要旨

植村玄輝「フッサールによる「世界無化」の考察は何をどこまで示したのか*」

超越論的現象学という哲学的プログラムに好意的なフッサール解釈者にとって、世界無化の考察は悩みの種であり続けてきた。『イデーンI』第49節でフッサールは、世界が無化された後にも意識が残り続けることを示すというそれ自体かなり問題含みの議論(この議論は第二節で詳しく取り上げる)から出発して、次の二つの主張へと至っているように見える。

(1) 意識は完結した内在的領域であり、物的な世界から独立して存在する。

(2) 物的な世界は志向的な存在であり、それに相関する意識に相対的にのみ存在する。

(1)によって意識の依存的存在という一見すると自明な考えが否定され、他の何にも依存しないといういみでの絶対性が意識に対して認められる。そして(2)によって、物的な世界が意識から独立して存在するというこれまた一見すると自明な考えも否定される。これら二つの主張は、額面通りに捉えるならば、物的な世界にはそれに属さない存在論的基盤があり、その基盤は非物的でいわば「心的」ないし「精神的」であるという主張へと通じているように見える。これが超越論的現象学の形而上学的含意のひとつだとすれば、フッサールが後に自分の立場を超越論的「観念論」と呼んだことには納得がいく。だが、そうした強い形而上学的見解を帰属させることは、フッサールを今なお真剣な検討に値する哲学者ではなくしてしまうのではないだろうか。こうして好意的な解釈者の多くは、フッサールの超越論的観念論を信じがたい立場にしないために、世界無化の考察をうまく処理するという課題を引き受けることになる。このとき典型的になされる評価は、『イデーンI』の世界無化の議論は、フッサールが本来ならば行うべきものではなかったものであり、実際にこの議論から帰結する見解をのちのフッサールは克服しているというものである**。

だが、実情はこのようにまとめることができるほど単純ではないように思われる。というのもフッサールは、1920年代以降にもいくつかの講義や研究草稿で(ときに『イデーンI』に明示的に言及しつつ)世界無化の考察をふたたび取り上げるからである。それらの講義や草稿には「世界なき意識は可能か」という問いを開かれたままにしているものも含まれるが、少なくとも明確な答えが与えられている場面では、フッサールは(ほとんど)いつでも『イデーンI』の立場を保持し続けるのである***。そのため、世界無化の議論が何を示しているにせよ、それをフッサールの公式見解から除外するような解釈は修正的・改定的なものであると言わざるを得ない。

およそこのような事情を背景に、われわれは本論で『イデーンI』の第47節から第49節を読み直したい。われわれの考察は以下のように進む。「1. 議論の文脈」では、『イデーンI』当該箇所をそれが含まれる同書第二篇の議論の脈絡の中に位置づける。「2.『イデーンI』第47–49節」では、そうした文脈を踏まえたうえで、関連する講義・草稿を適宜参照しながら、第47節から第49節での議論を追跡する。これら二節での作業を通じて、『イデーンI』第47節から第49節におけるフッサールの議論は、現象学的還元という操作を経ずに、つまり自然的態度の中に留まったままで超越論的観念論の主要テーゼである(1)と(2)を導くものとして姿を現すことになる。最後に、この帰結を踏まえ、現象学的還元の役割とその後のフッサールの超越論的現象学の展開についていくつかの所見を述べる

* 本発表は、発表者が2013年に哲学会のワークショップで行った報告の改訂版である。

** Cf. Rudolf Bernet, La vie du sujet (PUF, 1994).

***例えば以下を参照。VIII: 55, 74 [WS 1923/24]; Ms. F IV 3, 57a [wohl 1925]; XXXIX: 221 [wohl 1926]; III/2: 634–635 [um 1928]; XXXIX: 224–230 [wohl 1930]; Ms. B I 13 VI [1931]; XV: 151 [wohl Ende 1930, oder 1931]; XXIX: 85 [1935].

