ネパール400㎞バスの旅
第3話
バス旅の風景に興奮した

3-1 怖くて面白いいちばん前の特等席

南部のタライ平原のほかはすべて山岳地帯だから、道路は川に沿い谷に沿い、断崖絶壁の途中を切り裂き、峠を越えて進む。

トンネルはまったくないし、川にかかる橋もめったにないから、地形に沿ってものすごく曲がりくねっている。

だから、カトマンヅ・ポカラ間の直線距離は140km、同じくポカラ・ルンビニ間は125kmだが、どうも実際の距離はあわせて400km近くにもなるらしい。

カトマンヅ・ポカラ間は、わたしたちは6時間かかった。路線バスなら7~8時間で135ルピー、これは200円もしない安さだ。

道で行き交う路線バスには、ときには屋根の上まで人が乗っていた。ポカラ・ルンビニ間は7時間かかった。

曲がりくねった道を小型の貸切バスで移動したのだが、自動車は上下に揺られ、左右に振られて乗り心地の悪いジェットコースターである。

運転手はそんな道を時速60kmで飛ばして追い越しする。

鉄道がないから自動車交通量は多いのに、交通信号はまったくない。

わたしはバスのいちばん前の運転手の横の座席を希望して乗った。

フロントガラスの向うに次々と展開する街道筋の宿場町や耕して天に至る段々畑など、ものめずらしい景観におおいに興奮して、実のところ怖さを忘れていた。

特等席を独占しては悪いと思って、旅の同行者のだれかれに席を代わりましょうかと声をかけたが、誰も尻込みするのであった。

なに、バスが崖から落ちれば、後ろのほうの席だって落ちるのだ。

山道でも街道筋の街なかでも、道路の左右は舗装がなくて土のままだから、乾季の今は土が見えて埃がたっている。

雨季になるとここに草が生えてきて、そこらあたりうろうろしている山羊や牛たちの餌や裸足では歩けないが、ここがあるから歩けるそうだ。

舗装面積が少ないと工事費も安いだろうし、それなりに理由があるのだが、排気ガスと共に砂埃がものすごくて、喉が痛くなってしまった。

ポカラ-ルンビニ間シッダルタ街道


カトマンヅ-ポカラ間プリティヴィ街道


地勢、道路、災害


ネパール400km旅程

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3-2 道路は車と人と動物が入り乱れる

この国に民族が入り乱れているように、道路にも多様なものが入り乱れる。カトマンヅやポカラの市街の道路には、自動車、バイク、歩行者、野良牛などの速度が異なるものが混合している。農村部に行けばこれに山羊の群が加わる。

カトマンヅの市街のように車の渋滞する中でも、歩行者が悠々と抜けていく。でも交通信号機はない。あっても停電が普通だから役に立たないのだ。日本の道路交通と比べると、それはもうメチャメチャである。それなのに、わたしがいた8日間で一度も人身事故らしいものを見なかった。なんだか日本で交通規制をがんじがらめにしているのが間違っているような気がしてきた。

そんなことをしなくても人間も動物もうまくやれるものらしいのだ。ただし、自動車の警笛がうるさい。「ピラヒャラピラヒャラリラ」と、けたたましいチャルメラのような音を出して、オラオラ、ドケドケーとばかりに横から後から迫ってきて追い抜かれる。こちらのバスの運転手も負けずにそうやって追い抜く。もっとも、牛や山羊がのんびり横断するときは、車もおとなしく待っているのが、妙におかしい。だが野良犬には容赦しないらしく、轢死体をいくつも見た。猫を見ることはなかったが、ネパールでは猫を嫌うと聞いた。

ネパールには自動車専用の高速道路はない。カトマンヅ・ポカラ間は「プリティヴィ・ハイウェイ」と名づけられているが、自動車専用道路ではない。いわば主要幹線の街道であり、曲がりくねって舗装は剥げて穴だらけのデコボコのである。それなのに、ところどころに検問所があって通行料を取っている。どうも外国人の観光バスだけかららしい。

鉄道もないのでインドから来る巨大トラックが何台も何台も行き交っている。このトラック群は例外なくフロンガラスにまでドハデ迷彩を施しているのだが、いくつも見ていると一定の様式がある。どうも日本のトラック野郎の遊びとは違って、これは宗教的な意味を持っているらしい。

ポカラの野良牛一家は夕立豪雨でも平然と歩く


プリティヴィ街道のインドトラック


カトマンヅのニューロード


3-3 耕して天にも谷底にも至る

カトマンヅからポカラまで西に続くプリティヴィ街道も、そこから南にルンビニまでのシッダルタ街道も、両側の谷と山には棚田と棚畑が延々と連なり重なるのだった。
山岳の中腹を走る街道から見上げれば耕して天に至り、見下ろすと耕し谷底に至るように、幾重にも幾重にも重なる段々畑や棚田がどこまでも続く。その棚田を作ってきた人間の労力にあきれると共に、なぜそこまでしないと生きられないのかと不思議にさえ思うのだった。

