研究と平和:中国とミャンマーでの自然史研究

渡辺勝敏

ナチュラルヒストリーとともに〜財団40年の歩み〜

藤原ナチュラルヒストリー財団(2023.3オリジナルサイト

新しいフィールドで研究を始めるときに感じる緊張や不安、わくわく感は、自然史研究の宝物である。それは、瞬発的なアドレナリンの放出だけでなく、一歩一歩世界の深みに足を踏み入れていく予兆である。

私は基本的に同じフィールドで長年同じ調査を続ける研究スタイルを主としてきた。例えば30年以上、1つの場所で、ある種類の淡水魚の個体数を数え続けるような。それでもこれまでの研究生活で、国内外のいくつものフィールドで新たな研究に挑戦し、新たな自然や人々と出会う、他では得難い経験に恵まれてきた。

私が最も長く滞在した海外調査の地は中国である。1999年以来、貴州省・雲南省・広西壮族自治区、黄河周辺、そして海南島で、数回にわたり調査を行う機会を得た。オフロードカーで移動しながら、あの手この手でもっぱら淡水魚の採集を行うといった旅である。大学院を出て、いわゆるオーバードクターの時代に出会った少し年上の中国人研究者やその弟子たちと20年来研究交流を行ってきた。今、心から「I miss you」と思える友人たちである。

最も思い出深い調査は、3回にわたる中国最南部での採集旅行である。ベトナム国境近くに十万大山(シーワンターシャン)という長さ百数十km、標高1000mほどの山脈がある。このほとんど調べられたことのない地域の魚類相を調査する中国側のプロジェクトに乗っかる形で、私のお目当ての魚類(ギギの仲間)を採集しに行った。延々悪路を中国製のオフロードカーで走り、腰を痛めつつも、お互い得意でない英語でざっくばらんに冗談を交えながら陽気に会話し、また「青蔵高原」など流行歌のカセットテープを繰り返し聴き、歌いながら山脈をぐるりと回った道中は、毎日が期待と緊張と疲れと喜びに満ちた、夕食のビールが実に美味しい旅だった。それぞれの文化、生活の話から、日中戦争、文化大革命、国際問題まで様々な話題が出たが、今思えば相手の懐の広さあってのことだっただろう。祖父が中国の戦地で亡くなった話をすると、「我々は同じ民衆だ」と何度も乾杯を繰り返したものだった。

十万大山での調査を一つのきっかけに洞窟魚の調査を共同で開始した。日本の中国地方ほどの広さのある広大なカルスト地形の広がった雲貴高原の各地の洞窟でコイ科の洞窟魚を探し求めた。この調査旅行は、言いようもなくスペシャルだった。この洞窟に特化したグループは、1つの属(Sinocyclocheilusに数十種を含み、アブラハヤに外観の似た洞窟周辺性の種から、眼が退化し、真っ白で肩に突起が突き出した奇妙な形態をもつ真洞窟性の種まで、様々な程度に洞窟に特化した種が見られた。集団内で眼の有無の多型があるものすらいた。ある洞窟では3種が一度に採集されたこともある(写真1)。桂林・漓江の山水画などで有名なギザギザな山の広がる奇景は、調査で移動するごとに実に多様に様相が変わり、異世界にいるかのような幻想的な風景の中での調査であった。そういった山の麓の村を網とバケツを持って訪ねると、村では絞めたばかりの鶏の鍋と米酒が振る舞われた。豆腐餻(よう)と塩や醤油、生唐辛子を碗で溶いて食べる鶏鍋は日本に帰ってからも時々楽しんだものである。

写真1. 中国広西壮族自治区の洞窟(2001年11月)。1つの洞窟から 採集された3種の洞窟魚(コイ科)

