要旨

玉置 知彦「現象學と唯識論――相關關係のアプリオリと唯識三性説――」

『現象学の理念』に示されてゐる現象學的考察の三段階を參照することで、『成唯識論』の唯識三性説を解讀する。

唯識の三性説とは、三つの存在の形態のことであり、それぞれ「遍計所執性」、「依他起性」、「圓成實性」である。現象學的考察の三段階では、現象學的還元の理解が次第に深まることにより、内在と超越の概念が精練され、現象や現出、現出者、更には構成の意味が明確に示される。對應させると次の通りである。

還元がなされるまでは、意識流である識體は「遍計所執性」といふ超越的客觀化に囚はれてゐる。現出者のみが實體的に捉へられ、それに執着してゐる状態である(考察の第一段階)。しかし、還元によつて「依他起性」といふ所與性の大陸に導かれる。所與の現象は内在ではあるが、その中で内在と超越は明確に區別されず與へられるがままにある、これが現出の領野である(考察の第二段階)。この所與の中で、現出者とその諸現出が明確に統一的に捉へられることで、「圓成實性」が成就する(考察の第三段階)。

唯識三性説をこのやうに理解すると、三性の相互の關係についての謎めいた記述も氷解する。「依他起性」が「遍計所執性」を遠離したものと云ふ表現は、超越者性を捨象したものといふことである。「圓成實性」と「依他起性」との關係は、非異かつ非不異であるといふ表現は、現出者とその諸現出との同一性と差異性の關係に相當する。即ち、現象學で云はれる普遍的な相關關係のアプリオリが、唯識三性説の形で提示されてゐるのである。

本發表では、現象學的考察の三段階の内容を吟味することを通して、唯識三性説の記述が何を意味するのかを究明するものである。

越後正俊「明証概念の帰趨~『論理学研究』から『イデーンI』へ」(予定)

『論理学研究』では、「理念的な可能性という意味でいえば、あらゆる直観的志向には質料についてぴたりと適合する意味的な志向がある。」(Hua XIX/2, 607)とされる。

その上で「明証」とは、表現の持つ意味志向と直観による意味充実との綜合作用としての充実化の作用のことだとされる。ある対象を志向する際に重要なのは「質料ないし意味」であり、「質料のみが確保すべき充実関係にとって決定的なのである」(Hua XIX/2, 607)

他方『イデーンI』では、「明証とはその『核』の面からいえば、ある理性定立と、それを本質に適合するよう動機づけるものとの統一である。」(Hua III/1, 316)とされる。ある事物を知覚するとは、事物の直接的な現出から、正当化のための権利根拠を受け取っている理性定立のことに他ならない(Hua III/1, 314ff.)。

この発表では、『論理学研究』と『イデーンI』における、明証に関するこうした叙述の推移を支えている動機を摘出したい。具体的な見通しは以下のとおりである。『イデーンI』では対象を知覚しているのか、想起しているのか、あるいは幻覚しているのかといった、直観のされ方に関して区別を設けるばかりでなく、対象を可能的なものとしてとらえるのか、現実のものとしてとらえるのかといった「存在様相」の区別も立てる。存在様相の問題は作用の側から見れば、信念性格の問題であるということになる。

このうち前者のどのようにして直観されているかという系列は、直観性の『イデーンI』の第一篇第二章「自然主義的誤解」の理解にとって重要であり、後者の信念性格に関する論述は真理の問題にとって重要である。前者は同章でのいささか唐突な、力強い直観の権利の擁護につながっており、後者は理性の現象学を支える直接のファクターとなっていると考えることができるのではないか。こうした捉え方を明証に関する記述から読み取る試みをしてみたい。

池田裕輔「エトムント・フッサールの超越論的観念論への「非存在的」批判としてのオイゲン・フィンク『第六省察』での超越論的方法論の理念

発表要旨:『第六デカルト的省察』1(以下『第六省察』)はフッサールの依頼により、当時の助手であるオイゲン・フィンクが著したものであることから、『第六省察』はフッサールの「現象学の現象学」という構想の忠実な実現と見做されてきた。しかし、他方でロナルド・ブルジーナによるフィンクの遺稿の紹介によって、当時のフィンクがフッサール現象学への省察と独立した仕方でいわゆる「非存在論(Meontik)」の構想に取り組んでいたことも知られている。後者の立場からすると、『第六省察』はフィンクの「非存在論」のためになされた助走として位置づけられることとなる。発表者は基本的には後者の立場を支持するものであるが、『第六省察』がフッサールの超越論的観念論の用語を駆使し、その体系に従い記されているという事実を無視して、フィンクのフッサール的な「現象学」から「非存在論」の思惟への跳躍を強調するという解釈は、『第六省察』を単に一人の忠実な弟子によるフッサールの構想の実現と位置づける解釈同様に抽象的な立場に留まっていると言わざるを得ないであろう。よって発表者はこの二者択一的な解釈を退け、『第六省察』をフィンクによって遂行されたフッサールの超越論的観念論へのあくまで現象学的な内在的批判、要するにフィンクのフッサールからの独特な離反と葛藤が具体的な仕方で表されたテキストとして読み直すという作業に従事する。その際、近年刊行されたオイゲン・フィンク全集所収の草稿2の精査を通じて上述した標語的な二者択一的解釈の土台は取り崩されることとなる。発表者は形式上、上述したフィンクの「非存在論」の構想の下に『第六省察』を位置づける立場を補完する議論を提供することとなるが、フッサールの現象学の成果を超越論的観念論の含む幾つかの形而上学的命題から解放し、フッサールの「現象学」やハイデガーの「存在論」といったパースペクティヴには収まりきらない、『第六省察』を通じてフィンクの「非存在的現象学」とでも名付けられるべきあくまで現象学的な未完の構想の再構築を遂行するものである。

