父の15年戦争/伊達美徳

第5章
防衛・本土決戦準備
1943~45年

●真直の戦場を訪ねる

戦争のことを調べるのは始めてであったが、ものすごい数の資料類があるのに驚いた。特に、庶民兵士の戦争手記が多く、書きかたに右よりもあれば左よりもあって興味が尽きない。 こちらは作家でもないし研究者でもないから、正確な記録類を探してとことんまでやろうという気はさらさらない。それでも、防衛省防衛研究所の戦史資料室や県立図書館など戦争の資料探索には少しはあちこちに行った。

父の真直の戦場であった場所を訪ねるのも必要なことと思ったが、さすがに中国まで出かけるのは億劫である。そこで中国の戦場はインターネットのグーグルアースで、デスクトップコンピューターから覗き込んだ。真直の最も激戦地であった界嶺口は、ずいぶんの山の中であった。→画像参照


真直の3回目の戦場(となる予定地)は国内であり、しかもわたしの住む横浜から近い小田原近辺である。小田原に住む旧友に案内してもらい行ってみた。

下調べ資料はいくつかあるが、「小田原地方の本土決戦」(香川芳文著 2008 小田原ライブラリー)がよくまとまっている。

小田原訪問は、現地でなければ見られない資料があるかと期待もして、松田町立図書館と小田原市立図書館、小田原市立歴史資料館も訪ねた。しかし特にこれといった新たな収穫はなかった。

●地域と軍とのギャップ

それで気がついたが、こちらが知りたいのは軍にいた真直の動静であるから、軍関係の資料なのである。ところが地元にある戦争中に資料は、地域の生活史として戦争であるから、軍と地域住民との接触は記録があるが、軍の内部の記録は無いのである。特に軍は敗戦で撤退時に資料焼却したであろうから、ないのが当然であろう。

戦史資料や地元資料から分かることは、どの地域で軍が動いていたかであり、そのなかで真直はどこにいたのだろうかと推測しつつ探すしかないのである。
このときの真直の動静は、30年も後に書いた手紙と自分の葬儀にために用意しておいた誄辞にある数行の簡単なものだけである。

要約すると、1943年12月召集されて姫路54師団通信隊に入隊、南方ラバウルへ行く予定だったが戦火が激しくなって輸送船がなくて待機、44年7月第84師団通信隊に編成替になり、45年4月に第15軍に編入されて本土決戦部隊として小田原へ、その7月から松田町に移動、松田山中で穴掘り中に敗戦を迎え復員した、というのである。

●太平洋戦争開始

1941年12月8日、日本はアメリカとイギリスに宣戦布告、ハワイ真珠湾奇襲でアジア・太平洋戦争に突入した。1942年1月にはニューブリテン島のラバウル占領、2月にはフィリピンのマニラ、シンガポール占領と進み、3月には石油の出るスマトラ・ボルネオ島を占領した。5月にはビルマを占領して中国への連合軍の支援ルートを遮断した。緒戦の展開は大成功であった。

ところが、その4月にはアメリカ海軍のドリトル機が東京を初空襲し、戦勝気分に酔う日本を驚かせた。6月にはミッドウェー海戦で日本はアメリカ軍に敗北して、はやくも戦局は劣勢になり始めた。

中国戦線では三光作戦とよばれる殲滅をしつつ、戦火は拡大するばかりで収拾がつかないのに、南方での戦局が敗勢となってそちらに兵力を引き抜いてまわすことになっていった。

●1943年父の3度目の招集

1943年になると、2月には最前線基地だったガダルカナルから撤退し、3月にはアッツ島で全滅と戦局はますます不利になっていき、9月にはアメリカ軍が陸路と海路の2面作戦の反撃を開始した。

10月には文系学生への兵役猶予がなくなって学徒出陣をしたし、12月にそれまで20歳から40歳までの徴兵年齢が、18歳(翌年には17歳)から45歳になった。こうして老いも若きも兵士として戦線に送り込まれていったが、制空権も制海権もアメリカに取られつつあった。 ヨーロッパでは9月8日にイタリアが降伏した。

