インタビュー 先達に聞く

友田 淑郎 TOMODA, Yoshio

出典魚類学雑誌 50(2): 169–175, 2003

聞き手:渡辺勝敏(京都大学大学院理学研究科)・前畑政善(滋賀県立琵琶湖博物館)

インタビュー:2002年11月27日 於:滋賀県今津町

※友田淑郎博士は2017年11月26日に逝去されました。

はじめに

 今回は,ビワコオオナマズやイワトコナマズの記載者として知られる友田淑郎さんを訪ねました.インタビューは,前畑と渡辺が2002年11月27日に滋賀県今津のご自宅へ伺い,5時間あまりにわたって行われました.時に奥さんの志津さんも加わり,また愛猫たちともじゃれ合いながら,終始和やかな雰囲気で会話は進みました.話題は実に多岐にわたり,また録音は長時間にわたるものですので,以下は,会話の構成等,大きく編集を行なっています.渡辺は名著「琵琶湖とナマズ」(1978年,汐文社)と「琵琶湖のいまとむかし」(1989年,青木書店)を再読してインタビューに臨みました.また前畑はちょうど博士学位論文「日本産ナマズ属3種の繁殖生態」を京都大学大学院に提出したところでした.

 友田さん(T):前畑さん,今度,学位論文はどこにお出しになったの?

 奥さん(S):おめでとうございます.

 前畑(M):ありがとうございます.堀 道雄さん,川那部(浩哉)さんの後任の.

 T:ああ,理学部.

 渡辺(W):「友田淑郎を超える」というテーマで出したんですよね.

 T:(笑)こりゃあ,こりゃあ,どうも.

 M:ボクのは...友田さんのような...(両手を大きく広げて)こんなんじゃないですから.

 T:私は徳田(御稔)さん(京都大学理学部)のところで.徳田さんとは,もともと進化論からのお付き合い.入学試験の時からね,「種の起源を明らかにする」というのをテーマとしていたわけです.何を材料にするかということで,いろいろ考えてフナを選んだわけですが.

 W:大学院は修士課程から入られたんですね.

 T:はい,そうです.1957年,昭和32年.

友田淑郎博士(1922–)今津のご自宅 にて,妻志津さんとともに

 友田さんは1922年(大正11年)に京都で生まれました.しばらく東京で育ち,小学校の途中から沼津へ移りました.愛媛県の旧制松山高校を卒業された後,大阪大学理学部(菊池正士研究室)で原子核物理学を学びました.1947年(昭和22年)に卒業後,大阪府内で生野中学(旧制)と勝山高校(新制)の教師をしていましたが,いわゆるレッド・パージによって職を追われることになりました.その後,奈良に移り,志津さんと出会い,結婚しました.結核を患ったため,国立結核療養所比良園(現・国立比良病院,滋賀県志賀町)で2年半療養生活を送り,その後,沼津で2年半ほどを再び高校の教師として過ごしました.

 M:大学を卒業してから生物に目覚めた?

 T:(笑)生物は子供の時から好きだったから.

 ルイセンコってご存知? ルイセンコが大流行りでね.ボクは,ルイセンコを振りかざして徳田さんを訪ねた覚えがあるんです(笑).まだそれはレッド・パージになるよりも前で.

 W:徳田さんは,いくつかの著作でルイセンコ主義を詳しく検討されてるわけですが,京都に行かれたのもそういった関係で?

 T:うん,民科(民主主義科学者協会)の組織を作ろうと思って,誰かをリーダーにしようと思って,徳田さんを選んだわけです.

 そのあと,結核が治ってから静岡県の親父のところにいる間に,もう一回人生をやり直さなきゃならなくなりましてね.徳田さんを久しぶりに訪ねたら,新しく大学院ができて,国からお金が支給されて行けるようになったからって勧められて.で,昭和32年に大学院に入りました.当然のごとく徳田さんしか知らなかったわけです.徳田さんって,何かシャープな人です.シャープな人なんだけど,少しケチ臭い人だった(笑).

 徳田さんがその「種」の問題に興味がありまして,入学試験の半年ほど前から徳田さんの所に出入りして.京都の生物の教室をのぞいてやろうと思ってね,京都に移ったんですよ.その頃にもう1人の学生と2人で「種の起源」を輪読しました.

