第18回研究会(2020)

第18回研究会は中止または延期となりました。こちらをご覧ください。

以下の要領で第18回フッサール研究会を開催いたします。

プログラム

14日(土)

  • 13:00-13:30 受付

    • 13:30-14:50 村田憲郎 H. ベルクマンの内的知覚論

    • 15:00-18:30 シンポジウム「現象学と現代の実在論」

      • 司会:橋詰史晶(早稲田大学)・峯尾幸之介(早稲田大学)

      • 提題:飯盛元章(中央大学) 岩内章太郎(早稲田大学) 吉川孝(高知県立大学)

      • シンポジウム趣旨については,のちほど改めて本頁に掲載いたします。

シンポジウム終了後,懇親会を行う予定です。会場は未定ですが,参加希望の方は husserlkenkyukai[アット]gmail.comまで,件名に「懇親会参加希望・(お名前)」と書いてお送りください(本文は空で結構です)。

15日(日)

    • 9:30-10:50 小関健太郎 スペチエス的対象とその論理

    • 11:00-12:20 苧野美雪 フッサールとサルトルにおける「準現前」

    • 13:30-14:50 田中奏タ フッサール『デカルト的省察』における「独我論的領域」としての固有領域の意義―独我論批判への応答の試み―

    • 15:00-16:20 早坂真一 AI の説明可能性に対する現象学的考察–介護現場への AI 導入

    • 16:20- ミーティング

シンポジウム「現象学と現代の実在論」趣旨

われわれの意識から完全に自立して存在しているもの――おそらく多くの現象学者にとって、とりわけフッサールの方法に忠実なものにとっては、そうした意味での「実在」について語ることは禁じ手とみなされている。しかしながら、それでも意識の向こう側には、なにか、われわれの経験によっては汲み尽くしえないものが存在するのではないのか。もちろん、現象学の枠内でも、たとえば間主観性の問題として、客観的実在があつかわれることもありはするが、一切を意識との「相関」のうちで思考しようとする現象学者の立場は、「相関主義」として、現代の実在論、とりわけカンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)やグレアム・ハーマン(Graham Harman)らの思弁的実在論(Speculative Realism)から批判されている。

メイヤスーは『有限性の後で』のなかで、相関主義者が、人間の出現以前の出来事にかんする「祖先以前的(ancestral)」言明に、たとえば、「地球は46億年前に誕生した」という言明に、「人間にとっては」という余分な但し書きを加え、その言明を文字どおりに解釈しまいとすることを批判している(千葉ほか訳、29–30頁参照)。そしてハーマンは、とりわけ「対象指向存在論(Object-Oriented Ontology)という立場から、フッサールの志向性理論をあるていど評価しながらも、かれが「感覚的領野へと対象を閉じ込める」(『四方対象』岡嶋監訳、57頁)という誤りを犯したのだと批判している。ハーマンはハイデガーの道具分析を参照しながら、「謎めいた地下世界の暗闇へと退隠している」(同上、71頁)実在が、フッサールの枠組みからは排除されていると指摘するのである。さらに、最近とくに話題を呼んでいるマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)の「新しい実在論(New Realism)」も、思弁的実在論からは距離をとっているものの、あらゆる対象に自立性を認めるという点で対象指向存在論と通じ合うところがある。ガブリエルによれば、あるものが存在することとは、それが「意味の場」において現象することであり、その意味の場は客観的に存在している(cf. Fields of Sense)。

こうした現代の実在論とそれによる批判にたいして、現象学はどのように応答することができるのか。現代の実在論者のうちには、西洋近代の人間中心主義にたいする切迫した問題意識のもとで現象学を批判するものもいるが、意識と存在の相関性という現象学的方法の核心は、はたして人間中心主義を帰結させるのだろうか。すでに現代の実在論は一過性の運動であったとみなされる向きもあるようだが、双方の対立の意味を理解しないまま、たんなる「ブーム」であったとして通り過ぎてしまうことは、哲学一般への不信を招きかねないだろう。そこで、本シンポジウムにおいては、ハーマンら思弁的実在論の研究から飯盛元章先生(中央大学)、フッサール現象学の研究から吉川孝先生(高知県立大学)、そして現象学や現代実在論を横断的に研究されている岩内章太郎先生(早稲田大学)をお招きし、現象学と現代の実在論との対話の場を設けることにしたい。

本シンポジウムで取り上げられる現代実在論の文献の例(変更の可能性があります)

    • Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt, Berlin: Ullstein, 2013.(『なぜ世界は存在しないのか』、清水一浩 訳、講談社、2018年)

    • ––––, Fields of Sense: A New Realist Ontology, Edinburgh: Edinburgh University Press, 2015.

