発表要旨

江口健「フッサールにおける「原‐自我(Ur-Ich)」の思想――『イデーンII』と『ベルナウ草稿』の狭間で――」

フッサールは基本的に、「発生」の問題一般を「時間性」の問題の中に位置づけている。例えば『デカルト的省察』では、「時間性」とは「普遍的な発生の形式」であり(Vgl. Hua I, 109f.)、しかもこの時間性そのものが「絶え間ない受動的かつ完全に普遍的な発生の中で築き上げられる」(Ibid., 114)と述べられている。また、「私のエゴ」という「最初の最も根本的な段階」の「発生の問題」には「内的時間意識の構成」が属している、とも言われている(Ibid., 169)。

だが、私見によれば、こと純粋自我に関する限り、純粋自我の時間的構成と原初的発生は事象としては別ものであるべきである。『イデーンII』において展開されたような、内在的時間の中で持続する時間的統一体としての自我の構成をめぐる議論と、『ベルナウ草稿』における《究極的に作動する原‐自我》の原初的発生の分析を整合的に理解しようとする限り、両者は本来、異なった次元に属さなければならない。それにも係わらず、論者の見るところ、純粋自我の「時間的構成」と「原初的発生」の問題が、フッサール自身の内部で記述的に混在している。確かに、時間性という視点の導入により、純粋自我の原初的発生を問う視点もまた可能になった。このことは疑い得ない。だが、純粋自我の原初的発生が、そのまま時間構成であるとは限らない。

この錯綜が解けない限り、晩年の「生き生きした現在」の謎は正確に解かれ得ないし、「立ち止まりつつ流れる現在」の逆説も適切に理解されることはできないだろう。このことは、初期時間論以来、フッサール時間論の根幹を成してきた「内的時間意識」の身分をめぐる問題ともつながってくる。時間を構成する「最深の」意識と言われた内的時間意識による根源的構成と、「究極的に作動する」超越論的自我の自己時間化とのあいだの関係を正確に規定しないままに、原‐自我について云々することは虚しい。

したがって、本論はまず、主に『イデーンII』と『ベルナウ草稿』に定位しながら、純粋自我の「原初的発生」と「時間的構成」が事柄としては別ものであることを示す。そのうえで問題を再構成しつつ、従来、明確に規定されることのなかった「内的時間意識」と「原‐自我」とのあいだの関係を、再度、規定し直すことで、原‐自我とは一体何であったのか、それを明らかにしたい。一連の考察を通じて本論が最終的に開示するのは、《現象学の現象学》というフッサールの到達点である。

吉竹浩克 「『論理学研究』における知覚の構造について」

フッサールが「端的な知覚」と呼ぶ作用は、彼自身の「端的な知覚、われわれにとって同じものとして見なされるが、感性的な知覚…」(XIX/2,679)、「われわれは端的な直観を感性的な直観と名付けた」(XIX/2,712)といった言葉によって、一般的に感性的知覚と同義またはその別称とされる。しかしフッサールはなぜ「感性的」を「端的な」という形容詞に言い換える必要があるのか。また本当に「感性的知覚」は「端的な知覚」と精確な意味で同義と言えるのか。本稿はこの「端的な知覚」と呼ばれる作用の構造分析とその役割の解明を目的とする。

『論研』第六研究第一篇において、フッサールは極めて詳細な知覚内成素分析を行っている。すなわちフッサールは「あらゆる作用は一般的にそれ自身客観化作用であるか、客観化作用を基礎に持つ」(XIX/2,624)とする一方で、客観化作用に属する知覚は三種類の原初的志向Elementarintention、すなわち純粋直観(感覚与件を提供する)、表意的志向(感覚与件を統握する)、隣接性志向(対象の裏面などを表象する)による統一作用であるとする。知覚はこうした統一構造を持つが故に、意義志向と合致する以前に、作用そのものが充実化された作用と呼ばれ得る。しかし第二篇に入り、範疇的直観の問題を扱うことになるやいなや、フッサールは第一篇で獲得された意識内成素の考察結果またはその理論を用いることはなく、範疇的形式も充実化されうるということ、範疇的直観も知覚と同じ代表象であることの論証に努めるに留まる。したがって、第一篇と第二篇は連続していながらも、両者の綿密な理論的関連性が際立つことはない。

そこで本稿は、まず第六研究第一篇において原初的志向にまで還元されて考察された知覚理論を、あえて第六研究第二篇の範疇的知覚へと徹底して代入し、範疇的知覚の構造を捉え直していく。つまり範疇的知覚の内的構造を、原初的諸志向の統一という観点おいて考察を行うのである。そしてこのことが、逆に全く範疇的に形式化されないとされる「端的な知覚」の構造を明らかにしていくことになる。また一方で範疇的知覚と対置される感性的知覚に属するべき作用の特性をも確定していくことにする。そして最終的に、一見、感性的知覚の単なる別称と捉えることもできた「端的な知覚」は、必ずしも感性的知覚と同義ではないということ、つまり「端的な知覚」と呼ばれ得る作用に与えられた特殊な機能と、またその機能にこそ『論研』における現象学的分析にとって極めて重要な方法的基盤としての役割が与えられていたことを証明する。

