父の15年戦争/伊達美徳

第2章 異国・満州事変1
新京・敦化1933年

1.戦争手記とその背景

●二つの手記

 真直の遺品に、満州派遣軍第十聯隊第十一中隊通信班として、はじめての中国戦線での『昭和八年二月渡満状況日記』と『熱河討伐奮闘日誌』の2種類の日誌がある。

 前者はB5版、縦遣い、縦罫線の便箋15枚にペンで書いているが、初年兵日誌の記述と比べると、明らかに後に清書している。写真、新聞記事切り抜き、紙幣が貼り付けてある。
 
後者はB5版の縦遣い横罫線用紙を、横遣いにしてペンで縦書きしている。前者と同様の後の清書であるが、どちらかといえばこちらのほうが用紙が新しく見える。

 二つの手記の内容は日付が一部同じであったりして、判然と分けてはいないが、両方をあわせて1933年2月1日から4月29日までの記録である。ここでは日付順にならべなおして、整理して解読する。

 これらがどのような動機で清書されたのかわからないが、推測すると、戦友会の集まりや記録を作るときに、その当時のメモか日誌を見て書いたのであろう。修辞がいかにもありふれているし、辞書を見て書いたとしか思えない難しい字もあって、かなり表現には脚色があると見なければならない。

 解読するに当って、基本的な事実内容に関しては『歩兵第十聯隊史』、『岡山郷土聯隊史』及び『軍歴書』と照合したが、ほぼ間違いないようである。

●満州事変

 1931年9月18日に、中国の奉天(現・瀋陽)の近くで、日本が権益を持つ南満州鉄道爆破事件がおきた。いわゆる柳条湖事件である。
 これは鉄道警備を名目に遼東半島に配備していた日本軍(関東軍)が、中国で日本の権益拡大を図り、中国東北地方の満州地域を占領して植民地にする意図で、戦火を拡大する陰謀事件であった。

 関東軍は、中国軍が鉄道を破壊したと称して、鉄道等の満州地域の権益保護の名目で出動した。1932年3月に満州国を独立させると、日満議定書にある軍事防衛支援条項に基づいて、その領土保全の名目で当時の中国国民党政府軍と戦闘になった。
 形式上は満州国軍と中華民国国民政府軍との戦いである。だから日本の宣戦布告はないので、戦争といわずに事変とよんだ。

 日本政府は不拡大の方針であったが、現地の関東軍はそれを無視して中国領内に侵略を進める。奉天からハルピン、熱河省、ソ連国境へと戦火は拡大して行く。1932年5月のタンクー停戦協定まで続く「満州事変」となった。これが1945年の敗戦まで続く長い「日本の十五年戦争」の始まりであり、「真直の十五年戦争」でもあった。

 この満州事変に、真直の所属した岡山歩兵第十聯隊は、1931年12月から1934年5月まで派遣され、錦州占領作戦、松花江作戦、拉林作戦、同賓作戦、東境作戦、熱河作戦、間島地区討伐戦に参加している。真直は1933年2月から熱河作戦と間島地区討伐戦に通信兵として派遣された。

 真直が参加した「熱河作戦」の熱河とは、一般に満州といわれる奉天省などの東3省と北京・天津の中間にあって、その頃よく言われた「満蒙」地域の蒙つまりモンゴルにあたる。
 満州を領有もしくは独立国にしようとする日本の意図として、東3省を制圧した関東軍は更に領域拡大を求めて熱河省に侵攻、万里の長城までの地域を確保する戦闘であった。
 約10万名の兵の日本軍は、約20万名とされる張学良軍等を相手に勝ち続けて、1ヶ月ほどで熱河省の南境界線である万里の長城ラインまで占領してしまった。

 更に勝ちに乗じて長城ラインを越えて満蒙地域とはいえない河北省に入り、蒋介石軍と戦いつつ北京(当時は北平といった)にまで侵略を進めていった。不拡大方針であった政府は、関東軍の行動をあとおいで追認した。
 1933年5月、タンクー停戦協定が結ばれ、その結果は熱河省を満州に組み入れ、万里の長城を境界線とする日本側の言い分を、無理矢理中国側に受け入れさせたものであった。

 満州事変と満州国は国際的な問題となり、列国の非難の中で日本は、1933年3月には国際連盟を脱退したのであった。これら一連の事変を日本のマスコミも一般市民も快挙とはやし立てたが、日本の国際的孤立が進む。

