第4話中心街問題事例・新発田

まちもり叢書 街なかで暮す 第2編いらないバイパスの街 伊達美徳

第4話 中心街問題事例・新発田

1.生活文化圏の中心街づくりー人口減少時代に向かって

●アメニティ・シティは生活文化圏

アメニティとは、「あるべきところに、あるべきものがある状況」と、人間社会のごくあたりまえの「自然な状況」と、わたしはそう考えている。

ちかごろ、たとえば華美に装飾した橋や道をつくって、景観に配慮して地域のアメニティを向上しました、というように、特別の快さ豊かさ美しさなどキラキラ状態の意味ととられているようだが、それは違うと思う。

必要なところに橋や道があり、歩道は人が歩き、車道は車が走ることができる道や橋であること、それがアメニティのある状況である。

身の回りに緑や水の自然があり、その地域らしい個性的な風景の街があり、街には隣近所の日常的な付き合いがある、そのようなごく普通の環境をもって「アメニティ」というべきである。

いま、都市にアメニティが叫ばれるのは、そのあるべき「自然な状況」が破壊され「不自然な状況」になったからである。アメニティの回復とて、特別のキラキラした不自然な状況を改めて作ることは、間違っている。

アメニティに対応する日本語がないことが、誤解を生むのかもしれない。わたしは「生活文化」をもってあてたいと考えている。

生活文化を論ずる紙面はないが、人間生活の衣食住から展開すれば、「衣」は寒さをしのぐ段階から「ファッション」へ、「食」が飢えをしのぐ段階から「グルメ」へ、「住」が雨露をしのぐ段階から「ランドスケープ」へと、それぞれに暮らしを文化にする状況をいう。

それらが総合的に組み合わさって「生活文化圏」を構成する。それがアメニティ・シティだ。

●活性化と衰退化の矛盾する政策

新潟県に新発田市という、私の好きな城下町がある。中心市街地は、江戸時代の水路のめぐる街割りをいまにそのままに使っていて特徴ある街である。周囲は肥沃な越後平野だ。

まちづくりには、目先の儲けの商売人は2年先、次の選挙の政治家は4年先しか見ない。だが、そこに住む市民は子や孫の世代まで見て生活の場づくりをするべき運命にあるのに、そこのあたりが市民にも、「市民の事務局」(田村明さんの言葉)たる行政にも意識が低い。 行政は、計画や市民参加の仕掛けをつくっても、それを一片の広報紙のお知らせで義務を果たし、市民は市民で面白くもない広報なんて見もしない。どちらも悪い。

今、長崎県平戸市で「まちなみ探検隊」と称するワークショップを毎月重ねる市民まちづくり活動をしている。第1回目の開催1週間前になっても、市の広報紙をみた参加者は4人だけ。そこで支援するNPOが仕掛けて、中学生たちにポスターを作らせ商店街に貼る活動をしてもらった。父母、商店主、買い物客が見てたちまち90人が集まった。中学生もたくさん来て、次世代の担い手が育つ期待が出てきた。

昨2001年、国交省が全国自治体に、都市計画行政にどのような人材が必要かアンケートした。回答のトップは、市民と行政の間に入ってコーディネイトするプランナーが必要とあった。つまり、今の行政は市民対応を最も不得手としていることが、図らずも露呈されたのだ。

市民と行政をむすぶ仕掛けは、次第に成長してきていて、行政計画や事業へ市民団体が参画する機会が増えている。東京都三鷹市では「基本構想」策定を、市民主体でおこなうほどに、市民も行政も育っている都市もある。

昨今のバブル的といわれるNPOの設立は、その仕掛けの新展開だが、先般、全国のNPOの集まる会議に出たが、中には行政の下請け機関的な役割としてとらえている様子もある。

だがこの街も、現代の地方都市のもっているすべての問題を抱えている。その中心街は、寺社、城郭、庭園などの歴史的な街並みだが、駅前には大型店と繊維工場が撤退した大規模空き地があり、外周部へのスプロールで居住人口が激減して空き家空き地空き店現象が著しい。

郊外では豊な稔りの田園をつぶして大型店や沿道安売店があり、更に市街化調整区域に大規模な土地区画整理事業による開発計画があり大型店舗誘致という。加えて、中心街の真ん中にある県立総合病院の郊外移転計画が発表された。

