個人発表要旨・シンポジウム趣旨

岩内章太郎 思弁的実在論の誤謬――フッサール現象学は信仰主義か?

カンタン・メイヤスーは『有限性の後で』において、カント以後の西洋哲学が素朴実在論に陥ることを回避するために、思考と存在の相関関係にのみアクセスできるという認識を徹底化したと論じた。そして、思考と存在の相関性を乗り越え不可能な性格であるとする哲学を「相関主義」と呼んで非難している。メイヤスーによれば、相関主義の帰結はあらゆる主張が一つの信仰の形をとらざるをえない「信仰主義」である。

メイヤスーの議論を土台にしながら、トム・スパロウは『現象学の終焉』と題された著作のなかで、現象学が本質的に相関主義であり、信仰主義であることを主張する。スパロウによれば、第一に、現象学的であることの意味が多義的であり未決のまま止まっていることは現象学の致命的な欠陥であり、第二に、仮に現象学という学問領域の自立性を認めたとしても、現象学的方法では真の意味で実在にはアクセスできない。彼によれば、現象学はすでに終わっているのであって、思弁的実在論こそが実在論に新たな可能性を拓くのである。

このようなスパロウの議論に対して、現象学の立場から大きく二つの反論の方向がありうるように思われる。一つは、現象学が方法的に観念論の立場をとる理由を明らかにすることによって、現象学の相関主義が「真理に関する論争」(クラウス・ヘルト)を調停し、普遍的な本質認識を獲得するために採用される方法的態度であることを示すことである。もう一つは、現象学の相関主義が実在性の本質条件を主題化しうるのであり、また実際に現象学者は実在性について探究してきたことを明らかにすることである。

本稿では前者の立場から思弁的実在論の現象学批判へ反論を試みる。相対主義を乗り越えようとする思弁的実在論の動機は評価できるが、思弁的実在論は巧妙に偽装された独断主義であり、むしろその形而上学こそが理性への不信を招き、信仰主義に繋がるものではないだろうか。現象学の相関主義は、本質認識を獲得するための方法的な相関主義なのであって、信仰主義を帰結しないのである。

(早稲田大学国際教養学部助手・早稲田大学国際コミュニケーション研究科博士課程)

峯尾幸之介 M・ガイガーの内在的心理的実在論について

M・ガイガーの自我観、とりわけ自我の「表層Oberfläche」と「深層Tiefe」という見方は、一般にかれのかつての師Th・リップスのそれに由来すると言われている。リップスの心理学的美学においてそうであったように、たしかにそうした自我の見方はガイガーの美的価値体験論を読み解くうえでキーとなるものであった。しかしその反面で、このような自我観ゆえに、ガイガーにおける主観、したがってかれの美学もまた現象学の枠外にあるものとされることがあり、たとえば木幡順三はそうした理由から「ガイガーの美学を百パーセント現象学的とはいえない」(『美意識の現象学』、100頁)と指摘している。ところが、――これについては、木幡も言及しているのであるが――ガイガーはみずからの心理学上の立場を、リップスのそれと差別化しているのであり、かれはみずからの立場を「内在的心理的実在論」として、リップスなどの「体験観(ないし体験実在論)」に対置する(Geiger, „Fragment über den Begriff des Unbewußten und die psychische Realität,” S. 54)。そしてこのガイガーの実在論は、現象学的立場――少なくともかれ自身が理解する現象学――とは必ずしも相容れぬものではなかったのである。ガイガーは実在の問題に無関心な純粋現象学を、実在への問いを立てる哲学から区別しているが、かれ自身としても純粋現象学的な問題ばかりなく、まさに実在というもの、ここでは心の実在性という問題にも取り組んでいる。ガイガーは論文「無意識の概念と心理的実在についての断章」において、「意志Wollen」の問題を取り上げながら、心という存在は体験されるとしても、体験には還元されず、ある種の実在性をもつということを証示するのである。そこで本発表では、ガイガーの現象学的実在論の内実に踏み込みながら、これまで注目されてこなかったかれの心理的実在論について論及することにしたい。

