個人発表要旨・シンポジウム開催趣旨

シンポジウム「「社会」の現象学の可能性」

フッサールの著作や草稿の中には、広い意味での「社会」を論じている箇所が散見される。例えば「人格集団内の人格」と題された『イデーンII』の第51節では、「社会性(Sozialität)」が、特別な相互性を備えた「コミュニケーション的作用(kommunikative Akte)」によって構成されると述べられている(Hua. IV, 194)。こうした発想は、晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』にも引き継がれており、そこでは「社会性(Gesellschaftlichkeit)」についての「超越論的な遡行的問い」の必要性が指摘されることになる(Hua. VI, 191)。したがってフッサールによれば、社会という一見自明な対象についても、それが構成される場である特定の作用へと遡ることが可能である——つまり、社会の現象学が可能なのである。

しかし、社会の現象学という構想は、フッサールの著作や草稿の中で十分に展開されているとは言い難い。たしかにわれわれは、例えば「共同精神」草稿(Hua. XIV, Text Nr. 9-10)や『デカルト的省察』の中に「社会的作用」「共同体」「文化的対象」等への言及を見出すことができ、「自然と精神」講義(Hua. XXXII)の中から精神科学の位置づけについての見解を読み取ることができ、倫理学に関する講義録や論文の中から「社会倫理学」(Hua. XXVIII, 141; XXVII, 21)という着想を取り出すことができる。しかし、書かれた文脈も年代も異なるそれらのテキストから、社会の現象学の全体像を描き出すことは至難であると言わざるをえない。

よって、社会の現象学の可能性について余すところなく考察するためには、フッサールについての文献研究に依拠しつつ、さらに視野を広げる必要があるだろう。例えば、フッサールの現象学とシュッツらの現象学的社会学との関係については、早くから様々な仕方で論じられてきた。また近年では、「社会」というテーマに関してミュンヘン・ゲッティンゲン学派等の同時代の思想家たちがフッサールに与えた影響についても、研究が蓄積されつつある。のみならず、集合的志向性(collective intentionality)をめぐる現代の活発な議論は、「社会の現象学」がアクチュアルな話題であることの証左と言えよう(cf. Eric S. Chelstrom, Social Phenomenology, 2012)。また、こうした研究は、分析哲学や社会学との対話を通じて、より実り豊かなものになるはずである。

以上のような状況を鑑みて、本シンポジウムでは、それぞれの専門領域から「社会」について独自の思想を展開している三名の登壇者をお招きして、社会の現象学の可能性を、いまいちど問い直してみたい。登壇者の浜渦辰二先生(大阪大学)は、フッサール研究、臨床哲学、倫理学などの様々な見地から、われわれが「他者とともに生きる」存在であることについての豊かな思索を紡いでいる。また、倉田剛先生(九州大学)は分析哲学における社会存在論、前田泰樹先生(立教大学)は社会学におけるエスノメソドロジーに立脚して、フッサール研究者にとっても決して見逃すことのできない魅力的な研究を進めている。本シンポジウムでは、三名の登壇者による提題と討論の後に、フロアの方々との質疑応答を通じて、「社会」というテーマをできるだけ広く、かつ深く論じることを試みる。

個人研究発表要旨

紀平知樹(兵庫医療大学)「観光経験の現象学的考察」

本発表は、観光の倫理学的考察のための最初のステップとして考えられている。観光とはきわめて多様な要素からなる営為であるが、その中心には観光者の観光経験がある。しかしこの経験がどのような経験なのかということについて十分解明されているわけではない。そこで、本発表は、観光経験を現象学的に考察することをめざし、観光倫理学の基礎としたい。

観光研究は1970年代頃より、人類学や社会学の分野で盛んに行われるようになってきている。そうした観光研究の古典的論考の1つに、Erik CohenのPhenomenology of Tourist Experienceという論文がある。この論文において彼は、観光経験の類型化を行っている。この研究を端緒として、1990年代頃から「現象学的」と称する観光研究も増えてきている。しかしそこでの問題は、看護学における現象学的研究と同様に、方法に関する曖昧さである。そもそも「現象学的」とは何を意味しているのか、そして「記述的現象学」と「解釈学的現象学」のいずれが研究方法として優れているのか、といった様々な問題が観光研究の領野においても浮上してきている。本発表ではそうしたすべての問題を取り扱うことは不可能なので、観光経験に関する現象学的考察の端緒としてフッサール現象学を下敷きにして観光経験を分析することをめざす。その際、観光経験の意味に焦点を合わせる。しかし、それと同時に、ある経験が観光経験として成立するということはどのようなことかを問うことも必要である。

本発表は以下のような考察の手順を踏む予定である。(1)社会学や人類学における観光研究を概観して、暫定的に観光の定義を明らかにする。(2)現象学的観光研究を概観し、研究方法としての問題点を明らかにする。(3)現象学的研究において研究者が記述すべき内容は何かを明らかにする。以上を踏まえて(4)観光経験が成立するための条件を現象学的に明らかにした上で、観光経験を構成する要素を明らかにする。

村田憲郎(東海大学)「マイノング‐シュテルン論争とフッサール」

近年「時間経験の哲学」と呼ばれる、時間意識をめぐる議論が盛んになっているが、そこではフッサールの時間意識の議論は、それ自体は時間的な広がりをもたない瞬間的現在の意識において時間的な広がりが縮約されて捉えられるとするRetentionalism把持主義であると整理されている。しかし発表者の考えでは、この整理の正当性については掘り下げて検討する余地がある。時間経験の哲学の論者B. デイントンは、時間的対象の経験自体が時間的に幅をもち現に継起しつつあるとするExtensionalism延長主義という立場を把持主義に対置し、延長主義の代表者としてフッサールの同時代人ウィリアム・シュテルンを挙げている。しかしまさにフッサールは1905年の『時間講義』において、ブレンターノの時間論を批判しながら、シュテルンの論文「心的な現前時間」(1897)の議論を引き合いに出している。したがって、フッサールはシュテルンの議論を結局のところどう評価したのか、が確認されるべきである。

ところで、フッサールは時間講義の直前に、マイノング『高階の対象について』(1899)を立ち入って検討し、マイノングの時間的対象の構成についての議論に批判的コメントを加えていた。フッサールがシュテルンについて知ったのもこの論文を通じてである。そこでマイノングとシュテルンとはまさに時間意識がそれ自体時間的な広がりをもつか否か、時間的継起がいかにして構成されるかという点をめぐって対立していた。

本発表ではこうした事情をできる限り明確化することを目標とする。マイノング『高階の対象について』とシュテルン「心的な現前時間」の内容を検討し、両者の対立点を明確にした上で、二人に対するフッサールのコメントを参考に、三者の関係についてあらためて整理してみたい。また余裕があれば、デイントンのいう把持主義と延長主義(あるいはその前身のPSAとPPC)が本当に排他的な対立をなすのかについて、また現象学的立場からのありうべき対応について発表者の見解を示したい。