要旨

Nicola Liberati “The Borg-eye and the We-I”

The aim of my work is to analyse the possibility of the production of a collective living body [Leib] thanks to wearable computers and to probe what such innovation yields.

Nowadays the topic of collectivite subjects raises interest in the phenomenological research and there are many new studies concerning collective intentionality and collective emotions. These works focusses their attention on the “nature” of a plural subject in a “We-form” instead of a more classic conception of a single subject related to an “I-form”.

However, even if these studies tackle the problem of a plural subject, they start from the assumption of an I- form subject as a basic element in perception. They start from the assumption that a perception of a subject is private ad that the sole subject who is experiencing the world is living in his living body. Therefore, they assume a kind of “private” status of the subject’s perception and in the subject’s bodily life.

This assumption was quite valid in the past because nobody had a direct perception of something as if they were in someone other’s place. However, today this kind of privacy cannot be assumed so easily because there are new digital devices which aim to spy on everybody’s life as no previous technologies ever did.

Wearable computers are clearly designed to graft computer devices in our body and in our clothes intertwining the human body with digital technologies.

Even now our spatial position is recorded passively by personal devices such as our smartphone, but wearable computing will bring this embryonic feature to a higher level and they will spy on our life from the within of our body. For example, Google Glass will “mount” on us a webcam aiming to record our entire life, computerised bracelets will record our heartbeat and smart watches our hand gestures. Therefore, we cannot be blind to the possibility of having a shared experience where a whole community has access to our own vision, to our emotional state and to our hand gestures.

We have to take into account a we-form subject from the very beginning by analysing the possibility of having a common Leib and common experiences.

My analysis will study what these new technologies can do to our living body and if it is possible to talk of a common living body shared by an entire community who actually lives and perceives through us. Moreover, I will study if these new technologies can be seen as part of new computerised living body and if they work as digital organ mounted on us.

I will ask, and try to answer, these two questions.

Is it possible to have a common living body composed by shared perceptual digital organs?

Is it possible to have a Borg-like living body where the simplest thing as “your experience” turns into “our experience” and where the “I” has to be substituted by the “We” of “the Collective”?

高山佳子「フッサールの倫理思想とケアの倫理―生活世界に位置づくケアの倫理の原理的探求に向けて」

本発表は、ケアの倫理をフッサールの「生活世界」概念と接続することがねらいである。心理学者キャロル・ギリガンが主著『もうひとつの声』(Gilligan,1982)において提起した「ケアの倫理(an ethic of care)」は、男性中心の社会的価値規範への問い直しを含んだジェンダーの視点を喚起し、公正な論理的推論による正義の倫理と対比されるかたちでケア対正義論争とよばれる活発な議論を呼んできた。正義の倫理は権利主体としての自律した個人を前提とし、論理形式的推論によって財の公正な配分を指向する権利の倫理であるのに対し、ケアの倫理は、他者との相互依存関係を前提とし、他者を配慮し応答することを指向する責任(応答可能性)の倫理であるとされている。しかしながら、この論争における2つの倫理の関係は、ギリガンの本来の意図に反して、正義の倫理=男性の道徳性、ケアの倫理=女性の道徳性という生物学的決定論にもとづくジェンダーの見方によって規定されている。その際、ケアの倫理は女性に特有の感情的・個人主義的な道徳として、普遍主義にたつ正義の倫理を補完する周縁的位置づけにおかれることになる。ギリガンは、そのようなケアの倫理の見方は家父長的パラダイムにもとづくものであると批判し、「ケアの倫理のいかなる議論も枠づけの問題とともに始めなくてはならない」と述べて従来の枠組みの見方からのパラダイムシフトを主張している。パーソナリティ発達の観点からアイデンティティ形成と道徳性との関係を重視するギリガンにおいて、人間の自律とその道徳性は、男女にかかわりなく、正義の倫理とケアの倫理とが不可分な2つのアスペクトとして対等かつ相補的に作用してはじめて可能になるものであり、ケアの倫理は人間生活の基本である関係性にかかわる点で万人に妥当する倫理と考えられている。こうしたギリガンの本来の主張を正しく捉え、ケアの倫理を万人に妥当する関係性の倫理として主張するためには、正義の倫理とケアの倫理の関係をパラダイムシフトの視点から新たに捉えなおすとともに、ケアの倫理を哲学的原理的に探求していく作業が不可欠であろう。そのための重要な糸口となると思われるのがフッサールの倫理思想である。