一戸当たりの農産物の必要量と、段々畑の生産高が関係しているのだろう。つまりそれほどに単位面積あたり生産力が低いということか。その棚畑のなかにまとまった集落はめったになかった。あちらこちらに散居状態で見える。レンガあるいは割石積みの小さな家で、屋根はたいていはトタン板に石置きだ。稀に草葺もあったのは、これが伝統的な農家の姿なのだろう。

当然のことに棚畑にするためには、畔の法面になるところのほかの樹木は伐採して平らにするから、見る限りの山々はバラバラと立ち木はあるが、森林は消滅に近い。森林もあるにはあるが人間による収奪が著しい。落ち葉をかいてきて牛の糞と混ぜて堆肥にして棚田棚畑の肥料に、立木の幹や枝葉を薪にして煮炊きや暖房の燃料に、緑の枝葉を切って家畜の飼料にと、しだいに禿山になってくる。

大都市にこそないが、街道筋のどの家にも段々畑の中の農家の庭先にも、薪が積みあげてある。薪といえば、こちらの火葬は薪で行なうようで、その様子をカトマンヅのパシュパティ寺院(第5話5-6参照)で見てきた。人体を薪と藁だけで灰にするにはかなりの量が必要だろう。

エネルギー転換がそのうちに必要になりそうだが、ネパールでは政治的にも財政的にも原子力発電所が登場することはなさそうだ。日本が福島原発で大騒ぎの時期が時期なので、こちらも地震国だから、幸いにもというべきか。海がないからそちらから津波は来ないが、ヒマラヤの氷河湖が決壊して山から津波がやってくるから油断できない。

海抜1500mあたりの段々畑と崩壊跡(タンコット近く)


海抜1500mあたりの段々畑の土(タンコット)

段々畑と伐られる林(プリティヴィ街道)


山林から刈り取った柴を竹篭に入れて持ち帰る(タンコット)

3-4 消滅する森林

ネパールでは、南部のタライ平原のほかはどこもかしこも山である。そんな山々を等高線に沿って丹念に切り刻んで棚をつくっている。作物を作る段々畑である。日本でもいまは耕作放棄がおくなって森に戻っているが、段々畑や棚田が重なる山村はどこにでもあったものだ。

ネパールの場合はその規模が日本と比べ物にならないくらいに高いところまで広がっている。山地の段々畑の作物は、トウモロコシ、ジャガイモ、ヒエなどが主なものらしい。棚畑にしづらい急斜面にようやく森林が残っているが、ここも燃料として伐採されるし、その伐採後に牛や山羊が放牧されるから、乾季には草も生えない。

急斜面の草地には斜め網目状の規則的な模様がついている。なぜか不思議だったが、あとで文献で調べてきたら、それは牛や山羊が急斜面の草を食うときに、急勾配を斜めに登りくだりする踏み跡なのであった。そうやって草も幼樹も食い尽くすから、森林は育たない。これは2006年に訪ねたヨーロッパルプスの草原高地と基本的には同じである。放牧数の多さが違うだけだ。

この山岳地域の急斜面で暮す民族には、それなりに歴史的な経緯や生活習慣があるのだろうが、このままで国土保全は大丈夫なのだろうか。今回わたしは出会わなかったが、ヒマラヤ山地ではシャクナゲ群落の花が美しいと聞く。植生学の人の話では、樹林を伐採した跡に生えてくる草本類を牛や山羊に食わせるのだが、このシャクナゲは毒があって食わないからはびこった結果だという。つまり森林破壊の結果の現象なのである。

ルンビニ近くのバイラワ飛行場からからカトマンヅ空港まで飛んだときに見た下界は、山地の多くは段々畑の禿山の連続、タライ平野のほとんどは田畑となっている。農業で森林を食いつぶしつつあるが、このままでよいのだろうか。

3-5 畑作から稲作へ

山地に幾重にも重なる段々畑がもしも水田ならば、日本の千枚田とか田毎の月などと言われるような棚田でもまったく顔色なしだが、そのような棚田を見ることはなかった。高地の山地では気候のせいもあるだろうが、それほど高地でもないところで、日本では当然に水田となるような川沿いの段々畑でも水田があまりなかった。

それは多分、投下資本が必要な灌漑施設が普及していないせいであろう。灌漑のためには集落共同体が必要だが、ネパールでは集住的な集落を見ることがめったになかった。管見でものを言ってはいけないが、それが灌漑の普及していない原因かもしれない。急傾斜地では灌漑もない粗放の棚畑では、降った雨は森林の場合よりも流出する割合は大きくなるから、ところどころに斜面崩壊も見える。雨季には洪水の氾濫があるようだ。

カトマンヅから西へプリティヴィ街道を行くと、はじめは段々畑ばかりだったが、ポカラに近づくにつれて川沿いに棚田水田が現れてきた。田植えの準備で、男が2頭の水牛が引く代掻き農耕具を操っている。わたしの少年時代に見た風景である。女と子どもが田植えをしている。日本と同じように苗代で作った稲苗を数本づつもって、ならんで植える。

