腫瘍はあるけど、不安はない

がんサバイバー「腫瘍はあるけど、不安はない」〈信仰体験〉 2020年2月8日

連載〈ライフウオッチ 人生100年時代の幸福論〉

大迫美和子さん(68)=宮崎県日南市、婦人部副本部長=の50代は試練の連続だった。50歳を目前にして、うつ病を発症。その後、母親の介護が始まり、自身の乳がん、度重なる再発を経験した。

今も鎖骨の下に腫瘍がある。それでも「何の不安もない」と底抜けに明るい。彼女が見つけた“新しい人生”の生き方とは――。(記事=掛川俊明、野田栄一)

■がんサバイバーが生きる“新しい人生”

男女ともに2人に1人が、がんになるといわれる現代。

診断された直後の人、治癒した人、治療中の人も含めて、がんを経験した全ての人は、世界的に「がんサバイバー」と呼ばれている。

英語のsurvive(サバイブ)の語源をたどると、surには「超えて」「上を」という意味があり、viveは「生きる」を意味する。“その上を生きる”ことは、“新しい人生を生きる”ことに通じる。

近年では、がんは「克服」するものというより、よりよく生きて「共存」するものだと語る医師もいる。

■初めてのがん「四つに組んで闘います」

乳がんの宣告を受けたのは2009年(平成21年)3月、58歳の時だった。

左胸に違和感があり、気付けば乳房が7、8センチほど、赤紫色になっていたのだ。

大迫さん㊧と夫・義洋さん

大迫さん㊧と夫・義洋さん

医師は「ステージ3で、乳管から間質に浸潤し、がんが広がりすぎて手術できません。まずは抗がん剤治療です」と。

当時、認知症の母を自宅で介護していた。

母は、最期は大迫さんのことも分からなくなっていたようだった。薬を飲ませようとしてもコップははじき飛ばされ、大迫さんが唱題していると後ろからバーンと?をぶたれた。

それでも母に寄り添い、介護に尽くした。父は大迫さんが3歳の時に亡くなった。以来、母は泥まみれになって働き、4人の子どもたちを女手一つで育ててくれた。

婦人部の同志と大迫さん(左から2人目)

婦人部の同志と大迫さん(左から2人目)

大迫さんは幼い頃、心臓の病があった。小学6年の時、同級生の母親から創価学会の話を聞き、12歳で自ら入会を希望した。その時も子どもの思いを受け入れ、一緒に入会してくれた母だった。

がんの診断を受けたのは、そんな母を介護して、毎日、ひたすら題目を唱えていた時だった。

「だから、よかったのよ」。がんを告知された瞬間に、「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)との開目抄の一節が浮かび、腹が決まった。

「今が“その時”なんだって。だから医師に言ったわ。『がんと四つに組んで闘いますから、よろしくお願いします!』って」

抗がん剤の副作用で髪は抜け落ち、「何を食べても味がしなくて、砂みたいだった」。

それから2カ月後、母が亡くなった。生死の境にあって、母は10度も蘇生し、安らかに息を引き取った。

「『お母さん、よく頑張ったね』って。実家に戻って3年間、最期まで寄り添えて、何の後悔もなく、みとることができました」

ただ、「“坊主頭”で母を見送ったこと」が心残りだった。そう思えばこそ、“必ず、がんに打ち勝ってみせる!”と自身を奮い立たせた。11カ月間の抗がん剤治療を続け、翌10年2月、左乳房を全摘出する手術を受けた。

