小部経典(クッダカ・ニカーヤ)
8. テーラガーター聖典(長老偈経)
【目次】
因縁の詩偈
1. 一なるものの集まり(1.~)
1. 1. 第一の章(1.~)
1. 1. 1. スブーティ長老の詩偈
1. 1. 2. マハー・コッティカ長老の詩偈
1. 1. 3. カンカー・レーヴァタ長老の詩偈
1. 1. 4. プンナ長老の詩偈
1. 1. 5. ダッバ長老の詩偈
1. 1. 6. シータ・ヴァニヤ長老の詩偈
1. 1. 7. バッリヤ長老の詩偈
1. 1. 8. ヴィーラ長老の詩偈
1. 1. 9. ピリンダヴァッチャ長老の詩偈
1. 1. 10. プンナマーサ長老の詩偈
1. 2. 第二の章(11.~)
1. 2. 1. チューラ・ヴァッチャ長老の詩偈
1. 2. 2. マハー・ヴァッチャ長老の詩偈
1. 2. 3. ヴァナ・ヴァッチャ長老の詩偈
1. 2. 4. シヴァカ沙弥の詩偈
1. 2. 5. クンダダーナ長老の詩偈
1. 2. 6. ベーラッタシーサ長老の詩偈
1. 2. 7. ダーサカ長老の詩偈
1. 2. 8. シンガーラの父なる長老の詩偈
1. 2. 9. クラ長老の詩偈
1. 2. 10. アジタ長老の詩偈
1. 3. 第三の章(21.~)
1. 3. 1. ニグローダ長老の詩偈
1. 3. 2. チッタカ長老の詩偈
1. 3. 3. ゴーサーラ長老の詩偈
1. 3. 4. スガンダ長老の詩偈
1. 3. 5. ナンディヤ長老の詩偈
1. 3. 6. アバヤ長老の詩偈
1. 3. 7. ローマサカンギヤ長老の詩偈
1. 3. 8. ジャンブガーミカプッタ長老の詩偈
1. 3. 9. ハーリタ長老の詩偈
1. 3. 10. ウッティヤ長老の詩偈
1. 4. 第四の章(31.~)
1. 4. 1. ガフヴァラティーリヤ長老の詩偈
1. 4. 2. スッピヤ長老の詩偈
1. 4. 3. ソーパーカ長老の詩偈
1. 4. 4. ポーシヤ長老の詩偈
1. 4. 5. サーマンニャカーニ長老の詩偈
1. 4. 6. クマープッタ長老の詩偈
1. 4. 7. クマープッタ長老の道友たる長老の詩偈
1. 4. 8. ガヴァンパティ長老の詩偈
1. 4. 9. ティッサ長老の詩偈
1. 4. 10. ヴァッダマーナ長老の詩偈
1. 5. 第五の章(41.~)
1. 5. 1. シリヴァッダ長老の詩偈
1. 5. 2. カディラヴァニヤ長老の詩偈
1. 5. 3. スマンガラ長老の詩偈
1. 5. 4. サーヌ長老の詩偈
1. 5. 5. ラマニーヤ・ヴィハーリン長老の詩偈
1. 5. 6. サミッディ長老の詩偈
1. 5. 7. ウッジャヤ長老の詩偈
1. 5. 8. サンジャヤ長老の詩偈
1. 5. 9. ラーマネイヤカ長老の詩偈
1. 5. 10. ヴィマラ長老の詩偈
1. 6. 第六の章(51.~)
1. 6. 1. ゴーディカ長老の詩偈
1. 6. 2. スバーフ長老の詩偈
1. 6. 3. ヴァッリヤ長老の詩偈
1. 6. 4. ウッティヤ長老の詩偈
1. 6. 5. アンジャナ・ヴァニヤ長老の詩偈
1. 6. 6. クティ・ヴィハーリン長老の詩偈
1. 6. 7. 第二のクティ・ヴィハーリン長老の詩偈
1. 6. 8. ラマニーヤ・クティカ長老の詩偈
1. 6. 9. コーサラ・ヴィハーリン長老の詩偈
1. 6. 10. シーヴァリ長老の詩偈
1. 7. 第七の章(61.~)
1. 7. 1. ヴァッパ長老の詩偈
1. 7. 2. ヴァッジプッタ長老の詩偈
1. 7. 3. パッカ長老の詩偈
1. 7. 4. ヴィマラ・コンダンニャ長老の詩偈
1. 7. 5. ウッケーパカタ・ヴァッチャ長老の詩偈
1. 7. 6. メーギヤ長老の詩偈
1. 7. 7. エーカダンマ・サヴァニーヤ長老の詩偈
1. 7. 8. エークダーニヤ長老の詩偈
1. 7. 9. チャンナ長老の詩偈
1. 7. 10. プンナ長老の詩偈
1. 8. 第八の章(71.~)
1. 8. 1. ヴァッチャパーラ長老の詩偈
1. 8. 2. アートゥマ長老の詩偈
1. 8. 3. マーナヴァ長老の詩偈
1. 8. 4. スヤーマナ長老の詩偈
1. 8. 5. スサーラダ長老の詩偈
1. 8. 6. ピヤンジャハ長老の詩偈
1. 8. 7. ハッターローハプッタ長老の詩偈
1. 8. 8. メンダシラ長老の詩偈
1. 8. 9. ラッキタ長老の詩偈
1. 8. 10. ウッガ長老の詩偈
1. 9. 第九の章(81.~)
1. 9. 1. サミティグッタ長老の詩偈
1. 9. 2. カッサパ長老の詩偈
1. 9. 3. シーハ長老の詩偈
1. 9. 4. ニータ長老の詩偈
1. 9. 5. スナーガ長老の詩偈
1. 9. 6. ナーギタ長老の詩偈
1. 9. 7. パヴィッタ長老の詩偈
1. 9. 8. アッジュナ長老の詩偈
1. 9. 9. 第一のデーヴァサバ長老の詩偈
1. 9. 10. サーミダッタ長老の詩偈
1. 10. 第十の章(91.~)
1. 10. 1. パリプンナカ長老の詩偈
1. 10. 2. ヴィジャヤ長老の詩偈
1. 10. 3. エーラカ長老の詩偈
1. 10. 4. メッタジ長老の詩偈
1. 10. 5. チャックパーラ長老の詩偈
1. 10. 6. カンダスマナ長老の詩偈
1. 10. 7. ティッサ長老の詩偈
1. 10. 8. アバヤ長老の詩偈
1. 10. 9. ウッティヤ長老の詩偈
1. 10. 10. 第二のデーヴァサバ長老の詩偈
1. 11. 第十一の章(101.~)
1. 11. 1. ベーラッターニカ長老の詩偈
1. 11. 2. セートゥッチャ長老の詩偈
1. 11. 3. バンドゥラ長老の詩偈
1. 11. 4. キタカ長老の詩偈
1. 11. 5. マリタヴァンバ長老の詩偈
1. 11. 6. スヘーマンタ長老の詩偈
1. 11. 7. ダンマサヴァ長老の詩偈
1. 11. 8. ダンマサヴァの父なる長老の詩偈
1. 11. 9. サンガラッキタ長老の詩偈
1. 11. 10. ウサバ長老の詩偈
1. 12. 第十二の章(111.~)
1. 12. 1. ジェンタ長老の詩偈
1. 12. 2. ヴァッチャゴッタ長老の詩偈
1. 12. 3. ヴァナ・ヴァッチャ長老の詩偈
1. 12. 4. アディムッタ長老の詩偈
1. 12. 5. マハー・ナーマ長老の詩偈
1. 12. 6. パーラーパリヤ長老の詩偈
1. 12. 7. ヤサ長老の詩偈
1. 12. 8. キミラ長老の詩偈
1. 12. 9. ヴァッジプッタ長老の詩偈
1. 12. 10. イシダッタ長老の詩偈
2. 二なるものの集まり(121.~)
2. 1. 第一の章(121.~)
2. 1. 1. ウッタラ長老の詩偈
2. 1. 3. ヴァッリヤ長老の詩偈
2. 1. 4. ガンガーティーリヤ長老の詩偈
2. 1. 5. アジナ長老の詩偈
2. 1. 6. メーラジナ長老の詩偈
2. 1. 7. ラーダ長老の詩偈
2. 1. 8. スラーダ長老の詩偈
2. 1. 9. ゴータマ長老の詩偈
2. 1. 10. ヴァサバ長老の詩偈
2. 2. 第二の章(141.~)
2. 2. 1. マハー・チュンダ長老の詩偈
2. 2. 2. ジョーティダーサ長老の詩偈
2. 2. 3. ヘーランニャカーニ長老の詩偈
2. 2. 4. ソーマミッタ長老の詩偈
2. 2. 5. サッバミッタ長老の詩偈
2. 2. 6. マハー・カーラ長老の詩偈
2. 2. 7. ティッサ長老の詩偈
2. 2. 8. キミラ長老の詩偈
2. 2. 9. ナンダ長老の詩偈
2. 2. 10. シリマント長老の詩偈
2. 3. 第三の章(161.~)
2. 3. 1. ウッタラ長老の詩偈
2. 3. 2. バッダジ長老の詩偈
2. 3. 3. ソービタ長老の詩偈
2. 3. 4. ヴァッリヤ長老の詩偈
2. 3. 5. ヴィータソーカ長老の詩偈
2. 3. 6. プンナマーサ長老の詩偈
2. 3. 7. ナンダカ長老の詩偈
2. 3. 8. バラタ長老の詩偈
2. 3. 9. バーラドバージャ長老の詩偈
2. 3. 10. カンハディンナ長老の詩偈
2. 4. 第四の章(181.~)
2. 4. 1. ミガシラ長老の詩偈
2. 4. 2. シヴァカ長老の詩偈
2. 4. 3. ウパヴァーナ長老の詩偈
2. 4. 4. イシディンナ長老の詩偈
2. 4. 5. サンブラ・カッチャーナ長老の詩偈
2. 4. 6. ニタカ長老の詩偈
2. 4. 7. ソーナ・ポーティリヤ長老の詩偈
2. 4. 8. ニサバ長老の詩偈
2. 4. 9. ウサバ長老の詩偈
2. 4. 10. カッパタクラ長老の詩偈
2. 5. 第五の章(201.~)
2. 5. 1. クマーラ・カッサパ長老の詩偈
2. 5. 2. ダンマパーラ長老の詩偈
2. 5. 3. ブラフマーリ長老の詩偈
2. 5. 4. モーガラージャン長老の詩偈
2. 5. 5. ヴィサーカ・パンチャーラプッタ長老の詩偈
2. 5. 6. チューラカ長老の詩偈
2. 5. 7. アヌーパマ長老の詩偈
2. 5. 8. ヴァッジタ長老の詩偈
2. 5. 9. サンディタ長老の詩偈
3. 三なるものの集まり(219.~)
3. 1. 第一の章(219.~)
3. 1. 1. アンガニカ・バーラドヴァージャ長老の詩偈
3. 1. 2. パッチャヤ長老の詩偈
3. 1. 3. バークラ長老の詩偈
3. 1. 4. ダニヤ長老の詩偈
3. 1. 5. マータンガプッタ長老の詩偈
3. 1. 6. クッジャソービタ長老の詩偈
3. 1. 7. ヴァーラナ長老の詩偈
3. 1. 8. ヴァッシカ長老の詩偈
3. 1. 9. ヤソージャ長老の詩偈
3. 1. 10. サーティマッティヤ長老の詩偈
3. 1. 11. ウパーリ長老の詩偈
3. 1. 12. ウッタラパーラ長老の詩偈
3. 1. 13. アビブータ長老の詩偈
3. 1. 14. ゴータマ長老の詩偈
3. 1. 15. ハーリタ長老の詩偈
3. 1. 16. ヴィマラ長老の詩偈
4. 四なるものの集まり(267.~)
4. 1. 第一の章(267.~)
4. 1. 1. ナーガサマーラ長老の詩偈
4. 1. 2. バグ長老の詩偈
4. 1. 3. サビヤ長老の詩偈
4. 1. 4. ナンダカ長老の詩偈
4. 1. 5. ジャンブカ長老の詩偈
4. 1. 6. セーナカ長老の詩偈
4. 1. 7. サンブータ長老の詩偈
4. 1. 8. ラーフラ長老の詩偈
4. 1. 9. チャンダナ長老の詩偈
4. 1. 10. ダンミカ長老の詩偈
4. 1. 11. サッパカ長老の詩偈
4. 1. 12. ムディタ長老の詩偈
5. 五なるものの集まり(315.~)
5. 1. 第一の章(315.~)
5. 1. 1. ラージャダッタ長老の詩偈
5. 1. 2. スブータ長老の詩偈
5. 1. 3. ギリマーナンダ長老の詩偈
5. 1. 4. スマナ長老の詩偈
5. 1. 5. ヴァッダ長老の詩偈
5. 1. 6. ナディー・カッサパ長老の詩偈
5. 1. 7. ガヤー・カッサパ長老の詩偈
5. 1. 8. ヴァッカリ長老の詩偈
5. 1. 9. ヴィジタセーナ長老の詩偈
5. 1. 10. ヤサダッタ長老の詩偈
5. 1. 11. ソーナ・クティカンナ長老の詩偈
5. 1. 12. コーシヤ長老の詩偈
6. 六なるものの集まり(375.~)
6. 1. 第一の章(375.~)
6. 1. 1. ウルヴェーラ・カッサパ長老の詩偈
6. 1. 2. テーキッチャカーリン長老の詩偈
6. 1. 3. マハー・ナーガ長老の詩偈
6. 1. 4. クッラ長老の詩偈
6. 1. 5. マールキャプッタ長老の詩偈
6. 1. 6. サッパダーサ長老の詩偈
6. 1. 7. カーティヤーナ長老の詩偈
6. 1. 8. ミガジャーラ長老の詩偈
6. 1. 9. ジェンタ・プローヒタプッタ長老の詩偈
6. 1. 10. スマナ長老の詩偈
6. 1. 11. ナータカムニ長老の詩偈
6. 1. 12. ブラフマダッタ長老の詩偈
6. 1. 13. シリマンダ長老の詩偈
6. 1. 14. サッバカーミン長老の詩偈
7. 七なるものの集まり(459.~)
7. 1. 第一の章(459.~)
7. 1. 1. スンダラサムッダ長老の詩偈
7. 1. 2. ラクンダカ・バッディヤ長老の詩偈
7. 1. 3. バッダ長老の詩偈
7. 1. 4. ソーパーカ長老の詩偈
7. 1. 5. サラバンガ長老の詩偈
8. 八なるものの集まり(494.~)
8. 1. 第一の章(494.~)
8. 1. 1. マハー・カッチャーヤナ長老の詩偈
8. 1. 2. シリミッタ長老の詩偈
8. 1. 3. マハー・パンタカ長老の詩偈
9. 九なるものの集まり(518.~)
9. 1. 第一の章(518.~)
9. 1. 1. ブータ長老の詩偈
10. 十なるものの集まり(527.~)
10. 1. 第一の章(527.~)
10. 1. 1. カールダーイン長老の詩偈
10. 1. 2. エーカ・ヴィハーリヤ長老の詩偈
10. 1. 3. マハー・カッピナ長老の詩偈
10. 1. 4. チューラ・パンタカ長老の詩偈
10. 1. 5. カッパ長老の詩偈
10. 1. 6. ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ長老の詩偈
10. 1. 7. 他のゴータマ長老の詩偈
11. 十一なるものの集まり(597.~)
11. 1. 第一の章(597.~)
11. 1. 1. サンキッチャ長老の詩偈
12. 十二なるものの集まり(608.~)
12. 1. 第一の章(608.~)
12. 1. 1. シーラヴァント長老の詩偈
12. 1. 2. スニータ長老の詩偈
13. 十三なるものの集まり(632.~)
13. 1. 第一の章(632.~)
13. 1. 1. ソーナ・コーリヴィサ長老の詩偈
14. 十四なるものの集まり(645.~)
14. 1. 第一の章(645.~)
14. 1. 1. カディラヴァニヤ・レーヴァタ長老の詩偈
14. 1. 2. ゴーダッタ長老の詩偈
15. 十六なるものの集まり(673.~)
15. 1. 第一の章(673.~)
15. 1. 1. アンニャーシ・コンダンニャ長老の詩偈
15. 1. 2. ウダーイン長老の詩偈
16. 二十なるものの集まり(705.~)
16. 1. 第一の章(705.~)
16. 1. 1. アディムッタ長老の詩偈
16. 1. 2. パーラーパリヤ長老の詩偈
16. 1. 3. テーラカーニ長老の詩偈
16. 1. 4. ラッタパーラ長老の詩偈
16. 1. 5. マールキャプッタ長老の詩偈
16. 1. 6. セーラ長老の詩偈
16. 1. 7. カーリ・ゴーダーの子なるバッディヤ長老の詩偈
16. 1. 8. アングリマーラ長老の詩偈
16. 1. 9. アヌルッダ長老の詩偈
16. 1. 10. パーラーパリヤ長老の詩偈
17. 三十なるものの集まり(949.~)
17. 1. 第一の章(949.~)
17. 1. 1. プッサ長老の詩偈
17. 1. 2. サーリプッタ長老の詩偈
17. 1. 3. アーナンダ長老の詩偈
18. 四十なるものの集まり(1054.~)
18. 1. 第一の章(1054.~)
18. 1. 1. マハー・カッサパ長老の詩偈
19. 五十なるものの集まり(1094.~)
19. 1. 第一の章(1094.~)
19. 1. 1. ターラプタ長老の詩偈
20. 六十なるものの集まり(1149.~)
20. 1. 第一の章(1149.~)
20. 1. 1. マハー・モッガッラーナ長老の詩偈
21. 大なるものの集まり(1218.~)
21. 1. 第一の章(1218.~)
21. 1. 1. ヴァンギーサ長老の詩偈
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
8. テーラガーター聖典(長老偈経)
因縁の詩偈
〔そこで、詩偈に言う〕「山窟に吼える牙ある獅子たちの〔声を聞く〕ように、自己を修めた者たちの、義(道理)に関する諸々の詩偈を聞け。
〔その〕名のとおりに、〔その〕姓のとおりに、法(教え)のとおりの住者たちとして、〔心に〕信念したとおりに、智慧を有する者たちは〔世に〕住んだ──休むことなく〔精進に励みながら〕。
その場その場に、〔あるがままに〕観察して、死滅なき境処を体得して、〔自己の〕作り為した〔行為〕の終極を綿密に注視しながら、この義(意味)を語った」〔と〕。
1. 一なるものの集まり
1. 1. 第一の章
1. 1. 1. スブーティ長老の詩偈
1.(1) わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。天よ、雨を降らせよ、安楽なるままに。わたしの心は善く定められ、解脱し、〔わたしは〕熱情ある者として〔世に〕住む。天よ、雨を降らせよ。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者スブーティ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 2. マハー・コッティカ長老の詩偈
2.(2) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者は、諸々の悪しき法(性質)を払い落とす──風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者マハー・コッティカ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 3. カンカー・レーヴァタ長老の詩偈
3.(3) 如来たちの、この智慧(慧・般若)を見よ──あたかも、深夜に燃え盛る火のようなもの。〔人々に〕光を与え眼を与える者たちとして、〔彼らは、世に〕有る──すなわち、やってきた者たちの疑いを取り除く、〔如来たちは〕。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者カンカー・レーヴァタ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 4. プンナ長老の詩偈
4.(4) まさしく、正しくある者たちと、義(道理)を見る賢者たちと、親交するように。〔気づきを〕怠らない明眼の慧者たちは、大いなる義(道理)に、深遠で見難く精緻で微細なる〔義〕に、正しく到達する。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者プンナ・マンターニプッタ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 5. ダッバ長老の詩偈
5.(5) 彼は、ダッバ(明晰なる者)は、調御し難きを調御によって調御した者であり、疑いを超えた〔常に〕満ち足りている者である。〔一切の〕征圧者にして、まさに、恐ろしさを離れ去った者であり、彼は、明晰なる者として、完全なる涅槃に到達した者であり、自己を確立した者である。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者ダッバ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 6. シータ・ヴァニヤ長老の詩偈
6.(6) 彼は、比丘は、シータ林(寒林:死体置き場)へと近しく赴いた──自己が定められ、〔常に〕満ち足りている、独りある者として。〔一切の〕征圧者にして、身の毛のよだつ〔恐怖〕を離れ去った者であり、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)を〔常に〕守っている〔道心〕堅固の者である。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者シータ・ヴァニヤ(シータ林にある者)長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 7. バッリヤ長老の詩偈
7.(7) 彼は、死魔の王の軍団を除き去った──大激流が、極めて力の弱い葦の橋を〔押し流す〕ように。〔一切の〕征圧者にして、まさに、恐ろしさを離れ去った者であり、彼は、調御者として、完全なる涅槃に到達した者であり、自己を確立した者である。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者バッリヤ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 8. ヴィーラ長老の詩偈
8.(8) 彼は、ヴィーラ(勇者)は、調御し難きを調御によって調御した者であり、疑いを超えた〔常に〕満ち足りている者である。〔一切の〕征圧者にして、身の毛のよだつ〔恐怖〕を離れ去った者であり、彼は、勇者として、完全なる涅槃に到達した者であり、自己を確立した者である。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者ヴィーラ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 9. ピリンダヴァッチャ長老の詩偈
9.(9) 善く来てくれた──悪しく来たものにあらず。これは、わたしの悪しき思いにあらず。〔人々に〕分け与えられた諸々の法(教え)における、〔まさに〕その、最勝のもの──〔わたしは〕それへと近しく赴いたのだ。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者ピリンダヴァッチャ長老は、詩偈を語った、ということです。
1. 1. 10. プンナマーサ長老の詩偈
10.(10) 彼は、〔真の〕知に至り、〔心が〕静まり、自己を制した者として、この〔世〕であろうが、あの〔世〕であろうが、〔あるがままに〕熟視しながら〔世に〕住んだ。一切の法(事象)に汚されない者は、そして、世の生成と衰失を知るであろう。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者プンナマーサ長老は、詩偈を語った、ということです。
第一の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「スブーティ、コッティカ長老、〔人々に〕敬われたカンカー・レーヴァタ、マンターニプッタ(プンナ)、そして、ダッバ、そして、シータ・ヴァニヤ、バッリヤ、ヴィーラ、そして、ピリンダヴァッチャ、闇を除去する者たるプンナマーサがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 2. 第二の章
1. 2. 1. チューラ・ヴァッチャ長老の詩偈
11.(11) 覚者(ブッダ)によって知らされた法(教え)において、歓喜多き比丘は、寂静の境処に到達するであろう──形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という安楽〔の境地〕に。ということで──
……チューラ・ヴァッチャ長老は……。
1. 2. 2. マハー・ヴァッチャ長老の詩偈
12.(12) 智慧の力があり、戒と掟を具有し、〔心が〕定められ、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を喜ぶ、気づき(念)ある者は、〔まさに〕その、義(道理)にかなう〔量の〕食料を食べながら、この〔世において〕、貪り〔の思い〕を離れ、〔死の〕時を待つであろう。ということで──
……マハー・ヴァッチャ長老は……。
1. 2. 3. ヴァナ・ヴァッチャ長老の詩偈
13.(13) 青き雲の色の、好ましく、冷たい水があり、〔常に〕清らかさを保ち、〔心地よい〕インダゴーパカ〔草〕に等しく覆われた、それらの巌(いわお)は、わたしを喜ばせる。ということで──
……ヴァナ・ヴァッチャ長老は……。
1. 2. 4. シヴァカ沙弥の詩偈
14.(14) 師父(和尚)は、わたしに言った。「シーヴァカ(シヴァカ)よ、〔わたしたちは〕これから〔林へと〕赴くのだ」〔と〕。わたしの身体は、村に住むも、わたしの意は、林へと赴いている。たとえ、〔病に〕臥すも、〔わたしもまた、林へと〕赴くのだ。〔あるがままを〕識知している者たちに、執着〔の思い〕は存在しない。ということで──
……シヴァカ沙弥は……。
1. 2. 5. クンダダーナ長老の詩偈
15.(15) 五つ〔の束縛するもの〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つべきである。五つ〔の束縛するもの〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するべきである。そして、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・禅定・智慧)をより以上に修めるべきである。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と説かれる。ということで──
……クンダダーナ長老は……。
1. 2. 6. ベーラッタシーサ長老の詩偈
16.(16) あたかも、また、尾を振り回し、たてがみある、賢い良馬が、難少なくして赴くように、このように、わたしの夜と昼は、財貨なき安楽が得られたとき、難少なくして赴く。ということで──
……ベーラッタシーサ長老は……。
1. 2. 7. ダーサカ長老の詩偈
17.(17) すなわち、惰眠の者として〔世に〕有るとき、さらに、大飯食いの者として〔世に有るとき〕、眠りこけてはごろ寝をする者となる。餌で養われた大豚のように、愚か者は、繰り返し、〔母の〕胎に近しく至る。ということで──
……ダーサカ長老は……。
1. 2. 8. シンガーラの父なる長老の詩偈
18.(18) ベーサカラー林に、覚者の相続者たる比丘が有った。〔彼は〕骨の表象(骨想:身体を骨の連なりと見る観想法)によって、この地の全部を充満した。わたしは思う──彼は、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を、まさしく、すみやかに捨棄するであろう。ということで──
……シンガーラの父なる長老は……。
1. 2. 9. クラ長老の詩偈
19.(19) まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、善き掟の者たちは、自己を調御する。ということで──
……クラ長老は……。
1. 2. 10. アジタ長老の詩偈
20.(20) わたしに、死についての恐怖は存在しない。生についての欲念は存在しない。〔わたしは〕正知と気づきの者として、肉身を置き去りにするであろう。ということで──
……アジタ長老は……。
第二の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「チューラ・ヴァッチャ、マハー・ヴァッチャ、そして、ヴァナ・ヴァッチャ、シーヴァカ(シヴァカ)、そして、クンダダーナ、ベーラッティ(ベーラッタシーサ)、そして、ダーサカ、それから次に、シンガーラの父なる長老、そして、クラ、アジタがあり、〔これらの〕十者〔の長老たち〕がある」と。
1. 3. 第三の章
1. 3. 1. ニグローダ長老の詩偈
21.(21) わたしは、恐怖〔の対象〕を恐怖しない。わたしたちの教師(ブッダ)は、不死〔の境処〕の熟知者である。比丘たちは行く──そこにおいては、恐怖が安住しない、〔まさに〕その道によって。ということで──
……ニグローダ長老は……。
1. 3. 2. チッタカ長老の詩偈
22.(22) 青く、美しい首の、冠毛ある孔雀たちが、カーランヴィー〔の林〕に鳴く。彼らは、涼風に打ち興じ、眠りについた瞑想者を目覚めさせる。ということで──
……チッタカ長老は……。
1. 3. 3. ゴーサーラ長老の詩偈
23.(23) わたしは、まさに、竹薮において蜜粥を食べて、〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)の生成と衰失を的確に触知しつつ、〔山の〕背へと帰り行くであろう──遠離〔の境地〕を増進しながら。ということで──
……ゴーサーラ長老は……。
1. 3. 4. スガンダ長老の詩偈
24.(24) 〔わたしは〕雨期に定住する出家者(雨期以外は遍歴遊行する出家修行者)である。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……スガンダ長老は……。
1. 3. 5. ナンディヤ長老の詩偈
25.(25) 彼の心が、幾度となく光を生じ〔善き〕果へと赴く、そのような比丘を襲って、黒き者(悪魔)よ、〔おまえは〕苦しみを受ける。ということで──
……ナンディヤ長老は……。
1. 3. 6. アバヤ長老の詩偈
26.(26) 覚者の、太陽の眷属の、見事に語られた言葉を聞いて、まさに、精緻なる〔教え〕を理解した──あたかも、矢で毛の先端を〔射抜く〕ように。ということで──
……アバヤ長老は……。
1. 3. 7. ローマサカンギヤ長老の詩偈
27.(27) ダッパ〔草〕を、クサ〔草〕を、ポータキラ〔草〕を、ウシーラ〔草〕を、ムンジャ〔草〕とパッバジャ〔草〕を、〔わたしは〕胸をもって除け行くであろう──遠離〔の境地〕を増進しながら。ということで──
……ローマサカンギヤ長老は……。
1. 3. 8. ジャンブガーミカプッタ長老の詩偈
28.(28) 衣を追い求めてはいないか、どうか──飾ることを喜んではいないか、どうか──戒によって作られる香りを、どうであろう、あなたは香らせているか、どうか──他の人々ではなく。ということで──
……ジャンブガーミカプッタ長老は……。
1. 3. 9. ハーリタ長老の詩偈
29.(29) 矢作りが矢を〔真っすぐにする〕ように、自己を直立させつつ、心を真っすぐに作り為して、ハーリタよ、無明を破れ。ということで──
……ハーリタ長老は……。
1. 3. 10. ウッティヤ長老の詩偈
30.(30) わたしに、病が生起したとき、わたしに、気づき(念)が生まれ来た。「わたしに、病が生起したのだ。わたしに、怠るための時はない」〔と〕。ということで──
……ウッティヤ長老は……。
第三の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ニグローダ、チッタカ長老、ゴーサーラ長老、スガンダ、ナンディヤ、アバヤ長老、ローマサカンギヤ長老、そして、ジャンブガーミカプッタ、ハーリタ、ウッティヤ聖賢があり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 4. 第四の章
1. 4. 1. ガフヴァラティーリヤ長老の詩偈
31.(31) 林や密林のなかで虻たちや蚊たちに襲われたとして、戦場の先頭にいる象のように、そこにあって、気づきある者となり、〔苦しみを〕耐え忍ぶがよい。ということで──
……ガフヴァラティーリヤ長老は……。
1. 4. 2. スッピヤ長老の詩偈
32.(32) 老い行くものを、老ならざるものに、悩み苦しむものを、寂滅〔の境処〕に──最高の寂静である、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものに──〔わたしは〕換えるのだ(※)。ということで──
※ テキストには Nimiyaṃ とあるが、PTS版により nimmissaṃ と読む。
……スッピヤ長老は……。
1. 4. 3. ソーパーカ長老の詩偈
33.(33) たとえば、また、〔母親が〕愛しい独り子にたいし、巧みな智ある者として存するように、このように、全ての命あるものにたいし、一切所において、巧みな智ある者として存するがよい。ということで──
……ソーパーカ長老は……。
1. 4. 4. ポーシヤ長老の詩偈
34.(34) まさしく、常に、これら〔の婦女たち〕は、識知者(修行者)に近づかないのが優れている。〔わたしは〕村から林へとやってきて、そののち、〔行乞のために〕家へと〔赴き、一方に〕近坐した。そののち、〔坐から〕立ち上がって、〔わたしは〕立ち去る──〔別れを〕告げずして、ポーシヤは。ということで──
……ポーシヤ長老は……。
1. 4. 5. サーマンニャカーニ長老の詩偈
35.(35) 安楽を義(目的)とする者は、〔まさに〕その〔聖なる八つの支分ある道〕を習行しながら、安楽を得る。そして、彼の盛名は増大し、名誉に至り得る──彼が、不死〔の境処〕に至り得るために、曲がりなく、真っすぐな、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)を修めるなら。ということで──
……サーマンニャカーニ長老は……。
1. 4. 6. クマープッタ長老の詩偈
36.(36) 善きかな──〔教えとして〕聞かれたものは。善きかな──〔教えとして〕歩まれたものは。善きかな──常に住所なくして〔世に〕住むことは。義(意味)を尋ねること、右回り〔の礼〕の行為(業)──これは、無一物の者にとっての、沙門の資質である。ということで──
……クマープッタ長老は……。
1. 4. 7. クマープッタ長老の道友たる長老の詩偈
37.(37) 自制なくして〔世を〕渡り歩く者たちは、種々なる地方に行き、そして、禅定(定・三昧)を放擲する。国土を歩むことが、いったい、何を為すというのだろう。それゆえに、〔心の〕激昂を取り除くがよい。〔何も〕偏重せず、瞑想するがよい。ということで──
……クマープッタ長老の道友たる長老は……。
1. 4. 8. ガヴァンパティ長老の詩偈
38.(38) すなわち、神通によって、サラブー〔川〕を塞き止めた、彼は、ガヴァンパティは、依存なく、動揺なき者である。彼を、一切の執着を超え行った大いなる牟尼(沈黙の聖者)を、〔迷いの〕生存(有)の彼岸に至る者を、天〔の神々〕たちは礼拝する。ということで──
……ガヴァンパティ長老は……。
1. 4. 9. ティッサ長老の詩偈
39.(39) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。ということで──
……ティッサ長老は……。
1. 4. 10. ヴァッダマーナ長老の詩偈
40.(40) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。ということで──
……ヴァッダマーナ長老は……。
第四の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ガフヴァラティーリヤ、スッピヤ、まさしく、そして、ソーパーカ、ポーシヤ、サーマンニャカーニ、クマープッタ、クマープッタ長老の道友、ガヴァンパティ、ティッサ長老、大いなる福徳あるヴァッダマーナがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 5. 第五の章
1. 5. 1. シリヴァッダ長老の詩偈
41.(41) 諸々の雷光が、そして、ヴェーバーラ〔山〕の〔岩の裂け目に〕、さらに、パンダヴァ〔山〕の〔岩の〕裂け目に、〔次々と〕落下する。しかしながら、対する者なき如なる方(ブッダ)の子(仏弟子)は、山の〔岩の〕裂け目に赴き、〔独り〕瞑想する。ということで──
……シリヴァッダ長老は……。
1. 5. 2. カディラヴァニヤ長老の詩偈
42.(42) チャーラーよ、ウパチャーラーよ、シースーパチャーラーよ、今や、まさに、気づきある者たちとして〔世に〕住め。あなたたちのところにやってきた者は、〔髪の〕毛を貫く者のように〔世に有る〕。ということで──
……カディラヴァニヤ長老は……。
1. 5. 3. スマンガラ長老の詩偈
43.(43) 善く解き放たれた、善く解き放たれた、善きかな、三つの曲がったものから善く解き放たれた者として、〔わたしは〕存している──まさに、鎌から、わたしによって、まさに、鋤から、わたしによって、まさに、小さき鋤から、わたしによって。
もしくは、また、まさしく、ここに、〔それらがあるとして〕、まさしく、ここに、〔それらがあるとして〕、さらに、あるいは、また、〔それらがないとして〕、もう、十分だ、もう、十分だ。スマンガラよ、瞑想せよ。スマンガラよ、瞑想せよ。スマンガラよ、〔気づきを〕怠らない者として〔世に〕住め。ということで──
……スマンガラ長老は……。
1. 5. 4. サーヌ長老の詩偈
44.(44) 母よ、あるいは、死んだ者のことを、〔世の人々は〕泣き叫び、あるいは、彼が生きているとして、見ることができないなら、〔彼のことをも泣き叫ぶ〕。母よ、生きているわたしを見ていながら、母よ、何ゆえに、わたしのことを泣き叫ぶのか。ということで──
……サーヌ長老は……。
1. 5. 5. ラマニーヤ・ヴィハーリン長老の詩偈
45.(45) あたかも、また、賢い良馬が、倒れて〔すぐに〕立ち上がるように、このように、〔あるがままの〕見を成就した、正等覚者(ブッダ)の弟子を〔知れ〕。ということで──
……ラマニーヤ・ヴィハーリン長老は……。
1. 5. 6. サミッディ長老の詩偈
46.(46) わたしは、信によって家から家なきへと出家した者である。そして、わたしの、気づきと智慧は増え行き、さらに、心も善く定められた。〔おまえの〕欲するままに、諸々の形態(色)を作り為せ。〔おまえが〕わたしを悩ますことは、まさしく、ないであろう。ということで──
……サミッディ長老は……。
1. 5. 7. ウッジャヤ長老の詩偈
47.(47) 覚者よ、勇者よ、あなたに、礼拝が存せ(わたしは、あなたを礼拝する)。〔あなたは〕一切所に解脱した者として〔世に〕存している。〔わたしは〕あなたの教訓のもとに〔世に〕住んでいる。〔わたしは〕煩悩(漏)なき者として〔世に〕住む。ということで──
……ウッジャヤ長老は……。
1. 5. 8. サンジャヤ長老の詩偈
48.(48) わたしが、家から家なきへと出家した、そののち、汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を伴った聖ならざる思惟を、〔わたしは〕証知しない(記憶しない)。ということで──
……サンジャヤ長老は……。
1. 5. 9. ラーマネイヤカ長老の詩偈
49.(49) チハチハ〔鳥の声〕が鳴り響いたとして、さらに、シッピカー〔鳥〕たちの鳴き声によっても、わたしの、その心は動かない。まさに、わたしの〔心は〕、独りあることを喜んでいる。ということで──
……ラーマネイヤカ長老は……。
1. 5. 10. ヴィマラ長老の詩偈
50.(50) そして、大地は〔雨を〕注がれ、風は吹き、雷光は天空を歩む。諸々の思考(尋)は止み静まり、わたしの心は善く定められた。ということで──
……ヴィマラ長老は……。
第五の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「シリヴァッダ、レーヴァタ(カディラヴァニヤ)長老、スマンガラ、サーヌという呼び名を有する者、そして、ラマニーヤ・ヴィハーリン、サミッディ、ウッジャヤとサンジャヤ、そして、〔まさに〕その、ラーマネイヤ(ラーマネイヤカ)長老、そして、相克の捨棄者たるヴィマラがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 6. 第六の章
1. 6. 1. ゴーディカ長老の詩偈
51.(51) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。そして、わたしの心は善く定められた。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。ということで──
……ゴーディカ長老は……。
1. 6. 2. スバーフ長老の詩偈
52.(52) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。そして、身体において、心は善く定められた。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。ということで──
……スバーフ長老は……。
1. 6. 3. ヴァッリヤ長老の詩偈
53.(53) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。その〔小屋〕のなかに、〔わたしは〕住む──怠りなき者として。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。ということで──
……ヴァッリヤ長老は……。
1. 6. 4. ウッティヤ長老の詩偈
54.(54) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。その〔小屋〕のなかに、〔わたしは〕住む──伴侶なき者として。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。ということで──
……ウッティヤ長老は……。
1. 6. 5. アンジャナ・ヴァニヤ長老の詩偈
55.(55) 坐床を小屋と為して、アンジャナ林に入って〔そののち〕、三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……アンジャナ・ヴァニヤ長老は……。
1. 6. 6. クティ・ヴィハーリン長老の詩偈
56.(56) 誰だ──小屋のなかにいるのは。小屋のなかには、比丘がいる──貪りを離れ、心が善く定められた〔比丘〕が。友よ、このように知りなさい。おまえが作った小屋は、無駄ならざるもの。ということで──
……クティ・ヴィハーリン長老は……。
1. 6. 7. 第二のクティ・ヴィハーリン長老の詩偈
57.(57) この小屋は、古きものと成った。〔おまえは〕他の新しい小屋を切望する。小屋にたいする願望を離貪させよ(身体にたいする欲の思いを離れよ)。比丘よ、さらなる新しい小屋は、苦しみである。ということで──
……第二のクティ・ヴィハーリン長老は……。
1. 6. 8. ラマニーヤ・クティカ長老の詩偈
58.(58) わたしの小屋は、喜ぶべきものである。信によって施されるべきものであり、意が喜びとするものである。わたしには、〔もはや〕少女たちに義(利益)はない(わたしは、女性を目的とする者ではない)。彼ら(在家者たち)には、義(利益)がある。女たちよ、そこに赴け。ということで──
……ラマニーヤ・クティカ長老は……。
1. 6. 9. コーサラ・ヴィハーリン長老の詩偈
59.(59) わたしは、信によって出家した者である。わたしの小屋は、林のなかに作られた。そして、〔わたしは〕怠りなき者である。熱情ある者であり、正知と気づきの者である。ということで──
……コーサラ・ヴィハーリンは……。
1. 6. 10. シーヴァリ長老の詩偈
60.(60) それを義(目的)として、小屋に入った〔わたしであるが〕、わたしの、それらの思惟は、〔ついに〕実現した。〔わたしは〕明知と解脱を信受した。〔わたしは〕思量の悪習(慢随眠)を廃棄した。ということで──
……シーヴァリ長老は……。
第六の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、ゴーディカ、そして、スバーフ、ヴァッリヤ、ウッティヤ聖賢、アンジャナ・ヴァニヤ長老、二者のクティ・ヴィハーリン、そして、ラマニーヤ・クティカ、コーサラという呼び名ある者とシーヴァリがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 7. 第七の章
1. 7. 1. ヴァッパ長老の詩偈
61.(61) 〔あるがままに〕見る者は、〔あるがままに〕見ている者を見る、そして、〔あるがままに〕見ていない者を見る。〔あるがままに〕見ていない者は、〔あるがままに〕見ていない者を〔見ない〕、そして、〔あるがままに〕見ている者を見ない。ということで──
……ヴァッパ長老は……。
1. 7. 2. ヴァッジプッタ長老の詩偈
62.(62) わたしたちは、独りある者たちとなり、林のなかに住む──林のなかに捨てられた木片のように。〔まさに〕その、わたしを、多くの者たちは羨む──地獄にある者たちが、天上に赴く者たちを〔羨む〕ように。ということで──
……ヴァッジプッタ長老は……。
1. 7. 3. パッカ長老の詩偈
63.(63) 死滅した者たちは、〔あの世に〕落ちる。落ちた者たちは、そして、貪り求める者たちとして、〔この世に〕ふたたび帰り来る者たちとなる。為すべきことは為された。喜ぶべきことは喜ばれた。安楽は、安楽なる〔道〕に従い行くもの。ということで──
……パッカ長老は……。
1. 7. 4. ヴィマラ・コンダンニャ長老の詩偈
64.(64) 〔アンバの〕木を呼び名とする者(アンバパーリーという名の娼婦)から生起し、白き旗ある者(マガダ国のビンビサーラ王)によって〔世に〕生まれた〔わたし〕は、旗(高慢)を殺す者となり、まさしく、旗(智慧)によって、大いなる旗(悪魔)を倒した。ということで──
……ヴィマラ・コンダンニャ長老は……。
1. 7. 5. ウッケーパカタ・ヴァッチャ長老の詩偈
65.(65) ウッケーパカタ・ヴァッチャの、多年にわたる聞き覚えを、それを、在家の者たちに語る──安坐した、秀逸なる歓喜ある者は。ということで──
……ウッケーパカタ・ヴァッチャ長老は……。
1. 7. 6. メーギヤ長老の詩偈
66.(66) 偉大なる勇者(ブッダ)が、一切の法(事象)の彼岸に至る方が、〔法を〕教え示した。彼の法(教え)を聞いて、わたしは〔世に〕住んだ──気づきある者となり、〔彼の〕現前において。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……メーギヤ長老は……。
1. 7. 7. エーカダンマ・サヴァニーヤ長老の詩偈
67.(67) わたしの諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)は焼尽し、一切の〔迷いの〕生存は完破された。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……エーカダンマ・サヴァニーヤ長老は……。
1. 7. 8. エークダーニヤ長老の詩偈
68.(68) 卓越の心(瞑想)ある者、〔常に気づきを〕怠らずにいる者、諸々の寂黙の道に学んでいる牟尼、寂静にして常に気づきある者──そのような者に、諸々の憂いは有ることなくある。ということで──
……エークダーニヤ長老は……。
1. 7. 9. チャンナ長老の詩偈
69.(69) 偉大なる方(ブッダ)の大いなる味わいある法(教え)を聞いて、一切知者たる優れた知恵(智)ある方によって説示された〔法〕を〔聞いて〕、不死〔の境処〕に至り得るために、〔わたしは〕道を実践した。彼は、束縛からの平安という〔無上なる〕道の熟知者である。ということで──
……チャンナ長老は……。
1. 7. 10. プンナ長老の詩偈
70.(70) この〔世において〕、戒こそは、至高なるもの。また、最上なるは、智慧ある者。そして、人間たちと天〔の神々〕たちにおいて、戒と智慧あることから、〔常に〕勝利する者となる。ということで──
……プンナ長老は……。
第七の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、ヴァッパ、そして、ヴァッジプッタ、パッカ、ヴィマラ・コンダンニャ、そして、ウッケーパカタ・ヴァッチャ、メーギヤ、エーカダンミカ(エーカダンマ・サヴァニーヤ)、そして、エークダーニヤとチャンナ、大いなる力あるプンナ長老があり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 8. 第八の章
1. 8. 1. ヴァッチャパーラ長老の詩偈
71.(71) 極めて繊細で精緻なる義(道理)を見る者によるなら、思慧と巧みな智ある者によるなら、謙譲の生活者によるなら、正しく習修され増大した戒ある者によるなら、まさに、彼によるなら、涅槃〔の境処〕は、得難きものにあらず。ということで──
