田口茂『現象学という思考』合評会

    • 2015年12月19日(土曜日)、14時-18時

    • 東海大学高輪キャンパス(4号館2階 4201教室)

    • 企画・司会:*植村玄輝(立正大学/高知県立大学)、八重樫徹(東京大学)

    • 提題者:田口茂(北海道大学)、納富信留(慶應義塾大学)、山田圭一(千葉大学)、佐藤駿(東北大学)

開催趣旨

田口茂氏の『現象学という思考:〈自明なもの〉の知へ』(筑摩書房、2014年)は、フッサールを手掛かりとしながらも、ときに大胆にそこから離れつつ、著者自身の手によって(少なくとも広いいみで)フッサール的な現象学を実践してみせる、意欲的かつ異色の——といって差し支えないだろう——著作だ。不意打ちの生活世界論にはじまり、「物」・「本質」・「類型」・「自我」・「変様」・「間主観性」というさまざまなトピックを順番に論じる本書は、あるひとつのアイディアによって貫かれているように見える。それは、日常的な経験を私たちにとってあたりまえの(田口氏がより多用する言い方をすれば、「自明な」)ものにしているのは、そうした経験のうちで非主題的に流動する現れの運動であり、そこで生じている媒介という現象であるというアイディアだ。これによって驚くべき有機的なつながりを各章のあいだに生み出すことに成功した本書は、まさにそのような特徴ゆえに、入門書としても通用する丁寧さを一方で備えながらも、一筋縄ではいかない濃密な論考となっている。これをフッサール研究会の特別企画で取り上げない理由はない。そこで今回は、古代哲学と現代哲学の専門家として納富信留氏と山田圭一氏をお招きし、本書について、それぞれの観点から論評を行っていただくことにしたい。また、フッサールおよび現象学の研究者を代表して、佐藤駿氏にも論評に加わっていただく(ただしその際、「フッサールとの違いを指摘しても、本書の不備を指摘したことにはならない」(26–27頁)という著者の考えは最大限尊重される)。

プログラム

14:00-14:10 イントロダクション

14:10-14:25 田口茂「自著紹介」

14:25-14:55 佐藤駿「流れと媒介」

14:55-15:25 山田圭一

15:25:14-55 納富信留

15:55-16:10 休憩

16:10-16:40 著者の応答

16:40-18:00 全体討論

提題要旨

佐藤駿「流れと媒介」

平易で読みやすい文章、卓抜な表現と比喩、一歩踏み込んだ独自の解釈ーー田口の著書『現象学という思考』(筑摩書房、2015 年)は、現象学(とりわけフッサールのそれ)を研究し、それについて伝えるべきことがあるような人間にとっては、心地好い嫉妬を覚えるような美点をいくつも具えている。「本書が提示しているのは、最終的には、筆者が考える現象学であり、それをスタンダードなものと考えるのは危険である」(26 頁)と断りこそすれ、本書によって提示されている読みと理解が、フッサールの思考に付き添い、ともに真剣に考えた末にのみ展開できる現象学の姿であるということは、フッサールを知る者の眼には明らかだろう。もちろん、その射程は決してフッサール現象学の理解のみに留まるものでないことは付け加えるまでもない。

その本書で用いられるキーワードのひとつが「媒介」である。この語によって示唆されている視点は、そのオリジナリティと含蓄のゆえに読み手にとって少しく困惑を覚えさせる可能性がある(私だけかもしれないということは否定できないが)。そこで本提題では、特に本質と間主観性の論述に関して「媒介」という概念の内容を問い、議論の手がかりとしてみたい。 例えば、田口は本質について二通りの言い方をしている(ように見える)。一方では、諸現象の連合的な無際限の結びつきの媒介者となっているような点のことをフッサールは「本質」と呼んだと書き、また同時に、多様な契機の間の結びつきの現象、媒介の現象そのものを「本質」と呼んでも不適切とは言えないだろうと書いている(120 頁)。このような二つの言い方で本質が語られるとき、その内実は同じものだろうか、それとも異なるのだろうか。このような問いが浮かんでくるのは、媒介という概念の射程と意味内実を私自身があまり理解できていないからだろう。そこでさらに、間主観性について論じられた第七章を参照しながら問いをいくつか重ねよう。田口はフッサール現象学ではお馴染の「感情移入」という言葉を避け、身体の「響き合い」について語り出す。これはフッサールが「対化」と呼んだものでもあり、媒介であり、また変様でもある、と。そうなれば当然、ここで媒介という概念が、本質がそうであると言われた媒介とどのような点で同じか,あるいはどのような点で異なるのかが問題となろう。さらに、田口はいくつかの箇所で、「媒介」というこの語をある現象を指すのにも、また媒介されるはずの当のものを表わすのにも用いているように思われる(例えば、「逆に言えば、『一つの身体』というものは、そもそも響き合いのための『媒介』としてのみ、その存立を確保しているのである」(236 頁)、あるいは「身体は『転換点』として、媒介そのものとしてある」(238頁)など)。これはどのように理解すべきか。そして、媒介はここでは身体の響き合いであり、また変様でもあるということから、私の身体と、私のとも他者のとも言えない無記名の身体との関係への問いも、この関連で生じるだろう。この無記名の言わば「原身体」は、媒介という現象のうちにどのように位置づけられるべきか。

