発表要旨

シンポジウム『フッサールと初期現象学』

ここ四半世紀のフッサール研究において顕著な動向の一つとして,フッサールを広いいみでの初期現象学(ブレンターノ学派およびミュンヘン・ゲッチンゲン学派)との関係から解釈する路線を挙げることができる.(ロデリック・チザムやギド・キュンクによる先駆的な業績を例外とすれば)バリー・スミスやカール・シューマンなどによる80年代の仕事をきっかけにしたこの動向は,後期フッサールやハイデガーに由来するパースペクティヴからは決して得られない知見をフッサール研究にもたらしつつ,現象学と分析哲学を共通の平面で扱うという研究手法を飛躍的に洗練させることに成功した.(これら二つの点に関して最も成功しているのは,ケヴィン・マリガンのとりわけ近年の仕事である.)しかしながら,『イデーンI』以降のフッサールを低く評価し切り捨てる傾向のせいか,この動向は,あくまでも周縁的なものにとどまったまま下火になったようにも見える.だが,近年スミスやシューマンらの影響を受けた世代の台頭により,初期現象学とフッサールを巡る研究はふたたび盛り上がりを見せつつある.この新たな世代に属する研究者たちにとって特徴的なのは,すでに述べた旧世代の研究の美徳に加え,(多くのばあい批判的な観点からではあるが)いわゆる超越論的転回以降のフッサールにも正面から取り組めるだけの射程の広さである(この点でとりわけ注目に値するのは,ジョスラン・ブノワとアルカディウス・フルヅィムスキである)本シンポジウムでは,上で言及した新旧の仕事をふまえつつ,いくつかの異なった主題に関する報告を行いたい.それらの報告の共通の狙いは,初期現象学の研究がフッサール研究にとってどれだけ実り豊かであるかを示すことにある.

玉置知彦、「現象學と唯識論 ― 時間について―」

唯識論を現象學の觀點から解明することが最も效力を發揮するのは時間に關してである。それは現象學的還元と云ふ方法が兩者に共通してをり、しかもその方法が時間に關して徹底した形で適用されてゐるからである。

『成唯識論』では、現在すなはち「刹那」のみが有り、「去來生は、(中略)應に空華の如く、實有性に非ざるべし」とされてゐる。つまり過去や未來は存在するものとして扱はれるのではなく、現象學的還元により「空華の如く」とされ、「實有」の性格は「非ざるべし」として停止される。

このやうにして「刹那」としての現在は次のやうに記述される。「初に有るをば生と名け、後に無からむをば滅と名け、生じ已つて相似て相續するをば住と名け、即ち此の相續が轉變するをば異と名く」。 謂はゆる「生住異滅」である。刹那の現在は「生」じ且つ「滅」するのであるが、それは「住」と「異」と云ふ契機で成立してゐる。この二つの契機で何が意味されてゐるのかは、「刹那」に相當する現象學の「生き生きした現在」を參照することで解明することが出來る。

「生住異滅」と云ふ形で記述された「刹那」は、「徹底した還元」が試みられてをり、時間が生じてくることに迫る記述である、或いは先時間である。從つて、「住」や「異」と云ふ表現は、時間の中に現はれるものの記述と見做されてはならない。自然的態度のままで『成唯識論』を讀んでも理解できな所以である。

「轉識の波浪を生じ、恒に無間斷なること、猶し瀑流の如し」との表現は、阿頼耶識のことであり、「我」が現はれる以前の先時間が述べられてゐる。現象學の「流れること」も同じくそこから「自我」が發生して來る先時間である。「生」や「滅」はもちろん「生き生きした現在」の記述であるが、「自我」の發生といふ觀點から見ることができ、その場合には「生」と「滅」は、「生」と「死」を徹底的に還元したものと讀むことが出來る。「生老病死」とは客觀時間の記述であり「我」に對して生じる出來事の記述であるが、これを徹底的に還元すれば「生住異滅」となり、「我」や「器世間(環境)」が發生する根源に遡つてゐると看做すことが出來る。

以上「徹底した還元」と云ふ觀點から唯識論の「刹那」が理解できることを述べた。本發表では時間の基本概念である現在の「三項構造(予持、原印象、把持)」や、「横の志向性」や「縱の志向性」の考へ方を用ひて、更に具體的に唯識論の時間を理解することを試みる。