もちろん、中心市街地活性化基本計画も策定されて商店街再生等が書いてあるし、都市計画マスタープランにも中心街整備は重要とある。まさに活性化と衰退化の矛盾政策を同時にやっているのだが、実はいまの日本では珍しくないだろう。彦根市のキャッスルロードという中心街まちづくりは有名だが、一方で商業集積法による郊外大型店舗建設も同時にやっている。

全国の中心市街地活性化計画でそれなりのことが行われているらしいが、成功と聞くのは極めて少ない。それには、中心市街地活性化を中心商店街活性化と勘違いしていること、中心市街地問題は郊外開発問題と表裏一体であるのを忘れていること、この2つの大問題がある。

人口減少なのにニュータウン開発の裏には、農業よりも儲かる都市開発があるが、行政側には固定資産税の増収期待がある。だが、一方で中心街の衰退で減収することを忘れて、長期的な都市経営哲学が欠如しているのだ。

●参加しない市民と安住する行政

新発田商工会議所から中心商店街の商業問題として相談をわたしが受けたとき、この2つの問題点を超える新たなまちづくり計画を、市民と行政に向けて提案することを説いた。

それにこたえて商工会議所メンバーが、自ら汗して『新発田を再構築する21世紀都市ビジョン「新世紀城下町づくり」2000年1月』を世に問うたのである。

いま、その実現に向けての展開を、行政と市民に向けて行っている。

新発田のビジョン提案までに、一般市民や行政を巻き込む作戦、メンバーの能力を高める会合などやっているうちに、企業市民、一般市民、行政それぞれに数々の問題があるとわかった。

たとえば、大型店舗の進出する郊外開発は、土地区画整理事業に向けてその地区を市街化区域へ編入する都市計画手続きの完了の直後だった。

その都市計画に反対の意見書を出したのかと聞けば、その手続きのあったことさえ知らないのが大方である。会議所メンバーから都市計画審議会委員を出していたのに、である。

その前年策定の「新発田市都市計画マスタープラン」を見れば、その新開発は位置づけられており、大型店舗の進出しそうな大規模商業地や沿道商業地が描いてある。その策定委員に会議所メンバーもいたのに、である。

都市計画に関しては、それほどに重要でありながら市民が関心持たないのは、日本各地で珍しくないことであろう。行政に参加する仕組みがありながら生かせない市民や、参加しても漫然としている当て職市民側に大きな問題がある。

そして行政側も、異議申立て不在状況に安住していて、課題を先送りするだけであることに気がつかないという大問題がある。後に問題が出てはじめて両方が気づく有様である。

都市計画マスタープランは、市民参加による策定が義務づけられた画期的な都市基本政策だが、せいぜいアンケートでお茶をにごして、コンサルタントの作文になっている代物も多い。

中心市街地活性化計画も同様であり、商業近代化地域計画、コミュニティマート計画、特定商業集積計画など、これまで失敗を重ねた商業計画のなぞりで、また失敗するおそれ大である。

中心市街地活性化政策とは実は人口減少時代の居住政策であり、商店街再生ではなく「生活街」再生であり、新発田ビジョンでは「生活文化都心」づくりを提案した。

先例を挙げる。幕末の黒船に目を覚ました横須賀に昭和の黒船ダイエー進出を機に、20年前から中心市街地活性化策を営々と続けてきた。特に、住宅と文化に重きをおいた行政施策は、中心市街地活性化の模範例である。

●行政は市民の事務局

2.同時多発の中心街再生事業で五年後に期待

新潟市の東20キロ、新発田市は行政人口9万人の農業都市である。そのうち元城下町だった旧市街に5万人だが、心臓部の中心市街地は1.8万人で、空洞化と高齢化が著しい。

今、その街なかでは、歴史的城下町復原型と福祉医療型という、二つのタイプの中心街再生型まちづくりが進む。

その一方では、街の外側ではバイパス道路とニュータウン開発という、拡散型まちづくりも進行している。

はたして五年後はどうなっているだろうか、その地域活性化実験場ともいうべき状況を報告する。(「季刊まちづくり」第2号(2004年3月掲載)

