ネパール400㎞バスの旅(著・伊達美徳
第5話
カトマンヅ盆地の街と建築

5-1 地震が来たらこれは怖い

そのカトマンズ盆地の三大都市であるカトマンヅ、パタン、バクタブルの市街中心部を歩いてきたのだが、ここの建築群は地震にまったく無防備としか思えない怖いところであった。あそこで地震にあったら、建物の下敷きになって死ぬことは確実である。

まず基本がレンガ造建築なのがそもそもの問題だ。古いものはもちろんだが、新しいものでも見れば見るほどそれは地震で倒れるに違いないように見える。古いもので現に倒れかけているもの、傾いているもの、レンガ壁がはらんでいるものが街なかのあちこちにある。

新しい建築も鉄筋コンクリートの細い柱と梁の間に、レンガを積上げて壁を作っているが、工事中を見てもどうもその壁には鉄筋補強がないようなのだ。コンクリート耐震壁らしいものはなく、壁という壁は全部レンガ積み、少ないけれどコンクリートブロック積みもあるようだ。

古いレンガ造建物でも上に上にと増築を重ねているようだし、1階は店舗で開口を広くとるために、木柱だけで壁がない。その柱の上の木材の梁で、更に上の何層ものレンガ壁を支えている。偏芯荷重で、柱列が明らかに傾いているものも多い。

古い建物もレンガ造らしいが、よく見るとレンガと木材の混合構造で、レンガ積みを木材で補強しているらしい。このことは王宮や寺院の塔を調査した、日本工業大学の報告書にも記してある。

開口部のマグサは木材であるらしく、美しい歴史的建築の開口部の上には細かい彫り物をした木のマグサがかかっていて、そこから上にある何層ものレンガ壁を支えているように見える。修復した建築は壁の中の見えないところで補強してあるのかもしれないが、一般にはそんなことはないらしくて、なんだかかなり怖いのである。

地震があるとそんな建築の中の住民はもちろんのこと、狭い道路にひしめく観光客も崩れてきたレンガでつぶされるに違いない。今日本が震災で悩んでいる最中だからとくにいいたいのだが、世界文化遺産のカトマンヅ盆地の古都は世界でも有数の危険都市である。(110412)
http://sites.google.com/site/dateyg/matimori-hukei/kathmandu

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カトマンヅ中心街の街並み

カトマンヅの怪しい構造の高層ビル

カトマンヅの中庭のある典型的な歴史的町屋建築はレンガを木材でもたせている混合構造


カトマンヅの傾く建物

5-2 カトマンヅの街はイタリア中世都市みたい

ネパールの首都カトマンヅは、この10年ほどで人口急増、まさに一極集中らしい。だが、特に都市計画の土地利用規制も道路計画もないらしく、旧王宮のある丘の上の旧市街を中心に、四方にだらだらと広がっている。

カトマンヅ中心街の街並みは、自然発生的な曲がりくねった細い道沿いに、4~6階程度の煉瓦増を中心とした建築が立ち並ぶ景観は、まるでヨーロッパ中世の町とそっくりである。ここはアジアとはとても思えない。汚いベネチアである。

ヨーロッパとの違いは、こちらには広告物、電線、汚れ、そして人、バイク、車、それに野良牛までもいて、どこもごった返していて、なんとも汚らしいことである。この活気はオリンピック頃の東京である。

カトマンヅ盆地にある古都のパタン(ラリトプル)、バクタプル(バドガオン)にも行ったが、どこも似たようなものである。なかではバクタプルが比較的キレイであり、カトマンヅが最も汚かった。

旧王宮のダーバー広場があるが、入場料金をとるのだ。どうも外国人団体だけを対象にしているらしい。あちこちに街の路地がつながっていて、回りこめばタダで入ることがいくらでもできる。これはパタン、バドガオンでも同様である。

