体験的書評「まちをつくるプロセス RIAの手法」

体験的書評

「まちをつくるプロセス RIAの手法」

伊達美徳

●RIAの本が出た

横浜伊勢佐木町の有隣堂書店に、いつもの徘徊で寄る。雑誌の棚から雑誌『本の雑誌』を抜きとる。

近頃は本棚の都合と読む時間の都合と懐の都合で、新刊本も古本も買うのをやめたのだが、この雑誌だけは毎月買うのだ。もう30年以上も続けて買っているような気がする。 建築系の雑誌の棚に『新建築』誌の別冊として、『郊外のサステナビリティ 東急電鉄にみる地域開発とその運営』という固そうな題名の雑誌がある。渋谷あたりの大開発の建築本かと見ると、東急の戦前の沿線開発から説き起こしていて、なかなか面白い内容である。 こういう渋い本を、新建築なんて派手な建築本の出版社が出すようになったのか。でも、だれが買うのだろうか。東急電鉄が買い占めるのだろうか。

『新建築」といえば、いわば建築ジャーナリズム界のメジャーファッション誌だろう。わたしが学生の頃は、これに加えて『建築文化』『近代建築』『建築』があり、その後『都市住宅』が出た。今は『近代建築』だけが、なんだか広告専門誌のようになって続いている様子だが、他はみな廃刊らしい。

その隣に新建築の同じシリーズ別冊『まちをつくるプロセス RIAの手法』、おや、RIAと言えば、わたしがフリーになる四半世紀前まで所属していたところだ。

ふむ、これはまた地味な表紙だよなあ。いまどきモノクロかい、いや、ちょっと色がついているか、それにしても商売けがないというか、淡泊というか、いや、気取っているのか。

え、3500円、高いなあ、だれが買うのだろうか。近頃の建築学生は金持ちなのか。

では、せっかくだから体験的書評なるものをやってみよう。体験的とは、本の中身にわたしの体験をもぐりこませるのである。もちろん、この本はRIAから寄贈を受けた。

「まちをつくるプロセス」とは、これまた地味なテーマを掲げたものである。プロ好みである。出だしのページにこう書いてある。

「本号は、建築設計・まちづくりの専門家集団、アール・アイ・エー(以下、RIA : Research Institute of Architecture) の活動と手法を追ったものである。・・・どのようなやりとりを経てまちがつくられてきたのか、そこでRIAがどのような役割を果たしたのかを読み解くことができる仕組みとなっている。多数の権利者の意見を調整し、長期間をかけて進める再開発の地道なプロセスそのものこそ、日本の都市のリアルなドキュメンテーションとして、貴重なものだと考えている。」

フ~ン、「新建築」って雑誌は、プロセスなんてことには興味がない人が読むもので、派手な格好いい写真の建築がどど~んと各ページに載って、これに建築家でございって人がもっともらしい解説のようなゴタクを書くもんだとばかり思っていた。

しばらく建築系の本から遠ざかっている間に、こんな風に変わったのかしら。いや、別冊だからこれでよいのか。本冊のほうは、あい変わらぬファッション写真誌であった。

さて巻頭対談は、いま歌舞伎座で人気の(歌舞伎で人気じゃないよ、でも隈取りがあるかな)隈研吾さんが登場して、RIA社長の宮原義明さんになにやら神妙に聞いている様子である。こんなことを言っている。

隈「再開発の仕事って、本当に時間かかるし、たくさんの権利者の思いをまとめいかなければならないし、ものすごく大変だと思うんですよ。・・・僕が再開発にかかわる時は、長く時間をかけてアレンジしてきたものに対してデザインで応えることが多く、ある意味ではいちばん大変なコーディネートの部分に関わっていないので、なんとか事務所が潰れないでやれている(笑)。」 (14p)

それはまあ、正直でよろしいが、最後にちょろっと格好つけるだけで儲かるセンセイに笑ってもらっても困るんですね。コーディネートとかアレンジとか言って、それは建築家の仕事じゃないと思っていらっしゃるらしいところが、なんともひっかかりますな。

この本のテーマにあるように、ある形になるまでには、大なり小なりそこに至るプロセスがあり、そのプロセスに係るたくさんの職能があってこそ、都市や建築は成り立っている。