 ロシアを含む西欧列強のアジア進出に日本が脅威を感じて、日本列島の周辺諸国を領土に加えて補強し、更に中国本土やアジア諸国に歩を進め、強引で身勝手な軍事的指導力を発して、アジア諸国諸地域から反発を買って自滅した時代に向かうのである。

 そのようなときに真直は軍隊に加わったのだから、まさに十五年戦争時代の最初からかかわることになった。平時ならば、この年の暮に2年の兵役満期で除隊するはずが、満州事変が起きたために、真直は中国戦線に派遣されることになるのである。本人も父親も御前神社関係者も、さぞがっかりしたことだろう。

2.満州 1933年2月1日~2月11日

●岡山出発、宇品出帆

 1933年1月1日に、後に真直も入ることになる熱河省と河北省の境界線である万里の長城の関門・山海関で日中衝突が起きて、日本軍は万里の長城の線を越えて中国領に侵略した。中国側の張学良軍は硬化して、長城線を巡ってたびたびの戦闘が起きた。
1933年1月11日に武藤関東軍司令官は熱河平定作戦を決定し、1月28日に熱河省の抗日勢力を一掃して完全平定することに決した。

二月一日、午前八時五十分、岡山歩工兵一千余名、勇躍岡山駅出発、渡満の途に付く。無事広島着。
三日 御用船宇品丸二二一八屯乗船す

 2月4日に閑院宮参謀長からの熱河作戦裁可上奏に対して、天皇は「関内に進出せざること、関内を爆撃せざること」の二条件のもとにこれを裁可した。満州国政府は対熱河総司令部を設け、2月18日熱河討伐の声明を出し、22日関東軍は熱河省内の中国軍に対して24時間以内に撤退することを要求した。中国側は23日に要求を拒絶、関東軍と満州国軍は連合して熱河進攻作戦を開始した。

 これらに対応するように、真直は1月30日に熱河作戦に参加する満州派遣軍第十聯隊第十一中隊通信班の兵として編成された(自筆履歴書)。熱河作戦は、広い熱河省の各地で戦闘を行なうものであったが、真直の隊は南東部の河北省との境界にある界嶺口という万里の長城の関門を攻略する戦いに派遣される。

 真直の遺品の中に『昭和八年十二月調製 歩兵第十聯隊通信版住所録』がある。これは多分、12月の除隊のときに作ったものであろうが、計81名が載っている。幹部は通信班長以下9名で、班長は中尉・馬杉一雄とある。真直は「三年兵の部」40名中の一員である。

 1月に出発前に高梁に帰郷して外泊し、神社の前で写真を撮っている。2月に岡山駅を列車で出発して広島まで行き、当時の軍港の宇品港から初めての海外航路である。

 このころヨーロッパでは1月末にドイツにナチス政権が成立した。日本では2月20日にプロレタリア作家の小林多喜二が特別高等警察に惨殺される。暗い時代が始まろうとしていた。

●朝鮮半島北上

 真直たちは釜山に上陸、列車で朝鮮半島を縦断して北上を開始する。

四日 午前五時釜山上陸、龍頭山神社に参拝す。午後四時、防寒服及実弾百二十発を身に付け、これで戦争ができるかどうか疑われる。直ちに乗車出発、各駅にて内鮮人の歓迎を受けつつ大邱に到着す

五日 午前十時水原通過す。一番に目を引くものは上流鮮人の白色絹服はとても美麗だ。次に家屋、丸い豚小屋同然の原始時代を思わせる。北上するにつれ次第に寒さ加わり、池水凍結し、結氷上を自転車にて横行するを見る。

 風景を珍しく思いつつ、また朝鮮在住の日本人や現地人たちが歓送迎してくれるのを感激している。日本が朝鮮を併合して植民地にしたのは、真直が生まれた1910年であった。それから23年経って、「鮮人がかくも融和されているとは意外だった」と感想を書いている。

 しかし、1919年の三・一運動のような大規模な独立運動がおきて朝鮮総督府が鎮圧したし、1932年1月には東京で朝鮮人による天皇テロ未遂事件があったように、表向きに見るほど実際は融和されているのではなかったはずで、歓送迎の動員がかかっていたであろうと推測もできる。

