サンダカよ、さらにまた、他に、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目をもまた断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも、為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と。
サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも──為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない」と。それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「為している両者に、悪は作り為されない」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第二の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
227. サンダカよ、さらにまた、他に、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と。
サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する」と。それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「両者ともに、因なく縁なき者たちとして、清浄となるであろう」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第三の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
228. サンダカよ、さらにまた、他に、ここに、一部の教師は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず(他に影響を及ぼさない)。どのようなものが、七つのものであるのか。地の体系であり、水の体系であり、火の体系であり、風の体系であり、諸々の安楽であり、諸々の苦痛であり、第七のものとして、諸々の生命である。これらの七つの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。そこにおいては、あるいは、殺す者も、あるいは、殺させる者も、あるいは、聞く者も、あるいは、聞かせる者も、あるいは、識知する者も、あるいは、識知させる者も、存在しない。たとえ、或る者が、鋭い刃で頭を切断するも、誰であれ、誰の生命をも奪わない。まさしく、しかし、七つの体系の隙間をとおり、刃が裂け目に入り行くとして、〔それけのことである〕。また、まさに、百四十万〔の胎〕と、そして、六千〔の胎〕と、さらに、六百〔の胎〕の、これらの胎を筆頭として、さらに、行為に五百のものがあり、そして、五つの行為(眼・耳・鼻・舌・身)があり、さらに、三つの行為(身業・口業・意業)があり、そして、諸々の行為(身業と口業)があり、さらに、諸々の半分の行為(意業)があり、六十二の〔実践の〕道があり、六十二の合間のカッパ(中劫)があり、六つの出生があり、八つの人の境地があり、四千九百の生き方があり、四千九百の遍歴遊行者があり、四千九百の龍の住があり、二千の〔感官の〕機能があり、三千の地獄があり、三十六の塵の界域があり、七つの表象ある胎があり、七つの表象なき胎があり、七つの結節なき胎があり、七つの天〔の神〕があり、七つの人間があり、七つの魔物があり、七つの湖があり、七つの突起があり、七つの深淵があり、七百の深淵があり、七つの夢があり、七百の夢があり、八百四十万の大いなるカッパ(大劫)があり、すなわち、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう。そこにおいて、「わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、円熟なき行為を円熟させるであろうし、あるいは、円熟ある行為を接触しては接触して終息を為すであろう」という、〔このことは〕存在しない。まさに、このように存在せず、桶で量られた〔に等しく〕楽と苦は〔量が定まり〕、最極が作り為された輪廻において、衰退と増大は存在せず、高尚と低劣は存在しない。それは、たとえば、また、まさに、糸玉が投げられたとき、まさしく、ほどけながら去り行くように、まさしく、このように、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう』と。
サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「七つのものがある。これらの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。どのようなものが、七つのものであるのか。地の体系であり、水の体系であり、火の体系であり、風の体系であり、諸々の安楽であり、諸々の苦痛であり、第七のものとして、諸々の生命である。これらの七つの体系は、作られたものではなく、作られた種類のものではなく、化作されたものではなく、化作するものではなく、不産にして、〔山の〕頂きのように止住し、止住する石柱のように止住している。それらは、動揺せず、変化せず、互いに他を加害しない。互いに他の、あるいは、安楽たるに、あるいは、苦痛たるに、あるいは、楽と苦たるに、十分ならず。そこにおいては、あるいは、殺す者も、あるいは、殺させる者も、あるいは、聞く者も、あるいは、聞かせる者も、あるいは、識知する者も、あるいは、識知させる者も、存在しない。たとえ、或る者が、鋭い刃で頭を切断するも、誰であれ、誰の生命をも奪わない。まさしく、しかし、七つの体系の隙間をとおり、刃が裂け目に入り行くとして、〔それけのことである〕。また、まさに、百四十万〔の胎〕と、そして、六千〔の胎〕と、さらに、六百〔の胎〕の、これらの胎を筆頭として、さらに、行為に五百のものがあり、そして、五つの行為があり、さらに、三つの行為があり、そして、諸々の行為があり、さらに、諸々の半分の行為があり、六十二の〔実践の〕道があり、六十二の合間のカッパがあり、六つの出生があり、八つの人の境地があり、四千九百の生き方があり、四千九百の遍歴遊行者があり、四千九百の龍の住があり、二千の〔感官の〕機能があり、三千の地獄があり、三十六の塵の界域があり、七つの表象ある胎があり、七つの表象なき胎があり、七つの結節なき胎があり、七つの天〔の神〕があり、七つの人間があり、七つの魔物があり、七つの湖があり、七つの突起があり、七つの深淵があり、七百の深淵があり、七つの夢があり、七百の夢があり、八百四十万の大いなるカッパがあり、すなわち、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう。そこにおいて、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、円熟なき行為を円熟させるであろうし、あるいは、円熟ある行為を接触しては接触して終息を為すであろう』という、〔このことは〕存在しない。まさに、このように存在せず、桶で量られた〔に等しく〕楽と苦は〔量が定まり〕、最極が作り為された輪廻において、衰退と増大は存在せず、高尚と低劣は存在しない。それは、たとえば、また、まさに、糸玉が投げられたとき、まさしく、ほどけながら去り行くように、まさしく、このように、そして、愚者たちも、さらに、賢者たちも、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう」と。また、それで、もし、この尊き教師に、真理の言葉があるなら、ここにおいて、為していないわたしによって為されたこととなり、ここにおいて、住していなわたしによって住されたこととなる。わたしたちは、両者ともどもに、ここにおいて、等しく同等の者たちとなり、沙門の資質に至り得た者たちとなる。しかしながら、すなわち、わたしは、「両者ともに、流転して〔そののち〕、輪廻して〔そののち〕、苦しみの終極を為すであろう」と説かない。また、まさに、この尊き教師には、超過のものとして、裸身でいることがあり、剃髪することがあり、うずくまったまま〔刻苦〕精励することがあり、髪を引き抜くことがあり、すなわち、わたしは、子たちで溢れる臥所に居住し、カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持し、金や銀を愛用している者であるも、この尊き教師と等しく同等の境遇ある者と成るであろう。〔まさに〕その、わたしは、未来の運命として、何を知りながら、何を見ながら、この教師のもとで、梵行を歩むというのだろう』〔と〕。彼は、『これは、梵行ならざる住である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第四の梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
サンダカよ、まさに、これらのものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの梵行ならざる住と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。
「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさしく、四つの梵行ならざる住として存しているものが、『梵行ならざる住』と、これほどまでに、〔正しく〕告げ知らされたのは──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません(※)。貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの安堵なき梵行と告げ知らされたのですか──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。
※ テキストには nārādheyya ñāyaṃ dhammaṃ kusalanti とあるが、PTS版により ti を削除する。
229. 「サンダカよ、ここに、一部の教師は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と。彼は、空家にもまた入ります。〔行乞の〕食をもまた得ます。犬がまた咬みます。狂暴な象にもまた遭遇します。狂暴な馬にもまた遭遇します。狂暴な牛にもまた遭遇します。女であろうが、男であろうが、名をもまた〔尋ね〕、姓をもまた尋ねます。村であろうが、町であろうが、名をもまた〔尋ね〕、道をもまた尋ねます。彼は、『何なのだ、これは』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『わたしにとって、空家は、入るべきものとして有った。それによって、〔わたしは〕入った』『わたしにとって、〔行乞の〕食は、得られるべきものとして有った。それによって、〔わたしは〕得た』『犬によって、咬まれるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕存している──咬まれた者として』『狂暴な象と遭遇するべきものが有った。それによって、〔わたしは〕遭遇した』『狂暴な馬と遭遇するべきものが有った。それによって、〔わたしは〕遭遇した』『狂暴な牛と遭遇するべきものが有った。それによって、〔わたしは〕遭遇した』『女であろうが、男であろうが、名をもまた〔尋ねるべきものが有り〕、姓をもまた尋ねるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕尋ねた』『村であろうが、町であろうが、名をもまた〔尋ねるべきものが有り〕、姓をもまた尋ねるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕尋ねた』と〔答えます〕。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言する。……略……「村であろうが、町であろうが、名をもまた〔尋ねるべきものが有り〕、姓をもまた尋ねるべきものが有った。それによって、〔わたしは〕尋ねた」と〔答える〕』〔と〕。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第一の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
230. サンダカよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、聴聞者として、聴聞を真理とする者として、〔世に〕有ります。彼は、聴聞によって、伝聞と相伝によって、典籍の成就(保持)によって、法(教え)を説示します。サンダカよ、また、まさに、聴聞者であり、聴聞を真理とする者である、教師には、善く聞かれたものもまた有り、悪しく聞かれたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成ります。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、聴聞者であり、聴聞を真理とする者である。彼は、聴聞によって、伝聞と相伝によって、典籍の成就によって、法(教え)を説示する。また、まさに、聴聞者であり、聴聞を真理とする者である、教師には、善く聞かれたものもまた有り、悪しく聞かれたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成る』〔と〕。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第二の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
231. サンダカよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、考慮者として、考察者として、〔世に〕有ります。彼は、考慮によって撃打されたもの(思考を重ねたもの)を、考察に随行するもの(思考に適合するもの)を、自らの応答として、法(教え)を説示します。サンダカよ、また、まさに、考慮者であり、考察者である、教師には、善く考慮されたものもまた有り、悪しく考慮されたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成ります。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、考慮者であり、考察者である。彼は、考慮によって撃打されたものを、考察に随行するものを、自らの応答として、法(教え)を説示する。また、まさに、考慮者であり、考察者である、教師には、善く考慮されたものもまた有り、悪しく考慮されたものもまた有り、そのとおりにもまた成り、他なるものにもまた成る』〔と〕。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第三の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
232. サンダカよ、さらに、また、他に、ここに、一部の教師は、愚か者として、迷愚の者として、〔世に〕有ります。彼は、愚かであることから、迷愚であることから、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起します。『「このように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「そのように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「他のように」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ない」ともまた、わたしに〔思いは〕なく、「ないのでもない」ともまた、わたしに〔思いは〕ない』と。サンダカよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『まさに、この尊き教師は、愚か者であり、迷愚の者である。彼は、愚かであることから、迷愚であることから、そこかしこにおいて、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、言葉の散乱である詭弁を惹起する。「『このように』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『そのように』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『他のように』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『ない』ともまた、わたしに〔思いは〕なく、『ないのでもない』ともまた、わたしに〔思いは〕ない」』と。彼は、『これは、安堵なき梵行である』と、かくのごとく見出して、その梵行から、厭離して立ち去ります。サンダカよ、これは、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第四の安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。
サンダカよ、まさに、これらのものが、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、それらの四つの安堵なき梵行と告げ知らされました──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません」と。
「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、まさしく、四つの安堵なき梵行が、『安堵なき梵行』と、これほどまでに、〔正しく〕告げ知らされたのは──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきではなく、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できません。貴君アーナンダよ、また、彼は、教師として、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか──そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます」と。
233. 「サンダカよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。……略(10-13参照)……。彼(覚者の弟子)は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます。
サンダカよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます。
サンダカよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます。
サンダカよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。サンダカよ、すなわち、まさに、教師のもとで、弟子が、このような形態の秀逸にして殊勝〔の境地〕に到達するなら、そこにおいて、識者たる人は、可能であるかぎりは、梵行を住するべきであり、そして、住しているなら、正理と善なる法(真理)を達成できます」と。
234. 「貴君アーナンダよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益できますか」と。「サンダカよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、五つの状況を行作することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります。サンダカよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの五つの状況を行作することが不可能となります」と。
235. 「貴君アーナンダよ、また、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼が、まさしく、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されているのですか。『わたしの、諸々の煩悩は滅尽している』」と。「サンダカよ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。サンダカよ、それは、たとえば、また、人の、〔両の〕手足が切断されているとします。彼が、まさしく、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して知りますか。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』と。それとも、綿密に注視しながら知りますか。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』」と。「貴君アーナンダよ、まさに、その人は、常に連続して知りません。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』と。また、まさに、しかしながら、また、それを、綿密に注視しながら知ります。『わたしの、〔両の〕手足は切断されている』」と。「サンダカよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼が、まさしく、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されているのではありません。『わたしの、諸々の煩悩は滅尽している』と。また、まさに、しかしながら、また、それを、綿密に注視しながら知ります。『わたしの、諸々の煩悩は滅尽している』」と。
236. 「貴君アーナンダよ、また、どれだけ多くの者たちが、この法(教え)と律における先達たちとしていますか」と。「サンダカよ、まさに、まさしく、一百にあらず、二百にあらず、三百にあらず、四百にあらず、五百にあらず、そこで、まさに、まさしく、より一層となります。すなわち、この法(教え)と律における先達たちは」と。「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。そして、まさに、自らの法(教え)の賞揚と成らず、他者の法(教え)の蔑視と〔成ら〕ず、かつまた、〔認識の〕場所(処)についての法(教え)の説示が〔覚知され〕、さらに、それほどまでに多くの先達たちが覚知されるとは。いっぽう、これらのアージーヴァカ(活命者・邪命外道)たちは、子が死んだ〔母〕の子たちであり、まさしく、そして、自己を賞揚し、さらに、他者たちを蔑視し、かつまた、三者だけを、先達として報知します。それは、すなわち、この、ナンダ・ヴァッチャを、キサ・サンキッチャを、マッカリ・ゴーサーラを」と。そこで、まさに、サンダカ遍歴遊行者は、自らの衆に告げました。「諸君よ、歩みたまえ。沙門ゴータマのもとには、梵行の住がある。今や、利得や尊敬や名声を完全に捨て去るべくも、わたしたちによっては為し易きことならず」と。まさに、かくのごとく、このことはあり、サンダカ遍歴遊行者は、自らの衆を、世尊のもとでの梵行に送り出した、ということです。
サンダカの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(77). 大いなるサクルダーインの経
237. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、大勢の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園に滞在しています。それは、すなわち、この、アンナバーラ〔遍歴遊行者〕であり、ヴァラダラ〔遍歴遊行者〕であり、そして、サクルダーイン遍歴遊行者であり、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちも。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、サクルダーイン遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマがやってくる。また、まさに、その尊者は、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者である。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、世尊は、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。
238. 「ウダーイン(サクルダーイン)よ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、この議論は、さておくとしましょう──その議論のために、今現在、わたしたちが着坐しているとして。尊き方よ、この議論は、世尊にとって、得難きものとは成らないでしょう──のちにまた、聞くための〔機会を得るでしょう〕。尊き方よ、過日のことですが、以前、種々なる異教の沙門や婆羅門たちが、公会堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『ああ、まさに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちには、諸々の利得がある。ああ、まさに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちには、諸々の善く得られた利得がある。そこで、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている、これらの沙門や婆羅門たちが、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、このプーラナ・カッサパもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、このマッカリ・ゴーサーラもまた……略……アジタ・ケーサカンバラもまた……パクダ・カッチャーナもまた……サンジャヤ・ベーラッタプッタもまた……ニガンタ・ナータプッタもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、この沙門ゴータマもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている、これらの尊き沙門や婆羅門たちのなかでは、いったい、まさに、誰が、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、誰を、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むのか』と。
239. そこで、一部の者たちは、このように言いました。『まさに、このプーラナ・カッサパは、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。しかしながら、彼は、まさに、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、プーラナ・カッサパを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。過去の事だが、プーラナ・カッサパは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりのプーラナ・カッサパの弟子が、「諸君よ、プーラナ・カッサパに、この義(意味)を尋ねてはならない。彼は、このことを知らない。わたしたちは、このことを知る。わたしたちに、この義(意味)を尋ねよ。わたしたちは、このことを、貴君たちに説き明かすであろう」と、声を上げた。過去の事だが、プーラナ・カッサパは、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びながら、「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。これらの者たちは、貴君たちに尋ねるのではない。わたしたちに、これらの者たちは尋ねる。わたしたちは、これらの者たちに説き明かすであろう」と〔言っても、承諾を〕得ない。また、まさに、多くの、プーラナ・カッサパの弟子たちは、「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と、〔師の〕論を論破して、立ち去ったのだ。かくのごとく、プーラナ・カッサパは、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、プーラナ・カッサパを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。また、さらに、プーラナ・カッサパは、法(教え)への罵倒によって罵倒されたのだ』と。
一部の者たちは、このように言いました。『まさに、このマッカリ・ゴーサーラもまた……略……アジタ・ケーサカンバラもまた……パクダ・カッチャーナもまた……サンジャヤ・ベーラッタプッタもまた……ニガンタ・ナータプッタもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。しかしながら、彼は、まさに、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、ニガンタ・ナータプッタを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。過去の事だが、ニガンタ・ナータプッタは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりのニガンタ・ナータプッタの弟子が、「諸君よ、ニガンタ・ナータプッタに、この義(意味)を尋ねてはならない。彼は、このことを知らない。わたしたちは、このことを知る。わたしたちに、この義(意味)を尋ねよ。わたしたちは、このことを、貴君たちに説き明かすであろう」と、声を上げた。過去の事だが、ニガンタ・ナータプッタは、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びながら、「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。これらの者たちは、貴君たちに尋ねるのではない。わたしたちに、これらの者たちは尋ねる。わたしたちは、これらの者たちに説き明かすであろう」と〔言っても、承諾を〕得ない。また、まさに、多くの、ニガンタ・ナータプッタの弟子たちは、「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と、〔師の〕論を論破して、立ち去ったのだ。かくのごとく、ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、ニガンタ・ナータプッタを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。また、さらに、ニガンタ・ナータプッタは、法(教え)への罵倒によって罵倒されたのだ』と。
240. 一部の者たちは、このように言いました。『まさに、この沙門ゴータマもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている。そして、まさに、彼は、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、沙門ゴータマを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む。過去の事だが、沙門ゴータマは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりの沙門ゴータマの弟子が、咳払いをした。まさしく、ただちに、或るひとりの梵行を共にする者が、「尊者よ、声少なき者と成れ。尊者よ、声を上げてはならない。教師が、世尊が、わたしたちに、法(教え)を説示する」と、膝で打った。その時点において、沙門ゴータマが、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、沙門ゴータマの弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ない。まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で待ち構える者と成る。「すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るなら、それを、わたしたちは聞くのだ」と。それは、たとえば、また、まさに、人が、大きな四つ辻において、純粋なる小蜂の蜜を搾るなら、まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で待ち構える者となり、〔そのように〕存するように、まさしく、このように、その時点において、沙門ゴータマが、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、沙門ゴータマの弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ない。まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で待ち構える者と成る。「すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るなら、それを、わたしたちは聞くのだ」と。すなわち、また、沙門ゴータマの弟子たちが、梵行を共にする者たちと言い合いをして、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするとして(戒を捨てて還俗する)、彼らもまた、まさしく、そして、教師の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、かつまた、法(教え)の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、さらに、僧団の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、「まさしく、わたしたちは、不運の者たちとして〔世に〕存している。わたしたちは、功徳少なき者たちである。〔まさに〕その、わたしたちは、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家して、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むことができなかった」と、まさしく、自己を難ずる者たちとして〔世に〕有る──他者を難ずる者たちではなく。彼らは、あるいは、園丁と成り、あるいは、在俗信者と成り、五つの学びの境処(五戒)を受持して行持する。かくのごとく、沙門ゴータマは、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、沙門ゴータマを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む』」と。
241. 「ウダーインよ、また、あなたは、わたしにおいて、どれだけの諸々の法(性質)を等しく随観しますか。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊において、五つの法(性質)を等しく随観します。それら〔の法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。尊き方よ、まさに、世尊は、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第一の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第二の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第三の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第四の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第五の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、まさに、わたしは、世尊において、これらの五つの法(性質)を等しく随観します。それら〔の法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます」と。
242. 「ウダーインよ、『沙門ゴータマは、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分の鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、ベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分のベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、存在します。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、この鉢で縁まで一杯のものをもまた食べ、より一層のものをもまた食べます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分の鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、ベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分のベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、糞掃衣の者たちが、粗末な衣料の保持者たちが、存在します。彼らは、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けます。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、諸々の家長の衣料を、諸々の堅固なものを、諸々の刃による粗末なものを、諸々の瓜の毛のようなものを、〔身に〕付けます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、糞掃衣の者たちは、粗末な衣料の保持者たちは、彼らは、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けますが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、〔行乞の〕施食の者たちが、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者たちが、残飯食を掟として喜ぶ者たちが、存在します。彼らは、家の中に入り、〔そのように〕存しつつ、たとえ、坐によって招かれながらも受けません。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、招待においてはまた、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味あるものを食べます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、〔行乞の〕施食の者たちは、〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者たちは、残飯食を掟として喜ぶ者たちは、彼らは、家の中に入り、〔そのように〕存しつつ、たとえ、坐によって招かれながらも受けませんが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、木の根元にある者たちが、野外にある者たちが、存在します。彼らは、八月のあいだ、覆われたものに近づきません。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、諸々の楼閣においてもまた住みます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、木の根元にある者たちは、野外にある者たちは、彼らは、八月のあいだ、覆われたものに近づきませんが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、林にある者たちが、辺地の臥坐所にある者たちが、存在し、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に、深く分け入って住みます。彼らは、半月ごとに、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の誦説のために訪問し、僧団の中にあります。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住みます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、林にある者たちは、辺地の臥坐所にある者たちは、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に、深く分け入って住み、彼らは、半月ごとに、戒条の誦説のために訪問し、僧団の中にありますが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、かくのごとく、まさに、わたしを、弟子たちが、これらの五つの法(性質)によって、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
243. ウダーインよ、しかしながら、まさに、他の、五つの法(性質)が存在します。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。ウダーインよ、ここに、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、戒ある者であり、最高の戒の範疇を具備した者である』と、卓越の戒について敬愛します。ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、戒ある者であり、最高の戒の範疇を具備した者である』と、卓越の戒について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第一の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
244. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と言う。沙門ゴータマは、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と言う。沙門ゴータマは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示する──証知せずして、ではなく。沙門ゴータマは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示する──因縁なきものとして、ではなく。沙門ゴータマは、神変(変容)を有するものとして、法(教え)を説示する──神変なきものとして、ではなく』と、崇高なる知見について敬愛します。ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と言う。沙門ゴータマは、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と言う。沙門ゴータマは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示する──証知せずして、ではなく。沙門ゴータマは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示する──因縁なきものとして、ではなく。沙門ゴータマは、神変を有するものとして、法(教え)を説示する──神変なきものとして、ではなく』と、崇高なる知見について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第二の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
245. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、智慧ある者であり、最高の智慧の範疇を具備した者である。まさに、その、未来の論の道を、見ずにあるであろう──あるいは、生起した異論を、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御せずにあるであろう──という、この状況は見出されない』と、卓越の智慧について敬愛します。ウダーインよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、わたしの弟子たちは、このように知っているなら、このように見ているなら、中途中途で議論に割り込むでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「ウダーインよ、また、まさに、わたしは、弟子たちにたいし、教示を願い求めません。何はともあれ、弟子たちが、まさしく、わたしに、教示を願い求めます。
ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、智慧ある者であり、最高の智慧の範疇を具備した者である。まさに、その、未来の論の道を、見ずにあるであろう──あるいは、生起した異論を、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御せずにあるであろう──という、この状況は見出されない』と、卓越の智慧について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第三の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
246. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしの弟子たちは、すなわち、苦しみによって、苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、彼らは、近づいて行って、わたしに、苦しみという聖なる真理(苦諦)を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみという聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。彼らは、わたしに、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)を……苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)を……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。ウダーインよ、すなわち、また、わたしの弟子たちが、すなわち、苦しみによって、苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、彼らは、近づいて行って、わたしに、苦しみという聖なる真理を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみという聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。彼らは、わたしに、苦しみの集起という聖なる真理を……苦しみの止滅という聖なる真理を……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。ウダーインよ、これは、まさに、第四の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
247. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの気づきの確立(四念処・四念住)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの正しい精励(四正勤)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの神通の足場(四神足)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、五つの機能(五根)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の機能を修めます。……略……精進の機能を修めます。……気づきの機能を修めます。……禅定の機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の機能を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、五つの力(五力)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の力を修めます。……略……精進の力を修めます。……気づきの力を修めます。……禅定の力を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の力を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、七つの覚りの支分(七覚支)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、正しい見解を修めます。正しい思惟を修めます。正しい言葉を修めます。正しい行業を修めます。正しい生き方を修めます。正しい努力を修めます。正しい気づきを修めます。正しい禅定を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
248. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、八つの解脱(八解脱)を修めます。(1)形態ある者として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。(2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。(3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。(4)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。(5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。(6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。(7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。(8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
249. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を修めます。ウダーインよ、(1)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。
(2)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。
(3)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。
(4)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善色と悪色あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。
(5)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。
(6)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。
(7)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。
(8)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
250. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、十の遍満の〔認識の〕場所(十遍処)を修めます。(1)或る者は、地の遍満(地遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(2)或る者は、水の遍満(水遍)を……略……表象します。(3)或る者は、火の遍満(火遍)を……表象します。(4)或る者は、風の遍満(風遍)を……表象します。(5)或る者は、青の遍満(青遍)を……表象します。(6)或る者は、黄の遍満(黄遍)を……表象します。(7)或る者は、赤の遍満(赤遍)を……表象します。(8)或る者は、白の遍満(白遍)を……表象します。(9)或る者は、虚空の遍満(空遍)を……表象します。(10)或る者は、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
251. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの瞑想(四禅)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。
ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。
ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。
ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
252. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』〔と〕。ウダーインよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、透明で澄浄で、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠があるとします。そこで、その〔宝珠〕に(※)、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられているとします。〔まさに〕その、この〔宝珠〕を、眼ある人が、手のうえに為して綿密に注視します。『これは、まさに、善く事前作業が為された八面体の、透明で澄浄で、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠である。そこで、この、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられている』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』と。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
※ テキストには tatridaṃ とあるが、PTS版により tatr’assa と読む。
253. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、この身体から、他の身体を化作します──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、ムンジャ〔草〕から、葦を取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかし、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された』と。ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、剣を、鞘から取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、剣である。これは、鞘である。他なるものとして、剣があり、他なるものとして、鞘がある。まさしく、しかし、鞘から、剣が取り出された』と。ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、蛇を、脱け殻から引き抜くなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、蛇である。これは、脱け殻である。他なるものとして、蛇があり、他なるものとして、脱け殻がある。まさしく、しかし、脱け殻から、蛇が引き抜かれた』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、この身体から、他の身体を化作します──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
254. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、陶工が、あるいは、陶工の内弟子が、善く事前作業が為された粘土において、まさしく、それぞれの容器類を望むなら、まさしく、それぞれ〔の容器類〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、象牙の細工師が、あるいは、象牙の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された象牙において、まさしく、それぞれの象牙品を望むなら、まさしく、それぞれ〔の象牙品〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された金において、まさしく、それぞれの金具を望むなら、まさしく、それぞれ〔の金具〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
255. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。ウダーインよ、それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
256. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を綿密に注視しながら、あるいは、染みを有するものを、『染みを有するものである』と知り、あるいは、染みなきものを、『染みなきものである』と知るように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
257. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、自らの村から、他の村に赴き、その村からもまた、他の村に赴くとします。彼が、その村から、まさしく、自らの村に戻るなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、自らの村から、あの村に(※)赴いた。そこで、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その村からもまた、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村から、まさしく、自らの村に戻り、〔世に〕存している』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
※ テキストには aññaṃ gāmaṃ とあるが、PTS版により amuṃ gāmaṃ と読む。
258. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、門を有する二つの家があるとします。そこにおいて、眼ある人が中間に立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、こちらを歩きもまたしあちらを歩みもまたするのを、見るようなものです。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
259. ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、湖の水が、透明で、澄浄で、混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見るでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この湖の水は、透明で、澄浄で、混濁なくある。そこに、これらの、牡蠣や貝もまたあり、砂礫や小石もまたあり、魚の群れもまた、歩みもまたし、止住もまたする』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。ウダーインよ、これは、まさに、第五の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
ウダーインよ、まさに、これらの五つの法(性質)があります。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たサクルダーイン遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなるサクルダーインの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(78). サマナムンディカーの経
260. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者が、ティンドゥカ〔樹〕に囲まれたエーカサーラカ教義論争堂がある、マッリカーの林園に滞在しています──大いなる遍歴遊行者の衆である、五百ばかりの遍歴遊行者と共に。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、世尊と会見するために、サーヴァッティーから出立しました──昼のさなかに。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁に、この〔思い〕が有りました。「まさに、まだ、世尊と会見するための時ではない。世尊は静坐している。意を修めることができる比丘たちともまた、会見するための時分ではない。意を修めることができる比丘たちは静坐している。それなら、さあ、わたしは、ティンドゥカ〔樹〕に囲まれたエーカサーラカ教義論争堂がある、マッリカーの林園のあるところに、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、ティンドゥカ〔樹〕に囲まれたエーカサーラカ教義論争堂がある、マッリカーの林園のあるところに、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。
また、まさに、その時点にあって、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。
まさに、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者は、パンチャカンガ棟梁が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマの弟子であるパンチャカンガ棟梁がやってくる。また、まさに、すなわち、サーヴァッティーに住するかぎりの、沙門ゴータマの弟子である白衣の在家者たちで、この者は、パンチャカンガ棟梁は、彼らのなかの随一の者である。また、まさに、それらの尊者たちは、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕に教導され、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者たちである。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。
261. そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁に、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者は、こう言いました。「家長よ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します。どのようなものが、四つのものなのですか。家長よ、ここに、身体による悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きません。家長よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します」と。
そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者の語ったことを、まさしく、大いに喜びもせず、弾劾もしませんでした。大いに喜ばずして、弾劾せずして、坐から立ち上がって、立ち去りました。「世尊の現前において、この語られたことの義(意味)を了知するのだ」と。そこで、まさに、パンチャカンガ棟梁は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パンチャカンガ棟梁は、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。
262. このように説かれたとき、世尊は、パンチャカンガ棟梁に、こう言いました。「棟梁よ、このように存しているとき、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と成るでしょう──すなわち、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者の言葉のとおりであるなら。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『身体である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、身体による悪しき行為を為すというのでしょう──震えおののくほどのことより他に。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『言葉である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、悪しき言葉を語るというのでしょう──泣き叫ぶほどのことより他に。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『思惟である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、悪しき思惟を思惟するというのでしょう──むずかるほどのことより他に。棟梁よ、なぜなら、愚鈍で上向きに臥す年少の童子には、『生き方である』という〔思い〕さえも有ることがないからです。また、どうして、悪しき生き方を生きるというのでしょう──母の乳〔を取ること〕より他に。棟梁よ、このように存しているとき、まさに、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と成るでしょう──すなわち、サマナムンディカーの子であるウッガーハマーナ遍歴遊行者の言葉のとおりであるなら。
263. 棟梁よ、四つのものがあります。まさに、わたしは、〔これらの〕法(性質)を具備した人士たる人を、まさしく、そして、善を成就した者でもなく、最高の善ある者でもなく、最上の至り得るべきものに至り得た者でもない、太刀打ちできない沙門と報知します。そして、また、この愚鈍で上向きに臥す年少の童子に卓越して〔世に〕止住します。どのようなものが、四つのものなのですか。棟梁よ、ここに、身体による悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きません。棟梁よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した人士たる人を、まさしく、善を成就した者でもなく、最高の善ある者でもなく、最上の至り得るべきものに至り得た者でもない、太刀打ちできない沙門と報知します。そして、また、この愚鈍で上向きに臥す年少の童子に卓越して〔世に〕止住します。
棟梁よ、まさに、わたしは、十の法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します。これらのものが、諸々の善ならざる戒としてあるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善ならざる戒があるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。ここに、諸々の善ならざる戒が、残りなく止滅するなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。このように実践する者が、諸々の善ならざる戒の止滅のために実践する者と成るなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。
これらのものが、諸々の善なる戒としてあるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善なる戒があるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。ここに、諸々の善なる戒が、残りなく止滅するなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。このように実践する者が、諸々の善なる戒の止滅のために実践する者と成るなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。
これらのものが、諸々の善ならざる思惟としてあるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善ならざる思惟があるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。ここに、諸々の善ならざる思惟が、残りなく止滅するなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。このように実践する者が、諸々の善ならざる思惟の止滅のために実践する者と成るなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。
これらのものが、諸々の善なる思惟としてあるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。これから現起したものとして、諸々の善なる思惟があるなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。ここに、諸々の善なる思惟が、残りなく止滅するなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。このように実践する者が、諸々の善なる思惟の止滅のために実践する者と成るなら、棟梁よ、それを、わたしは、『知るべきである』と説きます。
264. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善ならざる戒なのですか。善ならざる身体の行為であり、善ならざる言葉の行為であり、悪しき生き方です。棟梁よ、これらのものが、諸々の善ならざる戒と説かれます。
棟梁よ、では、何から現起したものとして、これらの善ならざる戒があるのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『心から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、心なのですか。まさに、心もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。その心が、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有するものであるなら、これから現起したものとして、諸々の善なる戒があります。
棟梁よ、では、どこに、これらの善ならざる戒が、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを修め、言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを修め、意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを修め、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方による生き方を営みます。ここにおいて、これらの善ならざる戒が、残りなく止滅します。
棟梁よ、では(※)、どのように実践する者が、諸々の善ならざる戒の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者が、まさに、諸々の善ならざる戒の止滅のために実践する者と成ります。
※ PTS版により ca を補う。
265. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善なる戒なのですか。善なる身体の行為であり、善なる言葉の行為です。棟梁よ、戒における完全なる清浄の生き方もまた、まさに、わたしは、〔善なる戒と〕説きます。棟梁よ、これらのものが、諸々の善なる戒と説かれます。
棟梁よ、では、何から現起したものとして、これらの善なる戒があるのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『心から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、心なのですか。まさに、心もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。その心が、貪欲を離れ、憤怒を離れ、迷妄を離れたものであるなら、これから現起したものとして、諸々の善なる戒があります。
棟梁よ、では、どこに、これらの善なる戒が、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有ります。そして、戒〔のみ〕によって作られる者ではなく、さらに、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、それを、事実のとおりに覚知します。そこにおいて、彼の、それらの善なる戒が、残りなく止滅します(阿羅漢果に到達し、戒めとしての戒は不要となる)。
棟梁よ、では、どのように実践する者が、諸々の善なる戒の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者が、まさに、諸々の善なる戒の止滅のために実践する者と成ります。
266. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善ならざる思惟なのですか。欲望の思惟であり、憎悪の思惟であり、悩害の思惟です。棟梁よ、これらのものが、諸々の善ならざる思惟と説かれます。
棟梁よ、では、何から現起したものものとして、これらの善ならざる思惟があるのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『表象から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、表象なのですか。まさに、表象もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。欲望の思惟であり、憎悪の思惟であり、悩害の思惟です。これから現起したものとして、諸々の善ならざる思惟があります。
棟梁よ、では、どこに、これらの善ならざる思惟が、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、これらの善ならざる思惟が、残りなく止滅します。
棟梁よ、では、どのように実践する者が、諸々の善ならざる思惟の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者が、まさに、諸々の善ならざる思惟の止滅のために実践する者と成ります。
267. 棟梁よ、では、どのようなものが、諸々の善なる思惟なのですか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。棟梁よ、これらのものが、諸々の善なる思惟と説かれます。
棟梁よ、では、何から現起したものとして、これらの善なる思惟があるのですか。それらの現起もまた、〔すでに〕説かれたところです。それについては、『表象から現起したものである』と説かれるべきです。どのようなものが、表象なのですか。まさに、表象もまた、多くのものがあり、無数の種類があり、種々なる流儀があります。離欲の表象であり、憎悪なき表象であり、悩害なき表象です。これから現起したものとして、諸々の善なる思惟があります。
棟梁よ、では、どこに、これらの善なる思惟が、残りなく止滅するのですか。それらの止滅もまた、〔すでに〕説かれたところです。棟梁よ、ここに、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ここにおいて、これらの善なる思惟が、残りなく止滅します。
棟梁よ、では、どのように実践する者が、諸々の善なる思惟の止滅のために実践する者と成るのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために……略……。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために……略……。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。棟梁よ、このように実践する者が、まさに、諸々の善なる思惟の止滅のために実践する者と成ります。
