シンポジウム「災害支援と『無縁社会』―東日本大震災から4年、宗教の働きと力―」コメント・リプライ・質疑応答録

時:2015/04/04

所:東京大学法文二号館

(文責:星野壮)

1.鍋島直樹氏からのコメント

吉田律子氏へ

「人間を大事にしなければならない。心と体へのケアをすること。見守り、心のつぶやきを知る。そして今を生きる居場所作りを考える」といったことを興味深く伺った。では、実際にどのような居場所作りをなさっているのかを伺いたい。

吉田俊雄氏へ

あらためて宗教儀礼、特に「追悼」の重要性を感じた。周囲住民が「勧誘されるのではないか」という危険視(「キリストさん」)から、やがて「カリタスさん」と親しみを込めて呼ばれるようになったこと、「フィリア」「お茶っこサロン」などの場所の創造といった実践も感銘を受けた。

これからも居場所作りを考えているということだが、どのような居場所を作られるつもりか?

尾角光美氏へ

「グリーフとは喪失に伴う複雑な感情の総体である。悲しみを乗り越えることは不可能。乗り越えるのではなく、終わりのないプロセスであると知ること。悲しみとともに生きることが重要」という言葉が、また取り組みの中では「母の日プロジェクト(亡くなった母への手紙)」が印象的だった。「自分を置き去りにするときに、孤立が生まれる」ということだったが、自分(鍋島氏)自身にも当てはまる、自分を蔑ろにしてしまうことがあると感じた。

渡辺順一氏へ

「路上生活者への支援、女性用のシェルター、生きづらさを抱えるこどもへの支援などで、悩みながら本日まで来ている」という言葉に勇気づけられた。「大阪での支援だが、全国の宗教に関わる問題が、ここに顕現している」ということもその通りだと思う。

さて、そのような活動の中で、自身はどのように自分を大事に思っているのか?

2.竹島正氏からのコメント

・(竹島氏は)芸術活動を続けてきた精神障害者と、作品からどのように人生や障害を捉えているのか、という研究を行ってきたが、その中で信仰を持っている人がいた。線香を焚くという行為を重視する人、そして信仰が支えとなったと言明する人もいる。信仰をもつ人と、持たない人の行動を見ることで、「信仰をもつ」ということの意味を剔出できるのではないか?とは長く考えていたことだが、あらためて今日強く感じた。

・(宗教者の支援や活動といったものは、)時間軸が長く設定されている。学問的な時間軸とは違うが、その宗教の長い時間軸で、宗教と協働していく主体とは何だろう、と考えさせられた。

・地域包括ケア(=「基本的にはベビーブーマーが後期高齢者になることへの対策」と理解されている)に関係して。認知症になる、体が不自由になる老人だけではなく、他の社会的弱者も包摂したいという議論はある。しかし、少子化、核家族化、高齢化という社会の先細りの中できわめて困難。ここに宗教が関わる事ができるのか?どうやって他のセクターと結びつけるのか?地域包括ケアが「かけ声」として形骸化しかねない中、それを実体化させるときに、宗教の力は役に立ちうるのではないか?

・語り部…「使われるだけの語り部」は消費されてしまい、彼ら(とその家族)をケアする必要があるのではないか?

3.リプライ

吉田(律)氏

・大槌では、被災者の1%あまりしか相談していない。時間のかかるケアになるなあ、と実感。

・借りている家で、アットホームな居場所作り、入りやすい場所を作ることに専念している。それが被災者の生きがい、つながり、仕事探しなどへ結びつくのでは?

吉田(俊)氏

・あるがままの人(つまり、ちょっと「不思議」な人でも)を受け止められる場所。宗教を表に出さないが、「隣人を愛せよ」というキリスト教の精神が生きる場所、温く迎える場所、みなさんで一緒に過ごせる場所の創出を行っているつもり。その中では、そりが合わなかった人同士も仲良くなるケースも見られる。

尾角氏

・宗教者と市民の溝を感じている。僧侶と遺族が共通言語を持っていない。言葉を使うこと、使わないことともに僧侶も恐れているし、互いに互いが偏見を持っている。

→溝は対話でしか埋まらない。同じ話題(「いのち」)を違う立場で語れる場所作りが重要ではないか。

・一般の認識では、死の現場や包括ケアの場所において、ステークホルダーから宗教者が抜け落ちている。家族が小さくなっている中、それらを越えて偲ぶ会をできるのは宗教(尾角の事例では「寺」)だけだろう。そのような場を作ろうと奮闘している。

渡辺氏

・宗教者は専門的知識がない素人として、他業種との連携を積極的に行う。そこでは、我々から宗教性を振りかざすのではなく、関わり合いの中から、新しい「宗教性(スピリチュアリティ)」を発見していくような協同性を重視している。となると、宗教者にとっても、関わり合いが新しい「宗教性」の発見の場所となる。それは、私にとって「楽」な実践である。

4.フロアとの議論

Q.島薗進氏(宗援連代表)

震災を契機に見えてきた日本社会の難点を、よく伝わるようにプレゼンしていただいた。しかし、みなさんの取り組みをどのように人口に膾炙させていき、同志を作っていくのか?戦略を皆さんに伺いたい。

A.鍋島氏

次の世代に、どのように支援・ケアの記憶をつないでいけば良いのか、自問していた。そこに臨床宗教師制度が登場した。これを宗派や大学に組み込んで、宗教者を教育するシステムを作っていく必要があるだろう。超宗派はどのようにすれば良いかは、国立大学である東北大学の臨床宗教師養成の試みに、仏教系の龍谷大学が学ばせてもらった。それぞれの宗派の追悼儀礼を順々にやるというのが、良いかもしれない。

A.尾角氏

たまに僧侶から「グリーフケアはお金にならないのでは?」という質問を受けるのだが。死別の苦しみに寄り添うことが重要と考える。グリーフケアは「儲からない」訳ではない。でも、「儲ける」ことを目的にしてはいけない。最悪なのは、遺族を傷つけていくこと。だから、やはり教育の場を作っていく必要があるかと考える。

A.竹島氏

無縁のまま亡くなった方の看取りは、きわめて大変。行政に加わった人間としては、これから都市連合的な、(広域で連携する)保健福祉を、宗教者も含めて作っていく必要性を感じている。

Q.○○氏

地域での包括的なケアを実現していく上で、多様なステークホルダーと連携していく、という話だと思ったが、その中で宗教者はファシリテーターとしても機能するのではないか?

渡辺さん

仰る通りだと思う。

吉田(律)氏

地域住民と住職の結びつきが強い地域だったことから、私が見ている中では、ある程度自然と地域の僧侶が果たしていたようにも思える。ただ、こぼれ落ちる人びとのニーズを拾って、活動していたと思う。(地域と外部の)僧侶同士の連携を果たしてきたと思う。

吉田(俊)氏

行政にどうやって認知されるようになったか、という過程が、まさに「キリストさん」から「カリタスさん」という過程だった。

たとえば、某団体が分かち合いを行おうとして、告知しても、ほとんど集まらない。また、きわめて警戒されていることも実感してきた。だから、あくまで教会を軸とするボランティアグループとして、やってきたつもり。今後も、「宗教」を前面に出すわけではなくが、ファシリテーターとしても機能していくことも重要だろう。