●祭礼空間の再生:諏訪神社社殿復原

新発田ビジョンの項目は、①長寿活躍都市、②女性活躍都市、③水緑環境都市、④生活産業都市、⑤食料供給都市、⑥生活商業都市、⑦移動便利都市の7テーマである。 市域全体の各集落や街をクラスターとし、その中核となる旧城下町地区を「生活文化都心」と名づけて、全体をコンパクトシティとして再編する構造である。

ここで注目すべき提案は、「生活文化都心」の中心街を再生することが、人口減少・少子・高齢・女性進出の時代まちづくりの必須条件であることを説き、そのためには郊外部コントロールの必要性を説いたことである。

「食料供給都市」とは、肥沃な新潟平野をスプロールから守るのであるが、実は自給率4割の日本の食料問題への地方からの問題提起でもあるのだ。

もうひとつ重要な視点は、「生活産業都市」である。かつて地方都市には地域固有の地場産業といわれる家内工業群があり、固有の物づくりを生活の中で行っており、それが地域の底力であった。産業構造の変革により中央資本がそれを破壊し、地方は企画力も生産力も喪失した。今、その中央資本は国際競争に埋没している。

これから地方が生きるには再び個性的な地場産業をおこし、地域の産物を、その街の中で企画・製造・販売し、高い付加価値の産業とする。これまで背を向けあう傾向にあった工業政策と都市政策とを合併するのである。それはとりもなおさず中心市街地活性化策の新展開となる。

これに関する政策は「ファッションタウン」(通産省系)と、「ものまちづくり」(国土庁系)がある。群馬県桐生市、福井県鯖江市、岡山県倉敷市の児島地区などが先進的にとりくんでいる。鯖江市では都市計画と産業振興を一体化して「ファッションタウン課」とした。この10年ほど、いくつかの都市でこの政策が試みられたが、進展を見ているのは行政・産業界・市民を巻き込む活動をしたところである。

アメニティ・シティの展開は、これら3者を結ぶNPO活動に期待しなければなるまい。(020916)

注)小論は、雑誌「地方自治職員研修(特集アメニティシティへ)」(2002年11月号 公職研発行)に掲載した。なお図版類は、このサイト掲載に際して新規に取り入れた。

●都市政策と産業政策の一体化

さて新発田のことだが、会議所メンバーの大きな心配は、郊外大型店もそうだが、それよりも県立病院の郊外移転問題だ。市民一人一人として考えると、安心して暮らす街に大きなかげりをもたらすことだ。中心街の駅前に大きな工場跡地がある。移転先としてそこならばこれまでと大差がない。病院を核とするまちづくりをすれば中心街の再生にもなる。 そこで商店街が動き出した。日ごろの顧客である一般市民を巻き込んでワークショップや子供のポスター展などをやり、県立病院駅前移転運動を進めたのであった。商業者の利益誘導活動とする新聞種にもなったが、暮らしの安心拠点としての病院の郊外移転反対は、市民だれもが同じ思いとわかった。運動が功を奏したのか、県立病院は駅前工場跡地に移転が決まった。

これからの課題は、新病院と病院跡地に関して周辺と一体となるまちづくりである。医療行政と都市行政、県と市、行政と市民、市民と地権者といういくつかの壁を乗り越えなければならない。

衰退産業の大型店を核とする郊外新開発よりも、成長産業の病院を核とする中心街駅前まちづくりにこそ、人口減少高齢時代に必要なアメニティタウンだ。

病院の郊外移転案は、施設老朽化のほかに広域道路アクセス、広い駐車場確保が言われた。この論理で市民施設を郊外移転させた中心街空洞化促進都市があちこちにある。福井県の武生市では、バイパス沿いの田んぼの中に商工会議所と総合病院が移転して、パチンコ屋と並ぶ。

最近の心配は、市町村合併騒ぎのなかで、合併前の各中心街の重心あたりの田畑か山中に新中心街の計画が乱立しているらしい。定見のない新たな中心市街地空洞化計画そのものである。

●生活安心拠点をもつ中心生活街

●インタビュー:若林利次さん(寺町・清水谷地区まちづくり協議会会長)

伊達:新発田中心街で、ようやく目に見えるまちづくりですね。

若林:ほんとにまちづくりは時間がかかりますねえ。1994年から活動してきて、ようやく姿が見える端緒についたところですよ。

伊達:活動やその資金はどうされていますか。

明確な構想としては、1988年に新発田商工会議所が「歴史軸にもとづく中心市街地活性化への提案」を市長に提案したのが最初であろう。同じく会議所から2000年に「新世紀城下町づくり」を市長に提案し、その中に具体的に歴史軸の整備構想を示している。

