隈本と熊本(改称)

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隈本から熊本への改称は加藤清正が行ったとされているが,正式な文書は残っていない.このことは,熊本の歴史学者が編纂した熊本藩年表稿の慶長12年(1607)の記載内容と引用資料の性質からも明らかである(次行参照).

是年 隈本新城に移り、隈本を熊本と改称すか、未詳 (清正伝502) (肥国誌上36)。

出典は「清正伝」と「肥後国誌」の二つだけで,さかのぼっていくと,同じ資料「事績通考」に書かれている文章に行き当たる.

前稿で述べたように,現在,隈本(熊本)の起源を調べるには,1706年の肥後国誌とその後の増補版を参照すればよい.「熊本改称」については,幕末近くに細川家臣八木田政名によって纏められた「新撰事蹟通考」に書かれている文章だけである.肥後国誌に新撰事蹟通考の内容が引用されたのは明治17年(1884)版からである.

当然のことながら,大正5年の肥後国誌増補版(1916)の中で,隈本および熊本の由来については明治17年版と同じ内容であり,19頁に以下の記載がある.

肥後国誌

・・・・・・・熊本舊隈本ト號ス俗説ニ 後三條院御宇

延久二年菊池家ノ祖則隆當國菊池郡ニ下向翌年八月合志

郡鞍嶽観音ヲ信仰シ登山アリシニ折柄夕霽紫翠ヲ含ミ天

色彩ルカ如ク隈アリテ其隈トル處色濃ク見ヘシ故隈本ト

称シ菊池郡ハ其程近キ故隈ヲサマリテ色薄ク見ヘシ故隈

府ト称セシト云慶長四年加藤侯築城ノ 時(慶長四年ハ六年ノ誤歟)一國ノ

府タル所故阝ニ畏ルト云文字ヲ忌テ熊本ト改メ称スへキ

旨國中ニ触示サレシト云

(補)事蹟通考編年考徴巻十云乃美家ニ?スル熊本改称ニ付触示ノ文書アリ

一筆申触候熊本之文字之事今度御城出來ニ付御改候

而熊本ト御書被成候間此以後其旨可被心得候此段御

領之中不洩様可被申触侯恐々謹言

慶長十二年〇月七日 加藤〇〇〇

〇〇〇〇〇

按ニ俗諺ニ隈ノ字阝ハ阜ナリ阜ハ盛也大也畏ハ怯

也怖也驚也トモ(ノモ)註シ大ニ怯ルヽト云ヲ忌テ猛獣ノ熊ノ字ニ改ト云

隈本の由来

俗説によれば,後三條院の御代,延久二年(平安中期1070年),菊池家の祖である則隆(のりたか)は 太宰府から菊池郡に下向した.翌年八月,合志郡にある鞍嶽観音を信仰し,鞍嶽(鞍岳,1118.6m)に登山した.折しも夕晴れの中,紫翠(山の木々が 青々として美しいさま)を含んだ空の色は濃淡の隈取りで彩られていた.その濃いところが隈本,菊池郡は程近く隈が収まって色が薄くなるところにあり,隈府 と称したと云われている.

註)菊池家は藤原一族と言われているが,諸説あり.

「隈」は,明暗の境目

熊本の由来

慶長6年(4年と書かれているが誤りか),加藤清正が築城した際,隈本は一国の府にふさわしくないとして,「隈」を「熊」に変更した.

その理由は,阝(コザトヘン)は「阜」に由来し,「大きい」,「盛ん」を意味する.一方,畏は「おそれる」,「おびえる」を意味し,それらが合体した「隈」の文字(大いに怯れる)を忌み嫌って,猛獣の熊の字に改めたと云われている.

なお.肥後國誌には事蹟通考に書かれている加藤侯の「触れ」(青文字部分)が引用されている.

新撰事蹟通考には乃美家(中国地方を支配)に伝わる文書と記されているが,著者の肥後藩士八木田桃水(政名)が天保年間に自ら調べた時にはすでに判読不明の文字が存在した.

熊本藩年表稿によると,新撰事蹟通考は天保12(1841)年細川斉護の治世に完成している.