 大きいテーマを決めとこうと思って,初め入った頃は,「種の起源」を旗印にしとったわけですけどね.たまたま,加福竹一郎さんが,ゲンゴロウブナの生態でしょうか,腸型でしょうか,そのようなことで宮地(傳三郎)さんのところ(京都大学理学部)に博士論文を出されてね.そういうこともあって,ゲンゴロウブナに興味を持ったわけです.

 徳田さん,初め,ボクが入るまではずいぶん一生懸命,いろいろ指導してくれたんですけどね.入学した途端に,もう全然,ほったらかしで...このぐらい(両手で示して),別刷を持ってきてね,「これ読んどけ」って(笑).それだけですわ,徳田さんが指導してくれたのは(笑).

 W:大学院の時は,となりの宮地研究室には川那部さんや水野(信彦)さんたちがおられましたが,ほんとに近い分野の研究をしてる人はいない中で,徳田さんもそれほど指導してくれているわけではないし,もう独自にフィールドワークを?

 T:うん.まったく自分一人でやった.

 (京都大学大学院の入試の時)朝から風邪ひいとってね,風邪薬を飲んだら,イエスタミンに弱いんやなぁ,ふらふらになってね,答案をほとんど書けなかったんですわ(笑).もうちょっとで入学できないところだったんだけれども,宮地先生が変わった出題されたんですわ.同級生の大学から入ってきた人がほとんど何も書けなかったんです.ほんで宮地さんが95点だか,くれたんです.そのお陰で通ったんです(笑).

 M:どんな問題ですか?

 T:動物形態学,動物細胞学,動物遺伝学,動物生態学...なんか,そういうような名前が6つほど書いてあってね,それらの相互関係を述べよ,っていう問題.そのお陰でとにかく通りまして.

 臨湖実験所(当時,大津市尾花川;現・京都大学生態学研究センター)で,フナの研究したいって言い出したんですよ.標本なんていうのは極めてひどい扱いを受けていて,ただ瓶に詰めてあるだけで.とにかく臨湖実験所では,「ここは神聖な湖沼学の研究所で,魚みたいな下等なものは扱わんのじゃ」言うて(笑).徳田さんが長い間中国に行ってしまって,指導もしてくれんし,カエルでも見とけというわけで,ボクは初めの半年ぐらいカエルばっかり見とったわけです.シュレーゲルと,それからモリアオガエル.主にカエルの発生を...発生を見たってわけでもないんだよなぁ.とにかく飼ってただけ.

 それで,宮地先生に...会ったのは初めてだったんですけど,たまたま廊下で,「徳田さんいないのに研究うまくいってるか」って尋ねられたから,からっきしや言いましたらね,そしたら,「研究の資料を見てみよう」言うて,一緒に臨湖実験所まで行ったんですわ.標本室にある戸棚の標本をいろいろ見せてくれてね,モロコの類とタナゴの類と,宮地さん,いろいろ論文でお書きになってたんですねぇ.「これはちょっと違って見えるけれども非常に近いんだ」とか,そんな話をなさってね.

 「琵琶湖とナマズ」には,友田さんの大学院時代の琵琶湖でのフィールドワークや人々との交流が,実に見事に生き生きと描かれています.博士論文のタイトル「びわ湖産フナの形態学的研究ならびにその分化についての生態学的考察」(京都大学,1965年)から分かるとおり,メインの研究対象はフナ類でしたが,フナ類の研究を始めるのとほとんど同時に,ナマズ類にも強い興味を持たれ,研究を始めました.

友田淑郎博士と前畑

 T:お宅の博物館(滋賀県立琵琶湖博物館)のある場所,あの烏丸半島って三角になってるね,北側がずっと入り江になっていて.赤野井湾って言っとったけど.初めから野外の条件,良くなかったですねぇ.今はもっぱら,ブラックバス問題で終始してますけども,あの頃は赤野井に流れ込む川の上流の方にね,薬品工場があったんですわ.ほんで,廃液を流しおってね,赤野井湾の水が黒くなってしもたんやね.ボクが初めて行った年,そこに綾田さんて漁師がいましてね,「今年はもうやめときなさい.今年みたいに悪い年はないんや」と言われてね.それからもう,悪くなりっぱなしですわ.