むかしむかしのことだが、ある大きな都市再開発計画で、地域の人たちや行政と一緒に、企画調整から基本設計までの莫大なプロセスを何年もかかってやってきて、最後の実施設計になった時に、T下さんという有名建築家が政治的な仕掛けで登場して、その後をかっさらっていったという経験を、わたしはRIA時代にしたことがある、、泣き、。

●建築家の新たな職能展開へ

RIAは住宅設計という古典的な建築家職能からはじめていって、都市計画の領域にはいりこみ、そこでのコーディネーター、プランナー、あるいは事業マネージャーという領域も建築家の職能として開拓していったのだ。

決して建築家という職能から外にはみ出したのではなく、建築設計という仕事は建築や都市を構想し、企画し、計画し、設計し、調整し、事業にするときの、ひとつの職能にすぎないと相対化して、建築家に広い職能を獲得したのだ。

このことについて、最近、建築学会誌に「RIAが選んだ建築家共同体とその職能展開の軌跡」と題して書いた。

建築家ってのは、格好良い建築をデザインする人なんだよって、そういう古臭い建築家像を振り捨てたのである。いや、振り捨てたのではなくて、それをやるのはあたりまえ、それだけしかできない建築家は半人前ということにしたのである。どーです?ケンチクカのみなさん。

中井検裕さんが「戦略的に発信するまちづくりへ RIAの仕事に寄せて」と題して寄稿している。そのなかに、RIAの人材の厚みの豊かさににふれて、大学ではできないまちづくり人材育てに期待をしている。(17p)

そう、まさにそのような厚みのある職能を獲得してきたのだ。それは大学の工学部からも、外の建築設計分野からも得られないから、都市再開発現場でオンザジョブで能力を開拓してきたのであった。

●金沢の街との40年を超える関わり

さて、RIAの仕事紹介ページの最初は、金沢の都心軸である。いきなり写真が出るのではなくて、その実現に向かってのプロセス解説から始まるところがこの本のテーマにそっている。

なんと、1970年にRIAが参画してから、今につづく仕事である。そういえば、わたしは1972年から大阪RIAに転勤して3年間いたとき、金沢の仕事は大阪RIA担当だったので、たびたび金沢に行っていた記憶がある。そうだ、山口文象先生と一緒に、市長に会いに行ったことがある。

最近、近江町市場の再開発ができたようだが、まだ行っていない。あの金沢名物空間が再現しているし、しかも村野藤吾設計の銀行建築を保全再生して組み込んだのは、実に感慨深いことである。低容積率開発+市場空間再現継続+歴史的建築保全とは、まさに時代の先端を行く都市計画だ。

RIAがこれほど長く金沢に関わってきたのには、村田秀彦さんという当初からの担当者がいたからだろう。なにしろ彼は今は、彼が担当してできた香林坊再開発ビル会社の社長になっているくらいに、地元の人になりきったのだ。

それほどの人材がRIAにはいるということだ。もちろん金沢市の行政マンにも凄腕の人がいた。

それにしても、金沢駅から武蔵が辻まで40数年かけて、あの古い家並みの碁盤目の中を斜めに横切る再開発を根気よく連続させて、100年の計の太閤通りと言われた大通りを、とうとう貫通させてしまったのだ。

あの歴史の塊のような金沢の街のど真ん中であるから、やっぱり歴史のある大都市は、京都がそうであるように、新たなものへの取り組みを恐れないのだろう。

ただし、この本で水野一郎さんが指摘するように、金沢の美術館等の有名建築に比べての再開発の建築環境づくり、つまり都市デザイン面での課題の指摘は、ごもっともであるとも思う。

再開発建築はいろいろと制約が多いから、都市デザインは2の次といいわけは成り立たない。それだけより多くの力量が要ることは、昔も今も同じである。このことについては前に書いたことがある

●二子玉川の街との30年を超える関わり

「二子玉川ライズ」という大開発ができていいるらしい。二子玉川には、いつでも行けるのに、ずいぶん長く行っていない。近頃は「ニコタマ」なんて女性でも平気でいうらしいが、これは本当は淫猥な隠語なんだよ、知ってるかい。

二子玉川園の遊園地が閉じて、その跡地を含めて一帯の再開発のはなしは、この本で見ると1982年からRIAがかかわっている。実はわたしもほんの最初の頃に関わっていた記憶がある。東急の人たちとたびたび会合をもっていた。