……ヴァッチャパーラ長老は……。
1. 8. 2. アートゥマ長老の詩偈
72.(72) あたかも、若竹が、先端が増大し、小枝が生育したなら、取り出し難く成るように、このように、わたしは、迎え入れた妻のために〔出家し難い〕。許せ(※)──わたしを。今や、〔わたしは〕出家者として存している。ということで──
※ テキストには anumaññaṃ とあるが、PTS版により anumañña と読む。
……アートゥマ長老は……。
1. 8. 3. マーナヴァ長老の詩偈
73.(73) そして、老いた者を見て、かつまた、病み苦しむ者を〔見て〕、さらに、寿命の消滅に至った死者を見て、そののち、わたしは、〔家から〕出て、出家した──意が喜びとする諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して。ということで──
……マーナヴァ長老は……。
1. 8. 4. スヤーマナ長老の詩偈
74.(74) 比丘にとって、そして、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)は、憎悪〔の思い〕(瞋恚)は、かつまた、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)は、〔心の〕高揚(掉挙)は、さらに、疑惑〔の思い〕(疑)は、まさしく、全てにわたり、見出されない。ということで──
……スヤーマナ長老は……。
1. 8. 5. スサーラダ長老の詩偈
75.(75) 善きかな──〔心が〕善く整えられた者たちと会うことは。疑いは断ち切られ、覚慧は増え行く。〔彼らは〕愚者でさえも、賢者と為す。それゆえに、善きかな──正しくある者たちの集いは。ということで──
……スサーラダ長老は……。
1. 8. 6. ピヤンジャハ長老の詩偈
76.(76) 舞い上がっている者たちのなかでは、平伏するように。平伏している者たちのなかでは、舞い上がるように。住していない者たちのなかでは、住するように。喜んでいる者たちのなかでは、喜ばないように。ということで──
……ピヤンジャハ長老は……。
1. 8. 7. ハッターローハプッタ長老の詩偈
77.(77) かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた──求めるところから、欲するところへと、楽しみあるままに。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう──鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔制御する〕ように。ということで──
……ハッターローハプッタ長老は……。
1. 8. 8. メンダシラ長老の詩偈
78.(78) 無数なる生の輪廻を、〔わたしは〕流転してきた──〔何も〕得ることなく。〔流転のままに〕苦しみが生じた、〔まさに〕その、わたしの、苦しみの範疇(苦蘊:苦しみとして分類される諸々の事象)は、〔今や〕滅し行くところとなった。ということで──
……メンダシラ長老は……。
1. 8. 9. ラッキタ長老の詩偈
79.(79) わたしの、一切の貪り(貪)は捨棄され、一切の怒り(瞋)は完破された。わたしの、一切の迷い(痴)は離去し、〔心が〕清涼と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。ということで──
……ラッキタ長老は……。
1. 8. 10. ウッガ長老の詩偈
80.(80) すなわち、わたしによって作り為された行為(業)は──もしくは、少なかろうが、多かろうが──この一切が、完全に滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……ウッガ長老は……。
第八の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、すなわち、ヴァッチャパーラ長老、アートゥマ、マーナヴァ聖賢、スヤーマナ、スサーラダ、そして、すなわち、ピヤンジャハ長老、アーロハプッタ(ハッターローハプッタ)、メンダシラ、ラッキタ、ウッガという呼び名を有する者があり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 9. 第九の章
1. 9. 1. サミティグッタ長老の詩偈
81.(81) 過去における諸他の生において、わたしによって作り為された、〔まさに〕その、悪しきもの(悪業)──それは、まさしく、この〔世において〕、感受されるべきもの。他〔の生〕の根拠〔となる悪しきもの〕は、〔もはや〕見出されない(悪業は現世において滅尽する)。ということで──
……サミティグッタ長老は……。
1. 9. 2. カッサパ長老の詩偈
82.(82) 諸々の至福があり、かつまた、諸々の恐怖がない、行乞するに易きところ、ところへと、子よ、そこへと赴きなさい。憂いゆえに打ちひしがれた者と成ってはならない。ということで──
……カッサパ長老は……。
1. 9. 3. シーハ長老の詩偈
83.(83) シーハよ、夜に、昼に、休みなく、〔気づきを〕怠らない者として〔世に〕住め。善なる法(教え)を修めよ。即座に、積身を捨棄せよ。ということで──
……シーハ長老は……。
1. 9. 4. ニータ長老の詩偈
84.(84) 全夜を眠って、昼は〔他者との〕社交を喜ぶ者──思慮浅き者は、まさに、いったい、いつ、苦しみの終極を為すというのだろう。ということで──
……ニータ長老は……。
1. 9. 5. スナーガ長老の詩偈
85.(85) 遠離の味わいを識知して、心の形相の熟知者となり、〔常に〕瞑想している、賢明なる気づきある者は、財貨なき安楽(非俗の安楽)に到達するであろう。ということで──
……スナーガ長老は……。
1. 9. 6. ナーギタ長老の詩偈
86.(86) 「これ(ブッダの教え)より外にある、多々なる他の論者たちの道は、すなわち、この〔道〕のように、涅槃へと至るものではない」〔と〕、かくのごとく、まさに、世尊(ブッダ)は、〔世の〕教師たる方は、手の平に見せるかのように、自ら、僧団に教示する。ということで──
……ナーギタ長老は……。
1. 9. 7. パヴィッタ長老の詩偈
87.(87) 〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)は、事実のとおりに見られた。一切の〔迷いの〕生存は破られた。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……パヴィッタ長老は……。
1. 9. 8. アッジュナ長老の詩偈
88.(88) まさに、〔わたしは〕できたのだ──自己を、水のなかから陸のうえへと引き上げることが。まさしく、大激流に運ばれつつも、わたしは、〔四つの聖なる〕真理(諦)を理解した。ということで──
……アッジュナ長老は……。
1. 9. 9. 第一のデーヴァサバ長老の詩偈
89.(89) 諸々の汚泥と泥沼は超えられた。諸々の深淵は遍く避けられた。そして、激流から、さらに、拘束から、解き放たれた。諸々の〔我想の〕思量(慢:自他を比較し価値づける心)は、全てが除き去られた。ということで──
……デーヴァサバ長老は……。
1. 9. 10. サーミダッタ長老の詩偈
90.(90) 五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊:色・受・想・行・識)は遍く知られ、〔ここに〕止住するも、〔それらは〕根元から断たれた。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……サーミダッタ長老は……。
第九の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、サミティグッタ長老、カッサパ、シーハという呼び名を有する者、ニータ、スナーガ、ナーギタ、パヴィッタ、アッジュナ聖賢、そして、すなわち、デーヴァサバ長老、大いなる力あるサーミダッタがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 10. 第十の章
1. 10. 1. パリプンナカ長老の詩偈
91.(91) すなわち、今日、わたしが遍く受益した、甘露の食べ物──そのように、不死にして百味あるものは、〔世のどこにも存在し〕ない。無量の見あるゴータマ(ブッダ)によって、覚者によって、法(真理)が、〔世に〕説示されたのだ。ということで──
……パリプンナカ長老は……。
1. 10. 2. ヴィジャヤ長老の詩偈
92.(92) 彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、そして、〔彼が〕食に依存なき者であるなら──彼の、解脱の境涯が、空にして、かつまた、相なきものであるなら──彼の境処(境地・歩み)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。ということで──
……ヴィジャヤ長老は……。
1. 10. 3. エーラカ長老の詩偈
93.(93) エーラカよ、諸々の欲望〔の対象〕は、苦しみである。エーラカよ、諸々の欲望〔の対象〕は、楽しみではない。エーラカよ、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を欲するなら、彼は、苦しみを欲する。エーラカよ、彼が、諸々の欲望〔の対象〕を欲さないなら、彼は、苦しみを欲さない。ということで──
……エーラカ長老は……。
1. 10. 4. メッタジ長老の詩偈
94.(94) 釈迦族の吉祥なる方に、彼に、世尊に、まさに、礼拝〔有れ〕。彼によって、至高なるものに至り得た方によって、この至高の法(真理)が、見事に説示されたのだ。ということで──
……メッタジ長老は……。
1. 10. 5. チャックパーラ長老の詩偈
95.(95) 難路に陥り眼を失った盲者として〔世に〕存する、わたしであるが、たとえ、〔地に〕臥すとも、悪しき道友とともに赴くことはない。ということで──
……チャックパーラ長老は……。
1. 10. 6. カンダスマナ長老の詩偈
96.(96) 一花を献じて、八億年のあいだ、諸々の天上において楽しんで、残り〔の功徳〕によって、〔わたしは〕涅槃に到達した者として〔世に〕存している。ということで──
……カンダスマナ長老は……。
1. 10. 7. ティッサ長老の詩偈
97.(97) 百パラ(重さの単位)の銅〔の鉢〕を捨棄して、百ラージカ(重さの単位)の金〔の鉢〕を〔捨棄して〕、土の鉢を掴み取った。これが、〔わたしの〕第二の灌頂(浄めの儀式)となる。ということで──
……ティッサ長老は……。
1. 10. 8. アバヤ長老の詩偈
98.(98) 形態(色:眼の対象)を見て〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づき(念)は忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔形態を〕感受し、そして、それ(形態)に固執して止住する。〔迷いの〕生存の根元へと近しく赴く者の、彼の、諸々の煩悩は増え行く。ということで──
……アバヤ長老は……。
1. 10. 9. ウッティヤ長老の詩偈
99.(99) 音声(声:耳の対象)を聞いて〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔音声を〕感受し、そして、それ(音声)に固執して止住する。〔生と死の〕輪廻へと近しく赴く者の、彼の、諸々の煩悩は増え行く。ということで──
……ウッティヤ長老は……。
1. 10. 10. 第二のデーヴァサバ長老の詩偈
100.(100) 正しい精励(正勤)を成就し、気づきの確立(念処・念住)を境涯とし、解脱の花に等しく覆われた者は、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで──
……デーヴァサバ長老は……。
第十の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、パリプンナカ、ヴィジャヤ、エーラカ、メッタジ牟尼、チャックパーラ、カンダスマナ、そして、ティッサ、そのように、アバヤ、そして、大いなる智慧あるウッティヤ、そして、また、デーヴァサバ長老があり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 11. 第十一の章
1. 11. 1. ベーラッターニカ長老の詩偈
101.(101) 在家のあり方を捨棄して〔出家してもなお〕、自己が完成されず、口を鋤とする、飽食で、怠惰の者──餌で養われた大豚のように、愚か者は、繰り返し、〔母の〕胎に近しく至る。ということで──
……ベーラッターニカ長老は……。
1. 11. 2. セートゥッチャ長老の詩偈
102.(102) 〔我想の〕思量(慢)によって〔心が〕騙された者たち、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)にたいし〔心が〕汚染されている者たち、利得と利得なき(得失の思い)によって〔心が〕掻き乱された者たち──〔彼らは〕禅定(定・三昧)に到達しない。ということで──
……セートゥッチャ長老は……。
1. 11. 3. バンドゥラ長老の詩偈
103.(103) わたしは、これに義(目的)ある者ではない(世俗の喜びを求めない)。法(真理)の味によって、〔自ら〕楽しみ、満ち足りている者である。最上にして至高なる味を飲み干して、そして、毒によって親愛〔の情〕を為すことはない(世俗の喜びに親しまない)。ということで──
……バンドゥラ長老は……。
1. 11. 4. キタカ長老の詩偈
104.(104) そして、〔瞑想の境地がもたらす〕広大なる喜悦と安楽(喜楽)を体得した、わたしの身体は、まさに、軽やかである。風に揺らぐ綿毛のように、わたしの身体は、浮きただようかのようである。ということで──
……キタカ長老は……。
1. 11. 5. マリタヴァンバ長老の詩偈
105.(105) たとえ、待ち望んでいたとして、〔そこに〕住み止まるべきではない。たとえ、喜び楽しんでいるとして、〔そこを〕立ち去るべきである。まさしく、そして、義(道理)ならざるものを伴った住居であるなら、明眼の者は、〔そこに〕住み止まるべきではない。ということで──
……マリタヴァンバ長老は……。
1. 11. 6. スヘーマンタ長老の詩偈
106.(106) 百の徴表を義(目的)とするものがあり、百の特相を保持するものがあるとして、一部分を見る者は、思慮浅き者であり、そして、百を見る者は、賢者である。ということで──
……スヘーマンタ長老は……。
1. 11. 7. ダンマサヴァ長老の詩偈
107.(107) 〔考量し〕比較して、〔わたしは〕家から家なきへと出家した。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……ダンマサヴァ長老は……。
1. 11. 8. ダンマサヴァの父なる長老の詩偈
108.(108) その〔わたし〕は、百二十歳の者となり、〔家から〕家なきへと出家した。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……ダンマサヴァの父なる長老は……。
1. 11. 9. サンガラッキタ長老の詩偈
109.(109) あろうことか、この者は、静所に〔独り〕赴くも、〔人々に〕最高の益と慈しみ〔の思い〕ある方(ブッダ)の教えを考慮しない。あたかも、林のなかの幼い生まれの雌鹿のように、まさに、そのように、この者は、〔感官の〕機能(根)の現じ顕われるまま〔世に〕住む(欲に導かれて暮らす)。ということで──
……サンガラッキタ長老は……。
1. 11. 10. ウサバ長老の詩偈
110.(110) 山々の頂きにあるナガ〔樹〕たちは、極めて立派に成長し、新たに湧き上がる雨雲に洗われた。遠離〔の境地〕を欲し、林〔の生活〕を想う者──ウサバには、より一層、善きことが生まれる。ということで──
……ウサバ長老は……。
第十一の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ベーラッターニカ、セートゥッチャ、バンドゥラ、キタカ聖賢、マリタヴァンバ、スヘーマンタ、ダンマサヴァ、ダンマサヴァの父、そして、サンガラッキタ長老、そして、大いなる牟尼たるウサバがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
1. 12. 第十二の章
1. 12. 1. ジェンタ長老の詩偈
111.(111) 出家は〔為し〕難く、まさに、家〔の生活〕は耐え難い。法(真理)は深遠にして、諸々の財物は到達し難い。むずかしきは、まさに、〔家の〕生活──まさしく、いかなるものをもってしても〔思いは叶わない〕。ふさわしきは、〔世の〕無常なることを常に思い考えること。ということで──
……ジェンタ長老は……。
1. 12. 2. ヴァッチャゴッタ長老の詩偈
112.(112) わたしは、三つの明知ある者、大いなる瞑想者、心の止寂(奢摩他・止)の熟知者である。わたしによって、正なる義(目的)は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……ヴァッチャゴッタ長老は……。
1. 12. 3. ヴァナ・ヴァッチャ長老の詩偈
113.(113) 澄んだ水をたたえ、広々とした岩盤があり、黒面の猿や鹿たちが群れつどい、水と苔に等しく覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。ということで──
……ヴァナ・ヴァッチャ長老は……。
1. 12. 4. アディムッタ長老の詩偈
114.(114) 〔刻一刻と〕生命が失われつつあるとき、汚れた身体を重んじる者に、肉体の安楽(肉欲)を貪り求める者に、どうして、沙門たる善性があるというのだろう。ということで──
……アディムッタ長老は……。
1. 12. 5. マハー・ナーマ長老の詩偈
115.(115) この者は、山によって置き去りにされている(見下されている)──多くのクタジャ〔樹〕やサッラキカ〔樹〕に遍く覆われた福徳あるネーサーダカ山によって。ということで──
……マハー・ナーマ長老は……。
1. 12. 6. パーラーパリヤ長老の詩偈
116.(116) 六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)を捨棄して、〔感官の〕門が守られた者となり、善く統御された者となる。悩苦の根元を吐き捨てて、煩悩の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。ということで──
……パーラーパリヤ長老は……。
1. 12. 7. ヤサ長老の詩偈
117.(117) 美しく化粧し、美しい衣をまとい、一切の装飾品に飾られた〔わたし〕であるが、三つの明知に到達し、覚者の教えは為された。ということで──
……ヤサ長老は……。
1. 12. 8. キミラ長老の詩偈
118.(118) 衰失は、呪いのように降りかかる(避けようとして避けられない)。形態(色:肉体)は、他者のように、まさしく、そのように、〔他なるものとして〕存している。まさしく、それが、離れ住むことなく存しているとして、他者のものであるかのように、自己〔の身体〕を思念する。ということで──
……キミラ長老は……。
1. 12. 9. ヴァッジプッタ長老の詩偈
119.(119) 木の根元の茂みに入って、心臓(心)に涅槃を置いて、ゴータマ(アーナンダ)よ、瞑想せよ。そして、〔気づきを〕怠ること(放逸)があってはならない。べちゃべちゃと雑談をすることが、おまえのために、何を為すというのだろう。ということで──
……ヴァッジプッタ長老は……。
1. 12. 10. イシダッタ長老の詩偈
120.(120) 五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)は遍く知られ、〔ここに〕止住するも、〔それらは〕根元から断たれた。苦しみの滅尽は獲得された。煩悩の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。ということで──
……イシダッタ長老は……。
第十二の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、ジェンタ、そして、ヴァッチャゴッタ、そして、ヴァナという呼び名を有するヴァッチャ、アディムッタ、マハー・ナーマ、パーラーパリヤ、そして、また、ヤサ、キミラ、そして、ヴァッジプッタ、大いなる福徳あるイシダッタがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
一なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「百を超えること二十の長老たちは、為すべきことを為した煩悩なき者たちである。大いなる聖賢たちによって、まさしく、一なるものの集まりにおいて、〔諸々の詩偈が〕見事に合誦された」と。
2. 二なるものの集まり
2. 1. 第一の章
2. 1. 1. ウッタラ長老の詩偈
121.(121) 何であれ、〔迷いの〕生存(有)は、常住のものとして存在しない。あるいは、また、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、常久のものとして〔存在しない〕。そして、それらの〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)は再生し、他から他へと死滅する。
122.(122) この危険(患・過患)を知って、〔わたしは、迷いの〕生存に義(目的)なき者として〔世に〕存し、一切の欲望〔の対象〕から出離した者となる。煩悩(漏)の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者ウッタラ長老は、諸々の詩偈を語った、ということです。
2. 1. 2. ピンドーラ・バーラドヴァージャ長老の詩偈
123.(123) 「この生命は、導きなくしてあるのではない。食は、心臓(心)にとって、寂静なるものではない(食は、迷える心を動かす)。積身は、食に依って立つものである」〔と〕、かくのごとく見て、〔行乞の食を〕探し求めに、〔わたしは〕歩む。
124.(124) すなわち、家々における、この敬拝と供養であるが、まさに、それを、〔賢者たちは〕「汚泥である」と知らせた。繊細な矢は抜き難く、〔他者からの〕尊敬は、俗人には捨て難い。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者ピンドーラ・バーラドヴァージャ長老は、諸々の詩偈を語った、ということです。
2. 1. 3. ヴァッリヤ長老の詩偈
125.(125) 猿(心)は、五つの門ある小屋(身体)に至っては、ムフンムフンと打ち叩きながら、門をとおって歩き回る。
126.(126) 猿よ、止まれ。走ってはならない。かつてのような、その〔妄動〕は、〔今の〕おまえには、まさに、ない。〔おまえは〕存している──智慧(慧・般若)によって制御されたものとして。〔おまえが〕遠くに赴くことは、まさしく、ない。ということで──
……ヴァッリヤ長老は……。
2. 1. 4. ガンガーティーリヤ長老の詩偈
127.(127) 三つのターラ〔樹〕の葉からなる、わたしの小屋は、ガンガー〔川〕の岸辺に作られた。わたしの鉢は、〔清めの乳を〕注がれた骸のようなもの。そして、〔わたしの〕衣料は、糞掃衣(ぼろ布)である。
128.(128) 二年の間に、一つの言葉〔だけ〕が、わたしによって語られた。第三の年の間に、闇の塊は破られた。ということで──
……ガンガーティーリヤ比丘は……。
2. 1. 5. アジナ長老の詩偈
129.(129) たとえ、もし、煩悩なく、死魔〔の領域〕を捨棄する、三つの明知ある者として〔世に〕有るも、彼のことを、愚者たちは、「覚知なき者である」と見下す──無知なることから。
130.(130) しかしながら、すなわち、まさに、人が、この〔世において〕、食べ物と飲み物の得者(他者の供養を受ける者)と成るなら、たとえ、もし、悪しき法(性質)の者として〔世に〕有るも、彼は、〔無知なる〕彼らにとって、尊敬される者と成る。ということで──
……アジナ長老は……。
2. 1. 6. メーラジナ長老の詩偈
131.(131) わたしが、法(教え)を語っている教師(ブッダ)の〔声を〕聞いた、そのとき、一切を知り〔一切に〕敗れることなき方にたいし、疑い〔の思い〕を、〔わたしは〕証知しない。
132.(132) 〔無上なる〕先導者にして偉大なる勇者たる方にたいし、馭者たちのなかの優れた最上者たる方にたいし、あるいは、〔彼の説く〕道と〔その〕実践にたいし、疑い〔の思い〕は、わたしに見出されない。ということで──
……メーラジナ長老は……。
2. 1. 7. ラーダ長老の詩偈
133.(133) すなわち、〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪り〔の思い〕は漏れ入る。
134.(134) すなわち、〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪り〔の思い〕は漏れ入らない。ということで──
……ラーダ長老は……。
2. 1. 8. スラーダ長老の詩偈
135.(135) まさに、わたしの生は滅尽し、勝者(ブッダ)の教えは完成された。網と名づけられたもの(束縛)は捨棄され、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
136.(136) それを義(目的)として、家から家なきへと出家した〔わたし〕であるが、わたしによって、その義(目的)は獲得された──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽は。ということで──
……スラーダ長老は……。
2. 1. 9. ゴータマ長老の詩偈
137.(137) 牟尼(沈黙の聖者)たちは、安楽のうちに眠る。彼らは、婦女たちに縛られない。まさに、〔不品行から〕常に守られるべき者たちである、彼女たちにおいては、真理(諦)は、極めて得難きものとなる。
138.(138) 欲望よ、おまえを打ち倒す〔道〕を、〔わたしたちは〕歩んできた。今や、わたしたちは、おまえに借りなき者たちである。今や、涅槃へと赴くのだ──すなわち、赴いて〔そののち〕、憂い悲しまないところへと。ということで──
……ゴータマ長老は……。
2. 1. 10. ヴァサバ長老の詩偈
139.(139) 彼は、過去において、自己を傷つけ、未来においては、他者たちを傷つける。鳥捕りが囮で〔獲物を捕る〕ように、ひどく傷ついた自己を〔さらに〕傷つける。
140.(140) 外に色(資格・特色)があり、婆羅門となるにあらず。まさに、内に色があり、婆羅門となる。彼のうちに、諸々の悪しき行為(悪業)があるなら、スジャーの亭主(インドラ神)よ、彼は、まさに、黒き者である。ということで──
……ヴァサバ長老は……。
第一の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、ウッタラ、ピンドーラ(ピンドーラ・バーラドヴァージャ)、ヴァッリヤ、ティーリヤ聖賢(ガンガーティーリヤ)、そして、アジナ、メーラジナ、ラーダ、スラーダ、ゴータマがあり、ヴァサバとともに、これらの十者の大いなる神通ある長老たちが有る」と。
2. 2. 第二の章
2. 2. 1. マハー・チュンダ長老の詩偈
141.(141) 聞こうとすることは、所聞(学識)の増大となり、所聞は、智慧の増大となる。〔彼は〕智慧によって義(道理)を知り、知られた義(道理)は、〔彼に〕安楽をもたらすものとなる。
142.(142) 諸々の辺地の臥坐所に慣れ親しむように。束縛するものからの解脱〔の道〕を歩むように。それで、もし、そこにおいて、喜びに到達できないなら、僧団において、自己が守られた気づきある者として住するように。ということで──
……マハー・チュンダ長老は……。
2. 2. 2. ジョーティダーサ長老の詩偈
143.(143) すなわち、まさに、それらの粗暴な行動の人たちは、緊縛によって、さらに、種々なる〔加害の〕行為(業)によって、〔世の〕人間たちを破却するが、彼らもまた、まさしく、そのとおりに、〔他の人たちから〕為される。なぜなら、〔為した〕行為は、消え去らないからである。
144.(144) 人が、その行為を為すなら、もしくは、善きものであれ、悪しきものであれ、〔彼が〕作り為す、その〔行為〕その行為は、まさしく、その〔行為〕その〔行為〕に、相続者がある(為した行為は、善悪に関わらず、為した者自身が報いを受ける)。ということで──
……ジョーティダーサ長老は……。
2. 2. 3. ヘーランニャカーニ長老の詩偈
145.(145) 昼夜は過ぎ行き、生命は破却され、人間たちの寿命は滅尽する──諸々の小川の水のように。
146.(146) そこで、諸々の悪しき行為を為しつつ、愚者は、〔そのことを〕覚らない。のちに、彼には、辛きものが有る。なぜなら、彼には、悪しき報い(異熟)があるからである。ということで──
……ヘーランニャカーニ長老は……。
2. 2. 4. ソーマミッタ長老の詩偈
147.(147) 小さな木片に登っても、すなわち、大海においては沈み行くように、このように、怠惰の者を頼りにして、善き生ある者もまた沈み行く。それゆえに、彼を遍く避けるべきである──精進に劣る怠惰の者を。
148.(148) 〔世俗から〕遠離する聖者たちと、自己を精励する瞑想者たちと、常に精進に励む賢者たちと、共に住むべきである。ということで──
……ソーマミッタ長老は……。
2. 2. 5. サッバミッタ長老の詩偈
149.(149) 人は、人において結縛され、人は、まさしく、人に依存し、人は、人によって傷つけられ、そして、人は、人を傷つける。
150.(150) あるいは、〔彼が、自ら〕生ませた人であれ、彼にとって、人に、まさに、どのような義(利益)があるというのだろう。〔人は〕多くの人を傷つけて、その人を捨棄して去り行く。ということで──
……サッバミッタ長老は……。
2. 2. 6. マハー・カーラ長老の詩偈
151.(151) 〔身体が〕大きく、烏の形姿ある、カーリー婦女は、そして、腿〔の骨〕を砕いて、さらに、他の腿〔の骨〕を〔砕いて〕、そして、腕〔の骨〕を砕いて、さらに、他の腕〔の骨〕を〔砕いて〕、そして、頭〔の骨〕を砕いて、乳酪の器のように整えて、この者は坐っている。
152.(152) すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づく。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように──〔あるがままに〕覚知している者となり。わたしが、ふたたび頭を砕かれ、〔地に〕臥すことがあってはならない。ということで──
……マハー・カーラ長老は……。
2. 2. 7. ティッサ長老の詩偈
153.(153) 剃髪し大衣を着した者は、多くの敵を得る──食べ物と飲み物の利得ある者として、そして、衣と臥具の〔利得ある者として〕。
154.(154) 「〔他者からの〕諸々の尊敬のうちに、大いなる恐怖がある」〔と〕、この危険を知って、利得少なく、〔煩悩が〕漏れ出ることなく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。ということで──
……ティッサ長老は……。
2. 2. 8. キミラ長老の詩偈
155.(155) 東の竹林にいる、釈子(仏弟子)たる道友たちは、諸々の少なからざる財物を捨棄して、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者たちである。
156.(156) 精進に励み、自己を精励し、常に断固たる勤勉〔努力〕ある者たちは、世〔俗〕の喜びを捨棄して、法(真理)の喜びを喜び楽しむ。ということで──
……キミラ長老は……。
2. 2. 9. ナンダ長老の詩偈
157.(157) 根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)から、〔わたしは、自己を〕装うことに専念した。〔わたしは〕存した──〔心が〕高揚し、かつまた、軽薄なる者として、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に苦悩する者として。
158.(158) 〔他を導く〕手段(方便)に巧みな智ある方によって、覚者によって、太陽の眷属によって、わたしは、根源のままに〔道を〕実践して、〔迷いの〕生存のうちにある心を、〔明るみへと〕引き出した。ということで──
……ナンダ長老は……。
2. 2. 10. シリマント長老の詩偈
159.(159) そして、他者たちが彼を賞賛するとして、もし、〔彼の〕自己が定められていないなら、他者たちが賞賛するのは、〔まったくの〕無駄である。なぜなら、自己が定められていないからである。
160.(160) そして、他者たちが彼を非難するとして、もし、〔彼の〕自己が善く定められているなら、他者たちが非難するのは、〔まったくの〕無駄である。なぜなら、自己が善く定められているからである。ということで──
……シリマント長老は……。
第二の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、チュンダ(マハー・チュンダ)、そして、ジョーティダーサ、そして、ヘーランニャカーニ長老、ソーマミッタ、サッバミッタ、カーラ(マハー・カーラ)、そして、ティッサ、キミラ、そして、ナンダ、まさしく、そして、シリマントがあり、〔これらの〕十者の大いなる神通ある長老たちがある」と。
2. 3. 第三の章
2. 3. 1. ウッタラ長老の詩偈
161.(161) わたしによって、〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)は遍く知られた。わたしにとって、渇愛〔の思い〕(愛)は善く完破された。わたしにとって、〔七つの〕覚りの支分(覚支)は修められた。煩悩の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。
162.(162) 〔まさに〕その、わたしは、〔五つの心身を構成する〕範疇を遍く知って、〔渇愛の〕網を引き抜いて、〔七つの〕覚りの支分を修めて、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで──
……ウッタラ長老は……。
2. 3. 2. バッダジ長老の詩偈
163.(163) パナーダという名の、その王──彼の宮殿は黄金で、横〔幅〕は十六射程、高さは〔その〕千倍ある〔と、人々は〕言う。
164.(164) 千の射程があり、百の階があり、旗で飾られ、黄金で作られ、そこにおいて、六千の音楽神たちが、七様に舞踏した。ということで──
……バッダジ長老は……。
2. 3. 3. ソービタ長老の詩偈
165.(165) 気づきと智慧ある比丘として、力をもって精進に励み、わたしは、五百カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)を、一夜に随念した(想起した)。
166.(166) 四つの気づきの確立(四念処・四念住:身体と感受と心と法の四領域において気づきを確立すること)を〔修めつつ〕、さらに、七つ〔の覚りの支分〕(七覚支)と八つ〔の支分ある聖なる道〕(八正道)を修めつつ、わたしは、五百カッパを、一夜に随念した。ということで──
……ソービタ長老は……。
2. 3. 4. ヴァッリヤ長老の詩偈
167.(167) それが、断固たる精進ある者によって為されるべきであるなら──それが、覚ることを〔常に〕求めている者によって為されるべきであるなら──〔わたしは、それを〕為すであろうし、放下しないであろう。見よ──〔わたしの〕精進と勤勉〔努力〕を(※)。
※ テキストには parakkama とあるが、PTS版により parakkamaṃ と読む。
168.(168) そして、あなた(師匠)は、不死への沈潜(涅槃)という曲がりなき道を、わたしに告げ知らせたまえ。わたしは、寂黙〔の智慧〕によって沈黙するであう──ガンガー〔川〕の流れが、海洋に〔消え行く〕ように。ということで──
……ヴァッリヤ長老は……。
2. 3. 5. ヴィータソーカ長老の詩偈
169.(169) 〔わたしは決意した〕「わたしの諸々の髪を、〔今こそ〕剃り落とすのだ」と。理髪師は、〔わたしのもとへと〕近づいて行った。そののち、〔わたしは〕鏡を取って、〔自らの〕肉体を綿密に注視した。
170.(170) 身体は見えた──虚妄なるものとして。暗黒の闇は離れ去った。一切のぼろ布は断ち切られた。今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……ヴィータソーカ長老は……。
2. 3. 6. プンナマーサ長老の詩偈
171.(171) 五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨棄して、束縛からの平安に至り得るために、自己についての〔あるがままの〕知見という法(真理)の鏡を掴んで──
172.(172) この身体を、綿密に注視した──内外共に、〔その〕一切を。身体は見えた──虚妄なるものとして、かつまた、内に、かつまた、外に。ということで──
……プンナマーサ長老は……。
2. 3. 7. ナンダカ長老の詩偈
173.(173) あたかも、また、賢い良馬が、倒れて〔すぐに〕立ち上がり、より一層、畏怖〔の思い〕を得て、卑屈にならず、荷を運ぶように──
174.(174) このように、〔あるがままの〕見を成就した、正等覚者の弟子を、善き生まれのわたしを、覚者の子にして正嫡と認めよ。ということで──
……ナンダカ長老は……。
2. 3. 8. バラタ長老の詩偈
175.(175) ナンダカよ、来たれ。〔わたしたちは〕赴くのだ──師父(ブッダ)の現前へと。獅子吼を吼え叫ぶのだ──最勝の覚者の面前において。
176.(176) その〔義〕のために、牟尼は、わたしたちへの慈しみ〔の思い〕によって、わたしたちを出家させたのだ。わたしたちによって、その義(目的)は獲得された──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽は。ということで──
……バラタ長老は……。
2. 3. 9. バーラドバージャ長老の詩偈
177.(177) 戦場を征圧した勇者たちは、軍勢を有する悪魔に勝利して、このように、智慧を有する者たちは、山窟にある獅子たちのように吼え叫ぶ。
178.(178) そして、わたしによって、教師(ブッダ)は世話され、さらに、法(教え)と僧団は供養された。そして、わたしは、煩悩なき〔わたしの〕子を見て、歓悦の者となり、悦意の者となる。ということで──
……バーラドバージャ長老は……。
2. 3. 10. カンハディンナ長老の詩偈
179.(179) 正なる人士たちは、〔わたしによって〕近侍され、諸々の法(教え)は、一度ならず、〔わたしによって〕聞かれた。〔教えを〕聞いて、〔わたしは〕不死への沈潜(涅槃)という曲がりなき〔道〕を実践した。
180.(180) 〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕を打ち砕き、わたしが〔世に〕存していると、もはや、わたしに、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕は見出されない。そして、〔これまでに〕有ったことはなく、さらに、わたしに、〔これからも〕有ることはなく、かつまた、わたしに、今現在も見出されない。ということで──
……カンハディンナ長老は……。
第三の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ウッタラ、バッダジ長老、ソービタ、ヴァッリヤ聖賢、そして、すなわち、ヴィータソーカ長老、そして、プンナマーサ、ナンダカ、バラタ、そして、バーラドバージャ、大いなる牟尼たるカンハディンナがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
2. 4. 第四の章
2. 4. 1. ミガシラ長老の詩偈
181.(181) 正等覚者(ブッダ)の教えにおいて出家した、わたしは、そののち、解脱しつつ上昇し、欲望の界域(欲界)を超え行った。
182.(182) 梵〔天〕(ブラフマー神)が〔わたしを〕見ていると、そののち、わたしの心は解脱した。「わたしには、不動なる解脱がある」と、一切の束縛するものの滅尽あることから。ということで──
……ミガシラ長老は……。
2. 4. 2. シヴァカ長老の詩偈
183.(183) 諸々の家(輪廻における諸々の生存)は、その場その場に、繰り返し、常住ならざるものとして〔作り為された〕──家の作り手を探し求めながら。生〔の輪廻〕は、繰り返し、苦しみである。
184.(184) 家の作り手よ、〔おまえは〕存している──〔あるがままに〕見られたものとして。ふたたび、〔おまえが〕家を作ることはないであろう。おまえの全ての梁は壊され、かつまた、棟木は砕かれた。制約を離れることを為した心は、まさしく、この〔世において〕、〔迷いの生存を〕砕破するであろう。ということで──
……シヴァカ長老は……。
2. 4. 3. ウパヴァーナ長老の詩偈
185.(185) 世における阿羅漢(人格完成者)たる善き至達者(ブッダ)が、牟尼が、諸々の風〔の病〕に悩まされている。それで、もし、温かい水が存するなら、婆羅門よ、牟尼に施したまえ。
186.(186) 供養されるべき者たちのなかの供養される者、尊敬されるべき者たちのなかの尊敬される者、敬恭されるべき者たちのなかの敬恭される者──彼に、〔温かい水を〕運ぶことを〔わたしは〕求める。ということで──
……ウパヴァーナ長老は……。
2. 4. 4. イシディンナ長老の詩偈
187.(187) 法(教え)を保つ者たる在俗信者(優婆塞)たちが、「諸々の欲望〔の対象〕は、常住ならざるもの(無常)である」と語っているのを、わたしは見た。彼らは、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まった者たちであり、子たちにたいし、さらに、妻たちにたいし、期待〔の思い〕ある者たちである。
188.(188) たしかに、この〔世において〕、〔彼らは〕法(真理)を知らず、それゆえに、そして、たとえ、〔彼らが〕「諸々の欲望〔の対象〕は、常住ならざるものである」と言うも、しかしながら、彼らに、貪欲を断つための力は存在しない。それゆえに、〔彼らは〕依存ある者たちとなる──妻や子に、さらに、財に。ということで──
……イシディンナ長老は……。
2. 4. 5. サンブラ・カッチャーナ長老の詩偈
189.(189) そして、天は、雨を降らせる。かつまた、天は、〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせる。そして、わたしは、独り、恐ろしき洞窟に住む。独り、恐ろしき洞窟に住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、恐怖は、あるいは、驚愕は、あるいは、〔身の〕毛のよだつことは、〔もはや〕存在しない。
190.(190) 独り、恐ろしき洞窟に住んでいる、〔まさに〕その、わたしに、あるいは、恐怖が、あるいは、驚愕が、あるいは、〔身の〕毛のよだつことが、〔もはや〕存在しないなら、これは、わたしにとって(※)、法(真理)たることである。ということで──
※ テキストには mamasā とあるが、PTS版により mamesā と読む。
……サンブラ・カッチャーナ長老は……。
2. 4. 6. ニタカ長老の詩偈
191.(191) 誰の心が、巌の如くに安立し、動揺せず、諸々の貪るべきもの(欲望の対象)について貪りを離れ、諸々の怒るべきことに怒らないのか。その者の心が、このように修められたなら、彼に、どこから、苦しみが至り行くというのだろう。
192.(192) わたしの心は、巌の如くに安立し、動揺せず、諸々の貪るべきものについて貪りを離れ、諸々の怒るべきことに怒らない。わたしの心は、このように修められた。わたしに、どこから、苦しみが至り行くというのだろう。ということで──
……ニタカ長老は……。
2. 4. 7. ソーナ・ポーティリヤ長老の詩偈
193.(193) 星宿の花飾ある夜は、まずもって、眠るために有るのではない。〔あるがままに〕識知している者が〔眠らずに〕起きているためにこそ、この夜は有る。
194.(194) 象の背から落ちた〔わたし〕を、もし、象が〔踏み敷いて〕行くなら、戦場で死んだほうが、わたしには、より勝っている──すなわち、もし、敗者として生きるであろうなら。ということで──
……ソーナ・ポーティリヤ長老は……。
2. 4. 8. ニサバ長老の詩偈
195.(195) 意が喜びとする愛しい形態である、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨棄して、信によって家から出て、苦しみの終極を為す者と成るがよい。
196.(196) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──正知と気づきの者として。ということで──
……ニサバ長老は……。
2. 4. 9. ウサバ長老の詩偈
197.(197) アンバ〔樹〕(マンゴー)の若芽に似た〔色の〕衣料を肩に掛けて、象の首に坐った〔わたし〕は、〔行乞の〕食のために、村に入った。
198.(198) 象の背から降りて、そのとき、〔わたしは〕畏怖〔の思い〕を得た。〔まさに〕その、倨傲なるわたしは、そのとき、寂静なる者となる。煩悩の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。ということで──
……ウサバ長老は……。
2. 4. 10. カッパタクラ長老の詩偈
199.(199) カッパタクラは、この者は、かくのごとく、カッパタ(使い古しの衣)である。澄んだ溢れるばかりの不死なる〔甘露〕の鉢には、法(教え)によって作り為された量がある。諸々の瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を重ね行くために作り為された境処がある。
200.(200) カッパタよ、まさに、おまえは、居眠りをしてはならない。〔わたしが〕おまえを耳の近くで打つこと(眠りを覚ますために打擲を加えること)があってはならない。カッパタよ、まさに、おまえは、〔正しい〕量を了知しなかった──僧団の中で居眠りをしつつ。ということで──
……カッパタクラ長老は……。
第四の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ミガシラ、そして、シヴァカ、そして、ウパヴァーナ賢者、そして、イシディンナ、カッチャーナ(サンブラ・カッチャーナ)、そして、大いなる自在者たるニタカ、ポーティリヤプッタ(ソーナ・ポーティリヤ)、ニサバ、ウサバ、カッパタクラがあり、〔これらの十者の長老たちがある〕」と。
2. 5. 第五の章
2. 5. 1. クマーラ・カッサパ長老の詩偈
201.(201) ああ、覚者たちなのだ、ああ、諸々の法(真理)なのだ、ああ、わたしたちの教師の成就なのだ。そこにおいて、〔覚者の〕弟子が、このような法(性質)を実証するからには(※)。
