以下の要領で、第24回フッサール研究会を開催いたします。
日時:2026年3月14日 (土)、15日 (日)
会場:東京大学 本郷キャンパス (1日目:法文1号館1F 113教室、2日目:法文2号館2F 教員談話教室)
参加費:1,000円(懇親会には別途参加費がかかります。)
※懇親会への参加を希望される方は、3月9日までに懇親会参加フォームからお申し込みください。
会場までのアクセス情報
・キャンパスマップ :全体 (PDF)・法文1号館・法文2号館
3月14日 (土)
10:00 受付開始
10:30-11:20 深尾紘平(北海道大学) ものを数えることの現象学的解明の試み
休憩(10分)
11:30-12:20 呉坤鍵(北海道大学文学院哲学倫理学研究室) 想像は像性をもつか——フッサール『冬講義』における物理的像意識の三重構造と時間意識への転回
12:20-13:30 昼休憩
13:30-14:00 ミーティング
14:00-14:50 森下美恵子(京都大学大学院人間環境学修士課程修了) 音楽の裏 絶えず臨在するアノニムに機能する私のゆくえ フッサールの空間論の、モナドの空間分節とリルケによる拡張について
休憩(10分)
15:00-15:50 富山泰斗(東京大学) ハイデガーはどのような意味で「現象学」か
休憩(10分)
16:00-18:40 ワークショップ「現象学の伝統における「観念論」問題を整理する——「哲学のスキャンダル」をめぐるフッサールとハイデガー——」
提題者:植村玄輝(岡山大学)、丸山文隆(長野大学)
特定質問者:千葉清史(早稲田大学)
司会・オーガナイザー:池田裕輔(釧路工業高等専門学校)
19:00- 懇親会
3月15日 (日)
10:00-11:20 大内良介(東京大学) 痛み感覚の局在化について
11:20-12:30 昼休憩
12:30-13:50 臧泳幀(東北大学) 本能と身体——フッサール後期本能理論下における身体統一性の構築に関する研究
休憩(10分)
14:00-14:50 鈴木翔平(東北大学) フッサールにおける他者構成の基盤としての関心 :『生活世界』草稿における「実践的世界」の分析から
休憩(10分)
15:00-15:50 菅野裕暉(北海道大学) エナクティヴ的予測処理に基づく道徳的規範の獲得について
休憩(10分)
16:00-18:40 鈴木崇志著『フッサール入門』合評会
提題:鈴木崇志(立命館大学)、八重樫徹(宮崎公立大学)、平岡紘(武蔵野美術大学)
司会:橋詰史晶(敬愛大学)
・観念論をめぐる問題は、現象学の伝統において、たびたび大きな論争の主題となってきた。本ワークショップの趣旨は、この哲学的伝統を代表するフッサールとハイデガーにおける(超越論的)観念論をめぐる基本的理解と問題構成、また、その背景や哲学的動機について大まかな見通しと概観を与えることにある。本ワークショップでは、その手がかりとして、フッサールとハイデガーの両者ともに、自身の哲学的着想によって古典的な「観念論/実在論」という問題設定そのものが克服されたと主張している点に着目する。
・現象学の伝統において、観念論とこれに関連する問題は、様々な観点、文脈、哲学的動機からたびたび論争の主題となってきた。フッサール『イデーンI』での観念論的主張は、現象学のうちに実在論的スタンスをみてとる初期現象学者たちの離反とこれに伴う様々な問題提起や論争をもたらした点はよく知られた事実であり、晩年のフッサールが、自身の哲学は、古典的な観念論/実在論における基本的問題設定そのものを刷新するものだという(次に触れるハイデガーのものと似た)主張を掲げるに至る点もまた、専門家にとっては周知の歴史的事実であるといえる。ハイデガーの『存在と時間』が、外界の存在をめぐる証明に成功していないことをして「哲学のスキャンダル」と呼んだカントに対して、そもそも外界の存在が証明されるべき問題とみなす古典的問題設定そのものがスキャンダルであるとした点(その克服は、「世界内存在」という着想によってなされたとされる)は、狭義のハイデガー研究だけでなく、広義の現象学研究におけるある種の解釈図式やスローガンを下支えし続ける有力な言説のひとつであるとみなすことが許されるであろう。