本発表では、ギリガンのケアの倫理をフッサールの「生活世界」概念と接続し、フッサールの『倫理学入門 1920/1924年夏学期講義』における理論と実践の捉えなおしに関する議論を中心に、ケアの倫理を生活世界に位置づく実践理性としてフッサールの生の倫理学のもとで哲学的原理的に探究していくことの意義を示したい。

石井雅巳「『全体性と無限』における享受論の実在論的読解ーレヴィナスはいかなる意味で現象学的か」

本発表の狙いは、国内における一連の現象学的実在論にかんする研究に依拠しつつ、レ ヴィナス『全体性と無限』(1961 年)第二部――いわゆる享受論――をある一つの現象学的 実在論の試みとして描き出すことである。とはいえ、レヴィナスは『全体性と無限』にお いて、現象学的実在論を展開したミュンヘン・ゲッチンゲン学派の面々に明示的に言及す ることはない。それゆえ、本発表は、思想史的な影響関係の解明というよりは、インガル デンらの議論を補助線に使いつつ、レヴィナスの記述をいかなる現象学的な態度として受 け取るかという事柄の理解を議論の争点とする。

レヴィナスが処女作『フッサール現象学の直観理論』(1930 年)から一貫してフッサール 現象学から恩恵を受けつつも、フッサールの観念論的−観想的立場に警鐘を鳴らすという両 義的な立場を取っていたことはよく知られているが、こうした立場は、フッサールの観念 論に対立し、実在論を現象学として肯定するインガルデンらと同じ方向を向いているもの と言える。本発表では、『全体性と無限』第二部における1フッサールに見出される表象 の優位についての批判、2身体性への着目によって可能になる、表象の次元から享受の次 元への転換、3享受による我々及びその知覚に対する条件づけ、4我々の生の内容であり、 享受の対象である糧とその実在(外在性)の肯定を可能にする元基(élément)といった論点 を取り上げ、レヴィナスによるフッサール批判の眼目を吟味した上で、享受の対象のもつ 実在性にかんする議論を現象学的記述として分析する。

レヴィナスの記述を現象学における観念論/実在論という枠組みで捉えることで、フッ サール現象学にとって本質的とも言える、構成や意味付与などを含めた志向性の議論を批 判しつつも、なぜレヴィナスは『全体性と無限』が「全面的に現象学的な方法に負ってい る」と述べることが出来るのか、というこれまでレヴィナス研究者たちを悩ませてきた問 いに一定の回答を与えることができるだろう。本発表は、上記の仕方でレヴィナスの記述 を正当化し、享受論そのものの理解を一歩先へと進めたい。

フッサールの観念論に対立し、身体性に着目しつつ実在を肯定する点で、レヴィナスと インガルデンは共闘関係にあると言えるが、両者の間に大きな隔たりがあることも事実で ある。本発表ではこの点にも触れ、ミュンヘン・ゲッチンゲン学派とは別の仕方で、現象 学的実在論を探求することも試みる。

第13回フッサール研究会シンポジウム「情動の哲学と現象学的感情論」

企画:八重樫徹(東京大学)

司会;榊原哲也(東京大学)

提題:服部裕幸(南山大学)、陶久明日香(学習院大学)、八重樫徹

開催趣旨

情動は、人間の心についての哲学的探究の中で、重要なテーマであり続けてきた。ブレンターノ、フッサール、シェーラー、ハイデガー、サルトルなど、現象学の伝統に連なる多くの哲学者も、情動についてそれぞれの立場から考察している。

他方、いわゆる情動の哲学(philosophy of emotion)に目を向けると、従来は主に心の哲学や認知科学の知見にもとづいて研究が進められてきたが、近年では扱われる主題も参照される文献も多様化し、現象学の伝統への参照も目立つようになってきた。ブレンターノやフッサールに手がかりを求めつつ感情と価値の関係を論じるKevin Mulliganの仕事(“From Appropriate Emotions to Values,” 1998; “Emotions and Values,” 2010)が、その一例として挙げられよう。英語圏における情動の哲学の第一人者だったPeter Goldieも、表立って現象学の伝統に依拠しているわけではないが、一人称視点の記述や情動の志向性の解明を重要視するなど、きわめて「現象学的」に見えるアプローチをとっている(The Emotions: A Philosophical Exploration, 2002)。

こうした状況の中、『シリーズ 新・心の哲学III 情動篇』(勁草書房)が2014年5月に刊行された。同書では、「情動とはなにか」「情動の志向性」「情動と人生の意味」「情動と不合理性」など、現象学者にとっても興味深いトピックが数多く取り上げられている。本シンポジウムでは、同書の共著者の一人をお招きし、英語圏の情動の哲学と、現象学的な感情論との対話をはかりたい。