※ テキストには sacchikāhi’’ti とあるが、PTS版により sacchikāhiti と読む。
202.(202) 数えようもないカッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)〔の過去〕において、身体を有すること(有身)への到達が〔無数に〕有った(幾多の輪廻を経験し、再生を繰り返してきた)。それらのなかでは、これは、最後のものである。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……クマーラ・カッサパ長老は……。
2. 5. 2. ダンマパーラ長老の詩偈
203.(203) 彼が、まさに、青年でありながら、比丘として、覚者の教えに専念するなら、まさに、彼は、眠りについた者たちのなかにいながら、〔眠らずに〕起きている。彼の生は、無駄ならざるもの。
204.(204) それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕浄信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら。ということで──
……ダンマパーラ長老は……。
2. 5. 3. ブラフマーリ長老の詩偈
205.(205) 誰の、諸々の〔感官の〕機能(根)が、馭者によって善く調御された馬たちのように、〔心の〕止寂(奢摩他・止)に至ったのか。〔我想の〕思量(慢)を捨棄した、煩悩なき者を、そのような者である誰を、天〔の神々〕たちさえも羨むのか(※)。
※ テキストには tādino’’ti とあるが、PTS版により ti を削除する。
206.(206) わたしの、諸々の〔感官の〕機能が、馭者によって善く調御された馬たちのように、〔心の〕止寂に至ったのだ。〔我想の〕思量を捨棄した、煩悩なき者を、そのような者であるわたしを、天〔の神々〕たちさえも羨む。ということで──
……ブラフマーリ長老は……。
2. 5. 4. モーガラージャン長老の詩偈
207.(207) 皮膚は荒れるも、心が幸いなる者、モーガラージャンよ、〔おまえは〕常に〔心が〕定められた者である。冬の、寒い時の、諸々の夜がある。おまえは、比丘として〔世に〕存するが、〔そのような時は〕どのように為すのだ。
208.(208) 「マガダ〔国〕の全部が、作物を実らせた」と、わたしは聞いた。藁で覆われた〔臥所〕ある者となり、〔わたしは〕臥すであろう──あたかも、安楽に生きる他の者たちのように。ということで──
……モーガラージャン長老は……。
2. 5. 5. ヴィサーカ・パンチャーラプッタ長老の詩偈
209.(209) 他者たちを、排斥しないように、かつまた、糾弾しないように。彼岸に至った者を、貶めず、責め立てないように。そして、諸々の衆(集会)においては、自己の栄誉を弁じ立てないように──〔心が〕高揚せず、正しく節度をもって話す、善き掟の者としてあり。
210.(210) 極めて繊細で精緻なる義(道理)を見る者によるなら、思慧と巧みな智ある者によるなら、謙譲の生活者によるなら、正しく習修され増大した戒ある者によるなら、まさに、彼によるなら、涅槃〔の境処〕は、得難きものにあらず。ということで──
……ヴィサーカ・パンチャーラプッタ長老は……。
2. 5. 6. チューラカ長老の詩偈
211.(211) 美しい冠毛、美しい尾翼、美しい青首、美しい顔立ち、美しい鳴き声の、孔雀たちが鳴く。そして、また、この大地は、美しい若草が〔繁り〕、美しい水に満ち、天空は、美しい雲が〔流れる〕。
212.(212) 悦意の者には、極めて善き形姿がある。瞑想するのだ。善きかな、善き覚者の教えにおける善き勤勉〔努力〕は。純白に白く、精緻で、極めて見難い、死滅なき最上の境処を、それを体得せよ。ということで──
……チューラカ長老は……。
2. 5. 7. アヌーパマ長老の詩偈
213.(213) 〔俗事を〕喜びながらやってきた心は、杭を立てられている(束縛されている)。杭や丸太のあるところに、まさしく、そこへそこへと、〔心は〕行き着く。
214.(214) 心よ、わたしは、おまえを「〔賭博師の悪しき〕賽の目」と説く。心よ、おまえを「〔不忠の〕裏切り者」と説く。おまえのために、得難き教師(ブッダ)は得られた。義(意味)ならざるもののうちに、わたしを駆り立ててはならない。ということで──
……アヌーパマ長老は……。
2. 5. 8. ヴァッジタ長老の詩偈
215.(215) 〔わたしは〕長時にわたり輪廻しながら、諸々の〔悪しき〕境遇(趣)において遍く転起した──〔四つの〕聖なる真理(聖諦)を見ることなく、暗愚と成った〔迷える〕凡夫として。
216.(216) 〔まさに〕その、わたしが、〔気づきを〕怠らずにあると、諸々の輪廻は分断され、一切の〔悪しき〕境遇は断絶された。今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……ヴァッジタ長老は……。
2. 5. 9. サンディタ長老の詩偈
217.(217) 立派に成長し、緑の光輝ある、アッサッタの木のもと、覚者の在り方として、一つの表象(想:概念・心象)を、気づきの者となり、〔わたしは〕得た。
218.(218) すなわち、〔わたしが〕表象を得た、そのとき、これより、三十一カッパ〔の未来〕において、その表象に由縁して、煩悩の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。ということで──
……サンディタ長老は……。
第五の章は〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「クマーラ・カッサパ長老、そして、ダンマパーラ、ブラフマーリ、モーガラージャン、そして、ヴィサーカ(ヴィサーカ・パンチャーラプッタ)、そして、チューラカ、アヌーパマ、ヴァッジタ、〔心の〕汚れの塵を運び去るサンディタ長老があり、〔これらの九者の長老たちがある〕」と。
二なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「二なるものの集まりにおいて、まさしく、そして、九十の詩偈があり、さらに、八つ〔の詩偈〕があり、語り手たちとして、導きの熟知者たる四十九者の長老たちがある」と。
3. 三なるものの集まり
3. 1. 第一の章
3. 1. 1. アンガニカ・バーラドヴァージャ長老の詩偈
219.(219) 根源のままならざる〔虚妄の〕清浄を探し求めながら、林のなかで祭火を世話してきた。清浄への道を知ることなく、不死〔を得るため〕の苦行を為してきた。
220.(220) その安楽(法の喜び)は、安楽なる〔道〕によって得られた。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。
221.(221) かつて、〔わたしは〕梵の眷属として存していた。今や、まさに、〔真の〕婆羅門(人格完成者)として存している。そして、三つの明知ある沐浴者として存している。さらに、〔真の〕知に至る聞経者として存している。ということで──
……アンガニカ・バーラドヴァージャ長老は……。
3. 1. 2. パッチャヤ長老の詩偈
222.(222) わたしは、五日まえに出家した、〔いまだ〕学びある者(有学)であり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者である。わたしが精舎に入ったとき、心には、〔確固たる〕誓願が有った。
223.(223) 「〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらに、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)──渇愛の矢が打破されないうちは」〔と〕。
224.(224) このように〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしの、精進と勤勉〔努力〕を見よ。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……パッチャヤ長老は……。
3. 1. 3. バークラ長老の詩偈
225.(225) すなわち、彼が、前に為すべき諸々のことを、後に為すことを求めるなら、彼は、安楽の境位から転落し、そして、のちに悩み苦しむ。
226.(226) まさに、それを為すなら、まさに、それを説くように。それを為さないなら、それを説かないように。賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する。
227.(227) 極めて安楽なるは、まさに、正等覚者によって説示された、涅槃〔の境処〕である。そこにおいて、苦しみが止滅するところ、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、平安〔の境地〕である。ということで──
……バークラ長老は……。
3. 1. 4. ダニヤ長老の詩偈
228.(228) もし、安楽に生きることを求めるなら、沙門の資質について熟視する者となり、僧団のものである衣料や飲み物や食料を軽んじないように。
229.(229) もし、安楽に生きることを求めるなら、沙門の資質について熟視する者となり、鼠の穴に〔住む〕蛇のように、〔日々の〕臥坐所に〔思い入れなく〕慣れ親しむように。
230.(230) もし、安楽に生きることを求めるなら、沙門の資質について熟視する者となり、いかなるものによっても満足するように。そして、一なる法(真理)を修めるように。ということで──
……ダニヤ長老は……。
3. 1. 5. マータンガプッタ長老の詩偈
231.(231) 「これは、寒過ぎる、暑過ぎる、〔もはや〕夕方過ぎと成った」〔と〕、かくのごとく、若くある者が生業を捨て去ったなら、諸々の時節は、〔無駄に〕過ぎ行く。
232.(232) しかしながら、すなわち、そして、寒さを、さらに、暑さを、〔道端の〕草よりもより一層のものと思い考えないなら、諸々の人として為すべきことを為しながら、彼は、安楽から衰退しない。
233.(233) ダッパ〔草〕を、クサ〔草〕を、ポータキラ〔草〕を、ウシーラ〔草〕を、ムンジャ〔草〕とパッバジャ〔草〕を、〔わたしは〕胸をもって除け行くであろう──遠離〔の境地〕を増進しながら。ということで──
……マータンガプッタ長老は……。
3. 1. 6. クッジャソービタ長老の詩偈
234.(234) すなわち、様々な言説ある者たちにして、多聞の者たちである、パータリプッタの住者たる沙門たちで、彼らのなかの随一の長寿者たる、この者は、クッジャソービタは、〔七葉窟の〕門に立つ。
235.(235) すなわち、様々な言説ある者たちにして、多聞の者たちである、パータリプッタの住者たる沙門たちで、彼らのなかの随一の長寿者たる、この者は、風に揺られ、〔七葉窟の〕門に立つ。
236.(236) 善き戦い(修行)あることで、善き備えもの(施物)あることで、そして、戦場(煩悩)を征圧することで、まさしく、梵行(禁欲清浄行)の歩みあることで、この者は、安楽に満ち栄える。ということで──
……クッジャソービタ長老は……。
3. 1. 7. ヴァーラナ長老の詩偈
237.(237) 彼が誰であれ、この〔世において〕、人間たちのなかで、他の命あるものたちを害するなら、人として、この世から〔転落し〕、さらに、他〔の世〕から〔転落し〕、両者から転落する。
238.(238) しかしながら、彼が、慈愛の心によって、全ての命あるものを慈しむなら、そのような者は、人として、まさに、彼は、多くの功徳を生み出す。
239.(239) 見事に語られた〔覚者の教え〕を学ぶがよい──かつまた、沙門の従事すること(瞑想)を、かつまた、静所で独坐することを、かつまた、心の寂止を。ということで──
……ヴァーラナ長老は……。
3. 1. 8. ヴァッシカ長老の詩偈
240.(240) この〔世において〕、信なき親族たちがいるなかで、たとえ、一者であれ、信ある者は、思慮ある者は、眷属たちの義(利益)のために、法(正義)に依って立つ者と〔成り〕、戒を成就した者と成る。
241.(241) 慈しみ〔の思い〕で批判して、わたしは、親族たちを叱咤した──比丘たちのなかにおいて、親族や眷属たちへの愛情によって、〔比丘として〕為すことを為して。
242.(242) 彼らは去り行き、命を終えたが、彼らは至り得たのだ──三十三〔天〕の安楽に。わたしの、兄弟たちは、さらに、母は、〔天上において〕歓喜する──欲するままに欲する者たちとなり。ということで──
……ヴァッシカ長老は……。
3. 1. 9. ヤソージャ長老の詩偈
243.(243) カーラー〔樹〕の結節に似た手足となり、痩せ細り、〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がったとして、食べ物と飲み物について量を知る者は、人として、卑屈ならざる意ある者となる。
244.(244) 林や密林のなかで虻たちや蚊たちに襲われたとして、戦場の先頭にいる象のように、そこにあって、気づきある者となり、〔苦しみを〕耐え忍ぶがよい。
245.(245) すなわち、梵〔天〕(ブラフマー神)のように、そのように、一者あり──すなわち、天〔の神〕のように、そのように、二者あり──すなわち、村のように、そのように、三者あり──それ以上は、喧噪となる。ということで──
……ヤソージャ長老は……。
3. 1. 10. サーティマッティヤ長老の詩偈
246.(246) かつて、あなたには、信が有った。今日、それは、あなたには見出されない。それが、あなたのものであるなら、これは、まさしく、あなたのものである。わたしには、悪しき行ないは存在しない。
247.(247) まさに、信は、常住ならず、動揺するものである。まさに、それは、わたしによって、このように見られた。たとえ、〔信頼の思いに〕染まるも、〔世の人々は、簡単に〕離染する。そこにおいて、牟尼(沈黙の聖者)は、何を失うというのだろう。
248.(248) 牟尼の食事は、家々において少しずつ煮られる(調理される)。〔行乞の〕食のために、〔わたしは〕歩むであろう。わたしには、〔歩くための〕脛の力が存在する。ということで──
……サーティマッティヤ長老は……。
3. 1. 11. ウパーリ長老の詩偈
249.(249) 信によって〔家から〕出て、新たに出家した新参の者は、休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある、善き朋友たちと親しくするがよい。
250.(250) 信によって〔家から〕出て、新たに出家した新参の者は、僧団のうちに住む聡明なる比丘となり、律(規律)を学ぶがよい。
251.(251) 信によって〔家から〕出て、新たに出家した新参の者は、諸々の適確なることと適確ならざることに巧みな智ある者となり、〔何も〕偏重せず、〔世を〕歩むがよい。ということで──
……ウパーリ長老は……。
3. 1. 12. ウッタラパーラ長老の詩偈
252.(252) まさに、賢者にして寂静者たるわたしを、十分なる義(利益)の熟慮者たるわたしを、世における等しき迷妄である五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)が打ち倒した。
253.(253) 悪魔の境域に陥り、堅固な矢に射抜かれた、わたしであるが、死魔の王の罠から解き放たれることができた。
254.(254) わたしによって、一切の欲望〔の対象〕は捨棄され、一切の〔迷いの〕生存は破られた。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……ウッタラパーラ長老は……。
3. 1. 13. アビブータ長老の詩偈
255.(255) 全ての親族たちよ、聞け──ここにおいて集いあつまった、そのかぎりの者たちは。〔わたしは〕あなたたちに、法(教え)を説示するであろう。生〔の輪廻〕は、繰り返し、苦しみである。
256.(256) 励め、勤しめ、覚者の教えに専念せよ。象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、死魔の軍団を打ち払え。
257.(257) すなわち、この法(教え)と律(規律)において、〔気づきを〕怠ることなく〔世に〕住むなら、生の輪廻を捨棄して、苦しみの終極を為すであろう。ということで──
……アビブータ長老は……。
3. 1. 14. ゴータマ長老の詩偈
258.(258) まさに、〔わたしは〕輪廻しつつ、地獄に赴いた。繰り返し、餓鬼の世に赴いた。苦しみあふれるなか、畜生の胎においてもまた、まさに、幾種に、長きにわたり、わたしは住した。
259.(259) さらに、また、人間としての生存に満悦し、一回、〔また〕一回と、天上の衆に赴いた。諸々の形態ある界域(色界)において、諸々の形態なき界域(無色界)において、表象あるにもあらず〔表象なきにもあらざる認識の場所〕(非想非非想処)において、諸々の表象なきところにおいて、〔わたしは〕止住した。
260.(260) 〔世に〕発生する諸々のものは、真髄なきもの、形成されたもの(有為)、動揺するもの、常に動くものと、善く知られた(あるがままに見られた)。それを、自己から発生するものと知って、わたしは、気づきの者となり、まさしく、寂静〔の境処〕に正しく到達した。ということで──
……ゴータマ長老は……。
3. 1. 15. ハーリタ長老の詩偈
261.(261) すなわち、彼が、前に為すべき諸々のことを、後に為すことを求めるなら、彼は、安楽の境位から転落し、そして、のちに悩み苦しむ。
262.(262) まさに、それを為すなら、まさに、それを説くように。それを為さないなら、それを説かないように。賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する。
263.(263) 極めて安楽なるは、まさに、正等覚者によって説示された、涅槃〔の境処〕である。そこにおいて、苦しみが止滅するところ、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、平安〔の境地〕である。ということで──
……ハーリタ長老は……。
3. 1. 16. ヴィマラ長老の詩偈
264.(264) 悪しき朋友たちを避けて、最上の人と親しくするべきである。そして、不動の安楽を切望している者は、彼(最上の人)の教諭において安立するべきである。
265.(265) 小さな木片に登っても、すなわち、大海においては沈み行くように、このように、怠惰の者を頼りにして、善き生ある者もまた沈み行く。それゆえに、彼を遍く避けるべきである──精進に劣る怠惰の者を。
266.(266) 〔世俗から〕遠離する聖者たちと、自己を精励する瞑想者たちと、常に精進に励む賢者たちと、共に住むべきである。ということで──
……ヴィマラ長老は……。
三なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「アンガニカ・バーラドヴァージャ、パッチャヤ、バークラ聖賢、ダニヤ、マータンガプッタ、ソービタ(クッジャソービタ)、ヴァーラナ聖賢──
そして、ヴァッシカ、そして、ヤソージャ、そして、サーティマッティヤとウパーリ、ウッタラパーラ、アビブータ、ゴータマ、そして、また、ハーリタ──
〔為すべきことを〕為したヴィマラ長老が、涅槃にあり、三なるものの集まりにおいて、四十八の詩偈があり、十六者の長老たちが述べ伝えられた」と。
4. 四なるものの集まり
4. 1. 第一の章
4. 1. 1. ナーガサマーラ長老の詩偈
267.(267) 〔装いを〕十分に作り為し、美しい衣で、花飾をつけ、栴檀〔の香り〕芳しく、踊り女が、楽器にあわせ、大道の中央で舞う。
268.(268) 〔行乞の〕食のために〔町に〕入ったわたしは、〔町を〕赴きながら、彼女を凝視した──〔装いを〕十分に作り為し、美しい衣なるも、〔悪意をもって〕仕掛けられた、死魔の罠のような〔彼女〕を。
269.(269) そののち、わたしに、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)が生起した。〔世の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕が確立した。
270.(270) そののち、わたしの心は解脱した。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……ナーガサマーラ長老は……。
4. 1. 2. バグ長老の詩偈
271.(271) わたしは、眠気に襲われ、精舎から出て行った。〔歩行瞑想をするべく〕歩行場に登りながら、まさしく、そこにおいて、地に落ちた。
272.(272) 五体をさすって、ふたたび、歩行場に登って、歩行場において歩行〔瞑想〕をした。〔まさに〕その、わたしは、内に〔心が〕善く定められた者となる。
273.(273) そののち、わたしに、根源のままに意を為すことが生起した。〔世の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕が確立した。
274.(274) そののち、わたしの心は解脱した。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……バグ長老は……。
4. 1. 3. サビヤ長老の詩偈
275.(275) しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。そして、彼らが、そこにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執は静まる。
276.(276) そして、すなわち、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知せずにいるとき、〔彼らは〕不死の者たちであるかのように振る舞う。しかしながら、彼らが、法(真理)を識知するなら、病いある者たちのなかにいながら、病いなき者たちとなる。
277.(277) それが何であれ、緩慢な行為であるなら、さらに、それが、汚染された掟であり、疑いある梵行(禁欲清浄行)であるなら、それは、大いなる果と成らない。
278.(278) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(教え)から遠く離れて有る──天空が、地から〔遠く離れて有る〕ように。ということで──
……サビヤ長老は……。
4. 1. 4. ナンダカ長老の詩偈
279.(279) 〔この身体は〕厭わしきものとして存せ。〔汚物に〕満ち、悪臭があり、悪魔の徒党で、〔不浄物が〕漏れ出ている。おまえの身体には、一切時に〔不浄物が〕流れ出る、それらの九つの流れがある。
280.(280) 過去のことを思い考えてはならない。如来たちを侮蔑してはならない。彼らは、たとえ、天上においても、〔欲に〕染まらない。また、ましてや、人間〔の世〕においては、なおさらのこと。
281.(281) そして、まさに、思慮浅く、思慧に劣り、迷妄に包着された、それらの愚者たちは、そのような者たちは、悪魔によって放たれた〔欲の〕結縛において、そこにおいて、〔欲に〕染まる。
282.(282) 彼らの、そして、貪欲が、かつまた、憤怒が、さらに、無明が──〔それらが〕離貪されたなら、そのような者たちは、〔迷いの〕糸を断った〔欲の〕結縛なき者たちであり、そこにおいて、〔欲に〕染まらない。ということで──
……ナンダカ長老は……。
4. 1. 5. ジャンブカ長老の詩偈
283.(283) 五十五年のあいだ、〔わたしは〕塵や埃を〔身に〕保ってきた。月〔に一度〕の食事を食べながら、〔苦行のために〕髪や髭を抜かせてきた。
284.(284) 一足で立ち、坐具を遍く避けてきた。そして、諸々の乾燥した糞を喰い、かつまた、〔施食の〕指定を受けなかった。
285.(285) 悪しき境遇(悪趣)に至る、このような〔行為〕を多く為して、大激流に運ばれつつも、帰依所として、覚者のもとに至り着いた。
286.(286) 見よ──帰依所に赴くことを。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……ジャンブカ長老は……。
4. 1. 6. セーナカ長老の詩偈
287.(287) わたしにとって、まさに、善き訪問として存した。ガヤー〔川〕において、ガヤーのパッグ〔月の祭礼〕において、彼を、最上の法(真理)を説示している正覚者(ブッダ)を、〔わたしは〕見た。
288.(288) 偉大なる光ある方を、衆徒の師匠たる方を、至高〔の境地〕に至り得た方を、〔世の〕導き手たる方を、天を含む世の勝者たる方を、無比の見ある方を、〔わたしは見た〕。
289.(289) 偉大なる龍たる方を、偉大なる勇者たる方を、偉大なる光輝ある方を、煩悩なき方を、一切の煩悩が完全に滅尽した方を、〔世の〕教師たる方を、何も恐れない方を、〔わたしは見た〕。
290.(290) 長きにわたり〔心が〕汚染された、まさに、わたしを、〔悪しき〕見解の網に結縛されたセーナカを、彼は、世尊は、一切の拘束から解き放った。ということで──
……セーナカ長老は……。
4. 1. 7. サンブータ長老の詩偈
291.(291) 彼は、遅くする時に急ぎ、なおかつ、急ぐべきところで遅くする──〔物事を〕根源のままならずに差配することで、愚者は、苦しみを受ける。
292.(292) 彼の、諸々の義(目的)は遍く衰退する──黒分(月が欠ける期間)における月のように。そして、〔彼は〕盛名なき〔状態〕に至り得る。かつまた、朋友たちとは〔交友を〕遮られる。
293.(293) 彼は、遅くする時に遅くし、なおかつ、急ぐべきところで急ぐ──〔物事を〕根源のままに差配することで、賢者は、楽しみに至り得る。
294.(294) 彼の、諸々の義(目的)は円満成就する──白分(月が満ちる期間)における月のように。そして、〔彼は〕盛名と名誉に至り得る。朋友たちとは〔交友を〕遮られない。ということで──
……サンブータ長老は……。
4. 1. 8. ラーフラ長老の詩偈
295.(295) そして、すなわち、〔わたしは〕覚者の子(ブッダの実子)として〔世に〕存し、さらに、すなわち、諸々の法(事象)について眼ある者である。まさしく、両者を成就した者として、わたしのことを、〔人々は〕「幸いなるラーフラ」と知る。
296.(296) そして、すなわち、わたしの、諸々の煩悩は滅尽し、さらに、すなわち、さらなる生存は存在しない。〔わたしは〕阿羅漢(人格完成者)として、施与されるべき者として、三つの明知ある者として、不死〔の境処〕を見る者として、〔世に〕存している。
297.(297) 欲望の盲者たちは、〔愛欲の〕網に覆われた者たちであり、渇愛の覆いに覆われた者たちであり、怠りの眷属(悪魔)によって結縛された者たちであり、網の入り口にいる魚たちのようなもの。
298.(298) わたしは、その欲望を廃棄して、悪魔の結縛を断ち切って、渇愛を根ごと引き抜いて、〔心が〕清涼と成った〔わたし〕は、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。ということで──
……ラーフラ長老は……。
4. 1. 9. チャンダナ長老の詩偈
299.(299) 黄金〔の装飾品〕に等しく覆われ、奴婢たちの群れに囲まれた妻が、子を脇に抱えて、わたしのところに近づいてきた。
300.(300) そして、彼女を見て、自らの子の母(妻)がやってくるのを〔見て〕──〔装いを〕十分に作り為し、美しい衣なるも、〔悪意をもって〕仕掛けられた、死魔の罠のような〔彼女〕を〔見て〕──
301.(301) そののち、わたしに、根源のままに意を為すことが生起した。〔世の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕が確立した。
302.(302) そののち、わたしの心は解脱した。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……チャンダナ長老は……。
4. 1. 10. ダンミカ長老の詩偈
303.(303) 法(正義)は、まさに、法(正義)〔の道〕を歩む者を守る。善き歩みある法(正義)は、安楽をもたらす。これは、善き歩みある法(正義)における福利である。法(正義)〔の道〕を歩む者は、悪しき境遇(悪趣)に赴かない。
304.(304) まさに、法(正義)は、そして、法(正義)ならざるものは、両者は、報いを等しくせず、法(正義)ならざるものは、地獄へと導き、法(正義)は、善き境遇(善趣)へと至り得させる。
305.(305) 「まさに、それゆえに、諸々の法(正義)にたいし、欲〔の思い〕(意欲)を為すように」と、善き至達者たる如なる方(ブッダ)によって〔教え諭され、常に〕歓喜している者となる。法(正義)に安立した、優れた善き至達者の弟子たちは──至高にして優れた帰依所に至る、慧者たちは──〔覚者によって〕導かれる。
306.(306) 腫物の根は破断され、渇愛の網は完破された。彼は、〔生と死の〕輪廻が滅尽した者、そして、〔彼には〕何も存在しない──あたかも、満月〔の夜〕の月明かりのなかの月のように。ということで──
……ダンミカ長老は……。
4. 1. 11. サッパカ長老の詩偈
307.(307) すなわち、清らかで白い覆い(羽毛)の鶴たちが、黒雲の恐怖に怯え、避難所を探し求め、避難所へと逃げ行くとき、そのとき、アジャカラニー川〔の景色〕は、わたしを喜ばせる。
308.(308) すなわち、極めて清浄なる白い鶴たちが、黒雲の恐怖に怯え、〔身を寄せる〕洞窟を見つけられずに、洞窟を遍く探し求めるとき、そのとき、アジャカラニー川〔の景色〕は、わたしを喜ばせる。
309.(309) その〔川〕の両〔岸〕にあるジャンブ〔樹〕たちは、そこにおいて、いったい、誰を、喜ばせないというのだろう。わたしの洞窟の後ろにある川岸を、〔それらは〕美しく荘厳する。
310.(310) 蛇の群れからうまく逃れた、それらの蛙たちが、ゆっくりと鳴き声をあげる。今日は、山と川から離れ住む時にあらず。アジャカラニー〔川〕は、平安で、至福で、極めて喜ばしきもの。ということで──
……サッパカ長老は……。
4. 1. 12. ムディタ長老の詩偈
311.(311) 〔正しい〕生き方を義(目的)として、わたしは出家した。〔戒の〕成就を得て、そののち、信を獲得した。断固たる精進の者となり、〔覚者の教えにおいて〕勤しんだ。
312.(312) むしろ、この身体は、朽ち果てよ。諸々の肉片は、溶けてなくなれ。わたしの〔両の〕脛は、両膝の関節から落ちてしまえ。
313.(313) 〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらに、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう(横になって寝ない)──渇愛の矢が打破されないうちは。
314.(314) このように〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしの、精進と勤勉〔努力〕を見よ。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……ムディタ長老は……。
四なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ナーガサマーラ、そして、バグ、サビヤ、そして、また、ナンダカ、ジャンブカ、セーナカ長老、サンブータ、そして、また、ラーフラ──
チャンダナ長老が有り、これらの十者の覚者の弟子たちがある。ダンミカ、サッパカ長老、そして、また、ムディタがあり、それらの三者〔の長老たち〕がある。五十の詩偈があり、さらに、二つ〔の詩偈〕があり、全てもろともに、十三者の長老たちがある」と。
5. 五なるものの集まり
5. 1. 第一の章
5. 1. 1. ラージャダッタ長老の詩偈
315.(315) 比丘は、墓所に赴いて、廃棄された女を見た──墓場に捨てられ、諸々の虫で充満し、喰われている〔女〕を。
316.(316) まさに、或る者たちは、死んだ者を悪しきものと見て、それを忌避するが、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が、〔わたしに〕明らかと成った(死体に欲情した)。流れ出る〔汚物〕のなかにいる盲者のように、〔わたしは〕成った。
317.(317) 飯が炊き上がるよりも早く、〔わたしは〕その状況から立ち去った。気づきと正知の者となり、わたしは、一方に近坐した。
318.(318) そののち、わたしに、根源のままに意を為すこと(如理作意:固定概念なく思い考えること)が生起した。〔世の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕が確立した。
319.(319) そののち、わたしの心は解脱した。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……ラージャダッタ長老は……。
5. 1. 2. スブータ長老の詩偈
320.(320) 道理なきことに自己を結び付けつつ、為すべきことを求めている人が、もし、〔道を〕歩みながら、〔目標に〕到達できないなら、「それは、わたしにとって、不幸の特相である」〔と言う〕。
321.(321) もし、一つの過失〔のみ〕を引き抜き、征圧し、投げ捨てるなら、〔悪しき〕賽の目ある者のように存するであろう。もし、〔何であれ〕全てもろともに投げ捨てるなら、盲者のように存するであろう──正義と不正に見なきがゆえに。
322.(322) まさに、それを為すなら、まさに、それを説くように。それを為さないなら、それを説かないように。賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕遍知する。
323.(323) たとえば、また、好ましく、色艶ある花に、香り無きものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為さずにいる者には、果の無きものと成る。
324.(324) たとえば、また、好ましく、色艶ある花に、香り有るものがある(※)ように、このように、見事に語られた言葉は、為している者には、果の有るものと成る。ということで──
※ テキストには sugandhakaṃ とあるが、PTS版により sagandhakaṃ と読む。
……スブータ長老は……。
5. 1. 3. ギリマーナンダ長老の詩偈
325.(325) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。〔心が〕寂止した者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。
326.(326) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。心が寂静となった者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。
327.(327) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。貪欲(貪)を離れた者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。
328.(328) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。憤怒(瞋)を離れた者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。
329.(329) すなわち、見事なる旋律のままに、天は雨を降らせる。わたしの小屋は〔しっかりと〕覆われ、安楽で、無風である。迷妄(痴)を離れた者として、〔わたしは〕その〔小屋〕に住む。天よ、そこで、もし、望み求めるなら、雨を降らせよ。ということで──
……ギリマーナンダ長老は……。
5. 1. 4. スマナ長老の詩偈
330.(330) 師父(和尚)は、不死〔の境処〕(涅槃)を待ち望んでいる〔弟子〕を資助した──諸々の法(教え)において、それを切望しながら。わたしによって、〔弟子としての〕為すべき〔務め〕は為された。
331.(331) 伝え聞きではない〔あるがままの〕法(真理)は、自ら、実証され、獲得された。清浄の知恵ある者として、疑いなき者として、〔わたしは〕あなたの前で、〔了知を〕説き明かす。
332.(332) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。わたしによって、正なる義(目的)は獲得され、覚者の教えは為された。
333.(333) 〔気づきを〕怠らないわたしの学びは、あなたの教えにおいて、善く聞かれたものとなり、わたしの、一切の煩悩は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない。
334.(334) 聖なる掟〔の受持〕によって、〔あなたは〕わたしに教示した。〔あなたは〕慈しみ〔の思い〕ある者として、〔わたしを〕資助した。あなたの教諭は、無駄ならざるもの。〔あなたに〕学んだ内弟子として、〔わたしは〕存している。ということで──
……スマナ長老は……。
5. 1. 5. ヴァッダ長老の詩偈
335.(335) まさに、善きかな──母は、まさに、わたしのために、〔教えの〕鞭を示してくれた。彼女の言葉を聞いて、わたしは、生母に教示された者として、精進に励み、自己を精励し、最上の正覚に至り得たのだ。
336.(336) 〔わたしは〕阿羅漢として、施与されるべき者として、三つの明知ある者として、不死〔の境処〕を見る者として、〔世に〕存している。〔わたしは〕ナムチ(悪魔)の軍団に勝利して、煩悩なき者として〔世に〕住む。
337.(337) 〔かつて〕わたしに見出された、それらの煩悩は、かつまた、内も、かつまた、外も、全てが、残りなく断ち切られた。そして、ふたたび、生起することはない。
338.(338) まさに、〔道の〕熟達者である姉(母)は、この義(意味)を語った。「ああ、たしかに、もう、おまえの〔欲の〕林の下生えは、わたしにさえも、見出されない」〔と〕。
339.(339) 苦しみは、完全なる終極を為したのだ。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕。今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……ヴァッダ長老は……。
5. 1. 6. ナディー・カッサパ長老の詩偈
340.(340) まさに、わたしの義(利益)のために、覚者は、ネーランジャラー川に赴いた。彼の法(教え)を聞いて、わたしは、誤った見解(邪見)を避けた。
341.(341) わたしは、高下諸々の祭祀を執り行ない、祭火への捧げものを捧げてきた。暗愚と成った凡夫として、「これは、清浄である」と思いながら──
342.(342) 〔誤った〕見解の捕捉に陥り、偏執〔の思い〕に迷わされてきた。暗愚と成った無知なる者として、清浄ならざる〔境地〕を清浄と思いなしてきた。
343.(343) わたしによって、誤った見解は捨棄され、一切の〔迷いの〕生存は破られた。〔わたしは〕施与されるべき祭火(正しい供物)を捧げ、如来を礼拝する。
344.(344) わたしによって、一切の迷妄は捨棄され、〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕は破られた。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……ナディー・カッサパ長老は……。
5. 1. 7. ガヤー・カッサパ長老の詩偈
345.(345) 早朝に、日中に、夕方に、日に三回、わたしは、〔沐浴するべく〕水の流れに(※)入った──ガヤー〔川〕において、ガヤーのパッグ〔月の祭礼〕において。
※ テキストには sohaṃ とあるが、PTS版により sotaṃ と読む。
346.(346) 「過去における諸他の生において、わたしによって作り為された、〔まさに〕その、悪しきもの(悪業)──それを、今や、ここに、流し去るのだ」〔と〕、このような見解が、かつて、〔わたしに〕有った。
347.(347) 〔覚者の〕見事に語られた言葉を聞いて、法(真理)と義(道理)を伴った句を〔聞いて〕、真実を、あるがままの義(道理)を、根源のままに綿密に注視した。
348.(348) 〔わたしは〕一切の悪を洗い清めた者として、無垢にして〔心が〕制された清らかな者として、〔世に〕存している。清浄の者として、清浄なる方(ブッダ)の相続者として、覚者の子にして正嫡として、〔世に存している〕。
349.(349) 〔わたしは〕八つの支分ある〔聖なる〕流れ(八正道)に入って、一切の悪を流し去った。〔わたしは〕三つの明知に到達し、覚者の教えは為された。ということで──
……ガヤー・カッサパ長老は……。
5. 1. 8. ヴァッカリ長老の詩偈
350.(350) 〔世尊は尋ねた〕「あなたは、風の病に罹患した者でありながら、森や林に住んでいます。托鉢も適わない粗野なる〔状況〕にあるなか、〔あなたは〕比丘として、どのように為すのですか」〔と〕。
351.(351) 〔長老が答えた〕「〔瞑想の境地がもたらす〕広大なる喜悦と安楽(喜楽)によって〔この〕積身を充満しながら、粗野なる〔状況〕をもまた征服しつつ、森に住むでありましょう。
352.(352) 〔四つの〕気づきの確立(四念処・四念住)を修めながら、そして、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)を〔修めながら〕、さらに、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を修めながら、森に住むでありましょう。
353.(353) 精進に励み、自己を精励し、常に断固たる勤勉〔努力〕ある、和合者にして益を有する者たち(他の比丘たち)を見て、森に住むでありましょう。
354.(354) 〔心が〕定められた、至高の調御者たる、正覚者を随念しながら、夜に、昼に、休みなく、森に住むでありましょう」〔と〕。ということで──
……ヴァッカリ長老は……。
5. 1. 9. ヴィジタセーナ長老の詩偈
355.(355) 心よ、〔わたしは〕おまえを、楔ある門に象を〔繋ぎ止める〕ように、押さえ付けるであろう。肉体から生じる欲望の網よ、〔もはや〕おまえを、悪にたいし駆り立てはしないであろう。
356.(356) 押さえ付けられたおまえは、門を開くことを得ずにいる象のように、〔もはや、悪へと〕赴くことはないであろう。心よ、〔悪しき〕賽の目よ、去れ、そして、〔おまえが〕悪を喜ぶ者となり、繰り返し、〔悪の道を〕歩むことはないであろう。
357.(357) たとえば、鉤をもつ捕捉者(象使い)が、新しい捕捉〔の対象〕である、調御されていない象を、力のままに、〔象の〕欲さないところへと〔その向きを〕変えるように、このように、おまえ〔の向き〕を変えるであろう。
358.(358) たとえば、優れた馬を調御することに巧みな智ある最も優れた馭者が、良馬を調御するように、このように、五つの力(五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)における確立者として、おまえを調御するであろう。
359.(359) 気づき(念)によって、おまえを縛り付けるであろう。〔気づきに〕専念する者として、おまえを調御するであろう。心よ、精進という重荷で制御された〔おまえ〕は、これより遠くに赴くことはないであろう。ということで──
……ヴィジタセーナ長老は……。
5. 1. 10. ヤサダッタ長老の詩偈
360.(360) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者(ブッダ)の教えを聞くも、正なる法(教え)から遠く離れて有る──地が、天空から〔遠く離れて有る〕ように。
361.(361) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者の教えを聞くも、正なる法(教え)から遍く衰退する──黒分(月が欠ける期間)における月のように。
362.(362) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者の教えを聞くも、正なる法(教え)において遍く干上がる──あたかも、水少なきところにいる魚のように。
363.(363) 咎め立ての心ある、思慮浅き者は、勝者の教えを聞くも、正なる法(教え)において成長しない──田畑のなかの腐った種のように。
364.(364) しかしながら、彼が、〔足ることを知る〕満ち足りた心で、勝者の教えを聞くなら、〔彼は〕一切の煩悩を投棄して、不動〔の境地〕を実証して、最高の寂静に至り得て、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達する。ということで──
……ヤサダッタ長老は……。
5. 1. 11. ソーナ・クティカンナ長老の詩偈
365.(365) そして、わたしに、〔戒の〕成就は得られた。そして、〔わたしは〕煩悩なき解脱者として〔世に〕存している。そして、わたしによって、彼は、世尊は見られた。そして、〔わたしは〕精舎において〔彼と〕共に住んだ。
366.(366) 世尊は、まさしく、多くの夜を、野外で過ごした。精舎〔の住〕に巧みな智ある教師は、そのとき、精舎に入った。
367.(367) 大衣を広げて、ゴータマは、臥を営んだ──岩窟にある獅子のように、〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した者として。
368.(368) そののち、正等覚者の弟子にして、言葉を為すことに巧みな智ある者、ソーナは、最勝の覚者の面前において、正なる法(教え)を語った(経典を朗読した)。
369.(369) 五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊:色・受・想・行・識)を遍く知って、曲がりなき〔道〕を修めて、最高の寂静に至り得て、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで──
……ソーナ・クティカンナ長老は……。
5. 1. 12. コーシヤ長老の詩偈
370.(370) 彼が、まさに、導師たちの言葉を知る慧者として住し、さらに、その〔言葉〕にたいし愛情を生むなら、彼は、まさに、信愛ある者として、かつまた、賢者として、〔世に〕有る。そして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として〔世に〕存するであろう。
371.(371) 彼を、〔あるがままに〕審慮している者を、諸々の巨大なる災害が起きたとして、脅かすことがないなら(彼の世界にたいする気づきが中断されないなら)、彼は、まさに、強靭なる者として、かつまた、賢者として、〔世に〕有る。そして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として〔世に〕存するであろう。
372.(372) 彼が、まさに、海のように、安立し、不動で、深遠なる智慧があり、精緻なる義(道理)を見る者であるなら、まさに、不動の者として、かつまた、賢者として、〔世に〕有る。そして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として〔世に〕存するであろう。
373.(373) そして、多聞にして法(教え)を保つ者として〔世に〕有り、法(教え)を法(教え)のままに行なう者として〔世に〕有るなら、彼は、まさに、如なる者として、かつまた、賢者として、〔世に〕有る。そして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として〔世に〕存するであろう。