・しかし、上記のように主張するフッサール自身の超越論的観念論そのものには、その形而上学的含意を強く読み込む幾つかの解釈上の立場から(その評価は、肯定的なものら否定的なものまで多様である)、彼の主張を、いわば無害化しようとする立場(フッサールをいわゆる「観念論」的立場とみることを有害とみなす立場)まで、様々な解釈があり、研究状況は混沌としている。ハイデガーの場合も、『存在と時間』の基礎的存在論は(ハイデガー自身は、これを「観念論」や「実在論」とは規定しないが)、観念論的とも実在論的とも形容・解釈することを許すある種の曖昧さを抱えており、同様に、解釈上の様々な立場が乱立するという、混乱がみられる。
・それでは、そもそも、フッサール自身が標榜する超越論的観念論は、外界の存在をめぐる有力な立場のひとつとしての古典的な観念論を、どのような意味で換骨奪胎したものであるのか。また、観念論の伝統を評価しつつも、同時に実在論的と形容することが許されそうな主張を掲げているハイデガーにおける「世界内存在」という着想は、正確にはどのような意味で、観念論的である/でない、そして、実在論的である/でないといえるのか。
・このような問いと問題意識のもと、本ワークショップでは、以下の三つの具体的な目的・目標の達成を図る:
(目的・目標①)フッサールとハイデガーにおける「観念論」をめぐる様々な解釈上の立場を整理し、一定の見通しを与える(簡単なマップを作り、提示する)。
(目的・目標②)そのうえで、提題者である植村玄輝(フッサール)および丸山文隆(ハイデガー)、それぞれが擁護する立場・解釈を提示する。
(目的・目標③)「観念論/実在論」という哲学的・哲学史的負荷の極めて強い主題を扱うに際して、その調査と解明に対して責を負うのが現象学研究者であること自体は当然のことであるが、同時に、その議論が現象学の伝統に特有のジャーゴンに陥っていないか、哲学的・哲学史的にみてどこまで説得力のあるものであるかの検討作業を欠いてはならないであろう。本ワークショップでは、上述のように、フッサールによる(カントに由来する表現である)「超越論的観念論」、そして、ハイデガーによる「哲学のスキャンダル」という表現の捉え直しに着目することで、カント的な超越論的観念論との対比・対照という観点から、現象学の伝統における「観念論」的主張の再構成をおこない、その哲学史的位置づけと評価のための端緒としたい。
提題者:植村玄輝(岡山大学)、丸山文隆(長野大学)
特定質問者:千葉清史(早稲田大学)
司会・オーガナイザー:池田裕輔(釧路工業高等専門学校)
※本ワークショップはJSPS 科研費の助成を受けたものである:「現象学の伝統における超越論的哲学の展開に関する包括的研究の構築」(科研費基盤研究(C) 研究代表者・池田裕輔 23K00044)
フッサールの『算術の哲学』(以下『算哲』)における主題の一つは、ものを数えることの解明であると言える。この主題について『算哲』では、数の表象のされ方についての区別である、「本来的表象」と「非本来的表象」との区別をもとに議論が進められる。第一部ではとりわけ、数の本来的表象における、時間意識の構造が主題化されている。すなわち、われわれが数を本来的に表象する際、どのような時間的構造が働いているかについての議論がなされる。手短に言えば、時間は数の本来的表象にとって「心理学的前提条件」でしかない。また、本来的に表象された数それ自体に時間的規定はない。時間的規定が与えられるのは、そのあとであるとされる。数の非本来的表象を扱った第二部でも、類似した主題が重要な位置を占めている。例えば「感覚的集合」を中心とした、大まかな数の瞬時の把握についての議論がそれに該当する。このような数の瞬時の把握は非本来的であるとされる。
本発表では、上記のような『算哲』の議論をもとに、ものを数えることの現象学的解明を試みる。そのためまず初めに、本来的に数が表象される際の時間意識の構造に着目する。より具体的には、『算哲』における数の本来的表象の議論において取り上げられる時間論に、のちの現象学的時間論に通ずる点があることを示す。このことで、『算哲』における数の本来的表象についての議論が、現象学的に捉えられる可能性を示す。次に、数が非本来的に表象されている際の例を取り上げ、数の非本来的表象と時間意識構造との関係を扱う。具体的には、非本来的とされる、(アラビア数字などの)記号を介した数の表象において、どのような時間意識構造が働いているかを示す。ここでは特に、記号を介した数の表象の拡張的および縮約的な側面に着目する。