旧王宮には、15世紀頃からのネパール式というかネワール族の建築様式というか、煉瓦と木材を組み合わせた建物と、20世紀はじめの石造洋風様式建築とが並んでいる。白い洋風様式建築はそれなりにスタイルが整っているのは、ラナ専制時代にイギリスの建築家にこれを設計させたからそうだ。

この15世紀と20世紀との建築様式のとり合わせは、建築史家はもちろん観光客にも評判が悪い。同行した友人たちにも不評だった。思えば、日本でも19世紀中ごろに一生懸命に洋風様式建築で近代化を目指したのだが、それと同じことのようにも見える。

日本で似たような銀行建築で、いまや重要文化財となっているものもある。ネパールのこれもいまや100年経つのだから世界遺産の一角に加わっていても当たり前であるといえる。わたしにはそれらの歴史の重層する風景が実に興味深く面白い。

ほかにもラナ時代の白い洋風建築がたくさんあって、今は官庁となっている。しかし、日本の明治洋風建築の摂取と、ネパールのラナ専制時代(1951年までの104年間)のそれとの異なる点は、ネパールでは国家の西欧型近代化と関係がないことである。ネパールの洋風建築は南隣の英国植民地インドとの国際関係からもたらされたものであろう。(110411)

カトマンヅ王宮


カトマンヅ王宮広場


バクタプルの裏町


バクタプルの街並み


パタンの街並み


5-3 ネパールの世界遺産は人間臭い

旧王宮と道を隔てた向かい側の民間の建物群も、店舗や住宅らしいがどこか伝統的デザインコードをまとう様子であり、それは市街のメインストリートの建築にも見られる。日本でコンクリートビルのファサードに、格子状の窓と勾配屋根をつけるようなものである。

それはパタンやバクラプルでも同様であった。それらは世界文化遺産のコア施設である旧王宮建築のバッファゾーンを構成しているはずだが、どう見れば良いのだろうか。どこからどこまでが世界遺産のコア施設か、なんとも分りにくい。

興味深いのは、あきらかに世界遺産コア施設となっている旧王宮や寺院建築に、大勢の人たちが何の規制もなく入り込み、座り込んでいることである。観光客もいるが地元の住民らしい老人たち、しかも男がほとんどである。ホームレスの居場所のようにも見える。たとえホームレスであっても、日本のように排除するのではなくて、多神教世界として包み込むのかもしれない。

日本では世界遺産の重要文化財に上がりこんで大勢寝込んでいるなんてことは、ちょっと考えにくい。この文化財の人間臭い生活臭にあふれている身近さは一体どう考えればよいのか。かつては王宮だし王宮の中の寺院だったのだから、大衆が近寄ることはできなかったはずだ。いわば京都御所の中に観光客や住民が上がりこんでいるようなものだ。

ユネスコの世界遺産サイトで見ると、2003年に世界遺産としてはいわゆる危機遺産にしている。歴史的建築が壊されるし、新しい建物は景観になんら関係なく立ち上がってきていたらしく、それらの改善保全整備をしないと遺産登録を廃止するとしていた。

2007年にそれが解除されたが、通訳兼ガイド氏にどんなことをして解除されたのか聞いてみた。答えが正しいかどうか分らないが、かつては土産店が入りこんでいたりして汚かったのだが、それらを排除して、車も入れないようにし、修復もしたからだという。

物売りや物乞いが近づいてくるのは、かつてローマやアテネで経験したが、久しぶりだった。そういえば日本の観光地ではまとわりつく物乞いや物売りはいない。だが土産物屋の呼び込みは同じようなものだ。

このネパール旅行は関西空港から往復で、深夜出発早朝帰着だった。せっかく関西に行くのだからと、出発日には奈良の奈良町あたりと奈良公園を、帰着日には京都嵯峨野を歩いてきたつまり日本ネパール世界遺産古都比較の旅となったのである。そこでちょっと考えた。