268. 棟梁よ、では、わたしは、どのような十の法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知するのですか。棟梁よ、ここに、比丘が、(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解を具備した者と成り、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟を具備した者と成り、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉を具備した者と成り、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業を具備した者と成り、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方を具備した者と成り、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力を具備した者と成り、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきを具備した者と成り、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定を具備した者と成り、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵を具備した者と成り、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱を具備した者と成ります。棟梁よ、まさに、わたしは、これらの十の法(性質)を具備した人士たる人を、善を成就した者であり、最高の善ある者であり、最上の至り得るべきものに至り得た者である、太刀打ちできない沙門と報知します」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たパンチャカンガ棟梁は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
サマナムンディカーの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(79). 小なるサクルダーインの経
269. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、サクルダーイン遍歴遊行者が、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園に滞在しています。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。
また、まさに、その時点にあって、サクルダーイン遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます──狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマがやってくる。また、まさに、その尊者は、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者である。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。
270. そこで、まさに、世尊は、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。「ウダーイン(サクルダーイン)よ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、この議論は、さておくとしましょう──その議論のために、今現在、わたしたちが着坐しているとして。尊き方よ、この議論は、世尊にとって、得難きものとは成らないでしょう──のちにまた、聞くための〔機会を得るでしょう〕。尊き方よ、すなわち、わたしが、この衆に近づいて行かない状態でいるとき、そこで、この衆は、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論を議論し、坐った状態でいます。尊き方よ、しかしながら、まさに、わたしが、この衆に近づいて行った状態でいるとき、そこで、この衆は、まさしく、わたしの顔を見上げて、坐った状態でいます。『すなわち、沙門ウダーインが、わたしたちに、法(教え)を語るのだ。それを、〔わたしたちは〕聞くのだ』と。尊き方よ、また、すなわち、世尊が、この衆に近づいて行った状態でいるとき、そこで、まさしく、そして、わたしは、さらに、この衆も、世尊の顔を見上げながら、坐った状態でいます。『すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るのだ。それを、〔わたしたちは〕聞くのだ』」と。
271. 「ウダーインよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて、明白となれ──すなわち、わたしに弁じるであろうとおりに(まずはあなたが議題を提示しなさい)」と(※)。「尊き方よ、過日のことですが、以前、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言しながら、『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と、その者は、わたしによって、過去の極(前際:過去の種々相)に関して、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、まさしく、世尊に関して、気づき(念)が生起しました。『ああ、まちがいなく、世尊である。ああ、まちがいなく、善き至達者たる方である。すなわち、これらの法(性質)に極めて巧みな智ある者は』」と。「ウダーインよ、また、誰なのですか、その者は。一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言しながら、『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と、彼は、あなたによって、過去の極に関して、問いを尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為しました」と。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)です」と。
※ テキストには paṭibhāseyyā’’si とあるが、PTS版により paṭibhāseyyā’’ti と読む。
「ウダーインよ、その者が、まさに、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するなら、あるいは、彼が、わたしに、過去の極に関して、問いを尋ねるべきであり、あるいは、わたしが、彼に、過去の極に関して、問いを尋ねるべきです。あるいは、彼が、過去の極に関して、問いへの説き明かしによって、わたしの心を喜ばすでしょうし、あるいは、わたしが、過去の極に関して、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばすでしょう。
ウダーインよ、その者が、まさに、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るなら、下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知するなら、あるいは、彼が、わたしに、未来の極(後際:未来の種々相)に関して、問いを尋ねるべきであり、あるいは、わたしが、彼に、未来の極に関して、問いを尋ねるべきです。あるいは、彼が、未来の極に関して、問いへの説き明かしによって、わたしの心を喜ばすでしょうし、あるいは、わたしが、未来の極に関して、問いへの説き明かしによって、彼の心を喜ばすでしょう。
ウダーインよ、ですが、ともあれ、過去の極のことはさておき、未来の極のことはさておき、法(教え)を、あなたに説示しましょう。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する』」と。
「尊き方よ、まさに、わたしは、すなわち、また、わたしのこの自己状態によって経験されたものとしてあるかぎりの、その〔経験されたもの〕でさえも、行相を有するものとして、素性を有するものとして、隨念することができません。また、どうして、わたしが、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するというのでしょう──それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念するというのでしょう──それは、すなわち、また、世尊のように。尊き方よ、まさに、わたしは、今現在、泥鬼さえも見ません。また、どうして、わたしが、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見るというのでしょう──下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知できるというのでしょう──それは、すなわち、また、世尊のように。尊き方よ、また、すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『ウダーインよ、ですが、ともあれ、過去の極のことはさておき、未来の極のことはさておき、法(教え)を、あなたに説示しましょう。「これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する」』と。また、そして、それは、わたしに、より一層激しく定まりません。尊き方よ、まさしく、おそらく、まさに、わたしは、自らの師匠伝来のものについては、問いへの説き明かしによって、世尊の心を喜ばせるでしょう」と。
272. 「ウダーインよ、また、どのようなものとして、あなたに、自らの師匠伝来のものについて、〔思いが〕有るのですか」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』」と。
「ウダーインよ、また、すなわち、あなたに、この、このような〔思いが〕有るなら、『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』と、どのようなものが、その最高の色艶なのですか」と。「尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。
「また、どのようなものが、その最高の色艶なのですか──その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しない、〔そのような色艶とは〕」と。「尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。
「ウダーインよ、まさに、あなたのこの〔言葉〕は、さらに長きものとなり、充満するでしょう(切りがない)。『尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と、〔あなたは〕説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません(具体的な説明がない)。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、このように説くとします。『わたしは、その者が、この地方における地方の美女であるなら、彼女を求め、彼女を欲する』と。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、士族である、あるいは、婆羅門である、あるいは、庶民である、あるいは、隷民である」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、このような名の者である、このような姓の者である」』と。……略……。「あるいは、長身の者である、あるいは、短身の者である、あるいは、中身の者である。あるいは、黒き者である、あるいは、褐色の者である、あるいは、金色の表皮ある者である」』と。……。「何某の、あるいは、村にいる、あるいは、町にいる、あるいは、城市にいる」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その者のことを、知らず、見ないとして、あなたは、その者を、求め、欲するのか』と。かくのごとく尋ねられ、『そのとおり』と説くとします。
ウダーインよ、それを、どう思いますか。まさに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就しないですか」と。「尊き方よ、まさに、たしかに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就します」と。
「ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、『尊き方よ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません」と。
「尊き方よ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、このように、色艶あるものとして、無病のものとして、自己は〔世に〕有ります──死後においても」と。
273. 「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにいる虫の蛍ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある油の灯火ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある大いなる火の塊ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天においてある明けの明星ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分にある月ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。あるいは、すなわち、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分に、日があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分にある日ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「ウダーインよ、まさに、これよりもより多い、まさに、それらの多くの天〔の神々〕たちがいます。すなわち、これらの月と日の輝きを受領せず、〔自ら輝く天の神々たちです〕。それら〔の天の神々たち〕を、わたしは覚知します。そこで、また、そして、わたしは、『その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません』と説きません。ウダーインよ、そこで、また、しかしながら、あなたは、すなわち、この色艶が、虫の蛍より、そして、より劣り、さらに、より劣等であるのに、『それは、最高の色艶です』と説き、かつまた、その色艶のことを、〔何も〕報知しません」と。「世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました」と。
「ウダーインよ、また、どうして、あなたは説くのですか。『世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました』」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしどもは、世尊によって、自らの師匠伝来のものについて、尋問され、審問され、査問されながら、空虚となり、虚妄となり、違反者たちとなったのです」と。
274. 「ウダーインよ、また、どうなのでしょう、一方的な安楽ある世は存在しますか。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在しますか」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『一方的な安楽ある世は存在する。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在する』」と。
「ウダーインよ、また、どのようなものが、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道なのですか」と。「尊き方よ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)を捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。また、あるいは、或る何かの苦行の属性を受持して行持します。尊き方よ、これは、まさに、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道です」と。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有るなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。その時点において、或る何かの苦行の属性を受持して行持するなら、その時点において、自己は、あるいは、一方的な安楽あるものとして有りますか、あるいは、安楽と苦痛あるものとして〔有りますか〕」と。「尊き方よ、安楽と苦痛あるものとして〔有ります〕」〔と〕。
「ウダーインよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、まさに、混在した安楽と苦痛ある〔実践の〕道を頼りにして、一方的な安楽ある世の実証と成るのですか」と。「世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました」と。
「ウダーインよ、また、どうして、あなたは説くのですか。『世尊は、この議論を断ち切りました。善き至達者たる方は、この議論を断ち切りました』」と。「尊き方よ、わたしどもに、自らの師匠伝来のものについて、このような〔思いが〕有ります。『一方的な安楽ある世は存在する。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在する』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしどもは、世尊によって、自らの師匠伝来のものについて、尋問され、審問され、査問されながら、空虚となり、虚妄となり、違反者たちとなったのです」と。
275. 「尊き方よ、また、どうなのでしょう、一方的な安楽ある世は存在しますか。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在しますか」と。「ウダーインよ、まさに、一方的な安楽ある世は存在します。一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道は存在します」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道なのですか」と。「ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、これは、まさに、その、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道です」と。
「尊き方よ、まさに、それは、一方的な安楽ある世の実証のための行相ある〔実践の〕道ではありません。尊き方よ、なぜなら、彼には、これだけで、一方的な安楽ある世が実証されたものと成るからです」と。「ウダーインよ、まさに、彼には、これだけで、一方的な安楽ある世が実証されたものと成りません。それは、一方的な安楽ある世の実証のための、『行相あるもの』というだけの、〔実践の〕道なのです」と。
このように説かれたとき、サクルダーイン遍歴遊行者の衆は、狂躁の者たちと〔成り〕、高い声をあげ大きな音をたてる者たちと成りました。「ここにおいて、わたしたちは、師匠と共に滅び去る。ここにおいて、わたしたちは、師匠と共に滅び去る。わたしたちは、これよりもより一層により上なるものを覚知しない」と。
そこで、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、それらの遍歴遊行者たちを、声少なき者たちと為して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、また、どのようなことから、彼には、一方的な安楽ある世が実証されたものと成るのですか」と。「ウダーインよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。すなわち、それらの天神たちが、一方的な安楽ある世に再生した者たちであるなら、それらの天神たちと共に、止住し、談論し、論議に入定します。ウダーインよ、まさに、このことから、彼には、一方的な安楽ある世が実証されたものと成ります」と。
276. 「尊き方よ、まちがいなく、この一方的な安楽ある世の実証を因として、比丘たちは、世尊のもと、梵行を歩みます」と。「ウダーインよ、まさに、一方的な安楽ある世の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩むのではありません。ウダーインよ、まさに、まさしく、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)が存在します。それら〔の法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、それらの法(性質)なのですか。それら〔の法〕の実証を因として、比丘たちは、世尊のもと、梵行を歩むとして」と。「ウダーインよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。……略……。彼(覚者の弟子)は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と……略……『これは、苦しみの止滅である』と……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と……『これは、諸々の煩悩の止滅である』と……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。ウダーインよ、これもまた、まさに、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。その〔法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます。ウダーインよ、まさに、これらの、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、諸々の法(性質)が存在します。それら〔の法〕の実証を因として、比丘たちは、わたしのもと、梵行を歩みます」と。
277. このように説かれたとき、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように」と。
このように説かれたとき、サクルダーイン遍歴遊行者の衆は、サクルダーイン遍歴遊行者に、こう言いました。「ウダーインよ、貴君は、沙門ゴータマのもと、梵行を歩んではいけません。ウダーインよ、貴君は、師匠と成って〔そののち〕、内弟子の住を住してはいけません。それは、たとえば、また、水瓶と成って〔そののち〕、水桶として存するようなものです。このように、これと同様に、貴君ウダーインにとって成るでしょう。ウダーインよ、貴君は、沙門ゴータマのもと、梵行を歩んではいけません。ウダーインよ、貴君は、師匠と成って〔そののち〕、内弟子の住を住してはいけません」と。まさに、かくのごとく、このことはあり、サクルダーイン遍歴遊行者の衆は、世尊のもとでの梵行について、サクルダーイン遍歴遊行者に障りを為した、ということです。
小なるサクルダーインの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(80). ヴェーカナサの経
278. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ヴェーカナサ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、世尊の面前で、感興〔の言葉〕を唱えました。「これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である」と。
「カッチャーナ(ヴェーカナサ)よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『これは、最高の色艶である。これは、最高の色艶である』と。カッチャーナよ、どのようなものが、その最高の色艶なのですか」と。
「貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。
「カッチャーナよ、また、どのようなものが、その最高の色艶なのですか──その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しない、〔そのような色艶とは〕」と。
「貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です」と。
「カッチャーナよ、まさに、あなたのこの〔言葉〕は、さらに長きものとなり、充満するでしょう(切りがない)。『貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と、〔あなたは〕説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません(具体的な説明がない)。カッチャーナよ、それは、たとえば、また、人が、このように説くとします。『わたしは、その者が、この地方における地方の美女であるなら、彼女を求め、彼女を欲する』と。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、士族である、あるいは、婆羅門である、あるいは、庶民である、あるいは、隷民である」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その地方の美女を、求め、欲するとして、その地方の美女のことを、〔あなたは〕知っているのか。「あるいは、このような名の者である、このような姓の者である」』と。……略……。「あるいは、長身の者である、あるいは、短身の者である、あるいは、中身の者である。あるいは、黒き者である、あるいは、褐色の者である、あるいは、金色の表皮ある者である」』と。……。「何某の、あるいは、村にいる、あるいは、町にいる、あるいは、城市にいる」』と。かくのごとく尋ねられ、『さにあらず』と説くとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、あなたが、その者のことを、知らず、見ないとして、あなたは、その者を、求め、欲するのか』と。かくのごとく尋ねられ、『そのとおり』と説くとします。
カッチャーナよ、それを、どう思いますか。まさに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就しないですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、その人の語ったことは、理に適わない無用のものとして成就します」と。「カッチャーナよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、『貴君ゴータマよ、その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しないなら、それは、最高の色艶です』と説きます。しかしながら、その色艶のことを、〔何も〕報知しません」と。「貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、このように、色艶あるものとして、無病のものとして、自己は〔世に〕有ります──死後においても」と。
279. 「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、善く事前作業が為された八面体の、浄美にして天然の瑠璃の宝珠が、黄の毛布のうえに置かれたなら、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにいる虫の蛍ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、虫の蛍がいるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある油の灯火ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、油の灯火があるとします。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、漆黒の闇夜のなかにある大いなる火の塊ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。
「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、漆黒の闇夜のなか、大いなる火の塊があるとします。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天においてある明けの明星ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、夜の早朝の時分に、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、明けの明星があるとします。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分にある月ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。「カッチャーナよ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、斎戒のその日、十五〔日〕において、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、夜半近くの時分に、月があるとします。あるいは、すなわち、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分に、日があるとします。これらの二者の色艶のなかで、どちらの色艶が、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙なのですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分、晴朗にして黒雲を離れ去った天において、日中近くの時分にある日ですが、これは、これらの二者の色艶のなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙です」と。「カッチャーナよ、まさに、これよりもより多い、まさに、それらの多くの天〔の神々〕たちがいます。すなわち、これらの月と日の輝きを受領せず、〔自ら輝く天の神々たちです〕。それら〔の天の神々たち〕を、わたしは覚知します。そこで、また、そして、わたしは、『その色艶より、他の色艶で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません』と説きません。カッチャーナよ、そこで、また、しかしながら、あなたは、すなわち、この色艶が、虫の蛍より、そして、より劣り、さらに、より劣等であるのに、『それは、最高の色艶です』と説き、かつまた、その色艶のことを、〔何も〕報知しません。
280. カッチャーナよ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性(妙欲)です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。カッチャーナよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。カッチャーナよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、欲望の安楽と説かれます。かくのごとく、諸々欲望〔の対象〕から欲望の安楽があり、欲望の安楽より、至高の欲望の安楽(涅槃)が、そこにおいて、至高のものと告げ知らされます」と。
このように説かれたとき、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、貴君ゴータマによって、これほどまでに、見事に語られたのは。『かくのごとく、諸々欲望〔の対象〕から欲望の安楽があり、欲望の安楽より、至高の欲望の安楽(涅槃)が、そこにおいて、至高のものと告げ知らされます』」と。「カッチャーナよ、まさに、このことは、他なる見解があり、他なる受認があり、他なる嗜好があり、他なるものに専念し、他なるものを師匠とする、あなたによっては知り難いことなのです──あるいは、諸々の欲望〔の対象〕も、あるいは、欲望の安楽も、あるいは、至高の欲望の安楽も。カッチャーナよ、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らは、まさに、このことを知るでしょう──あるいは、諸々の欲望〔の対象〕も、あるいは、欲望の安楽も、あるいは、至高の欲望の安楽も」と。
281. このように説かれたとき、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、激情し、わが意を得ない者となり、まさしく、世尊を責めながら、まさしく、世尊を誹りながら、まさしく、世尊に、「沙門ゴータマは、悪しき者と成るであろう」と説きながら、世尊に、こう言いました。「いっぽう、まさしく、このように、ここに、一部の沙門や婆羅門たちは、過去の極(前際:過去の種々相)のことを知らずにいながら、未来の極(後際:未来の種々相)のことを知らずにいながら、そこで、また、しかしながら、『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知する』と明言する。彼らが語った、このことは、まさしく、笑い話として成就し、まさしく、名ばかりのものとして成就し、まさしく、空虚なるものとして成就し、まさしく、虚妄なるものとして成就する」と。「カッチャーナよ、すなわち、まさに、それらの沙門や婆羅門たちが、過去の極のことを知らずにいながら、未来の極のことを知らずにいながら、そこで、また、しかしながら、『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知する』と明言するなら、彼らには、まさしく、その、法(真理)を共にする糾弾が有ります。カッチャーナよ、ですが、ともあれ、過去の極のことはさておき、未来の極のことはさておき、識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして、まさしく、自ら知るでしょうし、まさしく、自ら見るでしょう。このように、まさに、正しく、結縛からの解脱が有ります。すなわち、この、無明という結縛から。カッチャーナよ、それは、たとえば、また、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、諸々の糸の結縛で──〔両の手足に加えて〕首を第五とする〔五つの〕結縛で──結縛された者として存するとします。彼の、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、それらの結縛は解き放たれ、彼は、『解脱者として、〔わたしは〕存している』と、まさに、知るでしょうし、かつまた、結縛するものはありません。カッチャーナよ、まさしく、このように、まさに、識者たる人は──狡猾〔の性行〕なく、幻惑〔の策略〕なく、真っすぐな生まれの者は──来たれ。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして、まさしく、自ら知るでしょうし、まさしく、自ら見るでしょう。このように、まさに、正しく、結縛からの解脱が有ります。すなわち、この、無明という結縛から」と。
このように説かれたとき、ヴェーカナサ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
ヴェーカナサの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
遍歴遊行者の章は終了となり、〔以上が〕第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「プンダリーと火と議論を共にする者という名のものがあり、ディーガナカ、さらに、バーラドヴァージャ姓の者、サンダカとウダーインとムンディカーの子、瓶、そのように、カッチャーナがあり、優れた章となる」〔と〕。
4. 王の章
1(81). ガティカーラの経
282. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。そこで、まさに、世尊は、道から外れて、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのだろう。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはない」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのですか。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはありません」と。「アーナンダよ、過去の事(過去世)ですが、この地域において、ヴェーガリンガという名の集落が有りました──まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔集落〕が。アーナンダよ、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、ヴェーガリンガの集落に近しく依拠して〔世に〕住みました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の林園が有りました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は坐った者となり、比丘の僧団に教諭します」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、四重に大衣を設けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それでは、世尊は、ここにおいて坐りたまえ。この土地の地域は、二者の阿羅漢にして正等覚者によって遍く受益するところと成るでしょう」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、尊者アーナンダに告げました。
「アーナンダよ、過去の事ですが、この地域において、ヴェーガリンガという名の集落が有りました──まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔集落〕が。アーナンダよ、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、ヴェーガリンガ集落に近しく依拠して〔世に〕住みました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の林園が有りました。アーナンダよ、ここに、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は坐った者となり、比丘の僧団に教諭します。
283. アーナンダよ、まさに、ヴェーガリンガの集落において、ガティカーラという名の陶工が、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、奉仕者として、至高の奉仕者として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、まさに、ガティカーラ陶工には、ジョーティパーラという名の学徒が、道友として、愛しい同友として、〔世に〕有りました。アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に告げました。『友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思認されているからです』と。アーナンダよ、このように説かれたとき、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、再度また、まさに……略……。アーナンダよ、三度また、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に、こう言いました。『友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思認されているからです』と。アーナンダよ、三度また、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。『友よ、ジョーティパーラよ、まさに、それでは、洗具と洗粉を携えて、沐浴するために川に赴きましょう』と。アーナンダよ、『友よ、わかりました』と、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に答えました。アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、洗具と洗粉を携えて、沐浴するために川に赴きました。
284. アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に告げました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思認されているからです』と。アーナンダよ、このように説かれたとき、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、再度また、まさに……略……。アーナンダよ、三度また、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒に告げました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思認されているからです』と。アーナンダよ、三度また、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒の帯を捉えて、こう言いました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思認されているからです』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ジョーティパーラ学徒は、帯を引き戻して、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、十分です。また、何だというのでしょう、その坊主頭の似非沙門と会見したとして』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、ジョーティパーラ学徒の沐浴した頭の諸々の髪を捉えて、こう言いました。『友よ、ジョーティパーラよ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の、この林園は、遠く離れていないところにあります。友よ、ジョーティパーラよ、行きましょう。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために近づいて行くのです。なぜなら、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思認されているからです』と。アーナンダよ、そこで、まさに、ジョーティパーラ学徒に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。なぜなら、そこで、まさに、このガティカーラ陶工が、些末な生まれの者として〔世に〕存していながら、わたしたちの沐浴した頭の諸々の髪を捉えるべきと思い考えるとは。まさに、これは、思うに、どうやら、低劣なものが有るのではないらしい』と。〔彼は〕ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、まさに、また、それほどまでのものなのですか』と。『友よ、ジョーティパーラよ、まさに、また、それほどまでのものなのです。また、なぜなら、そのように、わたしにとって、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することは、善きことと等しく思認されているからです』と。『友よ、ガティカーラよ、まさに、それでは、解き放ちたまえ。〔では〕赴きましょう』と。
285. アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガティカーラ陶工は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、一方に坐りました。いっぽう、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、ガティカーラ陶工は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、わたしにとって、この者は、ジョーティパーラ学徒は、道友であり、愛しい同友です。世尊は、この者に、法(教え)を説示してください』と。アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、かつまた、ガティカーラ陶工に、かつまた、ジョーティパーラ学徒に、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
286. アーナンダよ、そこで、まさに、ジョーティパーラ学徒は、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『友よ、ガティカーラよ、いったい、あなたは、この法(教え)を聞きながら、そこで、また、そして、家から家なきへと出家しないのですか』と。『友よ、ジョーティパーラよ、まさに、〔あなたは〕わたしのことを知っているのではないですか。〔わたしは〕盲目の老いた母と父を養っています』と。『友よ、ガティカーラよ、まさに、それでは、わたしが、家から家なきへと出家しましょう』と。アーナンダよ、そこで、まさに、かつまた、ガティカーラ陶工は、かつまた、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、ガティカーラ陶工は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、わたしにとって、この者は、ジョーティパーラ学徒は、道友であり、愛しい同友です。世尊は、この者を出家させたまえ』と。アーナンダよ、まさに、ジョーティパーラ学徒は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。
287. アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、〔戒を〕成就したばかりのジョーティパーラ学徒が、〔戒の〕成就から半月となるとき、ヴェーガリンガにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、バーラーナシー(波羅奈)のあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、バーラーナシーのあるところに、そこへと至り着きました。アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、バーラーナシーに住んでいます。イシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において。アーナンダよ、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、『どうやら、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、バーラーナシーに到着し、バーラーナシーに住んでおられるらしい。イシパタナの鹿園において』と耳にしました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、バーラーナシーから出発しました──大いなる王の威力をもって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊と会見するために。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、カーシ〔国〕のキキン王に、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください』と。アーナンダよ、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、特製の黄米の、雑物を取り去った幾多の汁と幾多の香味を〔準備して〕、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。
288. アーナンダよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、カーシ〔国〕のキキン王の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。アーナンダよ、一方に坐った、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けください。このような形態の、僧団への奉仕が有るでしょう』と。『大王よ、十分です。わたしによって、雨期の居住は、〔すでに〕承諾されました(先約がある)』と。アーナンダよ、再度また、まさに……略……。アーナンダよ、三度また、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けください。このような形態の、僧団への奉仕が有るでしょう』と。『大王よ、十分です。わたしによって、雨期の居住は、〔すでに〕承諾されました』と。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、『阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けくださらない』と、まさしく、〔心の〕他化が有り、失意が有りました。アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊に、こう言いました。『いったい、まさに、存在しますか──誰であれ、他に、わたしよりもより奉仕者たる者は』と。
『大王よ、ヴェーガリンガという名の集落が存在します。そこにおいて、ガティカーラという名の陶工がいます。彼は、わたしの、奉仕者であり、至高の奉仕者です。大王よ、また、まさに、あなたには、「阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊は、わたしのために、バーラーナシーにおいて、雨期の居住をお受けくださらない」と、まさしく、〔心の〕他化が存在し、失意が存在します。〔まさに〕その、この〔思い〕は、ガティカーラ陶工に、かつまた、存在せず、かつまた、有ることもないでしょう。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、帰依所として、覚者のもとに赴いた者であり、帰依所として、法(教え)のもとに赴いた者であり、帰依所として、僧団のもとに赴いた者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、命あるものを殺すことから離間した者であり、与えられていないものを取ることから離間した者であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)から離間した者であり、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離間した者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、覚者にたいする確固たる浄信を具備した者であり、法(教え)にたいする確固たる浄信を具備した者であり、僧団にたいする確固たる浄信を具備した者であり、聖者たちに愛される諸戒を具備した者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、苦しみについて疑いなき者であり、苦しみの集起について疑いなき者であり、苦しみの止滅について疑いなき者であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道について疑いなき者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、一食の者であり、梵行者であり、戒ある者であり、善き法(性質)ある者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、宝珠や黄金を捨て置いた者であり、金や銀を離れ去った者です。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、杵(農具)を置いた者であり、自らの手で、地を掘りません。すなわち、あるいは、破損した堤防〔の土〕が有り、あるいは、鼠の掘り起こし〔の土〕が〔有るなら〕、それを、天秤棒で運んで、器を作って、このように言います。「ここにおいて、すなわち、求めるなら、あるいは、諸々の米のおこぼれを、あるいは、諸々の豆のおこぼれを、あるいは、諸々の大豆のおこぼれを、〔器の代金として〕捨て置いて、すなわち、求めるところの、その〔器〕を持ち帰りたまえ」と。大王よ、ガティカーラ陶工は、まさに、盲目の老いた母と父を養います。大王よ、まさに、ガティカーラ陶工は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となります。
289. 大王よ、これは、或る時のことです。わたしは、ヴェーガリンガという名の集落に住んでいます。大王よ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ガティカーラ陶工の母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガティカーラ陶工の母と父に、こう言いました。「はてさて、いったい、まさに、バッガヴァ(ガティカーラ陶工)は、どうしたのですか、〔どこかに〕赴いたのですか」と。「尊き方よ、まさに、あなたの奉仕者は、出かけたところです。瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益してください」と。大王よ、そこで、まさに、わたしは、瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去りました。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「誰が、瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのですか」と。「息子よ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、瓶の中から飯を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのです」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工に、この〔思いが〕が有りました。「わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしのことを、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、このように大いに信頼してくれたのだ」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工には、半月のあいだ、母と父には、七日のあいだ、喜悦と安楽が衰退しませんでした(※)。
※ テキストには vijahati とあるが、PTS版により vijahi と読む。以下の平行箇所も同様。
290. 大王よ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、そこにおいて、ヴェーガリンガという名の集落に住んでいます。大王よ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ガティカーラ陶工の母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ガティカーラ陶工の母と父に、こう言いました。「はてさて、いったい、まさに、バッガヴァは、どうしたのですか、〔どこかに〕赴いたのですか」と。「尊き方よ、まさに、あなたの奉仕者は、出かけたところです。鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益してください」と。大王よ、そこで、まさに、わたしは、鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去りました。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「誰が、鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのですか」と。「息子よ、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、鍋の中から粥を収め取って、釜の中から汁を収め取って、遍く受益して、坐から立ち上がって、立ち去ったのです」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工に、この〔思いが〕が有りました。「わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしのことを、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、このように大いに信頼してくれたのだ」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工には、半月のあいだ、母と父には、七日のあいだ、喜悦と安楽が衰退しませんでした。
291. 大王よ、これは、或る時のことです。わたしは、まさしく、そこにおいて、ヴェーガリンガという名の集落に住んでいます。また、まさに、その時点にあって、小屋に〔雨が〕漏れ入ります。大王よ、そこで、まさに、わたしは、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、赴きなさい。ガティカーラ陶工の住居地において、草を見つけてきなさい」と。大王よ、このように説かれたとき、それらの比丘たちは、わたしに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、ガティカーラ陶工の住居地において、草は存在しません。しかしながら、まさに、彼の住居において、草の覆いが存在します」と。「比丘たちよ、赴きなさい。ガティカーラ陶工の住居の葺き草を剥ぎ取りなさい」と。大王よ、そこで、まさに、それらの比丘たちは、ガティカーラ陶工の住居の葺き草を剥ぎ取りました。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工の母と父は、それらの比丘たちに、こう言いました。「誰が、住居の葺き草を剥ぎ取るのですか」と。「姉妹よ、比丘たちです。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の小屋に〔雨が〕漏れ入ります」と。「尊き方たちよ、お持ち帰りください。幸顔なる方たちよ、お持ち帰りください」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工は、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「誰が、住居の葺き草を剥ぎ取ったのですか」と。「息子よ、比丘たちです。阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊の小屋に〔雨が〕漏れ入ります」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工に、この〔思いが〕が有りました。「わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしのことを、阿羅漢にして正等覚者たるカッサパ世尊が、このように大いに信頼してくれたのだ」と。大王よ、そこで、まさに、ガティカーラ陶工には、半月のあいだ、母と父には、七日のあいだ、喜悦と安楽が衰退しませんでした。大王よ、そこで、まさに、住居は、全てにわたり、三月のあいだ、虚空の覆いが止住したのですが、天は、〔雨を〕激しく降らせませんでした。大王よ、そして、このような形態の者として、ガティカーラ陶工はあります」と。「尊き方よ、ガティカーラ陶工には、諸々の利得があります。尊き方よ、まさに、ガティカーラ陶工には、善く得られたものがあります。彼のことを、世尊が、このように大いに信頼したのですから」』と。
292. アーナンダよ、そこで、まさに、カーシ〔国〕のキキン王は、ガティカーラ陶工に、特製の黄米の五百ばかりの米の積み荷を送りました──そして、それに合っている汁を。アーナンダよ、そこで、まさに、それらの王の家来たちは、近づいて行って、ガティカーラ陶工に、こう言いました。『尊き方よ、まさに、カーシ〔国〕のキキン王によって、これらの特製の黄米の五百ばかりの米の積み荷が送られました──そして、それに合っている汁が。尊き方よ、それらを納受したまえ』と。『王は、まさに、多くの義務があり、多くの用事があります。わたしには、十分です。まさしく、王のために有れ』と。アーナンダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、ジョーティパーラ学徒として〔世に〕有ったのだ』と。アーナンダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、ジョーティパーラ学徒として〔世に〕有ったのです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
ガティカーラの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(82). ラッタパーラの経
293. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥッラコッティカという名のクル〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、クル〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥッラコッティカ〔町〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。
294. また、まさに、その時点にあって、まさしく、そのトゥッラコッティカ〔町〕における、至高の家の子である、ラッタパーラという名の良家の子息が、その衆において、坐った状態でいます。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ」と。そこで、まさに、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、トゥッラコッティカ〔町〕の婆羅門や家長たちが立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではありません──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。尊き方よ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することを求めます。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就を得られますように。尊き方よ、世尊は、わたしを出家させたまえ」と。「ラッタパーラよ、また、あなたは、母と父によって許された者として存していますか──家から家なきへと出家するために」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、母と父によって許された者として存していません──家から家なきへと出家するために」と。「ラッタパーラよ、まさに、如来たちは、母と父によって許されていない子を出家させません」と。「尊き方よ、それなら、わたしは、そのとおりに為しましょう。すなわち、わたしのことを、母と父が許すことになるように──家から家なきへと出家するために」と。
295. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、母と父に、こう言いました。「母よ、父よ、まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではありません──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することを求めます。わたしのことをお許しください──家から家なきへと出家するために」と。このように説かれたとき、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは……略……。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、母と父に、こう言いました。「母よ、父よ、まさに、わたしが、世尊によって説示された法(教え)を了知する、そのとおり、そのとおりに、このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではありません──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家することを求めます。わたしのことをお許しください──家から家なきへと出家するために」と。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。
296. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、「わたしのことを、母と父は許さない──家から家なきへと出家するために」と、まさしく、そこにおいて、何もない地面のうえに横たわりました。「まさしく、ここに、わたしに、死が有るであろう──あるいは、出家が」と。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、一食もまた食べず、二食もまた食べず、三食もまた食べず、四食もまた食べず、五食もまた食べず、六食もまた食べず、七食もまた食べませんでした。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。息子よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、わたしたちは許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。このように説かれたとき、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。……略……。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの母と父は、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、わたしたちの独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。息子よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。息子よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、わたしたちは許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、わたしたちは、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、わたしたちが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。
297. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「友よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、母と父の独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。友よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。友よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、母と父は許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。このように説かれたとき、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。……略……。再度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「友よ、ラッタパーラよ、まさに、あなたは、母と父の独り子として存しています──安楽のうちに生長し、安楽のうちに養育された、愛しく意に適う者です。友よ、ラッタパーラよ、あなたは、何であれ、苦しみのことを知りません。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために。友よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。そして、食べなさい、さらに、飲みなさい、かつまた、楽しみなさい。食べながら、飲みながら、楽しみながら、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しながら、諸々の功徳を作り為しながら、喜び楽しむのです。あなたのことを、母と父は許しません──家から家なきへと出家するために。〔まさに〕その、母と父は、死によってもまた、欲することなく、別れ別れと成るでしょう。また、どうして、彼らが、生きているあなたを許せるというのでしょう──家から家なきへと出家するために」と。三度また、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、沈黙の者と成りました。
298. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラの母と父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、良家の子息であるラッタパーラの母と父に、こう言いました。「母よ、父よ、この者は、良家の子息であるラッタパーラは、まさしく、そこにおいて、何もない地面のうえに横たわっています。『まさしく、ここに、わたしに、死が有るであろう──あるいは、出家が』と。それで、もし、あなたたちが、良家の子息であるラッタパーラを許さないなら──家から家なきへと出家するために──まさしく、そこにおいて、死がやってくるでしょう。また、それで、もし、あなたたちが、良家の子息であるラッタパーラを許すなら──家から家なきへと出家するために──たとえ、出家したとして、彼を見るでしょう。それで、もし、良家の子息であるラッタパーラが喜び楽しまないなら──家から家なきへと出家するために──彼の赴く所として、他に、何が有るというのでしょう。まさしく、ここに、戻り来るでしょう。良家の子息であるラッタパーラを許したまえ──家から家なきへと出家するために」と。「親愛なる者たちよ、良家の子息であるラッタパーラを許します──家から家なきへと出家するために。また、そして、出家したなら、〔彼によって〕母と父が訓戒されるべきです」と。そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラの道友たちは、良家の子息であるラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、良家の子息であるラッタパーラに、こう言いました。「友よ、ラッタパーラよ、立ち上がりなさい。母と父によって許された者として、〔あなたは〕存しています──家から家なきへと出家するために。また、そして、出家したなら、〔あなたによって〕母と父が訓戒されるべきです」と。
299. そこで、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、立ち上がって、活力をつけて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、良家の子息であるラッタパーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、母と父によって許されました──家から家なきへと出家するために。世尊は、わたしを出家させたまえ」と。良家の子息であるラッタパーラは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。そこで、まさに、世尊は、〔戒を〕成就したばかりの尊者ラッタパーラが、〔戒の〕成就から半月となるとき、トゥッラコッティカにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者ラッタパーラは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。
そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラッタパーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、母と父を訓戒することを求めます。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら」と。そこで、まさに、世尊は、尊者ラッタパーラに、心をとおして、心を探知して、意を為しました。世尊は、「まさに、良家の子息であるラッタパーラは、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りすることは有りえない(戒を捨てて還俗することはない)」と、そのとおりに了知しました。そこで、まさに、世尊は、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「ラッタパーラよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、トゥッラコッティカのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、トゥッラコッティカのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、トゥッラコッティカに住んでいます。コーラブヤ王のミガチーラ〔園〕において。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、トゥッラコッティカに〔行乞の〕食のために入りました。トゥッラコッティカにおいて、歩々淡々と〔行乞の〕食のために歩みながら、自らの父の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、尊者ラッタパーラの父は、中央の門堂において、〔髪を〕梳かせています。まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、こう言いました。「これらの坊主頭の似非沙門たちによって、わたしたちの愛しく意に適う独り子が出家させられたのだ」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、自らの父の住居地において、まさしく、布施を得ることもなく、拒絶を〔得ることも〕ありませんでした。何はともあれ、まさしく、罵倒を得ましたが。また、まさに、その時点にあって、尊者ラッタパーラの親族の奴婢が、昨夜の粥を捨て放つことを欲する者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、その親族の奴婢に、こう言いました。「姉妹よ、それで、もし、それが、捨て放つべき法(事象)であるなら、ここに、わたしの鉢のなかに降り注ぎたまえ」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの親族の奴婢は、その昨夜の粥を、尊者ラッタパーラの鉢のなかに降り注ぎながら、そして、〔両の〕手の、かつまた、〔両の〕足の、さらに、声の、形相を収め取りました。
