・・・・93歳の志 ガード下に咲く 〈信仰体験〉2020年3月28日聖教新聞
【大阪市阿倍野区】どことなく哀愁漂う美章園駅のガード下に、古びた店がある。紳士服や子ども服が所狭しと並べてある。 あるじは久野勇さん(93)=総区主事。景気の波に慌てず、来る日も来る日も店の明かりをともす。遠のく客足に焦るふうもない。老練なまなざしは何を見つめているのか。
この人の出発点には「死」がある。
先の大戦で特攻隊に志願した。いかに散るか。人間魚雷「回天」の搭乗員だった。同期の多くが海に散った。久野さんに出番はなかった。
敗戦の焦土に立つ。衣食住が大変だった当時、誰もが生きるのに必死だった。桂子さん(86)=婦人部副本部長=と結婚し、駅のガード下で衣服店を始めた。
戦争で生き残ってしまった罪悪感が、仏法と出合い、生き抜くという使命感に変わる。 ある朝、信心の先輩から電話があった。
「池田室長(当時)を迎えにいこう」
1957年(昭和32年)7月17日、この日の記憶を、久野さんは人生に反映させることになる。
炎天下、大阪拘置所の周りにはたくさんの同志がいた。
1時間が過ぎ、2時間が過ぎ、ついに鉄の扉が開いた。安堵の声と熱い拍手が沸き上がる。池田青年が真っ白な開襟シャツで現れた。胸を張っていた。
不当な権力に勝利した若武者の足取りは、強烈な映像として久野さんの命に残った。取り調べは過酷だったに違いない。しかし疲れた色がひとつもなく、「堂々と行進する風格があった。凱旋将軍のようでした」。
店を始めた時から使い続けているソロバン
自分も胸を張っていくんだという変化。この瞬間、二つの感情が腹からうねり出す。
「この人についていけば間違いない」という確信と、「きょうからは、どんな戦いも、この悔しさをバネに勝ち続ける以外はない」という覚悟。久野勇という男の核ができた。
79年5月、池田先生が会長を辞任した直後、神奈川文化会館に駆け付けてもいる。この日も師匠は、胸を張っていた。
心の高みを仰ぎ続け、戦争で生き残った者として恥じぬ生き方を貫く。
題目、折伏、学会活動。全てを粗末にせず、ガード下の仲間とたくましく生きてきた。電車のごう音と唱題の響きを聞かせながら、4人の子を心豊かに育てた。創価の学びやにも送った。
やがて髪が白くなり、「生」に円熟味が増す。 たどる道にも明暗があったはずだ。
しかし「全てが順調だった」と白い歯を見せる。試練に直面しないことが順調なのではなく、試練に直面した時の構えが順調だったと。真実の師弟に生き抜く人の辞書に「敗北」の二字はない。
薄くなった胸板の奥に刻まれていた。
日々 不撓
日々 勝負
池田先生からもらった気迫の筆致だ。
言うまでもなく、小売店を取り巻く環境は厳しい。大手量販店の台頭、価格競争の激化……。しかも昨年、久野さんは転んで肋骨を5本折った。これを潮に4人の子から引退を持ちかけられた。
かたくなに拒んだ。「生きがいのため」だった。
いかに散るか――。 若き日の問いに、いや応なく向き合う老境に入った。久野さんが信心していることを、近所の誰もが知る。
店は城。喝采を浴びずとも、老兵は広布の旗を黙って掲げる。それこそが「生きがい」なのだと。
胸に秘める一節がある。
「特別のことがなくても、人は一度は死ぬことが定まっている。したがって、卑劣な態度をとって、人に笑われてはなりません」(御書1084ページ、通解)
「死」は一定。いかにして常勝関西の土に返るか。己の中で「死」を解決した。
命の限り、重ねるつもりだ。出獄の日に胸を張った師と、今の自分を。そこに久野翁の本当の誇りがある。
不撓の志を深い根に、己の一輪をガード下で咲かせている。93歳、人生の旬を迎えた。
妻の桂子さん㊧と久野さん