1994年に市は、寺町・清水谷地区の整備計画の予算をつけた。地区住民たちは「寺町・清水谷まちづくり協議会」(若林利次会長)を結成して市の整備計画調査に参画し、1998年に「景観復元基本構想」を提案したのであった。

これにもとづいて市は2002年から「まちなみ環境整備事業」として、寺町の道路や新発田川などの公共施設の修景整備事業に取りかかった。同協議会は継続して積極的に活動しており、勉強会、先進各地の視察研修などを行い、沿道地区民有地の建物、塀、生垣等の修景について協力してきている。

新発田城の櫓復原が単にそれだけになっては街の活性化にはつながらない。街とのネットワークそして運営ソフトについて、行政にも市民にもこれからの動きが問われるであろう。

●歴史的街並み再生:寺町・清水谷地区まちづくり

新発田中心街には、寺町の緑豊かな寺院群、壮麗な諏訪神社、銘酒の造り酒屋、清水園(元藩主下屋敷)、城下町固有の銘菓店や伝統的街並みなど、新発田城のほかに見るべきものは多い。しかし、特定のものしか宣伝されないし、ネットワークされてもいないのが現状である。

中心街ネットワークの大きな骨格のひとつが、北の新発田城郭地区と南の清水園地区を結ぶ寺町の「歴史軸」である。この軸は分りやすく、市民側から修景整備計画が提案されてきている。

「本丸」と「古丸」という城郭内中心部は、大部分が陸上自衛隊駐屯地であり、一般は一部しか入ることはできないが、駐屯地内も含めて都市公園指定となっている。

「お諏訪さま」も「新発田城」も新発田のシンボルであり、公園整備と城郭建築の復原は、新発田市民の長年の念願だった。自衛隊用地内であることや資金面などで復原構想は何回も浮上しては消えた。

そこで2000年から市民団体を糾合して市民運動として動きはじめ、三万余名の署名を集めて2001年12月に市長に提出した。今は「新発田城復元の会」(藤田加津栄会長)として、城郭の研究や広報活動を行っている。

そのような動きを経て、「地域文化財・歴史的遺産活用による地域おこし事業」(起債事業)の予算がついて、2000~01年度調査で、ようやく復原が具体化した。

復原建物は、堀端のよく見える位置にある「辰巳櫓」と「三階櫓」である。特に三階櫓は、天守のなかった新発田城でその役割をもち、再建が最も望まれていた。

自衛隊用地との調整が行われて公園供用地も広がり、2002年7月に二棟の本格的木造建築(総額約十二億円)に着工した。2003年4月には、市民千五百人が参加して古式にのっとった上棟式イベントが行われた。

2004年春竣工を目指しているから、諏訪神社の完成とほぼ同時期であり、三棟の伝統様式木造建築が競っている。

こちらの建設資金は税金だが起債事業によるので、いずれ返済する借金で市民負担となる。しかし市民は、後世のための文化投資に誇りを持っているのであろう。

新発田城は、街なか観光拠点として年間約三万人を集め、その近くの「蕗谷虹児記念館」は約二万人を集めている。これらが相乗効果を持って、文化観光による新発田中心街再生になるかどうか、今、それが問われている。

●城郭空間の再生ー新発田城の櫓を復原する

新発田の中心街では、諏訪神社のほかにもう二つ、本格伝統木造建築の再建工事が進行中である。

新発田は十六世紀初頭から城下町として都市経営がはじまった。街の中心には藩主溝口氏の城郭があったのだが、明治初の廃城令で、城郭内の建築物は撤去された。わずかに本丸表門と隅櫓(いずれも国指定重要文化財)、石垣、濠が残るのみである。

お祭に備えて各町内会で台輪の曳き回し方の訓練を行うのですが、それが町内の若者から子供まで道徳と自然教育の場ともなっています。家ではなんの手伝いもしない子が、その訓練では率先して片付けや掃除などする(笑)。

