横浜B級観光ガイド
おわりに
福富町界隈
戦後復興の街から風俗街へ
日の出町ー福富町ー吉田町ー都橋商店街ー野毛
●日之出町駅前再開発
●福富町防火建築帯
ではまた大岡川沿いに下って宮川橋まで、ここで右に行きましょう。
このあたりが風俗街で有名な福富町です。韓国・朝鮮系のお店も多いですね。いまはそうですが、昔は普通の商店街とか問屋街だったそうです。いつごろから風俗街になったのでしょうか。
見ていただきたいのは、この街並みなのです。ほら、端から端まで全部4階建てで、しかも街区ごとにまとまって共同建築です。まさにまちづくりそのものです。
そう、ここも戦後復興の防火建築帯です。その戦後復興の模範とも言うべき有名な建物群で、保存したいくらいの街です。
これまで何度も話にだしたので、ここで防火建築帯のことを話しておきましょう。
1952年に耐火建築促進法ができて、戦後復興は燃えない町をつくろうということになりました。横浜では都心部が接収されていましたが、それが1950年頃から順次に返還されてきました。
そこに勝手に建物を建てるのじゃなくて、耐火建築促進法を使って燃えないきれいな街並みを作ろうということになったのです。
日ノ出町駅前には、こんな超高層ビルが建っています。関外のほうではこれが唯一の超高層ビルですが、これは2015年にできました。
その前は、ここにも戦後復興の建築防火帯や、いろいろな商店が建っていました。それらをまとめてひとつ建物に入れて、その上に超高層の共同住宅を載せたのです。ここまで来るには、地元の人たちの長い間の話し合いがあったようです。
戦後にここに建築防火帯を作る時も、ずいぶん共同作業でしたでしょうが、それをまた共同して建てなおすという再開発事業は、もっと大変なことだったでしょう。再々開発ですね。
これができてから、このあたりのなんとなくくすぶっていた風景も明るくなりましたね。これが日ノ出町界隈の雰囲気を変えていくでしょうか。
ここが長者橋で、突き当りが京急日の出町駅です。
日ノ出町から桜木町にかけては、野毛の飲み屋街がひろがっていて、夜は賑やかです。
太平洋戦争戦争直後は、関内が占領軍に接収されたために、大岡川を越えたこちら側に街が移動してきて、闇市がひろがっていました。日ノ出町駅周辺にあるストリップ劇場とかゲイ映画館などは、もしかしたらその当時の猥雑さを今に伝えるものかもしれません。
では大岡川に沿って下りましょう。ご覧のように桜並木が両岸にあります。春はいい景色ですよ。川べりには屋台がずら~ッと並んで、にぎやかです。 この大岡川は、遊びに良く使われていて、ボートやら遊船が行き交っています。川岸には船着き場を設けています。
B級の極め付きは、場外馬券売り場ですね。松坂屋百貨店西館が閉店したときにやってきました。この馬券売り場の建物は、はじめは松屋、次に野澤屋、更に松坂屋と なりましたがずっと百貨店でした。
東京の銀座にある松屋百貨店は、 実は横浜が発祥地なのです。
野澤屋は地元百貨店として栄えたのですが、松坂屋に吸収されて消えましたね。建物だけはギャンブル場として生き残って、残照を見せています。
先ほど寿町の舟券、この馬券、そして桜木町駅前には競輪の車券売り場がありますから、「関外ギャンブルタウン計画」ってのがあったとしたら、完成しましたね。
こちらのゲーム・パチンコビルは、3年ほど前まではカレーミュージアムをやっていましたね。まあ、B級グルメですね。
●不二家と松坂屋
あ、こっちの建物が不二家です。アントニン・レーモンドという建築家の設計で、1938年に建っ
伊勢佐木町が伊勢佐木モールとして、 アーケードを取っ払い、歩行者専用にしたのが1978年、このころからが横浜いちばんの繁華街だったようです。それが横浜駅周辺にしだいに客をとられていくのですね。
この数年、ユニクロとか靴のナントカって安売り店、ゲームセンター、パチンコ、チェーン店、コンビニエンスストア、回転寿司などが増えています。
今日はB級探検ですから、A級の伊勢佐木モールは行かないつもりでしたが、最近はこのモールもB級化する傾向があるので、通ってみましょう。
伊勢佐木町は戦前は賑町といわれたくらい繁華街でしたが、戦後は都心が進駐軍に接収され、主な店も接収されたのでどうにも駄目になったようです。1955年にほぼ接収解除されてからが横浜の戦後でした。だから他の戦災都市より10年復興が遅れたのでした。
そして防火建築帯で街並みをつくっていきます。今もその当時1950年代から60年代にかけての建物があちこちに健在ですよ。
