横浜都心「関外」風景の
変化を見つめるこの12年

<徘徊人> 伊達美徳

●鎌倉を逃げ出して横浜都心に隠棲中

鎌倉田舎の谷戸の中から脱出して、横浜都心の関外地区に引っ越してきたのは2002年の秋であった。かつては横浜一番の繁華街であった伊勢佐木モールの近くである。

関外とは、関内の対の言葉であるように、開港時の外国人居留地への出入りの関所の内が関内、その外が関外である。JR関内駅を中心とする山と海に囲まれたエリアの、線路から海側が関内、陸側が関外である。開港期からずっとこのあたりが横浜の中心地であった。
 江戸時代は入り江だった海を、開港からこちらの時代につぎつぎと埋め立てて造った、ズブズブの土地である。

 引っ越して7年くらいは東京の仕事場に通っていたが、だんだんと隠居生活に移行して、いまではまさに都心隠棲して、街なか徘徊する日々である。
 鎌倉の家はわたしの設計によって建てた木造の家であったが、横浜関外では県公社賃貸経営の共同住宅ビル7階にある空中陋屋の借家である。いわゆる分譲マンションではなくて、積極的にこの一棟全部が借家であるビルの一角を選んだ。
 それから12年、関外地区は変わらないようでいて、かなり変わってきている街である。ご近所探検隊と称して、わたしひとりの隊員が関外や関内、みなとみらい、山手などの街なか徘徊を続けて、その変転を楽しんでいる。

●なぜ鎌倉脱出かの言い訳はこちらhttps://sites.google.com/site/machimorig0/home/kamakurasyunju07.pdf?attredirects=0&d=1

●なぜ借家かの言い訳はこちら

https://sites.google.com/site/machimorig0/home/sibata04.pdf?attredirects=0&d=1

●横浜街なか徘徊の記録はこちら

http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_12.html#yokohama


◆落ちぶれていくのか「伊勢佐木モール」

 横浜一番の繁華街を言われてきた「伊勢佐木モール」であるが、その表通りや裏通りはわたしに徘徊のお気に入りである。一番と言われてきたと過去形でいうのは、この12年間のわたしの観察では、一番の座はどこかに明け渡しているように思うからである。
 本当に伊勢佐木モールが横浜一番であったかどうか知らないが、昔からのいい方でいう一番とは、東京では銀座通り、大阪では心斎橋筋のように、伝統ある店舗、あるいは国際的な名店舗が、高級品を扱って競い合っている繁華街のことだろう。
 この10年ほどで伊勢佐木モールは、次第に街の品格が下がりつつあることは、わたしの目にも確かである。百貨店の松坂屋は無くなった。昔からの店といえば、有隣堂書店と不二家だろうか。ほかにもあるだろうが、横浜暮らしは昔もしたことがあるから延べ30年ちかくになるが、田舎者のわたしにはいまだによく知らない。
 品が下がるって言ったら、なにしろ、1丁目にある伝統ある百貨店の徹底後のビルを改装していると思ったら、場外馬券売り場が現れた。カレーミュージアムのビルが、いつの間にやらパチンコ屋になった。松坂屋が建てなおして専門店ビルになったと思ったら、中身はほとんど安売り屋ばかりである。いずれも1丁目、2丁目という表玄関の位置である。
 モール沿いに安売り屋が増えてきた。いずれもチェーン店の安売り薬屋、安売り靴屋、安売り古本屋、安売り衣料屋、なんでも百円屋、早食い屋、腰掛けコーヒー屋などが軒並みである。4、5丁目あたりはパチンコ屋だらけ。しかも真っ赤な色のビルが登場する。

 なんだかこのモールの行方が見えてくる、安売り街へ、風俗街へ、飲み屋街へとね。それじゃあ、曙町や福富町の延長なんですかねえ、庶民の安売りなら関外ではなんといっても横浜橋商店街でしょうよ。

