個人発表要旨・シンポジウム開催趣旨

査雨萌 高橋里美のフッサール時間論批判と「唯一の哲学」のあり方

発表者は、「学問の基礎付け」という理想をフッサールと共有することに自分のフッサール研究の意味を見出している。しかしこの目標は如何なる手段によって実現されるのか、その実現の可能性と手段の正確性は如何にして検証されるのか、検証されうるのか。認識論にもっとも根本なる問いを投げかけて、その根源的な解決を求めるフッサールの哲学は上の質疑に答えなければならない。この実現されるべき問答を「無意識的に」成し遂げたのは、フッサールのもとで留学していた日本人哲学者高橋里美である。

現象学は「唯一の哲学」だというフッサールのことばを本人の前で否定しながら、現象学を正確に理解しようとして尽力した高橋は独特な現象学理解をしている。この理解の異質さは彼のフッサールの時間論に対する批判にもっとも現れている。フッサール初期時間論と目される『内的時間意識の現象学』の出版直後に、高橋はこれに対する紹介と批判を「フッセルにおける時間と意識流」の論文にまとめて出版し、さらにその三年後に自分の時間論を体系的『時間論』一書にまとめた。

高橋はその論文で、二重志向性と反省の概念についてフッサールとやや違う解釈していた。本発表は①この二つの概念の意味と、高橋とフッサールそれぞれの理論における位置づけを明確することから出発し、②高橋の場合は『時間論』を、フッサールの場合は『内的時間意識の現象学』とヘルトの解釈書『生き生きした現在』を参照しつつ、それぞれの哲学の目標と方法を確認して、③高橋の手段を補助線に、フッサールの哲学の方法は反省と二重志向性に隠された「内容と作用の区別への超越」や匿名性の問題提起は、「学問の基礎」という理想に近づくために果たした役割を明らかにする。最後に、④フッサールの現象学は認識論にとって根源ある問いであるのにたいし、違う目標と方法をあげる高橋の問いの意味と、現象学に与えられる示唆を検討して、本発表を締め括りたい。

蛯子良風  「世界外存在」としての主体――レヴィナスによる現象学的還元の解釈をめぐって――

『存在するとは別の仕方で』において、レヴィナスは、フッサールが提唱した現象学的還元を自身の哲学の方法とみなしつつも、他方で、フッサールがおこなったような仕方では還元はなしえないとし、それとは別の仕方で遂行されるような還元について語る。周知のように、フッサールは、自然的態度における世界の一般定立を「括弧に入れる」(エポケーする)ことによって現象学的還元を遂行し、世界や世界内の諸対象の存在がいかなる「意味」において構成されるのかを問うた。だが、『存在するとは別の仕方で』におけるレヴィナスによると、括弧入れは、「こびりついて離れない世界と関わりあう一つの仕方」なのであり、そのため「還元は括弧入れによってなされるものではありえない」のである。つまりレヴィナスは、フッサールが「括弧入れ」によって遂行する還元が、還元後も世界と関わりあっていることを理由に、そのような還元の無効性を指摘したのだ。裏を返せば、レヴィナスは、現象学的還元を遂行するためには、主体が世界との関わりから脱する必要があると考えていたのである。

本稿では、以上のようなレヴィナスの考えを明確化するために、「エトムント・フッサールの業績」(以下「業績」と略記)におけるレヴィナスの還元解釈に着目する。同論文においてレヴィナスは、「語が何ものかを意義するということを理解することは、志向性の運動そのものを把握すること」だとし、『論理学研究』「第一研究」における「語の意義」に関する議論を、意識の志向性に当てはめて解釈している。対象を意義する語は、それを「透して」対象が見られる「窓」のようなものとして機能しなければならず、語音が実在する音としてのみ知覚される場合、それは意義をもつことができない。レヴィナスによると、対象に意味を付与する志向的な意識は、表現としての語と同様に、それを「透して」対象が思惟されるような「意義多様体」とみなすべきであり、それ自身は実在するとみなされてはならないのである。「業績」によると、現象学的還元は、自然的態度において世界内に実在する存在者とみなされている意識主体を、「世界外存在」として捉えなおす操作なのである。

以上のようなフッサール解釈は、『存在するとは別の仕方で』における還元解釈に引き継がれている。というのも、同書においてレヴィナスは、還元を「意義への還元」とみなし、さらに、還元された「自己自身は存在の外なる自己のうちに追放されているかのようだ」と述べる。このように、「業績」と『存在するとは別の仕方で』それぞれにおいて描写されている還元という操作は、意義のもとで主体を捉えなおすことによってそれを存在の外へ追放するという点で共通している。本稿では、この共通点に着目しつつ、「業績」において解釈されているフッサール的な還元と『存在するとは別の仕方で』におけるレヴィナス独自の還元とを比較し、後者の還元が、前者が陥ったような、還元後も世界と関わりあってしまうという問題をいかにして克服するのかを明らかにする。