手術の日、娘が「森ケ崎海岸」のテープを持ってきてくれ、枕元で聴いた。

「『いかに生きなば わがいのち』ですよ。麻酔でスッと眠って、目が覚めたら手術は無事に終わっていたの」

■がんの再発「4日間、真っ暗闇だった」

だが、1年もたたないうちに、首の付け根のリンパ節に、がんが再発した。

「なんで、また私が……」。真っ暗闇の中に落ちて、もがき苦しんだ。

ひたすら御本尊に祈り、池田先生の指導をむさぼり読んだ。

「妙法は すべてに勝ちゆく 法なれば 断固と楽しく 愉快に生き抜け」

池田先生の言葉を何度もかみ締めていると、4日後に“もう一度、がんと闘うんだ”という決意が湧き上がってきた。

17歳で上京し、美容師になった大迫さん。地元・宮崎県に自分の店を開くまで、東京の原宿、青山、西麻布などの美容店に勤めた。

港区や足立区で女子部の活動に励み、両国の日大講堂での本部総会に参加し、池田先生の学会歌の指揮を目に焼き付けた。師匠との思い出がよみがえると、闘志が湧いた。

「がん腫瘍を抱えてますから、もう題目をあげざるをえないんですよ。愉快に、楽しく。そう思えるまで祈り抜こうって決めたの」

切除手術を受けるも程なくして胸骨近くのリンパ節に転移。しかし、今度は「落ち込んだのは10時間だけでした」。

この時は、ちょうど娘が仕事の資格試験に臨む直前だった。

「『お母さんは大丈夫! 安心して試験を受けておいで』って言ってあげたかった。やっぱり“母の祈り”が大事じゃないですか。腹を決めました」

再び手術。抗がん剤治療が続く。高額な医療費がかかり、家計は火の車だった。

夫・義洋さん(74)=副本部長=は、地元の信用金庫を定年退職した後も、実家の餅店を継いで働き続け、生活を支えてくれた。そんな夫に「本当に感謝しているんです」。

奈良に住む妹の応援もあった。家族の支えが何よりもありがたかった。

■4度目のがん「『さあ来い!』ですよ」

15年に再び、がんが見つかる。左の鎖骨の下に、1・5センチの腫瘍ができていた。

「4度目は、がんになっても『さあ来い!』ですよ」

治療費だけが心配だったが、御本尊に祈り抜く中で、医師からは「今回は、抗がん剤は必要ありません。経過観察で大丈夫」と言われた。

それから4年がたつ。

服薬もなく、今も経過観察が続いている。胸には、かつての治療で使った点滴用のポートがあり、月に一度、そのメンテナンスのために通院する。

「病院の待合室は“勉強の場”なの。静かで都合がよくて、じっくり『大白蓮華』を読むんです」

先月は腫瘍が1・3センチに縮小し、腫瘍マーカーの数値も下がった。がんとの闘いは続いているが、大迫さんに悲哀はない。取材に訪れた時も、満面の笑みと元気な笑い声で迎えてくれた。

「今は、がんに“感謝”しかありませんよ。だって、がんになったから、こんなに題目をあげさせてもらえる人生に変わったんだもの」

最初のがんの時から、唱題表をつけ始め、もうすぐ1800万遍になる。「今は、題目をあげるのが楽しくって仕方がない」

病院などで知り合った、がんと闘う友達も多くいる。「私を見て『大迫さんみたいになりたい』って、学会員じゃないのに唱題している“題目フレンド”も6人いるのよ」

闘病をつづっている日記

闘病をつづっている日記

がんの診断を受けた時から書き始めた日記には、病気についての指導の切り抜きも貼っている。「私の人生の“闘争史”だから、娘と息子に残してあげたくてね。これが私の“終活”です」

昨年末は、聖教新聞の購読推進が14部も実った。今は、池田先生の指導を学ぶのも、訪問・激励に歩くのも楽しくて仕方がない。

「臨終の時は、みんなに私の“如是相”を見てほしいわ。もう何も怖いものなんてない。だから、こう言ってるの。『腫瘍はあるけど、不安はない』ってね」

■がんを生きる「たたみ一畳あればいい」

池田先生は『法華経の智慧』で語っている。

「この世は『一睡の夢』です。長命だ、短命だと言っても、永遠から見れば、なんの差もない。寿命の長短ではありません。どう生きたかです。何をしたかです。どう自分の境涯を変えたのか。どれだけ人々を幸福にしたのか、です」

大迫さんは、「がんが私の信心を、私の人生を変えてくれた」と。

近所の人、友人、学会の仲間。みんな、大迫さんが、がんと闘っていることを知っている。

「だから、誰に会っても『生きてますよ!』ってあいさつするの。空元気を演じるんじゃ無理ですよ。題目をあげきった命の底から湧き上がる生命力だから、みんなも『きょうも元気だね』って笑ってくれる」

一番、苦しかった時期を尋ねると、「御本尊の前にも座れなかった、うつの時かな」と大迫さん。50歳を目前にうつ病になり、7年ほど苦しんだ。

大好きだった学会の会合にも行けなくなり、きれい好きなのに部屋の片付けもできなかった。何とか週に数回、美容室の仕事に行くものの、高校生の息子の弁当も作れなかった。

うつの症状が薄紙をはぐように快方へ向かったのは、母の介護を始めてからだった。“母を支えたい”という一心で祈るうちに、徐々に元気を取り戻した。

「うつ、介護、乳がん。信心に励んでいると、乗り越えられる順番で試練がやって来るから、不思議よね」

最近は、医師や看護師にも「あなたが、がんになったら、私が励ましてあげるわ」と語っている。みんな、大迫さんの姿を見ているから、「はい、よろしくお願いします」と。

長寿化が進む現代にあって、求められるのは、病気が治るかどうかだけでなく、病気を経験した上で“どう生きるか”なのかもしれない。大迫さんの生き方に、人生100年時代を生きるヒントを教えてもらった思いがする。

“母のために”と祈り抜き、うつ病を乗り越え、乳がんと闘った。

“わが子のために”と闘志を奮い起こして、がんの再発に向き合った。

“池田先生”を思って、がんに「さあ来い!」と言い放った。

今、大迫さんは連日、友人への仏法対話に歩いている。困っている誰かの力になりたいと、毎日、友の元に足を運ぶ。

昨年末、一人の“題目フレンド”を見送ったという。

「寂しいけど悔いはない。あの人も見事に生き抜いた。最後は題目もあげられた。最高に幸せだった。どんな大邸宅に住んだって、寝る時は、たたみ一畳あればいい。私はこれからも、“ただ人のために生きたい”、それだけよ」

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