伊勢佐木1,2丁目は、都市計画による地区計画をかけて、街の品格を守ろうとしているが、3丁目から先はどうなるのだろうか。

伊勢佐木1、2丁目の地区計画についてhttp://datey.blogspot.jp/2014/01/889.html

◆増えてきている「名ばかりマンション」

 この都心部で一番の変化をリードしているのは、部屋別分譲型高層共同住宅ビル、いわゆるマンションである。
 同じビル内で一戸一戸の持ち主が違って、貧乏人も金持ちも呉越同舟のビル住まいとは、なんだか民主的な感もあるが、管理が悪くて、地震で壊れるなどしたら、持ち主の数が多いだけに、文字通り立ち往生するアブナイビルである。
 なお、もともとのマンションとはアメリカ大統領のホワイトハウスのような住宅であるから、日本の不動産屋の誇大広告「名ばかりマンション」は、わたしは大嫌いである。
 関外でのその名ばかりマンションは、太いのもあれば鉛筆のような細いのもあるが、ここあたりは超高層建築はなくて、10~14階程度までである。
 横浜都心は戦災と戦後占領によって廃墟と化したが、戦後復興期に都心住居を上に載せた店舗併存の3~4階建て共同ビル群を建てて、今の街並みができあがっている。だから都心居住ビルはかなり普及している街である。
 今、その戦後復興期の街並みが老朽化して、高層共同住宅ビルに次々と建て替わりつつある時代を迎えている。わたしの住む空中陋屋も、まさにその建て替えた共同ビルのひとつである。そのビル群が、わたしの住む7階の空中陋屋からの風景を少しづつ変化させて行く様子を楽しんでいる。

 もっとも、もうすぐ大地震が来て壊れる可能性がある、壊れなくて使えなくなるかもしれない「名ばかりマンション」を建てる奴、買う奴の気がしれないのである。わたしの空中陋屋は一棟まるまる公的借家である。

●参照・くたばれマンション

https://sites.google.com/site/machimorig0/#tosikyoju


◆うちのバルコニーからの風景は初めの8年間は特に変化なし

 そのわたしの住む空中陋屋から見る風景に、二つの大きな変化があった。まずは、うちのバルコニーからの中景あたりに、高層共同住宅2棟が並んで建った。
 ここに引っ越してきてから、写真を撮ってきたので、その主な変化を古い順に並べて見ることにする。まずうちのバルコニーから真正面、2003年6月の風景、引っ越してきて1年目である。

 それから8年、特に変わりもなくて、これは2010年11月の風景の風景である。

 この風景の中で最も違和感があるのは、真ん中のビルの上にある真っ赤な日産自動車の広告塔である。無神経にも、夜になるとライトが当るのでもっと真っ赤に見える。これに腹が立って、以後、日産製の車には乗らないことにした。
 高速道路も違和感あるし、遠いとは言っても騒音がうるさい。山手の緑のスカイラインが、だいぶ共同住宅で乱されてきていることがわかる。もしも、日産真っ赤広告や高層道路そして山手スカイライン建築がなかったらこんな風景だろうなあと、こんな戯造風景をつくってみたことがあった。

●参照→「景観戯造

https://sites.google.com/site/machimorig0/keikangizo


◆変化が現れた2011年そして名ばかりマンションが出現

2011年の夏、その真っ赤な広告塔が消えた。ああよかった、せいせいした。

 と思ったら、その広告塔があったビルの取り壊しが始まり、キレイさっぱりなくなって空き地になった。こうなると新たな心配は、この跡地にまた大きなビルが建って、そこにまた広告塔が出現するかもしれないことである。例えばこんなのが、、、。

あるいはこんなヤツかもしれない、とか、妄想はつきない。

さて2013年の6月に、その空き地からなにやらキリンのように首を伸ばしたクレーンが見えてきた。いよいよビル工事が始まったか。

夏たけなわの頃、あれよあれよとビルが囲いに包まれて建ちあがってきた。そして、暮れには10階建ての高層ビルが姿を現した。更になんと、その左向こうにもうひとつ建ちあがったのだった。そばに行ってみると、どちらもやっぱり分譲共同住宅ビル、つまり名ばかりマンションであった。

 こんな高速道路の真ん前に向いている部屋なんて、うるさくてかなわないだろうに、だれが買うのだろうかとおもうのだが、買う人がいるから建てるのだろう。
 大震災だってもうすぐ来るというのに、これ買ってもすぐに建て直しになるかもしれないけど、懐具合は大丈夫なんでしょうなねえ(大きなお世話でしょうが)。
 というわけで、この12年間のバルコニーからの風景を、早回し活動写真(gifアニメ)で見ると、こうなるのである。

