要旨

丸山文隆「人間と現存在との現象学:「ブリタニカ」草稿をめぐって」

「ブリタニカ」草稿をめぐって、フッサールとハイデッガーとのあいだで争われた事柄とは、何であったのか。前世紀における二人の卓抜な哲学者の関係が先鋭化するトピックとして、この問いは繰り返されるに値する。ことに近年、ハイデッガーの『存在と時間』直後の思惟に関する研究が蓄積されつつあることを踏まえれば、ハイデッガーのフッサールに対する論難は新たな光のもとでみられうる。

本発表は、ハイデッガーの問い「それのなかで『世界』が構成されてくるところの存在者の存在様式は、どのようなものであるか」(1927年10月22日づけフッサール宛書簡への添付文書Ⅰ「事象上の諸困難」より)に注目する。ハイデッガーはこの存在者を「人間的現存在」と呼び、さらに直後でこれを「人間」と言い換えてすらいるが、この「人間」という表現は『存在と時間』(1927年)のみに基づくならば、擁護困難で不用意なものにみえる。同書で彼は、経験的「人間学」の諸概念が無批判に適用されることを恐れ、「現存在」という標語において〈われわれがそれであるところの存在者〉を定式化し、これを彼の存在論の基礎としたのであった。だが同書公刊以降の彼の関心は、〈そこにおいて総じて存在者の存在が了解されるところの存在者は、どのように存在しているのか〉、ないし、〈現存在はどの程度、他の存在者と同様に存在しているのか〉という問いへと向かっていく。『カントと形而上学の問題』(1929年)第四章において人間と現存在との関係への問いとして先鋭化されることになるこのような関心が、先の添付文書におけるハイデッガーの表現から読み取られうるのである。

そうすると、是非われわれが問題にしなくてはならないのは、ハイデッガーが上述の関心からしてフッサールに要求した〈「世界」は人間において構成される〉という事象への接近は、どの程度正当化可能であるか、ということである。

このことの吟味は次の手順で行われる。

    1. ハイデッガーによる「現象学」概念の捉え返し(ことに、「現象」及び「態度変更」概念の捉え返し)を確認し、この捉え返しがどの程度(フッサールに対して)正当化可能かを確認する。
    2. 上記現象学概念が、いかにして〈「世界」がそこにおいて構成されるところの存在者〉として「人間」を究明しなければならないのかという理路を再構成する。

Andrea Altobrando, “On a Possibility of a Phenomenological-Husserlian Monadology”

The terms “monad” has a peculiarly strong ontological as well as metaphysical “taste”. The fact that Husserl uses the term “monad” in order to describe the transcendental as well as empirical subject seems in fact to support the idea that his theory of the “phenomenological field of evidence” as well as of “subjectivity” (the two concepts often coinciding) leads to solipsism. This last is principally considered epistemological. Nevertheless, exactly the use of the term “monad” seems to suggest some sort of solipsism also from an ontological point of view. Quite bewildering is then that Husserl makes large use of this term in the 5th Cartesian Meditation, which is devoted to the analyses of intersubjectivity and to its establishment as most fundamental transcendental ground of knowledge and experience.

In order to understand if and how Husserl’s use of the term “monad” is consistent with his general phenomenological frames (especially “intuitionism” and “epoche”) and which can be the systematic consequences of the “monadological” view of subjectivity, I will briefly sketch the path of considerations and reflections which seems to lead Husserl to the adoption of the concept of monad in its phenomenological philosophy. I will show which can be some analogies with Leibniz’ conceptions, not in order to make a precise comparison between the two, but rather i) to better point out the peculiarities of Husserl’s framework and to ward off misunderstandings, as well as ii) to track down its possible inconsistences or aporias.

成瀬翔「心的ファイルとノエマ」

本発表は、分析哲学において研究が行われている「ファイル概念」とフッサール現象学との接点を明らかにすることを目指す。ファイル概念は哲学において新奇なアイディアではなく、グライスやストローソンによって60年代後半から70年代初頭に提唱され、確定記述の指示的用法や同一性言明を説明するために導入された。その後、指示の因果説を批判し、ファイルとその支配的源泉というアイディアを提唱したガレス・エヴァンズをはじめ、多くの研究がなされており、心の哲学においてもルース・ミリカンが個体概念の内容をファイルとして捉える研究を行っているように、狭義の言語哲学を越えてファイル概念は哲学において広く受け入れられている。