374.(374) 彼が、そして、語られたことの義(道理)を知り、さらに、義(道理)を知って、そのとおりに為すなら、彼は、まさに、内に義(道理)ある賢者として〔世に〕有る。そして、〔あるがままに〕知って、諸々の法(教え)における殊勝なる者として〔世に〕存するであろう。ということで──
……コーシヤ長老は……。
五なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「ラージャダッタ、そして、スブータ、ギリマーナンダとスマナ、そして、ヴァッダ、カッサパ長老(ナディー・カッサパ)、ガヤー・カッサパとヴァッカリ──
ヴィジタ(ヴィジタセーナ)、そして、ヤサダッタ、ソーナ(ソーナ・クティカンナ)、コーシヤという呼び名を有する者があり、そして、六十五の詩偈があり、そして、ここにおいて、十二者の長老たちがある」と。
6. 六なるものの集まり
6. 1. 第一の章
6. 1. 1. ウルヴェーラ・カッサパ長老の詩偈
375.(375) 福徳あるゴータマの、諸々の神変を見ても、それだけでは、平伏しなかった──嫉妬〔の思い〕と〔我想の〕思量(慢:思い上がりの心)によって〔心が〕騙されたわたしは。
376.(376) わたしの思惟を了知して、〔調御されるべき〕人の馭者たる方は、〔わたしを〕叱咤した。そののち、わたしに、未曾有にして身の毛のよだつ、畏怖〔の思い〕が存した。
377.(377) 過去においては、結髪の者として有ったわたしの、その神通は、ほんの小さなものであり、そのとき、わたしは、それを放却して、勝者の教えにおいて出家した。
378.(378) 過去においては、祭祀をすることで満足し、欲望の界域(欲界)を偏重していた〔わたし〕が、のちに、そして、貪欲(貪)を、かつまた、憤怒(瞋)を、さらに、また、迷妄(痴)を完破した。
379.(379) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。他者の心を知る神通ある者となり、そして、〔わたしは〕天耳に至り得た。
380.(380) そして、それを義(目的)として、家から家なきへと出家した〔わたし〕であるが、わたしによって、その義(目的)は獲得された──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽は。ということで──
……ウルヴェーラ・カッサパ長老は……。
6. 1. 2. テーキッチャカーリン長老の詩偈
381.(381) 〔悪魔が言った〕「諸々の米は収穫された。諸々の米は脱穀された。しかしながら、〔行乞の〕食を得ない。わたしは、どのように為すというのだろう」〔と〕。
382.(382) 〔長老は言った〕「浄信した者となり、無量なる覚者(仏:ブッダ)を随念せよ。喜悦〔の思い〕で肉体は充満し、常に勇躍する者と成るであろう。
383.(383) 浄信した者となり、無量なる法(法:ダンマ)を随念せよ。喜悦〔の思い〕で肉体は充満し、常に勇躍する者と成るであろう。
384.(384) 浄信した者となり、無量なる僧団(僧:サンガ)を随念せよ。喜悦〔の思い〕で肉体は充満し、常に勇躍する者と成るであろう」〔と〕。
385.(385) 〔悪魔が言った〕「〔おまえは〕野外に住む。冬の、この夜は寒い。寒さに打ち負かされ、打ちのめされてはならない。おまえは、閂が掛かった精舎に入れ」〔と〕。
386.(386) 〔長老は言った〕「〔わたしは〕四つの無量〔なる心〕(慈・悲・喜・捨の四無量心)を体得するであろう。そして、それらによって、安楽の者となり、〔世に〕住むであろう。動揺なき者となり、〔世に〕住んでいるわたしは、寒さに打ちのめされないであろう」〔と〕。ということで──
……テーキッチャカーリン長老は……。
6. 1. 3. マハー・ナーガ長老の詩偈
387.(387) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(教え)から遍く衰退する──あたかも、水少なきところにいる魚のように。
388.(388) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(教え)において成長しない──田畑のなかの腐った種のように。
389.(389) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕法(真理)の王(ブッダ)の教えにおいて、涅槃から遠く離れて有る。
390.(390) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められるなら、〔彼は〕正なる法(教え)から衰退しない──あたかも、水多きところにいる魚のように。
391.(391) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められるなら、彼は、正なる法(教え)において成長する──田畑のなかの善き種のように。
392.(392) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められるなら、法(真理)の王の教えにおいて、涅槃は〔彼の〕現前に有る。ということで──
……マハー・ナーガ長老は……。
6. 1. 4. クッラ長老の詩偈
393.(393) クッラは、墓所に赴いて、廃棄された女を見た──墓場に捨てられ、諸々の虫で充満し、喰われている〔女〕を。
394.(394) クッラよ、病んで腐った不浄なる積身を見よ──〔不浄物が常に〕滲み出ているものと、〔不浄物が常に〕流れ出ているものと、愚者たちが愉悦する〔この身体〕を〔見よ〕。
395.(395) 〔自己についてのあるがままの〕知見に至り得るために、法(真理)の鏡を掴んで、この身体を、綿密に注視した──内外共に、虚妄なるものと。
396.(396) すなわち、この〔身体〕のように、そのように、この〔死体〕はある。すなわち、この〔死体〕のように、そのように、この〔身体〕はある。すなわち、下にあるように、そのように、上にある。すなわち、上にあるように、そのように、下にある。
397.(397) すなわち、昼にあるように、そのように、夜にある。すなわち、夜にあるように、そのように、昼にある。すなわち、前にあるように、そのように、後にある。すなわち、後にあるように、そのように、前にある。
398.(398) 五つの支分ある楽器によっても、そのような喜びが有ることはない──すなわち、心が一境となり、正しく法(事象)を観察している者にある、〔そのような喜びは〕。ということで──
……クッラ長老は……。
6. 1. 5. マールキャプッタ長老の詩偈
399.(399) 〔気づきを〕怠るままに歩む人間の、渇愛〔の思い〕は増え行く──蔓草が〔生い茂る〕ように。彼は、あの〔世〕からあの〔世〕へと浮きただよう(輪廻を繰り返す)──林のなかで果実を求めている猿のように。
400.(400) 渇愛が、世における執着が、この卑しむべきものが、彼を打ち負かすなら、彼の、諸々の憂いは増え行く──雨を得たビーラナ〔草〕のように。
401.(401) しかしながら、渇愛を、世における超え難きものを、この卑しむべきものを、彼が打ち負かすなら、彼から、諸々の憂いは落ち行く──蓮〔の葉〕から、水の滴(しずく)が〔落ちる〕ように。
402.(402) 〔わたしは〕それを、あなたたちに説く。あなたたちに、幸せ〔有れ〕──ここにおいて集いあつまった、そのかぎりの者たちは。
渇愛の根を掘り崩せ──ウシーラ(ビーラナ草の根・香料として使う)〔の採取〕を義(目的)とする者が、ビーラナ〔草〕を〔掘る〕ように。あなたたちを、まさしく、流れが葦を〔打ちひしぐ〕ように、悪魔が、繰り返し、打ち砕くことがあってはならない。
403.(403) 覚者の言葉を為せ。〔この〕瞬間が、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔この〕瞬間を〔虚しく〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。
404.(404) 怠ること(放逸)は、塵である。怠ることがあり、怠ることから生み落とされる塵がある。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、明知によって、自己の矢を引き抜くがよい。ということで──
……マールキャプッタ長老は……。
6. 1. 6. サッパダーサ長老の詩偈
405.(405) わたしが出家した、そののち、二十五年のあいだ、指を弾くばかりのあいだでさえも、心の寂静に到達しなかった。
406.(406) 心の一境性を得ずして、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に苦悩する〔わたし〕は、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びながら、精舎から出て行った。
407.(407) あるいは、刃を持つのだ(自死する)。わたしにとって、生命に、どのような義(利益)があるというのだろう。まさに、学びを拒絶している、わたしのような者が、どのように、命を終えるというのだろう。
408.(408) そのとき、わたしは、剃刀を取って、臥床に近坐した。自己の血管を断つために、〔首筋へと〕完全に導かれた剃刀が、〔わたしに〕存した。
409.(409) そののち、わたしに、根源のままに意を為すことが生起した。〔世の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕が確立した。
410.(410) そののち、わたしの心は解脱した。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……サッパダーサ長老は……。
6. 1. 7. カーティヤーナ長老の詩偈
411.(411) カーティヤーナよ、奮起せよ。〔瞑想するために〕坐れ。眠り多き者と成ってはならない。〔眠らずに〕起きていよ。怠りの眷属である死魔の王が、まさしく、奸計によって、怠け者のおまえに勝利することがあってはならない。
412.(412) それは、たとえば、また、大海の衝撃であるかのように、このように、生と老は、おまえを超克する。〔まさに〕その、おまえは、自己の善き洲(依り所)を作れ。なぜなら、おまえにとって、他の救いは、まさしく、見出されないのだから。
413.(413) まさに、教師は、この道を征圧した(完成させた)──執着から、生と老の恐怖から、超え行ったものとして。夜の前後に、〔気づきを〕怠らず、〔心を一境に〕専念せよ。断固として、〔心の〕制止(瑜伽)を為せ。
414.(414) 大衣をまとい剃刀で剃髪し行乞〔の施食〕を受ける者となり、諸々の過去の結縛を解き放て。そして、遊興と歓楽に、眠りに、専念してはならない。カーティヤーナよ、瞑想せよ。
415.(415) カーティヤーナよ、瞑想せよ。勝て。束縛からの平安という〔無上なる〕道における善き熟知者として、〔おまえは〕存している。無上なる清浄に至り得て、〔おまえは〕完全なる涅槃に到達するであろう──火が、水によって〔消え行く〕ように。
416.(416) 灯火の作り手(灯明)の僅かな光は、風にたわむ蔓草のようなもの。インダ(インドラ神)と姓を共にする者(カーティヤーナ)よ、このように、また、おまえは、〔何も〕執取せずにいる者となり、悪魔〔の誘惑〕を振り払え。〔まさに〕その〔おまえ〕は、諸々の感受されたもの(感覚)について、貪欲を離れた者となり、まさしく、この〔世において〕、〔心が〕清涼と成った者として、〔死の〕時を待て。ということで──
……カーティヤーナ長老は……。
6. 1. 8. ミガジャーラ長老の詩偈
417.(417) 一切の束縛するものを超え行き、一切の〔輪廻の〕転起を滅ぼす〔教え〕が、覚者によって、太陽の眷属によって、眼ある方によって、見事に説示された。
418.(418) 〔この〕出脱〔の教え〕は、〔人々を彼岸に〕超え渡すものであり、渇愛の根元を干上がらせるものであり、毒根と刑場を断ち切って、寂滅〔の境処〕へと至り得させる。
419.(419) 無知の根元の破壊のために行為の機関(条件づけされ機械化された行為のあり方)を打破するものであり、諸々の識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)への執持に知恵の金剛を下すものである。
420.(420) 諸々の感受〔作用〕(受:認識対象を感受し楽苦の価値づけをする働き)を識知させるものであり、執取〔の思い〕を解き放つものであり、火坑のような〔迷いの〕生存を知恵によって随観するものである。
421.(421) 大いなる味わいあるものであり、極めて深遠なるものであり、老と死魔を防護するものであり、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)であり、苦しみを寂止するものであり、至福なるものである。
422.(422) 行為を「行為である」と知って、さらに、〔行為の〕報いを「〔行為の〕報いである」と〔知って〕、縁によって生起した諸々の法(縁已生法)をあるがままに照らし見るものであり、大いなる平安へと至るものであり、寂静なるものであり、極限の幸いなるものである。ということで──
……ミガジャーラ長老は……。
6. 1. 9. ジェンタ・プローヒタプッタ長老の詩偈
423.(423) 出生の驕慢によって驕慢したわたしは──そして、財物と権力によって、外貌と色艶と形姿によって、〔それらの〕驕慢によって驕慢したわたしは──〔驕慢なるままに〕歩んだ。
424.(424) 誰であれ、自己と等しい者と〔思わず〕、さらに、〔自己を〕超える者と思わなかった──高慢〔の思い〕に打破された愚者として──強情で、〔自己の〕旗を〔高く〕掲げた者として。
425.(425) 母を、さらに、また、父を、他の、導師として敬われる者たちをもまた、誰であれ、敬拝しなかった──〔我想の〕思量(慢)と強情〔の思い〕ある、礼を欠く者として。
426.(426) 至高の導き手にして、馭者たちのなかの優れた最上者たる方(ブッダ)を見て──太陽のように輝いている、比丘の僧団に囲まれた方を〔見て〕──
427.(427) そして、〔我想の〕思量と驕慢〔の思い〕を捨て放って、浄信した心で、一切の有情たちのなかの最上者たる方を、頭をもって敬拝した。
428.(428) そして、高慢と卑慢(自己増長と自己卑下)は捨棄され、善く完破された。「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)は断絶され、一切の思量の種類は打破された。ということで──
……ジェンタ・プローヒタプッタ長老は……。
6. 1. 10. スマナ長老の詩偈
429.(429) すなわち、〔わたしが〕生まれて七年で新たに出家したとき、大いなる神通ある龍のインダ(龍の王)を、神通によって征服して──
430.(430) 師父(ブッダ)のために、〔わたしは〕アノータッタの大池から水を運ぶ。そののち、教師は、わたしを見て、このことを説いた。
431.(431) 〔世尊は言った〕「サーリプッタよ、〔こちらに〕やってくる、この少年を見よ──水瓶を携えて、内に〔心が〕善く定められた者を。
432.(432) 浄信ある行持によって、善き振る舞いの道ある者である。アヌルッダの沙弥(見習い徒弟)は、そして、神通の熟達者である。
433.(433) 善き生まれの者によって善き生まれの者となり、善き者によって善き者に作り為された者である。為すべきことを為したアヌルッダによって教え導かれ学んだ者である。
434.(434) 彼は、最高の寂静に至り得て、不動〔の境地〕を実証して、沙弥である彼は、スマナは、『〔誰も〕わたしのことを知ってはならない』と求める」〔と〕。ということで──
……スマナ長老は……。
6. 1. 11. ナータカムニ長老の詩偈
435.(435) 〔世尊は尋ねた〕「あなたは、風の病に罹患した者でありながら、森や林に住んでいます。托鉢も適わない粗野なる〔状況〕にあるなか、〔あなたは〕比丘として、どのように為すのですか」〔と〕。
436.(436) 〔長老が答えた〕「〔瞑想の境地がもたらす〕広大なる喜悦と安楽によって〔この〕積身を充満しながら、粗野なる〔状況〕をもまた征服しつつ、森に住むでありましょう。
437.(437) 七つの覚りの支分(七覚支)を修めながら、そして、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)を〔修めながら〕、瞑想(禅・静慮)の繊細さを成就し、煩悩なき者となり、〔世に〕住むでありましょう。
438.(438) 諸々の汚れ(煩悩)から解脱した、濁りなき清浄の心を、〔繰り返し〕幾度となく綿密に注視しながら、煩悩なき者となり、〔世に〕住むでありましょう。
439.(439) 〔かつて〕わたしに見出された、それらの煩悩は、かつまた、内も、かつまた、外も、全てが、残りなく断ち切られました。そして、ふたたび、生起することはありません。
440.(440) 五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊)は遍く知られ、〔ここに〕止住するも、〔それらは〕根元から断たれました。苦しみの滅尽は獲得され、今や、さらなる生存は存在しません」〔と〕。ということで──
……ナータカムニ長老は……。
6. 1. 12. ブラフマダッタ長老の詩偈
441.(441) 忿激〔の思い〕なく、〔自己が〕調御され、平等の生ある者に、どうして、忿激〔の思い〕があるというのだろう──正しい了知による解脱者にして寂静者たる、そのような者に。
442.(442) すなわち、忿激した者に忿激し返すなら、それによって、まさしく、彼に、より悪しきことがある。忿激した者に忿激し返さずにいる者は、勝利し難き戦いに勝利する。
443.(443) 他者が激怒したのを知って、すなわち、気づきある者となり、〔怒り返さずに〕止み静まっているなら、かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者の義(利益)を行なう。
444.(444) かつまた、自己の、かつまた、他者の、両者のために癒している者を、彼のことを、〔世の〕人たちは、「愚者である」と思いなす──すなわち、法(真理)の熟知者ならざる者たちは。
445.(445) それで、もし、あなたに、忿激〔の思い〕が生起するなら、鋸の喩えを思案せよ。もし、味にたいし、渇愛〔の思い〕が生起するなら、子の肉の喩えを思念せよ。
446.(446) それで、もし、おまえの心が、そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、さらに、諸々の〔迷いの〕生存にたいし、走り行くなら、気づきによって、すみやかに制御せよ──穀物を食べる悪しき家畜を〔制御する〕ように。ということで──
……ブラフマダッタ長老は……。
6. 1. 13. シリマンダ長老の詩偈
447.(447) 覆われたものに、雨が漏れ入る(屋根があるから雨が漏る)。開かれたものに、雨が漏れ入ることはない。それゆえに、覆われたものを開くがよい。このように、その〔開かれたもの〕に、雨が漏れ入ることはない。
448.(448) 世〔の人々〕は、死魔によって侵され、老によって取り囲まれ、渇愛の矢によって貫かれ、常に、欲求によって燻られている。
449.(449) 世〔の人々〕は、死魔によって侵され、さらに、老によって取り巻かれ、救い手なく、常に打ちのめされている──棒(刑罰)に至り得た盗賊のように。
450.(450) 死魔と病と老の三者は、火の塊のようにやってくる。立ち向かうための力は存在せず、逃げ去るための速さも存在しない。
451.(451) 少なかろうと、あるいは、多かろうと、〔一〕日を、無駄ならざるものと為すように。その〔夜〕その夜を、〔無駄に〕捨棄するなら、彼の生命は、そのぶん少なくなる。
452.(452) 歩いているも、あるいは、また、立っているも、あるいは、坐すにも臥すにも、最後の夜は、〔確実に〕近づいてくる。おまえに、怠るための時はない。ということで──
……シリマンダ長老は……。
6. 1. 14. サッバカーミン長老の詩偈
453.(453) この二足の者(人間)は、不浄で、悪臭があり、〔諸々の手段によって、悪臭から〕守られている。種々なる死骸(汚物)で遍く満ち、そこかしこから、〔汚物が〕流れ出ている。
454.(454) 隠れている鹿を奸計によって〔捕獲するように〕、魚を釣針によって〔捕獲する〕ように、猿を鳥餅によって〔捕獲する〕ように、〔迷える〕凡夫を、〔五つの欲望の属性が〕捕縛する。
455.(455) 意が喜びとするのが、諸々の形態(色:眼の対象)であり、諸々の音声(声:耳の対象)であり、諸々の味感(味:舌の対象)であり、諸々の臭気(香:鼻の対象)であり、さらに、意が喜びとする諸々の感触(所触:身の対象)であるなら、これらの五つの欲望の属性(五妙欲)は、婦女の形姿のうちに見られる。
456.(456) すなわち、これら〔の婦女たち〕に仕え親しむのが、〔欲に〕染まった心の〔迷える〕凡夫たちである。〔彼らは〕おぞましき墓地を増大させ、さらなる生存を蓄積する。
457.(457) しかしながら、足で蛇の頭を〔避ける〕ように、彼が、これら〔の婦女たち〕を遍く避けるなら、彼は、世における、この執着を超克する──〔常に〕気づきある者として。
458.(458) 諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険を見て、離欲〔の境地〕を「平安である」と見て、一切の欲望〔の対象〕から出離した者となる。煩悩の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。ということで──
……サッバカーミン長老は……。
六なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、ウルヴェーラ・カッサパ、そして、テーキッチャカーリン長老、そして、マハー・ナーガ、そして、クッラ、マールキャ(マールキャプッタ)、サッパダーサカ(サッパダーサ)、カーティヤーナ、ミガジャーラ、ジェンタ(ジェンタ・プローヒタ)、スマナという呼び名を有する者、ナータムニ(ナータカムニ)、ブラフマダッタ、シリマンダ、そして、サッバカーミンがあり、八十四の詩偈があり、そして、ここにおいて、十四者の長老たちがある」と。
7. 七なるものの集まり
7. 1. 第一の章
7. 1. 1. スンダラサムッダ長老の詩偈
459.(459) 〔装いを〕十分に作り為し、美しい衣で、花飾を〔身に〕付け、飾り立てられ、〔両の〕足に〔赤の〕染料を為した娼婦が、〔両の足に〕履物を履いて〔やってきた〕。
460.(460) 〔両の足の〕履物を脱いで、〔わたしの〕前で、合掌を為した彼女は、わたしに、優しく柔らかな〔声〕で、まずは微笑し、〔このように〕語った。
461.(461) 〔娼婦が言った〕「あなたは、若き出家者として存しています。わたしの教えに依って立ちなさい。人間のものとしてある諸々の欲望〔の対象〕を享受しなさい。わたしは、あなたに、富を与えましょう。真に、あなたのために、明言します(誓います)。あるいは、あなたのために、わたしは、〔誓いの〕火をもってきましょう。
462.(462) 〔わたしとあなたの〕両者が、杖を行き着く所とする、老いた者たちと成るであろう、そのとき、両者ともどもに出家するのです。〔この世とあの世の〕両所において、幸運を掴む者となります」〔と〕。
463.(463) そして、合掌を為し、乞うている、その娼婦を見て──〔装いを〕十分に作り為し、美しい衣なるも、〔悪意をもって〕仕掛けられた、死魔の罠のような〔彼女〕を〔見て〕──
464.(464) そののち、わたしに、根源のままに意を為すことが生起した。〔世の〕危険は明らかと成り、厭離〔の思い〕が確立した。
465.(465) そののち、わたしの心は解脱した。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。ということで──
……スンダラサムッダ長老は……。
7. 1. 2. ラクンダカ・バッディヤ長老の詩偈
466.(466) アンバータカの林園の彼方にある、林の茂みのなかで、バッディヤは、渇愛を根ごと引き抜いて、そこにおいて、まさしく、幸いなる者となり、〔独り〕瞑想する。
467.(467) 或る者たちは、諸々の小鼓で、諸々の琵琶で、さらに、諸々の銅鼓で、喜び楽しむ。しかしながら、わたしは、木の根元において、覚者の教えを喜ぶ者となる。
468.(468) もし、覚者が、わたしに、優れたものを与えるなら、そして、その優れたものは、わたしによって得られるであろう。わたしは、一切の世〔の人々〕のためとなる、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)を、常に収め取るであろう。
469.(469) 彼ら、形態(外見)によってわたしを量ってきた者たち──さらに、彼ら、〔伝え聞きの〕評判によって〔わたしに〕従ってきた者たち──欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の支配に近づいた、それらの人たちは、わたしのことを知らない。
470.(470) 遍きにわたり妨げある愚者は、そして、内に知らず、さらに、外に見ない──彼は、まさに、〔伝え聞きの〕評判によって運ばれる。
471.(471) 外の果に見ある者は、そして、内に知らず、しかしながら、外に観察する──彼もまた、〔伝え聞きの〕評判によって運ばれる。
472.(472) 妨げなき〔あるがままの〕見ある者は、そして、内に覚知し、さらに、外に観察する──彼は、〔伝え聞きの〕評判によって運ばれない。ということで──
……ラクンダカ・バッディヤ長老は……。
7. 1. 3. バッダ長老の詩偈
473.(473) わたしは、母に愛され、父に愛される、独り子として〔世に〕存した──多くの掟と性行によって、そして、諸々の祈願によって、得られた〔独り子〕として。
474.(474) そして、彼らは、慈しみ〔の思い〕によって、わたしを──〔わたしの〕義(利益)を欲し、益を探し求める者たちである、そして、父は、さらに、母は、両者ともに、覚者に差し出した。
475.(475) 〔世尊に、母と父は言った〕「為すべきこと〔を為したこと〕から〔わたしたちに〕得られた、この子は、繊細で安楽のうちに生長した者です。〔世の〕主たる方よ、〔わたしたちは〕この〔子〕を、勝者の侍者として、あなたに施します」〔と〕。
476.(476) そして、教師は、わたしを受け取って、アーナンダに、このことを説いた。〔世尊は言った〕「この〔子〕を、すみやかに出家させなさい。この〔子〕は、善き生まれの者と成るでしょう」〔と〕。
477.(477) 教師は、わたしを出家させて、勝者は、精舎に入った。そののち、わたしの心は、太陽が沈まないうちに解脱した。
478.(478) そののち、教師は、〔自らの瞑想の境地を〕放却して、静坐から出起し、「バッダよ、来たれ」と、わたしに言った。それは、わたしにとって、〔戒の〕成就として存した。
479.(479) 生まれて七年で、わたしに、〔戒の〕成就は得られた。三つの明知は獲得された。ああ、法(教え)の善き法(教え)たることよ。ということで──
……バッダ長老は……。
7. 1. 4. ソーパーカ長老の詩偈
480.(480) 最上の人たる方(ブッダ)が高楼の影で歩行〔瞑想〕をしているのを見て、そこにおいて、彼のもとへと近づいて行って、最上の人士たる方を敬拝した。
481.(481) 衣料を一方の肩に掛けて、〔両の〕手を合わせて、一切の有情たちのなかの最上者たる〔世俗の〕塵を離れる方に従い歩行〔瞑想〕をした。
482.(482) そののち、諸々の問いの熟知者にして知者たる方は、わたしに、諸々の問いを尋ねた。そして、驚愕もなく、さらに、恐怖もなく、わたしは、〔世の〕教師たる方に説き明かした。
483.(483) 如来は、諸々の問いが答えられたとき、随喜し、比丘の僧団を顧みて、この義(意味)を語った。
484.(484) 〔世尊は言った〕「アンガ〔国〕には、マガダ〔国〕には、諸々の利得があります。彼らの、衣料を、そして、〔行乞の〕施食を、日用品(薬品)を、臥坐具を、さらに、〔歓迎の〕立礼を、適正〔なる接待〕を、この者(ソーパーカ長老)が遍く受益するからには。彼らには、諸々の利得があります」と。そして、〔如来は〕説いた。
485.(485) 〔世尊は言った〕「ソーパーカよ、今日以後は〔遠慮せず〕、わたしのもとへと、会見するために近づいて行きなさい。ソーパーカよ、まさしく、そして、これが、あなたにとって、〔戒の〕成就として有れ」〔と〕。
486.(486) 生まれて七年で、わたしは、〔戒の〕成就を得て、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)。ああ、法(教え)の善き法(教え)たることよ。ということで──
……ソーパーカ長老は……。
7. 1. 5. サラバンガ長老の詩偈
487.(487) 〔わたしは〕諸々の葦を〔両の〕手で折って、小屋を作って暮らした。それによって、わたしには、〔世間一般の〕慣習(世俗:社会通念)から、「サラバンガ(葦を折る者)」という名前が有った。
488.(488) 今日、諸々の葦を〔両の〕手で折るのは、わたしにとって適確ならず。福徳あるゴータマによって、諸々の学びの境処(戒律)が、わたしたちのために制定されたのだ。
489.(489) 過去において、サラバンガは、全体なるものとして、完全なるものとして、〔世の〕病を見なかった(世界の悩み苦しみに気づかなかった)。〔まさに〕その、この病は、天を超える方の言葉を為すことで〔あるがままに〕見られた。
490.(490) まさしく、その道によって〔実践し、涅槃に〕赴いたのが、〔過去仏の〕ヴィパッシンであるなら──まさしく、その道によって〔実践し、涅槃に赴いたのが〕、そして、〔過去仏の〕シキンとヴェッサブーであり、さらに、〔過去仏の〕カクサンダとコーナーガマナとカッサパであるなら──〔まさに〕その、曲がりなき〔道〕によって、ゴータマは〔実践し、涅槃に〕赴いた。
491.(491) 〔これらの〕七者の覚者たちは、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、滅尽〔の境地〕に沈潜した者たちである。彼らによって、この法(真理)が、〔世に〕説示されたのだ──法(真理)と成った、そのような者たちによって。
492.(492) 命あるものたちへの慈しみ〔の思い〕によって、四つの聖なる真理(四聖諦)が〔説示された〕──苦しみが、〔苦しみの〕集起が、〔涅槃に至る〕道が、苦しみの消滅という止滅〔の境地〕が。
493.(493) その〔止滅の境地〕があるとき、輪廻における終極なき苦しみは退転する。この身体の破壊ののち、そして、生命の消滅あることから、他の、さらなる生存は存在しない。〔わたしは〕一切所に〔心が〕善く解脱した者として存している。ということで──
……サラバンガ長老は……。
七なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「スンダラサムッダ長老、ラクンダカ・バッディヤ長老、そして、バッダ長老、ソーパーカ、大いなる聖賢たるサラバンガがあり、七なるもの〔の集まり〕において、五者の長老たちがあり、三十五の詩偈がある」と。
8. 八なるものの集まり
8. 1. 第一の章
8. 1. 1. マハー・カッチャーヤナ長老の詩偈
494.(494) 〔世俗に関わる〕多くの行為を為さないように。〔世俗に関わる〕人を遍く避けるように。〔俗事に〕努めないように。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味にたいし貪求ある者である。
495.(495) すなわち、家々における、この敬拝と供養であるが、まさに、それを、〔賢者たちは〕「汚泥である」と知らせた。繊細な矢は抜き難く、〔他者からの〕尊敬は、俗人には捨て難い。
496.(496) 他の人間の行為と比較して、悪しき〔行為〕となるのではない。その〔悪しき行為〕に、自己みずから、慣れ親しむべきではない。なぜなら、行為の眷属として、人間たちはあるからである。
497.(497) 他者の言葉ゆえに、盗賊となるのではない。他者の言葉ゆえに、牟尼となるのではない。そして、すなわち、彼のことを、自己が知ったとおりに、天〔の神々〕たちもまた、彼のことを、そのとおりに知る。
498.(498) しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。そして、彼らが、そこにおいて、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執は静まる。
499.(499) あるいは、また、智慧を有する者は、たとえ、富の完全なる滅尽あるも、生きる。そして、智慧の利得なきによって、たとえ、富める者なるも、生きず。
500.(500) 〔人は〕一切を耳で聞く。〔人は〕一切を眼で見る。そして、見られたものと聞かれたものの一切を廃棄するのは、慧者として、ふさわしからず(一切をあるがままに知り見るべきである)。
501.(501) 眼ある者は、盲者のように、耳ある者は、聾者のように、存するであろう。智慧ある者は、唖者のように、力ある者は、力弱き者のように、存するであろう。そこで、義(事態)が生起したとき(死の時が来たなら)、〔彼は〕臥すであろう──死者の臥床に。ということで──
……マハー・カッチャーヤナ長老は……。
8. 1. 2. シリミッタ長老の詩偈
502.(502) 忿激せず、怨恨なく、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者──彼は、まさに、そのような者である比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。
503.(503) 忿激せず、怨恨なく、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者──常に〔感官の〕門が守られた比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。
504.(504) 忿激せず、怨恨なく、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者──彼は、善き戒ある比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。
505.(505) 忿激せず、怨恨なく、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者──彼は、善き朋友ある比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。
506.(506) 忿激せず、怨恨なく、幻惑〔の策略〕なく、中傷〔の思い〕を遠ざけた者──彼は、善き智慧ある比丘は、このように、死してのち、憂い悲しまない。
507.(507) その者の、如来にたいする信が、不動にして、善く確立されたなら、そして、その者の、戒が、善きものであり、聖者たちの欲するところであり、賞賛するところであるなら──
508.(508) その者に、僧団にたいする浄信が存在し、そして、真っすぐと成った見が〔存在するなら〕、彼のことを、〔賢者たちは〕「貧ならざる者」と言う。彼の生は、無駄ならざるもの。
509.(509) それゆえに、そして、〔覚者にたいする〕信に、さらに、〔聖者たちの〕戒に、〔僧団にたいする〕浄信に、法(教え)の見に、専念するべきである──思慮ある者となり、覚者たちの教えを〔常に〕思念しながら。ということで──
……シリミッタ長老は……。
8. 1. 3. マハー・パンタカ長老の詩偈
510.(510) すなわち、〔世の〕教師たる方を、何も恐れない方を、最初に見たとき、最上の人士たる方を見て、そののち、わたしには、畏怖〔の思い〕が有った。
511.(511) その者が、やってきた吉祥を〔両の〕手と〔両の〕足で突き放すなら、彼は、このような教師に達しても、〔結局は〕失うことになる。
512.(512) そのとき、わたしは、子を、そして、娘を、さらに、財産と穀物を、〔一切を〕捨て放った。〔わたしは〕諸々の髪と髭を断ち切らせて、〔家から〕家なきへと出家した。
513.(513) 〔真の〕学びと正しい生き方(行持規定)を成就した者となり、諸々の〔感官の〕機能において善く統御された者となり、正覚者を礼拝しながら、敗れることなき者として〔世に〕住んだ。
514.(514) そののち、わたしには、誓願が存した。心には、切望が〔存した〕。「渇愛の矢が打破されないうちは、寸時でさえも、坐らないであろう」〔と〕。
515.(515) このように〔世に〕住んでいる、〔まさに〕その、わたしの、精進と勤勉〔努力〕を見よ。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。
516.(516) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。〔わたしは〕阿羅漢として、施与されるべき者として、〔世に〕存している。解脱者として、依り所なき者として、〔世に存している〕。
517.(517) そののち、夜の明け方、日の出に向けて、一切の渇愛を干上がらせて、結跏をもって近坐した(足を組み瞑想した)。ということで──
……マハー・パンタカ長老は……。
八なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「マハー・カッチャーヤナ長老、シリミッタ、マハー・パンタカがあり、八なるものの集まりにおいて、これら〔の三者の長老たち〕があり、二十四の詩偈がある」と。
9. 九なるものの集まり
9. 1. 第一の章
9. 1. 1. ブータ長老の詩偈
518.(518) すなわち、賢者が、「そこにおいて、無知なる凡夫たちが依存してきた、老と死は、苦しみである」と、苦しみを遍く知って、まさしく、気づきある者となり、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
519.(519) すなわち、苦しみをもたらす執着〔の思い〕を、苦しみをもたらす戯論(妄想)の群結を、渇愛〔の思い〕を捨棄して、まさしく、気づきある者となり、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
520.(520) すなわち、四つの支分ある二つのもの(四向四果)に至る至福〔の道〕を、一切の〔心の〕汚れ(煩悩)を清める最上の道を、智慧によって見て、まさしく、気づきある者となり、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
521.(521) すなわち、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、形成されたものではなく(無為)、一切の〔心の〕汚れを清める、寂静の境処(涅槃)を、束縛と結縛を断ち切るものを修めるとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
522.(522) すなわち、天空に、雨雲の雷鼓が鳴り響き、鳥道に、遍きにわたり流雨が満ち溢れ、そして、比丘が、まさしく、洞窟に赴き、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
523.(523) すなわち、花々に満ち溢れ、様々な彩りの灌木の花環ある、諸々の川の岸辺に坐り、まさしく、悦意の者となり、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
524.(524) すなわち、深夜、うらさびしい森のなか、天が〔雷鳴を〕ガラガラと鳴り響かせ、牙ある〔獅子〕たちが吼え叫び、そして、比丘が、まさしく、洞窟に赴き、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
525.(525) すなわち、自己の、諸々の思考を破却して、山の〔岩の〕裂け目に依拠した者が、山間において、まさしく、〔心の〕懊悩を離れ、鬱積〔の思い〕を離れ、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。
526.(526) すなわち、安楽の者となり、〔世俗の〕垢と鬱積〔の思い〕と憂い〔の思い〕を滅ぼす者となり、〔無明の〕閂なき者となり、〔欲の〕林の下生えなき者となり、〔渇愛の〕矢を抜いた者となり、まさしく、一切の煩悩の終息を為した者となり、〔独り〕瞑想するとき、それよりもより最高なる喜びを、〔彼は〕見出せない。ということで──
……ブータ長老は……。
九なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「真実の見者たるブータ長老が、犀の角たる者として、独りあり、九なるものの集まりにおいて、これらの九つの詩偈もまたある」と。
10. 十なるものの集まり
10. 1. 第一の章
10. 1. 1. カールダーイン長老の詩偈
527.(527) 〔旅立つ世尊に、長老は詩偈を唱えた〕「幸甚なる方よ、今や、木々は炭火〔の色〕となり、果を探し求め、〔葉の〕覆いを捨棄して、それらは、火炎のように、〔四方を〕照らします。偉大なる勇者よ、〔今や〕諸々の味を分け合う時です。
528.(528) 木々は咲き誇り、意が喜びとするものとなり、遍きにわたり、全ての方角に香りただよいます──葉を捨棄して、果を願い求めながら。勇者よ、〔今や〕ここから立ち去る時です。
529.(529) まさしく、寒過ぎることもなく、かつまた、暑過ぎることもありません。幸甚なる方よ、旅に適した、安楽なる季節です。サーキヤ〔族〕の者たちは、さらに、コーリヤ〔族〕の者たちは、ローヒニー〔川〕の西側へと超え渡る、あなた〔の姿〕を見よ。
530.(530) 願望あるがゆえに、〔耕作者は〕田畑を耕します。願望あるがゆえに、種子は蒔かれます。願望あるがゆえに、財を運ぶ商人たちは、海を行きます。その願望あるがゆえに、〔わたしが〕依って立つ──わたしの、その願望は、等しく実現せよ。
531.(531) まさしく、そして、繰り返し、〔耕作者たちは〕種を蒔きます。繰り返し、天の王は雨を降らせます。繰り返し、耕作者たちは田畑を耕作します。繰り返し、穀物は国土に近しく至ります(国土に収穫をもたらす)。
532.(532) 繰り返し、乞う者たちは〔食を〕乞います。繰り返し、施主たちは〔施物を〕施します。繰り返し、施主たちは〔施物を〕施して、繰り返し、天上の境位に近しく至ります。
533.(533) その家に、広き智慧ある者が生まれるなら、勇者〔の徳〕は、まさに、七代〔の父母〕に行き及びます。釈迦〔族〕の者(ブッダの父のスッドーダナ)よ、わたしは、〔あなたを〕『天のなかの天である』と思います。なぜなら、あなたによって、牟尼が、真の名ある方が、生まれたからです。
534.(534) 偉大なる聖賢の父は、スッドーダナという名の者です。いっぽう、覚者の母は、マーヤーという名の者です。彼女は、菩薩(ブッダ)を子宮で守って、身体の破壊ののち、三十三〔天〕において歓喜します。
535.(535) 彼女は、ゴータミー(マーヤー)は、命を終え、ここから死滅し、天の諸々の欲望〔の対象〕を保有する者と成ったのです。彼女は、それらの天の身体ある者たちに取り囲まれ、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)によって歓喜します。
536.(536) 〔わたしは〕覚者の子(仏弟子)として存しています──〔誰も〕成し遂げられないことを成し遂げる方の〔子として〕、対する者なき方の〔子として〕、アンギーラサ(放光者・ブッダの尊称の一つ)の〔子として〕、如なる方の〔子として〕。釈迦〔族〕の者よ、あなたは、わたしの父の父として存しています。ゴータマ〔姓〕の者よ、法(教え)によって、〔あなたは〕わたしの祖父として存しています」〔と〕。ということで──
……カールダーイン長老は……。
10. 1. 2. エーカ・ヴィハーリヤ長老の詩偈
537.(537) 前に、あるいは、また、後に、〔修行を妨げる〕他の者が、もし、見出されないなら、独り、林のなかに住している者にとって、あまりに極めて平穏なるところと成る。
538.(538) さあ、〔わたしは〕独り、覚者によって褒め称えられた林に赴くであろう──独り住む者にとって、自己を精励する比丘にとって、平穏なるところに。
539.(539) 〔心の〕制止者(瞑想修行者)が喜悦を作り為す喜ぶべきところへと、発情した象が慣れ親しむところへと──〔わたしは〕独り、自己に自在なる者となり、すみやかに、森へと入り行くであろう。
540.(540) 見事に花ひらいたシータ林(寒林:死体置き場)において、涼やかな山窟において、五体に〔水を〕注いで〔身を清め〕、〔わたしは〕独りある者となり、歩行〔瞑想〕をするであろう。
541.(541) 喜ぶべき大いなる林のなかで、伴侶なき独一者となり、いつか、わたしは、為すべきことを為した煩悩なき者として〔世に〕住むであろう。
542.(542) このように、為すことを欲するわたしの志は、等しく実現せよ。わたしこそが、〔その志を〕為し遂げるのだ。他者は、他者のために為す者にあらず(自己のみが、自己のことを為す)。
543.(543) この〔わたし〕は、〔教えの〕甲冑を結び、森へと入り行くであろう。煩悩の滅尽に至り得ることなく、その〔森〕から出ることはないであろう。
544.(544) 芳しい香りの涼やかな風が吹き渡るとき、山の頂きに坐った〔わたし〕は、無明を破るであろう。
545.(545) 花々に等しく覆われた林において、涼やかな洞窟において、まちがいなく、解脱の安楽によって、〔わたしは〕安楽の者となり、喜び楽しむであろう──ギリッバジャ(ラージャガハの別名)において。
546.(546) 〔まさに〕その、わたしは、あたかも、十五〔夜〕の月のように、円満成就した思惟ある者であり、一切の煩悩が完全に滅尽した者であり、今や、さらなる生存は存在しない。ということで──
……エーカ・ヴィハーリヤ長老は……。
10. 1. 3. マハー・カッピナ長老の詩偈
547.(547) 彼が、未来の、かつまた、益ある義(目的)を、かつまた、益なき〔義〕を、その両者を、前もって見るなら、彼に憎しみある者たちは、あるいは、〔彼の〕益を探し求める者たちも、〔彼を〕正視しつつ、〔彼の〕欠点を見ない。
548.(548) 彼の、呼吸についての気づき(安般念:呼吸の瞑想)が、円満成就し、善く修められたなら──覚者によって説示された、そのとおりに、順次に遍く蓄積されたなら──彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
549.(549) わたしの心は、まさに、白きものとなり、無量なるものとなり、善く修められた。〔あるがままに〕洞察され、かつまた、〔しっかりと〕励起され、全ての方角に光り輝く。
550.(550) あるいは、また、智慧を有する者は、たとえ、富の完全なる滅尽あるも、生きる。そして、智慧の利得なきによって、たとえ、富める者なるも、生きず。
551.(551) 智慧は、所聞〔の正邪〕を判別するものであり、智慧は、名誉と名声を増大するものである。智慧を伴った人は、この〔世において〕、たとえ、諸々の苦しみのうちにあるも、諸々の安楽を見出す。
552.(552) この法(真理)は、今日一日のものにあらず、稀有なるものにあらず、また、未曾有のものにあらず。そこにおいて、〔人が〕生まれるなら、〔いずれは〕死ぬであろう。そこにおいて、いったい、どのような未曾有のものがあるというのだろう。