 その一方では、満州地方は朝鮮と接していて多くの朝鮮人が植民していた。後に真直が派遣された間島はその典型的な地区であった。朝鮮族と満州族や漢民族とのあいだに軋轢があり、事件もおきていた歴史的経緯もあるので、日本軍の満州への派遣を歓迎した面もあったのかもしれない。

●新京 2月7日~12日

 鴨緑江を渡って満州に入り、奉天(瀋陽)を経て新京(長春)に、日本を出てから3日目に到着した。
 防寒具を着ても鼻からツララが下がる寒さに驚いている。実際に現地の中国やモンゴル兵が綿入れ1枚で戦うのに、日本の軍隊は着ぶくれていて行動が鈍くなったそうである。九州からの部隊長は寒さを理解できずに軽装を命じて、兵隊がみな凍傷になったこともあるという。
 真直も渡満前と後の服装の写真を、日記に貼り付けている。

二月七日 午前四時半、新京到着。それより防寒具を着し吹雪をついて三里の道を行軍した。呼吸を雪にて防寒具の毛の部分にツララがさがり、鼻には氷張り、水筒の水が凍った。これくらいの寒さは大変暖かいそうです。雪は三、四寸積っている。南領兵営に到着す。

 新京では南領兵営に入ったが、新京の駅から南に12キロとあるから郊外の分屯地であろうか。

「1個分隊などで守備している小さな分屯地では、全員が家族のような生活をしている。炊事係はジャガイモの皮まで丁寧にむき、新婚の女房など足元にもよれない凝った料理を作って仲間に食べさせたりする。その代わり、敵に計画的に狙われたら、全滅してしまうかもしれない」(『兵隊たちの陸軍史』)

 実際、この南領では「記憶未だ新たなる倉本大尉以下将兵30有余の英霊が花々しく護国の神と化した南領」(新聞切り抜き・後出)という事件があったのだ。
 この倉本大尉から伊達鹿太郎宛の書状(印刷物)が、日記に貼り付けてある。歩兵第十聯隊第十一中隊長に就任した挨拶状であり、日付が2月24日となっているのを見ると、前後関係から判断して倉本の死後であるようだ。真直は中隊長以下30名もが戦死したほどの危険な戦場地域に赴いたのである。

●高梁中学同窓生の戦死

 2月7日に着いて早々の10日には、真直の所属する通信班に早くも戦死者が出た。通信兵として不通となった電話線の修理に出て敵襲にあって、高梁中学同窓生の兵が死んだ。

二月十日 我が通信班電線不通となり、保線に向いし処、敵匪の襲撃を受け、花々しき戦死をなした高梁中学校出身、川上郡落合村出身の森下重弘伍長の記事は、去る二月十一日新聞に発表の通り。詳細は高中長谷川と組む曹長宛て報告せり。

 真直はこれに同行していたのであろう、目の前で弾に倒れた瀕死の仲間の様子を、母校の高梁中学校の軍属教師に手紙を書き、それが新聞に載ったことを書き、その新聞の切抜きが貼り付けてある。いつの何新聞か分からないが、記事の初めに「上房」とあるのは、当時の上房郡高梁町の上房のことであるから、山陽新聞の地域欄であろう。
 故郷の新聞の切抜きがあるとは、この日記はかなり後に書いたものとなる。いかにも当時の戦時鼓舞の風潮に沿う書き方であるのは、新聞記者の手が入っているのかもしれない。以下は貼り付けてある新聞の切り抜き記事の全文である。

====上房====

電線を修理中敵弾に斃る 南領犠牲者森下伍長の最期 戦友、戦闘詳報を寄す

記憶未だ新たなる倉本大尉以下将兵30有余の英霊が花々しく護国の神と化した南領に於て去る十一日惜しくも匪賊の凶弾にあたり軍国の花と散った岡山県高梁中学校出身森下伍長戦死の情報が戦友の在満歩兵第十聯隊通信班の伊達真直君より去る十七日高梁中学校教官長谷川特務曹長に宛てて詳細に通報されたが全文左の如くである。

