第22回研究会 (2024)

第22回フッサール研究会

以下の要領で、第22回フッサール研究会を開催いたします。

日時・場所

日時:2024年3月2日(土)、3日(日)
会場:東海大学湘南キャンパス(14号館1F 14-103教室)
参加費:1000円

会場までのアクセスの詳細情報はこちら(PDF)
・湘南キャンパス、交通アクセス&キャンパスマップ
・駅前ロータリー、および大学までの徒歩の道順
・東海大学前バス停時刻表
・14号館教室一覧
・小田急小田原線東海大学前駅、休日・新宿方面(帰路用)時刻表

プログラム

3月2日(土)

09:40-10:10 受付
10:10-11:30 小関 健太郎 マイノングの価値論と感情の正当性の問題
11:30-12:30 昼休憩
12:30-13:50 池田 裕輔(釧路工業高等専門学校) フッサールと《コペルニクス的転回》? フッサールの現象学的カント解釈について
休憩(10分)
14:00-15:20 上野 裕貴(岡山大学) フッサールは『デカルト的省察』第五省察で、発生的分析を行ったのだろうか
休憩(10分)
15:30-18:30 革新・共同体・真の人間:フッサール「『改造』論文」100周年記念ワークショップ

3月3日(日)

10:10-11:30 栁川 耕平(立命館大学衣笠総合研究機構) 歴史の統一性について
11:30-12:00 ミーティング
12:00-13:00 昼休憩
13:00-13:50 大内 良介(東京大学大学院 総合文化研究科 博士後期課程) 痛みによる身体構成の特異性について
休憩(10分)
14:00-15:20 Adriaan Jeroen Toonen (Okayama University) Interpreting the Crisis: Divergent Perspectives in Husserl’s Phenomenology
休憩(10分)
15:30-18:00 フッサール現象学の鍵概念 (3): 志向性(2)
 話し手・解説:綿引 周 進行:富山 豊

ワークショップ・特別企画

革新・共同体・真の人間:フッサール「『改造』論文」100周年記念ワークショップ

オーガナイザー:植村玄輝(岡山大学)

1923年から1924年にかけて、フッサールは日本の総合誌『改造』に連続論文を寄稿した。「革新のための諸論考」と題され「『改造』論文」とも呼ばれる同論文は、いくつかの観点から、最近の研究者たちの注目を集めている。第一に、「『改造』論文」は、フッサールが自分自身で公刊を意図した著作のなかで、倫理学に関するもっともまとまった叙述を含んでいる。同論文でフッサールは、「革新の倫理学」と呼ぶことができるアイディアを、個人だけでなく共同体に関して展開することを目指しているのである。第二に、同論文は、フッサールの共同体論を論じるための重要な手がかりを提供してくれる。同論文でフッサールは、共同体の倫理学(「社会倫理学」)への取り組みの一環として、共同体そのものについても論じるのである。たしかにそれらの議論はいささか簡潔なものであり、1920年代以降のフッサールが——大部分は研究草稿のなかで——残した議論の一部でしかない。しかし、フッサールが「『改造』論文」の公刊を意図していたということを踏まえるならば、そこでのフッサールの発言は、相応の重みづけでもって受け止められなければならないだろう。第三に、同論文は、後期フッサールの思想をより広い観点から理解するためには避けて通れない著作である。「真かつ真正の人間」をめぐって同論文で展開される議論は、晩年の未完の主著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の原形とみなすことができる。この点に関して「『改造』論文」と『危機』のあいだにどのような共通点があり、どのような違いがあるのだろうか。こうした問いに答えることによって、1920年代から1930年代にかけてのフッサールの思想の発展について、よりよい見通しが得られるはずである。

以上のような見立てのもとで、本ワークショップは、フッサールの「『改造』論文」のさまざまな意義を明らかにすることを目指す。より具体的には、同論文の概要の報告に続いて、以下のトピックについて、登壇者たちの共同研究の成果を共有したい。

「『改造』論文」のさまざまな文脈
フッサールの社会倫理学はどのようなものなのか
「『改造』論文」はどうして本質論(第2論文)を含むのか
「Menschheit」はどのような共同体か
「革新(Erneuerung)」とは結局何なのか

登壇者
植村玄輝(岡山大学、オーガナイザー)、鈴木崇志(立命館大学)、八重樫徹(広島工業大学)、吉川孝(甲南大学)

フッサール現象学の鍵概念 (): 志向性(2)