553.(553) まさに、生まれた者には、直後に、生命あるがゆえの死が、常にある。この〔世において〕、生まれては生まれ、〔命あるものたちは〕死ぬ。まさに、このような法(性質)あるのが、命あるものたちである。
554.(554) まさに、これは、死んだ者の義(利益)のために有るのではない──すなわち、他の〔生きている〕人たちの生命の義(利益)は。死んだ者について泣き悲しんだとして、福徳にあらず、世理にあらず、沙門や婆羅門たちの褒め称えるところにあらず。
555.(555) それ(泣き悲しむこと)によって、眼と肉体を壊し去る。色艶と活力は衰退し、かつまた、思慧も〔衰退する〕。彼の敵たちは、歓嘆の者たちと成り、彼の益を探し求める者たちは、安楽の者たちと成らない。
556.(556) まさに、それゆえに、〔善き〕家に住している、まさしく、そして、思慮ある者たちを、さらに、多聞の者たちを、求めるべきである。まさに、彼らの智慧が明らかな状態となることで、〔良家の子息たちは〕為すべきことを〔為すからである〕──舟で、〔水の〕満ちた川を超え渡るように。ということで──
……マハー・カッピナ長老は……。
10. 1. 4. チューラ・パンタカ長老の詩偈
557.(557) わたしにとって、〔物事の〕赴く所は、〔常に〕遅きものとして存していた(何をやるにも時間がかかった)。かつて、わたしは、〔人々に〕貶められていた。そして、兄は、わたしを、〔林園から〕追い出した。「今や、おまえは、家に去れ(還俗せよ)」〔と〕。
558.(558) 〔まさに〕その、わたしは、〔林園から〕追い出され、〔そのように〕存しつつ、僧団の林園の門小屋において、そこにおいて、〔わたしは〕立った──失意の者なるも、〔覚者の〕教えに〔いまだ〕期待ある者として。
559.(559) そこにおいて、世尊がやってきた。わたしの頭を撫で、わたしの腕を掴んで、僧団の林園へと導き入れた。
560.(560) 教師は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに、足を拭く〔布〕を与えた。〔世尊は言った〕「この〔不浄なる布〕を、清浄なるものとして、一面に善く確立されたものとして、〔心に〕確立しなさい」〔と〕。
561.(561) 彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えを喜ぶ者として〔世に〕住んだ。最上の義(目的)に至り得るために、禅定(定・三昧)を実践した。
562.(562) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る。天眼は清められた。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。
563.(563) パンタカは、千回、自己〔の姿〕を化作して(千体の化身を造作して)、喜ばしきアンバ〔樹〕の林に坐った──〔供養の〕時の知らせがある、それまでのあいだ。
564.(564) そののち、教師は、わたしのために、〔供養の〕時を知らせる使者を送った。〔供養の〕時が知らされたとき、〔わたしは〕宙に〔跳び上がって、世尊のもとへと〕近づいて行った。
565.(565) 教師の〔両の〕足を敬拝して、わたしは、一方に坐った。わたしが、〔一方に〕坐ったのを見出して、そこで、教師は、〔施物を〕納受した。
566.(566) 一切の世〔の人々〕にとって供物〔の受者〕たる方は、諸々の捧げものを納受する方は、人間たちにとって功徳の田畑(福田)となる方は、施物を納受した。ということで──
……チューラ・パンタカ長老は……。
10. 1. 5. カッパ長老の詩偈
567.(567) 種々雑多な垢(汚物)で満ち溢れ、大量の糞便が発生し、発酵したどぶ池のように、大きな腫物があり、大きな傷(穴)があり──
568.(568) 膿と血で満ち溢れ、糞坑に沈み込み、水が流れ出る、〔この〕身体は、常に腐敗物が流れている。
569.(569) 六十の筋で結び縛られ、肉の塗装で塗り固められ、皮の鎧で結び付けられた、腐敗の身体は、義(利益)なきもの。
570.(570) 骨の群結で結び束ねられ、腱の糸で結び縛られ、幾多のものの結合の状態あることから、振る舞いの道を〔種々に〕営む(行住坐臥の行為がある)。
571.(571) 常に死へと進み行き、死魔の王の現前に〔連れ行かれる〕──欲望の赴くままに、人として、まさしく、この〔世において〕、〔身体を〕捨て放って。
572.(572) 〔この〕身体は、無明に覆われ、四つの拘束(四繋・四縛:強欲の思い・憎悪の思い・戒や掟への偏執・「これは真理である」という固着)に拘束されている。〔この〕身体は、激流に沈み、悪習(随眠:潜在煩悩)の網に覆われている。
573.(573) 五つの〔修行の〕妨害(五蓋:欲の思い・憎悪の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)に束縛され、思考(尋)に組み敷かれ、渇愛の根に従い行き、迷妄の覆いに覆われている。
574.(574) このように、この身体は転起する──行為の機関によって操作されたものとして(条件づけされ機械化された行為のあり方に終始する)。そして、衰滅という終極あるのが、〔生存の〕得達であり、種々なる生存は、〔常に〕衰滅する。
575.(575) すなわち、この身体を、わがものと〔錯視〕するなら、盲目の愚者たる凡夫たちであり、おぞましき墓地を増大させ、さらなる生存を執取する。
576.(576) すなわち、この身体を、糞に汚れた蛇であるかのように避けるなら、生存の根元を吐き捨てて、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで──
……カッパ長老は……。
10. 1. 6. ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ長老の詩偈
577.(577) 騒音少なく、〔世俗から〕遠離し、猛々しい獣たちの慣れ親しむ、〔そのような〕臥坐所に、比丘は、慣れ親しむべきである──静坐を動機とするがゆえに。
578.(578) 塵芥場から、墓場から、さらに、道々から、〔ぼろ布を〕持ち運んで、それから、大衣を作って、粗末な衣料を〔身に〕保つべきである。
579.(579) 謙虚に意を為して、歩々淡々と、家から家へと、〔感官の〕門が守られ、善く統御された者として、比丘は、〔行乞の〕食のために歩むべきである。
580.(580) あるいは、たとえ、粗末なものでも、満ち足りているべきである。他に、多くの味を望み求めるべきではない。諸々の味にたいし貪求ある者の意は、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を喜ばない。
581.(581) まさしく、そして、少なき欲求の者として、〔常に〕満ち足りている者として、遠離している者として、牟尼は住するべきである──在家の者たちと、さらに、家なき者たちと、両者ともに交わることなく。
582.(582) すなわち、まさしく、痴者であるかのように、まさしく、唖者であるかのように、そのように、自己を見せるべきである。賢者は、僧団の中において、限度を超えて語るべきではない。
583.(583) 彼は、誰であろうが、批判するべきではない。害することを避けるべきである。戒条(波羅提木叉:戒律条項)において統御された者として、さらに、食について量を知る者として、存するべきである。
584.(584) 形相(瞑想対象)を善く収め取った者として、心の生起を熟知する者として、存するべきである。〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念するべきである。そして、〔正しい〕時に、〔心の〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)に〔専念するべきである〕。
585.(585) 精進の常久を成就した者(不退転の修行者)として、〔心の〕制止(瑜伽:瞑想修行)に専念する者として、常に存するべきである。そして、賢者は、苦しみの終極を得ずして、信頼〔の思い〕に至るべきではない(油断は禁物である)。
586.(586) このように〔世に〕住んでいる〔比丘〕の、清浄〔の境地〕を欲する比丘の、一切の煩悩は滅尽し、そして、〔彼は〕寂滅〔の境処〕に到達する。ということで──
……ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ長老は……。
10. 1. 7. 他のゴータマ長老の詩偈
587.(587) 自らの義(目的)を識知するべきである。〔聖なる〕言葉に注目するべきである。そして、すなわち、ここにおいて、沙門の資質に到達した者にとって、適切なることが存するべきである。
588.(588) そして、この〔世において〕、善き朋友あること、広大なる学び〔の境処〕(戒律)を受持すること、さらに、導師たちの〔言葉を〕聞こうとすること──これは、沙門にとって、適切なることである。
589.(589) 覚者たちにたいし尊重〔の思い〕を有すること、法(教え)にたいし事実のとおりに敬恭すること、さらに、僧団にたいし心を為すこと──これは、沙門にとって、適切なることである。
590.(590) 〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯に専念すること、清らかで非難されない生き方あること、そして、心を確立すること──これは、沙門にとって、適切なることである。
591.(591) 〔善を〕行なうこと、さらに、〔悪を〕避けること、〔正しい〕振る舞いの道あること、浄信あること、そして、卓越の心(瞑想)に専念すること──これは、沙門にとって、適切なることである。
592.(592) 音声少なく、辺境の林にある、諸々の臥坐所で、牟尼が親しくするところ──これは、沙門にとって、適切なることである。
593.(593) そして、戒、さらに、多聞、諸々の法(教え)の事実のとおりの精査、諸々の真理の知悉(現観)──これは、沙門にとって、適切なることである。
594.(594) そして、「〔全てが〕常住ならざるもの(無常)である」と、〔無常の表象を〕修めるなら、無我の表象(無我想:物事を実体なきものと見る観察)を、そして、不浄の表象(不浄想:身体を不浄と見る観察)を、さらに、世〔の俗事〕に喜びなき〔表象〕を、〔これらを修めるなら〕──これは、沙門にとって、適切なることである。
595.(595) そして、〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を修めるなら、〔四つの〕神通の足場(四神足)を、〔五つの〕機能(五根)を、〔五つの〕力(五力)を、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)を、〔これらを修めるなら〕──これは、沙門にとって、適切なることである。
596.(596) 牟尼となり、渇愛を捨棄し、諸々の煩悩を根ごと破り去るなら、解脱者となり、〔世に〕住むなら──これは、沙門にとって、適切なることである。ということで──
……ゴータマ長老は……。
十なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、〔まさに〕その、カールダーイン長老、そして、エーカ・ヴィハーリン(エーカ・ヴィハーリヤ)、カッピナ、チューラ・パンタカ、そして、カッパ、そして、ウパセーナ(ウパセーナ・ヴァンガンタプッタ)、ゴータマがあり、十なるもの〔の集まり〕において、これらの七者の長老たちがあり、そして、ここにおいて、七十の詩偈がある」と。
11. 十一なるものの集まり
11. 1. 第一の章
11. 1. 1. サンキッチャ長老の詩偈
597.(597) 親愛なる者よ、ウッジュハーナ〔鳥〕のように、雨期に、林にいることが、あなたにとって、どのような義(利益)があるというのだ。あなたには、諸々の喜ぶべき季節の〔風〕がある。まさに、瞑想者たちには、遠離〔の境地〕がある。
598.(598) あたかも、季節の風が、雨期に、諸々の雲を除き去るように、遠離と結び付いた、わたしの諸々の表象(想:概念・心象)は、〔貪りの思いを〕押し流す。
599.(599) 無白にして卵から発生する〔烏〕は、墓所を家としてうろつきまわり、わたしの気づき(念)を、まさしく、生起させる──肉身についての、離貪に依拠した〔気づき〕を。
600.(600) そして、彼を、他者たちが守らず、さらに、彼が、他者たちを守らないなら、その比丘は、まさに、安楽のうちに臥す──諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者となり。
601.(601) 澄んだ水をたたえ、広々とした岩盤があり、黒面の猿や鹿たちが群れつどい、水と苔に等しく覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
602.(602) わたしは住した──諸々の林に、諸々の石窟に、さらに、諸々の洞窟に、諸々の辺地の臥坐所に、猛々しい獣たちの慣れ親しむところに。
603.(603) 「これらの命あるものたちは、殺害されてしまえ、殺戮されてしまえ、苦しみに至り得よ」〔と〕──〔このような〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を伴った、聖ならざる思惟を、〔わたしは〕証知しない(自覚しない)。
604.(604) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
605.(605) そして、それを義(目的)として、家から家なきへと出家した〔わたし〕であるが、わたしによって、その義(目的)は獲得された──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽は。
606.(606) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──あたかも、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように。
607.(607) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──正知と気づきの者として。ということで──
……サンキッチャ長老は……。
十一なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「為すべきことを為した者であり、煩悩なき者である、サンキッチャ長老が、まさしく、独りあり、そして、十一なるものの集まりにおいて、まさしく、十一の詩偈がある」と。
12. 十二なるものの集まり
12. 1. 第一の章
12. 1. 1. シーラヴァント長老の詩偈
608.(608) 戒こそを、ここに、学ぶべきである──この世において、善き学びあるものとして。なぜなら、〔正しく〕習修された戒は、一切の得達を授けるからである。
609.(609) 賞賛を、そして、富の利得を、死してのち天上における歓喜を、〔これらの〕三つの安楽を切望している者は、思慮ある者となり、戒を守るべきである。
610.(610) まさに、戒ある者は、自制によって、多くの朋友たちに到達する。いっぽう、劣戒の者は、悪しき〔道〕を歩みながら、朋友たちから離脱する。
611.(611) そして、栄誉ならざることを、さらに、名誉ならざることを、劣戒の人は得る。栄誉を、名誉を、さらに、賞賛を、戒ある者は常に得る。
612.(612) 戒は、〔学びの〕最初となるものであり、そして、立脚するものであり、さらに、諸々の善きことの母源となるものであり、一切の法(事象)の筆頭となるものである。それゆえに、戒を清めるべきである。
613.(613) 戒は、そして、〔行ないの〕限度となるものであり、統御するものであり、心を喜ばせるものであり、さらに、一切の覚者たちの渡し場となるものである。それゆえに、戒を清めるべきである。
614.(614) 戒は、対するものなき力である。戒は、最上の武器である。戒は、最勝の装飾品である。戒は、未曾有の鎧である。
615.(615) 戒は、大いなる権能ある橋である。戒は、無上の香りである。戒は、それによって、方々に香りただよう、最勝の香料である。
616.(616) 戒は、まさしく、至高の糧食である。戒は、最上の路銀である。戒は、それによって、方々に至り行く、最勝の運び手である。
617.(617) 諸戒において〔心が〕定められていない愚者は、一切所において、失意の者となる。まさしく、この〔世において〕、非難を得る。そして、死してのち、悪所(地獄)において、失意の者となる。
618.(618) 諸戒において〔心が〕善く定められた慧者は、一切所において、悦意の者となる。まさしく、この〔世において〕、名誉を得る。そして、死してのち、天上において、悦意の者となる。
619.(619) この〔世において〕、戒こそは、至高なるもの。また、最上なるは、智慧ある者。そして、人間たちと天〔の神々〕たちにおいて、戒と智慧あることから、〔常に〕勝利する者となる。ということで──
……シーラヴァント長老は……。
12. 1. 2. スニータ長老の詩偈
620.(620) 卑しき家に生まれたわたしは、食に乏しき貧者として〔世に有った〕。わたしには、下劣な生業が存した。〔わたしは〕花を捨てる者(汚物の清掃者)として〔世に〕有った。
621.(621) 人間たちには忌避され、そして、貶められ、誹られ、意を低く為して、多くの人々を敬拝した。
622.(622) そこで、〔わたしは〕見た──比丘の僧団に囲まれた正覚者を、マガダ〔国〕の最上の都に入り行く偉大なる勇者を。
623.(623) 〔わたしは〕天秤棒を置き去りにして、〔覚者を〕敬拝するべく近づいて行った。まさしく、わたしへの慈しみ〔の思い〕によって、最上の人士たる方は、〔その場に〕立った。
624.(624) 教師の〔両の〕足を敬拝して、一方に立ち、そのとき、わたしは、一切の有情たちのなかの最上者たる方に、出家を懇願した。
625.(625) そののち、一切の世〔の人々〕に慈しみ〔の思い〕ある慈悲の教師は、「比丘よ、来たれ」と、わたしに言った。それは、わたしにとって、〔戒の〕成就として存した。
626.(626) 〔まさに〕その、わたしは、独り、林に住みながら、休むことなく、教師の言葉を為した──勝者が、わたしに教え諭した、そのとおりに。
627.(627) 夜の初夜(宵の内)に、〔わたしは〕過去の生を思い起こした。夜の中夜(真夜中)に、〔わたしは〕天眼を清めた。夜の後夜(明け方)に、〔わたしは〕闇の塊を破った。
628.(628) そののち、夜の明け方、日の出に向けて、インダ(インドラ神)が、さらに、梵〔天〕(ブラフマー神)が、〔わたしのもとに〕やってきて、合掌の者たちとなり、わたしを礼拝した。
629.(629) 〔神々が言った〕「善き生まれの人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、あなたの、諸々の煩悩は滅尽し、〔あなたは〕施与されるべき者として〔世に〕存しています」〔と〕。
630.(630) そののち、教師は、天〔の神々〕たちの群れに囲まれたわたしを見て、笑みを浮かべて、この義(意味)を語った。
631.(631) 〔世尊は言った〕「苦行によって、梵行によって、自制によって、さらに、調御によって──これによって、婆羅門と成ります。これは、最上の婆羅門〔の境地〕です」〔と〕。ということで──
……スニータ長老は……。
十二なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、シーラヴァントが、さらに、スニータが、それらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十二なるものの集まりにおいて、二十四の詩偈がある」と。
13. 十三なるものの集まり
13. 1. 第一の章
13. 1. 1. ソーナ・コーリヴィサ長老の詩偈
632.(632) 彼は、国土において等しく高みにのぼった者として、アンガ王の臣下として、〔世に〕有った。彼は、ソーナは、今日、諸々の法(教え)において高みにのぼった者として、苦しみの彼岸に至る者として、〔世に有る〕。
633.(633) 五つ〔の束縛するもの〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つべきである。五つ〔の束縛するもの〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するべきである。そして、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・禅定・智慧)をより以上に修めるべきである。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と説かれる。
634.(634) 傲慢で〔気づきを〕怠り、外のことに願望ある比丘には、戒も、禅定も、さらに、智慧も、円満成就に至らない。
635.(635) まさに、その、為すべきことが捨てられ、いっぽうで、為すべきではないことが為されるなら、傲慢で〔気づきを〕怠る彼らの、諸々の煩悩は増え行く。
636.(636) しかしながら、彼らに、常に、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)があり、善く努め励むところとなるなら、彼らは、〔もはや〕為すべきではないことに慣れ親しまず、諸々の為すべきことを常に為す者たちとなる。気づきと正知の者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。
637.(637) 真っすぐな道が告げ知らされたなら、赴け──退いてはならない。自己によって自己を叱咤し、涅槃へと〔歩を〕運ぶがよい。
638.(638) 〔わたしが〕精進に励み過ぎたとき、〔世の〕教師たる方は、世における無上なる方は、眼ある方は、琵琶の喩え(琵琶は、弦を張り過ぎても弛め過ぎても、良い音は出ない)を用いて、わたしに、法(真理)を説示した。彼の言葉を聞いて、わたしは、〔覚者の〕教えを喜ぶ者として〔世に〕住んだ。
639.(639) 〔わたしは〕最上の義(目的)に至り得るために、〔心の〕止寂を実践した。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。
640.(640) 離欲を信念し、さらに、心の遠離を〔信念し〕、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を信念し、さらに、執取の滅尽を〔信念し〕──
641.(641) 渇愛の滅尽を信念し、さらに、心の等しき迷妄なき〔あり方〕を〔信念したなら〕──〔認識の〕場所(処:認識対象としての色・声・香・味・触・法)の生起を〔あるがままに〕見て、〔彼の〕心は、正しく解脱する。
642.(642) 彼には、正しく解脱した寂静心の比丘には、為したことの蓄積は存在せず、為すべきことも見出されない。
643.(643) たとえば、一なる厚き巌が、風に動じないように、このように、諸々の形態(色:眼の対象)も、諸々の味感(味:舌の対象)も、諸々の音声(声:耳の対象)も、諸々の臭気(香:鼻の対象)も、さらに、諸々の接触(触:身の対象)も、〔それらの〕全部が、〔そのような者の心を動かさない〕。
644.(644) 諸々の好ましい法(意の対象)も、さらに、諸々の好ましくない〔法〕も、そのような者の〔心を〕動かさない。安立し束縛を離れた〔彼の〕心は、そして、その〔法〕の衰失を随観する。ということで──
……ソーナ・コーリヴィサ長老は……。
十三なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「大いなる神通あるソーナ・コーリヴィサ長老が、まさしく、独りあり、十三なるものの集まりにおいて、そして、ここにおいて、十三の詩偈がある」と。
14. 十四なるものの集まり
14. 1. 第一の章
14. 1. 1. カディラヴァニヤ・レーヴァタ長老の詩偈
645.(645) わたしが、家から家なきへと出家した、そのとき、汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を伴った聖ならざる思惟を、〔わたしは〕証知しない。
646.(646) 「これらの命あるものたちは、殺害されてしまえ、殺戮されてしまえ、苦しみに至り得よ」〔と〕──〔このような悪しき〕思惟を、この長きの間に、〔わたしは〕証知しない。
647.(647) そして、善く修められた無量なる慈愛〔の心〕を、〔わたしは〕証知する──覚者によって説示された、そのとおりに、順次に遍く蓄積された〔慈愛の心〕を。
648.(648) 全ての者の朋友として、全ての者の友人として、一切の生類にたいし慈しみ〔の思い〕ある者として、常に、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕を喜ぶ者として、そして、慈愛の心を、〔わたしは〕修める。
649.(649) 翻弄されず激情しない心〔のあり方〕を、わたしは歓喜する。俗人の慣れ親しむところならざる梵住〔の境地〕(慈・悲・喜・捨の四無量心)を、〔わたしは〕修める。
650.(650) 思考なき〔境地〕に入定した、正等覚者の弟子は、まさしく、ただちに、聖なる沈黙の状態を具した者と成る。
651.(651) あたかも、また、山の巌が、揺れ動かず、しっかりと確立しているように、このように、迷妄の滅尽あることから、比丘は、山のように動じない。
652.(652) 常に清らかさを探し求めている、穢れなき人には、毛先ばかりの悪でも、まさしく、雲ほどに見えてしまう。
653.(653) あたかも、辺境にある、内外共に保護された城市のように、このように、自己を保護するがよい。〔この〕瞬間が、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。
654.(654) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──あたかも、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように。
655.(655) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──正知と気づきの者として。
656.(656) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
657.(657) そして、それを義(目的)として、家から家なきへと出家した〔わたし〕であるが、わたしによって、その義(目的)は獲得された──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽は。
658.(658) 〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、〔道を〕成就せよ。これは、わたしの教示である。さあ、わたしは、完全なる涅槃に到達するであろう。一切所に、〔わたしは〕解脱者として存している。ということで──
……カディラヴァニヤ・レーヴァタ長老は……。
14. 1. 2. ゴーダッタ長老の詩偈
659.(659) あたかも、また、賢い良馬が、諸々の荷を結び付けられ、荷に耐えつつ、過度の重荷で乱れながらも、〔装着された〕引き具を過ぎ行くことがないように──
660.(660) このように、あたかも、水に〔満ち溢れた〕海のように満ち足りている、それらの者たちが、〔自らの〕智慧によって、他者たちを軽んじないなら、命あるものたちにとって、まさしく、聖なる法(教え)となる。
661.(661) 〔輪廻の〕時において時の支配に至り得た者たち、種々なる生存の支配に赴いた者たち──彼ら、若くある人たちは、〔老と病の〕苦しみを受け、この〔世において〕、憂い悲しむ。
662.(662) 楽しみの法(事象)によって傲慢になった者たち、さらに、苦しみの法(事象)によって卑屈になった者たち──愚者たちは、〔物事を〕事実のとおりに見ることなく、〔楽しみと苦しみの〕二者によって打ちのめされる。
663.(663) しかしながら、彼らが、苦しみにおいて、さらに、楽しみにおいて、〔その〕中間において、貪愛〔の思い〕を超え行ったなら、彼らは、インダの杭(城門に立てられた標柱)のように安立した者たちとなる。彼らは、傲慢でも卑屈でもない。
664.(664) まさしく、まさに、利得に〔汚され〕ず、利得なき〔状態〕に〔汚され〕ず、盛名に〔汚され〕ず、かつまた、名誉に〔汚され〕ない。彼らは、非難と賞賛に〔汚され〕ず、苦しみと楽しみに〔汚され〕ない。
665.(665) 彼らは、蓮〔の葉〕にある水の滴のように、一切所に汚されない。一切所に楽しみある慧者たちであり、一切所に敗者ならざる者たちである。
666.(666) そして、すなわち、法(正義)による利得なき〔状態〕があり、さらに、すなわち、法(正義)にかなわない利得があるとして、もし、それが、法(正義)にかなわない利得であるなら、法(正義)にかなう利得なき〔状態〕のほうが、より勝っている。
667.(667) そして、覚慧少なき者たちの盛名があり、さらに、すなわち、識者たちの盛名なき〔状態〕があるとして、覚慧少なき者たちの盛名ではなく、まさしく、識者たちの盛名なき〔状態〕のほうが、より勝っている。
668.(668) そして、思慮浅き者たちからの賞賛があり、さらに、すなわち、識者たちからの非難があるとして、もし、それが、愚者たちからの賞賛であるなら、まさしく、識者たちからの非難のほうが、より勝っている。
669.(669) そして、欲望〔の対象〕から作られる楽しみがあり、さらに、遠離〔の境地〕の苦しみがあるとして、もし、それが、欲望〔の対象〕から作られる楽しみであるなら、遠離〔の境地〕の苦しみのほうが、より勝っている。
670.(670) そして、法(正義)ならざるものによる生があり、さらに、すなわち、法(正義)による死があるとして、もし、その、法(正義)にかなわない〔生〕を生きるなら、法(正義)にかなう死のほうが、より勝っている。
671.(671) 彼ら、欲望〔の対象〕と〔心の〕動乱を捨棄する者たち、種々なる生存にたいし心が寂静となった者たち──〔彼らは〕依存なき者たちとして、世を歩む。彼らに、愛しいものと愛しくないもの(愛憎の対象)は存在しない。
672.(672) 〔七つの〕覚りの支分(七覚支)を修めて、そして、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)を〔修めて〕、最高の寂静に至り得て、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達する。ということで──
……ゴーダッタ長老は……。
十四なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、レーヴァタ(カディラヴァニヤ・レーヴァタ)、ゴーダッタがあり、それらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十四なるものの集まりにおいて、二十八の詩偈がある」と。
15. 十六なるものの集まり
15. 1. 第一の章
15. 1. 1. アンニャーシ・コンダンニャ長老の詩偈
673.(673) この〔わたし〕は、より一層、浄信する──大いなる味わいある〔覚者の〕法(教え)を聞いて〔そののち〕。離貪の法(性質)が、〔覚者によって〕説示された──〔何も〕執取せずして、全てにわたり。
674.(674) 〔この〕世には、この地の圏域には、多くのものがあり、様々なものがある。思うに、〔それらは〕貪欲を伴った浄美なる妄想を掻き立てる。
675.(675) そして、たとえば、風に巻き上げられた塵を、雨雲が静めるように、このように、諸々の妄想は静まる──すなわち、智慧によって見るとき。
676.(676) すなわち、「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが常住ならざるものである(諸行無常)」と、智慧によって見るとき、そこで、苦しみについて厭離する──これは、清浄への道である。
677.(677) すなわち、「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、智慧によって見るとき、そこで、苦しみについて厭離する──これは、清浄への道である。
678.(678) すなわち、「諸々の法(事象)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、智慧によって見るとき、そこで、苦しみについて厭離する──これは、清浄への道である。
679.(679) 覚者に従い覚った長老、すなわち、強烈なる勤勉〔努力〕の者、コンダンニャは、生と死を捨棄した者であり、梵行についての全一者である。
680.(680) 激流と罠がある。堅固な杭がある。破砕し難き山がある。そして、杭を、さらに、縄を、断ち切って、破壊し難き巌を打ち砕いて、〔激流を〕超え、彼岸に至った瞑想者──彼は、悪魔の結縛から解き放たれた者となる。
681.(681) 〔心が〕高揚し、軽薄なる、〔そのような〕比丘は、悪しき朋友たちを縁として、〔世俗の〕波に飲まれ、大激流に沈む。
682.(682) 〔心が〕高揚せず、軽薄ならず、賢明で、〔感官の〕機能が統御され、善き朋友ある、思慮ある者は、苦しみの終極を為す者として存するであろう。
683.(683) カーラー〔樹〕の結節に似た手足となり、痩せ細り、〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がったとして、食べ物と飲み物について量を知る者は、人として、卑屈ならざる意ある者となる。
684.(684) 林や密林のなかで虻たちや蚊たちに襲われたとして、戦場の先頭にいる象のように、そこにあって、気づきある者となり、〔苦しみを〕耐え忍ぶがよい。
685.(685) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──あたかも、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように。
686.(686) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──正知と気づきの者として。
687.(687) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
688.(688) そして、それを義(目的)として、家から家なきへと出家した〔わたし〕であるが、わたしによって、その義(目的)は獲得された。共に住む者が、わたしにとって、何になるというのだろう。ということで──
……アンニャーシ・コンダンニャ長老は……。
15. 1. 2. ウダーイン長老の詩偈
689.(689) 「人間たる生類にして正覚者、自己が調御され〔心が〕定められた者──梵の道(慈・悲・喜・捨の四梵住)において〔常に〕振る舞い、心の寂止(涅槃)を喜ぶ者──
690.(690) すなわち、一切の法(事象)の彼岸に至る者を、人間たちが礼拝するなら、天〔の神々〕たちもまた、彼を礼拝する。かくのごとく、阿羅漢の〔言葉を〕、わたしは聞いた。
691.(691) 「一切の束縛するものを超え行き、〔欲の〕林から〔欲の〕林の下生えなきへと至り来た者──岩から解き放たれた黄金のように、諸々の欲望〔の対象〕からの離欲に喜びある者を、〔天の神々たちもまた、礼拝する〕」〔と〕。
692.(692) 彼(ブッダ)は、まさに、極めて光輝ある象である。ヒマヴァント(ヒマラヤ)が、他の諸々の巌の連なりを〔圧倒するように〕、象の名ある一切の者たちのなかの、真の名ある無上なる方である。
693.(693) 象たる方を、まさに、〔わたしは〕賛じ称える。なぜなら、彼は、罪悪を作り為さないからである。温和は、そして、不害は、それら〔の性行〕は、象の、両の足である。
694.(694) そして、気づきは、さらに、正知は──それらの性行は、象の、他〔の両の足〕である。偉大なる象は、信を手(鼻)とし、放捨(捨:選択せず差別なき心)を白き牙とする。
695.(695) 気づきは、首である。智慧は、頭である。考察は、法(教え)の思弁である。法(教え)は、子宮における共住である。遠離は、彼の尾である。
696.(696) 彼は、出息〔と入息〕に喜びある瞑想者である。内に〔心が〕善く定められた者である。赴いている〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。立っている〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。
697.(697) 臥している〔時の〕象は、〔心が〕定められた者である。坐っている〔時の象〕もまた、〔心が〕定められた者である。象は、一切所において統御された者である。これは、象の〔徳の〕成就である。
698.(698) 〔彼は〕諸々の罪過なきものを受益し、諸々の罪過を有するものを受益しない。〔適時に〕食糧と衣服を得て、蓄積を遍く避けている。
699.(699) 束縛するものを、微細なるものも、粗大なるものも、一切の結縛するものを断ち切って、まさしく、赴くところ、〔赴く〕ところで、まさしく、期待なく赴く。
700.(700) すなわち、また、〔汚〕水に生じた白蓮が増大し、清らかな香りあるものとなり、意が喜びとするものとなり、〔汚〕水に汚されないように──
701.(701) まさしく、そのように、そして、世に生まれた覚者は、世に住むも、世の水に汚されない──すなわち、蓮華のように。
702.(702) 燃え盛る大火は、食(薪)なくあるなら、止み静まる。そして、諸々の炭火が静まったとき、「涅槃に到達した者」と呼ばれる。
703.(703) 義(目的)を識知させるものとして、この喩えは、識者たちによって説示された。大いなる象たちは、象を〔識知し〕、象によって説示された〔法〕を識知するであろう。
704.(704) 貪欲(貪)を離れ、憤怒(瞋)を離れ、迷妄(痴)を離れ、煩悩なき者となる。象は、肉体を捨棄しながら、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで──
……ウダーイン長老は……。
十六なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、コンダンニャ(アンニャーシ・コンダンニャ)、さらに、ウダーインがあり、それらの二者の大いなる神通ある長老たちがあり、十六なるものの集まりにおいて、そして、三十の詩偈があり、さらに、二つ〔の詩偈〕がある」と。
16. 二十なるものの集まり
16. 1. 第一の章
16. 1. 1. アディムッタ長老の詩偈
705.(705) 〔盗賊が尋ねた〕「あるいは、祭祀を義(目的)として、あるいは、財産を義(目的)として、かつて、わたしたちが殺す、それらの者たちは、動揺し、かつまた、悲嘆し、〔後に〕残すものとして、恐怖〔の思い〕が有る。
706.(706) 〔まさに〕その、おまえに、恐怖は存在せず、より一層、色艶は澄浄になる。何ゆえに、このような形態の大いなる恐怖にたいし、〔おまえは〕嘆き悲しまないのか」〔と〕。
707.(707) 〔長老は答えた〕「頭目よ、期待なき者に、心の苦しみは存在しない。まさに、束縛するものが滅尽した者にとって、一切の恐怖は超え行かれたのだ。
708.(708) 〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)が滅尽し、真実のとおりに法(事象)が見られたとき、死にたいし、恐怖は有ることなくある──あたかも、重荷を置き去りにするときのように。
709.(709) わたしによって、梵行は善く歩まれ、さらに、また、道は善く修められた。死にたいし、わたしに、恐怖は存在しない──諸々の病の消滅あるときのように。
710.(710) わたしによって、梵行は善く歩まれ、さらに、また、道は善く修められた。諸々の生存は、悦楽なきものと見られた──飲んで〔そののち〕捨て放たれた毒のように。
711.(711) 彼岸に至り、執取〔の思い〕なく、為すべきことを為した、煩悩なき者は、寿命の滅尽あることから、〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕有る──刑場から解き放たれた者のように。
712.(712) 最上の法(真理)たることに至り得た者は、一切の世について義(目的)なき者となり、死について憂い悲しまない──燃えている家から解き放たれた者のように。
713.(713) 『それが何であれ、集いあつまったもの(因縁によって形成されたもの)として存在するなら、あるいは、そこにおいて、〔迷いの〕生存が得られるなら、この一切が、主権なきものである(自由にならない他律的な存在である)』〔と〕、かくのごとく、偉大なる聖賢によって説かれた。
714.(714) 覚者によって説示された、そのとおりに、彼が、それを、そのとおりに覚知するなら、〔彼は〕何であれ、〔迷いの〕生存を掴まない──熱く熱せられた鉄の玉を〔掴まない〕ように。
715.(715) わたしに、『〔わたしは〕有った』という〔思い〕は有ることなくある。わたしに、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕は有ることなくある。諸々の形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)は〔いずれ〕離れ去るであろう。そこにおいて、何の嘆きがあるというのだろう。
716.(716) 単なる法(事象)の生起を、単なる形成〔作用〕の相続を、事実のとおりに見ている者に、頭目よ、恐怖は有ることなくある。
717.(717) 世〔のあり様〕を、草や薪に等しきものと、智慧によって見る、そのとき、彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見出すことなく、『わたしには、〔何も〕存在しない』と憂い悲しまない。
718.(718) 〔わたしは〕肉体を嫌悪する。〔わたしは〕生存に義(目的)なき者として存在する。〔まさに〕その、この身体は、〔いずれ〕朽ち果てるであろう。そして、他〔の身体〕は有ることなくあるであろう。
719.(719) それが、あなたたちにとって、〔わたしの〕肉体によって為すべきことであり、〔あなたたちが〕それを求めるなら、〔あなたたちは〕それを為しなさい。わたしには、それを縁として、そこにおいて、憤怒〔の思い〕も、かつまた、愛情〔の思い〕も、有ることなくあるであろう」〔と〕。
720.(720) 彼の、未曾有にして身の毛のよだつ、その言葉を聞いて、若き〔盗賊〕たちは、諸々の刃を置いて、このことを説いた。
721.(721) 〔盗賊が尋ねた〕「幸甚なる方よ、何を為して、あるいは、誰があなたの師匠であり、誰の教えを縁として、その〔教え〕を〔為して〕、憂いなき〔境地〕は得られるのですか」〔と〕。
722.(722) 〔長老は答えた〕「一切を知り、一切を見る、勝者が、わたしの師匠である。偉大なる慈悲ある教師が、一切の世の医師が、〔わたしの師匠である〕。
723.(723) 彼によって説示された、この法(真理)は、滅尽に至るものであり、無上なるものである。彼の教えを縁として、その〔教え〕を〔為して〕、憂いなき〔境地〕は得られる」〔と〕。
724.(724) 聖賢の見事に語られた〔言葉〕を聞いて、盗賊たちは、そして、諸々の刃を置いて、さらに、諸々の武器を〔置いて〕、そして、或る者たちは、その〔盗賊の〕生業から離れ、さらに、或る者たちは、出家することを選んだ。
725.(725) 彼らは、善き至達者の教えにおいて出家して、〔七つの〕覚りの支分と〔五つの〕力を修めて、賢者たちとなり、勇躍する心の者たちとなり、悦意の者たちとなり、〔感官の〕機能〔の統御〕を為し、形成されたものではない涅槃の境処を体得した。ということで──
……アディムッタ長老は……。
16. 1. 2. パーラーパリヤ長老の詩偈
726.(726) 沙門にして比丘たるパーラーパリヤに、〔このような〕思弁が有った──〔世俗から〕遠離し、独りある者として、〔静所に〕坐っている瞑想者に。
727.(727) 人士たる者は、どのような順序の、どのような掟の、どのような励行を〔為し〕、自己の為すべきことを為す者として〔世に〕存し、そして、誰をも悩まさずにいられるのだろう。
728.(728) 益あることのために、さらに、益なきことのために、人間たちの諸々の〔感官の〕機能(根)はある──諸々の守られていない〔感官の機能〕は、益なきことのために、そして、諸々の守られた〔感官の機能〕は、益あることのために。
729.(729) まさしく、諸々の〔感官の〕機能を〔常に〕守護している者は、かつまた、諸々の〔感官の〕機能を〔常に〕保護している者は、自己の為すべきことを為す者として〔世に〕存し、そして、誰をも悩まさずにいられるであろう。
730.(730) もし、諸々の形態(色)について、〔そこに向かって〕赴きつつある眼の〔感官の〕機能を防護せずにいるなら、〔自らの行為に〕危険を見ない者であり、彼は、まさに、苦しみから解き放たれない。
731.(731) もし、諸々の音声(声)について、〔そこに向かって〕赴きつつある耳の〔感官の〕機能を防護せずにいるなら、〔自らの行為に〕危険を見ない者であり、彼は、まさに、苦しみから解き放たれない。
732.(732) もし、諸々の臭気(香)を、出離を見ない者が受用するなら、諸々の香りに耽溺する者であり、彼は、苦しみから解き放たれない。
733.(733) 酸っぱさ〔の至高なるもの〕を、さらに、甘さの至高なるものを、苦さの至高なるものを、〔それらを常に〕随念しながら、味感(味)にたいする渇愛〔の思い〕で拘束された者は、〔自己の〕心臓(心)を覚らない。
734.(734) 浄美にして嫌悪ならざる諸々の感触(触・所触)を、〔常に〕随念しながら、〔貪欲の思いに〕染まった者は、貪欲を事因とする様々な種類の苦しみを見出すことになる。
735.(735) そして、彼が、これらの法(意の対象)から、意を守ることができないなら、そののち、彼に、苦しみが従い行く──これらの五つ(色・声・香・味・触)の全てから。
736.(736) 膿と血で満ち溢れ、さらに、多くの死骸(汚物)の〔容器である、この肉体は〕、技ある人によって作られた、麗美にして彩りあざやかな箱のようなもの(中身は汚物で満ちている)。
737.(737) 甘き悦楽あるものは、辛きものである。愛しき者との結縛は、苦しみである。蜜が塗られた剃刀のようなものであり、〔それが〕塗られたものであることを、〔愚者は〕覚らない。
738.(738) 婦女の形態にたいし、婦女の味感にたいし、さらに、また、婦女の感触にたいし、婦女の諸々の臭気にたいし、貪染〔の思い〕ある者は、様々な種類の苦しみを見出すことになる。
739.(739) 婦女の諸々の流れは、〔それらの〕全てが、五つ〔の感官〕から五つ〔の感官〕にたいし流れ行く。彼が、精進の者となり、それらの防護を為すことができるなら──
740.(740) 彼は、義(道理)ある者である。彼は、法(正義)に依って立つ者である。彼は、能ある者である。彼は、明眼の者である。喜びながらもまた、法(真理)と義(道理)を伴った為すべきことを為すであろう。
741.(741) そこで、〔義と〕結び付いたもの(法の実践)へと沈み行き、義(道理)のない為すべきこと(世俗の義務)を避けるであろう。〔気づきを〕怠らない明眼の者は、「それは、為すべきことにあらず」と思い考えて──