以上のような問いかけを通して、「現象学という思考」が私に見せてくれた風景をより鮮明にすることがで きればと思っている。

山田圭一

私は現在ウィトゲンシュタインが考えていた<熟知している対象に安らっている場面とその安らぎが破れる場面の違い>をどのような仕方で言語化していくかを悪戦苦闘しながら考えているところであるが、本著ではその区別について「類型化」という概念を用いて鮮やかな描写と分析が為されており、この点に関して多くの部分で共感を覚えるとともに、教えられるところが大きかった。さらに、知覚と思考の関係、個別的なものの知覚と抽象的なものの知覚についても現在いろいろと考えているところで、その点に関しても多くの刺激的な議論と考察のための示唆とアイデアを与えていただいた。しかも、それがこれだけ平易で日常的な語り口で述べられているという事実に感嘆せざるをなかった(余談だが、千葉大に一般の方々が読書会を行っている哲学サークルがあるのだが、なかなか現象学の理解が進まないということだったので本著を推薦してみたら、これならわれわれにも分かる、と大変喜ばれた)。

ただ、共感しているだけではあまり生産的な議論にならないし、せっかくの機会をいただいたので、提題では主に言語哲学的な観点から、以下の論点について私が感じたいくつかの疑問を提示してみたい。

1. 類型化の規範性について(本質直観と言語との関係)。

2. われわれは本当に「類型しか見ていない」のか。

3. 原事実の「原」性と超越論的主観性の関係について。

4. 「私」はどこに出てくるのか。

納富信留

田口茂氏の著書は、従来特有の術語が多用されてきた現象学において、それらの特殊な語り口を極力避けながら、私たちが生きる経験の現場を明らかにすることに集中している。この叙述は哲学としての現象学の開かれたあり方を示し、大きな成功を収めていると感じる。だが、それは哲学としてどこまで成功しているのか。田口氏が明瞭に示す現象学の思考様式は、例えば古代ギリシア哲学と対照させることで特徴が際立つ。そこで一見当然のように用いられる言葉が、強固な前提として思考を制約している可能性はないか。このような問題意識からいくつかのキーワードを検討することで、本書に別の光を当ててみたい。それらは「流れ」「意識」「豊かさ」である。

田口氏は私たちの生や経験を「流れる」という表現でくり返し描き出している。「流れ」とは比喩であるとして、一体どういう意味なのか? その装置は多面的で、考察の全体を導く手がかりとなっている。経験が「流れている」として、それは理論上の仮設なのか、観察される事実なのか、方法的なモデルなのか? ここでの考察の多くは「たえず流れている」という経験の特徴づけを外すと、機能しなくなるように見える。それは、すべてを「流れ」として捉える存在論(ヘラクレイトス、ベルクソンなど)と同じか。この点をまず検討したい。

また、本書では「意識」という言葉がさまざまな場面で登場する。近代哲学では当然に用いられるこの概念は、古代ギリシアには基本的に存在しない。私たちが自明だと思い、幅広く用いているこの「意識、意識的、意識化」といった表現は、信頼できるものなのか。それは一体何を意味しているのか?

最後に、田口氏は時折、現象学の思考が明るみにもたらす現象と経験の「豊かさ」に触れる。「豊か」とはどういう意味か? 私たちの生において隠れている経験世界はより豊かなのか。もしそうだとしたら、現象学という哲学の遂行は、私たちの生をより豊かにしてくれるはずである。だが、例えばプラトンの哲学は、感覚する経験を越えた本質の直観により豊かな生の地平を求める。それを覆す現象学は、果たして十分に私たちを説得してくれるのか?

これらの言葉による考察が暗黙に依拠する前提や期待を再検討しながら、さらに疑問を深めてみたい。