ネパール400㎞バスの旅(伊達美徳)
第6話
聖地ルンビニで信仰心ないわたしが見たもの

6-1 ルンビニはネパールだったのか

ネパールのいちばん南の端でタライ平野の中にある仏教の聖地・ルンビニに行った。ルンビニという地名があり、そこが釈迦の生誕地であるぐらいは知ってはいた。しかし、もともと宗教には無関心なので、それはインドだとばかり思っていて、ネパールとは知らなかった。

インドもネパールも今では仏教を追い出してしまったヒンヅー教の国だが、実は釈迦にまつわる仏教の聖地はインドとネパールにあるのだった。熱心な仏教徒は巡礼するらしい。釈迦の生誕地とされるルンビニの遺跡は、世界文化遺産に登録して保存のための整備を進めている。

「ルンビニ」とは、広くはこのあたりの地名らしいが、狭くは釈迦の生誕の場所であるルンビニ遺跡の範囲(世界遺産登録)を言い、中間的には約770hの整備ゾーンを言うらしい。

BC623年の春、釈迦はここルンビニの地で生まれ、まさにその生まれた位置を特定する印の石がおかれているのだ。宗教心のまったくないわたしには、現物を見てきてもそんな昔のことが本当に分るかしらと思うだけだ。

仏教徒にはルンビニは聖地として寺院、僧院、仏塔が建ち、巡礼地となって繁栄したのだそうだ。それは14世紀までのことで、以後はしだいに忘れられてジャングルの中に埋もれた。ヒンヅーやムスリムの台頭の故もあれば、天災による衰退もあった。

ルンビニが再発見されたのは19世紀末であったそうだから、500年も眠っていたことになる。この地を世界の平和のための聖地として再整備しようと提起したのは、1967年にここを訪れた当時の国連事務総長のウ・タントであった。

そこで日本も含むアジア17カ国が援助協力することになり、国連は整備計画マスタープランを日本の世界的建築家である丹下健三氏に委嘱し、1978年に丹下マスタープランは承認されて、実行に移されることになった。それが今のルンビニの姿である。

6-2 丹下健三のマスタープランはまだ進行中

そのマスタープランのルンビニエリアは、ただただ一面に広がる広大なタライ平野の中を、東西1.6km×南北4.8km=770haを長方形にスパッと切り取っている。それがなぜそこにあるのかは、単に釈迦生誕地の遺跡を取り込んだからである。

グーグルアースの空中写真でその長方形エリアが、奇妙なほどに明確に見える。それはその範囲の植生が周囲とは異なる、新たなインドボダイジュの植林だからだ。

その南北に長い長方形の菩提樹の森のなかを、南・中・北の3つのゾーンに機能を分け、中心を南北に貫く軸線として運河を貫通させる。軸線プランは1942年に20歳のときに一等入選した大東亜建設記念造営計画設計競技からはじまる、丹下が得意とする計画手法である。

南から釈迦生誕の遺跡がある聖地、中央部には世界から仏教の僧院寺院群を配置、北部は訪れる人々の交流と仏教研究の文化のゾーンの新ルンビニ村とする。図でも文字でも書けば分りやすいのだが、実際に中に入ってみると、まだ進行中ということもあるのか、あまりにも広すぎてマスタープラン全体像は目にも見えず、身にも感じにくいのだった。

南の聖地ゾーンはさすがに仏教徒の聖地の世界遺産らしく、世界各国の人たちが行き交っている。釈迦生誕の場の寺院(そこだけ白い四角な建物が遺跡に上に建つ)、アショカ王の石柱(2000年以上経って碑文が風化していない)が、釈迦の母が水浴びした池(コンクリートで四角く固めてある)、釈迦の母が掴まったというベンガルボダイジュの大木(何代目だろう)、僧院や仏塔の基礎遺跡(AD3~4世紀)などが目玉である。

旅の一行はガイドに連れられて聖地に隣接する寺院に入って僧侶の話を聞いたのだが、宗教心のないわたしはまるで興味がなくて、ひとり入らずに遺跡の回りをうろついていた。
中央部の世界の寺院のゾーンでは、これが仏教寺院なのか思うようなハデハデな装飾の建築が、ごたごたと立ち並んでいる。全体をつなぐ中心軸となる運河もできていないらしく、総じてなんの脈略もなくまとまりがない景観であった。宗教心がないとどうにもしょうがないものだ。

更に北の新ルンビニ村の整備はまだまだのようである。広い森の中のあちらこちらに、ホテルや仏塔あるいは博物館が突然に現れる。それらは何のつながりもない。

日本の仏教系資本のホテルが二つ、それぞれ離れて森の中にある。ホテルとその庭のまわりは高い塀で囲ってあり、歩いて外に出るのは野生動物に出会いそうで怖い。ホテルの経営を心配したくなる。廃業したホテルの廃墟があった。

