高梁盆地:日本のハイデルベルクは今、新しさと古さの調和を模索している

高梁盆地:日本のハイデルベルクは今、

新しさと古さの調和を模索している

伊達美徳

●ドイツに故郷があった

 この2枚づつの写真と地図を見比べていただきたい。どうです、よく似ているでしょう。
4年前(1996年)、ドイツの有名な大学街のハイデルベルク旧市街で私はデジャヴュにおそわれた。見知らぬ古い街を歩いて懐かしい気になった経験は多くの人にあるだろう。もっと進んで、ここは昔いつか来たことがあるぞ…と錯覚するほどになると、フランス語でデジャヴュ(既視感)というそうだ。
 ハイデルベルクは始めてなのに、家並みや路地の向こうの山、川、城、石垣などの風景が、歩くにつれて懐かしさ以上の何かが迫ってくる。モヤモヤ気分が脳に溜まってくる。歩きつかれた頃、市街地のネッカー川対岸の丘の上から街を見おろして分かった。
 「高梁だっ、ここは…」と思わず叫んで、一気に晴ればれとした。
 実は、高梁は私の生まれ故郷である。40数年も前に離れても身にしみこんだ故郷の風景が、はるか遠くのハイデルベルクで出現したのには驚いた。

☆(ハイデルベルクの詳しい地図

高梁の詳しい地図

●街にもあるそっくりさん

 城下町だった岡山県高梁市の中心街は、高梁川の盆地の中にある。アルト・ハイデルベルクつまりハイデルベルク旧市街も、ドイツには珍しい盆地だ。
 盆地の大きさ、川と街・城と城主館・社寺と教会の位置、道と家並みの構成など、両者はそっくりだ。もちろん家屋のデザインは異なるが、それを越えて似ているのだ。
 その時わたしは新発見のつもりだったが、後で調べると慶応大学教授だった池田潔さんが今から36年も前に指摘していた。
 池田さんは古城と川と緑の山々の素晴らしい環境が似ていることを指摘し、高梁は日本のハイデルベルクを目指して教育の町にせよ、と講演したそうだ。
 私の新発見でないのはちょっと口惜しいが、わが眼の正しさの証明にもなった。

☆池田氏の話

ハイデルベルクと高梁の街並み比較

高梁盆地の新旧風景比較

●人口2万6千人で大学2つ高校5つ

 そして今、市とはいっても人口2万6千人の町に吉備国際大学と順正短期大学があり、高校は5つもあるのだから、池田さんの提言はまさに実現したのだ。人口の中で高齢者の割合は高いが、15歳から24歳までの人口が飛び抜けて多いのが高梁の特徴だ。活気のある若い学生たちがアルト・ハイデルベルク並みに居るらしい。
 そのドイツの古都市に負けずに、高梁にも古城があり、中心街には伝統的な商家群や武家屋敷群の日本の町並みがいまも生きている。
 だが、古い伝統木造の建築も次第に新建材の新デザインに建て替えられつつあるし、学園都市となった今ではあちこちに学生向けワンルームマンションも建ち出した。のんびりと盆地の中で暮らしていた人たちは、学生たちがやってきて活気がでたと喜ぶ一方で、これまでの町並みが崩れて行くのに、これでよいのかと気がついてきた。

●新しいもの古いもの

 狭い盆地の中に大学の校舎や学生マンションが建てば、どうしても中高層建築となって町並みや風景を攪乱する。しかし、それは町が活力を持っている証拠でもある。古いままの家に暮らすことも我慢できないから建て替えたい。だがそうすると高梁の町の個性が失われる。
 どうやって共存するか、この悩みは高梁に限らないだろう。市街を小高いところから眺めると、低い瓦の家並みの中に、搭状の建物があちこちに建つのに気がつく。医院と学生マンションだ。どうもこの街では中高層の建物の階段室を突出させて塔にするのが流行のようだ。
 古いものと新しいもの調和は決して難しいことではないはずだ。疑洋風建築の高梁キリスト教会や郷土資料館(元は小学校だった)も、できたばかりの明治の頃は調和してはいなかっただろう。しかし今では美しい風景の要素として、町並みをひき締めている。

 高等学校の足元から昔の武家屋敷町が広がり、石火矢町は白壁土塀と門構えの続く典型的な町並みだ。この町並みを北に見通すと、緑の濃い臥牛山をバックに御根小屋の石垣があり、それに向かって武家屋敷の土塀がつづいて、なかなかに格好つく伝統的風景である。ただし、その正面に先程の高校の校舎が構えていて、その環境に不釣合なデザインをなんとかならないものかと気になる。
 映画寅さんシリーズの舞台に高梁は2回とりあげられた。妹さくらの夫の生家がこの武家屋敷の中にある、という設定だった。白壁塀の門から渥美清が飛び出す向こうに、伯備線の蒸気機関車が迫るシーンがあった。