 ボクは,新種の問題,新しい型の形成っていう問題について関心があってね.徳田さんが新しく使った言葉でしょうか,種の統一性と分岐性というようなことをおっしゃって.分岐のことはダーウィンがいっぱい言ってるわけですよね.でも,分かれるっていうことと,新しいものが現れてくるっていうことは,ちょっと概念として違うんじゃないかな.新しい生活の仕方が起こらないと,いくら変化しても,子孫が続かないでしょ? そうすると,新しい生活が先にありそうな気もするんですよね.

 W:そういった考え方は,どういったところから出てきたんですか? 徳田先生や宮地研の人たちとの議論だとか...

 T:いや,そうじゃなくて.それは自分でフィールドで観察したり,飼ってみたりしたもので.

 水槽の中でね,ゲンゴロウブナとニゴロブナと別々に並べて飼ってたんです.温室で日がよく当たるところで飼ってたんですけど,鱗ができるとニゴロブナを飼ってるところは水槽が汚れてくるんですよ.すぐグリーンになっちゃう.ところが,ゲンゴロウブナの方はきれいな色,薄い茶色の水なんですね.魚を交換してやるとね,3日くらいで逆になっちゃうんですよ.ちょうど,鰓耙が,わーっと伸びてきた頃ですかね.

 その頃になると,ゲンゴロウブナもニゴロブナも群れ行動するんですよ.群れ行動っていうのはね,例えばこの部屋(8畳間)よりもうちょっと大きい池で飼ってますとね,底にみんな分散して餌喰ってますでしょ.それで1匹がふっと上へ上がると,あと,みんな「つつつっ」とついて上がるんですよ.ボクが飼ってた水槽はへりにちょっと穴が開いてましてね.大雨が降って,うちに帰って食事して,もう1回池に行ってみるとね,何にもいなくなっていて.穴から全部,1匹残らず続いて逃げちゃうんです.それは野外でも...例えば早崎っていうところに大きな内湖がありましてね,そこの入り口に魞(えり)があるんです.ほぼ同じ大きさにそろった小ブナがいっぱい,一斉にかかるんですよ.で,次のハビタットへ移るんです.

 ニゴロブナはそこでもうおしまい.ゲンゴロウブナはそれっきりずーっと一生群れ作ってる.トラップでフナ捕ってる人がね,トラップの中に,ゲンゴロウブナに付いてニゴロブナが時々入ってることがあるって.だから,時々交配するんだろうと思うんですよ.そうすると,先祖はもっと交配してたに違いない.やっぱりそういう群れ行動がなければね,新種ができてくるはずがない.交配しながら分岐したのだろう,と.

 W:「琵琶湖とナマズ」を読ませていただいたら,固有種の進化のストーリーというのが,かなり初めの頃,60年代の初めの大学院生の頃に,もう作り上げられていたんですね.

 T:うん,そうね.

 W:お話を聞いていると,最近の,北米のイトヨ類やアイスランドのイワナ類の種形成の議論に通じるものを感じました.

 今回「琵琶湖とナマズ」を読み直して,感心したって言ったら失礼なんですけど,今のぼくらにとっては普通なんですが,友田さんは初めの頃から歴史という視点を持っておられて,やっぱりユニークだなあと改めて思ったんです.その当時,50年代,60年代の生態学者は,歴史や系統についてあまり考えなかったじゃないですか.そういう歴史的な観点に,マルクス・レーニン主義などは影響したんでしょうか?

 T:(笑)それはあんまり...(一同,笑)

 W:ところで,宮地先生やその研究室(動物生態学)との交流はあったんですよね.

 T:うん,それはねぇ,一番初めに先生が臨湖実験所に案内してくれて,研究テーマを出されたよりも,もうちょっと後でね.ボクはよその研究室でしょ.でも,いつでも宮地先生の研究室でお昼ご飯食べてたの.そういうのは,やっぱり他には無かったですね(笑).極めて民主的な方でした.