ルンビニ遺跡の東の入り口近くに、田圃を埋めて自然発生的にできつつあるホテルや土産物店舗群ルンビニバザールがあったが、マスタープランにはもちろない。そのような機能は新ルンビニ村ゾーンに計画してあるが、その通りにはいかないようだ。

総じて日本政府や日本の仏教界の力ががなり入っている様子で、丹下マスタープランによる開発が完成する頃に来て見たいが、それは何十年も先でわたしは生きていない。

6-3 不自然なる自然景観

全体像を見るには、グーグルアースの空中写真がいちばんよく分る。大きなフレームはできているらしいが、人間的スケールのところがまだまだらしいが、総体的にはマスタープランに極めて忠実に整備を進めている様子である。

切り取ったルンビニエリアの長方形の中は、周りの田畑とは異なって濃い緑であることが明確に分別できて見える。それはこの20年くらいで菩提樹を植林した新たな森林であるからだ。

最初にバスでルンビニエリアに入っていったときに、それまでは一面の黄金色の麦畑であったのが、突然に緑の一様な森に変わって不思議な気がした。タライ平原はこのような一様な単純植生だったのだろうか。

通訳兼ガイド氏に聞くと、インドボダイジュの植林であるという。なるほどマスタープランがそうなっていたのか、だから整然とした並びの森なのであると納得した。このあたりは亜熱帯だから、このような単純植生ができるわけがないのである。高木と亜高木ぼくそして低木や林床の草本が構成する、多様な植生の森になるはずである。

それなのに高木の下に草本は見えるが、低木類が少ないのは、放牧あるいは野良牛や山羊が食うからであろう。あるいは近隣の住民たちが薪として刈り取るからだろう。ここは自然の森ではない。

マスタープランエリアの外は農村で、マスタープランとは何の脈絡もなく田畑や集落が広がる。河川は曲がりくねって田畑の中を流れる。マスタープランエリアの中も、自然河川を曲がりくねった流路のままに流している。

それだからこそ、マスタープランの池、敷地、道路の四角や丸あるいは直線の幾何学的形態が、自然にはないエッジが景観を切り裂く。衛星写真で明確に浮かび上がって、どこか異形の世界、そう、SF世界の火星コロニーのように見える。

アジア的融通無碍空間に西欧規範的空間が舞い降りている。その対比による強調が、建築家丹下健三が意図したことであろう。

このガーデンの敷地の中は、整備開発以前には集落や田畑があったのだろうか。それを排除してこのガーデン整備をしたのだろうか。それとも亜熱帯自然林だったのだろうか。

少なくとも釈迦先端の聖地は、策で囲われていて入場料を払わないと入れてくれないという排除の原理が働いている。

いずれにしても、このマスタープランは周囲とは無関係に成立している。ルンビニはネパールやタライのものではなく世界のセンターだからそれでよいのだとも言えるが、あまりに無関係でよいのだろうかと思えてくる。(110420)

6・4 ルンビニ博物館はインドデザイン

宗教関係にはまったく興味ないわたしが、ルンビニでどうしても見ておきたかったのが、博物館と図書館・研究所の建築であった。設計が丹下健三だから見たかったのではない。

その設計担当だったのがわたしの大学同期の親友だった建築家・後藤宣夫だからである。その頃、丹下の主宰するURTEC(丹下健三・都市・建築研究所)に所属していたのである。

それは分厚いレンガのボールトが連続して交差する、なかなかに迫力あるデザインであった。あの分厚い構造体に、夏の40度を超える熱さを吸収させるのだろう。日除けになるであろうアーケードの、ボールト天井が連続する姿が美しい。

内部の展示場の高い天井も、連続ボールトの構成で気持ちが良いものだった。床の構成も単調ではなく、高いところからもみおろせるし、逆に天井の低い閉鎖的な空間もある。ただし、展示がその空間を生かしきれていない。

施工の精度が高いのは、日本の建築業が建てたのか、それとも後藤の監理が厳しかったのか。これはコンクリート造であろうが、デザインソースはどう見ても組積造建築にありそうだ。その源流は、多分インドの建築なのだろう。ネパールではボールトやアーチの組積造には出会わなかったからだ。ルンビニはインド文化圏だから、それもありうることだ。

だが、丹下流のモダニズムらしきところが、どこにも見えないのが不思議である。そういえば、建築関係の雑誌や単行本でこれを見た覚えがない。実は後藤デザインなのだろうか。