 これから現象学を学ぼうとする人、専門的な研究を始めたいという人、専門的に研究したいというわけではないにしてもフッサールという哲学者が何をどう考えたのかを知っておきたいという人――。事情は様々であるにしても、「フッサール現象学について知りたい、それがどういう哲学なのかを理解したい」という向きは多いだろう。


 フッサールの残した思索の跡は、そのそれぞれのトピックが「専門分野」として成立しうるほどに大きく、その奥行も深い。しかしその一つひとつは他のそれと必ず通じている。一つひとつがフッサール現象学の全体像を理解するための《鍵》となっているのである。本企画では、これを〈フッサール現象学の鍵概念〉として各回ごとにひとつを取り上げ、「現象学についてよく知らない、知りたい」という方、「現象学を研究しているが、このトピックについてもう少し理解を深めたい」という方、あるいは「必要な情報・知識を広く提供したい」という方など、いろんな立場の方々がそれぞれの立場で理解の共有に参与できる場をつくりたい。


 第3回は当該鍵概念として再び〈志向性〉を取り上げ、東北大学の綿引周さんに解説していただきます。


今回の「フッサールの鍵概念」では、昨年に引き続きフッサールの志向性理論を取り上げます。昨年のレクチャーで講師の富山さんはフッサールの志向性理論をフレーゲ以来の現代意味論の考え方に従い、真理概念を軸として解釈されていました。この解釈に従えば、志向的対象は判断の真理値決定プロセスからある心的状態に割り当てられるべき意味論的値であり、フッサールのいう「意味」はそのプロセスを「検証」として捉えた場合の検証手続きとして理解されます。 

フッサールの論述の中には確かにフッサールのいう「意味」をフレーゲの「意義(der Sinn)」として理解するよう促す記述があります。そしてその意味をダメットの議論から理解する余地は大いにあります。しかし今回のレクチャーでは、フッサールの「意味」をフレーゲ的な意義として理解するだけでは見過ごされてしまいがちな、フッサール志向性論の(もうひとつの)重要な側面に光を当てたいと思います。その側面とは、一言でいえば現象的意識の側面です。フッサールの志向性論では現象的意識がまさしく「鍵」とでもいうべき役割を果たしており、そのためこの理論は現代、現象的志向性論(Theory of Phenomenal Intentionality)と呼ばれている種類の志向性の理論として理解することができます。このことを説明するために、今回のフッサールの鍵概念では『論理学研究』に遡ります。というのもこの著作で提示された「意味のスペチエス説」によってこそフッサールの志向性論は現象的意識と強く結びつくことになったからです。

最初に意味のスペチエス説を復習した後で、現象的意識まわりの概念整理をし、現象的志向性論を簡単に紹介します。そのうえで、現象的意識の役割に注目しながら『論理学研究』を読み直します。最後に、余裕があれば、この読み方が妥当に思われるとしたら、フッサール研究者が取り組むべき課題を指摘します。 

個人発表要旨

小関 健太郎「マイノングの価値論と感情の正当性の問題」

私たちはしばしば対象に、善さや美しさのような肯定的な価値や、悪さや醜さのような否定的な価値を認める。マイノングは、私たちがこのような価値を把握するのは喜びや怒りのような感情に基づく情動的経験を通じてであるという立場を擁護したことで知られている。このような立場はいくつかの仕方で呼ばれているが、八重樫 (2017) に従って感情と価値の関係についての把握説と呼ぶことにしよう。

八重樫は同書で、フッサールの価値論における価値の把握(価値覚)についての把握説的な解釈を擁護している (八重樫 2017, 171)。他方で、もしこのようにマイノングとフッサールの価値論が同じ把握説として理解できるとしても、両者の哲学的な枠組みの違いを念頭に置けば、価値に関する両者の理論もまた何らかの点で異なっているだろうと考えることは自然な推察であるように思われる。しかしながら実際のところ、両者の異同はどのような点にあるのだろうか?


本発表の目的は、マイノングの後期価値論を、特に前期価値論からの感情と価値の関係の変化に着目しつつ再構成した上で、価値に関わる感情の正当性の問題の観点から、フッサールの価値論の把握説解釈との比較を与えることである。

『一般価値論における心理学の擁護と心理主義の批判』(1912; 以下PPW) において明確に述べられているように、マイノングは『価値論の心理学-倫理学的研究』(1894) に代表される価値についての心理主義的かつ相対主義的な立場から、反心理主義的かつ非相対的な価値を認める立場へと価値論上の立場を転換している。特に、マイノングの前期価値論において、感情の正当性は文脈相対的であるのに対して、後期価値論において、感情の正当性は把握された価値が実際に存在(存立)することによって規定される。

この点を踏まえて本発表では、八重樫 (2017) で提示されるフッサールの価値論における感情の正当性の説明がマイノングの前期価値論との共通性を持つことを指摘し、マイノングにとって何がそのような立場からの転換を動機づけたのかという点から問題を再考したい。


八重樫 徹. 2017.『フッサールにおける価値と実践』. 水声社.