交通が便利になって、お祭りには多くの観光客がくるし、この地方の出身者は家族連れで帰郷してきます。

伊達:このたびの災難が、新たな動きになるようですね。

仁木:来年はご本家の諏訪大社が六年に一度の御柱祭であり、こちらも竣工直後のお祭なので、諏訪大社から旧の御柱を拝受してこようという企画があります。御柱を市民が街の中を曳き回して諏訪神社に持って来て立てようというのです。災い転じて福となすで、二十一世紀新時代のお祭になると思っています。

伊達:中心街の活性化につながりますか。

仁木:今年の初詣は、仮社殿なのですがいつもの年よりも多くの参拝客がありましたし、上棟式も多くの市民が参加しました。商店街も一体となってこれらのイベントを推進しています。市民の期待がよく見えます。来年は新発田城の二つの櫓復元もできあがるので、連携した行事にしたいですね。

●インタビュー:仁木輝雄さん(諏訪神社再建実行委員会・氏子総代)

伊達:このたびは大変なことでしたが、それにしても素早い復興ですね。

仁木:社殿再建の工事費は約三億五千万円かかるのですが、もうすでに二千名を超える寄付で8割を達成しています。やはりお祭りを通じて新発田市民のシンボルでもあるからでしょうね。燃える前の姿のとおりに復原します。

伊達:そのお祭は、市民が支えているのですか。

仁木:「台輪」という三輪の山車を曳き回す勇壮なお祭で、今は六基が各町内にあります。お祭の最初の早朝に諏訪神社に台輪を奉納し、終りの日に各町内を曳き回して戻るのが「帰り台輪」で、このとき頭取の指揮の下で曳き回して勇壮にもみ合うのですが、それにも一定のルールがあるのです。

街に延焼しなかったのは不幸中の幸いだが、本殿、幣殿、拝殿の再建費用を見積もると四億円近くの巨額になった。この時期、大変なことだ。

だが、翌2002年2月、「諏訪神社再建実行委員会」(高澤英介委員長)を結成して募金を開始したら、たちまち寄付が集って再建の目処がつき、5月には本格木造建築の再建に着工したのであった。

このすばやい動きの基礎には、小さい頃から祭を通じて市民の心に根づく「お諏訪さま」、祭りを支えてきた新発田の市民コミュニティーがあるにちがいない。

当然ながら行政の支援はできないから、純粋に市民運動である。図らずも起きた災禍を転じて、これは中心街再生プロジェクトそのものとなっているのである。

2004年8月の再建復興祝賀の夏祭りは盛大なものにしようと市民は期待している。

2001年11月5日未明、中心街住民は消防車のサイレンに夢を破られた。街なかの「お諏訪さま」の権現造りの華麗な社殿が、不審火で焼失したのである。

市民たちが「お諏訪さま」と親しく呼ぶ諏訪神社は、十八世紀中頃に新発田藩主が創建したと伝えられる由緒ある神社で、その夏祭は江戸時代から新発田の街をあげての一大イベントである。若者たちの勇壮に曳き回す壮麗な台輪(山車)と、子供のかわいらしい金魚台輪が繰り出し、街は大きな興奮の渦になる。

●県立病院の移転問題 昔は城郭内二の丸だった街の中心部にある新潟県立病院が、他に移転する情報が流れたのは1998年ころだった。移転先の有力説は、郊外の田んぼの中らしい。

伊達:お城の復原と寺町整備とはどう関係しそうですか。

若林:木造の城を復原して評判の掛川と白石を見学にいきました。どちらも築城当初は数十万人の観光客がやってきたけれどもすぐに来なくなって、お城が街の活性化に生きていないようです。

掛川のように城下町風街づくりをやっていても、商店街は寂しいですねえ。新発田ではもっと積極的に城と街を連携するハードとソフトの総合的なまちづくりが必要だと痛感しています。

伊達:観光による活性化のお考えはいかがですか。

若林:新発田の観光客は周辺も含め年百万人位は来ているのです。新発田城復元、県立病院移転、諏訪神社再建などの完成にあわせて、歴史軸など線的面的整備で観光客を中心市街地に引き込むしかけづくりが必要です。コンセプトは城下町の歴史文化の復原さえやればよい、ほかに余計なことは考えなくてよろしい(笑)。観光ボランティアの養成がまず急務で、その研修をはじめたいと考えています。