想像は像性をもつか。一見すると単純そうに見えるこの問いは、実際には大きな困難を含んでいる。想像という概念は日常言語の曖昧さに包まれ、想像と知覚をいかに区別するかという問題は、古来多くの哲学者を悩ませてきた。刺激の由来の違いに訴える方法や、生々しさの差異によって両者を区別しようとする立場では、知覚の客観が「いま・ここ」にある現在的な対象であるのに対し、想像の客観が「いま・ここ」にあるように見えるだけの準現在化された客観にすぎないことを十分に説明できない。こうした困難に対して、フッサールは『冬講義』において、像意識の媒介的な特徴に注目し、「統握‐内容図式」という志向性分析のツールを用いて、客観を構成する作用と内容の両面から考察を進めた。
本稿は、このテクストにおける想像と像意識の差異を、従来の解釈を超えて再検討するものである。従来の解釈においても、確かに物理的な像意識と想像との違いは、想像が物理的像を欠いている点にあると指摘されてきた。しかし、それらの議論は、そもそも像意識がいかにして、そしてなぜ①物理的像(das physische Bild)、②像客観(das Bildobjekt)、③像主題(das Bildsujet)という三重構造に基づいて成立しなければならないのかという点を十分に説明してはいない。本稿は、この物理的像意識における三重構造の必然性を明らかにすることで、想像と物理的像性との根本的な差異を新たに論証するものである。
この構造的差異は、想像が単に像意識の変形ではなく、物理的現前を欠いたまま志向的対象を成立させるという、独自の時間化的機制に基づいていることを示している。この論証の意義は、想像と物理的像性の根本的差異を説明するにとどまらず、想像の問題がフッサールにおける時間意識研究の出発点にどのような位置を占めるのかを明確にする点にもある。
本稿は、フッサールの空間論を、ラントグレーベが指摘するフッサールの自然の3つの区分-1)『危機』における科学批判の対象としての数学的記号的方法の所産である非直観的自然 2)直観的な生活世界的、周囲世界的自然 3)自然一般の経験の可能性の制約として、超越論的主観性の受動的構成契機として、身体性として自然の「基底部」として働くもの―の内、キネステーゼと関連する3)と2)を、「絶えず臨在するアノニムに機能する私」との関連で論じ、その欠落領域の補完を目的とする。
その際、フッサールからは、『時間講義』 附論IX、Urleib,モナドの空間分節(『省察』)と、リルケを契機として使用する。そして、未だ一度も問題とされたことがない、「過去把持で与えられる最初の体験位相と、それにもかかわらず世界の先所与性との間隙」から新たな空間(構成)の可能性が身体と共に展開されることを志向する。
すでに 1906年、リルケがフッサールに先立ち「現象学的還元」(1907)の手法と見做されうる「Blue Hortensie」(『Neue Gedichte』1906)がケーテハンブルガーにより指摘(『Die phänomenologische Structure der Dichtung Rilkes 』1971)され、それ以降、リルケは空間に関し、フッサールと異なる独自の深化を遂げたが、本稿においては、その到達点と見做されうる「鏡のソネット」(『 Die Sonette an Orpheus ZWEITER TEIL』Ⅲ 15/17.Februar 1922)と「第5の悲歌」(『Duineser Elegien』 14,Februar 1922)を採用する。
又、従来、現象学との親近性が強かったセザンヌ(1839~1906)の到達地点を遥かに超えたマネ(1832~1883)の、特に最晩年の大作『フォリー・ベルジェ―ルのバー』(1882)(以下「バー」と略)を、フッサール現象学の空間性の「欠落領域の補完の先駆形態」として、試論的に言及する。