742.(742) そして、それが、義(道理)と結び付いたものであるなら、さらに、その喜びが、法(真理)に至ったものであるなら、それを受持して、転起させるであろう。なぜなら、まさに、それは、最上の喜びなのだから。
743.(743) 〔人は〕高下諸々の手段によって、他者たちに襲い掛かる。打ち砕いて、打ち倒して、さらに、憂い悲しませて、彼は、無理強いで他者たちを暴虐する。
744.(744) たとえば、力ある大工たちが、楔によって楔を打つように、そのように、智者は、まさしく、〔五つの〕機能(五根:信根・精進根・念根・定根・慧根)によって〔五つの〕機能(五根:眼・耳・鼻・舌・身)を打つ。
745.(745) 信を、精進を、そして、禅定を、さらに、気づきと智慧を、〔これらの五つの機能を〕修めながら、五つ〔の機能〕によって五つ〔の機能〕を打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。
746.(746) 彼は、義(道理)ある者である。彼は、法(正義)に依って立つ者である。覚者の教示の言葉を、一切によって一切を為して、彼は、人として、安楽に満ち栄える。ということで──
……パーラーパリヤ長老は……。
16. 1. 3. テーラカーニ長老の詩偈
747.(747) 長夜にわたり、まさに、熱情ある者として、法(教え)を弁別しながら、〔求めるところの〕心の静かさを、〔わたしは〕得なかった──沙門や婆羅門たちに尋ねながらも。
748.(748) 世において、誰が、〔まさに〕その、彼岸に至った者なのだろう。誰が、不死への沈潜(涅槃)に至り得た者なのだろう。最高の義(勝義:涅槃)を識知させてくれる、誰の法(教え)を、〔わたしは〕受け容れるのだろう。
749.(749) 餌を食べつつ釣針の内に掛かった魚のように、〔わたしは〕存した──すなわち、大いなるインダの索縄に結縛された阿修羅のヴェーパチティのように。
750.(750) その〔索縄〕を、〔わたしは〕引く。この憂いと嘆きから、〔わたしは〕解き放たれない。世において、誰が、わたしの結縛を解き放ち、正覚〔の境地〕を知らせてくれるのだろう。
751.(751) 沙門であれ、あるいは、婆羅門であれ、「〔世は〕壊れ崩れるもの」と指し示してくれる、誰を──老と死魔を運び去ってくれる、誰の法(教え)を──〔わたしは〕受け容れるのだろう。
752.(752) 疑惑と疑い〔の思い〕に拘束され、激昂〔の思い〕と〔その〕力に束縛され、忿激〔の思い〕に至り得た意によって強情となり、渇望〔の思い〕で〔自らを〕破り裂く〔愚かさ〕を〔見よ〕。
753.(753) 渇愛の弓によって現起し、かつまた、二つの十五(三十の邪見)に束縛された、〔自らの〕胸のうちなる激しさを見よ──すなわち、〔それが〕止住するなら、〔自らを〕壊して〔悩み苦しむ、その激しさを〕。
754.(754) 諸々の偏った見解を捨棄することなく、妄想によって他者〔の脅威〕に過敏になった〔心〕を〔見よ〕──それに貫かれた〔わたし〕は、風に揺らぐ葉のように動揺する。
755.(755) わがもの〔という思い〕は、わたしの内に現起して、すみやかに煮られる(成熟する)。六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処)ある身体は、そこにおいて、一切時に流れ行く。
756.(756) すなわち、わたしのために、その矢を引き抜いてくれる、その医師を、〔わたしは〕見ない──疑惑〔という矢〕を、他の刃によらず、さぐり針によって〔引き抜いてくれる、その医師を〕。
757.(757) 誰が、わたしのために、〔心の〕内部に寄り掛かっている矢を──刃なしで、傷なく、全ての五体を害さずに、わたしの矢を──引き抜いてくれるのだろう。
758.(758) まさに、彼は、法(教え)の長たる最勝者として、〔心の〕毒素と汚点を運び去る者として、深みに落ちたわたしのために、陸地を、そして、〔救いの〕手を、見せてくれるであろう。
759.(759) わたしは、湖沼のうちに存している──塵や泥を運び去ることができない〔深み〕に沈潜した者として、幻惑と嫉妬と激昂と沈滞と眠気に覆われた〔湖沼〕のうちに。
760.(760) 〔心の〕高揚という〔雷鳴〕鳴り響く雨雲を、束縛するものという雷雲を──貪欲〔の思い〕に依存した諸々の妄想が、運び手たちとなり、悪しき見解を運び来る。
761.(761) 諸々の〔渇愛の〕流れは、一切所に流れ行く。〔貪欲の〕蔓草は、芽生えては止住する。誰が、それらの流れを防護できるのだろう。まさに、誰が、その蔓草を断ち切るのだろう。
762.(762) 諸々の流れの防護となる境を作り為せ。おまえに、幸せ〔有れ〕。〔激流が〕無理やり木を〔切り倒す〕ように、意によって作られる流れが、おまえを切り倒すことがあってはならない。
763.(763) このように、恐怖〔の思い〕が生じ、此岸から彼岸を探し求めている、わたしのために、救いとなる方は、智慧を武器とする教師は、聖賢の僧団が仕え親しむ方は──
764.(764) 清浄で、善き至達ある梯子を、堅固で、法(真理)の真髄によって作られる〔梯子〕を、〔激流に〕運ばれている〔わたし〕に与えた。そして、「恐れてはならない」と、わたしに説いた。
765.(765) 〔わたしは〕気づきの確立(念処・念住)という高楼に登って、綿密に注視した。すなわち、過去において、その人々のことを、身体を有すること(有身)を喜ぶ者と思い考えていた、〔まさに、その人々を綿密に注視した〕。
766.(766) そして、そのとき、舟に乗る道を見た──〔もはや〕自己に止住せずして、〔わたしは〕最上の渡し場を見た。
767.(767) 自己から現起した矢があり、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)によって増加した〔矢〕がある。これら〔の悪しき法〕の転起なきために、〔教師は〕最上の道を説示した。
768.(768) 長夜にわたり悪しき習いとなったものを、長夜にわたり止住しているものを、覚者は、〔その〕拘束を除き去った──わたしのために、〔心の〕毒素と汚点を運び去る者として。ということで──
……テーラカーニ長老は……。
16. 1. 4. ラッタパーラ長老の詩偈
769.(769) 見よ──彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を──寄せ集めの、傷ある身体を──病んだ、妄想多きものを。それに、常恒と止住は、〔何であれ〕存在しない。
770.(770) 見よ──彩りあざやかに作り為された〔虚妄の〕形態を──そして、宝珠や耳飾によって〔飾り立てられ〕、骨と皮で覆われた〔不浄の身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。
771.(771) 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
772.(772) 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗料をつけた〔両の〕眼──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
773.(773) 彩りあざやかな新しい塗料箱のように、〔装いを〕十分に作り為した腐敗の身体──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
774.(774) 猟師は、罠を置いた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔わたしたちは〕去り行くのだ──鹿の捕捉者が泣き叫んでいるところを」〔と〕。
775.(775) 猟師の罠は、断ち切られた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔わたしたちは〕去り行くのだ──鹿の猟師が憂い悲しんでいるところを」〔と〕。
776.(776) 〔わたしは〕見る──世において、財を有する人間たちを。迷いの者たちは、富を得ても施さない。貪りの者たちは、財の蓄積を為し、まさしく、より一層、諸々の欲望〔の対象〕を望み求める。
777.(777) 王は、〔他を〕打ち負かして、地を征圧して、海を限りとして有する大地を占拠しながら、海の此岸では不満の様子で、海の彼岸をもまた切望するであろう。
778.(778) そして、王も、さらに、他の多くの人間たちも、渇愛を離れず、死に近づく。まさしく、不足の者たちと成って、肉身を捨棄する。世において、諸々の欲望〔の対象〕による満足は、まさに、存在しない。
779.(779) 親族たちは、諸々の髪を振り乱して、彼のことを泣き叫ぶ。そして、「ああ、まさに、不死にあらず」と言う。〔葬送の〕衣に包まれた彼を搬出して、荼毘の薪山を設置して、そののち、〔死体を〕焼く。
780.(780) 彼は、諸々の串に刺されながら、一衣で焼かれる──諸々の財物を捨棄して〔そののち〕。そして、親族たちと朋友たちは、そこで、あるいは、道友たちも、死に行く者の救いには成らない。
781.(781) 相続者たちは、彼の財を運び去る。いっぽう、〔死んだ〕有情は、〔自己の為した〕行為のとおりに赴く。死に行く者に、何であれ、財が従い行くことはない──そして、子たちも、かつまた、妻たちも、さらに、財産と国土も。
782.(782) 財によって、長寿を得ることはない。さらに、また、富によって、老を打破することもない。慧者たちは言う。「まさに、この生命(寿命)は、僅かである。常久ならず、変化の法(性質)である」〔と〕。
783.(783) 富者たちは、さらに、貧者たちも、接触するべきもの(死)に接触する。そして、愚者も、さらに、慧者も、まさしく、そのようにあり、〔接触するべきものに〕接触したなら、まさに、愚者は、〔自らの〕愚かさゆえに、まさしく、打ち殺され、〔地に〕臥すが、しかしながら、慧者は、接触するべきものに接触したとして、動揺しない。
784.(784) まさに、それゆえに、智慧こそは、財よりも、より勝っている──それによって、〔人は〕この〔世において〕、完成に到達する。まさに、完成なきことから、諸々の種々なる生存において、迷いの者たちは、諸々の悪しき行為(悪業)を為す。
785.(785) 〔迷いの者は〕他〔の世〕から他〔の世〕へと、輪廻を惹起して、そして、〔母の〕胎に、さらに、他の世に、近づく。それ(輪廻的あり方)を盲信している、智慧少なき者は、そして、〔母の〕胎に、さらに、他の世に、近づく。
786.(786) あたかも、入り口で捕捉された盗賊が、悪しき法(性質)の者として、自らの行為によって打ちのめされるように、このように、人々は、死してのち、他の世において、自らの行為によって打ちのめされる──悪しき法(性質)の者として。
787.(787) まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。種々様々な形態で、〔人の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の属性(妙欲)のうちに見て、王よ、それゆえに、出家者として、わたしは存している。
788.(788) 諸々の木の果が落ちるように、人間たちは、かつまた、青年たちも、かつまた、年長の者たちも、肉体の破壊ある者たちである。このことをもまた見て、王よ、出家者として、〔わたしは〕存している。雑物なしの、沙門の資質こそは、より勝っている。
789.(789) わたしは、信によって出家した者、勝者の教えを具した者である。わたしの出家は、罪過なきもの。〔わたしは〕借りなき者として、〔施しの〕食を受ける。
790.(790) 諸々の欲望〔の対象〕を「燃え盛るものである」と見て、諸々の黄金を「刃である」と〔見て〕、〔母の〕胎に入るがゆえに苦しみを〔見て〕、諸々の地獄のうちに大いなる恐怖を〔見て〕──
791.(791) この危険を知って、そのとき、〔わたしは〕畏怖〔の思い〕を得た。〔まさに〕その、わたしは、〔畏怖の思いに〕貫かれ、そのとき、寂静なる者となり、煩悩の滅尽に得達したのだ。
792.(792) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
793.(793) それを義(目的)として、家から家なきへと出家した〔わたし〕であるが、わたしによって、その義(目的)は獲得された──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽は。ということで──
……ラッタパーラ長老は……。
16. 1. 5. マールキャプッタ長老の詩偈
794.(794) 形態(色:眼の対象)を見て〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔形態を〕感受し、そして、それに固執して止住する。
795.(795) 諸々の形態から発生する、彼の感受(受:楽苦の知覚)は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。
796.(796) 音声(声:耳の対象)を聞いて〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔音声を〕感受し、そして、それに固執して止住する。
797.(797) 諸々の音声から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。
798.(798) 臭気(香:鼻の対象)を嗅いで〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔臭気を〕感受し、そして、それに固執して止住する。
799.(799) 諸々の臭気から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。
800.(800) 味感(味:舌の対象)を享受して〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔味感を〕感受し、そして、それに固執して止住する。
801.(801) 諸々の味感から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。
802.(802) 接触(触:身の対象)と接触して〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔接触を〕感受し、そして、それに固執して止住する。
803.(803) 諸々の接触から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。
804.(804) 法(法:意の対象)を知って〔そののち〕、愛しい相に意を為していると、気づきは忘却されてしまう。貪染の心ある者は、〔法を〕感受し、そして、それに固執して止住する。
805.(805) 諸々の法(意の対象)から発生する、彼の感受は、無数のものとなり、増え行く。そして、諸々の強欲〔の思い〕も〔増え行き〕、さらに、諸々の悩害〔の思い〕も〔増え行き〕、彼の心は、打ちのめされる。このように、〔常に〕苦を蓄積している者に、涅槃〔の境処〕は遠く離れている、〔と〕説かれる。
806.(806) 〔常に〕気づいている者は、形態を見て〔そののち〕、彼は、諸々の形態にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔形態を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。
807.(807) すなわち、彼が、形態を〔あるがままに〕見ていると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。
808.(808) 〔常に〕気づいている者は、音声を聞いて〔そののち〕、彼は、諸々の音声にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔音声を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。
809.(809) すなわち、彼が、音声を〔あるがままに〕聞いていると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。
810.(810) 〔常に〕気づいている者は、臭気を嗅いで〔そののち〕、彼は、諸々の臭気にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔臭気を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。
811.(811) すなわち、彼が、臭気を〔あるがままに〕嗅いでいると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。
812.(812) 〔常に〕気づいている者は、味感を享受して〔そののち〕、彼は、諸々の味感にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔味感を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。
813.(813) すなわち、彼が、味感を〔あるがままに〕味わっていると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。
814.(814) 〔常に〕気づいている者は、接触(身の対象)と接触して〔そののち〕、彼は、諸々の接触にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔接触を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。
815.(815) すなわち、彼が、接触と〔あるがままに〕接触していると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。
816.(816) 〔常に〕気づいている者は、法(意の対象)を知って〔そののち〕、彼は、諸々の法(意の対象)にたいし、〔欲に〕染まらない。心が離貪した者は、〔法を〕感受するも、そして、それに固執して止住することはない。
817.(817) すなわち、彼が、法(意の対象)を〔あるがままに〕識知していると、さらに、また、〔楽苦の〕感受に〔あるがままに〕慣れ親しんでいると、〔為した行為は〕滅尽し、〔もはや〕蓄積されないように、このように、彼は、気づきある者として〔世を〕歩む。このように、〔常に〕苦を蓄積していない者に、涅槃〔の境処〕は現前にある、〔と〕説かれる。ということで──
……マールキャプッタ長老は……。
16. 1. 6. セーラ長老の詩偈
818.(818) 〔セーラ婆羅門が言った〕「円満成就した身体の、極めて好ましき者であり、善き出生の、典雅なる見た目ある者であり、世尊よ、〔あなたは〕黄金の色艶ある者として〔世に〕存しています。〔あなたは〕歯が純白で、精進ある者として〔世に〕存しています。
819.(819) まさに、善き出生の人に有る、それらの特徴ですが、それらの偉大なる人士の特相の全てが、あなたの身体において〔見られます〕。
820.(820) 澄浄なる眼で、美しい顔立ちで、偉丈夫で、真っすぐで、輝きある者であり、〔あなたは〕沙門の僧団の中央において、太陽のように光り輝きます。
821.(821) 美しき見た目ある比丘にして、黄金に似た皮膚ある者です。このように、最上の色艶をもつ、あなたにとって、沙門として〔世に〕有ることが、何になるというのでしょう。
822.(822) 〔あなたは〕車上の雄牛たる転輪王として〔世に〕有るのがふさわしい──四辺を征圧する、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)のイッサラ(イーシュヴァラ神・自在神)として。
823.(823) 士族たちは、財物ある王たちは、あなたに従い行く者たちと成ります。ゴータマよ、王のなかの王として、人間のインダ(インドラ神・帝釈天)として、王権を為されよ(統治せよ)」〔と〕。
824.(824) かくのごとく、世尊は〔言った〕「セーラよ、わたしは、王として〔世に〕存しています(※)。無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させます──〔誰も〕反転できない〔法の〕輪を」〔と〕。
※ テキストには Rājāhamasmi sela, (selāti bhagavā) とあるが、PTS版により Rājāhamasmi, (selāti bhagavā) と読む。
825.(825) かくのごとく、セーラ婆羅門が〔尋ねた〕「〔あなたは、自らについて〕『正覚者である』〔と〕明言します。ゴータマよ、〔あなたは、自らについて〕『無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転起させる』と語ります(※)。
※ テキストには bhāsatha とあるが、PTS版により bhāsasi と読む。
826.(826) いったい、誰が、軍団の長ですか。〔誰が〕貴君の弟子として、教師に従い行くのですか。あなたが転起させた、その法(真理)の輪を、誰が随転させるのですか」〔と〕。
827.(827) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「セーラよ、わたしが転起させた〔法の〕輪を、無上なる法(真理)の輪を、如来に〔続いて〕生まれ来たサーリプッタが随転させます。
828.(828) 証知されるべきものは証知され、さらに、修行されるべきものは修行され、捨棄されるべきものは捨棄されました──わたしによって。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しています。
829.(829) わたしにたいし、疑いを取り除きなさい。婆羅門よ、信念しなさい。正覚者たちと一度ならず会見することは、得難きこととして〔世に〕有ります。
830.(830) 彼らが一度ならず世に出現することは、まさに、得難きこととして〔世に有ります〕。婆羅門よ、〔まさに〕その、わたしは、覚者として、〔毒〕矢の治癒者として、無上なる者として、〔世に〕存しています。
831.(831) 梵と成った者(最高の人格者)として、〔他に〕比類なき者として、悪魔の軍団を撃破する者として、一切の朋友ならざる者を自在に為して、何も恐れず、歓喜します」〔と〕。
832.(832) 〔自らの弟子たちに、セーラ婆羅門が言った〕「諸君よ、このことを、眼ある方(ブッダ)が語る、そのとおりに、こころして聞け──〔毒〕矢の治癒者が、偉大なる勇者が、林のなかで獅子が吼えるように〔語る、そのとおりに〕。
833.(833) 梵と成った方を、〔他に〕比類なき方を、悪魔の軍団を撃破する方を、見て〔そののち〕、誰が、浄信しないというのだろう。黒き生まれの者でさえも、〔浄信するであろう〕。
834.(834) すなわち、求める者は、わたしに従え。あるいは、すなわち、求めない者は、去れ。ここに、わたしは、優れた智慧ある方の現前において、出家するであろう」〔と〕。
835.(835) 〔弟子たちは言った〕「もし、この正等覚者の教えが、貴君(セーラ婆羅門)にとって好ましくあるなら、わたしたちもまた、優れた智慧ある方の現前において、出家するでありましょう」〔と〕。
836.(836) 〔世尊に、セーラ婆羅門が言った〕「これらの三百の婆羅門たちは、合掌を為し、〔あなたに〕乞います。世尊よ、あなたの現前において、〔わたしたちは〕梵行を歩むでありましょう」〔と〕。
837.(837) かくのごとく、世尊は〔言った〕「セーラよ、現に見られ時を要さない〔真の〕梵行は、善く告げ知らされました。そこにおいて、〔気づきを〕怠らずに学んでいる者の出家は、無駄ならざるものとなります」〔と〕。
838.(838) 〔出家した尊者セーラが言った〕「眼ある方よ、すなわち、帰依所として、あなたのもとに至り着いて、このかた、〔今日で〕第八〔日〕となります。世尊よ、〔わたしたちは〕存しています──あなたの教えにおいて、七夜をもって調御された者たちとして。
839.(839) あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超え渡します。
840.(840) あなたの、諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)は超え行かれました。あなたの、諸々の煩悩は破り去られました。まさしく、〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき方として、〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した方として、〔世に存しています〕。
841.(841) これらの三百の比丘たちは、合掌を為し、立っています。勇者よ、〔両の〕足を差し出したまえ。龍たちよ、教師を敬拝せよ」〔と〕。ということで──
……セーラ長老は……。
16. 1. 7. カーリ・ゴーダーの子なるバッディヤ長老の詩偈
842.(842) わたしが乗り行くなら、象の首には、繊細な衣が広げられた。諸々の米の飯が、肉汁を注いだ上等の〔食事〕が、〔わたしの〕食するところであった。
843.(843) 〔まさに〕その〔わたし〕は、今日、幸いなる者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
844.(844) 糞掃衣の者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
845.(845) 〔行乞の〕施食の者(托鉢行者)として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
846.(846) 三つの衣料の者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
847.(847) 〔家を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
848.(848) 一坐〔だけの食〕の者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
849.(849) 鉢に〔盛られた行乞の〕食〔だけを食する〕者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
850.(850) 〔規定された食〕以後の食を否とする者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
851.(851) 林にある者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
852.(852) 木の根元にある者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
853.(853) 野外にある者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
854.(854) 墓場にある者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
855.(855) 〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
856.(856) 常坐〔にして不臥〕なる者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
857.(857) 少なき欲求の者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
858.(858) 〔常に〕満ち足りている者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
859.(859) 遠離している者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
860.(860) 〔他者と〕交わりなき者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
861.(861) 精進に励む者として、〔不退転の〕常久なる者として、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、執取〔の思い〕なく、〔独り〕瞑想する。
862.(862) 百パラ(重さの単位)の銅〔の鉢〕を捨棄して、百ラージカ(重さの単位)の金〔の鉢〕を〔捨棄して〕、土の鉢を掴み取った。これが、〔わたしの〕第二の灌頂(浄めの儀式)となる。
863.(863) 堅固な見張塔と門小屋がある、高く円い城壁のなかで、剣を手にする者たちに守られていた〔わたし〕であるが、かつては、〔常に〕恐れわななきながら住んでいた。
864.(864) 〔まさに〕その〔わたし〕は、今日、幸いなる者として、恐れわななかない者として、〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、ゴーダーの子なるバッディヤは、林に入って、〔独り〕瞑想する。
865.(865) 戒の範疇(蘊)において〔自己を〕確立して、そして、気づきと智慧を修めつつ、順次に、〔わたしは〕至り得た──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽に。ということで──
……カーリ・ゴーダーの子なるバッディヤ長老は……。
16. 1. 8. アングリマーラ長老の詩偈
866.(866) 〔盗賊のアングリマーラが尋ねた〕「沙門(ブッダ)よ、〔あなたは〕赴きつつあるのに、〔自らについて〕『〔わたしは〕立つ者として存している』〔と〕説きます。かつまた、わたしのことを、立つ者であるのに、『〔あなたは〕立たざる者である』と説きます。沙門よ、この義(意味)を、あなたに尋ねます。どうして、あなたは、立つ者として〔存し〕、わたしは、立たざる者として存しているのですか」〔と〕。
867.(867) 〔世尊は答えた〕「アングリマーラよ、わたしは、一切時に、一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔自ら依って〕立つ者(自己確立者)として〔存しています〕。しかしながら、あなたは、命あるものたちにたいし、自制なき者として存しています。それゆえに、わたしは、立つ者として〔存し〕、あなたは、立たざる者として存しているのです」〔と〕。
868.(868) 〔盗賊のアングリマーラが言った〕「長きにわたり、まさに、わたしの敬する偉大なる聖賢たる沙門が、大いなる林へと〔道を〕行った。〔まさに〕その、わたしは、千なる悪を捨て去るであろう──法(真理)と結び付いた、あなたの詩偈を聞いて〔そののちは〕」〔と〕。
869.(869) まさしく、かくのごとく〔語り〕、盗賊は、剣を、さらに、武器を、暗坑と深淵の奈落に投棄した。盗賊は、善き至達者の〔両の〕足を敬拝し、まさしく、その場で、出家することを、覚者に乞い求めた。
870.(870) そして、覚者は、まさに、慈悲の者たる偉大なる聖賢は、すなわち、天を含む世の教師は、そのとき、彼に、「比丘よ、来たれ」と言い、まさしく、これが、彼にとって、比丘たる状態(比丘の資質を有すること)と成った。
871.(871) そして、彼が、過去において〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
872.(872) 彼の為した悪しき行為(悪業)が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
873.(873) 彼が、まさに、青年でありながら、比丘として、覚者の教えに専念するなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
874.(874) わたしの敵たちもまた、法(教え)の言説を聞け。わたしの敵たちもまた、覚者の教えに専念せよ。わたしの敵たちもまた、それらの人間たちと親しくせよ──すなわち、まさしく、法(教え)を〔あなたたちに〕取らせてくれる、正しくある者たちと。
875.(875) まさに、わたしの敵たちは、忍耐を説く者たちの──〔誰をも〕遮らないことで賞賛ある者たちの──〔彼らの〕法(教え)を、〔正しい〕時に聞け。そして、それを順守せよ。
876.(876) まさに、たしかに、彼(ブッダ)は、わたしを害さず、また、あるいは、誰であろうが(※)、他の者を〔害さず〕、最高の寂静に至り得て、動くものと動かないものたち(一切の生類)を守るであろう。
※ テキストには kiñcanaṃ とあるが、PTS版により kañcinaṃ と読む。
877.(877) まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、賢者たちは、自己を調御する。
878.(878) 或る者たちは、棒によって、諸々の鉤によって、さらに、諸々の鞭によって、〔他者を〕調御する。棒によらず、刃によらず、如なる方によって調御された者として、わたしは〔世に〕存している。
879.(879) かつて、〔他を〕害する者として〔世に〕存しつつも、わたしの名は、「アヒンサカ(不害の者)」という。今日、わたしは、真の名ある者として〔世に〕存している。誰であろうが(※)、その者を害さない。
※ テキストには kiñcanaṃ とあるが、PTS版により kañcinaṃ と読む。
880.(880) かつて、わたしは、盗賊として〔世に〕存していた。「アングリマーラ(指で作られた輪をかける者)」として〔世に〕聞こえた者だった。大激流に運ばれつつも、帰依所として、覚者のもとに至り着いた。
881.(881) かつて、血の手をもつ者として〔世に〕存していた。「アングリマーラ」として〔世に〕聞こえた者だった。見よ──帰依所に赴くことを。〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
882.(882) 悪しき境遇(悪趣)に至る、そのような〔悪しき〕行為を多く為して、行為の報い(業報)に触れた〔わたし〕が、〔今は〕借りなき者となり、〔施しの〕食を受ける。
883.(883) 怠ること(放逸)に専念するのが、愚者たちであり、思慮浅き人たちである。しかしながら、思慮ある者は、怠らないこと(不放逸)に〔専念する〕──最勝の財を守るように。
884.(884) 怠ることに専念してはならない。欲望の歓楽や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、最高の安楽に至り得るからである。
885.(885) 善く来てくれた──立ち去ることなく。これは、わたしの悪しき思いにあらず。〔人々に〕分け与えられた諸々の法(教え)における、〔まさに〕その、最勝のもの──それに、〔わたしは〕近しく赴いた。
886.(886) 善く来てくれた──立ち去ることなく。これは、わたしの悪しき思いにあらず。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。
887.(887) あるいは、林のなかの木の根元において、あるいは、山々の諸々の洞窟において、まさしく、そこかしこにおいて、そのとき、〔わたしは〕怯える意で立った。
888.(888) 〔今は〕安楽のうちに臥し、〔安楽に〕立ち、安楽に生を営む。〔わたしは〕悪魔の罠の手中になく、ああ、教師の慈しむところとなる。
889.(889) かつて、〔わたしは〕梵の出生の者(婆羅門)として〔世に〕存していた。〔血統善き〕両〔の親〕から〔生まれた〕高貴の者として〔世に〕有った。〔まさに〕その〔わたし〕は、今日、法(真理)の王にして〔世の〕教師たる善き至達者の子として〔世に存している〕。
890.(890) 渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔感官の〕門が守られ、善く統御された者として〔世に存している〕。悩苦の根元を吐き捨てて、煩悩の滅尽は、わたしの至り得るところとなった。
891.(891) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。ということで──
……アングリマーラ長老は……。
16. 1. 9. アヌルッダ長老の詩偈
892.(892) 母と父を捨棄して、姉妹と親族と兄弟たちを〔捨棄して〕、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨棄して、まさしく、アヌルッダは、〔独り〕瞑想する(※)。
※ テキストには jhāyatu とあるが、PTS版により jhāyati と読む。
893.(893) 諸々の舞踏と歌詠を等しく具した者として、鐃(シンバル)や鉦〔の音〕で目覚める者として、〔わたしは、世に有った〕。悪魔の境域を喜ぶ者として〔世に有った、わたしであるが〕、それによって、清浄〔の境地〕に到達することはなかった。
894.(894) しかしながら、この〔迷妄〕を超え行って、覚者の教えを喜ぶ者となり、一切の激流を超え行って、まさしく、アヌルッダは、〔独り〕瞑想する。
895.(895) 意が喜びとするのが、諸々の形態(色:眼の対象)であり、諸々の音声(声:耳の対象)であり、諸々の味感(味:舌の対象)であり、諸々の臭気(香:鼻の対象)であり、さらに、諸々の感触(所触:身の対象)であるなら、そして、これらを超え行って、まさしく、アヌルッダは、〔独り〕瞑想する。
896.(896) 〔行乞の〕施食(托鉢)から戻った、独り、伴侶なき牟尼は、煩悩なきアヌルッダは、諸々の糞掃衣を探し求める。
897.(897) 思慧ある牟尼は、煩悩なきアヌルッダは、諸々の糞掃衣を、選び、掴み、清め、染め、〔身に〕付けた。
898.(898) その者が、かつまた、欲求大きく、〔常に〕満ち足りていないなら、かつまた、〔他者と〕交わり、〔心が〕高揚しているなら、彼には、諸々の〔心の〕汚染(雑染)が、これらの悪しき法(性質)が有る。
899.(899) しかしながら、気づきある者として〔世に〕有り、欲求少なく、〔常に〕満ち足りている、悩み苦しみなき者であるなら──遠離を喜び、常に精進に励む、歓悦の者であるなら──
900.(900) 彼には、諸々の覚りの項目(菩提分)が、これらの善なる法(性質)が有る。そして、彼は、煩悩なき者と成る。かくのごとく、偉大なる聖賢によって説かれた。
901.(901) わたしの思惟を了知して、〔世の〕教師たる方は、世における無上なる方は、意によって作られる身体をもって、神通によって、〔わたしのもとへと〕近づいて行った。
902.(902) わたしに思惟が有った、そのとき、それよりもより上なるものを、〔覚者は〕説示した。虚構なきものを喜ぶ者として、覚者は、虚構なき〔境地〕を説示した。
903.(903) わたしは、彼の法(教え)を了知して、〔彼の〕教えを喜ぶ者として〔世に〕住んだ。三つの明知は獲得され、覚者の教えは為された。
904.(904) わたしが、常坐〔にして不臥〕なる者となり、そののち、五十五年となる。眠気が完破された、そののち、二十五年となる。
905.(905) 心が安立した如なる方(ブッダ)に、出息と入息は有ることなくあった。〔心の〕動揺なき方は、〔心の〕寂静に励んで、眼ある方は、完全なる涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。
906.(906) 〔彼は〕退去なき心で、〔苦痛の〕感受(受:楽苦の知覚)を耐えた。灯火に涅槃(火が消えること)があるように、〔彼の〕心には、解脱が有った。
907.(907) 今や、接触(触:感覚の発生)を第五とする、これらのもの(色・声・香・味・触)は、牟尼にとって、最後のものである。諸々の他の法(性質)も、有ることなくあるであろう──正覚者が、完全なる涅槃に到達したとき。
908.(908) 〔天女に答えて言った〕「ジャーリニーよ、今や、天の衆における、さらなる居住は存在しない。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる生存は存在しない」〔と〕。
909.(909) 彼にとって、世〔の界域〕は、寸時に千種、正しく知られた。彼は、梵〔天〕に類する者である(※)。神通の徳(性質)において、死滅と再生〔の知恵〕において、自在なる者であり、〔正しい〕時に、天神たちを見る。彼は、比丘である。
※ テキストには sabrahmakappo とあるが、PTS版により sa Brahmakappo と読む。
910.(910) かつて、〔わたしは〕食べ物を荷とする者として、貧しき食糧の運び手として、〔世に〕存していた。沙門に、福徳あるウパリッタ〔独覚〕に、〔わたしは〕奉施した(過去世において、独覚に布施をした)。
911.(911) 〔まさに〕その〔わたし〕は、釈迦〔族〕の家に生まれた者として〔世に〕存している(現世にある)。わたしのことを、〔人々は〕「アヌルッダ」と知る──諸々の舞踏と歌詠を具した者として、鐃(シンバル)や鉦〔の音〕で目覚める者として。
912.(912) そこで、〔わたしは〕正覚者を見た──〔世の〕教師たる方を、何も恐れない方を。彼にたいし、心を浄信させて、〔家から〕家なきへと出家した。
913.(913) 〔わたしは〕過去(前世)の居住を知る──そこにおいて、かつて、わたしが住したところを。〔わたしは〕三十三天に止住した──帝釈〔天〕(インドラ神)の生まれをもってして。
914.(914) わたしは、七回、人間のインダ(国王)として、王権を為した(統治した)。四辺を征圧する、ジャンブ洲(閻浮提:インド大陸)のイッサラ(主権者)として、棒(刑罰)によらず、刃(武力)によらず、法(正義)によって統治した。
915.(915) ここから七〔回〕、そこから七〔回〕と、〔合わせて〕十四〔回〕の輪廻を、〔過去の〕居住を、〔わたしは〕証知した──天の世において安立した者として(※)、そのとき。
※ テキストには ṭhitā とあるが、PTS版により ṭhito と読む。
916.(916) 五つの支分ある禅定(定・三昧)において、〔心の〕専一が修められた寂静〔の境処〕において、安息を得たとき、わたしの天眼は清まった。
917.(917) 〔わたしは〕死滅と再生を知る──有情たちの帰る所と赴く所を、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、五つの支分ある瞑想(禅・静慮:禅定の境地)において安立した者として。
918.(918) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
919.(919) ヴァッジー〔国〕のヴェールヴァ村において、わたしは、生命の消滅あることから、竹藪の下にて、煩悩なき者となり、完全なる涅槃に到達するであろう。ということで──
……アヌルッダ長老は……。
16. 1. 10. パーラーパリヤ長老の詩偈
920.(920) 花ひらいた大いなる林のなかで、沙門に、〔このような〕思弁が有った──〔世俗から〕遠離し、〔心が〕一境となり、〔静所に〕坐っている瞑想者に。
921.(921) 世の主たる方(ブッダ)が、最上の人士たる方が、〔世に〕止住しているとき、〔今とは〕他なるものとして、比丘たちの振る舞いは存した。今や、〔昔とは〕他なるものとして、〔比丘たちの振る舞いは〕見られる。
922.(922) 寒風から〔身を〕守り、恥〔の思い〕から隠すべきところを覆う、量として〔必要最小限の〕義(目的)あるものを、〔昔の比丘たちは〕受益した──いかなるものによっても〔足ることを知り〕、満足している者たちとして。
923.(923) もしくは、上等のもの、あるいは、粗末なもの、もしくは、少なかろうが、多かろうが、〔身体の〕保持を義(目的)とするものを、〔昔の比丘たちは〕受益した──〔味に〕耽溺せず、貪求なき者たちとして。
924.(924) 生命のための必需品である、医薬品にたいし、さらに、日用品にたいし、〔彼らが〕激しい思い入れある者たちとして存することはなかった──すなわち、煩悩の滅尽(涅槃の境処)において、彼らがあるままに。
925.(925) 林のなかの木々の根元において、諸々の石窟において、そして、諸々の洞窟において、遠離〔の境地〕を増進しながら、それ(遠離の境地)を〔彼らの〕行き着く所として〔世に〕住んだ。
926.(926) 〔心が〕低きに確立され、〔他者にとって〕扶養し易く、柔和で、強情ならざる意図の者たちとして〔世に有った〕。優美で、寡黙で、義(道理)の思弁の支配に従い行く者たちとして〔世に有った〕。
927.(927) 〔彼らの〕赴くところ、受益するところ、慣れ親しむところは、そののち、〔常に〕浄信あるものとして存した。〔彼らの〕振る舞いの道は、滑らかな油の流れのように〔世に〕有った。
928.(928) 一切の煩悩が完全に滅尽した、大いなる瞑想者にして大いなる益ある者たち──今や、それらの長老たちは、涅槃に到達した者たちとなり(般涅槃した)、今や、そのような者たちは、僅かとなる。
929.(929) そして、諸々の善なる法(性質)の、さらに、智慧の、完全なる滅尽あることから、一切の優れた行相を具した、勝者の教えが滅び去る。
930.(930) そして、諸々の悪しき法(性質)の、さらに、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)の、〔まさに〕その、〔増大する〕時節となる。遠離〔の境地〕のために〔気づきを〕現起している者たちは、そして、彼らは、正なる法(教え)の残余の者たちとなる。
931.(931) 増大しつつある、それらの〔心の〕汚れは、多くの人々を侵す。〔わたしは〕思う──「羅刹たちが狂者たちと〔戯れる〕ように、〔それらは〕愚者たちと戯れる」〔と〕。
932.(932) 諸々の〔心の〕汚れに征服された彼らは、そこかしこに走り回っている──諸々の〔心の〕汚れある事物のなかにいる人たちは、戦場の轟音のなかにいるようなもの。
933.(933) 〔彼らは〕正なる法(教え)を完全に捨て去って、互いに他の者たちと言い争う。〔彼らは〕諸々の悪しき見解に従いつつ、「これは、より勝っている」と思いなす。
934.(934) そして、財を、子を、さらに、妻を、〔一切を〕捨て放って、〔家を〕去った者たちが、たかが、ひと椀の行乞を因として、諸々の為すべきではないことに慣れ親しむ。
935.(935) 腹一杯食べて、〔彼らは〕臥している──〔横臥せず〕上向きに臥す者たちとして。目覚めた〔彼ら〕は、議論を転起させる──それが、教師が難じるところの〔無用の〕議論であるとして。
936.(936) 全ての職人の技能を、心を為して学び、内に〔心は〕寂止されることなく、「〔これこそは〕沙門の資質たる義(目的)である」と鎮座する。
937.(937) 塗料を、そして、油と塗粉を、水と坐具と食料を、より多くのものを望みながら、在家者たちに接近する。
938.(938) 楊枝を、そして、カピッタ〔の果〕を、花を、さらに、諸々の固形の食料を、そして、諸々の〔施物に〕満ちた〔行乞の〕施食を、諸々のアンバ〔の果〕を、さらに、諸々のアーマラカ〔の果〕を、〔より多くのものを望みながら、在家者たちに接近する〕。
939.(939) 諸々の医薬品については、医師たちのように、為すべきことと為すべきではないことについては、在家者たちのように、飾り立てることについては、娼婦たちのように、権力については、士族たちのように、〔彼らは振る舞う〕。