伊達:協議会の事業ですか。

若林:実は寺町のまんなかにまわりの風景に似合わないガソリンスタンドがあったのですが、協議会は今、その跡地を市が買い取って観光拠点とする提案をしています。そこに武家屋敷風の建物を建てて、市民ぐるみの「もてなしの心」で観光客にサービスをし、観光ボランティアの拠点にもしたいのです。その施設運営を行うため、又これからの活動を展開するために、協議会をNPO法人にしようとも考えています。

若林:はじめ二年間は市から活動助成金が年に18万円出たが、それきり。今は会員の会費でやっていますが、会費だけでは動けませんから見学会などはその都度負担しています。民間建物修景にも活動運営にも公的支援を充実するべきですよ。

おどろいたのは住民たちだ。この地方の医療中枢の役割を持って毎日多数の利用者が来る。新発田の多くの住民には這ってでも行ける場所にある。郊外に移っては車でなければ行けない、病人も高齢者も困る。

その一方、病院側の事情も聞こえてきた。今の施設は狭くて古い、大勢来るのに駐車場が狭い、道が狭くて市外からアクセスに不便、広い安価な用地がほしい、というのである。

なるほどそれもわかる。だが、市民たちは考えた。アクセス道路問題は、もともと遅れている街なかの道路整備を行うべきだ。郊外に出ては一番利用者の多い中心街住民が不便になる。

ちょうどJR新発田駅前すぐ近くに、工場跡地(旧大倉製糸)の広大な空地がある。駅前なら住民にも広域からの鉄道利用者にも便利だ。空洞化著しい駅前中心街の活性化にもなる。そこに移転してはどうだという声が高まってきた。

正式な発表はないままながらも移転は確実とわかってきて、市も行政としての対応をいろいろと行ったようだが、移転先は2000年末になっても不明だった。

その間に最も心配して動いたのは、中心街の商業者たちである。県立病院は大集客施設であり、その移転は駅前大型店の撤退以来進む商店街の更なる衰退になる。それよりも、安心して暮らす拠点が街になくなっては、ますます住みにくい街になり空洞化が進むと懸念は深まる。

●中心街空洞化問題と病院移転

じつはこのころ、新発田の中心商店街では二つの大きな問題に直面していた。ひとつは、JR新発田駅前地区の都市計画道路や駅前広場の整備計画であり、これを中心街再生の手立てにしたいが、駅前商店街など関係地権者にとっては先行き不安も大きい。 もうひとつは、市街地を南に拡大するように市街化調整区域の田園地帯にニュータウン開発計画が動きつつあり、大ショッピングセンターができるというのである。

ところが1998年3月に、地元商業者が共同して商業集積法による郊外ショッピングセンターを開設したばかりだし、中心街では二割くらいがシャッター店のありさまである北バイパス道路沿いには、安売り店舗が軒を並べて競っている。そこに新規大規模店舗進出では、郊外共同店も中心街も大変である。

1999年10月、新発田市商店街連合会は顧客に呼びかけて、駅前の工場跡地に建つ産業遺産建物「あやめ蔵」でまちづくり研究ワークショップを開いた。

約80人の市民が、中心市街地をどうするかテーブルを囲んで夜遅くまで語り合った。特に、県立病院は高齢社会でも便利な街なかにほしい、移転するならば駅前工場跡地にと中心的話題となった。

これは、商業者たちが商売の側からでなく、生活者の側から、まちづくり提案をする画期的なイベントだった。

新発田商工会議所は1999年、当時京都大学教授の中村良夫氏らに指導を受けて「新発田新世紀年ヴィジョン・新世紀城下町づくり」構想を策定し、2000年1月に新発田市長に提案し市民に公表した。これには、人口減少と高齢社会に直面する地方都市を、暮らしと仕事の場として再構築する視点で具体的な提案をしている。

つづいて4月に「緊急かつ優先的に実行すべき重要事項」として、県立病院の駅前移転と郊外開発計画の見直しを、市長に提案した。

2000年12月には県から病院改築について、移転先を明示せずに正式発表されたが、あいかわらず郊外が有力との噂もある。駅前商店街では、病院の駅前誘致運動を顧客である市民をまき込んでイベントを行った。2001年2月、商工会議所は駅前移転の請願を市議会にだして採択となり、政治的な方向が見えてきた。

