中部経典(マッジマ・ニカーヤ)
根元の五十の聖典(根本五十経篇・下)
【目次】
3. 喩えの章(続き)
6(26). 罠の集まりの経(272.~)
7(27). 小なる象の足跡の喩えの経(288.~)
8(28). 大いなる象の足跡の喩えの経(300.~)
9(29). 大いなる硬材の喩えの経(307.~)
10(30). 小なる硬材の喩えの経(312.~)
4. 大いなる対なるものの章
1(31). 小なるゴーシンガの経(325.~)
2(32). 大いなるゴーシンガの経(332.~)
3(33). 大いなる牛飼いの経(346.~)
4(34). 小なる牛飼いの経(350.~)
5(35). 小なるサッチャカの経(353.~)
6(36). 大いなるサッチャカの経(364.~)
7(37). 小なる渇愛の消滅の経(390.~)
8(38). 大いなる渇愛の消滅の経(396.~)
9(39). 大いなるアッサプラの経(415.~)
10(40). 小なるアッサプラの経(435.~)
5. 小なる対なるものの章
1(41). サーラー〔村〕の者たちの経(439.~)
2(42). ヴェーランジャ〔村〕の者たちの経(444.~)
3(43). 大いなる問答の経(449.~)
4(44). 小なる問答の経(460.~)
5(45). 小なる法の受持の経(468.~)
6(46). 大いなる法の受持の経(473.~)
7(47). 審査者の経(487.~)
8(48). コーサンビーの者たちの経(491.~)
9(49). 梵〔天〕の招待の経(501.~)
10(50). 責め咎められるべき悪魔の経(506.~)
阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る
根元の五十の聖典(根本五十経篇・下)
3. 喩えの章(続き)
6(26). 罠の集まりの経
272. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、わたしたちが、世尊の面前で法(教え)の講話を聞いてから長きになります。友よ、アーナンダよ、どうか、わたしたちが、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことを得られますように」と。「まさに、それでは、尊者たちは、ランマカ婆羅門の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きなさい。まさしく、おそらく、まさに、世尊の面前で法(教え)の講話を聞くことを得るでしょう」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えました。
そこで、まさに、世尊は、サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。東の林園のミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)のあるところに、そこへと近づいて行くのです──昼の休息のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダと共に、東の林園のミガーラマータルの高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました──昼の休息のために。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、尊者アーナンダに告げました。「アーナンダよ、行きましょう。東の門小屋のあるところに、そこへと近づいて行くのです──五体を洗い流すために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えました。
273. そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダと共に、東の門小屋のあるところに、そこへと近づいて行きました──五体を洗い流すために。東の門小屋において、五体を洗い流して、〔水場から〕上がって、一衣の者となり、〔その場に〕立ちました──五体を乾かしながら。そこで、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、遠く離れていないところに、この、ランマカ婆羅門の庵所があります。尊き方よ、ランマカ婆羅門の庵所は、喜ばしきところです。尊き方よ、ランマカ婆羅門の庵所は、澄浄なるところです。尊き方よ、どうか、世尊は、ランマカ婆羅門の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。
そこで、まさに、世尊は、ランマカ婆羅門の庵所のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、ランマカ婆羅門の庵所において、法(教え)の議論のために着坐した状態でいます。そこで、まさに、世尊は、議論の終了を待ちながら、門小屋の外に立ちました。そこで、まさに、世尊は、議論の終了を知って、咳払いをして、閂を打ち叩きました。まさに、それらの比丘たちは、世尊のために、扉を開きました。そこで、まさに、世尊は、ランマカ婆羅門の庵所に入って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、まさしく、世尊を対象として、まさに、わたしたちの中断した合間の議論はあり、そこで、世尊が到着したのです」と。「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、法(教え)の議論のために着坐することです。比丘たちよ、あなたたちが参集したときには、二つの為すべきことがあります──あるいは、法(教え)の議論であるか、あるいは、聖なる沈黙の状態であるか、です。
274. 比丘たちよ、これらの二つの遍き探し求めがあります──そして、聖なる遍き探し求めであり、さらに、聖ならざる遍き探し求めです。
比丘たちよ、では、どのようなものが、聖ならざる遍き探し求めなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、老の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、病の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、死の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、憂いの法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)あるものを遍く探し求めます。
比丘たちよ、では、何を、生の法(性質)あるものと、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、生の法(性質)あるものです。奴婢と奴隷は、生の法(性質)あるものです。山羊と羊は、生の法(性質)あるものです。鶏と豚は、生の法(性質)あるものです。象と牛と馬と騾馬は、生の法(性質)あるものです。金と銀は、生の法(性質)あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所(依存の対象)は、生の法(性質)あるものです。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)あるものを遍く探し求めます。
比丘たちよ、では、何を、老の法(性質)あるものと、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、老の法(性質)あるものです。奴婢と奴隷は、老の法(性質)あるものです。山羊と羊は、老の法(性質)あるものです。鶏と豚は、老の法(性質)あるものです。象と牛と馬と騾馬は、老の法(性質)あるものです。金と銀は、老の法(性質)あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、老の法(性質)あるものです。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、老の法(性質)あるものを遍く探し求めます。
比丘たちよ、では、何を、病の法(性質)あるものと、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、病の法(性質)あるものです。奴婢と奴隷は、病の法(性質)あるものです。山羊と羊は、病の法(性質)あるものです。鶏と豚は、病の法(性質)あるものです。象と牛と馬と騾馬は、病の法(性質)あるものです。金と銀は、病の法(性質)あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、病の法(性質)あるものです。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、病の法(性質)あるものを遍く探し求めます。
比丘たちよ、では、何を、死の法(性質)あるものと、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、死の法(性質)あるものです。奴婢と奴隷は、死の法(性質)あるものです。山羊と羊は、死の法(性質)あるものです。鶏と豚は、死の法(性質)あるものです。象と牛と馬と騾馬は、死の法(性質)あるものです。金と銀は、死の法(性質)あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、死の法(性質)あるものです。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、死の法(性質)あるものを遍く探し求めます。
比丘たちよ、では、何を、憂いの法(性質)あるものと、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、憂いの法(性質)あるものです。奴婢と奴隷は、憂いの法(性質)あるものです。山羊と羊は、憂いの法(性質)あるものです。鶏と豚は、憂いの法(性質)あるものです。象と牛と馬と騾馬は、憂いの法(性質)あるものです。金と銀は、憂いの法(性質)あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、憂いの法(性質)あるものです。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、憂いの法(性質)あるものを遍く探し求めます。
比丘たちよ、では、何を、汚染の法(性質)あるものと、〔あなたたちは〕説くべきですか。比丘たちよ、子と妻は、汚染の法(性質)あるものです。奴婢と奴隷は、汚染の法(性質)あるものです。山羊と羊は、汚染の法(性質)あるものです。鶏と豚は、汚染の法(性質)あるものです。象と牛と馬と騾馬は、汚染の法(性質)あるものです。金と銀は、汚染の法(性質)あるものです。比丘たちよ、まさに、これらの〔生存の〕依り所は、汚染の法(性質)あるものです。この者は、ここにおいて、拘束された者となり、耽溺する者となり、固執する者となり、自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)あるものを遍く探し求めます。比丘たちよ、これは、聖ならざる遍き探し求めです。
275. 比丘たちよ、では、どのようなものが、聖なる遍き探し求めなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、生の法(性質)あるものにおける危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、老の法(性質)あるものにおける危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、病の法(性質)あるものにおける危険を見出して、病ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、死の法(性質)あるものにおける危険を見出して、死ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、憂いの法(性質)あるものにおける危険を見出して、憂いならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)あるものにおける危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めます。比丘たちよ、これは、聖なる遍き探し求めです。
276. 比丘たちよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしもまた、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、老の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、病の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、死の法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、憂いの法(性質)あるものを遍く探し求めます。自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)あるものを遍く探し求めます。〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いった、まさに、どうして、わたしは、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、生の法(性質)あるものを遍く探し求めるのだろう。自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら……略……病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら……死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら……憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら……。自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、まさしく、汚染の法(性質)あるものを遍く探し求めるのだろう。それなら、さあ、わたしは、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、生の法(性質)あるものにおける危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、老の法(性質)あるものにおける危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、病の法(性質)あるものにおける危険を見出して、病ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、死の法(性質)あるものにおける危険を見出して、死ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、憂いの法(性質)あるものにおける危険を見出して、憂いならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ。自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)あるものにおける危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めるのだ』と。
277. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を説き知らせました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。
比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。
『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。
『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。
『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。
『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
278. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を説き知らせました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、ラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、ラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、ラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。
比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。
『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。
『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。
『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。
『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
279. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、澄浄なる密林を、さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、澄浄なる密林である。さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。
280. 比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、生の法(性質)あるものにおける危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、生ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、老の法(性質)あるものにおける危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、老ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、病の法(性質)あるものにおける危険を見出して、病ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、病ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、死の法(性質)あるものにおける危険を見出して、死ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、死ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、憂いの法(性質)あるものにおける危険を見出して、憂いならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、憂いならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)あるものにおける危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、汚染ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。
281. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしが到達した、この法(真理)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。また、まさに、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜するのが、この、〔世の〕人々である。また、まさに、〔生存の〕基底を喜びとし、〔生存の〕基底を喜び、〔生存の〕基底に歓喜する、〔世の〕人々にとって(※)、この境位は、見難きものとしてある。すなわち、この、これを縁とすること(此縁性:縁の特異性)であり、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)である。まさに、この境位もまた、見難きものとしてある。すなわち、この、一切の形成〔作用〕の止寂であり、一切の依り所の放棄であり、渇愛の滅尽であり、離貪であり、止滅であり、涅槃である。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、法(教え)を説示するとして、しかしながら、他者たちは、わたしの〔法を〕了知しないであろう。それは、わたしにとって、疲弊として存するであろう。それは、わたしにとって、悩害として存するであろう』と。比丘たちよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの詩偈が明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの詩偈〕が。
※ テキストには Ālayarāmā kho panāyaṃ pajā とあるが、PTS版により Ālayarāmāya kho pana pajāya と読む。
〔すなわち〕『苦難をもって、わたしが到達したものを、〔世に〕明示するべくも、今は、まさに、十分である(その時ではない)。この法(真理)は、貪欲と憤怒に打ち負かされた者たちによって、善く正覚されるものにあらず。
〔世の〕流れに反して赴く精緻なる〔この法〕を、深遠にして見難く微細なる〔この法〕を、貪欲に染まり闇の塊に覆われた者たちは〔あるがままに〕見ない』と。
282. 比丘たちよ、まさに、かくのごとく、わたしが深慮していると、心は、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾きません(説法を躊躇する)。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティに──〔自らの〕心をとおして、わたしの心の思索を了知して──この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、世が滅びる。ああ、まさに、世が滅び去る。なぜなら、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たる如来の心が、思い入れ少なくあることから、法(教え)の説示に傾かないからだ』と。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、梵の世において消没し、わたしの前に出現しました。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、一つの肩に上衣を掛けて、わたしのいるところに、そこへと合掌を手向けて、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、世尊は、法(教え)を説示してください。善き至達者たる方は、法(教え)を説示してください。塵少なき類の有情たちが存在します。法(教え)の聴聞なきことから遍く衰退しています。〔彼らは〕法(教え)の了知者たちと成るでしょう』と。比丘たちよ、梵〔天〕のサハンパティは、この〔言葉〕を言いました。この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、こう言いました。
〔すなわち〕『過去において、マガダ〔国〕に、清浄ならざる法(教え)が出現しました──〔世俗の〕垢を有する者たちによって思弁されたものとして。〔あなたこそは〕開示したまえ──〔まさに〕この、不死の門を。〔世の人々は〕聞け──〔世俗の〕垢を離れる方によって随覚された〔清浄なる〕法(教え)を。
たとえば、山の頂きの巌(いわお)に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、思慮深き方よ、一切に眼ある方よ、その喩えのように、法(真理)で作られている〔智慧の〕高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕注視したまえ。
勇者よ、戦場の征圧者たる方よ、立ち上がってください。先導者たる方よ、借りなき方よ、世を渡り歩いてください。世尊は、法(教え)を説示してください。〔世の人々は、法の〕了知者たちと成るでしょう』と。
283. 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、そして、梵〔天〕の要請を知って、さらに、有情たちにたいし慈悲あることを縁として、覚者の眼によって、世を眺めました。比丘たちよ、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者)たちとして、識知させるに難き者(教えにくい者)たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から(※)伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見ました──少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見る者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪過について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、梵〔天〕のサハンパティに、詩偈をもって答えました。
※ テキストには udakaṃ とあるが、PTS版により udakā と読む。
〔すなわち〕『彼ら、耳ある者たちは、信を解き放て。不死の諸門は、彼らに開示された。梵〔天〕よ、〔わたしは〕悩害の表象ある者となり、人間たちにたいし、至徳にして精妙なる法(真理)を語らなかった』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のサハンパティは、『まさに、〔わたしは〕存している──法(教え)を説示するために、世尊が機会を作った者として』と、わたしを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。
284. 比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、アーラーラ・カーラーマは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『アーラーラ・カーラーマは、七日前に命を終えたのだ』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、アーラーラ・カーラーマである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。
比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、賢者であり、明敏なる者であり、思慮ある者であり、長夜にわたり、塵少なき類の者としてある。それなら、さあ、わたしは、ウダカ・ラーマプッタに、最初に、法(教え)を説示するべきである。彼は、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するであろう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、天神が、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのです』と。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『ウダカ・ラーマプッタは、前夜に命を終えたのだ』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『大いなる損失あるは、まさに、ウダカ・ラーマプッタである。なぜなら、それで、もし、彼が、この法(教え)を聞くなら、まさしく、すみやかに了知するであろうからだ』と。
比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、わたしは、誰に、最初に、法(教え)を説示するべきなのか。誰が、この法(教え)を、まさしく、すみやかに了知するのだろう』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『五人組の比丘たちは、まさに、わたしのために多く〔の利益〕を作り為す者たちであり、彼らは、精励のために自己を精励するわたしに奉仕してくれた。それなら、さあ、わたしは、五人組の比丘たちに、最初に、法(教え)を説示するべきである』と。比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どこに、今現在、五人組の比丘たちは住んでいるのか』と。比丘たちよ、まさに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、五人組の比丘たちが、バーラーナシー(波羅奈)のイシパタナ(仙人住処)の鹿園(鹿野苑)において住んでいるのを見ました。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、ウルヴェーラーにおいて、喜びのままに住んで〔そののち〕、バーラーナシーのあるところに、そこへと遊行〔の旅〕に出ました。
285. 比丘たちよ、まさに、アージーヴァカ(活命者・邪命外道)のウパカは、かつまた、ガヤーの、かつまた、菩提〔樹〕の、それぞれの中途において、旅の道を行くわたしを見ました。見て、わたしに、こう言いました。『友よ、まさに、あなたの、諸々の〔感官の〕機能は澄浄で、肌の色は完全なる清浄にして完全なる清白です。友よ、誰を、〔師と〕指定して、あなたは、出家者として〔世に〕存しているのですか。あるいは、誰が、あなたの教師なのですか。あるいは、誰の法(教え)を、あなたは喜ぶのですか』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、アージーヴァカのウパカに、諸々の詩偈をもって語りかけました。
〔すなわち〕『わたしは、一切を征服する者として、一切を知る者として、一切の諸法(事象)に汚されない者として、〔世に〕存している。一切を捨棄する者は、渇愛の滅尽(涅槃の境処)において解脱した者は、自ら証知して、誰を、〔師と〕定めよう。
わたしに、師匠は存在しない。わたしに、等しき者は見出されない。天を含む世において、わたしに、対する人は存在しない。
まさに、わたしは、世における阿羅漢である。わたしは、無上なる教師である。独り、正等覚者として、〔わたしは〕存している。〔心が〕清涼と成った者として、涅槃に到達した者として、〔わたしは〕存している。
法(真理)の輪を転起させるために、カーシ〔国〕の都に、〔わたしは〕赴く。暗愚と成った世において、不死の雷鼓を打つであろう』と。
『友よ、すなわち、まさに、あなたが明言するとおりなら、〔あなたは〕阿羅漢として、無辺の勝者として、〔世に〕存しています』と。
〔そこで、詩偈に言う〕『わたしのような者たちは、まさに、勝者たちとして〔世に〕有る──彼ら、煩悩の滅尽に至り得た者たちは。わたしは、諸々の悪しき法(性質)に勝利した。ウパカよ、それゆえに、わたしは、勝者である』と。
このように説かれたとき、アージーヴァカのウパカは、『友よ、〔そのように〕成るかもしれません』と言って、頭を振って、悪しき道を収め取って、立ち去りました。
286. 比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、バーラーナシーのイシパタナの鹿園のあるところに、五人組の比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。比丘たちよ、まさに、五人組の比丘たちは、わたしが、遠くから、やってくるのを見ました。見て、互いに他を〔安息させ〕安定させました。『友よ、この者が、まさに、沙門ゴータマが、やってきます。贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者です。彼は、まさしく、敬拝されるべきではなく、立礼されるべきではなく、彼の鉢と衣料は納受されるべきではありません。しかしながら、また、まさに、坐は据え置かれるべきです。それで、もし、望むなら、坐るでしょう』と。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、わたしが近づいて行ったなら、そのとおり、そのとおりに、五人組の比丘たちは、自らの取り決めを守ることができませんでした。一部の者たちはまた、わたしを出迎えて、鉢と衣料を収め取り、一部の者たちはまた、坐を設け、一部の者たちはまた、足用の水を調達しました。しかしながら、また、まさに、わたしを、かつまた、名前で、かつまた、『友よ』という説き方で、呼び慣わします。
比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来を、かつまた、名前で、かつまた、「友よ」という説き方で、呼び慣わしてはいけません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく、精励から離脱した者ではなく、贅沢に逆戻りした者ではありません。比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。比丘たちよ、再度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。比丘たちよ、再度また、まさに、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、如来は、贅沢の者ではなく……略……成就して、〔世に〕住むでしょう』と。比丘たちよ、三度また、まさに、五人組の比丘たちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ゴータマよ、まさに、あなたは、また、その振る舞いによっても、その〔実践の〕道によっても、その難業によっても、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しませんでした。また、どうして、今現在、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である、あなたが、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達するというのでしょう』と。
比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、五人組の比丘たちに、こう言いました。『比丘たちよ、まさに、あなたたちは証知しますか(記憶していますか)──これより過去において、わたしに、このような形態の、この光り輝きがあることを』と。『尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『比丘たちよ、如来は、正等覚者たる阿羅漢です。比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は、到達されました。わたしは、教示します。わたしは、法(教え)を説示します。すなわち、教示されたとおり、そのとおりに実践していると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むでしょう』と。
比丘たちよ、まさに、わたしは、五人組の比丘たちを説得することができました。比丘たちよ、まさに、また、二者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、三者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、三者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。比丘たちよ、まさに、また、三者の比丘に、〔わたしは〕教諭し、二者の比丘は、〔行乞の〕食のために歩みます。すなわち、二者の比丘が、〔行乞の〕食のために歩んで、〔食を〕運び込み、それによって、六人組の比丘たちは、〔身を〕保ち行きます。比丘たちよ、そこで、まさに、五人組の比丘たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、自己みずから、生の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、生の法(性質)あるものにおける危険を見出して、生ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、生ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、老の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、老の法(性質)あるものにおける危険を見出して、老ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、老ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。自己みずから、病の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら……略……。自己みずから、死の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら……。自己みずから、憂いの法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら……。自己みずから、汚染の法(性質)あるものとして〔世に〕存しながら、汚染の法(性質)あるものにおける危険を見出して、汚染ならざるものを、束縛からの平安という無上なるものを、涅槃〔の境処〕を、遍く探し求めながら、汚染ならざるものに、束縛からの平安という無上なるものに、涅槃〔の境処〕に、到達しました。また、そして、彼らに、知見が生起しました。『わたしたちには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』と。
287. 比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束された者たちとして、耽溺する者たちとして、固執する者たちとして、危険を見ない者たちとして、出離の智慧なき者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者たちとなる』〔と〕。比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、〔餌に〕結縛され、罠の集まりに臥すようなものです。その〔鹿〕は、このように知らされるべき者として存するでしょう。『不幸を惹起し、災厄を惹起し、猟師の欲するままに為される者となる。また、そして、猟師がやってくるとき、欲するところに立ち去ることはないであろう』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束された者たちとして、耽溺する者たちとして、固執する者たちとして、危険を見ない者たちとして、出離の智慧なき者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起し、災厄を惹起し、パーピマントの欲するままに為される者たちとなる』〔と〕。比丘たちよ、しかしながら、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、パーピマントの欲するままに為される者たちとならない』〔と〕。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、〔餌に〕結縛されず、罠の集まりに臥すようなものです。その〔鹿〕は、このように知らされるべき者として存するでしょう。『不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、猟師の欲するままに為される者たちとならない。また、そして、猟師がやってくるとき、欲するところに立ち去るであろう』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、これらの五つの欲望の属性を、拘束されない者たちとして、耽溺しない者たちとして、固執しない者たちとして、危険を見る者たちとして、出離の智慧ある者たちとして、遍く受益するなら、彼らは、このように知らされるべき者たちとして存するでしょう。『不幸を惹起せず、災厄を惹起せず、パーピマントの欲するままに為される者たちとならない』〔と〕。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、林にある鹿が、林や森を歩みながら、〔安心し〕信頼した者として赴き、〔安心し〕信頼した者として立ち、〔安心し〕信頼した者として坐り、〔安心し〕信頼した者として臥を営むようなものです。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、猟師の視野ならざるところに至ったからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『……略……パーピマントの……』〔と〕説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この者は、『比丘として、悪魔を盲者に作り為した──悪魔の眼を跡形なく打倒して、パーピマントの見なきところに至り、世における執着を超えた者となり、〔安心し〕信頼した者として赴き、〔安心し〕信頼した者として立ち、〔安心し〕信頼した者として坐り、〔安心し〕信頼した者として臥を営む』〔と〕説かれます。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、パーピマントの視野ならざるところに至ったからです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
罠の集まりの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(27). 小なる象の足跡の喩えの経
288. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ジャーヌッソーニ婆羅門が、純白の騾馬車でサーヴァッティーから出発します──昼のさなかに。まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、ピローティカ遍歴遊行者が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ピローティカ遍歴遊行者に、こう言いました。
「さて、いったい、どこから、貴君ヴァッチャーヤナ(ピローティカ遍歴遊行者)はお帰りかな──昼のさなかに」と。
「君よ、まさに、この、沙門ゴータマの現前から、まさに、わたしは帰るところです」と。
「貴君ヴァッチャーヤナは、それを、どう思いますか──沙門ゴータマの智慧と聡慧を。賢者と思いますか」と。
「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るというのでしょう。沙門ゴータマの智慧と聡慧を知るであろう、その者は、まちがいなく、彼もまた、まさしく、そのような者として〔世に〕存しているのです」と。
「まさに、貴君ヴァッチャーヤナは、盛大なる賞賛をもって、沙門ゴータマを賞賛します」と。
「君よ、さてまた、わたしが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、沙門ゴータマを賞賛するというのでしょう。彼は、貴君ゴータマは、まさしく、賞賛される者によって賞賛される者であり、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者です」と。
「また、貴君ヴァッチャーヤナは、どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、沙門ゴータマにたいし、このように大いに浄信したのですか」と。
「君よ、それは、たとえば、また、巧みな智ある象の猟師が、象の林に入るとします。彼は、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても。彼は、結論に至るでしょう。『ああ、まさに、大いなる象である』と。君よ、まさしく、このように、まさに、わたしは、すなわち、沙門ゴータマにおいて、四つの足跡を見たことから、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
289. どのようなものが、四つのものなのですか。君よ、ここに、わたしは、一部の士族の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、沙門ゴータマのいるところに近づいて行きます。彼らに、沙門ゴータマは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、沙門ゴータマによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、沙門ゴータマに、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、沙門ゴータマの弟子たちとして成就します(帰依する)。君よ、すなわち、わたしが、沙門ゴータマにおいて、この第一の足跡を見たとき、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
君よ、さらに、また、他に、わたしは、ここに、一部の婆羅門の賢者たちで……略……家長の賢者たちで……略……沙門の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちを見ます。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着くであろう』と耳にします。彼らは、『わたしたちは、近づいて行って、沙門ゴータマに、この問いを尋ねるのだ。もし、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このように、わたしたちは、彼の論を論破するのだ。もし、また、わたしたちに、このように尋ねられ、このように説き明かすなら、このようにもまた、わたしたちは、彼の論を論破するのだ』と、問いを準備します。彼らは、『君よ、まさに、沙門ゴータマが、何某という名の、あるいは、村に、あるいは、町に、至り着いたのだ』と耳にします。彼らは、沙門ゴータマのいるところに近づいて行きます。彼らに、沙門ゴータマは、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させます。彼らは、沙門ゴータマによって、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示され、受持し、激励され、感動し、まさしく、そして、沙門ゴータマに、問いを尋ねることはありません。どうして、彼の論を論破するというのでしょう。何はともあれ、まさしく、沙門ゴータマに、家から家なきへと出家するための機会を乞い求めます。彼らを、沙門ゴータマは出家させます。彼らは、そこにおいて、出家者たちとして〔世に〕存しつつ、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼らは、このように言いました。『ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕滅び去っていた。ああ、まさに、ほとんど、〔わたしたちは〕消え去っていた。なぜなら、わたしたちは、過去において、まさしく、沙門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「沙門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、婆羅門ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「婆羅門たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。まさしく、阿羅漢ならざる者たちとして〔世に〕存しつつ、「阿羅漢たちとして〔世に〕存している」と明言したからだ。今や、まさに、〔わたしたちは〕沙門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕婆羅門たちとして〔世に〕存している。今や、まさに、〔わたしたちは〕阿羅漢たちとして〔世に〕存している』と。君よ、すなわち、わたしが、沙門ゴータマにおいて、この第四の足跡を見たとき、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
君よ、すなわち、まさに、わたしは、沙門ゴータマにおいて、これらの四つの足跡を見たことから、そこで、わたしは、結論に至りました。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』」と。
290. このように説かれたとき、ジャーヌッソーニ婆羅門は、純白の騾馬車から降りて、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、三回、感興〔の言葉〕を唱えました。「彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。彼に、阿羅漢にして正等覚者たる世尊に、礼拝〔有れ〕。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちもまた、いつであれ、いつかは、彼と、貴君ゴータマと、共に集いあつまることになるであろう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるであろう」と。そこで、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、すなわち、ピローティカ遍歴遊行者を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、ジャーヌッソーニ婆羅門に、こう言いました。「婆羅門よ、まさに、これだけでは、象の足跡の喩えは、詳細〔の観点〕による円満成就あるものとは成りません。婆羅門よ、ですが、また、すなわち、象の足跡の喩えが、詳細〔の観点〕によって円満成就あるものと成るように、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
291. 「婆羅門よ、それは、たとえば、また、象の猟師が、象の林に入るとします。彼は、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても。彼が、巧みな智ある象の猟師として〔世に〕有るなら、それだけで、彼は、まさしく、結論に至りません。『ああ、まさに、大いなる象である』と。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、象の林においては、ヴァーマニカーという名の、大きな足跡をもつ雌象たちが存在するからです。『彼女たちにもまた、この足跡が存するのだ』と。
彼は、その〔足跡〕に従い行きます。その〔足跡〕に従い行きながら、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても──そして、上に、〔象の〕慣れ親しむところを。彼が、巧みな智ある象の猟師として〔世に〕有るなら、それだけで、彼は、まさしく、結論に至りません。『ああ、まさに、大いなる象である』と。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、象の林においては、上に、カーラーリカーという名の、大きな足跡をもつ雌象たちが存在するからです。『彼女たちにもまた、この足跡が存するのだ』と。
彼は、その〔足跡〕に従い行きます。その〔足跡〕に従い行きながら、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても──そして、上に、〔象の〕慣れ親しむところを、さらに、上に、〔両の〕牙によって引き裂くところを。彼が、巧みな智ある象の猟師として〔世に〕有るなら、それだけで、彼は、まさしく、結論に至りません。『ああ、まさに、大いなる象である』と。それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、象の林においては、上に、カーネールカーという名の、大きな足跡をもつ雌象たちが存在するからです。『彼女たちにもまた、この足跡が存するのだ』と。
彼は、その〔足跡〕に従い行きます。その〔足跡〕に従い行きながら、象の林において、大きな象の足跡を見ます──かつまた、縦の長さとしても、かつまた、横の広さとしても──そして、上に、〔象の〕慣れ親しむところを、さらに、上に、〔両の〕牙によって引き裂くところを、かつまた、上に、枝の滅壊を。そして、その象を見ます──あるいは、木の根元に赴いたところを、あるいは、野外に赴いたところを、あるいは、赴いているところを、あるいは、立っているところを、あるいは、坐っているところを、あるいは、横になっているところを。彼は、結論に至ります。『まさしく、この者は、彼は、大いなる象である』と。
婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣(袈裟)をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。
292. 彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。
与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。
梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。
虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。
中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。
粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。
雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。
293. 彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。
294. 彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。
295. 彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。
彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。
296. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御(律儀)を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕(疑)を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。
297. 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた……略……説かれます。……。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた……略……説かれます。……。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
298. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
299. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。まさしく、しかし、それだけで、聖なる弟子は、結論に至りません。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。
彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。婆羅門よ、これもまた、『如来の足跡』ともまた〔説かれ〕、『如来の慣れ親しむところ』ともまた〔説かれ〕、『如来の引き裂くところ』ともまた説かれます。婆羅門よ、このかぎりにおいて、まさに、聖なる弟子は、結論に至った者と成ります。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。世尊の弟子の僧団は、善き実践者である』と。婆羅門よ、このかぎりにおいて、まさに、象の足跡の喩えは、詳細〔の観点〕によって円満成就のものと成ります」と。
このように説かれたとき、ジャーヌッソーニ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
小なる象の足跡の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(28). 大いなる象の足跡の喩えの経
300. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。「友よ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、陸の命あるものたちの足跡の類であるなら、それらの全てが、象の足跡において結集に赴き、すなわち、この、大きさとしては、象の足跡が、それらのなかの至高のものと告げ知らされるように、友よ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の善なる法(性質)は、それらの全てが、四つの聖なる真理(四聖諦)において結集に赴きます。どのようなものが、四つのものなのですか。苦しみという聖なる真理(苦諦)であり、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)であり、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)です。
301. 友よ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤もまた、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。友よ、では、どのようなものが、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇なのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。
友よ、では、どのようなものが、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇なのですか。そして、四つの大いなる元素(四大種)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)です。
友よ、では、どのようなものが、四つの大いなる元素なのですか。地の界域(地界)であり、水の界域(水界)であり、火の界域(火界)であり、風の界域(風界)です。
302. 友よ、では、どのようなものが、地の界域なのですか。地の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる地の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、粗剛にして、粗野な在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる地の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる地の界域は、さらに、すなわち、外なる地の界域は、これは、まさしく、地の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、地の界域にたいし厭離し、地の界域から心を離貪させます。
友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる水の界域が動乱すると、その時点において、外なる地の界域は、消没するところと成ります。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる地の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。
友よ、もし、その比丘を、他者たちが、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるなら、彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、耳の接触から生じる苦痛の感受(苦受)が生起するところとなった。しかしながら、それは、まさに、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。接触を縁として〔生起したのだ〕』〔と〕。彼は、『接触は、無常である』と見ます。『感受〔作用〕は、無常である』と見ます。『表象〔作用〕は、無常である』と見ます。『諸々の形成〔作用〕は、無常である』と見ます。『識知〔作用〕は、無常である』と見ます。彼の心は、まさしく、界域を対象(所縁)として、跳入し、浄信し、確立し、信念します。
友よ、もし、その比丘に、他者たちが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない〔身体の行為〕によって、〔多くのことを〕実行するなら──手の接触によってもまた、石の接触によってもまた、棒の接触によってもまた、刃の接触によってもまた──彼は、このように覚知します。『そのように成ったものとして、まさに、この身体はある。そのように成ったものとしてある身体において、諸々の手の接触もまた至り行き、諸々の石の接触もまた至り行き、諸々の棒の接触もまた至り行き、諸々の刃の接触もまた至り行く。また、まさに、このことが、世尊によって、鋸の喩えの論において説かれた。「比丘たちよ、たとえ、もし、卑しい盗賊たちが、両側に棒のある鋸で、それぞれの手足を切り裂くも、そこで、また、彼が、意を汚すなら(怒りを起こすなら)、それによって、彼は、わたしの教えを為す者ではありません」と。また、まさに、わたしの、励んでいる精進は、退去なきものと成り、現起している気づきは、忘却なきものと〔成り〕、静息した身体は、懊悩を有さないものと〔成り〕、定められた心は、一境のものと〔成るのだ〕。今や、欲するままに、この身体において、諸々の手の接触もまた至り行け、諸々の石の接触もまた至り行け、諸々の棒の接触もまた至り行け、諸々の刃の接触もまた至り行け。なぜなら、〔まさに〕この、覚者たちの教えが為されるからだ』と。
友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕(捨)が確立しないなら、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、それは、たとえば、また、嫁が、姑を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起するように、友よ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しないとして、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。
303. 友よ、では、どのようなものが、水の界域なのですか。水の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる水の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿は──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、水として、水の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる水の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる水の界域は、さらに、すなわち、外なる水の界域は、これは、まさしく、水の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、水の界域にたいし厭離し、水の界域から心を離貪させます。