    • ––––, Ich ist nicht Gehirn: Philosophie des Geistes für das 21. Jahrhundert, Berlin: Ullstein, 2017.(『「私」は脳ではない:21世紀のための精神の哲学』姫田多佳子 訳、講談社、2019年)

    • ––––, Neo-Existentialism, Cambridge/Medfold: Polity, 2018.(『新実存主義』廣瀬覚 訳、岩波書店、2020年1月刊行予定)

    • Qentin Meillassoux, Après la finitude: Essai sur la nécessité de la contingence, Paris: Seuil, 2006.(『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』千葉雅也 ほか訳、人文書院、2016年)

    • Graham Harman, Guerilla Metaphysics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: Open Court, 2005.

    • ––––, “On the Horror of Phenomenology: Lovecraft and Husserl,” in Collapse, no. 4, 2008, pp. 333–365. (「現象学のホラーについて:ラブクラフトとフッサール」飯盛元章 ほか訳、『ユリイカ』2018年2月号、青土社所収)

    • ––––, The Quadruple Object, Winchester: Zero Books, 2011.(『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』岡嶋隆佑 監訳、人文書院、2017年)

    • ––––, “The Road to Objects,” in Continent 1. 3., 2011, pp. 171–179 .(「オブジェクトへの道」飯盛元章 訳、『現代思想』2018年1月号、青土社所収)

研究発表要旨

村田憲郎 H. ベルクマンの内的知覚論

本発表は、マルティの弟子でプラハ・ブレンターノ学派第二世代に属する哲学者フーゴー・ベルクマン Hugo Bergman(n) (1883-1975)の著作『内的知覚の明証の問題についての研究』(1908)における内的知覚論を紹介する。この著作はブレンターノの内的知覚論がもつ含意をより明示的に展開した上で、フッサールやマイノングを含む当時の論者たちの議論を批判的に吟味しており、フッサール自身もまた公刊後ただちにこれを検討したふしがある。ブレンターノは知覚を判断に分類したが、彼の言う判断とは表象 S に表象 p を結びつけて「Sはpである」を形成する述語づけの作用ではなく、存在に中立的な表象「X」に承認を与えることで、「X は存在する」という主張を形成する作用である。ベルクマンはこの点を強調し、知覚判断を最も単純な「X は存在する」という形式の判断だとした上で、ブレンターノの内的知覚の明証性のテーゼを、顕在的な心的作用ψについての内的知覚「ψは存在する」にのみ適用し、ψの内実を記述し述語づける(「...として解釈する als ... deuten」)ことについては適用外とした。この構えに関連してさまざまな興味深い論点が提示されるが、本発表ではとりわけ以下の二点に注目する。

1) ベルクマンによれば、客観への志向的作用と、その作用自身への内的知覚は、実在的には一つ real eins であるが概念的には区別される。近年クリーゲルはこの論点を援用して、対象アウェアネス Ao と、そのアウェアネスへのアウェアネス AAo との関係を、「明けの明星」と「宵の明星」との関係になぞらえて「フレーゲ的同一性」と呼んだ。実際、「明けの明星」と「宵の明星」とが経験的観測によって同定されるように、ベルクマンも上の実在的統一を内的に見出される「アポステリオリな事実」であるとしている。ただしこの統一は、私の経験があるところでは必ず確認されるといういみで必然的であるが、これは論理的必然性ではなく、Ao とAAo とは概念的には区別されるので、AAo を欠いた Ao、「無意識の意識」の可能性は論理的には排除されない。論理的必然性とも形而上学的必然性とも区別されるこの統一の必然性を、本発表では現象的必然性と呼んでみたい。

