聖教新聞連載〈with あたなと一緒に〉2020.2.6(木)第5面
#在日コリアン
文化は瞬間に、差異を超える〈信仰体験〉
連載「with」では、日韓のはざまで生きる在日コリアンの方を取材し、相互理解の意味を考えます。在日3世の朴知映さん(39)は、韓国の伝統舞踊に、自身が学んだクラシックバレエの要素を取り入れ、「韓国新舞踊」として磨いてきました。信心と巡り合い、朴さんが見いだした「芸術の力」とは――。
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文化交流の貢献に対し表彰も
芸術は生まれた時からそばにあった。祖父は戦前、日本に渡り、歌で人気を博した。在日2世の父は、民族同胞のため、歌舞団の団長を務め公演を重ねた。
在日コリアンが多く住む福岡県内の団地で、私は幼い頃から母国の歌を聴き、ピアノを習った。幼稚園から民族学校に通い、踊りの稽古に没頭した。「舞踊の専攻がある」と、勧められるままに進学した朝鮮大学校。だが、舞踊の授業は数える程しかなかった。
その頃から、環境に違和感を覚え始めた。授業で、同胞の未来を議論しても、結論は「在日社会のために頑張ります」とだけ。「どういう未来を、どうやって開くか」は、誰も明確に示せなかった。
卒業後は民族学校の教員となった。教育にやりがいを感じたが、生き方には“痛み”を感じていた。
“同胞社会に一生をささげるのが、私のやりたいことなのか”。出口のない迷路を、さまよう感覚。結局、在日3世の夫との結婚を機に2年で退職したが、人生に対する違和感は消えなかった。
在日に生まれ、親が認める相手と結婚し、同胞社会を維持するために生きている。30歳になった時、感情が爆発した。「私は朴家の家紋のために生きているわけではありません」。両親と決別し、新たな道を模索した。
起業し、エクササイズのインストラクター資格を生かして、美容商品を販売した。
だが笑顔いっぱいにお客さまを褒めても、心は満たされない。私自身が“乾いて”いたから。何を目指して、どう生きるか――失われた30年の人生を取り返そうと、恨の心(コリアン文化の特徴ともいわれる悲哀、痛恨の心)で働いたが、納得のいく答えにはたどり着かなかった。
3年後、人生を変える出会いが訪れた。商工会議所に所属する経営者の先輩から、創価学会の話を聞いた。「利他」という言葉が心に残った。御本尊の前に座り、題目を唱えた。祈りが深まるにつれ、両親、親戚、民族学校の同窓生、これまで関わりのあった人が一堂に会している映像が脳裏に浮かんだ。
私は涙した。束縛と痛みしか感じてこなかったが、“この人たちの存在があって、今の自分がいる”と思った。“拒絶していた在日という存在を、あらためて受け入れよう”
題目の力に手応えを感じ、2013年(平成25年)10月に、創価学会に入会した。その後、両親とも絆を結び直すことができた。
信心と出あい、私の舞う「韓国新舞踊」も変化した。諦めの心という魔を断ち切る「生の力強さ」を剣の舞に込めた。創価学会の福岡研修道場に立つ「韓日友好の碑」を目にしたのも、同じ頃。入会から5カ月後のことだった。
「アボジ(父) オモニ(母)の叫喚は/我が魂に響き その痛み須臾も消えず」
衝撃だった。それらは、日本社会で口にすれば争いを招くと思い、私自身がふたをしてきた、歴史の記憶と民族の心だった。それをあえて表明し、後世まで残る「碑」にした日本人がいる。池田先生の同苦と励ましを感じた時、師弟の精神が、バッと私に通った。
韓日友好を自らの使命と決め、本格的に動きだした。2015年、博多民踊とコラボレーションして、韓国新舞踊のディナーショーを。17年5月には、日本、中国、韓国、ベトナム(越)の歌と楽器と舞踊の芸術家たちによる「LH世界平和芸術祭」を開催した。この舞台で、ベトナム戦争に端を発する在韓ベトナム人とも共演した。
序幕では、出演者たちが日中韓越の衣装をまとい、アリラン(韓国民謡)に合わせ、そろい踏みした。フィナーレでは、全員が手を携え高く掲げた。その時、観客も演者も、会場が一つになった。国籍を超え、皆が尊敬の気持ちで見つめ合う世界。瞬間に実現する奇跡。それが文化・芸術だ。以降、舞台を踏みながら、プロデュースやマネジメント業も担っている。
踊りは、私のありのままの個性を輝かせ、見てくださるお客さまの素晴らしさをも、照らし出す。素晴らしさとは、勇気であり、明日への希望であり、行動力……信心でいう「仏性」だ。自らに内在する無限の可能性を、誰もが開いていける――それが、池田先生が、私に教えてくれたことだった。