200社以上の創業支援

45歳で行政書士に。認知症の母との歩み〈信仰体験〉2020年4月1日聖教新聞

200社以上の創業支援に尽力

【埼玉県蕨市】近年、主婦や学生でも起業する人が増えている。その一方で、個人事業所の創業後の廃業率は3年後で約6割、10年後だと約9割に上るともいわれている。田幡悦子さん(63)=地区婦人部長=は45歳で、行政書士に転身。以来、200社以上の創業支援に携わってきた。

その胸には、“一緒に夢をかなえたい”との情熱が輝いている。

http://www.tabataoffice.com/index.html

・・・・・・・・・・・・・・・・ 〝おせっかい〟精神

一人一人との縁を大切にする田幡さん(左)

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行政書士は、各種法人の設立手続きや官公署に提出する書類をまとめたり、契約書や遺言書など権利や事実を証明する書類を作成したりする。扱う書類は約1万種類ともいわれる。事務所によって主力業務は異なり、田幡さんが足場にしているのは創業支援だ。

「こんにちは!」。この日、田幡さんの事務所を訪ねてきたのは、販売業での独立を志す青年。ニコッと迎え入れ、「さあ、夢を一緒にかなえましょう!」。

事前に電話で聞いた事業計画をもとに、話を丁寧に聞き具体化していく。法人形態や資金、人員などを検討・策定し、文書にまとめる。客観的に分析し、不明瞭な部分は指摘し、内容を詰めていく。

起業計画がようやく固まると、青年の表情が柔らいだ。「ここまで丁寧に、話を聞いてもらえるとは思いませんでした」。10日後、青年は無事に事業をスタートさせた。

田幡さんは2003年の独立以来、200社以上の立ち上げに携わってきた。また、農家の高齢化で放置されている農地や後継者などの課題解決のため、県の農業経営法人化のスペシャリストとして、農業の法人化を推進している。

「同業者から、そこまで親身にならなくてもと言われることがあります。でも、創業はゴールではなく、スタート。学会活動で培った“おせっかい”精神で、どこまでも寄り添っていきます」

人生を応援する

田幡さんは短期大学卒業後、商社に勤めた。だが、仕事といえば、掃除やお茶くみばかり。“もっとやりがいのある仕事がしたい”と電機メーカーに転職。海外営業の部署で昼夜を問わず働き、所属していたチームは2度の社長賞に輝いた。

その後、大手事務所の女性弁護士が独立する際、パラリーガル(弁護士の監督下で、書類作成や調査などの法律事務を担当する者)として働くように。事務所の設立から携わった。

転機は42歳の時。母親が親戚の借金の保証人になり、自宅が抵当(借金の保証)に入りそうになった。弁護士の対処で事なきを得たが、“同じように法律や手続きで悩む人に寄り添える人になりたい”と考え、行政書士を志した。

働きながら、寝る間を惜しんで勉強した。3年後に行政書士試験に合格。ファイナンシャル・プランナーの資格も取得し、翌年、さいたま新都心に事務所をオープンした。

その頃、「中小企業挑戦支援法」が施行され、資本金1円でも起業が可能に。仲間たちと起業セミナーを開催。延べ1600人が受講した。一人一人と真摯に向き合った。

IT業界での独立を相談に来た男性がいた。誠実がにじみ出る人。「当時、IT関連もまだ珍しい分野でした。こんなことが商売になるの?と。だから、専門書を読んだり、データを分析したり。力になりたいと必死で勉強しました」

その後、男性の会社は業績を順調に伸ばし、数年後には都内に本社を構えるまでに。彼は「田幡さんは、わが子のように、私の会社を大切に育んでくれました。仕事だけの関係にとどまらず、“人生を応援したい”という熱が伝わってくるんです」と。

独立して数年後には、丁寧な仕事ぶりが評価され、県の創業支援専門のアドバイザーに就任した。また、NPO法人「さいたま起業家協議会」の副理事長として、大企業の経営者を講師に招いての研修会などを企画した。行政や取引先からの信頼は抜群。創業支援の担当数は県内トップを誇った。

☜母・フミさん㊨と。田幡さんは「一人の人をどこまでも大切にする母は、私の目標です」と(写真・本人提供)

宝のひととき

“いよいよこれから”と思っていた2012年(平成24年)、母の異変に気付いた。

母・フミさんは右足に感染症を発症。出歩けなくなるなど、できないことが増えた。しばらくすると「ご飯はまだ?」と何度も聞くように。アルツハイマー型の認知症だった。

35歳で夫を亡くし、3人の幼子を抱えた母。その頃、入会し信心を貫いてきた母。何でも一人でこなす、気丈な母だった。

“なぜ、こんな時に”という迷いと、“私が母を守る”という覚悟が交錯する。祈り考えた末、仕事と介護の両立を決めた。仕事の規模やスタッフを縮小し、事務所を自宅近くへ移した。行政書士会や他の法人の役職も降りた。断腸の思いだった。

仕事に出掛けようとすると「一緒に行く」と言う母。仕事中は10分おきに電話が鳴る。階段から足を滑らせて、けがをしたことも。何度も心が折れそうになった。“介護離職しようか……”

そんな田幡さんを支えてくれたのは、同じように悩む同志の体験や本紙に掲載された介護の記事だった。

そして、池田先生の「高齢者と接して、老いの苦しみと同苦していくなかで、一ミリでも自分の人生が深くなったといえれば、それが勝利なのです。境涯が広がったということです」との言葉を読み返した。

それからも状況は変わらない。しかし、田幡さんの心が変わっていく。「これが、私を支えてくれた母への恩返しであり、かけがえのない時間だと少しずつ思えるようになりました」

17年9月、フミさんに子宮がんが見つかった。末期の状態だった。それでも、けろっとして、デイサービスを訪れると、みんなを笑わせていた。

3カ月後の亡くなる前夜、食事ができないほどに衰弱していたが、姿勢を正して田幡さんに笑顔で「ありがとう、ありがとう」と何度も。

☜母・フミさんが遺したノート。「悦子との絆、本当にありがとう。私の生きがいです」と

しばらくして、遺品を整理した。数冊のノートが出てきた。母の懐かしい字。目に留まった言葉がある。

「壁にぶつかったら、原点に戻れ。先生の指導。自分の原点は昭和33年8月10日、絶対に忘れない。負けじ魂ここにあり!」

原点の日――それは、母が夫を亡くした日だった。

「母は何があっても、弱音をはきませんでした。負けませんでした。そして、最期まで、人を笑顔にすること、感謝することの大切さを教えてくれたんです」

幸せは自分自身がつくるもの

仕事と介護を両立した5年間。その時間を振り返る時、田幡さんはにこやかだ。

「苦労人の母はよく言っていました。『幸せは他の人が決めるものじゃないの。どんな環境であっても、その人自身がつくるものなのよ』と。介護というと一見、出口のない苦しいイメージがあるけど、私はその経験があったから、依頼者の葛藤や悩みに心から共感できるようになりました。これからも、縁する人に寄り添い続けたい。それが、母が教えてくれた生き方だから」

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