300. そこで、まさに、尊者ラッタパーラの親族の奴婢は、尊者ラッタパーラの母のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラの母に、こう言いました。「尊貴なる方よ、どうか、お知りください。ご子息のラッタパーラ様が、到着されたのです」と。「さて、それで、もし、〔あなたが〕真理(真実)を話しているなら、あなたを、奴婢ならざる者と為しましょう」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの母は、尊者ラッタパーラの父のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラの父に、こう言いました。「家長よ、どうか、お知りください。どうやら、良家の子息であるラッタパーラが、到着したらしいのです」と。また、まさに、その時点にあって、尊者ラッタパーラは、その昨夜の粥を、或るどこかの壁の根元に依拠して遍く受益しています。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、〔おまえが〕昨夜の粥を遍く受益することになる、〔このようなことが〕存するとは。息子よ、ラッタパーラよ、まさに、〔おまえは〕自らの家に赴くべきではないのか」と。「家長よ、家から家なきへと出家した者たちである、まさに、わたしたちに、どうして、家があるというのでしょう。家長よ、わたしたちは、家なき者たちです。家長よ、まさに、〔わたしは〕あなたの家に赴きました。そこにおいて、まさしく、布施を得ることもなく、拒絶を〔得ることも〕ありませんでした。何はともあれ、まさしく、罵倒を得ましたが」と。「息子よ、ラッタパーラよ、さあ、〔わたしたちは〕家に赴くのだ」と。「家長よ、十分です。わたしよって、今日、食事についての為すべきことは〔すでに〕為されました」と。「息子よ、ラッタパーラよ、まさに、それでは、明日、食事〔の布施〕を受けなさい」と。まさに、尊者ラッタパーラは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラの承諾を見出して、自らの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、大いなる金貨と黄金の集塊を作らせて、諸々の敷物で覆って、尊者ラッタパーラの以前の伴侶たちに告げました。「嫁たちよ、さあ、おまえたちが、すなわち、過去において、〔その〕外装品によって、〔装いを〕十分に作り為したなら、良家の子息であるラッタパーラにとって愛しく意に適う者たちと成る、〔まさに〕その、外装品によって、〔装いを〕十分に作り為すのだ」と。
301. そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、尊者ラッタパーラに、時を告げました。「息子よ、ラッタパーラよ、時だ。食事ができた」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、自らの父の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、その金貨と黄金の集塊を開示させて、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「息子よ、ラッタパーラよ、これは、おまえの祖母の財だ。父祖のものとは他のものだ。祖父のものとは他のものだ。息子よ、ラッタパーラよ、かつまた、諸々の財物を享受することも、かつまた、諸々の功徳を作り為すことも、できるのだ。息子よ、ラッタパーラよ、さあ、おまえは、下劣なところへと逆戻りして、かつまた、諸々の財物を享受し、かつまた、諸々の功徳を作り為すのだ」と。「家長よ、それで、もし、あなたが、わたしの言葉を為すであろうなら、この金貨と黄金の集塊を、荷車に載せて、運び出して、ガンガー川の流れの中に沈めてください。それは、何を因とするのですか。家長よ、なぜなら、すなわち、あなたに、それを因縁として、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が生起するであろうからです」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの以前の伴侶たちが、各自に、〔尊者ラッタパーラの両の〕足を掴んで、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「旦那様、どのような者たちなのですか──あなたが、彼女たちを因として、梵行を歩む、まさに、それらの仙女たちは」と。「姉妹たちよ、まさに、わたしたちは、仙女たちを因として、梵行を歩みません」と。「『姉妹たちよ』という説き方で、旦那様は、ラッタパーラは、わたしたちを呼び慣わす」と、彼女たちは、まさしく、そこにおいて、気絶し、倒れ落ちました。そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、父に、こう言いました。「家長よ、それで、もし、食料が施されるべきであるなら、施したまえ。わたしたちを悩ましてはいけません」と。「息子よ、ラッタパーラよ、出来上がった食事を食べなさい」と。そこで、まさに、尊者ラッタパーラの父は、尊者ラッタパーラを、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。
302. そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、食事を終え、鉢から手を離すと、まさしく、立った〔状態〕で、これらの詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕「見よ──彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を──寄せ集めの、傷ある身体を──病んだ、妄想多きものを。それに、常恒と止住は、〔何であれ〕存在しない。
見よ──彩りあざやかに作り為された〔虚妄の〕形態を──そして、宝珠や耳飾によって〔飾り立てられ〕、骨と皮で覆われた〔不浄の身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。
〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗料をつけた〔両の〕眼──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
彩りあざやかな新しい塗料箱のように、〔装いを〕十分に作り為した腐敗の身体──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
猟師は、罠を置いた。鹿は、網に近寄らなかった。『餌を食べて、〔わたしたちは〕去り行くのだ──鹿の捕捉者が泣き叫んでいるところを』」と。
そこで、まさに、尊者ラッタパーラは、まさしく、立った〔状態〕で、これらの詩偈を語って、コーラブヤ王のミガチーラ〔園〕のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐りました。
303. そこで、まさに、コーラブヤ王は、ミガヴァ(園の番人)に告げました。「友よ、ミガヴァよ、ミガチーラ〔園〕の庭園を清めよ。美しき地を見るために、〔わたしたちは〕赴くのだ」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、ミガヴァは、コーラブヤ王に答えて、ミガチーラ〔園〕を清めながら、尊者ラッタパーラが、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐っているのを見ました。見て、コーラブヤ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、コーラブヤ王に、こう言いました。「陛下よ、まさに、あなたのために、ミガチーラ〔園〕は清められました。ですが、ここにおいて、まさしく、このトゥッラコッティカ〔町〕における、至高の家の子である、ラッタパーラという名の良家の子息が存します。あなたは、彼のことを、幾度となく賛じ称えながら〔世に〕有りました。彼は、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐っています」と。「友よ、ミガヴァよ、まさに、それでは、今や、今日はもう、庭園の地のことは十分だ。今や、わたしたちは、まさしく、彼に、貴君ラッタパーラに奉侍するのだ」と。そこで、まさに、コーラブヤ王は、「すなわち、そこにおいて、固形の食料や軟らかい食料が準備されたなら、それを、全て、送り出すのだ」と説いて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、トゥッラコッティカ〔町〕から出発しました──大いなる王の威力をもって、尊者ラッタパーラと会見するために。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者ラッタパーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ラッタパーラを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、コーラブヤ王は、尊者ラッタパーラに、こう言いました。「ラッタパーラよ、貴君は、ここに、象の敷物に坐りたまえ」と。「大王よ、十分です。あなたが坐ってください。わたしは、自らの坐に坐っています」と。コーラブヤ王は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、コーラブヤ王は、尊者ラッタパーラに、こう言いました。
304. 「貴君ラッタパーラよ、四つのものがあります。これらの衰亡です。それらの衰亡を具備したなら、ここに、一部の者たちは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。どのようなものが、四つのものなのですか。老の衰亡であり、病の衰亡であり、財物の衰亡であり、親族の衰亡です。貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、老の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者として〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた者として〔世に〕存している。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その老の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、老の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラは、今現在、年少の者であり、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者です。貴君ラッタパーラに、その老の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。
貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、病の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者は、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、今現在、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存している。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その病の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、病の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラは、今現在、病苦少なき者であり、病悩少なき者であり、寒過ぎず暑過ぎず正しく消化する消化器官を具備した者です。貴君ラッタパーラに、その病の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。
貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、財物の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者は、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有ります。彼の、それらの財物が、順次に、完全なる滅尽に至ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしは、まさに、過去において、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者として〔世に〕有った。〔まさに〕その、わたしの、それらの財物は、順次に、完全なる滅尽に至ったのだ。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その財物の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、財物の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラは、まさしく、このトゥッラコッティカ〔町〕における、至高の家の子です。貴君ラッタパーラに、その財物の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。
貴君ラッタパーラよ、では、どのようなものが、親族の衰亡なのですか。貴君ラッタパーラよ、ここに、一部の者には、多くの、朋友や僚友たちが〔有り〕、親族や血縁たちが有ります。彼の、それらの親族たちが、順次に、完全なる滅尽に至ります。彼は、かくのごとく深慮します。『わたしには、まさに、過去において、多くの、朋友や僚友たちが〔有り〕、親族や血縁たちが有った。〔まさに〕その、わたしの、それらの親族たちは、順次に(※)、完全なる滅尽に至ったのだ。また、まさに、わたしによって、あるいは、〔いまだ〕到達していない財物に到達することは、あるいは、〔すでに〕到達している財物に増殖を為すことは、為し易きことではない。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、その親族の衰亡を具備した者として、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラよ、これは、親族の衰亡と説かれます。また、まさに、貴君ラッタパーラには、まさしく、このトゥッラコッティカ〔町〕において、多くの、朋友や僚友たちがいますし、親族や血縁たちがいます。貴君ラッタパーラに、その親族の衰亡は存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか。
※ テキストには te anupubbena とあるが、PTS版により te ñātakā anupubbena と読む。
貴君ラッタパーラよ、まさに、これらの四つの衰亡があります。それらの衰亡を具備したなら、ここに、一部の者たちは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。貴君ラッタパーラに、それらは存在しません。貴君ラッタパーラは、何を、あるいは、知って、あるいは、見て、あるいは、聞いて、家から家なきへと出家したのですか」と。
305. 「大王よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、四つの法(教え)の誦説が誦説され、存在します。わたしは、それらを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。どのようなものが、四つのものなのですか。大王よ、『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第一の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた(※)、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第二の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して赴くべきである』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第三の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、第四の法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです。大王よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これらの四つの法(教え)の誦説が誦説されました。わたしは、それらを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。
※ PTS版により ca を補う。以下の平行箇所も同様。
306. 「『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたは、齢二十年の時はまた、齢二十五年の時はまた、象についてもまた通じた者であり、馬についてもまた通じた者であり、車についてもまた通じた者であり、弓についてもまた通じた者であり、剣についてもまた通じた者であり、腿に力があり、腕に力があり、十分なる自己があり、戦場を行境とする者として〔世に〕有りましたか(※)」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしは、齢二十年の時はまた、齢二十五年の時はまた、象についてもまた通じた者であり、馬についてもまた通じた者であり、車についてもまた通じた者であり、弓についてもまた通じた者であり、剣についてもまた通じた者であり、についてもまた通じた者であり、腿に力があり、腕に力があり、十分なる自己があり、戦場を行境とする者として〔世に〕有りました。貴君ラッタパーラよ、或る時にあってはまた、思うに、神通ある者であるかのように、自己の力と等しく同等の者を等しく随観しません」と。「大王よ、それを、どう思いますか。まさしく、このように、あなたは、今現在、腿に力があり、腕に力があり、十分なる自己があり、戦場を行境とする者ですか」と。「貴君ラッタパーラよ、まさに、このことは、さにあらず。今現在、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、八十歳の者となり、わたしには、衰失が転起します。貴君ラッタパーラよ、或る時にあってはまた、『ここに、足を為すのだ』と、まさしく、他のところに、足を為します」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれる』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、常恒ならざるものとして導かれます。
※ PTS版により Ahosi を補う。
貴君ラッタパーラよ、まさに、この王の家においては、象の兵団もまた、馬の兵団もまた、車の兵団もまた、歩兵の兵団もまた、等しく見出されます。わたしたちに、諸々の逆境あるときに、防衛のために転起するでしょう。『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、また、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、何であれ、慢性の病苦は存在しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしに、慢性の病苦は存在します。貴君ラッタパーラよ、或る時にあってはまた、朋友や僚友たちが、親族や血縁たちが、わたしを取り囲んで立った状態でいます。『今や、コーラブヤ王は、命を終えるであろう。今や、コーラブヤ王は、命を終えるであろう』」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたは得ますか──それらの、朋友や僚友たち〔の承諾〕を、親族や血縁たち〔の承諾〕を。『わたしの尊き、朋友や僚友たちよ、親族や血縁たちよ、到来したまえ。存している、まさしく、全ての者たちが、この〔苦痛の〕感受を分与するのだ。すなわち、わたしが、より軽い〔苦痛の〕感受を感受するべく』と〔言うも〕。それとも、まさしく、あなたが、その〔苦痛の〕感受を感受しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしは得ません──それらの、朋友や僚友たち〔の承諾〕を、親族や血縁たち〔の承諾〕を。『わたしの尊き、朋友や僚友たちよ、親族や血縁たちよ、到来したまえ。存している、まさしく、全ての者たちが、この〔苦痛の〕感受を分与するのだ。すなわち、わたしが、より軽い〔苦痛の〕感受を感受するべく』と〔言うも〕。そこで、まさに、まさしく、わたしが、その〔苦痛の〕感受を感受します」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、救いなく、主権なきものである』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、救いなく、主権なきものです。
貴君ラッタパーラよ、まさに、この王の家においては、多大なる金貨と黄金が、かつまた、地に在るものも、かつまた、宙に在るものも、等しく見出されます。『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものである』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、また、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたが、今現在、五つの欲望の属性(五妙欲)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむように、あなたは、他所(来世)においてもまた、〔それらを〕得るでしょうか。『まさしく、このように、わたしは、まさしく、これらの五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむのだ』と〔言うも〕。それとも、他者たちが、この財物を収め、いっぽう、あなたは、行為(業)のとおりに赴くことになりますか」と。「貴君ラッタパーラよ、すなわち、わたしが、今現在、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむように、わたしは、他所(来世)においてもまた、〔それらを〕得ることはありません。『まさしく、このように、わたしは、まさしく、これらの五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しむのだ』と〔言うも〕。そこで、まさに、他者たちが、この財物を収め、いっぽう、わたしは、行為のとおりに赴くことになります」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものである』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものである』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、自らのものなく、一切を捨棄して去り行くべきものです。
『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と、貴君ラッタパーラは言いました。貴君ラッタパーラよ、また、この語られたことの義(意味)は、どのように見られるべきですか」と。「大王よ、それを、どう思いますか。〔あなたは〕繁栄するクル〔国〕に居住していますか」と。「貴君ラッタパーラよ、そのとおりです。〔わたしは〕繁栄するクル〔国〕に居住しています」と。「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、東の方角から、人が、あなたのもとにやってくるとします。信を置ける頼りになる者です。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『大王よ、どうか、知りたまえ。わたしは、東の方角からやってきます。そこにおいて、〔わたしは〕見ました──大いなる地方を、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔地方〕を。そこにおいては、多くの、象の兵団があり、馬の兵団があり、車の兵団があり、歩兵の兵団があり、そこにおいては、多くの財産と穀物があり、そこにおいては、多くの金貨と黄金が、まさしく、そして、〔加工が〕為されていないものもあり、さらに、〔加工が〕為されたものもあり、そこにおいては、多くの婦女と妻たちがいます。そして、まさしく、〔現有する〕そのかぎりの軍隊のみで征圧することができます。大王よ、征服したまえ』と。それを、どのようなものと為しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしたちは、それをもまた征圧して、居住するでしょう」と。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、西の方角から……北の方角から……南の方角から、人が、あなたのもとにやってくるとします。信を置ける頼りになる者です。彼は、近づいて行って、あなたに、このように説くとします。『大王よ、どうか、知りたまえ。わたしは、南の方角からやってきます。そこにおいて、〔わたしは〕見ました──大いなる地方を、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人々がいて、人間たちで満ち溢れる〔地方〕を。そこにおいては、多くの、象の兵団があり、馬の兵団があり、車の兵団があり、歩兵の兵団があり、そこにおいては、多くの財産と穀物があり、そこにおいては、多くの金貨と黄金が、まさしく、そして、〔加工が〕為されていないものもあり、さらに、〔加工が〕為されたものもあり、そこにおいては、多くの婦女と妻たちがいます。そして、まさしく、〔現有する〕そのかぎりの軍隊のみで征圧することができます。大王よ、征服したまえ』と。それを、どのようなものと為しますか」と。「貴君ラッタパーラよ、わたしたちは、それをもまた征圧して、居住するでしょう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と。わたしは、それを、かつまた、知って、かつまた、見て、かつまた、聞いて、家から家なきへと出家したのです」と。「貴君ラッタパーラよ、めったにないことです。貴君ラッタパーラよ、はじめてのことです。貴君ラッタパーラよ、さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、これほどまでに、見事に語られたのは。『世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷である』と。貴君ラッタパーラよ、まさに、世〔界〕は、不足のものであり、満足なきものであり、渇愛の奴隷です」と。
尊者ラッタパーラは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。
307. 〔そこで、詩偈に言う〕「〔わたしは〕見る──世において、財を有する人間たちを。迷いの者たちは、富を得ても施さない。貪りの者たちは、財の蓄積を為し、まさしく、より一層、諸々の欲望〔の対象〕を望み求める。
王は、〔他を〕打ち負かして、地を征圧して、海を限りとして有する大地を占拠しながら、海の此岸では不満の様子で、海の彼岸をもまた切望するであろう。
そして、王も、さらに、他の多くの人間たちも、渇愛を離れず、死に近づく。まさしく、不足の者たちと成って、肉身を捨棄する。世において、諸々の欲望〔の対象〕による満足は、まさに、存在しない。
親族たちは、諸々の髪を振り乱して、彼のことを泣き叫ぶ。そして、『ああ、まさに、不死にあらず』と言う。〔葬送の〕衣に包まれた彼を搬出して、荼毘の薪山を設置して、そののち、〔死体を〕焼く。
彼は、諸々の串に刺されながら、一衣で焼かれる──諸々の財物を捨棄して〔そののち〕。ここに、親族たちと朋友たちは、そこで、あるいは、道友たちも、死に行く者の救いには成らない。
相続者たちは、彼の財を運び去る。いっぽう、〔死んだ〕有情は、〔自己の為した〕行為のとおりに赴く。死に行く者に、何であれ、財が従い行くことはない──そして、子たちも、かつまた、妻たちも、さらに、財産と国土も。
財によって、長寿を得ることはない。さらに、また、富によって、老を打破することもない。慧者たちは言う。『まさに、この生命(寿命)は、僅かである。常久ならず、変化の法(性質)である』〔と〕。
富者たちは、さらに、貧者たちも、接触するべきもの(死)に接触する。そして、愚者も、さらに、慧者も、まさしく、そのようにあり、〔接触するべきものに〕接触したなら、そして、愚者は、〔自らの〕愚かさゆえに、まさしく、打ち殺され、〔地に〕臥すが、しかしながら、慧者は、接触するべきものに接触したとして、動揺しない。
まさに、それゆえに、智慧こそは、財よりも、より勝っている──それによって、〔人は〕この〔世において〕、完成に到達する。まさに、完成なきことから、諸々の種々なる生存において、迷いの者たちは、諸々の悪しき行為(悪業)を為す。
〔迷いの者は〕他〔の世〕から他〔の世〕へと、輪廻を惹起して、そして、〔母の〕胎に、さらに、他の世に、近づく。それ(輪廻的あり方)を盲信している、智慧少なき者は、そして、〔母の〕胎に、さらに、他の世に、近づく。
あたかも、入り口で捕捉された盗賊が、悪しき法(性質)の者として、自らの行為によって打ちのめされるように、このように、人々は、死してのち、他の世において、自らの行為によって打ちのめされる──悪しき法(性質)の者として。
まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。種々様々な形態で、〔人の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の属性のうちに見て、王よ、それゆえに、出家者として、わたしは存している。
諸々の木の果が落ちるように、人間たちは、かつまた、青年たちも、かつまた、年長の者たちも、肉体の破壊ある者たちである。このことをもまた見て、王よ、出家者として、〔わたしは〕存している。雑物なしの、沙門の資質こそは、より勝っている」と。
ラッタパーラの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(83). マガデーヴァの経
308. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ミティラーに住んでおられます。マガデーヴァのアンバ林において。そこで、まさに、世尊は、或るどこかの地域において、笑みを浮かべました。そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのだろう。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはない」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊の笑みの表明には、いったい、まさに、どのような因があり、どのような縁があるのですか。契機なしに、如来たちが笑みを浮かべることはありません」と。「アーナンダよ、過去の事(過去世)ですが、まさしく、このミティラーにおいて、マガデーヴァという名の、法(正義)にかなう法(正義)の王が、法(正義)に依って立つ大王が、〔世に〕有りました。婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ないます。そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に。アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王は、数年、数百年、数千年が経過して、理髪師に告げました。『友よ、理髪師よ、すなわち、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、わたしに告げるのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王に答えました。アーナンダよ、まさに、理髪師は、数年、数百年、数千年が経過して、マガデーヴァ王の頭において、諸々の白髪が生じたのを見ました。見て、マガデーヴァ王に、こう言いました。『まさに、天の使者たちが出現し、陛下の頭において、諸々の白髪が生じたのが見られます』と。『友よ、理髪師よ、まさに、それでは、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、わたしの合わせた掌のうえに据え置くのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王に答えて、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、マガデーヴァ王の合わせた掌のうえに据え置きました。
309. アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、まさに、天の使者たちが出現し、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのが見られる。また、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって享受された。天の諸々の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、王国を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう。息子よ、王子よ、まさに、それによって、すなわち、おまえもまた、頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない。息子よ、王子よ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成る。息子よ、王子よ、わたしは、それを、おまえに、このように説く。「すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない」』と。アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼は、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく(※)慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕(悲)を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。
※ テキストには abyābajjhena とあるが、PTS版により abyāpajjhena と読む。以下の平行箇所も同様。
アーナンダよ、また、まさに、マガデーヴァ王は、八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼は、四つの梵の住(四梵住:慈・悲・喜・捨の四無量心)を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。
310. アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王の子は、数年、数百年、数千年が経過して、理髪師に告げました。『友よ、理髪師よ、すなわち、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、わたしに(※)告げるのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王の子に答えました。アーナンダよ、まさに、理髪師は、数年、数百年、数千年が経過して、マガデーヴァ王の子の頭において、諸々の白髪が生じたのを見ました。見て、マガデーヴァ王の子に、こう言いました。『まさに、天の使者たちが出現し、陛下の頭において、諸々の白髪が生じたのが見られます』と。『友よ、理髪師よ、まさに、それでは、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、わたしの合わせた掌のうえに据え置くのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、マガデーヴァ王の子に答えて、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、マガデーヴァ王の子の合わせた掌のうえに据え置きました。
※ テキストには atha kho とあるが、PTS版により atha me と読む。
アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王の子は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、まさに、天の使者たちが出現し、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのが見られる。また、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって享受された。天の諸々の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、王国を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう。息子よ、王子よ、まさに、それによって、すなわち、おまえもまた、頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない。息子よ、王子よ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成る。息子よ、王子よ、わたしは、それを、おまえに、このように説く。「すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない」』と。アーナンダよ、そこで、まさに、マガデーヴァ王の子は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。アーナンダよ、また、まさに、マガデーヴァ王の子は、八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼は、四つの梵の住を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。
311. アーナンダよ、また、まさに、マガデーヴァ王の子孫たちは、彼の相伝として、八万四千の王たちが、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼らは、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼らは、四つの梵の住を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。彼らのなかの、ニミ王が、最後の者として〔世に〕有りました──法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に。
312. アーナンダよ、過去の事ですが、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、諸々の利得がある。ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、善く得られたものがある。すなわち、ニミ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入る──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に』と。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに告げました。『敬愛なる者たちよ、まさに、あなたたちは、ニミ王と会見することを求めますか』と。『敬愛なる方よ、わたしたちは、ニミ王と会見することを求めます』と。アーナンダよ、また、まさに、その時点にあって、ニミ王は、斎戒のその日、十五〔日〕において、頭を洗い清め、斎戒者として、優美なる高楼の上に至り、坐った状態でいます。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、ニミ王の面前に出現しました。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ニミ王に、こう言いました。『大王よ、あなたには、諸々の利得があります。大王よ、あなたには、善く得られたものがあります。大王よ、三十三天〔の神々〕たちは、スダンマーの集会場において、賛じ称える様子で着坐しています。「ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、諸々の利得がある。ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、善く得られたものがある。すなわち、ニミ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入る──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に」と。大王よ、三十三天〔の神々〕たちは、あなたと会見することを欲しています。大王よ、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、千の良馬を設えた車を派遣しましょう。大王よ、天の乗物に、動揺することなく乗られますように』と。アーナンダよ、まさに、ニミ王は、沈黙の状態をもって承諾しました。
313. アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ニミ王の承諾を見出して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ニミ王の面前において消没し、三十三天に出現しました。アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、戦車の馭者のマータリに告げました。『友よ、マータリよ、さあ、あなたは、千の良馬を設えた車を設えて、近づいて行って、ニミ王に、このように説きなさい。「大王よ、これは、あなたのために、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって派遣された、千の良馬を設えた車です。大王よ、天の乗物に、動揺することなく乗られますように」』と。アーナンダよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を設えて、近づいて行って、ニミ王に、こう言いました。『大王よ、これは、あなたのために、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕によって派遣された、千の良馬を設えた車です。大王よ、天の乗物に、動揺することなくお乗りください。大王よ、そして、また、どちら〔の道〕によって、あなたを導きましょうか──あるいは、すなわち、悪しき行為ある者たちが、諸々の悪しき行為の報いを得知する、〔その道によって〕──あるいは、すなわち、善き行為ある者たちが、諸々の善き行為の報いを得知する、〔その道によって〕』と。『マータリよ、まさしく、両者によって、わたしを導きたまえ』と。アーナンダよ、まさに、戦車の馭者のマータリは〔両者の道によって〕、ニミ王をスダンマーの集会場に導き入れました。アーナンダよ、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、ニミ王が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニミ王に、こう言いました。『大王よ、まさに、来たれ。大王よ、善く来てくれました。大王よ、あなたと会見することを欲し、三十三天〔の神々〕たちは、スダンマーの集会場において、賛じ称える様子で着坐しています。「ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、諸々の利得がある。ああ、まさに、ヴィデーハ〔国〕には、善く得られたものがある。すなわち、ニミ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として、法(正義)に依って立つ大王として、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入る──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に」と。大王よ、三十三天〔の神々〕たちは、あなたと会見することを欲しています。大王よ、天〔の神々〕たちのなかで、天の威力によって喜び楽しみたまえ』と。『敬愛なる方よ、十分です。まさしく、その場において、わたしを、ミティラーに連れ戻してください。そのとおりに、わたしは、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に』と。
314. アーナンダよ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、戦車の馭者のマータリに告げました。『友よ、マータリよ、さあ、あなたは、千の良馬を設えた車を設えて、まさしく、その場において、ニミ王を、ミティラーに連れ戻しなさい』と。アーナンダよ、『わかりました。あなたに、幸せ〔有れ〕』と、まさに、戦車の馭者のマータリは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に答えて、千の良馬を設えた車を設えて、まさしく、その場において、ニミ王を、ミティラーに連れ戻しました。アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、婆羅門や家長たちにたいし、まさしく、そして、町の者たちにたいし、さらに、地方の者たちにたいし、法(正義)を行ない、そして、斎戒に入ります──十四日と十五日に、さらに、半月〔ごと〕の第八日に(※)。アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、数年、数百年、数千年が経過して、理髪師に告げました。『友よ、理髪師よ、すなわち、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、わたしに告げるのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、ニミ王に答えました。アーナンダよ、まさに、理髪師は、数年、数百年、数千年が経過して、ニミ王の頭において、諸々の白髪が生じたのを見ました。見て、ニミ王に、こう言いました。『まさに、天の使者たちが出現し、陛下の頭において、諸々の白髪が生じたのが見られます』と。『友よ、理髪師よ、まさに、それでは、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、わたしの合わせた掌のうえに据え置くのだ』と。アーナンダよ、『陛下よ、わかりました』と、まさに、理髪師は、ニミ王に答えて、それらの白髪を、善くしっかりと毛抜きで引き抜いて、ニミ王の合わせた掌のうえに据え置きました。アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子を呼び寄せて、こう言いました。『息子よ、王子よ、まさに、天の使者たちが出現し、わたしの頭において、諸々の白髪が生じたのが見られる。また、まさに、人間の諸々の欲望〔の対象〕は、わたしによって享受された。天の諸々の欲望〔の対象〕を遍く探し求めるための時である。息子よ、王子よ、さあ、おまえは、王国を治めよ。いっぽう、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するであろう。息子よ、王子よ、まさに、それによって、すなわち、おまえもまた、頭において、諸々の白髪が生じたのを見るとき、そこで、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ。すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない。息子よ、王子よ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成る。息子よ、王子よ、わたしは、それを、おまえに、このように説く。「すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。おまえは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない」』と。
※ テキストには pakkhassāti とあるが、PTS版により ti を削除する。
315. アーナンダよ、そこで、まさに、ニミ王は、理髪師に、優れた村を与えて、長子の王子に、善くしっかりと、王国のことについて正しく教示して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。彼は、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。アーナンダよ、また、まさに、ニミ王は、八万四千年のあいだ、王子の遊戯に打ち興じ、八万四千年のあいだ、副王の権を執行し、八万四千年のあいだ、王権を執行し、八万四千年のあいだ、まさしく、このマガデーヴァのアンバ林において、家から家なきへと出家し、梵行を歩みました。彼は、四つの梵の住を修めて、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、梵の世に近しく赴く者と成りました。アーナンダよ、また、まさに、ニミ王には、カラーラジャナカという名の子が有りました。彼は、家から家なきへと出家しませんでした。彼は、その善き行持を断絶しました。彼は、彼らにとって、最後の人と成りました。
316. アーナンダよ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、マガデーヴァ王として〔世に〕有ったのだ。彼によって、その善き行持が安置されたとして』と。アーナンダよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、マガデーヴァ王として〔世に〕有ったのです。わたしが、その善き行持を安置しました。わたしによって、その善き行持が安置され、後の人々が随転させました。アーナンダよ、また、まさに、その善き行持は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、梵の世への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起します。アーナンダよ、また、まさに、今現在、わたしによって安置された、この善き行持は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。アーナンダよ、では、今現在、わたしによって安置された、どのような善き行持が、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。アーナンダよ、まさに、今現在、わたしによって安置された、この善き行持は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。アーナンダよ、わたしは、それを、あなたたちに、このように説きます。『すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。あなたたちは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない』〔と〕。アーナンダよ、すなわち、まさに、組なる人が転起しているとき、このような形態の善き行持に断絶が有るなら、彼は、彼らにとって、最後の人と成ります。アーナンダよ、わたしは、それを、あなたたちに、このように説きます。『すなわち、わたしによって安置された、この善き行持を随転させるのだ。あなたたちは、まさに、わたしにとって、最後の人と成ってはならない』」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
マガデーヴァの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。
4(84). マドゥラーの経
317. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・カッチャーナは、マドゥラーに住んでいます。グンダー林において。まさに、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、「君よ、まさに、沙門カッチャーナが、マドゥラーに住んでいる。グンダー林において。また、まさに、彼に、貴君カッチャーナに、このように、善き評価の声が上がっている。『賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、多聞の者であり、様々な言説ある者であり、善き弁才ある者である。まさしく、そして、年長の者であり、さらに、阿羅漢である』〔と〕。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、マドゥラーから出発しました──大いなる王の威力をもって、尊者マハー・カッチャーナと会見するために。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、婆羅門たちは、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』と。ここに、貴君カッチャーナは、何を告げ知らせる者ですか」と。「大王よ、まさに、これは、世における、ただの騒音です。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』という、〔このことは〕。大王よ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。
318. 大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、士族として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、士族として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、婆羅門として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。……庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、婆羅門として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。……庶民もまた、彼のために……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、庶民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、庶民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。……隷民もまた、彼のために……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。もし、また、隷民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか。……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょうか」と。「貴君カッチャーナよ、もし、また、隷民として〔世に〕存するも、あるいは、財産によって、あるいは、穀物によって、あるいは、銀によって、あるいは、金によって、〔彼が〕富み栄えるなら、隷民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう。……士族もまた、彼のために……婆羅門もまた、彼のために……庶民もまた、彼のために、先に起き、後に退き、何を為すにも承諾し、意に適う行ないある者として、愛語ある者として、〔世に〕存するでしょう」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性(相違点)を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。
319. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として、虚偽を説く者として、中傷の言葉ある者として、粗暴な言葉ある者として、雑駁な虚論ある者として、強欲〔の思い〕ある者として、憎悪している心の者として、誤った見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者は、虚偽を説く者は、中傷の言葉ある者は、粗暴な言葉ある者は、雑駁な虚論ある者は、強欲〔の思い〕ある者は、憎悪している心の者は、誤った見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。
「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……。ここに、庶民が……略……。ここに、隷民が、命あるものを殺す者として、与えられていないものを取る者として……略……誤った見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、隷民もまた、命あるものを殺す者は、与えられていないものを取る者は……略……誤った見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。
「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。
320. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として、虚偽を説くことから離間した者として、中傷の言葉から離間した者として、粗暴な言葉から離間した者として、雑駁な虚論から離間した者として、強欲〔の思い〕なき者として、憎悪していない心の者として、正しい見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者は、虚偽を説くことから離間した者は、中傷の言葉から離間した者は、粗暴な言葉から離間した者は、雑駁な虚論から離間した者は、強欲〔の思い〕なき者は、憎悪していない心の者は、正しい見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。
「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……。ここに、庶民が……略……。ここに、隷民が、命あるものを殺すことから離間した者として、与えられていないものを取ることから離間した者として……略……正しい見解ある者として、〔世に〕存するなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生しますか、あるいは、〔再生し〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、隷民もまた、命あるものを殺すことから離間した者は、与えられていないものを取ることから離間した者は……略……正しい見解ある者は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、このように、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、わたしは聞きました」と。
「大王よ、善きかな、善きかな。大王よ、善きかな、まさに、あなたに、このように、この〔思い〕が有ります。善きかな、また、そして、このことを、阿羅漢たちの〔言葉として〕、あなたは聞きました。大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。
321. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、あるいは、〔家の〕境目を断ち切り(家屋に侵入する)、あるいは、強奪物を運び去り(略奪し強奪する)、あるいは、泥棒を為し、あるいは、〔往来者から強奪するために〕路傍に立ち、あるいは、他者の妻のもとに赴くとして(不倫をする)、もし、人たちが、彼を捕捉して、あなたに見せるなら、『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、殺害し、あるいは、〔財を〕収奪し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為すでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『士族』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『盗賊』という名称に至るからです」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……。ここに、庶民が……略……。ここに、隷民が、あるいは、〔家の〕境目を断ち切り、あるいは、強奪物を運び去り、あるいは、泥棒を為し、あるいは、〔往来者から強奪するために〕路傍に立ち、あるいは、他者の妻のもとに赴くとして、もし、人たちが、彼を捕捉して、あなたに見せるなら、『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、殺害し、あるいは、〔財を〕収奪し、あるいは、追放し、あるいは、縁あるままに為すでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『隷民』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『盗賊』という名称に至るからです」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』という、〔このことが〕。
322. 大王よ、それを、どう思いますか。ここに、士族が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家し、命あるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、虚偽を説くことから離れ、夜〔の食事〕を止めた者として、一食の者として、梵行者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存するなら、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、敬拝し、あるいは、立礼し、あるいは、坐によって招き、あるいは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、彼を招待し、あるいは、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配するでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『士族』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『沙門』という名称に至るからです」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門が……略……。ここに、庶民が……略……。ここに、隷民が、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家し、命あるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、虚偽を説くことから離れ、夜〔の食事〕を止めた者として、一食の者として、梵行者として、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存するなら、どのようなことを、彼に為しますか」と。「貴君カッチャーナよ、あるいは、敬拝し、あるいは、立礼し、あるいは、坐によって招き、あるいは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、彼を招待し、あるいは、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配するでしょう。それは、何を因とするのですか。貴君カッチャーナよ、なぜなら、すなわち、彼の、過去における『隷民』という呼称ですが、彼の、その〔呼称〕は消没し、まさしく、『沙門』という名称に至るからです」と。
「大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成りますか、あるいは、〔成ら〕ないですか。あるいは、ここにおいて、あなたに、どのような〔思いが〕有りますか」と。「貴君カッチャーナよ、まさに、たしかに、このように存しているとき、これらの四つの階級は、等しく同等のものと成ります。これらのものに、ここにおいて、何であれ、多様性を等しく随観しません」と。「大王よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、世における、ただの騒音であるとおりに、『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』という、〔このことが〕」〔と〕。
323. このように説かれたとき、マドゥラー〔国〕のアヴァンティプッタ王は、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、すばらしいことです。貴君カッチャーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君カッチャーナによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君カッチャーナのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君カッチャーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。「大王よ、まさに、帰依所として、わたしのもとに赴いてはいけません。あなたは、帰依所として、まさしく、彼のもとに、世尊のもとに赴きたまえ──すなわち、わたしが、帰依所として、〔彼のもとに〕赴いた〔そのとおりに〕」と。「貴君カッチャーナよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられますか」と。「大王よ、まさに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、〔すでにもう〕完全なる涅槃に到達したのです」と。「貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、十ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)において耳にするなら、わたしどもは、十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、二十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、二十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、三十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、三十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、四十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、四十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、五十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、五十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、世尊のことを、百ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、百ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために。貴君カッチャーナよ、そして、彼が、世尊が完全なる涅槃に到達した、そののちは、たとえ、完全なる涅槃に到達したとして、わたしどもは、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君カッチャーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
マドゥラーの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(85). ボーディ王子の経
324. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。また、まさに、その時点にあって、ボーディ王子に、コーカナダという名の造営されたばかりの高楼が有ります──あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、誰であれ、人間たる生類によって、居住されていないものとして。そこで、まさに、ボーディ王子は、サンジカープッタ学徒に告げました。「友よ、サンジカープッタよ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、ボーディ王子は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、まさに、世尊は、比丘の僧団と共に、明日、ボーディ王子の食事〔の布施〕をお受けください』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サンジカープッタ学徒は、ボーディ王子に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンジカープッタ学徒は、世尊に、こう言いました。「まさに、ボーディ王子は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『まさに、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、ボーディ王子の食事〔の布施〕をお受けください』」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、サンジカープッタ学徒は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、ボーディ王子のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ボーディ王子に、こう言いました。「貴君の言葉でもって、彼に、貴君ゴータマに言いました。『まさに、ボーディ王子は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。「まさに、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、ボーディ王子の食事〔の布施〕をお受けください」』と。また、そして、沙門ゴータマによって、〔それは〕承諾されました」と。
325. そこで、まさに、ボーディ王子は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、そして、コーカナダ高楼を、すなわち、諸々の階段の最後の段に至るまで、諸々の白い布で敷き詰めさせて、サンジカープッタ学徒に告げました。「友よ、サンジカープッタよ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、世尊に、時を告げなさい。『尊き方よ、時間です。食事ができました』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サンジカープッタ学徒は、ボーディ王子に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、時を告げました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ボーディ王子の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、ボーディ王子は、世尊を待ちながら、門小屋の外に立った状態でいます。まさに、ボーディ王子は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、出迎えて、世尊を敬拝して、〔世尊を〕前にして、コーカナダ高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、世尊は、階段の最後の段に依拠して立ちました(歩みを止めた)。そこで、まさに、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、諸々の布にお登りください。善き至達者たる方は、諸々の布にお登りください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、諸々の布にお登りください。善き至達者たる方は、諸々の布にお登りください。すなわち、わたしにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。
326. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダを顧みました。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ボーディ王子に、こう言いました。「王子よ、諸々の布をたたんでください。世尊は、布や毛布を踏みしめません。如来は、後の人々を慈しみます」と。そこで、まさに、ボーディ王子は、諸々の布をたたませて、コーカナダ高楼の上において、諸々の坐を設けさせました。そこで、まさに、世尊は、コーカナダ高楼に登って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ボーディ王子は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ボーディ王子は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしに、まさに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきである』」と。
327. 「王子よ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしにもまた、このような〔思いが〕有りました。『まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきである』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。王子よ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。王子よ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。
王子よ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。王子よ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を説き知らせました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が……略……気づきが……禅定が……智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。王子よ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。王子よ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
328. 王子よ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。王子よ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。王子よ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。王子よ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。王子よ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を説き知らせました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が……略……気づきが……禅定が……智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。
王子よ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。王子よ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
329. 王子よ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、澄浄なる密林を、さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、澄浄なる密林である。さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。王子よ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔三つの喩え〕が。
