〈信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み〉 2016年7月30日
生きて帰ったこの命は 平和のために使うんだ
戦場の日々を振り返る鈴木さん。
「暑い夏が訪れるたび、終戦前、飢えと爆撃に耐えた日々が思い出されます。
こんなに長く生きられるとは考えもしなかった。
これからも一日一日を大切に、広布のため、平和のために語り続けます」と
≪ 太平洋の激戦地・パラオでの記憶 ≫
【東京都世田谷区】「白菊と/黄菊と咲いて/日本かな」(夏目漱石)。鈴木健さん(96)=野沢支部、副区長=が、青年時代に愛した句である。自宅の軒先で鉢を育てて25年以上。毎年、花が咲く秋を楽しみに待つ。「年を経て、菊への思いも変わってきた」と。鈴木さんの人生にとって、菊の花がもつ意味とは何か。その始まりは、太平洋戦争の激戦地・パラオでの日々にある。
菊花紋章の付いた軍旗と共に太平洋を南下したのは、1944年(昭和19年)春のことだった。
“われ、日本の防波堤たらん”
動員に際し、満州(現・中国東北部)の駐屯地で受けた訓示が、そのまま鈴木さんの決意だった。当時、24歳。陸軍第14師団歩兵第59連隊に所属する主計将校であった。
本来の任務は現地での食糧の確保等であり、前線に出る可能性は低い。しかし戦局は悪化していた。前年のガダルカナル島撤退以降は、日本軍が全滅したという情報も漏れ聞いた。訓示後、仲間と密室で語った。
「我々は“玉砕”しに行くのだ」
同年7月、鈴木さんのいる大隊はパラオ本島へ。上陸直後、乗ってきた輸送船4隻全てが米軍の艦載機に撃沈され、間一髪でジャングルに逃げ延びた。
米軍は9月15日にペリリュー島、17日にアンガウル島に上陸。日米双方に、膨大な死者を出していく。
パラオ本島の日本軍は、ペリリュー島へ、民間船を用いて夜襲をかけた。だが無数の照明弾が空を照らし、島に入る水路で米軍の機銃掃射に遭う。「2度の出撃で、戦況報告のための帰還者以外は、皆、死にました」
3度目の切り込みに、鈴木さんにも命令が下る。ヤシの木で作った宿舎を、残らず解体した。“立つ鳥、跡を濁さず”の行為であったという。「防波堤として喜んで死ぬ。たたき込まれた軍人精神を、誇りと信じていた」
夜中、パラオ本島のアイライの港から船に乗り込もうとしたまさにその時。連隊本部から、「切り込み中止」の命令を受けた。
中止の理由は分からない。しかし、鈴木さんの命はつながった。中止命令伝達の瞬間、鈴木さんに未知の感情が湧いた。“助かった……”
「全身の力が抜け、初めて自覚したんですね。“俺は、生きたいんだ!”と」
ジャングルに戻り、再び宿営の小屋を建て、米軍と対峙した。
アンガウル島の戦闘は44年10月中旬、ペリリュー島は11月下旬に終結。万を超える死者が出た。パラオ本島に米軍の上陸はなかったが、終戦まで爆撃にさらされ続けた。
「連日、グラマン(戦闘機)が4機編隊で来て、機銃掃射されてね。一度見つかったら、30分は続く。動かずに、死んだふりをして耐えるのみです。弾丸の1発は手の甲を貫通し、命拾いしました」
B29による爆撃で2メートル先に爆弾が落ちたことも。“これまでか”と覚悟したが、幸い、不発弾だった。
飢えにも苦しんだ。主計将校として、サツマイモの栽培を試みるも、太平洋地域特有のスコール(大雨)で流された。カタツムリやトカゲを、ヤシの実から採った油で揚げて食した。
亡くなる者は一目で分かった。食べていないのにパンパンに腹がふくれる。下痢が続く。“明日はもうだめだろう”と思うと、間違いなく亡くなっていた。「戦病死と記録されたうち、その多くは餓死でした」。鈴木さん自身も衰弱した。軍刀を“つえ”にして歩くが、石につまずき、容易には起き上がれなかった。
パラオ本島到着から1年後の45年7月、付近の防空壕に爆弾が直撃した。間もなく、壕にいた陸軍経理学校同期の主計将校が戦死したことを知る。母一人子一人で育ち、仲間の誰よりも優秀で、親思いの好青年であった。
自身の飢えと闘いながら、鈴木さんは感じた。
“戦場では、優秀なやつ、必要とされる男から死んでいくのか……”
生と死が隣り合わせの中、殺し合うことの不条理を思った。
8月16日、連隊本部に集められ、前日の玉音放送の内容を聞く。終戦を知った。
翌年の1月7日、米軍の船で神奈川県の浦賀に着いた。港で、正月の晴れ着を身にまとった女性を目にした。街は戦災の爪痕を色濃く残していたが、その中にも、新たな歩みが始まっていることを感じた。
終戦から2年後の47年、妻・禎子さん(90)=支部副婦人部長=と結婚した。
「自分を必要としてくれる人がいる。そのことが、本当にうれしかった。戦争で一度は死んだ命。喜んで尽くそうと思った」
“望まれれば、何でも役に立たせてもらおう”――その考えは、万事に渡った。母校の商業高校で教壇に立った後、義父のプレス工場で額に汗して働く。一方で、戦場で感じた葛藤が、常に心の奥深くにあった。“なぜ俺は生き残り、なぜ仲間は死んでいったのか”
鈴木さんが「がむしゃらなほど」懸命に働き、「頼まれたら断らない」のは、その答えを模索していたからかもしれない。戦後10年の55年に、親戚から信心の話を聞いた。
「御書の一節に出あったんです。弥三郎殿御返事でした。『但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり』(1451ページ)。全身に電流が走ったような感動を覚えました。“なぜ生きている? そうか! この仏法を弘め、平和な社会を築くためだ”と」
家族そろって入会。戸田第2代会長、若き日の池田SGI会長にも励ましを受け、広布一筋に駆けた。
時は流れ、鈴木さんが70歳となった90年11月、学会創立60周年の佳節に、SGI会長は世田谷区内にある東京池田記念講堂を訪問した。
SGI会長を迎えたのは、鈴木さんたち世田谷の同志が丹精込めて育て、爛漫と咲き誇った菊の花々だった。SGI会長は、句を詠み贈った。
「創立に/勝利の宴や/菊花城」
以来、四半世紀。その時の菊から株分けし、子、孫の株まで育み続けている。
「平和のために世界の指導者と対話される池田先生と、私の絆が、この菊なんです。私も体が動く限り、平和のために尽力しようと菊を育てながら思う」
創価学会の姿を知ってもらおうと、対話に歩き、地域で友情を広げてきた。3年前、小学校の校長から、ある依頼が。「戦争の経験を、子どもたちに話してくださいませんか」
93歳で、語り部として教壇に。今も語り続ける。児童からは、「戦争がどんなに恐ろしいものかを知りました。同時に命の大切さもあらためて知りました」「これから私の下の世代にも教えていけたらいいなと思います」と。感想の数々が、胸に迫った。
生き残った意味を表現するのにふさわしい言葉を鈴木さんは探す。「幸運か、福運か、宿命か……」。こう結んだ。「使命と確信し、最後まで平和のために生き抜く」と。(良)