(本稿は、「酔い」を、一切のキネステーゼ感覚なしに、絶えずアノニムに機能する私のみの存在として捉える)。
更に、前のカウンターテーブルの鏡像が、通常前提とされている垂直に立つ鏡に対して垂直な位置関係としては、その形態に疑問が残り、これは、「バー」の後ろの鏡の傾斜という仮説を立てる。
その際、傾斜鏡における結像の仕方に関し、「光線追跡法」の手法-光を光線として扱い、物体から出た光がレンズや鏡を通ってどこに像を結ぶかを調べるーを採用し、鏡での反射は、法線に対し、入射光線と反射光線のなす角が等しくなるように反射し、これは鏡の立て方(垂直か傾斜か)に関係なく成り立つ。物体に大きさがあっても、高さ、幅、奥行きは全てそのまま保たれる。
(なお、同手法は、三重大学社会連携チーム 三重大学大学院工学研究科電気電子工学専攻 元外内敦司准教授のご指導ご協力をいただいた。感謝の意を表する。)
即ち、「バー」は、パリ・ノートルダム大聖堂を向こうに回し、信仰に依らない、しかしながら「複数のアノニムに機能する私」を解放しようと、しかし未だ大地は出てこない近代の姿を描きだしている。
以上、本稿は、①リルケ「アルカイックのアポロンのトルソ」(1908)の意義を踏まえ、本稿が開示した新たな空間を担う身体論。シュミッツ「身体と感情」批判 ②世界の先―所与性は、即歴史、伝統との相即性であり、歴史を性的観点に基づく「世代」への還元は、歴史の矮小化を意味する。 を今後の研究課題とする。
ハイデガーの哲学に、「これが現象学だ」と言えるような要素を見つけることは容易ではない。たとえば『存在と時間』第7節において、「現象学」が同著の重要な方法論的前提であると明示的に述べられているものの、そこで定式化される「現象学」はハイデガーの独自色が強く、フッサールの提唱する(超越論的)現象学とどのような関係があるのかは決して自明のことではない。
本発表はこうした問題意識のもと、ハイデガーの『存在と時間』がいかなる意味で「現象学」と呼べるのかを論じる。ただし、当然ながらこうした議論に先立ってそもそも現象学がどのような方法論であるのかを明確にしておかなければならない。本発表では、「現象学は、一人称観点から私たちの経験を探究する」(植村・八重樫・吉川 2017, 6)という定義を出発点とする。このとき、たしかに池田が指摘するように、この経験の一人称性格はハイデガーの「各自性 Jemeinigkeit」と重なるものだと言える(vgl. 池田 2024, 10)。そこから『存在と時間』の現象学的な側面を「実存論的現象学」として具体化することは決して誤りではない。しかし、 この実存論的現象学としての側面が『存在と時間』第7節の予備的考察とどのように関係するのかは、少なくともただちには明らかでなく、それゆえ解明の余地を残しているのも確かだろう。そこで本発表では、経験の一人称性を、「経験の視点依存性」として理解しなおし、これを各自性ではなくむしろ「被投性 Geworfenheit」の概念と重ねて理解するべきだと提案する。すなわち、ハイデガーの現象学にとって重要であったのは、一人称観点にとどまることではなく、主体が特定の事実的な視点に拘束されていることの自覚であったのではないか、と解釈することを目指す。この解釈が成功するならば、被投性や事実性の概念こそが彼の現象学にとって不可欠なものであったのであり、(おそらくは)「現代現象学」ともそう遠くないものとして理解されることになるだろう。そしてこの解釈は、従来、『存在と時間』の超越論的哲学的な側面と相対立すると考えられてきた「事実性の解釈学」としての側面を、むしろ超越論的哲学と相補関係にあるものとして理解しなおすことにもつながるはずである(vgl. Crowell 2003)。
参照文献
Crowell, Steven, 2003, “Facticity and transcendental philosophy,” in From Kant to Davidson: Philosophy and the Idea of the Transcendental, edited by Jeff Malpas, Routledge, pp. 100–121.