今は社長となった宮原義昭さんが、最初からつづけて今も担当しているらしいが、とうとう目に見えてきているようだ。周辺住民の再開発反対運動があって、なにやら裁判沙汰も通り抜けてきたらしいが、そんなことはこの本には書いていない。

わたしは学生時代の山岳部トレーニングで、大岡山からここまで走って往復したものである。あのころは遊園地があるだけで、のんびりと多摩川が流れ、二子橋がかかっていた。

橋の上の道路の真ん中を、東急大井町線の2両の黄色の車両が路面電車になってゴトゴトと渡り、その先は駅3つ目が終点だった。

あ、思い出した、大学1年の時はその先の高津にいたのだ。梨畑の真ん中の寮は、秋には果物の夜間調達が便利だった。あのころの川崎は長十郎梨の産地だった。

そうだ、また思い出した。その一つ先が溝口駅で終点だったが、その駅前再開発もRIAの仕事で、わたしも初期の地元対応に通っていたものだった。

さて、二子、高津、溝口へと行って見てこようかとおもうが、まさに浦島太郎だなあ。玉手箱代わりのこの本を持っていくか。

●沖縄嘉手納の不思議な形の街

嘉手納タウンセンターは、数年前に沖縄に遊びに行ったときに通り過ぎただけだから、体験的にはならない。

●長いプロセスを背負うのも建築家の職能

この真ん丸な交通ロータリーならば、どうして真ん丸建築にしなかったのだろうかと、だれでも思うだろう。ドーナツのような建物を見たかった。 ロータリーの隣の新町地区の、人工地盤の上の住宅群という姿のほうが面白い。二つ合わせて前方後円墳か鍵穴か、妙な地形である。 それよりも何よりも、アメリカ軍基地のと対比こそが、奇妙極まる形である。

●大火災から復興した酒田の街は今

酒田市の中町サンタウンは、1976年の酒田大火のあとで再生した中町商店街の一角にあるらしい。大火の後の復興計画から再開発事業の頃と、そのあとも何回か訪れたことがある。

土地区画整理事業でアメリカ型のモールを造ったのだが、あのころは日本の商店街では広すぎたと感じたものだった。今はどうなのだろうかと気になるが、どうも、ご多分に漏れずに郊外化する地方都市の中心市街地空洞化があるらしい。

このサンタウンは、中心街にある病院の郊外移転計画を変更して、現地での再開発による建て直し、介護施設、商店、集合住宅と組み合わせるという、中心部再生プロジェクトである。こういう再開発が良い。

わたしのことを言えば、65歳の時に鎌倉の緑の谷間の戸建て住宅から抜け出して、横浜都心の病院、商店、文化施設等なんでもそろうところの集合住宅に移ったのである。

高齢社会では都心住まいがよろしい。呑んだくれてもすぐ帰宅できる。追い出されてもドヤ街がある。問題は、病気で倒れてもそばの病院にすぐ運び込まれて、なかなか死なせてくれないことである。

長らく酒田に行っていないが、あの大火の後でできた街並みが、今どうなっているか見たいものだ。それは50年代の防火建築帯の街並みの現在とは、また違う風貌だろうか。

●代官山の蔦屋と渋谷Qフロントに見る建築家の枯れぶり

代官山の蔦屋は、RIAの設計であったのか、へえ、こういう設計もできるのかと思った。

しかし、あの建物は、設計というよりもあれは企画にこそ意味が深いから、蔦屋の社長の仕事だろう。

RIAの仕事の中心は、設計というよりもあの配置にまで持っていく、基本計画にこそあったのかもしれない。

たくさんの棟がバラバラのようで実は緊密であり、緊密なようでバラバラになっている配置は、小規模で緑を少しづつ取り込む代官山の朝倉さんがやってきた開発コンセプトの延長にあるのだろう。

蔦屋と言えば、渋谷駅前のQフロントだが、あるとき、この建築についてRIAの近藤正一さんが、最近の自信作だと話していたのを聞いて、へえ、と思ったものだ。

でも、ここに建築の「デザインしないことで風景をつくる」(169p)と書いているのを読んで、なるほどそうなのかと思った。長い間、都市建築の仕事をやってきた建築家が、老境に行き着いた枯れぶり名人芸なのだろうか。なんだか熊谷守一みたいだなあ。