この法律にもとづいて幅が8m以上の道路沿いは防火建築帯として、高さが3階以上の(増築予定2階建ても可)不燃建築にしなければならないと決めました。そしてその建て物を建てるなら、公的助成金を支給し低利融資も斡旋することにしました。
その推進役として県住宅公社や市建築助成公社が、地主や民間企業と協力したのです。そうやって1950年代から60年代にかけて横浜都心部の街並みを復興して行ったのです。
福富町は1956年11月に返還されました。そのまえから地主さんたちは、共同ビルで復興しようと話し合いしていたのでしょうね、翌年の11月にはこれらのビルができたのです。
敷地はそれぞれ持っていて、境界線上の壁と柱を共有している共同建築ですから、 お互いに協調して立てる必要があります。
そこで建築基準法にある建築協定という制度をつかいました。横浜市では初めてで、全国でも2番目という例です。
全国各地で防火建築帯は建設されましたが、ここほどきちんとした街並みなっているところは珍しいといえます。
あのころの横浜商人たちの復興にかける意気込みが見えます。
ちょっと裏通りも見ましょうか、防火建築帯の建物の裏側を見ると、生活観があふれ出ていてちょっとすごいですよ。風俗街の裏通りってのもなかなかなものです。戦後復興の残照をしっかりと鑑賞できますね。
●伊勢佐木モール
た日本モダニズム建築としてなかなかのものです。レーモンドは帝国ホテルの設計者のフランク・ロイド・ライトの弟子で、帝国ホテルのときに日本にやってきてそのまま住み着いたのでした。この不二家も野澤屋も、戦争直後から進駐軍に接収されて米軍専用の店舗やレストランになり、ようやく1955年に返還されました。
老舗は次第に姿を消しつつあり、決定打は2009年の松坂屋百貨店の閉店です。この建物は野澤屋だったが松坂屋に代わり、いまやその残照の輝きも消えまいた。
跡地には3階の専門店ビルが建ち、その表の顔に元の松坂屋のビルのデザインを取り入れています。
老舗の有隣堂書店ががんばっているのがうれしいですね。
●吉田町防火建築帯
ではまた大岡川をわたります。この橋は都橋といいます。
都橋のたもとから隣の宮川橋のたもとまで、川に沿って湾曲した2階建て建物があります。
見てください、川の上にせり出していて、堤防の上に建っています。1階は道路に面して商売、2階は川の上の廊下に向って戸口がある飲食店街です。
これは都橋商店街といって、普通の土地じゃなくてなんとまあ川と道の上に建っているのです。ちょっと超法規的な措置で建ったらしいのです。
1964年に東京オリンピックがありました。野毛地区には闇市時代の延長で、道路の上でたくさんの露天商が商売をしていました。
オリンピックで外国人が来るとどうも恥かしいし、交通の邪魔だってことで、立ち退きをさせることにしました。
ただ立ち退けってのも難しかったようで、どこかに代替の土地でも用意したいがみつからない。そこに知恵者がいたのでしょうか、この半分は川で半分は道路の上の細長い場所を確保して建物を作って収容しちまえって、ここに移らせたのでしょう。
道路や河川に私有の建築を建てられないのが原則ですから、横浜市建築助成公社が占有許可をとって建設し、これを地元の商業協同組合に貸しつけ、組合は組合員に転貸するって仕組みだそうです。
さて、ただいま出てきたのが、先ほど煉瓦蔵でちょっと触れた吉田町で、ここも戦後復興の模範となる防火建築帯です。 ここも防火建築帯が4棟並んでいます。なかなかにメンテナンスも良いようです。この通りは楽器屋さんと画廊があってジャズと絵画の街として売り出しています。ほら、ジャズが流れていますでしょ。
これまであちこちでご案内した防火建築帯は、横浜の復興に賭けた地域の人々の努力の結晶なのですね。
確かに老朽化しましたが、その当時の人たちの努力をなんの評価もしないで、単にボロビルだからと建て直されていくのが寂しいですね。
ええ、じつはわたしは昔々、こんな復興建築の設計をやっていたことがあるのです。横浜じゃなくて大阪でしたが、今も建っていますよ。
●都橋商店街は川の上
さあ、もうここからは野毛の飲食店街です。戦後の闇市がこのような形で今の繁栄になっています。
毎年、春には大道芸大会の催しが街一杯に広がって、楽しいですよ。わたしは60年ぶりくらいで、蝦蟇の油売りに出会って感激しました。昔は怪しげな薬を本当に売っていましたが、今は見世物なんですね。
以前は野毛も伊勢佐木町も吉田町も、同じ日に大道芸やらジャズやらの野外イベントをやっていましたが、最近は大賀川のこっちと向うで別の日になりましたね。分裂したのかしら、それとも別の日にしてイベントを長引かせるほうがよいと判断なのかしら。
