インレー湖.ミャンマー中東部シャン高原にある,琵琶湖の南湖を2倍ほどの広さにしたような浅い湖で,世界に20前後ある古代湖の一つである.私は最近,古代湖における魚類進化への興味から,タイと日本の畏友たちとともにインレー湖で魚類調査を行っている.
インレー湖の魚類については,約100年前に英国ネルソン・アナンデール博士が詳細に報告している.以来,長らくまとまった研究がなかったが,我々の調査の結果,湖周辺には10数種の固有種を含む30種前後の在来魚種,また現在約20種に及ぶ外来種が生息することがわかってきた.
湖周辺各地で開かれる五日市めぐりは,魚類調査の重要な部分である.そこに並ぶ魚の多くはインレー湖から漁獲されたものである.インレー湖といえば,片足漕ぎで小舟を操る漁労民族「インダー族」が有名である.釣鐘状の大きなかぶせ網は浅く透明な湖ならではの伝統漁法であり,刺し網なども含め,片足で操船しながら実に器用に扱う.漁獲された多様な魚種が市場に並ぶわけだが,とりわけ目立つのが,コイ,タイワンドジョウ,ナギナタナマズ,そしてティラピアである.
従来,コイ(現地名,ンガ・ペイン)はインダー族,あるいは地域の住民にとってもっとも重要な水産資源だった.インダー族は死ぬと湖に水葬されるならいであったらしい.亡骸はンガ・ペインに食われて生態系に戻り,魂は来世に向かう
インレー湖のコイには2タイプがある.一方は東南アジアで広く見られるずんぐりとした養殖系統であるが,もう一方は細長い,鱗が粗い独特のタイプである.後者は現在,この地域の固有種(Cyprinus intha;種小名は“インダー”族から)として認められている.ところでコイ属は東・中央アジアからヨーロッパの魚類地理要素であり,東南アジアには基本的に自然分布しない.なぜ,コイ属の固有種がタンルウィン川水系のインレー湖にいるのだろうか.単に固有であるというだけでなく,生物地理学的にも謎の多いインレー湖の魚類相の起源の解明が我々の研究の中心課題の一つである.
水産資源,伝統文化,また学術的にも重要なインレー湖のコイであるが,現在その座は20世紀末に導入されたティラピアに脅かされつつある.漁獲物やレストランの料理を見ても,今やティラピアがもっとも優占している.水質汚染,過剰な堆積,渇水,周辺開発等の脅威に合わせ,ティラピアなどの外来種が特に在来の小型魚類に大きな悪影響を与えているのはまちがいなさそうである.
2015年秋,2度目のインレー湖での調査中,ミャンマーでは歴史的な総選挙が行われた.アウンサンスーチー氏が率いる政党が圧倒的な勝利を収め,2011年の民政移管からの開国の流れが決定的となった.湖近くのニャウンシュエの街はますます観光客で溢れ,湖畔のリゾート開発にも拍車がかかっているようだ.インダー族を含む湖畔の多様な人々の伝統文化やそれを支えてきた生物多様性が守られていくことを心から願ってやまない.
※転載するにあたり、若干の修正を行っています。