 毎年,宮地研究室と松原(喜代松)研究室が交流してる,というのがわかって...2年目ですかね,マスターが終わった頃に初めて,舞鶴で合同研究会があって発表したりしたことがある.で,次の年には舞鶴から全員が出てきて,京都大学に泊まって.そういう交流関係が非常にあったんですね.フナについては,徳田さんはネズミの先生やから全然指導が無かったんで,松原先生のところ(舞鶴)へ時々行ってまして.ナマズの発表はそこで初めてしました.松原先生が,「脊椎骨の数はどうや」ってすぐ聞かれまして.その頃の魚類学者はHubbs博士に大きな影響を受けていて,メリスティック・キャラクタ(=計数形質)(と塩分や水温の関係)が大流行りだったわけです.

 M:大津におるとき,フナをやっていて,臨湖実験所でビワコオオナマズを見た,と?

 T:いや,無かった.伊賀敏郎さん[滋賀県漁連参事;「滋賀県漁業史」(滋賀県漁協連,1954年)の編者]にね,琵琶湖のフナの話を聞いたら,いろんな魚...モロコもそうだし,ヒガイもそうだし,(変異があるのは)フナばかりではないんだっていう話で.で,ナマズの話を聞かされて,1回見たくってね.

 W:「琵琶湖とナマズ」の中に,西田 睦さん(現・東大海洋研)たちの名前が出てまして,竹生島の周りでイワトコナマズの産卵生態を調べるために潜ってもらったという話がありましたけど,今みたいにスキューバダイビングをわりとみんな簡単にやるような時代だったら...

 T:あれ泳げる人じゃないと,やっちゃいけないことになってるね.ボク泳げないもんね(笑).

 M:あれ泳げなくてもいいんじゃない? 潜っちゃうから.

 W:ご自身で自由に潜って観察できたら,なんか新たなアプローチがあったかもしれませんが...もしかしたら死んじゃってたかも.無謀にやりすぎて(笑).

 そこから始まったナマズ類の分類や種分化,適応に関する探究は,2種の琵琶湖固有のナマズ類の新種記載(Tomoda, 1961)をはじめ,「琵琶湖とナマズ」に詳しく記されているように,さまざまな成果や新しい展開につながっていくことになります.しかし,友田さんのフィールドワークはかなり強烈だったようで,荒天の琵琶湖に船を出したり,泳げないのに水の中へどんどん入って行ったり,周囲の人をはらはらさせることも多かったと聞きます.

 友田さんは博士課程修了後,宮地研に籍を移し,琵琶湖生物資源調査団にも関わられた後,1965年に学位を取得しました.そして,同年,国立科学博物館(以下,科博)に就職しました.その後は特に古生物学から生物相の由来や進化への追究がなされることになりました.

 W:さて,古生物とか地学,地質,そういうのも始められましたよね.その契機っていうのは,どこらへんにあるんですかね? 科博に行かれたっていうのが大きいと思うんですが.

 T:大学院が終わってから,琵琶湖生物資源調査団がさっぱり勉強にもならないんで,辞めまして.それで,琵琶湖のファウナを生物地理的に追究しようと思って,ファウナの由来から始めようと思ってね.地質は別にそんなに関心なかったわけなんですけども,地質学の教室がすぐ前だったもんだから,しょっちゅう出入りしてたわけ.

 地質学者ってのは,よく文献を整理しててね.ボクが,「(魚類・動物は)朝鮮半島を通って日本へ来たんだろうから,朝鮮へは行けないけども,真ん中の壱岐・対馬ってのは,ファウナはどうなってんだろう」って聞いたら,そういう質問にすぐにぱっとカードを選んでくれて.で,壱岐の島に化石が出るって話をして.それが化石にタッチした初めてだったんですね.壱岐・対馬に行ったんですが,そしたら壱岐で化石がたまたま出たわけ.

 化石は,あとで古琵琶湖層群を.割に新しい歴史を追究する大阪市大のグループが古琵琶湖層群を調査するのに,何回も参加しました.科博にいる間も,こっち(今津)へ来てからもね.

 W:1965年に科博に行かれた当時はどなたがいらしたんですか?

 T:(貝類の)波部(忠重)さん...魚類は,新井(良一)さん一人.その後に中村(守純)さん(1969年).松浦(啓一)さんが来たのは大分遅かった(1979年).

 W:最初標本がぐちゃぐちゃの状態で,苦労されたって話を聞いた覚えがあるんですけど.

