2023年3月11日開催 
第21回研究会のお知らせ

第21回フッサール研究会

参加方法

 第21回研究会から参加費1000円の徴収を再開させて頂きます。参加を希望される方は、下記リンク先のフォームに回答の上、期日までに参加費の振り込みを済ませていただきますようお願い申し上げます。振込み方法の詳細はフォームへの回答後送られてくる自動返信メールに記載されています。

日時・場所


プログラム


10:30-11:50 林成彦(北海道大学) 『論理学研究』における自我 ー自我は捨象されても良いのか


11:50-12:05 ミーティング


12:05-13:00 昼食


13:00-14:20 宮﨑勝正(北海道大学) H.G.ガダマーの芸術論における人間の「遊び」


休憩(10分)


14:30-15:50 小関健太郎(慶應義塾大学) マイノングの志向性理論再考:フッサールの志向性理論との対比をめぐって


休憩(10分)


16:00-18:30 フッサール現象学の鍵概念(2)── 志向性
- 話し手・解説:富山豊(東京大学) 進行:柳川耕平(北海道大学)


発表要旨

林成彦 『論理学研究』における自我 ー自我は捨象されても良いのか

 フッサール現象学においては当初、カント的な自我、すなわち個人の体験の「この私」性を担保するような統覚としての自己意識の同一性はその存在を認められなかった。初期フッサールの代表作である『論理学研究』(以下、『論研』と記す)の第五研究において、フッサールは自我の議論を行うのだが、そこで彼は我々の体験を統一するような自我原理などなく、あるのは個々の体験でありそれらが何らかの仕方で結合することによる現象学的自我が見出されるのみだと述べる。このフッサールの主張は自我を、体験を取りまとめる点と見るのではなく、自我と体験の個々の内容とを同一視しているものとみなすことができる。

 

 ところで、『論研』全体を貫いていたフッサールのモチベーションは、我々認識一般の可能性に関わる議論を学問論、すなわち学問が成立する条件としてのアプリオリな論理法則や命題・真理といった概念に関する考察へと紐付けることで学問としての「認識論」をも包括する、より一般的な認識批判を展開することであった。より簡潔に言い換えるならば、『論研』時代のフッサールを掴んで離さなかった問題意識とは、一方で人間のような実在的な個別者が存在し、他方で学問を基礎付ける論理法則や「範疇」「命題」「真理」などの理念的な論理学的概念が存在する中で、どのようにして前者が後者を捉えることができるのかというものである。


 しかし、ここで一つの疑問が浮上する。フッサールは『論研』で実在的で個別的な存在者が理念的で普遍的な対象を補足するという謎に挑もうとしたのであるが、その試みは果たして「この私」としての自我を想定せずに成立するものなのであろうか。というのも、この認識の謎を謎たらしめている要素はまさに理念的で普遍的な事柄が「この私」によって獲得されるという箇所にあるのではないか、と考えられるからである。むしろこの謎に対するより意味のあるアプローチは、『論研』における形而上学的中立性という態度を保持しながら、それでも「この私」によって普遍的対象を把握することが我々の認識と本質的な仕方で関わっていることを説明するというものではないだろうか。したがって、本発表では『論研』の基本的枠組みを崩さずに、それでも「この私」が普遍的対象の認識において重要な意義を持つことを明らかにしたい。本発表の議論は以下の4つの手順を踏む予定である。1)『論研』におけるフッサールの問題意識の確認と心理主義の概観。2) 『論研』における志向性・現象学的自我・内的知覚に関する議論の整理。3) なぜ『論研』の枠組み(形而上学的中立性)は崩されてはならないのかについての説明。 4)「この私」性の不在の意味と、それに対する批判的考察。これらを経ることで、『論研』で展開された認識体験の解明における「この私」性の本質的役割の検討が行われる。 