小手川正二郎 「レヴィナスにおける還元の問い」

いわゆる「ブリタニカ」論文執筆にあたって、フッサールとハイデガーの間で超越論的還元の意義をめぐる係争がなされた翌年から、二人のもとで学び始めたレヴィナスは、両者の争点になっていた「還元の出発点」、「還元はどこから」という問いを自らの課題として受け止め、やがてそれを「他者」という全く新たな次元で考えていくことになる。この意味でレヴィナスの哲学は、現象学的還元論の徹底した形態という側面を有している。本論は、レヴィナスがハイデガー的問題提起を自らの問いとしつつ(『フッサール現象学の直観理論』)、絶えずフッサールに立ち戻って還元の問題を検討し続ける(『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で』)ことで、彼が「還元」をめぐる問題のうちに何をもたらしたのか、そしてそれが現象学においていかなる意義と問題性を有しているのかを問おうとする。

フッサールは、超越論的還元によって、あらゆる存在者がそこにおいて構成されるような超越論的主観性という次元を開き、無批判な諸前提を有した学をその超越論的哲学から分離し、人間を捉え直す新たな問題次元を提供した。しかし、フッサールにおいて還元は学的必然性を有してはいるが、それが「理論の自由」に基づいて遂行される限り、存在論的必然性をもたない。したがって、還元がなぜほかならぬ「私」のもとで遂行されねばならないのか、という問いは原理上生じえない。ハイデガーは、「還元の出発点」である存在者(現存在)の存在の仕方を問い、還元を現存在の内的可能性として捉え直した。しかし、このようにして超越論的自我と自然的・人間的自我との区別を廃棄したことで、ハイデガーにおいて還元の問いは、「明示的には」考察されなくなる。還元は、現存在としての人間のもとで、ある時たまたま生じるとしか言えなくなるのだ。

レヴィナスは、ハイデガー的問題関心を引き継ぎながらも、還元の必然性を問い続けることで、還元がなぜほかならぬ「私」のもとで遂行されねばならないのか、という問題に接近して行く。具体的には、それは「私」の成立に先立っているのでなければならない「他者」という次元で考えられることになるが、重要なのはこの必然性が哲学の「理論への志向」に孕まれた「理論の自由それ自体を審問する批判の可能性」を通じて導出されるということだ。この姿勢は晩年においても維持され、例えば『観念に到来する神について』では、『イデーンI』における無反省的明証の二義性に注目することで、還元を絶えざる確実性のプロセスとしてではなく、確実/不確実という水準を越えた「精神の覚醒」として捉えようとしている。このような解釈をフッサールに立ち戻って検討することで、フッサール、レヴィナス双方に問題提起をしていきたい。

佐藤駿 「知覚意味のダイクシス――ノエマにおける「指示」の問題 をてがかりに」

言うまでもなく、『イデーンI』における志向性理論の中核をなす概念が「ノエマ」である。志向性のメカニズムは、この概念を用いて次のテーゼに拠って説明される。すなわち「あらゆるノエマは、ある『内容』を、すなわちその『意味』を持ち、そしてそれを介して『おのれの』対象に関係する」[Ideen I, S.267]。

他方、フッサール現象学を分析哲学的伝統のうちで捉え直そうとする試みは、「ノエマ」というこの概念を、指示を決定する内包的存在者と見なすところから始まったと言える。しかし、この解釈は、「志向intention」を「指示reference」と類比的に解釈することによって、志向性理論に思わぬ問題を突きつけることになった。ノエマは「意味」によって「おのれの」対象に関係する。それゆえ、ノエマ的意味はその対象を一意的に指示するものでなくてはならない。このことから、ノエマ的意味は、ノエマの対象を唯一つだけ選び出す確定記述の意味であることが推察される。

だが、この解釈によってノエマ論は、現代になって記述理論に対して向けられた批判の矢面に立たされることになる。単純ではあるが劇的な問題は、知覚意味を記述した文の意味が、知覚主体の志向的対象を指示しない、という場合である。しかしこのことは、知覚体験の有する固有性に全く反するものであるように思われる。たとえ私が、私の知覚対象を間違えて記述(表現)したとしても、私はその間違えた記述によって指示される対象をではなく、(冗長的にならざるを得ないが)私の志向的対象を志向しているのである。知覚は、なるほど客観的な視点から見れば可謬的ではあるが、他方でしかし、対象をはじめて原的に、有体的に与える根源的体験であろう。