940.(940) 〔彼らは〕欺く者たちであり、騙す者たちであり、偽証の者たちであり、陰険な者たちである。〔彼らは〕多くの工面によって、財貨を遍く受益する。
941.(941) 諸々の計画に、諸々の教相に、諸々の工面に、〔彼らは〕走り回り、生計を義(目的)として、〔悪しき〕手段によって、多くの財を引き寄せる。
942.(942) 行為〔の観点〕から、〔彼らは〕衆(集会)を催す──しかしながら、法(真理)〔の観点〕から、ではなく(行事を目的に集会を開く)。利得〔の観点〕から、他者たちに法(教え)を説示する──しかしながら、義(道理)〔の観点〕から、ではなく(施物を目的に法を説く)。
943.(943) 僧団から完全に外にありながら、僧団の利得について言い争う。他者の利得に依拠して生きているのに、恥〔の思い〕なく(無慚)、恥じることがない。
944.(944) 或る者たちは、剃髪し大衣を着ているが、そのように、〔比丘として為すべきことに〕専念せず、〔他者からの〕利得と尊敬に〔心が〕耽溺し、尊ばれることだけを求める。
945.(945) このように、種々なることが進み行ったとき、そのように、あるいは、〔いまだ〕体得されていないものを体得することは、あるいは、〔すでに〕体得されたものを守り続けることは、今や、為し易きことではない。
946.(946) たとえば、棘ある場において履物なしで歩むように、〔常に〕気づきを現起させて、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、村を歩むがよい。
947.(947) 過去の〔心の〕制止者(瞑想修行者)たちを思念して、彼らの行持を随念しながら、たとえ、何であれ、最後の時となるも、不死の境処を体得するべきである。
948.(948) この〔言葉〕を説いて、サーラ〔樹〕の林において、沙門は、〔五つの〕機能(五根:信根・精進根・念根・定根・慧根)を修めた婆羅門は、さらなる生存が滅尽した聖賢は、完全なる涅槃に到達した(般涅槃した)。ということで──
……パーラーパリヤ長老は……。
二十なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「アディムッタ、パーラーパリヤ、テーラカーニ、ラッタパーラ、マールキャ(マールキャプッタ)とセーラ、バッディヤ、アングリ(アングリマーラ)、天眼者(アヌルッダ)、パーラーパリヤがあり、これらの十者〔の長老たち〕が遍く述べ伝えられ、二十なるもの〔の集まり〕において、二百を超えること四十五の詩偈が有る」と。
17. 三十なるものの集まり
17. 1. 第一の章
17. 1. 1. プッサ長老の詩偈
949.(949) 自己を修め、善く統御された、浄信ある、多くの者たちを見て、パンダラサ姓の聖賢は、プッサという呼び名を有する〔比丘〕に尋ねた。
950.(950) 〔聖賢が尋ねた〕「未来の時において、〔世の人々の〕諸々の欲〔の思い〕は、どのようなものと〔成るのでしょうか〕。〔世の人々の〕諸々の志向は、どのようなものと〔成るのでしょうか〕。〔世の人々の〕諸々の営為は、どのようなものと成るのでしょうか。〔問いを〕尋ねられた者として、それを、わたしに告げ知らせてください」〔と〕。
951.(951) 〔長老は答えた〕「パンダラサという呼び名を有する聖賢よ、わたしの言葉を聞きなさい。真剣に熟考しなさい。未来のことを告げ知らせよう。
952.(952) 多くの、そして、忿激と怨恨と偽装と強情と狡猾の者たちが、さらに、嫉妬深く種々なる論ある者たちが、未来において、〔世に〕有るであろう。
953.(953) 深遠なる法(教え)について、〔自らを〕了知者と思量する者たちが、〔浅き〕岸辺を境涯とする者たちが、〔世に有るであろう〕。法(教え)にたいし軽佻で尊重なき者たちが、互いに他と尊重〔の思い〕なき者たちが、〔世に有るであろう〕。
954.(954) 未来において、多くの危険(患・過患)が、世に生起するであろう。〔覚者によって〕見事に説示された、この法(教え)を、思慧に劣る者たちが汚すであろう。
955.(955) 僧団において、たとえ、徳の劣る者たちでも、熟達者として取り仕切りつつ、力ある者たちと成るであろう──無聞で、駄弁の者たちであるも。
956.(956) 僧団において、たとえ、徳ある者たちでも、義(道理)のままに取り仕切りつつ、彼らは、力弱き者たちと成るであろう──恥(慚)の意ある者たちであり、〔悪しき〕義(目的)なき者たちであるも。
957.(957) 銀を、そして、金を、田畑を、地所を、山羊と羊を、さらに、奴婢と奴隷を、思慮浅き者たちが、未来において、愛用するであろう。
958.(958) 〔他者にたいする〕譴責の表象(想:概念・心象)ある愚者たちが、諸戒において〔心が〕定められていない者たちが、傲慢で紛争を喜ぶ獣愚の者たちが、〔世を〕渡り歩くであろう。
959.(959) そして、〔心が〕高揚している、青い〔色の〕衣料を着た者たちが、〔世に〕有るであろう。虚言で、強情で、饒舌で、悪賢い者たちが、聖者たちのように、〔世を〕歩むであろう。
960.(960) 油〔の潤い〕ある優しい髪で、〔黒の〕塗料をつけた眼の、〔心が〕揺れ動く者たちが、牙の色(白)〔の衣料〕を着た者たちが、道を赴くであろう。
961.(961) 解脱者たちであるなら、忌避するべくもないのが、〔規則のとおりに〕善く染められた阿羅漢の旗(袈裟)である。諸々の白〔の衣料〕に耽溺する者たちは、黄褐色〔の衣〕(袈裟)を忌避するであろう。
962.(962) 怠惰で、精進に劣るも、利得を欲する者たちが、〔世に〕有るであろう。諸々の林野の辺境に難渋する者たちが、〔辺境を離れて〕村々の外れに住するであろう。
963.(963) 誤った生き方を喜ぶ者たちが、それらの者たち、それらの者たちが、常に、利得を得ることになり、自制なき者たちは、まさしく、彼らのもと、彼らのもとへと、随学しながら親しみ行くであろう。
964.(964) それらの者たち、それらの者たちが、利得を得ない者たちであるなら、彼らは、供養されるべき者たちには成らないであろう。たとえ、彼らが、いとも愛されるべき慧者たちであるも、そのとき、彼らのもとへと、〔世の人々が〕慣れ親しむことはないであろう。
965.(965) 自らの旗(袈裟)を難じながら、蛮族の〔赤の〕染料で染められた〔衣料〕を、異教の者たちの白き旗を、誰であれ、〔身に〕付けるであろう。
966.(966) そして、そのとき、黄褐色〔の衣〕にたいする、彼らの尊重なき〔思い〕が有るであろう。さらに、黄褐色〔の衣〕にたいする、比丘たちの審慮〔の思い〕は有ることなくあるであろう」〔と〕。
967.(967) 苦しみに征服され、矢に貫かれ、苦しんでいる象(比丘)には、大いなるおぞましさにして、不可思議なる、審慮〔の思い〕が存した。
968.(968) まさに、そのとき、六牙の象たる者は、〔規則のとおりに〕善く染められた阿羅漢の旗を見て、まさしく、ただちに、義(道理)を伴った諸々の詩偈を話した。
969.(969) 〔長老は言った〕「すなわち、無濁ならざる者が、黄褐色の衣をまとうも、調御と真理から離れた者は、彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。
970.(970) しかしながら、すなわち、汚濁を吐き捨てた者として〔世に〕存し、諸戒において〔心が〕善く定められ、調御と真理を具した者は、彼は、まさに、黄褐色〔の衣〕に値する。
971.(971) 戒が衰滅し、思慮浅く、〔本能の〕現じ顕われるまま、欲望のままに為す、心が錯乱した無白の者は、彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。
972.(972) しかしながら、すなわち、戒を成就し、貪欲を離れ、〔心が〕定められ、白き意と思惟ある者は、彼は、まさに、黄褐色〔の衣〕に値する。
973.(973) 〔心が〕高揚し、傲慢で、彼に戒が見出されない、愚者は、白〔の衣料〕に値する。黄褐色〔の衣〕が、何を為すというのだろう。
974.(974) そして、比丘たちは、さらに、比丘尼たちも、汚れた心の者たちとなり、礼を欠く者たちとなり、如なる者たちを、慈愛の心ある者たちを、未来において、責め苛むであろう。
975.(975) 〔ふさわしい〕衣料を〔身に〕付けることを、たとえ、長老たちによって学ばせつつも、愚者たちは、〔その教諭を〕聞かないであろう──〔本能の〕現じ顕われるまま、欲望のままに為す、思慮浅き者たちは。
976.(976) そのように学んだ、それらの愚者たちは、互いに他と尊重〔の思い〕なく、野馬が馭者を〔無視する〕ように、師父たちを気にしないであろう。
977.(977) 未来の時に、最後の時に至り得たなら、比丘たちの、さらに、比丘尼たちの、〔彼らの〕実践は、このように成るであろう。
978.(978) この大いなる恐怖が、未来にやってくる前に、〔あなたたちは〕素直で、友誼に厚く、互いに他と尊重〔の思い〕を有する者たちと成れ。
979.(979) 慈愛の心ある慈悲の者たちと成れ。諸戒において統御された者たちと〔成れ〕。精進に励み、自己を精励し、常に、断固たる勤勉〔努力〕ある者たちと〔成れ〕。
980.(980) 〔気づきを〕怠ること(放逸)を「恐怖である」と見て、そして、〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)を「平安である」と〔見て〕、不死の境処を〔常に〕体得している者たちとなり、〔聖なる〕八つの支分ある道(八正道・八聖道)を修めよ。ということで──
……プッサ長老は……。
17. 1. 2. サーリプッタ長老の詩偈
981.(981) 歩みあるままに、気づきあるままに、気づきの者として、〔常に気づきを〕怠らず、思惟を制した瞑想者──内に喜び、自己が定められた者──〔常に〕満ち足りている、独りある者──彼を、〔賢者たちは〕「比丘」と言う。
982.(982) 水気のあるものを〔食べているとして〕、あるいは、乾燥したものを食べているとして、膨満し満腹した者として存さないように。〔常に〕腹を空かし、食〔の量〕が量られ、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。
983.(983) 四〔口〕五口〔の食〕は食べずして、水を飲むように。自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔それで〕十分であるである。
984.(984) もし、それが、適確なるものであり、〔隠すべきところを〕覆い隠すなら、この衣料は、義(道理)あるものであり、自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔それで〕十分であるである。
985.(985) 結跏で坐っている者の〔両の〕膝まで、雨が降らない。自己を精励する比丘にとって、平穏の住のためには、〔それで〕十分であるである。
986.(986) すなわち、安楽〔の感受〕を、「苦痛である」と見たなら、苦痛〔の感受〕を、「矢である」と見たなら、両者の中間にあって、〔何も〕有ることなくあったなら、世において、何によって、何が存するというのだろう。
987.(987) いついかなる時も、わたしとともに〔有っては〕ならない──悪しき欲求ある者も、怠惰の者も、精進に劣る者も、少聞の者も、礼を欠く者も、世において、何によって、何が存するというのだろう。
988.(988) そして、多聞にして思慮ある者は、諸戒において〔心が〕善く定められた者は、心の止寂に専念する者もまた、〔わたしの〕頭上に立て。
989.(989) すなわち、戯論(分別妄想)に専念し、戯論を喜び楽しむ獣愚の者は、彼は、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、失ったのだ。
990.(990) しかしながら、すなわち、戯論を捨棄して、戯論なき道を喜ぶ者は、彼は、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、達成したのだ。
991.(991) もしくは、村であろうが、林であろうが、もしくは、低地であろうが、高地であろうが、そこにおいて、阿羅漢たちが住むなら、その地は、喜ぶべきものとなる。
992.(992) すなわち、〔世俗の〕人が喜ばないところである、〔人里離れた〕諸々の林は、〔阿羅漢たちにとっては〕喜ぶべきものとなる。貪欲を離れた者たちは、〔そこにおいて〕喜ぶであろう。彼らは、欲望〔の対象〕を探し求める者たちにあらず。
993.(993) 諸々の財宝の〔隠し場所を〕伝授する者のように、〔わが身の〕罪過に見ある者(無自覚の罪過を指摘してくれる者)を、彼を、見るなら、そのような賢者と、〔過誤を「過誤である」と正しく〕批判して説く思慮ある者と、親しくするがよい。そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。
994.(994) 〔他者を〕教え諭すように。〔真理を〕教え示すように。そして、不当なることから〔自己を〕防ぎ護るように。まさに、彼は、正しくある者たちにとって愛しき者と成り、正しからざる者たちにとって愛しからざる者と成る。
995.(995・996) 覚者たる世尊は、眼ある方は、他者のために、法(真理)を説示した。法(真理)が説示されているとき、〔真理を〕義(目的)とする者として、〔わたしは〕耳を傾けた。わたしの、その聴聞は、無駄ならざるもの。〔わたしは〕解脱者として、煩悩なき者として、〔世に〕存している。
996.(996・997) まさしく、過去(前世)の居住〔を知る神通〕のためにあらず──また、天眼〔の獲得〕のためにもあらず──〔他者の〕心を探知する神通のために〔あらず〕──〔有情たちの〕死滅と再生〔を知る神通〕のために〔あらず〕──耳の界域(天耳界)の清浄のためにあらず──わたしの誓願が、〔世に〕見出されるのは(わたしの誓願は、真理のためにある)。
997.(998) まさしく、木の根元に依拠して、剃髪し大衣を着た、智慧における最上の長老、まさしく、ウパティッサ(サーリプッタ)は、〔独り〕瞑想する。
998.(999) 思考なき〔境地〕に入定した、正等覚者の弟子は、まさしく、ただちに、聖なる沈黙の状態を具した者と成る。
999.(1000) あたかも、また、山の巌が、揺れ動かず、しっかりと確立しているように、このように、迷妄の滅尽あることから、比丘は、山のように動じない。
1000.(1001) 常に清らかさを探し求めている、穢れなき人には、毛先ばかりの悪でも、まさしく、雲ほどに見えてしまう。
1001.(1002) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。この身体を置き去りにするであろう──正知と気づきの者として。
1002.(1003) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。そして、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ──あたかも、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように。
1003.(1004) 〔常住と断滅の〕両者によっても、これは、死あるだけのこと。あるいは、後にも、あるいは、前にも、死なきは〔有りえ〕ない。〔道を〕実践せよ。〔為すことなく〕滅び去ってはならない。〔この〕瞬間が、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。
1004.(1005) あたかも、辺境にある、内外共に保護された城市のように、このように、自己を保護するがよい。〔この〕瞬間が、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない。なぜなら、〔この〕瞬間を〔虚しく〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。
1005.(1006) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者は、諸々の悪しき法(性質)を払い落とす──風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。
1006.(1007) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、明慧によって話し、〔心が〕高揚しない者は、諸々の悪しき法(性質)を落とし去った──風が、木の葉を〔吹き払う〕ように。
1007.(1008) 〔心が〕寂静で苦労なく、〔心が〕澄浄で混濁なく、善き戒ある思慮ある者は、苦しみの終極を為す者として〔世に〕存するであろう。
1008.(1009) このように、或る一部の者たちについては、家ある者たちについても、さらに、また、出家者たちについても、信頼するべきではない(先入見なく事実のとおりに見るべきである)。たとえ、善なる者たちと成っても、善ならざる者たちと成る。善ならざる者たちと成っても、ふたたび、善なる者たちと成る。
1009.(1010) 比丘にとって、そして、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)は、憎悪〔の思い〕(瞋恚)は、かつまた、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)は、〔心の〕高揚(掉挙)は、さらに、疑惑〔の思い〕(疑)は──これらの五つのものは、心の遊び戯れである。
1010.(1011) 彼が、〔他者から〕尊敬されているとして、さらに、同様に、〔他者から〕尊敬なくあるとして、〔彼の〕禅定(定・三昧)が動揺せず、不放逸の住者としてあるなら──
1011.(1012) 〔まさに〕その、常久なる瞑想者を、繊細にして〔正しい〕見解ある観察者を、執取の滅尽を喜びとする者を、〔賢者たちは〕「正なる人士」と言う。
1012.(1013) 大海、地、山、さらに、また、風──〔それらは〕教師の優れた解脱の喩えには、結び付かない(解脱の境地は喩えようがない)。
1013.(1014) 〔法の〕輪を随転させる長老(サーリプッタ)は、大いなる知恵ある者であり、〔心が〕定められた者であり、地と水と火に等しく、〔貪りに〕染まらず、〔怒りに〕汚されない。
1014.(1015) 智慧の完全態(般若波羅蜜)に至り得た者は、大いなる覚慧ある者であり、大いなる思慧ある者であり、痴者に等しくして痴者ならず、涅槃に到達した者として、常に〔世を〕歩む。
1015.(1016) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
1016.(1017) 〔気づきを〕怠らないことによって、〔道を〕成就せよ。これは、わたしの教示である。さあ、わたしは、完全なる涅槃に到達するであろう。一切所に、〔わたしは〕解脱者として存している。ということで──
……サーリプッタ長老は……。
17. 1. 3. アーナンダ長老の詩偈
1017.(1018) そして、中傷する者と、忿激する者と、さらに、物惜〔の思い〕ある者と、〔他者の〕破滅を喜ぶ者と、〔彼らと〕友誼を為すべきではない──賢者たる者は。悪しきは、俗人との交際である。
1018.(1019) そして、信ある者と、かつまた、博愛なる者と、智慧ある者と、さらに、多聞の者と、〔彼らと〕友誼を為すべきである──賢者たる者は。幸いなるは、正なる人士との交際である。
1019.(1020) 見よ──彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を──寄せ集めの、傷ある身体を──病んだ、妄想多きものを。それに、常恒と止住は、〔何であれ〕存在しない。
1020. 見よ──彩りあざやかに作り為された〔虚妄の〕形態を──そして、宝珠や耳飾によって〔飾り立てられ〕、骨と皮で覆われた〔不浄の身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。
1021. 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
1022. 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗料をつけた〔両の〕眼──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
1023. 彩りあざやかな新しい塗料箱のように、〔装いを〕十分に作り為した腐敗の身体──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
1024.(1021) 多聞にして、様々な言説あり、覚者の侍者にして、重荷を降ろし、束縛を離れた者──ゴータマ(アーナンダ)は、臥所を営む。
1025.(1022) 煩悩が滅尽し、束縛を離れ、執着を超え行き、善く涅槃に到達した者は、生と死の彼岸に至る者となり、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)。
1026.(1023) 覚者の、太陽の眷属の、諸々の法(教え)が確立した、〔まさに〕その、涅槃に至る道において、彼は、このゴータマ(アーナンダ)は、立つ。
1027.(1024) 〔わたしは〕覚者から八万と二〔千の法〕を、比丘たちから二千〔の法〕を、収め取った。すなわち、〔世に〕転起している、八万と四千の、これらの法(教え)である。
1028.(1025) この少聞の人は、荷牛のように老い朽ちる。彼の諸々の肉は増え行くが、彼の智慧は増え行くことがない。
1029.(1026) すなわち、多聞の者が、所聞(聴聞した教法)によって、少聞の者を軽んじるなら、盲者が灯明を保つように、まさしく、そのように、わたしには、〔その愚が〕明白となる。
1030.(1027) 多聞の者に近侍するべきである。そして、所聞を失うべきではない。それが、梵行の根元である。それゆえに、法(教え)を保つ者として〔世に〕存するべきである。
1031.(1028) 前後〔関係〕を知り、義(意味)を知り、語句を熟知する者は、そして、見事に把握された〔法〕を収め取り、かつまた、義(意味)を近しく注視する。
1032.(1029) 忍耐によって、〔涅槃への〕欲〔の思い〕(意欲)を為した者と成る。〔断固〕敢行して、それを〔考量し〕比較する。彼は、内に〔心が〕善く定められた者であり、〔正しい〕時に〔刻苦〕精励する。
1033.(1030) 多聞にして、法(教え)を保ち、智慧を有する、覚者の弟子と──法(教え)を識知し、〔涅槃を〕望む、そのような種類の者と──彼と、親しくするべきである。
1034.(1031) 多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切の世の眼たる多聞の者は、供養されるべきである。
1035.(1032) 法(教え)を喜びとし、法(教え)を喜び、法(教え)を〔常に〕弁別し、法(教え)を〔常に〕随念している比丘は、正なる法(教え)から遍く衰退しない。
1036.(1033) 〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜〔の思い〕を重んじる者に、肉体の安楽(肉欲)を貪り求める者に、どうして、沙門の平穏があるというのだろう。
1037.(1034) 全ての方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしに明白とならない。善き朋友(サーリプッタ)が逝去したとき、〔世は〕暗黒であるかに見える。
1038.(1035) 道友が去り行った者に、教師が過ぎ行き逝去した者に、このような〔益ある〕朋友は存在しない──すなわち、身体の在り方についての気づきのように〔益ある朋友は〕。
1039.(1036) 彼ら、古き者たちは、彼らは、過ぎ行ったのだ。わたしと新しい者たちとは、〔互いが互いを〕行知することはない。〔まさに〕その〔わたし〕は、今日、まさしく、独り、瞑想する──雨に降られた鳥のように。
1040.(1037) 〔世尊は言った〕「〔わたしと〕会見するために〔遠方から〕超え来た、種々なる国々の多くの者たちを、〔聞く〕耳ある者たちを、妨げてはいけない。〔彼らは〕わたしを見よ。〔今が、その〕時である」〔と〕。
1041.(1038) 〔教師に〕会見するために来訪した者たちを、種々なる国々の多々なる者たちを(※)、眼ある方は妨げない。教師は、〔聴聞の〕機会を作る。
※ テキストには puthu とあるが、PTS版により puthū と読む。
1042.(1039) 二十五年のあいだ、学びある者(有学)の状態で〔世に〕存しているわたしに、欲望の表象(想:概念・心象)は生起しなかった。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。
1043.(1040) 二十五年のあいだ、学びある者の状態で〔世に〕存しているわたしに、憤怒(瞋)の表象は生起しなかった。見よ──法(教え)の善き法(教え)たることを。
1044.(1041) 二十五年のあいだ、慈愛ある身体の行為(身業)によって、〔わたしは〕世尊に奉仕した──影が離れないように。
1045.(1042) 二十五年のあいだ、慈愛ある言葉の行為(口業)によって、〔わたしは〕世尊に奉仕した──影が離れないように。
1046.(1043) 二十五年のあいだ、慈愛ある意の行為(意業)によって、〔わたしは〕世尊に奉仕した──影が離れないように。
1047.(1044) 歩行〔瞑想〕をしている覚者の背後に従い歩行〔瞑想〕をした。法(教え)が説示されているとき、わたしに、知恵が生起した。
1048.(1045) わたしは、〔いまだ〕為すべきことを有する者として〔世に〕存し、〔いまだ〕意図に至り得ていない者であり、〔いまだ〕学びある者であるも、そして、教師に、完全なる涅槃が〔存した〕──すなわち、わたしたちにとって、慈しみ〔の思い〕ある方である、〔教師に〕。
1049.(1046) そのとき、〔まさに〕その、禍々しき〔思い〕が存した──そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した──〔すなわち〕一切の優れた行相を具した正覚者が、完全なる涅槃に到達したとき。
1050.(1047) 〔アーナンダ長老の死後、残された他の比丘たちは詩偈を唱えた〕「多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切の世の眼たるアーナンダは、完全なる涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。
1051.(1048) 多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切の世の眼たる〔アーナンダ〕は、暗黒のなかで闇を除去する者である。
1052.(1049) 〔善き〕境遇ある者、〔常に〕気づきある者、そして、すなわち、〔道心〕堅固の聖賢にして、正なる法(教え)を保つ長老、アーナンダは、宝の鉱脈である」〔と〕。
1053.(1050) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。ということで──
……アーナンダ長老は……。
三十なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「プッサ、ウパティッサ(サーリプッタ)、アーナンダ、かくのごとく、これらの三者〔の長老たち〕が述べ伝えられ、そこにおいて、百〔の詩偈〕が数えられ、さらに、〔それを〕超えること五つの詩偈が〔数えられた〕」と。
18. 四十なるものの集まり
18. 1. 第一の章
18. 1. 1. マハー・カッサパ長老の詩偈
1054.(1051) 衆に尊ばれる者として、〔世を〕歩まないように。意が離れる者と成り、禅定は得難きものと〔成る〕。種々なる人が群れ集うのは、苦しみである。かくのごとく見て、衆を喜ばないように。
1055.(1052) 牟尼(沈黙の聖者)は、家々を訪ね回らないように。意が離れる者と成り、禅定は得難きものと〔成る〕。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味にたいし貪求ある者である。
1056.(1053) すなわち、家々における、この敬拝と供養であるが、まさに、それを、〔賢者たちは〕「汚泥である」と知らせた。繊細な矢は抜き難く、〔他者からの〕尊敬は、俗人には捨て難い。
1057.(1054) 臥坐所から降りて、〔行乞の〕食のために、〔わたしは〕城市に入った。癩病の人が〔何やら〕食べているところに、彼〔の傍ら〕に、〔わたしは〕恭しく立った。
1058.(1055) 彼は、爛熟した手で、わたしに、ひと握り〔の飯〕を授けてくれた。〔彼が、鉢に〕ひと握り〔の飯〕を置きつつあると、そして、ここにおいて、〔彼の〕指が断ち切れた。
1059.(1056) そして、〔城市の〕壁の根元に依拠して、〔わたしは〕そのひと握り〔の飯〕を食べた。あるいは、〔それを〕食べつつも、あるいは、食べたあとも、わたしに、忌避〔の思い〕は見出されない。
1060.(1057) 〔戸口に〕立って受ける〔行乞の〕食を食とし、そして、腐尿(発酵した牛の尿)を薬とし、木の根元を臥坐所とし、さらに、糞掃衣を衣料とする、彼が、これらのものを甘受して〔常に満ち足りているなら〕、彼は、まさに、四方の人である。
1061.(1058) そこにおいて、或る者たちは、〔そそり立つ〕巌の連なりを登りつつも、〔結局は〕打ちのめされるが、覚者たる彼の相続者にして正知と気づきの者は、神通の力に支えられたカッサパは、〔楽々と〕登る。
1062.(1059) 〔行乞の〕施食(托鉢)から戻り、巌に登って、カッサパは、執取〔の思い〕なく、〔あらゆる〕恐怖と恐ろしさを捨棄した者は、〔独り〕瞑想する。
1063.(1060) 〔行乞の〕施食から戻り、巌に登って、カッサパは、執取〔の思い〕なく、〔欲の炎に〕焼かれている者たちのなかにいながら涅槃に到達した者は、〔独り〕瞑想する。
1064.(1061) 〔行乞の〕施食から戻り、巌に登って、カッサパは、執取〔の思い〕なく、為すべきことを為した煩悩なき者は、〔独り〕瞑想する。
1065.(1062) カレーリの花畑が広がり、意が喜びとする、諸々の土地の区画があり、喜ばしく、象の鳴き声がする、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
1066.(1063) 青き雲の色の、好ましく、冷たい水があり、〔常に〕清らかさを保ち、〔心地よい〕インダゴーパカ〔草〕に等しく覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
1067.(1064) 青き雲の峰に等しく、優れた楼閣の如く、喜ばしく、雁の鳴き声がする、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
1068.(1065) 雨を得た諸々の喜ばしき平地、聖賢たちが慣れ親しむ山々、孔雀たち〔の声〕が鳴り響く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
1069.(1066) 瞑想を欲し自己を精励する者として〔世に〕存している、わたしには、〔それで〕十分である。義(目的)を欲し自己を精励する比丘である、わたしには、〔それで〕十分である。
1070.(1067) 平穏を欲し自己を精励する比丘である、わたしには、〔それで〕十分である。〔心の〕制止を欲し自己を精励する如なる者である、わたしには、〔それで〕十分である。
1071.(1068) 雲に覆われた空のように、等しくウンマーの花に〔覆われ〕、種々なる鳥たちの群れがそぞろ行く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
1072.(1069) 在家の者たちがそぞろ行くことなく、鹿たちの群れが慣れ親しみ、種々なる鳥たちの群れがそぞろ行く、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
1073.(1070) 澄んだ水をたたえ、広々とした岩盤があり、黒面の猿や鹿たちが群れつどい、水と苔に等しく覆われた、それらの巌は、わたしを喜ばせる。
1074.(1071) 五つの支分ある楽器によっても、わたしに、そのような喜びが有ることはない──すなわち、心が一境となり、正しく法(事象)を観察している者にある、〔そのような喜びは〕。
1075.(1072) 〔世俗に関わる〕多くの行為を為さないように。〔世俗に関わる〕人々を遍く避けるように。〔俗事に〕努めないように。彼が、〔世俗の〕安楽をもたらす者となり、〔出家の〕義(目的)を遠ざけるなら、彼は、〔俗事に〕思い入れある者であり、味にたいし貪求ある者である。
1076.(1073) 〔世俗に関わる〕多くの行為を為さないように。自己〔の義〕ならざるものに導くこの〔行為〕を遍く避けるように。身体は、難渋し、疲弊する。苦しみの者となり、彼は、〔心の〕止寂を見出さない。
1077.(1074) 〔彼は〕唇を打つばかりで、自己をもまた〔あるがままに〕見ない。〔居丈高の〕強情な首で〔世を〕歩み、「わたしは、〔誰よりも〕より勝っている」と思いなす。
1078.(1075) 〔誰よりも〕より勝っていない愚者は、自己のことを思いなす──〔誰よりも〕より勝っている者として〔世に〕存していると。〔まさに〕その、強情な意図の人を、識者たちは賞賛しない。
1079.(1076) しかしながら、彼が、「より勝る者として、わたしは存している」と、また、あるいは、「より勝る者ではなく、わたしは〔存している〕」と、あるいは、「〔彼に〕劣る者として、〔わたしは存している〕」「彼に等しき者として、〔わたしは存している〕」と、〔これらの三つの〕様相について〔心が〕動かないなら──
1080.(1077) 智慧ある者を、そのように如なる者を、諸戒において〔心が〕善く定められた者を、心の止寂に専念する者を、そして、彼を、識者たちは賞賛する。
1081.(1078) 彼に、共に梵行を為す者たちにたいする尊重〔の思い〕が認められないなら、〔彼は〕正なる法(教え)から遠く離れて有る──地が、天空から〔遠く離れて有る〕ように。
1082.(1079) しかしながら、彼らに、恥〔の思い〕(慚)と〔良心の〕咎め(愧)が、常に正しく現起しているなら、彼らは、梵行が育ち実った者たちであり、彼らにとって、諸々のさらなる生存は、〔すでに〕滅尽したものとしてある。
1083.(1080) 〔心が〕高揚し、軽薄なる、〔そのような〕比丘が、糞掃衣を着たとして、彼は、獅子の皮を〔被った〕猿のように、それによって光り輝かない。
1084.(1081) 〔心が〕高揚せず、軽薄ならず、賢明で、〔感官の〕機能が統御された〔比丘〕は、山窟にある獅子のように、糞掃衣によって美しく輝く。
1085.(1082) これらの、神通と福徳ある数多くの天〔の神々〕たちは、一万の梵衆天〔の神々〕たちは、彼らの全てが──
1086.(1083) 法(教え)の軍団長にして勇者たる者、偉大なる瞑想者にして〔心が〕定められた者、サーリプッタを礼拝しながら、合掌を為し、立つ。
1087.(1084) 〔神々が言った〕「善き生まれの人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。すなわち、あなたには、依拠して瞑想する、その〔対象物〕でさえも、〔わたしたちは、それを〕証知しません。
1088.(1085) まさに、稀有なることです。覚者たちの深遠なる境涯は、〔覚者〕自らのものです。すなわち、〔髪の〕毛を貫く者たちが集まっていながら、わたしたちは、〔それを〕証知しません」〔と〕。
1089.(1086) そのように、天の身体ある者たちに供養され、供養に値する者を、〔まさに〕その、サーリプッタを見て、そのとき、カッピナ(マハー・カッサパ)には、笑みが有った。
1090.(1087) 覚者の田畑(福田)における、そのかぎりにおいて、偉大なる牟尼を除いて、わたしは、〔心の汚れを〕払い落とす徳(頭陀行)における、殊勝の者である。わたしに、相同の者は見出されない。
1091.(1088) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
1092.(1089) 衣料に〔汚され〕ず、臥所に〔汚され〕ず、食料に汚されず、ゴータマ(ブッダ)は、無量なる方にして、蓮の花が、垢を離れ、〔汚〕水に〔汚されない〕ように、離欲に向かい行く方であり、三つの〔迷いの〕生存(三界)から出離した方である。
1093.(1090) 彼は、気づきの確立(念処・念住)を首とし、偉大なる牟尼は、信を手とし、偉大なる知恵ある方は、智慧を頭とし、涅槃に到達した者として、常に〔世を〕歩む。ということで──
……マハー・カッサパ長老は……。
四十なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「四十なるものの集まりにおいて、マハー・カッサパという呼び名を有する長老が、まさしく、独りあり、四十の詩偈があり、さらに、また、二つ〔の詩偈〕がある」と。
19. 五十なるものの集まり
19. 1. 第一の章
19. 1. 1. ターラプタ長老の詩偈
1094.(1091) いったい、いつ、わたしは、伴侶なき独一者となり、諸々の山窟に住むのだろう。一切の生存を、「常住ならざるもの(無常)である」と〔あるがままに〕観察しながら。それは、わたしにとって、このことは──それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1095.(1092) いったい、いつ、わたしは、破れた布きれを〔身に〕付ける、黄褐色の衣の牟尼となり、我執なく願望なき者となり、そして、貪欲(貪)を、さらに、憤怒(瞋)を、まさしく、そのように、迷妄(痴)を打ち砕いて、安楽の者となり、山林に赴き、〔そこに〕住むのだろう。
1096.(1093) いつ、この身体を、常住ならざるものと、殺戮と病の巣と、死魔と老に悩まされるものと、〔あるがままに〕観察しながら、恐怖〔の思い〕を離れた者となり、独り、林に住むのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1097.(1094) いったい、いつ、わたしは、恐怖〔の思い〕を生み、苦しみをもたらし、多くの種類に従い転じ行く、渇愛の蔓草を──智慧によって作られる鋭い剣を掴み取って──断ち切って住するのだろう。それはまた、いつのことに成るのだろう。
1098.(1095) いったい、いつ、智慧によって作られる、聖賢たちの烈火の刃を、即座に取って、軍団を有する悪魔を、獅子坐において、即座に打ち破るのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1099.(1096) いったい、いつ、わたしは、諸々の集いにおいて、正しくある者たちによって、法(教え)を重んじる者たちによって、如なる者たちによって、あるがままに見る者たちによって、〔感官の〕機能に勝利した者たちによって、〔刻苦〕精励の者と見られることに成るのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1100.(1097) いったい、いつ、わたしを──ギリッバジャ(ラージャガハの別名)において、〔聖なる〕義(目的)を義(目的)とする者である、〔まさに〕その〔わたし〕を──諸々の倦怠や飢えや渇きが、あるいは、諸々の風と熱が、諸々の虫や蛇が、悩まさなくなるのだろう(※)。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
※ テキストには Na bādhayissanti na とあるが、PTS版により Nibādhayissanti na と読む。
1101.(1098) いったい、いつ、まさに、その、偉大なる聖賢によって見出された、極めて見難き四つの真理(四諦)に、その〔真理〕に、自己が定められた気づきある者となり、智慧によって至り着くのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1102.(1099) いったい、いつ、わたしは、そして、諸々の形態(色:眼の対象)を、諸々の音声(声:耳の対象)を、諸々の味感(味:舌の対象)を、諸々の臭気(香:鼻の対象)を、さらに、諸々の感触(所触:身の対象)を、諸々の法(法:意の対象)を、〔これらの〕無量なるものを、「燃え盛るものである」と、諸々の〔心の〕寂止(奢摩他・止)に専念する者となり、智慧によって見るのだろう。それは、わたしにとって、このことは、いつのことに〔成るのだろう〕。
1103.(1100) いったい、いつ、わたしは、悪口を言われたとして、それを理由に、意が離れる者と成らなくなるのだろう。そこで、また、賞賛されたとして、それを理由に、満ち足りた者と成らなくなるのだろう。それは、わたしにとって、このことは、いつのことに〔成るのだろう〕。
1104.(1101) いったい、いつ、わたしは、これらの〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)を、さらに、諸々の無量なる法(性質)を──まさしく、そして、諸々の内なるものも、さらに、諸々の外なるものも──諸々の薪に等しきものと、そして、諸々の草〔に等しきもの〕と、さらに、諸々の蔓〔に等しきもの〕と、〔考量し〕比較できるのだろう。それは、わたしにとって、このことは、いつのことに〔成るのだろう〕。
1105.(1102) いったい、いつ、わたしに──〔黄褐色の〕衣料(袈裟)を有し、林のなかで、〔かつて〕聖賢たちが辿った道を行く〔わたし〕に──雨期の黒雲が、新鮮な水を降り注ぐのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1106.(1103) いつ、林のなかの山窟で、冠毛ある孔雀鳥の鳴き声を聞いて、不死〔の境処〕に至り得るために、奮起して思弁するのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1107.(1104) いったい、いつ、ガンガー〔川〕を、ヤムナー〔川〕を、サラッサティー〔川〕を、パーターラ・キッタ〔の深淵〕を、さらに、ヴァラヴァー・ムカ〔の海溝〕を、禍々しき〔障害〕を、神通によって、沈むことなく超え渡るのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1108.(1105) いったい、いつ、象のように、執着なく歩む者となり、一切の浄美なる相(美しく価値あるように見えるもの)を避けながら、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念する者となり、〔五つの〕欲望の属性(妙欲:色・声・香・味・触)にたいする欲〔の思い〕を破り去るのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1109.(1106) いつ、債権者たちに責め苛まれ、借金に苦悩する貧者が、〔隠された〕財宝に達して〔幸せになる〕ように、偉大なる聖賢の教えに到達して、満ち足りた者と成るのだろう。それは、いったい、いつのことに成るのだろう。
1110.(1107) 多年にわたり、おまえに乞われてきた者として、〔わたしは〕存している。「家に住することは、おまえにとって、このことは、もう、十分だ(すみやかに出家せよ)」〔と〕。心よ、今や、出家者として〔世に〕存している、〔まさに〕その、わたしを、おまえは、何を動機として、〔瞑想の境地に〕結び付けないのか(わたしの心は修行に専念できない)。
1111.(1108) 心よ、まさに、おまえに乞われてきた者として、わたしは存しているではないか。「ギリッバジャには、彩りあざやかな〔羽毛〕を覆いとする鳥たちがいる。鳴り響く大いなるインダの轟音(雷鳴)に唱和し、彼らは、林のなかで瞑想するおまえを喜ばせるであろう」〔と〕。
1112.(1109) 家における、そして、朋友たちを、さらに、愛しい者たちを、親族たちを、遊興と歓楽を、さらに、世における欲望の属性を、一切を捨棄して、この〔出家の道〕に到達した〔わたし〕である。心よ、そこで、また、おまえは、わたしに満足しない。
1113.(1110) この〔心〕は、まさしく、わたしのものである。まさに、おまえは、他者たちのものではない。甲冑の〔必要な〕時に、嘆き悲しむことが、何になるというのだろう。「この一切が、動揺するものである」と見ながら、不死の境処を求め願いつつ、〔わたしは、家を〕出た。
1114.(1111) 二足の者たちのなかの最上者にして、〔真理と〕見事に結び付いた〔法〕を説く方は、調御されるべき人の馭者にして、偉大なる能力ある方は、「心は、動揺するもの、猿に似ている。貪り〔の思い〕を離れていない者によっては、極めて防護し難きもの」と〔説いた〕。
1115.(1112) そこにおいて、無知なる凡夫たちが依存してきた、まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、〔蜜のように〕甘美で、意が喜びとするものである。彼らは、さらなる生存(再生)を探し求める者たちであり、苦しみを〔自ら〕求める。〔迷える〕心に導かれた者たちは、地獄に放却された者たちとなる。
1116.(1113) 「孔雀や白鷺の鳴き声がする森において、豹たちや虎たちに囲まれて住しながら、身体にたいする期待〔の思い〕を捨棄せよ。〔気づきを〕失ってはならない」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1117.(1114) 「そして、〔四つの〕瞑想(四禅)を修めよ。さらに、〔五つの〕機能(五根)と〔五つの〕力(五力)を〔修めよ〕。〔七つの〕覚りの支分(七覚支)と禅定の修行を〔修めよ〕。そして、覚者の教えにおいて、三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)を体得せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1118.(1115) 「不死〔の境処〕に至り得るために、道を修めよ。出脱〔の教え〕を〔修めよ〕。一切の苦しみの滅尽という〔不死への〕沈潜を〔修めよ〕。一切の〔心の〕汚れ(煩悩)を清める、〔聖なる〕八つの支分ある〔道〕(八正道)を〔修めよ〕」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1119.(1116) 「〔五つの心身を構成する〕範疇を、『苦しみである』と、根源のままに観見せよ。そして、それあることから、苦しみを集起させる、〔まさに〕その〔集起の因〕を捨棄せよ。まさしく、この〔世において〕、苦しみの終極を為せ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1120.(1117) 「『〔全てが〕常住ならざるもの(無常)であり、苦しみである』と、『〔全てが〕空であり、自己ならざるもの(無我)である』と、そして、『〔全てが〕悩苦であり、殺戮である』と、根源のままに観察せよ。〔迷える〕心の、諸々の意による〔繊細なる〕想念を破却せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1121.(1118) 「剃髪し、醜い形姿で、呪い〔の言葉〕を浴び、まさしく、鉢を手にする者となり、家々を行乞せよ。偉大なる聖賢の、〔世の〕教師たる方の、言葉に専念せよ」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1122.(1119) 「自己が善く統御された者と〔成れ〕──道の外れを歩みつつ、家々においては、諸々の欲望〔の対象〕について、執着の意図なき者と〔成れ〕──あたかも、満月〔の夜〕の月明かりのなかの月のように」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1123.(1120) 「そして、林にある者と成れ。〔行乞の〕施食の者と〔成れ〕。さらに、墓場にある者と成れ。糞掃衣の者と〔成れ〕。常坐〔にして不臥〕なる者と成れ。常に、〔心の汚れの〕払拭(頭陀)を喜ぶ者と〔成れ〕」と、心よ、まさに、かつて、わたしを駆り立てたのだ。