これらの研究を継承し、フランソワ・レカナティは「心的ファイル・フレームワーク(mental-file framework)」を主張する。レカナティの心的ファイルという概念は、特定の対象に関する情報をひとまとめにしておくために用いられるものであり、固有名の理解は、その音声によってしるし付けられたファイルと話し手がそこに収めている情報からなるとみなされる。レカナティによれば、心的ファイルはエヴァンズが主張する非記述的意義に他ならず、対象との「認識的に有益な関係(epistemically rewarding relation)」によって獲得される。そのようにして獲得された心的ファイルは単称名辞のように対象を直接的に指示するのではなく、そのファイルを制作する際に主体と対象の間の認知的関係によって個別化されたフレーゲの「意義」、ないしバイアーによるとフッサールの「ノエマ概念」に相当する役割を果たす(Beyer 2008)。

本発表ではレカナティの心的ファイルとノエマ概念の親近性を示し、フッサール現象学におけるノエマ概念をめぐる議論に新たな光を当てることを目指したい。

Beyer, B. (2008) Noematic Sinn, in F. Mattens (ed.) Meaning and Language: Phenomenological Perspectives Phaenomenologica Vol.187, pp. 75-88

Evans, G. (1982) The Varieties of Reference (edited by J. McDowell). Oxford: Clarendon Press.

Recanati, F. (2012) Mental Files. Oxford: Clarendon Press.

Smith, D.W.(1982), “Husserl and Demonstrative Reference and Perception”, in HICS, pp.193-213.

Smith, D.W. & McIntyre, R(1971), “Intentionnality via Intensions,” in The Journal of Philosophy, vol.LXVIII, pp.541-561.

松井隆明「現象学的還元と構成の問題:フッサール超越論的観念論の基本的構図」

現象学的還元とは何か。『イデーンI』公刊から一世紀も経つというのに、今なおこうした問いが立てられなければならないというのは、奇妙なことのように思われるかもしれな い。だが、この問いはまだ応えられていない。それどころか、これが応える必要のある問いなのかどうかということさえ、議論の余地があるように思われる。

現象学的還元に対する懐疑論は、還元がなぜ必要なのか、還元によって何がもたらされるのかに関するフッサール自身の積極的な説明が、還元論を主題とする『イデーンI』第二篇のなかに見出されないという事実に由来する。近年、還元論の実践的な側面を強調す ることでこの問題に応えようとする解釈がいくつか提出されているが、これに対して、本発表は、超越論的観念論という枠組みを背景にこの問題に応えることを試みる。発表者の見るところでは、還元論は、『論研』以来のフッサールの志向性理論の基本的な方針と、「構成分析」という彼の超越論的観念論的な問題構制を押さえるならば、純粋に理論的に要請 されるものとして十分に解釈できるものである。

この構成分析という問題構制の背景には、知性とものの一致という「真理の名目的説明」 (KrV, A58/B82)に対する回答としての超越論的論理学、というカント的な問題構制があ る。したがって、フッサールの構成分析とは、新カント派マールブルク学派の汎論理主義や、同西南学派の価値哲学ととともに、伝統的な真理概念に対してカントが与えた回答に対するひとつの再回答として見られるべきものである。以上のような文脈を背景に、本発表は、フッサールの構成分析を、諸対象の成立にかかわる「規則」に関する問題として提示する。

ダン・ザハヴィが繰り返し強調しているように、たしかに、フッサールが書き溜めた草稿を参照することなしに彼の現象学を正確に理解することはできない、というのは事実だろう。だが、同時に強調されなければならないのは、これらの草稿によって、フッサールが生前に自らの手で出版した著作の価値が損なわれるわけでは決してない、ということである。本発表はできるかぎり公刊著作に依拠して議論を行おうと思う。もちろん、このことは、草稿が出版される以前の研究状況へと逆戻りすることを意味するわけではない。本発表は、草稿を、もっぱら公刊著作で表明されているフッサールの哲学を理解し解釈するための道具として用いるにすぎない、ということである。