11月には、米英中連合国の首脳がカイロ会談を行い、日本本土侵攻を合意して、日本包囲網はじりじりと縮まってきた。 そのような危ない情勢下の1943年12月、父の真直にも3度目の兵役召集の令状が来た。33歳であるから当時ではもう老兵である。

●母の号泣

それまでの真直2回の戦場ではたくさんの写真があり、手記も詳しいのだが、このときは国内でありながら部隊での写真も手記もない。機密保持が厳重になったからだろうか。

したがってこのときの真直の戦場は、軍履歴書と一般資料で補足しつつ類推も含めて記述するしかない。

わたしの記憶に、この12月27日の出来事が鮮明にある。召集されて備中高梁駅から出発する真直を、母やわたし、真直が宮司をしている神社の氏子の人たちの大勢が見送った。

そして母は帰宅するなり、羽織も脱がずに畳に伏して号泣しだした。そばで6歳のわたしは、帯の結びで高くなっている背が上下して震えるのを見つつ困惑していた。

やがて玄関に客の声がしたので、泣いていたことを黙っていよとわたしに言って、涙をぬぐって迎え入れた。親しい女性が慰めに来たのだ。わたしはほっとして遊びに出かけた。

そのころは出征して帰らない人が増えていたから、母にとっては、そのときの胎内の子も含めて幼子3人を置いていく夫との永訣を覚悟して送り出したのだろう。

●南方行き中止

こうして父は姫路の第54師団通信隊に入り、次の年の1944年7月9日に、第84師団が新規編成されて、真直はその師団通信隊に転属した。

この第84師団は姫路、岡山、鳥取の聯隊の留守部隊で編成された。この師団は、アメリカ軍の太平洋方面からの攻撃を阻止する目的で、小笠原、沖縄、フィリピンへの兵力増強する「捷号作戦」のために臨時動員された兵団の中のひとつである。

10月からフィリピンで捷号作戦が始まったが、日本軍はレイテ沖で大敗北してこの作戦は失敗し、11月24日には大本営は「第八十四師団は概ね現態勢に於て待機せしむべし」と南方出動は中止した。

12月中旬には台湾派遣も検討されたが中止、その後も沖縄派遣を決定したが、海上輸送危険のため直後にまたもや中止となった。

戦局不利による朝令暮改のおかげで、真直はずっと姫路城郭内にある兵営にとどまっていた。母とわたしはちょくちょく日帰りで面会に行ったし、真直も休暇や出張とかで帰宅して宿泊していた。

●本土決戦作戦

1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」をまとめ、現実味を帯びてきたアメリカ軍の本土上陸に向けて「本土決戦」の方針を出し、本土上陸に備える最後の決戦に臨むことにし、軍組織を改め、大動員をかけた。

3月には大本営は「国土築城実施要綱」で各地に陣地を造って戦場とする準備を命令し、3月には「国民義勇隊」の結成を閣議決定し、これは国民全部を本土決戦の要員としようとするものであった。

だが、これには訓練を受けていない老人や女性たちはもちろんのこと、老年兵が多く含まれ、武器も半数程度しかそろわず、かなり無理な計画であった。

大本営は4月に「決号作戦準備要綱」を発表して本土決戦部隊を日本各地に派遣、上陸が予想される関東や九州の海岸で重点的に、アメリカ軍上陸を迎え撃つ陣地構築が始まった。

このとき、第53軍(司令官赤柴八重蔵)が本土決戦作戦の神奈川担当となり、真直の所属する第84師団はその編成下に入り相模湾沿岸に防衛築城を行なうことになった。(画像参照)

師団司令部は、1945年4月から小田原城郭内の城内国民学校に構えたが、7月には司令部は足柄平野の奥の松田町の松田国民学校に移動した。

●小田原城内の司令部

真直は5月には関東に移動したことは、東京大空襲に出会ったと手記にあるのでわかる。師団通信隊は司令部司令部と一緒に動いたであろうが、真直が小田原にいたことがあるか、それとも松田に直行したかは分からない。