峯尾幸之介「M・ガイガーによる価値美学の基礎づけ」

ミュンヘン学派の現象学的美学者M・ガイガー(1880–1937)は、美学という学問のうちに二つの可能性、すなわち「事実美学Tatsachenästhetik」と「価値美学Wertästhetik」を認めている。ガイガーの美学研究の大部分は、主観の美的態勢にかんするものであり、たとえばその代表が初期論文「美的享受の現象学への寄与Beiträge zur Phänomenologie des ästhetischen Genusses」(1913)における美的享受の心理学的研究である。しかしながらかれの念頭にはつねに価値美学の構想があったのであり(「美学は美的価値の学問である。」)、この論文においてもすでに価値美学的問題の重要性が示唆されている。そして、このような立場は遺稿「芸術の意義Die Bedeutung der Kunst」(1976)において、とりわけ心理学的方法による事実美学(そのほかには、社会学的、歴史学的、進化論的な美学)との対立のうちで提示されているのである。ガイガーは二つの異なる美的体験様式に注目することによって、事実美学と価値美学の対立、その原因を説明している。つまり、美的体験様式のうち「享受Genuß」を開始点とする場合において美学は事実学となり、「適意Gefallen」を開始点とする場合にそれは価値学となるのである。享受と適意はいくつかの観点にもとづいて区別されることになるが、とりわけ重要であるのは、もっぱら適意という体験様式においてのみ価値が捕捉されるということである。「適意には分別がありsehend、享受は盲目blindである。」こうしたことを確認しながら、本発表においては、「美的享受の現象学への寄与」および中期論集『美学への通路Zugänge zur Ästhetik』(1928)を参照しつつ、最終的に「芸術の意義」において結実する(あるいは、するはずであった)かれの価値美学の全体像を描き出すことにしたい。

シンポジウム「知覚は誤らないのか:エコロジカル・アプローチをめぐって」

メルロ=ポンティの主著を引き合いに出すまでもなく、フッサールにおけるその端緒から、知覚の分析は現象学において中心的な役割を果たして来た。直観における明証にその最終審級を求める方法論的態度と、直観による充実化との相関において個々の作用の志向的内容を特徴づける志向性理論のアイデアは、初期の現象学において既に知覚にある特権的位置を与えていたものである。無論のこと、認識論的な哲学の体系の中で知覚に何らかの中心的な位置を与えること自体はさほど珍しいものではない。しかしながらそれ以前の哲学の伝統における知覚の扱いに対して現象学におけるそれを特徴づけるものがあるとすれば、それはフッサールやメルロ=ポンティといった人々による知覚の分析が、まさに個々の具体的な知覚という現象の様々な奥行きと多様性に寄り添った分析であったことだろう。こうした、具体的な経験の肌理細やかな豊かさを掬い取るという方針は、多くの現象学者が他の哲学的伝統に対して己に誇って来たものである。

こうした特徴づけは、そうした具体性に即した知覚の分析が現象学以前においても存在しなかったわけではないという点においていささか誇張を含んではいるが、フッサールやメルロ=ポンティの果たした仕事の意義を評価する、という点では眼目のないものではないだろう。とはいえ、フッサールはもちろんのことメルロ=ポンティの没年から数えても、既に五十年以上が経過している。その後の現象学研究において、知覚の分析が常に研究のメインストリームであったとは到底言えないし、また数十年前の現象学者の果たした仕事がどれだけ偉大であれ、現在においても現象学が知覚の分析の最先端であるということはそこからは帰結しない。近年、知覚の分析において目覚しい研究成果がフッサール研究の業界を賑わす、といったことはあまり眼にしないのではないだろうか。

こうした視点から見ると、近年の知覚論研究はむしろ認知科学や分析哲学の方面で活況を呈している。日本においても知覚論を専門とする若手の分析哲学者が活発に活動しているし、2014年にウィリアム・フィッシュの定評ある入門書が邦訳されて以降、こうした分析哲学における知覚論の隆盛はぐっと近づき易いものになったと言えるだろう。それに比べて、現象学研究における知覚論研究は下火になってしまったようにも見える。

そうした状況の中、このフッサール研究会でも創設期から活躍されていた、フッサール現象学にも造詣の深い染谷昌義氏の著書『知覚経験の生態学:哲学へのエコロジカル・アプローチ』が今年刊行された。だが、染谷氏の著書は、現象学から多くのヒントは得ているものの、知覚は誤らないという主張のもと知覚の表象的性格を否定し、環境の存在論からのアプローチを主張して現象学をはじめとする方法論的独我論を批判するなど、現象学研究者にとって手放しで味方として歓迎できるものとは言い切れない。認知科学・心理学の分野とも接しながらもやや異色なこのエコロジカル・アプローチからの刺激的な提案を受けて、知覚論研究の今後についてどのような展望が拓けるだろうか。今回のシンポジウムでは、同書著者の染谷昌義氏に問題提起をいただき、分析哲学の知覚論に詳しい小草泰氏、フッサール研究者であり分析哲学の議論にも通じている葛谷潤氏に、染谷氏の議論に検討を加えていただく。