以上

富山豊、「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」

1894年の「志向的対象」論文から1901年の『論理学研究』第二巻までの比較的初期のテクスト群において、フッサールは判断作用やその部分作用の意味論的構造分析という仕方で志向性理論を整備していった。その成果は、論理学ないし言語哲学としての体系的意味論の具体的な構築可能性という問題に関心のない解釈者たちにとっては、深刻な検討対象とはされてこなかった。初期志向性理論の問題性を執拗に指摘してきたのは、代案としうるより具体的で詳細な意味論であるフレーゲの意味論に通暁した論者たちである。

しかし、彼らの議論の重要性、彼らの議論がフッサール解釈として正当である部分と不当である部分との双方にともに含まれている哲学的な重要性は、十分に検討され尽くしたとはいいがたい。たとえば、対象そのものと区別された対象の類似物として「志向的対象」を位置づけてしまうDavid Bellの解釈、単に何かを思い浮かべたり注意を向けたりすることに類するものとして作用の対象的関係を考える傾向をもったErnst Tugendhatの解釈、そして、意味付与作用によって表現が意味をもつという教説をハンプティダンプティ理論に帰着させるMichael Dummettの解釈などは、フレーゲ的意味論の内部事情に精通した論者によるフッサール誤解のサンプルであるとともに、初期志向性理論を真剣に検討しようとする者への貴重な試金石でもある。テクストにしばしば抵触する彼らの不当なフッサール解釈は、フッサールの議論の本質的と思われた部分を、単に表面的にテクストをなぞるだけでなく自分なりに再構築して展開してみようとする哲学的姿勢の現われでもあるのだから。

それゆえ、そうしたフッサール誤解に対して、表層的な文献学的反証を持ち出すことによってではなく、彼らの議論の論証構造に即した形での論駁こそが、フッサールの擁護者の側に課せられた責任である。本発表では、「志向的対象」という概念を中心に初期志向性理論において分節化された操作概念を整理し、そのうえで、上述のような批判者たちの議論に対する応答を試みたい。そのことによって、初期フッサール解釈により鮮明な見通しを与えることができたならば、本発表の目標は達せられる。

秋葉剛史、「トロープと部分概念」

現代哲学、特に形而上学の文脈で、「トロープ」という概念が注目を集めていることはよく知られている。単純化して言えば、トロープとは、この机だけが持つこの個別的な硬さや、この個別的な色などの「個別的性質」である。そして同様によく知られているのは、近年この概念が哲学上の市民権を獲得するに至ったのに先立つことほぼ一世紀、ブレンターノ学派の哲学者たちがトロープと同等の概念について多くの議論を展開していたという事実である。本発表では、特にブレンターノ、フッサールによるトロープの扱いにおいて特徴的な点を取り上げその意義を探ることを目指す。

彼らの見解に関して特徴的なのは、実在の記述に際してトロープに積極的な地位が認められただけでなく、トロープとそれを持つ実体との間の関係とは、われわれのよく知る「全体-部分」という関係に他ならない、と主張されていることである。例えば、『論理学研究』の第三研究において構想される形式的な全体と部分の理論は、フッサールがまさにこの点を前提していることを何よりも明らかに示している。またブレンターノも、少なくとも中期においては、これと同様の立場をとり、対象の「分離不可能部分」としてトロープを特徴付けている。

トロープと実体の関係は、全体-部分関係の一種である、というこの主張を前にしたとき、われわれのうちには一種のアンビバレンスが生じるように思われる。すなわち、トロープがそれを持つ実体の部分であるという記述は何らかの意味で適切であるように思われる一方で、その関係を通常の部分関係(机とその脚のような)と完全に同一視することには躊躇いが生じる、と思われる。つまり問題の主張は、ある程度のもっともらしさと、それと同程度のもっともらしくなさを持つように思われるのである。