上島洋一郎「感情の志向性とその表現について ディルタイとフッサールを比較して 」

ディルタイは精神科学の基礎を記述分析心理学から表現の解釈学へと転回しながら探究した、とこれまで説明されてきた。しかし、1905年頃から断続的に行われたアカデミー発表やその当時の価値論諸草稿はそうした説明図式がもはや妥当しないこと、すなわちディルタイがむしろ精神科学の基礎づけを心理学単独で行うことから、心理学と解釈学の協働によって行うことへと移行していくことを明確に示しているのである。ではこうしたディルタイの姿勢の変化はなぜおこったのか。その第一の理由は、それまでのディルタイの詩学論の発展とともに、『論理学研究』でのフッサールの志向性分析、とりわけ、基づけ関係から捉えられた感情体験の志向性分析をディルタイが引き受けながらその限界を克服しようとしたこと、さらに第二に、そうした変化を可能にするような表現概念をディルタイがフッサールの表現概念を批判することで彫琢していったことにあると考えられる。

そこで本発表では、次のように問いを挙げて論じたい。

    1. ディルタイはフッサールの志向性分析をどのように受容し、さらにその限界をどこに見出すのか。具体的には、感情体験の志向性と非志向性の区別が問題となる。
    2. 『論理学研究』でのフッサール表現論に対して、さらにその後のフッサールの思索に対してディルタイの批判はどこまで有効なのか。ここでは、「事態」を示すものとして表現を捉えるのか「思考の運動」として捉えるのか、という両者の表現概念の相違が明確にされる。
    3. そのうえで、二人の表現概念がそれぞれどういった可能性を示すのか。とりわけミッシュやその後の現象学者達がこの両者の方向性をどのように捉え発展させたのかを取り上げることでその見通しを立てたい。

小手川正二郎「真理と知――フッサールとレヴィナスの真理概念―― 」

フッサールが、『論理学研究』において提示した真理概念は、「対象性が存在するということは、何を意味するのか」という諸対象の存在の意味を問う次元を切り開き、後に真理概念に独自のアプローチを試みることになるレヴィナスにも決定的な影響を与えた。しかし、従来の研究は、レヴィナスがフッサールにおける理論的諸作用(判断作用や表象作用)への優越に対する批判から、独自の思想を発展させた点を明らかにするにとどまり、フッサールの真理概念がレヴィナスにおいていかなる意味で問題となり、いかなる仕方で交錯し合っているのかが語られないままになっている。本論は、フッサールの真理概念を巡る先行研究を参照しつつ、主にレヴィナス『全体性と無限』に絞って、フッサールの真理概念の射程とレヴィナスにおけるその捉え直しの意義を哲学的に検討することを試みる。

具体的には、まず『論理学研究』第六研究におけるフッサールの「ものと知性との一致(adequatio)」という伝統的真理概念の捉え直しを検討する。この捉え直しは、(語によって思念される)「志向的対象」と(想像や知覚において)「見られる対象」との区別を導入することによって、外的な対象と内的な表象との一致という考えを斥けることによってなされる。本論は、先行研究(Jocelyn Benoist, Entre acte et sens, Vrin, 2002.等)を活用しつつ、こうした捉え直しがボルツァーノやブレンターノの真理概念とどの点で異なるかを明らかにし、さらにはトマスにおける「一致」の意味に遡ってその意義を検討する。次に、レヴィナスが初期のフッサール研究において、『論理学研究』の真理概念を正確に捉えるだけでなく、『イデーンI』のドクサ的定立に至る、そこに孕まれた問題性を看取していたことを指摘し、こうした問題性をフッサールのテキストとつき合わせて論じる。さらにレヴィナスが『全体性と無限』において、言語活動と真理の関係を問い直すことで、フッサールの真理概念とトマスやプラトンに遡る古典的真理概念とを再考しているという解釈のもと、最終的にレヴィナスの真理概念におけるフッサールの真理概念の意義とその解釈の是非を吟味する。そうすることで、レヴィナスがフッサールの真理概念の認識論的性格を単純に批判したのではなく、むしろ「理論」の独自の解釈を踏まえて厳密な形で問題化していることを明らかにする。

シンポジウムのテーマ:心理療法と現象学

現象学の精神医学・心理学に対する密接な連関は、これまでも多くの論者によって語られてきたが、近年では、フォーカシング(focusing)という心理技法を提唱した臨床心理学者ユージン・ジェンドリン(Eugene Gendlin,1926-)が、現象学に対して積極的な言及を行っている。ジェンドリンは、ディルタイ、フッサール、メルロ=ポンティ、ハイデガー、サルトルらから強い影響を受け、さらにカール・ロジャースのもとでカウンセリング実習を積んで、「心理セラピーの効果は、身体的に感じられる体験過程(experincing)への直接的照合に依存している」と主張する。現在ジェンドリンは、この体験過程理論をさらに展開した「プロセスモデル」という「新しい哲学」も提唱している。

そこで、今回のシンポジウムでは、フォーカシング研究の専門家である池見陽氏とフッサール研究会会員2名(村上靖彦氏、企画提案者三村)がパネリストとなり、現在の心理療法(ジェンドリンを中心に)と現象学との接点や協働の可能性について検討したい。

提題者1:池見 陽 (臨床心理学、関西大学臨床心理専門職大学院)

提題者2:村上 靖彦 (大阪大学大学院人間科学研究科)

提題者3:三村 尚彦 (関西大学文学部)