 T:戦時中の防空壕がありましてね.その中に,標本瓶がずいぶんつっこんであったんです.岡田 要館長は発生学者で,標本には興味無くてね.うちの家内にも無料で来てもらって,毎日毎日整理して...

 (科博では最初)稚魚の発育をね.コイ科をやって,その次にワカサギとアユの発生をやったのかな.で,できたら,深海魚のグループを見たいと思ってね.ただ,コイ科の魚については,中村さんがご自分がやるんだからと...現生のコイ科を研究しないんだったら自由だったわけで(笑).

 W:そういう意味もあって,古生物のほうにシフトされた,と.

 ところで,魚類学会が1968年に設立されたわけですが...

 T:ボクはタッチしていません.阿部宗明さんが事務局をやっていて,とにかくなかなか大変そうだった.石山(礼蔵)さんが走り回って,岡田彌一郎さんが会長で.

 会長に松原さんを,って声もずいぶんあったんですけど,もう,だいぶしんどかったんですね.松原さんが会長になっていたら,(日本魚類学会は)違う方向に発展したかも分かりませんけど...舞鶴のグループは,なんて言うんだろうなあ,広く魚類全部を見ていたように思うんですよね.

 科博時代,そしてその後の友田さんの琵琶湖や日本列島のファウナの由来に対する追究は,「琵琶湖とナマズ」,そしてこの本の最後の古生物学や地質学に関わるパートを受けた続編に当たる「琵琶湖のいまとむかし」で詳細に知ることができます.

 科博時代にはまた,勉強会や野外調査を通じて,広い分野の研究者と交流するとともに,多数の若手研究者や学生・院生に大きな影響を与えています.その中の一人,小寺春人さん(鶴見大学歯学部)は,「友田さんは徹底した非権威主義者・平等主義者であり,私が高校生のときから,議論はいつも対等・平等だった」と語っています.また小寺さんは,「学問の完結を拒否し,既存の学問体系の破壊こそが創造の源泉であるとの深い信念を持っている」と友田さんを評し,「事の本質,特に自然を見極める優れた直感の持ち主(時として的を外すが)」だと述べています.

 また,琵琶湖で培われたフィールドワークの勘は科博時代にも遺憾なく発揮され,後藤仁敏さん(鶴見大学短期大学部)は,大学院生のときに友田さんとともに駿河湾でラブカの採集を行なったことが,多くの輪読会や友人との出会いとともに,その後の研究の端緒を開く経験となったと述べています.中島経夫さん(琵琶湖博物館)や小早川みどりさん(九州大学)も,このような機会を通じて,友田さんから多くを学んだ研究者といえます.

 M:ところで,木村重さん[著書に「魚紳士録」(1971年,緑書房)など]とのご関係は?

 T:宮地先生に「ナマズを研究するのやったら,大陸のことやったら,木村さんという人が,(中国から)日本に帰ってどこか東京の辺りに住んでいるらしいから,一回訪ねてみないか」と言われて.市谷の駅のすぐ下に釣り堀があって,金魚屋があって,そこへよく木村先生が来てはったんよ.ボクが初めて会ったのは院生の終わった頃で,その頃60才ぐらいやったんやないかな.変わった人だったね.日本語の論文は一回だけ何か書いたって言ってたかな.他は全部中国語で.

 M:友田さんとどっちが変わっていました?

 T:どうでしょ.まあ,人生をいろいろ歩き尽くしたっていう感じやったね.変わった経歴の人やったけど,いろいろと面白いことを話してくれるんで,よく訪ねたんです.生物に関する具体的な話はあんまり聞かなかったんだけどね.

 中国に採集に行きたくてね.木村さんに,東京に住んどった中国の軍人の息子を紹介してもらったことがありますよ.(そのときは中国に)行かなかったよ.どこに連れて行かれるか分かったもんじゃない(笑).

 M:中国へ始めて行ったのはいつですか?

 T:1985年.お宅(琵琶湖文化館)で張 弥曼(中国科学院古脊椎動物古人類学研究所)さんたちが来たでしょう(国際シンポジウム「東アジアの淡水魚類相の成立と生物地理」,大津ほか).あのすぐ後で.

 M:陳 宜瑜さん(中国科学院),褚 新洛さん(同動物研究所,昆明)とか.