国会図書館近代デジタルライブラリーの肥後文献叢書第3巻収載の新撰事蹟通考の記載内容は以下のとおりである.

□は判読不明の文字.

「隈」の意味を辞書で調べると,何となく陰気なものばかりである.

曲がって入り込んだ所,奥まった所,物陰になっている所,陰になった所,色の濃い部分と淡い部分,光と陰とが接する部分,色の濃い部分(目の下に隈ができる),隠していること,心に秘めた考え,秘密,十分でない部分,欠点。,へんぴな所,片田舎等々.

「熊」は,熊襲,熊曾などでも想像できるように,勇壮なイメージがあり,朝鮮で虎を退治したという清正の心を捉えたのだろう(注 風土記では球磨贈於とも書かれる).

隈本は「熊」と無縁ではなかった(クマ生息の事実}

最近,くまモンブームで「熊」が注目されているためか,熊本には熊が生息しているわけでもないのにと言う人もいるようだ.ところが,「熊本藩年表稿ー話題いろいろ」で紹介したように,享和元年(1801)細川藩は矢部,砥用,菅尾の3手永に対して,毎冬捕れ次第,各3疋分の熊の胆を再春館(藩校)に納めるように指示している.注)矢部手永,砥用手永の位置は,国指定重要文化財「通潤橋」(矢部町),「霊台橋」(砥用町)がある地区一帯,菅尾手永(すげおてなが)は現在の山都町旧小峰村と蘇陽地区部分である.

熊本藩年表稿

熊が生息していた(1801年)ー熊本藩年表稿記載内容

享和元年5月 熊胆,再春館に貯めるにつき矢部,砥用,菅尾3手永で毎冬とれ次第,1手永(熊本藩の行政区)3疋宛再春館に払うように,尤も相応の代銭を渡下されるとの達 (年合).

慶長6年は,それよりさらに200年前に遡る.熊はかなり生息していたと考えられる(注 九州で熊が最後に確認されたのは1957年である).

熊胆は健胃効果や利胆作用を有する.主成分である胆汁酸に含まれるウルソデオキシコール酸(下図参照)は胆液の流れを良くし(胆石の経口治療薬),胆石を溶かすなどの 薬効があるため,古くから利用され,現在も第十六改正日本薬局方にユウタン名(1591頁)で収載されている.庶民にとっては簡単には入手できない貴重な 漢方薬であったと思われる.現在は合成できるようになった.

追記

隈本は熊本に変わったが,周辺には隈府(菊池),隈庄(城南町)等の旧地名が残っている.

熊本地域には,隈の付く地名は少ないが,北部九州にはたくさん存在する.七隈(福岡市城南区),金隈(福岡市博多区),雑餉隈(古くは「雑掌隈」あるいは「雑賞隈」)(福岡県大野城市),干隈(福岡市城南区),月隈(福岡市博多区),西隈(福岡県筑紫郡那珂川町),山隈(福岡県三井郡大刀洗町,篠隈(福岡県朝倉郡筑前町),日の隈(大分県日田市)等々である.

佐賀には,鈴隈山(佐賀市川久保),帯隈山(佐賀市久保泉町),茶臼山(佐賀県神埼)など隈が付く山名が多い.

三隈(みくま)は,大分県日田市に位置する日田盆地内にあるに日隈,月隈,星隈の3つの丘の総称

熊本の場合,隈が「隈#」のように頭に付くが,他県は「#隈」のように後に付くという特徴がある.

宮崎県日南市隈谷は隈が頭に付く.

隈が熊に転化した例としては,宗像市の田熊が挙げられる.

参考資料

熊本藩年表稿(熊本大学レポジトリー)

肥後国誌

著者は下記の人達である.

肥後熊本藩士 森本一瑞 遺纂

肥後 翕巷 水島貫之 校補 注)翕巷(きゅうこう:『肥後国誌』を校補した水島貫之の号)

近代デジタルライブラリー 加藤清正伝 中野嘉太郎 編 (隆文館, 1909) .肥後國志を引用している.

近代デジタルライブラリー - 加藤清正伝 - 国立国会図書館

清正以前の隈本城 - 【熊本城公式ホームページ】

Ursodeoxycholic acid(ウルソデオキシコール酸)

(2013.12.13)