第20回研究会(2022)

第20回フッサール研究会

日時・場所

  • 日時:3月12日(土)

  • 場所:オンライン(Zoom)

プログラム

13:00-14:20 入江祐加(香川大学)「精神科学において客観的認識はいかにして可能か? ──ガーダマーのディルタイ批判およびローディのガーダマー批判に導かれて──」

14:30-15:50 村田憲郎(東海大学) ブレンターノ1884/5年講義「基礎論理学とそこに必要な刷新」について

16:00-18:30 フッサール現象学の鍵概念(1)──時間

- 話し手・解説:栁川耕平(北海道大学) 進行:佐藤駿

18:30-18:45 ミーティング


共催:北海道大学 人間知×脳×AI研究教育センター(CHAIN)

発表要旨

入江祐加 精神科学において客観的認識はいかにして可能か?――ガーダマーのディルタイ批判およびローディのガーダマー批判に導かれて――

 人文科学や社会科学は18~19世紀では「精神科学」と呼ばれ、イギリスやドイツの哲学者によって盛んに研究された。しかし、自然科学を基礎づけたカントなどの哲学者とは異なり、精神科学を基礎づけようとした哲学者たちは、明確な体系を打ち出すことができず、「相対性」に陥った。「相対性」とは、それぞれの問題はそのなかでのみ、その価値を判定するべきで、絶対的な価値基準はありえないとする立場である。相対性は、人間の文化や社会の揺れ動きをありのまま捉えようとする精神科学の宿命ともいえる。

 しかし19世紀のドイツの哲学者、ヴィルヘルム・ディルタイは、単に相対性に陥るだけではなく、個々の人間の相対的な活動を捉えることから精神科学の基礎づけのあり方を考える。そこで彼は多様性に満ちた生を探求し、生のなかのさまざまな連関を発見しながら、歴史的‐社会的現実を対象とする学の全体(ein Ganzes)を構築しようとする。彼は生の多様な側面を記述することと「学」をひとつの全体として統括することの両立し難さをふまえたうえで、あえてこの解決しがたい課題を追求しようとしていたのである。

 ここに本稿のひとつの課題が浮かび上がる。ディルタイは精神科学の基礎づけにおいて個々の相対的なものの動きをありのまま捉えることから全体を構築することを目指すが、彼が目指す「全体」の概念はあまりにも多用されすぎていて、その内実は明確にされていない。そのなかに精神科学独自の考え方が本当に表わされているのか、その理念に突き進むディルタイ自身の態度に矛盾があるのではないか批判にさらされてきたのも事実である。この問題に関して有名な批判はガーダマーの『真理と方法』における批判である。ガーダマーの批判は精神科学の基礎づけを行うディルタイの一貫性の欠如を問題としている。ガーダマーによれば、ディルタイは人間の社会や歴史の確実性を基礎づけ、心理学や解釈学を自身の方法として用いるが、そこにおいて使用される「客観性(Objektivität)」、「普遍妥当性(Allgemeingültigkeit)」の意味しているものが不明瞭である。ディルタイのそれらの概念は社会や文化の不確実性や不安定性を否定しているものとも捉えられる。本稿は、ガーダマーのディルタイ批判およびガーダマーを批判したローディの考察を分析し、そのうえでディルタイの精神科学の探求方法の特徴と課題を明確化する。まずディルタイの自己矛盾を批判するガーダマーの『真理と方法』を紹介し(第一節)、その次にガーダマーをディルタイの立場から批判するローディの論文を紹介する(第二節)。二人の論考からからディルタイの精神科学の基礎づけの方法と目的を具体化するための鍵を導き出し、「相対性のなかで客観性がいかにして可能であるか」という問いがディルタイの中心的な問題であったことを確認する。さらにこれら20世紀の重要なディルタイ解釈をふまえたうえで、ディルタイの精神科学の基礎づけが何を目的とし、何に接近していくものなのかをディルタイのテクストから考察する。「内的弁証法」(第三節)、「閉じられた円環」(第四節)という概念を足がかりにして、ガーダマーにおけるディルタイの「客観主義」、ローディの「近似的(approximativ)」という解釈に足りないものは何であるかを最後に考える。

村田憲郎 ブレンターノ1884/5年講義「基礎論理学とそこに必要な刷新」について

 フッサールのブレンターノ追悼文『フランツ・ブレンターノの思い出』によれば、フッサールがブレンターノの講義に出席したのは短い期間であるが、そうした講義の一つが1884/5年の「基礎論理学とそこに必要な刷新 Die elementare Logik und die in ihr nötigen Reformen」である。この講義はブレンターノ文庫に未公刊の講義ノートとして保管されているが、2021年にロリンジャーが自身の著書『ブレンターノの論理学講義における概念と判断 分析と資料 Concept and Judgment in Brentano’s Logic Lectures: Analysis and Materials』の中で、受講したフランツ・ヒレブラントの記録をもとに再現したものを公刊した。こうして数学と哲学とのあいだでどちらに身を捧げるか迷っていた青年フッサールに、哲学を選ぶ決心をさせた諸講義の大部分が接近可能になったと言える。この講義の内容を紹介することが本発表の目的である。