●商家の町並みも素晴らしい

 城主の館に近い山寄りの地域は武家屋敷町だが、そこから南に高梁川に平行して商人町が続く。新町、本町、鍛冶町、下町などには、今も伝統的な町家が軒を連ねている。
 この町並みを建築史の専門家として調査した東京芸術大学の志村直愛さん(三十四歳)に、高梁の町並みの価値を聞いてみた。
 「町のシンボルの高梁川と松山城が、町並み の姿に大きな影響を与えているのが読みと れますね。江戸時代からの商家や商人町独 特の短冊状の地割に、平入り屋根が続く町 並みは、よく城下町らしい風格を伝えてい て美しいし、歴史的にも貴重です」
 これら商家の町並みは、武家屋敷ほどには保全策がないために見かけは悪いが、よく見ると実はかなり立派なものである。これ程に立派な伝統的建築群の風景が、電柱電線、街路灯、看板などの陰に隠れているのは、宝の持ちぐされでもったいない。看板を外すだけでも美しい町並みが出現するから、商店街でぜひ試していただきたい。
 商家の伝統建築に混じってところどころに教会、写真館、医院など、戦前のしゃれた洋館風建物があるのも面白い。それらを発見しつつ歩くと楽しい街だ。

●「不適塾」の人たち

 ちょっと面白い活動を紹介しよう。藤森賢一さん(六十七歳)は、「不適塾」の塾長だ。藤森ファンの大人たちの学習塾のようなものらしい。始めてから10年、全国各地から講師をよんで月例の公開講座そして飲み会をやる。
 藤森さんは昔は県立高校の国語教師だったが、今は高野山大学の国文学の教授である。地元にも全国にも教え子や友人が多くいるので、その中から無報酬でやってきて講義してくれる人を選ぶのだそうだ。
 藤森ファンを中心に市民があつまる私塾で、地元にいる教え子たちが事務局を務める。
 塾の名前の由来は、江戸時代の備中出身である蘭学者の緒方洪庵主宰の「適塾」がもとにあることはいうまでもない。不敵にも「不適」塾と名づけたのは、藤森先生一流のシャレであり、へそ曲りでもある。
 藤森塾長はいう。
「まちづくりおいても、値打ちあるものと無いものを見分ける『眼』が大切。いろいろの分野で専門の学問をしている人の考え方 や生き方を聴いているうちに、『眼』が自然に身についてくるのを期待しています」
 事務局も手弁当なら講師も手弁当で全国からやってくる。毎月の会が10年も続いているのは大変だが、手弁当だからこそだろう。太い人脈の尾根が、狭い盆地の中から全国に続いているのだ。

不適塾の人々

伝統的町並みの軒線から突出するマンションには、道路からバックして建っているものがおおい。その引き具合と搭状の姿が、新たな調和を生み出すような、なにかうまい手はないものか。

案外、ハイデルベルクならぬイタリアの塔のある町で有名なサン・ジミニヤーノ風にするのも面白いかもしれない。

南北に長い高梁の町の南半分は、昭和以後の新しい街であり、新開発はこちらに今も続けられている。北半分が個性的であるのに比べて、こちらはどこの都市にでもある風景だ。

JR高梁駅のあるこちらは街の玄関でもあるから、それらしい風格のある風景がほしいものだ。それは北半分の伝統風景を真似するものでなくて、新しい装いであってもよい。

●風景を守れるか都市計画

中心街はサツマ芋のような形の盆地だ。北端に山城の天守閣の城山、その麓に城主の館、そこから武家町、町人町が南に向かって細長く広がる。

道が屈曲する交差点が随所にあって、城下町特有の形を残している。しかし自動車時代になって、このような鍵折れの辻は次第になくなりつつある。

この町の風景を大切にしようと、今年から『町並み建築デザイン賞』が始まったという。伝統的なまちなみにマッチした新しい建物ばかりでなく、古い建物や塀を町並みに調和して改装・修復したものも選考の対象とした。

まちづくりの話を、市の文化財保護審議会委員の平見郡司さん(六十歳)に聞く。

『この賞は商工会議所が主体になってやりましたが、これがきっかけで、町並み保存が市民の考えにも入ってきましたな』 その町並み保存と都市計画とが連動しているのでしょうか、という問いに、平見さんの答えはちょっと意外であった。『実は昨年に都市計画の地域指定の見直しがありましたが、原案を見てびっくり。頼久寺庭園の借景となる地域に今よりも高い建物が建てられる変更案だったんですよ』
 頼久寺とは、江戸時代の幕府官僚の造園家であり建築家として有名な小堀遠州が、江戸初期この町に一時滞在していた寺だ。そこに彼のデザインになる美しい庭がある。
 ツツジの大刈込みの向うに木立ちがあり、その背後に愛宕山が借景としてそびえ、小さい庭なのに雄大な造型である。その借景に異物が見えては庭園は台無しだ。慌ててあちこちに働きかけて、もとのようにしたという。都市計画は、都市の風景を壊すこともできるし、守ることもできるという例だろう。