ネパール盆地の3古都の世界遺産空間の人間臭さに満ち満ちているのと比べて、日本の世界遺産はなんだかよそよそしいのだ。文化財をあがめ奉ってしまい、自分自身の歴史を刻む文化空間となっていないようだ。これは日本ではもともとがそうだったのだろうか。それとも文化財という概念を確立した近代以降のものだろうか。

ネパールと日本を比較して、見る見られる文化財と使い使われる文化財の違いを考えている。もしかしてアジアの歴史空間が世界遺産という西欧的概念にとりこまれた時点で、変質を起こしつつあるかもしれない。

5-4 日本の塔・ネパールの塔

カトマンヅ盆地の歴史的都市の中には、石やレンガを積上げたインドをイメージさせるトウモロコシ風の塔も多いが、日本の寺院にある木造の塔とよく似た姿の塔がいくつも建っている。

木造の塔は、寺院であり旧王宮の物見である。深い軒庇が特徴的であるが、よく見ると煉瓦と木造の混合構造である。カトマンヅ旧王宮のバサンタプルタワーは城郭の物見の塔であろうか、いわば王宮の御殿の上に建ちあがる天守のようなものである。

その王宮広場に王宮と向かい合って建つシヴァの寺院マジュ・デガや、王宮の横の丘の上の建つタレジュ寺院は、いずれも煉瓦を高く積んだ基壇の上にたつ三重塔である。ほかに二重塔もあるし、バクタプルには五重塔のニャタポラ・ラクシュミ寺院もある。

日本の三重塔や五重塔と比較すると、全体のプロポーションは似ているようだが、どこか違うのである。まず、屋根にも軒にも反りやむくりがないことである。あまりにも直線的だが、昔からこうだったのだろうか。藤岡通夫先生の本には、むくりがかつてはあったはずだが、西欧系の援助で修復したときに直線にしたのであろうかと、疑問を出されている。もうちょっと芸があってもよさそうだ。

軒の出方は、日本では下層から上層に行くほど若干は短くなるとしても、あまり違わないものである。ところがネパールの塔では、まるで四角錘を描くように直線的に各階がかなり後退して低減していくのである。そのほうがパースペクティヴが効いて高く見えるが、日本の塔を見慣れたわたしにはどこか全体に軽くなって重厚さに欠ける感がある。

反対にネパールの人が日本の塔を見ると、なんだか頭でっかちだなあと思うだろう。近寄ってみるとその深い軒の出の支え方が、日本の塔とは大きく異なる。日本では柱から木の組み物(斗供)を出して軒を支える。右腕を真っ直ぐに出して軒を支え、それを曲げた左腕で支えるようなものだ。それがいくつも重なって特徴あるデザインとなる。

ネパールの塔は、軒の出ている階の下の床レベルの煉瓦壁から、斜め上に軒先に向って何本もの方杖(ほうづえ)を立てて軒を支えている。その方杖がデザインの特徴になっている。構造的には日本のほうがはるかに複雑で技巧に富み、ネパールの方法は実に直裁簡潔で、素人でも分る構造である。

そのかわりというか、その方杖に細密な彫り物を施している。日本の組み物にも細工をするがこれほどではない。この斜めの方杖と深い軒の組み合わせがネパール建築の特徴となるデザインコードであるらしく、王宮の軒はもちろんのこと、街なかの新旧の建物にも使われていて、ひとつの景観を構成している。

これらの歴史的建築は14世紀ごろが創建であるというから日本では鎌倉期である。に組み物を使う仏教建築様式は、7世紀に中国、朝鮮から日本に伝わってきた。大乗仏教の伝播ルートからして、中国へはネパールから仏教建築が伝わったとすれば、中国では組物をつかっているのにネパールではそれがまったく見られないのはどうしてだろうか。組み物は中国で開発されたが、ネパールではその後も素朴な祖形のままに中世を迎えたのだろうか。