 もちろんフッサールに哲学の道を選ばせたものはなにかが気になるところであるが、本発表ではまずは主な目標を、ブレンターノのすでに公刊されている著作や遺稿集などと比較しながらこの講義の全体像をそれ自体として描き出すことに置き、フッサールに関係する論点は最後に補足的に取り上げたい。講義は24回からなり、冒頭に導入部があり、1章「心的現象とその言語的表現について一定の注記をする必要性」、2章「心的現象の根本クラス」、3章「あらゆる現象の相対性と二面性」、4章「私たちの表象の本性と起源」という構成をもつが、第4章が第9回〜第24回と全体の四分の三ほどを占めている。そこで本発表でも第4章を重点的に紹介する。そこでは記述的心理学のプログラムにしたがって、心的現象の内容のさまざまな特性が議論され、さらに連続体の理論にかんする息の長い考察が見られる。

 まずは『経験的立場からの心理学』や既刊の講義ノート『記述的心理学』とも照らし合わせて、冒頭から3章までの議論を素描する。つづいて第4章の議論を概観し、記述的心理学における内容の理論の地位と内実や、そこにおける諸部分の分類などを見る。さらにそこで中心的なテーマとなっている連続体の理論について、遺稿集『空間、時間および連続体についての哲学的研究』とも比較しながらその性格を描き出す。最後にフッサールと関連する点として、『算術の哲学』でキーワードとなる「集合的結合」と『内的時間意識の現象学』で登場する「根源的連合」との2つの概念について、この講義内での地位を明らかにする。

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フッサール現象学の鍵概念(1)──時間

 これから現象学を学ぼうとする人、専門的な研究を始めたいという人、専門的に研究したいというわけではないにしてもフッサールという哲学者が何をどう考えたのかを知っておきたいという人――。事情は様々であるにしても、「フッサール現象学について知りたい、それがどういう哲学なのかを理解したい」という向きは多いだろう。

 フッサールの残した思索の跡は、そのそれぞれのトピックが「専門分野」として成立しうるほどに大きく、その奥行も深い。しかしその一つひとつは他のそれと必ず通じている。一つひとつがフッサール現象学の全体像を理解するための《鍵》となっているのである。本企画では、これを〈フッサール現象学の鍵概念〉として各回ごとにひとつを取り上げ、「現象学についてよく知らない、知りたい」という方、「現象学を研究しているが、このトピックについてもう少し理解を深めたい」という方、あるいは「必要な情報・知識を広く提供したい」という方など、いろんな立場の方々がそれぞれの立場で理解の共有に参与できる場をつくりたい。

 第1回は当該鍵概念として〈時間〉を取り上げ、関連するテーマについて専門的研究を重ねてこられた北海道大学研究員の栁川耕平さんに解説講義をしていただく。その後、参加者を含めた比較的自由な質疑・情報提供・意見交換・議論の時間を設ける。

フッサール現象学に馴染みのない人はもちろん、多くの現象学研究者にとってさえも、フッサールにおける〈時間〉は最も憂鬱なテーマの一つであろう。それが重要だとはよく言われている(そのため「押さえておかなければ…」とは思う)のに、議論の内容は錯綜しており、謎めいた概念も多く、論点も(場合によっては何がそんなに重要なのかさえも)よく分からない。このような状況を見るに、時間論が「フッサール現象学の鍵概念」の第一回目のテーマに選ばれたのも頷ける。今回は仮想の聴講者として「フッサール時間論に関心を持っている(しかし文献を読んだことはほとんどない)M1の院生」を想定し、彼・彼女らにフッサール時間論の概略を提示することを目標にしたい。

この目標達成のために、今回は特に「体験流」を話の中心にする。この「体験流」に関しては様々な問いが立てられ得る。例えば、そもそもこれは何か、これはどのようなものとして・どのように構成されるのか、これによって何が可能になるのか、などだ。「体験流」にまつわるこれらの問題を扱うことで、時間論における主要な問題に、全てではないにせよ一通り触れることができるだろう。今回は、予持・把持・原印象という知覚の基本的な時間構造、時間意識の無限遡行(の回避)の問題、生き生きした現在と反省の問題、また判断論とも関連する個体化の問題や、間主観性の問題などに言及するつもりだ。