このことから、我々は知覚ノエマの「意味」に、記述理論が説明しうる指示のメカニズムに回収されえないそれ「以上のもの」を考慮しなくてはならないであろう。これをさしあたり「知覚意味のダイクシス」と称して論じてみたい。論述の焦点は、(1)「指示」と「志向」の差異の検討であり、これは(2)言語意味(意義)と知覚意味の差異の検討へと導かれるであろう。そして、(3)「これ」や「あれ」といった指示詞的な指示の志向との関係を取り上げることによって、指示と志向との、そして知覚体験と言語表現との連関を明らかにする手がかりを見出すことができるのではないかと考えている。

(主な文献)

    • Husserl, Edmund;
      • Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch : Allgemeine Einführung in die Phänomenologie, Tübingen: Max Neymeyer Verlag, 2002.
      • Logische Untersuchungen II/1 : Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis, Tübingen: Max Niemeyer Velag, 1993.
      • Logische Untersuchungen II/2 : Elemente einer phänomenologischen Aufklarung der Erkenntnis, Tübingen: Max Niemeyer Velag, 1993.
    • Donnellan, Keith S. (1966), “Reference and Difinite Descriptions.” The Philosophical Review, vol.LXXV, pp.281-304.
    • Føllesdal, Dogfin (1969), “Husserl’s Notion of Noema,” in Husserl, Intentionality, and Cognitive Science, edited by Hubert L. Dreyfus (HICS), MIT Press, pp.73-80.
    • Kaplan, David (1989a), “Demonstratives,” in Themes from Kaplan, ed. by J. Almog, J. Perry, H. Wettstein, New York/Oxford: Oxford University Press (TK), pp.481-563.
    • -----(1989b), “After Thought,” in TK, pp. 565-614.
    • Kripke, Saul A. (1980), Naming and Necessity, Oxford: Basil Blackwell.
    • McIntyre, Ronald (1982), “Intending and Referring,” in HICS, pp. 215-231.
    • Smith, D.W. (1982), “Husserl and Demonstrative Reference and Perception”, in HICS, pp.193-213.
    • Smith, D.W. & McIntyre,R. (1971), “Intentionnality via Intensions.” The Journal of Philosophy, vol. LXVIII, pp. 541-561.
    • -----(1982), “Husserl’s Identification of Meaning and Noema,” in HICS, pp. 81-92.

南孝典 「『危機』における「カント批判」について」

イゾ・ケルンは、『フッサールとカント』の中で、フッサール晩年の『危機』書を、『カント的省察』と呼ぶことにやぶさかでないと指摘している。容易に想像できるように、この表現は『デカルト的省察』に対応しているが、このように主張する理由としてケルンは、『デカルト的省察』独語版の公表が断念されて『危機』が発表されたということ、またフッサールが『危機』の中で「カント批判」の計画を構想していたことなどを挙げている。実際『危機』第II部最終節では、それまでの歴史的省察を一旦中断してカントに立ち止まることが予告されているし、それを受けて第III部Aの前半部分でカントを巡る考察が展開されている。いずれにせよ、上記のケルンの主張を受け入れるかどうかは別にしても、フッサールが最後の著作においてカントとの対決を重要な課題と見なしていたという点は、やはり注目に値するだろう。そこで、『危機』における「カント批判」がそもそもどのような内実と意義を持っているのか、その点について詳細に考察することにしたい。この課題を追求する手がかりとしては、第III部Aの前半部分の他に、フッサールが表紙に「カントとの接続」と記した草稿群―その一部に該当するのが、全集第6巻の補論10及び15、また全集第29巻のNr.23などである―があるが、これらが考察の中心テクストになるだろう。

ところで、ケルンやルドルフ・ベームは、『危機』のカント理解が、20年代の重要な講義や演習において検討されたカントの考察に多くを負っていると指摘している。そこで二つの時期の間のカント理解に実際に連続性があることを示した上で、前者の理解を補うために、後者のカント理解も参照することにしたい。「カント批判」とは言っても、カントについて語られていることはそれほど多くないだけに、20年代の議論を参照することは「カント批判」の意義をより深く捉える上でも重要な作業となるだろう。本論では特に、1924年の講演「カントと超越論哲学の理念」、また『第一哲学』に収録されているその関連草稿などが、検討されるだろう。

本論の考察は、カントとフッサールを俯瞰的に捉えて考察するものではい。あくまでも「カント批判」のテクストを中心に、フッサールの語るカントを再構築し検討することに力点が置かれるだろう。こうした作業を通じて、フッサールの示すカントとの微妙な距離感が把握可能となり、「カント批判」が「超越論的現象学への導入」という課題に大きく寄与するものであることが明らかになるだろう。