そこにあった有名なジャズ喫茶「ちぐさ」は、共同住宅に建て換わってなくなりましたね。
あそこに、「横浜賑わい座」という寄席が再開発ビルにできています。月の前半は落語など演芸をやっていますからおいでください。
●B級グルメ
東京オリンピックの残照です。 こんな超法規的なものでは、上野の西郷さんの銅像の下、つまり公園の下のレストラン、商店ビルがそうです。
あれは戦後復興の土地区画整理事業で、東京都に石川栄耀という知恵者がいました。
●野毛大道芸
ではこれで横浜B級観光似非ガイドのお役目は終わりでございます。B級の意味がお分かりになったでしょうか。
関内地区が、日本の開国からはじまる戦前時代の栄光の横浜の雰囲気を伝えているようですね。
それに対して、こちら関外地区は、戦災と接収による徹底的な破壊から復興する戦後時代の横浜の雰囲気を、どこか残照のように引きずりつつ、次の時代を模索している
ようですね。どこか戦中の傷を引きずりながら、。 ということで、横浜の戦後復興の残照を、じっくりと味わっていただけましたでしょうか。
さて、わたしは飲み屋、食い物屋のことはよく知らないので、今日の仕上げのB級グルメ宴会は、どなたかよろしくお願いいたします。
え、鯨料理、とんかつ茶漬けですって、おお、いかにもB級にふさわしいですね、行きましょう行きましょう。そういえば、野毛では鯨を美味い名物にしようって動きがあるとか、。
後は飲むだけ、もうひといきです。
あ、お帰りの方は、そこをずっと行ったところが地下鉄とJRの桜木町駅です。お気をつけて。(2010/04/30、2012/12/13一部改訂、2016/08/07一部改訂)
◆B級観光の勧め
横浜の都心である関外に住みだしたのは2002年からである。
それまでは鎌倉の緑深い谷戸の中に住んでいた。しかし、年とると空気が良いとか緑が多いとかよりも、買い物や病院に便利、飲み屋に便利なほうがよくなる。
そんなことで横浜都心に引っ越した。
住みだしてから、ご近所探検と称して、うろうろとあたりを徘徊老人よろしくうろつくうちに、いろいろと発見をしている。
横浜の都市観光の宣伝場所は、山下町や山手などの近代史にまつわるあたりと、ちかごろは新開発のみなとみらい21地区あたりで、なかなか格好の良い写真で紹介される。
よそ目にはそれでよいのだろうが、その近くに住む身になってみると、別の視点が出てくる。
よそから大勢の人がやってくる非日常の観光ではなくて、日常性の中にある観光もあるように思っている。有名観光地に行って、有名な場所の裏あたりをぶらぶら歩くと、生活が溢れていてその日常性がよそ目には面白いということが多々ある。
横浜都心でも関内がA級観光地ならば、関外にはよそからの観光客には面白くもないが、実は住んでいるものだけに分かる日常性に面白い発見があるのだ。
◆横浜B級観光情報源
・さなぎ食堂」
http://blog.goo.ne.jp/sanagikitchen/
・横浜ホステルビレッジ
http://yokohama.hostelvillage.com/ja/index.php
・B級横浜観光で見たこと
http://homepage2.nifty.com/datey/kotobuki.htm
・関内地区戦後まちづくり史
http://homepage2.nifty.com/datey/kannai200609.pdf
・常盤とよ子の話
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/409_1.html
・桂歌丸の話
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/415_1.html
・横浜橋商店街
・ジャックアンドベティ
・初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会、NPO黄金町エリアマネジメントセンター
http://cgi.city.yokohama.jp/naka/service/syosai.php?jigyocat1=&jigyocat2=&jigyocode=G0000339
・黄金町バザール
・横浜賑わい座
http://www.yaf.or.jp/nigiwaiza/
・とんかつ茶漬けの店
http://www.noge.com/shop/All/pari-ichi.html
・横浜あれこれ「横浜ご近所探検隊が行く」
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#yokohama