ポカラから南へシッダルタ街道を行くと、次第に麦作になってくる。ちょうど今が収穫時期で、山村では刈り取ったばかりの麦束を道路の上に敷き並べている。車輪に轢かせて脱穀するのである。シッダルタ街道をマハバーラト山地を抜け、更にシワリク山地を抜け出ていって、南部に横たわるタライ平野に至ると、見える限り一面に広がる田園となる。
稲作・麦作の2毛作の地である。ところによっては3毛作、2期作もできるという。これまで農業機械を一度も見なかったが、これだけ広いと使っているだろうか。

タライ平野はかつては湿地と亜熱帯林でマラリアの巣であったために未開であったが、この半世紀ほどのうちにDDTなどの農薬でマラリアを撲滅して、農地に変えていったのだそうだ。
いまではこのネパールの足元に横たわるベルト状のタライ平野は、国土の23パーセントの広さながら、国民の半分が住み、穀物生産の80パーセントを占めるという。

その開拓は山地の農民を移住させているのだそうだ。温帯や亜寒帯の山地の生活圏から、環境が劇的にまったく異なる亜熱帯の平原に移った人々は、どのように社会的変化をしたのだろうか。また、インドに近いタライにはインド系の民族がいて、山地から来た民族と軋轢がおきているそうである。

空から見るタライ平野


タライ平野の麦畑


女たちだけで田植え


牛を使って代掻き


ポカラ近くでようやく棚田が見えた


シダルタ街道沿いの段々畑  空中写真(goole earh)


どこまでも登る段々畑 (シッダルタ街道)


山羊による急傾斜地草食の網目状の踏み跡(シッダルタ街道)

3-6 街道筋の賑わう宿場町

バス旅は高速道路ではないから、沿道の街や田畑を観察できる。わたしとしては適宜にところどころで停車してくれると嬉しいと期待した。だが、もともとの企画がバスは旅の目的ではなくて手段だから、乗っている者の生理的要求として出すことと入れることが必要なときしか停まらない。

ひたすらに走るので、景色を愉しんでいるこちらは珍しいものを見逃さないようにと、油断なくきょろきょろぱちぱち写真を撮る。街道筋には大小の街が諸所に現れる。そこは道路の分岐点とか川沿いの盆地とかで、いわば宿場町であるらしく商店街らしきものがあって、どこでも大勢の男女がうろうろしていて賑わっている。日本の地方都市ではめったに人が歩いていないから、ネパールはなんと人が多いのだろうと思ってしまう。昔は日本でもこうだったのだろう。なにが日本の地方都市を寂しくしてしまったのだろうか。ネパールも今にそうなるのだろうか。

山中の道では、ところどころのちょっとした道の横の広がりに、道行くものを相手の店が数軒ならんで、ほこりの立つ中で飲み物などを売っている。物を食わせる店は、たいてい店先にかまどを作ってそこで煮炊きをしている。峠の茶屋みたいなものであるが、トタン屋根の掘っ立て小屋ばかりで風情には欠ける。この風情もどこか懐かしい。日本の田舎道の峠辺りには、必ず小さな粗末な小屋の茶店があったものだ。店の裏はすぐに段々畑になって山村が広がるが、これらの街道の町や茶店は、いつ頃からあるものなのだろうか。

カトマンヅーポカラ間のプリティヴィ街道、ポカラールンビニ間のシダルタ街道が、広域の道路としてきちんと整備されたのはそれほど昔ではないようだ。かつては歩いていた東海道筋が今は車の道になって宿場町が変容したように、ここでもこの3~40年の間に大きな変化があったのだろう。

森がなくなっていく風景の続く道々で気がついたのだが、道筋の要所要所に大きく茂る枝葉を広げる1本もしくは2本の独立する巨木が登場するのだ。ポカラあたりで特に多い。植えてある樹木は常緑樹の先のとがった薄い葉のインドボダイジュや、厚い長円形の葉で幹から気根を垂らしたベンガルボダイジュである。その根元には石積みの基壇がつくってあり、その快い木陰に人々が休んでいるのが見える。
ボンヤリと昼寝している老人たちもいれば、共同水道があって子どもや女たちが水汲みをしながら井戸端会議をしていることもある。都市ではこの木陰に屋台が出ている。喧騒な市街地の中でも田舎道でも、これはなかなか絵になる風景だ。

聞けばこれは「チョータラ」といって、個人が人生の節目になる結婚とか葬式とかの時に、それぞれに思いを込めて道行く人々のための休憩所として作るのだそうだ。では維持と管理はどうしていいるのだろうか。バクタプルの街にはパティというあずまやのような休憩所がそこかしこにあるが(第5話5-5参照)、それとチョータラとは機能的にはよく似ている。

第4話 ネパールの人々と暮らしをかいま見る

チョータラの木陰で朝ごはん


ポカラの街のチョータラ


峠の茶屋の風景


シッダルタ街道の宿場町


ポカラ盆地のゲート


街道筋の小さな店


宿場町には店が並ぶ


小さな街が迎えてくれる(プリティヴィ街道)



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