宮﨑勝正 H.G.ガダマーの芸術論における人間の「遊び」


 本発表の目的は、ガダマーの『真理と方法』において論じられている、人間の遊びと芸術作品の関連性を明確にすることによって、彼の芸術哲学における記述がどれほど遊びに関しても妥当しうるのかを示すことである。ガダマーは『真理と方法』において、芸術作品の存在論的分析を展開するのであるが、その立脚点として「遊び (Spiel)」の概念を導入している。「遊び」という事象は「行きつ戻りつの運動 (die Bewegung des Hin und Her)」という比喩的用法から、中動態的な意味(der mediale Sinn)において捉えられている。遊びの中動態的な意味とは、遊ぶ者の意識に対して遊びそれ自体が優位性を持つということを示している。人が何かをして遊ぶというとき、その遊びは遊ぶ者の意図や選択を含み込むという仕方で展開する。それによって遊びは、自らを一つの具体的な出来事として顕にするのである。遊ぶ者の参与を通じて、完結した個々の顛末として実現されることによって自己の在り方を指し示すという遊びの在り方は、「自己呈示 (Selbstdarstellung)」として特徴付けられる。この中動態的な自己呈示として規定された遊びの在り方に依拠して、ガダマーは芸術の存在の主観主義的な理解を乗り越えようとするのである。


 しかしながら、遊びの分析から芸術の存在論へと移行する過程でのガダマーの論述は、必ずしも判明であるわけではない。人間の単なる遊びが芸術作品としての性格を獲得する転換のことを、ガダマーは「形姿への変容 (Verwandlung ins Gebilde)」と呼んでいる。この単なる遊びから芸術の遊びへの転換のあいだには、共同体における祭祀行為や見世物的な遊びが存している。それらの事象が密接に結びつけられていることは明らかである。しかし他方で、それらがいかなる存在様式上の差異を表現しているのかは、少々曖昧である。


 そこで、本発表では、『真理と方法』および Die Aktualität des Schönenを中心に、人間の遊びと祭祀、芸術作品のそれぞれについての記述に基づき、「形姿への変容」という転換が、遊びと芸術のあいだのいかなる相違を表しているのかを明らかにする。また、そこで示された事象間の相違の内実に依拠し、芸術作品の記述に際してガダマーの用いる諸概念が、人間の単なる遊びについても適用可能であるその範囲について検討する。 



小関健太郎(慶應義塾大学) マイノングの志向性理論再考:フッサールの志向性理論との対比をめぐって


 フッサールと同じくブレンターノの志向性理論から出発したマイノングは、対象論として知られるある種の形而上学に加えて、彼が把捉論 (Erfassungstheorie) とも呼ぶ志向性理論についても詳しく論じている。英語圏におけるマイノングの肯定的受容の最大の貢献者であるとともに、フッサールの『論理学研究』の英訳でも知られるJ. N. Findlayは、『現象学者マイノング』(Meinong the Phenomenologist) と題する論考において、両者の志向性理論の間の平行関係をいみじくも指摘している。


 一方で、マイノングとフッサールの志向性理論の対比に関して、D. W. Smithは以下のような見解を示している。Smithによれば、指示や志向性についてのマイノングの見解をフレーゲやフッサールの見解から区別する特徴であり、かつマイノングの見解の難点でもあるのは次の点である。すなわち、マイノングの志向性理論においては、実在の対象そのものが志向の端的な対象になることはなく、私たちの志向の直接の対象は不完全対象と呼ばれる特殊な対象である。実在の対象はあくまで、不完全対象との、志向的関係とは別種の関係を通じて、いわば間接的に志向されると言えるに留まる。これに対してフッサールの志向性理論においては、実在の対象そのものが志向の直接の対象となりうる。

しかしながら私の見る限り、マイノングの本来の志向性理論は、Smithのマイノング解釈や、それに類する「マイノング主義的な」志向性理論とは少なからず異なるものである。本発表で私は、マイノングの志向性理論における不完全対象の概念と役割を再構成することで、Smithのマイノング解釈を批判的に検討するとともに、マイノングとフッサールの志向性理論の (内容上の) 関係の再評価を試みる。そのために本発表では、マイノングが対象の現前化 (Präsentation) と思念 (Meinen) と呼ぶ経験の契機のそれぞれに関して、不完全対象がどのようなものとして理解され、またどのように位置づけられているのかを明らかにし、このことを通じてSmithの解釈の問題点を提起する。


 本発表で擁護される解釈によれば、マイノングの志向性理論は志向の直接の対象を不完全対象に限定するものではなく、いわゆるノエマのフレーゲ的解釈や対象的解釈に基づくフッサールの志向性理論とより近い位置で比較可能である。他方で、フッサールの志向性理論と比較した場合のマイノングの志向性理論の課題や限界はむしろ別の側面にあり、それらを踏まえた理論の展開の可能性を論じることにしたい。

フッサール現象学の鍵概念(2)── 志向性

 これから現象学を学ぼうとする人、専門的な研究を始めたいという人、専門的に研究したいというわけではないにしてもフッサールという哲学者が何をどう考えたのかを知っておきたいという人――。事情は様々であるにしても、「フッサール現象学について知りたい、それがどういう哲学なのかを理解したい」という向きは多いだろう。