王子よ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水のなかに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水のなかに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、樹液を有し水気のある薪であり、また、そして、それは、水のなかに置かれているからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲せず、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第一の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第一の喩え〕が。
330. 王子よ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第二の喩え〕が。王子よ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、たとえ、何であれ、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとして、樹液を有し水気のある薪であるからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住むも、しかしながら、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第二の喩え〕が。
331. 王子よ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第三の喩え〕が。王子よ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「尊き方よ、なぜなら、これは、干涸び乾燥した薪であり、また、そして、それは、水から遠く離れて陸のうえに置かれているからです」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成り、善く安息されたものと〔成るなら〕、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちです。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第三の喩え〕が。王子よ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの三つの喩え〕が。
332. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅します。王子よ、〔まさに〕その、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。王子よ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
333. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体内の風)の音声は、旺盛なるものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、鍛冶屋の鞴(ふいご)が鳴っていると、音声が旺盛なるものと成るように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風の音声は、旺盛なるものと成ります。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。王子よ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。王子よ、それは、たとえば、また、まさに、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。王子よ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
王子よ、さてまた、まさに、天神たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのだ』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。しかしながら、また、〔すぐに〕命を終える』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。〔すぐに〕命を終えるのでもまたない。阿羅漢として、沙門ゴータマはある。まさしく、阿羅漢の住ということで、その〔住〕は、このような形態のものと成る』と。
334. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、食の断絶のために実践するのだ』と。王子よ、そこで、まさに、天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたは、全てにわたり、食の断絶のために実践してはいけません。敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、全てにわたり、食の断絶のために実践するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしたちは、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させましょう。それによって、あなたは、〔身を〕保ち行くでしょう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、まさしく、そして、わたしが、全てにわたり、不食を明言し、かつまた、わたしのために、これらの天神たちが、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させ、さらに、それによって、わたしが、〔身を〕保ち行くなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するであろう』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、それらの天神たちを峻拒し、『まさに、十分です』と説きます。
王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、少しずつ、食を食するのだ──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、少しずつ、食を食しました──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を。王子よ、〔まさに〕その、わたしが、少しずつ、食を食していると──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を──身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。王子よ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、そこにおいて、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、それで、まさに、わたしは、まさしく、この身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。王子よ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。王子よ、さてまた、まさに、人間たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒い』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くない。沙門ゴータマは、褐色である』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くなく、褐色でもまたない。沙門ゴータマは、黄土色の表皮をしている』と。王子よ、すなわち、それほどまでに、まさに、わたしの、完全なる清浄にして完全なる清白の表皮の色艶は、打ち砕かれたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。
335. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受したとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受することになるとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。また、まさに、わたしは、この辛辣な難行によって、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しない。いったい、まさに、他の、覚りのための道が存するのだろうか』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、わたしは証知する(記憶している)──釈迦〔族〕の父の行事があるとき、涼やかなジャンブ〔樹〕の影のもとに坐り、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む者となる、〔そのときのことを〕。いったい、まさに、これは、覚りのための道として存するのだろうか』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、気づきに従い行く識知が有りました。『これこそは、覚りのための道である』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、その安楽を恐れているのだろうか。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、その安楽を恐れていない。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。
王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、その安楽に到達することは、為し易きことにあらず──このように、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体によっては。それなら、さあ、わたしは、粗雑なる食を──飯や粥を──食するのだ』と。王子よ、それで、まさに、わたしは、粗雑なる食を──飯や粥を──食しました。また、まさに、その時点にあって、五人組の比丘たちが、わたしに奉仕する者たちとして〔世に〕有ります。『すなわち、まさに、沙門ゴータマが、法(真理)に到達するなら、それを、わたしたちに告げるであろう』と。王子よ、すなわち、まさに、わたしが、粗雑なる食を──飯や粥を──食したことから、そこで、それらの五人組の比丘たちは、わたしを厭離して、立ち去りました。『沙門ゴータマは、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である』と。
336. 王子よ、それで、まさに、わたしは、粗雑なる食を食して、力をつけて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。王子よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。王子よ、まさに、わたしには、夜の初夜(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
王子よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。王子よ、まさに、わたしには、夜の中夜(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
王子よ、その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し……略……『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し……略……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。王子よ、まさに、わたしには、夜の後夜(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
337. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしが到達した、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。また、まさに、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜するのが、この、〔世の〕人々である。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々にとって、この境位は、見難きものとしてある。すなわち、この、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)であり、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)である。まさに、この境位もまた、見難きものとしてある。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、法(教え)を説示するとして、しかしながら、他者たちは、わたしの〔法を〕了知しないであろう。それは、わたしにとって、疲弊として存するであろう。それは、わたしにとって、悩害として存するであろう』と。王子よ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの詩偈〕が。
〔すなわち〕『苦難をもって、わたしが到達したものを、〔世に〕明示するべくも、今は、まさに、十分である(その時ではない)。この法(真理)は、貪欲と憤怒に打ち負かされた者たちによって、善く正覚されるものにあらず。
〔世の〕流れに反して赴く精緻なる〔この法〕を、深遠にして見難く微細なる〔この法〕を、貪欲に染まり闇の塊に覆われた者たちは〔あるがままに〕見ない』と。
王子よ、まさに、かくのごとく、わたしが深慮していると、心は、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾きません(説法を躊躇する)。
338. 王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティに──〔自らの〕心をとおして、わたしの心の思索を了知して──この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、世が滅びる。ああ、まさに、世が滅び去る。なぜなら、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来の心が、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾かないからだ』と。王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、わたしの前に出現しました。王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう』と。王子よ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。
〔すなわち〕『過去において、マガダ〔国〕に、清浄ならざる法(教え)が出現しました──〔世俗の〕垢を有する者たちによって思弁されたものとして。〔あなたこそは〕開示したまえ──〔まさに〕この、不死の門を。〔世の人々は〕聞け──〔世俗の〕垢を離れる方によって随覚された〔清浄なる〕法(教え)を。
たとえば、山の頂きの巌に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、思慮深き方よ、一切に眼ある方よ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視したまえ。
勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。先導者たる方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。世尊は、法(教え)を説示してください。〔世の人々は、法の〕了知者たちと成るでしょう』と。
339. 王子よ、そこで、まさに、わたしは、そして、梵〔天〕の要請を知って、さらに、有情たちにたいし慈悲あることを縁として、覚者の眼によって、世を眺めました。王子よ、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、王子よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。王子よ、そこで、まさに、わたしは、梵〔天〕のサハンパティに、詩偈をもって答えました。
〔すなわち〕『彼ら、耳ある者たちは、信を解き放て。不死の諸門は、彼らに開示された。梵〔天〕よ、〔わたしは〕悩害の表象ある者となり、人間たちにたいし、至徳にして精妙なる法(真理)を語らなかった』と。
340. 王子よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、『まさに、〔わたしは〕存している──法(教え)を説示するために、世尊が機会を作った者として』と、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。
王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、アーラーラ・カーラーマは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。王子よ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのだ』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、アーラーラ・カーラーマである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、ウダカ・ラーマプッタに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。王子よ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのだ』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、ウダカ・ラーマプッタである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。
341. 王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『五人組の比丘たちは、まさに、わたしのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、彼らは、精励のために自己を精励するわたしに奉仕してくれた。それなら、さあ、わたしは、五人組の比丘たちに、最初に、法(教え)を説示するべきである』と。王子よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どこに、今現在、五人組の比丘たちは住んでいるのか』と。王子よ、まさに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、五人組の比丘たちが、バーラーナシーのイシパタナの鹿園において住んでいるのを見ました。王子よ、そこで、まさに、わたしは、ウルヴェーラーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、バーラーナシーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。
王子よ、まさに、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)のウパカは、かつまた、ガヤーの、かつまた、菩提〔樹〕の、それぞれの中途において、旅の道を行くわたしを見ました。見て、わたしに、こう言いました。『友よ、まさに、あなたの、諸々の〔感官の〕機能は澄浄で、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。友よ、誰を、〔師と〕指定して、あなたは、出家者として〔世に〕存しているのですか。あるいは、誰が、あなたの教師なのですか。あるいは、誰の法(教え)を、あなたは喜ぶのですか』と。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、アージーヴァカのウパカに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔すなわち〕『わたしは、一切を征服する者として、一切を知る者として、一切の諸法(事象)に汚されない者として、〔世に〕存している。一切を捨棄する者は、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者は、自ら証知して、誰を、〔師と〕定めよう。
わたしに、師匠は存在しない。わたしに、等しき者は見出されない。天を含む世において、わたしに、対する人は存在しない。
まさに、わたしは、世における阿羅漢である。わたしは、無上なる教師である。独り、正等覚者として、〔わたしは〕存している。〔心が〕清涼と成った者として、涅槃に到達した者として、〔わたしは〕存している。
法(真理)の輪を転起させるために、カーシ〔国〕の都に、〔わたしは〕赴く。暗愚と成った世において、不死の雷鼓を打つであろう』と。
『友よ、すなわち、まさに、あなたが明言するとおりなら、〔あなたは〕無辺の勝者たるに値します』と。
〔そこで、詩偈に言う〕『わたしのような者たちは、まさに、勝者たちとして〔世に〕有る──彼ら、煩悩の滅尽に至り得た者たちは。わたしは、諸々の悪しき法(性質)に勝利した。ウパカよ、それゆえに、わたしは、勝者である』と。
王子よ、このように説かれたとき、アージーヴァカのウパカは、『友よ、〔そのように〕成るかもしれません』と言って、頭を振って、悪しき道を収め取って、立ち去りました。
342. 王子よ、そこで、まさに、わたしは、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、バーラーナシーのイシパタナの鹿園のあるところに、五人組の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。王子よ、まさに、五人組の比丘たちは、わたしが、遠くから、やってくるのを見ました。見て、互いに他を〔安息させ〕安定させました。『友よ、この者が、まさに、沙門ゴータマが、やってきます。贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者です。彼は、まさしく、敬拝されるべきではなく、立礼されるべきではなく、彼の鉢と衣料は納受されるべきではありません。しかしながら、また、まさに、坐は据え置かれるべきです。それで、もし、彼が望むなら、坐るでしょう』と。王子よ、そのとおり、そのとおりに、まさに、わたしが、五人組の比丘たちに近づいて行ったなら、そのとおり、そのとおりに、五人組の比丘たちは、自らの取り決めを守ることができませんでした。一部の者たちはまた、わたしを出迎えて、鉢と衣料を収め取り、一部の者たちはまた、坐を設け、一部の者たちはまた、足用の水を調達しました。しかしながら、また、まさに、わたしを、かつまた、名前で、かつまた、『友よ』という説き方で、呼び慣わします。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来を、かつまた、名前で、かつまた、「友よ」という説き方で、呼び慣わしてはいけません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。王子よ、このように説かれたとき、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく、精励から離脱した者ではなく、贅沢に逆戻りした者ではありません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。王子よ、再度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。王子よ、再度また、まさに、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく、精励から離脱した者ではなく、贅沢に逆戻りした者ではありません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。王子よ、三度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。王子よ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、まさに、あなたたちは証知しますか(記憶していますか)──これより過去において、わたしに、このような形態の、この光り輝きがあることを』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。
王子よ、まさに、わたしは、五人組の比丘たちを説得することができました。王子よ、まさに、また、二者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、三者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、三者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。王子よ、まさに、また、三者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、二者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、二者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。
343. 王子よ、そこで、まさに、五人組の比丘たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました」と。このように説かれたとき、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どれだけの長さによって、比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになるのでしょうか」と。「王子よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。王子よ、それを、どう思いますか。あなたは、象に乗り鉤を把持する技術に巧みな智ある者ですか」と。「尊き方よ、そのとおりです。わたしは、象に乗り鉤を把持する技術に巧みな智ある者です」と。「王子よ、それを、どう思いますか。ここに、人がやってくるとします。『ボーディ王子は、象に乗り鉤を把持する技術を知っている。わたしは、彼の現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学ぶのだ』と。そして、彼が、信なき者として〔世に〕存しているなら、すなわち、信ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、病苦多き者として〔世に〕存しているなら、すなわち、病苦少なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕存しているなら、すなわち、狡猾なき者が〔至り得るべきであり〕、幻惑なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、怠惰の者として〔世に〕存しているなら、すなわち、精進に励む者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。そして、彼が、智慧浅き者として〔世に〕存しているなら、すなわち、智慧ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できないでしょう。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、あなたの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べるでしょうか」と。「尊き方よ、たとえ、一つ一つの支分であれ、〔それを〕具備しているなら、その人は、わたしの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べないでしょう。五つの支分を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう」と。
344. 「王子よ、それを、どう思いますか。ここに、人がやってくるとします。『ボーディ王子は、象に乗り鉤を把持する技術を知っている。わたしは、彼の現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学ぶのだ』と。そして、彼が、信ある者として〔世に〕存しているなら、すなわち、信ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、病苦少なき者として〔世に〕存しているなら、すなわち、病苦少なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕存しているなら、すなわち、狡猾なき者が〔至り得るべきであり〕、幻惑なき者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、精進に励む者として〔世に〕存しているなら、すなわち、精進に励む者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。そして、彼が、智慧ある者として〔世に〕存しているなら、すなわち、智慧ある者が至り得るべきである、そのかぎりのものに、それに得達できるでしょう。王子よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、あなたの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べるでしょうか」と。「尊き方よ、たとえ、一つ一つの支分であれ、〔それを〕具備しているなら、その人は、わたしの現前において、象に乗り鉤を把持する技術を学べるでしょう。五つの支分を〔具備しているなら〕、また、何の論があるというのでしょう」と。「王子よ、まさしく、このように、まさに、五つのものがあります。これらの精励の支分です。どのようなものが、五つのものなのですか。王子よ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。王子よ、まさに、これらの五つの精励の支分があります。
345. 王子よ、これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七年のあいだに。王子よ、七年は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──六年のあいだに。……五年のあいだに。……四年のあいだに。……三年のあいだに。……二年のあいだに。……一年のあいだに。王子よ、一年は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七月のあいだに。王子よ、七月は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──六月のあいだに。……五月のあいだに。……四月のあいだに。……三月のあいだに。……二月のあいだに。……一月のあいだに。……半月のあいだに。……。王子よ、半月は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──七つの夜と昼のあいだに。王子よ、七つの夜と昼は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう──六つの夜と昼のあいだに。……五つの夜と昼のあいだに。……四つの夜と昼のあいだに。……三つの夜と昼のあいだに。……二つの夜と昼のあいだに。……一つの夜と昼のあいだに。王子よ、一つの夜と昼は、さておくとしましょう。これらの五つの精励の支分を具備した比丘は、如来を導き手として得つつ、夕に教示され、朝に殊勝〔の境地〕に到達するでしょうし、朝に教示され、夕に殊勝〔の境地〕に到達するでしょう」と。このように説かれたとき、ボーディ王子は、世尊に、こう言いました。「ああ、覚者なるかな。ああ、法(教え)なるかな。ああ、法(教え)の見事に告げ知らされたことかな。なぜなら、そこで、まさに、夕に教示され、朝に殊勝〔の境地〕に到達するであろうとは、朝に教示され、夕に殊勝〔の境地〕に到達するであろうとは」と。
346. このように説かれたとき、サンジカープッタ学徒は、ボーディ王子に、こう言いました。「また、まさしく、このように、そして、この貴君ボーディは、『ああ、覚者なるかな。ああ、法(教え)なるかな。ああ、法(教え)の見事に告げ知らされたことかな』と説くも、そこで、また、しかしながら、帰依所として、彼のもとに、貴君ゴータマのもとに赴きません──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに」と。「友よ、サンジカープッタよ、まさに、このように言ってはいけません。友よ、サンジカープッタよ、まさに、このように言ってはいけません。友よ、サンジカープッタよ、わたしは、このことを、母上の、面前で聞き、面前で受けました。友よ、サンジカープッタよ、これは、或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、妊婦であるわたしの母上が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、わたしの母上は、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、すなわち、この、わたしのお腹に在している、あるいは、王子は、あるいは、王女は、その〔子〕は、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、その〔子〕を、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として』と。友よ、サンジカープッタよ、これは、或る時のことです。世尊は、まさしく、ここに、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。そこで、まさに、乳母が、わたしを脇にかかえて運んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、乳母は、わたしを〔差し出して〕、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、このボーディ王子は、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、彼を、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として』と。友よ、サンジカープッタよ、〔まさに〕この、わたしは、三度また、帰依所として、世尊のもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
ボーディ王子の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
6(86). アングリマーラの経
347. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土において、アングリマーラという名の盗賊が〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾(死者の指でできた首輪)を〔身に〕付けます。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、臥坐具をたたんで、鉢と衣料を取って、盗賊のアングリマーラのいるところに、そこへと、街道を行きました。まさに、牛飼いたちも、牧畜者たちも、耕作者たちも、道行く者たちも、世尊が、盗賊のアングリマーラのいるところに、そこへと、街道を行くのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「沙門よ、この道を行ってはいけません。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。沙門よ、まさに、この道を、十者の人たちともまたなり、二十者の人たちともまたなり、三十者の人たちともまたなり、四十者の人たちともまたなり、五十者の人たちともまたなり、寄せ集まっては寄せ集まって行くのですが、彼らもまた、盗賊のアングリマーラの手中に赴きます」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の状態で赴きました。再度また、まさに、牛飼いたちは……略……。三度また、まさに、牛飼いたちも、牧畜者たちも、耕作者たちも、道行く者たちも、世尊に、こう言いました。「沙門よ、この道を行ってはいけません。沙門よ、この道には、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。沙門よ、まさに、この道を、十者の人たちともまたなり、二十者の人たちともまたなり、三十者の人たちともまたなり、四十者の人たちともまたなり、五十者の人たちともまたなり、寄せ集まっては寄せ集まって行くのですが、彼らもまた、盗賊のアングリマーラの手中に赴きます」と。
348. そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態で赴きました。まさに、盗賊のアングリマーラは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、この道を、十者の人たちともまたなり、二十者の人たちともまたなり、三十者の人たちともまたなり、四十者の人たちともまたなり、五十者の人たちともまたなり、寄せ集まっては寄せ集まって行くが、彼らもまた、わたしの手中に赴く。そこで、また、しかしながら、沙門は、独り、伴侶なき者となり、思うに、無理やりやってくる。それなら、さあ、わたしは、この沙門の生命を奪うのだ」と。そこで、まさに、盗賊のアングリマーラは、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、背後から背後へと、世尊に付き従いました。そこで、まさに、世尊は、すなわち、盗賊のアングリマーラが、普通に赴いている世尊を、全力で赴きながらも追いつくことができない、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、盗賊のアングリマーラに、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。まさに、わたしは、過去においては、走っている象をもまた追いかけて捕捉し、走っている馬をもまた追いかけて捕捉し、走っている車をもまた追いかけて捕捉し、走っている鹿をもまた追いかけて捕捉する。そこで、また、しかしながら、わたしは、この、普通に赴いている沙門を、全力で赴きながらも追いつくことができないとは」と。まさしく、〔そこにおいて、盗賊のアングリマーラは〕立つ者となり、世尊に、こう言いました。「沙門よ、止まれ、止まりなさい」と。「アングリマーラよ、わたしは立っています。では、あなたが、止まりなさい」と。そこで、まさに、盗賊のアングリマーラに、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの釈子たる沙門たちは、真理を説く者たちであり、真理を明言する者たちである。そこで、また、この沙門は、まさしく、赴きながら言った。『アングリマーラよ、わたしは立っています。では、あなたが、止まりなさい』と。それなら、さあ、わたしは、この沙門に尋ねるのだ」と。
349. そこで、まさに、盗賊のアングリマーラは、世尊に、詩偈をもって語りかけました。
〔盗賊のアングリマーラが、詩偈に言う〕「沙門よ、〔あなたは〕赴きつつあるのに、〔自らについて〕『〔わたしは〕立つ者として存している』〔と〕説きます。かつまた、わたしのことを、立つ者であるのに、『〔あなたは〕立たざる者である』と説きます。沙門よ、この義(意味)を、あなたに尋ねます。どうして、あなたは、立つ者として〔存し〕、わたしは、立たざる者として存しているのですか」と。
〔世尊が、詩偈に言う〕「アングリマーラよ、わたしは、一切時に、一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔自ら依って〕立つ者(自己確立者)として〔存しています〕。しかしながら、あなたは、命あるものたちにたいし、自制なき者として存しています。それゆえに、わたしは立つ者として〔存し〕、あなたは立たざる者として存しているのです」と。
〔盗賊のアングリマーラが、詩偈に言う〕「長きにわたり、まさに、わたしの敬する偉大なる聖賢が、真理を説く者が、大いなる林に至り得た。〔まさに〕その、わたしは、悪を捨棄して歩むのだ──法(真理)と結び付いた、あなたの詩偈を聞いて〔そののちは〕」〔と〕。
〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、かくのごとく〔語り〕、盗賊は、剣を、さらに、武器を、暗坑と深淵の奈落に投棄した。盗賊は、善き至達者の〔両の〕足を敬拝し、まさしく、その場で、出家することを、彼に乞い求めた。
そして、覚者は、まさに、慈悲の者たる偉大なる聖賢は、すなわち、天を含む世の教師は、そのとき、彼に、『比丘よ、来たれ』と言い、まさしく、これが、彼にとって、比丘たる状態(比丘の資質を有すること)と成った」と。
350. そこで、まさに、世尊は、尊者アングリマーラを随伴の沙門として、サーヴァッティーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、サーヴァッティーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の内宮の門に大勢の人の衆が集まって、高い声をあげ大きな音をたて、〔世に〕有ります。「陛下よ、あなたの領土において、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。陛下は、彼を制止してください」と。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、五百の馬とともに、サーヴァッティーから出立しました──昼のさなかに。林園のあるところに、そこへと入りました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、世尊は、こう言いました。「大王よ、いったい、どうなのでしょう、あなたに、あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が激情したのですか──あるいは、ヴェーサーリーのリッチャヴィ〔族〕の者たちが、あるいは、他の敵王たちが」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が激情したのではありません──あるいは、ヴェーサーリーのリッチャヴィ〔族〕の者たちでもまたなく、あるいは、他の敵王たちでもまたなく。尊き方よ、わたしの領土において、アングリマーラという名の盗賊がいます──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者です。彼によって、諸々の村もまた村ならざるものと為され、諸々の町もまた町ならざるものと為され、諸々の城市もまた城市ならざるものと為され、諸々の地方もまた地方ならざるものと為されました。彼は、人間たちを打ち殺しては打ち殺して、指の花飾を〔身に〕付けます。尊き方よ、わたしは、彼を制止するのです」と。「大王よ、また、それで、もし、あなたが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したアングリマーラを見るなら──命あるものを殺すことから離れ、与えられていないものを取ることから離れ、虚偽を説くことから離れ、一食の者であり、梵行者であり、戒ある者であり、善き法(性質)ある者である、〔アングリマーラを見るなら〕──どのようなことを、彼に為しますか」と。「尊き方よ、あるいは、敬拝し、あるいは、立礼し、あるいは、坐によって招き、あるいは、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって、彼を招待し、あるいは、彼のために、法(正義)にかなう守護と防護と保護を差配するでしょう。尊き方よ、また、どうして、彼に、劣戒の者に、悪しき法(性質)ある者に、このような形態の戒の自制が有るというのでしょう」と。
また、まさに、その時点にあって、尊者アングリマーラは、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、世尊は、右腕を差し出して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、この者は、アングリマーラです」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、まさしく、恐怖が有り、驚愕が有り、身の毛のよだちが有りました。そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じたのを見出して、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、恐れてはいけません。大王よ、あなたに、これより、恐怖は存在しません」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に有った、すなわち、あるいは、恐怖も、あるいは、驚愕も、あるいは、身の毛のよだちも、それは安息しました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アングリマーラのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アングリマーラに、こう言いました。「尊き方よ、尊貴なる方は、まさに、アングリマーラですか」と。「大王よ、そのとおりです」と。「尊貴なる方の父は、どのような姓の者ですか。尊貴なる方の母は、どのような姓の者ですか」と。「大王よ、まさに、父は、ガッガであり、母は、マンターニーです」と。「尊き方よ、尊貴なる方は、マンターニーの子であるガッガは、喜び楽しみたまえ。わたしは、尊貴なる方のために、マンターニーの子であるガッガのために、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品に思い入れを為しましょう」と。
351. また、まさに、その時点にあって、尊者アングリマーラは、林にある者として、〔行乞の〕施食の者として、糞掃衣の者として、三つの衣料の者として、〔世に〕有ります。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、十分です。わたしに、衣料は遍く満ちています」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、世尊が、これほどまでに、調御されていない者たちを調御する方であるのは、寂静となっていない者たちを寂静とする方であるのは、完全なる涅槃に到達していない者たちを完全なる涅槃に到達させる方であるのは。尊き方よ、なぜなら、わたしたちは、その者を、棒によってもまた、刃によってもまた、調御することができなかったのに、世尊によって、彼が、まさしく、棒によらずして、刃によらずして、調御されたからです。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
そこで、まさに、尊者アングリマーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、尊者アングリマーラは、サーヴァッティーにおいて、歩々淡々と行乞〔行乞の〕食のために歩みながら、或るひとりの婦女が、難産となり、お産に苦しむのを見ました。見て、彼に、この〔思い〕が有りました。「ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている。ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている」と。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アングリマーラは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。尊き方よ、まさに、わたしは、サーヴァッティーにおいて、歩々淡々と行乞〔行乞の〕食のために歩みながら、或るひとりの婦女が、難産となり、お産に苦しむのを見ました。見て、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている。ああ、まさに、有情たちは、〔苦しみに〕汚れている』」と。
「アングリマーラよ、まさに、それでは、あなたは、その婦女のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、その婦女に、このように説きなさい。『姉妹よ、すなわち、生まれてからのち、わたしは証知しません──思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪う者として〔有ったことを〕。その真理(真実)によって、あなたに、安穏有れ。胎児に、安穏〔有れ〕』」と。
「尊き方よ、まさに、それは、まちがいなく、わたしにとって、正知の者として虚偽を説くこと(故意の噓)と成るでしょう。尊き方よ、なぜなら、わたしによって、思弁して〔そののち〕、多くの命あるものの生命が奪われたからです」と。「アングリマーラよ、まさに、それでは、あなたは、その婦女のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、その婦女に、このように説きなさい。『姉妹よ、すなわち、生まれてからのち、わたしは証知しません──思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪う者として〔有ったことを〕。その真理によって、あなたに、安穏有れ。胎児に、安穏〔有れ〕』」と。
「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アングリマーラは、世尊に答えて、その婦女のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、その婦女に、こう言いました。「姉妹よ、すなわち、生まれてからのち、わたしは証知しません──思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪う者として〔有ったことを〕。その真理によって、あなたに、安穏有れ。胎児に、安穏〔有れ〕」と。そこで、まさに、その婦女に、安穏が有りました。胎児に、安穏が〔有りました〕。
そこで、まさに、尊者アングリマーラは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者アングリマーラは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。
352. そこで、まさに、尊者アングリマーラは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、他の者によってもまた、土塊が投げられ、尊者アングリマーラの身体に落下し、他の者によってもまた、棒が投げられ、尊者アングリマーラの身体に落下し、他の者によってもまた、小石が投げられ、尊者アングリマーラの身体に落下します。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、破断し血が滴り出る頭で、破断した鉢とともに、引き裂かれた大衣とともに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、世尊は、尊者アングリマーラが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アングリマーラに、こう言いました。「婆羅門よ、あなたは、耐えなさい。婆羅門よ、あなたは、耐えなさい。婆羅門よ、まさに、あなたが、その行為の報いによって、幾年、幾百年、幾千年のあいだ、地獄において煮られることになる、その行為の報いを、婆羅門よ、あなたは、まさしく、所見の法(現世)において得知します」と。そこで、まさに、尊者アングリマーラは、静所に赴き静坐している者となり、解脱の安楽を得知し、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、まさしく、過去において、〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
彼の為した悪しき行為が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
彼が、まさに、青年でありながら、比丘として、覚者の教えに専念するなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
まさに、わたしの敵たちは、法(教え)の言説を聞け。まさに、わたしの敵たちは、覚者の教えに専念せよ。まさに、わたしの敵たちは、それらの人間たちと(※)親しくせよ──すなわち、まさしく、法(教え)を〔あなたたちに〕取らせてくれる、正しくある者たちと。
※ テキストには manujā とあるが、PTS版により manuje と読む。
まさに、わたしの敵たちは、忍耐を説く者たちの──〔誰をも〕遮らないことで賞賛ある者たちの──〔彼らの〕法(教え)を、〔正しい〕時に聞け。そして、それを順守せよ。
まさに、たしかに、彼(ブッダ)は、わたしを害さず、また、あるいは、誰であろうが(※)、他の者を〔害さず〕、最高の寂静に至り得て、動くものと動かないものたち(一切の生類)を守るであろう。
※ テキストには kiñci naṃ とあるが、PTS版により kañci naṃ と読む。
まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、賢者たちは、自己を調御する。
或る者たちは、棒によって、諸々の鉤によって、さらに、諸々の鞭によって、〔他者を〕調御する。棒によらず、刃によらず、如なる方によって調御された者として、わたしは〔世に〕存している。
かつて、〔他を〕害する者として〔世に〕存しつつも、わたしの名は、『アヒンサカ(不害の者)』という。今日、わたしは、真の名ある者として〔世に〕存している。誰であろうが(※)、その者を害さない。
※ テキストには kiñci naṃ とあるが、PTS版により kañci naṃ と読む。
かつて、わたしは、盗賊として〔世に〕存していた。『アングリマーラ(指で作られた輪をかける者)』として〔世に〕聞こえた者だった。大激流に運ばれつつも、帰依所として、覚者のもとに至り着いた。
かつて、血の手をもつ者として〔世に〕存していた。『アングリマーラ』として〔世に〕聞こえた者だった。見よ──帰依所に赴くことを。〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
悪しき境遇に至る、そのような〔悪しき〕行為を多く為して、行為の報いに触れた〔わたし〕が、〔今は〕借りなき者となり、〔施しの〕食を受ける。
怠ること(放逸)に専念するのが、愚者たちであり、思慮浅き人たちである。しかしながら、思慮ある者は、怠らないこと(不放逸)に〔専念する〕──最勝の財を守るように。
怠ることに専念してはならない。欲望の歓楽や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、広大なる安楽に至り得るからである。
善く来てくれた──立ち去ることなく。これは、わたしの悪しき思いにあらず。〔人々に〕分け与えられた諸々の法(教え)における、〔まさに〕その、最勝のもの──それに、〔わたしは〕近しく赴いた。
善く来てくれた──立ち去ることなく。これは、わたしの悪しき思いにあらず。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された」と。
アングリマーラの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(87). 愛しいものから生じるものの経
353. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、或るひとりの家長の愛しく意に適う独り子が、命を終えるところと成ります。彼の命終によって、まさしく、生業も明白とならず、食事も明白となりません。彼は、火葬場に赴いて、泣き叫びます。「独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ」と。そこで、まさに、その家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その家長に、世尊は、こう言いました。「家長よ、まさに、あなたには、自らの心に立脚している者の諸々の〔感官の〕機能はなく、あなたには、諸々の〔感官の〕機能の他化(異常)が存在します」と。「尊き方よ、まさに、どうして、わたしに、諸々の〔感官の〕機能の他化なく有るというのでしょう。尊き方よ、まさに、わたしの、愛しく意に適う独り子が、命を終えたのです。彼の命終によって、まさしく、生業も明白とならず、食事も明白となりません。〔まさに〕その、わたしは、火葬場に赴いて、泣き叫びます。『独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ』」と。「家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」と。「尊き方よ、まさに、誰にとって、まさに、このように、このことが有るというのでしょう。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』という、〔このことが〕。尊き方よ、まさに、諸々の喜びと悦意は、まさに、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」と。そこで、まさに、その家長は、世尊の語ったことを大いに喜ばずして、弾劾して、坐から立ち上がって、立ち去りました。
354. また、まさに、その時点にあって、大勢の賭博師たちが、世尊から遠く離れていないところで、諸々の賭博で遊んでいます。そこで、まさに、その家長は、それらの賭博師たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの賭博師たちに、こう言いました。「諸君よ、ここに、わたしは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、沙門ゴータマを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、わたしに、沙門ゴータマは、こう言いました。『家長よ、まさに、あなたには、自らの心に立脚している者の諸々の〔感官の〕機能はなく、あなたには、諸々の〔感官の〕機能の他化が存在します』と。諸君よ、このように説かれたとき、わたしは、沙門ゴータマに、こう言いました。『尊き方よ、まさに、どうして、わたしに、諸々の〔感官の〕機能の他化なく有るというのでしょう。尊き方よ、まさに、わたしの、愛しく意に適う独り子が、命を終えたのです。彼の命終によって、まさしく、生業も明白とならず、食事も明白となりません。〔まさに〕その、わたしは、火葬場に赴いて、泣き叫びます。「独り子よ、どこにいるのだ。独り子よ、どこにいるのだ」』と。『家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。『尊き方よ、まさに、誰にとって、まさに、このように、このことが有るというのでしょう。「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」という、〔このことが〕。尊き方よ、まさに、諸々の喜びと悦意は、まさに、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。諸君よ、そこで、まさに、わたしは、沙門ゴータマの語ったことを大いに喜ばずして、弾劾して、坐から立ち上がって、立ち去りました」と。「家長よ、このように、このことはあります。家長よ、このように、このことはあります。家長よ、まさに、諸々の喜びと悦意は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」と。そこで、まさに、その家長は、「わたしの〔言葉は〕、賭博師たちと合致する」と、立ち去りました。そこで、まさに、この話題は、順次に、王の内宮へと入り行きました。
355. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、マッリカー王妃に告げました。「マッリカーよ、この〔言葉〕が、あなたの〔敬愛する〕沙門ゴータマによって語られた。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』」と。「大王よ、それで、もし、このことが、世尊によって語られたなら、このように、このことはあります」と。「また、まさしく、このように、このマッリカーは、沙門ゴータマが、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕を語るなら、彼の、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕に、大いに随喜する。『大王よ、それで、もし、このことが、世尊によって語られたなら、このように、このことはあります』と。それは、たとえば、また、まさに、師匠が、内弟子に、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕を語るなら、彼の、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕に、内弟子が、大いに随喜するように、『師匠よ、このように、このことはあります。師匠よ、このように、このことはあります』と、マッリカーよ、まさしく、このように、まさに、おまえは、沙門ゴータマが、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕を語るなら、彼の、まさしく、その〔言葉〕その〔言葉〕に、大いに随喜する。『大王よ、それで、もし、このことが、世尊によって語られたなら、このように、このことはあります』と。マッリカーよ、もう、行け、さあ、下がりなさい」と。そこで、まさに、マッリカー王妃は、ナーリジャンガ婆羅門に告げました。「婆羅門よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、マッリカー王妃は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、いったい、まさに、この言葉は、世尊によって語られたのですか。「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」』と。すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおりに、それを、善くしっかりと収め取って、わたしに告げるのです。なぜなら、如来たちは、真実を離れることを話さないからです」と。「尊女よ、わかりました」と、まさに、ナーリジャンガ婆羅門は、マッリカー王妃に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ナーリジャンガ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、マッリカー王妃は、貴君ゴータマの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『尊き方よ、いったい、まさに、この言葉は、世尊によって語られたのですか。「諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです」』」と。
356. 「婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、このように、このことはあります。婆羅門よ、まさに、『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』という、〔このことは〕。婆羅門よ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに。婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女の母が、命を終えました。彼女は、その〔母〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの母を見ましたか。さてまた、わたしの母を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。
婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女の父が、命を終えました。……兄弟が、命を終えました。……姉妹が、命を終えました。……子が、命を終えました。……娘が、命を終えました。……夫が、命を終えました。彼女は、その〔夫〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの夫を見ましたか。さてまた、わたしの夫を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。
婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの男の母が、命を終えました。彼は、その〔母〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの母を見ましたか。さてまた、わたしの母を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。
婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの男の父が、命を終えました。……兄弟が、命を終えました。……姉妹が、命を終えました。……子が、命を終えました。……娘が、命を終えました。……妻が、命を終えました。彼は、その〔妻〕の命終によって、狂者となり、乱心者となり、道から道へ、十字路から十字路へと近づいて行って、このように言いました。『さてまた、わたしの妻を見ましたか。さてまた、わたしの妻を見ましたか』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに、かくのごとく。
婆羅門よ、過去の事ですが、まさしく、このサーヴァッティーにおいて、或るひとりの女が、親族の家に赴きました。彼女の、それらの親族たちは、〔彼女から〕夫を引き離して、〔彼女を〕他の者に与えることを欲しています。しかしながら、彼女は、それを求めません。そこで、まさに、その女は、夫に、こう言いました。『旦那様、これらの親族たちは、〔わたしから〕あなたを引き離して、わたしを他の者に与えることを欲しています。しかしながら、わたしは、それを求めません』と。そこで、まさに、その男は、その女を二様に断ち切って、自己を切り裂きました。『両者ともに、死してのち、〔一緒に〕成るのだ』と。婆羅門よ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものであるとおりに」と。
357. そこで、まさに、ナーリジャンガ婆羅門は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、マッリカー王妃のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、すなわち、世尊を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、マッリカー王妃に告げました。そこで、まさに、マッリカー王妃は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、ヴァジリー王女は、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、ヴァジリー王女は、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、ヴァジリー王女の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、ヴァジリー王女の変化と他なる状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。
大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、ヴァ―サバ―女性士族は、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、ヴァ―サバ―女性士族は、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、ヴァ―サバ―女性士族の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、ヴァ―サバ―女性士族の変化と他なる状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。
大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、ヴィタトゥーバ軍団長は、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、ヴィタトゥーバ軍団長は、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、ヴィタトゥーバ軍団長の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、ヴィタトゥーバ軍団長の変化と他なる状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。
大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、わたしは、愛しい者ですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、おまえは、愛しい者である」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、わたしの変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、おまえの変化と他なる状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』と。
大王よ、それを、どう思いますか。あなたにとって、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕は、愛しいものですか」と。「マッリカーよ、そのとおりだ。わたしにとって、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕は、愛しいものである。マッリカーよ、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の威力によって、〔わたしたちは〕カーシ産の栴檀を受領し、花飾や香料や塗料を保持する」と。「大王よ、それを、どう思いますか。あなたに、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の変化と他なる状態あることから、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起するでしょうか」と。「マッリカーよ、わたしに、カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の変化と他なる状態あることから、生命の他化すらも存するであろう。また、どうして、わたしに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が生起しないというのだろう」と。「大王よ、まさに、それに関して、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、この〔言葉〕が語られました。『諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤は、愛しいものから生じるものであり、愛しいものを起源とするものです』」と。
「マッリカーよ、めったにないことだ。マッリカーよ、はじめてのことだ。さてまた、それほどまでに、彼が、世尊が、智慧によって理解して、思うに、〔真理を〕見るとは。マッリカーよ、さあ、清めの水をもってきなさい」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。
愛しいものから生じるものの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(88). 外衣の経
358. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、エーカプンダリーカ象に乗って、サーヴァッティーから出発します──昼のさなかに。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、シリヴァッダ大臣に告げました。「友よ、シリヴァッダよ、まさに、この方は、尊者アーナンダである」と。「大王よ、そのとおりです。この方は、尊者アーナンダです」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、それで、もし、まさに、尊者アーナンダに、何であれ、緊急の用事がないなら、尊き方よ、どうか、尊者アーナンダは、寸時のあいだ、お待ちください──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その家来は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、それで、もし、まさに、尊者アーナンダに、何であれ、緊急の用事がないなら、尊き方よ、どうか、尊者アーナンダは、寸時のあいだ、お待ちください──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、およそ、象の〔行ける〕地があるかぎり、象によって赴いて、象から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、何であれ、緊急の用事がないなら、尊き方よ、どうか、尊者アーナンダは、アチラヴァティー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。まさに、尊者アーナンダは、沈黙の状態をもって承諾しました。
359. そこで、まさに、尊者アーナンダは、アチラヴァティー川の岸辺のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、或るどこかの木の根元において、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、およそ、象の〔行ける〕地があるかぎり、象によって赴いて、象から降りて、まさしく、徒歩の者となり、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、尊者アーナンダは、ここに、象の敷物に坐りたまえ」と。「大王よ、十分です。あなたが坐ってください。わたしは、自らの坐に坐っています」と。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、それが、沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、身体の励行であるなら、彼は、世尊は、そのような形態の身体の励行を励行できますか」と。「大王よ、それが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、身体の励行であるなら、まさに、彼は、世尊は、そのような形態の身体の励行を励行できません」と。
「尊き方よ、また、どうなのでしょう、それが、沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、言葉の励行であるなら、彼は、世尊は、そのような形態の身体の励行を……略……意の励行を励行できますか」と。「大王よ、それが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰が存するべき、意の励行であるなら、まさに、彼は、世尊は、そのような形態の意の励行を励行できません」と。
「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、なぜなら、そのことを、わたしどもは、問いによって円満成就させることができなかったのですが、尊き方よ、そのことが、尊者アーナンダによって、問いへの説き明かしによって円満成就させられたからです。尊き方よ、すなわち、それらの愚者にして明敏ならざる者たちは、随知せずして、深解せずして、他者たちの、あるいは、栄誉を〔語り〕、あるいは、栄誉ならざることを語ります。わたしどもは、それを、真髄として信認することはありません。尊き方よ、いっぽう、すなわち、それらの賢者にして明敏なる者たちは、随知して、深解して、他者たちの、あるいは、栄誉を〔語り〕、あるいは、栄誉ならざることを語ります。わたしどもは、それを、真髄として信認します。