池田 裕輔 (釧路工業高等専門学校)「フッサールと《コペルニクス的転回》? フッサールの現象学的カント解釈について」

本発表は、フッサールの《現象学的カント解釈》とその特徴を《コペルニクス的転回》という観点から再構成することで、両者の《近さと隔たり》を部分的に描き出すことを目的とするものである。

とはいえ、なぜ、《フッサールとカント》なのか?この当然の疑念に対しては、差し当たり、次のような問いに取り組むことが今日でも無意味な作業ではないよう思われるからだ、と応答したい:現象学なるものの「思考法」と帰結は、むしろ、《反カント》なものではないのか? そうであるなら、なぜ、フッサール(そして、ハイデガーやフィンクに代表される戦前期の現象学の伝統を形作った論者)は(新カント派の時代に!)《超越論的》などと自称するリスクをあえて冒すのか? 本発表は、このような包括的な問いに応答する作業の一部分にすぎない。

 本発表は、三つの部分からなる。第一に、いわゆる《コペルニクス的転回》という表現の《出典》といえる『純粋理性批判』B版序文においてカント自身が挙げているその構想とコペルニクスとの間に成り立つ幾つかのアナロジーを手引きとすることでフッサールの《コペルニクス的転回》解釈を再構成、両哲学者の《近さ》を示す。しかし、その《近さ》は、両者における「対象が認識に従う」という新しい「思考法」そのものの具体的な内実ではなく、これが(《教説・ドグマ》ではなく)検証・証明されるべきある種の「仮説」(カント)あるいは課題を示す表題として理解されている点にある。第二に、《カントは人間学主義&心理学主義(よって相対主義)に陥っている》というフッサールによる一連のカント批判を《コペルニクス的転回》という観点から再構成することで両者の《隔たり》を整理する。《隔たり》は、フッサール独自の《直観主義》と《アプリオリ》の非(反)カント的理解、そして、フッサールのいう「現象学的還元」が掲げる要求のうちに端的に示されている。最後に、形式的な《近さ》を持ちつつも、実質的には深い《隔たり》を抱えたカントとフッサール両者それぞれにとって超越論的哲学が満たすべき《学問性》とはどういうものであるのかを、《教説・ドグマ》および《懐疑(論)》に対して、ふたりの(超越論的)哲学者が取る独自の態度を確認することで素描する。また、同時に、フッサールがおこなった《現象学的カント解釈》が持つ意義を、現象学の伝統というより広い文脈のなかで再考してみたい。

上野 裕貴 (岡山大学)「フッサールは『デカルト的省察』第五省察で、発生的分析を行ったのだろうか」

本発表の目的は、『デカルト的省察』第五省察においてフッサールは他者経験の発生的分析を行わず、静態的分析のみを行ったことを示すことである。榊原(2009)を初めとした様々な論者によれば、第五省察における他者経験の現象学は、静態的分析のみを行うというフッサール自身の主張にも拘らず、発生的分析にも立ち入っている。しかしながら、私たちはフッサールの言葉通りに『デカルト的省察』の第五省察の分析を、発生的分析が介入していない分析として、すなわち静態的な分析として読むことはできないのだろうか。


本発表では、フッサールが第五省察で発生的分析も用いたと述べている論者を取り上げ、その主張の根拠を吟味していく。そして第五省察は、発生的現象学にまで立ち入らず、あくまで静態的現象学の領域に留まっているという、フッサールの主張通りの読みが破綻していないことを呈示したい。なお、本発表は第五省察の他者経験論に向けられた他の主張や批判については取り上げていない。本発表は、第五省察の他者経験論に発生的分析が用いられているという主張だけを取り上げている。


本発表は具体的に以下のように行われる。まず、第五省察の他者経験論の概略を、争点となっている事柄について可能なかぎり中立的にまとめる。次に、フッサールが発生的分析を用いたということを明確に述べている二人の論者、榊原とLee(2002)を取り上げ、その主張を整理する。その後、静態的現象学と発生的現象学の関係について、『デカルト的省察』以外の文献、例えば『受動的綜合の分析』や『間主観性の現象学』などを用いて明らかにする。そして最後に、榊原とLeeの主張の根拠、つまり、フッサールが発生的分析を他者経験論に用いているという主張の根拠に対して応答していく。この応答によって、私はフッサールが自ら主張したように、『デカルト的省察』における他者経験論は静態的な分析だということを主張する。