シンポジウム「現象学と現代の実在論」

われわれの意識から完全に自立して存在しているもの――おそらく多くの現象学者にとって、とりわけフッサールの方法に忠実なものにとっては、そうした意味での「実在」について語ることは禁じ手とみなされている。しかしながら、それでも意識の向こう側には、なにか、われわれの経験によっては汲み尽くしえないものが存在するのではないのか。もちろん、現象学の枠内でも、たとえば間主観性の問題として、客観的実在があつかわれることもありはするが、一切を意識との「相関」のうちで思考しようとする現象学者の立場は、「相関主義」として、現代の実在論、とりわけカンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)やグレアム・ハーマン(Graham Harman)らの思弁的実在論(Speculative Realism)から批判されている。

メイヤスーは『有限性の後で』のなかで、相関主義者が、人間の出現以前の出来事にかんする「祖先以前的(ancestral)」言明に、たとえば、「地球は46億年前に誕生した」という言明に、「人間にとっては」という余分な但し書きを加え、その言明を文字どおりに解釈しまいとすることを批判している(千葉ほか訳、29–30頁参照)。そしてハーマンは、とりわけ「対象指向存在論(Object-Oriented Ontology)という立場から、フッサールの志向性理論をあるていど評価しながらも、かれが「感覚的領野へと対象を閉じ込める」(『四方対象』岡嶋監訳、57頁)という誤りを犯したのだと批判している。ハーマンはハイデガーの道具分析を参照しながら、「謎めいた地下世界の暗闇へと退隠している」(同上、71頁)実在が、フッサールの枠組みからは排除されていると指摘するのである。さらに、最近とくに話題を呼んでいるマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)の「新しい実在論(New Realism)」も、思弁的実在論からは距離をとっているものの、あらゆる対象に自立性を認めるという点で対象指向存在論と通じ合うところがある。ガブリエルによれば、あるものが存在することとは、それが「意味の場」において現象することであり、その意味の場は客観的に存在している(cf. Fields of Sense)。

こうした現代の実在論とそれによる批判にたいして、現象学はどのように応答することができるのか。現代の実在論者のうちには、西洋近代の人間中心主義にたいする切迫した問題意識のもとで現象学を批判するものもいるが、意識と存在の相関性という現象学的方法の核心は、はたして人間中心主義を帰結させるのだろうか。すでに現代の実在論は一過性の運動であったとみなされる向きもあるようだが、双方の対立の意味を理解しないまま、たんなる「ブーム」であったとして通り過ぎてしまうことは、哲学一般への不信を招きかねないだろう。そこで、本シンポジウムにおいては、ハーマンら思弁的実在論の研究から飯盛元章先生(中央大学)、フッサール現象学の研究から吉川孝先生(高知県立大学)、そして現象学や現代実在論を横断的に研究されている岩内章太郎先生(早稲田大学)をお招きし、現象学と現代の実在論との対話の場を設けることにしたい。

本シンポジウムで取り上げられる現代実在論の文献の例(変更の可能性があります)

    • Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt, Berlin: Ullstein, 2013.(『なぜ世界は存在しないのか』、清水一浩 訳、講談社、2018年)

    • ––––, Fields of Sense: A New Realist Ontology, Edinburgh: Edinburgh University Press, 2015.

    • ––––, Ich ist nicht Gehirn: Philosophie des Geistes für das 21. Jahrhundert, Berlin: Ullstein, 2017.(『「私」は脳ではない:21世紀のための精神の哲学』姫田多佳子 訳、講談社、2019年)

    • ––––, Neo-Existentialism, Cambridge/Medfold: Polity, 2018.(『新実存主義』廣瀬覚 訳、岩波書店、2020年1月刊行予定)

    • Qentin Meillassoux, Après la finitude: Essai sur la nécessité de la contingence, Paris: Seuil, 2006.(『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』千葉雅也 ほか訳、人文書院、2016年)

    • Graham Harman, Guerilla Metaphysics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: Open Court, 2005.

    • ––––, “On the Horror of Phenomenology: Lovecraft and Husserl,” in Collapse, no. 4, 2008, pp. 333–365. (「現象学のホラーについて:ラブクラフトとフッサール」飯盛元章 ほか訳、『ユリイカ』2018年2月号、青土社所収)

    • ––––, The Quadruple Object, Winchester: Zero Books, 2011.(『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』岡嶋隆佑 監訳、人文書院、2017年)

    • ––––, “The Road to Objects,” in Continent 1. 3., 2011, pp. 171–179 .(「オブジェクトへの道」飯盛元章 訳、『現代思想』2018年1月号、青土社所収)