教師とは 子どもの可能性を 信じ抜く人!
【山口県下松市】自閉症、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、小児うつ……。そうした子どもたちに、限りない慈愛を注ぐ大久保敏昭さん(59)=久保支部、副本部長。「臨床心理士」「学校心理士」の資格を持つ小学校校長として、日々、奮闘している。信頼厚き校長の胸中には、創価大学の教育学部1期生として刻んだ、青春の誓いがあった。
43歳の挑戦
教員人生を大きく変えた出来事がある。
25年前、3年生の国語の授業で、「手ぶくろを買いに」を教材に学習していた時だった。
――母ギツネは、「おててが冷たい」と嘆く子ギツネの片手を、人間の手に変える。
「こっちの手を出すのよ。キツネだって分かると、おりの中に入れられちゃうから」。そう言って銀貨を手渡し、町へ手袋を買いに行かせた――。
大久保さんは、児童に問い掛けた。
「なぜ母ギツネは、子ギツネと一緒に町へ行かなかったのかな?」
教室のあちこちから手が挙がる。
「昔、人間に追い掛けられたからよ」
「いや違うよ」
さまざまな意見が出るなか、ある児童が発言した。
「母ギツネは、子どもが嫌いなんじゃ!」
衝撃を受けた。どう声を掛けたらいいか、言葉に窮した。この児童と実母は、ある事情で別居中だった。
教員として、年々経験を重ねても、子どもたちの心を理解するのは容易ではない。困難さが身に染みた。
大久保さんは、臨床心理学を学ぼうと、43歳で大学院に入学する。教える側から学ぶ側になり、懸命に挑戦した。
2年間で修了すると、病院の精神科・心療内科のカウンセラーとして実習に取り組み、悩みを抱えた子どもたちや保護者と向き合った。
「どうしたかな?」
「……うん」
言葉にならない声。子どもの心の声を聴こうとした。やがて児童は、秘めた苦悩を少しずつ語ってくれるように。
両親の離婚、家庭内暴力……。良い子と思われる児童にも、学校で見せない涙が、そこにあった。
心の叫びと向き合い、喜びも悲しみも包み込める教師でありたい――そう深く祈り、大久保さんは再び、学級担任として児童と向き合った。
青春の原点
ある年、5年生の担任になった。学級崩壊を繰り返したクラスだった。授業中に大声を出し、すぐにけんかをしてしまう児童が気になった。「アスペルガー症候群」と診断されていた。
「本当は、けんかしたくなかったんでしょ?」。児童に尋ねると、泣いて訴えてきた。「でも、つい嫌がることをやってしまうんだ……」
感情の起伏と自己否定。ついに、教室に入れなくなった。
子どものために、何ができるのか。思い出したのは、創価大学での原点だった。
――1976年(昭和51年)4月。大久保さんは、創大に新設された教育学部の1期生として入学した。が、志望した道ではなかった。転学しようと、他の大学の入試問題集を持参していた。しかし、創大生の熱意に圧倒される。大学の講義にも魅了された。
命に刻む言葉にも出あった。「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」。第6回創大祭で創立者・池田名誉会長が創大生に贈った箴言――。“学友、教授、そして創立者。良き縁が、私の生き方を変えてくれた。今度は、子どものために、教師である自分が変わろう”
カウンセリングの知識・技法を生かし、毎日のように、児童の家庭を訪ねた。そして真剣に御本尊に祈り抜いた。
半年後、母親が打ち明けてくれた。離婚した夫から家庭内暴力を受けていたことを知った。
“母親が虐待されるのを見てきた心的外傷後ストレス障害(PTSD)ではないか? 母親を守れなかった思いが、自己否定につながり、クラスでの対人関係に影響しているのでは”
精いっぱい認めてあげる、包み込んであげる――そうした触れ合いを重ねるうち、児童は落ち着きを取り戻していった。
確信の祈り
児童と向き合い、行動記録を取り、正しく関われば、必ず成長できる。大久保さんは、そう実感した。
「発達障害」という診断名で決め付けてはいけない。子どもには、無限の可能性がある。揺れる心を敏感にキャッチすることが大事――そうした取り組みを学校全体に広げたいと、教頭に就いた。
養護教諭やスクールカウンセラーで支援チームをつくり、放課後には担任教諭と一対一で話し合った。それは想像以上にハードな戦いだった。
教頭2年目、自身がパニック発作を起こした。脂汗がにじみ、動悸を繰り返す。“迷惑は掛けられない。もう教師を辞めようか……”
そんな時、妻・真由美さん(58)=支部副婦人部長=は、「夫婦で宿命転換をしよう」と共に祈ってくれた。同じ教師として、誰よりも理解してくれた。
創立者の慈愛の励ましも思い出した。
「教師とは子どもの心に希望の炎をつける人です。子どもの可能性を信じ抜く人です。人間の心を動かすのは、人間の心だけなのです」
大久保さんは、人生で「これ以上ない」というほど、題目を唱えた。確信の祈りが生命力を引き出し、病を克服する力に変わる。次第にパニック症状を起こさなくなった。
その翌年の2012年(平成24年)、校長に推薦された。
今、学校目標を「生き方を深め、すてきな大人に育つ」と決め、学校運営に力を注いでいる。臨床心理士として、授業を参観するのが日課だ。
「子どもを救っていけるのは、教師である私自身!」――その信念で寄り添い続ける。(中国支社編集部発)