本発表で私は、上のような感覚がどのような事象に基盤をもち、哲学的な反省を経た場合どの程度まで維持可能であるか、という点を明らかにすることを目指す。より具体的な論じ方としては、通常の部分関係と、トロープ-実体の間のいわゆる「内属関係」との間のアナロジーを支持するためのいくつかの材料をフッサールとブレンターノのテクストから取り出し、議論として明示的に定式化した上で検討する。また、P・サイモンズ、B・シュニーダーら現代の形而上学者が二つの関係の間のディスアナロジーを支持するために挙げる論拠も取り上げ、それらを見積もることも予定している。

中山純一、「発生的現象学における「愛」の在り処」

「愛」は哲学の歴史的展開のなかで、その類型、秩序に即して多様に語られうる。古代ギリシアの「愛」は、人間の理性的な諸活動の根源として、プラトンの思想に顕著なように、肉体的な美の価値から絶対的な美の観照(美のイデアの直観)への道行きを上昇する。「愛」はまた「恋愛の歌」として中世の宮廷において多彩な隠喩をまとい、ミンネゼンガーによって高貴で有徳な女性に捧げられた。ここから理解されるのは、「愛」は「愛」の対象を「価値」のあるものとしてイデアのうちに「発見」し、これを選択する「意志」として働くということである。シェーラーの実質的価値倫理学が「価値」の対象を実在的なものとしてではなく、理念的対象として捉えた背景には、こうした価値の領域を拡大化する働き(価値認識にとっての発見)を「愛」にみていたことによる。

フッサール現象学の志向性理論内部に見出された、志向性に発見的機能を付与する「愛」は、人格主義的態度における対象の「価値」の領域の拡大化に寄与する。シェーラーの「愛の創造性」も、こうした志向性の発見的機能にかんして述べられたものである。したがって価値判断を価値論に還元することで価値哲学を構築しようとする新カント派に対して、フッサールが『イデーンⅡ』の時期におこなった感情における知覚の役割を果たす「価値覚」の分析は、価値の客体を直接把握する知覚であった。

本稿ではこうした価値の独特な対象性にかんして、価値認識と態度との関係について考察してみたい。直進的に生きられた自然的態度は現象学における批判的認識の対象だけでなく、「価値」を帯びた実践的な世界でもある。還元はこうした世界を、現象学的態度へ移行することで理論的に主題化する営みだが、認識能力としての理性を通じて、同時に世界から「価値」の彩りを解除してしまう。構成の発生的分析はこうした価値に彩られていた世界を質料性に基づけ、下からの再構成の歩み通じて解明している。そのため彼の『イデーンⅡ』における領域存在論は、「価値」の対象(価値客体)を物質的実在に基づけることになった。還元を通じた現象学者の態度転換によって、シェーラーの価値感得によって直接捉えていた価値客体がいわば世界から解除されたのである。これに対して考えてみたいのは、発生的現象学による構成的分析であるフッサ-ルの「超越論的論理学」の一連の諸講義(受動的綜合)は、認識対象の受動的構成層をこうした価値感得の先構成層の経験領域として解明する試みでもあったのではないかということである。30年代に入るとこうした「価値」の原初性における先構成の場面が、感性的質の原構成(融合)の次元とともに設定されてくる(ⅩⅤ, 597ff.)。周囲世界を生きるモナドの共同体が、目的論的な運動のなかで最善へと上昇する「愛」の共同体として語られた背景には、こうした「受動的綜合」の分析によって露呈された構成の最深の次元が「関心」「価値づけ」「本能的衝動」によって動機づけられた「価値」に彩られた世界であったからではないだろうか。

小林琢自、「フッサールの時間論とシュッツによる理解社会学の基礎づけについて」

「理解社会学の現象学的基礎づけ」を企てたアルフレート・シュッツの『社会的世界の有意味的構築』は、その企ての理論的基盤としてフッサール現象学の初期時間論と静態的現象学、および後期発生的現象学の知見とを独特の仕方で利用していた。近年のシュッツ研究においては、シュッツの初期草稿群におけるベルグソン的時間論の受容に焦点を当てて彼の思索の独自性を探る動向が見受けられる。しかしその際、肝心のフッサール現象学における諸理論との異同について十分な比較検討がなされてはいない。本研究発表では、フッサールのテクストに基づいて、シュッツによる誤読や固有の解釈傾向を明らかにしつつ、現象学的社会学への現象学の理論的寄与について再検討することとしたい。