友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる水の界域が動乱すると、それは、村をもまた運び去り、町をもまた運び去り、城市をもまた運び去り、地方をもまた運び去り、地方の地域をもまた運び去ります。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、諸々の水は、百ヨージャナ(由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の移動距離で約7キロメートルもしくは15キロメートルとされる)ほどが沈下し、諸々の水は、二百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、三百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、四百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、五百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、六百ヨージャナほどが沈下し、諸々の水は、七百ヨージャナほどが沈下します。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、水は、七ターラ(高さの単位・一ターラはターラ樹の高さに該当)ほどが止住し、水は、六ターラほどが止住し、水は、五ターラほどが止住し、水は、四ターラほどが止住し、水は、三ターラほどが止住し、水は、二ターラほどが止住し、水は、ただのターラほどが止住します。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、水は、七ポーリサ(高さの単位・一ポーリサは人の身長に該当)ほどが止住し、六ポーリサほどが止住し、水は、五ポーリサほどが止住し、水は、四ポーリサほどが止住し、水は、三ポーリサほどが止住し、水は、二ポーリサほどが止住し、水は、ポーリサほどが、半ポーリサほどが止住し、水は、ただの腰ほどが止住し、水は、ただの膝ほどが止住し、水は、ただの踝ほどが止住します。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、大海において、水は、ただの指先を濡らすほども有りません。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる水の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。……略……。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。
304. 友よ、では、どのようなものが、火の界域なのですか。火の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる火の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、かつまた、それによって熱せられ、かつまた、それによって老い、かつまた、それによって遍く焼かれ、かつまた、それによって食べたものと飲んだものと咀嚼したものと味わったものが正しく変化に至るなら(消化吸収されるなら)──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、火として、火の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる火の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる火の界域は、さらに、すなわち、外なる火の界域は、これは、まさしく、火の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、火の界域にたいし厭離し、火の界域から心を離貪させます。
友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる火の界域が動乱すると、それは、村をもまた焼き、町をもまた焼き、城市をもまた焼き、地方をもまた焼き、地方の地域をもまた焼きます。また、あるいは、それは、あるいは、緑地の外れに、あるいは、道路の外れに、あるいは、岩地の外れに、あるいは、水辺に、あるいは、喜ばしき土地の区画に、〔それらに〕至り着いて、食(動力源・エネルギー)がなくなり、消え行きます。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、あるいは、鶏の羽によってもまた、あるいは、腱の削り滓によってもまた、〔人々は〕火を探し求めます。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる火の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。……略……。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。
305. 友よ、では、どのようなものが、風の界域なのですか。風の界域は、内なるものが存するべきであり、外なるものが存するべきです。友よ、では、どのようなものが、内なる風の界域なのですか。すなわち、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──それは、すなわち、この、諸々の上に赴く風、諸々の下に赴く風、諸々の腹に依拠する風、諸々の〔腸の〕部位に依拠する風、諸々の手足や肢体に従い行く風、出息、入息、かくのごときものは──また、あるいは、すなわち、他のまた、何であれ、内なるもので、各自それぞれに、風として、風の在り方をした、〔『わたしである』『わたしのものである』と〕執取されたものは──友よ、これは、『内なる風の界域』〔と〕説かれます。また、まさに、まさしく、そして、すなわち、内なる風の界域は、さらに、すなわち、外なる風の界域は、これは、まさしく、風の界域です。それを、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、風の界域にたいし厭離し、風の界域から心を離貪させます。
友よ、まさに、その時と成り、すなわち、外なる風の界域が動乱すると、それは、村をもまた運び去り、町をもまた運び去り、城市をもまた運び去り、地方をもまた運び去り、地方の地域をもまた運び去ります。友よ、まさに、その時と成り、すなわち、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月においては、ターラ〔樹〕の扇によってもまた、火起こしの団扇によってもまた、風を遍く探し求め、〔人々は〕流水のなかの諸々の草をもまた求めません。友よ、まさに、それほどまでも大いなるものである、まさに、その、外なる風の界域に、無常なることが覚知され、滅尽の法(性質)あることが覚知され、衰失の法(性質)あることが覚知され、変化の法(性質)あることが覚知されるのです。また、どうして、この、渇愛によって執取され、僅かに止住する身体に、あるいは、『わたしである』と、あるいは、『わたしのものである』と、あるいは、『〔わたしは〕存在する』というのでしょう。そこで、まさに、ここにおいて、彼には、『さにあらず』という〔思い〕だけが有ります。
友よ、もし、その比丘を、他者たちが、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるなら、彼は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この、耳の接触から生じる苦痛の感受が生起するところとなった。しかしながら、それは、まさに、〔何かを〕縁として〔生起したのであり〕、〔何も〕縁とせずして〔生起したのでは〕ない。何を縁として〔生起したのか〕。接触を縁として〔生起したのだ〕』〔と〕。彼は、『接触は、無常である』と見ます。『感受〔作用〕は、無常である』と見ます。『表象〔作用〕は、無常である』と見ます。『諸々の形成〔作用〕は、無常である』と見ます。『識知〔作用〕は、無常である』と見ます。彼の心は、まさしく、界域を対象として、跳入し、浄信し、確立し、信念します。
友よ、もし、その比丘に、他者たちが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない〔身体の行為〕によって、〔多くのことを〕実行するなら──手の接触によってもまた、石の接触によってもまた、棒の接触によってもまた、刃の接触によってもまた──彼は、このように覚知します。『そのように成ったものとして、まさに、この身体はある。そのように成ったものとしてある身体において、諸々の手の接触もまた至り行き、諸々の石の接触もまた至り行き、諸々の棒の接触もまた至り行き、諸々の刃の接触もまた至り行く。また、まさに、このことが、世尊によって、鋸の喩えの論において説かれた。「比丘たちよ、たとえ、もし、卑しい盗賊たちが、両側に棒のある鋸で、それぞれの手足を切り裂くも、そこで、また、彼が、意を汚すなら(怒りを起こすなら)、それによって、彼は、わたしの教えを為す者ではありません」と。また、まさに、わたしの、励んでいる精進は、退去なきものと成り、現起している気づきは、忘却なきものと〔成り〕、静息した身体は、懊悩を有さないものと〔成り〕、定められた心は、一境のものと〔成るのだ〕。今や、欲するままに、この身体において、諸々の手の接触もまた至り行け、諸々の石の接触もまた至り行け、諸々の棒の接触もまた至り行け、諸々の刃の接触もまた至り行け。なぜなら、〔まさに〕この、覚者たちの教えが為されるからだ』と。
友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しないとして、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、それは、たとえば、また、嫁が、姑を見て、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起するように、友よ、まさしく、このように、まさに、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しないとして、彼は、それによって、畏怖し、畏怖〔の思い〕を惹起します。『まさに、わたしには、諸々の利得ならざることがある。まさに、わたしには、諸々の利得がない。まさに、わたしには、悪しく得られたものがある。まさに、わたしには、善く得られたものがない。すなわち、わたしに、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立しない』と。友よ、もし、その比丘に、このように、覚者を隨念しながら、このように、法(教え)を隨念しながら、このように、僧団を隨念しながら、善なるものに依拠した放捨〔の思い〕が確立するなら、彼は、それによって、わが意を得た者と成ります。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。
306. 友よ、それは、たとえば、また、かつまた、木片を縁として、かつまた、蔓を縁として、かつまた、草を縁として、かつまた、粘土を縁として、虚空が遍く取り囲まれたなら、まさしく、『家』という名称に至るように、友よ、まさしく、このように、まさに、かつまた、骨を縁として、かつまた、腱を縁として、かつまた、肉を縁として、かつまた、皮を縁として、虚空が遍く取り囲まれたなら、まさしく、『形態』という名称に至ります。友よ、まさしく、もし、内なる眼が完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の形態が視野にやってこないなら、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、まさしく、もし、内なる眼が完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の形態が視野にやってくるとして、しかしながら、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、もし、内なる眼が完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の形態が視野にやってくることから、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることから、このように、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現が有ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕形態は、それは、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります(包摂される)。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕感受〔作用〕は、それは、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕表象〔作用〕は、それは、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔それらの〕諸々の形成〔作用〕は、それらは、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕識知〔作用〕は、それは、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。
彼は、このように覚知します。『まさに、このように、どうやら、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の包摂と集合と会合が有るらしい。また、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「彼が、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を見るなら、彼は、法(真理)を見ます。彼が、法(真理)を見るなら、彼は、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を見ます」と。また、まさに、縁によって生起したもの(縁已生)として、これらのものはある。すなわち、この、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)であり、悪習(随眠:潜在煩悩)であり、固執〔の思い〕であるなら、それは、苦しみの集起(苦集)である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏(取り除き)であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、それは、苦しみの止滅(苦滅)である』と。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります。
友よ、まさしく、もし、内なる耳が、完全に破壊なく有るとして……略……鼻が、完全に破壊なく有るとして……舌が、完全に破壊なく有るとして……身が、完全に破壊なく有るとして……意が、完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の法(意の対象)が視野にやってこないなら、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、まさしく、もし、内なる意が、完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の法(意の対象)が視野にやってくるとして、しかしながら、それに応じる〔心の〕集中が有ることなくあるなら、そのあいだ、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現は、まさしく、有りません。友よ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、もし、内なる意が、完全に破壊なく有るとして、そして、外なる諸々の法(意の対象)が視野にやってくることから、さらに、それに応じる〔心の〕集中が有ることから、このように、それに応じる識知〔作用〕の部分の出現が有ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕形態は、それは、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕感受〔作用〕は、それは、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕表象〔作用〕は、それは、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔それらの〕形成〔作用〕は、それらは、形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。すなわち、そのように成ったものにある、〔その〕識知〔作用〕は、それは、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇において、包摂に至ります。彼は、このように覚知します。『まさに、このように、どうやら、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の包摂と集合と会合が有るらしい。また、まさに、このことが、世尊によって説かれた。「彼が、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を見るなら、彼は、法(真理)を見ます。彼が、法(真理)を見るなら、彼は、縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕を見ます」と。また、まさに、縁によって生起したものとして、これらのものはある。すなわち、この、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕であり、〔生存の〕基底であり、悪習であり、固執〔の思い〕であるなら、それは、苦しみの集起である。それが、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、それは、苦しみの止滅である』と。友よ、これだけでもまた、まさに、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります」と。
尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる象の足跡の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(29). 大いなる硬材の喩えの経
307. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ギッジャクータ山において、デーヴァダッタが立ち去ったすぐあとに。そこで、まさに、世尊は、デーヴァダッタに関して、比丘たちに告げました。
「比丘たちよ、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、利得と尊敬と名声ある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、知名少なき者たちであり、権能少なき者たちである』と。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、利得と尊敬と名声ある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、知名少なき者たちであり、権能少なき者たちである』と。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の枝葉を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。
308. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちである』と。彼は、その戒の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。
比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちである』と。彼は、その戒の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の外皮を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。
309. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。彼は、その禅定の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちである』と。彼は、その禅定の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。
比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。彼は、その禅定の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちである』と。彼は、その禅定の成就によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の樹皮を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。
310. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その禅定の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その知見によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕存し、〔世に〕住む。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔あるがままに〕知っていない者たちとして、〔あるがままに〕見ていない者たちとして、〔世に〕住む』と。彼は、その知見によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。
比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その禅定の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その知見によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕存し、〔世に〕住む。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔あるがままに〕知っていない者たちとして、〔あるがままに〕見ていない者たちとして、〔世に〕住む』と。彼は、その知見によって、驕慢となり、放逸となり、放逸を惹起し、放逸の者として〔世に〕存しながら、苦痛のうちに〔世に〕住みます。比丘たちよ、この者は、『比丘として、梵行の軟材を収め取った。そして、それによって、完成〔の思い〕を惹起した』〔と〕説かれます。
311. 比丘たちよ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その禅定の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その知見によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その知見の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、時限なき解脱を達成します。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、その時限なき解脱から遍く衰退することです。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、『硬材である』と知りながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知し、軟材を了知し、樹皮を了知し、外皮を了知し、枝葉を了知した。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、「硬材である」と知りながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるなら、そして、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領するであろう』と。
比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その戒の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その禅定の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その知見によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。彼は、その知見の成就によって、驕慢とならず、放逸とならず、放逸を惹起せず、不放逸の者として〔世に〕存しながら、時限なき解脱を達成します。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、その比丘が、その時限なき解脱から遍く衰退することです。
比丘たちよ、かくのごとく、まさに、この梵行は、利得と尊敬と名声を福利とするものではなく、戒の成就を福利とするものではなく、禅定の成就を福利とするものではなく、知見を福利とするものではありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、この、不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)なるものがあり、比丘たちよ、この梵行は、これを義(目的)とし、これを硬材(真髄)とし、これを結末とします」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる硬材の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(30). 小なる硬材の喩えの経
312. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、ピンガラコッチャ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ピンガラコッチャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々にとって、善き者と等しく思認されている、これらの沙門や婆羅門たちは──それは、すなわち、この、プーラナ・カッサパであり、マッカリ・ゴーサーラであり、アジタ・ケーサカンバラであり、パクダ・カッチャーヤナであり、サンジャヤ(※)・ベーラッタプッタであり、ニガンタ・ナータプッタですが──彼らは、全ての者たちが、自らの智慧によって証知したのですか、まさしく、全ての者たちが証知しなかったのですか、それとも、一部の者たちは証知し、一部の者たちは証知しなかったのですか」と。「婆羅門よ、法(教え)を、あなたに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ピンガラコッチャ婆羅門は、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
※ テキストには sañcayo とあるが、PTS版により sañjayo と読む。
313. 「婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。
314. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。
315. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。
316. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知せず、軟材を了知せず、樹皮を了知せず、外皮を了知せず、枝葉を了知しなかった。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、「硬材である」と思い考えながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないであろう』と。
317. 婆羅門よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、『硬材である』と知りながら、携えて立ち去るようなものです。〔まさに〕その、この者のことを、眼ある人が見て、このように説きます。『まさに、この尊き人は、硬材を了知し、軟材を了知し、樹皮を了知し、外皮を了知し、枝葉を了知した。なぜなら、そのように、この、硬材を義(目的)として硬材を探し求める尊き人は、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、「硬材である」と知りながら、携えて立ち去ったからだ。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるなら、そして、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領するであろう』と。
318. 婆羅門よ、まさしく、このように、まさに、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、利得と尊敬と名声ある者として〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、知名少なき者たちであり、権能少なき者たちである』と。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を超え行って、枝葉を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。
319. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、戒ある者として、善き法(性質)ある者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、劣戒の者たちであり、悪しき法(性質)ある者たちである』と。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を超え行って、外皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。
320. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、禅定の成就を達成します。彼は、その禅定の成就によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔心が〕定められた者として、一境の心の者として、〔世に〕存している。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちである』と。そして、すなわち、禅定の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を超え行って、樹皮を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。
321. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、禅定の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕。彼は、その知見によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。『わたしは、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕存し、〔世に〕住む。いっぽう、これらの他の比丘たちは、〔あるがままに〕知っていない者たちとして、〔あるがままに〕見ていない者たちとして、〔世に〕住む』と。そして、すなわち、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるのに、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせず、努力せず、そして、畏縮した生活者と成り、緩慢なる者と〔成ります〕。婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を超え行って、軟材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるとして、しかしながら、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領しないでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。
322. 婆羅門よ、また、ここに、一部の良家の子息は、信によって家から家なきへと出家した者として〔世に〕有ります。『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔それらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と。彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、利得と尊敬と名声を発現させます。彼は、その利得と尊敬と名声によって、わが意を得た者と成らず、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その利得と尊敬と名声によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、利得と尊敬と名声よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、戒の成就を達成します。彼は、その戒の成就によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その戒の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、戒の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、禅定の成就を達成します。わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その禅定の成就によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、禅定の成就よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。彼は、知見を達成します。彼は、その知見によって、わが意を得た者と成り、しかしながら、まさに、円満成就した思惟ある者と〔成り〕ません。彼は、その知見によって、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。そして、すなわち、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、他の諸々の法(性質)があるので、それらの法(性質)の実証のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、そして、畏縮しない生活者と成り、緩慢ならざる者と〔成ります〕。
323. 婆羅門よ、では、どのようなものが、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、諸々の法(性質)なのですか。婆羅門よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。
婆羅門よ、さらに、また、他に、比丘が、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。婆羅門よ、これもまた、まさに、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、法(性質)です。婆羅門よ、まさに、これらの、知見よりも、かつまた、より上なるものであり、かつまた、より精妙なるものである、諸々の法(性質)があります。
324. 婆羅門よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める、その人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、硬材を断ち切って、『硬材である』と思い考えながら、携えて立ち去るようなものです。かつまた、それが、彼の、硬材による硬材の為すべきことであるなら、そして、彼の、その義(目的)を、〔彼は〕受領するでしょう。婆羅門よ、その喩えのように、わたしは、この人のことを説きます。
婆羅門よ、かくのごとく、まさに、この梵行は、利得と尊敬と名声を福利とするものではなく、戒の成就を福利とするものではなく、禅定の成就を福利とするものではなく、知見を福利とするものではありません。婆羅門よ、しかしながら、すなわち、まさに、この、不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)なるものがあり、比丘たちよ、この梵行は、これを義(目的)とし、これを硬材(真髄)とし、これを結末とします」と。
このように説かれたとき、ピンガラコッチャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマよ、貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。
小なる硬材の喩えの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
喩えの章は終了となり、〔以上が〕第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「モーリヤ・パッグナ、そして、アリッタという名のもの、アンダ林におけるもの、〔法の〕議論者たるプンナ、撒餌、〔罠の〕集まり、カネール〔カー〕、大いなる象という名のもの、硬材の喩え、また、ピンガラコッチャがあり、〔章となる〕」〔と〕。
4. 大いなる対なるものの章
1(31). 小なるゴーシンガの経
325. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。また、まさに、その時点にあって、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園に住んでいます。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、園の番人は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「沙門よ、この園に入ってはいけません。ここにおいて、三者の良家の子息たちが存在し、自己の欲する形態となり、住んでいます。彼らに、平穏ならざることを為してはいけません」と。
まさに、尊者アヌルッダは、園の番人が、世尊を相手に話し合っているのを耳にしました。耳にして、園の番人に、こう言いました。「友よ、園の番人よ、世尊を妨げてはいけません。わたしたちの教師である世尊が、到着したのです」と。そこで、まさに、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤの、かつまた、尊者キミラの、〔両者の〕いるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、かつまた、尊者ナンディヤに、かつまた、尊者キミラに、こう言いました。「尊者たちは、出で来たれ。尊者たちは、出で来たれ。わたしたちの教師である世尊が、到着したのです」と。そこで、まさに、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、世尊を出迎えて、世尊のために、一者は、鉢と衣料を収め取り、一者は、坐を設け、一者は、足用の水を調達しました。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、〔両の〕足を洗いました。まさに、それらの尊者たちもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アヌルッダに、世尊は、こう言いました。
326. 「アヌルッダよ、どうでしょう、あなたたちは、息災ですか。どうでしょう、順調ですか。どうでしょう、〔行乞の〕食(托鉢)で疲弊していませんか」と。「世尊よ、息災です。世尊よ、順調です。尊き方よ、そして、わたしたちは、〔行乞の〕食で疲弊していません」と。「アヌルッダよ、また、どうでしょう、あなたたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいます」と。「アヌルッダよ、また、すなわち、どのように、あなたたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このような形態の梵行を共にする者たちと共に〔世に〕住む』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、これらの尊者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕(慈)ある身体の行為(身業)が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為(口業)が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為(意業)が現起されています。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持するのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持します。尊き方よ、まさに、種々なるものとして、まさに、わたしたちの身体はあるも、また、しかしながら、思うに、心は一つなのです」と。
まさに、尊者ナンディヤもまた……略……。まさに、尊者キミラもまた、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしにもまた、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、善く得られたものがある。すなわち、わたしは、このような形態の梵行を共にする者たちと共に〔世に〕住む』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、これらの尊者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起され、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されています。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『それなら、さあ、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持するのだ』と。尊き方よ、それで、まさに、わたしは、自らの心を捨て置いて、まさしく、これらの尊者たちの心を所以に行持します。尊き方よ、まさに、種々なるものとして、まさに、わたしたちの身体はあるも、また、しかしながら、思うに、心は一つなのです」と。
「尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは、和合の者たちとなり、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕住んでいます」と。
327. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、どうでしょう、あなたたちは、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます」と。「アヌルッダよ、また、すなわち、どのように、あなたたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいますか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちのなかで、その者が、最初に、〔行乞の〕食のための村から戻るなら、彼は、諸々の坐を設け、飲用水と洗浄水を調達し、残食鉢を調達します。その者が、最後に、〔行乞の〕食のための村から戻るとして、それで、もし、食事の残りが有り、それで、もし、望むなら、〔それを〕食べ、もし、望まないなら、あるいは、緑が少ないところに捨て、あるいは、命あるものがいない水のなかに沈めます。彼は、諸々の坐を片付け、飲用水と洗浄水を片付け、残食鉢を片付け、食堂を掃除します。その者が、あるいは、飲用水の瓶が、あるいは、洗浄水の瓶が、あるいは、便所の水瓶が、空っぽで、空であるのを見るなら、彼は、〔水を〕調達します。それで、もし、彼に、支障が有るなら、手を動かすことで、第二の者に告げて、手の合図によって、〔わたしたちは、水を〕調達します。尊き方よ、まさしく、しかし、わたしたちは、それを縁として、言葉を発することはありません。尊き方よ、また、まさに、わたしたちは、五日ごとに、全夜のあいだ、法(教え)の議論のために着坐します。尊き方よ、このように、まさに、わたしたちは、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいます」と。
328. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、このように、あなたたちが、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、まさに、わたしたちが、熱情ある者たちとなり、自己を精励する者たちとして〔世に〕住んでいると、まさに、この〔第一の瞑想〕が、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。
「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔第二の瞑想〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。
「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔第三の瞑想〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。
「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔第四の瞑想〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。
「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔虚空無辺なる認識の場所〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。
「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……略……全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。……略……全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔表象あるにもあらず表象なきにもあらざる認識の場所〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります」と。
329. 「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、また、あなたたちに、この住の超越のために、この住の安息のために、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕が、平穏の住が、到達するところとなり、存在しますか」と。「尊き方よ、まさに、どうして、存在しないというのでしょう。尊き方よ、ここに、わたしたちは、〔自らが〕望む、まさしく、そのかぎりにおいて、全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、わたしたちの諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります(※)。尊き方よ、この住の超越のために、この住の安息のために、この〔表象と感覚の止滅〕が、他の、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕として、平穏の住として、到達するところとなります。尊き方よ、そして、わたしたちは、この平穏の住より、他の平穏の住を、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、等しく随観しません」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。この平穏の住より、あるいは、より上なるものであり、あるいは、より精妙なるものである、平穏の住は存在しません」と。
※ PTS版により honti を補う。
330. そこで、まさに、世尊は、かつまた、尊者アヌルッダに、かつまた、尊者ナンディヤに、かつまた、尊者キミラに、法(教え)の講話によって、〔教えを〕見示し、受持させ、激励し、感動させて、坐から立ち上がって、立ち去りました。そこで、まさに、かつまた、尊者アヌルッダは、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、世尊に付き従って、そののち、引き返して、かつまた、尊者ナンディヤは、かつまた、尊者キミラは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「いったい、まさに、どうなのでしょう、わたしたちは、尊者アヌルッダに、このように告げましたか。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定(等持)の得者として、わたしたちはある』と。すなわち、世尊の面前で、わたしたちの諸々の煩悩の滅尽に至るまで、尊者アヌルッダは明示します」と。「尊者たちは、まさに、わたしに、このように告げませんでした。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定の得者として、わたしたちはある』と。ですが、また、わたしによって、〔自らの〕心をとおして、尊者たちの心を探知して、〔このように〕知られました。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定の得者として、これらの尊者たちはある』と。天神たちもまた、わたしに、この義(意味)を告げました。『そして、この〔住への入定〕の、さらに、この〔住への入定〕の──〔これらの〕住への入定の得者として、これらの尊者たちはある』と。それで、このことが、説き明かされたのです──世尊によって、問いが尋ねられたときに」と。
331. そこで、まさに、ディーガ・パラジャナ夜叉が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ディーガ・パラジャナ夜叉は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、ヴァッジー〔国〕には、諸々の利得があります。ヴァッジー〔国〕の人々には、諸々の善く得られた利得があります。そこにおいては、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられ、そして、これらの三者の良家の子息たちが〔住んでいます〕──かつまた、尊者アヌルッダが、かつまた、尊者ナンディヤが、かつまた、尊者キミラが」と。ディーガ・パラジャナ夜叉の声を聞いて、地居の天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「ああ、まさに、ヴァッジー〔国〕には、諸々の利得がある。ヴァッジー〔国〕の人々には、諸々の善く得られた利得がある。そこにおいては、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられ、そして、これらの三者の良家の子息たちが〔住んでいる〕──かつまた、尊者アヌルッダが、かつまた、尊者ナンディヤが、かつまた、尊者キミラが」と。地居の天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは……略……三十三天〔の神々〕たちは……略……耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕たちは……梵衆天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「ああ、まさに、ヴァッジー〔国〕には、諸々の利得がある。ヴァッジー〔国〕の人々には、諸々の善く得られた利得がある。そこにおいては、阿羅漢にして正等覚者たる如来が住んでおられ、そして、これらの三者の良家の子息たちが〔住んでいる〕──かつまた、尊者アヌルッダが、かつまた、尊者ナンディヤが、かつまた、尊者キミラが」と。まさに、かくのごとく、それらの尊者たちは、その瞬間、その途端、その寸時に、梵の世に至るまで、〔このように〕知られるところと成りました。
「ディーガよ、このように、このことはあります。ディーガよ、このように、このことはあります。ディーガよ、その家から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その家が、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、その家にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その家の一族から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その家の一族が、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、その家の一族にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その村から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その村が、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、その村にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その町から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その町が、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、その町にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その城市から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その城市が、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、その城市にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、その地方から、また、これらの三者の良家の子息たちが、家から家なきへと出家したとして、もし、また、その地方が、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、その地方にとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、もし、また、全ての士族たちが、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、もし、また、全ての婆羅門たちが……略……。ディーガよ、もし、また、全ての庶民たちが……略……。ディーガよ、もし、また、全ての隷民たちが、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、全ての隷民たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、もし、また、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、これらの三者の良家の子息たちを、浄信した心で隨念するなら、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。ディーガよ、見よ。およそ、これらの三者の良家の子息たちが、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、実践者たちとしてあるかぎりを」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たディーガ・パラジャナ夜叉は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
小なるゴーシンガの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(32). 大いなるゴーシンガの経
332. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林園に住んでおられます。大勢の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に──かつまた、尊者サーリプッタとともに、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナとともに、かつまた、尊者マハー・カッサパとともに、かつまた、尊者アヌルッダとともに、かつまた、尊者レーヴァタとともに、かつまた、尊者アーナンダとともに、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された長老の弟子たちと共に。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者マハー・カッサパのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、行きましょう。法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者マハー・カッサパは、尊者マハー・モッガッラーナに答えました。そこで、まさに、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナは、かつまた、尊者マハー・カッサパは、かつまた、尊者アヌルッダは、法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者アーナンダは、かつまた、尊者マハー・モッガッラーナが、かつまた、尊者マハー・カッサパが、かつまた、尊者アヌルッダが、法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きつつあるのを見ました。見て、尊者レーヴァタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者レーヴァタに、こう言いました。「友よ、レーヴァタよ、まさに、これらの正なる人士たちが、法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きつつあります。友よ、レーヴァタよ、行きましょう。法(教え)を聞くために、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行くのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、尊者レーヴァタは、尊者アーナンダに答えました。そこで、まさに、かつまた、尊者レーヴァタは、かつまた、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。
333. まさに、尊者サーリプッタは、かつまた、尊者レーヴァタが、かつまた、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アーナンダに、こう言いました。「まさに、尊者アーナンダは、来たれ。世尊の奉仕者(世話係・侍者)であり、世尊の側近くある者である、尊者アーナンダにとって、善き訪問と〔成れ〕。友よ、アーナンダよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、アーナンダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。彼は、四つの衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)に、法(教え)を説示します──諸々の遍き円成の句と文の継続をもって、悪習(随眠:潜在煩悩)の根絶のために。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。
334. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者レーヴァタに、こう言いました。「友よ、レーヴァタよ、まさに、尊者アーナンダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者レーヴァタに尋ねます。友よ、レーヴァタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、レーヴァタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、〔世に〕有ります──内なる心の止寂(奢摩他・止:集中瞑想)に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者として。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。
335. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者アヌルッダに、こう言いました。「友よ、アヌルッダよ、まさに、尊者レーヴァタによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者アヌルッダに尋ねます。友よ、アヌルッダよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、アヌルッダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、眼ある人が、優美なる高楼の上に至り、千の円形の外輪を眺め見るように、友よ、サーリプッタよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。
336. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。「友よ、カッサパよ、まさに、尊者アヌルッダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・カッサパに尋ねます。友よ、カッサパよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、カッサパよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、〔行乞の〕施食の者として、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、糞掃衣の者として、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、三つの衣料の者として、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、少なき欲求の者として、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、満ち足りている者として、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、遠離している者として、さらに、遠離の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者として、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、精進に励む者として、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、戒を成就した者として、さらに、戒の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、禅定を成就した者として、さらに、禅定の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、智慧を成就した者として、さらに、智慧の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、解脱を成就した者として、さらに、解脱の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として、さらに、解脱の知見の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。
337. このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「友よ、モッガッラーナよ、まさに、尊者マハー・カッサパによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・モッガッラーナに尋ねます。友よ、モッガッラーナよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、モッガッラーナよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、サーリプッタよ、ここに、二者の比丘が、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)についての議論を議論します。彼らは、互いが他に、問いを尋ねます。互いが他に、問いを尋ねられ、回答し、かつまた、放置しません。そして、彼らの法(教え)の議論は、転起あるものと成ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。
338. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者サーリプッタに尋ねます。友よ、サーリプッタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、サーリプッタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか」と。「友よ、モッガッラーナよ、ここに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、種々に染められた諸々の衣服で満ちている衣服箱が存するようなものです。彼が、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着るでしょう。まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着るでしょう。まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着るでしょう。友よ、モッガッラーナよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。
339. そこで、まさに、尊者サーリプッタは、それらの尊者たちに、こう言いました。「友よ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。友よ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのです」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの尊者たちは、尊者サーリプッタに答えました。そこで、まさに、それらの尊者たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者サーリプッタは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、わたしは、かつまた、尊者レーヴァタが、かつまた、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アーナンダに、こう言いました。『まさに、尊者アーナンダは、来たれ。世尊の奉仕者であり、世尊の側近くある者である、尊者アーナンダにとって、善き訪問と〔成れ〕。友よ、アーナンダよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、アーナンダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者アーナンダは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります……略……悪習の根絶のために。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、アーナンダは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、アーナンダは、多聞の者であり、所聞の保持ある者であり、所聞の蓄積ある者です──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。彼は、四つの衆に、法(教え)を説示します──諸々の遍き円成の句と文の継続をもって、悪習の根絶のために」と。
340. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者レーヴァタに、こう言いました。『友よ、レーヴァタよ、まさに、尊者アーナンダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者レーヴァタに尋ねます。友よ、レーヴァタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、レーヴァタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者レーヴァタは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、〔世に〕有ります──内なる心の止寂に専念する者として、瞑想を放却しない者として、〔あるがままの〕観察を具備した者として、諸々の空家の利用者として。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、レーヴァタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、レーヴァタは、静坐を喜びとする者であり、静坐を喜ぶ者です──内なる心の止寂に専念する者であり、瞑想を放却しない者であり、〔あるがままの〕観察を具備した者であり、諸々の空家の利用者です」と。
341. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者アヌルッダに、こう言いました。『友よ、アヌルッダよ、まさに、尊者レーヴァタによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。……略……。友よ、アヌルッダよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者アヌルッダは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます。友よ、サーリプッタよ、それは、たとえば、また、眼ある人が……略……。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、アヌルッダは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、アヌルッダは、人間を超越した清浄の天眼によって、千の世を眺め見ます」と。
342. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者マハー・カッサパに、こう言いました。『友よ、カッサパよ、まさに、尊者アヌルッダによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・カッサパに尋ねます。……略……。友よ、カッサパよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者マハー・カッサパは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、比丘が、そして、自己みずから、林にある者として、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者として、〔世に〕有り、そして、自己みずから、〔行乞の〕施食の者として……略……そして、自己みずから、糞掃衣の者として……略……そして、自己みずから、三つの衣料の者として……略……そして、自己みずから、少なき欲求の者として……略……そして、自己みずから、満ち足りている者として……略……そして、自己みずから、遠離している者として……略……そして、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者として……略……そして、自己みずから、精進に励む者として……略……そして、自己みずから、戒を成就した者として……略……そして、自己みずから、禅定を成就した者として……略……そして、自己みずから、智慧を成就した者として……略……そして、自己みずから、解脱を成就した者として……略……そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者として、さらに、解脱の知見の成就の栄誉を説く者として、〔世に〕有ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、カッサパは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、カッサパは、そして、自己みずから、林にある者であり、さらに、林にある者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、〔行乞の〕施食の者であり、さらに、〔行乞の〕施食の者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、糞掃衣の者であり、さらに、糞掃衣の者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、三つの衣料の者であり、さらに、三つの衣料の者たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、少なき欲求の者であり、さらに、少なき欲求たることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、満ち足りている者であり、さらに、満ち足りていることの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、遠離している者であり、さらに、遠離の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、〔世俗と〕交わりなき者であり、さらに、〔世俗と〕交わりなきことの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、精進に励む者であり、さらに、精進に励むことの栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、戒を成就した者であり、さらに、戒の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、禅定を成就した者であり、さらに、禅定の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、智慧を成就した者であり、さらに、智慧の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、解脱を成就した者であり、さらに、解脱の成就の栄誉を説く者であり、そして、自己みずから、解脱の知見を成就した者であり、さらに、解脱の知見の成就の栄誉を説く者です」と。
343. 「尊き方よ、このように説かれたとき、わたしは、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。『友よ、モッガッラーナよ、まさに、尊者マハー・カッサパによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者マハー・モッガッラーナに尋ねます。……略……。友よ、モッガッラーナよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、わたしに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、ここに、二者の比丘が、高次の法理についての議論を議論します。彼らは、互いが他に、問いを尋ねます。互いが他に、問いを尋ねられ、回答し、かつまた、放置しません。そして、彼らの法(教え)の議論は、転起あるものと成ります。友よ、サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。まさしく、モッガッラーナは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。サーリプッタよ、まさに、モッガッラーナは、法(教え)の議論者です」と。
344. このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、そこで、まさに、わたしは、尊者サーリプッタに、こう言いました。『友よ、サーリプッタよ、まさに、まさしく、わたしたちの全てによって、自らのものとして、そのとおりに、応答が説き明かされました。そこにおいて、今や、わたしどもは、尊者サーリプッタに尋ねます。友よ、サーリプッタよ、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、喜ばしきところです。月明かりの夜は、サーラ〔樹〕の全てが満開に咲き誇り、思うに、諸々の天の香りが等しく香るかのようです。友よ、サーリプッタよ、どのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くのですか』と。尊き方よ、このように説かれたとき、尊者サーリプッタは、わたしに、こう言いました。『友よ、モッガッラーナよ、ここに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、王に、あるいは、王の大臣に、種々に染められた諸々の衣服で満ちている衣服箱が存するとして、彼が、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、早刻時に着るであろうし、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、日中時に着るであろうし、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着ることを望むなら、まさしく、その〔一組の衣服〕その一組の衣服を、夕刻時に着るであろうように、友よ、モッガッラーナよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、心を自在に転起させ、かつまた、比丘が、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます。友よ、モッガッラーナよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう』」と。「モッガッラーナよ、善きかな、善きかな。まさしく、サーリプッタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。モッガッラーナよ、まさに、サーリプッタは、心を自在に転起させ、かつまた、サーリプッタは、心を所以に転起せず、彼が、その住への入定によって、早刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、早刻時に住み、彼が、その住への入定によって、日中時に住むことを望むなら、その住への入定によって、日中時に住み、彼が、その住への入定によって、夕刻時に住むことを望むなら、その住への入定によって、夕刻時に住みます」と。
345. このように説かれたとき、尊者サーリプッは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、誰の〔言葉が〕、見事に語られたのですか」と。「サーリプッタよ、あなたたちの全ての〔言葉が〕、見事に語られました──教相〔の観点〕によって。さらに、また、わたしの〔言葉を〕もまた聞きなさい。そのような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう。サーリプッタよ、ここに、比丘が、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。『それまで、わたしは、この結跏を破らないであろう──すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは』と。サーリプッタよ、まさに、このような形態の比丘によって、ゴーシンガのサーラ〔樹〕の林は、美しく輝くでしょう」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの尊者たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなるゴーシンガの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(33). 大いなる牛飼いの経
346. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、十一のものがあります。〔これらの〕支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、牛飼いが、(1)形態を知る者と成らず、(2)特相に巧みな智ある者と成らず、(3)蝿の卵を取り去る者と成らず、(4)傷を覆う者と成らず、(5)煙を作り為す者と成らず、(6)水場を知らず、(7)飲んだものを知らず、(8)道を知らず、(9)餌場に巧みな智ある者と成らず、(10)そして、残りなく搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません(尊重しない)。比丘たちよ、まさに、これらの十一の支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが不可能となります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十一のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが不可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を知る者と成らず、(2)特相に巧みな智ある者と成らず、(3)蝿の卵を取り去る者と成らず、(4)傷を覆う者と成らず、(5)煙を作り為す者と成らず、(6)水場を知らず、(7)飲んだものを知らず、(8)道を知らず、(9)餌場に巧みな智ある者と成らず、(10)そして、残りなく搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません。
347. (1)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、形態を知る者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『それが何であれ、形態(色:物質)であるなら、一切の形態は、四つの大いなる元素(四大種)であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)である』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、形態を知る者と成りません。
(2)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、特相に巧みな智ある者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『行為による特相ある者として、愚者はあり、行為による特相ある者として、賢者はある』と、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、特相に巧みな智ある者と成りません。
(3)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめず、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受し、捨棄せず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らしめません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成りません。
(4)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、傷を覆う者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態(色)を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成ります〕。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践せず、眼の機能を守護せず、眼の機能における統御を惹起しません。耳によって、音声(声)を聞いて……略……。鼻によって、臭気(香)を嗅いで……略……。舌によって、味感(味)を味わって……略……。身によって、感触(触・所触)と接触して……略……。意によって、法(法:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成ります〕。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践せず、意の機能を守護せず、意の機能における統御を惹起しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、傷を覆う者と成りません。
(5)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、煙を作り為す者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示する者と成りません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、煙を作り為す者と成りません。
(6)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、水場を知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ねず、遍く質問せず、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕せず、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為さず、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、水場を知りません。
(7)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、飲んだものを知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得ず、法(教え)の信受を得ず、法(真理)を伴った歓喜を得ません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、飲んだものを知りません。
(8)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、道を知らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、道を知りません。
(9)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、四つの気づきの確立(四念処・四念住)を、事実のとおりに覚知しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成りません。
(10)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、残りなく搾乳する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、信ある家長たちが、〔諸々の施物を〕運び込んで、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)によって〔布施を〕申し出ます。そこで、比丘が、納受のための量を知りません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、残りなく搾乳する者と成ります。
(11)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成らないのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為を現起させず、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為を現起させず、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為を現起させません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるのに、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成りません。
比丘たちよ、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが不可能となります。
348. 比丘たちよ、十一のものがあります。〔これらの〕支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、牛飼いが、(1)形態を知る者と成り、(2)特相に巧みな智ある者と成り、(3)蝿の卵を取り去る者と成り、(4)傷を覆う者と成り、(5)煙を作り為す者と成り、(6)水場を知り、(7)飲んだものを知り、(8)道を知り、(9)餌場に巧みな智ある者と成り、(10)そして、残りを有して搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります(尊重する)。比丘たちよ、まさに、これらの十一の支分を具備した牛飼いは、牛の群れを守り抜き、増殖を為すことが可能となります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、十一のものがあります。〔これらの〕法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが可能となります。どのようなものが、十一のものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を知る者と成り、(2)特相に巧みな智ある者と成り、(3)蝿の卵を取り去る者と成り、(4)傷を覆う者と成り、(5)煙を作り為す者と成り、(6)水場を知り、(7)飲んだものを知り、(8)道を知り、(9)餌場に巧みな智ある者と成り、(10)そして、残りを有して搾乳する者と成り、(11)すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります。
349. (1)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、形態を知る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態(物質)であるなら、その全てを、『四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態である』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、形態を知る者と成ります。
(2)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、特相に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『行為による特相ある者として、愚者はあり、行為による特相ある者として、賢者はある』と、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、特相に巧みな智ある者と成ります。
(3)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめ、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……諸々の生起した悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、蝿の卵を取り去る者と成ります。
(4)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、傷を覆う者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、傷を覆う者と成ります。
(5)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、煙を作り為す者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示する者と成ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、煙を作り為す者と成ります。
(6)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、水場を知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、多聞の者たちであり、聖教の精通者たちであり、法(教え)の保持者たちであり、律の保持者たちであり、要綱の保持者たちであるなら、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、水場を知ります。
(7)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、飲んだものを知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、飲んだものを知ります。
(8)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、道を知るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、聖なる八つの支分ある道を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、道を知ります。
(9)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、四つの気づきの確立を、事実のとおりに覚知します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、餌場に巧みな智ある者と成ります。
(10)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、残りを有して搾乳する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、信ある家長たちが、〔諸々の施物を〕運び込んで、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施を〕申し出ます。そこで、比丘が、納受のための量を知ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、残りを有して搾乳する者と成ります。
(11)比丘たちよ、では、どのように、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為を現起させ、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為を現起させ、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為を現起させます。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、すなわち、それらの比丘たちが、長老たちであり、経歴ある者たちであり、長き出家者たちであり、僧団の父たちであり、僧団の導き手たちであるなら、彼らを、超えまさる供養によって供養する者と成ります。
比丘たちよ、まさに、これらの十一の法(性質)を具備した比丘は、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起することが可能となります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる牛飼いの経は終了となり、〔以上が〕第三となる。
4(34). 小なる牛飼いの経
350. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴァッジー〔国〕に住んでおられます。ウッカチェーラーのガンガー川の岸辺において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、過去の事ですが、マガダ〔国〕の牛飼いで、智慧浅き類の者が、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視せずして、彼岸を正しく注視せずして、まさしく、渡し場ならざるところから、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡しました。比丘たちよ、そこで、まさに、牛たちは、ガンガー川の中、流れにおいて円を為して、まさしく、そこにおいて、不幸と災厄を惹起しました。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、そのマガダ〔国〕の牛飼いは、智慧浅き類の者であり、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視せずして、彼岸を正しく注視せずして、まさしく、渡し場ならざるところから、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡したからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、この世に巧みな智なき者たちであり、他の世に巧みな智なき者たちであり、悪魔の領域に巧みな智なき者たちであり、悪魔の領域ならざるところに巧みな智なき者たちであり、死魔の領域に巧みな智なき者たちであり、死魔の領域ならざるところに巧みな智なき者たちであるとして──彼らの〔言葉を〕、それらの者たちが、聞くべきと〔思い考え〕、信じるべきと思い考えるなら、それは、それらの者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。
351. 比丘たちよ、過去の事ですが、マガダ〔国〕の牛飼いで、智慧を有する類の者が、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視して、彼岸を正しく注視して、まさしく、渡し場から、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡しました。その〔牛飼い〕は、すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるなら、最初に、〔彼らを〕超え渡しました。彼らは、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。そこで、他の、力ある牛たちと調御されるべき牛たちを超え渡しました。彼らもまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。そこで、他の、雄の子牛たちと雌の子牛たちを超え渡しました。彼らもまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。そこで、他の、痩せて力のない子牛たちを超え渡しました。彼らもまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。比丘たちよ、過去の事ですが、まさしく、生まれたばかりの幼い子牛が、母牛の鳴き声に先導されながら、彼もまた、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至りました。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、そのように、そのマガダ〔国〕の牛飼いは、智慧を有する類の者であり、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分に、ガンガー川の、此岸を正しく注視して、彼岸を正しく注視して、まさしく、渡し場から、スヴィデーハ〔国〕の北岸へと、牛たちを超え渡したからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、この世に巧みな智ある者たちであり、他の世に巧みな智ある者たちであり、悪魔の領域に巧みな智ある者たちであり、悪魔の領域ならざるところに巧みな智ある者たちであり、死魔の領域に巧みな智ある者たちであり、死魔の領域ならざるところに巧みな智ある者たちであるとして──彼らの〔言葉を〕、それらの者たちが、聞くべきと〔思い考え〕、信じるべきと思い考えるなら、それは、それらの者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう。
352. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、すなわち、それらの雄牛たちが、牛の父たちであり、牛の導き手たちであるなら、彼らは、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らは、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったのです。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの、力ある牛たちと調御されるべき牛たちが、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなるなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの、雄の子牛たちと雌の子牛たちが、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろうなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらの、痩せて力のない子牛たちが、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちであるなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、その、生まれたばかりの幼い子牛が、母牛の鳴き声に先導されながら、ガンガー川の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至ったように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの比丘たちが、法(教え)に従い行く者たちであり、信に従い行く者たちであるなら、彼らもまた、悪魔の流れを横切って、〔無事〕安穏に彼岸に至るでしょう。
比丘たちよ、また、まさに、わたしは、この世に巧みな智ある者であり、他の世に巧みな智ある者であり、悪魔の領域に巧みな智ある者であり、悪魔の領域ならざるところに巧みな智ある者であり、死魔の領域に巧みな智ある者であり、死魔の領域ならざるところに巧みな智ある者であり、比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしの〔言葉を〕、それらの者たちが、聞くべきと〔思い考え〕、信じるべきと思い考えるなら、それは、それらの者たちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
〔そこで、詩偈に言う〕「〔あるがままに〕知っている者によって、この世と他の世は、見事に明示された──そして、すなわち、悪魔が達し得るところも、さらに、すなわち、死魔が至り得ないところも。
一切の世を証知して、正覚者によって、〔あるがままに〕覚知している者によって、不死の門は開かれた──涅槃〔の境処〕に至り得るために、平安なるものとして。
パーピマント(悪魔)の流れは、切断され、砕破され、分断された。比丘たちよ、歓喜多き者たちと成れ。平安に至り得た者たちとして〔世に〕存せ」と。
小なる牛飼いの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(35). 小なるサッチャカの経
353. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂(重閣講堂)において。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)の子息のサッチャカが、ヴェーサーリーに滞在しています──談義と論争の者であり、賢き論ある者であり、多くの人々に善き者と等しく思認された者です。彼は、ヴェーサーリーの衆において、このような言葉を語ります。「わたしは、彼を見ない──僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠にして、また、阿羅漢にして正等覚者と明言している、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、わたしと、論と論を交わし、等しく動転せず、等しく激動せず、等しく動揺せず、彼の〔両の〕腋から、汗を放たない、〔そのような者を〕。もし、また、わたしが、思欲なき柱と、論と論を交わすとして、その〔柱〕もまた、わたしと、論と論を交わし、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺するであろう。また、人間たる生類のばあいは、何の論があるというのだろう」と。
そこで、まさに、尊者アッサジは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入りました。まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、ヴェーサーリーにおいて、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、尊者アッサジが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アッサジのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アッサジを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、尊者アッサジに、こう言いました。「貴君アッサジよ、また、どのように、沙門ゴータマは、弟子たちを教導するのですか。また、そして、どのように、沙門ゴータマの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起するのですか」と。「アッギヴェッサナ(サッチャカ)よ、このように、まさに、世尊は、弟子たちを教導します。また、そして、このように、世尊の教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します。『比丘たちよ、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。比丘たちよ、形態は、無我です。感受〔作用〕は、無我です。表象〔作用〕は、無我です。諸々の形成〔作用〕は、無我です。識知〔作用〕は、無我です。一切の形成〔作用〕(形成されたもの)は、無常です(諸行無常)。一切の法(事象)は、無我です(諸法無我)』と。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、世尊は、弟子たちを教導します。また、そして、このように、世尊の教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します」と。「貴君アッサジよ、まさに、悪しき所聞を、わたしたちは聞きました。すなわち、わたしたちは、沙門ゴータマのことを、このような論ある者と聞いたのです。まさしく、おそらく、まさに、わたしたちは、いつであれ、いつかは、彼と、貴君ゴータマと、共に集いあつまることになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、何らかの或る議論と談論が存することになるでしょう。まさしく、おそらく、まさに、その悪しき見解から〔彼を〕遠離させることになるでしょう」と
354. また、まさに、その時点にあって、五百ばかりのリッチャヴィ〔族〕の者たちが、公会堂において、参集した状態でいます──何らかの或る用事があって。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに、こう言いました。「貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。今日、わたしに、沙門ゴータマを相手に、議論と談論が有るでしょう。それで、もし、沙門ゴータマが、そして、すなわち、〔世に〕知られたうえにも知られた弟子である、アッサジという名の比丘が、わたしに主張したように、そのように、わたしに主張するなら、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、長い毛の羊を、諸々の毛を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒造業者が、大きな酒造用の筵(むしろ)を深い湖水に入れて、端を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒職人が、篩(ふるい)の端を掴んで、振り落とし、振り払い、打ち払うように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、振り落とし、振り払い、打ち払うでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、六十歳の象が、深い蓮池に入って行って、麻洗いという名の遊びの類に打ち興じるように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマに打ち興じるでしょう──思うに、麻洗いの遊びの類として。貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。貴君リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、出で来たれ。今日、わたしに、沙門ゴータマを相手に、議論と談論が有るでしょう」と。そこで、一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、このように言いました。「どうして、沙門ゴータマが、ニガンタの子息のサッチャカの論を論破するというのだろう。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカが、沙門ゴータマの論を論破するであろう」と。一部のリッチャヴィ〔族〕の者たちは、このように言いました。「どうして、彼が、ニガンタの子息のサッチャカが、〔世に〕有るというのだろう──すなわち、世尊の論を論破する、〔そのような者として〕。そこで、まさに、世尊が、ニガンタの子息のサッチャカの論を論破するであろう」と。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、五百ばかりのリッチャヴィ〔族〕の者たちに取り囲まれ、マハー林の楼閣堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。
355. また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちが、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「君よ、いったい、まさに、どこに、今現在、彼は、貴君ゴータマは住んでいますか。まさに、わたしたちは、彼と、貴君ゴータマと会見することを欲しています」と。「アッギヴェッサナよ、彼は、世尊は、マハー林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、昼の休息のために坐っています」と。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、大いなるリッチャヴィ〔族〕の衆と共に、マハー林に深く分け入って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちもまた、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。
356. 一方に坐った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「わたしは、貴君ゴータマに、何らかの或る点でお尋ねしたいのです。それで、もし、貴君ゴータマが、わたしの問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「アッギヴェッサナよ、尋ねなさい。それを、〔あなたが〕望むなら」と。「また、どのように、貴君ゴータマは、弟子たちを教導するのですか。また、そして、どのように、貴君ゴータマの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起するのですか」と。「アッギヴェッサナよ、このように、まさに、わたしは、弟子たちを教導します。また、そして、このように、わたしの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します。『比丘たちよ、形態は、無常です。感受〔作用〕は、無常です。表象〔作用〕は、無常です。諸々の形成〔作用〕は、無常です。識知〔作用〕は、無常です。比丘たちよ、形態は、無我です。感受〔作用〕は、無我です。表象〔作用〕は、無我です。諸々の形成〔作用〕は、無我です。識知〔作用〕は、無我です。一切の形成〔作用〕(形成されたもの)は、無常です。一切の法(事象)は、無我です』と。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、わたしは、弟子たちを教導します。また、そして、このように、わたしの教示は、多くの部分あるものとなり、弟子たちにおいて転起します」と。
「貴君ゴータマよ、わたしに、喩えが明白となります(喩えが思い浮かびます)」と。「アッギヴェッサナよ、あなたに、〔喩えが〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。
「貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、すなわち、何であれ、これらの種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの種子類や草木類が、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するように──貴君ゴータマよ、また、あるいは、それは、たとえば、また、すなわち、何であれ、これらの力によって為されるべき生業が為されるなら、それらの全てが、地に依拠して、地において確立して、このように、これらの力によって為されるべき生業が為されるように──貴君ゴータマよ、まさしく、このように、まさに、形態を自己とする、この人士たる人は、形態において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、感受〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、感受〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、表象〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、表象〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、諸々の形成〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、諸々の形成〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出し、識知〔作用〕を自己とする、この人士たる人は、識知〔作用〕において確立して、あるいは、功徳を、あるいは、功徳ならざるものを、生み出します」と。
「アッギヴェッサナよ、まさに、あなたは、このように説くのではないですか。『形態は、わたしの自己である。感受〔作用〕は、わたしの自己である。表象〔作用〕は、わたしの自己である。諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である。識知〔作用〕は、わたしの自己である』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である。感受〔作用〕は、わたしの自己である。表象〔作用〕は、わたしの自己である。諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である。識知〔作用〕は、わたしの自己である』と。そして、この大いなる人民も」と。
「アッギヴェッサナよ、まさに、大いなる人民が、あなたに、何を為すというのでしょう。アッギヴェッサナよ、さあ、あなたは、まさしく、自らのものとして、論を表明しなさい」と。「貴君ゴータマよ、まさに、わたしは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である。感受〔作用〕は、わたしの自己である。表象〔作用〕は、わたしの自己である。諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である。識知〔作用〕は、わたしの自己である』」と。
357. 「アッギヴェッサナよ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。即位灌頂した王たる士族にとって、自らの領土において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか──あるいは、殺害するべき者を殺害するべく、あるいは、収奪するべき者を収奪するべく、あるいは、追放するべき者を追放するべく。それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のように。また、あるいは、それは、たとえば、また、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王のように」と。「貴君ゴータマよ、即位灌頂した王たる士族にとって、自らの領土において、〔思うとおりに〕支配は転起するでしょう──あるいは、殺害するべき者を殺害するべく、あるいは、収奪するべき者を収奪するべく、あるいは、追放するべき者を追放するべく。それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のように。また、あるいは、それは、たとえば、また、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王のように。貴君ゴータマよ、まさに、これらの集団や衆徒にとってもまた、それは、すなわち、この、ヴァッジー〔族〕の者たちにとっても、マッラ〔族〕の者たちにとっても、自らの領土において、〔思うとおりに〕支配は転起します──あるいは、殺害するべき者を殺害するべく、あるいは、収奪するべき者を収奪するべく、あるいは、追放するべき者を追放するべく。また、即位灌頂した王たる士族にとって、何だというのでしょう。それは、たとえば、また、コーサラ〔国〕のパセーナディ王のように。また、あるいは、それは、たとえば、また、ヴェーデーヒーの子であるマガダ〔国〕のアジャータサットゥ王のように。貴君ゴータマよ、転起するでしょうし、かつまた、転起するに値します」と。
「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その形態において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの形態は成れ』『このように、わたしの形態は成ってはならない』」と。このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は、ニガンタの子息のサッチャカに、こう言いました。「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その形態において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの形態は成れ』『このように、わたしの形態は成ってはならない』」と。再度また、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、世尊は、ニガンタの子息のサッチャカに、こう言いました。「アッギヴェッサナよ、今や、説き明かしなさい。今や、あなたが沈黙の状態でいるための時にあらず。アッギヴェッサナよ、彼が誰であれ、如来によって、三度に至るまで、法(真理)を共にする問いを尋ねられ、説き明かさないなら、彼の頭は、まさしく、この場において、七様に裂けます」と。
また、まさに、その時点にあって、金剛を手にする夜叉が、燃え盛り、光り輝き、光を有するものと成った、鉄の金剛杵を携えて、ニガンタの子息のサッチャカの宙空高く止住した状態でいます。「それで、もし、このニガンタの子息のサッチャカが、世尊によって、三度に至るまで、法(真理)を共にする問いを尋ねられ、説き明かさないなら、彼の頭を、まさしく、この場において、七様に裂くのだ」と。また、まさに、その金剛を手にする夜叉を、まさしく、そして、世尊は見ます──さらに、ニガンタの子息のサッチャカも。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、恐怖し、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じ、まさしく、世尊を避難所として探し求める者となり、まさしく、世尊を救護所として探し求める者となり、まさしく、世尊を帰依所として探し求める者となり、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、わたしに尋ねてください。〔わたしは〕説き明かします」と。
358. 「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『形態は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その形態において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの形態は成れ』『このように、わたしの形態は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず(転起しません)」〔と〕。
「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『感受〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その感受〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの感受〔作用〕は成れ』『このように、わたしの感受〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『表象〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その表象〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの表象〔作用〕は成れ』『このように、わたしの表象〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『諸々の形成〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その諸々の形成〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの諸々の形成〔作用〕は成れ』『このように、わたしの諸々の形成〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたは、このように説きます。『識知〔作用〕は、わたしの自己である』と。あなたにとって、その識知〔作用〕において、〔思うとおりに〕支配は転起しますか。『このように、わたしの識知〔作用〕は成れ』『このように、わたしの識知〔作用〕は成ってはならない』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アッギヴェッサナよ、意を為しなさい。アッギヴェッサナよ、意を為して〔そののち〕、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「貴君ゴータマよ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「貴君ゴータマよ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。感受〔作用〕は……略……。表象〔作用〕は……略……。諸々の形成〔作用〕は……略……。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「貴君ゴータマよ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「貴君ゴータマよ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その者が、苦しみに執着し、苦しみに近しく赴き、苦しみに固執し、苦しみを、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するなら、さて、いったい、まさに、彼は、あるいは、正しく苦しみを遍知するでしょうか、あるいは、苦しみを完全に滅尽させて〔世に〕住むでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、どうして、存するというのでしょう。貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」と。
「アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。このように存しているとき、まさに、あなたは、苦しみに執着し、苦しみに近しく赴き、苦しみに固執し、苦しみを、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観しているのではないですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、どうして、存さないというのでしょう。貴君ゴータマよ、このように、このことはあります」と。
359. 「アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、鋭い斧を携えて、林に入り行くとします。彼は、そこにおいて、真っすぐで新しく、極めて高く生えた、大いなる芭蕉の幹を見ます。〔まさに〕その、この〔芭蕉〕を、根において断ち切ります。根において断ち切って、先端において断ち切ります。先端において断ち切って、樹皮を剥がします。彼は、そこにおいて、樹皮を剥がしながら、軟材にさえも遭遇しません。どうして、硬材に〔遭遇するというのでしょう〕。アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、あなたは、わたしによって、自らの論について、尋問され、審問され、査問されながら、空虚となり、虚妄となり、違反者となったのです。アッギヴェッサナよ、また、まさに、あなたによって、ヴェーサーリーの衆において、この言葉が語られました。『わたしは、彼を見ない──僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠にして、また、阿羅漢にして正等覚者と明言している、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、すなわち、わたしと、論と論を交わし、等しく動転せず、等しく激動せず、等しく動揺せず、彼の〔両の〕腋から、汗を放たない、〔そのような者を〕。もし、また、わたしが、思欲なき柱と、論と論を交わすとして、その〔柱〕もまた、わたしと、論と論を交わし、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺するであろう。また、人間たる生類のばあいは、何の論があるというのだろう』と。アッギヴェッサナよ、また、まさに、あなたの額から、幾個もの汗の滴が放たれ、上衣を通り抜けて地面に溜まっています。アッギヴェッサナよ、また、まさに、今現在、わたしの身体において、汗は存在しません」と。かくのごとく、世尊は、その衆にたいし、黄金の色艶ある身体を開示しました。このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。
