2010年、日本、監督:加藤直輝、舞台となる地域:日本
主人公の浄念は、うつ病と闘いながら法事などを手伝っている臨済宗の僧侶である。若いころロックミュージシャンを目指していたこともあって、音楽への思いが断ち切れない。そんな彼に周囲は振り回されるが、町でロックのライブを行うことを決意してから、彼の生活は充実したものとなっていく。「お坊さんだって、悩みはある!」という文句に代表されるように、作品を通して僧侶という存在を身近なものに感じることができるだろう。
2008年、日本、監督:滝田洋二郎、舞台となる地域:日本
仕事を辞めて故郷の山形県庄内地方に帰り、納棺を行う会社に就職したところから物語は始まる。遺体を扱うという仕事を理解してくれない家族・友人との葛藤や、自身の知人・家族を納棺する際の戸惑いなどを通して、納棺夫として成長していく過程が描かれている。これまであまり取り上げられなかった職業に光を当てた一方で、宗教者は一貫して背景となっている。
1984年、日本、監督:伊丹十三、舞台となる地域:日本
初めての葬儀を執り行うことになり戸惑っている喪主を主人公に、「お葬式」をめぐっての人間関係や人情などがコメディタッチに描かれている。葬儀において、死者を彼岸に送る「直接」の役である僧侶はもちろん登場するが、本作では黒子ともいえる葬儀屋に強く焦点が当てられ、現代における葬儀事情・葬儀トラブルの基などが反映されている。
1997年、アメリカ、監督:マーティン・スコセッシ、舞台となる地域:チベット
ダライラマ14世の半生を描いた伝記物語。1935年、チベットに生まれた子どもはハムと名付けられた。2歳のころに、ダライラマの生まれ変わりとして見出され、ポタラ宮殿に住む。49年に中国の人民解放軍がチベットに侵攻し、当面抑圧が続いたことで、59年に亡命。齢23歳であった。人民解放軍の残忍さとダライラマの非暴力主義が対照的であり、中国は配給会社へ圧力をかけるなど、話題になった作品でもある。
【世界遺産ラサのポタラ宮の歴史遺跡群が登場する。】
2009年、日本、監督:田口トモロヲ、舞台となる地域:日本
仏教系男子高校に通う、さえない主人公が音楽と旅と恋を通して成長していく様を描く青春映画。講堂にある法然像から浄土宗系の高校であることがわかるが、 宗教は中心的な主題になっていない。ただ、授業中に教師が色即是空の意味を「今を生きるということだ」と解説したことが、主人公の行動に大きな影響を与え ることとなる。
2013年、日本、監督:高雄統子、舞台となる地域:日本
中村光原作の人気コミックを映画化した作品。「休暇をとった」ブッダとイエスは、東京の立川市で同居し、買い物をしたり遊園地に行ったりと地域の人びとに混ざって日常生活を楽しむ。いろいろな場面で、キリスト教や仏教にかかわる観念や言葉がギャグへと転化して登場する。
1997年、アメリカ、監督:ジャン・ジャック・アノー、舞台となる地域:オーストリア、チベット、インド
オーストリアの登山家が、第二次世界大戦中の自らの体験をもとに書いた自伝的小説を原作としている。戦争捕虜となった主人公が、収容所から脱走。苦労してチベットに入り、運よくラサでの滞在を許される。幼いダライ・ラマ14世にも謁見し、彼との絆を深めていく中で、彼自身の心も解放されていく。「知られざる、神秘の国」のチベットに対して欧米人が抱いている憧れがよく表れているといえる。
【世界遺産ラサのポタラ宮の歴史遺跡群が登場する。】
2009年、日本、監督:高橋伴明、舞台となる地域:日本
日本曹洞宗の開祖である道元の生涯を描く。8歳で母を亡くした道元は、24歳で入宋し、そこで身心脱落という悟りの境地を体験する。日本に帰った道元は、旧勢力である比叡山から攻撃を受けるが、越前に大仏寺(のちの永平寺)を建立して修行をはじめる。本作のみによって道元の一生や禅について理解することは到底不可能であるが、さらなる学びの為の一つのステップになるだろう。
1989年、韓国、監督:ペ・ヨンギョン、舞台となる地域:韓国
韓国では人口の約23パーセントが仏教徒である(2005年)。韓国仏教は禅が中心であり、本作品も禅の思想を背景にしている。厳しい修行を続ける老僧と彼に仕える若い僧、そして老僧が引き取ってきた孤児の3人は、山奥の寺で修行の日々を送っている。妹と盲目の母を故郷に残している若い僧は、家族を捨てたという罪悪感を捨て切れず、老僧に「なぜ人々のために尽くそうとしないのか」と問いかける。こうした問い掛けやそれに続く老僧の応答は、禅の公案の様式をとっているといえる。
2019年、日本、監督:富田克也、舞台となる地域:日本