満原健「西田幾多郎による志向性理論批判」

これまで数多くの哲学者がフッサールの哲学に対して批判を行ってきた。西田幾多郎もまた、1911年に「認識論に於ける純論理派の主張に就て」という論文でフッサールの哲学を日本に紹介して以降、これを評価するとともに複数の論点について批判をしている。たとえば、1927年に発表された「知るもの」という論文で西田は以下のように述べている。「意識現象は志向的とか意味を荷うとか考えられるのであるが、私は単に志向的作用と考えることによって尚意識の本質を明にすることはできないと考える」(『西田幾多郎全集』第三巻、岩波書店、2003年、539ページ)。ここでは明らかに、意識の特徴は志向性にあるというブレンターノが再発見しフッサールらに受け継がれた主張への批判が表明されている。西田は前年の1926年に「場所」という題の論文を発表し、「場所」という概念でもって独自の哲学を築こうと試みはじめていた。この時期の西田は、意識は志向性という特徴に基づいて捉えるべきではなく、むしろ一種の「場所」として理解すべきだと主張しているのである。

本発表では、西田のこの主張を検討する。すなわち、志向性の理論のどこに欠陥があると西田が考えているのか、なぜ意識を志向性をもったものではなく「場所」として捉えるべきと主張されているのかを論じることによって、西田とフッサールの哲学との分岐点を明らかにする。

ただし、西田が参照したフッサールの著作はほとんど『論理学研究』と『イデーンⅠ』に限られているため、西田の批判はフッサール批判としては偏ったものとなってしまっている。たとえば『第一哲学』の第二部では、自我が反省する自我と反省される自我とに明確に区別された上で議論が展開されているのだが、西田はそれを知らず、現象学の自我概念が主観としての主観ではなく客観化・対象化された主観にすぎない、と批判をしている。そのため本発表では、西田のフッサール理解の一面性や過ちを指摘しつつ、それでもなおフッサールに対して有効と考えられる批判点を見出す、という作業を行う。それを通して、西田自身が想定していなかった、そしてまた今まで指摘されてこなかった両者の思想の共通点もまた明らかにできると考えている。

横山達郎「『危機』と『呪縛』:「自然の数学化」を巡る大森荘蔵によるフッサール批判」

近年、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)以降、フッサール現象学において提出された「生活世界」という概念が、狭義のフッサール研究あるいは現象学研究の枠組を超えて(例えば、英米圏の分析哲学の伝統における、「心身問題」へのアプローチへの批判といった文脈において)、大きな注目を集めている。

『危機』におけるフッサールによれば、ガリレイ・デカルトに始まるいわゆる「科学革命」の過程において、自然が「数学化」されたこと、そしてこの「数学化された自然」が我々の「生活世界」から、ある意味において遊離し、一人歩きを始めたことが、「学問の危機」の温床としてあるとされる。

『危機』におけるフッサールは、この「自然の数学化」を科学革命の「源泉」「原因」としてみなしていると考えられるが、この点について、疑義を提出したのが『知の構築とその呪縛』(以下『呪縛』)における大森荘蔵である。

大森は『呪縛』内で、『危機』のフッサールは、「原因」と「結果」を取り違えていると論じる。すなわち、大森によれば、科学革命の真の源泉は、我々の「感覚的性質を「物」から排除して人間の「意識」あるいは「精神」に押し込めたこと」 *1にあるとし、「自然の数学化」は、そこからのむしろ「結果」であると強調する。

更に、大森は、フッサールが「数学化」ということで表している内実が、「具体的で経験的な現実世界から出発するが、それとひどくかけ離れた抽象的世界」 *2の構築であるとし、現実の諸科学は、フッサールが言う意味での、抽象化も数学化もされていないと批判する(「フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える」 *3)。

本発表では、この大森『呪縛』による『危機』批判の妥当性を吟味し、「自然の数学化」のより十全な理解を提出することを目標とする。

*1 大森荘蔵 (1998)『大森荘蔵著作集 第七巻 知の構築とその呪縛』、岩波書店、p.107。

*2 大森 (1998) p.109。

*3 大森 (1998) p.109。

シンポジウム「フッサールと現代形而上学」

司会:植村玄輝(日本学術振興会/立正大学)

提題:秋葉剛志(日本学術振興会/埼玉大学)、早坂真一(神戸大学)

コメンテーター:柏端達也(慶應義塾大学)