小田原の司令部があった城内国民学校を訪ねた。今は廃校となって公園であるが、校門と校庭そして再利用されている木造講堂の建物は、当時の面影をとどめている。

ここにわが父真直が一時は居たかもしれないと思うと少しは感慨ももよおして、風格ある校門の門柱のそばで記念写真を撮ってきた。→画像

当時の校舎の内の講堂が保存されており、小田原市立歴史見聞館となっている。木造の堂々たる構えの建物である。屋根が波板トタン葺きであるのは、これが当時の姿とは思えないが、どうしたのであろうか。あいにく戦時の歴史の展示はなかった。

小田原城郭内には、歴史文化館があり、ここには戦時中の庶民の道具の展示はあったが、軍関係の展示は無い。図書館にも戦時資料はなかった。あの頃は空白の時代であるとするのか、まだ歴史にはなりにくい時代だろうか。

この部隊は、相模川以西の岸地域の防衛担当であった。海岸と後背地に陣地を構築して、上陸してくるかもしれない連合軍と刺し違える作戦である。

海岸の砂に掘ったタコツボで、上陸してくる戦車を待ち構え、そばまで来たら爆弾を抱えて飛び込んで爆発させ、キャタピラーを壊して立ち往生させる作戦であった。物量戦のアメリカ軍に対する肉弾戦である。

●松田国民学校内の司令部

真直は、師団通信隊として師団司令部とともに動いていたであろうから、7月から松田に駐留したのであろう。→画像松田には真直にとっては郷土部隊である岡山歩兵201聯隊が駐留していた。この聯隊は5月から移動して当初は沼津で陣地の構築作業を進め、6月には松田町の松田国民学校に駐留した。松田山に穴を掘って司令部陣地工事を行なうとともに、あちこちに穴を掘って上陸軍を撃つ陣地構築を行なった。

これは町民や中学生も動員しておこなった。部隊の食糧は自給自足であったので田畑を耕作し、住民たちは自分の田畑をさておいてかりだされたと、地元の人たちの証言がある。

師団司令部は松田国民学校にあったが、司令部の陣地作りを松田山頂上付近で行なっていたとの記録があるので、真直はこれに関わっていたのであろう。ただし、その陣地跡は今は分かっていないそうである。

松田国民学校には、横浜の鶴見から児童疎開が来ていた。

●松田山の陣地

松田町立図書館で、「文化のしおりN.16 S55.8.1)」(松田町郷土文化財研究会 小宮健八)というガリ版資料を見つけた。一部を引用する。「昭和19年 ・・・本土の戦場化を予測し米軍の相模湾上陸にそなえ、松田山頂に防禦陣地を作り始めた。この陣地は山頂の北側より隧道を掘り南面に表口を出し、足柄平野を見下し米軍の進撃を防止する為、銃砲撃する様計画された。しかし完成前に終戦となった。これと同様に設備は寄の入り口寄一番地の山頂にも作られた。これら軍の防御施設及び松根油採取には、軍及び松田町民が一体となり全力を傾注して事に当った。それが為め松田小学校は軍の宿舎となり生徒は延命寺及び桜観音堂に分散教育をし、町内には兵士が多く見受けられた。また各家庭では宅地内に防空壕を作り空襲の時、家族一同避難した」

この記録の昭和19年にはまだ軍隊は来ていないので、20年の間違いであろう。→画像

●父・真直が見た風景

真直は暑い夏の日差しの下で、この文にあるような陣地、つまり大砲を据えるための穴掘りをしていたのであろうか。

松田山は、町の北にある丘陵であり、大きくはゴルフ場がある丘陵の全部を言うが、狭義にはその中腹の大地である現在の松田ハーブガーデンのあたりを言う。街の人たちは一般には狭義のほうを松田山といっていると、地元の人に聞いた。ともかくそこまで登ってみることにした。

その前に、師団司令部のあった松田小学校によってみた。新しい白い校舎は当時のものではない。聞けば、今の校門の前にある校舎の建っているところは、かつては運動場であり、今の運動場に木造校舎が建っていたそうだ。父はそこに居たに違いない。校門の前で記念写真を撮ってきた。→画像