(前略)昭和八年二月十一日紀元節の日午後八時我々通信手の命とも亦軍の命脈とも頼む電話線が不通となったが断線の徴候との事で報に接した森下上等兵は任務を班長馬杉中尉より受け兵四名の長となり勇躍保線に出で破損箇所を探索し発見修理中俄かに植林中より銃声起り直ちに応戦、錯雑地を前進せし折、突然凹地より討たれる一弾は森下上等への頚動脈を打ち抜きドッと倒る。「森下しっかりしろ」「俺は駄目だ!俺に構わず敵を殺つけて呉れろ」「うんよし、仇を討ってやる暫く待て」「天皇陛下万歳」倒れた森下上等兵を捨てて逃ぐる敵を追撃したが残念ながら取逃がしてしまった(中略)森下上等兵は頭脳明晰にして通信班中に特に秀で昭和六年兵中首位を占め通信職務も上官の命のままに勉励し、犠牲的精神に富み衆の模範とするに足る人物であった(以下略)

長谷川特務曹長殿     伊達真直

●敦化 2月13日~2月21日

 2月13日に新京の南領兵営を出発して、聯隊本部のある駐屯地の敦化に移った。記述日の前後関係がはっきりしないが、その駐屯地のある敦化の街の様子を真直が書いている。

夜は物騒にて到底ひとりでは歩けない。昼も気持ちよくない。支那人の家に入ると大変臭い臭いがする。支那娘を『クウニャン』と言う。婦人はあまり出て歩かない。水のないのに困ります。たまにある水も歌にあるとおり泥水にて、わかした水でなくては飲めぬ。一番困るのは洗濯のできぬのと入浴できぬことです。物価は大変高い。サイダー二十銭、パイナップル三十銭、柿二銭、内地一銭饅頭2銭、塵紙一帖2銭、ゼンザイ十銭、ウドン十銭、内地の倍額、安いのは煙草のみ五銭か十銭

 この「歌にあるとおりの泥水」の歌とは、軍歌であろうとWEBをさがすと、「父よあなたは強かった」なる歌がある。歌詞の一番は、「父よ彼方は強かつた/兜も焦がす炎熱を/敵の屍と共に寢て/泥水啜り草を噛み/荒れた山河を幾阡里/善くこそ撃つて下さつた」とある。

 わたしはこの歌の哀調をもつ旋律をおぼろげに覚えている。2番以降も夫、兄弟、子が戦地で苦労し死ぬ様を歌うので、士気を鼓舞する軍歌とは言いにくい。ほかには「泥」のある歌は見つからなかった。

 ところが、この歌は1939年1月コロンビアレコード発売とあるから、この日記の時点よりも6年後である。朝日新聞が戦意高揚のために歌詞を一般募集、作詞者は女性である。もしもこの歌の「泥」なら、記述時(清書時)はかなり後になる。

「内地の兵営生活から戦場の駐屯地へ移ってくると、兵隊は緊張と解放感を同時に感ずるものである。内地の兵営には、きびしい拘束、一定区域内に閉じ込められた生活しかないが、その代り生命の危険はない。駐屯地では兵営的制約を条件とした建物はない。多くは学校や民家を改造した建物を兵営とし、形式的な点呼などはあるが、面倒な検査や検閲はない。就寝起床もうるさくはいわない。その代りつねに生命の危険は付きまとう。敵地の人民が隣接して住んで住んでいるのである。・・・(駐屯は)周辺地区の治安維持を図る、という重要な任務がある」(『兵隊たちの陸軍史』)


3.熱河作戦へ出発 1933年

●敦化出発、奉天、綏中へ 2月21日~3月5日

 関東軍の武藤司令官は2月11日に「熱河経略計画」を決め、各部隊幕僚を集めて「熱河省をして名実共に満州国の領域たらしめ、且満州国擾乱の策源たる北支(張)学良勢力の覆滅的機運を醸成促進し、以て満州国建国の機運を確立するにあり」と示達をした(『日中戦争2}児島襄1984文芸春秋社)。

 この熱河省を攻略して満州に完全に取り込む熱河作戦で、真直の隊は東南の綏中から河北省との境界線である万里の長城の界嶺口に派遣されたが、もちろんこのほかの長城の関門や熱河省各地(赤峰、承徳等)に日本軍は兵を出していった。

 2月21日に渡満目的の熱河作戦に行くために、真直たちは敦化の聯隊駐屯地を列車で出発、新京を経て、22日に奉天に着いて奉天警備隊の兵舎に入り、月末まで準備で過ごした。

 混成第三十三旅団(中村馨少将)に編成されて3月1日未明に奉天駅から京奉線に乗って出発、夕方に熱河省南東部の綏中に着き、駅から4kmの城外の廃寺に宿営した。城外とあるように、中国の諸都市は城壁で囲んでいた。通信班として直ちに聯隊本部と旅団司令部間の電話線の架設をし、電話当番などで大忙しであった。