開催趣旨

フッサール現象学のいくつかの側面がいわゆる分析的伝統における形而上学(「現代形而上学」)と高い親和性を持つという事実は、いまや多くの研究者によって認識されているといっていいだろう。こうした状況におそらくもっとも大きく貢献したのは、ケヴィン・マリガン、ピーター・サイモンズ、バリー・スミスによる一連の仕事である。これらの仕事はフッサール研究に二つの実り豊かな展開可能性をもたらした。つまり、(1)フッサールの議論を現代形而上学の道具立てを用いて明確化し発展させる可能性と(2)その逆に、フッサールの発想を現代形而上学で盛んに論じられている問題の解決に役立てるという可能性である。本シンポジウムの目的は、マリガンらの仕事ではもっぱら初期フッサールに関連づけられてきたこれらの可能性を、いわゆる超越論的転回以降のフッサールに即して示すことにある。フッサールと現代形而上学の双方に通じた二人の提題者による報告と、現代形而上学の専門家によるそれらへのコメントを通じて、フッサール現象学の新たな展開可能性をなるべく具体的に浮かび上がらせたい。

秋葉剛志「フッサール知覚論と性質の因果説」

E・フッサールはその知覚論において、事物—―空間的広がりをもち時間を通じて持続する事物—―は、多様な現れのもとで与えられることを強調している。それらの多様な現れは、あるものは意識の顕在的な与件として、他のものはそれを取り巻く地平として、相互にきわめて密接な体系的連関を形成する。そしてフッサールによると、事物はまさにこうした体系的連関をなす無数の現れの総体として(あるいはそれによって)構成されるのである。

本提題の目的は、フッサールが提示するこのような知覚論を、現代の分析形而上学の道具立てを使って読み直すことである。なかでも今回注目したいのは、性質論(性質という存在者の実在や本性について探究する形而上学の下位分野)における有力な立場の一つとみなされている性質の因果説(S・シューメイカーらの提案するもので、「力能説」などとも呼ばれる)である。この立場によると、それぞれの性質は、相互に因果的な連関をなすような無数の力能からなる束として分析される。言い換えると、性質の存在はその因果的振る舞いによって尽くされるのである。提題者のみるところ、フッサールの知覚論は、このような性質分析と比すべき多くの内容を含んでおり(上の「性質」を「事物」に読み換えてみれば、両者の形式的類似性は明らかだろう)、それとの比較によっていくつかの特徴を際立たせることができる。本提題では、これを具体的に示すことを主目的とする。

参考文献

E. Husserl, Ding und Raum: Vorlesungen 1907, hrsg. von K-H. Hahnengress, Meiner, 1991.

S. Shoemaker (1980). “Causality and Property.” In Peter van Inwagen (ed.), Time and Cause. D.Reidel. Reprinted in his Identity, Cause and Mind (expanded edition), Oxford University Press, 2003: 206–33.

S. Shoemaker (2007). Physical Realization, Oxford University Press.

早坂真一「命題的態度ならびに態度的対象の志向的分析」

分析哲学では、「信じる」や「願う」などの命題的態度を表す動詞の分析においては、そのような動詞を含む文の意味論的分析が中心を占めてきた。そして、特に、態度的動詞の補語の位置に来るthat節が意味論的値として何を取るのか、という問題は存在論に関わっている。that節の意味論的値としては、命題、あるいは事実や可能性が考えられ、どの存在者を想定したほうが、態度的動詞を含む文に対してより説得性の高い意味論的分析を与えることができるのかが議論されてきた。ところが、近年になり、命題的態度の分析には志向的分析が有効であることを示唆する論者が現れてきた。そのような論者のひとりであるMoltmannは、ブレンターノやフッサール、マイノングらのオーストリア学派の判断論を取り上げるべきだと主張している(Moltmann & Schnieder)。というのもMoltmannは、「Johnの主張」のような名辞化によって導入された態度的対象(attitudinal object)が命題的態度の分析において中心的な役割を果たすと考えられるからである。態度的対象はその態度をとっているagentの志向性から分離不可能であり、命題のように心から独立(mind-independent)であるとは考えられていない。さらに、名辞化という言語操作によって導入される対象であるため言語から独立(language-independent)でもない。フッサールもMoltmannと同様に名辞化され、真なる述定の主語となっているものを対象として認めるという考えを提示している。しかもフッサールの分析は、名辞化や、述定の主語にするという操作を単なる言語的操作としてではなく、志向作用の変様として分析する。このようなフッサールの志向性分析は、Moltmannの議論をより精緻に補強するように思われる。本発表では、これを実際に示したいと思う。特に、態度的動詞を含む文に現れる命題的要素に、意味論的値としてどのような存在者を割り当てるかは、規約や説得性、自然さの問題ではなく、その命題的態度をとっているagentの志向性の問題であるということを示したい。

参考文献

Husserl, E. Erfahrung und Urteil, Felix Meiner Verlag Gmbh, 1999.

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