360. 尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、身体の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善ならざるものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、善ならざるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過を有するものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過を有するものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕を有するものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕を有するものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、苦痛の報い(異熟)あるものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、苦痛の報いあるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する、身体の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、身体の励行です」と。
「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、言葉の励行なのですか」と。……略……意の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善ならざるものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、善ならざるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過を有するものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過を有するものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕を有するものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕を有するものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、苦痛の報いあるものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、苦痛の報いあるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する、意の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がある、意の励行です」と。
「尊き方よ、アーナンダよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、彼は、世尊は、まさしく、全ての善ならざる法(性質)の捨棄を褒め称えるのですか」と。「大王よ、まさに、如来は、全ての善ならざる法(性質)の捨棄ある者であり、善なる法(性質)を具備した者です」と。
361. 「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、身体の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善なるものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、善なるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過なきものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過なきものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕なきものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕なきものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、安楽の報いあるものである、身体の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、安楽の報いあるものである、身体の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する、身体の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、身体の励行です」と。
「尊き方よ、アーナンダよ、また、どのようなものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、言葉の励行なのですか」と。……略……意の励行なのですか」と。「大王よ、すなわち、まさに、善なるものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、善なるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、罪過なきものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、罪過なきものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、加害〔の思い〕なきものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、加害〔の思い〕なきものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、安楽の報いあるものである、意の励行です」〔と〕。
「尊き方よ、また、どのようなものが、安楽の報いあるものである、意の励行なのですか」〔と〕。「大王よ、すなわち、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、彼に、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する、意の励行です。大王よ、まさに、このような形態のものが、識者たる沙門たちや婆羅門たちによる論詰がない、意の励行です」と。
「尊き方よ、アーナンダよ、また、どうなのでしょう、彼は、世尊は、まさしく、全ての善なる法(性質)の成就を褒め称えるのですか」と。「大王よ、まさに、如来は、全ての善ならざる法(性質)の捨棄ある者であり、善なる法(性質)を具備した者です」と。
362. 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、さてまた、すなわち、尊者アーナンダによって、これほどまでに、見事に語られたのは。尊き方よ、そして、わたしどもは、尊者アーナンダの、この見事に語られた〔言葉〕によって、わが意を得た者たちとなり、満悦した者たちとなります。尊き方よ、そして、尊者アーナンダの、見事に語られた〔言葉〕によって、このように、わが意を得た者たちとして、満悦した者たちとして、わたしどもはあります。尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、象の宝が適しているなら、わたしどもは、尊者アーナンダに、象の宝をもまた施しましょう。尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、馬の宝が適しているなら、わたしどもは、尊者アーナンダに、馬の宝をもまた施しましょう。尊き方よ、それで、もし、尊者アーナンダに、優れた村の宝が適しているなら、わたしどもは、尊者アーナンダに、優れた村の宝をもまた施しましょう。尊き方よ、しかしながら、また、わたしどもはまた、このことを知っています。『尊者アーナンダに、これは適していない』と。尊き方よ、まさに、わたしには、マガダ〔国〕のアジャータサットゥ王によって衣用の筒に保管して送り届けられた、長さとしては十六〔肘〕に等しく、幅としては八〔肘〕に等しい、この外衣があります。尊き方よ、尊者アーナンダは、それを納受したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「大王よ、十分です。わたしに、三つの衣料は遍く満ちています」と。
「尊き方よ、このアチラヴァティー川は、まさしく、そして、尊者アーナンダによって、さらに、わたしどもによって、見るところです。すなわち、山の上において、激しく雨降らせる大いなる雨雲が有るとき、そこで、このアチラヴァティー川は、両岸に溢れ出ながら赴きます。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、尊者アーナンダは、この外衣によって、自己の三つの衣料を作ることになり、また、すなわち、尊者アーナンダの以前の三つの衣料ですが、それは、梵行を共にする者たちに分け与えられることになるでしょう。このように、この施物は、思うに、わたしどもに溢れ出ながら赴くことになるでしょう。尊き方よ、尊者アーナンダは、外衣を納受したまえ」と。まさに、尊者アーナンダは、外衣を納受しました。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、尊者アーナンダの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、坐から立ち上がって、尊者アーナンダを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
363. そこで、まさに、尊者アーナンダは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が立ち去ったすぐあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。そして、その外衣を、世尊に委ねました。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の利得があります。比丘たちよ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の善く得られた利得があります。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、アーナンダを、会見するために得るとは、奉侍するために得るとは」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
外衣の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(89). 法の塔廟の経
364. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。釈迦〔族〕の者たちには、メーダールパという名の町があります。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、ナガラカに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ディーガ・カーラーヤナに告げました。「友よ、カーラーヤナよ、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えよ。庭園のある地に、美しき地を見るために、〔わたしたちは〕赴くのだ」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、ディーガ・カーラーヤナは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に知らせました。「陛下よ、まさに、あなたのために、諸々の立派なうえにも立派な乗物が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、ナガラカから出発しました──大いなる王の威力をもって、林園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、林園に入りました。まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、林園において、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、浄信にして、浄信されるべき、諸々の木の根元を見ました。見て、まさしく、世尊を対象として、気づきが生起しました。「そこにおいて、まさに、わたしたちが、彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に奉侍する、まさに、それらの、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、浄信にして、浄信されるべき、諸々の木の根元として、これらのものはある」と。
365. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ディーガ・カーラーヤナに告げました。「友よ、カーラーヤナよ、そこにおいて、まさに、わたしたちが、彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に奉侍する、まさに、それらの、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、浄信にして、浄信されるべき、諸々の木の根元として、これらのものはある。友よ、カーラーヤナよ、いったい、まさに、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられるのだ」と。「大王よ、釈迦〔族〕の者たちには、メーダールパという名の町が存在します。そこにおいて、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられます」と。「友よ、カーラーヤナよ、また、ナガラカから、釈迦〔族〕の者たちのメーダールパという名の町は、どれだけ遠くに有るのだ」と。「大王よ、遠くはありません。三ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)です。日中のうちには赴くことができます」と。「友よ、カーラーヤナよ、まさに、それでは、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えよ。わたしたちは赴くのだ──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見するために」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、ディーガ・カーラーヤナは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、諸々の立派なうえにも立派な乗物を設えて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に知らせました。「陛下よ、まさに、あなたのために、諸々の立派なうえにも立派な乗物が設えられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、立派な乗物に乗って、諸々の立派なうえにも立派な乗物とともに、ナガラカから、釈迦〔族〕の者たちのメーダールパという名の町のあるところに、そこへと進み行きました。まさしく、その日中のうちに、釈迦〔族〕の者たちのメーダールパという名の町に至り得ました。林園のあるところに、そこへと進み行きました。およそ、乗物の〔行ける〕地があるかぎり、乗物によって赴いて、乗物から降りて、まさしく、徒歩の者となり、林園に入りました。
366. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「尊き方たちよ、いったい、まさに、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は住んでおられますか。まさに、わたしどもは、彼と、阿羅漢にして正等覚者たる世尊と会見することを欲しています」と。「大王よ、この、戸が閉まっている精舎です。そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩いてください。世尊は、あなたのために、戸を開くでしょう」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、その、戸が閉まっている精舎のあるところに、そこへと、音声少なく近づいて行って、急ぐことなく外縁に入って、咳払いをして、閂を打ち叩きました。世尊は、戸を開きました。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、精舎に入って、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、名前を告げ聞かせます。「尊き方よ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です。尊き方よ、わたしは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王です」と。
367. 「大王よ、また、あなたは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、この肉体にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示すのですか」と。「尊き方よ、存在します──まさに、わたしには、世尊について、法(真理)による類推が有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。尊き方よ、ここに、わたしは、或る沙門や婆羅門たちが、制限付きの梵行を、十年のあいだもまた、二十年のあいだもまた、三十年のあいだもまた、四十年のあいだもまた、歩んでいるのを見ます。彼らは、他時にあって、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、白い衣をまとい、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者たちと成り、〔それらを〕楽しみます。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちが、生あるかぎり、生命の終わりまで、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩んでいるのを見ます。尊き方よ、また、まさに、わたしは、この〔僧団〕より外に、他の、このような円満成就した完全なる清浄の梵行を等しく随観しません。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。
368. 尊き方よ、さらに、また、他に、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちが和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいるのを見ます。尊き方よ、また、まさに、わたしは、この〔僧団〕より外に、他の、このような和合の衆を等しく随観しません。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。
369. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、林園から林園へと、庭園から庭園へと、こちらを歩いては、あちらを歩みます。〔まさに〕その、わたしは、そこにおいて、或る沙門や婆羅門たちを見ます──痩せ細り、粗野で、悪しき色艶となり、〔肌が〕黄ばんで黄ばみが生じ、〔浮き出た〕血管が五体に広がった者たちを。思うに、人を見ようにも眼が合わないかのようです。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『たしかに、これらの尊者たちは、あるいは、喜び楽しまない者たちとして梵行を歩み、あるいは、彼らには、何らかの悪しき行為で、為された〔そののち〕隠蔽されたものが存在する。なぜなら、そのように、これらの尊者たちは、痩せ細り、粗野で、悪しき色艶となり、〔肌が〕黄ばんで黄ばみが生じ、〔浮き出た〕血管が五体に広がった者たちであるからだ。思うに、人を見ようにも眼が合わないかのようである』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『尊者たちよ、いったい、まさに、どうして、あなたたちは、痩せ細り、粗野で、悪しき色艶となり、〔肌が〕黄ばんで黄ばみが生じ、〔浮き出た〕血管が五体に広がった者たちなのですか。思うに、人を見ようにも眼が合わないかのようです』と。彼らは、このように言いました。『大王よ、わたしたちには、眷属の病(家系の病)があるのです』と。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちが、欣喜のうえにも欣喜し、勇躍のうえにも勇躍し、喜び楽しむ様子で、諸々の〔感官の〕機能が豊かで、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住んでいるのを見ます。尊き方よ、その〔わたし〕に、この〔思い〕が有りました。『たしかに、これらの尊者たちは、彼の、世尊の教えにおいて、前から後へと〔順次に〕、秀逸なるものを〔知り〕、殊勝なるものを知る。なぜなら、そのように、これらの尊者たちは、欣喜のうえにも欣喜し、勇躍のうえにも勇躍し、喜び楽しむ様子で、諸々の〔感官の〕機能が豊かで、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者たちとなり、穏やかに成った心で〔世に〕住むからだ』と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。
370. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、即位灌頂した王たる士族であり、あるいは、殺害されるべき者を殺害することができ、あるいは、収奪されるべき者を収奪することが〔でき〕、あるいは、追放されるべき者を追放することが〔できます〕。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしが、裁きの場に坐ったなら、〔人々は〕中途中途で議論に割り込みます。〔まさに〕その、わたしは、『諸君よ、わたしが、裁きの場に坐ったなら、〔あなたたちは〕中途中途で議論に割り込んではならない。諸君よ、わたしの議論の終了を待ちたまえ』と〔言っても、承諾を〕得ません。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、〔人々は〕中途中途で議論に割り込みます。尊き方よ、いっぽう、ここに、わたしは、比丘たちを見ます。その時点において、世尊が、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、世尊の弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ありません。尊き方よ、過去の事ですが、世尊は、幾百の衆に、法(教え)を説示します。そこで、或るひとりの世尊の弟子が、咳払いをしました。〔まさに〕その、この者を、或るひとりの梵行を共にする者が、『尊者よ、声少なき者と成れ。尊者よ、声を上げてはならない。教師が、世尊が、わたしたちに、法(教え)を説示する』と、膝で打ちました。尊き方よ、その〔わたし〕に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。ああ、まさに、棒によらずして、刃によらずして、まさに、このような善く教導された衆と成るとは』と。尊き方よ、また、まさに、わたしは、この〔僧団〕より外に、他の、このような善く教導された衆を等しく随観しません。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。
371. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、ここに、一部の士族の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、世尊のいるところに近づいて行きます。彼らに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、世尊に、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、世尊の弟子たちとして成就します(帰依する)。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。
372. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、ここに、一部の婆羅門の賢者たちで……略……家長の賢者たちで……略……沙門の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、世尊のいるところに近づいて行きます。彼らに、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、世尊に、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、世尊に、家から家なきへと出家するための機会を乞い求めます。彼らを、世尊は出家させます。彼らは、そこにおいて、出家者たちとして〔世に〕存しつつ、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼らは、このように言いました。『ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕滅び去っていた。ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕消え去っていた。なぜなら、わたしたちは、過去において、まさしく、沙門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「沙門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、婆羅門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「婆羅門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、阿羅漢ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「阿羅漢たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。今や、まさに、〔わたしたちは〕沙門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕婆羅門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕阿羅漢たちとして〔世に〕存している』と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。
373. 尊き方よ、さらに、また、他に、わたしは、これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちとともにあります。わたしと食事をともにする者たちであり、わたしの乗物をともにする者たちであり、彼らにとって、わたしは、生計の付与者であり、盛名の将来者です。そこで、また、しかしながら、すなわち、世尊にたいするように、そのように、わたしにたいし、倒礼の所作を為すことはありません。尊き方よ、過去の事ですが、〔わたしが〕軍団を進撃させ、〔そのように〕存しつつ、かつまた、これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちもともにあり、〔わたしは、彼らのことを〕考察しながら、或るどこかの狭苦しい居住所において住に入りました。尊き方よ、そこで、まさに、これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちは、まさしく、夜の多くを、法(教え)についての議論のために過ごして、すなわち、世尊が有ったところに、そこへと頭を為して、わたしには足を為して、横になりました。尊き方よ、その〔わたし〕に、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。これらのイシダッタとプラーナの棟梁たちは、わたしと食事をともにする者たちであり、わたしと乗物をともにする者たちであり、彼らにとって、わたしは、生計の付与者であり、盛名の将来者である。そこで、また、しかしながら、すなわち、世尊にたいするように、そのように、わたしにたいし、倒礼の所作を為すことがない。たしかに、これらの尊者たちは、彼の、世尊の教えにおいて、前から後へと〔順次に〕、秀逸なるものを〔知り〕、殊勝なるものを知る』と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊について、この法(真理)による類推もまた有ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』という、〔このことについて〕。
374. 尊き方よ、さらに、また、他に、世尊もまた、士族であり、わたしもまた、士族であり、世尊もまた、コーサラ〔族〕であり、わたしもまた、コーサラ〔族〕であり、世尊もまた、八十歳であり、わたしもまた、八十歳です。尊き方よ、すなわち、また、世尊もまた、士族であり、わたしもまた、士族であり、世尊もまた、コーサラ〔族〕であり、わたしもまた、コーサラ〔族〕です。世尊もまた、八十歳であり、わたしもまた、八十歳である、まさしく、このことによって、このように、わたしは、世尊にたいし、このような形態の最高の倒礼の所作を為し、朋友の表敬を示すことに値します。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が立ち去ったすぐあと、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この者は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、諸々の法(教え)の塔廟を語って、坐から立ち上がって、立ち去ったのです。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟を把握しなさい。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟を学得しなさい。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟を保持しなさい。比丘たちよ、諸々の法(教え)の塔廟は、義(道理)を伴ったものとして、初等の梵行たるものとなります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
法(教え)の塔廟の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(90). カンナカッタラの経
375. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルンニャーに住んでおられます。カンナカッタラの鹿園において。また、まさに、その時点にあって、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、ウルンニャーに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、今日、まさに、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くでしょう』」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その家来は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『尊き方よ、今日、まさに、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くでしょう』」と。まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、「今日、どうやら、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くらしい」と耳にしました。そこで、まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、食事が運ばれるとき、近づいて行って、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、まさに、それでは、わたしたちの言葉でもってもまた、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねてください。『尊き方よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』」と。
376. そこで、まさに、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、食事のあと、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます」と。「大王よ、また、どうして、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、他の使者を得なかったのですか」と。「尊き方よ、まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、『今日、どうやら、朝食を食べた、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、食事のあと、世尊と会見するために近づいて行くらしい』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、食事が運ばれるとき、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『大王よ、まさに、それでは、わたしたちの言葉でもってもまた、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねてください。「尊き方よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます」』」と。「大王よ、かつまた、ソーマ―姉妹は、かつまた、サクラー姉妹は、彼女たちは、安楽の者たちと成れ」と。
377. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、このように言いました。「すなわち、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言するであろう、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されない」』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、このように言いました。「すなわち、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言するであろう、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されない」』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。「大王よ、すなわち、『沙門ゴータマは、このように言いました。「すなわち、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言するであろう、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されない」』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。また、そして、彼らは、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します」と。
378. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、ヴィタトゥーバ軍団長に告げました。「軍団長よ、いったい、まさに、誰が、この話題を、王の内宮において発したのだ」と。「大王よ、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門です」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、或るひとりの家来に告げました。「さて、家来よ、さあ、おまえは、わたしの言葉でもって、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門に告げなさい。『尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、あなたを呼んでいます』」と。「陛下よ、わかりました」と、まさに、その家来は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に答えて、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門に、こう言いました。「尊き方よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、あなたを呼んでいます」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、何らかの他のことに関して、世尊によって語られたことが存在し、そして、それを、また、他なるものとして、人々が信認するのでしょうか。尊き方よ、また、すなわち、どのように、世尊は、語られた言葉を証知しますか」と。「大王よ、このように、まさに、わたしは、語られた言葉を証知します(記憶している)。『すなわち、まさしく、一度に、一切を知ることになり、一切を見ることになる、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されません』」と。「尊き方よ、世尊は、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、世尊は、因を有する形態のものを言いました。『すなわち、まさしく、一度に、一切を知ることになり、一切を見ることになる、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、彼は存在せず、この状況は見出されません』と。尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。尊き方よ、いったい、まさに、これらの四つの階級には、差異が存するのでしょうか、多様性(相違点)が存するのでしょうか」と。「大王よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。大王よ、まさに、これらの四つの階級のなかの、二つの階級が至高のものと告げ知らされます。そして、士族たちであり、さらに、婆羅門たちです。すなわち、この、敬拝と奉仕と合掌の行為と和敬の行為としては」と。「尊き方よ、わたしは、世尊に、所見の法(現世)のものを尋ねるのではありません。尊き方よ、わたしは、世尊に、未来のものを尋ねます。尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。尊き方よ、いったい、まさに、これらの四つの階級には、差異が存するのでしょうか、多様性が存するのでしょうか」と。
379. 「大王よ、五つのものがあります。これらの精励の支分です。どのようなものが、五つのものなのですか。大王よ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。大王よ、まさに、これらの五つの精励の支分があります。大王よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。そして、彼らが、これらの五つの精励の支分を具備した者たちとして〔世に〕存するなら、また、ここにおいて、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう」と。「尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。そして、彼らが、これらの五つの精励の支分を具備した者たちとして〔世に〕存するなら、尊き方よ、また、ここにおいて、彼らには、差異が存するのでしょうか、多様性が存するのでしょうか」と。「大王よ、まさに、ここにおいて、彼らには、精励の相違性があることを、わたしは説きます。大王よ、それは、たとえば、また、二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象が、あるいは、調御されるべき馬が、あるいは、調御されるべき牛が──二者の、善く調御されず善く教導されていない、あるいは、調御されるべき象が、あるいは、調御されるべき馬が、あるいは、調御されるべき牛が──存するとします。大王よ、それを、どう思いますか。すなわち、それらの二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象は、あるいは、調御されるべき馬は、あるいは、調御されるべき牛は──さて、いったい、それらの、まさしく、調御された者たちは、調御された者の任務に赴くでしょうか、まさしく、調御された者たちは、調御された者の土地に達し得るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです(できます)」〔と〕。「いっぽう、すなわち、それらの二者の、善く調御されず善く教導されていない、あるいは、調御されるべき象は、あるいは、調御されるべき馬は、あるいは、調御されるべき牛は──さて、いったい、それらの、まさしく、調御されていない者たちは、調御された者の任務に赴くでしょうか、まさしく、調御されていない者たちは、調御された者の土地に達し得るでしょうか。それは、たとえば、また、それらの二者の、善く調御され善く教導された、あるいは、調御されるべき象のように、あるいは、調御されるべき馬のように、あるいは、調御されるべき牛のように」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(できません)」〔と〕。「大王よ、まさしく、このように、まさに、それが、信ある者によって、病苦少なき者によって、狡猾なき者によって、幻惑なき者によって、精進に励む者によって、智慧ある者によって、至り得られるべきものであるなら、それに、まさに、信なき者が、病苦多き者が、狡猾ある者が、幻惑ある者が、怠惰の者が、智慧浅き者が、至り得るであろう、という、この状況は見出されません」と。
380. 「尊き方よ、世尊は、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、世尊は、因を有する形態のものを言いました。尊き方よ、これらの四つの階級があります。士族たちであり、婆羅門たちであり、庶民たちであり、隷民たちです。そして、彼らが、これらの五つの精励の支分を具備した者たちとして〔世に〕存するなら、さらに、正しい精励ある者たちとして〔世に〕存するなら、尊き方よ、また、ここにおいて、彼らには、差異が存するのでしょうか、多様性が存するのでしょうか」と。「大王よ、まさに、ここにおいて、彼らには、何であれ、多様性を、わたしは説きません。すなわち、この、解脱と解脱には。大王よ、それは、たとえば、また、人が、乾燥したサーカ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。そこで、他の人が、乾燥したサーラ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。そこで、他の人が、乾燥したアンバ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。そこで、他の人が、乾燥したウドゥンバラ〔樹〕の小枝を携えて、火を起こし、熱が出現するとします。大王よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、それらの種々なる木片から起こっている火には、何であれ、相違性が存するのでしょうか。あるいは、炎と炎には、あるいは、色と色には、あるいは、光と光には」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「大王よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、その熱が、精進によって生み出され、精励によって起こされたものであるなら、そこにおいて、何であれ、多様性を、わたしは説きません。すなわち、この、解脱と解脱には」と。「尊き方よ、世尊は、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、世尊は、因を有する形態のものを言いました。尊き方よ、また、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか」と。「大王よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『尊き方よ、また、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか』」と。「尊き方よ、それらの天〔の神々〕たちは、あるいは、すなわち、この場に帰り来る者たちなのですか、あるいは、すなわち、この場に帰り来ない者たちなのですか」と。「大王よ、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕を有する者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、この場に帰り来る者たちです。すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕なき者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、この場に帰り来ない者たちです」と。
381. このように説かれたとき、ヴィタトゥーバ軍団長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕を有する者たちであり、この場に帰り来る者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕なき者たちであり、この場に帰り来ない者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちを、その地から、あるいは、死滅させるのでしょうか、あるいは、追放するのでしょうか」と。
そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者は、ヴィタトゥーバ軍団長は、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の子である。わたしは、世尊の子である。すなわち、子が子と話し合う、まさに、この時である」と。そこで、まさに、尊者アーナンダは、ヴィタトゥーバ軍団長に語りかけました。「軍団長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。軍団長よ、それを、どう思いますか。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土としてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為すなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できますか」と。「君よ、すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土としてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為すなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できます」と。
「軍団長よ、それを、どう思いますか。すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土ならざるところとしてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為さないなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できますか」と。「君よ、すなわち、コーサラ〔国〕のパセーナディ王の領土ならざるところとしてあるかぎり、そして、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、権力者にして君主たる王権を為さないなら、そこにおいて、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、あるいは、沙門を、あるいは、婆羅門を、あるいは、功徳ある者を、あるいは、功徳なき者を、あるいは、梵行ある者を、あるいは、梵行なき者を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できません」と。
「軍団長よ、それを、どう思いますか。あなたは、三十三天〔の神々〕のことを聞いたことがありますか」と。「君よ、そのとおりです。わたしは、三十三天〔の神々〕のことを聞いたことがあります。ここに、また、尊きコーサラ〔国〕のパセーナディ王から、三十三天〔の神々〕のことを聞いたことがあります」と。「軍団長よ、それを、どう思いますか。コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、三十三天〔の神々〕を、その地から、あるいは、死滅させることが、あるいは、追放することが、できますか」と。「君よ、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、三十三天〔の神々〕を見ることさえもできません。また、どうして、三十三天〔の神々〕を、その地から、あるいは、死滅させるというのでしょう、あるいは、追放するというのでしょう」と。「軍団長よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕を有する者たちであり、この場に帰り来る者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちは、すなわち、それらの天〔の神々〕たちが、加害〔の思い〕なき者たちであり、この場に帰り来ない者たちであるなら、それらの天〔の神々〕たちを見ることさえもできません。また、どうして、その地から、あるいは、死滅させるというのでしょう、あるいは、追放するというのでしょう」と。
382. そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この比丘は、どのような名の者ですか」と。「大王よ、アーナンダ(歓嘆)という名の者です」と。「ああ、まさに、歓嘆(アーナンダ)なるかな。ああ、まさに、歓嘆ある形態の者なるかな。尊き方よ、尊者アーナンダは、因ある形態のものを言いました。尊き方よ、尊者アーナンダは、因を有する形態のものを言いました。尊き方よ、また、どうなのでしょう、梵〔天〕は存在しますか」と。「大王よ、また、どうして、あなたは、このように説くのですか。『尊き方よ、また、どうなのでしょう、梵〔天〕は存在しますか』」と。「尊き方よ、その梵〔天〕は、あるいは、すなわち、この場に帰り来る者なのですか、あるいは、すなわち、この場に帰り来ない者なのですか」と。「大王よ、すなわち、その梵〔天〕が、加害〔の思い〕を有する者であるなら、その梵〔天〕は、この場に帰り来る者です。すなわち、その梵〔天〕が、加害〔の思い〕なき者であるなら、その梵〔天〕は、この場に帰り来ない者です」と。そこで、まさに、或るひとりの家来が、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門が、到来したところです」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、いったい、まさに、誰が、この話題を、王の内宮において発したのですか」と。「大王よ、ヴィタトゥーバ軍団長です」と。ヴィタトゥーバ軍団長は、このように言いました。「大王よ、アーカーサ姓のサンジャヤ婆羅門です」と。そこで、まさに、或るひとりの家来が、コーサラ〔国〕のパセーナディ王に、こう言いました。「大王よ、乗物のための時です」と。
そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしどもは、一切知者たることを、世尊に尋ねました。世尊は、一切知者たることを説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、わたしどもは、四つの階級の清浄を、世尊に尋ねました。世尊は、四つの階級の清浄を説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、わたしどもは、優れた天〔の神々〕たちのことを、世尊に尋ねました。世尊は、優れた天〔の神々〕たちのことを説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、わたしどもは、優れた梵〔天〕のことを、世尊に尋ねました。世尊は、優れた梵〔天〕のことを説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。そして、まさしく、そのこと、そのことを、わたしどもが、世尊に尋ねたなら、まさしく、そのこと、そのことを、世尊は説き明かしました。また、そして、それは、わたしどもにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「大王よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去った、ということです。
カンナカッタラの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
王の章は終了となり、〔以上が〕第四となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ガティカーラ、ラッタパーラ、マガデーヴァ、マドゥラーなるもの、ボーディ、そして、アングリマーラ、愛しいものから生じるもの、外衣、そして、法の塔廟の経、第十のものとして、カンナカッタラがある」〔と〕。
5. 婆羅門の章
1(91). ブラフマーユの経
383. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。また、まさに、その時点にあって、ブラフマーユ婆羅門が、ミティラーに滞在しています。老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから百二十年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。まさに、ブラフマーユ婆羅門は、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩む。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
384. また、まさに、その時点にあって、ブラフマーユ婆羅門には、ウッタラという名の学徒が、内弟子として有りました。語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、ウッタラ学徒に告げました。「親愛なる者よ、ウッタラよ、この者が、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩む。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり……略……。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは』と。親愛なる者よ、ウッタラよ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、沙門ゴータマのことを知りなさい。『あるいは、すなわち、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか、あるいは、すなわち、そのとおりでないのか。あるいは、すなわち、彼が、貴君ゴータマが、そのような者であるのか、あるいは、すなわち、そのような者でないのか』〔と〕。わたしたちは、彼のことを、貴君ゴータマのことを、そのとおりに見出すのだ」と。「君よ、また、どのように、わたしは、彼のことを、貴君ゴータマのことを、そのとおりに知るのですか。『あるいは、すなわち、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか、あるいは、すなわち、そのとおりでないのか。あるいは、すなわち、彼が、貴君ゴータマが、そのような者であるのか、あるいは、すなわち、そのような者でないのか』」と。「親愛なる者よ、ウッタラよ、まさに、わたしたちの諸々の呪文(聖典)において伝えられて来た、三十二の偉大なる人士の特相がある。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇(趣)だけが有り、他はない。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有る。彼には、これらの七つの宝が有る。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有る──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住する。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成る〕。親愛なる者よ、ウッタラよ、また、まさに、わたしは、諸々の呪文の与え手であり、おまえは、諸々の呪文の受け手である」と。
385. 「君よ、わかりました」と、まさに、ウッタラ学徒は、ブラフマーユ婆羅門に答えて、坐から立ち上がって、ブラフマーユ婆羅門を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、ヴィデーハ〔国〕において、世尊のおられるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッタラ学徒は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を調べました。まさに、ウッタラ学徒は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部(陰馬蔵)について、さらに、広くて長い舌(広長舌)について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、ウッタラ学徒は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、ウッタラ学徒が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。そこで、まさに、ウッタラ学徒に、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備している。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマに付き従うのだ。彼の振る舞いの道を見るのだ」と。そこで、まさに、ウッタラ学徒は、七月のあいだ、世尊に付き従いました──影が離れないように。
386. そこで、まさに、ウッタラ学徒は、七月が経過して、ヴィデーハ〔国〕において、ミティラーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ミティラーのあるところに、ブラフマーユ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ブラフマーユ婆羅門を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッタラ学徒に、ブラフマーユ婆羅門は、こう言いました。「親愛なる者よ、ウッタラよ、どうであろう、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっているが、まさしく、存している、そのとおりであるのか──他なるものではなく。また、どうであろう、彼は、貴君ゴータマは、そのような者であるのか──他のような者でなはなく」と。「君よ、彼に、貴君ゴータマに、〔評価の〕声が上がっていますが、まさしく、存している、そのとおりです──他なるものではなく。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、そのような者です──他のような者でなはなく。そして、彼は、貴君ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備した方です。
(1)また、まさに、貴君ゴータマは、善く確立された足ある方です。これもまた、彼の、貴君ゴータマの、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。
(2)また、まさに、彼の、貴君ゴータマの、下方には、〔両の〕足の裏に生じたものとして、千の輻(や)があり、外輪を有し、轂(こしき)を有し、一切の行相の円満成就ある、〔左右一対の〕輪があります。……。
(3)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、長大なる踵(きびす)ある方です。……。
(4)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、長い指ある方です。……。
(5)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、柔和で柔弱な手足ある方です。……。
(6)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、網のような手足ある方です。……。
(7)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、踝(くるぶし)の高い足ある方です。……。
(8)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、羚羊のような脛ある方です。……。
(9)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、立っていながら屈むことなく、両の手の平をもって、〔両の〕膝に触れ、擦りまわします。……。
(10)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、覆蔵された衣の陰部ある方です。……。
(11)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、黄金の色艶があり、黄金に似た皮膚ある方です。……。
(12)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、繊細なる肌ある方であり、肌の繊細なることから、塵と埃が身体に付着しません。……。
(13)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、一つずつの毛ある方であり、諸々の一つずつの毛が諸々の毛穴に生じています。……。
(14)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、屹立する毛ある方であり、諸々の屹立する毛が生じ、塗薬の色のように青く、耳飾の輪のようであり、右回りに生じています。……。
(15)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、梵〔天〕のように真っすぐな五体ある方です。……。
(16)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、七つの増長ある方です。……。
(17)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、獅子のような前半身ある方です。……。
(18)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、窪みが詰まった肩ある方です。……。
(19)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、ニグローダ〔樹〕のような完円ある方であり、すなわち、彼の身体〔の長さ〕としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の〔一〕尋(両手を広げた長さ)となり、すなわち、彼の〔一〕尋としてあるかぎり、そのかぎりが、彼の身体〔の長さ〕となります。……。
(20)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、等しく円形の肩ある方です。……。
(21)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、至高なるうえにも至高なる味感ある方です。……。
(22)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、獅子のような顎ある方です。……。
(23)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、四十の歯ある方です。……。
(24)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、均等の歯ある方です。……。
(25)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、隙間のない歯ある方です。……。
(26)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、極めて白い歯ある方です。……。
(27)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、広くて長い舌ある方です。……。
(28)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、梵の声ある方であり、カラヴィーカ〔鳥〕の調べある方です。……。
(29)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、紺碧の眼ある方です。……。
(30)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、牛のような睫毛ある方です。……。
(31)また、まさに、彼の、貴君ゴータマの、眉間に生じたものとして、白く、柔和な綿毛に似た白毫があります。……。
(32)また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、肉髻の頭ある方です。これもまた、彼の、貴君ゴータマの、偉大なる人士たる者の、偉大なる人士の特相と成ります。
君よ、彼は、貴君ゴータマは、まさに、これらの三十二の偉大なる人士の特相を具備した方です。
387. また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、赴きつつあるなら、まさしく、右足によって、最初に進み出ます。彼は、遠過ぎないところに足を引き揚げ、近過ぎないところに足を置きます。彼は、急速過ぎずに赴き、緩慢過ぎずに赴き、かつまた、脛と脛を相打ちながら赴かず、かつまた、踝と踝を相打ちながら赴きません。彼は、赴きつつあるなら、腿を上に向けず、腿を下に向けず、腿を内に向けず、腿を外に向けません。また、まさに、彼が、貴君ゴータマが、赴きつつあると、下半身だけが動き、そして、身体の力で赴きません。また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、眺め見ているなら、まさしく、全身をもって眺め見ます。彼は、上を眺め見ず、下を眺め見ず、かつまた、見回しながら赴かず、かつまた、〔一〕ユガ(尋:長さの単位・一ユガは約二メートル)ばかりを見ます。そして、そののち、彼には、より上なるものとして、覆いなき知見が有ります。彼は、家の中に入りつつあるなら、身体を上に向けず、身体を下に向けず、身体を内に向けず、身体を外に向けません。彼は、遠過ぎず近過ぎないところにおいて、坐へと遍く転起し、かつまた、手で支えて坐に坐らず、かつまた、坐に身体を投げ入れません。彼は、家の中に坐り、〔そのように〕存しているなら、手による無作法を起こさず、足による無作法を起こさず、かつまた(※)、脛に脛をのせて坐らず、かつまた、踝に踝をのせて坐らず、そして、手で顎を受けて坐りません。彼は、家の中に坐り、〔そのように〕存しているなら、驚愕せず、動転せず、動揺せず、恐慌しません。彼は、驚愕なき者であり、動転なき者であり、動揺なき者であり、恐慌なき者であり、身の毛のよだちを離れ去った者です。そして、彼は、貴君ゴータマは、遠離〔の境地〕を転起し、家の中に坐った状態でいます。彼は、鉢の水を収め取っているなら、鉢を上に向けず、鉢を下に向けず、鉢を内に向けず、鉢を外に向けません。彼は、鉢の水を少過ぎず多過ぎずに収め取ります。彼は、鉢をきゅるきゅると〔音を〕為して洗い清めず、鉢を遍く転起させて洗い清めず、鉢を地に置いて〔両の〕手を洗い清めず、〔両の〕手が洗い清められたときは、鉢が洗い清められたものと成り、鉢が洗い清められたときは、〔両の〕手が洗い清められたものと成ります。彼は、鉢の水を遠過ぎず近過ぎないところに捨て放ちます──しかしながら、撒き散らすことなく。彼は、飯を収め取っているなら、鉢を上に向けず、鉢を下に向けず、鉢を内に向けず、鉢を外に向けません。彼は、飯を少過ぎず多過ぎずに収め取ります。また、まさに、彼は(※※)、貴君ゴータマは、香味を、〔しかるべき〕香味の量をもって食し、そして、握り飯を、香味とともに摂りません。また、まさに、彼は(※※※)、貴君ゴータマは、握り飯を、二〔回〕三回と、口のなかで等しく遍く転起させて飲み下します。そして、彼には、何であれ、諸々の飯粒が、混合されずに身体に入ることはなく、さらに、彼には、何であれ、諸々の飯粒が、口のなかに残されずに有るなら、そこで、他の握り飯を摂取します。また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、味の得知者として、食を食します──しかしながら、味の貪欲の得知者として、ではなく。
※ PTS版により ca を補う。
※※ PTS版により so を補う。
※※※ PTS版により so を補う。
また、まさに、彼は、貴君ゴータマは、八つの支分を具備した食を食します──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。彼は、食事を終え、鉢の水を収め取っているなら、鉢を上に向けず、鉢を下に向けず、鉢を内に向けず、鉢を外に向けません。彼は、鉢の水を少過ぎず多過ぎずに収め取ります。彼は、鉢をきゅるきゅると〔音を〕為して洗い清めず、鉢を遍く転起させて洗い清めず、鉢を地に置いて〔両の〕手を洗い清めず、〔両の〕手が洗い清められたときは、鉢が洗い清められたものと成り、鉢が洗い清められたときは、〔両の〕手が洗い清められたものと成ります。彼は、鉢の水を遠過ぎず近過ぎないところに捨て放ちます──しかしながら、撒き散らすことなく。彼は、食事を終え(※)、鉢を地に置きます──遠過ぎず近過ぎないところに。かつまた、鉢に義(目的)なき者として有るのでもなく、かつまた、鉢にたいし限度を超える守護者として〔有るのでも〕なく。彼は、食事を終え、寸時のあいだ、沈黙して坐ります。しかしながら、随喜の時を過ぎ行きません。彼は、食事を終え、随喜します。その食事を非難せず、他の食事を希求しません。何はともあれ、法(教え)の講話によって、その衆に、〔真理を〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼は、法(教え)の講話によって、その衆に、〔真理を〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去ります。彼は、急速過ぎずに赴き、緩慢過ぎずに赴きます。しかしながら、解き放たれることを欲する者として赴きません。そして、彼の、貴君ゴータマの、身体において、衣料は、高過ぎずに有り、かつまた、低過ぎずに〔有り〕、さらに、身体に付着せずに有り、かつまた、身体から離去せずに〔有ります〕。そして、彼の、貴君ゴータマの、衣料を、風が身体から運び去ることはなく、そして、彼の、貴君ゴータマの、身体に、塵と埃が付着することはありません。彼は、林園に赴き、設けられた坐に坐ります。坐って、〔両の〕足を洗います。しかしながら、彼は、貴君ゴータマは、足を装うことへの専念に専念する者として〔世に〕住みません。彼は、〔両の〕足を洗って、坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思い考えず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思い考えず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思い考えません。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、自己の利益と他者の利益と両者の利益と一切の世〔の人々〕の利益を思い考えながら、坐った状態でいます。彼は、林園に赴き、衆のなかで法(教え)を説示します。その衆を賞揚せず、その衆を指弾せず、何はともあれ、法(教え)の講話によって、その衆に、〔真理を〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。
※ テキストには So bhuttāvī na とあるが、PTS版により na を削除する。
また、まさに、彼の、貴君ゴータマの、口からは、八つの支分を具備した話し声が放たれます。かつまた、明瞭で、かつまた、識知でき、かつまた、美妙で、かつまた、必聴にして、かつまた、円滑で、かつまた、拡散せず、かつまた、深遠で、かつまた、雄大なるものとして。また、まさに、彼が、貴君ゴータマが、すなわち、衆に、声によって識知させるとおりに、彼の話し声は、衆の外に放たれることがありません(衆の外に漏れ出ない)。彼らは、彼によって、貴君ゴータマによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、坐から立ち上がって、立ち去ります──〔彼を〕捨棄できずにあることから、まさしく、〔彼を〕眺め見ながら。君よ、まさに、わたしたちは、彼が、貴君ゴータマが、赴きつつあるのを見ました。立っているのを見ました。家の中に入りつつあるのを見ました。家の中に坐り、沈黙の状態でいるのを見ました。家の中で食べつつあるのを見ました。食事を終え、沈黙の状態でいるのを見ました。食事を終え、随喜しつつあるのを見ました。林園に赴きつつあるのを見ました。林園に赴き、坐り、沈黙の状態でいるのを見ました。林園に赴き、衆のなかで法(教え)を説示しつつあるのを見ました。かつまた、このような方でもあり、かつまた、このような方でもあり、彼は、貴君ゴータマは、そして、それよりも、より一層の方です」と。
388. このように説かれたとき、ブラフマーユ婆羅門は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。
「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。
彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。
彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。
「まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、いつであれ、いつかは、彼と、貴君ゴータマと、共に(※)集いあつまることになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるでしょう」と。
※ PTS版により saddhiṃ を補う。
389. そこで、まさに、世尊は、ヴィデーハ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ミティラーのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、ミティラーに住んでおられます。マガデーヴァのアンバ林において。まさに、ミティラーの婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、ヴィデーハ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ミティラーに到着し、ミティラーに住んでいる。マガデーヴァのアンバ林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
そこで、まさに、ミティラーの婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。