●RIA最初のまちづくり仕事に携わった栄誉

RIAまちづくり仕事が、日本全国の地図に青森から沖縄までのっていて、取りかかった順に1番から226番までの番号の付いたリストがある。多分これは実現したものだけだろう。計画倒れになったものまで入れると、この10倍以上はあるだろうと思う。

その最初の仕事の第1番が「大阪市 立売堀 1962年竣工」である。これは立売堀地区防火建築帯造成事業というのが正式事業名であり、大阪市西区内の鉄鋼問屋街で4棟の建築を造ったのである。そのうち1棟が4軒の共同建築であった。

これがRIAのその後の再開発の歴史に残る第1号とは、感無量である。だって、その現場管理担当が、わたしの社会人としての第1号の仕事であったんだもの。実施設計までは先輩たちの仕事で終わっていたけどね。

鉄鋼関係の卸売り店が3軒と酒類小売店舗1軒が共同して、それぞれ下は店舗、上は住宅の3階建て棟割長屋を建てたのだ。50年後の今も、多分、健在で商売しているはずである。

16番に太田駅南口(1970年)とある。そう、1967年、あの上州名物空っ風が吹く太田の街に、わたしは名古屋から家族と共に引越し、仲間5人とテラスハウス3軒続きを借りて住みこんで、計画から設計工事監理まで仕事をした。

そうだ、これは東京RIAでのまちづくり仕事の第1号だったなあ、東西の第1号の栄誉に輝くのである。ま、どうでもよろしいが、第1号というのはわたしの人生ではこれだけだろう。

これができたときは地方都市の模範的な商店街だった。今行ってみると、昼は閑散としたシャッター街、夕方からネオンがカチカチと輝いて、店先に建つお兄さんたちの客引き声でにぎわう、北関東随一の夜の繁華街つまり風俗店舗街となって、中心街の空洞化に抗して頑張っているのである。

76番に汐入駅前(1993年)とあるが、わたしがRIAで最後に担当していたのが、これであった。今、横須賀芸術劇場として建っているが、7年がかりの調査から基本設計までやってきたのに、最後の実施設計でよそ様に持って行かれて、自分のドジさに泣いた。

1989年のことで、その年にわたしはRIAをやめてフリーランスとなった。

まったくもって、ずいぶん多くのまちづくり事業をやってきたものである。他の設計事務所というかコンサルタント事務所ではどうなんだろうか。

でも、これらの仕事をいただきたいと、あちこちに御用聞き営業にいって得たのではなくて、仕事の方からRIAにやってくるのだ。わたしがRIAにいたのは四半世紀以上も前だが、そのころはそうだったから、多分、今でもそうだろう。

つまり、全国各地に都市再開発まちづくり需要があるが、こんな面倒なことをやる能力がある建築家がいる会社はごくまれというわけである。最後の設計だけやってればもっと儲かるのに、なにを好き好んでとおもうだろうが、実は、この仕事は面白いのである。

どこが面白いかというと話が長くなるからやめる。まあ、この本をじっくり読めばそれとなくわかるかも知れない。

●山口文象とRIAのことなど

「アール・アイ・エー創設の建築家 山口文象の生涯」のページは、わたしが原稿を書いた。以前に『新編 山口文象 人と作品』(2003年)に書いた小評伝をもとにして、文章を少し訂正や書き加えをした。

なお、2003年以後に発見して現存を確認した山口文象の建築作品は、東電山崎発電所菊池一雄アトリエである。ほかに現存と話を聞いただけで確認していないが、中野に中西利雄アトリエがある。中西アトリエは、高村光太郎が晩年に借りてアトリエにしたそうである。

近藤正一さんが、「「RIA建築綜合研究所」その命名をめぐって」と題して、RIAそのものの由来から山口文象論、そしてアール・アイ・エー論を、極めて短い中で的確に述べていて、まことに興味深い文章である。

最後の締めは、山口文象の絶筆「地域に根をおろした建築を」で、この本を閉じる。真打がトリを納めて、これも感慨深いものがある。

なお、ここにある「RIA10周年記念パーティ集合写真」の中で、ひとりだけRIA外の人が写っているのだが、だれだかお分かりになるだろうか。有名建築家(故人)である。

最近、なんだか、わたしも世の中もRIAづいているのだろうか。

この本が上梓されたのがひとつ。そしてこの本へ寄稿する原稿アップの直前に、日本建築学会誌『建築雑誌』編集委員から、RIAの職能展開について書けとのお誘いがきて、2013年11月号に「RIAが選んだ建築家共同体とその職能展開の軌跡」と題して、1950年代から70年代までのことを書いた。半分くらいは自分史の感もある。