 W:ちょうど東京で第2回インド・太平洋魚類会議があった年ですよね.

 T:うん,夏にね.もともとボクの隣の部屋で松浦さんと新井さんとが準備をしとったんです.一向に関心なかったんやけどね,何かの時に名簿を見せてもらったら,中国の人がたくさん来るんやんか,淡水魚のことをやっている人が.それで,こりゃあいいチャンスやと思って(笑).それで東京でシンポジウムやろうと思ったら,「後から出てきて,東京で特別な会議をするなんてことはとんでもないことだ,魚類学会としては賛同できない」という意見があった.

 それでしょうがないから,琵琶湖研究所を作った吉良(龍夫)先生のところに相談に行って,滋賀県が金を出すというように頼んだわけですわ.

 W:その後に中国に行かれて,その時は昆明(雲南省)に行かれた?

 T:うん,そうそう.雲南を主に見たいと思って.昆明市の郊外に,滇池って湖があるわけですが,それからずっと西の方に行ったところに,洱海っていうのがある.採集したのは洱海の方だったんですけど.結局,採集した標本は持って帰れませんでした.

 W:中国は,その後一緒に行きましたね,1996年に.あのときは北京でIGC(国際地質学会,第30回)があって,島根県中新統のアユの化石の発表をされましたよね.魚類自然史研究会かどこかの席で,友田さんの方から「中国へ行こうよ」って誘われて.それで張 弥曼さんに手紙を出したりして,締め切り過ぎてたのにエントリーしてもらった思い出があります.そのとき,北京の動物研究所の研究者と出会って,その後おかげさまで,こちらはいい関係で共同研究を進めてるんです.そうだ,だからちゃんとお礼言わなくちゃ(笑).ほんとにありがとうございました.

友田淑郎博士と妻志津さん、渡辺

 友田さんは1985年の訪中の後,中国へは4回行き,またフィリピンのミンダナオ島にあるコイ科の適応放散で有名なラナオ湖に2回,同じくカジカ科等が適応放散しているバイカル湖(ロシア)にも出かけています.Rainbowthが1991年に記載したコイ科Aaptosyax grypusにサバヒーとの共通点があると直感し,タイはメコン河に2回,さらに,ウケクチウグイに近いに違いない,という信念のもとでPseudaspius leptocephalusを追ってウスリー江にも出かけています.これらはすべて退官後の話です.一年の大半を海外で過ごした年もあったそうです.

 W:ミンダナオも2回ぐらい行かれた?

 T:2回行きました.ダーリントンは本(「動物地理学」)の中に図をほとんど出してないのに,ラナオ湖の図は2回も出してて.当時はね,極めて興味深かったんですけども,たくさん種分化した種は,1種を除いて,ほとんど絶滅しちゃったんです.なんかタナゴモドキの仲間がね,コイと一緒に移殖で入ってきて,それがブルーギルと同じように卵を喰うんですよ.それで特産の魚をみんな喰っちゃった.

 W:それで,(タナゴモドキの駆除のために)イワトコナマズを放そう,とか言ってませんでしたっけ? もう,毒には毒を,みたいな(笑).

 T:あれも実行しなくて良かったです.おそらくね,無理だったと思うよ.岸辺の水温が30℃あるんです.

 M:そういう意味で良かったんや(笑).

 W:あそこは,ちょうどイスラムの組織の本拠地としてもっぱら評判の場所ですね.でも友田さんは1回目帰った後に,しきりに「大丈夫だ,大丈夫だ」と言っていた覚えがあるんですが.でもやっぱり大丈夫じゃなさそうですね,今の状勢みてみると.

 M:なんで大丈夫やと思ったんですか?

 T:わかりません(笑).そのラナオ湖のある高い山,1,000メートル近い山なんですけど,山の上にミンダナオ州立大学ってのがありましてね.学生にちょっと半時間ぐらいスピーチしたんですけどね.質問はありませんかって聞いたらね,助教授の女の先生が手挙げて,「あなたはここへ来て怖くないか」って言うんですよね(笑).

 海外へ頻繁に出かけつつ,友田さんはまた,退官後の一時期,カエルに熱中し,沖縄等にカエルを求めて何度も採集に出かけ,ご自宅の庭に温室まで建てています.しかし,この3年ほどは気分がすぐれないことも多かったようで,現在は静かに,志津さんと2匹のネコとともに琵琶湖畔で暮らしています.