390. まさに、ブラフマーユ婆羅門は、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、ミティラーに到着し、ミティラーに住んでいる。マガデーヴァのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、大勢の弟子たちと共に、マガデーヴァのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、アンバ林の遠く離れていないところで、ブラフマーユ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、このことは、わたしにとって、適切なることではない。すなわち、わたしが、前もって知らせず、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのは」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、或るひとりの学生に告げました。「学生よ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、沙門ゴータマに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、貴君ゴータマに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから百二十年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。君よ、すなわち、ミティラーに住するかぎりの、婆羅門や家長たちで、ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の財物によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の呪文によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、まさしく、そして、寿命によって、さらに、盛名によって。彼は、貴君ゴータマと会見することを欲しています』」と。
「君よ、わかりました」と、まさに、その学生は、ブラフマーユ婆羅門に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、その学生は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、貴君ゴータマに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『貴君ゴータマよ、ブラフマーユ婆羅門は、老い朽ち、年長となり、老練にして、歳月を重ね、年齢を加えた、生まれてから百二十年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。君よ、すなわち、ミティラーに住するかぎりの、婆羅門や家長たちで、ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の財物によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、諸々の呪文によって。ブラフマーユ婆羅門は、それらのなかの至高の者と告げ知らされます──すなわち、この、まさしく、そして、寿命によって、さらに、盛名によって。彼は、貴君ゴータマと会見することを欲しています』」と。「学徒よ、今が、そのための時と、ブラフマーユ婆羅門が思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、その学生は、ブラフマーユ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ブラフマーユ婆羅門に、こう言いました。「まさに、貴君は(※)、沙門ゴータマによって、機会が作られました。今が、そのための時と、貴君がお思いになるのなら〔思いのままに〕」と。
※ テキストには khomhi bhavatā とあるが、PTS版により kho bhavaṃ と読む。
391. そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、その衆は、ブラフマーユ婆羅門が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、脇に控えて、〔ブラフマーユ婆羅門のために〕空間を作りました。すなわち、知名ある者のために〔為し〕、盛名ある者のために〔為す〕、そのとおりに。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、その衆に、こう言いました。「君よ、十分です。あなたたちは、自らの坐に坐りなさい。ここに、わたしは、沙門ゴータマの現前において坐りましょう」と。
そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔そこで、詩偈に言う〕「わたしが聞くところの、それらの三十二の偉大なる人士の特相であるが、それらのなかの二つを、〔わたしは〕見ない。ゴータマよ、貴君の身体において。
最上の人たる方よ、どうであろう、貴君には、覆蔵された衣の陰部があるのだろうか。どうであろう、女と同等の呼び名を有するものとして、舌は、見示なくあるのだろうか。
どうであろう、広くて長い〔舌〕ある者として、〔あなたは〕存しているのだろうか。すなわち、それを、〔わたしたちが〕知るように、この広くて長い〔舌〕を出したまえ。聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除きたまえ。
所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、機会が作られた者たちとして、〔わたしたちは〕尋ねる──それが何であれ、望み求めるものを」と。
392. そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、ブラフマーユ婆羅門は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、ブラフマーユ婆羅門が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、諸々の詩偈をもって答えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「あなたが聞くところの、それらの三十二の偉大なる人士の特相であるが、それらの全てが、わたしの身体においてある。婆羅門よ、あなたに、諸々の疑いが有ってはならない。
証知されるべきものは証知され、さらに、修行されるべきものは修行され、わたしによって、捨棄されるべきものは捨棄された。婆羅門よ、それゆえにそれゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存している。
所見の法(現世)の利益という義(目的)のために、さらに、未来の安楽のために、機会が作られた者たちとして、〔あなたは〕尋ねなさい──それが何であれ、望み求めるものを」と。
393. そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、〔わたしは〕存している──沙門ゴータマによって、機会が作られた者として。いったい、まさに、何を、わたしは、沙門ゴータマに尋ねるべきなのか──あるいは、所見の法(現世)の義(利益)を〔尋ねるべきなのか〕、あるいは、未来の〔義〕を〔尋ねるべきなのか〕」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしは、諸々の所見の法(現世)の義(利益)に巧みな智ある者である。他者たちもまた、わたしに、所見の法(現世)の義(利益)を尋ねる。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマに、まさしく、未来の義(利益)を尋ねるのだ」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔そこで、詩偈に言う〕「どのように、まさに、婆羅門と成るのですか。どのように、〔真の〕知に至る者と成るのですか。君よ、どのように、三つの明知ある者と成るのですか。どのようなわけで、聞経者と説かれるのですか。
君よ、どのように、阿羅漢と成るのですか。どのように、全一者と成るのですか。君よ、そして、どのように、牟尼と成るのですか。どのようなわけで、覚者と呼ばれるのですか」と。
394. そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、諸々の詩偈をもって答えました。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、〔あるがままの〕証知が完成された牟尼である。
全てにわたり、諸々の貪欲から解き放たれ、清浄となった心を知る、生と死を捨棄した者、梵行についての全一者、一切の諸法(事象)の彼岸に至る者──そのような者は、覚者と呼ばれる」と。
このように説かれたとき、ブラフマーユ婆羅門は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、そして、世尊の〔両の〕足に、顔をもって口づけし、かつまた、〔両の〕手で撫で擦り、さらに、名前を告げ聞かせます。「貴君ゴータマよ、わたしは、ブラフマーユ婆羅門です。貴君ゴータマよ、わたしは、ブラフマーユ婆羅門です」と。そこで、まさに、その衆は、稀有にして未曾有の心が生じた者たちと成りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。なぜなら、そこで、まさに、この者が、知名ある者であり、盛名ある者である、ブラフマーユ婆羅門が、このような形態の最高の倒礼の所作を為すからだ」と。そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、十分です。立ち上がりなさい。あなたは、自らの坐に坐りなさい。すなわち、あなたの心が、わたしにたいし浄信したからには」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、自らの坐に坐りました。
395. そこで、まさに、世尊は、ブラフマーユ婆羅門に、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、ブラフマーユ婆羅門のことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、浄信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、ブラフマーユ婆羅門に、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。そして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、その夜が明けると、自らの住居地において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。
そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ブラフマーユ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門は、七日のあいだ、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、ヴィデーハ〔国〕において、遊行〔の旅〕に出ました。そこで、まさに、ブラフマーユ婆羅門者は、世尊が立ち去ったすぐあと、命を終えました。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ブラフマーユ婆羅門が、命を終えたのです。彼には、どのような〔死後の〕境遇がありますか、どのような未来の運命がありますか」と。「比丘たちよ、ブラフマーユ婆羅門は、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。かつまた、法(教え)を事因に、わたしを悩ますことがありませんでした。比丘たちよ、ブラフマーユ婆羅門は、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
ブラフマーユの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(92). セーラの経
396. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナという名のアングッタラーパ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、ケーニヤ結髪者は、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナに到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ケーニヤ結髪者に、世尊は、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊によって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持させられ、激励され、感動させられ、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。このように説かれたとき、世尊は、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「ケーニヤよ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちです。かつまた、あなたは、婆羅門たちにたいし大いに浄信しています」と。再度また、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、たとえ、何であれ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちであり、かつまた、わたしが、婆羅門たちにたいし大いに浄信しているとして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。再度また、まさに、世尊は、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「ケーニヤよ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちです。かつまた、あなたは、婆羅門たちにたいし大いに浄信しています」と。三度また、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、たとえ、何であれ、まさに、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちであり、かつまた、わたしが、婆羅門たちにたいし大いに浄信しているとして、貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊の承諾を見出して、坐から立ち上がって、自らの庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、朋友や僚友たちに、親族や血縁たちに、呼びかけました。「諸君よ、朋友や僚友たちよ、親族や血縁たちよ、わたしの〔言葉を〕聞いてください。沙門ゴータマが、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕に招かれたのです。それで、わたしのために、身体による支援(労働奉仕)を為してほしいのです」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ケーニヤ結髪者の、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、ケーニヤ結髪者に答えて、一部の者たちはまた、諸々の竈を掘り、一部の者たちはまた、諸々の薪を切り裂き、一部の者たちはまた、諸々の器を洗い清め、一部の者たちはまた、水瓶を据え付け、一部の者たちはまた、諸々の坐を設置します。また、ケーニヤ結髪者は、まさしく、自ら、円形堂を設えます。
397. また、まさに、その時点にあって、セーラ婆羅門が、アーパナに滞在しています。語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じ、かつまた、三百の学生たちに諸々の呪文(聖典)を教えます。また、まさに、その時点にあって、ケーニヤ結髪者は、セーラ婆羅門にたいし大いに浄信している者として〔世に〕有ります。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、三百の学生たちに取り囲まれ、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、ケーニヤ結髪者の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、セーラ婆羅門は、ケーニヤ結髪者の庵所において、一部の者たちがまた、諸々の竈を掘っているのを、一部の者たちがまた、諸々の薪を切り裂いているのを、一部の者たちがまた、諸々の器を洗い清めているのを、一部の者たちがまた、水瓶を据え付けているのを、一部の者たちがまた、諸々の坐を設置しているのを、また、ケーニヤ結髪者が、まさしく、自ら、円形堂を設えているのを、見ました。見て、ケーニヤ結髪者に、こう言いました。「いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君ケーニヤに、あるいは、嫁とりが有るのですか、あるいは、嫁やりが有るのですか、あるいは、大祭祀が現起したのですか、あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、軍隊の衆と共に、明日、〔食事に〕招かれたのですか」と。「貴君セーラよ、わたしに、あるいは、嫁とりが有るのではなく、あるいは、嫁やりが有るのでもまたなく、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、軍隊の衆と共に、明日、〔食事に〕招かれたのでもまたありません。ですが、また、まさに、わたしに、大祭祀が現起したのです。君よ、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが存在します。アングッタラーパ〔国〕において、大いなる比丘の僧団である、千二百五十の比丘たちと共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、アーパナに到着したのです。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼が、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事に招かれたのです」と。
「貴君ケーニヤよ、〔あなたは〕『〔彼は〕覚者である』と説くのですか」〔と〕。
「貴君セーラよ、〔わたしは〕『〔彼は〕覚者である』と説きます」〔と〕。
「貴君ケーニヤよ、〔あなたは〕『〔彼は〕覚者である』と説くのですか」〔と〕。
「貴君セーラよ、〔わたしは〕『〔彼は〕覚者である』と説きます」と。
398. そこで、まさに、セーラ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、これは、評判でさえも、世において得難きものである。すなわち、この、『〔彼は〕覚者である』という〔評判は〕。また、まさに、わたしたちの諸々の呪文(聖典)において伝えられて来た、三十二の偉大なる人士の特相がある。それら〔の三十二の特相〕を具備した偉大なる人士には、二つの境遇だけが有り、他はない。それで、もし、家に居住するなら、転輪王として、法(正義)にかなう法(正義)の王として、四辺の征圧者として、地方の安定に至り得た者として、七つの宝を具備した者として、〔世に〕有る。彼には、これらの七つの宝が有る。それは、すなわち、この、車輪の宝であり、象の宝であり、馬の宝であり、宝珠の宝であり、婦女の宝であり、家長の宝であり、第七のものとして、まさしく、参謀の宝が。また、まさに、彼には、千を超える子たちが有る──勇者の肢体と形姿があり、他軍を撃破する、勇士たちが。彼は、海洋を極限とする、この地を、棒によらず、刃によらず、法(正義)によって征圧して、〔家に〕居住する。また、まさに、それで、もし、家から家なきへと出家するなら、阿羅漢と成り、正等覚者と〔成り〕、世における〔迷妄の〕覆いが開かれた者と〔成る〕」〔と〕。
「貴君ケーニヤよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマは住んでいますか」と。このように説かれたとき、ケーニヤ結髪者は、右腕を差し出して、セーラ婆羅門に、こう言いました。「貴君セーラよ、この青い林の列があるところです」と。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、三百の学生たちと共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、それらの学生たちに告げました。「諸君よ、音声少なく、歩に歩を置きつつ(静かな歩調で)、やってきなさい。まさに、彼らは、世尊たちは、近づき難き者たちであり、獅子のように〔常に〕独り歩む者たちです。君よ、そして、わたしが、沙門ゴータマを相手に話し合う、そのときは、諸君よ、中途中途で、わたしの議論に割り込んではいけません。諸君は、わたしの議論の終了を待ちなさい」と。そこで、まさに、セーラ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、セーラ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を調べました。
まさに、セーラ婆羅門は、世尊の身体において、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見ました。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しません。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「この者は、セーラ婆羅門は、まさに、わたしの、三十二の偉大なる人士の特相を、二つを除いて、多くのところとして見る。そして、覆蔵された衣の陰部について、さらに、広くて長い舌について、二つの偉大なる人士の特相について、〔彼は〕疑い、疑惑し、信念せず、正しく浄信しない」と。そこで、まさに、世尊は、すなわち、セーラ婆羅門が、世尊の覆蔵された衣の陰部を見たかのように、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、世尊は、舌を出して、両の耳孔ともども、順に触れ逆に触れ、両の鼻孔ともども、順に触れ逆に触れ、額の円輪を、全部もろともに、舌で覆い隠しました。そこで、まさに、セーラ婆羅門に、この〔思い〕が有りました。「まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を、円満成就したものとして具備している──円満成就していないものとして、ではなく。しかしながら、まさに、彼のことを、あるいは、覚者であるのか、あるいは、〔覚者では〕ないのか、〔わたしは〕知らない。また、まさに、このことを、わたしは聞いた──年長となり、老練にして、師匠のなかの大師匠たる婆羅門たちが語っているところとして。『すなわち、それらの者たちが、阿羅漢たちとして、正等覚者たちとして、〔世に〕有るなら、彼らは、自らについての褒め称え〔の言葉〕が話されているとき、自己を明らかと為す』と。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマを、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛するのだ」と。
399. そこで、まさに、セーラ婆羅門は、世尊を、〔その〕面前で、諸々の適切なる詩偈をもって奉賛しました。
〔セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「円満成就した身体の、極めて好ましき者であり、善き出生の、典雅なる見た目ある者であり、世尊よ、〔あなたは〕黄金の色艶ある者として〔世に〕存しています。〔あなたは〕歯が純白で、精進ある者として〔世に〕存しています。
まさに、善き出生の人に有る、それらの特徴ですが、それらの偉大なる人士の特相の全てが、あなたの身体において〔見られます〕。
澄浄なる眼で、美しい顔立ちで、偉丈夫で、真っすぐで、輝きある者であり、〔あなたは〕沙門の僧団の中央において、太陽のように光り輝きます。
美しき見た目ある比丘にして、黄金に似た皮膚ある者です。このように、最上の色艶をもつ、あなたにとって、沙門として〔世に〕有ることが、何になるというのでしょう。
〔あなたは〕車上の雄牛たる転輪王として〔世に〕有るのがふさわしい──四辺を征圧する、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)のイッサラ(イーシュヴァラ神・自在神)として。
士族たちは、財物ある王たちは、あなたに従い行く者たちと成れ。ゴータマよ、王のなかの王として、人間のインダ(インドラ神・帝釈天)として、王権を為されよ(統治せよ)」〔と〕。
かくのごとく、〔世尊は言った〕「セーラよ、わたしは、王として〔世に〕存しています。無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させます──〔誰も〕反転できない〔法の〕輪を」〔と〕。
〔セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「〔あなたは、自らについて〕『正覚者である』〔と〕明言します。ゴータマよ、〔あなたは、自らについて〕『無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させる』と語ります。
いったい、誰が、軍団の長ですか。〔誰が〕貴君の弟子として、教師に従い行くのですか。あなたが転起させた、その法(真理)の輪を、誰が随転させるのですか」〔と〕。
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「セーラよ、わたしが転起させた〔法の〕輪を、無上なる法(真理)の輪を、如来に〔続いて〕生まれ来たサーリプッタが随転させます。
証知されるべきものは証知され、さらに、修行されるべきものは修行され、捨棄されるべきものは捨棄されました──わたしによって。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しています。
わたしにたいし、疑いを取り除きなさい。婆羅門よ、信念しなさい。正覚者たちと一度ならず会見することは、得難きこととして〔世に〕有ります。
彼らが一度ならず世に出現することは、まさに、得難きこととして〔世に有ります〕。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしは、正覚者として、〔毒〕矢の治癒者として、無上なる者として、〔世に存しています〕。
梵と成った者(最高の人格者)として、〔他に〕比類なき者として、悪魔の軍団を撃破する者として、一切の朋友ならざる者を自在に為して、何も恐れず、歓喜します」〔と〕。
〔自らの弟子たちにたいし、セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「諸君よ、このことを、眼ある方(ブッダ)が語る、そのとおりに、こころして聞け──〔毒〕矢の治癒者が、偉大なる勇者が、林のなかで獅子が吼えるように〔語る、そのとおりに〕。
梵と成った方を、〔他に〕比類なき方を、悪魔の軍団を撃破する方を、見て〔そののち〕、誰が、浄信しないというのだろう。黒き生まれの者でさえも、〔浄信するであろう〕。
すなわち、求める者は、わたしに従え。あるいは、すなわち、求めない者は、去れ。ここに、わたしは、優れた智慧ある方の現前において、出家するであろう」〔と〕。
〔弟子たちが、詩偈に言う〕「もし、この正等覚者の教えが、貴君(セーラ婆羅門)にとって好ましくあるなら、わたしたちもまた、優れた智慧ある方の現前において、出家するでありましょう」〔と〕。
〔世尊にたいし、セーラ婆羅門が、詩偈に言う〕「これらの三百の婆羅門たちは、合掌を為し、〔あなたに〕乞います。世尊よ、あなたの現前において、〔わたしたちは〕梵行を歩むでありましょう」〔と〕。
かくのごとく、世尊は〔言った〕「セーラよ、現に見られ時を要さない〔真の〕梵行は、善く告げ知らされました。そこにおいて、〔気づきを〕怠らずに学んでいる者の出家は、無駄ならざるものとなります」と。
まさに、セーラ婆羅門は、衆と共に、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。
400. そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、その夜が明けると、自らの庵所において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ケーニヤ結髪者の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ケーニヤ結髪者は、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ケーニヤ結髪者に、世尊は、これらの詩偈によって随喜しました。
〔そこで、詩偈に言う〕「祭祀は、祭火への供え物を頂点とします。韻文の頂点は、サーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)です。人間たちの頂点は、王です。諸々の川の頂点は、海洋です。
星々の頂点は、月です。諸々の輝くものの頂点は、太陽です。功徳を望みながら祭祀をする者たちにとって、頂点となるのは、まさに、僧団です」と。
そこで、まさに、世尊は、ケーニヤ結髪者に、これらの詩偈によって随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。
そこで、まさに、尊者セーラは、衆と共に、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者セーラは、衆と共に、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成りました。そこで、まさに、尊者セーラは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一つの肩に衣料を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔そこで、詩偈に言う〕「眼ある方よ、すなわち、帰依所として、あなたのもとに至り着いて、このかた、〔今日で〕第八〔日〕となります。世尊よ、〔わたしたちは〕存しています──あなたの教えにおいて、七夜をもって調御された者たちとして。
あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超え渡します。
あなたの、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は超え行かれました。あなたの、諸々の煩悩は破り去られました。まさしく、〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき方として、〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した方として、〔世に存しています〕。
これらの三百の比丘たちは、合掌を為し、立っています。勇者よ、〔両の〕足を差し出したまえ。龍たちよ、教師を敬拝せよ」と。
セーラの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(93). アッサラーヤナの経
401. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、種々なる国々の婆羅門たちのなかの五百ばかりの婆羅門たちが、サーヴァッティーに滞在しています──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、それらの婆羅門たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。いったい、まさに、誰が、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することができるのか」と。また、まさに、その時点にあって、アッサラーヤナという名の学徒が、サーヴァッティーに滞在しています。年少にして、頭を剃った、生まれてから齢十六年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。そこで、まさに、それらの婆羅門たちに、この〔思い〕が有りました。「まさに、この者が、アッサラーヤナ学徒が、サーヴァッティーに滞在している。年少にして、頭を剃った、生まれてから齢十六年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして……略……欠くことなく通じる者である。まさに、彼が、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することができる」と。
そこで、まさに、それらの婆羅門たちは、アッサラーヤナ学徒のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「貴君アッサラーヤナよ、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。行きたまえ、貴君アッサラーヤナは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁するために」と。
このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、沙門ゴータマは、法(真理)を説く者です。また、そして、法(真理)を説く者たちは、論駁し難き者たちして〔世に〕有ります。わたしは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することはできません」と。再度また、まさに、それらの婆羅門たちは、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「貴君アッサラーヤナよ、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。行きたまえ、貴君アッサラーヤナは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁するために。また、まさに、貴君アッサラーヤナによって、遍歴遊行は〔すでに〕歩むところ」と。再度また、まさに、アッサラーヤナ学徒は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、沙門ゴータマは、法(真理)を説く者です。また、そして、法(真理)を説く者たちは、論駁し難き者たちして〔世に〕有ります。わたしは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することはできません」と。三度また、まさに、それらの婆羅門たちは、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「貴君アッサラーヤナよ、この者は、沙門ゴータマは、四つの階級の清浄を報知する。行きたまえ、貴君アッサラーヤナは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁するために。また、まさに、貴君アッサラーヤナによって、遍歴遊行は〔すでに〕歩むところ。貴君アッサラーヤナは、戦いに敗北せずに敗北してはならない」と。
このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「諸君よ、まさに、たしかに、わたしは、『君よ、まさに、沙門ゴータマは、法(真理)を説く者です。法(真理)を説く者たちは、論駁し難き者たちして〔世に〕有ります。わたしは、沙門ゴータマを相手に、この言葉にたいし論駁することはできません』と〔言っても、承諾を〕得ません。ですが、ともあれ、わたしは、貴君たちの言葉によって赴きましょう」と。
402. そこで、まさに、アッサラーヤナ学徒は、大いなる婆羅門の衆徒と共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッサラーヤナ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。「アッサラーヤナよ、また、まさに、婆羅門たちのなかで、女性婆羅門たちは、月経ある者たちもまた見られ、妊婦たちもまた〔見られ〕、出産している者たちもまた〔見られ〕、授乳している者たちもまた〔見られます〕。そして、それらの婆羅門たちは、まさしく、〔女性婆羅門たちの〕胎から生まれる者たちとして(※)〔世に〕存していながら、このように言います。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。
※ テキストには brāhmaṇiyonijāva とあるが、PTS版により brāhmaṇā yonijāva と読む。
403. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。あなたは聞きましたか。『ヨーナとカンボージャにおいては、さらには、他の諸々の最辺境の地方においては、二つの階級だけがあります。まさしく、そして、貴族であり、さらに、奴隷です。〔人々は〕貴族と成っては、奴隷と成ります。〔人々は〕奴隷と成っては、貴族と成ります』」と。「君よ、このように、そのことを、わたしは聞きました。『ヨーナとカンボージャにおいては、さらには、他の諸々の最辺境の地方においては、二つの階級だけがあります。まさしく、そして、貴族であり、さらに、奴隷です。〔人々は〕貴族と成っては、奴隷と成ります。〔人々は〕奴隷と成っては、貴族と成ります』」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵(確証)があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。
404. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、士族だけが、命あるものを殺す者であるなら、与えられていないものを取る者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者であるなら、虚偽を説く者であるなら、中傷の言葉ある者であるなら、粗暴な言葉ある者であるなら、雑駁な虚論ある者であるなら、強欲〔の思い〕ある者であるなら、憎悪している心の者であるなら、誤った見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのでしょうか──婆羅門ではなく。いったい、まさに、庶民だけが……略……。いったい、まさに、奴隷だけが、命あるものを殺す者であるなら、与えられていないものを取る者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者であるなら、虚偽を説く者であるなら、中傷の言葉ある者であるなら、粗暴な言葉ある者であるなら、雑駁な虚論ある者であるなら、強欲〔の思い〕ある者であるなら、憎悪している心の者であるなら、誤った見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのでしょうか──婆羅門ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺す者であるなら、与えられていないものを取る者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者であるなら、虚偽を説く者であるなら、中傷の言葉ある者であるなら、粗暴な言葉ある者であるなら、雑駁な虚論ある者であるなら、強欲〔の思い〕ある者であるなら、憎悪している心の者であるなら、誤った見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、命あるものを殺す者たちであるなら、与えられていないものを取る者たちであるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者たちであるなら、虚偽を説く者たちであるなら、中傷の言葉ある者たちであるなら、粗暴な言葉ある者たちであるなら、雑駁な虚論ある者たちであるなら、強欲〔の思い〕ある者たちであるなら、憎悪している心の者たちであるなら、誤った見解ある者たちであるなら、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。
405. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、命あるものを殺すことから離間した者であるなら、与えられていないものを取ることから離間した者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者であるなら、虚偽を説くことから離間した者であるなら、中傷の言葉から離間した者であるなら、粗暴な言葉から離間した者であるなら、雑駁な虚論から離間した者であるなら、強欲〔の思い〕なき者であるなら、憎悪していない心の者であるなら、正しい見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのでしょうか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、命あるものを殺すことから離間した者であるなら、与えられていないものを取ることから離間した者であるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者であるなら、虚偽を説くことから離間した者であるなら、中傷の言葉から離間した者であるなら、粗暴な言葉から離間した者であるなら、雑駁な虚論から離間した者であるなら、強欲〔の思い〕なき者であるなら、憎悪していない心の者であるなら、正しい見解ある者であるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、命あるものを殺すことから離間した者たちであるなら、与えられていないものを取ることから離間した者たちであるなら、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者たちであるなら、虚偽を説くことから離間した者たちであるなら、中傷の言葉から離間した者たちであるなら、粗暴な言葉から離間した者たちであるなら、雑駁な虚論から離間した者たちであるなら、強欲〔の思い〕なき者たちであるなら、憎悪していない心の者たちであるなら、正しい見解ある者たちであるなら、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。
406. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき(※)慈愛の心を修めることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。
※ テキストには abyābajjhaṃ とあるが、PTS版により abyāpajjhaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。
407. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。
408. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、即位灌頂した王たる士族が、種々なる出生の者たちのなかの百者の人を集めるとします。『諸君よ、さあ、それらの者たちが、そこにおいて、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちであるなら、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ。諸君よ、さあ、いっぽう、それらの者たちが、そこにおいて、チャンダーラ(賎民)の家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサ(非人)の家から生起した者たちであるなら、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ』と。
アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、すなわち、このように、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、いったい、まさに、それだけが、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができるのでしょうか。いっぽう、すなわち、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、それは、まさしく、そして、炎がなく、かつまた、色艶がなく、さらに、光り輝くものではない、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができないのでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、すなわち、また、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう。すなわち、また、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう」と。「アッサラーヤナよ、ここにおいて、婆羅門たちに、どうして、力があるというのでしょう、どうして、安堵があるというのでしょう。すなわち、ここにおいて、婆羅門たちが、このように言うとして。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』」と。「たとえ、何であれ、貴君ゴータマが、このように言うとして、そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように、このことを思い考えます。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。……略……梵の相続者たちである』」と。
409. 「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、士族の少年が、婆羅門の少女を相手に、共住を営み、彼らの共住に付従するものとして、子が生まれるとします。すなわち、その、士族の少年と婆羅門の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた相同の者として、父ともまた相同の者として、〔世に〕存するでしょうか、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その、士族の少年と婆羅門の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた相同の者として、父ともまた相同の者として、〔世に〕存するでしょうし、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきです」と。
「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、婆羅門の少年が、士族の少女を相手に、共住を営み、彼らの共住に付従するものとして、子が生まれるとします。すなわち、その、婆羅門の少年と士族の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた相同の者として、父ともまた相同の者として、〔世に〕存するでしょうか、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その、婆羅門の少年と士族の少女から生起した子ですが、彼は、母ともまた相同の者として、父ともまた相同の者として、〔世に〕存するでしょうし、『士族』ともまた説かれるべきであり、『婆羅門』ともまた説かれるべきです」と。
「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、雌馬を、驢馬と交配させ、彼らの交配に付従するものとして、子馬が生まれるとします。すなわち、その、雌馬と驢馬から生起した子馬ですが、彼は、母ともまた相同の者として、父ともまた相同の者として、〔世に〕存するでしょうか、『馬』ともまた説かれるべきであり、『驢馬』ともまた説かれるべきですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、奇形として、彼は、騾馬と成ります。貴君ゴータマよ、まさに、彼の、この多様性(相違点)を、〔わたし〕見ます。また、しかしながら、そこに、何であれ、これらの者たちの多様性を、〔わたし〕見ません」と。
「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、同腹の兄弟である二者の学生が存するとします。一者は、近しく導かれた者であり、読誦者です。一者は、近しく導かれていない者であり、読誦者ならざる者です。ここにおいて、誰を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その学生が、近しく導かれた者であり、読誦者であるなら、ここにおいて、彼を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょう──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において。貴君ゴータマよ、まさに、どうして、近しく導かれていない者において、読誦者ならざる者において、施されたものが、大いなる果と成るというのでしょう」と。
「アッサラーヤナよ、それを、どう思いますか。ここに、同腹の兄弟である二者の学生が存するとします。一者は、近しく導かれた者であり、読誦者であるも、劣戒の者であり、悪しき法(性質)ある者であす。一者は、近しく導かれていない者であり、読誦者ならざる者であるも、戒ある者であり、善き法(性質)ある者です。ここにおいて、誰を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょうか──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、その学生が、近しく導かれていない者であり、読誦者ならざる者であるも、戒ある者であり、善き法(性質)ある者であるなら、ここにおいて、彼を、婆羅門たちは、最初に受益させるでしょう──あるいは、祖霊祭において、あるいは、祭事において、あるいは、祭祀において、あるいは、饗宴において。貴君ゴータマよ、まさに、どうして、劣戒の者において、悪しき法(性質)ある者において、施されたものが、大いなる果と成るというのでしょう」と。
「アッサラーヤナよ、過去において、まさに、あなたは、出生に赴きました。出生に赴いて、諸々の呪文に赴きました。諸々の呪文に赴いて、諸々の苦行(持戒)に赴きました。諸々の苦行に赴いて、四つの階級の清浄を信認したのです。すなわち、わたしが報知する、〔その四つの階級の清浄を〕」と。このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。
410. そこで、まさに、世尊は、アッサラーヤナ学徒が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、アッサラーヤナ学徒に、こう言いました。「アッサラーヤナよ、過去の事ですが、林所にある諸々の柴小屋において暮らしている、七者の婆羅門の聖賢たちに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。『婆羅門だけが、最勝の階級である。……略……梵の相続者たちである』と。アッサラーヤナよ、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、『どうやら、林所にある諸々の柴小屋において暮らしている、七者の婆羅門の聖賢たちに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。「婆羅門だけが、最勝の階級である。……略……梵の相続者たちである」』と耳にしました。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、髪と髭を整えて、諸々の茜色の衣服を着て、裏打ちされた履物を履いて、黄金製の杖を収め取って、七者の婆羅門の聖賢たちの寓居に出現しました。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、七者の婆羅門の聖賢たちの寓居のなかを歩行しながら、このように言いました。『はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこに〕赴いたのだ。はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこに〕赴いたのだ』と。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちに、この〔思い〕が有りました。『いったい、誰なのだ、この、牧童の形態をしているかのような者は──七者の婆羅門の聖賢たちの寓居のなかを歩行しながら、このように言ったのは。「はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこに〕赴いたのだ。はてさて、いったい、まさに、どうしたのだろう、これらの尊き婆羅門の聖賢たちは、〔どこに〕赴いたのだ」と。さあ、〔わたしたちは〕彼を呪うのだ』と。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちは、アシタ・デーヴァラ聖賢を呪いました。『賎民よ、灰と成れ。賎民よ、灰と成れ』と。アッサラーヤナよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちが、アシタ・デーヴァラ聖賢を呪ったなら、そのとおり、そのとおりに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、まさしく、そして、より形姿麗しき者と成り、かつまた、より美しい者と〔成り〕、さらに、より澄浄なる者と〔成ります〕。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしたちの、苦行は、無駄であり、梵行は、無果である。なぜなら、わたしたちが、過去において、その者を呪うなら、「賎民よ、灰と成れ。賎民よ、灰と成れ」と、一部の者は、まさしく、灰と成るも、いっぽう、この者を、わたしたちが、そのとおり、そのとおりに、呪うなら、そのとおり、そのとおりに、まさしく、そして、より形姿麗しき者と成り、かつまた、より美しい者と〔成り〕、さらに、より澄浄なる者と〔成るからだ〕』と。『貴君たちの、苦行は、無駄ではなく、梵行は、無果ではありません。さあ、貴君たちは、すなわち、わたしにたいする意の憤怒ですが、それを捨棄しなさい』と。『すなわち、貴君にたいする意の憤怒ですが、それを捨棄します。いったい、誰なのですか、〔ここに〕有る、貴君は』と。『はてさて、貴君たちは、「アシタ・デーヴァラ聖賢」〔という名を〕聞いたことがありますか』と。『君よ、そのとおりです(聞きました)』〔と〕。『君よ、それは、まさに、〔ここに〕有る、わたしです』と。アッサラーヤナよ、そこで、まさに、七者の婆羅門の聖賢たちは、アシタ・デーヴァラ聖賢を敬拝するために近づいて行きました。
411. アッサラーヤナよ、そこで、まさに、アシタ・デーヴァラ聖賢は、七者の婆羅門の聖賢たちに、こう言いました。『君よ、このことを、わたしは聞きました。「どうやら、林所にある諸々の柴小屋において暮らしている、七者の婆羅門の聖賢たちに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。『婆羅門だけが、最勝の階級である。他は、下劣な階級である。婆羅門だけが、白の階級である。他は、黒の階級である。婆羅門たちだけが、清浄となる。婆羅門ならざる者たちは、さにあらず。婆羅門たちだけが、梵の、子たちであり、正嫡たちであり、口から生まれた者たちである。梵から生じる者たちであり、梵によって化作された者たちであり、梵の相続者たちである』」』と。『君よ、そのとおりです』〔と〕。
『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、生みの母が、婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない(不倫はしていない)、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。
『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、生みの母の母が、第七の祖母の代に至るまで、婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。
『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、生みの父が、女性婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、女性婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない(不倫はしていない)、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。
『また、貴君たちは知っていますか。「すなわち、生みの父の父が、第七の祖父の代に至るまで、女性婆羅門のもとにだけ赴いたのであり、女性婆羅門ならざる者のもとに〔赴いたことは〕ない、〔という、このことを〕』と。『君よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。
『また、貴君たちは知っていますか。すなわち、〔母の〕胎に、入胎が有る、〔そのとおりに〕』と。『君よ、わたしたちは知っています。すなわち、〔母の〕胎に、入胎が有る、〔そのとおりに〕。ここに、かつまた、母と父が集合するところと成り、かつまた、母が懐妊可能の者として有り、かつまた、音楽神(乾達婆:ガンダルヴァ)が現起するところと成り、このように、三つのものの集合あることから、〔母の〕胎に、入胎が有ります』と。
『また、貴君たちは知っていますか。それでは、その音楽神が、あるいは、士族であるのか、あるいは、婆羅門であるのか、あるいは、庶民であるのか、あるいは、隷民であるのか、〔という、このことを〕』と。『君よ、わたしたちは知りません。たしかに、その音楽神が、あるいは、士族であるのか、あるいは、婆羅門であるのか、あるいは、庶民であるのか、あるいは、隷民であるのか、〔という、このことを〕』と。『君よ、このように存しているとき、〔あなたたちは〕知っていますか。〔ここに〕有る、あなたたちが、誰であるのか、〔という、このことを〕』と。『君よ、このように存しているとき、〔わたしたちは〕知りません。〔ここに〕有る、わたしたちが、誰であるのか、〔という、このことを〕』と。アッサラーヤナよ、なぜなら、まさに、それらの七者の婆羅門の聖賢たちが、アシタ・デーヴァラ聖賢によって、自らの出生の論について、尋問され、審問され、査問されながら、解答できないのです。また、どうして、あなたが、今現在、わたしによって、自らの出生の論について、尋問され、審問され、査問されながら、解答できるというのでしょう。彼らにとって、師匠を有する者であるあなたは、柄杓持ちのプンナにもなりません(それ以下である)」と。
このように説かれたとき、アッサラーヤナ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
アッサラーヤナの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。
4(94). ゴータムカの経
412. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者ウデーナは、バーラーナシーに住んでいます。ケーミヤのアンバ林において。また、まさに、その時点にあって、ゴータムカ婆羅門が、バーラーナシーに到着するところと成ります──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、ケーミヤのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、尊者ウデーナは、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウデーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、歩行〔瞑想〕をしている尊者ウデーナに従って歩行しながら、このように言いました。「さて、沙門よ、『出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態に見ないがゆえに」と。
このように説かれたとき、尊者ウデーナは、歩行場から降りて、精舎に入って、設けられた坐に坐りました。まさに、ゴータムカ婆羅門もまた、歩行場から降りて、精舎に入って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ゴータムカ婆羅門に、尊者ウデーナは、こう言いました。「婆羅門よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。「また、まさに、わたしどもは、貴君ウデーナの、まさしく、この〔言葉〕を待っている者として坐りましょう。まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、前もって招かれていないのに、坐に坐るべきと思い考えましょう」と。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに、こう言いました。「さて、沙門よ、『出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態に見ないがゆえに」と。「婆羅門よ、また、まさに、それで、もし、あなたが、わたしに、承認するべきことを承認し、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するなら、また、そして、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたが〕知らずにいるとして、そこにおいて、まさしく、わたしに、『貴君ウデーナよ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするなら、このように為して〔そののち〕、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに存するでしょう」と。「まさに、わたしは、貴君ウデーナに、まさしく、そして、承認するべきことを承認するでしょうし、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するでしょう。また、そして、すなわち、貴君ウデーナの語ったことの義(意味)を、わたしが知らずにいるとして、そこにおいて、まさしく、貴君ウデーナに、『貴君ウデーナよ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするでしょう。このように為して〔そののち〕、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ」と。
413. 「婆羅門よ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、これらの四つの人たちのなかでは、どの人が、あなたの心を喜ばせますか」と。
「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、まさしく、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。
「婆羅門よ、また、何ゆえに、これらの三つの人は、あなたの心を喜ばせないのですか」と。「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する自己を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、まさしく、熱苦させることもなく、遍く苦しめることもありません。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。
414. 「婆羅門よ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。婆羅門よ、ここに、一部の衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まり、子や妻を遍く探し求め、奴隷や奴婢を遍く探し求め、田畑や地所を遍く探し求め、金や銀を遍く探し求めます。
婆羅門よ、また、ここに、一部の衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した〔衆〕としてあります。婆羅門よ、それで、この人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、ここに、あなたは、どの人を、どの衆において、多くあると等しく随観しますか。そして、すなわち、この衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まり、子や妻を遍く探し求め、奴隷や奴婢を遍く探し求め、田畑や地所を遍く探し求め、金や銀を遍く探し求めます。さらに、すなわち、この衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあります」と。
「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、わたしは、この人を、すなわち、この衆が、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあるなら、この衆において、多くあると等しく随観するでしょう」と。
「婆羅門よ、また、まさに、まさしく、今や、あなたによって語られました。わたしたちは、このように了知します。『さて、沙門よ、「出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない」〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態に見ないがゆえに』」と。「貴君ウデーナよ、たしかに、この言葉は、〔あなたの〕資助を有するものとして、わたしによって語られました。〔しかしながら、今は〕『出家は、法(正義)にかなうものとして存在する』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、貴君ウデーナは、このように認めてください。そして、すなわち、これらの、貴君ウデーナによって、簡略〔の観点〕によって説かれ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、四つの人があります。どうか、貴君ウデーナは、わたしに、これらの四つの人を、詳細〔の観点〕によって区分したまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに答えました。尊者ウデーナは、こう言いました。
415. 「婆羅門よ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。婆羅門よ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
416. 婆羅門よ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として、捕鳥者として、捕鹿者として、猟師として、漁夫として、盗賊として、刑罰執行者として、屠牛者として、獄卒として、〔世に〕有ります──また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。婆羅門よ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
417. 婆羅門よ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り、あるいは、婆羅門の大家として〔世に〕有ります。彼は、城市の東に新しい公会堂を作らせて、髪と髭を剃り落として、粗い鹿皮を着衣して、酥と油で身体を塗って、鹿の角で背をこすりながら、王妃と共に、さらに、婆羅門の司祭と〔共に〕、新しい公会堂に入り行きます。彼は、そこにおいて、何もない地面のうえに草を敷いた臥床を営みます。同色の子牛をもつ一頭の雌牛の、すなわち、一つの乳房に有る乳で、それによって、王は〔身を〕保ち行き、すなわち、第二の乳房に有る乳で、それによって、王妃は〔身を〕保ち行き、すなわち、第三の乳房に有る乳で、それによって、婆羅門の司祭は〔身を〕保ち行き、すなわち、第四の乳房に有る乳で、それによって、祭火に捧げ、残りによって、子牛は〔身を〕保ち行きます。彼は、このように言います。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの馬たちを殺すのだ』『祭柱を義(目的)として、これだけの木々を切るのだ』『祭坐を義(目的)として、これだけの吉祥草を刈るのだ』と。すなわち、また、彼の、あるいは、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。婆羅門よ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。
418. 婆羅門よ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。
与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。
梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。
虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。
中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。
粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。
雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。
彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。
彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。
419. 彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。
彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。
彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕(疑)を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。
彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔繊細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。
420. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。
婆羅門よ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。
421. このように説かれたとき、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに、こう言いました。「貴君ウデーナよ、すばらしいことです。貴君ウデーナよ、すばらしいことです。貴君ウデーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ウデーナによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ウデーナのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ウデーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。「婆羅門よ、まさに、帰依所として、わたしのもとに赴いてはいけません。あなたは、帰依所として、まさしく、彼のもとに、世尊のもとに赴きたまえ──すなわち、わたしが、帰依所として、〔彼のもとに〕赴いた〔そのとおりに〕」と。「貴君ウデーナよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマは住んでおられますか」と。「婆羅門よ、まさに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、〔すでにもう〕完全なる涅槃に到達したのです」と。
「貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、十ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)において耳にするなら、わたしどもは、十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、二十ヨージャナにおいて……三十ヨージャナにおいて……四十ヨージャナにおいて……五十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、五十ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、百ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、百ヨージャナであろうが赴くでしょう──彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。
貴君ウデーナよ、そして、彼が、貴君ゴータマが完全なる涅槃に到達した、そののちは、たとえ、完全なる涅槃に到達したとして、わたしどもは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ウデーナは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。貴君ウデーナよ、そして、わたしに、毎日、常なる手当を施す、アンガ〔国〕の王が存在します。その〔手当〕から、わたしは、貴君ウデーナに、一つの常なる手当を施します」と。「婆羅門よ、また、アンガ〔国〕の王は、あなたに、毎日、常なる手当として、どのようなものを施すのですか」と。「貴君ウデーナよ、五百カハーパナ(貨幣の単位)です」と。「婆羅門よ、まさに、わたしたちにとって、金や銀を納受することは、適確ならず」と。「それで、もし、貴君ウデーナにとって、それが適確でないなら、貴君ウデーナのために、精舎を作らせましょう」と。「婆羅門よ、それで、もし、まさに、わたしのために、あなたが、精舎を作らせることを欲するなら、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせたまえ」と。「わたしは、貴君ウデーナの、このことによってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、貴君ウデーナは、わたしに、僧団における布施について勧めます。貴君ウデーナよ、〔まさに〕この、わたしは、そして、この常なる手当によって、さらに、他の常なる手当によって、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせましょう」と。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、そして、この常なる手当によって、さらに、他の常なる手当によって、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせました。それは、今現在、「ゴータムキー」と説かれる、ということです。
ゴータムカの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(95). チャンキンの経
422. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、その時点にあって、チャンキン婆羅門が、オーパーサーダ〔村〕に居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。まさに、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでいる。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