池田喬、2024、『ハイデガーと現代現象学:トピックで読む『存在と時間』』、勁草書房。
植村玄輝、八重樫徹、吉川孝(編著)、富山豊、森功次(著)、2017、『ワードマップ現代現象学:経験から始める哲学入門』、新曜社。
痛みとは何か。痛みの本性については、神経科学においても、現代の自然主義的な分析哲学においても、相対立する諸々の学説が提唱されている。現象学においても、たとえば、「痛みの経験は志向性を持つか」という問題は解決されていない。しかし、フッサール現象学においては最低限、痛みは〈生きられる身体〉(Leib)と相即的に経験される事象であり、〈物的身体〉(Körper)の状態としては記述されえない、という点は確実であろう。そして、〈生きられる身体〉において経験される痛みを現象学的に記述する際には、心的契機の空間への組み込みとしての〈局在化〉(Lokalisation)概念が不可欠である。
このような背景のもと、本発表は〈局在化〉概念を、「痛みの位置」(location of pain)をめぐる身体説と経験説の対立に即して検討してみたい。分析系の伝統を汲む心の哲学において、痛みとは、一方の身体説によれば、脳を除く身体(解剖学・生理学・神経科学などが記述可能な)に位置づけられる物的状態であるが、他方の経験説(知覚説・表象説・指令説)によれば、心または脳に位置づけられる志向的な心的状態であり、それが特定の身体部位を表象している、と解される(Owesen 2023)。痛みを非志向的な感覚として扱うフッサール現象学が、いずれの学説にも与しないことは明白であろう。とはいえ、現象学的な観点からは、いずれの学説も暗黙裡に〈局在化〉を前提しているように見受けられる点において、痛み経験の一契機を的確に捉えていると思われる。
すなわち、一方の身体説は、痛みを身体に位置づける限りでは、必ずしも誤りではない。ただし、その位置づけは、フッサール現象学においては、知覚による物的身体への二次的な局在化に対応する。これは、感覚の生きられる身体への一次的な局在化に基づいてのみ成り立つ(cf. Hua IV, 152–4; Geniusas 2020, pp. 133–4)。また、他方の経験説も、痛みを心的状態と同定する限りでは、フッサール現象学と(志向性の存否を度外視すれば)抵触しない。しかし、たとえ痛みが心または脳に位置づけられうるとしても、それには生きられる身体への局在化が先立つのではないか。なぜなら、心的状態としての痛みも「身体的に局在化されて」(leiblich lokalisiert; Hua XIX/2, B233)経験されるからである。
かくして、痛みの身体説と経験説の対立は形而上学的であるが、本発表は、その根底に痛み感覚の〈局在化〉が見出されることを示したい。
Geniusas, S. (2020) The Phenomenology of Pain. Ohio University Press.
Owesen, E.W.F. (2023) The Bodily Theory of Pain. Rev. Philos. Psychol. 14: 1329–47.
本稿の目的は、フッサール後期の本能理論の枠組みにおいて、統一された身体の構築がどのように実現されるのかを探求することである。フッサールの本能に関する研究は既に多くの先行研究が存在し、本能の概念はフッサールの前期と後期の思想間に大きな緊張関係を浮き彫りにしている。李南麟の研究によれば、後期の発生的現象学の枠組みにおいて、フッサールの現象学はもはやある種のデカルト主義、すなわち主体の内在的意識の構造を通じて対象や世界の構成を基礎づける理論として位置づけることが難しい(Lee: 1993)。なぜなら、本能の概念が提示するのは、意識以前に存在し、意識の構造に影響を与える要因がある、ということを意味する。それはデカルト主義的な主客二分の枠組みを揺るがすものだからである。そして、ジェームズ・メンシュ(James Mensch)はさらに、本能が身体を基盤としているため、本能が示すのは身体を持つ主体、つまりデカルト的な主体とは全く異なる有肉的な主体であると指摘している(Mensch: 1994)。本能の枠組みにおいて、自我はもはや世界を超越した純粋な自我ではなく、常に肉体を持ち、世界の中に存在する自我として位置づけられる。
そして、フッサール後期思想において、本能はどのように議論されているのであろうか。発生的現象学の枠組みにおいて、自我が誕生する以前には、本能が純粋に感覚素材の蓄積を促進する。同時に、感覚素材は同質的な融合と異質的な対比の中で、ある統一的な対象に関する感覚内容が次第に際立ち、それによって意識において統一的な対象に関する意識が構成される。また、対象の構成は自我を触発し、本能的で無意識的な段階から意識的な自我段階へと移行する。これがフッサールの本能と自我に関する基本理論である。