 W:友田さんと一緒にいたら,退屈することとかないでしょうね.

 S:結婚前にね,これは楽しいなと思ったんですよ(笑).昔,奈良にいましたけど,お風呂行くんでもね,お風呂までほんのちょっとなんですよ,歩くのは.100メートルくらいですけどね.その間でも暗いと星の話したりね,何にもないと蟻の話したりね(笑).話は尽きないんです.そやから面白いな思って.

 毎朝ね,夢の話するんですよ.朝起きてくるとね,今日は何の夢見たとか,試験受けてる夢見たとかね(笑).

 W:友田さん,早いんですか,朝は?

 T:いや,もう7時過ぎないと目が覚めない.小っちゃい方の猫がね,こちょこちょっと口のへんを,早起きしろって.ひと暴れしないと済まないの.

 S:宮地さんとこみたいに,2人一緒に死んだらちょうどええ(笑).

 T:宮地さんね,不思議なことに,奥さんとね,数時間ぐらいの差で亡くなられたんですってね.不思議なこと.

 W:さて,最後にいくつか質問を用意しているのですが,まず,これまでの研究活動で一番気に入っているところ,あるいは満足している仕事,そういったものはどんなものがあるでしょうか?

 T:さあねぇ...やっぱり,院生の頃,研究してたことが一番楽しかったですね.フナの研究してたのが一番よかったですね.フナに一番力を入れました.

 W:満足されてる研究は,初めのフィールドにどっぷりつかってやられたフナの研究だということですが,研究活動について後悔することが,もしあるとすれば...

 M:ないんちゃう? 友田さん,ほら...(笑)

 T:まあ好きにやりましたからねぇ.

 W:では,そういうお答えということで.ありがとうございます.

 この後,琵琶湖のナマズ類の生態,特に初期生活史に関しては,もっといろいろと詳しく調べたかったことがあると,さまざまな研究の発想とともに語られました.

 友田さんは,前述のように,我々2人を初め,現在,魚類学会に深い関連を持ちながら研究を行なっている後進に,直接・間接的に大きな影響を与えてきました.ナマズ類の研究を続けている小早川みどりさんは,友田さんを「知識欲の固まりのような人」と表現しています.最近,淡水魚の初期発育の場として,水田などの一時的水域の役割が注目されていますが,斉藤憲治さん(東北海区水産研究所)は,その原点は友田さんにあり,組織的に研究した人たちには見抜けなかった真実を,無手勝流でやった友田さんは誰よりも早く見抜いていた,と語っています.

 今回のインタビューの際にも,最近のDNA分析や進化発生学あるいはインターネットの話題などに飽くなき好奇心を示され,ときにはこちらが友田さんの発想や思考に付いていくのがたいへんなときもありました.友田さんの自由で純粋な発想と学問分野にこだわらないアプローチ,また真に反逆児たる姿勢が,「琵琶湖とナマズ」のような名著を生み出し,また多くの後進にインスピレーションを与えてきた源であると感じました.

主な著作,業績

Tomoda, Y. 1961. Two new catfishes of the genus Parasilurus found in Lake Biwa-ko. Mem. Coll. Science, Univ. Kyoto, Ser. B, 28 (3), art. 5 (Biology): 347-354.

友田淑郎.1962.びわ湖産魚類の研究−I.びわ湖産3種のナマズの形態の比較およびその生活との関連.魚類学雑誌,8:126−146.

友田淑郎.1978.琵琶湖とナマズ 進化の秘密をさぐる.汐文社.326 pp.

友田淑郎.1989.琵琶湖のいまとむかし.青木書店.172 pp.

友田淑郎.1991.びわ湖の魚類−びわ湖の固有魚類と古琵琶湖層群産魚類化石−.pp.1399−1457.滋賀県自然誌.(財)滋賀県自然保護財団.

※魚類学雑誌に掲載されたものから、一部誤字等を修正しています。

写真は1枚目のみがオリジナルに掲載されています。

小寺春人さんの素晴らしい追悼文が魚類学雑誌65(1):139–140, 2018に掲載されています。→パート転載