2014年からミャンマーのインレー湖で魚類調査を開始した。長らく続いた軍事政権から2011年に民政移管が行われ、民主化が大きく進み、経済的な発展も急激に進みつつある時期だった。インレー湖はシャン高原の標高900m近い高地にある湖で、いわゆる世界の古代湖(10万年以上の歴史をもつ湖)の一つである。表面積は日本の古代湖である琵琶湖の1/6程度で、水深は2、3mと浅く、小さな透明度の高い湖である。インレー湖の魚類に関する研究は、20世紀初期に当時インド博物館の館長であったアナンデールが行った優れた研究ののち、断片的なもののみに限られていた。琵琶湖の魚類の進化を研究してきた私は、琵琶湖研究にも大きな足跡を残したアナンデールに導かれ(実際には大学院時代からの悪友 であるタイ人の魚類学者に誘われたのだが)、タイと九州大学の友人の計3人を中心としたグループで、活気にあふれたミャンマーの地を、多数の漁具を持って訪れることになった。

インレー湖の周辺にはビルマ族のほかシャン族をはじめとする多数の民族が暮らしている。ことにインダー族は漁労民族で、湖の周りの広大な浮島に高床式の家を建て、小さなカヌーを移動手段として暮らしている。最も特徴的なのは、オールを両手フリーな状態で足で操作し、その空いた両手で押し網(釣鐘状のかぶせ網)や刺網を操作するという世界にも類を見ない操船法や漁法を持つことである。

写真2. ミャンマー・インレー湖にて、足でオールを操作し、刺網を操るインダー族の青年(2014年11月)。

タイの友人が1990年代から培ってきた人脈もあり、天然資源環境保全省・森林局の優れたスタッフたちや、森林局出身の頼もしくも柔和な旅行ガイドのもとで、効率の良い魚類調査を行うことができた。その結果、湖や周辺河川から約50種の魚類を採集することができた。しかし、インレー湖の固有種15種のうちの2種がどうしても見つからず、絶滅が疑われる状況にあることもわかった。さらに4割近くの種を外来種が占めており、とりわけ20世紀末に放流されたティラピアは湖の優占種となっていて、主な漁獲対象が元々の固有種のコイからティラピアに置き換わろうとしていた。この東南アジア唯一の在来のコイは学名をCyprinus inthaといい、この種小名はインダー族の名からきている。

インレー湖での現地調査は、新型コロナ禍の始まりつつあった2020年3月まで5回行われた。同行したタイ人と日本人の友人はいずれも異才である。フィールド調査の能力も経験も際立っていて、それぞれ異なる方面での強いこだわりと優れたスキルを見せた。慣れない地で彼らと何週間にもわたり生活やフィールドワークをともにしていると、自分がいかに凡庸であるかを否が応にも認識し、それを残念に感じるとともに、少し安堵も感じるものだった。

調査ではひたすら魚を集め、DNA試料を保存し、標本を作り、写真を撮る、という毎日であり、時にボートや車で遠征を行い、たまに史跡、名所も訪れた。インレー湖と山を隔てた西側のカローという街の「竹の仏像」寺院でくつろいでいると、尼さんがお茶の葉の漬物を持ってきてくれた。すでに手慣れた現地での大げさな礼拝をし、仏像とその周りの装飾を間近でゆっくりと観察していると、「御本尊を彫る彫り師にはなれずとも、周りの装飾のほんの一部でも心を込めて彫れますように」と自然に祈る気持ちが心に湧いた。

ミャンマーでの野外調査は新型コロナのパンデミックに加え、2021年2月に起こった軍事クーデターのために、計画半ばで中止せざるを得なくなった。2015年11月の総選挙は、インレー湖へと流れる川に面した定宿のホテルのバルコニーから眺めていた。民主派の大勝利で、協力スタッフも街の人々も本当に明るい表情に満ちていた。民政移管からわずか10年でまた暴力によって軍事政権に戻ってしまうとは想像もできなかっただろう。ただでさえ新型コロナで苦しむ中での政変とその後の暴力的な抑圧を思うと、心の奥底から悲しみと不安を感じずにはおれない。しかし、この大きな不幸の中、4千キロを隔てた地の人々の平安を日々祈ることができることもまた、自然史研究やそこで出会った人々から得られた恵みの顕れの一つなのかもしれない。

写真3. (上)インレー湖畔の五日 市の1つ、カウンダイン市場の魚コーナーの風景(2020年3月)。(下)ティラピア(外来種)が優占するが、固有種のコイやスネー クヘッドも並ぶ(ニャウンシュエ市場、2014年9月)。

※転載するにあたり、若干の修正を行っています。