●珍しい山城の復元

 盆地北端の小高く険しい臥牛山頂には、天守が昔のままに建っている。備中松山城とよばれるこの城は、1873年に廃城令が出ても山上にあるために、幸運にも取り壊しを逃れて放置された。それが重要文化財となり、今や市のシンボルだ。
 今から30年ほど前、日本のあちこちでコンクリートの天守閣を建てる流行があった。最近またお城ブームのようで、今度は木造で建てるのが流行らしい。最近、この天守の周辺の櫓や門などが復元されて、ここもお城でまち起こしだ。城も素朴なつくりでなかなかよい。この山のうっそうと繁茂する森の中には、野生の日本猿群も生息する。

●明治の洋風建築

 この山の麓には御根小屋と呼ばれた城主の館があった。堂々たる石垣や土塀を巡らせて、ハイデルベルクの城塞と地形的にはそっくりだ。今は県立高校の無粋なコンクリート造の校舎が立ち並び、あちらの古城とはくらべようもない。
 そう言えば、昔ここには旧制中学校時代からの明治建築の疑洋風木造の本館校舎があったが、あれはどこに行ったのだろう、まさかあの立派な建築を壊してしまったのでは…。
 同じ岡山県内の津山高校の本館が、NHK朝の連続TV小説「あぐり」の主人公の学校として出た。あちらは残って国指定の重要文化財となっている。
 校内に今も残る木造洋風建築は、門の脇に有終館とよばれるかつての図書館があり、ちょっと可愛らしいデザインである。

☆(高梁の街並み今昔比較はこちら)

●寅さんの義弟の武家屋敷

伝統的町並みの軒線から突出するマンションには、道路からバックして建っているものがおおい。その引き具合と搭状の姿が、新たな調和を生み出すような、なにかうまい手はないものか。

案外、ハイデルベルクならぬイタリアの塔のある町で有名なサン・ジミニヤーノ風にするのも面白いかもしれない。

南北に長い高梁の町の南半分は、昭和以後の新しい街であり、新開発はこちらに今も続けられている。北半分が個性的であるのに比べて、こちらはどこの都市にでもある風景だ。

JR高梁駅のあるこちらは街の玄関でもあるから、それらしい風格のある風景がほしいものだ。それは北半分の伝統風景を真似するものでなくて、新しい装いであってもよい。

●風景を守れるか都市計画

中心街はサツマ芋のような形の盆地だ。北端に山城の天守閣の城山、その麓に城主の館、そこから武家町、町人町が南に向かって細長く広がる。

道が屈曲する交差点が随所にあって、城下町特有の形を残している。しかし自動車時代になって、このような鍵折れの辻は次第になくなりつつある。

この町の風景を大切にしようと、今年から『町並み建築デザイン賞』が始まったという。伝統的なまちなみにマッチした新しい建物ばかりでなく、古い建物や塀を町並みに調和して改装・修復したものも選考の対象とした。

まちづくりの話を、市の文化財保護審議会委員の平見郡司さん(六十歳)に聞く。

『この賞は商工会議所が主体になってやりましたが、これがきっかけで、町並み保存が市民の考えにも入ってきましたな』 その町並み保存と都市計画とが連動しているのでしょうか、という問いに、平見さんの答えはちょっと意外であった。

○高梁市のデータ

・岡山県の西を南北に流れる高梁川中流にある。市域の大部分が吉備高原の山間部だが、中心街はかつての備中松山藩の城下町で、歴史的雰囲気の濃い盆地である。

・行政人口は2万6千人で減少傾向。

・JR伯備線で岡山駅から特急「やくも」に乗って34分、中心街の備中高梁駅に着く。この他に市内に4駅ある。

・中国横断自動車道路の賀陽ICから12分。

○まちなみ

・まちなみ保全形成施策-高梁市環境保全条例。岡山県景観保全条例による景観モデル地区指定。岡山県指定石火矢町ふるさと村。 町並み建築デザイン賞制度。

・主な伝統町並み-武家屋敷群(御前町、石火矢町・中之町)。商家群(新町・本町・下町)。紺屋町美観地区。社寺群(街の東 の山裾一帯)。

・近代洋風建築-高梁キリスト教会堂(柿木町)、高梁市郷土資料館(向町)、高梁高校有終館(内山下)。

・隣りの成羽町吹屋に、ベンガラ問屋商家の町並み(重要伝統的建造物群地区)。

○名所

備中松山城(内山下)、頼久寺庭園(頼久寺町)、松連寺(上谷町)、

○祭り・行事

松山踊り(8月14日~16日)、近似稲荷祭礼(12月第1土・日曜日)、御前神 社・八幡神社秋祭り(10月第2日曜日)○美味、名品

高梁川の天然鮎料理。ゆず味の懐かしい和菓子「柚餅子」。ひな人形。五万石味噌。

注:小論は、雑誌「まちなみ建築フォーラム」(1997.12 建築フォーラム社)に掲載した。ただし、写真は本サイトに掲載にあたって差し替えている(010103)。