 真直たちはこれから世界最大の城壁である万里の長城の攻略に向うのである。日本では満州と中国との国境と考えていたが、中国側にとって満州も中国だから根本的に考えが異なる。
 3月2日に関東軍司令官武藤信義は、関作命第479号を発し、「混成第三三旅団長は熱河省内東南部に作戦し、所在の敵を撃破して清川沿(含む)以東における長城の重要関門(九門及び山海関を除く)を確保し、第八師団の作戦を容易ならし」めるように命じた。

 3月4日には「河省内主要反抗勢力概ね壊走せるを認め、速やかに長城の重要関門を確保して北支方面に対し戦備を整え」るように指令した。
 このときから5月25日の停戦までの3ヶ月にわたる戦いを「長城抗戦」と中国ではよんでいる。日本軍は予期しない中国軍の頑強な抵抗にあって、苦戦を強いられた(『華北事変の研究』内田尚孝2006汲古書院)。
 こうして真直の隊が属する混成三十三旅団は、長城の議員口と界嶺口で戦うことになった(『日中戦争2』177p)。

●峠越え強行軍 3月5日~15日

3月5日には電話も撤収して、いよいよ歩いて行軍開始である。雪の積る白銀の荒野に軍隊の列が延々と連なって行進する。1時間ごとに休憩しつつ6時間半の後に「小城子の牛小屋のような所に重り合い寝」る。

 次の日から山また山に入り、氷結する川をすべりながら渡り、敵と戦いつつ進む。しかし、急坂の難所で荷物を積んだ車が進めなくなる。狼頭嶺という難所は人力で荷物を運ぶ難儀をしつつ、2日がかりで峠越えを終り、上下道房子という集落に泊まる。このとき出発して以来、初めて飯を炊くことができた。

 8日は大土領の峠にかかって、また難渋しつつ全車両を通して梨樹鎮で宿営。9日は「午後一時満州国境を越え、支那河北省に入る」と記しているが、熱河・河北両省の境界は万里の長城でまだまだ先であるはずだから、勘違いだろう。 この日は乾興鎮の商家を宿営とした。『歩兵第十聯隊史』には、「3月9日乾興鎮を占領」と記述があるから、入城前には戦闘があったのかもしれない。

 3月11日早暁に乾興鎮を出発、「車両と共に重い軍装を負い、とろとろと十余里の道を血の出るような行軍を続け」て、午後4時に大坐嵐に着く。ここでも戦闘があって夜中に出発して強行軍である。銃声の中を1時間歩いては10分寝ながらすすむ。

 12日早朝に双山子をすぎて万里の長城に二里半程の馬圏子に着く。

三月十二日 夜間急行軍で、重い足も銃声に気合はかかったが、やはり寝ずにはやれない。一時間ほど歩いて十分の休みの間、早やとろとろとまどろむ状態だった。午前六時双山子を過ぎ、万里の長城に二里半程の処にある馬圏子という所に着く。いざという時にはすぐ出られる様に戦闘準備を整え、前後左右に壕を構築し敵襲に備える。乗馬討伐隊は神宮寺中佐以下十三名の死傷者を出し、藤井少尉は戦死とのこと。左の山上に対空通信連絡のため、沖君以下私等四名登り、発煙筒をたいて連絡したが、友軍機の応答なく連絡できなかった。右方に万里の長城が見えた。

 1933年2月24日には、スイスのジュネーブで日本は満州国問題で諸国と対立して、国際連盟を脱退したのである。この事態に至る直接な国際的非難は、真直が戦っていた熱河省侵攻作戦であった。孤立する日本への第1歩であった。

 ところでこの3月3日に、日本の東北の三陸地方で大津波が発生して、1500人以上も死者が出る大災害が起きた。新聞はそれまでは中国戦線の記事でいっぱいだったのが、そのときから毎日が三陸津波災害記事で埋め尽している。

 後の太平洋戦争末期の1944年12月7日に、東海地方で1200人以上の死者が出た東南海地震について、当局は「戦局苛烈な折、国民の士気を阻喪してはならない」と実情報道を禁じて、翌12月8日の朝日新聞は「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく、郷土防衛に挺身する必勝魂は、はからずもここに逞しい空襲と戦う片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」とあるのと比べて、満州事変時代はまだ少しは健全であったとも言える。