全国曹洞宗青年会製作の映画。禅の修行道場において食事を担当する「典座」の視点を中心に、2人の僧侶の日常を描く。フィクションを交えたドキュメンタリーであり、曹洞宗の僧侶が主要キャストを務めている。山梨県の寺院で暮らす智賢は、「食」に着目して仏教の教えを伝えようとさまざまな活動をしており、兄弟子の隆行は東日本大震災で自身の寺院が津波被害に遭っており、復興のために苦慮している。現代に生きる僧侶の抱えている悩みや新たな挑戦が克明に伝わってくる作品。
1958年、日本、監督:永田 雅一、舞台となる地域:日本
日蓮宗の開祖である日蓮の半生を題材に、元寇と神風のエピソードが、特撮を駆使してスペクタクルに描かれる。前半部では、日蓮の清澄における誓願(立教開宗)、鎌倉での法華経布教(辻説法)、幕府への立正安国論の提出(他国侵逼難の予言)、北条重時らによる草案の焼き討ち、伊豆流罪など、法華経流布の志を持ちながらも邪教の徒として扱われた日蓮の苦難の歴史が描かれる。後半部分では、他国侵逼難の予言的中譚としての蒙古襲来に焦点が当てられる。蒙古の襲来から日本を守る日蓮の姿として、日蓮の祈祷による神風、蒙古退治の様子が壮大な特撮シーンで表現される。
監督の永田雅一は熱心な日蓮宗の信仰者であり、大映社長として『羅生門』や、日本初の70ミリ映画『釈迦』の制作に関わったほか、この映画の後に続編映画として『日蓮』を手掛けている。
1989年、韓国、監督:イム・グォンテク、舞台となる地域:韓国
尼僧を主題とした韓国映画。教師と二人で旅行に出かけたことが問題となり、高校を退学させられた主人公は、尼寺に駆け込み修行を開始する。しかし、ある男と出会ったことがきっかけで、山を下り俗世で暮らし始める。看護士として生活していくなかで、さまざまな不幸を経験し、この世の無常を痛感した主人公は再び尼寺へと戻っていくのであった。韓国社会における仏教の役割についても問いかける作品となっている。
ネパールを舞台にした韓国映画。韓国で働いていたネパール人男性ドルジの死から物語は始まる。ドルジが務めていた工場の工場主は兄のチェにドルジの遺骨を故郷に届けるようにと託す。依頼を果たすためネパールを訪れたチェであったが、遺族に彼の死のことをなかなか打ち明けられないまま、彼らのもとに身を寄せることとなる。死に向かい合うネパール人たちの姿と、彼らの生活に根付くチベット仏教の姿を見てとることが出来る。
1989年、日本、監督:周防正行、舞台となる地域:日本
実家の寺を継ぐためにロックバンドのボーカルをやめ、宗派の本山に上ることになった主人公(陽平)の修行の日々を描くコメディ映画。陽平は、坐禅のみならず日常の作法が徹底的に叩き込まれる厳しい修行生活の中で、さまざまなトラブルに巻き込まれていく。物語の舞台は架空の禅寺となっているが、曹洞宗の大本山永平寺がそのモデルである。主人公をはじめとした若き未来の僧侶たちの苦悩が描かれている点でも興味深い。
2015年、日本、監督:真壁幸紀、舞台となる地域:日本
父が病に倒れたことを機に、実家である寺院を継ぐ決意をした白方光円の新米住職としての奮闘記を描いている。原作は四国八十八か所の第57番札所、永福寺の住職白川密成氏が『ほぼ日刊イトイ新聞』で連載していた記事をまとめた『ボクは坊さん。』(ミシマ社、2010年)である。書店員からいきなり住職になった光円は、父の葬儀や幼馴染の結婚式などを経て住職としての経験を積みつつも、幼馴染の引きこもりや出産、病といった個人的な問題にも関わっていく。葬儀や結婚式といった人生儀礼のみならず、生や死といった普遍的なテーマや、引きこもりといった問題にも関わりながら、弘法大師の教えを日々の暮らしのなかで解釈、実践し、成長する姿がコミカルに描かれている。
1999年、ドイツ、監督:ドーリス・デリエ、舞台となる地域:日本
妻に逃げられた兄と東洋宗教マニアの弟というドイツ人兄弟が日本で繰り広げる珍道中と彼らの禅寺での修行をコミカルに描く。撮影は実際に曹洞宗の大本山總持寺祖院(石川県輪島市)で行われており、修行の様子を垣間見ることが出来る。また、海外の人々が抱く「禅」や「日本」に対するイメージがうかがえる点でも興味深い。
1993年、フランス/イギリス、監督:ベルナルド・ベルトルッチ、舞台となる地域:ブータン、ネパール、アメリカ
チベット仏教のトゥルク(化身、転生者)信仰に基づき、ブータンの僧が師の生まれ変わりを探す過程が描かれる。中心となるのは、生まれ変わりの一人として選ばれたシアトル在住のアメリカ人少年とその家族の葛藤と成長である。背景となる輪廻思想やトゥルク信仰のみならず、仏陀の生涯、チベット仏教の現状なども垣間見ることが出来る。