しかし、この理論モデルにおいて、身体自体に対する知覚は特異な位置づけにある。なぜなら、本能が促す感覚素材は本質的に身体的な感覚であるにもかかわらず、それらがどのようにして身体そのものを指示しうるのかが明確でないからである。感覚素材の蓄積過程において、身体に関する感覚がどのようにして同様の仕組みによって統一された身体に関する把握を形成するのか、これが本研究の目的である。本稿では、本能理論と同時期のフッサール後期のテクストである『間主観性の現象学』の一部の議論を基に、この問題に対する可能な解答を提示することを試みる。
この目的を達成するために、まず第1節では、フッサール思想全体における本能理論の位置づけを検討した上で、フッサールの本能理論を簡単に概観する。次に第2節では、ジェームズ・メンシュとマット・バウアー(Matt Bower)の研究を基に、本能が自我と対象の構築をどのように実現するかについてのモデルを構築し、このモデルにおいて身体自体の構築が困難となる理由を指摘する。最後に第3節では、『間主観性の現象学』の議論を基に、この問題に対する可能な解決策を提示する。
フッサールが『デカルト的省察』の中で提示した他者構成論に対して、ヘルト(Klaus Held, 1972)が批判を展開したことはよく知られている。ヘルトは、彼の論文の中で、フッサールの他者構成論は、フッサール自身が『イデーンⅡ』で提示した自然主義的態度に対する人格主義的態度の優位という枠組みとは相反する、自然主義的なものだと批判している。では、人格主義的態度から考えてみたときにどうなるかと言えば、多くの先行研究が示している通り、私たちは「表現としての他者」、つまり、推論やシミュレーションによって身体に精神を置き入れるのではなく、常に既に心身の統一体としての他者を経験するという主張に行き着くことになる(例えば、Taipale 2015)。しかし、ヘルトが既に指摘しているように、人格主義的態度における他者経験は端的に、自我が他我を理解する場面の記述にとどまっており、自我が自身の原初性から越え出て他我へと到達する道筋を提示していない。すなわち、人格主義的態度における他者経験ではフッサールが『デカルト的省察』において遂行した「原初的還元(primordiale Reduction)」がなされていないということである。
そこで本発表で取り組みたいのは、その「原初的還元」を人格主義的態度において遂行することが可能であるとしたら、私たちはどのような世界を見出すことになるのか、というその可能性について考えてみることである。筆者の見立てでは、本発表での試みは、フッサールが『生活世界』草稿第六章で論じる「実践的世界(praktische Welt)」としての世界に到達することになるだろう。フッサールはそこで、世界が「実践的世界」として、すでに価値・目的・欲求の体系として現れていることを指摘しており、そこには個的関心が相互に交錯する地平が描かれている。本発表は、これらのテクスト的証拠をもとに、関心の構造が共同的世界の成立を支える契機であることを示唆する。
もっとも、こうした解釈は、フッサール自身の著作と草稿のみを厳密に参照する限りでは、完全に正当化することは難しい。しかしながら、「関心」や「実践的世界」という概念を通じて他者経験の成立を再読する視点は、既存研究とは異なる方向からフッサール思想の可能性を開くものである。本発表は、その理論的地平を提示する第一歩である。
【参考文献】
Held. K. (1972), "Das Problem der Intersubjektivität und die Idee einer phänomenologischen Transzendentalphilosophie ", in: Perspektiven transzendentalphänomenologischer Forschung. Hrsg. von U. Claesges und K. Held, Den Haag, S. 3-60.
Taipale. J. (2015), "Beyond Cartesianism: Body-perception and the immediacy of empathy", in: Continental Philosophy Review. vol. 48. pp. 161-178.