 フッサールの残した思索の跡は、そのそれぞれのトピックが「専門分野」として成立しうるほどに大きく、その奥行も深い。しかしその一つひとつは他のそれと必ず通じている。一つひとつがフッサール現象学の全体像を理解するための《鍵》となっているのである。本企画では、これを〈フッサール現象学の鍵概念〉として各回ごとにひとつを取り上げ、「現象学についてよく知らない、知りたい」という方、「現象学を研究しているが、このトピックについてもう少し理解を深めたい」という方、あるいは「必要な情報・知識を広く提供したい」という方など、いろんな立場の方々がそれぞれの立場で理解の共有に参与できる場をつくりたい。


 第2回は当該鍵概念として〈志向性〉を取り上げ、このテーマに関する単著『フッサール 志向性の哲学』(青土社から3月出版予定)を上梓される東京大学の富山豊さんに解説講義をしていただく。その後、参加者を含めた比較的自由な質疑・情報提供・意見交換・議論の時間を設ける。


 フッサール現象学は「意識」ないし「体験」に与えられるものを手掛かりにすべての哲学的問題を考える。その際まさに「鍵」となるのが「志向性」という概念である。フッサールにおいて志向性を持つという特徴は必ずしも意識や体験の必要十分条件ではないが、しかしフッサールが議論したほぼすべての問題が志向性と関連していることは確かだろう。それほどまでに重要なはずの鍵概念である「志向性」だが、漠然と「意識が何かに向かっている」、あるいは「何かについての意識である」という以上の正確な特徴づけは必ずしも共有されているとは言い難い。そこで、「フッサール現象学の鍵概念」第二回目のテーマとして今回は「志向性」を取り上げ、フッサールに関する予備知識を前提せずにこの概念の概略を提示する。


 そのために、今回はとりわけ「真理」の概念との結びつきを中心に(心的作用の)志向性をフッサールがどのように捉えているのかを概観する。志向性は単にその瞬間の意識が持っている「方向性」のようなものというよりは、真理の確証プロセスのような経験の動的な連関のなかで「何が問題になっているか」という主題性として成立する。テクスト的には『論理学研究』や『イデーン』第一巻を中心に展開されるこうした「志向性」の理解の仕方について、同じ「志向性」という用語や時として「指示」の概念をめぐって分析哲学の伝統の中で議論された理解も必要に応じて踏まえつつ、できる限り具体的に噛み砕いて解説する予定である。また、そうした主題的な志向性の理解に収まらないものとしてフッサールが議論した地平志向性や時間意識の志向性についても余裕があれば言及する。


オンライン開催のお知らせ

2023年3月11日(土)・12日(日)に予定している第20回フッサール研究会について、全面オンライン開催とすることにいたしました。

もともと対面での開催を期し、新型コロナウィルスにかかる情勢を見守ってまいりましたが、感染のリスクはもとより、開催を引き受けていただく大学や開催する側の負担等も合わせ考えるに、現状ではまだ、誰もが安心できるようなかたちで開催できる状況にはないと判断いたしました。

残念ではありますが、オンラインでの開催には場所を選ばず参加していただけるといったメリットもあります。ご関心のあるみなさまには広くご参加いただければさいわいです。

個人発表・持ち込み企画の募集

【個人研究発表の募集】 

★締め切り: 2022年11月30日(水)

★応募要領:発表を希望される方は下記のフォームにご記入の上、送信をお願いします。


 個人発表応募フォーム:https://forms.gle/tWdbbW2Z4P5xWATG9 


なお応募が多数となった場合は、お送りいただいた要旨とこれまでのご発表実績等に基づいて、発表者を調整させていただきます。あらかじめお含みおきください。 


【持ち込み企画の募集】 

★締め切り: 2022年11月30日(水) 

★宛先: フッサール研究会連絡係・佐藤(husserlkenkyukai@gmail.com) 

★応募要領: 上記宛先まで、次の四点をお知らせください。(1) テーマ(2) 企画の形態(ワークショップなど)(3) オーガナイザーの氏名・所属・連絡先(4) 企画の趣旨、登壇予定者(1000~2000字程度)なお応募が多数となった場合は、お送りいただいた要旨等に基づいて、採用の可否を決定させていただきます。あらかじめお含みおきください。