●略奪

日誌に紙幣が貼り付けてある。

この紙幣は李社討伐の際、横領せしものなり。今尚通用すれども軍人間にては厳禁せられあるにつき、記念のため送付す

 自分で横領といってしまっては、みもふたもない。貼り付けてある前後から判断して、敦化の駐屯地から李社という地区に出かけて中国軍と戦ったときに、民家で略奪したものということになる。「送付す」とあるから、高梁の家に記念品として送ったのだろう。この紙幣の由来は分からないが、いまとしては骨董的価値があるのだろうか。

 中国人集落のある地域での戦闘では、日本軍だけではなく中国軍の張学良の兵隊も退却にあたって食糧や金品略奪を繰り返した。相手は銃器を持っているだから民衆としてはどうしようもない。どちらの兵隊が来ても地域住民には迷惑なことであり、そのときそのときにやってくる軍隊に迎合して、日の丸を振ったり晴天白日旗を振ったりして生きていた。

 そもそも陸軍では中国戦線での食糧は、現地調達が基本であった。武器の調達さえも鹵獲武器といって、敵のそれをいかに沢山奪ってきてこちらで使うかが重要な戦術であった。略奪は物品ばかりでなく、住民たちを拉致して力仕事を手伝わせ、作業が終わると殺したりもした。
 
ただし、帝国陸軍としては、対価を伴わない徴発(略奪)は認めていない。だから作戦が終わると対価を支払ったことにして受領証を偽造し、軍経理部の検査に対応した(「通信隊戦記」光人社)。

●兵站軽視の日本軍

 日本の陸軍では、「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」などと輸送部隊を軽蔑する歌があったように、戦場に武器や食糧を輸送する兵站を軽視する傾向があった。

 後に中国軍はこれを逆用して日本軍に略奪品を残さないように、撤退するときには家屋も食糧も燃やしてしまう焦土作戦をおこなった。日本軍は広い中国大陸内部で苦戦する。

 その兵站軽視で、真直の熱河作戦でも前線の食糧不足となって、現地徴発つまり農民から略奪した記述がある。

三月十五日 連日の疲労で七時半頃までも寝た。食糧欠乏にて粟の粥をはじめて食べたが、馴なれないと食べられない。部落中を、梨、野菜、芋等を地中に深く、井戸のように支那人はしまっているので、捜しまわって漸く見つけ掘り出し、三十貫目くらいはあったと思う。久しぶりに芋を蒸して、舌つづみを打った。ニーコーが種芋だけは残してくれと哀願していたのがあわれだった。馬糧の高粱飯もたいて食べた。

 「あわれだった」と言いつつも「種芋だけは残してくれ」とのニーコー(当時の日本人の中国民への蔑称、チャンコロという中国軍への蔑称もあった)の哀願をはねつけての食糧略奪の記述は、あの温厚だった真直さえも戦場ではこうなるのかと思うのである。

 後のことであるが、太平洋戦争の南方戦線では、中国での略奪方針を反省して、軍票や通貨を必ず支払うようにしたので、タイやビルマでは民情がよかったところもあり、そのために住民に敗退時に助けられた日本兵たちもあった。

 しかし杜撰な補給計画はあいかわらずで、戦闘による戦死者よりも餓死者や戦病死者を数多くの出したのであった。その悪名高い戦場は、フィリピンのルソン島(ここでわたしの叔父が戦死した)とレイテ島であり、ビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦である。飢餓の果てに人が人を食う凄惨なことも実際にあったという。

 熱河作戦の真っ最中の出版物『熱河討伐及熱河事情』(新光社編集1933年5月発行)を見つけた。その内容は、「熱河問題の経過」(東京朝日新聞記者太田卯之)と、「熱河討伐戦の経過」(陸軍新聞班長陸軍歩兵大佐本間雅晴)で、3月末までの諸事情と戦況などが書いてある。研究者でもない俄か勉強のわたしには、新聞記事のほかには後世の資料しか行き当たらないが、このような当時の資料をその後のなりゆきを知っている現代からの望遠鏡をもってのぞきこんで読むと、そのギャップというかチグハグさがなんとも面白い。
 さて、このあとは、真直の十五年戦争の中で、最も危ない激戦であった界嶺口の戦いに臨むことになる。

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