予測処理は、知覚や学習、運動、認知を「予測誤差最小化」の観点から説明する。予測処理に拠れば、生物(の脳)は、環境に由来する感覚信号を常に予測し続けて、その予測信号と実際の感覚信号の誤差(予測誤差)を最小化させることにより、知覚や認知を生じさせるのである。そして最近の研究では、予測処理は、生物個体に関する諸現象を説明するのみならず、生物集団のうちで生じるコミュニケーションや言語獲得、道徳的規範獲得に関して議論がなされている。これら知覚や認知、コミュニケーションや言語獲得、道徳的規範獲得が、すべて「予測誤差最小化」により説明されるのである。
予測処理は、一見して「現象学」と無縁であるように思われる。だが、予測処理と現象学は、ハイデガーやトンプソンといった現象学者も関係している、4E認知(特に身体性認知やエナクティヴ・アプローチ)を介して結びつけることもできる。たとえば、田口氏(現象学者)は吉田氏(神経科学者)とともに、予測処理とエナクティヴ・アプローチを融合させた研究を行っている(吉田 & 田口 2025)。このエナクティヴ的予測処理においては、知覚や運動をただ「予測誤差最小化」の観点から説明するときには欠けてしまっている、「自己や世界が行為を媒介として生じてくる」という側面が際立っている。それゆえに、エナクティヴ的予測処理は、この視点を従前の予測処理研究に持ち込むことで、新たな議論を創りだすだろう。
本発表では、エナクティヴ的予測処理に基づく道徳の検討を行う。そもそも予測処理に基づく道徳の検討は、まだ「規範」に関する検討に留まっているように思われる。それを、発表者は統計的学習における議論に基づき、予測処理に基づく「道徳」の検討に向かわせる。そして、道徳的規範の獲得に関して、それを予測誤差最小化の観点から説明するのみならず、それが相互作用のうちでどのように生じるのかについても検討したい。というのも、従前の研究では、生物(人間)が集団のなかで道徳的規範を学習すると述べるに留まっており、道徳的規範がダイナミックな関連のなかで生じるという視点が欠けているためである。そこで本発表では、エナクティヴ的予測処理に基づいて、ダイナミックスのなかで生じる道徳的規範を明らかにしていく。そしてその際に、どこに現象学的要素があるのかに言及したい。
参考文献
吉田. & 田口. (2025). 行為する意識—エナクティヴィズム入門—. 青土社
2026年3月13日(金)・14日(土)・15日(日)※、東京大学・本郷キャンパスにて開催予定の第24回フッサール研究会について、下記の要領で研究発表を募集いたします。
※ 3日開催は最長の場合であり、実際の開催日数は企画・発表の応募状況に応じて後日決定のうえお知らせします。
【個人研究発表の募集】
★募集期間:2025年10月1日~末日
★応募要領:発表を希望される方は下記のフォームにご記入の上、送信をお願いします。
個人発表応募フォーム:https://forms.gle/vgg7uPfoQXLbK8Rb8
個人研究発表は2026年3月14日(土)もしくは15日(日)にご発表いただく予定です。
なお応募が多数となった場合は、お送りいただいた要旨とこれまでのご発表実績等に基づいて、発表者を調整させていただきます。あらかじめお含みおきください。
補足1. 発表形式・内容について
a) 50分(発表25分、質疑応答25分)
b) 80分(発表40分、質疑応答40分)
第20回研究会から、発表時間(質疑応答を含む。時間配分は目安です)については80分と50分の2つを用意しております。
発表のテーマは、狭義のフッサール研究に限りません。フッサールや現象学研究、現象学に何らかのかたちで関連し、フッサールや現象学に関心を持つ人が共有できる多様なテーマを広く募集いたします。
補足2. 雑誌『フッサール研究』との関係について
第20回より『フッサール研究』への投稿は発表者の希望によるものとしています。例えば「完結した論文として仕上げる過程にあるアイディアを発表し、コメントや質問をもらう」、「文献調査や情報整理の共有をするとともに、参加者と意見交換をする」など、比較的自由な研究上のコミュニケーションの場として利用できます。もちろん、これまでと同様、完結した論考として次年度の『フッサール研究』に投稿することもできます。
過去の研究会のページから、これまでどのような発表や企画がなされてきたかを確認できますので、一例としてご参照ください。
【持ち込み企画の募集】
★募集期間: 2025年10月1日~末日
★宛先:フッサール研究会連絡係・佐藤(husserlkenkyukai@gmail.com)
★応募要領:上記宛先まで、次の四点をお知らせください。
(1) テーマ(2) 企画の形態(ワークショップなど)(3) オーガナイザーの氏名・所属・連絡先(4) 企画の趣旨、登壇予定者(1000~2000字程度)
なお応募が多数となった場合は、お送りいただいた要旨等に基づいて、採用の可否を決定させていただきます。あらかじめお含みおきください。