360. そこで、まさに、リッチャヴィ〔族〕の子息のドゥンムカは、ニガンタの子息のサッチャカが、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、世尊に、こう言いました。「世尊よ、わたしに、喩えが明白となります(喩えが思い浮かびます)」と。「ドゥンムカよ、あなたに、〔喩えが〕明白となれ(それを語りなさい)」と、世尊は言いました。「尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、村の、あるいは、町の、遠く離れていないところに、蓮池があり、そこに、蟹が存するとします。尊き方よ、そこで、まさに、大勢の、あるいは、童子たちが、あるいは、童女たちが、その、あるいは、村から、あるいは、町から、出て、その蓮池のあるところに、そこへと近づいて行くとします。近づいて行って、その蓮池に入って行って、その蟹を、水から引き上げて、陸に据え置くとします。尊き方よ、まさに、その蟹が、まさしく、その〔はさみ〕、そのはさみを、向けるなら、それらの、あるいは、童子たちは、あるいは、童女たちは、まさしく、その〔はさみ〕、その〔はさみ〕を、あるいは、木片で、あるいは、小石で、等しく切断し、等しく破壊し、等しく打ち砕くでしょう。尊き方よ、まさに、このように、全てのはさみが、等しく切断され、等しく破壊され、等しく打ち砕かれたことで、その蟹は、その蓮池に、それは、たとえば、また、過去におけるように、ふたたび入り行くことができません。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、ニガンタの子息のサッチャカにある、諸々の粉飾や術策や紛糾は、それらもまた、全てが、世尊によって、等しく切断され、等しく破壊され、等しく打ち砕かれたのです。尊き方よ、そして、今や、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊のもとに、ふたたび近づいて行くことができません──すなわち、この、論を志向する者として」と。このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、リッチャヴィ〔族〕の子息のドゥンムカに、こう言いました。「ドゥンムカよ、あなたは、お待ちなさい。ドゥンムカよ、あなたは、お待ちなさい。わたしたちは、あなたを相手に話し合っていません。ここに、わたしたちは、貴君ゴータマを相手に話し合っています。
361. 貴君ゴータマよ、まさしく、そして、わたしたちの、さらに、他の者たちの、多々なる沙門や婆羅門たちのこの言葉は、ほうっておいてください。思うに、駄弁を弄したのです。では、いったい、まさに、どのようなことから、貴君ゴータマの弟子は、教えを為す者と成り、教諭に即応する者と〔成り〕、疑惑を超え渡った者として、懐疑を離れ去った者として、離怖に至り得た者として、教師の教えにおいて他を縁としない者として、〔世に〕住むのですか」と。「アッギヴェッサナよ、ここに、わたしの弟子が、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見ます。アッギヴェッサナよ、このことから、わたしの弟子は、教えを為す者と成り、教諭に即応する者と〔成り〕、疑惑を超え渡った者として、懐疑を離れ去った者として、離怖に至り得た者として、教師の教えにおいて他を縁としない者として、〔世に〕住みます」と。
「貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、比丘は、阿羅漢と成り、煩悩の滅尽者と〔成り〕、〔梵行の〕完成者と〔成り〕、為すべきことを為した者と〔成り〕、〔生の〕重荷を置いた者と〔成り〕、自らの義(目的)に至り得た者と〔成り〕、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者と〔成り〕、正しい了知による解脱者と〔成るのですか〕」と。「アッギヴェッサナよ、ここに、比丘が、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら……略……。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗雑なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕を、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧によって見て、〔何も〕執取せずして解脱した者と成ります。アッギヴェッサナよ、このことから、比丘は、阿羅漢と成り、煩悩の滅尽者と〔成り〕、〔梵行の〕完成者と〔成り〕、為すべきことを為した者と〔成り〕、〔生の〕重荷を置いた者と〔成り〕、自らの義(目的)に至り得た者と〔成り〕、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者と〔成り〕、正しい了知による解脱者と〔成ります〕。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、心が解脱した比丘は、三つの無上なるものを具備した者と成ります──無上なる見を、無上なる〔実践の〕道を、無上なる解脱を。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、心が解脱した比丘は、まさしく、如来を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。『彼は、世尊は、覚者であり、覚り(菩提)のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、調御された者であり、調御のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、寂静者であり、〔心の〕止寂のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、超渡者であり、超渡のために、法(教え)を説示する。彼は、世尊は、完全なる涅槃に到達した者であり、完全なる涅槃のために、法(教え)を説示する』」と。
362. このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、まさしく、わたしたちは、厚顔なる者たちです。わたしたちは、尊大なる者たちです。すなわち、わたしたちは、貴君ゴータマを、論によって論を襲うべきと思い考えたのです。貴君ゴータマよ、まさに、狂った象を襲って、人に安穏の状態が存するとして、まさしく、しかし、貴君ゴータマを襲って、人に安穏の状態が存することはありません。貴君ゴータマよ、まさに、燃え盛る火の塊を襲って、人に安穏の状態が存するとして、まさしく、しかし、貴君ゴータマを襲って、人に安穏の状態が存することはありません。貴君ゴータマよ、まさに、恐るべき毒ある毒蛇を襲って、人に安穏の状態が存するとして、まさしく、しかし、貴君ゴータマを襲って、人に安穏の状態が存することはありません。貴君ゴータマよ、まさしく、わたしたちは、厚顔なる者たちです。わたしたちは、尊大なる者たちです。すなわち、わたしたちは、貴君ゴータマを、論によって論を襲うべきと思い考えたのです。貴君ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしの食事〔の布施〕をお受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって承諾しました。
363. そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊の承諾を見出して、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちに告げました。「諸君よ、リッチャヴィ〔族〕の者たちよ、わたしの〔言葉を〕聞きたまえ。沙門ゴータマは、比丘の僧団と共に、明日、わたしによって招かれた。それで、すなわち、それに適切と思い考えるなら、わたしのもとに運び込むがよい」と。そこで、まさに、それらのリッチャヴィ〔族〕の者たちは、その夜が明けると、ニガンタの子息のサッチャカのもとに、五百ばかりの〔献上用の〕盛り物を、提供する食事として運び込みました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは(※)、自らの林園において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、世尊に、〔使いを送って〕時を告げさせました。「貴君ゴータマよ、時間です。食事ができました」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ニガンタの子息のサッチャカの林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、比丘の僧団と共に、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、覚者を筆頭とする比丘の僧団を、上質の固形の食料や軟らかい食料で満足させ、自らの手で給仕しました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊が食事を終え、鉢から手を離すと、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、かつまた、布施における功徳は、かつまた、功徳の大地は、それは、施者たちにとって、安楽のために成れ」と。「アッギヴェッサナよ、施与されるべき者として、まさに、あなたのような、貪欲を離れず、憤怒を離れず、迷妄を離れていない者に由来して、それがあるなら、それは、施者たちのために成るでしょう。施与されるべき者として、まさに、わたしのような、貪欲を離れ、憤怒を離れ、迷妄を離れた者に由来して、それがあるなら、それは、あなたのために成るでしょう」と。
※ PTS版により saccako を補う。
小なるサッチャカの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
6(36). 大いなるサッチャカの経
364. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ヴェーサーリーに住んでおられます。マハー林の楼閣堂において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、早刻時に、きちんと着衣した状態でいます──鉢と衣料を取って、ヴェーサーリーに〔行乞の〕食のために入ることを欲し。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、マハー林の楼閣堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。尊者アーナンダは、まさに、ニガンタの子息のサッチャカが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者が、ニガンタの子息のサッチャカが、やってきます──談義と論争の者であり、賢き論ある者であり、多くの人々に善き者と等しく思認された者です。尊き方よ、彼は、まさに、覚者の栄誉ならざることを欲する者であり、法(教え)の栄誉ならざることを欲する者であり、僧団の栄誉ならざることを欲する者です。尊き方よ、どうか、世尊は、寸時のあいだ、お坐りください──慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。
365. 「貴君ゴータマよ、或る沙門や婆羅門たちが存在し、身体の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます──心の修行ではなく。貴君ゴータマよ、なぜなら、彼らは、肉体的な苦痛の感受に接触するからです。貴君ゴータマよ、過去の事として、肉体的な苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存していると、腿の麻痺もまた、まさに、有るでしょうし、心臓もまた、まさに、張り裂けるでしょうし、熱血もまた、口から吹き上がるでしょうし、狂気にもまた至り得るでしょうし、心の散乱に〔至り得るでしょう〕。貴君ゴータマよ、彼の、まさに、この心は、身体に付従するものと成り、身体を所以に転起します。それは、何を因とするのですか。心が修められていないからです。貴君ゴータマよ、いっぽう、或る沙門や婆羅門たちが存在し、心の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます──身体の修行ではなく。貴君ゴータマよ、なぜなら、彼らは、心の属性としての苦痛の感受に接触するからです。貴君ゴータマよ、過去の事として、心の属性としての苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存していると、腿の麻痺もまた、まさに、有るでしょうし、心臓もまた、まさに、張り裂けるでしょうし、熱血もまた、口から吹き上がるでしょうし、狂気にもまた至り得るでしょうし、心の散乱に〔至り得るでしょう〕。貴君ゴータマよ、彼の、まさに、この身体は、心に付従するものと成り、心を所以に転起します。それは、何を因とするのですか。身体が修められていないからです。貴君ゴータマよ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『たしかに、貴君ゴータマの弟子たちは、心の修行への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む──身体の修行ではなく』」と。
366. 「アッギヴェッサナ(サッチャカ)よ、また、あなたは、身体の修行を、どのようなものと聞きましたか」と。「貴君ゴータマよ、それは、すなわち、この、ナンダ・ヴァッチャであり、キサ・サンキッチャであり、マッカリ・ゴーサーラです。貴君ゴータマよ、まさに、これらの者たちは、無衣の者たちであり、放埒の習行ある者たちであり、〔食後に〕手を舐める者たちであり、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者たちであり、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者たちであり、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼らは、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼らは、あるいは、〔施者を〕一軒とする者たちと成り、〔施物を〕一口とする者たちと〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者とたち成り、〔施物を〕二口の者たちと〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者たちと成り、〔施物を〕七口の者たちと〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住みます」と。
「アッギヴェッサナよ、また、どうなのでしょう、彼らは、まさしく、それだけのもので、〔身を〕保ち行きますか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず。貴君ゴータマよ、或る時にあってはまた、諸々の盛大にして盛大なる固形の食料を咀嚼し、諸々の盛大にして盛大なる食料を食べ、諸々の盛大にして盛大なる美味を味わい、諸々の盛大にして盛大なる飲み物を飲みます。彼らは、この身体を、まさに、力をつけ、まさに、成長させ、まさに、肥大させます」と。
「アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、彼らは、最初に捨棄し、最後に蓄積するのであり、このように、この身体には、集積と滅減が有ります。アッギヴェッサナよ、また、あなたは、心の修行を、どのようなものと聞きましたか」と。まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊によって、心の修行について尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、解答できません。
367. そこで、まさに、世尊は、ニガンタの子息のサッチャカに、こう言いました。「アッギヴェッサナよ、すなわち、また、まさに、あなたが語った、この、最初の身体の修行ですが、それは、また、聖者の律における法(正義)にかなう身体の修行ではありません。アッギヴェッサナよ、身体の修行でさえも、まさに、あなたは了知しません。また、どうして、心の修行を、あなたが知るというのでしょう。アッギヴェッサナよ、ですが、ともあれ、すなわち、そして、身体が修められていない者と成り、さらに、心が修められていない者と〔成る、そのとおりに〕──そして、身体が修められている者と成り、さらに、心が修められている者と〔成る、そのとおりに〕──それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
368. 「アッギヴェッサナよ、では、どのように、そして、身体が修められていない者と成り、さらに、心が修められていない者と〔成るのですか〕。アッギヴェッサナよ、ここに、無聞の凡夫に、安楽の感受が生起します。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、そして、安楽の貪染者と成り、さらに、安楽の貪染者たることを惹起します。彼の、その安楽の感受は止滅します。安楽の感受の止滅あることから、苦痛の感受が生起します。彼は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。アッギヴェッサナよ、彼の、まさに、この、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住し、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住します。アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、このように、両側から、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住し、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていないことから、心を完全に奪い去って止住します。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、そして、身体が修められていない者と成り、さらに、心が修められていない者と〔成ります〕。
369. アッギヴェッサナよ、では、どのように、そして、身体が修められている者と成り、さらに、心が修められている者と〔成るのですか〕。アッギヴェッサナよ、ここに、有聞の聖なる弟子に、安楽の感受が生起します。彼は、安楽の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、かつまた、安楽の貪染者と成らず、かつまた、安楽の貪染者たることを惹起しません。彼の、その安楽の感受は止滅します。安楽の感受の止滅あることから、苦痛の感受が生起します。彼は、苦痛の感受によって接触され、〔そのように〕存しつつ、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打って泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しません。アッギヴェッサナよ、彼の、まさに、この、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていることから、心を完全に奪い去って止住せず、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていることから、心を完全に奪い去って止住しません。アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、このように、両側から、生起した安楽の感受もまた、身体が修められていることから、心を完全に奪い去って止住せず、生起した苦痛の感受もまた、心が修められていることから、心を完全に奪い去って止住しません。アッギヴェッサナよ、このように、まさに、そして、身体が修められている者と成り、さらに、心が修められている者と〔成ります〕」と。
370. 「このように、貴君ゴータマに浄信した、わたしです。まさに、貴君ゴータマは、そして、身体が修められている者として、さらに、心が修められている者として、〔世に〕有ります」と。「アッギヴェッサナよ、まさに、たしかに、あなたによって、この、攻撃的で批判的な言葉が語られました。ですが、ともあれ、あなたに、わたしは説き明かしましょう。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、わたしが、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのち、それで、まさに、わたしに、あるいは、生起した安楽の感受が、心を完全に奪い去って止住することになり、あるいは、生起した苦痛の感受が、心を完全に奪い去って止住することになる、という、この状況は見出されません」と。
「まさに、まちがいなく、貴君ゴータマに、そのような形態の安楽の感受は生起しません──生起したなら、心を完全に奪い去って止住するであろう、そのような形態の安楽の感受は。まさに、まちがいなく、貴君ゴータマに、そのような形態の苦痛の感受は生起しません──生起したなら、心を完全に奪い去って止住するであろう、そのような形態の苦痛の感受は」と。
371. 「アッギヴェッサナよ、まさに、どうして、存するというのでしょう。アッギヴェッサナよ、ここに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしに、この〔思い〕が有りました。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、他時にあって、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家しました。その〔わたし〕は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのではない。たしかに、アーラーラ・カーラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住むのだ』と。
アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、いったい、どのようなことから、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせるのですか』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、アーラーラ・カーラーマは、虚空無辺なる〔認識の〕場所を説き知らせました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、アーラーラ・カーラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、アーラーラ・カーラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。
アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、アーラーラ・カーラーマのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アーラーラ・カーラーマに、こう言いました。『友よ、カーラーマよ、さてまた、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせるのですか』と。『友よ、このことから、まさに、わたしは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、わたしが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせる、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせます。かくのごとく、わたしが知る、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、わたしは、その法(教え)を知ります。かくのごとく、そのような者として、わたしがあるなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、わたしはあります。友よ、さあ、今や、まさしく、両者ともに存しつつ、この衆徒を維持しましょう』と。アッギヴェッサナよ、かくのごとく、まさに、アーラーラ・カーラーマは、わたしの師匠として存しながら、自己の内弟子として存しているわたしを、自己と等しく同等〔の地位〕に据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、虚空無辺なる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
372. アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、ウダカ・ラーマプッタ(ラーマの子)のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、わたしに、こう言いました。『尊者よ、住みたまえ。そこにおいては、識者たる人が、まさしく、長からずして、師匠のものを、自らのものとして、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことになる、そのようなものとして、この法(教え)はあります』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を遍く学得しました。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、唇を打つほどのことで、虚論を談じるほどのことで、まさしく、それだけで、かつまた、知恵の論を説き、かつまた、長老の論を〔説きます〕。そして、『〔わたしは〕知る』『〔わたしは〕見る』と明言します──まさしく、そして、わたしは、さらに、他の者たちも。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、単に、信のみによって、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのではない。たしかに、〔ウダカ・ラーマプッタの父である〕ラーマは、この法(教え)を、〔あるがままに〕知っている者として、〔あるがままに〕見ている者として、〔世に〕住んだのだ』と。アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、いったい、どのようなことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせたのですか』と。アッギヴェッサナよ、このように説かれたとき、ウダカ・ラーマプッタは、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を説き知らせました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、ラーマだけに、信が存在するのではない。わたしにもまた、信が存在する。まさに、ラーマだけに、精進が存在するのではない。わたしにもまた、精進が存在する。まさに、ラーマだけに、気づきが存在するのではない。わたしにもまた、気づきが存在する。まさに、ラーマだけに、禅定が存在するのではない。わたしにもまた、禅定が存在する。まさに、ラーマだけに、智慧が存在するのではない。わたしにもまた、智慧が存在する。それなら、さあ、わたしは、ラーマが、「自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む」と説き知らせる、その法(教え)であるが、その法(教え)の実証のために精励するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、長からずして、まさしく、すみやかに、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。
アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、わたしは、ウダカ・ラーマプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウダカ・ラーマプッタに、こう言いました。『友よ、さてまた、このことから、〔あなたの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせたのですか』と。『友よ、このことから、まさに、〔わたしの父である〕ラーマは、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました』と。『友よ、わたしもまた、まさに、このことから、この法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます』と。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます。かくのごとく、ラーマが、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせた、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。あなたが、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住む、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を、自ら、証知して、実証して、成就して、説き知らせました。かくのごとく、ラーマが証知した、その法(教え)ですが、あなたは、その法(教え)を知ります。あなたが知る、その法(教え)ですが、ラーマは、その法(教え)を証知しました。かくのごとく、そのような者として、ラーマが〔世に〕有ったなら、そのような者として、あなたはあります。そのような者として、あなたがあるなら、そのような者として、ラーマは〔世に〕有りました。友よ、さあ、今や、あなたは、この衆徒を維持したまえ』と。アッギヴェッサナよ、かくのごとく、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、わたしと梵行を共にする者として存しながら、わたしを、師匠の地位に(※)据え置きました。そして、わたしを、秀逸なる供養によって供養しました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『この法(教え)は、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所への再生のために、まさしく、そのかぎりにおいて、等しく転起する』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、その法(教え)を十分と為さずして、その法(教え)から厭離して立ち去りました。
※ テキストには ācariyaṭṭhāne ca maṃ とあるが、「罠の集まりの経」等の平行箇所により ca を削除する(PTS版は、この箇所を省略)。
373. アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、何が善であるかを探し求める者となり、優れた寂静の境処という無上なるものを遍く探し求めながら、マガダ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、ウルヴェーラーのセーナー町のあるところに、そこへと至り着きました。そこにおいて、喜ばしき土地の区画を、そして、澄浄なる密林を、さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川を、かつまた、遍きにわたり、托鉢する村を、見ました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、喜ばしき土地の区画である。そして、澄浄なる密林である。さらに、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしく、〔滔々と〕流れ行く川である。かつまた、遍きにわたり、托鉢する村がある。まさに、これは、精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励するに十分なるものがある』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、そこにおいて、〔瞑想のために〕坐りました。『これは、精励するに十分なるものがある』と。
374. アッギヴェッサナよ、さてまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔三つの喩え〕が。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水のなかに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水のなかに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、樹液を有し水気のある薪であり、また、そして、それは、水のなかに置かれているからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲せず、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第一の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第一の喩え〕が。
375. アッギヴェッサナよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第二の喩え〕が。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、たとえ、何であれ、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとして、樹液を有し水気のある薪であるからです。また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、その人は、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう」と。「アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住むも、しかしながら、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成らず、善く安息されたものと〔成ら〕ないなら、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能なき者たちです。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第二の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第二の喩え〕が。
376. アッギヴェッサナよ、他にもまた、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔第三の喩え〕が。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪が、水から遠く離れて陸のうえに置かれているとします。そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。アッギヴェッサナよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この、水から遠く離れて陸のうえに置かれた、干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「貴君ゴータマよ、そのとおりです」〔と〕。「それは、何を因とするのですか」〔と〕。「貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、干涸び乾燥した薪であり、また、そして、それは、水から遠く離れて陸のうえに置かれているからです」と。「アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに──まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが──まさしく、そして、身体によって、さらに、心によって、諸々の欲望〔の対象〕から隠棲し、〔世に〕住み、さらに、すなわち、彼らに、諸々の欲望〔の対象〕において、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、そして、それが、内に、善く捨棄されたものと成り、善く安息されたものと〔成るなら〕、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちであり、もし、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受しないとして、彼らは、〔あるがままの〕知見の、無上なる正覚の、まさしく、可能ある者たちです。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、この第三の喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔この第三の喩え〕が。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしに、稀有ならざるものとして、これらの三つの喩えが明白となりました──過去において、過去に聞かれたことなき〔これらの三つの喩え〕が。
377. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅します。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、力ある人が、より力の弱い人を、あるいは、頭を掴んで、あるいは、肩を掴んで、制御し、圧迫し、撃滅するように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしが、歯のうえに歯を置いて、舌で上顎に触れて、心によって、心を、制御し、圧迫し、撃滅していると、〔両の〕腋から、諸々の汗が放たれます。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
378. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風(体調不良を引き起こす体内の風)の音声は、旺盛なるものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、鍛冶屋の鞴(ふいご)が鳴っていると、音声が旺盛なるものと成るように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、さらに、鼻から、出息と入息が止められたとき、〔両の〕耳孔から出ている諸々の〔体内の〕風の音声は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、鋭い剣先で頭を打ち砕くように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、頭を撹乱します。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、堅固な革紐で頭に頭巾を施すように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、頭における諸々の頭痛は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、鋭い牛刀で腹を切り裂くように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、諸々の旺盛なる〔体内の〕風が、腹を切り裂きます。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、まさしく、無息の瞑想を瞑想するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息を止めました。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、まさに、二者の力ある人が、より力弱き人を、別々に腕を掴んで、火坑のうえで等しく熱し遍く熱苦させるように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、わたしの、そして、口から、かつまた、鼻から、さらに、耳から、出息と入息が止められたとき、身体における燃焼は、旺盛なるものと成ります。アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成ります。気づきは現起され、忘却なきものと〔成ります〕。また、しかしながら、わたしの身体は、まさしく、その苦痛の精励によって安息されることはなく、懊悩を有するものと成ります──〔苦痛の〕精励によって制圧された者となり、〔そのように〕存しながら。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した苦痛の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。アッギヴェッサナよ、さてまた、まさに、天神たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのだ』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。しかしながら、また、〔すぐに〕命を終える』と。一部の天神たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、命を終えたのではない。〔すぐに〕命を終えるのでもまたない。阿羅漢として、沙門ゴータマはある。まさしく、阿羅漢の住ということで、その〔住〕は、このような形態のものと成る』と。
379. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、全てにわたり、食の断絶のために実践するのだ』と。アッギヴェッサナよ、そこで、まさに、天神たちが、近づいて行って、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、あなたは、全てにわたり、食の断絶のために実践してはいけません。敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、全てにわたり、食の断絶のために実践するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしたちは、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させましょう。それによって、あなたは、〔身を〕保ち行くでしょう』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、まさしく、そして、わたしが、全てにわたり、不食を明言し、かつまた、わたしのために、これらの天神たちが、天の滋養を、諸々の毛穴から摂取させ、さらに、それによって、わたしが、〔身を〕保ち行くなら、それは、わたしにとって、虚偽として存するであろう』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、それらの天神たちを峻拒し、『まさに、十分です』と説きます。
380. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、少しずつ、食を食するのだ──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、少しずつ、食を食しました──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしが、少しずつ、食を食していると──少量ずつ、もしくは、あるいは、緑豆の汁を、もしくは、あるいは、クラッタ〔豆〕の汁を、もしくは、あるいは、大豆の汁を、もしくは、あるいは、ハレーヌカ〔豆〕の汁を──身体は、諸々の極度の痩せ細りに至り得たものと成ります。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、諸々のアーシーティカ〔蔓〕の結節のように、あるいは、諸々のカーラ〔蔓〕の結節のように、まさしく、このように、まさに、わたしの手足と肢体は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、駱駝の足のように、まさしく、このように、まさに、わたしの尻は有ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、紡錘の連なりのように、まさしく、このように、まさに、わたしの脊椎は凹凸と成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、老朽家屋の諸々の垂木が破損し倒壊したものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの諸々の肋骨は破損し倒壊したものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、深い井戸のなかの諸々の水のきらめきが深みに至り沈み込んでいるかに見えるように、まさしく、このように、まさに、わたしの〔両の〕眼球のなかの諸々の眼のきらめきは深みに至り沈み込んでいるかに見えます──まさしく、その、食少なきことによって。それは、たとえば、また、まさに、切られた生の苦瓜が熱風によって等しくひび割れ等しく干涸びたものと成るように、まさしく、このように、まさに、わたしの頭の皮は等しくひび割れ等しく干涸びたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。
アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、『腹の皮に触れるのだ』と、まさしく、脊椎を掴みます。『脊椎に触れるのだ』と、まさしく、腹の皮を掴みます。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、わたしの腹の皮が脊椎に付着するものと成るまでに──まさしく、その、食少なきことによって。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、『あるいは、便を、あるいは、尿を、為すのだ』と、まさしく、そこにおいて、〔身を〕投げ出し、倒れ落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、この身体を安堵させながら、手で五体を順次に擦ります。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしが、手で五体を順次に擦っていると、根が腐った諸々の毛が身体から落ちます──まさしく、その、食少なきことによって。アッギヴェッサナよ、さてまた、まさに、人間たちは、わたしを見て、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒い』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くない。沙門ゴータマは、褐色である』と。一部の人間たちは、このように言いました。『沙門ゴータマは、黒くなく、褐色でもまたない。沙門ゴータマは、黄土色の表皮をしている』と。アッギヴェッサナよ、すなわち、それほどまでに、まさに、わたしの、完全なる清浄にして完全なる清白の表皮の色艶は、打ち砕かれたものと成ります──まさしく、その、食少なきことによって。
381. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受したとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受することになるとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。まさに、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するとして、これこそは、最高のものであり、これよりも、より一層のものはない。また、まさに、わたしは、この辛辣な難行によって、人間の法(性質)を超える、十全にして聖なる知見という殊勝〔の境地〕に到達しない。いったい、まさに、他の、覚りのための道が存するのだろうか』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『また、まさに、わたしは証知する(記憶している)──釈迦〔族〕の父の行事があるとき、涼やかなジャンブ〔樹〕の影のもとに坐り、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住む者となる、〔そのときのことを〕。いったい、まさに、これは、覚りのための道として存するのだろうか』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、気づきに従い行く識知が有りました。『これこそは、覚りのための道である』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『いったい、まさに、どうなのだろう、わたしは、その安楽を恐れているのだろうか。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、その安楽を恐れていない。すなわち、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、その安楽があるとして』と。
382. アッギヴェッサナよ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、その安楽に到達することは、為し易きことにあらず──このように、諸々の極度の痩せ細りに至り得た身体によっては。それなら、さあ、わたしは、粗雑なる食を──飯や粥を──食するのだ』と。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、粗雑なる食を──飯や粥を──食しました。また、まさに、その時点にあって、五者の比丘たちが、わたしに奉仕する者たちとして〔世に〕有ります。『すなわち、まさに、沙門ゴータマが、法(真理)に到達するなら、それを、わたしたちに告げるであろう』と。アッギヴェッサナよ、すなわち、まさに、わたしが、粗雑なる食を──飯や粥を──食したことから、そこで、それらの五者の比丘たちは、わたしを厭離して、立ち去りました。『沙門ゴータマは、贅沢の者であり、精励から離脱した者であり、贅沢に逆戻りした者である』と。
383. アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、粗雑なる食を食して、力をつけて、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みました。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
384. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしには、夜の初夜(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
385. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしには、夜の中夜(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
386. その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。アッギヴェッサナよ、まさに、わたしには、夜の後夜(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなります。無明が打破され、明知が生起するところとなります。闇が打破され、光明が生起するところとなります。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。アッギヴェッサナよ、たとえ、このような形態のものであれ、生起した安楽の感受が、まさに、わたしの心を完全に奪い去って止住することはありません。
387. アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしは証知します──無数の衆において、法(教え)を説示する者としてある、〔そのときのことを〕。さてまた、まさに、わたしのことを、一者一者が、このように思い考えます。『まさしく、わたしを対象として、沙門ゴータマは、法(教え)を説示する』と。アッギヴェッサナよ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。識知させることを義(目的)とする、まさしく、そのかぎりにおいて、如来は、他者たちに、法(教え)を説示します。アッギヴェッサナよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、その講話の結末において──その〔禅定〕によって、まさに、〔わたしが〕常劫に住む──過去の、まさしく、その禅定の形相にたいし、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます」と。
「貴君ゴータマの、この〔言葉〕は、信用するべきものです。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。また、まさに、貴君ゴータマは証知しますか(記憶していますか)──昼に眠りについた者としてある、〔そのときのことを〕」と。「アッギヴェッサナよ、また、まさに、わたしは証知します──〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月において、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、四重に大衣を設けて、右脇をもって、気づきと正知の者として、眠りに入った者としてある、〔そのときのことを〕」と。「貴君ゴータマよ、これを、まさに、或る沙門や婆羅門たちは、迷妄の住のうちにあると説きます」と。「アッギヴェッサナよ、まさに、このことから、あるいは、等しく迷乱した者と成ることも、あるいは、等しく迷乱していない者と〔成ることも〕、ありません。アッギヴェッサナよ、ですが、ともあれ、すなわち、そして、等しく迷乱した者と成るとおりに、さらに、等しく迷乱していない者と〔成るとおりに〕、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
388. 「アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、〔いまだ〕捨棄されていないなら、わたしは、彼を、『等しく迷乱した者』と説きます。アッギヴェッサナよ、まさに、諸々の煩悩の捨棄なきことから、等しく迷乱した者と成ります。アッギヴェッサナよ、すなわち、誰にとってであれ、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、〔すでに〕捨棄されたなら、わたしは、彼を、『等しく迷乱していない者』と説きます。アッギヴェッサナよ、まさに、諸々の煩悩の捨棄あることから、等しく迷乱していない者と成ります。
アッギヴェッサナよ、まさに、如来にとって、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。アッギヴェッサナよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、アッギヴェッサナよ、まさしく、このように、まさに、如来にとって、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります」と。
389. このように説かれたとき、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、めったにないことです。貴君ゴータマよ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、このように、襲っては襲って説かれながらも、諸々の誘導された言葉の道によって〔言葉を〕浴びせられながらも、これほどまでに、貴君ゴータマの、まさしく、そして、肌の色艶が遍く清白となり、さらに、顔の色艶が澄浄になるとは。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。貴君ゴータマよ、わたしは証知します──プーラナ・カッサパと、論と論を交わした者としてある、〔そのときのことを〕。彼はまた、わたしと、論と論を交わしたなら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。いっぽう、このように、襲っては襲って説かれながらも、諸々の誘導された言葉の道によって〔言葉を〕浴びせられながらも、貴君ゴータマの、まさしく、そして、肌の色艶は遍く清白となり、さらに、顔の色艶は澄浄になります。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。貴君ゴータマよ、わたしは証知します──マッカリ・ゴーサーラと……略……アジタ・ケーサカンバラと……パクダ・カッチャーナと……サンジャヤ・ベーラッタプッタと……ニガンタ・ナータプッタと……略……プーラナ・カッサパと、論と論を交わした者としてある、〔そのときのことを〕。彼はまた、わたしと、論と論を交わしたなら、他から他へとはぐらかし、外に議論を移し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為します。いっぽう、このように、襲っては襲って説かれながらも、諸々の誘導された言葉の道によって〔言葉を〕浴びせられながらも、貴君ゴータマの、まさしく、そして、肌の色艶は遍く清白となり、さらに、顔の色艶は澄浄になります。すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来の、それのように。貴君ゴータマよ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「アッギヴェッサナよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。
そこで、まさに、ニガンタの子息のサッチャカは、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、立ち去った、ということです。
大いなるサッチャカの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(37). 小なる渇愛の消滅の経
390. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダ(インドラ神)たる帝釈〔天〕が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、渇愛の消滅において解脱した者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成るのですか〕」と。
「天〔の神々〕たちのインダよ、ここに、比丘に、『一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず』と、所聞が有ります。天〔の神々〕たちのインダよ、もし、比丘に、このように、『一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず』と、この所聞が有るなら、彼は、〔その〕法(事象)の全てを証知します。〔その〕法(事象)の全てを証知して、〔その〕法(事象)の全てを遍知します。〔その〕法(事象)の全てを遍知して、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住みながら、離貪の随観ある者として〔世に〕住みながら、止滅の随観ある者として〔世に〕住みながら、放棄の随観ある者として〔世に〕住みながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。天〔の神々〕たちのインダよ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、このことから、まさに、比丘は、渇愛の消滅において解脱した者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕」と。
そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、まさしく、その場において、消没しました。
391. また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナが、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どうなのだろう、その夜叉(帝釈天)は、世尊の語ったことを知悉して、随喜したのか、それとも、〔そうでは〕ないのか。それなら、さあ、わたしは、その夜叉のことを知るのだ。あるいは、すなわち、その夜叉が、世尊の語ったことを知悉して、随喜したのか、あるいは、すなわち、〔そうでは〕ないのか、〔という、このことを〕」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、東の林園のミガーラマータルの高楼において消没し、三十三天において出現しました。また、まさに、その時点にあって、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、エーカプンダリーカの庭園において、天の五百の楽器を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、尊者マハー・モッガッラーナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、それらの天の五百の楽器を退けて、尊者マハー・モッガッラーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・モッガッラーナに、こう言いました。「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、来たれ。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、善く来てくれました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、長きのはてに、まさに、〔あなたは〕この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、坐りたまえ──設けられた、この坐に」と。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、設けられた坐に坐りました。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、尊者マハー・モッガッラーナは、こう言いました。「コーシヤ(帝釈天)よ、また、まさに、すなわち、どのように、世尊は、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅における解脱を語ったのですか。どうか、わたしたちもまた、この講話の聴聞の分有者として存したいものです」と。
392. 「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、わたしたちは、まさに、多くの義務があり、多くの用事があります。まさしく、また、自らの用事とともに、さらに、また、まさしく、三十三天〔の神々〕たちのための用事とともに。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、しかしながら、また、まさしく、善く聞かれ、善く収め取られ、善く意が為され、善く保ち置かれたものとして、〔それは〕有ります──すなわち、まさしく、すみやかに消没することなく。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、過去の事ですが、天〔の神々〕たちと阿修羅たちが戦う合戦が有りました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、また、まさに、その戦いにおいて、天〔の神々〕たちは勝利し、阿修羅たちは敗北しました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、それで、まさに、わたしは、その戦場を征圧して、戦場の征圧者として、その〔戦場〕から戻ってきて、ヴェージャヤンタという名の高楼(最勝講堂)を造作しました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、ヴェージャヤンタの高楼には、一百の尖塔があります。一つ一つの尖塔において、それぞれに七百の楼閣があります。一つ一つの楼閣において、それぞれに七百の仙女がいます。一者一者の仙女には、それぞれに七百の侍女がいます。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、まさに、あなたは、ヴェージャヤンタの高楼の喜ばしきものを見ることをお求めですか」と。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、沈黙の状態をもって承諾しました。
393. そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、かつまた、ヴェッサヴァナ大王(毘沙門天)は、尊者マハー・モッガッラーナを前にして、ヴェージャヤンタの高楼のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の侍女たちは、尊者マハー・モッガッラーナが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、〔自らを〕咎めながら、〔内に〕恥じ入りながら、互いに自らの内室に入りました。それは、たとえば、また、まさに、嫁が、舅を見て、〔自らを〕咎めながら、〔内に〕恥じ入るように、まさしく、このように、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の侍女たちは、尊者マハー・モッガッラーナを見て、〔自らを〕咎めながら、〔内に〕恥じ入りながら、互いに自らの内室に入りました。そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、かつまた、ヴェッサヴァナ大王は、尊者マハー・モッガッラーナを、ヴェージャヤンタの高楼において、こちらを歩かせては、あちらを歩ませます。〔帝釈天が言う〕「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、ヴェージャヤンタの高楼の、この喜ばしきものをもまた見てください。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、ヴェージャヤンタの高楼の、この喜ばしきものをもまた見てください」と。〔ヴェッサヴァナ大王が言う〕「尊者コーシヤの、この〔高楼〕は、美しく輝きます。すなわち、過去に作り為した功徳ある者の、それのように。人間たちもまた、何らかの或る喜ばしきものを見て、このように言います。『ああ、まさに、美しく輝く──すなわち、三十三天〔の神々〕たちの、〔それのように〕』と。尊者コーシヤの、この〔高楼〕は、それは、美しく輝きます。すなわち、過去に作り為した功徳ある者の、それのように」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「極めて甚だしく、まさに、この夜叉は、放逸となり、〔世に〕住む。それなら、さあ、わたしは、この夜叉を畏怖させるのだ」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、すなわち、ヴェージャヤンタの高楼を、足の親指で、等しく動転させ、等しく激動させ、等しく動揺させた、そのような形態の神通の行作を行作しました。そこで、まさに、かつまた、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、かつまた、ヴェッサヴァナ大王は、かつまた、三十三天〔の神々〕たちは、稀有にして未曾有の心が生じた者たちと成りました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。沙門の、大いなる神通たることは、大いなる威力たることは。なぜなら、そこで、まさに、天の居所を、足の親指で、等しく動転させ、等しく激動させ、等しく動揺させるからだ」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、畏怖する者となり、身の毛のよだちを生じたのを見出して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。「コーシヤよ、また、まさに、すなわち、どのように、世尊は、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅における解脱を語ったのですか。どうか、わたしたちもまた、この講話の聴聞の分有者として存したいものです」と。
394. 「敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、ここに、わたしは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、一方に立った、まさに、わたしは、世尊に、こう言いました。『尊き方よ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、渇愛の消滅において解脱した者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成るのですか〕』と。
敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このように説かれたとき、世尊は、わたしに、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、ここに、比丘に、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、所聞が有ります。天〔の神々〕たちのインダよ、もし、比丘に、このように、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、この所聞が有るなら、彼は、〔その〕法(事象)の全てを証知します。〔その〕法(事象)の全てを証知して、〔その〕法(事象)の全てを遍知します。〔その〕法(事象)の全てを遍知して、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住みながら、離貪の随観ある者として〔世に〕住みながら、止滅の随観ある者として〔世に〕住みながら、放棄の随観ある者として〔世に〕住みながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します。天〔の神々〕たちのインダよ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、このことから、まさに、比丘は、渇愛の消滅において解脱した者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕』と。敬愛なる方よ、モッガッラーナよ、このように、まさに、わたしに、世尊は、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅における解脱を語りました」と。
そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の語ったことを大いに喜んで、随喜して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、三十三天において消没し、東の林園のミガーラマータルの高楼において出現しました。そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の侍女たちは、尊者マハー・モッガッラーナが立ち去ったすぐあと、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。「敬愛なる方よ、いったい、あの方は、あなたの教師である、〔まさに〕その、世尊なのですか」と。「敬愛なる者よ、まさに、わたしの教師である、〔まさに〕その、世尊にあらず。あの者は、わたしと梵行を共にする者である、尊者マハー・モッガッラーナである」と。「敬愛なる方よ、あなたには、諸々の利得があります。尊き方よ、あなたには、善く得られたものがあります。すなわち、あなたと梵行を共にする方は、大いなる神通ある者であり、大いなる威力ある者です。ああ、まちがいなく、あなたの教師は、彼は、世尊です」と。
395. そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は証知しますか──〔世に〕知られたうえにも知られた大いなる権能ある夜叉に、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅における解脱を語る者として〔世に〕有った、〔そのときのことを〕」と。「モッガッラーナよ、わたしは証知します──ここに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕が、わたしのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、わたしを敬拝して、一方に立ちました。モッガッラーナよ、一方に立った、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、わたしに、こう言いました。『尊き方よ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、いったい、まさに、どのようなことから、比丘は、渇愛の消滅において解脱した者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成るのですか〕』と。
モッガッラーナよ、このように説かれたとき、わたしは、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、こう言いました。『天〔の神々〕たちのインダよ、ここに、比丘に、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、所聞が有ります。天〔の神々〕たちのインダよ、もし、比丘に、このように、「一切の諸法(事象)は、固着あるに十分ならず」と、この所聞が有るなら、彼は、〔その〕法(事象)の全てを証知します。〔その〕法(事象)の全てを証知して、〔その〕法(事象)の全てを遍知します。〔その〕法(事象)の全てを遍知して、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住み、離貪の随観ある者として〔世に〕住み、止滅の随観ある者として〔世に〕住み、放棄の随観ある者として〔世に〕住みます。彼は、三つの感受において、無常の随観ある者として〔世に〕住みながら、離貪の随観ある者として〔世に〕住みながら、止滅の随観ある者として〔世に〕住みながら、放棄の随観ある者として〔世に〕住みながら、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。〔何も〕執取せずにいる者は、〔何も〕思い悩みません。〔何も〕思い悩まずにいる者は、各自それぞれに、完全なる涅槃に到達します。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します。天〔の神々〕たちのインダよ、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、このことから、まさに、比丘は、渇愛の消滅において解脱した者と成り、究極の結論ある者と〔成り〕、究極の束縛からの平安ある者と〔成り〕、究極の梵行ある者と〔成り〕、究極の結末ある者と〔成り〕、天〔の神々〕と人間たちのなかの最勝の者と〔成ります〕』と。モッガッラーナよ、このように、まさに、わたしは証知します──天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕に、簡略〔の観点〕によって、渇愛の消滅における解脱を語る者としてある、〔そのときのことを〕」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・モッガッラーナは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
小なる渇愛の消滅の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(38). 大いなる渇愛の消滅の経
396. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕(識)は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。まさに、大勢の比丘たちは、「どうやら、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』」と耳にしました。そこで、まさに、それらの比丘たちは、漁師の息子のサーティ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。「友よ、サーティよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』」と。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。そこで、まさに、それらの比丘たちはまた、この、悪しきものである悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問します。「友よ、サーティよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、サーティよ、無数の教相によって、識知(作用)は、縁によって生起したもの(縁已生)と説かれました──世尊によって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません」と。このようにもまた、まさに、それらの比丘たちによって、尋問され、審問され、査問されながら、漁師の息子のサーティ比丘は、まさしく、その、悪しきものである悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。「友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。
397. すなわち、まさに、それらの比丘たちは、この、悪しきものである悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、まさに、それらの比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのです。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』と。尊き方よ、まさに、わたしたちは、『どうやら、漁師の息子のサーティという名の比丘に、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したらしい。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」』と耳にしました。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、漁師の息子のサーティ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。『友よ、サーティよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。「そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」』と。尊き方よ、このように説かれたとき、漁師の息子のサーティ比丘は、わたしたちに、こう言いました。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』と。尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、この、悪しきものである悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることを欲し、尋問し、審問し、査問しました。『友よ、サーティよ、まさに、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、サーティよ、無数の教相によって、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれました──世尊によって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません』と。尊き方よ、このようにもまた、まさに、わたしたちによって、尋問され、審問され、査問されながら、漁師の息子のサーティ比丘は、まさしく、その、悪しきものである悪しき見解に、強き偏執あることから、固着して語用します。『友よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』と。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちは、この、悪しきものである悪しき見解から、漁師の息子のサーティ比丘を遠離させることができなかったことから、そこで、わたしたちは、この義(事態)を、世尊に告げます」と。
398. そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、漁師の息子のサーティ比丘に告げなさい。『友よ、サーティよ、教師が、あなたを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、漁師の息子のサーティ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。「友よ、サーティよ、教師が、あなたを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、漁師の息子のサーティ比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、漁師の息子のサーティ比丘に、世尊は、こう言いました。「サーティよ、本当に、まさに、あなたに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起したのですか。『そのように、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知する。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく』」と。「尊き方よ、このように、かくなるものとして、まさに、わたしは、世尊によって説示された法(教え)を了知します。すなわち、まさしく、そのとおりのものとして、この識知〔作用〕は、流転し、輪廻する──他のものとなることなく」と。「サーティよ、どのようなものが、その識知〔作用〕なのですか」と。「尊き方よ、すなわち、この、説くものであり、感受するべきものであり、〔それは〕そこかしこに、諸々の善悪の行為の報い(業報)を得知します」と。「愚人よ、いったい、まさに、誰のものとして、まさに、あなたは、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知するのですか。愚人よ、まさに、わたしによって、無数の教相によって、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれたのではないですか。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません。愚人よ、そこで、また、しかしながら、あなたは、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。愚人よ、まさに、それは、あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう」と。
399. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、この者は、漁師の息子のサーティ比丘は、この法(教え)と律において、熱を為した者としてもまたありますか」よ。「尊き方よ、まさに、どうして、存するというのでしょう。尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」と。このように説かれたとき、漁師の息子のサーティ比丘は、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なく、〔そこに〕坐りました。そこで、まさに、世尊は、漁師の息子のサーティ比丘が、沈黙の状態で、愕然の状態で、肩を落とし、顔を下に、沈思しながら、応答なくあるのを見出して、漁師の息子のサーティ比丘に、こう言いました。「愚人よ、まさに、あなたは、この、自らの悪しきものである悪しき見解によって、〔そのとおりに〕覚知されるでしょう。ここに、わたしは、比丘たちに質問しましょう」と。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、あなたたちもまた、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知しますか。すなわち、この者が、漁師の息子のサーティ比丘が、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出すように」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、まさに、無数の教相によって、わたしたちに、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれました──世尊によって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません」と。「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、善きかな、あなたたちは、まさに、わたしによって説示された法(教え)を、このように了知します。比丘たちよ、まさに、無数の教相によって、あなたたちに、識知(作用)は、縁によって生起したものと説かれました──わたしによって。縁より他に、識知(作用)の発生は存在しません。そこで、また、しかしながら、この者は、漁師の息子のサーティ比丘は、自己みずから悪しく把握したものによって、まさしく、そして、わたしたちを誹謗し、かつまた、自己を掘り崩し、さらに、多くの功徳ならざるものを生み出します。まさに、それは、彼にとって、愚人にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう。
400. 比丘たちよ、まさしく、その〔縁〕その縁を縁として、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、その〔縁〕その〔縁〕によって、まさしく、『識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『眼の識知〔作用〕(眼識)』という名称に至ります。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『耳の識知〔作用〕(耳識)』という名称に至ります。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『鼻の識知〔作用〕(鼻識)』という名称に至ります。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『舌の識知〔作用〕(舌識)』という名称に至ります。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『身の識知〔作用〕(身識)』という名称に至ります。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『意の識知〔作用〕(意識)』という名称に至ります。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、まさしく、その〔縁〕その縁を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、その〔縁〕その〔縁〕によって、名称に至るようなものです。かつまた、薪を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『薪の火』という名称に至ります。かつまた、木片を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『木片の火』という名称に至ります。かつまた、草を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『草の火』という名称に至ります。かつまた、牛糞を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『牛糞の火』という名称に至ります。かつまた、籾殻を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『籾殻の火』という名称に至ります。かつまた、塵芥を縁として、火が燃え上がるなら、まさしく、『塵芥の火』という名称に至ります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに──まさしく、その〔縁〕その縁を縁として、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、その〔縁〕その〔縁〕によって、まさしく、『識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、眼を縁として、かつまた、諸々の形態を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『眼の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、耳を縁として、かつまた、諸々の音声を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『耳の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、鼻を縁として、かつまた、諸々の臭気を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『鼻の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、舌を縁として、かつまた、諸々の味感を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『舌の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、身を縁として、かつまた、諸々の感触を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『身の識知〔作用〕』という名称に至ります。かつまた、意を縁として、かつまた、諸々の法(意の対象)を〔縁として〕、識知〔作用〕が生起するなら、まさしく、『意の識知〔作用〕』という名称に至ります。
401. 比丘たちよ、『これは、成ったものである』と見ますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。
「比丘たちよ、『それは、食(動力源・エネルギー)によって発生あるものである』と見ますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と見ますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『これは、成ったものであるのか、まさに、ではないのか』と疑っている者に、疑惑〔の思い〕は生起しますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものであるのか、まさに、ではないのか』と疑っている者に、疑惑〔の思い〕は生起しますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものであるのか、まさに、ではないのか』と疑っている者に、疑惑〔の思い〕は生起しますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者に、すなわち、疑惑〔の思い〕は、それは捨棄されますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者に(※)、すなわち、疑惑〔の思い〕は、それは捨棄されますか」と。
※ テキストには passatāe とあるが、PTS版により passato と読む。以下の平行箇所も同様。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって見ている者に、すなわち、疑惑〔の思い〕は、それは捨棄されますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『これは、成ったものである』と、かくのごとくもまた、ここにおいて、あなたたちには、疑惑〔の思い〕なくありますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものである』と、かくのごとくもまた、ここにおいて、あなたたちには、疑惑〔の思い〕なくありますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と、かくのごとくもまた、ここにおいて、あなたたちには、疑惑〔の思い〕なくありますか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『これは、成ったものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られましたか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『それは、食によって発生あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られましたか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、『その食の止滅あることから、それが、成ったものであるなら、それは、止滅の法(性質)あるものである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られましたか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、もし、あなたたちが、このように完全なる清浄のものであり、このように完全なる清白のものである、この見解に、執着し、愛玩し、懇望し、わがものと〔錯視〕するなら、比丘たちよ、さて、いったい、あなたたちは、わたしによって説示された筏の喩えの法(教え)を、超脱を義(目的)として了知しているでしょうか──掴み取ることを義(目的)として、ではなく」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、もし、あなたたちが、このように完全なる清浄のものであり、このように完全なる清白のものである、この見解に、執着せず、愛玩せず、懇望せず、わがものと〔錯視〕しないなら、比丘たちよ、さて、いったい、あなたたちは、わたしによって説示された筏の喩えの法(教え)を、超脱を義(目的)として了知しているでしょうか──掴み取ることを義(目的)として、ではなく」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
402. 「比丘たちよ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食(動力源・エネルギー)です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗雑なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食:口にする食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食:知覚としての食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食:意志としての食)であり、第四に、識知〔作用としての食〕(識食:認識としての食)です。
比丘たちよ、では、これらの四つの食(四食)は、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
これらの四つの食は、渇愛を因縁とし、渇愛を集起とし、渇愛を出生とし、渇愛を起源とします。
比丘たちよ、では、渇愛は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
渇愛は、感受を因縁とし、感受を集起とし、感受を出生とし、感受を起源とします。
比丘たちよ、では、感受は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
感受は、接触を因縁とし、接触を集起とし、接触を出生とし、接触を起源とします。
比丘たちよ、では、接触は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
接触は、六つの〔認識の〕場所を因縁とし、六つの〔認識の〕場所を集起とし、六つの〔認識の〕場所を出生とし、六つの〔認識の〕場所を起源とします。
比丘たちよ、では、六つの〔認識の〕場所は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
六つの〔認識の〕場所は、名前と形態を因縁とし、名前と形態を集起とし、名前と形態を出生とし、名前と形態を起源とします。
比丘たちよ、では、名前と形態は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
名前と形態は、識知〔作用〕を因縁とし、識知〔作用〕を集起とし、識知〔作用〕を出生とし、識知〔作用〕を起源とします。
比丘たちよ、では、識知〔作用〕は、これは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
識知〔作用〕は、諸々の形成〔作用〕を因縁とし、諸々の形成〔作用〕を集起とし、諸々の形成〔作用〕を出生とし、諸々の形成〔作用〕を起源とします。
比丘たちよ、では、諸々の形成〔作用〕は、これらは、何を因縁とし、何を集起とし、何を出生とし、何を起源とするのですか。
諸々の形成〔作用〕は、無明を因縁とし、無明を集起とし、無明を出生とし、無明を起源とします。
比丘たちよ、かくのごとく、まさに、無明(無明:無知)という縁あることから、諸々の形成〔作用〕(行:意志・衝動)があります。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕(識:認識作用)があります。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態(名色:心と身体)があります。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)があります。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触(触:感覚の発生)があります。接触という縁あることから、感受(受:楽苦の知覚)があります。感受という縁あることから、渇愛(愛)があります。渇愛という縁あることから、執取(取)があります。執取という縁あることから、生存(有)があります。生存という縁あることから、生(生)があります。生という縁あることから、老と死(老死)があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇(苦蘊)が有ります。
403. 『生という縁あることから、老と死があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生という縁あることから、老と死はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生という縁あることから、老と死があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「『生存という縁あることから、生があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生存という縁あることから、生はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生存という縁あることから、生があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生存という縁あることから、生がある』」と。「『執取という縁あることから、生存があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、執取という縁あることから、生存はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、執取という縁あることから、生存があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『執取という縁あることから、生存がある』」と。「『渇愛という縁あることから、執取があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、渇愛という縁あることから、執取はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、渇愛という縁あることから、執取があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『渇愛という縁あることから、執取がある』」と。「『感受という縁あることから、渇愛があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、感受という縁あることから、渇愛はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、感受という縁あることから、渇愛があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『感受という縁あることから、渇愛がある』」と。「『接触という縁あることから、感受があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、接触という縁あることから、感受はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、接触という縁あることから、感受があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『接触という縁あることから、感受がある』」と。「『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』」と。「『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』」と。「『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』」と。「『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』」と。「『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。
404. 「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちもまた、このように説くべきであり、わたしもまた、このように説くべきです。『これが存しているとき、これが有る。これの生起あることから、これが生起する。すなわち、この、無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある。諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある。識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある。名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある。六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある。接触という縁あることから、感受がある。感受という縁あることから、渇愛がある。渇愛という縁あることから、執取がある。執取という縁あることから、生存がある。生存という縁あることから、生がある。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生する』〔と〕。
まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。
405. 『生の止滅あることから、老と死の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生の止滅あることから、老と死の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生の止滅あることから、老と死の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「『生存の止滅あることから、生の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、生存の止滅あることから、生の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、生存の止滅あることから、生の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。「『執取の止滅あることから、生存の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、執取の止滅あることから、生存の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、執取の止滅あることから、生存の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』」と。「『渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、渇愛の止滅あることから、執取の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』」と。「『感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、感受の止滅あることから、渇愛の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』」と。「『接触の止滅あることから、感受の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、接触の止滅あることから、感受の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、接触の止滅あることから、感受の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』」と。「『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』」と。「『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』」と。「『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』」と。「『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』」と。「『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。比丘たちよ、いったい、まさに、無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅はあるのですか、あるいは、ないのですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。「尊き方よ、無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。
406. 「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちもまた、このように説くべきであり、わたしもまた、このように説くべきです。『これが存していないとき、これが有ることはない。これの止滅あることから、これが止滅する。すなわち、この、無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある。接触の止滅あることから、感受の止滅がある。感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある。渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある。執取の止滅あることから、生存の止滅がある。生存の止滅あることから、生の止滅がある。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅する。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有る』〔と〕。
407. 比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、あるいは、『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしたちは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしたちは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしたちは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしたちは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしたちは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』〔と〕、過去の極(前際:過去の種々相)に走り行くでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、あるいは、『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしたちは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしたちは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしたちは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしたちは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』〔と〕、未来の極(後際:未来の種々相)に走り行くでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、あるいは、『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴く者と成るのだろうか』〔と〕、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕存するでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、『わたしたちの教師は、導師である。そして、教師への尊重〔の思い〕によって、わたしたちは、このように説く』〔と〕、このように説くでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、『沙門は、このように言った。そして、沙門である、まさに、わたしたちは、このように説く』〔と〕、このように説くでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、他の教師を、〔師と〕定めるでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、さて、いったい、このように知っている者であり、このように見ている者である、あなたたちは、すなわち、それらの祭典や祝事が、まさに、多々なる沙門や婆羅門たちにあるとして、それらを、『真髄である』と妄信するでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、まさに、まさしく、それが、あなたたちに、自ら知られ、自ら見られ、自ら見出されたなら、まさしく、それを、あなたたちは説くべきではないですか」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、あなたたちは、まさに、わたしの、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである、この法(教え)によって導かれました。『比丘たちよ、この法(教え)は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです』と(※)、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。
※ PTS版により ti を補う。
408. 比丘たちよ、また、まさに、三つのものの集合あることから、〔母の〕胎に、入胎が有ります。ここに、そして、母と父が集合するところと成るも、しかしながら、母が懐妊可能の者ではなく有り、かつまた、音楽神(乾達婆:ガンダルヴァ)が現起するところと成らず、まさしく、そのあいだは、〔母の〕胎に、入胎は有りません。ここに、そして、母と父が集合するところと成り、さらに、母が懐妊可能の者として有るも、しかしながら、音楽神が現起するところと成らず、まさしく、そのあいだは、〔母の〕胎に、入胎は有りません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、かつまた、母と父が集合するところと成り、かつまた、母が懐妊可能の者として有り、かつまた、音楽神が現起するところと成り、このように、三つのものの集合あることから、〔母の〕胎に、入胎が有ります。比丘たちよ、〔まさに〕その、この胎児を、母は、あるいは、九〔月〕のあいだ、あるいは、十月のあいだ、子宮によって維持します──大いなる憂慮とともに、重き荷として。比丘たちよ、〔まさに〕その、この〔胎児〕を、母は、あるいは、九〔月〕が〔経過して〕、あるいは、十月が経過して、出産します──大いなる憂慮とともに、重き荷として。〔まさに〕その、この〔胎児〕を──〔世に〕生まれ、〔世に〕存している〔その子〕を──自らの血で養育します。比丘たちよ、なぜなら、この血は、聖者の律においては、すなわち、この、母乳であるからです。比丘たちよ、それで、まさに、その童子は、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、すなわち、それらの童子用の遊具であるなら──それは、すなわち、この、鉤遊びであり、楔遊びであり、逆立ち遊びであり、風車遊びであり、葉の秤遊びであり、車遊びであり、弓遊びですが──それらで遊びます。比丘たちよ、それで、まさに、その童子は、〔身体の〕増大に従って、諸々の〔感官の〕機能の円熟に従って、五つの欲望の属性を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます──眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものによって。
409. 彼は、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態にたいし貪染し、愛しくない形態の形態にたいし憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕に入定した者(愛憎の思いに固着した者)であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼が、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、愉悦が生起します。それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは、執取です。彼には、執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)にたいし貪染し、愛しくない形態の法(意の対象)にたいし憎悪し、さらに、身体の気づきが現起されていない者として〔世に〕住みます──微小なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知しません。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕に入定した者であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住します。彼が、その感受に、愉悦し、迎合し、固執して止住していると、愉悦が生起します。それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは、執取です。彼には、執取という縁あることから、生存があります。生存という縁あることから、生があります。生という縁あることから、老と死があり、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が発生します。このように、この全部の苦しみの範疇の集起が有ります。
410. 比丘たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。
411. 彼は、このように、出家した者として〔世に〕存しつつ、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。
与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。
梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。
虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。
中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。
粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。
雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。
彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏や歌詠や音楽や〔様々な〕演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。
彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。
彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。
彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。
412. 彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。
413. 彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。
414. 比丘たちよ、彼は、眼によって、形態を見て、愛しい形態の形態にたいし貪染せず、愛しくない形態の形態にたいし憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕を捨棄する者であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、愛しい形態の法(意の対象)にたいし貪染せず、愛しくない形態の法(意の対象)にたいし憎悪せず、さらに、身体の気づきが現起された者として〔世に〕住みます──無量なる心の者となり。そして、そこにおいて、彼の、それらの生起した悪しき善ならざる法(性質)が完全に残りなく止滅する、〔まさに〕その、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、事実のとおりに覚知します。彼は、このように、共感と反感〔の思い〕を捨棄する者であり、それが何であれ、感受を、あるいは、安楽のものとして、あるいは、苦痛のものとして、あるいは、苦でもなく楽でもないものとして、感受するなら、彼は、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しません。彼が、その感受に、愉悦せず、迎合せず、固執して止住しないでいると、それが、諸々の感受にたいする愉悦であるなら、それは止滅します。彼には、愉悦の止滅あることから、執取の止滅があり、執取の止滅あることから、生存の止滅があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。生の止滅あることから、老と死が〔止滅し〕、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が止滅します。このように、この全部の苦しみの範疇の止滅が有ります。比丘たちよ、あなたたちは、まさに、わたしによって、簡略〔の観点〕によって〔説かれた〕、この、渇愛の消滅における解脱を保持しなさい。いっぽう、漁師の息子のサーティ比丘を、大いなる渇愛の結束と渇愛の群結によって縺れ絡まっている者として」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる渇愛の消滅の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(39). 大いなるアッサプラの経
415. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アンガ〔国〕に住んでおられます。アンガ〔国〕には、アッサプラという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、あなたたちのことを、『沙門たち』『沙門たち』と、人々は呼称します。また、そして、あなたたちは、『あなたたちは、どのような者たちなのですか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『沙門たちとして、〔わたしたちは〕存している』と明言します。比丘たちよ、〔まさに〕その、あなたたちが、このような呼称ある者たちとして〔世に〕存しているなら、このような明言ある者たちとして〔世に〕存しているなら、『それらの法(性質)が、かつまた、沙門の為すことであり、かつまた、婆羅門の為すことであるなら、〔わたしたちは〕それらの法(性質)を受持して行持するのだ。このように、まさに、わたしたちの、そして、この呼称は、真理と成るのだ、さらに、〔この〕明言も、事実と〔成るのだ〕。そして、それらの者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしたちが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、わたしたちにおいて、大いなる果と成るのだ、大いなる福利と〔成るのだ〕、まさしく、さらに、わたしたちの、この出家も、徒労なきものと成るのだ、果を有するものと〔成るのだ〕、生成を有するものと〔成るのだ〕』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。
416. 比丘たちよ、では、どのような諸々の法(性質)が、かつまた、沙門の為すことであり、かつまた、婆羅門の為すことなのですか。『〔わたしたちは〕恥〔の思い〕(慚)と〔良心の〕咎め(愧)を具備した者たちと成るのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
417. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの身体の励行は、完全なる清浄と成るのだ──明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の身体の励行たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの身体の励行は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
418. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの言葉の励行は、完全なる清浄と成るのだ──明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の言葉の励行たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
419. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの意の励行は、完全なる清浄と成るのだ──明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の意の励行たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
420. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『わたしたちの生き方は、完全なる清浄と成り、明瞭で、開顕されたものと〔成るのだ〕──そして、瑕疵あるものと〔成ら〕ず、さらに、統御されたものと〔成るのだ〕。また、そして、その完全なる清浄の生き方たることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しないのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
421. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして〔世に〕有るのだ。眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と〔成ら〕ず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ないのだ。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起するのだ。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……略……。舌によって、味感を味わって……略……。身によって、感触と接触して……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と〔成ら〕ず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕ないのだ。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起するのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
422. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『食において量を知る者たちとして〔世に〕有るのだ。審慮して〔そののち〕、根源のままに食を食するのだ──まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしたちは〕古い〔苦痛の〕感受(空腹感)を打破するであろうし、さらに、新しい〔苦痛の〕感受(満腹感)を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしたちに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が」』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、食において量を知る者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
423. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして〔世に〕有るのだ。昼のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めるのだ。夜の初夜(宵の内)のあいだ、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めるのだ。夜の中夜(真夜中)のあいだ、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営むのだ(右脇を下にして獅子のように臥す)──気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して。夜の後夜(明け方)のあいだ、起きて〔そののち〕、歩行〔瞑想〕と坐禅〔瞑想〕によって、諸々の〔修行の〕妨害となる法(性質)から、心を完全に清めるのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、食において量を知る者たちとして、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
424. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。『気づきと正知を具備した者たちとして〔世に〕有るのだ──前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者たちとして、前視したとき、後視したとき、正知を為す者たちとして、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者たちとして、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者たちとして、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者たちとして、大小便の行為のとき、正知を為す者たちとして、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者たちとして』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。比丘たちよ、また、まさに、あなたたちに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『恥〔の思い〕と〔良心の〕咎めを具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。わたしたちの、身体の励行は、完全なる清浄であり、言葉の励行は、完全なる清浄であり、意の励行は、完全なる清浄であり、生き方は、完全なる清浄である。諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちとして、食において量を知る者たちとして、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちとして、気づきと正知を具備した者たちとして、〔わたしたちは〕存している。これだけで十分である。これだけのことが為されたのだ。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちには、何であれ、より上なる為すべきことは存在しない』と。まさしく、それだけのことで、〔あなたたちは〕満足〔の思い〕を惹起するでしょう。比丘たちよ、あなたたちに告げます。比丘たちよ、あなたたちに知らせます。『あなたたちが沙門たることを義(目的)とする者たちとして存しているなら、より上なる為すべきことが存しているとき、沙門たることの義(目的)が遍く衰退することがあってはならない』と。
425. 比丘たちよ、では、何が、より上なる為すべきことなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。
426. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、負債を負って、諸々の生業に従事し、彼の、それらの生業が等しく成功するとします。彼は、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為すでしょうし、さらに、彼には、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在するでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、負債を負って、諸々の生業に従事したが、〔まさに〕その、わたしの、それらの生業は等しく成功した。〔まさに〕その、わたしは、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為したのであり、さらに、わたしには、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存するとします。そして、食事は、彼を喜ばせず、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在しません。彼は、他時にあって、その病苦から解き放たれます。そして、食事は、彼を喜ばせ、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在します。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有った。そして、食事は、わたしを喜ばせず、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在しなかった。その〔わたし〕は、今現在、その病苦から解き放たれ、〔世に〕存している。そして、食事は、わたしを喜ばせ、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、獄舎に結縛され、〔世に〕存するとします。彼は、他時にあって、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれます。そして、彼の諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、獄舎に結縛され、〔世に〕有った。その〔わたし〕は、今現在、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれ、〔世に〕存している。そして、わたしの諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しない』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、奴隷として〔世に〕存するとします──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。彼は、他時にあって、その奴隷の身分から解き放たれます──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、奴隷として〔世に〕有った──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。その〔わたし〕は、今現在、その奴隷の身分から解き放たれ、〔世に〕存している──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、財産を有し財物を有する者が、荒野の旅の道を行くとします。彼は、他時にあって、その荒野を、〔無事〕安穏に、恐怖なく、超え出ます。そして、彼の諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、財産を有し財物を有する者として、荒野の旅の道を行った。その〔わたし〕は、今現在、その荒野を、〔無事〕安穏に、恐怖なく、超え出た者として〔世に〕存している。そして、わたしの諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しない』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。
比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あたかも、負債のように、あたかも、病のように、あたかも、獄舎のように、あたかも、奴隷の身分のように、あたかも、荒野の旅の道のように、これらの五つの〔修行の〕妨害(五蓋)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、無負債のように、あたかも、無病のように、あたかも、結縛からの解放のように、あたかも、自由のように、あたかも、平安の極地のように、まさしく、このように、比丘は、これらの五つの〔修行の〕妨害が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観します。
427. 比丘たちよ、彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。
428. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、水が湧き出ている湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。
429. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。
430. 比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。
431. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、自らの村から、他の村に赴き、その村からもまた、他の村に赴くとします。彼が、その村から、まさしく、自らの村に戻るなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、自らの村から、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その村からもまた、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村から、まさしく、自らの村に戻り、〔世に〕存している』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。
432. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。比丘たちよ、それは、たとえば、また、門を有する二つの家があるとします。そこにおいて、眼ある人が中間に立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、こちらを歩きもまたしあちらを歩みもまたするのを、見るようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……。
433. 彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄のものとなり、完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、湖の水が、透明で、澄浄で、混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見るでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この湖の水は、透明で、澄浄で、混濁なくある。そこに、これらの、牡蠣や貝もまたあり、砂礫や小石もまたあり、魚の群れもまた、歩みもまたし、止住もまたする』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。
434. 比丘たちよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた〔説かれ〕、『沐浴者』ともまた〔説かれ〕、『〔真の〕知に至る者』ともまた〔説かれ〕、『聞経者』ともまた〔説かれ〕、『聖者』ともまた〔説かれ〕、『阿羅漢』ともまた、説かれます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沙門と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、静まったもの(サミタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、沙門(サマナ)と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、婆羅門と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、拒否されたもの(バーヒタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、婆羅門(ブラーフマナ)と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沐浴者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、洗浄されたもの(ナータ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、沐浴者(ナータカ)と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、〔真の〕知に至る者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、見出されたもの(ヴィディタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、〔真の〕知に至る者(ヴェーダグー)と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聞経者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、流れ去ったもの(ニッスタ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聞経者(ソッティヤ)と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、聖者と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、遠く離れたもの(アーラカ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、聖者(アリヤ)と成ります。
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、阿羅漢と成るのですか。彼には、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、遠く離れたもの(アーラカ)として有ります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、阿羅漢(アラハント)と成ります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなるアッサプラの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(40). 小なるアッサプラの経
435. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アンガ〔国〕に住んでおられます。アンガ〔国〕には、アッサプラという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、あなたたちのことを、『沙門たち』『沙門たち』と、人々は呼称します。また、そして、あなたたちは、『あなたたちは、どのような者たちなのですか』と尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『沙門たちとして、〔わたしたちは〕存している』と明言します。比丘たちよ、〔まさに〕その、あなたたちが、このような呼称ある者たちとして〔世に〕存しているなら、このような明言ある者たちとして〔世に〕存しているなら、『それが、沙門の適正なる〔実践の〕道であるなら、それを、〔わたしたちは〕実践するのだ。このように〔為すなら〕、まさに、わたしたちの、そして、この呼称は、真理と成るのだ、さらに、〔この〕明言も、事実と〔成るのだ〕。そして、それらの者たちの衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品を、わたしたちが遍く受益するなら、彼らのために、それら〔の施物〕は、〔功徳を〕作り為すものとして、わたしたちにおいて、大いなる果と成るのだ、大いなる福利と〔成るのだ〕、まさしく、さらに、わたしたちの、この出家も、徒労なきものと成るのだ、果を有するものと〔成るのだ〕、生成を有するものと〔成るのだ〕』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。
436. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者と成らないのですか。比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の──強欲〔の思い〕ある者である〔彼〕の、強欲〔の思い〕が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、憎悪している心の者である〔彼〕の、憎悪〔の思い〕が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、忿激する者である〔彼〕の、忿激〔の思い〕(忿)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、怨恨ある者である〔彼〕の、怨恨〔の思い〕(恨)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、偽装ある者である〔彼〕の、偽装〔の思い〕(覆)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、加虐ある者である〔彼〕の、加虐〔の思い〕(悩)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、嫉妬ある者である〔彼〕の、嫉妬〔の思い〕(嫉)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、物惜ある者である〔彼〕の、物惜〔の思い〕(慳)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、狡猾ある者である〔彼〕の、狡猾〔の思い〕(諂)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、幻惑ある者である〔彼〕の、幻惑〔の思い〕(誑)が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、悪しき欲求ある者である〔彼〕の、悪しき欲求が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有り、誤った見解ある者である〔彼〕の、誤った見解が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。比丘たちよ、まさに、わたしは、これらの、沙門の垢が、沙門の汚点が、沙門の苦味が、悪所の境位たるものが、悪趣として感受されるべきものが、〔いまだ〕捨棄されていないことから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者ではない』と説きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、マタジャという名の、両側に切っ先があり、水で研がれた、武器の類があり、それが、彼の大衣のなかに被着され、巻き包まれているようなものです。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この比丘の出家を説きます。
437. 比丘たちよ、わたしは、大衣の者が大衣を保持するのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、無衣の者が無衣であるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、塵垢の者が塵垢であるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、水行者が水行あるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、木の根元にある者が木の根元にあるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、野外にある者が野外にあるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、常立行者が常立行あるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、日をおいて食事する者が日をおいて食事するのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、呪文の読誦者が呪文の読誦あるのみで、沙門たることを説きません。比丘たちよ、わたしは、結髪の者が結髪を保持するのみで、沙門たることを説きません。
比丘たちよ、もし、大衣の者が大衣を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄されるなら、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄されるなら、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄されるなら、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄されるなら、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄されるなら、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄されるなら、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄されるなら、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄されるなら、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄されるなら、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄されるなら、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄されるなら、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるなら、まさしく、ただちに、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、まさしく、〔世に〕生まれた、その〔子〕を、大衣の者と為すでしょうし、まさしく、大衣の者たることを受持させるでしょう。『幸顔なる者よ、さあ、あなたは、大衣の者と成りなさい。あなたが、大衣の者として〔世に〕存していると、大衣を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄され、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄され、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄され、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄され、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄され、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄され、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄され、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄され、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄され、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄され、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄され、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるでしょう』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしは、ここに、一部の大衣の者が、強欲〔の思い〕ある者であり、憎悪している心の者であり、忿激する者であり、怨恨ある者であり、偽装ある者であり、加虐ある者であり、嫉妬ある者であり、物惜ある者であり、狡猾ある者であり、幻惑ある者であり、悪しき欲求ある者であり、誤った見解ある者であるのを見ることから、それゆえに、大衣の者が大衣を保持するのみで、沙門たることを説きません。
比丘たちよ、もし、無衣の者が……略……。比丘たちよ、もし、塵垢の者が……略……。比丘たちよ、もし、水行者が……略……。比丘たちよ、もし、木の根元にある者が……略……。比丘たちよ、もし、野外にある者が……略……。比丘たちよ、もし、常立行者が……略……。比丘たちよ、もし、日をおいて食事する者が……略……。比丘たちよ、もし、呪文の読誦者が……略……。比丘たちよ、もし、結髪の者が結髪を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄されるなら、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄されるなら、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄されるなら、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄されるなら、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄されるなら、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄されるなら、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄されるなら、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄されるなら、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄されるなら、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄されるなら、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄されるなら、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるなら、まさしく、ただちに、朋友や僚友たちは、親族や血縁たちは、まさしく、〔世に〕生まれた、その〔子〕を、結髪の者と為すでしょうし、まさしく、結髪の者たることを受持させるでしょう。『幸顔なる者よ、さあ、あなたは、結髪の者と成りなさい。あなたが、結髪の者として〔世に〕存していると、結髪を保持するのみで、強欲〔の思い〕ある者の強欲〔の思い〕が捨棄され、憎悪している心の者の憎悪〔の思い〕が捨棄され、忿激する者の忿激〔の思い〕が捨棄され、怨恨ある者の怨恨〔の思い〕が捨棄され、偽装ある者の偽装〔の思い〕が捨棄され、加虐ある者の加虐〔の思い〕が捨棄され、嫉妬ある者の嫉妬〔の思い〕が捨棄され、物惜ある者の物惜〔の思い〕が捨棄され、狡猾ある者の狡猾〔の思い〕が捨棄され、幻惑ある者の幻惑〔の思い〕が捨棄され、悪しき欲求ある者の悪しき欲求が捨棄され、誤った見解ある者の誤った見解が捨棄されるでしょう』と。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしは、ここに、一部の結髪の者が、強欲〔の思い〕ある者であり、憎悪している心の者であり、忿激する者であり、怨恨ある者であり、偽装ある者であり、加虐ある者であり、嫉妬ある者であり、物惜ある者であり、狡猾ある者であり、幻惑ある者であり、悪しき欲求ある者であり、誤った見解ある者であるのを見ることから、それゆえに、結髪の者が結髪を保持するのみで、沙門たることを説きません。
438. 比丘たちよ、では、どのように、比丘は、沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者と成るのですか。比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の──強欲〔の思い〕ある者である〔彼〕の、強欲〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、憎悪している心の者である〔彼〕の、憎悪〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、忿激する者である〔彼〕の、忿激〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、怨恨ある者である〔彼〕の、怨恨〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、偽装ある者である〔彼〕の、偽装〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、加虐ある者である〔彼〕の、加虐〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、嫉妬ある者である〔彼〕の、嫉妬〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、物惜ある者である〔彼〕の、物惜〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、狡猾ある者である〔彼〕の、狡猾〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、幻惑ある者である〔彼〕の、幻惑〔の思い〕が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、悪しき欲求ある者である〔彼〕の、悪しき欲求が〔すでに〕捨棄されたものとして有り、誤った見解ある者である〔彼〕の、誤った見解が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。比丘たちよ、まさに、わたしは、これらの、沙門の垢が、沙門の汚点が、沙門の苦味が、悪所の境位たるものが、悪趣として感受されるべきものが、〔すでに〕捨棄されたことから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者である』と説きます。彼は、これらの悪しき善ならざる法(性質)の一切から清浄となった自己を等しく随観します。彼が、これらの悪しき善ならざる法(性質)の一切から清浄となった自己を等しく随観していると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息した身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。
彼は、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕(悲)を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、水は澄み、水は快く、水は冷たく、清冽で、美しい岸辺があり、〔快適で〕喜ばしい、蓮池があるとします。東の方角から、もし、また、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるなら、彼は、その蓮池に由来して、水の涸渇を取り除き、炎暑の苦悶を取り除くでしょう。西の方角から、もし、また、人が……略……。北の方角から、もし、また、人が……略……。南の方角から、もし、また、人が……略……。すなわち、どの方角からであれ、もし、また、その〔蓮池〕に、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるなら、彼は、その蓮池に由来して、水の涸渇を取り除き、炎暑の苦悶を取り除くでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、士族の家系から、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)と律に由来して、このように、慈愛〔の思い〕と慈悲〔の思い〕と歓喜〔の思い〕と放捨〔の思い〕を修めて、内に、〔心の〕寂止を得ます。内に、〔心の〕寂止あることから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者である』と、〔わたしは〕説きます。婆羅門の家系から、もし、また……略……。庶民の家系から、もし、また……略……。隷民の家系から、もし、また……略……。すなわち、どの家系からであれ、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、如来によって知らされた法(教え)と律に由来して、このように、慈愛〔の思い〕と慈悲〔の思い〕と歓喜〔の思い〕と放捨〔の思い〕を修めて、内に、〔心の〕寂止を得ます。内に、〔心の〕寂止あることから、『沙門の適正なる〔実践の〕道を実践する者である』と、〔わたしは〕説きます。
士族の家系から、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。諸々の煩悩の滅尽あることから、〔彼は〕沙門と成ります。婆羅門の家系から、もし、また……略……。庶民の家系から、もし、また……略……。隷民の家系から、もし、また……略……。すなわち、どの家系からであれ、もし、また、家から家なきへと出家した者と成るなら、そして、彼は、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。諸々の煩悩の滅尽あることから、〔彼は〕沙門と成ります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
小なるアッサプラの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「煉瓦作りとサーラ〔樹〕の林、守り抜くこと、智慧ある者のためのもの、さらに、サッチャカの制止、顔の色艶が澄浄になることもまたあり、インダがあり、漁師とアッサプラと結髪とともに、〔章となる〕」〔と〕。
5. 小なる対なるものの章
1(41). サーラー〔村〕の者たちの経
439. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラーという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラー〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』〔と〕。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
そこで、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのですか」と。
「家長たちよ、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。家長たちよ、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「まさに、わたしたちは、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。貴君ゴータマは、どうか、わたしたちに、すなわち、わたしたちが、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「家長たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
440. 「家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。
また、まさに、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。
また、まさに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。
また、まさに、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者として、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。
また、まさに、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で、他者に辛辣で、他者を不機嫌にし、忿激に近いものであり、禅定を等しく転起しないものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。
また、まさに、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として、事実ならざることを説く者として、義(意味)ならざることを説く者として、法(教え)ならざることを説く者として、律ならざることを説く者として、安置する〔価値〕なき言葉を──〔正しい〕時ならずに、理由なく、結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。
また、まさに、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、屠殺されてしまえ、あるいは、断絶されてしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。
また、まさに、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、このように、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。
441. 家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。
与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。
諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。
中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。
粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。
雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を──〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。
また、まさに、憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。
また、まさに、正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、このように、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
442. 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、婆羅門の大家たちの……略……家長の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、家長の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの……略……耶摩天〔の神々〕たちの……兜率天〔の神々〕たちの……化楽天〔の神々〕たちの……他化自在天〔の神々〕たちの……梵衆天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、梵衆天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、微小光天〔の神々〕たちの……略……無量光天〔の神々〕たちの……光音天〔の神々〕たちの……微小浄天〔の神々〕たちの……無量浄天〔の神々〕たちの……遍浄天〔の神々〕たちの……広果天〔の神々〕たちの……無煩天〔の神々〕たちの……無熱天〔の神々〕たちの……善現天〔の神々〕たちの……善見天〔の神々〕たちの……色究竟天〔の神々〕たちの……虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです」と。
443. このように説かれたとき、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。
サーラー〔村〕の者たちの経は終了となり、〔以上が〕第一となる。
2(42). ヴェーランジャ〔村〕の者たちの経
444. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちが、ヴェーサーリーに滞在しています──何らかの或る用事があって。まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマが、サーヴァッティーに住んでいる。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』〔と〕。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(語形)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
そこで、まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するのですか。貴君ゴータマよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するのですか」と。
「家長たちよ、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。家長たちよ、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します」と。
「まさに、わたしたちは、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。貴君ゴータマは、どうか、わたしたちに、すなわち、わたしたちが、貴君ゴータマの、簡略〔の観点〕によって語られ、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知できるように、そのように、法(教え)を説示してください」と。「家長たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
445. 「家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります──残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。また、まさに、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが……他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。また、まさに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり……そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き……正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。また、まさに、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として……党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。また、まさに、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で……そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。また、まさに、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として……結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。……それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。また、まさに、憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ……あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。また、まさに、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』……実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行が有ります。
家長たちよ、このように、法(教え)ならざる性行と正義ならざる性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。
446. 家長たちよ、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有り、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有り、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり……〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して……そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き……正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。中傷の言葉を捨棄して……和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。粗暴な言葉を捨棄して……そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。雑駁な虚論を捨棄して……〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を──語る者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、では、どのように、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有るのですか。家長たちよ、ここに、一部の者は、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。また、まさに、憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、加害〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。また、まさに、正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』……自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。家長たちよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による法(教え)の性行と正義の性行が有ります。
家長たちよ、このように、法(教え)の性行と正義の性行を因として、まさに、このように、ここに、一部の有情たちは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
447. 家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、士族の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、婆羅門の大家たちの……家長の大家たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、家長の大家たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、三十三天〔の神々〕たちの……耶摩天〔の神々〕たちの……兜率天〔の神々〕たちの……化楽天〔の神々〕たちの……他化自在天〔の神々〕たちの……梵衆天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、梵衆天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、光天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、微小光天〔の神々〕たちの……略……無量光天〔の神々〕たちの……光音天〔の神々〕たちの……微小浄天〔の神々〕たちの……無量浄天〔の神々〕たちの……遍浄天〔の神々〕たちの……広果天〔の神々〕たちの……無煩天〔の神々〕たちの……無熱天〔の神々〕たちの……善現天〔の神々〕たちの……善見天〔の神々〕たちの……色究竟天〔の神々〕たちの……虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生するのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、身体の破壊ののち、死後において、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く天〔の神々〕たちの同類として再生することです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです。
家長たちよ、もし、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者が、『ああ、まさに、わたしは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むのだ』と望むなら、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、彼が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことです。それは、何を因とするのですか。なぜなら、そのように、彼が、法(教え)の性行ある者であり、正義の性行ある者であるからです」と。
448. このように説かれたとき、ヴェーランジャ〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、帰依所として、貴君ゴータマのもとに赴きます──そして、法(教え)のもとに、さらに、比丘の僧団のもとに。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。
ヴェーランジャ〔村〕の者たちの経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
3(43). 大いなる問答の経
449. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者マハー・コッティカが、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタに、こう言いました。
「友よ、『智慧浅き者』『智慧浅き者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、智慧浅き者と説かれるのですか」と。
「友よ、『〔彼は〕覚知しない』『〔彼は〕覚知しない』ということで、まさに、それゆえに、智慧浅き者と説かれます。
では、何を、〔彼は〕覚知しないのですか。『これは、苦しみである』と覚知せず、『これは、苦しみの集起である』と覚知せず、『これは、苦しみの止滅である』と覚知せず、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と覚知しません。友よ、『〔彼は〕覚知しない』『〔彼は〕覚知しない』ということで、まさに、それゆえに、智慧浅き者と説かれます」と。
「友よ、善きかな」と、まさに、尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。
「友よ、『智慧ある者』『智慧ある者』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、智慧ある者と説かれるのですか」と。
「友よ、『〔彼は〕覚知する』『〔彼は〕覚知する』ということで、まさに、それゆえに、智慧ある者と説かれます。
では、何を、〔彼は〕覚知するのですか。『これは、苦しみである』と覚知し、『これは、苦しみの集起である』と覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と覚知します。友よ、『〔彼は〕覚知する』『〔彼は〕覚知する』ということで、まさに、それゆえに、智慧ある者と説かれます」と。
「友よ、『識知〔作用〕(識)』『識知〔作用〕』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、識知〔作用〕と説かれるのですか」と。
「友よ、『〔彼は〕識知する』『〔彼は〕識知する』ということで、まさに、それゆえに、識知〔作用〕と説かれます。
では、何を、〔彼は〕識知するのですか。『安楽である』ともまた識知し、『苦痛である』ともまた識知し、『苦でもなく楽でもないものである』ともまた識知します。友よ、『〔彼は〕識知する』『〔彼は〕識知する』ということで、まさに、それゆえに、識知〔作用〕と説かれます」と。
「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っているのですか、それとも、離れ合っているのですか。また、そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性(相違点)を報知することができますか」と。「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っています──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません。友よ、なぜなら、それを覚知するなら、それを識知し、それを識知するなら、それを覚知し、それゆえに、これらの法(性質)は、交わり合っているからです──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません」と。
「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)が、交わり合っているとして──離れ合っているのではなく──どのような多様性があるのですか」と。「友よ、そして、すなわち、智慧は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)が、交わり合っているとして──離れ合っているのではなく──智慧は、修められるべきであり、識知〔作用〕は、遍知されるべきであり、それら〔の法〕には、この多様性があります」と。
450. 「友よ、『感受〔作用〕(受)』『感受〔作用〕』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、感受〔作用〕と説かれるのですか」と。
「友よ、『〔彼は〕感受する』『〔彼は〕感受する』ということで、まさに、それゆえに、感受〔作用〕と説かれます。
では、何を、〔彼は〕感受するのですか。安楽をもまた感受し、苦痛をもまた感受し、苦でもなく楽でもないものをもまた感受します。友よ、『〔彼は〕感受する』『〔彼は〕感受する』ということで、まさに、それゆえに、感受〔作用〕と説かれます」と。
「友よ、『表象〔作用〕(想)』『表象〔作用〕』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、表象〔作用〕と説かれるのですか」と。
「友よ、『〔彼は〕表象する』『〔彼は〕表象する』ということで、まさに、それゆえに、表象〔作用〕と説かれます。
では、何を、〔彼は〕表象するのですか。青のものをもまた表象し、黄のものをもまた表象し、赤のものをもまた表象し、白のものをもまた表象します。友よ、『〔彼は〕表象する』『〔彼は〕表象する』ということで、まさに、それゆえに、表象〔作用〕と説かれます」と。
「友よ、そして、すなわち、感受〔作用〕は、かつまた、すなわち、表象〔作用〕は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っているのですか、それとも、離れ合っているのですか。また、そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性(相違点)を報知することができますか」と。「友よ、そして、すなわち、感受〔作用〕は、かつまた、すなわち、表象〔作用〕は、さらに、すなわち、識知〔作用〕は、これらの法(性質)は、交わり合っています──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません。友よ、なぜなら、それを感受するなら、それを表象し、それを表象するなら、それを識知し、それゆえに、これらの法(性質)は、交わり合っているからです──離れ合っているのではなく。そして、これらの法(性質)を互いに分解して、多様性を報知することはできません」と。
451. 「友よ、まさに、五つの〔感官の〕機能(五根:眼・耳・鼻・舌・身)から脱却し、完全なる清浄となった、意の識知〔作用〕(意識)によって、何が導かれるべきですか」と。
「友よ、五つの〔感官の〕機能から脱却し、完全なる清浄となった、意の識知〔作用〕によって、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所が導かれるべきであり、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所が導かれるべきであり、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所が導かれるべきです」と。
「友よ、また、導かれるべき法(性質)を、何によって、〔彼は〕覚知するのですか」と。
「友よ、まさに、導かれるべき法(性質)を、智慧の眼によって、〔彼は〕覚知します」と。
「友よ、また、智慧は、何を義(目的)とするのですか」と。
「友よ、まさに、智慧は、証知を義(目的)とし、遍知を義(目的)とし、捨棄を義(目的)とします」と。
452. 「友よ、また、どれだけの、正しい見解(正見)の生起のための縁があるのですか」と。
「友よ、まさに、二つの、正しい見解の生起のための縁があります。そして、他者からの情報であり、さらに、根源のままに意を為すこと(如理作意)です。友よ、まさに、これらの二つの、正しい見解の生起のための縁があります」と。
「友よ、また、どれだけの支分によって資助され、正しい見解は、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、さらに、〔止寂の〕心による解脱の果の福利あるものと〔成り〕、そして、〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、さらに、〔観察の〕智慧による解脱の果の福利あるものと〔成るのですか〕」と。
「友よ、まさに、五つの支分によって資助され、正しい見解は、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、さらに、〔止寂の〕心による解脱の果の福利あるものと〔成り〕、そして、〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、さらに、〔観察の〕智慧による解脱の果の福利あるものと〔成ります〕。友よ、ここに、正しい見解は、かつまた、戒によって資助されたものとして有り、かつまた、所聞によって資助されたものとして有り、かつまた、論議によって資助されたものとして有り、かつまた、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)によって資助されたものとして有り、かつまた、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)によって資助されたものとして有ります。友よ、まさに、これらの五つの支分によって資助され、正しい見解は、そして、〔止寂の〕心による解脱の果あるものと成り、さらに、〔止寂の〕心による解脱の果の福利あるものと〔成り〕、そして、〔観察の〕智慧による解脱の果あるものと成り、さらに、〔観察の〕智慧による解脱の果の福利あるものと〔成ります〕」と。
453. 「友よ、また、どれだけの生存(有)があるのですか」と。
「友よ、これらの三つの生存があります。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です」と。
「友よ、また、どのように、未来に、さらなる生存の発現が有るのですか」と。
「友よ、まさに、無明という妨害するもの(蓋)があり、渇愛という束縛するもの(結)がある、有情たちに、そこかしこに愉悦あることから、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ります」と。
「友よ、また、どのように、未来に、さらなる生存の発現が有ることなくあるのですか」と。
「友よ、まさに、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、渇愛の止滅あることから、このように、未来に、さらなる生存の発現が有ることなくあります」と。
454. 「友よ、また、どのようなものが、第一の瞑想(初禅・第一禅)なのですか」と。
「友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、これは、第一の瞑想と説かれます」と。
「友よ、また、第一の瞑想は、どれだけの支分があるのですか」と。
「友よ、まさに、第一の瞑想は、五つの支分があります。友よ、ここに、第一の瞑想に入定した比丘には、かつまた、思考(尋)が転起し、かつまた、想念(伺)が〔転起し〕、かつまた、喜悦(喜)が〔転起し〕、かつまた、安楽(楽)が〔転起し〕、かつまた、心の一境性が〔転起します〕。友よ、まさに、第一の瞑想は、このように、五つの支分があります」と。
「友よ、また、第一の瞑想は、どれだけの支分が捨棄され、どれだけの支分が具備されたのですか」と。
「友よ、まさに、第一の瞑想は、五つの支分が捨棄され、五つの支分が具備されました。友よ、ここに、第一の瞑想に入定した比丘には、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が捨棄されたものと成り、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が捨棄されたものと成り、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が捨棄されたものと成り、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が捨棄されたものと成り、疑惑〔の思い〕(疑)が捨棄されたものと成り、かつまた、思考が転起し、かつまた、想念が〔転起し〕、かつまた、喜悦が〔転起し〕、かつまた、安楽が〔転起し〕、かつまた、心の一境性が〔転起します〕。友よ、まさに、第一の瞑想は、このように、五つの支分が捨棄され、五つの支分が具備されました」と。
455. 「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能は、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験しません。それは、すなわち、この、眼の機能(眼根)であり、耳の機能(耳根)であり、鼻の機能(鼻根)であり、舌の機能(舌根)であり、身の機能(身根)です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能が、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験せずにいるとして、何が、〔それらの〕帰依所となり、そして、何が、それらの境涯と境域を経験するのですか」と。
「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能は、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験しません。それは、すなわち、この、眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能が、種々なる境域をもち、種々なる境涯をもち、互いに他の境涯と境域を経験せずにいるとして、意が、〔それらの〕帰依所となり、そして、意が、それらの境涯と境域を経験します」と。
456. 「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能があります。それは、すなわち、この、眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能は、何を縁として止住するのですか」と。
「友よ、これらの五つの〔感官の〕機能があります。それは、すなわち、この、眼の機能であり、耳の機能であり、鼻の機能であり、舌の機能であり、身の機能です。友よ、まさに、これらの五つの〔感官の〕機能は、寿命を縁として止住します」と。
「友よ、また、寿命は、何を縁として止住するのですか」と。
「寿命は、熱を縁として止住します」と。
「友よ、また、熱は、何を縁として止住するのですか」と。
「熱は、寿命を縁として止住します」と。
「まさしく、今や、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように了知します。『寿命は、熱を縁として止住します』と。また、まさしく、今や、わたしたちは、尊者サーリプッタの語ったことを、このように了知します。『熱は、寿命を縁として止住します』と。
友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。
「友よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。友よ、それは、たとえば、また、油の灯明が燃えているなら、炎を縁として、光が覚知され、光を縁として、炎が覚知されるように、友よ、まさしく、このように、まさに、寿命は、熱を縁として止住し、熱は、寿命を縁として止住します」と。
