忘れじ平和の碑

忘れじ平和の碑は「戦争を二度と繰り返さないように」という願いをこめて建てられました。実は、ここ五浦海岸は、第二次世界大戦の時に風船爆弾を放った場所でした。風船爆弾の放流地となったのは他に福島県の勿来と千葉県の一ノ宮海岸があります。風船爆弾というのは、アメリカへの攻撃を目的として作られたものです。アメリカ本土に向けて風船爆弾を放つ作戦を「ふ」号作戦といって極秘で実施されたのです。

日本から飛び立った風船が約一万キロメートルも離れたアメリカに到達するのか?という疑問をもたれる方もいると思います。実は風船をジェット気流にのせることでアメリカに到達させることができます。その証拠として実際に風船爆弾の被害が報告されています。ジェット気流とは中緯度付近にのみ発生する西向きの強い風のことで、冬季に一番強くなり、時には風速毎秒100メートルに達するほどです。

数約九千個の風船爆弾を放つも、アメリカにたどり着いたのは約一割でした。この風船爆弾によってもたらされたアメリカへの被害は、数名の死者と山火事や送電線の一部破壊などだったと報告されています。五浦海岸基地でも爆発事故で数名の死亡者を出す被害があったようです。戦争によって多くの人の尊い命が奪われ、人々は心に大きな傷を残しました。私たちも、これからの世代も、戦争の事実を忘れてはいけないのです。二度と同じことを繰り返さないように。

ここ五浦は地学が戦争に用いられた場所でもあります。

風船爆弾は上空約1万mにある「ジェット気流」に乗ることで、アメリカ本土に到達しました。ジェット気流といえば、今日私たちが日本からアメリカに向かうために乗る飛行機が飛んでいる高度ですね。実はこのジェット気流、1920年代に大石和三郎(当時の高層気象台の台長)らが発見したのです。

第二次世界大戦末期で追い詰められていた日本軍はこのジェット気流に風船爆弾を乗せて、アメリカ本土を直接空襲しようと考えたわけです。

風船爆弾は和紙とこんにゃく糊でつくられた水素ガス気球です。これらの材料は日本各地から集められ、常陸大宮・西宮の和紙も使われていました。この和紙をこんにゃく糊で張り合わせて風船をつくるのですが、気泡が入らないようにすることがポイントです。そのためこの作業は柔らかく繊細な女子の手が必要と考えられていました。そこで製造工場には女子高生が勤労動員されました。和紙の生産から風船の製造まで約6カ月かかりました。

五浦周辺は太平洋に面しており、木が生い茂っていて見つかりにくいため、放球地の一つ(残り二つは福島県勿来、千葉県一ノ宮)に選ばれました。三カ所の放球地から約9300もの風船爆弾が放球されましたが、1割程度しかたどり着かず、着地地点もほとんどが山でした.

一方アメリカ側では、米海軍からカルフォニアの沖合の海上で、風船爆弾を発見し、続いて、未確認飛行物体が降下してきて爆発炎上したという目撃証言が出始めました。そのため、アメリカ政府は入手した風船爆弾の残骸の分析を進めました。和紙が素材であることはわかったものの、その接着剤が糊であったことは特定できませんでした。風船爆弾の高度調整のために用いられていた砂の成分を分析し、仙台付近の海岸あるいは千葉県九十九里のものという特定ができました。

ここ五浦にある放球台跡地だけは特定されず、今日草むらの中に残っています

風船爆弾は当時の国家予算の10%(現在でいう6563億円)という膨大なお金を費やし、国家存亡を託した作戦でした。しかし、その認知度はかなり低いというのが現状です。風船爆弾放球台跡地を観ながら、当時の日本を考えてみるのもいいかもしれません。