(早稲田大学大学院文学研究科人文科学専攻哲学コース博士後期課程2年)

佐藤大介 『イデーンI』からみるフッサール時間論の位置

フッサールは、時間論を最晩年に至るまで繰り返し取り上げ、これに多くの思慮を重ねた。この事実は、フッサールが時間論を自身の哲学にとって重要な位置を占めることを認めていたことを示している。しかし、フッサールは、この思慮の成果をみずからの手で直接まとめて公刊することはなかった。時間に関する思索が膨大な量の断片的な草稿として残されたことは、今日ではよく知られている。

フッサールは公刊された著作において、時間論が公刊著作における思索に対して如何なる位置を占めるかを明確にしていない。それゆえ、この位置づけは、フッサール研究に残された課題の一つとなっている。この課題を果たすことは、時間論に関する断片的な諸草稿を読解する際に、それらが恣意的に理解されることを防ぐ点で有益である。

本論の目的は、フッサールの時間論が、認識の正当性の源泉は「直接的に見ること」にあるというフッサールの根本的主張を擁護するために必須の議論に位置づけられるということを、論証することにある。この論証は、『イデーンI』における議論を再構成することによって行われる。フッサールは『イデーンI』において、「直接的に見ること」が認識の正当性の源泉であることを基礎づけるために、「見ること」において働く意識の志向性がどのようなものかについて論じている。この論述において、時間論の重要性が示唆されはするが、時間論は棚上げされることが明記されている。したがって、次のように考察を進めることで、本論の目的を果たすことができる。まず、フッサールの根本的主張とこれに対して立てられる認識論的問題とそれを解決するための現象学的方法を再構成する。次に、その認識論的問題に関する議論がどのように展開されるかを再構成する。そして、この議論が時間論を棚上げしたために不十分なものにとどまることを指摘することで、時間論がフッサールの根本的主張にとって必須の議論に位置づけられることを浮き彫りにする。

(岡山大学大学院社会文化科学研究科博士後期課程)

シンポジウム「現代現象学の批判的検討」趣旨文

現象学が20世紀の哲学の展開に大きな影響を与えたことは疑いえない。また、今日「現象学」という言葉が哲学を越えて様々な領域で用いられるようになっているのも事実である。だが、現代の哲学的な議論において、現象学になおも何かしらの貢献を期待することはできるだろうか。哲学としての現象学はすでに歴史的研究の対象となってしまったのではないだろうか。

2017年に刊行された植村・八重樫・吉川編『ワードマップ現代現象学』(新曜社)(以下『現代現象学』)は、入門書でありながら、現代における哲学としての現象学の可能性を吟味する上で有益な素材を提供してくれるように思われる。著者たち曰く『現代現象学』の目的は、フッサールをはじめとした古典的な現象学者の解説ではなく、「哲学としての現象学を現代に蘇らせ」ることであり、そのような目的を達成するために、現象学的哲学の基本的な発想と、哲学の伝統的な諸問題に対する現象学的なアプローチが提示される。著者たちが提案する「一人称観点から経験を探求することで世界を理解する」というプロジェクトに乗ったとき、同時にどのような理論的課題を引き受けなければならないのか。個々の哲学的問題に対して彼らが提示する現象学的な議論は、既存の議論と比べてどの程度見込みがあり、またどの程度新奇性があるのか。従来の現象学に向けられてきた批判に対して、彼らは十分に応答できているだろうか。古典的な現象学の中には、彼らとは別の仕方で現代現象学を展開するためのさらなる資源がないだろうか。現象学が現代哲学におけるひとつの理論的選択肢となるためには、こうした問題に継続的に取り組み、最初のプログラムをときに修正しつつさらに発展させていくことが必要となるだろう。

こうした問題意識のもと、本シンポジウムでは、現代哲学の様々な分野において活躍されている、荒畑靖宏(慶應義塾大学)、鈴木生郎(鳥取大学)、戸田山和久(名古屋大学)の三氏を提題者としてお招きし、『現代現象学』を批判的に検討していただく。これにより、現代における哲学としての現象学の可能性や今後の課題が明らかになることが期待される。