もっとも、地震国のネパールでは、何回も崩壊しては建て直しているらしく14世紀のままではない。特に1934年に大震災に見舞われて長らく放置されていたものを、この2~30年間に諸外国の援助で修復したらしい。その際に形態が変わったおそれもあることを、藤岡先生が著書で指摘されている。

5-5 バクタプルがなかなか面白い

カトマンヅ盆地には3大古都とでも言うべきカトマンヅ、パタン、バクタプルがあるが、なかではバクタプルの印象が最も興味深かった。
カトマンヅは都市化が著しいことと全体に薄汚れていることが気になった。パタンはカトマンヅよりも良いのだが、カトマンヅに近いからか都市化による歴史都市のイメージを失いつつあるようだ。

バクタプル(バドガオンともいう)は、カトマンヅからかなりはなれているためか、歴史都市の景観がかなり伝わっている。衛星写真を見ても街を歩いていても、カトマンヅよりも全体的に都市計画があるようにも、市街地の整備もそれなりしているようにもみえる。すくなくともカトマンヅよりは見た目がきれいである。

バクタプルの旧王宮からあたりの市街地を歩いていて、街角のそこここで興味深いものに出会った。ひとつはダーラと呼ばれる水汲み場、もうひとつはパティと呼ばれる休憩所である。ダーラはカトマンヅにもある。地表面から下に四角に段々状に深さ10mくらい掘り込んで、場所によるが底に5~10m角ぐらいの平地がある。

道から階段で降りるようになっていて、まわりも壁も床も立派な装飾付きのレンガでつくってある。壁の一角に装飾の凝った石造りの蛇口があって、そこから水がほとばしっている。人々が行列を作って水汲みをしている。そばで洗濯をしていることもある。バクタプルでは4箇所のダーラを見たが、ひとつは枯れたらしく、ダーラの底にミズゴケの浮いた緑色の水がたまっていた。地下の浅いレベルに帯水層があり、そこから水を引き込んでいるのだろう。
まさにこれは井戸端会議の場であり、その空間のリッチさが羨ましいくらいの近隣住区の共同施設である。もっとも出てくる水は、今ではとても衛生的とはいえないはずである。

パティは日本で言えば公園の「あずまや」みたいなもので、そこに腰を掛け、寝転び、あるいは手仕事をしているものもいた。ダーラはパタンにもカトマンヅにもあったが、パティはガイド氏が言うにはバクタプルだけのものだそうで、近所の老人たちが休むところだそうだ。これもまたダーラと並ぶ近隣住区の共同施設である。観光客や巡礼者たちの憩いの場でもあるらしい。

それらが小さいながら一様に古めかしく由緒ありそうな建物であることが、ダーラの立派さと同様に興味深かった。独立しているものもあれば、後ろは建物のレンガ壁に寄りかかっているものもある。寄りかかっている建物が新しくても、パティそのもの古色蒼然としているから、わざわざ保存しているのかもしれない。

ポカラの街や街道にはチョータラと呼ばれる、大木の下の休憩所がそこここにあるが、ちょうどそれはダーラやパティと同じようなものである。(第3話3-6参照)狭い曲った道路の両側に建つレンガ造建物の街並み自体も、危ないほどに古色が漂うが、それらの間に突然小広場が現れて、小さな塔があり、そばにパティがあり、ダーラがあったりする。

ダーラやパティは誰がどのようにして作り、維持運営しているだろうか。バクタプルは裏町が断然面白い。

バクタプル・ニャタポラ寺院

バクタプルの塔


バクタプルの街にて


開放的な誰もが休憩できる王宮広場の文化遺産「ダルマシャール」(バクタプル)


開放的な文化遺産(カトマンヅ)


カトマンヅ王宮広場そばのビルの下手な王宮デザインモチーフ


王宮屋根デザインをモチーフにした国際会議場


パタン王宮広場


バクタプル王宮広場


5-6 ヒンヅー空間をかいま見る

ネパールは9割がヒンヅー教の信者であるという。ヒンヅーは世襲であって生まれたときからヒンヅー教徒になってしまって抜けることはできず、他の宗教から改宗してヒンヅー教徒になることはできないそうだ。
その八百万の神々、そしてそれを祀る行事、複雑なカースト、外国人から見れば特異な風習が、多様に日常生活に組み入れられているようだ。