栁川 耕平 (立命館大学衣笠総合研究機構)「歴史の統一性について」

 フッサールは特に後期思において歴史の問題を重点的に扱っている。大雑把に言えば、彼の言う「歴史」とは、かつて創設された何かをそれ以降も継承することである。ただしこの「歴史」に関して、フッサールは二通りのものを想定していると考えられる。一つ目は、一つの体験流・一つの主観性において、信念や意味が形成され沈殿していくということを指すもので、「自我の歴史」(IV 338)などと呼ばれるものである。二つ目は、数世代に渡る複数の主観性が、学問をはじめとした文化的構成物を継承していくことを指すもので、主に『幾何学の起源』などで論じられているものである

 フッサール自身はこれらを截然と区別しているわけではない。というのも、彼の枠組みでは、後者は前者の構造に基づいているからだ。ゆえにフッサールは、基本的には、「歴史」を一つの主観性において理解し、それを基準として世代間・共同体内の歴史を考察している。いわば、共同体は一つの巨大な主観性と見做され、そのうえで二つの歴史が理解されている。多くの先行研究もこの枠組みを踏襲している(Carr [1974]、榊原[2009]など)。本発表も、両者が類似の構造を持ち、基本的には前者が後者の土台を成しているという点について争うつもりはない。

 ところで、フッサールはいずれの歴史にも統一性があることを指摘している。本発表が扱いたいのは、両者の統一性の差異とその関係である。見通しを述べておくと次のようになる。前者の歴史の統一性は、多くの場合、能動的な働きかけ無しにいわば自明に成立するものとされている。後者の歴史の統一性に関しても、間主観的な伝達などの契機を指摘しつつも、基本的に前者と類比的に捉えているが、これでは共同体の歴史を捉え損なうことになると考えられる。他方でフッサールはたとえば、かつての自分についての想起を感情移入と類比的に論じる場合がある(鈴木[2020])。この場合、前者の統一性は必ずしも自明ではなく、むしろ本来指摘されるべきだった後者の統一性の性格が前者の中に現れていると考えられる。このことについて吟味したい。


参考文献

David Carr, Phenomenology and the Problem of History, Northwestern University press, Evanston, 1974.

榊原哲也『フッサール現象学の生成』、東京大学出版会、2009年。

鈴木崇志「対話のような想起:フッサールの記憶論の展開に関する一考察」、『立命館文學』665号、立命館大学人文学会、pp. 253-264, 2020年。

大内 良介 (東京大学大学院 総合文化研究科 博士後期課程)「痛みによる身体構成の特異性について」

フッサール現象学における痛みの位置づけは周縁的である。痛みは、主題的に経験されている限り、意識生の中心を占めるにもかかわらず、身体性の超越論的な問題系においては、詳細に分析された触感覚やキネステーゼの陰に隠れ、ヒュレーや感情-感覚の一例として散発的に言及されるにすぎない。確かに、フッサールは痛みの特異性に特別な関心を払っていたわけではない。しかし、『イデーンII』第37節および第39節の記述が示す通り、痛みは身体の構成に枢要な役割を担う。その様態は、痛みが触感覚と一緒に局在化される場合と、触感覚を伴わない感覚態として局在化される場合に応じて相異なる。とはいえ、フッサールは、触感覚による構成と痛みによる構成の相違を問うことはなかった。発表者は、痛みの特異性に格別の関心をもつ立場から、この相違を追究したい。


発表者は、痛みの特異性を「感覚態」(Empfindnis)の概念に即して展開する。その枠組みは、感覚態を組成する三契機を分節した先行研究(Welton 1999)に基づく。すなわち、感覚態は「感覚」(Empfindung)・「体験」(Erlebnis)・「自己の情態性を感知する働き」(sich befinden)の三契機から成る。第一に、痛みは私の能力性を切り崩す感覚として、触知覚を妨げる。私は世界とかかわることができず、世界から疎外される。第二に、痛みはヒュレー的体験として、私が私の痛みを間主観的に経験する可能性を閉ざす。この不可能性は特に、周囲から理解されづらい慢性疼痛において範例的であり、さらに、痛みを他者から否認されて育つような被虐待者においては、私が私の痛みを主観的に経験することの不可能性に先鋭化する。つまり、私は他者から疎外される。第三に、痛みは、その痛む身体において私が自己自身を見出す体験であるが、その自己は、離脱のキネステーゼを動機づける異他的なものである。この意味で、私は自己の身体から疎外される。


かくして、痛みによる身体構成は、私が世界から、他者から、自己の身体から切り離される三重の疎外によってLeibとKörperの「構成=結合」(Kon-stitution)が成就される、という特異な様態において生起する。


Welton, D. (1999) Soft, Smooth Hands: Husserl’s Phenomenology of the Lived-Body. In The Body: Classic and Contemporary Readings. Blackwell.