1124.(1121) たとえば、木々を育てて果実を求める者がいるとして、まさしく、彼に、根において幼木を断つことを求めるようなもの。その喩えのように、心よ、〔おまえは〕このことを為す──すなわち、動揺し常住ならざるもののうちに、わたしを駆り立てる。
1125.(1122) 形なき者よ、遠くに赴く者よ、独り歩む者よ、今や、わたしは、おまえの言葉を為さないであろう。まさに、諸々の欲望〔の対象〕は、苦しみである。辛く、大いなる恐怖である。まさしく、涅槃〔の境処〕へと、意念ある者となり、〔わたしは〕歩むであろう。
1126.(1123) 不運のゆえに、あるいは、恥〔の思い〕なきがゆえに、わたしは〔家を出たのでは〕ない。〔迷える〕心を因としてでもなく、そして、〔親族に〕追放されたからでもなく、さらに、生計を因としてでもない──わたしが家を出たのは。心よ、そして、〔出家の〕承諾は、おまえのために、わたしによって為されたのだ。
1127.(1124) 「少なき欲求たること(少欲)は、偽装〔の思い〕を捨棄することは、苦しみの寂止は、正なる人士たちによって褒め称えられた」と、心よ、まさに、そのとき、わたしを駆り立てたのだ。今や、おまえは、過去に歩んだところへと、〔ふたたび〕赴く。
1128.(1125) 渇愛〔の思い〕は、そして、無明は、さらに、愛しいものと愛しくないもの(愛憎の対象)も──諸々の浄美なる形態(美しく価値あるように見えるもの)は、そして、諸々の安楽の感受(楽受:快感)は、さらに、諸々の意に適う欲望の属性も──〔それらの全ては〕吐き捨てられた。〔それらの〕吐き捨てられたものに帰ることは(※)、わたしはできない。
※ テキストには āvamituṃ とあるが、PTS版により āgamituṃ と読む。
1129.(1126) 心よ、一切所において、おまえの言葉は、わたしによって為されたのだ。多くの生において、わたしのために、〔おまえが〕怒りある者として存することはなかった(常に心の支配に従ってきた)。おまえの〔自分勝手な〕知恩〔の情〕によって、内に発生するものがある(受けた恩恵への執着を因として、心に苦悩や妄想が生起する)。おまえによって作り為された苦しみのうちに、長きにわたり輪廻してきたのだ。
1130.(1127) 心よ、まさしく、おまえは、〔真の〕婆羅門として為さない。おまえは、士族として、王として、存し、為す。或る時は、そして、〔わたしたちは〕庶民たちと〔成り〕、さらに、隷民たちと成る。あるいは、また、天〔の神〕たることも、まさしく、おまえに由縁する。
1131.(1128) まさしく、おまえを因として、〔わたしたちは〕阿修羅たちと成る。おまえを根元として、〔わたしたちは〕地獄にある者たちと成る。或る時は、そこで、また、畜生の境遇ある者たちと〔成る〕。あるいは、また、餓鬼たることも、まさしく、おまえに由縁する。
1132.(1129) ムフンムフンと芝居を見せるかのように、まさに、〔おまえは〕わたしを繰り返し裏切るではないか。狂者を〔誘惑する〕ように、〔おまえは〕わたしを誘惑する。心よ、そして、また、おまえが、何だというのだ。〔おまえは〕わたしに見捨てられたのだ。
1133.(1130) かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた──求めるところから、欲するところへと、楽しみあるままに。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう──鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔制御する〕ように。
1134.(1131) そして、〔世の〕教師たる方は、わたしのために、この世を、「常住ならざるものであり、常恒ならざるものであり、真髄なきものである」と確立した(喝破した)。心よ、わたしを、勝者の教えに入らしめよ、極めて超え難い大激流から超え渡らしめよ。
1135.(1132) 心よ、おまえにとって、このことは、〔もはや〕過去のとおりのものならず。わたしがおまえの支配に戻るには、〔もはや〕十分ならず。〔わたしは〕存している──偉大なる聖賢の教えにおいて出家した者として。わたしのようにある者たちは、〔もはや〕破滅〔の道〕を保つ者たちと成らない。
1136.(1133) 諸々の山は、諸々の海は、諸々の川は、諸々の大地は、四方(東西南北)も、〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)も、〔上方と〕下方も、全てが常住ならざるものである。三つの生存(三界)は、〔老と死に〕悩まされている。心よ、〔おまえは〕どこに赴き、安楽を喜ぶというのだ。
1137.(1134) 心よ、わたしのために、堅固〔のあり方〕として最たるものを、どうして、〔おまえが〕作り為すというのだ。心よ、〔わたしが〕おまえの支配に従い転じ行くのは、〔もはや〕十分ならず。もはや、鞴(ふいご)の口を、両〔側〕から吹きはすまい。〔この身体は〕厭わしきものとして存せ──〔汚物に〕満ち〔汚物が〕流出する九つの流れあるものは。
1138.(1135) 野猪や羚羊が出没し慣れ親しむ山腹の峰に、まさしく、壮麗なる自然のなか、新鮮な水が降り注ぐ雨の森において、〔おまえは〕そこにある洞窟の家に赴き、〔それらを〕喜ぶであろう。
1139.(1136) 美しい青首、美しい冠毛、美しい尾翼、美しい彩りの翼を覆いとする、鳥たちがいる。鳴り響く美妙なるさえずりに唱和し、彼らは、林のなかで瞑想するおまえを喜ばせるであろう。
1140.(1137) 天が雨降り、草が四指〔の高さ〕になり、森〔の木々〕が雲にも似て等しく花ひらいたとき、山々の間にあって、〔わたしは〕木の枝に等しき者として、〔地に〕臥すであろう。その〔場所〕は、わたしにとって、綿毛にも似て柔和なるものと成るであろう。
1141.(1138) あたかも、また、イッサラ(自在天:イーシュヴァラ神)であるかのように、そのように、おまえに為すであろう。それが、〔わたしに〕得られるなら、それで、もう、わたしにとって、十分と成れ。あたかも、休みなく〔働く革職人〕が、まさしく、猫の皮を〔鞣す〕ように、あたかも、見事に鞣した〔猫の皮〕を〔袋にする〕ように、わたしは、おまえに為すであろう。
1142.(1139) あたかも、また、イッサラであるかのように、そのように、おまえに為すであろう。それが、〔わたしに〕得られるなら、それで、もう、わたしにとって、十分と成れ。巧みな智ある、鉤をもつ捕捉者が、発情した象を〔制御する〕ように、精進によって、おまえを、わたしの支配に導くであろう。
1143.(1140) 調教師が、真っすぐに〔赴く〕馬によって〔行く〕ように、まさに、善く調御され確立されたおまえによって、心を守る者たちに常に慣れ親しまれてきた至福の道を行くことができるのだ。
1144.(1141) 象を、堅固な縄で柱に〔繋ぎ止める〕ように、おまえを、力で〔瞑想の〕対象(所縁)に縛り付けるであろう。おまえは、わたしによって善く守られ、気づき(念)によって善く修められ、一切の〔迷いの〕生存にたいし依存なきものと成るであろう。
1145.(1142) 邪道に従い行く〔心〕を、智慧(慧・般若)によって断ち切って、〔心の〕制止(瑜伽)によって制御して、〔正しい〕道において確たるものとせよ。〔物事の〕集起を〔あるがままに〕見て、さらに、消滅と発生を〔あるがままに見て〕、〔おまえは〕至高の説き手たる方の相続者と成るであろう。
1146.(1143) 四つの転倒の支配が確立した〔愚かな〕牧童を〔迷わす〕ように、心よ、〔おまえは〕わたしを遍く導く。束縛するものと結縛するものを断ち切る方に、慈悲ある方にして偉大なる牟尼に、まさに、〔おまえは〕仕え親しむのではないのか。
1147.(1144) あたかも、美しく彩りあざやかな森に独り存する鹿が、雨雲のような花畑がある、喜ばしき山へと〔入り行く〕ように、〔世俗の〕混乱のない〔静かな〕山において、そこにおいて、〔わたしは〕喜び楽しむのだ。心よ、疑念〔の余地〕なく、〔おまえは〕滅び行くであろう。
1148.(1145) おまえの欲〔の思い〕の支配に転じ行く者たちは、彼らは、そして、男たちも、さらに、女たちも、〔まさに〕その、〔世俗の〕安楽を味わい楽しむが、〔彼らは〕無知なる者たちであり、悪魔の支配に従い転じ行く者たちであり、〔迷いの〕生存を喜ぶ者たちであり、心よ、おまえの従僕たちである。ということで──
……ターラプタ長老は……。
五十なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「五十なるものの集まりにおいて、清らかなるターラプタが、独りあり、そこにおいて、五十の詩偈があり、さらに、また、〔それを〕超えること五つ〔の詩偈〕がある」と。
20. 六十なるものの集まり
20. 1. 第一の章
20. 1. 1. マハー・モッガッラーナ長老の詩偈
1149.(1146) 〔比丘たちに、わたしは言った〕「林にある者たちとして、〔行乞の〕施食の者たちとして、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者たちとして、内に〔心が〕善く定められた者たちとして、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち破るのだ。
1150.(1147) 林にある者たちとして、〔行乞の〕施食の者たちとして、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者たちとして、象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち払うのだ。
1151.(1148) 木の根元にある者たちとして、〔不退転の〕常久なる者たちとして、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者たちとして、内に〔心が〕善く定められた者たちとして、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち破るのだ。
1152.(1149) 木の根元にある者たちとして、〔不退転の〕常久なる者たちとして、鉢に盛られた残飯を喜ぶ者たちとして、象が葦の家を〔踏み敷く〕ように、〔わたしたちは〕死魔の軍団を打ち払うのだ」〔と〕。
1153.(1150) 〔誘惑する娼婦に、わたしは言った〕「骸骨の小屋よ、肉と腱で縫い合わされた者よ、厭わしきものとして存せ。悪臭に満ちる者よ(※)、他のものである五体にたいし、〔おまえは〕わがものと〔錯視〕する。
※ テキストには pure とあるが、PTS版により pūre と読む。
1154.(1151) 皮に覆われた糞袋よ、胸に腫物(乳房)ある魔女よ、おまえの身体には、一切時に〔不浄物が〕流れ出る、それらの九つの流れがある。
1155.(1152) おまえの肉体を、九つの流れがあり悪臭を作り為す遍き結縛を、そして、あたかも、清らかさを欲する者が、糞を〔避ける〕ように、比丘は、それを遍く避ける。
1156.(1153) わたしが、おまえを知る、そのとおりに、このように、もし、人が、おまえ〔の正体〕を知るなら、雨期に糞坑を〔避ける〕ように、遠く離れて、遍く避けるであろう」〔と〕。
1157.(1154) 〔娼婦が言った〕「偉大なる勇者よ、このことは、そのとおりです。沙門よ、すなわち、〔あなたが〕語るとおりです。そして、ここにおいて、或る者たちは沈みます(女性の身体に耽溺し破滅する)──老いた牛が、汚泥に〔沈む〕ように」〔と〕。
1158.(1155) まさに、虚空を、鬱金によって、あるいは、また、他の染料によって、或る者が染めようと思うとして、それは、悩苦の生成あるだけのこと。
1159.(1156) その虚空に等しく、内に善く定められた、〔わたしの〕心に、悪しき心の者よ、蛾が火の塊に〔落ち行く〕ように、近づいてはならない。
1160.(1157) 見よ──彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を──寄せ集めの、傷ある身体を──病んだ、妄想多きものを。それに、常恒と止住は、〔何であれ〕存在しない。
1161. 見よ──彩りあざやかに作り為された〔虚妄の〕形態を──そして、宝珠や耳飾によって〔飾り立てられ〕、骨と皮で覆われた〔不浄の身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。
1162. 〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
1163. 八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗料をつけた〔両の〕眼──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
1164. 彩りあざやかな新しい塗料箱のように、〔装いを〕十分に作り為した腐敗の身体──愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
1165. 猟師は、罠を置いた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔わたしたちは〕去り行くのだ──鹿の捕捉者が泣き叫んでいるところを」〔と〕。
1166. 猟師の罠は、断ち切られた。鹿は、網に近寄らなかった。「餌を食べて、〔わたしたちは〕去り行くのだ──鹿の猟師が憂い悲しんでいるところを」〔と〕。
1167.(1158) そのとき、〔まさに〕その、禍々しき〔思い〕が存した──そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した──〔すなわち〕無数の〔優れた〕行相を成就したサーリプッタが、涅槃に到達したとき。
1168.(1159) 無常にして、生起と衰失の法(性質)あるのが、まさに、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)である。〔それらは〕生起しては、止滅する。それらの寂止は、安楽である。
1169.(1160) 彼らが、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊:色・受・想・行・識)を、「他者である」と、さらに、「自己ではない」と、〔あるがままに〕見るなら、あたかも、矢で毛の先端を〔射抜く〕ように、彼らは、繊細なる〔道理〕を理解する。
1170.(1161) そして、彼らが、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)を、「他者である」と、さらに、「自己ではない」と、〔あるがままに〕見るなら、あたかも、矢で毛の先端を〔射抜く〕ように、精緻なる〔道理〕を理解したのだ。
1171.(1162) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。
1172.(1163) 刃で刺されたかのように、頭が焼かれているかのように、〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕を捨棄するために、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい。
1173.(1164) 自己を修め最後の肉体を保つ方に促された〔わたし〕は、ミガーラマータルの高楼(鹿母講堂:ミガーラの母のヴィサーカーが寄進した堂舎)を、足の指で動かした。
1174.(1165) これは、緩慢に励んで、にあらず──これは、僅かな強さによって、にあらず──到達するべき涅槃は、全ての拘束の解き放ちは。
1175.(1166) そして、この年少の比丘は、この最上の人士たる者は、軍勢を有する悪魔に勝利して、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)。
1176.(1167) 諸々の雷光が、そして、ヴェーバーラ〔山〕の〔岩の裂け目に〕、さらに、パンダヴァ〔山〕の〔岩の〕裂け目に、〔次々と〕炸裂する。対する者なき如なる方の子(仏弟子)は、山の〔岩の〕裂け目に赴き、〔独り〕瞑想する。
1177.(1168) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、辺地を臥坐所とする牟尼(マハー・カッサパ)は、最勝の覚者の相続者にして、梵〔天〕(ブラフマー神)に敬拝される者である。
1178.(1169) 〔心身が〕寂静で、〔貪欲が〕止息し、辺地を臥坐所とする牟尼を、最勝の覚者の相続者を──婆羅門よ、カッサパ(マハー・カッサパ)を敬拝せよ。
1179.(1170) そして、すなわち、〔その者が〕百生にわたり、全てが婆羅門の生に赴き(婆羅門として再生し)、人間たち〔の世〕において、繰り返し、ヴェーダを成就した聞経者(婆羅門)として〔存するも〕──
1180.(1171) たとえ、もし、〔その者が〕三つのヴェーダの奥義に至る読誦者として存するも、〔その者への〕この〔敬拝〕は、この者(マハー・カッサパ)への敬拝の十六分の一にも値しない。
1181.(1172) すなわち、彼は、八つの解脱(八解脱:色界の瞑想者として諸々の形態を見る解脱・内に形態の表象なき者として外に諸々の形態を見る解脱・「浄美である」とだけ信念した者と成る解脱・空無辺処への入定の解脱・識無辺処への入定の解脱・無所有処への入定の解脱・非想非非想処への入定の解脱・想受滅への入定の解脱)に、食事の前に、順逆に触れた、そののち、〔行乞の〕食のために、〔村へと〕赴く。
1182.(1173) 婆羅門よ、そのような比丘を襲ってはならない。自己を傷つけてはならない。阿羅漢にたいし、如なる者にたいし、意を浄信せよ。すみやかに、合掌の者となり、敬拝せよ。おまえの頭が〔七つに〕裂けることがあってはならない。
1183.(1174) この者(ポッティラ比丘)は、正なる法(教え)を見ることなく、〔生と死の〕輪廻を偏重する者である。下へと赴く曲がり道を、悪しき道を、〔虚しく〕走り回る。
1184.(1175) 糞にまみれた蛆虫のように、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)に耽溺し、利得と尊敬〔の思い〕に沈んだ、虚しきポッティラは、〔他の世に〕赴く。
1185.(1176) そして、見よ──この者がやってくるのを、サーリプッタを、善き見ある者を、〔心と智慧の〕両分において解脱した者を、内に〔心が〕善く定められた者を──
1186.(1177) 〔貪欲の〕矢を抜き束縛が滅尽した者を、三つの明知ある者を、死魔〔の領域〕を捨棄する者を、人間たちにとっての施与されるべき者を、無上なる功徳の田畑(福田)たる者を。
1187.(1178) これらの、神通と福徳ある数多くの天〔の神々〕たちは、梵〔天〕を惣領とする一万の天〔の神々〕たちは、全ての者たちが、モッガッラーナを礼拝しながら、合掌を為し、立つ。
1188.(1179) 〔神々が言った〕「善き生まれの人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人士よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。敬愛なる方よ、〔まさに〕その、あなたの、諸々の煩悩は滅尽し、〔あなたは〕施与されるべき者として〔世に〕存しています」〔と〕。
1189.(1180) 人と天に供養され、死の征服者として〔世に〕生起し、白蓮が〔汚〕水に〔汚されない〕ように、形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)に汚されない。
1190.(1181) 彼にとって、世〔の界域〕は、寸時に千種、正しく知られた。彼は、梵〔天〕に類する者である(※)。神通の徳(性質)において、死滅と再生〔の知恵〕において、自在なる者であり、〔正しい〕時に、天神たちを見る。彼は、比丘である。
※ テキストには sabrahmakappo とあるが、PTS版により sa Brahmakappo と読む。
1191.(1182) サーリプッタのように、智慧によって、戒によって、そして、寂止によって、すなわち、また、彼岸に至ったなら、比丘として、これだけで、最高の者として存するであろう。
1192.(1183) 百千の千万の自己の状態を、〔わたしは〕瞬時に化作するであろう。わたしは、諸々の神変に巧みな智ある者であり、神通において自在と成った者として〔世に〕存している。
1193.(1184) モッガッラーナを姓とする〔わたし〕は、依存なき方の教えにおいて、禅定と明知における自在の完全態(波羅蜜・到彼岸)に至った者であり、〔感官の〕機能が定められた慧者として、あたかも、象が、まさしく、蔦葛を〔断ち切る〕ように、〔欲の〕結縛を断絶した。
1194.(1185) わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。
1195.(1186) そして、それを義(目的)として、家から家なきへと出家した〔わたし〕であるが、わたしによって、その義(目的)は獲得された──〔すなわち〕一切の束縛するものの滅尽は。
1196.(1187) 〔覚者の〕弟子のヴィドゥラを襲って、さらに、婆羅門のカクサンダを〔襲って〕、そこにおいて、〔悪魔の〕ドゥッシンが〔大釜で〕煮られた地獄は、どのようなものとして存していたのか。
1197.(1188) 百の鉄杭は、〔それらの〕全てが、各自それぞれに〔苦痛の〕感受あるものとして存していた。〔覚者の〕弟子のヴィドゥラを襲って、さらに、婆羅門のカクサンダを〔襲って〕、そこにおいて、〔悪魔の〕ドゥッシンが〔大釜で〕煮られた地獄は、このようなものとして存していた。
1198.(1189) 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
1199.(1190) カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ止住する諸々の宮殿が、海の中に立つ──瑠璃色の好ましき〔諸々の宮殿〕が、火炎の光輝ある〔諸々の宮殿〕が。そこにおいて、種々なる色艶ある仙女たちが多々に舞う。
1200.(1191) 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
1201.(1192) 彼は、まさに、覚者に促され、比丘の僧団が見ているところで、ミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)を、足の親指で動かした。
1202.(1193) 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
1203.(1194) 彼は、〔天の〕ヴェージャヤンタの高楼(最勝講堂)を、足の親指で動かした。神通の力に支えられ、そして、天神たちを畏怖させた。
1204.(1195) 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
1205.(1196) すなわち、彼は、〔天の〕ヴェージャヤンタの高楼において、帝釈〔天〕(インドラ神)に遍く尋ねる。「さて、友よ、〔あなたは〕渇愛の滅尽という諸々の解脱〔の境地〕を知りますか」〔と〕。彼に、帝釈〔天〕は説き明かした──問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。
1206.(1197) 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
1207.(1198) 彼は、スダンマー〔の集会場〕(善法講堂)の集会のなかに立ち、梵〔天〕(ブラフマー神)に遍く尋ねる。「友よ、〔まさに〕その、かつて有った、あなたの見解ですが、その見解は、今日もまた、あなたのものですか(あなたの見解は以前のままですか)。梵の世(梵天界)における光り輝きが離転しつつあるのを、〔あなたは〕見ますか(あなたの光輝が徐々に消滅するのを認めますか)」〔と〕。
1208.(1199) 梵〔天〕は、彼に説き明かした──問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。「敬愛なる方よ、〔まさに〕その、かつて有った、わたしの見解ですが、その見解は、〔もはや〕わたしのものではありません。
1209.(1200) 梵の世における光り輝きが離転しつつあるのを、〔わたしは〕見ます。〔まさに〕その、わたしが、今日、どうして、〔かつてのように〕説くというのでしょう。『常住にして常久なる者として、わたしは存している』」〔と〕。
1210.(1201) 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
1211.(1202) 彼は、解脱〔の神知〕によって、大いなるネール(須弥山)の峰に触れた──プッバヴィデーハ(東勝身:須弥山の東方に位置する大陸)の者たちの林に、さらに、すなわち、人として、地に臥す者たちであるなら、〔彼らの全てに〕。
1212.(1203) 彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
1213.(1204) 火は、まさに、思わない──「わたしは、愚者を焼く」と。まさしく、愚者は、その燃える火を襲って、焼かれるのだ。
1214.(1205) 悪魔よ、まさしく、このように、おまえは、如来である彼を襲って、火に触れる愚者のように、自ら、自己を焼くであろう。
1215.(1206) 悪魔は、如来である彼を襲って、善ならざる〔報い〕を生んだ。パーピマント(悪魔)よ、「わたしに、悪〔の報い〕は実らない」〔と〕、いったい、何を、思いなすのだ。
1216.(1207) 死神よ、長夜にわたり、おまえが〔悪を〕為していると、〔その〕悪は蓄積される。悪魔よ、覚者から厭い離れよ。比丘たちにたいし、〔悪しき〕願望を為してはならない。
1217.(1208) かくのごとく、比丘は、ベーサカラー林において、悪魔を一喝した。そののち、その夜叉(悪魔)は、失意の者となり、まさしく、その場において、消没した。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者マハー・モッガッラーナ長老は、諸々の詩偈を語った、ということです。
六十なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「六十なるものの集まりにおいて、偉大なる神通あるモッガッラーナが、まさしく、独りあり、それらの六十八の長老の詩偈が有る」と。
21. 大なるものの集まり
21. 1. 第一の章
21. 1. 1. ヴァンギーサ長老の詩偈
1218.(1209) 家から家なきへと、まさに、離欲者として〔世に〕存しているわたしに、これらの尊大なる思考が、黒き者(悪魔)から〔やってきて〕まとわりつく。
1219.(1210) 大いなる射手の貴公子たちが、強弓をもつ手練の者たちが、〔勇猛で〕逃げることなき千の者を、遍きにわたり、完全に退散させるとして──
1220.(1211) それで、もし、また、これよりも、より一層の女たちがやってくるとして、わたしを悩ますことは、まさしく、ないであろう。〔わたしは〕自らの法(教え)における確立者である。
1221.(1212) なぜなら、わたしによって、このことが、じかに聞かれたからだ。覚者の、太陽の眷属(ブッダ)の、涅槃に至る道を〔聞いて〕、そこにおいて、わたしの意は喜びあるものとなる。
1222.(1213) パーピマント(悪魔)よ、もし、このように〔世に〕住んでいるわたしのもとへと、〔おまえが〕近しく赴くなら、死魔よ、そのように、〔わたしは〕為すであろう。わたしの道すらも、〔おまえは〕見ない。
1223.(1214) そして、不満〔の思い〕を、かつまた、歓楽〔の思い〕を、〔両者ともに〕捨棄して、さらに、家〔の生活〕に依拠した〔悪しき〕思考を、全てにわたり〔捨棄して〕、どこにであれ、〔欲の〕林の下生え(欲の思い)を作らないなら、〔欲の〕林の下生えなき者となり、〔欲望の対象を〕喜ばない者となる。まさに、彼は、比丘である。
1224.(1215) この〔世において〕、そして、地に、宙に、それが、形態の在り方をしたものであり、地上に沈潜したものであるなら、何であれ、全てが常住ならざるもの(無常)であり、老い朽ちる。所思ある者たちは、このように行知して、〔世を〕歩む。
1225.(1216) 諸々の〔生存の〕依り所(依存の対象)において、〔世の〕人たちは拘束されている──見られ聞かれたものにおいて、そして、敵対するもの(有対・障礙:対峙対立するもの・客体物)において、さらに、思われたものにおいて。ここにおいて、〔心が〕不動の者となり、欲〔の思い〕を除き去れ。まさに、彼が、ここにおいて、〔欲望の対象に〕汚されないなら、彼を、〔賢者たちは〕「牟尼」〔と〕言う。
1226.(1217) そこで、六十〔二の悪しき見解〕に依拠した〔悪しき〕思考を有し多々なる法(正義)ならざるものが、人民において固着するところとなる。しかしながら、どこにであれ、〔特定の〕党派に赴く者(特定の党派に肩入れする者)として存さず、また、邪悪な話し手として〔存さないなら〕、彼は、比丘である。
1227.(1218) 明晰で、長夜にわたり〔心が〕定められ、虚言なく、賢明で、羨望〔の思い〕なき者──牟尼は、寂静の境処に到達した。〔涅槃を〕縁として、完全なる涅槃に到達した者は、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
1228.(1219) ゴータマ〔の弟子〕(ヴァンギーサ)よ、〔我想の〕思量(慢:思い上がりの心)を捨棄するのだ──そして、思量の道を捨棄するのだ──残りなく。〔おまえは〕思量の道に耽溺し、後悔ある者と成った──長夜にわたり。
1229.(1220) 偽装〔の思い〕によって〔心を〕偽装した〔世の〕人々は、〔我想の〕思量に打ち倒され、地獄へと落ち行く。〔我想の〕思量に打ち倒され、地獄に再生した人たちは、長夜にわたり憂い悲しむ。
1230.(1221) 道の勝者にして正しき実践者たる比丘は、いつであれ、まさに、憂い悲しまない。そして、名誉を、さらに、安楽を、〔彼は〕受領する。彼のことを、自己を精励する者を、〔賢者たちは〕「法(真理)を見る者」と言う。
1231.(1222) それゆえに、この〔世において〕、〔心に〕鬱積なく精励ある者は、〔五つの修行の〕妨害(蓋)を捨棄して、清浄の者となる。そして、〔我想の〕思量を残りなく捨棄して、明知によって、〔苦しみの〕終極を為す者となり、〔心が〕静まった者となる。
1232.(1223) 〔アーナンダ長老に、わたしは尋ねた〕「〔わたしは〕欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕によって焼かれます。わたしの心は遍く焼かれます。ゴータマ(アーナンダ)よ、どうか、〔欲の炎を〕寂滅させる〔道〕を説いてください──慈しみ〔の思い〕によって」〔と〕。
1233.(1224) 〔アーナンダ長老が答えた〕「表象(想:概念・心象)の転倒あることから、あなたの心は遍く焼かれます。貪欲を伴った浄美なる相(美しく価値あるように見えるもの)を遍く避けなさい。
1234.(1225) 不浄〔の表象〕(不浄想:身体を不浄と見る観察)によって、一境に善く定められた心を修めなさい。あなたに、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が〔常に〕存しなさい。〔迷いの世について〕厭離〔の思い〕多き者と成りなさい。
1235.(1226) さらに、無相〔の表象〕を修めなさい。思量の悪習(慢随眠)を廃棄しなさい。そののち、思量の寂止あることから、〔あなたは〕寂静なる者となり、〔世を〕歩むでしょう」〔と〕。
1236.(1227) まさしく、その言葉を語るべきである──その〔言葉〕によって、自己を苦しめず、かつまた、他者たちを害さないなら──その〔言葉〕が、まさに、見事に語られた言葉であるなら。
1237.(1228) まさしく、愛慕ある言葉を語るべきである──その言葉が、〔皆に〕喜ばれるものであるなら──その〔言葉〕が、諸々の悪しきものを取らずして、他者たちに語る、愛慕ある〔言葉〕であるなら。
1238.(1229) 真理は、まさに、不死の言葉である。これは、永遠の法(真理)である。真理において、そして、義(意味)において、さらに、法(教え)において、〔自己を〕確立した正しくある者たちは、〔このように〕言う。
1239.(1230) 涅槃〔の境処〕に至り得るために、苦しみの終極を為すために、覚者が語る、〔まさに〕その、平安の言葉──それは、まさに、諸々の言葉のなかの最上のものである。
1240.(1231) 深遠なる智慧の思慮ある者は、道と道ならざるものを熟知する者は、大いなる智慧あるサーリプッタは、比丘たちに、法(教え)を説示する。
1241.(1232) 簡略〔の観点〕によってもまた説示し、詳細〔の観点〕によってもまた語る。サーリカー〔鳥〕(九官鳥)の鳴き声のように、弁才を発揮した。
1242.(1233) それを説示している彼の、〔蜜のように〕甘美な言葉を、〔比丘たちは〕聞く。〔愛着に〕染まり聞き惚れてしまう麗美な声によって、勇躍する心の者たちとなり、歓喜した者たちとなり、比丘たちは、耳を傾ける。
1243.(1234) 今日、〔満月の〕十五〔日〕に、清浄のために集いあつまった、五百の比丘たちは、束縛するものと結縛するものを断ち切る者たちであり、煩悶なく、さらなる生存が滅尽した聖賢たちである。
1244.(1235) あたかも、家臣たちに取り囲まれた転輪王が、この大地を、海辺に至るまで、遍きにわたり訪ね回るように──
1245.(1236) このように、戦場の征圧者にして先導者たる無上なる方(ブッダ)に、弟子たちは奉侍する──三つの明知ある者たちにして、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちは。
1246.(1237) 〔彼らの〕全てが、世尊の子たちである。ここにおいて、籾殻(中身のない者)は見出されない。渇愛の矢を打ち砕く方を、太陽の眷属たる方を、敬拝するがよい。
1247.(1238) 千を超える比丘たちが、善き至達者たる方に奉侍する──〔世俗の〕塵を離れる法(教え)を、何も恐れない涅槃〔の境処〕を、説示している方に。
1248.(1239) 〔比丘たちは〕聞く──正等覚者によって説示された、〔世俗の〕垢を離れる法(教え)を。まさに、正覚者は、比丘の僧団に囲まれ、美しく輝く。
1249.(1240) 世尊よ、〔あなたは〕存している──象の名ある方として、聖賢たちのなかの第七の聖賢たる方(過去七仏のなかの第七の覚者)として。まさしく、大いなる雨雲と成って、弟子たちに雨を降らせる。
1250.(1241) 昼の休息(昼住:熱暑の回避)から出て、教師と会見することを欲し、偉大なる勇者よ、弟子のヴァンギーサは、あなたの〔両の〕足を敬拝する。
1251.(1242) 〔世尊は〕悪魔の邪道なる道を征服して、諸々の鬱積〔の思い〕を破壊して、〔世を〕歩む。彼を見よ──結縛からの解放を為し、〔物事を〕等分に区分して、まさしく、依存なき方を。
1252.(1243) まさに、激流の超脱を義(目的)とする、無数〔の流儀〕に関した道を、〔世尊は〕告げ知らせた。そして、その、不死〔の境処〕が告げ知らされたとき、法(真理)を見る者たちは、〔自己が〕安立した不動の者たちとなる。
1253.(1244) 灯火の作り手たる方は、〔あるがままに〕理解して、一切の止住(認識対象の固着・停滞)の超越を見た。そして、〔あるがままに〕知って、さらに、〔あるがままに〕実証して、彼は、至高〔の境地〕を、十の半分の者たち(ブッダが最初に説法した五人の修行者)に説示した。
1254.(1245) このように、法(真理)が見事に説示されたとき、法(真理)を識知している者たちに、何の怠り(放逸)があるというのだろう。まさに、それゆえに、彼の、世尊の教えにおいて、常に、〔気づきを〕怠ることなく、〔彼を〕礼拝しながら随学するべきである。
1255.(1246) 覚者に従い覚った、その長老──コンダンニャは、強き勤勉〔努力〕の者であり、間断なく、諸々の安楽の住の、諸々の遠離〔の境地〕の、〔それらの〕得者としてある。
1256.(1247) それが、教師の教えを為す弟子によって至り得られるべきなら、それは、全てにわたり獲得するところとなった──怠ることなく、〔彼が〕学んでいると。
1257.(1248) 大いなる威力ある者、三つの明知ある者、〔他者の〕心を探知することの熟知者──覚者の相続者たるコンダンニャは、教師の〔両の〕足を敬拝する。
1258.(1249) 山腹に端坐する〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、弟子たちは奉侍する──三つの明知ある者たちにして、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちは。
1259.(1250) 大いなる神通あるモッガッラーナは、心によって、〔彼らの性行を〕探索する──解脱しているのか、依り所なくあるのかと、彼らの心を調べながら。
1260.(1251) このように、一切の〔覚りの〕支分を成就した〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、無数の行相を成就したゴータマに、〔比丘たちは〕奉侍する。
1261.(1252) あたかも、雷雲が離れ去った天空における月のように、〔世俗の〕垢を離れた方は、太陽のように光り輝く。アンギーラサ(放光者・ブッダの尊称の一つ)よ、このように、また、あなたは、偉大なる牟尼として、福徳によって、一切の世に輝きまさる。
1262.(1253) 村から村へ、都から都へと、過去において、〔わたしたちは〕詩作に夢中になり、渡り歩いた。そこで、〔わたしたちは〕見た──正覚者を、一切の法(事象)の彼岸に至る方を。
1263.(1254) 苦しみの彼岸に至る牟尼は、彼は、わたしに、法(教え)を説示した。法(教え)を聞いて、〔わたしたちは〕浄信し、わたしたちに、信が生起した。
1264.(1255) 彼の言葉を聞いて、わたしは、〔五つの心身を構成する〕範疇(蘊)を、そして、〔十二の認識の〕場所(処)を、さらに、〔十八の認識の〕界域(界)を、〔あるがままに〕見出して、〔家から〕家なきへと出家した。
1265.(1256) まさに、多くの者たちの義(利益)のために、如来たちは〔世に〕生起する──すなわち、それらの者たちが、〔覚者の〕教えを為す者たちであるなら、〔そのような〕女たちのために、そして、〔そのような〕男たちのために。
1266.(1257) まさに、それらの者たちの義(利益)のために、まさに、牟尼は、覚り(菩提)に到達した──すなわち、生臭なき〔生き方〕に至った見ある者たちであるなら、〔そのような〕比丘たちのために、そして、〔そのような〕比丘尼たちのために。
1267.(1258) 覚者によって、太陽の眷属によって、眼ある方によって、〔諸々の法が〕見事に説示された。命あるものたちへの慈しみ〔の思い〕によって、四つの聖なる真理(四聖諦)が〔説示された〕。
1268.(1259) 苦しみが、苦しみの生起が、そして、苦しみの超越が、さらに、苦しみの寂止に至る、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)が。
1269.(1260) このように、これらのものは、そのとおり説かれた。それらのものは、わたしによって、それそのとおりに見られた。わたしによって、自らの義(目的)は獲得され、覚者の教えは為された。
1270.(1261) わたしにとって、まさに、善き訪問として存した──覚者の現前にあるわたしにとって。見事に区分された諸々の法(教え)における、〔まさに〕その、最勝のもの──〔わたしは〕それへと近しく赴いた。
1271.(1262) 神知の完全態に至り得た者として、耳の界域(天耳界)を清めた者として、三つの明知ある者として、神通に至り得た者として、〔他者の〕心を探知することの熟知者として、〔わたしは〕存している。
1272.(1263) 〔世尊に、わたしは尋ねた〕「まさしく、所見の法(現法:現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、〔まさに〕その、至上の智慧ある教師に、〔わたしは〕尋ねます。アッガーラヴァにおいて、比丘が、命を終えました。知名ある者であり、盛名ある者であり、自己が寂滅した者です。
1273.(1264) 世尊よ、『ニグローダ・カッパ』という、その婆羅門の名は、あなたによって付けられました。彼は、あなたを礼拝しながら、〔苦からの〕解き放ちを期す者として、精進に励む者として、断固として法(真理)を見る者として、〔世を〕歩みました。
1274.(1265) 釈迦〔族〕の方よ、一切に眼ある方よ、わたしたちは、全てもろともに、彼のことを、〔あなたの〕弟子のことを、了知することを求めます。わたしたちの〔両の〕耳は、〔あなたの答えを〕聞くために待ち構えています。あなたは、わたしたちの教師です。あなたは、無上なる方として〔世に〕存しています。
1275.(1266) わたしたちの疑惑を、まさしく、断ち切ってください(※)。それを、わたしに説いてください。広き智慧ある方よ、〔彼が〕完全なる涅槃に到達した者であるかを、〔わたしたちに〕知らせてください。一切に眼ある方よ、まさしく、わたしたちの中において、語ってください──千の眼ある帝釈〔天〕が、天〔の神々〕たちに〔語る〕ように。
※ テキストには Chinda とあるが、PTS版により Chind’ eva と読む。
1276.(1267) それらが何であれ、諸々の拘束は、この〔世における〕、諸々の迷妄の道も、諸々の知恵なき徒も、諸々の疑惑の境位も、それらは、如来に至り得て〔そののち、もはや〕有ることなくあります。なぜなら、〔如来の〕この眼は、〔世の〕人たちのなかの最高のものであるからです。
1277.(1268) もし、人士たる方が、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を、あたかも、風が層雲を〔吹き払う〕ように、まさに、しっかりと打ち払わないなら、一切の世は、まさしく、〔迷妄に〕覆われた闇として存するでしょうし、光輝ある人たちもまた、光り輝くことはないでしょう。
1278.(1269) しかしながら、慧者たちは、灯火の作り手たちとして〔世に〕有ります。勇者よ、〔まさに〕その、あなたのことを、わたしは、まさしく、そのとおりに思います。〔あるがままの〕観察者と知り、〔わたしたちは、あなたのもとへと〕近しく赴いたのです。諸衆のなか、わたしたちに、カッパ(ニグローダ・カッパ)のことを明らかにしてください。
1279.(1270) 麗しき方よ、麗しき言葉を、すみやかに発してください──白鳥が、〔首を〕もたげて、おもむろに〔鳴く〕ように、吟じてください──美しく整えられた、まろやかな声で。まさしく、全ての者たちが、〔心が〕真っすぐに赴いた者たちとなり、あなたの〔言葉を〕聞くでありましょう。
1280.(1271) 残りなく生と死を捨棄した清き方に請い求めて、法(真理)を説いてもらいましょう。なぜなら、凡夫たちには、欲することを〔究明して〕為すことはなく、しかしながら、如来たちには、〔是非を〕究明して為すことがあるからです。
1281.(1272) 〔正しく〕成就された説き明かし(授記)は、これは、正しく真っすぐな智慧ある、あなたの正しく把握するところです。この最後の合掌は、しっかりと手向けられました。至上の智慧ある方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはいけません。
1282.(1273) 彼此における聖なる法(教え)を見出しておきながら、至上の精進ある方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはいけません。あたかも、炎暑のさなか、炎暑に焼かれた者が、水を〔望み求める〕ように、〔わたしは、あなたの〕言葉を待ち望みます。所聞〔の雨〕を降らせてください。
1283.(1274) それ(涅槃)を義(目的)として、カッパーヤナ(カッパ)は梵行を歩みました。どうでしょう、彼の、その〔義〕は、無駄ならずにあり、彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのでしょうか、それとも、〔生存の〕依り所という残りものを有する者(有余依)として〔命を終えたのでしょうか〕。〔彼が〕解脱者として有った、そのとおりに、〔わたしたちは〕それを聞きたいのです」〔と〕。
1284.(1275) かくのごとく、世尊は〔答えた〕「長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き者(悪魔)の流れを、名前と形態(名色:心と身体)にたいする渇愛〔の思い〕を、〔カッパは〕この〔世において〕断ちました。生と死を、残りなく超えました」〔と〕。かくのごとく、世尊は説いた──五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝者たる方は。
1285.(1276) 〔わたしは言った〕「第七の聖賢たる方よ、〔まさに〕この〔わたし〕は、あなたの言葉を聞いて浄信します。わたしが尋ねたことは、まさに、無駄ならざるもの。婆羅門(ブッダ)は、わたしを騙しませんでした。
1286.(1277) すなわち、〔覚者の〕説くとおり、そのとおりに為す者として、覚者の弟子(カッパ)は、〔世に〕有りました。幻術師の死魔が広げた堅固な網を断ち切ったのです。
1287.(1278) 世尊よ、カッピヤ(カッパ)は、執取の最初となるもの(執着の起源・根本原因)を見ました。カッパーナ(カッパ)は、まさに、極めて超え難い死魔の領域を超え行きました。
1288.(1279) 最上の二足者たる方よ、天の天たるあなたを、あなたの子(カッパ)を、〔わたしは〕敬拝します。善き生まれの偉大なる勇者を、龍の正嫡たる龍(カッパ)を、〔わたしは敬拝します〕」〔と〕。ということで──
かくのごとく、まさに、尊者ヴァンギーサ長老は、諸々の詩偈を語った、ということです。
大なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「七十なるものの集まりにおいて、即応即答〔の智慧〕あるヴァンギーサ長老が、まさしく、独りあり、他の者は存在せず、七十一の詩偈がある」と。
長老たちの諸々の詩偈は〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「千の、さらに、三百六十の、それらの詩偈が有り、そして、二百の、さらに、六十四の、長老たちが明示された。
覚者の子たる煩悩なき者たちは、獅子吼を吼え叫んで、平安の終極に至り得て、火の塊のように、涅槃に到達した者たちとなる(般涅槃した)」と。
テーラガーター聖典は〔以上で〕終了となる。