仏教を理解しないと外国人には日本は分らない、ということはなさそうだ。しかし、ヒンヅーを理解しないではネパールのことはどうも分らないだろうとさえ思える。
ヒンヅー教のカーストで階級と職業を固定する世襲システムは、日本の江戸時代の士農工商制度よりももっと徹底しているようで、為政者にとってはまことに都合が良いようだ。

中世から近世の専制的なネパール王国が、それまでの仏教を廃してヒンヅー教をとりいれて国教とした理由は、そのあたりにあったのだろうと半可通は考えるのである。
国教ではなくなったのは王政がなくなった2008年のことらしいから、まだまだちょっとやそっとでは伝統慣習は消滅するわけがない。

街の中のあちこちでヒンヅー世界らしい事象・現象を見ることができて、それを通訳兼ガイド氏が説明してくれても、実はほとんどわたしには理解できなかった。理解しようとする姿勢がないからだろう。

ヒンヅー教の聖地がインドやネパールの各所にあるらしいが、カトマンヅ盆地の世界遺産登録のコアであるパシュパティナートがそのひとつである。
寺院があり、川沿いに野外火葬場があり、川に骨灰を流すと聞いたので、ヒンヅーをすこしでも理解できるかと見学に行くことにした。さすがに火葬場と聞いては、旅の10名のなかで行った者は4名だけであった。

カトマンヅ市内を流れるバグマティ川の上流にそのパシュパティ寺院はある。駐車場を降りるとどこでもあるような露天の土産物屋が並ぶとおりを抜けて、川沿いの寺院エリアらしき火葬場に入っていく。その前に入場料を500ルピー支払う。

川岸にあるいくつもの火葬台(ガート)では、今しも煙があがっている。川には橋がかかっていて、そこから眺めるとよく見える。燃えて煙と炎の上がる薪やら藁やらで遺体は見えない。ちいさいときに火鉢で爪をつんで、親からやめろと叱られたときのあの臭いを、流れてくる煙が思い出させてくれる。

今は乾季なので川の流水は少ないから、水の汚れがよく見える。いろいろなゴミには、なにやら死者を飾ったのかプラスチック製らしい花が浮いている。ここに灰をながすのか。
このバグマティ川は下流でカトマンヅ市街の密集地の中を流れるのだが、そのあたりでは河原はゴミだらけである。それぞれの文化だといえばそれまでだが、はっきり言ってこれほど汚れた水に流すことが死者の供養なのかと、やっぱり余計なことを言いたくなる。これは一異教徒旅行者の醒めた目である。

5年前に見たスイスのチェルマットの街を流れる川を思い出す。アルプス氷河を溶かした青い水は白い砂を含み、それは、模様の青海波はここから生まれたのかと思うほどに、白く青く渦巻く激流であった。
今、このパシュパティナートのバグマテイィ川に、両岸いっぱいにヒマラヤ氷河からの流水が波打ちながら流れている風景を想像する。
生者、死者、火煙、流水、これらが両岸に扼するこの空間に渦巻けば、それは生から死へ移行する天と地の世界が成り立つだろう。
次にもし来るなら雨季に見たい。

パタンの塔


日本の塔:奈良・興福寺


バクタプル衛星写真


バクタプルのダーラとパティ 


パシュパチナート右岸のガート全景

今しも儀式の最中らしい


橋の上から上流側を見る


橋の上から下流側を見る


橋からガートを見おろす


パシュパティナートに入る


パシュパティナート参道の土産物屋


建物に寄りかかるパティ


パティでミシンを踏む女


バクタプル王宮広場のパティ「ダルマシャール」


バクタプル街角の小塔とパティ


バクタプルのダーラとパティ

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