●駅前地区再開発と病院計画

県と市の間でいろいろ水面下の動きもあったようだが、2001年8月、県は病院移転の住民説明会を初めて開催、移転先は駅前が最有力と発表し、ここにようやく事実上の決定を見たのであった。

県立病院用地は工場跡地だけでは足らず、周辺も取りこむ必要があるので、それまでの道路広場整備が中心の駅前整備計画は大きな転機を迎えることになった。

2001年から、工場跡地周辺から駅前、商店街なども含んで、病院と街とが一体となる土地区画整理事業による再開発計画として練りなおし、市と地権者たちの話合いが進められた。2003年に事業認可、これから換地計画に入り、病院は2007年4月開院予定、土地区画整理事業は2008年度完了予定である。

さて、まずは県立病院の駅前地区誘致には成功したが、次の大課題は、この区画整理事業を県立病院を核とする中心街再生まちづくりとすることができるかどうか。

住民市民側にも動きが出てきている。地権者たちは「駅前地区活性化推進協議会」(小山志賀之助会長)を結成し、これまで駅前まちづくりに取り組んできたが、2003年11月にこの会を改組、「NPO新発田まちづくりステーション」設立を認証申請中である。

土地だけを動かす土地区画整理事業に対して、このNPOは建物のについてプロデュースしたり、できあがる街を運営したりする組織として活動しようとしている。駅前地区に限らず、中心街再生について活動することも意図しているという。

少子高齢化時代において、自分の住み働く街に県立病院のような総合病院があることは、安心して老後を暮らせる街、安心して子育てができる街として、中心街再生の核となるはずである。商店街も病院の集客力を生かして、活力を取り戻すことができるはずである。

そのような「安心生活まちづくり」を実現できるかどうか、五年後を期待しているところである。

●新発田中心市街地再生の課題

筆者は新発田まちづくりに6年前から係っているが、中心市街地は歴史文化が豊かで大好きな街だ。

だが、そのフリンジ部は、アンコが美味い饅頭の皮のカビのごとく、沿道安売り店舗群で、城下町に入る道とは思えない無残な風景だ。

都市計画の市街化区域指定は比較的コンパクトなのだが、商業系用途を外周りのバイパス道路沿いにも指定するからだ。その面積を合わせると中心部より広い。

中心市街地は、活性化基本計画もあるが、人口減少も商業衰退傾向も著しい。ここに報告した中心市街地再生プロジェクトに期待するところ大である。

課題は、それらプロジェクト相互の連携で、相乗効果を生み出す仕掛けづくりであろう。特に病院と駅前再開発の連携は最も期待されるし難しくもある。区画整理事業が街路と公園整備に偏しているので、県立病院を起爆剤とする商店街や市街地住宅などをいかに整備するか。

さらに重要な課題は、病院跡地の再利用計画である。新発田城の正面に位置する中枢的場所をどのように中心市街地再生に資するか問われる。跡地計画が跡地だけではなく、新発田城から官庁街そして歴史軸にかけての総合的まちづくりの一環になるべきだ。

その視点から言えば、もうひとつの跡地、産業会館跡に「地域交流センター」計画があるが、時期的問題はあるにしても本来ならばこれも共に考えるものだろう。

中心市街地再生は商業政策に目が行きやすいが、本来なら住宅政策であるべきだ。中心市街地に居住者が多くいれば商業は自然に活性化する。病院も役所もあるから便利だ。

ところが一方で、中心市街地住民を外に誘導するフリンジ部開発をしている。現に西新発田で「リリオタウン」の名で宅地分譲中の土地区画整理事業は、市街化調整区域開発で、かつて中心商店街から撤退した大型店舗も進出する。

人も店も市内で移動するだけで、総量が増えないばかりか、これから減る方向の時代だ。よほど的確に土地利用をしないと隙間だらけの街になるおそれがある。

中心部の歴史的街並みを守り復原創造するには、景観コントロール策が必要だ。フリンジ地区の醜い風景も何とかしてほしい。

新発田市の基本構想は、「食料供給都市」を標榜する。今の時代だからこそ実にすばらしい政策だ。田園を豊かな生産の場であり美しい風景として守り育てる意義を持っている。中心市街地の再生は、外周部の田園地帯の育成と好一対になっていることを忘れてはならない。(2003・12・22)

注:小論は、「季刊まちづくり」第2号(2004年3月発行 学芸出版社)に掲載した。

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