423. そこで、まさに、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって赴きます。天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに。また、まさに、その時点にあって、チャンキン婆羅門は、高楼の上にあり、昼の休憩に入っています。まさに、チャンキン婆羅門は、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちが、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって、天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに、そこへと近づいて行きつつあるのを見ました。見て、侍従に告げました。「君よ、侍従よ、いったい、まさに、どうして、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって赴くのですか。天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに」と。「君よ、チャンキンよ、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが存在します。コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでいます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これらの者たちは、彼と、貴君ゴータマと、会見するために赴きます」と。「君よ、侍従よ、まさに、それでは、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちに、このように説きなさい。『君よ、チャンキン婆羅門は、このように言っています。「まさに、貴君たちは、待ちたまえ。チャンキン婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう」』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、その侍従は答えて、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちに、こう言いました。「君よ、チャンキン婆羅門は、このように言っています。『まさに、貴君たちは、待ちたまえ。チャンキン婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう』」と。
424. また、まさに、その時点にあって、種々なる国々の婆羅門たちのなかの五百ばかりの婆羅門たちが、オーパーサーダ〔村〕に滞在しています──何らかの或る用事があって。まさに、それらの婆羅門たちは、「どうやら、チャンキン婆羅門が、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くらしい」と耳にしました。そこで、まさに、それらの婆羅門たちは、チャンキン婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、チャンキン婆羅門に、こう言いました。「本当に、まさに、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのですか」と。「君よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのだ』」と。「貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行ってはいけません。貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。まさに、貴君チャンキンは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。すなわち、また、貴君チャンキンが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。まさに、貴君チャンキンは、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、戒ある者であり、増大した戒ある者であり、増大した戒を具備した者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠であり、三百の学生たちに、諸々の呪文を享受します。……略……。まさに、貴君チャンキンは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、婆羅門のポッカラサーティにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、オーパーサーダ〔村〕に居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。すなわち、また、貴君チャンキンが、オーパーサーダ〔村〕に居住しているなら、有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に──コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に──この支分によってもまた、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります」と。
425. このように説かれたとき、チャンキン婆羅門は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、それでは、わたしの〔言葉を〕もまた聞きたまえ。すなわち、わたしたちこそが、彼と、沙門ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしく、まさしく、しかし、彼が、貴君ゴータマが、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくないとおりに。君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、地に在るものも、かつまた、宙に立脚するものも、多大なる金貨と黄金を捨棄して、出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、家から家なきへと出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、形姿麗しく、美しく、澄浄で、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、戒ある者であり、聖なる戒ある者であり、善なる戒ある者であり、善なる戒を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が滅尽した者であり、軽薄さが離れ去った者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、行為論者であり、業作論者であり、梵の資質ある人々による悪しき尊奉なき者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、混物なしの士族の家系である、高貴な家から出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、大いなる財産があり、大いなる財物がある、富裕な家から出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマに等しく尋ねるために、国土を超えて、地方を超えて、〔人々が〕やってきます。……略……。君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、幾千の天神たちが懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備した者です。……略……。君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、帰依所として、沙門ゴータマのもとに、婆羅門のポッカラサーティが、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。すなわち、まさに、それらの、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、わたしたちの村落地にやってくるなら、彼らは、わたしたちにとって、客として有ります。また、まさに、客たちは、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマが、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。沙門ゴータマは、わたしたちにとって、客です。また、まさに、客は、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。君よ、まさに、わたしは、これだけのものを、彼の、貴君ゴータマの、諸々の栄誉として遍く学得します。しかしながら、まさに、彼は、貴君ゴータマは、これだけの栄誉ある者ではありません。まさに、彼は、貴君ゴータマは、無量の栄誉ある者です。たとえ、一つ一つの支分であれ、それを具備しているなら、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります」と。「君よ、まさに、それでは、わたしたちは、まさしく、全ての者たちが、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのです」と。
426. そこで、まさに、チャンキン婆羅門は、大いなる婆羅門の衆徒と共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。また、まさに、その時点にあって、世尊は、それぞれの年長の婆羅門たちを相手に、それぞれの何らかの記憶されるべき話を交わして、坐った状態でいます。また、まさに、その時点にあって、カーパティカという名の学徒が、衆において、坐った状態でいます──年少にして、頭を剃った、生まれてから齢十六年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。彼は、それぞれの年長の婆羅門たちが、世尊を相手に話し合っていると、中途中途で議論に割り込みます。そこで、まさに、世尊は、カーパティカ学徒を指弾します。「尊者バーラドヴァージャ(カーパティカ学徒)は、それぞれの年長の婆羅門たちが話し合っているなら、中途中途で議論に割り込んではいけません。尊者バーラドヴァージャは、議論の終了を待ちなさい」と。このように説かれたとき、チャンキン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、カーパティカ学徒を指弾してはいけません。かつまた、カーパティカ学徒は、良家の子息です。かつまた、カーパティカ学徒は、多聞の者です。かつまた、カーパティカ学徒は、賢者です。かつまた、カーパティカ学徒は、善き言葉遣いの者です。そして、カーパティカ学徒は、貴君ゴータマを相手に、この言葉について応対することができます」と。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、たしかに、カーパティカ学徒には、三つのヴェーダの〔聖典の〕言葉について、議論が有るであろう。まさに、そのように、彼を、婆羅門たちは等しく尊んでいる」と。そこで、まさに、カーパティカ学徒に、この〔思い〕が有りました。「すなわち、わたしに、沙門ゴータマが、眼を近しく集中するであろうとき、そこで、わたしは、沙門ゴータマに、問いを尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、カーパティカ学徒の心の思索を了知して、カーパティカ学徒のいるところに、そこへと眼を近しく集中しました。
427. そこで、まさに、カーパティカ学徒に、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしに、沙門ゴータマは集中する。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマに、問いを尋ねるのだ」と。そこで、まさに、カーパティカ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、婆羅門たちの、伝聞と相伝による、典籍の成就による、過去の呪文の句があり、そして、そこにおいて、婆羅門たちは、一定して結論に至ります。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』〔と〕、このように言った、〔そのような婆羅門は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』〔と〕、このように言った、〔そのような師匠は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。それらの者たちもまた、このように言いましたか。『わたしたちは、このことを知り、わたしたちは、このことを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「バーラドヴァージャよ、かくのごとく、まさに、誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。それらの者たちもまた、このように言いませんでした。『わたしたちは、このことを知り、わたしたちは、このことを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。
428. バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、次から次へと集結した盲者の列が、前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ないように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、思うに、盲者の列の如きものとして、婆羅門たちの語ったことは成就します。前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ません。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。まさに、このように存しているとき、婆羅門たちには、根元なきものとして、信が成就するのではないですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、信だけから奉侍するのではありません。聴聞からもまた、ここにおいて、婆羅門たちは奉侍します」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、過去において、まさに、あなたは、信に赴きました。今や、聴聞を説きます。バーラドヴァージャよ、五つのものがあります。まさに、これらの、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。信であり、嗜好であり、聴聞であり、行相による思索(考証)であり、見解の納得による受認(受諾)です。バーラドヴァージャよ、まさに、これらの五つの、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)があります。バーラドヴァージャよ、そして、また、まさしく、善く信じられたものが有るとして、しかしながら、それは、空虚で虚妄で虚偽なるものと成ります。もし、また、善く信じられたものではなく有るなら、そして、それは、事実で真実で他ならざるものと成ります。バーラドヴァージャよ、そして、また、まさしく、善く嗜好されたものが有るとして……略……まさしく、善く聴聞されたものが有るとして……略……まさしく、善く思索されたものが有るとして……略……まさしく、善く納得されたものが有るとして、しかしながら、それは、空虚で虚妄で虚偽なるものと成ります。もし、また、善く納得されたものではなく有るなら、そして、それは、事実で真実で他ならざるものと成ります。バーラドヴァージャよ、真理の守護者である識者たる人によって、ここにおいて、一定して結論に至るに十分なるものはありません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
429. 「貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の守護と成り、どのようなことから、真理を守護するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の守護を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、もし、また、信が、人に有るとして、『このように、わたしに信がある』と、かくのごとく説いているなら、真理を守護します。まさしく、しかし、それだけでは、一定して結論に至りません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。バーラドヴァージャよ、もし、また、嗜好が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、聴聞が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、行相による思索が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、見解の納得による受認が、人に有るとして、『このように、わたしに見解の納得による受認がある』と、かくのごとく説いているなら、真理を守護します。まさしく、しかし、それだけでは、一定して結論に至りません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の守護と成り、このことから、真理を守護します。そして、このことから、わたしたちは、真理の守護を報知します。まさしく、しかし、それだけでは、真理の随覚と成りません」と。
430. 「貴君ゴータマよ、このことから、真理の守護と成り、このことから、真理を守護します。そして、このことから、わたしたちは、真理の守護を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の随覚と成り、どのようなことから、真理を随覚するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の随覚を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者に、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、三つの諸々の法(性質)について正しく調査します──諸々の貪るべき法(事象)について、諸々の怒るべき法(事象)について、諸々の迷うべき法(事象)について。『いったい、まさに、そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)が、この尊者には存在するのか──そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の貪るべき法が、この尊者には存在するのか〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)が、まさに、この尊者には存在しない──そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の貪るべき法が、まさに、この尊者には存在しない〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある──すなわち、貪らない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、貪る者によって説示し易きものにあらず』と。
431. すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の貪るべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そののち、より以上に、彼のことを正しく調査します──諸々の怒るべき法(事象)について。『いったい、まさに、そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)が、この尊者には存在するのか──そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の怒るべき法が、この尊者には存在するのか〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)が、まさに、この尊者には存在しない──そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の怒るべき法が、まさに、この尊者には存在しない〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある──すなわち、怒らない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、怒る者によって説示し易きものにあらず』と。
432. すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の怒るべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そののち、より以上に、彼のことを正しく調査します──諸々の迷うべき法(事象)について。『いったい、まさに、そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が、この尊者には存在するのか──そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の迷うべき法が、この尊者には存在するのか〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が、まさに、この尊者には存在しない──そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の迷うべき法が、まさに、この尊者には存在しない〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある──すなわち、迷わない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、迷う者によって説示し易きものにあらず』と。
すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の迷うべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そこで、彼にたいする信を確たるものとします。信が生じた者は、〔彼のもとに〕近づいて行きます。近づいて行きながら、奉侍します。奉侍しながら、耳を傾けます。耳を傾けた者は、法(教え)を聞きます。聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します。諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します。義(意味)を近しく注視していると、諸々の法(教え)が、納得があり受認されます。法(教え)の納得と受認が存しているとき、欲〔の思い〕(意欲)が生じます。欲〔の思い〕が生じた者は、邁進します。邁進して、〔考量し〕比較します。〔考量し〕比較して、精励します。自己を精励する者として存しながら、まさしく、そして、身体によって、最高の真理(勝義)を実証し、さらに、智慧によって理解して、それを見ます。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の随覚と成り、このことから、真理を随覚します。そして、このことから、わたしたちは、真理の随覚を報知します。まさしく、しかし、それだけでは、真理の獲得と成りません」と。
433. 「貴君ゴータマよ、このことから、真理の随覚と成り、このことから、真理を随覚します。そして、このことから、わたしたちは、真理の随覚を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の獲得と成り、どのようなことから、真理を獲得するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、それらの(※)法(教え)を、習修し、修め、多く為すことは、真理の獲得と成ります。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の獲得と成り、このことから、真理を獲得します。そして、このことから、わたしたちは、真理の獲得を報知します」と。
※ テキストには Tesaṃye とあるが、PTS版により Tesaṃ yeva と読む。
434. 「貴君ゴータマよ、このことから、真理の獲得と成り、このことから、真理を獲得します。そして、このことから、わたしたちは、真理の獲得を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、精励は、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、精励することがないなら、真理を獲得することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、精励することから、それゆえに、真理を獲得します。それゆえに、精励は、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、精励のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、精励のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、比較(考量)は、精励のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、比較することがないなら、精励することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、比較することから、それゆえに、精励します。それゆえに、比較は、精励のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、比較のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、比較のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、邁進は、比較のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、邁進することがないなら、比較することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、邁進することから、それゆえに、比較します。それゆえに、邁進は、比較のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、邁進のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、邁進のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、欲〔の思い〕(意欲)は、邁進のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、欲〔の思い〕が生じることがないなら、邁進することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、欲〔の思い〕が生じることから、それゆえに、邁進します。それゆえに、欲〔の思い〕は、邁進のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)の納得と受認は、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、これらの法(性質)が、納得があり受認されないなら、欲〔の思い〕が生じることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、諸々の法(性質)が、納得があり受認されることから、それゆえに、欲〔の思い〕が生じます。それゆえに、法(教え)の納得と受認は、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、義(意味)を近しく注視することは、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、義(意味)を近しく注視することがないなら、諸々の法(性質)が、納得があり受認されることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、義(意味)を近しく注視することから、それゆえに、諸々の法(性質)が、納得があり受認されます。それゆえに、義(意味)を近しく注視することは、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)を保持することは、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、法(教え)を保持することがないなら、義(意味)を近しく注視することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、法(教え)を保持することから、それゆえに、義(意味)を近しく注視します。それゆえに、法(教え)を保持することは、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)を聞くことは、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、法(教え)を聞くことが生じることがないなら、法(教え)を保持することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、法(教え)を聞くことが生じることから、それゆえに、法(教え)を保持します。それゆえに、法(教え)を聞くことは、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、耳を傾けることは、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、耳を傾けることがないなら、法(教え)を聞くことも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、耳を傾けることから、それゆえに、法(教え)を聞きます。それゆえに、耳を傾けることは、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、奉侍することは、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、奉侍することがないなら、耳を傾けることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、奉侍することから、それゆえに、耳を傾けます。それゆえに、奉侍することは、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、近づいて行くことは、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、近づいて行くことがないなら、奉侍することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、近づいて行くことから、それゆえに、奉侍します。それゆえに、近づいて行くことは、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、信は、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、信が生じることがないなら、近づいて行くことも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、信が生じることから、それゆえに、近づいて行きます。それゆえに、信は、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。
435. 「わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の守護を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の守護を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の随覚を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の随覚を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の獲得を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものを尋ねました。貴君ゴータマは、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものを説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。そして、まさしく、それぞれのものを、わたしたちが、貴君ゴータマに尋ねたなら、まさしく、それぞれのものを、貴君ゴータマは説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、過去において、このように知ります。『さてまた、坊主頭の似非沙門たちが何だというのだ。卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちである。さてまた、法(真理)の了知者たちが何だというのだ』と。貴君ゴータマは、まさに、わたしに、沙門たちにたいする沙門への愛情を、沙門たちにたいする沙門への浄信を、沙門たちにたいする沙門への尊重を、〔それらを〕生じさせました。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
チャンキンの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
6(96). エースカーリンの経
436. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、エースカーリン婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、エースカーリン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、四つの世話を報知します。婆羅門のための世話を報知し、士族のための世話を報知し、庶民のための世話を報知し、隷民のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この婆羅門のための世話を報知します。『あるいは、婆羅門は、婆羅門を世話するべきであり、あるいは、士族は、婆羅門を世話するべきであり、あるいは、庶民は、婆羅門を世話するべきであり、あるいは、隷民は、婆羅門を世話するべきである』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この婆羅門のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この士族のための世話を報知します。『あるいは、士族は、士族を世話するべきであり、あるいは、庶民は、士族を世話するべきであり、あるいは、隷民は、士族を世話するべきである』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この士族のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この庶民のための世話を報知します。『あるいは、庶民は、庶民を世話するべきであり、あるいは、隷民は、庶民を世話するべきである』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この庶民のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この隷民のための世話を報知します。『隷民だけが、隷民を世話するべきである。また、どうして、他の者が、隷民を世話するというのだろう』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この隷民のための世話を報知します。貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、これらの四つの世話を報知します。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。
437. 「婆羅門よ、また、どうなのでしょう、婆羅門たちの、この〔言葉〕を、一切の世〔の人々〕は承認しますか。『これらの四つの世話を報知したまえ(制定せよ)』〔という、この言葉を〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「婆羅門よ、それは、たとえば、また、人が、貧しく、所有なく、富裕ならざる者としてあり、彼が欲しないのに、〔人々が〕『さて、人士たる者よ、あなたは、この肉を喰うべきであり、かつまた、代価を支払うべきである』と、肉片を押し付けるようなものです。婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、婆羅門たちは、それらの沙門や婆羅門たちの受諾なくして、そこで、また、しかしながら、これらの四つの世話を報知します。婆羅門よ、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者ではない』と説きません。婆羅門よ、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きません。婆羅門よ、しかしながら、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きます。婆羅門よ、もし、また、士族に、〔人々が〕このように尋ねるなら、『あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、ここにおいて、誰を世話するべきですか』と。婆羅門よ、まさに、士族もまた、正しく説き明かしつつ、このように説き明かすでしょう。『まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、わたしは、彼を世話するべきではありません。しかしながら、まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、わたしは、彼を世話するべきです』と。婆羅門よ、もし、また、婆羅門に……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民に……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民に、〔人々が〕このように尋ねるなら、『あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、あるいは、その者を、あなたが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、ここにおいて、誰を世話するべきですか』と。婆羅門よ、まさに、隷民もまた、正しく説き明かしつつ、このように説き明かすでしょう。『まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より勝ることではなく、より悪しきことが存するなら、わたしは、彼を世話するべきではありません。しかしながら、まさに、その者を、わたしが世話していると、世話を因として、より悪しきことではなく、より勝ることが存するなら、わたしは、彼を世話するべきです』と。婆羅門よ、わたしは、高貴なる家系あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、高貴なる家系あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、秀逸なる階級あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、秀逸なる階級あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、秀逸なる財物あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、秀逸なる財物あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。
438. 婆羅門よ、なぜなら、高貴なる家系ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り、与えられていないものを取る者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有り、虚偽を説く者として〔世に〕有り、中傷の言葉ある者として〔世に〕有り、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有り、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、憎悪している心の者として〔世に〕有り、誤った見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、高貴なる家系あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、なぜなら、高貴なる家系ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、高貴なる家系あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。
439. 婆羅門よ、なぜなら、秀逸なる階級ある者もまた……略……。婆羅門よ、なぜなら、秀逸なる財物ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有り……略……誤った見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、秀逸なる財物あることによって、『より勝るものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、なぜなら、秀逸なる財物ある者もまた、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有るからです。それゆえに、秀逸なる財物あることによって、『より悪しきものを部有する者である』と説きません。婆羅門よ、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者である』と説きません。婆羅門よ、また、わたしは、全ての者を、『世話されるべき者ではない』と説きません。婆羅門よ、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、信が増大し、戒が増大し、所聞が増大し、施捨が増大し、智慧が増大するなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きます。婆羅門よ、まさに、その者を、彼が世話していると、世話を因として、信が増大せず、戒が増大せず、所聞が増大せず、施捨が増大せず、智慧が増大しないなら、わたしは、彼を、『世話されるべき者である』と説きません」と。
440. このように説かれたとき、エースカーリン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、四つの財産を報知します。婆羅門の財産を報知し、士族の財産を報知し、庶民の財産を報知し、隷民の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この婆羅門の財産を、行乞の行と報知します。また、そして、婆羅門が、財産である行乞の行を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この婆羅門の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この士族の財産を、弓と矢束と報知します。また、そして、士族が、財産である弓と矢束を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この士族の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この庶民の財産を、耕作と牧畜と報知します。また、そして、庶民が、財産である耕作と牧畜を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この庶民の財産を報知します。貴君ゴータマよ、そこで、婆羅門たちは、この隷民の財産を、鎌と天秤棒と報知します。また、そして、隷民が、財産である鎌と天秤棒を軽んじているなら、『与えられていないものを取っている牛飼いのように、義務を為さない者と成る』と。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、この隷民の財産を報知します。貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、これらの四つの財産を報知します。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。
441. 「婆羅門よ、また、どうなのでしょう、婆羅門たちの、この〔言葉〕を、一切の世〔の人々〕は承認しますか。『これらの四つの財産を報知したまえ(制定せよ)』〔という、この言葉を〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「婆羅門よ、それは、たとえば、また、人が、貧しく、所有なく、富裕ならざる者としてあり、彼が欲しないのに、〔人々が〕『さて、人士たる者よ、あなたは、この肉を喰うべきであり、かつまた、代価を支払うべきである』と、肉片を押し付けるようなものです。婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、婆羅門たちは、それらの沙門や婆羅門たちの受諾なくして、そこで、また、しかしながら、これらの四つの財産を報知します。婆羅門よ、まさに、わたしは、人の財産を、聖なるものにして世〔俗〕を超える法(教え)と報知します。また、まさに、彼が、過去からの母と父の家系の伝統を隨念していると、まさしく、それぞれにおいて、自己状態(個我的あり方・身体)の発現が有るなら、まさしく、それぞれによって、名称に至ります。もし、士族の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『士族』という名称に至ります。もし、婆羅門の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『婆羅門』という名称に至ります。もし、庶民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『庶民』という名称に至ります。もし、隷民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『隷民』という名称に至ります。婆羅門よ、それは、たとえば、また、まさしく、それぞれの縁を縁として、火が燃えるなら、まさしく、それぞれによって、名称に至るようなものです。もし、薪を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『薪の火』という名称に至ります。もし、木片を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『木片の火』という名称に至ります。もし、草を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『草の火』という名称に至ります。もし、牛糞を縁として、火が燃えるなら、まさしく、『牛糞の火』という名称に至ります。婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、人の財産を、聖なるものにして世〔俗〕を超える法(教え)と報知します。また、まさに、彼が、過去からの母と父の家系の伝統を隨念していると、まさしく、それぞれにおいて、自己状態の発現が有るなら、まさしく、それぞれによって、名称に至ります。
もし、士族の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『士族』という名称に至ります。もし、婆羅門の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『婆羅門』という名称に至ります。もし、庶民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『庶民』という名称に至ります。もし、隷民の家において、自己状態の発現が有るなら、まさしく、『隷民』という名称に至ります。
婆羅門よ、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
婆羅門よ、もし、また、庶民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
442. 婆羅門よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき(※)慈愛の心を修めることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、この地域において、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修めることができます」と。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
※ テキストには abyābajjhaṃ とあるが、PTS版により abyāpajjhaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。
婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
443. 婆羅門よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、婆羅門だけが、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができるのですか──士族ではなく、庶民ではなく、奴隷ではなく」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、士族もまた、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、庶民もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、奴隷もまた……略……。貴君ゴータマよ、まさに、全てもろともに、四つの階級の者たちは、洗具と洗粉を携えて、川に赴いて、塵と埃を流し去ることができます」と。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。
444. 婆羅門よ、それを、どう思いますか。ここに、即位灌頂した王たる士族が、種々なる出生の者たちのなかの百者の人を集めるとします。『諸君よ、さあ、それらの者たちが、そこにおいて、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちであるなら、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ。諸君よ、さあ、いっぽう、それらの者たちが、そこにおいて、チャンダーラ(賎民)の家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサ(非人)の家から生起した者たちであるなら、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、火を起こしたまえ、熱を出現させたまえ』と。
婆羅門よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、すなわち、このように、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、いったい、まさに、それだけが、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができるのでしょうか。いっぽう、すなわち、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火は、出現させられた熱は、それは、まさしく、そして、炎がなく、かつまた、色艶がなく、さらに、光り輝くものではない、火として存するのでしょうか、そして、その火によって、火の用事を為すことができないのでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、まさに、すなわち、また、その、士族の家から〔生起し〕、婆羅門の家から〔生起し〕、王の家から生起した者たちによって、あるいは、サーカ〔樹〕の、あるいは、サーラ〔樹〕の、あるいは、サララ〔樹〕の、あるいは、チャンダナ〔樹〕の、あるいは、パドゥマカ〔樹〕の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう。すなわち、また、その、チャンダーラの家から〔生起し〕、山民の家から〔生起し〕、下賤の家から〔生起し〕、車工の家から〔生起し〕、プックサの家から生起した者たちによって、あるいは、犬桶の、あるいは、豚桶の、あるいは、洗濯桶の、あるいは、エーランダ〔樹〕の小枝の、擦り木を携えて、起こされた火も、出現させられた熱も、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょうし、そして、その火によって、火の用事を為すことができるでしょう」と。
「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、もし、また、士族の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り……略……正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります。婆羅門よ、もし、また、婆羅門の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、庶民の家から……略……。婆羅門よ、もし、また、隷民の家から、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)に由来して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有り、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有り、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、憎悪していない心の者として〔世に〕有り、正しい見解ある者として〔世に〕有り、正理と善なる法(真理)の達成者と成ります」と。
このように説かれたとき、エースカーリン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
エースカーリンの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(97). ダナンジャーニの経
445. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者サーリプッタは、ダッキナーギリにおいて、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、ラージャガハにおいて雨期を過ごし、ダッキナーギリのあるところに、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘に、尊者サーリプッタは、こう言いました。「友よ、どうでしょう、世尊は、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、世尊は、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「友よ、また、どうでしょう、比丘の僧団は、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、比丘の僧団もまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「友よ、〔ラージャガハの〕タンドゥラパーリ門において、ここ(タンドゥラパーリ門)において、ダナンジャーニという名の婆羅門が存在します。友よ、どうでしょう、ダナンジャーニ婆羅門は、そして、無病ですか、さらに、活力がありますか」と。「友よ、ダナンジャーニ婆羅門もまた、まさに、そして、無病であり、さらに、活力があります」と。「友よ、また、どうでしょう、ダナンジャーニ婆羅門は、怠りなくありますか」と。「友よ、また、どうして、ダナンジャーニ婆羅門が、怠りなくあるというのでしょう。友よ、ダナンジャーニ婆羅門は、王に依拠して、婆羅門や家長たちを強奪し、婆羅門や家長たちに依拠して、王を強奪します。すなわち、また、彼の、信ある家から迎え入れた信ある妻ですが、彼女もまた命を終え、彼には、他の、信なき家から迎え入れた信なき妻がいます」と。「友よ、まさに、聞き難いことを、〔わたしたちは〕聞きました。友よ、まさに、聞き難いことを、〔わたしたちは〕聞きました。すなわち、わたしたちは、ダナンジャーニ婆羅門が怠りあるのを聞きました。そして、まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、いつであれ、いつかは、ダナンジャーニ婆羅門と共に集いあつまることになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるでしょう」と。
446. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ダッキナーギリにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、ラージャガハのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ラージャガハのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ラージャガハに住んでいます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、ダナンジャーニ婆羅門は、城市の外にある牛小屋において、牛たちを搾乳させています。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ラージャガハにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、ダナンジャーニ婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタに、こう言いました。「貴君サーリプッタよ、これから、牛乳をお飲みなされよ。それまでに、食事の時と成るでしょう」と。「婆羅門よ、十分です。わたしよって、今日、食事についての為すべきことは〔すでに〕為されました。わたしには、何某の木の根元において、昼の休息が有るでしょう。そこにおいて、〔あなたが〕やってこられるなら」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタに答えました。そこで、まさに、朝食を食べたダナンジャーニ婆羅門は、食事のあと、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ダナンジャーニ婆羅門に、尊者サーリプッタは、こう言いました。「ダナンジャーニよ、どうでしょう、怠りなくありますか」と。「貴君サーリプッタよ、また、どうして、わたしたちが、怠りなくあるというのでしょう。すなわち、わたしたちには、養うべき母と父があり、養うべき子と妻があり、養うべき奴隷と労夫たちがあり、朋友や僚友たちのために為すべきこととして、朋友や僚友のための用事があり、親族や血縁たちのために為すべきこととして、親族や血縁のための用事があり、客たちのために為すべきこととして、客のための用事があり、過去の亡者(祖先)たちのために為すべきこととして、過去の亡者のための用事があり、天神たちのために為すべきこととして、天神のための用事があり、王のために為すべきこととして、王のための用事があり、喜悦させ増進させるべきものとして、この身体もまたあるのです」と。
447. 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、母と父は、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、子と妻は、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、奴隷と労夫と下僕たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、朋友や僚友たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、朋友や僚友たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、朋友や僚友たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、親族や血縁たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、客たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、過去の亡者たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、天神たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、王は、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、わたしたちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。ここに、一部の者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存し、〔まさに〕その、この者を、法(正義)ならざる行ないと不正の行ないを因として、地獄の番人たちが、地獄に引きずり込むとします。いったい、まさに、彼は、〔承諾を〕得るでしょうか。『わたしは、まさに、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。わたしを、地獄に引きずり込んではいけません』と。また、あるいは、彼のために、他者たちは、〔承諾を〕得るでしょうか。『この者は、まさに、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕有りました。彼を、地獄に引きずり込んではいけません』」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、このことは、さにあらず。そこで、まさに、地獄の番人たちは、まさしく、泣き叫んでいる彼を、地獄に投げ入れるでしょう」と。
448. 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、母と父を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、母と父を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、母と父を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、母と父を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、子と妻を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、子と妻を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、子と妻を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、子と妻を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、奴隷と労夫と下僕を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、奴隷と労夫と下僕を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、朋友や幕僚たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、朋友や幕僚たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、親族や血縁たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、親族や血縁たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、客たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、客たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、客たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、客たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、過去の亡者たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、過去の亡者たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、天神たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、天神たちを因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、天神たちを因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、天神たちを養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、王を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、王を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、王を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、王を養うことも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです。
ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。あるいは、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、あるいは、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)ならざる行ないある者として、不正の行ないある者として、〔世に〕存するなら、それは、より勝っていることはなく、しかしながら、まさに、その者が、身体の、喜悦を因として、増進を因として、法(正義)の行ないある者として、正義の行ないある者として、〔世に〕存するなら、まさしく、それは、ここにおいて、より勝っています。貴君サーリプッタよ、諸々の法(正義)ならざる行ないと不正の行ないより、諸々の法(正義)の行ないと正義の行ないは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、まさに、他者たちを因とする諸々の法(正義)にかなう生業が存在し、それらによって、まさしく、そして、身体を喜悦させ増進させることも、かつまた、悪しき行為を為さないことも、さらに、功徳と〔実践の〕道を実践することも、できるのです」と。
449. そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、他時にあって、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有りました。そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、或るひとりの下僕に告げました。「さて、下僕よ、さあ、あなたは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。そして、尊者サーリプッタのおられるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝しなさい。『尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』と。さらに、このように説きなさい。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その下僕は、ダナンジャーニ婆羅門に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」と。そして、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その下僕は、尊者サーリプッタに、こう言いました。「尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、尊者サーリプッタの〔両の〕足に、頭をもって敬拝します。さらに、このように説きます。『尊き方よ、どうか、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。まさに、尊者サーリプッタは、沈黙の状態をもって承諾しました。
450. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、着衣して鉢と衣料を取って、ダナンジャーニ婆羅門の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門に、こう言いました。「ダナンジャーニよ、どうでしょう、あなたは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、諸々の苦痛の感受は、回復しますか、進行しませんか。それらの回復は、覚知されますか──進行ではなく」と。「貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体内の風)が、頭を撹乱します(※)。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、頭において、諸々の旺盛なる頭痛があります。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく。貴君サーリプッタよ、それは、たとえば、また、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、貴君サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、身体において、旺盛なる燃焼があります。貴君サーリプッタよ、わたしは、息災ではなく、順調ではありません。わたしの、諸々の激しい苦痛の感受は、進行し、回復しません。それらの進行が覚知されます──回復ではなく」と。
※ テキストには ca ūhananti とあるが、PTS版により ca を削除する。
451. 「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、地獄ですか、あるいは、畜生の胎ですか」と。「貴君サーリプッタよ、地獄より、畜生の胎は、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、畜生の胎ですか、あるいは、餓鬼の境域ですか」と。「貴君サーリプッタよ、畜生の胎より、餓鬼の境域は、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、餓鬼の境域ですか、あるいは、人間たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、餓鬼の境域より、人間たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、人間たちですか、あるいは、四大王天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、人間たちより、四大王天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、四大王天〔の神々〕たちですか、あるいは、三十三天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、四大王天〔の神々〕たちより、三十三天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、三十三天〔の神々〕たちですか、あるいは、耶摩天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、三十三天〔の神々〕たちより、耶摩天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、耶摩天〔の神々〕たちですか、あるいは、兜率天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、耶摩天〔の神々〕たちより、兜率天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、兜率天〔の神々〕たちですか、あるいは、化楽天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、兜率天〔の神々〕たちより、化楽天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、化楽天〔の神々〕たちですか、あるいは、他化自在天〔の神々〕たちですか」と。「貴君サーリプッタよ、化楽天〔の神々〕たちより、他化自在天〔の神々〕たちは、より勝っています」と。「ダナンジャーニよ、それを、どう思いますか。どちらが、より勝っていますか──あるいは、他化自在天〔の神々〕たちですか、あるいは、梵の世ですか」と。「『梵の世』と、貴君サーリプッタは言いました。『梵の世』と、貴君サーリプッタは言いました」と。
そこで、まさに、尊者サーリプッタに、この〔思い〕が有りました。「まさに、これらの婆羅門たちは、梵の世を信念した者たちである。それなら、さあ、わたしは、ダナンジャーニ婆羅門に、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示するのだ」と。「ダナンジャーニよ、あなたに、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。「ダナンジャーニよ、では、どのようなものが、梵〔天〕たちとの共住のための道なのですか。ダナンジャーニよ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。ダナンジャーニよ、これは、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です。
452. ダナンジャーニよ、さらに、また、他に、比丘が、慈悲〔の思い〕(悲)を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。ダナンジャーニよ、これは、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です」と。「貴君サーリプッタよ、まさに、それでは、わたしの言葉でもって、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝してください。『尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します』」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門を、より上なる為すべきことが存しているのに、劣った梵の世において確立させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、ダナンジャーニ婆羅門は、尊者サーリプッタが立ち去ったすぐあと、命を終えました。そして、梵の世に再生しました。
453. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、この者は、サーリプッタは、ダナンジャーニ婆羅門を、より上なる為すべきことが存しているのに、劣った梵の世において確立させて、坐から立ち上がって、立ち去ったのです」と。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ダナンジャーニ婆羅門は、病苦の者であり、苦しみの者であり、激しい病の者です。彼は、世尊の〔両の〕足に、頭をもって敬拝します」と。「サーリプッタよ、また、どうして、ダナンジャーニ婆羅門を、より上なる為すべきことが存しているのに、劣った梵の世において確立させて、坐から立ち上がって、立ち去ったのですか」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有りました。『まさに、これらの婆羅門たちは、梵の世を信念した者たちである。それなら、さあ、わたしは、ダナンジャーニ婆羅門に、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示するのだ』」と。「サーリプッタよ、ダナンジャーニ婆羅門は、そして、命を終えたのであり、さらに、梵の世に再生したのです」と。
ダナンジャーニの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(98). ヴァーセッタの経
454. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された婆羅門の大家たちが、イッチャーナンガラ〔村〕に滞在しています。それは、すなわち、この、チャンキン婆羅門であり、タールッカ婆羅門であり、ポッカラサーティ婆羅門であり、ジャーヌッソーニ婆羅門であり、トーデイヤ婆羅門であり、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された婆羅門の大家たちです。そこで、まさに、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちが、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつあると、この合間の議論が起こりました。「君よ、どのように、〔人は〕婆羅門と成るのですか」と。バーラドヴァージャ学徒は、このように言いました。「君よ、すなわち、まさに、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないことから、君よ、このことから、まさに、〔人は〕婆羅門と成ります」と。ヴァーセッタ学徒は、このように言いました。「君よ、すなわち、まさに、そして、戒ある者として、さらに、掟を成就した者として、〔世に〕有ることから、君よ、このことから、まさに、〔人は〕婆羅門と成ります」と。まさに、バーラドヴァージャ学徒は、ヴァーセッタ学徒を説得することが、まさしく、できず、いっぽう、ヴァーセッタ学徒も、バーラドヴァージャ学徒を説得することができませんでした。そこで、まさに、ヴァーセッタ学徒は、バーラドヴァージャ学徒に告げました。「貴君バーラドヴァージャよ、まさに、この方が、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでいます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。貴君バーラドヴァージャよ、行きましょう。沙門ゴータマのいるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、沙門ゴータマに、この義(意味)を尋ねるのです。すなわち、沙門ゴータマが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「君よ、わかりました」と、まさに、バーラドヴァージャ学徒は、ヴァーセッタ学徒に答えました。
455. そこで、まさに、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァーセッタ学徒は、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔ヴァーセッタ学徒が尋ねた〕「わたしたちは、両者ともに、〔他者も〕承認し〔自らも〕明言する、三つのヴェーダ〔の精通者〕たちとして存しています。わたしは、ポッカラサーティの、この者(バーラドヴァージャ)は、タールッカの、学徒です。
すなわち、三つのヴェーダについて告げられたなら、そこにあって、〔わたしたちは〕全一の者たちとして存しています。〔わたしたちは〕詩句に通じ文典に精通する者たちとして存しています。〔聖典の〕詠唱については師匠と相同の者たちとして。ゴータマよ、〔まさに〕その、わたしたちに、出生の論について論争が存在します。
『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕、バーラドヴァージャは、かくのごとく語ります。しかしながら、わたしは、『行為(業)によって、〔婆羅門と成る〕』〔と〕説きます。眼ある方よ、このように知ってください。
〔まさに〕その、わたしたちは、両者ともに、互いに他を説得することができません。『正覚者』として〔世に〕聞こえた貴君に尋ねるために、〔わたしたちは〕やってきました。
すなわち、滅〔の期間〕を過ぎた月(満月)に向かって、人々が合掌の者たちとなり、敬拝しながら礼拝するように、このように(※)、世において、〔人々は〕ゴータマを〔礼拝します〕。
※ PTS版ならびにVRI版『スッタニパータ』により evaṃ を補う。
世に生起した眼たる方に、ゴータマに、わたしたちは尋ねます。出生によって、婆羅門と成るのですか、それとも、行為によって、〔婆羅門と〕成るのですか。知らずにいるわたしたちに説いてください──すなわち、〔わたしたちが〕婆羅門のことを知りうるように」と。
456. かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ヴァーセッタよ、〔まさに〕その、あなたたちに、わたしは説き明かしましょう──順次に、真実のとおりに、命あるものたちの出生の区分を。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります(それらは相異なるものとして存している)。
草や木々のことをもまた、知りなさい──そして、また、〔それらは、自ら〕明言しないとして。それらには、出生によって作られる徴表(種による差異)があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。
それから、蛆虫たちのことを、さらに、蟋蟀(こおろぎ)たちのことを、蟻たちに至るまで、〔それらのことをもまた、知りなさい〕。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。
四足のものたちのことをもまた、知りなさい──そして、小さいものたちのことを、大きいものたちのことを。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。
足が腹で、胸で赴き、長い背をもつ〔蛇〕たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。
それから、水にあり、水を餌場とする、魚たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。
それから、翼があり、翼を乗物として、宙を赴く〔鳥〕たちのことをもまた、知りなさい。それらには、出生によって作られる徴表があります。まさに、互いに他とするものとして、諸々の出生はあります。
すなわち、これらの出生において、出生によって作られる徴表が個々にあるように、このように個々にある、出生によって作られる徴表は、人間たちにおいては存在しません。
諸々の髪になく、頭になく、〔両の〕耳になく、〔両の〕眼になく、口になく、鼻になく、〔両の〕唇になく、あるいは、〔両の〕眉に〔なく〕──
首になく、〔両の〕肩になく、腹になく、背になく、尻になく、胸になく、陰部になく、淫事(性行為のあり方)になく──
〔両の〕手になく、〔両の〕足になく、〔両手の〕指になく、あるいは、〔両手の〕爪に〔なく〕、〔両足の〕脛になく、〔両足の〕膝になく、色になく、あるいは、声に〔なく〕、出生によって作られる徴表は、まさしく、〔人間たちにおいては〕ありません。すなわち、他の諸々の出生におけるようには。
457. そして、〔他の〕諸々の肉体において、各自それぞれに〔見出される〕、この〔徴表〕は、人間たちにおいては見出されません。そして、〔各自それぞれの〕区別は、人間たちにおいては、呼称によって呼ばれます。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、牧畜に依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、耕作者であり、婆羅門ではありません。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、多々なる技能によって生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、技術者であり、婆羅門ではありません。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、売り買いに依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、商人であり、婆羅門ではありません。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、他者に仕えることで生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、下僕であり、婆羅門ではありません。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、与えられていないものに依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──この者は、盗賊であり、婆羅門ではありません。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、弓術に依拠して生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──軍人であり、婆羅門ではありません。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、司祭職によって生きるなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──彼は、祭祀者であり、婆羅門ではありません。
まさに、彼が誰であれ、人間たちのなかで、村を〔領し〕、さらに、国土を領するなら──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──この者は、王であり、婆羅門ではありません。
そして、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から発生する者を、『婆羅門』と説きません。それで、もし、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、『ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)』という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
458. 一切の束縛するものを断ち切って、彼が、まさに、思い悩まないなら、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
紐(憤怒)を断ち切って、そして、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、手綱(煩悩)と共に、綱(六十二の邪見)を〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
罵倒を、さらに、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、忍耐の力ある者であり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
忿激せず、掟ある者を、〔渇愛の〕増長なく、戒ある者を、〔自己が〕調御され、最後の肉体ある者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐の先にある芥子〔粒〕のように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼が、まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろした者であり、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
深遠なる智慧ある者にして思慮ある者を、道と道ならざるものを熟知する者を、最上の義(目的)を獲得した者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
在家の者たちと交わらず、さらに、同様に、家なき者たちと〔交わらず〕、家なくして行く、少なき欲求の者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
動くものたちにたいし、さらに、動かないものたちにたいし、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼の、そして、貪欲(貪)が、かつまた、憤怒(瞋)が、〔我想の〕思量(慢)が、さらに、〔虚栄の〕偽装(覆)が、芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように打ち倒されたなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
459. 粗野ではなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を発し、それによって、誰であれ、傷つけないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
そして、彼が、あるいは、長いものも、あるいは、短いものも、微細なるものや粗大なるものも、浄美なるものや浄美ならざるものも、世において、与えられていないものを、〔何ひとつ〕取らないなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
この世において、さらに、他〔の世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見出されないなら、願求なき者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼に、諸々の〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)が見出されず、〔一切を〕了知して、懐疑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃)を獲得した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼が、この〔世において〕、そして、善を、さらに、悪を、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、清浄の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
月のように垢(汚れ)を離れ、〔心が〕清浄で澄浄で混濁なき者を、愉悦〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼が、この障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行ったなら、〔激流を〕超え彼岸に至った瞑想者であり、動揺なく懐疑なき者であり、〔何も〕執取せずして涅槃に到達した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼が、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を打破して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
人間の束縛を捨棄して、天の束縛を超え行ったなら、一切の束縛による束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
そして、歓楽と不満〔の両者〕を捨棄して、〔心が〕清涼と成った者を、〔生存の〕依り所(依存の対象)なき者を、一切の世を征服する勇者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼が、有情たちの死滅を、さらに、再生を、全てにわたり知ったなら、〔一切に〕執着なき者であり、善き至達者たる覚者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
天〔の神々〕たちが、音楽神や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
かつまた、過去に、かつまた、未来に、かつまた、〔その〕中間(現在)において、彼のものが、何も存在しないなら、無一物の者であり、無執取の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
〔勇猛果敢な〕雄牛たる最も優れた勇者を、〔一切の〕征圧者たる偉大なる聖賢を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を──わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
彼が、過去(前世)の居住を知ったなら、かつまた、〔人々が死後に赴く〕天上と悪所を〔あるがままに〕見るなら、そこで、生の滅尽に至り得た者であるなら、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
460. まさに、世において、この呼称があり、想い描かれたものとして、名前や氏姓があります。慣習(世俗:社会通念)から生まれ来たものであり、その場その場において想い描かれたものです。
無知なる者たちには、長夜にわたり悪しき習いとなった、悪しき見解があります。無知なる者たちは、わたしたちに説きます──『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕。
出生によって、婆羅門と成るのではありません。出生によって、婆羅門ならざる者と成るのではありません。行為によって、婆羅門と成ります。行為によって、婆羅門ならざる者と成ります。
行為によって、耕作者と成ります。行為によって、技術者と成ります。行為によって、商人と成ります。行為によって、下僕と成ります。
行為によって、また、盗賊と成ります。行為によって、また、軍人と〔成ります〕。行為によって、祭祀者と成ります。行為によって、また、王と成ります。
このように、このことはあり、事実のとおりに、賢者たちは、行為を見ます──縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を見る者たちとして、行為の報い(業報)を熟知する者たちとして。
行為によって、世は転起します。行為によって、人々は転起します。進み行く車の楔(車軸に車輪を固定する部品)のように、行為という結縛あるのが有情たちです。
苦行によって、梵行によって、自制によって、さらに、調御によって──これによって、婆羅門と成ります。これは、最上の婆羅門〔の境地〕です。
三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)を成就した者が、〔心が〕寂静となった者が、さらなる生存が滅尽した者が──ヴァーセッタよ、このように知りなさい──識者たちにとっては、梵〔天〕であり、帝釈〔天〕なのです」と。
461. このように説かれたとき、ヴァーセッタとバーラドヴァージャの学徒たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。
ヴァーセッタの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(99). スバの経
462. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、トーデイヤの子であるスバ学徒が、サーヴァッティーに滞在しています──或るどこかの家長の住居地において、何らかの或る用事があって。そこで、まさに、その家長の住居地において滞在する、トーデイヤの子であるスバ学徒は、その家長に、こう言いました。「家長よ、このことを、わたしは聞きました。『サーヴァッティーは、阿羅漢たちによって遠離されず』と。いったい、まさに、今日、どのような、あるいは、沙門に、あるいは、婆羅門に、〔わたしたちは〕奉侍できるでしょうか」と。「尊き方よ、この方が、世尊が、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。尊き方よ、彼に、世尊に、〔あなたは〕奉侍されたまえ」と。そこで、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、その家長に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、このように言います。『在家者は、正理と善なる法(真理)の達成者と成る。出家者は、正理と善なる法(真理)の達成者と成らない』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。
463. 「学徒よ、まさに、わたしは、ここにおいて、区分して説く者であり、わたしは、ここにおいて、一定して説く者ではありません。学徒よ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、誤った実践を褒め称えません。学徒よ、なぜなら、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、誤った実践者であるなら、誤った実践を事因とし因として、正理と善なる法(真理)の達成者と成らないからです。学徒よ、わたしは、あるいは、在家者の、あるいは、出家者の、正しい実践を褒め称えます。学徒よ、なぜなら、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、正しい実践者であるなら、正しい実践を事因とし因として、正理と善なる法(真理)の達成者と成るからです」と。
「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、このように言います。『この、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、大いなる果と成る。この、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、出家における行為の拠点は、少なき果と成る』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。
「学徒よ、まさに、わたしは、ここにおいてもまた、区分して説く者であり、わたしは、ここにおいて、一定して説く者ではありません。学徒よ、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点が存在し、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点が存在し、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、行為の拠点が存在し、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、行為の拠点が存在し、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るのですか。学徒よ、耕作は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るのですか。学徒よ、まさしく、耕作は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るのですか。学徒よ、商売は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、では、どのようなものが、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るのですか。学徒よ、まさしく、商売は、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。
464. 学徒よ、それは、たとえば、また、耕作が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、それは、たとえば、また、まさしく、耕作が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります。学徒よ、それは、たとえば、また、商売が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕衰滅しているなら、少なき果と成ります。学徒よ、それは、たとえば、また、まさしく、商売が、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、行為の拠点であり、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、家の居住における行為の拠点は、〔それが〕成就しているなら、大いなる果と成ります」と。
「貴君ゴータマよ、婆羅門たちは、五つの法(性質)を報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために」と。「学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──それで、もし、あなたにとって、負担でないなら、どうか、それらの五つの法(性質)を、この衆において語りたまえ」と。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしにとって、負担ではありません。そこにおいて存し、坐っているのが、あるいは、貴君であり、あるいは、貴君の形態ある〔そのような者〕であるなら」と。「学徒よ、まさに、それでは、語りたまえ」と。「貴君ゴータマよ、真理を、まさに、婆羅門たちは、第一の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、苦行を、まさに、婆羅門たちは、第二の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、梵行を、まさに、婆羅門たちは、第三の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、学識を、まさに、婆羅門たちは、第四の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、施捨を、まさに、婆羅門たちは、第五の法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。貴君ゴータマよ、まさに、婆羅門たちは、これらの五つの法(性質)を報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。
465. 「学徒よ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』〔と〕、このように言った、〔そのような婆羅門は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「学徒よ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』〔と〕、このように言った、〔そのような婆羅門は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「学徒よ、また、どうでしょう、すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。それらの者たちもまた、このように言いましたか。『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「学徒よ、かくのごとく、まさに、誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。誰であれ、存在しません──婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら──それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグですが──それらの者たちの、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、今現在、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちは、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します。それらの者たちもまた、このように言いませんでした。『わたしは、これらの五つの法(性質)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔それらの〕報いを知らせる』と。
学徒よ、それは、たとえば、また、次から次へと集結した盲者の列が、前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ないように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、思うに、盲者の列の如きものとして、婆羅門たちの語ったことは成就します。前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ません」と。
466. このように説かれたとき、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊によって、盲者の列の喩えによって、説かれながら、激情し、わが意を得ない者となり、まさしく、世尊を責めながら、まさしく、世尊を誹りながら、まさしく、世尊に、「沙門ゴータマは、悪しき者と成るであろう」と説きながら、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、このように言います。『いっぽう、まさしく、このように、ここに、一部の沙門や婆羅門たちは、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を明言する。彼らが語った、このことは、まさしく、笑い話として成就し、まさしく、名ばかりのものとして成就し、まさしく、空虚なるものとして成就し、まさしく、虚妄なるものとして成就する。まさに、どうして、まさに、人間たる生類が、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知るというのだろう、あるいは、見るというのだろう、あるいは、実証するというのだろう、かくのごとき、この状況は見出されない』」と。
「学徒よ、また、どうでしょう、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、まさしく、全ての沙門や婆羅門たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するのですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、自らのプンニカー奴婢の心さえも、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しません。また、どうして、まさしく、全ての沙門や婆羅門たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知するというのでしょう」と。
「学徒よ、それは、たとえば、また、生まれながらの盲者である人がいるとします。諸々の黒白の形態を見ず、諸々の青の形態を見ず、諸々の黄の形態を見ず、諸々の赤の形態を見ず、諸々の深紅の形態を見ず、平坦と平坦ならざるものを見ず、諸々の星の形態を見ず、月と日を見ません。彼が、このように説くとします。『諸々の黒白の形態は存在しない。諸々の黒白の形態を見る者は存在しない。諸々の青の形態は存在しない。諸々の青の形態を見る者は存在しない。諸々の黄の形態は存在しない。諸々の黄の形態を見る者は存在しない。諸々の赤の形態は存在しない。諸々の赤の形態を見る者は存在しない。諸々の深紅の形態は存在しない。諸々の深紅の形態を見る者は存在しない。平坦と平坦ならざるものは存在しない。平坦と平坦ならざるものを見る者は存在しない。諸々の星の形態は存在しない。諸々の星の形態を見る者は存在しない。月と日は存在しない。月と日を見る者は存在しない。わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ない。それゆえに、それは存在しない』と。学徒よ、いったい、まさに、彼は、正しく説きつつ説くでしょうか」と。
「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。諸々の黒白の形態は存在します。諸々の黒白の形態を見る者は存在します。諸々の青の形態は存在します。諸々の青の形態を見る者は存在します。諸々の黄の形態は存在します。諸々の黄の形態を見る者は存在します。諸々の赤の形態は存在します。諸々の赤の形態を見る者は存在します。諸々の深紅の形態は存在します。諸々の深紅の形態を見る者は存在します。平坦と平坦ならざるものは存在します。平坦と平坦ならざるものを見る者は存在します。諸々の星の形態は存在します。諸々の星の形態を見る者は存在します。月と日は存在します。月と日を見る者は存在します。『わたしは、このことを知らず、わたしは、このことを見ない。それゆえに、それは存在しない』と〔説くなら〕、貴君ゴータマよ、まさに、彼は、正しく説きつつ説かないでしょう」と。
「学徒よ、まさしく、このように、まさに、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、盲者であり、眼なき者です。彼が、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。
467. 学徒よ、それを、どう思いますか。すなわち、それらの、コーサラ〔国〕の婆羅門の大家たちがいます。それは、すなわち、この、チャンキン婆羅門であり、タールッカ婆羅門であり、ポッカラサーティ婆羅門であり、ジャーヌッソーニ婆羅門であり、そして、あなたの父であるトーデイヤ婆羅門です。あるいは、すなわち、彼らが、〔共通の〕慣習(一般常識)によって言葉を語るなら、あるいは、すなわち、〔共通の〕慣習によらずして〔言葉を語るなら〕、それらのなかでは、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、〔共通の〕慣習によって、です」〔と〕。
「あるいは、すなわち、彼らが、考量して言葉を語るなら、あるいは、すなわち、考量せずして〔言葉を語るなら〕、それらのなかでは、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、考量して、です」〔と〕。
「あるいは、すなわち、彼らが、審慮して言葉を語るなら、あるいは、すなわち、審慮せずして〔言葉を語るなら〕、それらのなかでは、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、審慮して、です」〔と〕。
「あるいは、すなわち、彼らが、義(利益)を伴った言葉を語るなら、あるいは、すなわち、義(利益)を伴わない〔言葉を語るなら〕、それらのなかでは、どちらが、より勝っていますか」と。「貴君ゴータマよ、義(利益)を伴ったもの、です」〔と〕。
「学徒よ、それを、どう思いますか。すなわち、このように存しているなら、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャによって、〔共通の〕慣習によって言葉が語られましたか、〔共通の〕慣習によらずして〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、〔共通の〕慣習によらずして、です」〔と〕。
「考量して言葉が語られましたか、考量せずして〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、考量せずして、です」〔と〕。
「審慮して言葉が語られましたか、審慮せずして〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、審慮せずして、です」〔と〕。
「義(利益)を伴った言葉が語られましたか、義(利益)を伴わない〔言葉が語られましたか〕」と。「貴君ゴータマよ、義(利益)を伴わないもの、です」〔と〕。
「学徒よ、五つのものがあります。まさに、これらの〔修行の〕妨害(五蓋)です。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)であり、疑惑〔の思い〕(疑)です。学徒よ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害があります。学徒よ、まさに、これらの五つの〔修行の〕妨害によって、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、覆われ、妨害され、覆い被され、覆い包まれています。彼が、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。
468. 学徒よ、五つのものがあります。まさに、これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。学徒よ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。学徒よ、まさに、これらの五つの欲望の属性によって、スバガ林〔の住者〕たる婆羅門のポッカラサーティ・オーパマンニャは、拘束された者として、耽溺する者として、固執する者として、危険を見ない者として、出離の智慧なき者として、遍く受益します。彼が、まさに、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕を、あるいは、知ることになり、あるいは、見ることになり、あるいは、実証することになる、という、この状況は見出されません。
学徒よ、それを、どう思いますか。あるいは、すなわち、草や薪という燃料を縁として、火を燃やすなら、あるいは、すなわち、草や薪という燃料を放棄し、火を燃やすなら、いったい、まさに、どちらが、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するのでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、それで、もし、草や薪という燃料を放棄し、火を燃やす、その状況があるなら、それは、まさしく、そして、炎があり、かつまた、色艶があり、さらに、光り輝くものである、火として存するでしょう」と。「学徒よ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、草や薪という燃料を放棄し、火を燃やすことです──神通ある者より他には。学徒よ、それは、たとえば、また、草や薪という燃料を縁として、火が燃えるように、学徒よ、その喩えのように、わたしは、この喜悦を説きます──すなわち、五つの欲望の属性を縁として、この喜悦はあります。学徒よ、それは、たとえば、また、草や薪という燃料を放棄し、火が燃えるように、学徒よ、その喩えのように、わたしは、この喜悦を説きます──すなわち、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、この喜悦です。
学徒よ、では、どのようなものが、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、喜悦なのですか。学徒よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。学徒よ、これもまた、まさに、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、喜悦です。まさに、学徒よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。学徒よ、これもまた、まさに、まさしく、五つの欲望より他にある、諸々の善ならざる法(性質)より他にある、喜悦です。
469. 学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(真理・苦行・梵行・学識・施捨)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──婆羅門たちは、どのようなものを、ここにおいて、より大いなる果となる法(性質)と報知するのですか──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(真理・苦行・梵行・学識・施捨)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──婆羅門たちは、施捨を、ここにおいて、より大いなる果となる法(性質)と報知します──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために」と。
「学徒よ、それを、どう思いますか(※)。ここに、或るひとりの婆羅門に、設営中の大いなる祭祀が存するとします。そこで、二者の婆羅門がやってくるとします。『某名の婆羅門の大いなる祭祀を受領するのだ』と。そこで、一者の婆羅門に、このような〔思いが〕存します。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきである。他の婆羅門は、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきではない』と。学徒よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の婆羅門が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ることです。その婆羅門が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ないことです。『他の婆羅門が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得る。わたしは、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、わが意を得ない者と〔成ります〕。学徒よ、また、婆羅門たちは、この者(祭祀者)の報いを、どのようなものと報知しますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、このように布施を施しません。『これによって、他者は、激情した者と成れ、わが意を得ない者と〔成れ〕』と。そこで、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、まさしく、慈しみ〔の思い〕に属するものとして、布施を施します」と。「学徒よ、このように存しているとき、まさに、婆羅門たちには、この第六の功徳を作り為すための基盤が有ります。すなわち、この、慈しみ〔の思い〕に属するものが」と。「貴君ゴータマよ、このように存しているとき、まさに、婆羅門たちには、この第六の功徳を作り為すための基盤が有ります。すなわち、この、慈しみ〔の思い〕に属するものが」と。
※ テキストには ki maññasiとあるが、PTS版により kiṃ maññasi と読む。
「学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──あなたは、これらの五つの法(性質)を、どこにおいて、多くあると等しく随観しますか。あるいは、在家者たちにおいてですか、あるいは、出家者たちにおいてですか」と。「貴君ゴータマよ、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──わたしは、これらの五つの法(性質)を、出家者たちにおいて、多くあると等しく随観し、在家者たちにおいて、少なくあると〔等しく随観します〕。貴君ゴータマよ、なぜなら、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、在家者は、常に連続して真理を説く者と成らないからです。貴君ゴータマよ、また、まさに、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、出家者は、常に連続して真理を説く者と成るからです。貴君ゴータマよ、なぜなら、大いなる義(目的)があり、大いなる義務があり、大いなる労務があり、大いなる勉励がある、在家者は、常に連続して苦行者と成らないからです。……梵行者と成らないからです。……読誦多き者と成らないからです。……施捨多き者と成らないからです。貴君ゴータマよ、また、まさに、少なき義(目的)の、少なき義務の、少なき労務の、少なき勉励の、出家者は、常に連続して苦行者と成るからです。……梵行者と成るからです。……読誦多き者と成るからです。……施捨多き者と成るからです。貴君ゴータマよ、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──わたしは、これらの五つの法(性質)を、出家者たちにおいて、多くあると等しく随観し、在家者たちにおいて、少なくあると〔等しく随観します〕」と。
「学徒よ、すなわち、婆羅門たちが、それらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──わたしは、これら〔の五つの法〕を、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき(※)心があり、それを修めるための〔必需品と説きます〕。学徒よ、ここに、比丘が、真理を説く者として〔世に〕有ります。彼は、『真理を説く者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。すなわち、その、善なるものを伴った歓喜があるなら、わたしは、これを、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき心があり、それを修めるための〔必需品と説きます〕。学徒よ、ここに、比丘が、苦行者として〔世に〕有ります。……梵行者として〔世に〕有ります。……読誦(学識)多き者として〔世に〕有ります。……施捨多き者として〔世に〕有ります。彼は、『真理を説く者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。すなわち、その、善なるものを伴った歓喜があるなら、わたしは、これを、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき心があり、それを修めるための〔必需品と説きます〕」と。
※ テキストには abyābajjhaṃ とあるが、PTS版により abyāpajjhaṃ と読む。以下の平行箇所も同様。
470. このように説かれたとき、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、梵〔天〕たちとの共住のための道を知る』」と。
「学徒よ、それを、どう思いますか。ここから近くに、ナラカーラ村はありますか。ここから遠くではなく、ナラカーラ村はありますか」と。
「貴君ゴータマよ、そのとおりです。ここから近くに、ナラカーラ村はあります。ここから遠くではなく、ナラカーラ村はあります」と。
「学徒よ、それを、どう思いますか。ここに、ナラカーラ村において生まれ育った人が存するとします。〔まさに〕その、この者に、〔彼が〕ナラカーラ村から出たなら、まさしく、ただちに、〔人々が〕ナラカーラ村への道を尋ねるとします。学徒よ、いったい、まさに、その人に──ナラカーラ村への道を尋ねられた、ナラカーラ村において生まれ育った者に──あるいは、遅滞することがありますか、あるいは、困惑することがありますか」と。
「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「それは、何を因とするのですか」〔と〕。
「貴君ゴータマよ、なぜなら、この人は、ナラカーラ村において生まれ育った者であり、彼には、まさしく、全てのナラカーラ村への道が、善く知られているからです」と。「学徒よ、さてまた、まさに、その人に──ナラカーラ村への道を尋ねられた、ナラカーラ村において生まれ育った者に──あるいは、遅滞することが、あるいは、困惑することが、存するとして、まさしく、しかし、あるいは、梵の世を、あるいは、梵の世に至る〔実践の〕道を、尋ねられた如来には、あるいは、遅滞することも、あるいは、困惑することも、ありません。学徒よ、そして、梵〔天〕を、かつまた、梵の世を、さらに、梵の世に至る〔実践の〕道を、わたしは覚知します。かつまた、実践したそのとおりに、梵の世に再生した者として、そして、それを、〔わたしは〕覚知します」と。
「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示する』と。どうか、わたしに、貴君ゴータマは、梵〔天〕たちとの共住のための道を説示したまえ」と。
「学徒よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
471. 「学徒よ、では、どのようなものが、梵〔天〕たちとの共住のための道なのですか。学徒よ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。学徒よ、このように、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、学徒よ、まさしく、このように、まさに……略……広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。学徒よ、このように、まさに、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。学徒よ、これもまた、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です。学徒よ、さらに、また、他に、比丘が、慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。学徒よ、このように、まさに、放捨という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、学徒よ、まさしく、このように、まさに……略……広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。学徒よ、このように、まさに、放捨という〔止寂の〕心による解脱が修められたとき、すなわち、量あるものとして為された行為は、それは、そこに残存せず、それは、そこに残留しません。学徒よ、これもまた、まさに、梵〔天〕たちとの共住のための道です」と。
472. このように説かれたとき、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。貴君ゴータマよ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「学徒よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。そこで、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。
また、まさに、その時点にあって、ジャーヌッソーニ婆羅門が、純白の騾馬車でサーヴァッティーから出発します──昼のさなかに。まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、トーデイヤの子であるスバ学徒が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、トーデイヤの子であるスバ学徒に、こう言いました。「さて、いったい、どこから、貴君バーラドヴァージャ(スバ学徒)はお帰りかな──昼のさなかに」と。「君よ、まさに、この、沙門ゴータマの現前から、まさに、わたしは帰るところです」と。「貴君バーラドヴァージャは、それを、どう思いますか──沙門ゴータマの智慧と聡慧を。賢者と思いますか」と。「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るというのでしょう。沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るであろう、その者は、まちがいなく、彼もまた、まさしく、そのような者として〔世に〕存しているのです」と。「まさに、貴君バーラドヴァージャは、盛大なる賞賛をもって、沙門ゴータマを賞賛します」と。「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマを賞賛するというのでしょう。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、賞賛される者によって賞賛される者であり、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者です。君よ、そして、すなわち、婆羅門たちが、これらの五つの法(性質)を報知するとして──功徳を作り為すために、善なるものを達成するために──沙門ゴータマは、これら〔の五つの法〕を、心のための必需品と説きます。すなわち、この、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき心があり、それを修めるための〔必需品と説きます〕」と。
このように説かれたとき、ジャーヌッソーニ婆羅門は、純白の騾馬車から降りて、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、感興〔の言葉〕を唱えました。「コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の利得がある。コーサラ〔国〕のパセーナディ王には、諸々の善く得られた利得がある。すなわち、〔彼の〕領土において、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられるのだ」と。
スバの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(100). サンガーラヴァの経
473. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでおられます。また、まさに、その時点にあって、ダナンジャーニーという名の女性婆羅門が、チャンチャリカッパに滞在しています。かつまた、覚者にたいし、かつまた、法(教え)にたいし、かつまた、僧団にたいし、大いに浄信した者です。そこで、まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は躓いて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕」と。
また、まさに、その時点にあって、サンガーラヴァという名の学徒が、チャンチャリカッパに滞在しています。語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。まさに、サンガーラヴァ学徒は、ダナンジャーニー女性婆羅門が、このような言葉を語っているのを耳にしました。耳にして、ダナンジャーニー女性婆羅門に、こう言いました。「この者は、ダナンジャーニー女性婆羅門は、まさしく、堕落している。この者は、ダナンジャーニー女性婆羅門は、まさしく、破滅している。三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちが見出されるのに、そこで、また、そして、彼の、坊主頭の似非沙門の、栄誉を語るとは」と。「親愛なる者よ、幸顔なる者よ、また、まさに、あなたは、彼の、世尊の、戒と智慧を知らないのですか。親愛なる者よ、幸顔なる者よ、それで、もし、あなたが、彼の、世尊の、戒と智慧を知るなら、親愛なる者よ、幸顔なる者よ、あなたは、彼を、世尊を、罵倒するべき者と、口撃するべき者と、思い考えないでしょう」と。「尊女よ、まさに、それでは、すなわち、沙門ゴータマが、チャンチャリカッパに到着するところと成るとき、そこで、わたしに告げるように」と。「幸顔なる者よ、わかりました」と、まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は、サンガーラヴァ学徒に答えました。
そこで、まさに、世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、チャンチャリカッパのあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、チャンチャリカッパに住んでおられます。トーデイヤ婆羅門たちのアンバ林において。まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は、「どうやら、世尊が、チャンチャリカッパに到着し、チャンチャリカッパに住んでおられるらしい。トーデイヤ婆羅門たちのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、ダナンジャーニー女性婆羅門は、サンガーラヴァ学徒のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、サンガーラヴァ学徒に、こう言いました。「親愛なる者よ、幸顔なる者よ、この方が、彼が、世尊が、チャンチャリカッパに到着し、チャンチャリカッパに住んでおられます。トーデイヤ婆羅門たちのアンバ林において。親愛なる者よ、幸顔なる者よ、今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と
474. 「尊女よ、わかりました」と、まさに、サンガーラヴァ学徒は、ダナンジャーニー女性婆羅門に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サンガーラヴァ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさに、或る沙門や婆羅門たちが存在し、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。貴君ゴータマよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言するなら、貴君ゴータマは、どのような者として、彼らのなかにありますか」と。「バーラドヴァージャ(サンガーラヴァ学徒)よ、まさに、わたしは、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言している者たちにもまた、相違があることを説きます。バーラドヴァージャよ、或る沙門や婆羅門たちが存在し、聴聞者たちとしてあり、彼らは、聴聞によって、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。それは、たとえば、また、三つのヴェーダ〔の精通者〕たる婆羅門たちのように。バーラドヴァージャよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在し、単に、信のみによって、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。それは、たとえば、また、考慮者たちや考察者たちのように。バーラドヴァージャよ、或る沙門や婆羅門たちが存在し、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、まさしく、自ら、法(真理)を証知して、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言します。バーラドヴァージャよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、まさしく、自ら、法(真理)を証知して、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言するなら、彼らのなかに、わたしは存在します。バーラドヴァージャよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、まさしく、自ら、法(真理)を証知して、所見の法(現世)における証知の完成と完全態に至り得た者たちとして、初等の梵行を明言するなら、彼らのなかに、わたしが存在する、そのとおりに。
475. バーラドヴァージャよ、ここに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしに、この〔思い〕が有りました。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。
バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を説き知らせました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が存在するのではない。……略……気づきが……禅定が……。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。バーラドヴァージャよ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
476. バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。バーラドヴァージャよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を説き知らせました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、ラーマだけに、気づきが存在するのではない。……略……気づきが……禅定が……。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。
バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。バーラドヴァージャよ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
477. バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、澄浄なる密林を、さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、澄浄なる密林である。さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。バーラドヴァージャよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔三つの喩え〕が。
バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水のなかに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水のなかに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、樹液を有し水気のある薪であり、また、そして、それは、水のなかに置かれているからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲せず、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第一の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第一の喩え〕が。
478. バーラドヴァージャよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第二の喩え〕が。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、たとえ、何であれ、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとして、樹液を有し水気のある薪であるからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住むも、しかしながら、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第二の喩え〕が。
479. バーラドヴァージャよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第三の喩え〕が。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、干涸び乾燥した薪であり、また、そして、それは、水から遠く離れて陸のうえに置かれているからです」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成り、善く安息されたものと〔成るなら〕、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちです。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第三の喩え〕が。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの三つの喩え〕が。
480. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅します。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
481. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体内の風)の音声は、旺盛なるものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、鍛冶屋の鞴が鳴っていると、音声が旺盛なるものと成るように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風の音声は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。
バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、まさに、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。バーラドヴァージャよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。バーラドヴァージャよ、さてまた、まさに、天神たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのだ』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。しかしながら、また、〔すぐに〕命を終える』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。〔すぐに〕命を終えるのでもまたない。阿羅漢として、沙門ゴータマはある。まさしく、阿羅漢の住ということで、その〔住〕は、このような形態のものと成る』と。
バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、食の断絶のために実践するのだ』と。バーラドヴァージャよ、そこで、まさに、天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたは、全てにわたり、食の断絶のために実践してはいけません。敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、全てにわたり、食の断絶のために実践するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしたちは、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させましょう。それによって、あなたは、〔身を〕保ち行くでしょう』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、まさしく、そして、わたしが、全てにわたり、不食を明言し、かつまた、わたしのために、これらの天神たちが、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させ、さらに、それによって、わたしが、〔身を〕保ち行くなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するであろう』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、それらの天神たちを峻拒し、『まさに、十分です』と説きます。
バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、少しずつ、食を食するのだ──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、少しずつ、食を食しました──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしが、少しずつ、食を食していると──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を──身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。バーラドヴァージャよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、そこにおいて、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、この身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。バーラドヴァージャよ、さてまた、まさに、人間たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒い』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くない。沙門ゴータマは、褐色である』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くなく、褐色でもまたない。沙門ゴータマは、黄土色の表皮をしている』と。バーラドヴァージャよ、すなわち、それほどまでに、まさに、わたしの、完全なる清浄にして完全なる清白の表皮の色艶は、打ち砕かれたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。
482. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受したとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受することになるとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。また、まさに、わたしは、この辛辣な難行によって、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しない。いったい、まさに、他の、覚りのための道が存するのだろうか』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、わたしは証知する(記憶している)──釈迦〔族〕の父の行事があるとき、涼やかなジャンブ〔樹〕の影のもとに坐り、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む者となる、〔そのときのことを〕。いったい、まさに、これは、覚りのための道として存するのだろうか』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、気づきに従い行く識知が有りました。『これこそは、覚りのための道である』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、その安楽を恐れているのだろうか。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、その安楽を恐れていない。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。
483. バーラドヴァージャよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、その安楽に到達することは、為し易きことにあらず──このように、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体によっては。それなら、さあ、わたしは、粗雑なる食を──飯や粥を──食するのだ』と。バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、粗雑なる食を──飯や粥を──食しました。また、まさに、その時点にあって、五人組の比丘たちが、わたしに奉仕する者たちとして〔世に〕有ります。『すなわち、まさに、沙門ゴータマが、法(真理)に到達するなら、それを、わたしたちに告げるであろう』と。バーラドヴァージャよ、すなわち、まさに、わたしが、粗雑なる食を──飯や粥を──食したことから、そこで、それらの五人組の比丘たちは、わたしを厭離して、立ち去りました。『沙門ゴータマは、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である』と。
バーラドヴァージャよ、それで、まさに、わたしは、粗雑なる食を食して、力をつけて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。
その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしには、夜の初夜(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
484. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしには、夜の中夜(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。バーラドヴァージャよ、まさに、わたしには、夜の後夜(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると」と。
485. このように説かれたとき、サンガーラヴァ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマには、停滞なき掟として、精励が有りました。貴君ゴータマには、正なる人士の掟として、精励が有りました──すなわち、阿羅漢にして正等覚者にある、そのとおりに。貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか」と。「バーラドヴァージャよ、このことは、わたしによって、即座に見出すところとなります。すなわち、この、優れた天〔の神々〕たちがいます」と。「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、天〔の神々〕たちは存在しますか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『バーラドヴァージャよ、このことは、わたしによって、即座に見出すところとなります。すなわち、この、優れた天〔の神々〕たちがいます』と説きます。貴君ゴータマよ、まさに、このように存しているなら、虚妄で虚偽なるものと成らないですか(明確に答えていないのでは)」と。「バーラドヴァージャよ、『天〔の神々〕たちは存在しますか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、その者が、『天〔の神々〕たちは存在します』と説くも、その者が、『わたしによって、即座に見出すところとなります』と説くも、そこで、まさに、ここにおいて、識者たる人によって、一定して結論に至るべきです。すなわち、この、天〔の神々〕たちは存在する、〔という、結論に〕」と。「また、どうして、わたしに、貴君ゴータマは、まさしく、最初に、説き明かさなかったのですか」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、このことは、世において、声高に等しく思認されていることです(言葉の慣習として誰もが口にすることである)。すなわち、この、天〔の神々〕たちは存在する、〔という、このことは〕」と。
486. このように説かれたとき、サンガーラヴァ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。尊き方よ、貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
サンガーラヴァの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
婆羅門の章は終了となり、〔以上が〕第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ブラフマーユ、セーラとアッサラーヤナ、そして、ゴータムカ婆羅門、チャンキン、エース、ダナンジャーニ、ヴァーセッタ、スバとサンガーラヴァがあり、〔章となる〕」と。
これが、〔五つの〕章のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「家長、比丘、遍歴遊行者という名の章があり、王の章、婆羅門、ということで、中なる聖教において、五つ〔の章〕がある」〔と〕。
中間の五十なるものは〔以上で〕完結となる。