457. 「友よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして、諸々の寿命を形成する働き(行)があり、そのものとして、諸々の感受されるべき法(性質)があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、他なるものとして諸々の寿命を形成する働きがあり、他なるものとして諸々の感受されるべき法(性質)があるのですか(両者は別のものですか)」と。「友よ、まさに、まさしく、そのものとして、諸々の寿命を形成する働きがあり、そのものとして、諸々の感受されるべき法(性質)があるのではありません。友よ、なぜなら、そして、そのものとして、諸々の寿命を形成する働きがあり、そのものとして、諸々の感受されるべき法(性質)があり、〔そのように〕有ったなら、この表象と感覚の止滅(想受滅)に入定した比丘に、出起が覚知されないからです。友よ、しかしながら、まさに、すなわち、他なるものとして諸々の寿命を形成する働きがあり、他なるものとして諸々の感受されるべき法(性質)があることから、それゆえに、表象と感覚の止滅に入定した比丘に、出起が覚知されます」と。
「友よ、すなわち、いったい、まさに、どれだけの法(性質)が、この身体を捨棄するとき、そこで、この身体は、廃棄され投下されたものとなり、あたかも、思欲なき木片のように、〔地に〕臥すのですか」と。
「友よ、すなわち、まさに、三つの法(性質)が、寿命が、熱が、そして、識知〔作用〕が、この身体を捨棄するとき、そこで、この身体は、廃棄され投下されたものとなり、あたかも、思欲なき木片のように、〔地に〕臥します」と。
「友よ、すなわち、この、命を終えた死者と、さらに、すなわち、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、これらの者たちには、どのような多様性があるのですか」と。
「友よ、すなわち、この、命を終えた死者ですが、彼の、諸々の身体の形成〔作用〕(身行)は止滅し安息したものとなり、諸々の言葉の形成〔作用〕(口行)は止滅し安息したものとなり、諸々の心の形成〔作用〕(心行)は止滅し安息したものとなり、寿命は完全に滅尽したものとなり、熱は寂止したものとなり、諸々の〔感官の〕機能は完全に破壊したものとなります。友よ、さらに、すなわち、まさに、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、彼もまた、諸々の身体の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、諸々の言葉の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなり、諸々の心の形成〔作用〕は止滅し安息したものとなるも、寿命は完全に滅尽したものとならず、熱は寂止したものとならず、諸々の〔感官の〕機能は澄浄になった〔状態のまま〕です。友よ、すなわち、この、命を終えた死者と、さらに、すなわち、この、表象と感覚の止滅に入定した比丘ですが、それらの者たちには、この多様性があります」と。
458. 「友よ、また、どれだけの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があるのですか」と。
「友よ、まさに、四つの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります。友よ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づき(念)の完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。友よ、まさに、これらの四つの、苦でもなく楽でもない〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります」と。
「友よ、また、どれだけの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があるのですか」と。
「友よ、まさに、二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります。そして、一切の形相に意を為さないことであり、さらに、無相なる界域に意を為すことです。友よ、まさに、これらの二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の入定のための縁があります」と。
「友よ、また、どれだけの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の止住のための縁があるのですか」と。
「友よ、まさに、三つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の止住のための縁があります。そして、一切の形相に意を為さないことであり、かつまた、無相なる界域に意を為すことであり、さらに、過去における行作(事前の決意)です。友よ、まさに、これらの三つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の止住のための縁があります」と。
「友よ、また、どれだけの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の出起のための縁があるのですか」と。
「友よ、まさに、二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の出起のための縁があります。そして、一切の形相に意を為すことであり、さらに、無相なる界域に意を為さないことです。友よ、まさに、これらの二つの、無相なる〔止寂の〕心による解脱の出起のための縁があります」と。
459. 「友よ、そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無所有なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、空性なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無相なる〔止寂の〕心による解脱は──これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)であり、さらに、種々なる字音(呼称)なのですか、それとも、一つの義(意味)であり、字音だけが種々なのですか」と。
「友よ、そして、すなわち、この、無量なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無所有なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、空性なる〔止寂の〕心による解脱は、そして、すなわち、無相なる〔止寂の〕心による解脱は──友よ、まさに、教相が存在します──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音(呼称)となります──友よ、さらに、まさに、教相が存在します──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります。
友よ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音となります。
友よ、ここに、比丘が、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕(悲)を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。友よ、これは、無量なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。
友よ、では、どのようなものが、無所有なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。
友よ、ここに、比丘が、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。友よ、これは、無所有なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。
友よ、では、どのようなものが、空性なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。
友よ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『これは、空である──あるいは、自己〔の観点〕によって、あるいは、自己に属するもの〔の観点〕によって』と。友よ、これは、空性なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。
友よ、では、どのようなものが、無相なる〔止寂の〕心による解脱なのですか。
友よ、ここに、比丘が、一切の形相に意を為さないことから、無相なる〔止寂の〕心の禅定(定・三昧)を成就して〔世に〕住みます。友よ、これは、無相なる〔止寂の〕心による解脱と説かれます。友よ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、これらの法(性質)は、まさしく、そして、種々なる義(意味)となり、さらに、種々なる字音となります。
友よ、では、どのようなものが、教相なのですか──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります。
友よ、まさに、貪欲(貪)は、量を作り為すものです。憤怒(瞋)は、量を作り為すものです。迷妄(痴)は、量を作り為すものです。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の量を作り為すもの〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、およそ、まさに、諸々の無量なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。友よ、まさに、貪欲は、所有(障害)です。憤怒は、所有です。迷妄は、所有です。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の所有〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、およそ、まさに、諸々の無所有なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。友よ、まさに、貪欲は、相を作り為すものです。憤怒は、相を作り為すものです。迷妄は、相を作り為すものです。煩悩が滅尽した比丘の、それら〔の相を作り為すもの〕は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、およそ、まさに、諸々の無相なる〔止寂の〕心による解脱としてあるかぎり、不動なる〔止寂の〕心による解脱は、それらのなかの至高のものと告げ知らされます。また、まさに、その不動なる〔止寂の〕心による解脱は、貪欲〔の観点〕によって空であり、憤怒〔の観点〕によって空であり、迷妄〔の観点〕によって空です。友よ、これが、まさに、教相となります──その教相に由来して、これらの法(性質)は、一つの義(意味)となり、字音だけが種々となります」と。
尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者マハー・コッティカは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる問答の経は終了となり、〔以上が〕第三となる。
4(44). 小なる問答の経
460. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、ヴィサーカ在俗信者が、ダンマディンナー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ダンマディンナー比丘尼を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼に、こう言いました。「尊貴なる方よ、『身体を有すること(有身)』『身体を有すること』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有すること』と説かれたのですか──世尊によって」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)が、『身体を有すること』と説かれました──世尊によって。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、『身体を有すること』と説かれました──世尊によって」と。
「尊貴なる方よ、善きかな」と、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、ダンマディンナー比丘尼に、さらなる問いを尋ねました。「尊貴なる方よ、『身体を有することの集起』『身体を有することの集起』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの集起』と説かれたのですか──世尊によって」と。「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛(愛)です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これが、『身体を有することの集起』と説かれました──世尊によって」と。
「尊貴なる方よ、『身体を有することの止滅』『身体を有することの止滅』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの止滅』と説かれたのですか──世尊によって」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)なき〔状態〕です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これが、『身体を有することの止滅』と説かれました──世尊によって」と。
「尊貴なる方よ、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれたのですか──世尊によって」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)が、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれました──世尊によって。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして、執取(取)があり、そのものとして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのですか(両者は別のものですか)」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、そのものとして、執取があり、そのものとして、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのではなく、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのでもまたありません。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が、それが、そこにおいて、執取となります」と。
461. 「尊貴なる方よ、また、どのように、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が有るのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態(色)を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕(受)を……略……。表象〔作用〕(想)を……。諸々の形成〔作用〕(行)を……。識知〔作用〕(識)を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。友よ、ヴィサーカよ、このように、まさに、身体を有するという見解が有ります」と。
「尊貴なる方よ、また、どのように、身体を有するという見解は有ることなくあるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。友よ、ヴィサーカよ、このように、まさに、身体を有するという見解は有ることなくあります」と。
462. 「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です」と。「尊貴なる方よ、また、聖なる八つの支分ある道は、形成されたもの(有為)ですか、それとも、形成されたものではないもの(無為)ですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、聖なる八つの支分ある道は、形成されたものです」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、聖なる八つの支分ある道によって、三つの範疇(戒・定・慧の三学)が包摂されたものとなるのですか、それとも、三つの範疇によって、聖なる八つの支分ある道が包摂されたものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、聖なる八つの支分ある道によって、三つの範疇が包摂されたものとなるのではありません。友よ、ヴィサーカよ、しかしながら、まさに、三つの範疇によって、聖なる八つの支分ある道は包摂されたものとなります。友よ、ヴィサーカよ、そして、すなわち、正しい言葉は、かつまた、すなわち、正しい行業は、さらに、すなわち、正しい生き方は、これらの法(性質)は、戒の範疇(戒蘊)において包摂されたものとなります。そして、すなわち、正しい努力は、かつまた、すなわち、正しい気づきは、さらに、すなわち、正しい禅定は、これらの法(性質)は、禅定の範疇(定蘊)において包摂されたものとなります。そして、すなわち、正しい見解は、さらに、すなわち、正しい思惟は、これらの法(性質)は、智慧の範疇(慧蘊)において包摂されたものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、禅定(定・三昧)なのですか。どのような諸々の法(性質)が、禅定の形相なのですか。どのような諸々の法(性質)が、禅定の必需品なのですか。どのようなものが、禅定の修行なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、心の一境性は、これは、禅定です。四つの気づきの確立(四念処・四念住)は、禅定の形相です。四つの正しい精励(四正勤)は、禅定の必需品です。すなわち、まさしく、それらの法(性質)を、習修し、修め、多く為すことは、これは、禅定の修行です」と。
463. 「尊貴なる方よ、また、どれだけの形成〔作用〕(行)があるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です」と。
「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、身体の形成〔作用〕なのですか。どのようなものが、言葉の形成〔作用〕なのですか。どのようなものが、心の形成〔作用〕なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、心の形成〔作用〕です」と。
「尊貴なる方よ、また、何ゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、心の形成〔作用〕なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、出息と入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)は、身体と連結しています。それゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。家長よ、まさに、過去において、思考して、想念して、未来に、言葉を発します。それゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、心の属性であり、これらの法(性質)は、心と連結しています。それゆえに、そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、心の形成〔作用〕です」と。
464. 「尊貴なる方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅への入定が有るのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に止滅するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、最初に、言葉の形成〔作用〕が止滅し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔止滅し〕、そののち、心の形成〔作用〕が〔止滅します〕」と。
「尊貴なる方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅の入定からの出起が有るのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に生起するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、最初に、心の形成〔作用〕が生起し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔生起し〕、そののち、言葉の形成〔作用〕が〔生起します〕」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、どれだけの接触(触)が接触するのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、三つの接触が接触します。空性の接触であり、無相の接触であり、無願の接触です」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、何に向かい行くものと成り、何に傾倒するものと〔成り〕、何に傾斜するものと〔成るのですか〕」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成ります〕」と。
465. 「尊貴なる方よ、また、どれだけの感受(受)があるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの三つの感受があります。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です」と。
「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、安楽の感受なのですか。どのようなものが、苦痛の感受なのですか。どのようなものが、苦でもなく楽でもない感受なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、安楽と快楽が感受されたなら、これは、安楽の感受です。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、苦痛と不快が感受されたなら、これは、苦痛の感受です。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、まさしく、快楽でもなく、不快でもなく、感受されたなら、これは、苦でもなく楽でもない感受です」と。
「尊貴なる方よ、また、安楽の感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか。苦痛の感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか。苦でもなく楽でもない感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受は、止住を安楽とし、変化を苦痛とします。苦痛の感受は、止住を苦痛とし、変化を安楽とします。苦でもなく楽でもない感受は、知を安楽とし、無知を苦痛とします」と。
「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、どのような悪習(随眠:潜在煩悩)が悪しき習いとなるのですか。苦痛の感受において、どのような悪習が悪しき習いとなるのですか。苦でもなく楽でもない感受において、どのような悪習が悪しき習いとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなります」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのですか。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのですか。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのではありません。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのではありません。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなるのではありません」と。
「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、何が捨棄されるべきですか。苦痛の感受において、何が捨棄されるべきですか。苦でもなく楽でもない感受において、何が捨棄されるべきですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきです。苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきです。苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきです」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきですか。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきですか。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきではありません。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきではありません。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきありません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それによって、貪り〔の思い〕を捨棄します。そこにおいて、貪り〔の思い〕の悪習は悪しき習いとなりません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、かくのごとく深慮します。『その〔認識の〕場所(処)を、今現在、聖者たちが成就して〔世に〕住むとして、いったい、いつ、まさに、わたしは、その〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだろう』と。かくのごとく、諸々の無上なる解脱にたいし、羨望〔の思い〕を現起させていると、羨望という縁あることから、失意〔の思い〕が生起します。それによって、敵対〔の思い〕を捨棄します。そこにおいて、敵対〔の思い〕の悪習は悪しき習いとなりません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それによって、無明を捨棄します。そこにおいて、無明の悪習は悪しき習いとなりません」と。
466. 「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、何が、相似のもの(対となるもの)となるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、苦痛の感受が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、苦痛の感受において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、苦痛の感受において、安楽の感受が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、苦でもなく楽でもない感受において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、苦でもなく楽でもない感受において、無明が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、無明において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、無明において、明知が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、明知において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、明知において、解脱が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、解脱において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、解脱において、涅槃が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、涅槃において、何が、相似のものとなるのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、〔あなたは〕問い〔の限度〕を超え行きました。〔あなたは〕問いの最極を収め取ることができませんでした。友よ、ヴィサーカよ、なぜなら、梵行は、涅槃への沈潜であり、涅槃を行き着く所とするからであり、涅槃を結末とするからです。友よ、ヴィサーカよ、そして、望んでいるなら、あなたは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるべきです。そして、すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。
467. そこで、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、ダンマディンナー比丘尼を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、すなわち、ダンマディンナー比丘尼を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、ヴィサーカ在俗信者に、こう言いました。「ヴィサーカよ、ダンマディンナー比丘尼は、賢者です。ヴィサーカよ、ダンマディンナー比丘尼は、大いなる智慧ある者です。ヴィサーカよ、もし、また、あなたが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、ダンマディンナー比丘尼によって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たヴィサーカ在俗信者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
小なる問答の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
5(45). 小なる法の受持の経
468. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(教え)の受持です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。
469. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点は存在しない』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、まさに、髪を結った女性遍歴遊行者たちと楽しみます。彼らは、このように言います。『いったい、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、どのような未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知するのだろう。安楽なるは、この女性遍歴遊行者の、若く柔らかで毛のある腕に触れること』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起して、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。彼らは、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼らは、このように言います。『まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、この未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知する。なぜなら、〔まさに〕この、わたしたちは、欲望〔の対象〕を因として、欲望〔の対象〕を因縁として、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するからだ』と。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月において、蔓草の果皮が裂けるとします。比丘たちよ、そこで、まさに、その蔓草の種が、或るどこかのサーラ〔樹〕の根元に落下するとします。比丘たちよ、そこで、まさに、すなわち、そのサーラ〔樹〕に住している天神がいるとします。その〔天神〕は、恐怖し、畏怖し、恐慌を惹起します。比丘たちよ、そこで、まさに、そのサーラ〔樹〕に住している天神の、朋友や僚友たちであり、親族や血縁たちである、園林の天神たちが、林の天神たちが、木の天神たちが、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちが、群集して、集いあつまって、このように安堵させます。『貴君は、恐怖してはいけません。貴君は、恐怖してはいけません。まさしく、おそらく、まさに、この蔓草の種を、あるいは、孔雀が飲み込むでしょうし、あるいは、鹿が喰うでしょうし、あるいは、山火事が焼くでしょうし、あるいは、木こりたちが引き抜くでしょうし、あるいは、白蟻たちが処分するでしょう。また、あるいは、〔発芽する〕種ではなく存するでしょう』と。比丘たちよ、そこで、まさに、その蔓草の種を、まさしく、孔雀が飲み込むこともなく、鹿が喰うこともなく、山火事が焼くこともなく、木こりたちが引き抜くこともなく、白蟻たちが処分することもありません。また、そして、〔発芽する〕種として存し、その〔種〕は、雨期の雨雲によって雨を得たなら、まさしく、正しく、成長します。その蔓草の蔦葛は、若く柔らかで毛のある、垂れ下がるものとして存し、それは、そのサーラ〔樹〕に慣れ親しみます。比丘たちよ、そこで、まさに、そのサーラ〔樹〕に住している天神に、このような〔思いが〕存します。『いったい、まさに、それらの尊き、朋友や僚友たちであり、親族や血縁たちである、園林の天神たちは、林の天神たちは、木の天神たちは、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちは、蔓草の種のうちに、どのような未来の恐怖を正しく見ながら、群集して、集いあつまって、このように安堵させたのだろう。「貴君は、恐怖してはいけません。貴君は、恐怖してはいけません。まさしく、おそらく、まさに、この蔓草の種を、あるいは、孔雀が飲み込むでしょうし、あるいは、鹿が喰うでしょうし、あるいは、山火事が焼くでしょうし、あるいは、木こりたちが引き抜くでしょうし、あるいは、白蟻たちが処分するでしょう。また、あるいは、〔発芽する〕種ではなく存するでしょう」と。安楽なるは、この蔓草の蔦葛の、若く柔らかで毛のある、垂れ下がるものに触れること』と。その〔蔓草の蔦葛〕は、そのサーラ〔樹〕に行き渡ります。そのサーラ〔樹〕に行き渡って、上に枝を張ります。上に枝を張って、気根を生やします。気根を生やして、それらが、そのサーラ〔樹〕の、大いなるうえにも大いなる幹であるなら、それらを破砕します。比丘たちよ、そこで、まさに、そのサーラ〔樹〕に住している天神に、このような〔思いが〕存します。『まさに、それらの尊き、朋友や僚友たちであり、親族や血縁たちである、園林の天神たちは、林の天神たちは、木の天神たちは、薬草や草や林の巨樹に住している天神たちは、蔓草の種のうちに、この未来の恐怖を正しく見ながら、群集して、集いあつまって、このように安堵させたのだ。「貴君は、恐怖してはいけません。貴君は、恐怖してはいけません。まさしく、おそらく、まさに、この蔓草の種を、あるいは、孔雀が飲み込むでしょうし、あるいは、鹿が喰うでしょうし、あるいは、山火事が焼くでしょうし、あるいは、木こりたちが引き抜くでしょうし、あるいは、白蟻たちが処分するでしょう。また、あるいは、〔発芽する〕種ではなく存するでしょう」と。そして、すなわち、わたしは、蔓草の種を因として、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するのだ』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点は存在しない』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、髪を結った女性遍歴遊行者たちと楽しみます。彼らは、このように言います。『いったい、まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、どのような未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知するのだろう。安楽なるは、この女性遍歴遊行者の、若く柔らかで毛のある腕に触れること』と。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。彼らは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起して、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。彼らは、そこにおいて、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。彼らは、このように言います。『まさに、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の欲望〔の対象〕のうちに、この未来の恐怖を正しく見ながら、諸々の欲望〔の対象〕の捨棄を言い、諸々の欲望〔の対象〕の遍知を報知する。なぜなら、〔まさに〕この、わたしたちは、欲望〔の対象〕を因として、欲望〔の対象〕を因縁として、諸々の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するからだ』と。比丘たちよ、これは、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。
470. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。
471. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者として〔世に〕有り、彼は、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者として〔世に〕有り、彼は、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知し、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者として〔世に〕有り、彼は、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知します。彼は、苦痛と共にまた、失意と共にまた、涙顔で泣き叫びながら、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。
472. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、〔生来の〕性向によってもまた、強き貪欲の類の者ではなく〔世に〕有り、彼は、貪欲から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き憤怒の類の者ではなく〔世に〕有り、彼は、憤怒から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがなく、〔生来の〕性向によってもまた、強き迷妄の類の者ではなく〔世に〕有り、彼は、迷妄から生じる苦痛と失意を幾度となく得知することがありません。彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔繊細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔繊細なる〕想念の寂止あることから、内なる浄信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの法(教え)の受持があります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
小なる法(教え)の受持の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
6(46). 大いなる法の受持の経
473. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、多くのところとして、有情たちは、このような欲望〔の対象〕ある者たちであり、このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちです。『ああ、まさに、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大するのだ』と。比丘たちよ、このような欲望〔の対象〕ある者たちであり、このような欲〔の思い〕ある者たちであり、このような志向ある者たちである、それらの有情たちに、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。比丘たちよ、そこで、あなたたちは、何を因として信受しますか」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
474. 「比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、慣れ親しむべき法(性質)を知らず、慣れ親しむべきではない法(性質)を知らず、親近するべき法(性質)を知らず、親近するべきではない法(性質)を知りません。彼は、慣れ親しむべき法(性質)を知らず、慣れ親しむべきではない法(性質)を知らず、親近するべき法(性質)を知らず、親近するべきではない法(性質)を知らずにいながら、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しみ、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しまず、親近するべきではない法(性質)に親近し、親近するべき法(性質)に親近しません。彼が、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しみ、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しまず、親近するべきではない法(性質)に親近し、親近するべき法(性質)に親近しまずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、慣れ親しむべき法(性質)を知り、慣れ親しむべきではない法(性質)を知り、親近するべき法(性質)を知り、親近するべきではない法(性質)を知ります。彼は、慣れ親しむべき法(性質)を知り、慣れ親しむべきではない法(性質)を知り、親近するべき法(性質)を知り、親近するべきではない法(性質)を知りながら、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しまず、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しみ、親近するべきではない法(性質)に親近せず、親近するべき法(性質)に親近します。彼が、慣れ親しむべきではない法(性質)に慣れ親しまず、慣れ親しむべき法(性質)に慣れ親しみ、親近するべきではない法(性質)に親近せず、親近するべき法(性質)に親近しんでいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。
475. 比丘たちよ、四つのものがあります。これらの法(教え)の受持です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。比丘たちよ、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持が存在します。
476. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。
比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。
比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。
比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知しません。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。無明を具した無知なる者は、それを、事実のとおりに覚知せずにいながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が激しく増大し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が遍く衰退します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、無知なる者にとっては。
477. 比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。
比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しまず、それを遍く避けます。彼が、それに慣れ親しまず、それを遍く避けていると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。
比丘たちよ、そこで、すなわち、この、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。
比丘たちよ、そこで、すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持ですが、明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知します。『これは、まさに、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持である』と。明知を具した知ある者は、それを、事実のとおりに覚知しながら、それに慣れ親しみ、それを遍く避けません。彼が、それに慣れ親しみ、それを遍く避けずにいると、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない法(事象)が遍く衰退し、諸々の好ましく愛らしく意に適う法(事象)が激しく増大します。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──すなわち、そのように、知ある者にとっては。
478. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、苦痛と共にまた、失意と共にまた、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取るという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)ある者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くという縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、憎悪している心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。そして、誤った見解という縁あることから、苦痛と失意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。
479. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、安楽と共にまた、悦意と共にまた、命あるものを殺す者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取るという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、虚偽を説く者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くという縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、憎悪している心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、誤った見解ある者として〔世に〕有ります。そして、誤った見解という縁あることから、安楽と悦意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。比丘たちよ、これは、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。
480. 比丘たちよ、では、どのようなものが、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、苦痛と共にまた、失意と共にまた、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、憎悪していない心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、苦痛と失意を得知します。苦痛と共にまた、失意と共にまた、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。そして、正しい見解という縁あることから、苦痛と失意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。
481. 比丘たちよ、では、どのようなものが、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、安楽と共にまた、悦意と共にまた、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。そして、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。そして、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、中傷の言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。そして、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。そして、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。そして、強欲〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、憎悪していない心の者として〔世に〕有ります。そして、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕という縁あることから、安楽と悦意を得知します。安楽と共にまた、悦意と共にまた、正しい見解ある者として〔世に〕有ります。そして、正しい見解という縁あることから、安楽と悦意を得知します。彼は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。比丘たちよ、これは、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持と説かれます。
482. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、毒が混ざっている苦瓜があるとします。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、この、毒が混ざっている苦瓜がある。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせないであろうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。彼は、それを、審慮せずして飲み、放棄しません。彼が、それを、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせないでしょうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、まさしく、そして、現在も苦痛であり、さらに、未来にも苦痛の報いがある、法(教え)の受持です。
483. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適する銅杯があるとします。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっています。そこで、生きることを欲し、死なないことを欲し、安楽を欲し、苦痛を嫌悪する人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、この、色艶を成就し、香りを成就し、味を成就した、飲むに適する銅杯がある。しかしながら、それは、まさに、毒が混ざっている。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせるであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するであろうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するであろう〕』と。彼は、それを、審慮せずして飲み、放棄しません。彼が、それを、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせるでしょうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、あるいは、死に遭遇するでしょうし、あるいは、死ぬほどの苦しみに〔遭遇するでしょう〕。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、現在は安楽であり、未来に苦痛の報いがある、法(教え)の受持です。
484. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、種々なる薬が混ざっている腐尿(腐った牛の尿)があるとします。そこで、黄疸の人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように説くとします。『さて、人士たる者よ、この、種々なる薬が混ざっている腐尿がある。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせないであろうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、安楽の者と成るであろう』と。彼は、それを、審慮して〔そののち〕飲み、放棄しません。彼が、それを、まさに、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、まさに、喜ばせないでしょうが、また、しかしながら、飲んで〔そののち〕、安楽の者として存するでしょう。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、現在は苦痛であり、未来に安楽の報いがある、法(教え)の受持です。
485. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、かつまた、酪が、かつまた、蜜が、かつまた、酥が、かつまた、糖が、〔それらが〕一緒になって混ざっているものがあるとします。そこで、赤痢の人がやってくるとします。〔まさに〕その、この者に、このように、〔人々が〕説くとします。『さて、人士たる者よ、この、かつまた、酪が、かつまた、蜜が、かつまた、酥が、かつまた、糖が、〔それらが〕一緒になって混ざっているものがある。それで、もし、〔おまえが〕望むなら、飲め。〔まさに〕その、おまえが、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせるであろうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、安楽の者と成るであろう』と。彼は、それを、審慮して〔そののち〕飲み、放棄しません。彼が、それを、まさしく、そして、飲んでいると、色艶によってもまた、香りによってもまた、味によってもまた、喜ばせるでしょうし、また、さらに、飲んで〔そののち〕、安楽の者として存するでしょう。比丘たちよ、その喩えのように、わたしは、この法(教え)の受持を説きます。すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持です。
486. 比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分の、晴朗にして黒雲が離れ去った天において、太陽が、天空高く昇りつつあると、虚空に在るものと闇に在るものの全てを打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、この、まさしく、そして、現在も安楽であり、さらに、未来にも安楽の報いがある、法(教え)の受持は、それは、他の多々なる沙門や婆羅門たちの異論を打破して、そして、光り輝き、かつまた、照り輝き、さらに、遍照します」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる法(教え)の受持の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
7(47). 審査者の経
487. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、比丘が、〔自らの〕心をとおして、他者の心の思索を知ることなくあるなら、審査者としてあり、如来について、正しい調査が為されるべきです。『あるいは、正等覚者であるのか、あるいは、〔正等覚者では〕ないのか』と、識知するために」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「比丘たちよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
488. 「比丘たちよ、比丘が、〔自らの〕心をとおして、他者の心の思索を知ることなくあるなら、審査者としてあり、二つの法(性質)について、如来が正しく調査されるべきです。眼と耳によって識知されるべき諸々の法(性質)について、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。
すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。
すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出される』と。
すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出される』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『この尊者は、この善なる法(性質)に、長夜にわたり入定した者であるのか、それとも、暫しのあいだ入定した者であるのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『この尊者は、この善なる法(性質)に、長夜にわたり入定した者である。この尊者は、暫しのあいだ入定した者ではない』と。
すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『この尊者は、この善なる法(性質)に、長夜にわたり入定した者である。この尊者は、暫しのあいだ入定した者ではない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『この尊者は、知名度が上がり盛名に至り得た比丘であるが、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されるのか』と。比丘たちよ、すなわち、知名度が上がり盛名に至り得た者と成らないあいだ、それまでは、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、比丘に等しく見出されることはありません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、比丘が、知名度が上がり盛名に至り得た者と成ることから、そこで、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されます。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『この尊者は、知名度が上がり盛名に至り得た比丘であるが、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されることはない』と。
すなわち、彼のことを、正しく調査しながら、このように知ることから、『この尊者は、知名度が上がり盛名に至り得た比丘であるが、ここに、一部のものとして、諸々の危険が、彼に等しく見出されることはない』と、そののち、彼のことを、より以上に正しく調査します。『この尊者は、恐怖なき〔境地〕によって止息した者であり、この尊者は、恐怖によって止息した者ではなく、貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しまないのか』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『この尊者は、恐怖なき〔境地〕によって止息した者であり、この尊者は、恐怖によって止息した者ではなく、貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しまない』と。比丘たちよ、もし、その比丘に、他者たちが、このように問うとします。『また、尊者には、どのような諸々の行相があり、どのような諸々の類推があり、それによって、尊者は、このように説くのですか。「この尊者は、恐怖なき〔境地〕によって止息した者であり、この尊者は、恐怖によって止息した者ではなく、貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しまない」』と。比丘たちよ、比丘は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『また、まさに、そのように、この尊者が、あるいは、僧団において住んでいるとして、あるいは、独り、〔世に〕住んでいるとして、そして、すなわち、そこにおいて、善き境遇の者たちがあり、さらに、すなわち、そこにおいて、悪しき境遇の者たちがあり、かつまた、それらの者たちが、そこにおいて、衆に教示し、そして、すなわち、ここに、一部の者たちが、諸々の財貨のうちに現見され、さらに、すなわち、ここに、一部の者たちが、財貨によって汚されずにあるも、この尊者は、彼のことを、それによって見下さないからです。また、まさに、わたしは、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けました。「わたしは、恐怖なき〔境地〕によって止息した者として〔世に〕存しています。わたしは、恐怖によって止息した者ではなく〔世に〕存しています。貪欲を離れたことから、貪欲の滅尽あることから、諸々の欲望〔の対象〕に慣れ親しみません」』と。
489. 比丘たちよ、そこで、まさしく、如来が、より以上に質問されるべきです。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、如来は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の汚染の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。
『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、如来は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の混合の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出されない』と。