Adriaan Jeroen Toonen (Okayama University) “Interpreting the Crisis: Divergent Perspectives in Husserl’s Phenomenology”

In recent years, the concept of the “the Crisis of the European sciences” in Husserl (Husserl, 1970) has been at the heart of debate. The traditional or common reading of ‘Crisis’ has been challenged by new more controversial interpretations. This presentation will address three different readings of the crisis as presented by George Heffernan(Heffernan, 2017); the “Traditional Reading”, “Innovative Reading” and the “Inclusive Reading”.

The traditional reading regards the crisis as a loss of meaningfulness for life. This common reading has persisted and dominated the debate. Science for science’s sake contributed to the continued push towards nullifying the role of the subject in scientific endeavors, and evidently made life and its significance a core point of philosophical debate.  This interpretation holds an apparent truth; as it brings Husserl’s critique of science and their meaning for life into consideration.

In contrast, the innovative stance by Emiliano Trizio(Trizio, 2016, 2022) offers a radical departure from this common view, arguing that Husserl’s concern lay not necessarily with the meaningfulness for life, but with the foundations of the sciences themselves—their scientificity, seemingly bringing the relevance of §2 into question. As he argues that while positive sciences are valuable for their factual contributions, they are unable to address existential concerns that are central to the human experience.

Finally, the inclusive approach which Heffernan takes, bridges the gap and emphasizes that both the declared crisis of the methodological foundations of science and the common crisis interpretation of a meaningfulness for life underlie the crisis of the sciences.  There is a direct relationship between the lack of scientificity and loss of meaningfulness for life, as the fragmentation of the sciences and the loss of a unifying overarching philosophy directly correlate to a deviation from human centric interest.

This presentation delves into this debate and tries to explore these divergent interpretations and provide context by Husserl’s works via a textual analysis of his last book The Crisis of European Sciences and Transcendental Phenomenology (1936). From here, we will be able to build a foothold for creating a balanced perspective on what Husserl himself was thinking when he stated that science is in crisis.


Bibliography

Heffernan, G. (2017). The Concept of Krisis in Husserl’s The Crisis of the European Sciences and Transcendental Phenomenology. Husserl Studies, 33(3), 229–257. https://doi.org/10.1007/s10743-017-9209-0

Husserl, E. (1970). The Crisis of European Sciences and Transcendental Phenomenology An Introduction to Phenomenological Philosophy. NORTHWESTERN UNIVERSITY PRESS.

Trizio, E. (2016). What is the Crisis of Western Sciences? Husserl Studies, 32(3), 191–211. https://doi.org/10.1007/s10743-016-9194-8

Trizio, E. (2022). The Crisis of Philosophy and the Meaning of the Sciences for Life. Husserl Studies. https://doi.org/10.1007/s10743-022-09309-1

個人発表・持ち込み企画の募集

2024年3月2日(土)・3日(日)、東海大学・湘南キャンパスにて開催予定の第22回フッサール研究会について、以下の要領にて研究発表を募集いたします。


【個人研究発表の募集】

★締め切り: 2023年12月15日(金)

★応募要領:発表を希望される方は下記のフォームにご記入の上、送信をお願いします。

  個人発表応募フォーム:https://forms.gle/W2rwPCY6Zvcu7qeeA

なお応募が多数となった場合は、お送りいただいた要旨とこれまでのご発表実績等に基づいて、発表者を調整させていただきます。あらかじめお含みおきください。


【持ち込み企画の募集】

★締め切り: 2023年12月15日(金)

★宛先: フッサール研究会連絡係・佐藤(husserlkenkyukai@gmail.com

★応募要領: 上記宛先まで、次の四点をお知らせください。(1) テーマ(2) 企画の形態(ワークショップなど)(3) オーガナイザーの氏名・所属・連絡先(4) 企画の趣旨、登壇予定者(1000~2000字程度)なお応募が多数となった場合は、お送りいただいた要旨等に基づいて、採用の可否を決定させていただきます。あらかじめお含みおきください。