その直前の10月には、『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり』(RIA住宅の会著 彰国社)が上梓された。60年代末までの住宅のRIA時代の論考である。

わたしはRIAで住宅を全くやったことがなかったから、近藤さんの書きおろしのところを新鮮に読んだのだ。これがもっと早く出てくれたら、建築学会誌の原稿も楽だったのになあ。おかげで昔の雑誌をけっこう読みましたよ。

更にそのまえ、去年9月に名古屋大学であった日本建築学会大会のパネルディスカッションで、「前現代期都市建築の遺産価値について」と題して、戦後復興期の東京駅修復や防火建築帯などについてしゃべり、RIAにおける60年代までの都市建築も主題のひとつにした。

それは、戦後復興期が今や都市建築史のテーマになっているということであって、つまるところが、わたしが歴史上(下か)の古老になっているのであると、しょうがないから覚悟のほどを決めるのである。

偶然ながら、RIAの住宅時代から都市時代までの解説がそろった感がある。それで面白いのは、住宅と都市計画は系統的に解説ができるのだが、一品ごとの建築作品についてはそれが無理であるということだ。

この本にも一品製作らしいいくつかの建築が、「まちにつながる建築」と題する章に載っているだが、見ても系統的にはなりにくい。

いつか誰か若い人が、RIAのやってきた都市再開発を通しで分析して、博士論文でも書くといいのにと思う。なにしろRIAには、それらに関する報告書類や図面などのストックが山ほどあるはずだから、ナマ資料にはことかかない。

こうやって体験的に書くと、評論にならないということがわかった。ついつい半分以上も自分のことを書いてしまたのだから、それは仕方がありませんな。(2013/11/14)

ついでに本の宣伝として、目次を載せておく。

新建築2013年12月別冊

『まちをつくるプロセス RIAの手法』

定価 3,500(本体3,333)240頁 297mm x 221mm

CHAPTER1 まちをつくる手法

010 DIALOGUE|巻頭対談

「まちをつくるプロセス 縮小社会における再開発のあり方とその展開」

宮原義昭(アール・アイ・エー代表取締役社長)×隈研吾(建築家)

016 CONTRIBUTION|寄稿

「戦略的に発信するまちづくりへ RIAの仕事に寄せて」

中井検裕(東京工業大学大学院 社会理工学研究科 教授)

018 TOPICS 解説 再開発の進め方

CHAPTER2 長期継続的に取り組むまちづくり

026 金沢都心軸

044 近江町いちば館

056 プレーゴ

058 TOWN SHOOTING-01

水野一郎が語る金沢ーー構造転換と活性化に貢献した群としての再開発

060 COLUMN 町田のまちづくりー人口の急増に対応する都市構造の実現

CHAPTER3 複数街区によるまちづくり

064 二子玉川ライズ

084 bono相模大野

098 嘉手納タウンセンター

104 ウェルブ六甲道

110 TOWN SHOOTING-02

真野洋介・西田司と歩く、都心近郊駅前における再開発

CHAPTER4 まちの拠点・賑わいづくり

116 エリアなかいち

130 カフーナ旭橋

138 アイネスフクヤマ

144 葵タワー

150 中町サンタウン

158 TOWN SHOOTING-03

遠藤新・藤村龍至と歩く、空洞化が進む地方都市中心市街地の再開発

CHAPTER5 まちに繋がる建築

164 DAIKANYAMA T-SITE

168 COLUMN ふたつの風景ーDAIKANYAMA T-SITEとQ-FRONTビル

170 かんなみ知恵の和館

172 松沢小学校

174 柏崎斎場・笠間斎場・築上町火葬場

178 エルグレース神戸 三宮タワーステージ

180 世田谷区の公益施設「池尻複合施設」

182 いなべ市立笠間保育園

184 田辺市文化交流センター「たなべる」

186 くまもと森都心

188 あべのnini

190 新浦安駅前プラザ

192 鶴舞団地

CHAPTER6 地域に根をおろした建築・まちへ

196 LIST リスト 日本全国で展開するRIAのまちづくり

202 COLUMN アール・アイ・エー創設の建築家 山口文象の生涯

206 データシート

210 編集後記