2) 時間意識の議論に関して、フッサールは延長主義をとっていないとするギャラガー&ザハヴィは、1908 年の時間草稿 Nr.50 における「意識様態の流れは過程ではない」という言明を引き合いに出しているが、この箇所は、ベルクマンの当該書からの引用に始まり、そこで提起された論点の吟味にあてられている。そこで、この論点の背景にあるブレンターノの議論、当時のフッサールの発展段階を踏まえた上で、フッサールがここで懸念している無限進行が、ギャラガー&ザハヴィの言う無限遡行とは異なる観点から考えられることを示したい。

(東海大学文学部文明学科)

小関健太郎:スペチエス的対象とその論理

『論理学研究』におけるイデア的存在者としてのスペチエスの概念は、一方では心理学主義批判と純粋論理学の立場の形成において、他方ではその後のフッサール本質論への展開において重要な役割を担っている。

『論理学研究』においてフッサールはスペチエス的対象をある種の普遍者として位置づけているが、その理論には普遍者に関するプラトニズム的な側面とアリストテレス主義的な側面の二面性が指摘されている (e.g., Smith 2013) 。普遍者の存在論は現代においても重要なトピックであり、Cocchiarella (1986) に代表されるような形式的・論理的な特徴づけも試みられている。プラトニズムやアリストテレス的実在論はしばしばこうしたフォーマルな枠組みの概念的基盤となっているが、フッサールのスペチエスの理論はこれらの諸理論と類比的に比較される一方で、対応するフォーマルな枠組みにおいてどのように位置づけうるのかについては十分に検討されておらず、この点でギャップがある。普遍者に関する形式理論とフッサールの理論にはそれぞれ応用存在論の観点からも注目があることを鑑みれば、このギャップを埋めることにはスペチエスの理論の内実の解明だけでなく応用存在論への貢献も期待される (cf. Smith & Ceusters 2011) 。

こうした背景を踏まえて本発表では、『論理学研究』におけるスペチエス的対象の特徴づけを整理した上で、特に Zalta (1983) における抽象的対象の理論を参照しつつ、スペチエス的対象の特徴を論理的な枠組みにおいて捉えることを試みる。その上で、スペチエスと抽象的個別者 (モメント)、具体的個別者の関係をそれぞれ取り上げ、本質論との関わりも含めて検討したい。

  • Cocchiarella, N., 1986. Logical Investigations of Predication Theory and the Problem of Universals. Bibliopolis.

    • Smith, B., Ceusters, W., 2011. “Ontological Realism: A Methodology for Coordinated Evolution of Scientific Ontologies”. Applied Ontology, 5(3), 139–188.

    • Smith, D. W., 2013. Husserl. 2nd ed. Routledge.

    • Zalta, E., 1983. Abstract Objects. D. Reidel.

(慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程)

苧野美雪 フッサールとサルトルにおける「準現前」

「準現前」はフッサール哲学で頻出の、大変重要な概念である。最も深く、根源的な問題とされる時間論、また、独我論から超越論的観念論への発展に大きく携わった間主観性の問題において準現前は大きな働きを果たした。

日常的な生活を振り返ると、私たちの経験において見える形で現前するものよりも、準現前的な現れの方が圧倒的に多いことや、準現前が経験そのものにおいても、より大きな意味を持つことに気づかされる。私たちが普段取り組んでいることは、今、眼の前で起こっていることについて考えるよりも、準現前の情報に基づいていることが多い。将来の予定を組むこと、過去の出来事を振り返るなどが、良い例である。もちろん、常に、現前そのものによって準現前は可能となるが、超越論的に言っても、私たちの経験のほとんどが準現前によって成立しているのは自明である。

サルトルの対自存在は前反省的な自己意識である。対自存在が反省的であれば、反省している者と反省されている者が同一でなければならないので、無限回帰に陥るため、対自存在は前反省的でないと説明が付かない。そのため、対自存在は安定性のない、特定不可能な可能性であり、常に確かな地盤を求めるが決してそこにたどり着くことはない、ということになる。しかし、対自存在は、対他存在に依存しており、対他存在を通してしか表象に出会うことはない。存在している対他存在の否定としてしか対自存在は存在し得ないのは確かだ。対他存在と対自存在の媒介として表象は成立するが、表象には既に主観的価値観や期待、また、意味が含まれており、表象は常に既に秩序立った形で現れる。つまり、対自存在は、秩序の媒介を通してしか対他存在に出会えない、ということになる。対他存在自身は直接現れようとも、対自存在、すなわち私たち自身は、対他存在の機能を通してしか、それと関係を持てない。たとえ、対他存在それ自体には何の機能も付されていない、としても。