さて、松田山に向けてみかん畑の中の急な農道を汗をかきつつ登る。途中で自然観察館に立ち寄って、若い館長さんに戦争遺跡の有無を聞くが、もちろんご存じない。

ハーブガーデンは枝垂桜が咲いているが、河津桜はとっくに葉桜となっていた。戦争のことなど忘れそうな長閑で静かなこの台地から、前方の目の下に広がる足柄平野を眺め渡しつつ、旧友とともに弁当をつかう。→画像

真直も65年前に、この風景を眺めたに違いない。幼子3人と妻の居る遠い故郷を思い、眼の前の海から明日は敵が攻め上って足下に押し寄せてくるかもしれない恐怖の中で、どんな心境であったろうか。

(なお、小田原と松田の現地訪問については、小田原に住む旧友の日下部誠二氏のお世話になったので、御礼を申し上げる。)

●終戦復員帰郷

その日々の中で突然の終戦詔勅を、真直はどう聞いたのだろうか。8月15日敗戦、8月25日には部隊は残留整理員だけ残して引き揚げ完了、真直も姫路に戻り、31日に高梁に帰郷した。

1945年7月1日、御前神社社務所に疎開児童が着いた。芦屋市精道国民学校初等科六年女生徒20人と職員1名である。頼久寺と金光教社にも来た。昨年から町内各寺院に、神戸の児童51名もきていた(「高梁市史」)。

8月15日、社務所前に疎開児童や近所の人々が集まってきて、疎開児童組の持つラジオで敗戦の詔勅を聴いた。聴き終わると誰もみな声もなく散会し、列になってとぼとぼと参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。

それからはあちこちで兵士たちが復員してきたとの話でもちきりである。わたしも毎日、神社の石段の上で父が戻ってくるのを待ち続ける。

ある日、本当に石段を登ってくる父の姿をみつけた。わたしはずいぶん長く待ったような気がしていたが、それが8月の31日であったことはずっと後に知った。

3度も召集されて半分の7年半も兵役についた「父の十五年戦争」はようやく終った。高梁での十五年戦争による戦死と病死をあわせて309名であった(「高梁市史」)。

●コロネット作戦

ところで、アメリカ軍が本当に相模湾に上陸してくることになっていたのかどうか、興味あるところである。実はまさにその予定であったことが戦後になって資料が出てきて分かった。

「ダウンフォール作戦」と名づけられた日本本土上陸作戦は2つの作戦からなり、「オリンピック作戦」は1945年11月1日に九州地方へ、「コロネット作戦」は1946年3月1日に関東地方への予定であった。

コロネット作戦は、千葉県の九十九里浜と神奈川県の相模湾湘南海岸に上陸して、双方から東京に侵攻するもので、太平洋方面のアメリカ軍の総力を結集して、日本に対するとどめの攻撃となるはずであった。

重点は相模湾側にあり、茅ヶ崎海岸に上陸、北に攻め上って東京へと進むのであるから、小田原平野の北端部にある松田町はその進路にあたることになる。

もしも本当にここで本土決戦の戦いがあったら、質量共に豊富なアメリカ軍に竹やり肉弾戦法の日本軍が勝てたはずはないから、真直もここで果てたにちがいない。

実際にはこの作戦展開は、1945年6月に原子爆弾の開発が成功したことにより、コロネット作戦は保留となり、原爆の投下によって必要がなくなったのであった。その意味では、原爆が多くのアメリカ軍兵士の命を救ったというアメリカ流原爆解釈を、真直にも適用できるかもしれない。

それにしてもアメリカ軍上陸作戦地を日本軍がよく知っていたものであるが、諜報活動の結果か、それとも誰が考えてもそうなるのだろうか。

●参考資料・文献

・「相模湾上陸作戦・第2次大戦終結への道」大西ほか有隣新書1995

・「小田原地方の本土決戦」香川芳文 小田原ライブラリー 2008

・「茅ヶ崎市史 現代2 茅ヶ崎のアメリカ軍」茅ヶ崎市 1995

・「松田百年」松田町 2009

・「戦史叢書 本土決戦準備(1)」防衛庁防衛研究所 朝雲新聞社

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