◆横浜都心あたりの人口はどうなっているのか

 このあたりは関外地区という。横浜都心は、伝統的にはJR根岸線を境に、北東を関内、南西を関外に大きく分ける。近ごろはこれにみなとみらい21地区と横浜駅地区を加える。

それらの地区の人口の状況を見よう。

 横浜都心部では、わたしが住んでいる関外地区出の人口増加が著しい。そのほかの関内、横浜駅周辺、みなとみらい地区は微増である。
 みなとみらい地区や関内には、超高層分譲共同住宅ビルがたくさん建っているから、激増の印象があったのだが、意外にも超高層ビルなどひとつもない関外が多いのは、どういうわけだろうか。
 もともと住んでいる人が多いこととともに、中高層の共同住宅が増えているということなのであろう。山手から見下ろすと、たしかに関外地区はとびぬけて高い建物はないが、中小ビルが密集している感がある。
 関外地区での人口増加のほとんどは、高層共同住宅ビルの建設による流入という社会増であろう。わたしも12年前にやってきた一人である。
 そしてまた、図に見るように関外の人口の高齢者層が他と比べて多く、若年層がすくないことが分る。つまり、わたしのような高齢層の流入が多くては、子づくり能力がなくて、人口の自然増は望めないということであろう。
 だが、わたしの観察では、新しい分譲共同住宅ビルで、狭いタイプの住戸(ワンルーム)もあるようだし、古い戦後復興建築の共同住宅は値段も安いだろうし、若い層が多いようにも思えるのだが、どうなのだろうか。

◆人口が増えているのに中学校が廃止に

 人口の高齢化を象徴するような風景の変化が、わたしの住まいの隣でおきた。社会増はあるが自然増が少ない、つまり幼年少年たちが少ない状況に来ているらしいことは、住まいの隣のブロックにある中学校が去年、廃校になったことに現れた。
 220人の生徒がいる中学校なのだが、横浜市教育委員会では、学級数が6クラスで小規模校(8クラス以下)同士の統合基準に当てはまり、その上、校舎が耐震性に欠けることで、廃校としたらしい。近くの別の中学校と合併して、2013年度から生徒はそちらに通うことになった。
 そんなわけで去年の春からは、あたりは静かになったし、体育で道を駆け回る少年少女たちがいなくなって歩くのが安全になったりして、それはよいのだが跡地がどうなるのか気になる。
 校舎や体育館、プールなど、改修して地域施設になるとうれしいと思っていたら、秋ごろから重機が校庭に入り込んできて、どかどかと校舎もプールも破壊して瓦礫にして持ち去った。
 2014年の1月には、きれいに広場になってしまった。体育館だけが立っているところを見ると、なにか後利用があるのだろうか。

 というわけで、2013年10月から2014年2月まで、校舎が日々壊されていく様子を定点観測したので、連続活動写真でどうぞ。

 そういえば、去年、このそばにあった給油所が消えたと思ったら、跡に介護老人ホームの高層ビルができた。いまに私がそちらに移る羽目になるかもしれないが、なんだか横浜都心は年寄タウンになりつつあるらしい。その目で街を歩くと、高齢者ケアー施設とか高齢者向き病院とかが目につく。
 まあ、わたしがここに移ってきた動機も、病院が近い、買い物が便利、そして借家であるのももう一度は移転が必要だから身軽にしておきたい等の、まさに年寄生活のあり方を考えたからであるから、世の中一般の傾向としてこれからますますそうなるだろう。
 そうだ、この話の初めに書いた伊勢佐木モールの凋落傾向を戻すには、ちゃらちゃらした若者向きをやめて、年寄向きの静かで落ちついた高雅な商店街にすればよろしいような気がする。
 いま、わたしが伊勢佐木モールを散歩コースにしているが、店に入るのは有隣堂書店と何軒かの古書店だけである。ほかは用がない。買いたい物がない、入りたい店がないのである。
 要するに伊勢佐木モール固有文化がないのである。馬車道商店街や横浜橋商店街のほうが、個性があってはるかに興味がある。(2014/02/03)

関連

●435風景破壊の自動車屋(2011年6月23日)

http://datey.blogspot.jp/2011/06/435.html