本発表では、私たちの生活に大いに関わっていながらも、実際には現前していない現象の側面を探求したい。経験を通し、焦点は決して当たっていなくとも、意識内、記憶内に残るものは沢山ある。このような、私たちには影響を与えているが、能動的には意識が向いていない、ないし、知覚していることすら定かでないような経験を、現象学的な対象とする可能性について探究する。フッサールとサルトルの現象学を通し、この大きな役割を果たしながらも、研究の影の役割を担ってきた側面を研究対象として捉えるため、まずは、いつも姿を変え、捉えようとすると変容していくような、準現前そのものを問題視する。

(Bergische Universität Wuppertal)

田中奏タ フッサール『デカルト的省察』における「独我論的領域」としての固有領域の意義――独我論批判への応答の試み――

本発表の目的は、後期フッサールの主著『デカルト的省察』(以下『省察』と表記)の第五省察で論じられる「固有領域(Eigenheitssphäre)」を「独我論」と批判する従来の主要な解釈に対して、新たな解釈を提示することである。新たな解釈とは、端的に言えば、従来の批判の矛先であった固有領域にこそ根源的な自他の層が孕まれている点を明らかにすることである。換言すれば、固有領域がもつ「独我論的領域(die solipsistische Sphäre)」と「原初的領域(die primordiale Sphäre)」という二義性の内で、前者を重視して固有領域を解釈することである。その際に発表者は、I・ケルンが指摘したこの二義性を批判的に継承しながら原初的領域に他者論の可能性を見出したT・シュテーラーの研究(Tanja Staehler, ” What is the Question to Which Husserl’s Fifth Cartesian Meditation is the Answer?”, in Husserl Studies, 2008)を考察の手がかりとする。

フッサールは、自らの「超越論的観念論」が独我論であると早くから批判されてきた実情に対して、固有領域を導入することによって再反論を試みた。だが、固有領域自体が自我中心の哲学の延長と見なされた故に、独我論批判はその後も続くことになった。例えば、B・ヴァルデンフェルスは、後期フッサールにおける自我中心性をフッサールの急所とみなし、自我論的な哲学よりも身体を通じた人格相互の対話的関係を重視する。それに対して、従来の主要なフッサール研究は、立場の違いこそあれ「間主観性」を解釈し直すことによって独我論批判を克服しようと試みてきた。

とはいえ、この取り組みもまた、フッサール現象学が独我論に尽きるのかという課題に決定的な解決を与えているとは言い難い。以上の経緯を踏まえて、シュテーラーは、この独我論的領域を原初的領域へ移行するための「暫定的な概念(provisional concept)」と位置づけ、原初的領域の内に「近づきがたさの様態で近づきうる(accessible in the mode of inaccessibility)」ものとしての根源的な他者を見出した。その結果、彼は、従来の批判を「幻想(Illusion)」として明らかにした。それにもかかわらず、発表者の見解では、この解釈も不十分である。なぜなら、独我論的領域は、たんに暫定的な概念というよりも、むしろ、原初的領域を成り立たせると同時に、シュテーラーが指摘した他者を成り立たせる必然的な発端であると解釈できるからである。そこで、本発表では、以下の手順で独我論的領域が孕む根源的な自他の層を明らかにしていく。まず、なぜフッサールが固有領域への還元を行ったのかという点を明らかにする。次に、固有領域が有する二義性の関係と役割を明確にする。さらに、シュテーラー説の意義を明らかにする。最後に、発表者の立場からシュテーラー説の不十分さを克服することによって、独我論的領域が根源的な自他の層を孕みつつ原初的領域を成り立たせていることを明らかにする。

(千葉大学大学院人文公共学府人文公共学専攻博士後期課程)