『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に、あるいは、等しく見出されるのか、あるいは、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、如来は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『すなわち、眼と耳によって識知されるべき諸々の清白の法(性質)は、それらは、如来に等しく見出される』と。
比丘たちよ、まさに、教師が、このように説く者であるなら、弟子として、法(教え)を聞くために、〔彼に〕近づいて行くに値します。彼に、教師は、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示します。比丘たちよ、そのとおり、そのとおりに、まさに、比丘に、教師が、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、その〔比丘〕は、その法(教え)について、ここに、一部の法(教え)を証知して、諸々の法(教え)にたいし結論に至り、教師にたいし浄信します。『世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である』と。比丘たちよ、もし、その比丘に、他者たちが、このように問うとします。『また、尊者には、どのような諸々の行相があり、どのような諸々の類推があり、それによって、尊者は、このように説くのですか。「世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である」』と。比丘たちよ、比丘は、このように、正しく説き明かしつつ説き明かすでしょう。『友よ、ここに、わたしは、法(教え)を聞くために、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。〔まさに〕その、わたしに、教師は、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、わたしに、教師が、より上にもより上に、精妙のうえにも精妙に、黒〔の法〕と白〔の法〕と〔黒と白の〕両部分を有する法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、わたしは、その法(教え)について、ここに、一部の法(教え)を証知して、諸々の法(教え)にたいし結論に至り、教師にたいし浄信しました。「世尊は、正等覚者である。法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされた。僧団は、善き実践者である」』と。
490. 比丘たちよ、すなわち、誰のものであれ、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、如来にたいする信が、固着し、根元から生じ、確立したものと成るなら、比丘たちよ、これは、行相があり、見を根元とし、堅固で、あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、動かしようがない信と説かれます。比丘たちよ、このように、まさに、如来について、法(真理)の正しい調査が有ります。また、そして、このように、如来は、法(真理)たることによって善く正しく調査された者として〔世に〕有ります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
審査者の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
8(48). コーサンビーの者たちの経
491. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサンビーに住んでおられます。ゴーシタの林園において。また、まさに、その時点にあって、コーサンビーにおいて、比丘たちは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます。彼らは、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づきません。そこで、まさに、或るひとりの比丘が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その比丘は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、コーサンビーにおいて、比丘たちは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいます。彼らは、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づきません」と。
そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、それらの比丘たちに告げなさい。『教師が、あなたたちを、尊者たちを、呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちに、こう言いました。「教師が、あなたたちを、尊者たちを、呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちに、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、本当に、まさに、あなたたちは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいるのですか。その〔あなたたち〕は、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づかないのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、それを、どう思いますか。その時点において、あなたたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいるなら、さて、いったい、その時点において、あなたたちに、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有りますか。……略……慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有りますか。梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有りますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、かくのごとく、まさに、その時点において、あなたたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住んでいるなら、まさしく、その時点において、あなたたちに、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為は現起されずに有ります。梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為は……略……慈愛〔の思い〕ある意の行為は現起されずに有ります。愚人たちよ、そこで、それなのに、どうして、あなたたちは、何を知りつつ、何を見つつ、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むのですか。その〔あなたたち〕は、まさしく、そして、互いに他を説得せず、さらに、〔自らも〕説得へと近づかず、そして、互いに他を納得させず、さらに、〔自らも〕納得へと近づきません。愚人たちよ、まさに、それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成るでしょう」と。
492. そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、六つのものがあります。これらの記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
比丘たちよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)があります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。比丘たちよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)のなかでは、これが、至高のものとなり、これが、〔他の五つの記憶されるべき法を〕包摂するものとなり、これが、〔他の五つの記憶されるべき法を〕集合するものとなります。すなわち、この、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる、すなわち、この見解です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、屋頂ある家にとって、すなわち、この、屋頂が、これが、至高のものとなり、これが、〔家屋を〕包摂するものとなり、これが、〔家屋を〕集合するものとなるように、比丘たちよ、まさしく、このように、これらの六つの記憶されるべき法(性質)のなかでは、これが、至高のものとなり、これが、〔他の五つの記憶されるべき法を〕包摂するものとなり、これが、〔他の五つの記憶されるべき法を〕集合するものとなります。すなわち、この、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となる、すなわち、この見解です。
493. 比丘たちよ、では、どのように、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、わたしには、内に〔いまだ〕捨棄されていない、〔まさに〕その、妄執が存在するのだろうか──わたしが、その妄執に遍く取り囲まれた心の者となり、事実のとおりに覚知できず見られなくなる、〔その妄執が〕』と。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、憎悪〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、〔心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、〔心の〕高揚と悔恨に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、疑惑〔の思い〕に遍く取り囲まれた者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、この世についての思弁の追求者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、他の世についての思弁の追求者として〔世に〕有るなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。比丘たちよ、それで、もし、比丘が、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を諸々の口の刃で突き刺しながら〔世に〕住むなら、まさしく、遍く取り囲まれた心の者として〔世に〕有ります。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしには、内に〔いまだ〕捨棄されていない、〔まさに〕その、妄執は存在しない──わたしが、その妄執に遍く取り囲まれた心の者となり、事実のとおりに覚知できず見られなくなる、〔その妄執は〕。わたしの意図は、諸々の真理(諦)を覚るために善く志向されている』と。彼には、この第一の知恵(智)が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。
494. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『いったい、まさに、わたしは、この見解を、習修し、修め、多く為しながら、各自に〔心の〕止寂を得ているのか、各自に寂滅〔の境処〕を得ているのか』と。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしは、この見解を、習修し、修め、多く為しながら、各自に〔心の〕止寂を得ている、各自に寂滅〔の境処〕を得ている』と。彼には、この第二の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。
495. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の見解を具備した者として、わたしはあるが、いったい、まさに、存在するのだろうか──この〔僧団〕より外に、他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、そのような形態の見解を具備した者は』と。彼は、このように覚知します。『そのような形態の見解を具備した者として、わたしはあるが、まさに、存在しない──この〔僧団〕より外に、他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、そのような形態の見解を具備した者は』と。彼には、この第三の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。
496. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。たとえ、何であれ、そのような形態の罪からの出起が覚知される、そのような形態の罪を惹起するなら、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示し、開顕し、明瞭と為します。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に統御を惹起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、愚鈍で上向きに臥す年少の童子が、あるいは、手で、あるいは、足で、炭に行き着いて、まさしく、すみやかに、引っ込めるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。たとえ、何であれ、そのような形態の罪からの出起が覚知される、そのような形態の罪を惹起するなら、そこで、まさに、それを、まさしく、すみやかに、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示し、開顕し、明瞭と為します。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に統御を惹起します。彼は、このように覚知します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者である』と。彼には、この第四の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。
497. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。それが何であれ、すなわち、梵行を共にする者たちのための、それらの高下諸々の業務があるなら、そこにおいて、思い入れを惹起した者と成るも、そこで、まさに、彼には、卓越の戒への、卓越の心(瞑想)への、卓越の智慧への、強い期待〔の思い〕が有ります。比丘たちよ、それは、たとえば、また、幼い子牛をもつ雌牛が、かつまた、草を引き抜き、かつまた、子牛を気遣うように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、見解を成就した人には、この、法(真理)たることがあります。それが何であれ、すなわち、梵行を共にする者たちのための、それらの高下諸々の業務があるなら、そこにおいて、思い入れを惹起した者と成るも、そこで、まさに、彼には、卓越の戒への、卓越の心(瞑想)への、卓越の智慧への、強い期待〔の思い〕が有ります。彼は、このように覚知します。『そのような形態の法(真理)たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の法(真理)たることを具備した者である』と。彼には、この第五の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。
498. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、力たることがあります。すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、耳を傾け、法(教え)を聞きます。彼は、このように覚知します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者である』と。彼には、この第六の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。
499. 比丘たちよ、さらに、また、他に、聖なる弟子は、かくのごとく深慮します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者なのだろうか』と。比丘たちよ、では、どのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人なのですか。比丘たちよ、見解を成就した人には、この、力たることがあります。すなわち、如来によって知らされた法(教え)と律が説示されているとき、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。彼は、このように覚知します。『そのような形態の力たることを具備した者が、見解を成就した人であるとして、わたしもまた、そのような形態の力たることを具備した者である』と。彼には、この第七の知恵が到達するところと成ります──聖なるものとして、世〔俗〕を超えるものとして、凡夫たちと共通ならざるものとして。
500. 比丘たちよ、このように、まさに、七つの支分を具備した聖なる弟子に、法(真理)たることが善く正しく調査されたなら、預流果の実証のために成ります。比丘たちよ、このように、まさに、七つの支分を具備した聖なる弟子は、預流果を具備した者と成ります」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
コーサンビーの者たちの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。
9(49). 梵〔天〕の招待の経
501. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、これは、或る時のことです。わたしは、ウッカッターに住んでいます。スバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において。比丘たちよ、また、まさに、その時点にあって、梵〔天〕のバカに、このような形態の、悪しきものである悪しき見解が生起するところと成ります。『これは、常住である。これは、常恒である。これは、常久である。これは、全一である。これは、死滅なき法(性質)である。まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない。また、さらに、これより他に、より上なる出離は存在しない』と。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、〔自らの〕心をとおして、梵〔天〕のバカの心の思索を了知して、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、あるいは、曲げた腕を伸ばすかのように、あるいは、伸ばした腕を曲げるかのように、まさしく、このように、ウッカッターのスバガ林のサーラ〔樹〕の王の根元において消没し、その梵の世に出現しました。比丘たちよ、まさに、梵〔天〕のバカは、わたしが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、来たれ。敬愛なる方よ、あなたにとって、善き訪問と〔成れ〕。敬愛なる方よ、長きのはてに、まさに、〔あなたは〕この時機を作られました──すなわち、この、ここにやってくるために。敬愛なる方よ、まさに、これは、常住です。これは、常恒です。これは、常久です。これは、全一です。これは、死滅なき法(性質)です。まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しません。また、さらに、これより他に、より上なる出離は存在しません』と。
比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、梵〔天〕のバカに、こう言いました。『ああ、まさに、梵〔天〕のバカは、無明を具した者です。ああ、まさに、梵〔天〕のバカは、無明を具した者です。なぜなら、そこで、まさに、まさしく、常住ならざるものとして存しているものを、「常住」と説き、まさしく、常恒ならざるものとして存しているものを、「常恒」と説き、まさしく、常久ならざるものとして存しているものを、「常久」と説き、まさしく、全一ならざるものとして存しているものを、「全一」と説き、まさしく、死滅ある法(性質)として存しているものを、「死滅なき法(性質)」と説くからです。さらに、また、そこにおいては、そして、生まれ、そして、老い、そして、死に、そして、死滅し、そして、再生するのに、しかしながら、それを、「まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない」と、そのように説くからです。また、さらに、他に、より上なる出離が存在しているのに、「他に、より上なる出離は存在しない」と説くからです』と。
502. 比丘たちよ、そこで、まさに、悪魔パーピマントが、或るひとりの梵〔天〕の会衆に憑依して、わたしに、こう言いました。『比丘よ、比丘よ、この者に近づいてはいけません。この者に近づいてはいけません。比丘よ、なぜなら、この梵〔天〕は、大いなる梵〔天〕であり、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、権ある者であり、作り手であり、化作する者であり、最勝者であり、創造者であり、自在者であり、生類と生類たるべきものたちの父であるからです。比丘よ、まさに、すなわち、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──地を非難する者たちとして、地を忌避する者たちとして、水を非難する者たちとして、水を忌避する者たちとして、火を非難する者たちとして、火を忌避する者たちとして、風を非難する者たちとして、風を忌避する者たちとして、生類たちを非難する者たちとして、生類たちを忌避する者たちとして、天〔の神〕たちを非難する者たちとして、天〔の神〕たちを忌避する者たちとして、造物主を非難する者たちとして、造物主を忌避する者たちとして、梵〔天〕を非難する者たちとして、梵〔天〕を忌避する者たちとして。彼らは、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、下劣な身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、また、すなわち、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──地を賞賛する者たちとして、地を愉悦する者たちとして、水を賞賛する者たちとして、水を愉悦する者たちとして、火を賞賛する者たちとして、火を愉悦する者たちとして、風を賞賛する者たちとして、風を愉悦する者たちとして、生類を賞賛する者たちとして、生類を愉悦する者たちとして、天〔の神〕を賞賛する者たちとして、天〔の神〕を愉悦する者たちとして、造物主を賞賛する者たちとして、造物主を愉悦する者たちとして、梵〔天〕を賞賛する者たちとして、梵〔天〕を愉悦する者たちとして。彼らは、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、精妙なる身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、〔まさに〕その、あなたに、わたしは、このように説きます。「敬愛なる方よ、さあ、あなたは、まさしく、それを、梵〔天〕が、あなたに言ったなら、まさしく、それを、あなたは為しなさい。あなたは、梵〔天〕の言葉を超え行ってはいけません。比丘よ、それで、もし、まさに、あなたが、梵〔天〕の言葉を超え行くなら、それは、たとえば、また、まさに、人が、やってきつつある吉祥を棒で退けるように、比丘よ、また、あるいは、それは、たとえば、また、奈落の深淵に落ちつつある人が、かつまた、〔両の〕手で、かつまた、〔両の〕足で、地を失うように、比丘よ、このように、この成就(成り行き)が、あなたに有るでしょう。敬愛なる方よ、さあ、あなたは、まさしく、それを、梵〔天〕が、あなたに言ったなら、まさしく、それを、あなたは為しなさい。あなたは、梵〔天〕の言葉を超え行ってはいけません。比丘よ、まさに、あなたは、参集している梵の衆を見ないのですか」』と。比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしを、悪魔パーピマントは、梵の衆のもとに連れて行きました。
比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、悪魔パーピマントに、こう言いました。『パーピマントよ、まさに、あなたのことを、わたしは知ります。あなたは思い考えてはいけません。「わたしのことを、〔彼は〕知らない」と。パーピマントよ、〔あなたは〕存しています──悪魔として。パーピマントよ、まさしく、そして、すなわち、梵〔天〕も、かつまた、すなわち、梵〔天〕の衆も、さらに、すなわち、梵〔天〕の会衆たちも、まさしく、全ての者たちが、あなたの手に落ちた者たちであり、まさしく、全ての者たちが、あなたの支配に赴いた者たちです。パーピマントよ、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有ります。「この者もまた、わたしの手に落ちた者として存するであろう。この者もまた、わたしの支配に赴いた者として存するであろう」と。パーピマントよ、また、まさに、わたしは、まさしく、あなたの手に落ちた者でもなく、まさしく、あなたの支配に赴いた者でもありません』と。
503. 比丘たちよ、このように説かれたとき、梵〔天〕のバカは、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、まさに、わたしは、まさしく、常住なるものとして存しているものを、「常住」と説きます。まさしく、常恒なるものとして存しているものを、「常恒」と説きます。まさしく、常久なるものとして存しているものを、「常久」と説きます。まさしく、全一なるものとして存しているものを、「全一」と説きます。まさしく、死滅なき法(性質)として存しているものを、「死滅なき法(性質)」と説きます。また、そして、そこにおいて、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しないなら、まさしく、それを、「まさに、これは、生まれず、老いず、死なず、死滅せず、再生しない」と、わたしは説きます。また、さらに、他に、より上なる出離が存していないなら、「他に、より上なる出離は存在しない」と説きます。比丘よ、まさに、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました。すなわち、あなたの全寿命としてあるかぎりの、そのかぎりのものが、まさしく、彼らの苦行の行為として有りました。彼らは、まさに、このように知ります。また、そして、他に、より上なる出離が存しているなら、「他に、より上なる出離は存在する」と。あるいは、他に、より上なる出離が存していないなら、「他に、より上なる出離は存在しない」と。比丘よ、〔まさに〕その、あなたに、わたしは、このように説きます。「まさしく、そして、他に、より上なる出離を、〔あなたは〕見ないでしょうし、また、そして、まさしく、そのかぎりにおいて、疲弊と悩苦の分有者として存するでしょう。比丘よ、それで、もし、まさに、あなたが、地に固執するなら、わたしの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、〔欲するままに〕拒まれるべき者と〔成るでしょう〕。それで、もし、水に……火に……風に……生類たちに……天〔の神〕たちに……造物主に……梵〔天〕に固執するなら、わたしの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、〔欲するままに〕拒まれるべき者と〔成るでしょう〕」』と。
『梵〔天〕よ、わたしもまた、まさに、このように知ります。「それで、もし、地に固執するなら、あなたの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、〔欲するままに〕拒まれるべき者と〔成るでしょう〕。それで、もし、水に……火に……風に……生類たちに……天〔の神〕たちに……造物主に……梵〔天〕に固執するなら、あなたの、近くに臥す者と成るでしょうし、地所に臥す者と〔成るでしょうし〕、欲するままに為される者と〔成るでしょうし〕、〔欲するままに〕拒まれるべき者と〔成るでしょう〕」と。梵〔天〕よ、さらに、また、わたしは、あなたの、そして、境遇を覚知し、さらに、光輝を覚知します。「梵〔天〕のバカは、このように大いなる神通ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる威力ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる権能ある者である」』と。
『敬愛なる方よ、また、すなわち、どのように、あなたは、わたしの、そして、境遇を覚知し、さらに、光輝を覚知するのですか。「梵〔天〕のバカは、このように大いなる神通ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる威力ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる権能ある者である」』と。
『〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、月と日が、〔天空を〕行き渡り、方々に遍照しながら光り輝くかぎり、そのかぎりの千種の世があり、ここにおいて、あなたの支配は転起する。
そして、〔あなたは〕知る──彼此〔のあり方〕を、そこで、貪欲と離貪あるものを、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、有情たちの帰る所と赴く所を」と。
梵〔天〕よ、このように、まさに、わたしは、あなたの、そして、境遇を覚知し、さらに、光輝を覚知します。「梵〔天〕のバカは、このように大いなる神通ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる威力ある者である。梵〔天〕のバカは、このように大いなる権能ある者である」と。
504. 梵〔天〕よ、まさに、他の身体が存在します。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。梵〔天〕よ、まさに、光音という名〔の天〕の身体が存在します。あなたは、そこから死滅し、ここに再生したのです。〔まさに〕その、あなたの、長過ぎる居住によって、その記憶は忘却され、それによって、あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、証知〔の観点〕によって、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです。梵〔天〕よ、まさに、遍浄という名〔の天〕の身体が存在し、広果という名〔の天〕の身体が〔存在し〕、アビブー〔神〕という名の〔天の〕身体が〔存在します〕。あなたは、それを知らず見ません。わたしは、それを知り見ます。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、証知〔の観点〕によって、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、地を、地〔の観点〕から証知して、およそ、地の地たることによって経験されないものがあるかぎり、それを証知して、地を誤認せず、地〔の観点〕によって誤認せず、地〔の観点〕から誤認せず、地を「わたしのものである」と誤認せず、地に迎合しませんでした。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、水を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、火を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、風を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、生類たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、天〔の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、造物主を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、梵〔天〕を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、光音〔天の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、遍浄〔天の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、広果〔天の神々〕たちを……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、アビブー〔神〕を……略……。梵〔天〕よ、まさに、わたしは、一切を、一切〔の観点〕から証知して、およそ、一切の一切たることによって経験されないものがあるかぎり、それを証知して、一切を誤認せず、一切〔の観点〕によって誤認せず、一切〔の観点〕から誤認せず、一切を「わたしのものである」と誤認せず、一切に迎合しませんでした。梵〔天〕よ、このようにもまた、まさに、わたしは、まさしく、あなたと等しく同等の者ではありません。どうして、より劣るというのでしょう。そこで、まさに、わたしこそは、あなたよりもより一層の者なのです』と。
『敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、一切の一切たることによって経験されないものがあるとして、それを証知して〔そののち〕、まさしく、まさに、あなたに、まさしく、空虚なるものが有ってはいけません、まさしく、虚妄なるものが有ってはいけません』と。
『〔そこで、半偈に言う〕「識知〔作用〕(識:認識作用)が外見なく終極なくある〔涅槃〕が、一切のものからの渡し場となる」と。
それ(涅槃)は、地の地たることによっても経験されないものであり、水の水たることによっても経験されないものであり、火の火たることによっても経験されないものであり、風の風たることによっても経験されないものであり、生類たちの生類たることによっても経験されないものであり、天〔の神々〕たちの天〔の神〕たることによっても経験されないものであり、造物主の造物主たることによっても経験されないものであり、梵〔天〕の梵〔天〕たることによっても経験されないものであり、光音〔天の神々〕たちの光音〔天の神〕たることによっても経験されないものであり、遍浄〔天の神々〕たちの遍浄〔天の神〕たることによっても経験されないものであり、広果〔天の神々〕たちの広果〔天の神〕たることによっても経験されないものであり、アビブー〔神〕のアビブー〔神〕たることによっても経験されないものであり、一切の一切たることによっても経験されないものです』〔と〕。
『敬愛なる方よ、さあ、それでは、見たまえ。あなたの〔前から〕消没しましょう』と。『梵〔天〕よ、さあ、それでは、あなたは、わたしの〔前から〕消没しなさい。それで、もし、できるなら』と。比丘たちよ、そこで、まさに、梵〔天〕のバカは、『沙門ゴータマの〔前から〕消没するのだ。沙門ゴータマの〔前から〕消没するのだ』と、まさに、わたしの〔前から〕消没することが、まさしく、できません。
比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、梵〔天〕のバカに、こう言いました。『梵〔天〕よ、さあ、それでは、あなたの〔前から〕消没しましょう』と。『敬愛なる方よ、さあ、それでは、あなたは、わたしの〔前から〕消没しなさい。それで、もし、できるなら』と。比丘たちよ、そこで、まさに、わたしは、そのような形態の神通の行作を行作しました。『これだけの、かつまた、梵〔天〕が、かつまた、梵〔天〕の衆が、かつまた、梵〔天〕の会衆たちが、そして、わたしの音声を聞くも、しかしながら、わたしを見ない』と。消没した〔わたし〕は、この詩偈を語りました。
〔そこで、詩偈に言う〕『わたしは、まさしく、生存(有)のうちに恐怖を見て、さらに、生存から離れること(非有)を求める者たちの生存を〔見て〕、何であれ、生存に迎合せず、そして、愉悦〔の思い〕に執取しなかった』と。
比丘たちよ、そこで、まさに、かつまた、梵〔天〕は、かつまた、梵〔天〕の衆は、かつまた、梵〔天〕の会衆たちは、稀有にして未曾有なる心の者たちと成りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。沙門ゴータマの、偉大なる神通たることは。沙門ゴータマの、偉大なる威力たることは。そして、まさに、これより過去において、あるいは、見たことも、あるいは、聞いたことも、ない──他の、あるいは、沙門で、あるいは、婆羅門で、このように偉大なる神通ある者は、このように偉大なる威力ある者は。すなわち、この、釈迦〔族〕の家から出家した釈迦族の沙門ゴータマのように。ああ、まさに、生存を喜びとし、生存を喜び、生存に歓喜する、〔世の〕人々があるなか、生存を、根ごと取り去った』と。
505. 比丘たちよ、そこで、まさに、悪魔パーピマントは、或るひとりの梵〔天〕の会衆に憑依して、わたしに、こう言いました。『敬愛なる方よ、それで、もし、まさに、あなたが、このように覚知するなら、それで、もし、あなたが、このように随覚した者であるなら、弟子たちを導いてはいけません。出家者たちを〔導いては〕いけません。弟子たちに、法(教え)を説示してはいけません。出家者たちに、〔法を説示しては〕いけません。弟子たちにたいし、貪求を為してはいけません。出家者たちにたいし、〔貪求を為しては〕いけません。比丘よ、まさに、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──阿羅漢にして正等覚者と明言している者たちとして。彼らは、弟子たちを導きました。出家者たちを〔導きました〕。弟子たちに、法(教え)を説示しました。出家者たちに、〔法を説示しました〕。弟子たちにたいし、貪求を為しました。出家者たちにたいし、〔貪求を為しました〕。彼らは、弟子たちを導いて、出家者たちを〔導いて〕、弟子たちに、法(教え)を説示して、出家者たちに、〔法を説示して〕、弟子たちにたいし、貪求を為して、出家者たちにたいし、〔貪求を為して〕、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、下劣な身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、また(※)、あなたより過去において、沙門や婆羅門たちが世に有りました──阿羅漢にして正等覚者と明言している者たちとして。彼らは、弟子たちを導きませんでした。出家者たちを〔導き〕ませんでした。弟子たちに、法(教え)を説示しませんでした。出家者たちに、〔法を説示し〕ませんでした。弟子たちにたいし、貪求を為しませんでした。出家者たちにたいし、〔貪求を為し〕ませんでした。彼らは、弟子たちを導かずして、出家者たちを〔導か〕ずして、弟子たちに、法(教え)を説示せずして、出家者たちに、〔法を説示せ〕ずして、弟子たちにたいし、貪求を為さずして、出家者たちにたいし、〔貪求を為さ〕ずして、身体の破壊ののち、命の断絶ののち、精妙なる身体において止住する者たちとなったのです。比丘よ、〔まさに〕その、あなたに、わたしは、このように説きます。「敬愛なる方よ、さあ、あなたは、思い入れ少なき者となり、所見の法(現世)における安楽の住(現法楽住)に専念する者として〔世に〕住みたまえ。敬愛なる方よ、まさに、善なるは、告知なくあること。他者に教諭してはいけません」』と。
※ テキストには ye pana とあるが、PTS版により ye を削除する。
比丘たちよ、このように説かれたとき、わたしは、悪魔パーピマントに、こう言いました。『パーピマントよ、まさに、あなたのことを、わたしは知ります。あなたは思い考えてはいけません。「わたしのことを、〔彼は〕知らない」と。パーピマントよ、〔あなたは〕存しています──悪魔として。パーピマントよ、あなたは、利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、わたしに、このように説くのではありません。パーピマントよ、あなたは、利益と慈しみ〔の思い〕なき者として、わたしに、このように説きます。パーピマントよ、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有ります。「それらの者たちに、沙門ゴータマが、法(教え)を説示するなら、それらの者たちは、わたしの境域を超え行くであろう」と。パーピマントよ、また、彼らは、まさしく、正等覚者ならざる者たちであり、〔そのように〕存しつつ、「正等覚者たちとして、〔わたしたちは〕存している」と明言しました。パーピマントよ、また、まさに、わたしは、まさしく、正等覚者であり、〔そのように〕存しつつ、「正等覚者として、〔わたしは〕存している」と明言します。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちに、法(教え)を説示しながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちに、法(教え)を説示せずにいながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちを導きながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。パーピマントよ、なぜなら、如来は、弟子たちを導かずにいながらもまた、まさしく、如なる者としてあるからです。それは、何を因とするのですか。パーピマントよ、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。パーピマントよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、パーピマントよ、まさしく、このように、まさに、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、それらは〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります』」と。
まさに、かくのごとく、このことはあります。かつまた、悪魔の話しかけによらず、しかしながら、梵〔天〕の招待によることから、それゆえに、この説き明かしには、まさしく、「梵〔天〕の招待」という名辞がある、ということです。
梵〔天〕の招待の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
10(50). 責め咎められるべき悪魔の経
506. このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者マハー・モッガッラーナは、バッガ〔国〕に住んでおられます。ススマーラギラ〔村〕のベーサカラー林の鹿園において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・モッガッラーナは、野外において、歩行瞑想をします。また、まさに、その時点にあって、悪魔パーピマントは、尊者マハー・モッガッラーナの、腹に至り腹部に入り込んだ状態でいます。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、どうして、わたしの腹は、重々しいのだ。思うに、豆が詰め込まれたかのように」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、歩行場から降りて、精舎に入って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、各自に根源のままに意を為しました。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、悪魔パーピマントが、腹に至り腹部に入り込んでいるのを見ました。見て、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしのことを、この沙門は、まさしく、知らずにいながら、見ずにいながら、このように言った。『パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません』と。すなわち、また、彼のその教師も、彼もまた、わたしのことを、まさしく、すみやかに知ることはない。また、どうして、わたしのことを、この沙門が知るというのだろう」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、このようにもまた、まさに、あなたのことを、わたしは知ります。あなたは、思い考えてはいけません。『わたしのことを、〔彼は〕知らない』と。パーピマントよ、〔あなたは〕存しています──悪魔として。パーピマントよ、まさに、あなたに、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしのことを、この沙門は、まさしく、知らずにいながら、見ずにいながら、このように言った。「パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません」と。すなわち、また、彼のその教師も、彼もまた、わたしのことを、まさしく、すみやかに知ることはない。また、どうして、わたしのことを、この沙門が知るというのだろう』」と。
そこで、まさに、悪魔パーピマントに、まさに、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしのことを、この沙門は、まさしく、知りながら(※)、見ながら、このように言った。『パーピマントよ、出なさい。パーピマントよ、出なさい。如来を悩ませてはいけません。如来の弟子を〔悩ませては〕いけません。あなたにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ってはいけません』」と。そこで、まさに、悪魔パーピマントは、尊者マハー・モッガッラーナの口から飛び出して、喉のうえに立ちました。
※ テキストには jāname とあるが、PTS版により jānameva と読む。
507. まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、悪魔パーピマントが、喉のうえに立っているのを見ました。見て、悪魔パーピマントに、こう言いました。「パーピマントよ、ここにおいてもまた、まさに、あなたのことを、わたしは見ます。あなたは思い考えてはいけません。『わたしのことを、〔彼は〕見ない』と。パーピマントよ、〔まさに〕その、あなたは、喉のうえに立っています。パーピマントよ、過去の事(過去世)ですが、〔わたしは〕ドゥーシンという名の悪魔として〔世に〕有りました。〔まさに〕その、わたしには、カーリーという名の姉妹がいます。あなたは、彼女の子です。〔まさに〕その、あなたは、わたしの甥として〔世に〕有りました。パーピマントよ、また、まさに、その時点にあって、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊が、世に生起し、〔世に〕有ります。パーピマントよ、また、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊には、ヴィドゥラとサンジーヴァという名の、組なる弟子が有りました──至高の組なる賢人として。パーピマントよ、また、まさに、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊の弟子たちとしてあるかぎり、そして、彼らのうちに、誰であれ、尊者ヴィドゥラと等しく同等の者は有りません。すなわち、この、法(教え)の説示において。パーピマントよ、まさに、このように、これを転機にして、尊者ヴィドゥラには、まさしく、『ヴィドゥラ(無比)』という呼称が生起しました。
パーピマントよ、また、尊者サンジーヴァは、林に赴くもまた、木の根元に赴くもまた、空家に赴くもまた、まさしく、難少なく、表象と感覚の止滅(想受滅)に入定します。パーピマントよ、過去の事ですが、尊者サンジーヴァは、或るどこかの木の根元において、表象と感覚の止滅に入定し、坐った状態でいます。パーピマントよ、まさに、牛飼いたちも、牧畜者たちも、耕作者たちも、道行く者たちも、尊者サンジーヴァが、或るどこかの木の根元において、表象と感覚の止滅に入定し、坐っているのを見ました。見て、彼らに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。この沙門は、まさしく、坐った者でありながら、命を終えたのだ。さあ、彼を焼くのだ』と。パーピマントよ、そこで、まさに、それらの、牛飼いたちも、牧畜者たちも、耕作者たちも、道行く者たちも、そして、草を、かつまた、薪を、さらに、牛糞を、〔それらを〕寄せ集めて、尊者サンジーヴァの身体に積み上げて、火を点けて立ち去りました。パーピマントよ、そこで、まさに、尊者サンジーヴァは、その夜が明けると、その入定から出起して、諸々の衣料を打ち払って、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、村に〔行乞の〕食のために入りました。パーピマントよ、まさに、それらの、牛飼いたちも、牧畜者たちも、耕作者たちも、道行く者たちも、尊者サンジーヴァが、〔行乞の〕食のために歩んでいるのを見ました。見て、彼らに、この〔思い〕が有りました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。この沙門は、まさしく、坐った者でありながら、命を終えたのだ。〔まさに〕その、この者が、蘇生したのだ(パティサンジーヴィタ)』と。パーピマントよ、まさに、このように、これを転機にして、尊者サンジーヴァには、まさしく、『サンジーヴァ』という呼称が生起しました。
508. パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔に、この〔思い〕が有りました。『まさに、わたしは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの比丘たちの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、まさしく、知らない。それなら、さあ、わたしは、婆羅門や家長たちに憑依するのだ。さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、罵倒され、口撃され、悩まされ、困らされていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔は、それらの婆羅門や家長たちに憑依しました。『さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、罵倒され、口撃され、悩まされ、困らされていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。
パーピマントよ、そこで、まさに、それらの婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依され、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませます。『さてまた、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、梟が、木の枝で、鼠を狙いながら、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、野狐が、川の岸で、魚たちを狙いながら、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、山猫が、隙間やどぶやごみためで、鼠を狙いながら、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する。それは、たとえば、また、まさに、流水で〔道を〕断ち切られた驢馬が、隙間やどぶやごみためで、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思するように、まさしく、このように、これらの坊主頭の似非沙門たちは、卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちであり、「〔わたしたちは〕瞑想者として存している。〔わたしたちは〕瞑想者として存している」と、肩を落とし、顔を下に、魯鈍の類となり、瞑想し、凝思し、尋思し、沈思する』と。
パーピマントよ、また、まさに、その時点にあって、すなわち、人間たちが命を終えるなら、多くのところとして、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。
509. パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、まさに、婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依されました。「さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、罵倒し、口撃し、困らせ、悩ませるのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、罵倒され、口撃され、悩まされ、困らされていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに」と。比丘たちよ、さあ、あなたたちは、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みなさい。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みなさい〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みなさい』と。
パーピマントよ、そこで、まさに、それらの比丘たちは、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊によって、このように教諭され、このように教示されつつ、林に赴いた者たちもまた、木の根元に赴いた者たちもまた、空家に赴いた者たちもまた、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。慈悲〔の思い〕を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みました。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みました〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みました。
510. パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔に、この〔思い〕が有りました。『このようにもまた、まさに、わたしは、為しつつあるも、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、これらの比丘たちの、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、まさしく、知らない。それなら、さあ、わたしは、婆羅門や家長たちに憑依するのだ。さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔は、それらの婆羅門や家長たちに憑依しました。『さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに』と。パーピマントよ、そこで、まさに、それらの婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依され、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。
パーピマントよ、また、まさに、その時点にあって、すなわち、人間たちが命を終えるなら、多くのところとして、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生します。
511. パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、まさに、婆羅門や家長たちは、ドゥーシン悪魔に憑依されました。「さあ、おまえたちは、戒ある者たちであり、善き法(性質)ある者たちである、比丘たちを、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するのだ。まさしく、おそらく、まさに、おまえたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養されていると、〔彼らに〕心の他化が存するであろう。すなわち、ドゥーシン悪魔が、侵入〔の機会〕を得るべく、そのとおりに」と。比丘たちよ、さあ、あなたたちは、身体についての不浄の随観ある者たちとして、食についての嫌悪の表象ある者たちとして、一切の世についての歓楽なき表象ある者たちとして、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者たちとして、〔世に〕住みなさい』と。
パーピマントよ、そこで、まさに、それらの比丘たちは、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊によって、このように教諭され、このように教示されつつ、林に赴いた者たちもまた、木の根元に赴いた者たちもまた、空家に赴いた者たちもまた、身体についての不浄の随観ある者たちとして、食についての嫌悪の表象ある者たちとして、一切の世についての歓楽なき表象ある者たちとして、一切の形成〔作用〕についての無常の表象ある者たちとして、〔世に〕住みました。
512. パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、尊者ヴィドゥラを随伴の沙門として、村に〔行乞の〕食のために入りました。パーピマントよ、そこで、まさに、ドゥーシン悪魔は、或るひとりの童子に憑依して、小石を掴んで、尊者ヴィドゥラの頭に、打撃を与えました。頭は破れ裂けました。パーピマントよ、そこで、まさに、尊者ヴィドゥラは、破断し血が滴り出る頭で、背後から背後へと、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊に付き従いました。パーピマントよ、そこで、まさに、阿羅漢にして正等覚者たるカクサンダ世尊は、象が観照するように観照しました。『この者は、ドゥーシン悪魔は、量を了知しなかった』と。パーピマントよ、また、そして、観照すると共に、ドゥーシン悪魔は、そして、その地から死滅し、さらに、大いなる地獄に再生しました。
パーピマントよ、また、まさに、その大いなる地獄には、三つの命名が有ります。『六つの接触ある〔認識の〕場所あるもの』ともまた、『杭が打たれたもの』ともまた、『各自それぞれに感受されるべきもの』ともまた。パーピマントよ、そこで、まさに、わたしに、地獄の番人たちは、近づいて行って、こう言いました。『おまえさんよ、すなわち、まさに、おまえの心臓において、杭と杭が出会うとき、そこで、おまえは、それを知るであろう。「千年のあいだ、わたしは、地獄において煮られている」』と。パーピマントよ、それで、まさに、わたしは、幾年、幾百年、幾千年のあいだ、その地獄において煮られました。まさしく、その大いなる地獄の、増長〔地獄〕においては、一万年のあいだ、出起という名の感受を感受しながら煮られました。パーピマントよ、〔まさに〕その、わたしには、このような形態の、それは、すなわち、また、人間のような身体が有り、このような形態の、それは、すなわち、また、魚のような頭が有ります。
513. 〔そこで、詩偈に言う〕『〔覚者の〕弟子のヴィドゥラを襲って、さらに、婆羅門のカクサンダを〔襲って〕、そこにおいて、〔悪魔の〕ドゥーシンが〔大釜で〕煮られた地獄は、どのようなものとして存していたのか。
百の鉄杭は、〔それらの〕全てが、各自それぞれに〔苦痛の〕感受あるものとして存していた。〔覚者の〕弟子のヴィドゥラを襲って、さらに、婆羅門のカクサンダを〔襲って〕、そこにおいて、〔悪魔の〕ドゥーシンが〔大釜で〕煮られた地獄は、このようなものとして存していた。
彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者(悪魔)よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
カッパ(劫:時間の単位・極めて長い時間)のあいだ止住する諸々の宮殿が、海の中に立つ──瑠璃色の好ましき〔諸々の宮殿〕が、火炎の光輝ある〔諸々の宮殿〕が。そこにおいて、種々なる色艶ある仙女たちが多々に舞う。
彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
彼は、まさに、覚者に促され、比丘の僧団が見ているところで、ミガーラマータルの高楼(鹿母講堂)を、足の親指で動かした。
彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
彼は、〔天の〕ヴェージャヤンタの高楼(最勝講堂)を、足の親指で動かした。神通の力に支えられ、そして、天神たちを畏怖させた。
彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
すなわち、彼は、〔天の〕ヴェージャヤンタの高楼において、帝釈〔天〕に遍く尋ねる。「さて、ヴァーサヴァ(帝釈天)よ、〔あなたは〕渇愛の滅尽という諸々の解脱〔の境地〕を知りますか」〔と〕。彼に、帝釈〔天〕は説き明かした──問いを尋ねられた者として、真実のとおりに。
彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
彼は、スダンマー〔の集会場〕(善法講堂)の集会のただなかで、梵〔天〕に遍く尋ねる。「友よ、〔まさに〕その、かつて有った、あなたの見解ですが、〔その〕見解は、今日もまた、あなたのものですか(あなたの見解は以前のままですか)。梵の世(梵天界)における光り輝きが離転しつつあるのを、〔あなたは〕見ますか(あなたの光輝が徐々に消滅するのを認めますか)」〔と〕。
梵〔天〕は、彼に説き明かした──順次に、真実のとおりに。「敬愛なる方よ、〔まさに〕その、かつて有った、わたしの見解ですが、その見解は、〔もはや〕わたしのものではありません。
梵の世における光り輝きが離転しつつあるのを、〔わたしは〕見ます。〔まさに〕その、わたしが、今日、どうして、〔かつてのように〕説くというのでしょう。『常住にして常久なる者として、わたしは存している』」〔と〕。
彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
彼は、解脱〔の神知〕によって、大いなるネール(須弥山)の峰に触れた──プッバヴィデーハ(東勝身:須弥山の東方に位置する大陸)の者たちの林に、さらに、すなわち、人として、地に臥す者たちであるなら、〔彼らの全てに〕。
彼は、このことを証知する、覚者の弟子たる比丘である。黒き者よ、そのような比丘を襲って、〔おまえは〕苦しみを受ける。
火は、まさに、思わない──「わたしは、愚者を焼く」と。そして、愚者は、その燃える火を襲って、彼は焼かれるのだ。
悪魔よ、まさしく、このように、おまえは、如来である彼を襲って、火に触れる愚者のように、自ら、自己を焼くであろう。
悪魔は、如来である彼を襲って、善ならざる〔報い〕を生んだ。パーピマントよ、「わたしに、悪〔の報い〕は実らない」〔と〕、いったい、何を、思いなすのだ。
死神よ、長夜にわたり、〔悪を〕為していると、〔その〕悪は蓄積される。悪魔よ、覚者から厭い離れよ。比丘たちにたいし、〔悪しき〕願望を為してはならない』」〔と〕。
〔そこで、詩偈に言う〕「かくのごとく、比丘は、ベーサカラー林において、悪魔を一喝した。そののち、その夜叉(悪魔)は、失意の者となり、まさしく、その場において(※)、消没した」と。
※ テキストには natattheva とあるが、PTS版により tattheva と読む。
責め咎められるべき悪魔の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
小なる対なるものの章は終了となり、〔以上が〕第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、サーラー〔村〕の者たちとヴェーランジャ〔村〕の者たちと二つの満足、さらに、小なると大いなる法(教え)の受持、そして、審査者とコーサンビーの者たちと婆羅門、さらに、第十のものとして、そして、ドゥーシン悪魔があり、章となる」〔と〕。
サーラー〔村〕の者たちの章は終了となり、〔以上が〕第五となる。
これが、〔五つの〕章のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、そして、根元の教相、さらに、最上の獅子吼、まさしく、そして、鋸、ゴーシンガ、さらに、サーラー〔村〕の者たちがあり、これらの五つがある」〔と〕。
根元の五十なるものは〔以上で〕完結となる。