展示の内容は、仏陀の誕生を記念する古色の彫像などがあるがレプリカがほとんど、パネル展示も多い。施設は海外援助で建設しても、運営と管理はネパール側だろうから難しいことだろう。博物館はインドの寄附で建設し、図書館・研究所は日本の霊友会(仏教団体)が寄附して運営もしている。

後藤が来た1984年には、まだまだ整備のできていない荒野であっただろう。どうやって過ごしていたのだろうかと、ふと思った。いまでも周囲は森か荒地であり、利用するが不便であろう。

マスタープランによれば博物館と図書館・研究所の間の空き地には、会議場が建てられることになっているようだ。このあたりは新ルンビニ村として多くの施設がはりついてにぎやかになるはずだが、そうなったときにこの建築は真価を発揮するだろう。

6・5 いまは亡き親友の仕事

後藤宣夫がどの程度までこれに携わったか、わたしは知らない。『丹下健三』(2002 丹下健三 藤森照信 新建築社)の「資料・作品年譜」には、ルンビニ計画については次のように記載されている。

・ルンビニ釈尊生誕地聖地計画 主要用途:都市設計 所在地:ネパール・ルンビニ 施主:国連開発機構 設計:丹下健三+都市・建築設計研究所 敷地面積:770ha 設計期間:1969.12~1972 設計協力:日本工営(土木) 掲載:新建築7605

・ルンビニセンター 主要用途:庭園、文化センター 所在地:ネパール・ルンビニ 施主:国連開発機構 設計:丹下健三・都市・建築設計研究所 設計期間:1980~ 施行期間:~1983

また、「資料 丹下健三+都市・建築研究所、丹下健三・都市・建築研究所での歴代協力者及び所員」に、後藤宣夫は1975年から1984年まで在籍したとある。

1984年の後藤の現地写真は、博物館と図書館が完成したときであろうか。ただし、『丹下健三』の資料のルンビニセンターには、上記のほかに建築データや施工に関する記述が一切ないのは、どういうわけであろうか。

現地のルンビニ案内所の人も、丹下の設計であるといっていたから、それはそれで確かなことであろう。もしかして、これは後藤ひとりでやったプロジェクトか。

後藤宣夫は、大学で清家清さんに学び、社会に出てからはカンボジアの建設省に勤め、その後パリのエコシャール建築事務所に所属してシリアのダマスカス、パリに移り、1975年からパリでURTECに所属した。丹下の外国での仕事を多く担当している。

わたしは1974年と75年にパリに行ったときに、彼のオートバイの尻に乗っかってパリを案内してもらった。1984年末にURTECをやめて帰国、フリーランスの建築家として活動、1995年から千葉工業大学教授だったが、惜しくも2000年3月に病で永眠した。

後藤の作品集である『NOBUO GOTO Works 1938~2000』(2001 後藤俐奈 日渉企画)には、「1984.8:ネパール・ルンビニ完成植樹」とキャプションのある写真が載っている。タライ平野をバックに地元の人らしい男と後藤の二人が、植えたばかりの苗木を前に立っている。それはいまは大きく育った菩提樹の1本であろう。
人生の過去にはドライなわたしとしては珍しく、ルンビニで親友を偲んだのであった。

余談だが、ルンビニについては「LUNBINI BECKONS」(2009 BASANTA BIDARI:ルンビニのホテルで買った)によるところが大きい。この本にはネパールのビクラム暦年が載っていて戸惑った。日本の紀元暦(西暦+660)みたいなもので、西暦に57年を加算するが(今年なら2068B.Sと書く)、西暦年数と大差ないので間違いやすく、ネパールの本を読むときはB.Sに注意である。日本の元号も外国人泣かせだろう。別の理由だが、わたしは原則として元号を使わない。(完)

ルンビニマスタープランと現状の衛星写真


釈迦生誕地の僧院遺跡と寺院


周りの田園と歴然と異なる植林のルンビニ整備エリア


インドボダイジュの植林


マヤが釈迦を産むときにつかまったというベンガルボダイジュ

アショカ王の石柱、マヤ寺院、沐浴の池


sacrid zone釈迦生誕の聖地を囲む円形の池は茫漠として

博物館・図書館パノラマ


図書館・研究所


図書館・研究所


博物館内部


博物館内部


博物館


博物館(外部はまだ工事中)


博物館


図書館・研究所(右下)と博物館(左上)、この間に会議場が建つ予定


ルンビニ開発エリアの外の田園 右にルンビニの植林の森が見える


ルンビニ開発エリアの外にある田園の集落


ルンビニエリアの東入り口前にできるるあるルン二バザール


ルンビニエリアの最北端のスツーパから眺める南北を貫く軸線



Copyright(C) 2011 DATE,Y. All Rights Reserved.